金線があれば老坑なのか?

老坑水巌や新老坑など、いわゆる老坑系の硯石に特徴的な石紋として、硯面上に認められる線状の模様、”金線”、”銀線”、あるいは”氷紋”がある。氷紋は古くは”氷紋凍”とも呼ばれた。長い年月をかけた造岩の過程で、地中の圧力によって岩石に亀裂が生じ、そこへ周辺の鉱物成分が浸透し、固化することで形成されたと考えられる。
黄色味を帯び、光の下でわずかに反射光を呈するものを金線という。また白色の勝ったものが銀線と呼ばれている。銀線のような白色の線状模様が複数本交錯し、あたかも凍結したるがごとく、あるいは氷板に亀裂が走っているように見える場合に”氷紋”と認められることになる。以下は老坑における金線、銀線の例。

金線、銀線、氷紋は、老坑水巌あるいは新老坑に特徴的な石紋、と述べたが、無論の事、すべての老坑系の硯石に金線や銀線、氷紋が認められるわけではない。金線、銀線ともに存在しない、あるいは存在しないように作硯された老坑硯もある。
また多く硯石を過眼してきた経験に照らせば、老坑水巌よりも新老坑のほうに、より金線、銀線が認められることが多いようである。

最近では金線の存在を以て「老坑」と認定する向きもある。たしかに老坑や新老坑など、老坑系の硯石に多く見られる金線であるが、金線が無いからと言って老坑ではないとは限らない。清の呉蘭修の「端溪硯史」などでは、金線は”石瑕”に数えられているくらいであるから、氷紋などと違い、あえて珍重すべき「石品」のひとつには数えられていないのである。
ゆえに金線が出ない、あるいは金線を避けて作硯された硯もあるから、金線が出ていないからと言って老坑ないしは新老坑とは言えない。すなわち

金線が無い→老坑(あるいは新老坑)ではない。

という命題は成立しない。金線が無いことは老坑ではない事の必要条件であって十分条件ではない。では、

金線がある→老坑(あるいは新老坑)である。

という命題は成立するだろうか?
これはただちに反証しうる。老坑ないしは新老坑以外の硯石にも、金線が現れるからである。以下は明らかな梅花坑であるが、明瞭に金線が認められる。
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すなわち「金線がある」ということは「老坑(あるいは新老坑)」であることの、必要条件であって十分条件ではない、というところなのである。
また梅花坑以外の、諸坑や雑坑にも金線ないしは銀線は存在しうる。以下はその例である。
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もっとも、白っぽい線については銀線以外にも、白線や水線、という言い方がある。「寶硯堂硯辨(ほうけんどうけんべん)」に曰く「白線巌」という老坑ではない坑洞があり、

”多白筋如粗銀線,石工以之充冰紋凍,然石筋粗大無活色,且一片紅灰混濁氣,無潔白融液如大西冰紋者。”

「粗い銀線のような白い筋が多く,石工は之をもって冰紋凍に充(あ)てる。然るに石筋は粗大で活色が無く,且つ一片の紅灰色の気が混濁としており,大西の冰紋のような潔白で融液のようなところがない」

と評される。また端溪硯史では、他の坑道について

”白紋如線,適損毫非所尚矣”

「線のような白い紋様は、(筆の)毫を損なうに適い、尚なり(=望ましい)とするところに非ず」

といって区別している。
言葉の定義というのは難しいのであるが、老坑に現れる白っぽい線は銀線で、そのほかの諸硯坑の硯石に現れる白っぽい線は水線ないし白線なのである、というように言ってしまうと何が何だかわからなくなる。黄色い線だの白い線だので安易に硯石を断定してはならない、というところだろう。

「寶硯堂硯辨」によれば老坑水巌にのみ氷紋が現れるとしているが、当時はまだ新老坑が開坑されていない。新老坑にも氷紋と呼ぶべき石品は現れる。しかし老坑水巌のそれには及ばない。「寶硯堂硯辨」にも

