新老坑4面、老坑水巌小硯2面

......硯の愛好家に言わせれば、畢竟、硯は端溪老坑水巌に尽きるのである。しかし、それはごく一部の愛好家の話であって、広く実用の面からみれば、必ずしもそうとは言い切れない。たとえば日本では端溪老坑硯が、その名声のわりにあまり普及しなかった、という事実もある。理由のひとつに、日本の墨との相性があまり良くなかった、ということもあるのではないだろうか。
日本で作られた墨といっても、大半の人は数十年経過した古墨を磨るわけではなく、出来てから十年足らずの新しい墨を使用されることだろう。和墨は膠の粘性が強く、あたらしい墨はとりわけ墨液が粘るものである。それだから、出来て30〜50年経過した”枯れた”墨がたっとばれるのである。しかし”枯れた”墨にしたところで、唐墨にくらべると膠が重い、つまりは粘るのである。この粘る墨をうまく磨ろうと思えば、あまり鋒鋩が細かすぎると実際のところ具合よくは行かない。粘った墨液が鋒鋩をおおってしまい、墨が滑るばかりで墨液が濃くなってゆかないのである。なので鋒鋩が粗い和硯や、歙州の羅紋硯などが適していることになる。あるいは澄泥硯と称される、蠖村石も良いかもしれない。鋒鋩の概して細かい老坑水巌などは、まったく適当ではないのである。日本に昔入ってきた老坑が、使い込まれた形跡がみられる硯があまりないのは、要は使い勝手が悪かったのだと思う。
また和墨に限らず、唐墨についても、80年代以降の墨のほとんどは膠が重い。唐墨は製法材料が良ければ、新しい墨であっても比較的膠が軽い(粘らない)ものであるが、80年代以降はすっかり膠が重くなっている。これは大陸で製墨用の膠が作られなくなったことに起因すると考えられる。年代が新しい、すなわち入手しやすい墨は膠が重い墨が多いので、これも老坑にはあまり合わないということになる。
たとえば70年代の上海墨廠の油烟101等の墨は、きちんと墨用に製せられた”広膠(広東膠)”を使っており、墨は硬く墨液は粘らない。しかし硬い墨というのは、鋒鋩が粗い硯ではうまく磨ることが出来ない。鋒鋩が粗く、しかも鋒鋩の密度が粗慢な硯で磨ると、硬い墨が硯面にひっかかるなどして、快適に磨れないものなのである。かつて「唐墨はなかなか濃くならない」と嘆く人もいたものであるが、これはやはり適当な硯に当たらなかったせいでもあるだろう。墨を磨る人すら稀になってしまった今現在であるが、墨をする道具としての硯の使い方が正しく伝わらなかったことも、原因なのかもしれない。
端溪硯
硯というと、墨液をためられるように彫られた”墨池”、硯を磨る広さを持った”墨堂”の二つの部分からなるというのが、一般の理解であると思われる。墨堂から墨池にはなだらかな傾斜があり、墨堂で濃くなった墨液が墨池に流れ込む、という構造である。ただし、古くは墨池が墨堂と分離している硯も多い。このような硯における墨池は、清水をためておいて、その水でもって筆先を湿らせたり、墨の濃度を調整するためにあったのである。さらにはまったく墨池の無い、いわゆる”硯板”もある。
この何も彫琢の施されていない硯板も、一種の”作硯様式”というべきである。天然の硯材を切り出して形を整える、それ自体が作硯行為なのであり、シンプルなだけに作硯家の硯材に対する深い理解が試される。
硯板は墨池を持たないので、硯面上で墨を磨るだけである。液体の性質によって平面上でも、ある程度はこぼれずに液体の量を保てるのである。この平坦な硯面も使い慣れると便利なもので、墨液の蒸発によって濃度に差が出るのであるが、そこに水を加えたりまた磨り足したりなどで、墨色の濃淡に変化を出すことが出来る。
