読 蘇軾「留侯論」

蘇軾に、漢の功臣張良(子房)について論じた”留侯論”という文章がある。面白い文章なので、以下に大意を示そうと思う。こうした漢文の大意というのは注釈を別途施すものなのだろうが、いちいち参照するのもたぶん手間なので適宜カッコ付きで大意中に補ってみた。
 
(1)
古之所謂豪傑之士者、必有過人之節、人情有所不能忍者。
匹夫見辱、拔劍而起、挺身而鬥、此不足為勇也。
天下有大勇者、卒然臨之而不驚、無故加之而不怒、此其所挾持者甚大、而其誌甚遠也。

古(いにしえ)の所謂(いわゆる)豪傑の士は、必ず人に過ぐる節あり、人の情に忍ぶあたわざる所あり。
匹夫(ひっぷ)は辱(じょく)に見(まみ)えれば、劍(けん)を抜きて起ち、身を挺(てい)して鬥(たたか)う、此(こ)れ勇と為すにたらざる也(なり)。
天下に大勇あれば、卒然として之に臨んで驚かず、故(ゆ)え無く之を加えても怒(いか)らず、此れ其の挾持(きょうじ)する所(ところ)甚だ大といえども、其の志し甚だ遠(えん)也り。

昔のいわゆる豪傑の士というのもは、かならず人よりも節制の心がつよく、また普通の人であればとうてい我慢できないことでも、耐え忍ぶことができた。
つまらない人物は、いったん恥をかかされれば、剣を抜いて立ち上がり、命がけで(雪辱のために)戦うものであるが、これは勇気というには及ばないのである。
天下に真の勇気を持つものがあれば、とつぜん侮辱されることがあっても驚かず、理由もなしに恥をかかされても怒ることがない。これはその内に秘めたる(怒りの)感情がとても大きいとしても、その志すところが(怒りよりもいっそう心の)深遠にあるからである。
 
(2)

  夫子房受書於圯上之老人也、其事甚怪。然亦安知其非秦之世有隱君子者出而試之?觀其所以微見其意者、皆聖賢相與警戒之義。世人不察、以為鬼物、亦已過矣。且其意不在書。當韓之亡、秦之方盛也、以刀鋸鼎鑊待天下之士、其平居無罪夷滅者、不可勝數;雖有賁、育、無所複施。夫持法太急者、其鋒不可犯、而其末可乘。

夫(そ)れ子房(しぼう)の、圯上(いじょう)に書を受(さず)ける老人、其の事(こと)甚(はなは)だ怪(かい)。
然(しか)れども亦(ま)た安(いずく)んぞ、其の秦の世に隱君子ありて、出でて之を試みる非ざるをしらんや。
觀(み)るに其の所の微を以て其の意を見るは、皆な聖賢の相與(あいともに)警戒するの義。世人は察せず、鬼物を以て為すは、亦た已に過る矣。
且(か)つ其の意は書にあらず。
當(まさ)に韓の亡びて、秦の方(まさ)に盛んなり、刀鋸(とうきょ)鼎鑊(ていご)を以て天下の士を侍(はべら)せ、其の平居(へいきょ)無罪(むざい)にして夷滅(いめつ)するは、數(かぞ)うるに勝(あた)ふべからず。賁(ほん)、育(いく)ありと雖(いえど)も、複(ま)た施(ほどこ)すところなし。夫(そ)れ法を持して太(おおい)に急(きゅう)、其の鋒(ほう)の犯すべからざるは、其の末だ乘ずべからざるなり。