”若冰紋帶青花乃千百中之一、二,謂之絕品可也。”

「もし氷紋の青花を帯びたものは千百中の一、二であり、これを絶品というべきなり。」

とあって、極めて珍しいとしている。老坑の金線、水線、氷紋については別の機会に詳述することもあるだろう。

ともかく、金線、銀線、ないしは水線ともいうべき、線状の石紋が現れていたからと言って老坑ないし新老坑と断定するのはまったくもって早計なのである。金線があるから老坑です、という売り方をしている向きがあれば疑ってかかったほうがいいかもしれない。
また金線や銀線にだけ注目して老坑をさがしていれば、あたら佳材を見落とすことになりかねない。ここに注意を喚起する次第である。
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祝新元号 「万葉集 梅花歌併序」

万葉集 梅花歌併序

(原文)

天平二年正月十三日。萃於帥老之宅。申宴會也。
於時初春令月。氣淑風和。
梅披鏡前之粉。蘭薫珮後之香。
加以曙嶺移雲。松掛羅而傾蓋。
夕岫結霧鳥封而迷林。
庭舞新蝶。空歸故鴈。
於是蓋天坐地。促膝飛觴。
忘言一室之裏。開衿煙霞之外。
淡然自放。快然自足。
若非翰苑何以攄情。
詩紀落梅之篇古今夫何異矣。
宜賦園梅聊成短詠。

(書き下し)

天平二年正月十三日。
帥老(しろう)の宅(たく)に萃(あつ)まり、申(かさね)て宴(うたげ)を會(かい)すなり。
時は初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)
気(き)は淑(しと)やかに風(か)和(やわらか)し
梅は披(ひら)く鏡前(きょうぜん)の粉(ふん)
蘭は薫(かお)る珮後(はいご)の香(こう)
以って加(くわ)うるに曙(しょ)の嶺(やま)は雲を移(うつ)し、
松は羅(ら)を掛け蓋(がい)を傾く。
夕岫(ゆうしゅう)は霧(きり)を結び、鳥は封(とざ)して林に迷う。
庭に新蝶(しんちょう)舞い、
空に故鴈(こがん)帰(かえ)る。
是において天を蓋(がい)とし地を座(ざ)とし、
膝(ひざ)を促(つ)めて觴(さかずき)を飛ばさん。
一室の裏(うち)に言を忘れ、煙霞(えんか)の外に衿を開く。
淡然(たんぜん)として自から放(はな)ち、快然(かいぜん)として自から足る。
若(も)し翰苑(かんえん)にあらざれば何を以って情を攄(の)べん。
詩に落梅之篇(らくばいのへん)を紀(しる)す、古今(ここん)夫(そ)れ何ぞ異とするや。
宜(よろ)しく園梅(えんばい)に賦(ふ)して聊(いささ)か短詠(たんえい)を成さん。

