蘇軾が孫覚に墨を送られてよんだ詩四首 〜第三首目

「孫莘老寄墨四首」では、一首目では宮中の皇帝が献上品の佳墨を使って揮毫する様が、また二首目では宮廷に仕える士大夫が、官製の隃麋墨を使って書をなす様子が、それぞれうたわれてきた。三首目にうたわれるのが、蘇軾自身の境遇である。どのような文房四寶が用いられるのであろうか?

我貧如饑鼠、長夜空咬噛(niè)
瓦池研竃煤、葦管書柿叶(yè)
近者唐夫子、遠致烏玉玦(jué)
先生又継之、圭璧爛箱篋(qiè)
晴窓洗硯坐、蛇蚓稍蟠結(jié)
便有好事人、敲門求醉帖(tiè)

「我貧如饑鼠、長夜空咬噛:我れの貧すること饑鼠(きそ)の如く、長夜に空しく咬噛(こうし)す。」
ここは分かりやすいところであるが、自らを「餓えた鼠」にたとえ、長い夜を空腹を抱えて「咬噛(こうし)」すなわち歯噛みするばかりだと述べている。
鼠と言えば蘇軾には鼠を主題にした「黠鼠赋」がある。「黠」は狡猾の意味である。なかなか奥深い文章なので、詳細は省くが、蘇軾の家に老いた鼠が出る話である。老鼠は袋の中の物を齧っているが、人が近づくと死んだフリをし、スキを見て逃げ去ってしまうのだった。この老いた鼠の狡猾さや知恵に蘇軾が感心し、眠りにつく前にふと考える。何ゆえたかが老いた鼠一匹に人間様が欺かれるのだろうと。人間は顔色ひとつ変えずに金銀玉壁を砕いてしまうこともできるが、家庭にある鍋釜が割れてしまうときには、声を立てずにはいられない。人間は猛虎を捕らえることもできるが、蜂やサソリを目にすると、顔色を変えないわけにはゆかない。(金銀玉璧を砕くときは、大変な決心が要るが、鍋釜が割れるときは突然で心の準備がない。猛虎に挑むときは非常に緊張しているが、前触れなく現れた蜂やサソリには動揺を覚えるものである)精神が統一されていないから、外物に影響され、老鼠にも欺かれるのである。」ちなみにこの「黠鼠赋」は蘇軾が十歳の時の作であるとされている。これと詩文の意味が関係するということではないが、蘇軾には「萬石君羅紋傳」にみられるように、モノや動物を巧みに擬人化した文に妙味がある。
(大意)「私の貧乏なありさまときたら、餓えた鼠のようで、空腹を抱えて床につき、むなしく歯噛みするばかりである。」

「瓦池研竃煤、葦管書柿叶:瓦池(がち)に竃煤(そうばい)を研(けん)し、葦管(ろかん)にて柿叶(しよう)に書す」
1、2句目を受けて、貧しいがゆえに自分の使う文房四寶はこうである、というのである。すなわち硯は「瓦池」、瓦を穿って硯に仕立てたものを用いる。また墨は「竈(カマド)の煤」を煉った墨である。さらに「葦(あし)」の茎で作った筆を用い、「柿叶(葉)」すなわち柿の葉っぱに書くのであると言っている。まったく文房四寶としてこれより下は考えつくまい、というほどの組み合わせを並べ立てているところである。しかしここで挙げた文房四寶は、蘇軾の思いつきや喩えというだけではなく、実際に使われていたと考えられる品々で、根拠の無いたとえではない。
瓦硯は「銅雀台瓦硯」が有名だが、欧陽脩の「硯譜」には瓦や割れた皿などの、陶磁器の欠片を使って墨を磨ることが書かれている。また竈の煤や灯心などの生活から出る煤なども、回収して下等な墨が作られた。葦(アシ)の茎は、乾燥させた茎の先端を鋭く削り、「葦筆」と称し、ペンのように用いられていたことが知られている。現代でも画材店にゆけば見ることが出来るが、実際に新疆トルファン周辺では唐代の葦筆の出土例があり、官吏の実務につかわれていたようだ。
また「柿の叶(葉)」であるが、これは唐の鄭虔の故事に由来する。鄭虔は進士に及第する前、窮迫して紙を買う金にも事欠いていた。寓居の寺に柿の葉の多いことを見て、これを紙の代わりに用い、猛勉強して科挙に合格したという。しなわち「柿叶学書」とは、苦学する事を言うのである。
なんにせよ、一首目、二首目に現れる文房四寶の精良さには遠く及ばないところであり、いたって粗末な筆墨硯紙をならべることで、自らの不遇を表現しているのである。しかしいたずらに卑下しているわけではなく、そこに一脈の気概を感じたいところである。
(大意)「瓦を彫って硯と作り、カマドの煤を集めた墨を磨り、葦の茎で作った筆で、乾かした柿の葉に書くのである。」

