蘇軾が孫覚に墨を送られてよんだ詩四首 〜第三首目
「孫莘老寄墨四首」では、一首目では宮中の皇帝が献上品の佳墨を使って揮毫する様が、また二首目では宮廷に仕える士大夫が、官製の隃麋墨を使って書をなす様子が、それぞれうたわれてきた。三首目にうたわれるのが、蘇軾自身の境遇である。どのような文房四寶が用いられるのであろうか?
我貧如饑鼠、長夜空咬噛(niè)
瓦池研竃煤、葦管書柿叶(yè)
近者唐夫子、遠致烏玉玦(jué)
先生又継之、圭璧爛箱篋(qiè)
晴窓洗硯坐、蛇蚓稍蟠結(jié)
便有好事人、敲門求醉帖(tiè)
「我貧如饑鼠、長夜空咬噛:我れの貧すること饑鼠(きそ)の如く、長夜に空しく咬噛(こうし)す。」
ここは分かりやすいところであるが、自らを「餓えた鼠」にたとえ、長い夜を空腹を抱えて「咬噛(こうし)」すなわち歯噛みするばかりだと述べている。
鼠と言えば蘇軾には鼠を主題にした「黠鼠赋」がある。「黠」は狡猾の意味である。なかなか奥深い文章なので、詳細は省くが、蘇軾の家に老いた鼠が出る話である。老鼠は袋の中の物を齧っているが、人が近づくと死んだフリをし、スキを見て逃げ去ってしまうのだった。この老いた鼠の狡猾さや知恵に蘇軾が感心し、眠りにつく前にふと考える。何ゆえたかが老いた鼠一匹に人間様が欺かれるのだろうと。人間は顔色ひとつ変えずに金銀玉壁を砕いてしまうこともできるが、家庭にある鍋釜が割れてしまうときには、声を立てずにはいられない。人間は猛虎を捕らえることもできるが、蜂やサソリを目にすると、顔色を変えないわけにはゆかない。(金銀玉璧を砕くときは、大変な決心が要るが、鍋釜が割れるときは突然で心の準備がない。猛虎に挑むときは非常に緊張しているが、前触れなく現れた蜂やサソリには動揺を覚えるものである)精神が統一されていないから、外物に影響され、老鼠にも欺かれるのである。」ちなみにこの「黠鼠赋」は蘇軾が十歳の時の作であるとされている。これと詩文の意味が関係するということではないが、蘇軾には「萬石君羅紋傳」にみられるように、モノや動物を巧みに擬人化した文に妙味がある。
(大意)「私の貧乏なありさまときたら、餓えた鼠のようで、空腹を抱えて床につき、むなしく歯噛みするばかりである。」
「瓦池研竃煤、葦管書柿叶:瓦池(がち)に竃煤(そうばい)を研(けん)し、葦管(ろかん)にて柿叶(しよう)に書す」
1、2句目を受けて、貧しいがゆえに自分の使う文房四寶はこうである、というのである。すなわち硯は「瓦池」、瓦を穿って硯に仕立てたものを用いる。また墨は「竈(カマド)の煤」を煉った墨である。さらに「葦(あし)」の茎で作った筆を用い、「柿叶(葉)」すなわち柿の葉っぱに書くのであると言っている。まったく文房四寶としてこれより下は考えつくまい、というほどの組み合わせを並べ立てているところである。しかしここで挙げた文房四寶は、蘇軾の思いつきや喩えというだけではなく、実際に使われていたと考えられる品々で、根拠の無いたとえではない。
瓦硯は「銅雀台瓦硯」が有名だが、欧陽脩の「硯譜」には瓦や割れた皿などの、陶磁器の欠片を使って墨を磨ることが書かれている。また竈の煤や灯心などの生活から出る煤なども、回収して下等な墨が作られた。葦(アシ)の茎は、乾燥させた茎の先端を鋭く削り、「葦筆」と称し、ペンのように用いられていたことが知られている。現代でも画材店にゆけば見ることが出来るが、実際に新疆トルファン周辺では唐代の葦筆の出土例があり、官吏の実務につかわれていたようだ。