子房に(下邳の)圯(≒橋の)上で(兵法の)書物をさずけたという老人の話は、大変奇怪な出来事ではある。
しかしどうして(世の中の人は)、かの秦の時代、世に隠れて生きていた(戦国生き残りの、優れた知力と豊かな経験を持つ)人物が、現れて張良をテストしてみた、という事がわからないのだろうか?
その(人物や物事の)わずかな徴候をみて(そこに隠された深い)意味を読み取る、というのは、(始皇帝の強権独裁の時代に、追及を逃れて隠れ住んできた)聖賢たちは、みな互いに注意深く用心しあって(生きのびて)いた、ということでもあるのだ。(あからさまに人を集めて、人材を選抜テストする、などという事はむろん出来ない時代だったのである。)
世の中の人はこれがわからず、怪異な出来事としてかたずけてしまうのは、もちろん誤りなのである。
その説話の真の意味は、授けられたという兵法書にはないのである。(座学だけで稀代の軍師になど、なれるはずがないではないか。それは所詮、書生の夢なのであって、”兵法書”を真に受ける奴は人生経験が足りないのである。)
時代はまさに(張良の祖国である)韓が滅び、秦(王朝)の勢い盛んな時期であり、刀鋸(とうきょ:かなたやのこぎり)、(あるいは人をかまゆでにする)鼎鑊(ていかく:ゆでかま)でもって、天下の人物をおどしつけしたがわせ、普通に暮らし無実なものでも(秦の法の網の目にからめとられて)刑死されるものは、かぞえきれないほどであった。
古代の勇者、賁(ほん)、育(いく)がいたとしても、(当時の秦の勢いに)あらがうすべはないのであった。秦は法律をふりかざして残酷に適用したが、その軍事力は(強大で)おかしがたく、いまだ(乗ずるべき)ほころびのみえない時代であった。
(だからこそ、二人は不思議な出会い方をしたとされ、教えの真相はベールに包まれているのである。)
 
(3)

子房不忍忿忿之心、以匹夫之力、而逞於一擊之間。當此之時、子房之不死者、其間不能容發、蓋亦已危矣。
千金之子、不死於盜賊。何者。其身之可愛、而盜賊之不足以死也。
子房以蓋世之材、不為伊尹、太公之謀、而特出於荊軻、聶政之計、以僥倖於不死、此固圯上之老人所為深惜者也。
是故倨傲鮮腆而深折之、彼其能有所忍也、然後可以就大事、故曰“孺子可教也。”

子房(しぼう)忿忿(ふんふん)の心を忍ばず、匹夫(ひっぷ)の力を以て、一擊の間に逞(たくま)しゅうす。當(まさ)に此の時に、子房の死せざるは、其の間は發(はつ)をいれるあたわざる、蓋(けだ)し亦(ま)た危ういのみ矣。
千金の子は、盜賊に死せず。何(なん)ぞ?其(そ)の身、之を愛すべし、而(しこう)して盜賊の之を以って死せるに足らざる也。
子房の蓋世(がいせい)の材を以て、伊尹(いい)、太公(たいこう)の謀(はかりごと)を為さず、特に荊軻(けいか)、聶政(じょうせい)の計において出で、僥倖(ぎょうこう)を以て死せず、此れ固(もと)より圯上の老人の深惜(しんせき)する所為(ゆえん)なり。
是の故に倨傲(きょごう)鮮腆(せんてん)、深く之を折り、彼れ其の能く忍ぶところある也、然りて後に以って大事に就くべし、故に曰く“孺子、教えるべし也。”

張良は(韓の宰相一族の生き残りとして、その祖国を秦に滅ぼされた)ふんぷんたる恨みを抑えることが出来ず、大力の男を雇い、鉄槌の一撃を(もって始皇帝を暗殺することを)企んだ。まさにこの時、(暗殺に失敗したのに)張良が死なずにすんだのは、まさに間一髪のところ、まったく危ないところだったのであろう。
(ことわざに)”千金の(資産をもつ大家の)子は盗賊に殺される事はない”という。それはどうしてか?その身代こそが愛すべきものであり、(自愛するが)ゆえに盗賊の手にかかって死ぬことはないのである。(張良は韓の名門に生まれながら、なんと軽率なことであろう)
張良は世をおおうほどの才能がありながらも、(商王朝建国の功臣)伊尹や(周王朝創建の功臣)太公のような(遠大な、秦の天下を奪う)はかりごとをせず、(始皇帝暗殺を企てた)荊軻(けいか)や(任侠から人の刺客となった)聶政(じょうせい)のような(刺客、暗殺者のたぐいの)はかりごとをもって世に出、幸運にも死ななかったのである。(充分に計画したとはいえ、それでも運が悪ければ殺されていた。)
が、これはもとより圯(≒橋の)上の老人の深く惜しむ理由であった。(並外れた知力も勇気もあり、運にも恵まれながら、ただひとつ時勢を待つ、その我慢が出来ないのは惜しむべし、と。)
このことゆえに、わざと傲慢不遜にふるまい、強いて子房に膝を屈せしめ、それでいて(その態度から)彼が(普通は我慢できないような侮辱でも、志のためには)我慢できるところがあるとみて、それではじめて後に大事を成就出来る人物と考えたのである。だから「小僧、教えるに足るわい」と言ったのである。
 