「近者唐夫子、遠致烏玉玦:近者は唐夫子、遠く烏玉の玦を致(いた)す。」
この句には原注があり「唐林夫寄張遇墨半丸」とある。唐林夫はすなわち唐坰(とう・けい:生卒未詳)という人物である。また唐坰の父親は唐詢(1005〜1064)、字は彦猷といい、書法と文章で知られた人物である。官界でも活躍し、地方官を歴任後は右諫議大夫にのぼり、卒后は礼部侍郎を贈られた。唐詢は歐陽詢の真跡を入手して研究し、大いに書の技量が進んだと述べているが、唐家は相当な収蔵家でもあったようだ。
唐詢は文房四寶に造詣が深く、硯の研究書「硯録」をのこしている。また梅尭臣に「依韵和唐彦猷華亭十咏」があり、さらに王安石に「次韵唐彦猷華亭十咏其九昆山」という詩がある。この「硯録」であるが、中田勇次郎先生の著書「文房清玩四」(二玄社)に解説とともに釈文が収録されている。
その解説に唐林夫こと唐坰のことが記載されている。すなわち“….その子の唐坰、字は林夫は「宋史」三二三、王安石の傳に付して伝記がある。父の唐詢とともに「皇宋書録」の中に収められて、宋代の書人しても名のあった人物である。硯の趣味もあったようで「硯箋」三、丹石硯の条に、唐林夫が丹石硯を贈った記事があり、注に、米芾が徐煕の牡丹図と唐林夫硯を交換したことを記している。”とある。
唐林夫は蘇軾をはじめ、黄庭堅、米芾等と親交があったことが、残された詩文から伺える。蘇軾に「霊隠前一首贈唐林夫」があり、また黄庭堅に「倉后酒正庁昔唐林夫謫官所作」がある。米芾の「海岳名言」には唐林夫が智永の千字文を所有している旨が書かれている。唐家の収蔵は、蘇軾や黄庭堅の書法の研究にも、大きく貢献したようだ。唐林夫が臨模の名手であったことも、これと無関係ではないだろう。
さて「烏玉」というのは「烏(カラス)」ということで、黒い玉。「玦(けつ)」は円環状に加工した玉に、一箇所切れ込み(スリット)を入れた玉である。「玦(けつ)」は「決断」の「決」と同音であり、鴻門で范増がこれを掲げて、項羽に高祖を殺すように迫った故事は有名である。
佳墨を黒い玉に喩えたのであるが、「玦」とあるのは、これが残墨であることを暗示する。さしずめ唐林夫が使ってみて良かったと思った墨を、蘇軾に贈ったのであろう。
(大意)「近くにいた唐先生は、遠くから烏玉のような貴重な墨を取り寄せてくれた。」

「先生又継之、圭璧爛箱篋:先生又(ま)た之を継ぎ、圭璧(けいへき)は箱篋に爛(たけな)わ」
「先生」はもちろん孫莘老で、先の唐林夫のはからいを継いで、蘇軾に墨を送ったのであるということだ。
「圭璧(けいへき)」は「圭(けい)」と「璧(へき)」であり、「圭」は長方状で上辺を三角に、下辺を方形に加工した剣の尖端のような格好をした古玉器である。もともと朝政の場や葬礼祭祀の際に貴族が帯びるもので、その大きさが身分の高下を表した。また「璧」といえば、普通は円盤状で、中心に円形の穴を開けた格好で加工された古玉器である。形状によって「璧(へき)」「瑗(えん)」「環(かん)」の別がある。ともあれここでは、円形の墨や角柱の墨がたくさん箱にあつまった、ということであろう。「箱篋」は大小の箱を指す。
(大意)「孫莘老先生は唐林夫先生のあとを継いで渡しに墨を送ってくれ、おかげで大小の墨を入れた箱がいっぱいになった。」

「晴窓洗硯坐、蛇蚓稍蟠結。:晴窓に硯を洗いて坐(ざ)し、蛇蚓は蟠結を稍す。」
晴れた日の窓に向かい、硯を洗って座り、「蛇蚓稍蟠結」とある。「蛇」に「蚓(みみず)」が「蟠(ばん)」すなわち曲がりくねるというのだから、なんとなく想像がつきそうだが、「蛇やみみずがのたくったような書」というところであろう。「蛇蚓蟠結」で多くのものが曲がりくねる様子を良い、草書のたとえに用いられる。
北宋四大家の一人の書を「蛇やみみず」に喩えるのはどうかとおもうが、むろんここでは一首目、二首目の皇帝や宮廷官僚の書を「龍」に喩えたことに対する、非常にへりくだった表現である。
(大意)「晴れた日の窓辺に洗った硯を置いて座り、いささか蛇やみみずがのたくったような手遊(すさ)びをこころみる」

「便有好事人、敲門求醉帖:便ち好事の人有り、門を敲(たた)いて醉帖(すいちょう)を求める」
ここは分かりやすいと思うが「好事」はここでは「物好き」、「醉帖」は酔った勢いで揮毫した書、陸游の詩に「還家痛飲洗塵土、醉帖淋漓寄豪挙」とある。この「醉帖」は一首目の「醉常侍」に対応していると思われる。
(大意)「すぐに物好きな人がやってきて、門をたたいて酔いのまぎれに書いた法帖がほしいと言ってくる」

自身を「餓えた鼠」にたとえ、粗末な文房四寶を使う貧しい読書人の暮らしを、自虐的なまでの調子でよんでいる。読みようによっては、いささか卑屈に過ぎるかのようだ。
しかし一首目、二首目をおかずに三首目から始まっていたらどうであろう?三首目は一首目、二首目との対比によって、不遇の身を嘆く調子が強調されているが、同時にその生活を楽しんできるかのような気分も見え隠れするところである。一首目で皇帝を賛美し、二首目で宮廷官僚を羨むといった、念の入った前置きがなければ「罪を受けながら、不遇の身を楽しんでいる。“あてこすり”なのか反省していないのか。」と、悪意の解釈を受けかねないところである。自分の詩文の内容を徹底低に詮索され、悪意に満ちた解釈によって皇帝を侮辱しているという罪に問われたことが、この時期の蘇軾には深い傷となっているかのようだ。
またこの詩は蘇軾から孫莘老に贈られた体裁をとっているが、蘇軾ほどの詩人であれば、その新作の詩はたちまち都の社交界に流布し、蘇軾の敵対者や、皇帝の耳にもはいるのである。くどいほどに「反省してます、後悔してます」と繰り返すのは、ひとつには保身のためであることは事実であろう。態度によっては、折角おちついた左遷先からも、さらに環境のわるい地域へ遷されることもあるのである。事実、蘇軾は小突きまわされるように、各地を転々としなければならなかった。
もちろん「清貧」という価値観があり、辺境での貧しい生活も、士大夫の賞賛をうけないではない姿である。しかし「清貧」に甘んじていることすらも、ここでは潔しとしていないところに、蘇軾の苦衷を読み取りたいところだ。
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蘇軾が孫覚に墨を送られてよんだ詩四首 〜第二首目