また「柿の叶(葉)」であるが、これは唐の鄭虔の故事に由来する。鄭虔は進士に及第する前、窮迫して紙を買う金にも事欠いていた。寓居の寺に柿の葉の多いことを見て、これを紙の代わりに用い、猛勉強して科挙に合格したという。しなわち「柿叶学書」とは、苦学する事を言うのである。
なんにせよ、一首目、二首目に現れる文房四寶の精良さには遠く及ばないところであり、いたって粗末な筆墨硯紙をならべることで、自らの不遇を表現しているのである。しかしいたずらに卑下しているわけではなく、そこに一脈の気概を感じたいところである。
(大意)「瓦を彫って硯と作り、カマドの煤を集めた墨を磨り、葦の茎で作った筆で、乾かした柿の葉に書くのである。」
「近者唐夫子、遠致烏玉玦:近者は唐夫子、遠く烏玉の玦を致(いた)す。」
この句には原注があり「唐林夫寄張遇墨半丸」とある。唐林夫はすなわち唐坰(とう・けい:生卒未詳)という人物である。また唐坰の父親は唐詢(1005〜1064)、字は彦猷といい、書法と文章で知られた人物である。官界でも活躍し、地方官を歴任後は右諫議大夫にのぼり、卒后は礼部侍郎を贈られた。唐詢は歐陽詢の真跡を入手して研究し、大いに書の技量が進んだと述べているが、唐家は相当な収蔵家でもあったようだ。
唐詢は文房四寶に造詣が深く、硯の研究書「硯録」をのこしている。また梅尭臣に「依韵和唐彦猷華亭十咏」があり、さらに王安石に「次韵唐彦猷華亭十咏其九昆山」という詩がある。この「硯録」であるが、中田勇次郎先生の著書「文房清玩四」(二玄社)に解説とともに釈文が収録されている。
その解説に唐林夫こと唐坰のことが記載されている。すなわち“….その子の唐坰、字は林夫は「宋史」三二三、王安石の傳に付して伝記がある。父の唐詢とともに「皇宋書録」の中に収められて、宋代の書人しても名のあった人物である。硯の趣味もあったようで「硯箋」三、丹石硯の条に、唐林夫が丹石硯を贈った記事があり、注に、米芾が徐煕の牡丹図と唐林夫硯を交換したことを記している。”とある。
唐林夫は蘇軾をはじめ、黄庭堅、米芾等と親交があったことが、残された詩文から伺える。蘇軾に「霊隠前一首贈唐林夫」があり、また黄庭堅に「倉后酒正庁昔唐林夫謫官所作」がある。米芾の「海岳名言」には唐林夫が智永の千字文を所有している旨が書かれている。唐家の収蔵は、蘇軾や黄庭堅の書法の研究にも、大きく貢献したようだ。唐林夫が臨模の名手であったことも、これと無関係ではないだろう。
さて「烏玉」というのは「烏(カラス)」ということで、黒い玉。「玦(けつ)」は円環状に加工した玉に、一箇所切れ込み(スリット)を入れた玉である。「玦(けつ)」は「決断」の「決」と同音であり、鴻門で范増がこれを掲げて、項羽に高祖を殺すように迫った故事は有名である。
佳墨を黒い玉に喩えたのであるが、「玦」とあるのは、これが残墨であることを暗示する。さしずめ唐林夫が使ってみて良かったと思った墨を、蘇軾に贈ったのであろう。
(大意)「近くにいた唐先生は、遠くから烏玉のような貴重な墨を取り寄せてくれた。」
「先生又継之、圭璧爛箱篋:先生又(ま)た之を継ぎ、圭璧(けいへき)は箱篋に爛(たけな)わ」
「先生」はもちろん孫莘老で、先の唐林夫のはからいを継いで、蘇軾に墨を送ったのであるということだ。