端溪硯
話は変わる。いったい、品物を商う者にとって、”クレーム”は無いに越したことは無い。とはいえ”うるさ方”のお客様というのも、実のところ大切なものなのであるが、販売した品物がお気に召さないというのは、やはり気に病むものなのである。ひとりの硯の愛好者としては老坑水巌を愛さないではないが、販売する身になれば老坑水巌には躊躇を覚え、もっぱら新老坑を扱う理由もその点にある。
これこれこういう墨を使ってください、という事はお客様には言えないもので、どのような墨を磨るかは硯の持ち主の自由であってしかりなのである。そういう意味では、和墨から唐墨、新墨から古墨までひとわたり磨ることの出来る、墨を選ばない新老坑は、まことに優れた硯材と認めないわけにはいかない。新老坑の鋒鋩は緻密堅牢なのであるが、細かすぎることがない。また粗すぎる事も無く、中庸を得ているともいえようか。かえって鋒鋩が細密な老坑水巌、とくに大西洞などは、古い時代の唐墨の佳品しか究極合わないのであれば、実用的にはどうか?と思いたくなる。老坑水巌といっても、東洞や小西洞は新老坑に近い性質があり、和墨も磨れるのであるが、なんせ数が少なく非常に高価である。膨大とはいかないまでも丹念に探せば見出しやすく、また一生使えることを考えれば、ほどほどの値段で入手可能な新老坑は、墨を磨ってみたいという人には、安心しておすすめ出来る硯材なのである。
端溪硯
というお話とは別に、今回は小さな硯ではあるが、新老坑ではない老坑水巌も二面、リリースしようと考えている。ご覧の通りのまことに小さな硯ではあるが、老坑に合うような佳墨は総じて三〜五銭(8〜16g)の重さの小さな墨なので、これで充分なのである。
八稜硯は硯面に細く虫食いのような痕跡があるが、こうした痕跡はあとから出来たものではなく、天然の鉱脈の証しでもある。墨を磨っても不思議と引っかかることは無い。もうひとつ、おおらかな雲竜の硯は、蕉葉白を火捺が覆った、いかにも水巌らしい硯色を見せている。
端溪硯
老坑水巌といっても、もちろん和墨や松煙墨を磨ることも可能なのであるが、磨っているうちに、どことなく違和感を覚えるかもしれない。特に松煙墨は、長く使うと硯の色をくすませてしまうので、注意が必要である。どうしても松煙墨を試されたい場合は、硯の裏面、硯背を硯板のように使われるとよいだろう。最近は”木工ボンド”のような材料を媒材とした固形墨もあるようで、これは筆も痛めるが、硯にも良くないものであるから注意が必要である。むろん、清朝や民国の古墨となるとあまりないのであるが、70年代の上海墨廠の墨などは好適であろう.......と、適合する墨についてある程度述べたくなるのは、やはり老坑水巌だからであり、新老坑ではその心配が少ない。しかし世上、硯の愛好家の多くが、結局は老坑水巌に行き着くという、その魅力を備えてもいる。
そもそも実用性だけでは測れないところに”趣味”の深さというものがあり、実用性のみが”モノサシ”なのだとすれば、墨を磨ることはおろか、書や画を毛筆でもってナニゴトかを成す行為自体、意味があるのか?という問いにいたるのかもしれない。”日常の些事を愛せ”とは芥川の言であるが、美術やら芸術やらという、ほんらい迂遠な業に携わる人々も、今や利便性を追い求める風があるように感ぜられる。これはいかがなものであろうか。