「孫莘老寄墨四首」の二首目である。
蘇軾といえば「赤壁賦」にうたわれているように、漁夫や木こりを友とし、天地の間に遊んで神仙の世界にあこがれる、といった人生を達観しきった人物としてイメージされているかもしれない。蘇軾は詩文で皇帝を誹謗したと弾劾され、投獄の後に左遷(流刑)され、任地を転々とした。再び中央に戻るまでの1079年から1085年の間、1082年に「赤壁賦」が書かれている。同じ時期の「黄州寒食詩」に見られるように、流浪の身を嘆き中央への復帰を願う心情もみてとれる。そしてこの「孫莘老寄墨四首」もこの左遷の時期の作品である。
一首目の詩では、皇帝が外国からの献上墨を使い、金殿玉楼の中で金箋に思いのままに揮毫している姿が、あたかも天上界の出来事のようにえがかれている。この二首目では、皇帝の豪奢な様には及ばないものの、端溪の佳材や剡溪の藤紙、官製の隃麋墨など、士大夫として所有しうる最高の文房四寶が使われている。使用するのは墨を贈った孫莘老をはじめとする、宮廷官僚達である。いずれも蘇軾自身が羨望してやまないところであり、「身から出たサビ」を悔いる気持ちを「赧(慙愧する)」と率直に述べている。

溪石琢馬肝、剡藤開玉版(bǎn)
嘘嘘雲霧出、奕奕龍蛇綰(wǎn)
此中有何好、秀色紛満眼(yǎn)
故人帰天禄、古漆窺蠹簡(jiǎn)
隃麋給尚方、老手擅編劃(huà)
分余幸見及、流落一嘆赧(nǎn)

(1-2句目)「溪石琢馬肝、剡藤開玉版:渓石は馬肝に琢(たく)し、剡藤(えんとう)は玉版を開く」
「溪石」とあるが、これが「馬肝(ばかん)」に彫刻されるというのだから、端溪石のことである。馬肝は馬の肝臓ということであるが、紫がかった赤黒い色が想起される。古来から端溪石の色の形容、あるいは別称として用いられた語である。「溪石」とあるのは溪流の石であるが、端溪の中でも坑洞から掘った硯材ではなく、水底から採取された原石を指していると考えられる。米芾が「硯史」で述べるところの「子石」であろう。
「剡藤(えんとう)」は「剡溪の藤」のことで、「剡溪」は浙江省紹興市嵊州付近、古来の紙の産地である。この地域ではとくに「藤」を紙の原料とした藤紙の生産が盛んであった。
明の萬暦年間の学者、孫能伝(そん・のうでん)の「剡溪漫筆小叙」には“其地(剡溪)多古藤、土人取以作紙、所謂剡渓藤是也。”(その地には多く藤の古樹がある、土地の人はそれを採って紙をつくる。いわゆる剡溪藤というのがこれである)“とある。 また蘇軾が孫莘老との交際をうたった「孫莘老求墨抄亭」の詩には“書来乞詩要自写、為把栗尾書渓藤”とある。
「玉版」は玉のように白く滑らかで艶やかな紙ということだが、いわゆる玉版箋である。現代では宣紙には「玉版宣」がり、また「四川玉版」「福建玉版」などがあるが、剡溪で作られた藤紙も「玉版」と称された。「玉版箋」は高級紙の代名詞であるが、その名称には書画に用いる紙に対する、理想の姿が込められているのである。
(大意)「端溪の子石を馬肝色の硯に彫り、剡溪の古藤は白く艶やかな玉版箋につくられる。」

(3-4句目)「嘘嘘雲霧出、奕奕龍蛇綰:嘘嘘(きょきょ)として雲霧は出(い)で、奕奕(えきえき)として龍蛇を綰(わが)ねる」
「嘘嘘(きょきょ)」は気体がゆっくりとひろがるという形容に用いられる。「雲霧」は「雲」と「霧」であるが、雲霧状の紋様を指すこともある。雲には龍がつきものということで、次の句の「龍蛇」に対応しているのだが、「龍蛇」はここでは墨跡を指していると考えられる。とすればこの「雲霧」は、紋様が施された紙を暗示するのだろう。澄心堂紙をはじめ、北宋の宮廷で使われた官製の紙には、紋様が施されているものがあった。
「奕奕(えきえき)」は光り輝く様子。「龍蛇」は文字通り龍と蛇であるが、「綰(わが)ねる」というのは、細長いものが曲がりくねっている様子。もちろんここでは筆跡のことであろうから、「奕奕」と形容して、艶やかな墨色で書かれた筆書をいうのであろう。
(大意)「雲霧がめぐるような紋様を施した紙を敷き延べて、キラキラと輝くような艶やかな墨で、龍がうねるような華麗な墨跡がかかれるのである」

(5-6句目)「此中有何好、秀色紛満眼:此の中に何んぞ好(よ)き有る、秀色(しゅうしょく)は満眼を粉(ふん)する。」
「秀色」は優れた容貌であるが、ここでは墨色のことであろう。「満眼」は視野一杯に広がること。墨を使ってみてその素晴らしい墨色に驚嘆し、その色の秘密を不思議に思っているといったところだ。墨色に対する、蘇軾の優れた感性を感じさせる詩句である。(墨汁を濫用する現代人などの、及びもつかないところであろう。)
しかしこの二首目では、端溪硯や剡溪藤紙などの精良な文房四寶を使い、隃麋墨を使って揮毫しているのは、蘇軾自身のことではない。孫莘老を初めとする、中央政界で活躍する高級官僚達である。蘇軾自身、中央で活躍することへの望みを、優れた文房四寶に託してかたっているとも読める。
(大意)「この墨の中にはどんな良いものが用いられているのだろう?素晴らしい墨色が視界一杯にひろがるではないか」

(7-8句目)「故人帰天禄、古漆窺蠹簡:故人は天禄に帰(き)し、古漆は蠹簡(とかん)を窺う」
「故人」は古い友人を言うが、これは孫莘老のことであろう。「天禄(てんろく)」は天の福禄であるが、宮廷に仕える人への俸給をも言う。すなわち孫莘老が宮中に仕えていることを言う。
「古漆(こしつ)」は普通は古い琴を言う。また「蠹簡」の「蠹」は虫、「簡」は書簡というわけで、虫の食った書簡、書物である。ともに隠棲した読書人に似つかわしい品々である。「古ぼけた琴」が虫食いの書物を読んでいるというが、ここでは「古漆」は蘇軾自身のことである。
すなわち旧友は宮中に仕えておりながら、自身は左遷(流刑)されて虫の食った本を読む生活であるという、境遇の差異を慨嘆しているのである。ただ琴は古いものが良いとされる。また自身を琴に形容するあたりは「昔は都で鳴らしたもの」という、自嘲も感ぜられるところである。
(大意)「古い友人は宮廷で重く用いられ、古びた琴のような自分は、虫食いだらけの本を読む毎日だ。」