(補足)
和製漢文なので、語順の感覚に注意が必要かもしれません。あくまで漢文として読んでみます。
「申」は重ねて、の意味があり、正月の宴の二次会を会のリーダー的年長者の邸宅で開いたと思われます。
氣淑風和」は、漢語風にいえば「淑気」「和風」ですが、意図的に逆転したのでしょうか。
「粉」ですが、ここは次の蘭の句と対句になっており、対応する「香」がおそらく香炉を表すことから対応して「白粉」という解釈が可能でしょう。「鏡前」とありますが、白粉から連想して「鏡台」を指すかのように思えますが、庭に向けて魔除けにおいた鏡のことでしょう。いわゆる照魔鏡は、鬼瓦と同様大陸から伝来しましたが、貴族の邸宅では一般的な風習でした。それに庭の梅花が映っているのを、鏡台の前の女性の化粧になぞらえたと考えられます。
「珮」はしめた帯。
「蘭」ですが、旧暦の正月13日といえばまだ2月下旬で、梅はともかく蘭の開花時期としてはギリギリです。庭に咲いたのではなく、室内で鉢植えで育てられた蘭を想定していると思われます。ゆえに「香」一字で「香炉」、ということになります。また蘭の花は単独で君子を表します。しめた帯のあたりから蘭の香が漂うというのですから、集まった者達がいずれ劣らぬ君子ぞろい、ということを暗示しています。
「曙」は日本語ではもっぱら「あけぼの」、朝の光を指しますが、漢語では明るい太陽の光のことでもあります。夕暮れに向かう前後の文脈から「朝陽」のことではなく、山際におちかけて最後の光芒を放つ陽の光をいうのでしょう。
「松掛羅」の「羅」を「うすもの」としている訳例がありますが、松に羽衣をかける文脈は前後にないですね。「松羅」は松に寄生する和名サルオガセという地衣類で、漢語では女羅といいます。また蓋(がい)を傾くというのは、天蓋(屋根)のように広がり茂った松の枝葉のことです。
「鳥封」は、鳥が霧に閉じ込められて林で迷子になる、ように訳している例がありますが、それなら「封鳥」のはずです。「封」は口を閉ざす、という意味があります。鳥は鳴くのをやめて、というように解釈しました。
「煙霞」は「紅塵」と同じく、世俗、俗世間のこと。「煙霞」の外、ということですが、あつまった者達の間にも階級や職位の区別はあるわけです。それを忘れて楽しみましょう、という事ですね。なので「開衿」の対句の「忘言」の「言」は、身分に応じた言葉遣い、という意味に解釈できます。
「淡然」はたんぱくな気持ち。名誉や利益から離れた心境。
「詩」とあるのは詩経。古く詩経にも梅を詠んだ詩があります。

(大意)

天平二年の正月十三日、頭(かしら)だつ人の家にあつまって二次会の宴会をひらいた。
時節は初春の(正月)めでたい月。空気もようやく温かく、風も穏(おだ)やかに吹いている。
鏡には、白粉のような白い梅の花が映り、集まった君子たちのしめた帯の背中からは、蘭の薫(かおり)が香炉(こうろ)を置いたようにかすかにただよってくる。
傾いた日が山際にさしかかり、山裾には雲がながれるのが見える。
女羅がさがった老いた松は、屋根のように大きなその枝葉を庭にかたむけている。
山にかかる夕靄はふもとにおりて霧となり、鳥は鳴くのをやめ、林をさまようかのように飛びわたる。
目の前の庭には生まれたばかりの蝶が舞い、遠くの空には故郷へ帰る雁が飛ぶ。
(ああ、美しいこの場所、)ここでもって天地の区別なく無礼講で楽しむことにした。
そこで席順を崩し、膝をつきあわせ、酒杯を応酬する。
一部屋の中で言葉遣いも忘れ果て、世俗の身分に関係なく、衿(えり)を開いて打ち解けあう。
名利を忘れて自由な気持ちになり、楽しい気分になって満足する。
もし、文学に拠らなければ、どうやってこの楽しい感情を表し残したらいいのだろう。
詩経に落梅花を詠んだ詩があるくらいだから、昔も今も(この季節に梅を詠むことに)違いはないのだ。
だから皆でもって庭の梅をテーマにして、すこしばかりの短歌をつくったのである。


ともあれ「令和」が良い時代にならんことを。
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桜と新元号

明日、新しい元号が発表になります。とはいえ明日をもって平成の時代が終わるわけではないですが、気持ちの上ではひとつの時代の区切りの日となりそうです。

今年は三月下旬に寒い日が続き、桜の開花が遅いように感じるのですが、昨年がやや早かったからかもしれません。今日は全国的に気温が低く、関西では小雨がパラつく地域が多かったと思います。大阪ないし東京周辺のお花見のピークはやはりこの週末、あるいは来週末、というところでしょうか。
和歌はあまり勉強したことが無いのですが.......桜と新元号にちなんで(ご愛敬までに)四首ほどつくってみました。

