読 蘇軾「范増論」


蘇軾に、范増を論じた「范増論」がある。以前に張良を論じた「留侯論」を紹介したが、この「范増論」も蘇軾の興味深い視点がうかがえる史論である。”蘇子曰く”と、書き出しに自己問答の体裁をとっている。文中の”義帝”は、范増が項羽の叔父の項梁に勧めて擁立した、楚の懐王の孫(一説に曾孫)の心(しん)であるが、当初は懐王を名乗らせた。秦で幽閉の後に死んだ懐王の再来としたのである。鴻門の会の後に項羽が論功行賞を行う際、その名義を立てるにあたって”義帝”に尊称を引き上げた。しかし蘇軾の文中ではすべて義帝で通している。

以下に大意を示したい。

(一)

漢用陳平計、間疏楚君臣、項羽疑範瘍亟鼠私、稍奪其權。畭臈樂、”天下事大定矣、君王自為之、願賜骸骨、歸卒伍。”未至彭城、疽發背、死。

漢は陳平(ちんぺい)の計を用い、楚の君臣(くんしん)を間疏(かんそ)す。項羽、范瓠覆呂鵑召Α砲魎繊覆ん)と私(わたくし)ありと疑い、稍(しばら)く其の権(けん)を奪う。瓠覆召Α紡隋覆お)いに怒りて曰く”天下の事は大いに定まるかな、君王(くんおう)自(みず)ら之(こ)を為(な)せ、願くば骸骨を賜わり、卒伍(そつご)に帰せん。”未だ彭城(ほうじょう)に至らずに、背に疽(そ)を発し、死す。

漢(の高祖)は(謀臣)陳平の計(略)を用い、楚の君臣の離間をはかった。項羽は范増が漢と内通していると疑い、しばらくその(軍における)権限を剥奪した。范増は(疑われたことを)非常に怒って言った「天下取りの計画はおおよそ定まりました。我が君はご自分でそれを実行してください。わたしくは骸骨を賜(たまわ)り(謀臣を引退して)、(彭城を守る)一兵卒(あるいは庶民)に落としていただきたい。」そして彭城にたどり着く前に、背中に壊疽を起こして死んだ。

(二)

蘇子曰:”畴卦遏∩奄磧I垉遏羽必殺瓠獨恨其不早爾。”然則當以何事去。痃葦殺沛公、羽不聽、終以此失天下、當於是去耶。曰、”否。畴畦濟沛公、人臣之分也。羽之不殺、猶有君人之度也。痙為以此去哉。『易』曰、‘知幾其神乎’『詩』曰、‘如彼雨雪、先集為霰。’畴卦遏≡脹羽殺卿子冠軍時也。”

蘇子(そし)曰く”瓩竜遒襦∩韻かな。去らざれば、羽は必ず瓩鮖Δ后獨り其の不早(はやからず)を恨むのみ爾。”然則(しからば)當(まさ)に何事を以て去らん。
瓩榔に沛公を殺すを勧める、羽は聽かず、終に此を以て天下を失う、當(まさ)に是に於いて去らん耶(や)。曰く”否。瓩塁鏝を殺すを欲するは、人臣の分なり。羽の殺さざるは、猶ほ君人の度(ど)有るなり。瓩麟為(なんすれぞ)以此去哉。『易』に曰く‘知幾其神乎’『詩』に曰く‘彼の雨雪(うせつ)の如く、先ず集りて霰を為す。’瓩竜遒襪蓮≡弔鳳の卿子冠軍を殺す時に於いてなり。”

(わたくし)蘇軾は言う「范増が去ったのは(范増自身にとって)良いことである。去らなければ必ず項羽は范増を殺したであろう。ただ(范増が項羽の下を去るのことが)遅かったことが残念である。」と。そうであるなら、では(范増は)どのような事があったときに、(項羽の下を)去るべきであったのか。
范増は(鴻門の会において)項羽に沛公(劉邦)を殺すことを勧めたが、項羽は聞き入れなかった。(劉邦を生かしておいたという)この出来事をもって最終的に天下を失うにいたるのであるから、まさにこの時(失望して項羽の下を)去るべきであったのだろうか?(わたくし蘇軾が心中おもうに)「否(いな)。范増が沛公を殺したがったのは、(このときは項羽に対する)臣下の本分をつくしたからである。項羽が(沛公=高祖を)殺さなかったのは、まだ君主としての度量があったのである。(君臣の本分がおのおの機能しているのであるから)范増はどうしてこのタイミングで去らなければならないのだろうか。」
易経にいう、”幾(き)を知るは其(そ)れ神や”(わずかな予兆を見て、その先の出来事を予見する)、あるいは詩経にいう「雨雪(うせつ)の如く、先ず集りて霰を為す。」(物事は、雨や雪のように、まずあつまってから拡散するのである。)
(本来)范増が去るべき(時)は、項羽が卿子冠軍(宋義)を殺した時なのであった。


 
(三)

陳涉之得民也、以項燕。項氏之興也、以立楚懷王孫心。而諸侯之叛之也、以弒義帝。且義帝之立、甍挧甜艪磧5祖詛径庫粥豈獨為楚之盛衰、亦畴圭裹估渦卻〔蕁Lね義帝亡而痼彷週彗玄毀蕁

陳涉は項燕を以て民を得る。項氏の興(おこ)るは、楚の懷王の孫の心を立たせるを以てなり。而(しこう)して諸侯の叛(そむ)くは、義帝を弑(ころす)を以てなり。且(か)つ義帝の立つは、瓩遼邸覆呂りごと)を主に為す。義帝の存亡、豈(あ)に獨り楚の盛衰(せいすい)を為さん、亦た瓩硫卻,鯑韻犬紊Δ垢襪箸海蹐覆蝓5祖襪遼瓦咾凸い煎瓩類廚蠻修久しく存(ぞんす)る者にあらざるなり。

(そもそも)陳涉(ちんしょう)が(楚の)民心を得たのは、(かつて秦軍に抗戦して敗死した、楚の名将)項燕(こうえん)を名乗ったからなのだ。項氏が(反秦勢力の筆頭に)勃興したのは、(范増のすすめを項梁が採用して)楚の懐王の孫にあたる心(しん)を(楚の懐王、のちに義帝として)擁立したからである。しかしながら諸侯が(項羽に)反逆したのは、(項梁が擁立した)義帝を弑逆したからなのである。
(そもそも)義帝を擁立したのは、范増がその計画の中心にあった。義帝の存亡は、ただ(項羽の)楚の盛衰を決定しただけではなく、また范増の禍福の行く末と同じ意味をもっていたのである。義帝が殺されたというのに、(義帝を擁立した)范増が、長いこと無事でいられる道理など、絶対にないのである。

(四)

羽之殺卿子冠軍也、是弒義帝之兆也。其弒義帝、則疑畴桂槎蕁豈必待陳平哉。物必先腐也、而後蟲生之。人必先疑也、而後讒入之。陳平雖智、安能間無疑之主哉。

羽の卿子冠軍を殺すや、是れ義帝を殺す兆(きざ)しなり。其の義帝を殺す、則ち瓩遼棔覆發函砲魑燭μ蕁豈(あ)に必しも陳平を待たんや哉。物は必ず先ず腐る也、而後に之に蟲を生ずる。人は必ず先まず疑い也、而後讒入之。陳平、智と雖(いえど)も、安んぞ能く無疑之主を間(さか)んかな。