(9-10句目)「隃麋給尚方、老手擅編劃:隃麋を尚方に給し、老手は劃(か)くを壇編す。」
「隃麋(ゆび)」は漢の時代に製せられ、官員に支給されたという官製の墨である。また尚方は宮廷における器物の製造方。また宮廷内で必要な物品の賄い方でもある。「老手」は物事に習熟して手腕、老練。「壇編」はもっぱら編纂すること。「壇」は「壇名」の「壇」であり、専門家の優れた仕事を暗示している。「劃」は「画」に同じ、運筆して点画を書くことである。すなわち筆書、文書作成を表しているのだろう。
(大意)「官製の隃麋墨は宮中に納められ、老練な官員達によってもっぱら奏上文やさまざまな行政文書の作成にもちいられる」

(11-12句目)「分余幸見及、流落一嘆赧:余幸(よこう)を分かちて見るに及び、流落(りゅうらく)して一嘆を赧(は)じる」
「余幸」を「分かつ」とあるが、「余幸」はすなわち蘇軾が孫莘老から受け取った墨のことで、それはもとより宮中で用いられる官製の墨のだったのであろう。それを分けてもらい、使って見るに及んで「流落一嘆赧」と詠嘆している。「流落」は衰落、すなわち落ちぶれ果てた蘇軾自身のことである。「一嘆」は感嘆することである。文字通「赧」は慙愧することである。
つまり、中央政界を追われた蘇軾は、いまだに宮廷で活躍している孫莘老から官製の墨を送られ、その素晴らしさに感嘆し、ひるがえって落魄した我が身を嘆いているのである。
(大意)「宮廷で高級官僚に下される官製の墨を分けてもらい、流浪の身でこれを使うに、その素晴らしさにかえって慙愧の念をさそわれる」

すくなくとも現代日本においては、文学や美術によって政治や時世を批判、風刺して見せたところで、逮捕、投獄されるようなことはないだろう。「言論の自由」なるものが当然であるかのような現代に生きていると、蘇軾のこの態度はやや卑屈に過ぎるようにも見える。あるは因循とも受け取られかねないところである。
蘇軾にしても、どうも詩文によって朝政批判を行ったという自覚はあったようだ。蘇軾はいたって率直な性格で、若い頃から思ったことをなんでも口に出してズケズケと言ってのけたという。そういった蘇軾の将来を、父親の蘇洵が危ぶんだ文が残っている。
五代六国、隋唐、そして唐末の戦乱を経て、中国の実質的な支配者階級は、門閥貴族から知識人、士大夫階級へと移っていた。宋代、とくに北宋は、歴代王朝の中でももっとも士大夫階級の力が強かったとされる時代である。逆に言えば、皇帝の専制色のもっとも弱かった時期である。士大夫達は皇帝におおいに尊重されていた。明代のように、皇帝に諫言をおこなった士大夫が、その場で撲殺されるなどといったことは絶えてなかった時代である。現代ほどではないにしても、言論に関してはかなり自由な空気があったのだろう。それが新法派と旧法派の対立という、北宋が滅亡する要因を生み出したとも言われている。が、ともかく蘇軾はその時代の人であった。その彼が思いがけず詩文の内容をもとに、不敬の罪を糾弾されるのである。
あるいは自身の文才を皇帝に愛され、その寵を頼んで行過ぎた言動があったのかもしれない。また蘇軾の文才、修辞の能力からすれば、さぞかし人の痛いところを突く事があったであろう。
それがもとで逮捕・投獄という目に遭い、また獄中で獄吏に手荒い扱いを受け、死を覚悟するという経験をしている。王朝時代の政治犯の監獄と言うのはいたって劣悪な環境で、投獄が長期にわたれば衰弱して死に到る事も珍しくなかった。蘇軾は四川省眉山の裕福な家に生まれ、若くして進士に及第し、宮中や都で紳士貴顕と交際してきた。彼にとってはこの逮捕・投獄は、極めて衝撃的な経験であったようだ。この期を境に、蘇軾の作風は一変するのである。
王朝時代の士大夫の中には、皇帝に諫言を行い、罪を受けて死に到った人物は珍しくはない。その剛毅さを賞賛する声もあるにはある。しかし官吏の理想というのは、複雑な宮廷政治の世界を泳ぎきり、最後は郷里に帰農して終わるということである。
蘇軾は仕事が好きな人物であった。杭州の西湖に残る蘇堤をみても、まさに「仕事師」の仕事である。あるいは王安石のように、国家規模での経済政策を考えるほどの構想力はなかったかもしれない。しかし地方にあっては極めてすぐれた行政官であった。仕事が好きな人物というのは、仕事が出来ない状況ほど辛いものはないのである。批判の気分を詩文にのせることで憤懣を紛らわしていたところ、かえって中央での仕事の機会を奪われてしまい、「つまらないことをした」という後悔の念があったとしても不思議ではない。その後悔の念を引き起こしたのも、孫莘老から送られた官製の墨であるあたり、稀代の墨癖家としての蘇軾の面目でもあるだろう。宮中で使われる墨の素晴らしさは、宮廷官僚として働いていた頃の充実感や、同僚との社交の楽しさを思い起こさせるに充分であっただろう。
この「孫莘老寄墨四首」は詩文を糾弾され、宮廷を追われてから「五年」と四首目の詩の中で述べられているから、おそらくは1084年ごろに作られた詩と考えられる。「赤壁賦」の後に作られた詩である。「赤壁賦」の中での壮大な達観が、しかし蘇軾のすべてではないということは、考え合わせる必要があるだろう。
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蘇軾が孫覚に墨を送られてよんだ詩四首 〜第一首目