(4)

楚莊王伐鄭、鄭伯肉袒牽羊以逆。莊王曰“其君能下人、必能信用其民矣。”遂舍之。
勾踐之困於會稽、而歸臣妾於吳者、三年而不倦。且夫有報人之志、而不能下人者、是匹夫之剛也。
夫老人者、以為子房才有餘、而憂其度量之不足、故深折其少年剛銳之氣、使之忍小忿而就大謀。
何則。非有平生之素、卒然相遇於草野之間、而命以僕妾之役、油然而不怪者、此固秦皇帝之所不能驚、而項籍之所不能怒也。

楚の莊王(そうおう)の鄭(てい)を伐(う)ち、鄭伯(ていはく)の肉袒(にくたん)し羊を牽(ひ)き以って逆(むかえ)る。莊王(そうおう)曰く”其の君の能く人に下る、必ず其の民を信用する能(あた)うなり。”遂(つい)に之を舍(ゆる)す。
勾踐(こうせん)の會稽(かいけい)に困(くるし)み、臣妾(しんしょう)して吳に帰して、三年倦(う)まず。且つ夫れ人に報いるの志有りて、人に下る能わざるは、是れ匹夫(ひっぷ)の剛なり。
夫(そ)れ老人は、以為(おもへ)らく子房の才に餘(あま)り有りといえども、其の度量の不足を憂うる、故に其の少年の剛銳(ごうえい)の氣を深折して、之に小忿(しょうふん)を忍ばしめ、大謀に就かしむ。
何則(なんとなれば)平生素(へいせいそ)にあらざりて、卒然として草野(そうや)の間に相遇(そうぐう)し、僕妾の役を以て命じ、油然(ゆうぜん)として怪(あや)しまぬ者、此れ固(もと)より秦皇帝の驚く能わざる、項籍の怒る能わざるところなり。

(紀元前597年に)楚の荘王が鄭(てい)の国を討伐したさい、鄭伯はもろ肌を脱ぎ、(料理人にでも雇ってくださいと)羊を牽(ひ)いてこれに降伏した。荘王が言うには「その君主が人にへりくだれる人物であれば、きっとその国の民からも信頼されていることだろう。」として、ついに鄭をゆるしたのである。
越王の勾践は、会稽山で(呉軍に)包囲されて困窮したとき、(妻子ともども)下僕となって呉王に降伏し、三年の間(呉で下僕の役目を)おこたることがなかった。そもそも人に報復するという志があって、人にへりくだることが出来ないというのは、これは凡人の意地っ張り、というべきなのである。
圯(の)上の老人は、おそらく子房が才能にあふれているといっても、その度量が足りないのを憂慮したのであろう。それでその(子供っぽい、)かたくなな負けん気を深く反省させた。そしてちっぽけな鬱憤を我慢することを学ばせて、(秦の天下を終わらせるという)大きな策謀に向かわせたのである。
なぜそのようなことを老人が子房に強いたかといえば、(仮に)顔見知りでもないのに、突然に野原でたまたま出会っただけなのに、(老人から)下僕がするような事を命ぜられ、それに自然体で応じて不審を抱かせぬという人物(が、もしいたとすれば、それはあたかも根っからの奴隷根性の持ち主のようであり)、これこそは(猜疑心の強い)秦の皇帝を驚かせ(粛清され)ることは無く、項羽(のような短気な人間を)も怒らせることのない人物だからである。
(それゆえ、つまらぬところで命を落とすことは無く、志を全うできるのである。実のところ子房ははじめ老人に殴りかかろうとしたのであるが、グッと自重したところを見て、もうすこし修行すればモノになるとふんだのである。はたして後に子房は、傲慢無礼な高祖にもよく仕えることが出来たのである。)
 