項羽が(懐王が総大将に任命した宋義こと)卿子冠軍を殺したのは、これは義帝を弑逆する前兆であった。項羽が義帝を殺すのは、范増の本分が(義帝と項羽の)どちらに向いているかを疑ったからでもあった。どうして必ずしも陳平(の離間工作の実行を)待つ必要があったであろうか。物は必ず、まず腐ってから、しかるのちに蟲がわくのである。(同じように)人はかならずまず(その人物を)疑い、しかるのちに(その人物への他者の)讒言(ざんげん)を信じるのである。陳平が知恵者であるといっても、どうして(讒言を言わせて)信頼関係のかたい君臣(の間)をさくことができるであろうか(それ以前から、項羽が范増に多かれ少なかれ、疑惑を抱いていたのである)

(五)

吾嘗論義帝、天下之賢主也。獨遣沛公入關、而不遣項羽。識卿子冠軍於稠人之中、而擢為上將、不賢而能如是乎。羽既矯殺卿子冠軍、義帝必不能堪、非羽弒帝、則帝殺羽、不待智者而後知也。

吾(わ)れ嘗つて義帝を論じるに、天下の賢主(けんしゅ)なり。獨り沛公を遣り關に入らしめ、而して項羽を遣らず。卿子冠軍を稠人(ちゅうじん)の中に識り、擢(あ)げて上將と為す、賢ならざれば而能く如是乎。羽の既に矯(きょう)して卿子冠軍を殺すは、義帝は必ず堪うる能わず、羽の帝を弑(ころ)すに非(あら)ざれば、則ち帝は羽を殺す、智者を待たずして後に知らんや。

私はかつて義帝について評論してみるに、天下(に恥じないだけ)の賢明な君主といえると(考えた)。(なぜなら)ただ(穏健な)沛公のみに(秦の首都の咸陽のある)函谷関を越えさせ、(危険な)項羽を(その方面に)派遣しなかった(項羽を差し置いて、劉邦に功績を立てさせ、野心家の項羽を牽制しようとしたのである。)。卿子冠軍(こと宋義)を多くの人の中から(能力ありと)抜粋し、抗秦諸軍の総大将に任命した。これは賢明でなければどうしてなしえたことだろうか。項羽が矯激(きょうげき)に走って卿子冠軍を殺害し(軍権を奪っ)たのは、(宋義を総大将に任命した)義帝はかならず(内心)これに耐え難い思いをしたはずである。(もし後になって)項羽が義帝を殺さなければ、すなわち義帝が項羽を殺していたことくらいは、知恵者ではなくてもあたりまえにわかることである。

(六)

畛碗姐猯体義帝、諸侯以此服從。中道而弒之、非畴薫嫐蕁I恁園徃鸞彊奸將必力爭而不聽也。不用其言、而殺其所立、羽之疑疉自此始矣。

瓩六呂痃阿瓩胴猯造傍祖襪鯲たしめる、諸侯は此を以て服從す。道に中(あた)りて之を弑(ころ)す、瓩琉佞鉾鵑兇襪覆蝓I廚跛院覆◆砲摩廚蠡兇琉佞鉾鵑兇譴弌將に必ず力爭(りきそう)して聽(き)かず也。其の言(げん)を用いず、而して其の所立てるところを殺す、羽の瓩魑燭Δ鷲ず此(ここ)自(よ)り始まるかな矣。

范増は始めは項梁に勧めて義帝(当時懐王)を擁立させたが、諸侯はこの行いを見て(項梁個人に野心はなく、秦に滅ぼされた楚や列国の再興を目指すのであるという大義を信じ、また抗秦の名将項燕と、楚国最後の王の懐王を思い出し、心をまず懐王として立てた項梁を盟主として)服従した。その(楚国再興の)途中で義帝を弑逆したのは、(この計画を発案した)范増の意思ではなかった(はずである)。(この重大事が)范増の考えでないとすれば、(范増は事前に)かならず項羽に強く諫めたうえで聞き入れられていないのである。(すなわち)范増の意見を用いず、范増が擁立した義帝を殺したのである。項羽の范増を疑いはじめるのは、かならずこの(卿子冠軍と義帝を殺した)ことから始まっているのである。

(七)

方羽殺卿子冠軍、瘍弍比肩而事義帝、君臣之分未定也。為畄彈圈⇔惑暑榔則誅之、不能則去之、豈不毅然大丈夫也哉。畴七十、合則留、不合即去、不以此時明去就之分、而欲依羽以成功名、陋矣雖然、瓠高帝之所畏也。疉垉遏項羽不亡。亦人傑也哉

方(まさ)に羽の卿子冠軍を殺すや、瓩榔と比肩(ひけん)し義帝に事し、君臣(くんしん)の分は未(いま)だ定(さだ)まらざるなり。瓩侶彈圓飽戞覆え)て、力めて能く羽を誅(ちゅう)すれば則ち之を誅し、能(あた)わざれば則ち之を去る、豈(あ)に毅然たらざる大丈夫にあらざりしかな。瓩稜七十、合すれば則ち留(とど)まる、合せざれば即ち去る、此の時を以て明(めい)に去らずして之の分に就き、而して羽に依りて以って功名を成すを欲す、陋(おろか)かな。雖然(しかれども)、瓩痢高帝(こうてい)之を畏(おそれ)るところなり。甬遒蕕兇譴弌項羽はほろびず。亦(ま)た人傑(じんけつ)なるかな。

まさに項羽が卿子冠軍を殺したときは、范増は項羽と(同僚として)肩を並べて義帝に仕えていたのであり、(項羽と范増の間に)君主と臣下の関係はまだ定まっていなかったのである。范増は(義帝に対する忠誠の上からいえば、総大将を殺害した)項羽を誅殺しうるのであれば項羽を誅殺し、それが出来ないのであれば(楚軍を)去る、それであってこそ毅然たる士大夫だったといえるのである。范増は歳も七十を越えたのであれば、(楚の王室を再興しようという志に)合致していればそこにとどまり、合致していなければ去る(べきところを)、この時にいさぎよく去らず、項羽によって自身の功名を成し遂げることを欲したというのは、おろかなことではないだろうか(名を惜しむべきであった。)しかしそうであるとはいっても、范増は漢の高祖が畏れはばかった人物であり、范増が項羽の下を立ち去らなければ、項羽も滅びることはないだろう(と高祖は考えたほどである)。また(范増も)傑物であるとはいえるのである。


 
(後記)