「孫莘老寄墨四首」は、蘇軾が孫覚(そん・かく)から墨を送られた喜びをうたった詩である(タイトルがくだくだしいが、”莘(しん)”をタイトルに用いると文字化けしてしまうからである)。
孫覚 (1028-1090)は字を莘老(しんろう)といい、高郵(現江蘇省揚州市近郊)の人。北宋初期の文学者にして教育家の胡瑗(こえん)に学び、進士に及第。以後さまざまな要職を歴任した。王安石とも文学的才能を認め合って親交があったが、その政治的意見は異なり、とくに「青苗法」には激しく反対したという。また孫莘老は黄庭堅の「外舅」つまりは岳父である。
蘇軾とも親しい関係であり、この「孫莘老寄墨四首」や「和孫莘老次韵」「孫莘老求墨妙亭詩」などにその交際の跡がみられる。
「孫莘老寄墨四首」は四首の詩から成るが、最後の一首は岩波文庫の「蘇軾詩集」に収録されている。文房四寶と製墨の歴史に関心のある者としては、むしろ他の三首に関心がわくところである。長いので、全体を三回か四回にわけて解釈してみたい。偶数句の末尾に、現代音であるが押韻を示した。続く三つの詩があるが、押韻という点からみると、この一首目がもっとも整っているようだ。

徂徠无老松、易水无良工(gōng)
珍材取楽浪、妙手惟潘翁(wēng)
魚胞熟万杵、犀角盤双龍(lóng)
墨成不敢用、進入蓬莱宮(gōng)
蓬莱春昼永、玉殿明房槞(lóng)
金箋洒飛白、瑞霧萦長虹(hóng)
遥憐醉常侍、一笑開天容(róng)

(1-2句目)「徂徠无老松、易水无良工:徂徠(そらい)に老松(ろうしょう)无(な)く、易水(えきすい)に良工无(な)し」
「徂徠(そらい)」は徂徠山、魯の国(現山東省一帯)にある山で、又は龍徠山、駄来山という呼び名もある。泰山の姉妹山とされる。「易水(えきすい)」は何度も出ているが、現河北省易水県一帯の地域であり、徽州以前の官製墨の中心地である。
(大意)「魯の国に良質な松烟の材料となる老松は尽きてしまい、易水の優れた墨工もいなくなってしまった。」

(3-4句目)「珍材取楽浪、妙手惟潘翁:珍材を楽浪(らくろう)に取るも、妙手は惟(た)だ潘翁(はんおう)」
「楽浪(らくろう)」は楽浪郡のことで、朝鮮半島北部地域に4世紀初頭まで存在した漢王朝の植民地である。高麗王朝が建てられた後は、「高麗」の古称として用いられた。ここで言う「珍材」は高麗からもたらされた献上墨、高麗墨を指す。北宋時代に、高麗の文房四寶がもたらされたことは以前に述べた通りである。また「妙手」は優れた手法、技法、またはそれを操る人。「潘翁」は無論名墨匠の潘谷のことであり、高麗の墨をふたたび砕いてつきなおし、優れた墨を作ったという。
(大意)「楽浪(高麗)からもたらされた珍しい材料(高麗墨)があるが、それを上等な墨に仕上げることが出来るのは潘谷だけである。」

(5-6句目)「魚胞熟万杵、犀角盤双竜:魚胞(ぎょほう)は万杵(まんしょう)に熟し、犀角(さいかく)は双龍を盤(ばん)す。」
魚胞は魚の浮き袋。膠の原料となり、鰾膠あるいは花膠といった。「犀角」は「犀の角」であるが、鹿の角の膠と同じく、膠を採取するために用いられたと言われる。また漢方生薬でもあり、漢方薬としても墨に配合されたという。しかしここでは「犀角盤双龍」とある。犀角といってもおそらくは水牛の角のことで、丈夫で繊細な彫刻が可能である。双龍が李廷珪をはじめ墨の意匠に多く用いられたことを考えると、ここでは「犀角」に双龍の墨型の彫刻を施した、と読める。墨型にはおおく堅い木が使用されたが、まれに象牙や水牛の角で型が作られたという話もある。木製よりも緻密な彫刻が可能であり、また耐久性に優れているのである。
(大意)「魚胞から取った膠を用い、杵で万回もついて成熟させ、硬い犀角に彫った双龍がとぐろを巻いている。」

(7-8句目)「墨成不敢用、進入蓬莱宮:墨(すみ)成(な)って敢えて用いず、進んで入る蓬莱宮(ほうらいきゅう)」
蓬莱宮は長安に存在した唐王朝の宮殿。はじめ「大明宮」といったが、唐の高宗の時代に「蓬莱宮」と改称された。つまりは墨が出来ても使用されることはなく、そのまま宮廷に貢納されたということである。
(大意)「墨が出来ても敢えて使う事はせず、そのまま蓬莱宮へ納められるのだ。」

(9-10句目)「蓬莱春昼永、玉殿明房槞:蓬莱(ほうらい)の春昼(しゅんちゅう)永(なが)く、玉殿(ぎょくでん)明房(めいぼう)の槞(ろう)」
「槞」は窗(まど)のこと。文房(書斎)では採光のために、原則として机は窓に面して置かれるのである。いわゆる「明窓浄机」である。続く11-12句目は、紙を広げて揮毫する場面がうたわれているが、ここではその揮毫が行われる場面を描写しているのである。また「蓬莱春昼永」には「春の陽光のようなおだやかな御世は、永遠に続く」という、いわば「皇帝万歳」の意味が込められている。
(大意)「宮廷の春の昼中はとても永(なが)く、金殿玉楼の部屋の窓には明るい光が差し込んでいる。」

(11-12)「金箋洒飛白、瑞霧萦長虹:金箋(きんせん)は飛白(ひはく)を洒(ふる)い、瑞霧(ずいむ)に長虹の萦(めぐ)る」
「金箋」は金箔をはったり、金泥を塗布した紙。「飛白」はいわゆる「飛白書」のことで唐代に流行し、空海もこれを能くした。「蓬莱宮」というように、この詩では唐の時代を仮定しているが、むろん北宋当時をうたっているのである。揮毫して「瑞霧」が立ち上り、虹がかかるというのは、通常の人に対しては用いられない形容で、つまりは皇帝を寿(ことほ)ぐ意味がある。ここで墨を使って筆を揮っているのは、皇帝自身ということになる。
(大意)「金箔を張った紙に飛白の書を揮毫すれば、神々しい霧が立ち込めて長い虹がかかるようだ。」