三十一(みそひとの)すぎゆく御代をおくらむと
散りぬるころをまてし花影

咲きそめし花をさそいて春雨の
ふりゆくままにうつる御代かな

御代やあらむ、花やむかしの花ならぬ
うつりにけるは人ばかりなり

たいらかになりてのどけき春の日に
新しき世を迎ふるよろこび

一昔三十年と言いますから、平成をもってひとまず一昔、というところでしょうか。散る花や、昭和も遠くなりにけり.............
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衛恒「四体筆勢」について

...........2月、3月は多忙で、しばらく間が空いてしまいました。当面の目標として、西晋時代の衛恒の書論である「四体筆勢」を読解してゆこうと思います。今回はその前書きのようなものを以下に。


 
三国時代も末期、魏に衛瓘(えいかん 220-291年)という武将がいた。父親は魏の尚書衛覬(えいき)である。衛瓘は263年、蜀漢の征伐に軍監として従軍する。まず遠征中に独断専行が目立つようになった艾を、鐘会の命令でとらえることに成功する。
鐘会は劉禅を降伏させ蜀漢を滅ぼすが、そのまま成都にとどまって魏への謀叛自立をはかる。このとき衛瓘は偽の詔勅を作成して諸将に鐘会を討つように説得し、諸軍を率いて鐘会を破ることに成功する。
艾、鐘会ともに魏末期の名将である。蜀漢を滅ぼしたのは鐘会であるが、魏王朝から見れば蜀漢併合の実質的な最高功労者は、謀叛した鐘会を討った衛瓘である。艾・鐘会という知将をともに降した衛瓘も、また名将と言ってよいだろう。
やがて魏がほろんで晋が建国されると、衛瓘は晋(西晋)に仕える。しかし司馬氏の骨肉の政争に巻き込まれ、衛瓘は子の衛恒とともに殺されている。

衛瓘は索靖とともに張芝に書を学んだ。「晋書・衛瓘傳」には

二人草書同師法於張伯英(張芝)。大家認為衛瓘書法得到張伯英的筋、索靖得張伯英的肉。衛瓘自稱“我得伯英之筋、(衛)恒得其骨,(索)靖得其肉。

(衛瓘と索靖の)二人は張芝を師として草書を学び、皆は衛瓘(の書法)が張芝の書法の筋を、また索靖は肉を得ていると認めた。衛瓘が自ら言うには、”私は張芝の筋を得、(息子の)衛恒はその骨を得、索靖はその肉を得た”

とある。このように息子の衛恒もまた書法に優れ、唐代に編纂された「晋書」に別傳を立てられている。また書法を論じた「四体筆勢」が衛恒の傳に収録されている。
この「四体筆勢」は、まとまった書論としては最古のものであり、書法史上重要な資料なのであるが、省みられることが少ないように思っている。

ちなみに「蘭亭序」が書かれた東晋の「永和九年」は353年である。衛恒の生年は未詳であるが、衛瓘・衛恒が殺されたのが291年である。衛瓘がこのとき71歳だとすると、息子の衛恒は没時40代〜50代というところだろう。ゆえに「四体筆勢」が書かれた時代から「永和九年」まで、60年〜90年の時代の開きがあるとみていいだろう。
「四体筆勢」が「晋書」に収録されたのは、その内容と文章が優れているからであろうことは、読解を進めているとわかってくる。衛瓘、衛恒ともに卓越した教養の持ち主であったことがうかがえる。

結論をひとつ言えば、「四体筆勢」論じられている書体の中に、今日的な意味での楷書や行書は含まれていない、ということがある。古代の文字から論じて、隸書に至り、隸書の捷(はやがき)としての草書で結ばれている。
もし、蘭亭序の摸本や、集字聖教序ないし興福寺断碑にみられるような楷書に準ずる書体が「永和九年」に存在したとすると、それは一世紀に満たない間に起きた書体の変化ということになる。その可能性はさておくとしても、すくなくとも衛瓘の父親の世代である、三国時代の鐘繇の小楷作品などは、すべて後世の偽作であるということが史料の面からも言えるのである。