項羽の軍師として名高い范増であるが、歴史に登場したのは、項羽の叔父の項梁に楚の懐王の孫である(熊)心を楚王として擁立するべき、と説いたところに始まる。
項梁は楚における抗秦の最後の名将、項燕の末子であるといわれる。秦に最後まで抵抗したのが南方の大国、楚であった。楚の総大将の項燕は、李信に大勝するも、王翦率いる秦軍六十万の前に大敗する。なおも項燕は楚の王族の昌平君を立て、抵抗をつづけたが、王翦、蒙武に追撃され敗死している。項燕の生死の定かではないという民間伝承を陳涉が利用し、はじめ陳涉は項梁を偽称して民心を得たのである。
項燕の末子の項梁は、項燕と同じく楚の王族を立てて秦軍に向かうべき、というのが范増の計画であった。項燕を詐称した陳涉は、のちに王を自称したとしても所詮は私兵集団の域を出ず、国家としての体を為していない、ということでもあった。楚王を立てることで、人々に項燕の再来を想起させ、また項梁の個人的野心ではなく、亡国の再興という”大義”を旗印にしたのである。その言をいれて、項梁は心を楚の懐王として建てた。懐王は秦に幽閉の後に死去しているが、陳涉が項燕を名乗った如く、反秦勢力の旗頭として、秦を恨んで死んだ、懐王の再来を名乗らせたのである。
項梁存命時の范増の立ち位置は微妙である。項梁は最高実力者であるといっても、大義名分上としては義帝に従属する存在である。その義帝を立てよと勧めたのが范増であるとすれば、義帝から見れば范増は羊を放牧して世を送っていた自分を引き上げてくれた恩人でもある。項梁にそうするように勧めた范増は、立場上は項梁に次ぐ存在であったと言えるだろう。
当時はまだ懐王であった義帝にしてみれば、代々楚の将軍の家柄であった項氏の軍は、その実際の戦闘力の高さから見ても別格の、親衛隊のような存在であったであろう。宋義にとっても、最強の予備軍を手元に置いておくのは、別段不思議な事ではない。
寄せ集めのような劉邦の軍を咸陽に向かわせたのは、劉邦に手柄を立てさせるというよりも、仮に途中で劉邦軍が壊滅したとしても、項羽の一軍があれば十分に秦軍と渡り合えると踏んだからではないだろうか。それは後に項羽によって証明されている。
項羽は兵が雨に濡れ、飢えていたことを見かねて宋義を斬ったという。これは軍を停滞させていたから兵が飢えたのではなく、兵が飢えたから停滞した、という事も考えられる。
この時代の軍の行動は補給は現地調達に頼りきりで、停滞していると周辺に食料が無くなるので軍を移動した、というように書く人もいる。むろん、現地調達もある規模で実施したかもしれないが、根拠地からの組織的な補給無しには、さほど人口が稠密ではない当時の大陸で、大軍を移動させるのは不可能である。多くは水運に拠ったであろう。この時代の大規模な会戦は、河川の付近で行われている。事実、項羽ですら、鉅鹿の戦いではまず秦軍の補給線を断つ行動に出ているのである。
宋義は軍を停滞させているうちに食料、補給物資を集積して力を蓄え、諸軍の包囲と劉邦の後方遮断によって、飢えた秦軍を討とうとしたのだろう。手元には項羽率いる精鋭も控えている。たしかに負け難い作戦であり、項梁の敗死を予見した宋義は、やはり凡庸ではないのである。

しかしここで項羽、である。項羽にしてみれば、項梁の敗死を予言した、卿子冠軍こと宋義を総大将にすることには、愉快であったはずがない。親代わりに育ててくれた叔父の項梁、のみならず項氏の武勇を否定されたようなものである。武門の誇りにこだわりぬいた項羽にしてみれば、これには非常な屈辱を感じていたことだろう。このことが、当時はまだ懐王であった義帝への疑念の元となっていることも、想像に難くない。
そしてその宋義の立てた作戦によって、みすみす手柄を奪われることは、項羽の性格からいっても到底我慢できることではなかったに違いない。宋義を斬り、手勢を率いて鉅鹿に向かわせたのは、かならずしも劉邦への対抗意識ばかりではなかったであろう。この時点で戦に弱い劉邦などは、項羽の意識の端にも上らぬ存在なのである。
宋義を斬る、という事について、項羽は范増に相談したであろうか?もし相談していたのであれば、蘇軾の述べる通り、范増はきっと強く項羽をとめたであろう。この時点では、蘇軾の言う通り、范増は項羽に完全に従属する関係ではなかったのである。范増にしてみれば、懐王を盟主として楚国の再興を目指すのが当初の計画であり、秦軍と戦って勝利するのは、かならずしも項羽である必要はないのである。
しかしいわば親衛隊長である項羽が、総大将の宋義を斬り、手勢を率いて秦軍に猛進を始め、これを打ち破ってしまうのである。

蘇軾は「宋義が殺されるのは、義帝が殺される前兆であり、義帝が殺されるのであれば、范増も無事では済まない」趣旨を述べている。
范増は義帝が殺害された翌年、韓王成の殺害(前205年)を進言している。韓王成は張良が初め項梁に進言して擁立した、韓の王族である。その前年に義帝は英布によって殺害されているが、義帝の殺害については范増の進言とは明記されていない。項羽が義帝を疎んじた、とあるが、韓王成の殺害に范増がかかわっているのであれば、その前年の義帝の殺害の相談に、范増が預かっていないということはないだろう。義帝の殺害を英布にやらせたのも、范増が義帝殺害には、少なくとも前向きではなかった傍証ともとれる。義帝の死により、范増の当初の楚国再興のプランは完全に瓦解するのである。翌年、張良によって擁立されていた韓王成を殺害するように進言したのは、あるいは毒食らわば皿まで、というところなのだろうか。たしかに、項梁によって擁立された義帝が項羽の手で殺された以上、張良によってやはり項梁に擁立されていた韓王成が残り、それを劉邦が支援しているとなると、名分の上で項羽の陣営は不利である。とはいえ、韓王成の殺害は、張良を完全に劉邦陣営に走らせ、また諸侯の反感を高めただけであった。

後に范増は項羽の下を去る時「骸骨を賜りたい」と言い、彭城に向かったという。”骸骨を賜わる”、あるいは”骸骨を乞う”というのは、引退して故郷に帰り、先祖の墓に骨を埋めたい、という意味であり、廷臣が引退を願うときの言葉である。なぜ楚軍の根拠地である彭城に向かったか?であるが、敵方へ走る気配が見えれば、項羽はきっと范増を殺したであろう。しかしその途上で范増は落命している。

蘇軾は、范増自らが立案し、懐王を立てたプランに忠実であれば、項羽が卿子冠軍こと宋義を殺害し、楚の軍権を奪った時点で、反逆者として項羽の誅殺を図るべきであった、と述べている。そして誅殺が不可能であれば、この時去るべきであった、と言っている。それはいずれ項羽が懐王を害し、自立することが予測出来ていたはずであるからだ、という事である。
ここで蘇軾は、范増に懐王への絶対的な忠誠心は期待していない。あくまで自らが推した懐王に忠実であれ、という事であれば、宋義が項羽に殺されたのちも、項羽から懐王こと義帝を守り抜くべきである、という結論に至らなければならないからである。蘇軾はそうは言っていない。宋義が殺した項羽を誅殺出来ないのであれば、所詮は義帝を守ることもかなわないのであり、范増も義帝とともに項羽に殺されるのが見えている。そうまでして懐王に従うべき、とは論じておらず、あくまで懐王を立てて行く、という自らのプランが崩れた段階で、去るべきであったと言っているのである。

項梁にとっても懐王は所詮は大義名分をたてるための、いわば傀儡に過ぎないのであるが、その名分を守り抜く事が、この際は重要なのである。それは春秋戦国時代のあまたの名将名臣にしても、簒奪を計れば非常な汚名を歴史に残すことになる。懐王(心)を楚の王として、後に皇帝として、自らが擁立した存在を殺害するというのは、天下の信を失いかねない行為なのであり、現実に項羽はこれを行った事で滅びるのである。范増はそれを阻止するべきであったにも関わらず、かえって弑逆者の項羽に従い、自らの功名を為そうとした。これは当初の自らのプランの正当性を否定する行為であり、単に状況に応じて身の振り方を転々とする世間師と、節義において大きな違いはない。策士であっても、志や節操は大事であろう、というのが蘇軾の価値観なのであろう。それはそうである違いない。謀略のみに頼って信がなければ、やはり国家は成り立たないのである。この点、老齢まで人に仕えたことが無かったという范増と、韓の宰相の家に生まれた張良の、違いと言えるのかもしれない。
しかし、あらゆる史論がそうであるように、過去の人物や事跡を後世の価値観をもって批評、論断するのは安易な行為である。ゆえに蘇軾は范増を高祖を恐れさせた”人傑”と評価し、范増が項羽の下を去らなければ、項羽も滅びることがなかっただろう、というように結んでいる。しかしこの点にしても、果たしてそうであろうか。