(13-14)「遥憐醉常侍、一笑開天容:遥(はるか)に憐(あわれ)む醉常侍(すいじょうじ)、一笑(いっしょう)して天容を開く。」
「遥憐」は遠くから深く想っている事。「醉常侍」は「よっぱらった常侍」ということである。「常侍」は官名だが、皇帝の近臣というほどの意味であろう。そのような形容が当てはまるのは唐の詩人、李白である。「開天容」は後に墨銘として著名になったが、「天容」は皇帝の面差しである。「天容」を「開く」ということだが、「開く」には「赦(ゆる)す」という意味がある。

ここは少し考えたいところだ。そもそも墨が蓬莱宮に運ばれたのち、「玉殿」で使用されるのである。用いる人物はもちろん皇帝である。ゆえに「遥憐醉常侍」というのも「皇帝が遠く離れた醉常侍のことをおもいやる」という意味である。そして「一笑」して「天容」を開くというのだから、ふと笑って「醉常侍」を赦してやる、ということである。
李白は唐の玄宗に仕えたが、酒に酔って勤務を怠ったり都で放言したために宮廷人からは憎まれた。そして詩で皇帝を中傷したと讒言され、都を追われるのである。後に反乱軍に加担したと疑われ、流刑にあうも赦免されている。
この李白の故事に、当時の蘇軾自身の境遇が重ねられていると考えられる。北宋神宗帝の御世では、新法派と旧法派の派閥争いが激化していた。蘇軾は旧法派に属していたが、新法派からその詩が皇帝を誹謗・中傷していると言い掛かりをつけられ、失脚して投獄されている。なんとか死罪は免れたが、都を追われて(左遷)されているのである。蘇軾は挫折と流転を重ね、加齢とともに円熟味を増して行くが、若い頃は才能に任せて人もなげな振る舞いがあり、友人も多かったが敵も作ったようだ。詩の内容を詮議立てされ、宮廷を追われることになるのは李白に同じである。
つまり蘇軾から皇帝(神宗)に向けて「都を追われて飲んだくれている、かつてのあなたの近臣を憐れと思し召し、一笑に付してお許しください」と懇願している内容ともとれる。時の皇帝神宗は王安石を起用し、新法の施行を進めることで国政の刷新を図ろうとしていた。蘇軾は旧法派の中でも重要人物のひとりであったがために、新法派から激しい攻撃をうけることになった。しかし詩をもって皇帝を批判しながらも、からくも死罪を免れたのは、神宗自身の計らいという説がある。蘇軾は神宗からその文学的才能を高く評価されおり、おそらく蘇軾もそのことを自覚していたに違いない。この関係は、李白と玄宗の関係にも類似しているが、玄宗も周囲に李白の批判者が増えたため、仕方なく李白を追放したといわれる。
「孫莘老寄墨四首」は、孫莘老が墨を贈ってくれた喜びと感謝をうたうと同時に、自らの「筆禍」によって宮廷を負われた身を嘆き、また赦免を乞い願う心情がみてとれる。またむしろ皇帝に向けた内容というよりは、弾劾者達に向けた内容であるとも読める。神宗と自分との関係は、玄宗と李白の関係のようなものであり、皇帝こそは理解者であるというわけである。
詩に古代の帝王が詠まれるのは、時世を直接詩に詠む事を憚ってのことであり、古代の王朝を題材にとっていても、その内容は時事を扱っていることを読み取らなくてはならない。
ともあれこの一首目は、優れた献上墨と、自ら筆を揮い文事に心を寄せる皇帝がえがかれ、さらに高麗からの「献上墨」あるいは「双龍」や「春昼永」「瑞霧」と寿(ことほ)ぎと瑞兆がちりばめられることで、見事な皇帝礼賛の詩になっている。

「開天容」は、明代萬暦年間の名墨匠、潘方凱が墨銘に用いている。一首目には北宋の名墨匠潘谷がうたわれており、潘谷の後裔を称していたといわれる潘方凱が「開天容」を得意の墨銘に用いた理由も察せられる。奇しくも明代萬暦年間の皇帝の諱は「神宗」であり、この詩がつくられた北宋の皇帝と諱を同じくしている。「開天容」という墨銘は、多分に献上墨を意識した名であることも考えるべきであろう。
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蘇軾の製墨法 〜「蘇東坡全集」より

先に葉夢得の「避暑録話」が、蘇軾が潘衡と墨を製した確実な資料であるなどと述べた。しかし蘇軾の文章を集めた「蘇東坡全集」にも、蘇軾自身の文として、海南島で墨を製したことが記録されている(まったく、いい加減なことを言うものではない....)。すなわち「書潘衡墨」がそれである。ここには、息子の蘇過が語ったような失敗談ではなく、立派な墨が出来たことが述べられている。

(原文)金華潘衡初来儋耳、起竃作墨、得烟甚豊、而墨不甚精。予教其作遠突寛竃、得烟几減半、而墨乃尓。其印文曰“海南松煤東坡法墨”、皆精者也。常当防墨工盗用印、使得墨者疑耳。此墨出灰池中、未五日而色已如此、日久膠定、当不減李廷珪、張遇也。元符二年四月十七日。
「金華(きんか)の潘衡(はんこう)、初めて儋耳(せんじ)に来(きた)る、竃(かまど)を起こし墨を作る、烟を甚(はなは)だ豊(ゆたか)に得(え)る、而(しこう)して墨は甚(はなは)だ精(せい)ならず。予は其(そ)の突(とつ)を遠く竃(かまど)を寛(ひろ)く作(つく)るを教える、得(え)る烟は几(およ)そ半(なか)ばに減ず、而(しこうし)て墨は乃(すなわ)ち尓(そ)れ。其(そ)の印文に曰(いわ)く“海南松煤東坡法墨”、皆(み)な精(せい)の者。常(つね)に当(まさ)に墨工の印を用(もち)いるを盗むを防ぐ、墨を得る者を疑(うたがわ)しむ耳(の)み。此(こ)の墨は灰池中より(しゅつ)す、五日に未(み)たず而色(いろ)は已(すで)に此(こ)の如し、日の久(ひさし)くして膠(にかわ)の定(さだま)る、当(まさ)に李廷珪、張遇に減ぜず。元符二年四月十七日。 」