「圭璧(けいへき)」は「圭(けい)」と「璧(へき)」であり、「圭」は長方状で上辺を三角に、下辺を方形に加工した剣の尖端のような格好をした古玉器である。もともと朝政の場や葬礼祭祀の際に貴族が帯びるもので、その大きさが身分の高下を表した。また「璧」といえば、普通は円盤状で、中心に円形の穴を開けた格好で加工された古玉器である。形状によって「璧(へき)」「瑗(えん)」「環(かん)」の別がある。ともあれここでは、円形の墨や角柱の墨がたくさん箱にあつまった、ということであろう。「箱篋」は大小の箱を指す。
(大意)「孫莘老先生は唐林夫先生のあとを継いで渡しに墨を送ってくれ、おかげで大小の墨を入れた箱がいっぱいになった。」
「晴窓洗硯坐、蛇蚓稍蟠結。:晴窓に硯を洗いて坐(ざ)し、蛇蚓は蟠結を稍す。」
晴れた日の窓に向かい、硯を洗って座り、「蛇蚓稍蟠結」とある。「蛇」に「蚓(みみず)」が「蟠(ばん)」すなわち曲がりくねるというのだから、なんとなく想像がつきそうだが、「蛇やみみずがのたくったような書」というところであろう。「蛇蚓蟠結」で多くのものが曲がりくねる様子を良い、草書のたとえに用いられる。
北宋四大家の一人の書を「蛇やみみず」に喩えるのはどうかとおもうが、むろんここでは一首目、二首目の皇帝や宮廷官僚の書を「龍」に喩えたことに対する、非常にへりくだった表現である。
(大意)「晴れた日の窓辺に洗った硯を置いて座り、いささか蛇やみみずがのたくったような手遊(すさ)びをこころみる」
「便有好事人、敲門求醉帖:便ち好事の人有り、門を敲(たた)いて醉帖(すいちょう)を求める」
ここは分かりやすいと思うが「好事」はここでは「物好き」、「醉帖」は酔った勢いで揮毫した書、陸游の詩に「還家痛飲洗塵土、醉帖淋漓寄豪挙」とある。この「醉帖」は一首目の「醉常侍」に対応していると思われる。
(大意)「すぐに物好きな人がやってきて、門をたたいて酔いのまぎれに書いた法帖がほしいと言ってくる」
自身を「餓えた鼠」にたとえ、粗末な文房四寶を使う貧しい読書人の暮らしを、自虐的なまでの調子でよんでいる。読みようによっては、いささか卑屈に過ぎるかのようだ。
しかし一首目、二首目をおかずに三首目から始まっていたらどうであろう?三首目は一首目、二首目との対比によって、不遇の身を嘆く調子が強調されているが、同時にその生活を楽しんできるかのような気分も見え隠れするところである。一首目で皇帝を賛美し、二首目で宮廷官僚を羨むといった、念の入った前置きがなければ「罪を受けながら、不遇の身を楽しんでいる。“あてこすり”なのか反省していないのか。」と、悪意の解釈を受けかねないところである。自分の詩文の内容を徹底低に詮索され、悪意に満ちた解釈によって皇帝を侮辱しているという罪に問われたことが、この時期の蘇軾には深い傷となっているかのようだ。
またこの詩は蘇軾から孫莘老に贈られた体裁をとっているが、蘇軾ほどの詩人であれば、その新作の詩はたちまち都の社交界に流布し、蘇軾の敵対者や、皇帝の耳にもはいるのである。くどいほどに「反省してます、後悔してます」と繰り返すのは、ひとつには保身のためであることは事実であろう。態度によっては、折角おちついた左遷先からも、さらに環境のわるい地域へ遷されることもあるのである。事実、蘇軾は小突きまわされるように、各地を転々としなければならなかった。