”蘭亭序”を筆頭に、王羲之・王献之が書いたとされる筆跡が後世に与えた影響は非常に大きく、唐代以降の筆書は、大なり小なりその影響の下にあると言っていいだろう。のみならず、筆書の歴史を考えるにあたっても、虚像であろう”書聖・王羲之”の存在のために、多くの矛盾が解消しないままなのである。

西晋から王羲之の生きた東晋の時代に至るまでの筆書が、実際にどのような姿であったのか?という点については、非常に限定的な史料しか残されていない。漢碑に始まる碑帖については、刻石の姿で傳存するものも認められる。しかしそこに刻まれているのは、当時のフォーマルな書体であるところの隸書、八分書、あるいは篆書体に限られている。
木簡や紙の上で発展したであろう筆記書体である草書については、史書に残るほどの著名な書法家の筆跡は現存するものが絶無である。地方の官吏によって書かれた行政文書などの木簡の出土例があるのみで、それらから衛瓘から王羲之に至るまでの、”名流”の書法を推察するのは難しい。

ともあれ「四体筆勢」は、西晋時代までの筆書の歴史を総括しており、当時どのような書体が認められていたか?という事実が整理されている重要な資料であるといえる。
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「祭姪文稿」見逃し残念記

........話題の顔真卿祭姪文稿、残念ながら2月は多忙で東京まで観に行く機会がとれなかった。その腹いせ、という意味では全くないが、祭姪文稿他、顔真卿の”三稿”の真実性には前から疑問があった。残念記念で少しその事を以下に。観に行かれた方には、あるいは水を差しかねまじき内容もあるかもしれないので、その点はお含みおきいただきたい。

個人的には、あの安禄山との激しい戦乱の最中、顔真卿ほどの能筆家が自己の感情もあらわに筆跡が乱れた(と言われている)草稿を残していただろうか?という疑問がある。また続く内戦と唐末の大乱の最中、石碑ですら原刻が喪われたもの数多という中、紙片が残るものだろうか?という点も。さらには1000年以上後まで伝存するような精良な紙を、草稿に使用するだろうか?という疑問がわくところである。
事実、現在知られる唐代の楷書の碑帖も原刻はすでに喪われているものが多い。また拓本も宋代より以前にさかのぼれない、というものが非常に多い。
唐代の筆書が実際どのようなものであったか?という点については、巷間言われているほどにはわかっていないことがまだまだ多いと考えている。ある意味、確実な史料がほとんどない王羲之の時代よりも、なまじ唐代の書と言われるものが多いため、かえってつかみにくいところがある、といえるのではないだろうか。

顔真卿はそれまで主流であった「二王」こと、王羲之と王献之の書風を超克するというところに問題意識があり、それを成し遂げたと通俗的書法史では評価されている。王羲之を越えないまでも、書の変革者であると。

これも私見で恐縮であるが、東晋の名門貴族として実在したであろう王羲之が、”書聖”であったというのは唐の太宗時代に創られた完全な虚像、と考えている。ゆえに現在みられる”蘭亭序”をはじめとする王羲之、王献之の書は、すべて隋唐から北宋にかけて創作されたものだろう、と。
それはごく少数の東晋時代の碑文や、先立つ漢代における隷書体の碑文をつぶさに検討すれば理解することは容易である。たとえば蘭亭序のような楷書を崩した行書体が、四世紀に存在したか?という問題である。さらに完成された楷書を崩した「蘭亭序」にみられる”行書”しかり、また草書の尺牘の類についても同じことが言えるのである。

顔真卿は四十四歳の作と言われる多宝塔碑で、北魏以来の楷書を集大成した、雄渾かつ端正な楷書体に到達しているとされる。しかしその後に書風を一変し、顔勤礼碑や顔氏家廟碑、麻姑仙壇記で”顔体”と称される独自の書風を確立している。これらをもって、王羲之以来の流麗な書風を革新したと、一般的には言われているのである。とはいえ王羲之の時代には完成した楷書体は存在しなかった。鐘繇や王羲之の小楷は、実際は北宋に入ってからの偽作と認められて久しい。