もう一面。この蓮を模した、いわゆる荷葉硯がである。少し悩ましいのが、硯背に銘が彫ってある、という点である。
端溪硯
硯の値決めというのは実際難しいのであるが、新老坑の場合、材質がある基準を満たしていると認められれば、後は大きさである。事実、新老坑を含む老坑系の硯材は、大きい硯ほど少ないモノなのである。材質が同程度で、大きさも同じくらいであれば、眼や蕉葉白といった、石品の有無や優劣で若干の差をつける。最後に、硯の作行き、であろうか。しかしモチーフについては好みが分かれるので、たとえば、ウリやハス、タケノコなどと比べて、龍だからといって高貴であろうという理由で値段はつけない。あくまで造作の優劣である。しかし扱ってきた硯はおおむね、造形についはほぼ同レベルの職人の作硯であるというところで落ち着いている。
そこに硯銘、である。硯に銘を彫るという習慣は、いつ頃始まったのであろうか。近代では呉昌碩の”沈氏硯林”が著名で、呉昌碩の銘があるという事でオークションなどで出品されれば、数千万円という高値がついている。ひとつには当時採られた硯拓と照合することで、古硯であるということが証明できる、ということも理由であろうか。実のところ、作行きや硯材の質を考えると、”沈氏硯林”にさまで良い硯は無いのであるが、呉昌碩銘ということで蒐集欲を掻き立てられるのかもしれない。”沈氏硯林”に限らず、ここ10年以内の話であるが、一時、銘のある硯がやたらともてはやされた時期があった。オークションでも、銘のある硯でないと、まったく相手にされないのである。
しかし、現代の作硯家の技術も、まったくもって伊達ではない。銘など後からいくらでも彫って、入れられるのである。そこで今では銘だけではなく、箱書きや来歴の傍証たる書籍の掲載など、状況証拠で硯の価格が評価される始末である。この点、現代の硯のバイヤーや蒐集家の見識のレベルも伺えようというものであるが、大半のプレイヤーは”より高く売れればいい”のであるから、硯の良否など究極問題にしないのである。まあ、それもひとつの価値観であろうけれど、彼らの硯への関心が持続するかどうかは、硯市場の騰落に依存する体のものである。
端溪硯
個人的な経験からで恐縮であるが、故宮博物館にある、官作の松花江緑石硯のいくつかは、御銘があるが例外としよう。しかし時代が古く、二つとないほど素晴らしい硯には銘など彫られていないものである。銘を彫るのが憚られる、そういう景色があるものなのである。
手元の文献をみるに、明代の文人の文集、たとえば大泌山人こと李維呂諒現犬砲盡銘を収録した章がある。そうした例は探せば他にもあるだろう。つまり文人が硯銘を撰するという行為自体は、あるにはあったのだろう。しかしその硯銘が彫り込まれた硯は、まず目にしないものである。文集に一致する硯銘が彫られた硯がもしあったとすれば、後世に文集を参照しながら彫った偽作を疑うのが常識の所作である。硯銘というが、銘文や賛文は必ずしも硯に彫り込まれたとは限らない。箱に書き込んだかもしれないし、紙片に書いたという事も考えられる。
個人的には、硯銘のある硯であるからといって、そこに評価をおかない。いくら上手な銘であっても、それは人為の産物であり、飽きが来ることがあるのである。まして下手な銘であればなおさらである。書体や文章の好みもある。天然の産物たる硯色や石品の方が、使い込むごとに味わい深く、尽きせぬ楽しみがある。
と、硯銘を貶めるような事を述べてしまったが、逆に考えると、硯銘があったからといって硯の価値が貶(おとし)められるべきではないだろう。この荷葉硯は、銘の有無は別としてもすぐれた新老坑硯である。材質が新老坑だけに、古硯ではない。しかしながら王朝時代の古硯の風格を持つものである。