もちろん「清貧」という価値観があり、辺境での貧しい生活も、士大夫の賞賛をうけないではない姿である。しかし「清貧」に甘んじていることすらも、ここでは潔しとしていないところに、蘇軾の苦衷を読み取りたいところだ。
我貧如饑鼠、長夜空咬噛(niè)
瓦池研竃煤、葦管書柿叶(yè)
近者唐夫子、遠致烏玉玦(jué)
先生又継之、圭璧爛箱篋(qiè)
晴窓洗硯坐、蛇蚓稍蟠結(jié)
便有好事人、敲門求醉帖(tiè)
「我貧如饑鼠、長夜空咬噛:我れの貧すること饑鼠(きそ)の如く、長夜に空しく咬噛(こうし)す。」
ここは分かりやすいところであるが、自らを「餓えた鼠」にたとえ、長い夜を空腹を抱えて「咬噛(こうし)」すなわち歯噛みするばかりだと述べている。
鼠と言えば蘇軾には鼠を主題にした「黠鼠赋」がある。「黠」は狡猾の意味である。なかなか奥深い文章なので、詳細は省くが、蘇軾の家に老いた鼠が出る話である。老鼠は袋の中の物を齧っているが、人が近づくと死んだフリをし、スキを見て逃げ去ってしまうのだった。この老いた鼠の狡猾さや知恵に蘇軾が感心し、眠りにつく前にふと考える。何ゆえたかが老いた鼠一匹に人間様が欺かれるのだろうと。人間は顔色ひとつ変えずに金銀玉壁を砕いてしまうこともできるが、家庭にある鍋釜が割れてしまうときには、声を立てずにはいられない。人間は猛虎を捕らえることもできるが、蜂やサソリを目にすると、顔色を変えないわけにはゆかない。(金銀玉璧を砕くときは、大変な決心が要るが、鍋釜が割れるときは突然で心の準備がない。猛虎に挑むときは非常に緊張しているが、前触れなく現れた蜂やサソリには動揺を覚えるものである)精神が統一されていないから、外物に影響され、老鼠にも欺かれるのである。」ちなみにこの「黠鼠赋」は蘇軾が十歳の時の作であるとされている。これと詩文の意味が関係するということではないが、蘇軾には「萬石君羅紋傳」にみられるように、モノや動物を巧みに擬人化した文に妙味がある。
(大意)「私の貧乏なありさまときたら、餓えた鼠のようで、空腹を抱えて床につき、むなしく歯噛みするばかりである。」
「瓦池研竃煤、葦管書柿叶:瓦池(がち)に竃煤(そうばい)を研(けん)し、葦管(ろかん)にて柿叶(しよう)に書す」
1、2句目を受けて、貧しいがゆえに自分の使う文房四寶はこうである、というのである。すなわち硯は「瓦池」、瓦を穿って硯に仕立てたものを用いる。また墨は「竈(カマド)の煤」を煉った墨である。さらに「葦(あし)」の茎で作った筆を用い、「柿叶(葉)」すなわち柿の葉っぱに書くのであると言っている。まったく文房四寶としてこれより下は考えつくまい、というほどの組み合わせを並べ立てているところである。しかしここで挙げた文房四寶は、蘇軾の思いつきや喩えというだけではなく、実際に使われていたと考えられる品々で、根拠の無いたとえではない。
瓦硯は「銅雀台瓦硯」が有名だが、欧陽脩の「硯譜」には瓦や割れた皿などの、陶磁器の欠片を使って墨を磨ることが書かれている。また竈の煤や灯心などの生活から出る煤なども、回収して下等な墨が作られた。葦(アシ)の茎は、乾燥させた茎の先端を鋭く削り、「葦筆」と称し、ペンのように用いられていたことが知られている。現代でも画材店にゆけば見ることが出来るが、実際に新疆トルファン周辺では唐代の葦筆の出土例があり、官吏の実務につかわれていたようだ。