今日言う”楷書体”というのは、漢民族からみれば異民族王朝である北魏において大略完成した書体である。しかしそれは紙の上に毛筆で書かれた筆書として発展した書体ではなく、刻石の上で展開し、整理されていった書体であろうと考えられる。
北魏に先立つ漢代の碑、いわゆる漢碑における隷書体は、毛筆で書かれたであろう筆書の原型をかなり忠実に石に刻んでいる。それは毛筆書体のもつ美への深い理解と、それを後世に伝えんとする意識に支えられたものであると考えられる。
それが漢、西晋と時代を経て、北方に異民族王朝の北魏が成立すると、様相が大きく変化してゆく。おそらくは前後漢で成立した毛筆書の文化に疎い人々の手によって刻まれた刻字は、元の筆書を忠実にたどったものではなかったと考えられる。刻石の刀法の影響で筆書の曲線が直線に矯められ、隸書特有の右へ長い波磔が短縮される、という変化があったことだろう。
すなわち書がしるされる媒体の物性によって、書体が変化してゆくのである。たとえば木版印刷の上で彫りやすいように筆画が変化していった、活字書体である宋朝体、明朝体がある。また楷書体と同じく刻石の上で成立した、英数字のローマン書体と比較して理解されるところであろう。骨片に刻まれた甲骨文や青銅器上の篆文なども、書かれた媒体の性質を考えることで、書体の発展の必然性を説明することが可能である。
このような、文字を書く道具と材料の変遷が書体に影響を与える、といよりほとんど書体を決定してきた、という考え方は、西洋におけるアルファベットの書体の変遷の説明ではごく普通の見方である。しかし通俗的書法史によれば、すべて現代と同じような毛筆でもって紙の上で変化してきたかのようなとらえ方が主流になるところに、錯覚や誤解がみられる。これが東洋における書の歴史がそのまま能書家の列伝であり、あたかも英雄伝説のようなストーリーから脱し得ない原因ではないかと考えている。

漢代の竹簡や木簡の上で発展した隷書体は、一辺の木簡に一行が原則の書体として、より多くの文字を書き入れるために扁平になって行った。また可読性を高めるために、波磔が強調されるようになる。

文字を刻んだ石碑の製作が流行するのは漢代に入ってからである。それは硬い石に彫刻を施すのに適した、焼きを入れた鋭利な鉄器の精錬が可能になったからであると考えられる。その技術は、刻石の文化と同時に、西方から伝播したであろう。漢代は、それまで青銅器を主流とした戦国春秋〜秦時代から、鉄器の文化へと移行した時代でもあった。
摩擦に弱い青銅の刀では、硬質な石材に緻密な線を彫り上げることは難しい。春秋戦国時代にみられる画像石のような、ごく柔らかい石におおらかに図像を彫り上げるのが限界であろう。また硬い石でなければ、そもそも繊細な線を彫れないのである。ごく硬い石に精緻な文字が刻まれるようになるのは、道具の進化と無縁ではない。

文字が刻石上に多く刻まれるようになると、縦横の方眼の方が見た目には整然としている。さらには縦方向に文字を目で追う上で、隸書のような横広がりの文字よりは、正方、ないしやや縦長に構成されていた方が視線を移動して読みやすい。さらに漢字という文字の構造上、筆画の外側は直線的に彫りやすい。しかし内側の点画はやや慎重に彫らないと、内包された点画など、文字の構造を壊してしまう。こうして、顔真卿以前の楷書は、歐陽詢に代表されるように、いわゆる”外方内円”の字形をとるようになったと考えられる。

また刻石上の下書きは、多くは石の上に直接書かれたであろう。総じて字形が大きな魏碑の文字は、円錐状の筆ではなく、平たい刷毛のような筆で書かれたと考えられる。刷毛であれば、毛筆書の心得の薄い者でも、比較的容易に、縦横に整った線をえがくことが可能なのである。