新秋葉落風
清秋堂人静
秋月明墨磨
秋水寫秋聲

古香堂珍玩

とある。古香堂という堂号はわりと多く、どこの古香堂かは未詳である。「新秋(しんしゅう)葉落(ようらく)の風。清秋(せいしゅう)堂(どう)人静か。秋月(しゅうげつ)明らかに墨を磨る。秋水(しゅうす)秋聲(しゅうせい)を寫す。」
五言絶句の形式であり、古典的な平水韻では押韻していないが、中華新韻という、現代中国語の発音にのっとって韻を踏んでいる。そういう点からも、近代以降の硯という事がわかるのであるが、どことなく「紅樓夢」の秋窗風雨夕を思わせる。新老坑の多くは70年代に採石されたというが、文革のただなかであった。当時の指導者、毛沢東は古典文化の破壊を唱道したが、彼自身が「紅樓夢」の愛読者であったから、「紅樓夢」については旧社会を批判した文学であると言って称揚していた。あるいはそのあたりの事情が作用したのであろうか。この硯もいずれは時代を写した”古硯”の一つになるのかもしれない。材は温潤で、荷葉硯としては優れた作硯である。

墨汁が便利という人もいるが、きちんとした膠で作られた墨は、水をかけても流れない。そういうわけで、書はともかくとしても、画を描く人はぜひとも固形の墨を磨ってもらいたいのであるが、適当な硯が見つかりにくいのも現実である。いまや非常な勢いで大陸に端溪硯が還流しているから、そのうち日本では端溪の佳材がみつからなくなる恐れもある。そういうことを言うと”ポジンション・トーク”と言って怒られそうなのであるが、ここまで事態が進むと、事実なので言っておいた方がいいように考えている。少なくなってしまってから「あの時買っておけば」という人が多く出ても気の毒であるから。
......少し大きな硯はそれなりの値段になってしまうのであるが、店頭でしばし埃をかぶってもらう覚悟である。ご高覧いただければ幸甚。
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屯溪の民宿

.......屯溪での宿泊は、いつも地元の旅行代理店に勤める、P小姐に依頼している。屯溪の老街に実家がある、生粋の地元っ子なのである。今は一児の母となって、老街近郊のマンションに家族で住んでいる。とはいえ仕事をしている関係上、よくあることだが、ひとり息子を両親に預けていることが多い。それでしばしば老街の実家にも滞在しているのである。
今回、上海の朋友のD君は、彼女を伴っている。現在、杭州の中国美術学院に通うこの女性は、文房四寶に興味があるので同行を希望した、というわけなのである。それはまったく問題ないのであるが、P小姐には私と彼らの分と、二部屋の予約をお願いしたのである。P小姐は地元のホテルはたいてい知っているので、直前の予約であってもほどほどの値段で良い部屋を用意してくれている。今回は少し急であったので、老街の実家近くにある民宿に部屋をとったのだという。

日本でも増加する外国人観光客に対して宿が足りず、ホテルの増設にも限界があるという事で、いわゆる”民泊”が認められようとしている。実のところ大阪界隈では法整備に先立って、かなりの数の民泊が営業しているようである。格安航空会社の普及と、途上国の経済成長のおかげなのか、海外を旅する人は年々増加傾向にあるという。
海外に限らず、旅行者が増えているのは大陸中国の国内旅行も同じことなのであるが、ひとつには高速鉄道や高速道路網の整備によって、交通の便が良くなった、ということもある。特に距離のわりに安価な高速鉄道の恩恵があげられるだろう。そのため大型連休など、ピーク時の宿泊施設のキャパシティがどこの観光地も不足気味なのである。そこで屯溪でも部屋を改装し、民宿を始める人が増えてきた。屯溪観光の中心である老街であるが、老街の住人で若い人は郊外にできた新しいマンションに居を構える傾向にある。空室になった古民居を改装し、宿泊業を営むのである。
昔から安価な宿泊施設としては”招待所”というところがあったのだが、招待所は基本、外国人は泊まることが出来ない。ちなみに宿泊施設の呼称としては、酒店、賓館がいわゆるホテルである。他に旅社、旅館、招待所があるが、民宿というのは最近見るようになった単語である。旅社や招待所は、そこしか宿が無いような小さな町でない限り、外国人は泊まれない、と考えた方がいいかもしれない。
大陸のホテルでも、外国人の宿泊が認可されているホテルと、されていないホテルがある。たとえば上海のような大都市でも、おなじビジネスホテルチェーンでも、認可の有無に違いがあるから注意が必要である。さらにいえば、個人、たとえば友人の家には泊まることが出来ない........という法律があったように記憶しているが、今でもそうであろうか。

その民宿は、まさにP小姐の実家から歩いて30秒かからない距離の、老街小巷の一隅にあった........が、若干の危惧を覚えなくもない。思い起こせば、初めて中国を一人で旅した時、揚州で知り合った地元の人に案内してもらった”招待所”のようなごく素朴な宿なのである。

玄関をあがって二階の部屋に通された.......うーむ、少々簡素であるが.......清掃は行き届いている感じがあるし、wifiも個室シャワーもある。どうせ寝るだけなのであるから、自身はこの部屋でも構わない。まあ、久しぶりに昔の貧乏大陸旅行を思い出しながらの夜も良いものである.......と思ったのであるが、彼女を伴ったD君はどうであろう。案の定、二人して難色を示している。D君一人であればこの部屋でも問題ないとしたであろうが、彼女に気を使っている様子。D君の彼女も別段気取ったところもなく、素朴でさばけた人なのであるが、せっかくの旅なのである。
P小姐は、D君が連れてくる友達が女性であるとは思っていなかったらしい。急いで近くの他の民宿を探してくれた。ほどなくして、この”招待所”から50歩あるくかどうかの距離に、別の民宿を見つけてくれたのである。今後の参考までに部屋を見せてもらうと、古民居の味を残しつつ、家具照明等等、モダンなしつらえである。なるほど、これなら悪くはないだろう。