(浅解)潘衡は銭塘の人とされているが、蘇軾の認識では(金華ハムで有名な)金華の出身ということになっている。ともに現在では浙江省に含まれる地域である。ともかく潘衡が蘇軾を訪ねて墨を製したのは、事実であったようだ。「避暑録話」では煤を採る過程で小屋を焼いてしまい、悄然と立ち去ったように語られているが、ここでは竈を構築し、きちんと墨を造り上げている。またその製造にあたって、蘇軾が製法上の指導を行っている。とすれば「東坡秘法」もあながちな話ではないのだろう。小生は油烟墨を製したのではないかと考えたが、ここには明らかに松烟墨を製している。
蘇軾が指導した内容は、「作遠突寛竃」とある。すなわち松を燃やす竈の容積を広くし、また「突(とつ)」、つまりは烟(けむり)を通して煤を付着させる煙突を、火から遠ざけたと考えられる。近代の松烟の採取法も、小高い山の麓で松を燃やし、山腹に沿ったトンネルに烟(けむり)を通して、付着した煤を採る。頂上付近の煤がよいとされる。
竈を広くさせたのはなぜだろう。竈を広くすることで、より多くの松を燃やす事が出来るだろう。しかし「(烟)突」を遠くしたために、燃焼させる松に対して、採取できる煤はより少なくなる。これが良質な松烟が採れる所以であろうか。
そして完成した墨に、「海南松煤東坡法墨」と印している。そして「常当防墨工盗用印、使得墨者疑耳」とある。名工と認められるほどの墨匠は通常、墨に墨匠の名を印するが、もちろん名墨匠の印を盗用する者も後を絶たなかったであろう(現代に至るまでそうである)。そこで盗用を防ぐために墨匠自身が印の書体を変える、あるいは印文を押さない墨も作られたと考えられる。たとえば明代の古墨などにも、無款の墨は思いのほか多いものである。しかしそれは「使得墨者疑耳」と、墨を得る者に「これは誰の墨だろう?」と疑問を起こさせるだけである、と言っている。この機微などは、いかにも多くの墨を賞玩し、鑑別した蘇軾らしいとおろである。無款の墨を多く鑑別したであろうし、残墨や破断した墨など、必ずしも墨匠の名の印を確認できない墨も多く見てきたであろう。
このことは現代における古墨の鑑別にも当てはまることであるが、残墨などで墨匠の名が認められなくても、懸絶した墨質や造形上の特色によって「汪近聖(だろう)」とか「汪節庵(だろう)」ということは言えなくも無い。しかし墨面にそれが認められなければ、永遠に「だろう」としかいえない。これはなかなか釈然としない気分にさせられるのである。墨の質が良く、かつ印文に墨匠の名が冠せられているときに、初めて「汪近聖」などと断言する事ができるのであり、これはこれでスッキリするものである。
まして蘇軾ほどの具眼の士であれば、印文を偽ったところで、墨の良否を見れば真贋を見分けるのは容易であっただろう。墨匠の名を偽るのは、もともと質の悪い墨を高値で売るのが目的なのである。蘇軾にしてみれば、良い墨であれば是非とも名工の名を款するべきと考えていたのではないだろうか。それは蒐集し、使用する立場の蘇軾の発想であり、製墨を生業とする墨匠達とは、やや異なる発想であると言えるかもしれない。ともあれこの「海南松煤」が、のちに転じて「南海松煤」あるいは「南海松烟」に変わったのであろう。
こうして出来た墨が、李廷珪や張遇に劣らないと言い切るあたりは、相当な自信である。蘇軾自製の墨はもちろん伝存しないが、蘇軾を製墨家の一人として数えるのも、あながちなことではないようだ。
また年号が明記されている。「元符二年」は西暦の1100年である。蘇軾は翌年の元符三年、流罪を許されて海南島から都へ帰還する途上、病でこの世を去っている。

(大意)
「金華の潘衡が初めて儋耳(海南島)へ来たときにに、竈を造り上げて墨の製作をはじめた。ところが煤が非常に多く採れたものの、墨はまったく良いものではなかった。私はその煙突部分を遠ざけて、竈を広くするように指導した。それで得られる煤は半分になってしまい、(作られる)墨も煤に応じて少なくなった。(こうして作られた)墨の印文に“海南松煤東坡墨”とあるものは、皆良い墨である。常々あることだが、墨工が名工の印を盗用することを防ぐために(印文を墨面に用いないのは)、墨を入手する者に疑いを起こさせるだけである(なので印文を施したのである)。この墨は(乾燥のため入れておく)灰の中から出すのを、(型入れして灰にいれてから)五日に満たなくても、色は既にこのようである。日数が経過して膠が落ち着くと、まったく李廷珪や張遇の墨に劣るものではない。元符二年四月十七日。」
また「書海南墨」という短い文がある。
(原文)「此墨吾在海南亲作、其墨与廷珪不相下。海南多松、松多故煤富、煤富故有择也。」
此(こ)の墨は吾(わ)が海南に在りて親(したし)く作(つく)る、其(そ)の墨は廷珪(ていけい)と相(あ)い下(くだら)ず。海南は松(まつ)多く、松多(おお)く故(ゆえ)に煤(ばい)は富(と)む、煤(ばい)の富(と)むは故(ゆえ)に擇(たく)有(あ)り。

(浅解)「此墨」とあるが、この文章はおそらくは海南島で製した自製墨を、誰かに贈る際につけられた文であろう。それが蘇東坡全集に収録されたと考えられる。「在海南」とあるから、海南島から去って都へ帰還する途上の文であろう。最晩年の文章ということになる。ここでも海南島は松が多く、豊富な松を利用して良墨を作ったと述べ「李廷珪に劣らない」と、自賛しているのである。

(大意)この墨は、私が海南に滞在していた時に、自ら手作りした墨である。その墨は李廷珪の墨にも劣らないものである。海南(島)は松が多く、松が多ければ煤は豊富である。煤が豊富であるから、良い煤を選ぶ事もできるのだ。