戦国春秋時代に、秦が六国を次々に征服することが出来たのは、函谷関以西の関中平野の肥沃と要害を生かしたからであった。西から東に流れる大小河川を利用し、東方の前線へ容易に補給物資を送り届けることが出来た、この利点は計り知れない。北を渭水、南を漢水に挟まれ、西辺を秦と接していた韓の国の宰相の家系に生まれた張良などは、そのことを痛感していたであろう。張良の持久戦略は、咸陽を首都とし、関中平野を掌握した時点で急速に完成に向かうのである。
項羽は鴻門の会の後、秦の首都であった咸陽を略奪するや、故郷に近い彭城に帰還してしまっている。咸陽に遷都するべきと進言した者がいたが、聞きいれず、その者を煮殺してしまうありさまであった。この時范増は、咸陽に留まるべきと進言したのであろうか。
史記では、劉邦を蜀に追いやり、函谷関以西の秦の故地である関中を三分割し、楚に降伏した章邯、司馬欣、董翳、の三将に統治させた計画は、范増の案という事になっている。そうとすれば、范増には、この秦発祥の肥沃な盆地の地政学的な重要性をあまり認識していなかったということである。
鉅鹿の戦いで降伏した秦兵二十万は項羽によって皆殺しにされたといわれ、秦軍を率いていた章邯等三将は秦の人の恨みを買っていたという。章邯以下の関中統治がうまくゆくはずがなく、また投降したばかりの秦の旧将を信用し過ぎでもある。仮に関中が離反しても、大きな問題ではない、と考えていたのだろうか。この点、范増の戦略には疑問が残る。

(秦軍二十万は、項羽は英布を派遣して穴埋めにして皆殺しにしたというが、これは事実であろうか?投降した秦軍二十万は楚軍より圧倒的に数が多かったというが、近代兵器もない時代、圧倒的少数側が多数側、それも屈強な兵士達を、短期間に虐殺する方法があれば知りたいものである。秦兵達は従順に殺されていったのであろうか?項羽は攻略した城の軍民をしばしば皆殺しにしたというが、これも漢軍の諜報作戦の一部だったというのが実情ではないだろうか。)

ともあれ戦略という面では、関中を手に入れ、そこを根拠地に持久戦を採った、張良を筆頭とする劉邦のブレーンの方がはるかに上手であった。春秋戦国時代においても、秦以外の国々にも多くの謀臣名将が現れたが、結局は地の利を占めた秦の前に屈服せざるをえなかった。漢楚の勝敗の趨勢は、かつて秦が富国強兵につとめ、東方の列強を次々に滅ぼしてゆく、その再現であったともいえるのである。
范増が進言し手を下した韓王成の殺害も、項羽への諸侯の反感を助長しただけである。七十歳になるまで人に任えず、奇策を好んで世を送っていた范増は、張良や陳平に比べると、人事にやや疎いところがあったのではないだろうか。項羽の下に范増が留まり続けたところで、勝敗の帰趨を変えることが出来たとは、やはり考え難いと思われるのである。
落款印01

窮屈さを増す大陸旅

昨年の10月末の事。深圳から香港に移動する際の羅湖の入管で、中国に渡航を始めて以来、実に初めて指紋をとられたのである。これは原則、入国する外国人全員に原則義務付けられるようになったようである。
その昔の1980年代、日本でも一部の外国人への、指紋押捺の義務に対する反対運動が巻き起こったことがあった。その運動の是非はともかく、たしかに指紋をとられるというのは、正直あまりいい気分ではない。
むろん、いまでは民間企業が提供するシステムにも、”指紋認証”が普及しているのであって、そのデータもどこでどう管理しているかはわからない。要は悪いことをしなければいい、悪いことをするつもりがないならいいではないか?というのも確かにその通りなのである。しかしそうはいっても、ある組織や権力機構に、自分の身体のプロファイルが採られてゆくという事に、心の奥底の不快感はぬぐえない。

そもそも”悪いこと”が、ルールに違反しない、という明確な定義づけがあるなら良いし、処罰についても客観的な証拠に基づいて審理するという過程を経るなら、まあ良いのである。しかし時に政権の”恣意”に拠ることがあるのなら、話は全く別である。
品物などから簡単に指紋をスキャンすることが出来るセンサーを使い、あらゆる場所から指紋を採取できるようになれば、その情報を使って行動をトレースすることも容易になるのである。防犯カメラの顔認識の技術とあわせて、現代では、いつどこで誰がだれと会っているのか?という事も、比較的簡単に割り出せるようになった、ということでもある。それは犯罪捜査や、犯罪を未然に防ぐことに使われるのは結構なことではあるが、それ以外の事には使用しないでほしいと、切に願うものである。

それとは別に、11月に上海に渡航した際。上海の浦東の入管での出来事。入国カードの記載内容についてとがめられたのである。大陸では入国、出国の際に黄色いカードの記載事項を記入するが、これとていままではいい加減なものであった。生年月日とパスポート番号、サインがあればそれでOK、のようなものである。パスポート番号を間違えていても通った、という話も聞く。
”入国カード”には、入国時と出国時では記入内容に違いがある。入国時にはやや事項が詳細にわたり、宿泊先などを書く欄がある。この箇所などは書くのが面倒なので、いつも斜め線を引くだけで”未定”のような体裁で出していた。これでなんの問題も無かったものである。
それが今回、入管の女性の審査官に「宿泊先はどこですか?」と聞かれたのである。実のところ、この時点で宿泊先は確定していなかった。そういう事はままあるもので、とりあえず上海について、その日の宿は適当に朋友に予約を入れてもらう、という事もあるのだ。「今は決まっていません。」と中国語でいうと、女性の審査員は冷たく「宿泊先を書かないといけません。」という。それが書けない場合は一体どうするのだ?という感じであるが「これから友達に会う。友達が手配してくれているが、今は知らない。」というと「友達に電話で聞けませんか?」という。あいにく、携帯電話が充電されていない。そもそも大陸を訪れる外国人の大半は、中国で通じる携帯電話など持っていないだろう。それも出来ないというと「友達の住所は?」と聞くので、思い出す限りで適当に書いてやったらやっと通ったのである。面倒になったものである。
今でもそうだが、入国ゲートに「〇〇先生」とか「Mr.〇〇」と書いたカードを持った迎えの人がいて、それからホテルに案内する場合もあるであろうし、そのホテル名を事前に知らない、などという他人任せな話もあるだろう。宿泊先が突然変更になることだってあるし、今回は上海のほかに揚州で一泊している。昔、旅行にもビザが必要だった時は、日程と宿泊先ホテルを詳細に申告しなければならない時代もあったものであるが、その時代に逆行してゆくのだろうか。
上海の浦東では、簡易なビジネスホテルに宿をとってもらったのであるが、ここでも何やら顔を認証すると思しき機械を使い、パスポートの顔写真と照会していたようである。おそらくこのシステムはオンラインでデータが集められ、いつどこのホテルに、何者が泊ったか、即座に情報が届く仕組みになっているのであろう。むろん、今までも、宿泊の際はパスポートを見せ、番号を控えるなどしている。それは公安に報告されるのであるが、紙ベースでの作業であり、おそらく後でまとめて報告していたのであろう。それが現在はチェックイン時に即座に、である。どうも情報がどこかに送られ、当局のOKが出て初めて宿泊が許される、ような雰囲気である。
しかしそう考えると、大陸で最近増えている民泊などは、依然として適当なものである。宿帳に姓名とパスポート番号を書いてオシマイ、という形態が一般的である。これなども、今後は厳しくなってゆくのかもしれない。