さて、食事が終わって夜の11時くらいに宿に戻ったのであるが、休む前に水を買っておこうと思い立った。ところが玄関の扉が堅く閉ざされている.......外に出ることが出来ない。玄関でしばしば思案しているとこの宿の老板が出てきて、何か必要か?と聞く。水がほしいというとポットを持ってきてくれた。沸かせば飲める、ということらしい........外出したいというと、門限があるから明日にしなさい、という。これには少々閉口してしまう。
まあ、しいて外出したい用件があるわけでもないが、朝まで部屋を出られない、というのはやや窮屈なおもいを抱かざる得ない。防犯上の事であるからいかんともしがたいのであるが.........この部屋で一泊60元というのは、安価なのであるがその分制約もあることである。ともあれ、空調はきちんと稼働しているし、朝シャワーを浴びようとしてもちゃんとお湯が出たから問題は無い。1月の屯溪、とくに老街の朝夕はひどく冷えるのである。ひとつには石材を基礎とした建造物が、冷気をため込んでしまうからかもしれない。屋内で燃料を燃やすストーブを置いている家などほとんどないが、せめてエアコンの暖房が無いと過ごしきれない。地元の人はほとんど暖房の習慣が無く、夜は早々に布団にくるまって寝てしまうのであるが。

私が泊まったこの招待所、はたして外国人の宿泊が大丈夫なのか?疑問に思うような宿なのである。記帳もノートに名前とパスポート番号を書いておしまい、である。地元で近所のP小姐が保証人のようになっているから、これはこれで大丈夫なのかもしれない。
ひさしぶりに泊まった”招待所”には、一種のなつかしさを覚えたものであるが、次回はそう、もう少し雅味のある古民居風の宿を頼もうかと思う。
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豆柿の味

1月に、婺源の作硯家を訪ねた時の事。この家は農家、ではないのであるが、家で食べる野菜くらいはほとんど自分の家で作っている。毎回、奥さんの手料理をふるまわれるのであるが、今回は遠く婺源市街の塾に通う息子さんに付き添って留守であった。それで近くの”農家菜(田舎料理)”の店に行こうという事になったのであるが、食事が終わって作硯家の家に戻ってきてから「口直しに」と出された一山の果物。

豆柿

色はオレンジ色、ピンポン玉よりもさらに小さく、プチトマトくらいの大きさである。季節外れであるが、やはりプチトマトであろうか。大陸ではプチトマトは果物扱いで、食事の後によく出されるのである。それにしてはヘタの部分がやや茂りすぎにも見えるのであるが.......手に取るとひんやりと冷たく、実はほうずきの実を揉んだように、薄皮の中に柔らかくなった果肉が感ぜられる。ほうずきも食用にするのであるが、ほうずきではない。ヘタを取って、中身を吸い出して食べよという。そう、これは柿の熟柿(じゅくし)なのであった。もとは渋柿なのであろう、濃厚な甘さの奥から渋みの残りが伝わってくる。渋みが後を引くので数は食べられないが、懐かしい甘味である。

大陸では甘柿を見ることは少なく、たいていは渋柿を渋抜きした柿である。冬場には干し柿も多く出回っている。日本で干し柿もすっかり高級になってしまった感があるが、大陸の方はまだまだ安価である。それにしてもこの小ささはどうであろう。日本でいうところの”豆柿”であろうか。

”豆柿”は接ぎ木の台木にされるというが、その実はほとんど出回っていないだろう。果物は大きく甘いが珍重される昨今、小さな渋柿なぞ、顧みられることは無いのかもしれない。柿はありふれた果物であるとはいえ、山村でこのように出されれば、やはりどこか珍奇な果物に思えてくるものである。

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