ところで四世紀の東晋時代〜南朝宋時代までの、南方の碑文や墓誌の類というのは現存するものが非常に少ない。しかしはじめから無かったわけではなく、後世になって破壊されたり建材にされたり、新たな墓誌や碑帖の材料として刻面が削り取られてしまったからと考えられる。それは北朝に南朝が征服されてゆく過程での、意図的な破壊もあったと思われる。
五世紀の南方の筆書を伝える数少ない碑の一例を挙げれば、420年に東晋がほろんで後の南朝劉宋の時代、458年に造られた「爨龍顏碑」がある。これは清朝の乾隆年間に雲南省で発見されている。これは地元豪族の墓誌であるが、雲南省のような僻地であったからこそ、奇跡的に破壊を免れたのだろう。ゆえに南朝の支配地域において、墓誌を刻む習慣がなかったとは言えないのである。東晋〜南朝時代の南方の碑帖が異様に少ないのは、やはり北朝の征服過程と統治下で、相当な破壊があった事がうかがえるのである。
この碑の書体を見る限りでは、現代のゴチック体を思わせるところがあり、唐代の洗練された楷書にはまだ相当な距離がある。5世紀の時点では依然として、唐代の整理された楷書体への発展過程にあったのではないか。

北魏を中心とする北朝で楷書体が発展を遂げていた同じ時期、南朝では隸書の早書きである草書体が洗練の度を増していた、と考えられる。それは会稽を中心とした製紙業の隆盛が背景にあり、また筆や墨の質の向上も貢献していたであろう。草書の連綿の発展は、精良な紙と筆墨なしには到達できないものである。
ゆえに南朝貴族の自国文化に対する矜持は、草書の美に拠るところが大きい、と考えてよいだろう。それは平安朝における仮名の発達と対比して理解しても良い。
草書のような筆記書体は平安朝における仮名と同じく、書き手の個性を表現する事が可能であり、むしろ積極的に表現を試みたであろう。同時に、名手の筆跡の模倣も盛んにおこなわれるのである。
対して北朝の、いわゆる魏碑を中心とする碑帖群は、作者がほとんど分かっていない。北方騎馬民族を継承する異民族王朝であり、政権における軍事色の強い北朝にあっては、文字はあくまで通信や広報手段の道具である。そこに書き手の個性を表現する必要性は、おそらく認められなかったのであろう。

隋の楊氏も唐代の李氏も、もとは鮮卑族をルーツに持つ武川鎮軍閥の出身である。一方で、唐の太宗のブレーンの多くは漢王朝以来の南朝貴族たちある。虞世南、歐陽詢、褚遂良たちは互いに師弟関係にあり、その祖に王羲之の後衛と言われる智永がいたとされる。
彼等”唐の三大家”は、北朝で完成された楷書体(とおそらくは異字の統一など)が採用されることに、積極的に関与している。そこには隋唐王朝の成立と同時期に、楷書体が公文書における制式な書として定められたのであれば、その模範となる書体は、ぜひとも南朝文化の継承者の手によって、完成されなければならないという、ある種の危機感のようなものがあったのではないだろうか。
それと同時に、南朝文化を継承する運動として、おそらくは”書聖王羲之”を創造したのではないか?と考えられるのである。

書体の変遷に当時の政局が影響していることは、近代史における簡体字の採用、また文化大革命における独特なプロパガンダ書体などにも類例を見ることが出来るものであり、別段特殊な事ではない。

ゆえに楷書体はすでに王羲之の時代に完成していた、という物語の中に”蘭亭序伝説”を位置づけることで(楷書がなければ行書も生まれないので)、文化面での南朝の優越性を太宗以下の北方出身の貴族たちに認めさせたか、あるいは信じさせた可能性がある。あるいは太宗も南北融和のために積極的に王羲之を賞賛した、という事もありうるだろう。
智永は楷書と草書を併記した”真草千字文”を八百本も書き、寺寺に配ったといわれている。またその一本が日本に伝存していると考えられている。その真偽はさておくとしても、何故智永が数多くの真草千字文を書き、配布したか?という故事の謎がある。これも北朝の刻石文化と、南朝の豊富な紙の生産の上に洗練された草書体文化の融合、という文脈で説明できるのではないだろうか。あるいは歐陽詢等よりやや後代の、孫過庭の「書譜」における草書の美と、書論の内容についても、やはり南朝貴族文化の系譜の上で理解しなければならないのではないだろうか。