(5)

觀夫高祖之所以勝、而項籍之所以敗者、在能忍與不能忍之間而已矣。項籍惟不能忍、是以百戰百勝、而輕用其鋒。高祖忍之、養其全鋒、而待其弊、此子房教之也。
當淮陰破齊而欲自王、高祖發怒、見於詞色。由此觀之、猶有剛強不忍之氣、非子房其誰全之。
太史公疑子房以為魁梧奇偉、而其狀貌乃是婦人女子、不稱其志氣、而愚以為、此其所以為子房歟。

觀(み)るに夫(そ)れ高祖(こうそ)の以って勝つ所、項籍(こうせき)の以って敗れる所は、能く忍ぶと忍ぶあたわざるの間にあるのみ。項籍は惟だ忍ぶあたわず、是れ百戰百勝を以て、輕しく其の鋒(ほう)を用いる。高祖は之を忍び、其の全鋒を養い、其の弊を侍(ま)つ、此れ子房の之におしえるなり。
當に淮陰(わいいん)の齊を破り自ら王とならんと欲す、高祖(こうそ)怒(ど)を発し、詞色に見るべし。此(これ)に由(よ)りて之を觀るに、猶(な)を剛強の忍ばざるの氣あると、子房にあらざれば其れ誰か之を全うせん?
太史公の疑(うたご)うに以為(おもへ)らく子房の魁梧(かいご)奇偉(きい)とし、而して其の狀貌(じょうぼう)は乃ち是れ婦人女子、其の志氣に稱(そぐ)わずとは、愚(わたくしが)以為(おもう)に、此れ其の子房の以為(ゆえん)なり。

かんがえてみるに、高祖の勝因、項羽の敗因というのは、我慢できるか我慢できないか、この(両者の性格と度量の)違いでしかない。項羽はただ(わずかな形勢の変化にも)我慢できなかっただけで、それまで百戦百勝だからといって、軽々しくその軍を動かし(続け)たのである。それに対して高祖は(劣勢を)耐え忍び、(陣地を守って補給を受けながら)自軍の力が充実するのを待ち、項羽の軍が(ゲリラ討伐に東奔西走して)疲弊するのを待ったのである。(この隠忍自重の持久戦略、)これこそ子房が高祖に授けた策なのである。(つまりは圯上の老人が張良に教えたことなのである)
また淮陰公(の韓信)が(北方の)斉の国をやぶり、斉王となって自立しようとしたときに、高祖は怒りを覚えて、(韓信の使者の前で)言葉や顔色にそれが現れた。それを見て(前述の持久戦の観点から情勢を判断して)『それでもまだ我慢が必要です。(韓信を王と認めなさい)』と高祖を諫めるということを、張良でなければいったい誰がやりおおせたであろうか?(他の者が語気強く諫めたとすれば、きっと高祖は余計に怒って聞き入れなかったであろう。張良の理路整然としながらも、へりくだった恭しい態度が高祖をなだめ、諫言を聞き入れさせたのである。)
太史公(司馬遷)は、(史記列伝で述べるに)子房はきっと容貌魁偉な偉丈夫ではないかと思いきや、(その肖像をみると)意外にも婦人女子のような温和な姿をしていたという、しかしそれではその気宇壮大な策略(をくわだてる軍師の姿)にそぐわないではないか?と述べている。しかしわたくしの愚考では、それこそが子房のすぐれた(人物である)ところのゆえんなのである。
(そもそも我慢のできない人間が、他人、ましてや目上の人物に『ここは我慢なさい』とは言えないものである。充分に我慢のできる人物、あたかも女性のように柔和でうやうやしく、充分にへりくだった張良のような側近の諫言であったればこそ、高祖もたびたび聞き入れたのである...........ああ、かの太史公(司馬遷)は武帝に剛直に諫言して宮刑に処されてしまったが、惜しむらくは、この道理をわきまえていなかったに違いない。それは史記列伝『留侯伝』の太史公の評を読むとわかるのである。)
 