また「柿の叶(葉)」であるが、これは唐の鄭虔の故事に由来する。鄭虔は進士に及第する前、窮迫して紙を買う金にも事欠いていた。寓居の寺に柿の葉の多いことを見て、これを紙の代わりに用い、猛勉強して科挙に合格したという。しなわち「柿叶学書」とは、苦学する事を言うのである。
なんにせよ、一首目、二首目に現れる文房四寶の精良さには遠く及ばないところであり、いたって粗末な筆墨硯紙をならべることで、自らの不遇を表現しているのである。しかしいたずらに卑下しているわけではなく、そこに一脈の気概を感じたいところである。
(大意)「瓦を彫って硯と作り、カマドの煤を集めた墨を磨り、葦の茎で作った筆で、乾かした柿の葉に書くのである。」
「近者唐夫子、遠致烏玉玦:近者は唐夫子、遠く烏玉の玦を致(いた)す。」
この句には原注があり「唐林夫寄張遇墨半丸」とある。唐林夫はすなわち唐坰(とう・けい:生卒未詳)という人物である。また唐坰の父親は唐詢(1005〜1064)、字は彦猷といい、書法と文章で知られた人物である。官界でも活躍し、地方官を歴任後は右諫議大夫にのぼり、卒后は礼部侍郎を贈られた。唐詢は歐陽詢の真跡を入手して研究し、大いに書の技量が進んだと述べているが、唐家は相当な収蔵家でもあったようだ。
唐詢は文房四寶に造詣が深く、硯の研究書「硯録」をのこしている。また梅尭臣に「依韵和唐彦猷華亭十咏」があり、さらに王安石に「次韵唐彦猷華亭十咏其九昆山」という詩がある。この「硯録」であるが、中田勇次郎先生の著書「文房清玩四」(二玄社)に解説とともに釈文が収録されている。
その解説に唐林夫こと唐坰のことが記載されている。すなわち“….その子の唐坰、字は林夫は「宋史」三二三、王安石の傳に付して伝記がある。父の唐詢とともに「皇宋書録」の中に収められて、宋代の書人しても名のあった人物である。硯の趣味もあったようで「硯箋」三、丹石硯の条に、唐林夫が丹石硯を贈った記事があり、注に、米芾が徐煕の牡丹図と唐林夫硯を交換したことを記している。”とある。
唐林夫は蘇軾をはじめ、黄庭堅、米芾等と親交があったことが、残された詩文から伺える。蘇軾に「霊隠前一首贈唐林夫」があり、また黄庭堅に「倉后酒正庁昔唐林夫謫官所作」がある。米芾の「海岳名言」には唐林夫が智永の千字文を所有している旨が書かれている。唐家の収蔵は、蘇軾や黄庭堅の書法の研究にも、大きく貢献したようだ。唐林夫が臨模の名手であったことも、これと無関係ではないだろう。
さて「烏玉」というのは「烏(カラス)」ということで、黒い玉。「玦(けつ)」は円環状に加工した玉に、一箇所切れ込み(スリット)を入れた玉である。「玦(けつ)」は「決断」の「決」と同音であり、鴻門で范増がこれを掲げて、項羽に高祖を殺すように迫った故事は有名である。
佳墨を黒い玉に喩えたのであるが、「玦」とあるのは、これが残墨であることを暗示する。さしずめ唐林夫が使ってみて良かったと思った墨を、蘇軾に贈ったのであろう。
(大意)「近くにいた唐先生は、遠くから烏玉のような貴重な墨を取り寄せてくれた。」
「先生又継之、圭璧爛箱篋:先生又(ま)た之を継ぎ、圭璧(けいへき)は箱篋に爛(たけな)わ」
「先生」はもちろん孫莘老で、先の唐林夫のはからいを継いで、蘇軾に墨を送ったのであるということだ。