地下鉄に乗る際の荷物検査も、近頃ではちゃんと検査機に荷物を通さないと通してくれない。少し前などは、みんな無視して通っていたものである。それがきちんと荷物を通さないと通過できなくなっただけではなく、実際に中身を改められるようなことが数度あった。
たくさんの筆を持って乗ろうとしたときなどは、爆竹の束を持ち歩いているかと疑われたし、数個の硯を持ち歩いたときなどもバッグをあけられて「これは何ですか?」と聞かれたものである。何ですか?って硯ですよ、と言っても通じない人もいるのである。墨、についても同様な事があったが、これらはX線の検査機には固体の爆薬にでも見えるのだろうか。真鍮製の筆帽をたくさん持ち歩いたときは、弾丸かなにかと勘違いしたらしい。
空港のセキュリティであれば致し方ないとも割り切れる。高速鉄道の駅でも、致し方ないとは思う。しかし日常乗る地下鉄でこれをやられると、これはたいそう難儀な思いがする。昔に比べて交通の便が良くなったはずなのに、なぜだか移動のストレスが高くなっているようなのは、気のせいばかりなのだろうか。自動改札の存在を打ち消して余りある。それは煩わしさ、である。
上海の朋友に言わせれば「比較的安全な上海で警戒を厳しくする理由はなんだと思いますか?犯罪ではないですよね?テロを警戒してのことだと思います。」という。
もちろん、実際に地下鉄で有毒ガスを使ったテロを経験した国の人間からすれば、起こりえない事ではないというのもわかる。場合によっては、航空機のテロ以上の犠牲者が出かねないわけである。

大陸政府では、個人の行動履歴を蓄積するシステムを構築し、特定個人に法令違反などがあれば銀行口座を開設できない、また航空券や列車のチケットを買えなくなるなどの、行動の制限を設けようとしている。これを”档案”制度というが、この制度は今に始まったことではない。古くは王朝時代に起源がある。しかし王朝時代の”档案”は一定身分の者が対象として限られていたが、中華人民共和国成立後ほどなくして実施されたのは、すべての人民が登録される国民管理制度である。
しかし書類で管理されてきた牧歌的な”档案”の情報を、データ化してオンラインで照会できるとなると、全く違った威力をもつシステムになる。飛行機や列車での移動にも身分証が必要なのが大陸の旅であるが、IDと档案を紐づければ、問題のある人物への乗車券、搭乗券の発券を止めること事が出来る。それは移動の自由だけではなく、さまざまな行政サービス、銀行、あるいは就業などの、あらゆる生活面に影響を及ぼすことが、原則として可能になるのである。

こうした管理の強化は、人民の総意を経たものではむろんないし、人々が反対か賛成かにかかわらず、政府の意思によってどんどんと進行してしまうのが、かの国の体制が民主国家ではない所以でもある。
このような国民総管理システムの構築は、犯罪捜査や、犯罪抑止、またはテロの抑止にも、たしかにある一定の効力はあるだろう。シンガポールが公共のマナー違反にこと細かく罰金を科していった結果、街が美しくなっていったごとくである。そういえば現主席は、シンガポールの統治を大いに称揚していたものである。

しかし当然、専制独裁国家におけるその種の制度は、国民の健康安全のためではなく、体制維持が主目的である。個人的な予測であるが、今後、この”档案システム”は、さらに広範に、精緻に構築が進むと考えている。人民は今までより一層、体制に従順であることを強いられるだろう。”档案システム”の強化は、逆の面から考えると、それだけ人民の体制への不満の高まりを、政府自身が予測している事実の表れであるともいえる。人民の不満の原因は、いつの時代も変わらず、経済、経済政策、である。
実際の所、昨年の大陸の経済情勢は思わしくないし、数々の施策によっても、劇的な改善はほとんど見込めそうにもない。どこを見渡しても過剰設備が山積しており、投資効果が著しく低下している。金融や財政出動の手段を講じても、もはや有効なカネの使い道が乏しいのである。各地の不動産価格は下落傾向を強めているが、大陸政府はきたるべき不動産バブルの本格的な崩壊に、身構えているようにさえ見える............

日本でも”マイナンバー制度”が施行されたが、どうもうまく普及が進んでいないようである。運用面でも疎漏が多いというが、本質的には、番号で個人が特定され、あらゆる情報と紐づけられることへの、本能的な忌避の感覚があるように思える。そうはいっても、現在はクレジットカード番号、電話番号、パスポート番号、運転免許証、そのほか生活上必要な様々な番号やデータで、個人情報の特定や関連付けは、可能といえば可能な時代である。それでもそれが(縦割り行政等等のおかげで)分散管理されて(いるとはおもうのだが)、しかも個人の意思で改変や離脱が出来るのと、それが出来ないというのは大きな違いがある。
番号で国家に一元管理される事への嫌悪感というのは、民主主義の社会の住人の感覚としては、至極真っ当とはいえまいか。
ある日突然、銀行口座も電話もカードもすべて解約放棄し、住民票を離脱し、見知らぬ土地に越してしまえば、追跡は実際上は少し困難である。自由主義を標榜するのであれば、行方知れずになる自由も、どこかに少しあってもいいのではないか?くらいに思うのである。制度とはすべて、便利な反面、弊害もあることは、忘れてはならないだろう。
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豚<猪<彘

新年、あけましておめでとうございます。今年も何とぞよろしくお願い申し上げます。
型通りの挨拶で恐縮でございます。干支は”猪”、ですが、感覚的には干支の更新は旧正月以降(2月5日)にしたいものです。ちなみに”猪”は日本では文字通り”イノシシ”ですが、中国語ではいわゆる”ブタ”です。現代中国語だけではなく、昔からそうであって、蘇軾の有名な”猪肉頌”も、ブタ肉を使った料理のことです。いわゆる”イノシシ”のことは野猪、といいます。”野生のブタ”くらいの意味ですね。
では”豚”は何を指すかというと、小さなブタ、ブタの子供、子ブタのことです。フグを”河豚”と書きますが、”河の子ブタ”、という意味になります。小さいので”河猪”ではないわけですね。説文解字に「豚,小豕也」とあり、親ブタを”豕”とする場合もあるようです。”亥年”の”亥”はこの”豕”と字源を同じくすると言われます。

また古くは「彘(テイ)」という字もあり、これは「大きなブタ」を指すのが原義です。鴻門の会で樊噲が食らったのが「彘肩(テイケン)」、ですから大きなブタの肩肉、という事になります。並みのブタの肩肉では壮士にふさわしくないわけですね。また高祖の死後、戚夫人が処されたのは「人彘」、であります............大きさの順に豚<猪<彘、ということになり、成長段階によって別称があり、それぞれに文字が用意されているところから、古代から人間にとって身近かつ重要な動物であった事がうかがえます。

ともかく、伝統的には今年は”ブタ年”であって、”イノシシ年”ではないということですが、干支の人を”ブタ”呼ばわりするのは、さすがにいかがなものか、というところです。