(後記)

「留侯論」というが、より直接的には史記の「留侯伝」に対する批評の体をとっている。この文章は北宋は仁宗の嘉祐六年(1061年)の応制、すなわち皇帝の命の応じた論文試験のうちのひとつであるとされる。その試験は「賢良方正能直言極諫科」という科の試験であり、したがって「留侯論」の内容も「諫言を行う臣たるもの、どのようにあるべきか?」ということが、ひとつのテーマになっている。
「能直言極諫」とは、要は皇帝にもズケズケと口を極めて諫言をいたすことが出来る、という意味であるが、そのような立場にあっても「言い方ってものがあるだろう」というところであろうか。蘇軾は留侯こと子房がたびたび高祖を諫め、策を採用された理由として、その姿勢や態度が重要であった、と言っている。これは単なるうわべをつくろう保身術ではなく、人間理解に基づく深い知恵なのである、という洞察は鋭い。事実、この隠忍自重の姿勢は、子房ひとりの所作のみならず、項羽の楚軍に対する、高祖の漢陣営の基本戦略にも貫かれているのである。
また司馬遷が子房が偉丈夫ではなかったと聞いていぶかしんでいるのを、”愚考”とことわりつつも、軽く批判してもいる。これはもとより、司馬遷が李陵の投降の件で武帝をきつく諫めて、罪に落されたことを暗に指しているのであろう。が、そこをあからさまに書けば、いささか辛辣が過ぎようか。なので蘇軾はそこで筆をおいている。

とはいえこれは若き日の蘇軾の文章である。後年、蘇軾自身は、皇帝からの覚えがめでたかったとはいっても、その詩文を他の廷臣たちに細かく詮議建てされ、不敬罪に問われる事になる。これはこの留侯論を執筆した時点では、思いもよらなかったであろう。乱世の謀臣と、平和な時代に複雑な宮廷政治の世界に身を置く者とでは、身の処し方はおのずと違ったものになる、というところだろうか。
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端渓硯6面をリリースいたしました。

風の強い日が続いておりますが、連休中、いかがお過ごしでしょうか?

先日告知いたしました、端溪硯(新老坑4面、老坑水巌2面)をリリースいたしました。 発売とここでの告知に、若干の間が空いてしまって申し訳ございません。 ご覧いただければ幸いです。