「圭璧(けいへき)」は「圭(けい)」と「璧(へき)」であり、「圭」は長方状で上辺を三角に、下辺を方形に加工した剣の尖端のような格好をした古玉器である。もともと朝政の場や葬礼祭祀の際に貴族が帯びるもので、その大きさが身分の高下を表した。また「璧」といえば、普通は円盤状で、中心に円形の穴を開けた格好で加工された古玉器である。形状によって「璧(へき)」「瑗(えん)」「環(かん)」の別がある。ともあれここでは、円形の墨や角柱の墨がたくさん箱にあつまった、ということであろう。「箱篋」は大小の箱を指す。
(大意)「孫莘老先生は唐林夫先生のあとを継いで渡しに墨を送ってくれ、おかげで大小の墨を入れた箱がいっぱいになった。」
「晴窓洗硯坐、蛇蚓稍蟠結。:晴窓に硯を洗いて坐(ざ)し、蛇蚓は蟠結を稍す。」
晴れた日の窓に向かい、硯を洗って座り、「蛇蚓稍蟠結」とある。「蛇」に「蚓(みみず)」が「蟠(ばん)」すなわち曲がりくねるというのだから、なんとなく想像がつきそうだが、「蛇やみみずがのたくったような書」というところであろう。「蛇蚓蟠結」で多くのものが曲がりくねる様子を良い、草書のたとえに用いられる。
北宋四大家の一人の書を「蛇やみみず」に喩えるのはどうかとおもうが、むろんここでは一首目、二首目の皇帝や宮廷官僚の書を「龍」に喩えたことに対する、非常にへりくだった表現である。
(大意)「晴れた日の窓辺に洗った硯を置いて座り、いささか蛇やみみずがのたくったような手遊(すさ)びをこころみる」
「便有好事人、敲門求醉帖:便ち好事の人有り、門を敲(たた)いて醉帖(すいちょう)を求める」
ここは分かりやすいと思うが「好事」はここでは「物好き」、「醉帖」は酔った勢いで揮毫した書、陸游の詩に「還家痛飲洗塵土、醉帖淋漓寄豪挙」とある。この「醉帖」は一首目の「醉常侍」に対応していると思われる。
(大意)「すぐに物好きな人がやってきて、門をたたいて酔いのまぎれに書いた法帖がほしいと言ってくる」
自身を「餓えた鼠」にたとえ、粗末な文房四寶を使う貧しい読書人の暮らしを、自虐的なまでの調子でよんでいる。読みようによっては、いささか卑屈に過ぎるかのようだ。
しかし一首目、二首目をおかずに三首目から始まっていたらどうであろう?三首目は一首目、二首目との対比によって、不遇の身を嘆く調子が強調されているが、同時にその生活を楽しんできるかのような気分も見え隠れするところである。一首目で皇帝を賛美し、二首目で宮廷官僚を羨むといった、念の入った前置きがなければ「罪を受けながら、不遇の身を楽しんでいる。“あてこすり”なのか反省していないのか。」と、悪意の解釈を受けかねないところである。自分の詩文の内容を徹底低に詮索され、悪意に満ちた解釈によって皇帝を侮辱しているという罪に問われたことが、この時期の蘇軾には深い傷となっているかのようだ。
またこの詩は蘇軾から孫莘老に贈られた体裁をとっているが、蘇軾ほどの詩人であれば、その新作の詩はたちまち都の社交界に流布し、蘇軾の敵対者や、皇帝の耳にもはいるのである。くどいほどに「反省してます、後悔してます」と繰り返すのは、ひとつには保身のためであることは事実であろう。態度によっては、折角おちついた左遷先からも、さらに環境のわるい地域へ遷されることもあるのである。事実、蘇軾は小突きまわされるように、各地を転々としなければならなかった。
もちろん「清貧」という価値観があり、辺境での貧しい生活も、士大夫の賞賛をうけないではない姿である。しかし「清貧」に甘んじていることすらも、ここでは潔しとしていないところに、蘇軾の苦衷を読み取りたいところだ。
お店:http://www.sousokou.jp BlueSkye:鑑璞斎