本年も重ね重ね、よろしくお願い申し上げます。

店主 拝
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深圳の食卓にて

...........S小姐の旦那さんは、今なにかと話題の華為(ファー・ウェイ)にお勤めである。かなりのハードワークのようで、夕食時に帰ってこられないときも多い。深圳に滞在中はS小姐の家で夕ご飯をご馳走になる毎日なのであるが、ひとりで貿易会社を営んでいるS小姐は週に5日ほど、家政婦さんに来てもらっている。
家政婦さんはフルタイムではなく、一日4時間程度、お掃除と夕食をお願いしているという。家政婦さんを雇う費用がどれくらいかというと、仮にフルタイム8時間で週5日の場合、深圳だと5千元くらいだそうである。S小姐は月に三千元ほどを、家政婦さんに支払っている。曰く、「掃除はあまり上手ではないが、料理は上手。」とのこと。ちなみにS小姐は潔癖症ではないにしても、かなりの綺麗好き、掃除好きであり、いつも部屋はピカピカにしている。家政婦さんの掃除では飽き足らず、自分でもまめに片づけをしているような人である。
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家政婦さんは広東の人であるから、料理も広東風の家庭料理である。S小姐の夫婦は湖北省の出身であるが、湖北省も湖南省と同じく、家庭料理でも唐辛子辣い味付けを好む。以前は小生がとてもついてゆけないほど辣い料理も出てきたものであるが、現在は夫婦ともに広東の味に慣れ、たまに実家の料理を食べると辣さについてゆけないという。広東料理は全国の料理の中でも、比較的アッサリとした味付けで、油脂もあまり使わない。
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この日の献立は一品だけ、S小姐作の”バイ貝の十三香辣煮”が出た。広東、とくに深圳ではこのバイ貝が良く食べられる。青唐辛子が入って、少し辣い味付けである。
家政婦さんは年のころ40歳くらいであろうか。S小姐の家族からは「〇〇姐さん」と呼ばれている。食事を用意したら帰ってゆくのが普通なのであるが、そこは地方出身者の家庭の気さくなところであろうか、夕食時は家政婦さんも一緒に食卓を囲み、食事が終わると家政婦さんは帰ってゆく。フルタイムではないので、食材の買い物はS小姐が行うのであるが、材料をみて臨機応変にお菜(さい)を整えるのが手腕というものであろう。ちなみに中国の家庭の多数例にもれず、S小姐の旦那さんも簡単な料理はするし、S小姐のお父さんが滞在中は、夕食はもっぱらこのお父さんが作る。しかしなんといっても旦那さんは多忙であるし、S小姐も子供の世話と仕事でいっぱいである。そこでS小姐の両親が滞在して子供の世話や家事を手伝うことがあるのだが、S小姐は四姉妹で、姐のところにも去年女の子が生まれたため、両親としてはそちらの方を手伝いに行くときもある。現在の大陸には多い、一人っ子同士の夫婦の場合にはないことであるが、ご両親も娘たち家族の面倒を順番に見ないといけないのである。ゆえにS小姐の家庭で手が足りないときには、家政婦さんに来てもらっているのである。ちなみに、こうして家庭に入って家事や育児をサポートするのは、やはりほとんどの場合は妻方の実家である。

日本でも女性が働くのが普通となった時代であるが、日本の若い夫婦で家政婦を雇う余力のある家庭がどの程度あるか?という事は考えてみてもいいかもしれない。むろん、小なりとはいえビジネスをやっているS小姐に、旦那さんは今を時めく華為の正社員、という、収入的には比較的恵まれた家庭ではある。

家政婦さんへの報酬が、フルタイムで五千元(邦貨で八万五千円)というと、深圳では工場の工員の給与水準であり、決して高給とはいえない。もし地方から深圳に出て、部屋を借りて仕事をしているのであれば、今や余裕のある収入とはいえない。しかし、住むところのある近場の主婦であれば、それほど悪い仕事ではないという。

収入にしてもぶっちゃけた話をするのが大陸の人であるが、30歳を少し過ぎた旦那さんの年収は、月の給与で邦貨にして年に600万程度、またそれと同じくらいのボーナスがあるという。日本の30代前半のサラリーマンと比較しても、稀な高給取りであるとはいえるだろう。
しかしS小姐が少し浮かない顔をしているのは「会社に言われて、華為の株を5万株ほど買ったから、今は少し手元に現金がない。」という事であった。今年の旦那さんのボーナスはほぼ勤めている会社の株の購入に充てられた、というわけである。ちなみに5万株で40万元(邦貨で680万程度)だったそうだ。それは外資系の新興企業によくある”ストックオプション”というような、報酬代わりに自社株を譲渡するのではなく、あくまで社員による買取である。ちなみに華為は上場していない。上場して株価が上がれば大変結構なことであるが、上場の予定はあるのだろうか。

ハードワークで知られる華為であるが、S小姐の旦那さんの表情をうかがうと、特段の悲壮感のようなものは感ぜられない。帰宅して食事をして、1歳になる子供と遊んで実に楽しそうである。
「華為は今、日本で初任給40万円で新入社員を募集しているよね。」とS小姐に言ったら「華為は中国での採用でも、社員は最低2万元からよ。」と言われてしまった。ここのところ人件費も急激にあがって、上海の平均給与が9000元を超えることと比較しても、新人に支払うにしてはかなりの高給である。いや、日本の企業が若者に払う給与が、すでに安すぎるのかもしれない。

さて、私の滞在の最終日は、皆で火鍋を囲もう、という事になった。材料を買いに行きましょう、という事で、子供と一緒にS小姐の車でスーパーに出かけたのである。車は最近買った、BMWのSUVである。マンションの地下駐車場には外資系メーカーの、大型の車が並んでいる。好みもあろうが、特に子供の小さな家庭では、小型の車は事故に遭った際に危険、という考え方もある。しかし道が渋滞していて、いつもは5分で到着する会員制のスーパーに、30分かけてたどり着いた。
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こぎれいに商品が陳列されており、日本のスーパーのように販促のための試食をすすめるスタッフもいる。日本から輸入された調味料なども多く並んでいるが、値段は輸入品だけにやや高い。
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今夜は四川風の辣い鍋であり、肉を主体にしようという。そこで食肉のコーナーに行くと”火鍋用”という事でパッケージされて販売されているのは、多くは豪州や米国産の牛肉や羊肉である。おそらく向こうの工場でスライスされ、包装後に冷凍で輸入されたのであろう。日本のスーパーのように、食肉を加工する職人を置いていないのかもしれない。
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スライスされた牛肉、牛タン、野菜や豆腐類を適当に買い込み、お会計である。ところがこのスーパー、スタッフを置いたレジというものがない。買い物客は、機械にバーコードを読み取らせ、適当に袋につめて持ち帰る。会員制だけに、はじめからデポジットされたポイントから清算されるのである。スタッフレスにキャッシュレス、なのである。
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さて火鍋であるが、火に鍋をかけるから”火鍋”であって、日本のちゃんこ鍋や湯豆腐鍋や、てっちりも”火鍋”である。しかし大陸の火鍋は辛い場合が多く、個人的に”火鍋”から連想されるのは”口から火が出るように辣い鍋”である。事実、大陸では一般に四川や重慶を本場とする、辣い鍋が流行しているのである。今日は四川から直接取り寄せたという、”火鍋スープの素”を使うという。広東料理に慣れたからといっても、たまに辣い料理を食べたくなるのであろう。
とはいえ、火鍋は中央で分割されており、一方には豚のスペアリブとトウモロコシを煮込んだスープを使う。トウモロコシの芯の甘みが溶け込んで、こちらは当然辣くはない。

これに”火鍋油”という、缶に入った香味油をたっぷりつけて食べるのである。小鉢にたっぷりと油が注がれるのを見て、一瞬ひるんだが、この油に浸して食べることで、四川風のスープの辣さが緩和されるのである。この”火鍋油”に薬味としてネギと香菜を刻んだもの、おろしたニンニクと生姜をじっくり炒めたペーストを添える。
ありていに言えば、スライスされて冷凍輸入された牛肉などは、日本のスーパーの精肉コーナーでグラム100円前後で特売されている、外国産の牛肉や豚肉類に比べても、食味に勝るという事はまったくない。しかし四川風の激辛スープと、薬味を入れた”火鍋油”に浸して食べると、調味料の味でおいしく食べられるものである。しかし肉の触感はするのであるが、牛肉と羊肉の味の違いがあまりわからない.........羊肉に関しては、たとえば上海や北京などでは冷凍していない羊肉を使った火鍋を出す店がある。しかし食肉用の牛を飼育する歴史が浅く、サッと過熱して食べても美味しい牛肉の流通にはまだ時間がかかるのかもしれない。大陸の伝統的な牛肉料理と言えば、老牛の肉を長時間煮込み、薄く切って冷菜として供する料理が定番である。
ともあれ小生には四川風のスープはやはり辛すぎで、途中からはもっぱらトウモロコシを煮だした、白いスープの方で食べることにする。やはり湖北省出身の家庭であるから、たまにはとても辣い料理を食べたくなるものなのだろう。