夏に向けては、筆の新作・再入荷を準備中です。 文房四寶を取り巻く環境は年々厳しさを増していおりますが、うまずたゆまず、続けて行ければと思います。

今後とも、なにとぞよろしくお願い申し上げます。

店主 拝

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新老坑4面、老坑水巌小硯2面

......硯の愛好家に言わせれば、畢竟、硯は端溪老坑水巌に尽きるのである。しかし、それはごく一部の愛好家の話であって、広く実用の面からみれば、必ずしもそうとは言い切れない。たとえば日本では端溪老坑硯が、その名声のわりにあまり普及しなかった、という事実もある。理由のひとつに、日本の墨との相性があまり良くなかった、ということもあるのではないだろうか。
日本で作られた墨といっても、大半の人は数十年経過した古墨を磨るわけではなく、出来てから十年足らずの新しい墨を使用されることだろう。和墨は膠の粘性が強く、なかんずく、あたらしい墨は墨液が粘るものである。それだから、出来て30〜50年経過した”枯れた”墨がたっとばれるのである。しかし”枯れた”墨にしたところで、唐墨にくらべると膠が重い、つまりは粘るのである。この粘る墨をうまく磨ろうと思えば、あまり鋒鋩が細かすぎると実際のところ具合よくは行かない。粘った墨液が鋒鋩をおおってしまい、墨が滑るばかりで墨液が濃くなってゆかないのである。なので鋒鋩が粗い和硯や、歙州の羅紋硯などが適していることになる。あるいは澄泥硯と称される、蠖村石も良いかもしれない。鋒鋩の概して細かい老坑水巌などは、まったく適当ではないのである。日本に昔入ってきた老坑が、使い込まれた形跡がみられる硯があまりないのは、要は使い勝手が悪かったのだと思う。
また和墨に限らず、唐墨についても、80年代以降の墨のほとんどは膠が重い。唐墨は製法材料が良ければ、新しい墨であっても比較的膠が軽い(粘らない)ものであるが、80年代以降はすっかり膠が重くなっている。これは大陸で製墨用の膠が作られなくなったことに起因すると考えられる。年代が新しい、すなわち入手しやすい墨は膠が重い墨が多いので、これも老坑にはあまり合わないということになる。
たとえば70年代の上海墨廠の油烟101等の墨は、きちんと墨用に製せられた”広膠(広東膠)”を使っており、墨は硬く墨液は粘らない。しかし硬い墨というのは、鋒鋩が粗い硯ではうまく磨ることが出来ない。鋒鋩が粗く、しかも鋒鋩の密度が粗慢な硯で磨ると、硬い墨が硯面にひっかかるなどして、快適に磨れないものなのである。かつて「唐墨はなかなか濃くならない」と嘆く人もいたものであるが、これはやはり適当な硯に当たらなかったせいでもあるだろう。墨を磨る人すら稀になってしまった今現在であるが、墨をする道具としての硯の使い方が正しく伝わらなかったことも、原因なのかもしれない。
端溪硯
硯というと、墨液をためられるように彫られた”墨池”、硯を磨る広さを持った”墨堂”の二つの部分からなるというのが、一般の理解であると思われる。墨堂から墨池にはなだらかな傾斜があり、墨堂で濃くなった墨液が墨池に流れ込む、という構造である。ただし、古くは墨池が墨堂と分離している硯も多い。このような硯における墨池は、清水をためておいて、その水でもって筆先を湿らせたり、墨の濃度を調整するためにあったのである。さらにはまったく墨池の無い、いわゆる”硯板”もある。
この何も彫琢の施されていない硯板も、一種の”作硯様式”というべきである。天然の硯材を切り出して形を整える、それ自体が作硯行為なのであり、シンプルなだけに作硯家の硯材に対する深い理解が試される。
硯板は墨池を持たないので、硯面上で墨を磨るだけである。液体の性質によって平面上でも、ある程度はこぼれずに液体の量を保てるのである。この平坦な硯面も使い慣れると便利なもので、墨液の蒸発によって濃度に差が出るのであるが、そこに水を加えたりまた磨り足したりなどで、墨色の濃淡に変化を出すことが出来る。
端溪硯
話は変わる。いったい、品物を商う者にとって、”クレーム”は無いに越したことは無い。とはいえ”うるさ方”のお客様というのも、実のところ大切なものなのであるが、販売した品物がお気に召さないというのは、やはり気に病むものなのである。ひとりの硯の愛好者としては老坑水巌を愛さないではないが、販売する身になれば老坑水巌には躊躇を覚え、もっぱら新老坑を扱う理由もその点にある。
これこれこういう墨を使ってください、という事はお客様には言えないもので、どのような墨を磨るかは硯の持ち主の自由であってしかりなのである。そういう意味では、和墨から唐墨、新墨から古墨までひとわたり磨ることの出来る、墨を選ばない新老坑は、まことに優れた硯材と認めないわけにはいかない。新老坑の鋒鋩は緻密堅牢なのであるが、細かすぎることがない。また粗すぎる事も無く、中庸を得ているともいえようか。かえって鋒鋩が細密な老坑水巌、とくに大西洞などは、古い時代の唐墨の佳品しか究極合わないのであれば、実用的にはどうか?と思いたくなる。老坑水巌といっても、東洞や小西洞は新老坑に近い性質があり、和墨も磨れるのであるが、なんせ数が少なく非常に高価である。膨大とはいかないまでも丹念に探せば見出しやすく、また一生使えることを考えれば、ほどほどの値段で入手可能な新老坑は、墨を磨ってみたいという人には、安心しておすすめ出来る硯材なのである。
端溪硯
というお話とは別に、今回は小さな硯ではあるが、新老坑ではない老坑水巌も二面、リリースしようと考えている。ご覧の通りのまことに小さな硯ではあるが、老坑に合うような佳墨は総じて三〜五銭(8〜16g)の重さの小さな墨なので、これで充分なのである。
八稜硯は硯面に細く虫食いのような痕跡があるが、こうした痕跡はあとから出来たものではなく、天然の鉱脈の証しでもある。墨を磨っても不思議と引っかかることは無い。もうひとつ、おおらかな雲竜の硯は、蕉葉白を火捺が覆った、いかにも水巌らしい硯色を見せている。
端溪硯
老坑水巌といっても、もちろん和墨や松煙墨を磨ることも可能なのであるが、磨っているうちに、どことなく違和感を覚えるかもしれない。特に松煙墨は、長く使うと硯の色をくすませてしまうので、注意が必要である。どうしても松煙墨を試されたい場合は、硯の裏面、硯背を硯板のように使われるとよいだろう。最近は”木工ボンド”のような材料を媒材とした固形墨もあるようで、これは筆も痛めるが、硯にも良くないものであるから注意が必要である。むろん、清朝や民国の古墨となるとあまりないのであるが、70年代の上海墨廠の墨などは好適であろう.......と、適合する墨についてある程度述べたくなるのは、やはり老坑水巌だからであり、新老坑ではその心配が少ない。しかし世上、硯の愛好家の多くが、結局は老坑水巌に行き着くという、その魅力を備えてもいる。
そもそも実用性だけでは測れないところに”趣味”の深さというものがあり、実用性のみが”モノサシ”なのだとすれば、墨を磨ることはおろか、書や画を毛筆でもってナニゴトかを成す行為自体、意味があるのか?という問いにいたるのかもしれない。”日常の些事を愛せ”とは芥川の言であるが、美術やら芸術やらという、ほんらい迂遠な業に携わる人々も、今や利便性を追い求める風があるように感ぜられる。これはいかがなものであろうか。