そこで顔真卿に話を戻すと、多宝塔碑以降に顔真卿が目指したのは、結論的にはおそらく漢代の筆書への回帰であったのではないか?
それは北魏以来の刻石における(おそらくは石刻職人の技量や筆書への理解の不足に基づく)直線的な楷書体から、漢碑の隸書体における曲線的な筆線や波磔への回帰ではなかったのかと。また”ネズミのしっぽ”とも呼ばれる、(おそらくは褚遂良を継承した)顔真卿の楷書体における独特な波磔や、外円内方の、まる味を帯びた筆画にあるのではないかと。そう考えたくなるのである。
ゆえに二王以来の流麗優美な書風に対抗し、雄渾な書風と確立した、というのはまったく後世のこじつけであり(そもそも王羲之の時代に完成された楷書体は認めがたいのだから)、むしろ顔真卿の意識は、北魏以来の北方異民族政権による中原文化への圧迫に対する、ある種の抵抗の感情があったのではないか。

唐代にいたり、碑帖における毛筆書体の再現性は、再び漢代における漢碑のごとく、精緻な技術を回復する。毛筆書特有の線の肥痩までもが忠実に刻まれるところには、碑帖の製作者と注文主が、筆書に深い理解を持たなければならない。
顔真卿の後期の楷書作品にみられる、"ねずみのしっぽ”とも呼ばれる特徴的な右の波磔は、それが毛筆による筆書であることを強調しているように見える。この点、おそらくは平たい刷毛のような筆で書かれたであろう、北魏の碑帖とは文字通り一線を画すことを宣言しているかのようである。

顔真卿は虞世南や歐陽詢、褚遂良といった南方貴族の出身ではなく、山東省に本貫をもち、魯の国の孔子の高弟、顔回の末裔と称する一族の出身である。山東には漢代以来の刻石刻碑の類が現在も多く残っている。はじめ褚遂良以来の唐楷を極めた顔真卿も、やがて故郷に残る漢碑の隸書や八分書の影響を受け、その味わいを唐楷に取り入れようとしたのではないか?というのが、ごく個人的な理解なのである。唐朝への忠誠心を後世称えられる顔真卿であるが、文化面ではまた別の感情があった事と察せられるのである。

顔真卿の草稿については、俗にいう”三稿”があり、そのうちの「争座位帖」については、北宋の米芾が”見た”と書いている。それ以前に記録文献には見られない。唐末から五代の動乱のすさまじさは、あまたの文物の亡失が想像されるのだが、文献資料すらほとんど残っていない事実からも、その損失の程が察せられるのである。
総じて、記録が残っているが実物は残っていない例はあるものだが、古い記録が無くて実物のみが残っている、というのはなかなかあり得難いところである。北宋の米芾からさかのぼること、唐代は二百五十年以上前の時代。今でいえば2000年代の人が乾隆年間の書を見たような、そういう時間の経過が横たわっていることは、意識しなくてはならないだろう。
実のところ顔真卿の書風は時代によって毀誉褒貶を繰り返してきているのであるが、まず北宋において再評価の時期を迎えている。北宋は毛筆書の即興性、いわゆる”卒意”が重視された時代である。そうした北宋人の美意識の下で顔真卿が評価されたところに、”三稿”の位置づけを考えてみてもよいだろう。それは唐代初期において、”卒意”の書とされる”蘭亭序”が創作され、称揚された経緯も参考になるのではないだろうか。
蘭亭序の真偽に象徴される”書聖王羲之”の実在性と併せて、唐代の筆書文化の全体像についても、再考の必要があるのではないだろうか。
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