不足を言い出したらキリがない、というのが生活というものかもしれない。S小姐の家庭はすでに平均以上の所得を持ち、いわゆる良い場所にお部屋もローンで購入している。しかしそれでも”生活が楽”、という実感に乏しいという気配が感ぜらるところがある。その根本的な要因はおそらく部屋のローンの支払いなのであろうけれど、深圳の物価高もあるだろう。一緒に買い物をしていても、野菜を除いた肉や魚は、日本と大差がないか、質的に比較すると高いくらいである。質を問わなければ安いモノは確かにあるが、質を求めれば日本の方がおそらくほとんどの分野で安価かもしれない。

「深圳の景気は?」と聞いたら、「良くない。」という返事。大陸の朋友等がはっきり「不景気」と言うようになったのは、今年入ってからである。たしかに、深圳に限らないが、かつての沸き立つような好景気はもう昔の話であり、経済は方向感を失っているようにも見える。GDPなどの指標と、巷間の景況感の乖離が開く一方、という実感がある。GDPが6%の成長率で何故不景気に感じるのか?というのは不思議としか言いようがないが、GDPというのも問題のある指標である。売れない住宅をたくさん建設しても、GDPの増加にカウントされてしまうのである。自由主義市場経済の国では、売れなくて在庫が増えれば生産が抑制されるものであるが、統制経済の国では生産を続けることが可能になるのである。

4年前に購入したS小姐夫婦のお部屋も、値段が倍以上に騰がっている。地下鉄の駅直上の、ショッピングセンターに直結する”好物件”である。しかし子供が生まれてしばらくたつと、「近くにあまり良い学校が無い。」ということを不満に思うようになって来たという。「深圳のGDPは中国で1番だけど、平均所得は16番目。貧乏な人も多いから、決して豊かな都市ではないのよ。海外の高級ブランドのお店も、中心市街に数店舗しかない。」ともいう。

大陸では公立の小中学校にも地域によってレベルの違いが厳然としてあるそうだ。そのうち”実験”の二字を冠した”実験小学校”、”実験中学校”が一番いいとされるのであるが、”実験”というのは新しい教育方法を実験的に実施するという意味である。そういうと生徒をモルモットにして学習法を研究しているかのような印象を受けるが、より先進的な教育法を試行するだけに、優秀な教員と生徒が集められる、という事でもあるそうな。半面、あまり良くないとされるのが、深圳に不動産を持たない外省人の子弟を集めた小中学校であるとされる。これは深圳に限らず上海や北京といった都市でも同様である。他所の省から来た住人の子供は、その都市に両親が住居を賃貸ではなく所有しない限りは、原則その都市の戸籍を持つことが出来ないのだ。そこに明確な差別があり、深圳籍や上海籍を持たない子弟が通える学校と、通えない学校があるのである。その都市の戸籍のない子供が通える学校は、市政府も予算をあまり割かないためもあり、また経済的に恵まれていない外省の家庭の子供が集められるということもあり、あまりよろしくない、というようにみなされているのである。
ゆえに外省から来た住人にとっては、その都市で不動産を持つという事は一大事なのである。日本のように賃貸で充分、というわけにはいかない。そうした切実な需要が、大陸の不動産バブルを下支えしてきた、という現実がある。その都市の政府にしてみれば、不動産開発によって財政を賄ってきたという経緯もある。その都市や地域の不動産を買う、というのは、いわば住民税を支払っているようなものなのであろう。不動産を持たない住民の子に上質の公共サービスは提供出来ませんよ、というところだろうか。

ともあれ、無謀な開発事業を重ねた結果、大陸の地方政府の財政の多くは事実上破綻している。唯一深圳だけは、債務がほとんどない。これからもインフラ整備や学校、病院といった公共事業を行う余力があるかもしれないから、S小姐の住んでいる地域の人口も増えるにしたがって、新しい学校も建設されるかもしれない。
以前は「深圳まで不景気になったら中国経済はオシマイ。」と言っていたS小姐であるが、その深圳の景気も思わしくはない。しかし外省人で成り立ち、民間経済が発達し、財政に余力のある深圳の先行きは、他の地域に比べればまだ明るさが期待できるところである。
大陸の今後の経済状況については考えさせられるとこが多いが、それとは別に、朋友達の小さな家庭の幸福が続く事を祈るばかりである。
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蘇軾 「題過所畫枯木竹石三首」

「題過所畫枯木竹石三首」..........この三連作の詩が書かれたのは、北宋は哲宗の時代、元符三年(1100年)といわれる。流刑先の海南島滞在時である。
この年の2月に哲宗は崩御し、徽宗が即位する。蘇軾は恩赦をうけて都へ上る途中、徐州で病み、翌年にこの世を去る。すなわちこの詩は蘇軾晩年の作である。
「題過所畫」とあり、”過”は蘇軾の流刑地の海南島に同行した、蘇軾の末の息子の蘇過(1072-1123年)。すなわちこの詩は、蘇過の画いた枯木と竹石の図に、蘇軾が題詩をつけた格好をとっており、蘇過の画に対する蘇軾の講評を含んでいる。
蘇過は、英州(広西)、恵州(広東)、そして海南と、蘇軾の長い流罪に同伴しており、当時としては生きて帰れないといわれた蛮地において生活を共にしている。その余慶であろう、蘇軾の薫陶をもっとも受け、詩文書画に長けたと言われる人物である。

以下にその大意を示す。

(一)

老可能為竹寫真
小坡今與石傳神
山僧自覺菩提長
心境都將付臥輪

老可(ろうか)能く竹を寫(うつし)て真(しん)を為す。
小坡(しょう)は今、石(いし)與(と)傳神(でんしん)す。
山僧(さんそう)は自から覺(おぼ)ゆ菩提(ぼだい)長(なが)しと
心境(しんきょう)都(すべて)將(ひきい)て臥輪(がりん)に付せり

(大意)

文同は、竹画がうまく、真に迫っていた。
この東坡の息子(蘇過)は、石を画いて、よく自分の精神をあわらわしている。
山寺の僧侶は、”菩提”にあることの長さを自らさとるものである。
いまの心の境地をすべてみな、(この石のように、何事にも動かされないという)臥輪禅師にゆだねてしまうのだ。

詩文中にある「老可」とは蘇軾の良き友人であった文同こと文与可。当代の竹画の名手であり、蘇軾も文同に竹画を習ったといわれる。文同はこの詩が書かれた時から、さかのぼること20年も昔に亡くなっている。また詩中の「小坡」は、蘇過。今、蘇過が竹石を画くのを見て、亡友に想いを寄せたのである。
また”臥輪”とあるのは、禅僧の臥輪禅師のことで、その「六祖壇經」におけるその偈に『臥輪有伎倆、能斷百思想。對境心不起、菩提日日長。』とあることを踏まえる。
臥輪禅師の経歴はあまりわかっていないが、「六祖壇經」が中国禅宗の第六祖・慧能(638-713年)の説法集であり、その臥輪の偈にたいして「慧能沒伎倆、不斷百思想。對境心數起、菩提作麼長」とかえしているから、慧能と同時代以前の人物なのだろう。
すなわち「臥輪は修行に熟練しているから、さまざまな想念を断つことが出来、環境の変化たいしても心がかわることがない。だから菩提(さとりに入っている時間が)が日に日に長くなっているのだ。」という偈にたしいて慧能は「慧能は修行が未熟であるから、さまざまな想いを断つことが出来ない。環境がかわると心もさまざまに変わってしまう。だから菩提が長くなってゆくのだ。」と反論している。
蘇過の画いた”石”を、動かない、動かされないものの象徴として、臥輪の偈に通じる、としたのである。半面、慧能の域ではない、ということも暗に示している。蘇軾が禅に深く心を寄せていたことがうかがえる内容である。