もう一面。この蓮を模した、いわゆる荷葉硯がである。少し悩ましいのが、硯背に銘が彫ってある、という点である。
端溪硯
硯の値決めというのは実際難しいのであるが、新老坑の場合、材質がある基準を満たしていると認められれば、後は大きさである。事実、新老坑を含む老坑系の硯材は、大きい硯ほど少ないモノなのである。材質が同程度で、大きさも同じくらいであれば、眼や蕉葉白といった、石品の有無や優劣で若干の差をつける。最後に、硯の作行き、であろうか。しかしモチーフについては好みが分かれるので、たとえば、ウリやハス、タケノコなどと比べて、龍だからといって高貴であろうという理由で値段はつけない。あくまで造作の優劣である。しかし扱ってきた硯はおおむね、造形についはほぼ同レベルの職人の作硯であるというところで落ち着いている。
そこに硯銘、である。硯に銘を彫るという習慣は、いつ頃始まったのであろうか。近代では呉昌碩の”沈氏硯林”が著名で、呉昌碩の銘があるという事でオークションなどで出品されれば、数千万円という高値がついている。ひとつには当時採られた硯拓と照合することで、古硯であるということが証明できる、ということも理由であろうか。実のところ、作行きや硯材の質を考えると、”沈氏硯林”にさまで良い硯は無いのであるが、呉昌碩銘ということで蒐集欲を掻き立てられるのかもしれない。”沈氏硯林”に限らず、ここ10年以内の話であるが、一時、銘のある硯がやたらともてはやされた時期があった。オークションでも、銘のある硯でないと、まったく相手にされないのである。
しかし、現代の作硯家の技術も、まったくもって伊達ではない。銘など後からいくらでも彫って、入れられるのである。そこで今では銘だけではなく、箱書きや来歴の傍証たる書籍の掲載など、状況証拠で硯の価格が評価される始末である。この点、現代の硯のバイヤーや蒐集家の見識のレベルも伺えようというものであるが、大半のプレイヤーは”より高く売れればいい”のであるから、硯の良否など究極問題にしないのである。まあ、それもひとつの価値観であろうけれど、彼らの硯への関心が持続するかどうかは、硯市場の騰落に依存する体のものである。
端溪硯
個人的な経験からで恐縮であるが、故宮博物館にある、官作の松花江緑石硯のいくつかは、御銘があるが例外としよう。しかし時代が古く、二つとないほど素晴らしい硯には銘など彫られていないものである。銘を彫るのが憚られる、そういう景色があるものなのである。
手元の文献をみるに、明代の文人の文集、たとえば大泌山人こと李維呂諒現犬砲盡銘を収録した章がある。そうした例は探せば他にもあるだろう。つまり文人が硯銘を撰するという行為自体は、あるにはあったのだろう。しかしその硯銘が彫り込まれた硯は、まず目にしないものである。文集に一致する硯銘が彫られた硯がもしあったとすれば、後世に文集を参照しながら彫った偽作を疑うのが常識の所作である。硯銘というが、銘文や賛文は必ずしも硯に彫り込まれたとは限らない。箱に書き込んだかもしれないし、紙片に書いたという事も考えられる。
個人的には、硯銘のある硯であるからといって、そこに評価をおかない。いくら上手な銘であっても、それは人為の産物であり、飽きが来ることがあるのである。まして下手な銘であればなおさらである。書体や文章の好みもある。天然の産物たる硯色や石品の方が、使い込むごとに味わい深く、尽きせぬ楽しみがある。
と、硯銘を貶めるような事を述べてしまったが、逆に考えると、硯銘があったからといって硯の価値が貶(おとし)められるべきではないだろう。この荷葉硯は、銘の有無は別としてもすぐれた新老坑硯である。材質が新老坑だけに、古硯ではない。しかしながら王朝時代の古硯の風格を持つものである。