(二)

散木支离得自全
交柯蚴蟉欲相缠
不须更说能鸣雁
要以空中得尽年

散木(しんぼく)は支離(しり)として自(おのず)ら全(まった)きを得ん
交柯(こうか)蚴蟉(ゆうりゅう)として相(あ)い纏(まとわ)んと欲す
鳴雁(めいがん)を能くすとは、更(さら)に説(い)うべからず
以て要す、空中(くうちゅう)盡年(しんねん)に得んと

(大意)

用だたないような雑木は、まばらに生えているからこそ、自然と天壽をまっとうするのである。
交錯した木々の枝は、蛇や龍がのたうつようにうねりながら、たがいにからみあっている。
蘇過がここに”鳴雁”をもよく画くことが出来るとは、いうものではないね。
空中を飛翔する雁の姿をうまく画こうとおもえば、一生かかるのだから。

散木は、花も実もつけず、またまがりくねって伐採しても材木にもならないような雑木のことである。また湿気を多く含むから、薪としても優秀とはいえない。実際、南方の山中にはこの種の樹木が多いのである。蘇過がここに画いた”枯木”は、このように枝が多く曲がりくねったまま枯れた雑木なのだろう。それが”交柯”、”蚴蟉(ゆうりゅう)”という表現に現れている。
”支離”はまばらなこと。役に立たない木でも、利用価値のある土地に密生していれば、開拓されるなどして伐採されてしまうかもしれない。どうでもいいような場所にまばらにはえているからこそ、見逃されて天寿を全うし得るのである、ということである。つまりは朝廷(の政争の場)のような、重要な場所からから離れているから、このような役立たずたちでも生きながらえるものなのだという、蘇軾父子の姿への自嘲を画に読み取っているのである。
また”鳴雁(めいがん)”は、鳴いて飛んで行く雁である。蘇過はこの絵に雁を画き込んだのであろうか?画き込んだ雁の絵を見て「あまりうまくないが、鳴雁をうまくえがくには、一生かかるからね。」という意味にもとれるが、「本来はここに鳴雁がほしいけれど、蘇過は鳴雁はまだうまくかけないから、あえて画かないのだね。」ともとれる。
いずれにせよ”鳴雁”ないし”雁”に象徴されるのは、北方への回帰である。古来、南方に流刑に遭った士大夫達は、南から北へ飛び帰り去ってゆく雁の姿に、北の朝廷への帰任や、望郷の念を仮託したのである。
すなわち蘇過が”鳴雁”をうまくかけない、うまく画くには一生かかる、というのは、蘇軾親子は一生この海南島から戻ることが出来ないのではないか、という絶望感を暗示している。

(三)

澀勒(そうろく)を倦看(けんかん)すれば蠻村(ばんそん)暗し
亂棘(らんし)孤藤(ことう)瘴根(しょうこん)を束ぬ
惟だ長身(ちょうしん)六君子(りくくんし)有り
依依(いい)として猶(な)ほ淇園(きえん)のごとくを得ん

(大意)

南方の竹を座ってながめていると、文明の及ばないこの小さな村も暮れてきた。
とげが乱雑にはえた藤づるが、気根を束ねて熱帯の樹木にまきついている。
ここにはただ、まっすぐに生えた六本の竹があるばかりだ。
風のまにまにゆれながら、はるか北方の淇園をおもわせるようじゃないか。

”澀勒(そうろく)”は竹の一種であるが、現代のどんな竹を指すかは未詳である。しかし”澀”は渋い、の意。”勒”はくつわ、おとがい、の意である。清の屈大均「廣東新語・草語」には、『有竻竹,一名澀勒。勒,刺也。 廣 人以刺為勒,故又曰勒竹,長芒密距,枝皆五出如雞足,可蔽村砦』とある。広東人が馬の”くつわ”をさすのに使う事からこの名があるという。むろん、蘇軾の北宋当時の同じ竹の名とはかぎらないが、どことなく枝多い、細身の竹を想起させる。ともかく孟宗竹などと違った、南方特有の竹なのであろう。それは続く”蛮村”と、未開の小さな村、の語からうかがえる。
瘴根は、現代の広東省の街路樹にみられる、ガジュマルのような熱帯の樹木から無数にぶら下がった気根のこと。それがトゲの生えた藤(フジ)のようなツル性の植物に巻き付かれた様子は、今の深圳や珠海といった、広東省の都会でもよく目にする光景である。しかし蘇軾の北宋当時としては、ほとんどジャングルの中に住んでいるような描写である。
次の”長身六君子”であるが、”六君子”は、ならび称される君子の一群を指し、例はさまざまであるが、古くは”禹、湯、文、武、成王、周公”を指す。直接的には眼前の竹のことを指しているが、この”六君子”が指すところの竹は、一句目の”澀勒”の事ではなく、蘇過が画中に画いた竹のことであろう。蛮村の”澀勒”であれば、ほんの数本、ということはない。”惟有”と強調していることからも、それはうかがえる。むろん、ここでは未開の村の蘇軾と蘇過等を暗示しており、未開人(やや差別的であるが)であるところの”澀勒”に対して、文明の地から来たのは自分たち”六君子”しかいない、という意味である。
蘇軾の弟、蘇轍はこのとき海南とは海を挟んで対岸の、広東の循州に流刑に遭っていた。蘇轍は長身で知られていたから、この”六君子”は同じく蛮地にある蘇轍をもふくむのであろう。さらには蘇軾の長子、蘇邁もこのとき広東の恵州に流されているから、蘇軾・蘇轍・蘇邁に蘇過(ほかにも同時期に左遷されていた黄庭堅などもふくむかもしれないが)で、ほぼ”六君子”として差し支えないわけである。
(ちなみに次男の蘇迨だけは、蘇軾・蘇轍等とは派閥的に距離をおいていたせいか、流刑はまぬがれ、このとき江蘇の宜興にいた。後に蘇軾が赦された際にはは、広東の恵州まで出向き、これを迎えている。)
それら”六君子”が「依依」として、つまりはつかずはなれず風に揺れている様に画かれている、ということであろう。その竹の姿がはるか北方、河南省は淇県に古来から続く竹林園である”淇園”をおもわせる、というのである。当時北宋の都は河南省開封である。”つかず離れず”は、蘇軾父子や蘇轍、その家族等の姿であり、いつか開封近くの淇園を揃ってそぞろ歩いたころを懐旧している、とも読める。
翌年、赦されて開封へ向かう途中、徐州で病み、そのままこの世を去ることになる蘇軾である。当時としては老境の60歳を越え、海南島の滞在中にすでに健康を害していたことが、この時期のほかの詩文中からもうかがえる。
すなわち第三首でも、望郷の念や都に戻りたいという想いが、第二首よりいっそう、切切と詠まれているのである。
............蛇足であるが、先日の香港クリスティーズのオークションで落札された蘇軾?の「枯木怪石図」が、真作とは到底考えられないという事は、前に述べた。その理由を詳述するのは別の機会に譲りたいが、「枯木怪石図」という画題から想起される蘇軾の詩として、「題過所畫枯木竹石三首」をここに挙げてみた次第。
この詩の内容では蘇過が枯木や竹石を画いているのであるが、その画は伝わらない。むろん、蘇軾も竹石や怪石、枯木を画くこともあったであろうし、それはただ一度とは限らない。複数の蘇軾の竹石や怪石の画があったのであろう。しかしその画のうち一点が残っていて、かの「枯木怪石図」がそれであるというのは、これはまったく別問題なのである。
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