新秋葉落風
清秋堂人静
秋月明墨磨
秋水寫秋聲

古香堂珍玩

とある。古香堂という堂号はわりと多く、どこの古香堂かは未詳である。「新秋(しんしゅう)葉落(ようらく)の風。清秋(せいしゅう)堂(どう)人(ひと)静か。秋月(しゅうげつ)明らかに墨を磨る。秋水(しゅうす)秋聲(しゅうせい)を寫(うつ)す。」
五言絶句の形式であり、古典的な平水韻では押韻していないが、中華新韻という、現代中国語の発音にのっとって韻を踏んでいる。そういう点からも、近代以降に作られた硯という事がわかるのであるが、「秋」が多用される点、どことなく「紅樓夢」の作中にある”秋窗風雨夕”を思わせる。新老坑の多くは70年代に採石されたというが、文革のただなかであった。当時の指導者、毛沢東は古典文化の破壊を唱道したが、彼自身が「紅樓夢」の愛読者であったから、古典文学であるはずの「紅樓夢」については「これは旧社会を批判した文学である」と言って称揚していた。あるいはそのあたりの事情が作用したのであろうか。この硯もいずれは時代を写した”古硯”の一つになるのかもしれない。材は温潤で、荷葉硯としては優れた作硯である。

墨汁が便利という人もいるが、きちんとした膠で作られた墨は、水をかけても流れない。そういうわけで、書はともかくとしても、画を描く人はぜひとも固形の墨を磨ってもらいたいのであるが、適当な硯が見つかりにくいのも現実である。いまや非常な勢いで大陸に端溪硯が還流しているから、そのうち日本では端溪の佳材がみつからなくなる恐れもある。そういうことを言うと”ポジンション・トーク”と言って怒られそうなのであるが、ここまで事態が進むと、事実なので言っておいた方がいいように考えている。少なくなってしまってから「あの時買っておけば」という人が多く出ても気の毒であるから。
......少し大きな硯はそれなりの値段になってしまうのであるが、店頭でしばし埃をかぶってもらう覚悟である。ご高覧いただければ幸甚。
落款印01

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