では蘇軾が海南島で作っていたのは松煙墨だけであり、油烟墨は作らなかったのであろうか?海南島かどうかは定かではないが、蘇軾は油烟墨を製したことを、自ら詳細に語っている。すなわち「書所造油烟墨」がそれである。

(原文)凡烟皆黒、何独油烟為墨則白、盖松烟取遠、油烟取近、故為焔所灼而白耳。予近取油烟、才積便掃、以為墨皆黒、殆過于松煤、但調不得法、不為佳墨、然則非烟之罪也。
凡(およ)そ烟(えん)は皆(み)な黒(くろ)、何(なんぞ)独(ひとり)り油烟の墨の則(すなわち)白(はく)を為す、盖(けだ)し松烟の遠(とおき)を取り、油烟の近(ちか)きを取る、故(ゆえ)に焔(えん)の灼(しゃく)す所を為す而(しこう)して白(はく)耳(の)み。予は油烟(ゆえん)の近きを取り、才(わず)かに積(せき)すを便(すなわ)ち掃(は)く、以為(ことごと)く墨は皆(み)な黒、殆(ほとん)ど松煤を過ぎる、但(ただ)し調(ちょう)に法を得ざれば、佳墨を為さず、然(しかれ)ども則ち烟の罪に有らざるなり。

(浅解)実に詳細に油烟の製法を語っている。ここでわかるのは、北宋期における油烟墨の認知度である。どうやら当時の世間一般では、松煙は黒いが、油烟は白い、という評価があったようだ。もちろん「白い」というのはいささか誇張があるが、松烟墨に比べて「シラッ」とした墨色であるということであろう。これはやや後代の葉夢得が、胡麻油は黒いが桐油は白い、と述べている内容と符号している。蘇軾がどのような種類の油脂を燃やしたのかは、ここでは定かではない。しかし油烟そのものが良くないのではなく、その製法に問題があるのだと述べている。
その問題を松烟の製法と比較して論じているのだが、すなわち松烟は焔から遠いところで煤を採るので問題ないとしている。反面、油烟は焔に近いところで採取しているので、煤が焔に熱せられてしまい、それで白くなるのだろうと推測しているのである。推測だけではなく、自ら実践してそれを証明している。その論理の科学性はさておき、思考態度は非常に科学的なのである。しかも驚くべき事は、近代における油烟の採取法の論理とも一致しているのである。
1950年代の終わり、曹素功を継承した上海墨廠によって、はじめて近代的な採烟法が確立されている。その後70年代にはいり、油烟101〜油烟104までの墨が作られたことは周知の通りであるが、このうち油烟103と油烟104は「回収烟」が用いられている、と以前に述べた。回収烟とは、すなわち油脂を燃焼させる装置の中で、装置の壁面に付着せずに浮遊しながら滞留を続けている煤である。この煤も回収し、油烟103、油烟104が作られるわけであるが、油烟101、油烟104よりは劣った煤である。その理由として、長い間に装置の中を浮遊することで過度に熱せられるからだという。
蘇軾は「才積便掃」と、わずかに容器に煤が付着したところで、それを掃いて集めているのである。油烟を採取する場合は、灯心を立て、焔を半球状の容器で覆い、付着した煤を採る。もちろん放っておけば煤は次々に容器に付着し、熱せられ続けるだろう。手間をかけずにルーズに油烟を取ろうとすれば、その方が楽である。それを蘇軾は短い時間間隔で煤を集め、過度に煤が熱せられるのを防いでいるのである。
油烟の採取法については、他にも明代の程君房が「程氏墨苑」の自序文で詳細にのべている。しかしその意味するところは、油烟の製法をある程度知る者でなければ、理解しがたいところである。

(大意)「およそ煤というものは、皆黒いものである。どうして油烟の墨のみが白いのであろうか?それはおそらく、松烟は火から遠いところを取り、油烟は火から近いところを取るために、(油烟は)焔で熱せられてしまったところを取るのであるから、白くなってしまうというだけだろう。私は油烟を採取するときに、焔から近いところを取るのであるが、わずかに煤が(容器に)付着したところで(煤を)掃いて集めるのである。(こうしてとった油烟からつくられた)墨はことごとく黒いものであり、ほとんど松煙をしのぐほどである。ただし、墨の配合法が理にかなっていなければ、良い墨にならないものだ。しかし(良い墨にならなかたとしても、それは配合法が悪いためであり)油烟が(墨の原料として)悪いと言う意味ではない。」

「蘇東坡全集」に収録されている文から考えると、蘇軾は松烟のみならず、油烟の製法も試みていたようだ。現代の墨匠も、古典籍に現れる墨の製法について色々読んでいる。しかし古人の言とはいえ、そのすべてが正しいとはいえないということだ。墨の製法に無知な人間が、巷間に流布している俗説を、自己流に解釈して記述している文も多いという。(似たようなことは現代の好事家連の間でも見られるが)墨の製法は秘伝であり、濫りに外部に漏らさないのである。ゆえに継承が為されないと、喪われることも多い。
「蘇東坡集」に収録されている松烟墨や油烟墨の製法に関しては、その性質や製法、良否に通じた人物でなければ書く事が困難な、核心を突いた内容である。依然として松烟墨が盛行するなか油烟の製法に着目し、改良工夫を重ねた蘇軾の、製墨業に対する貢献は非常に大きいと言えるだろう。時代の葉夢得の文からも伺えるように、北宋後期から南宋初期にかけては、油烟墨の製法が充分に確立、定着していなかった時期であると考えられる。
油烟の製法に言及する際に「但調不得法」と、配合法がうまく無いと、良い墨は出来ないと言っている。配合法の中心は、やはり膠との混合にあったであろう。現代でも、松烟墨と油烟墨では、膠との配合比率が異なるものである。
つまりは蘇軾、油烟墨の製作に際しても試行錯誤を繰り返したのであろう。「但調不得法、不為佳墨」という言には、失敗の数々を暗示させるものがある。とすればやはり、海南島で潘衡と試みたのは、松烟墨と同時に油烟墨もあったのではないだろうか?古来から製法が既に確立されている松烟の生成に際して、失火による火災事故というのはいささか考えにくいものである。潘衡も自ら竈を作るほどであれば、製墨の素人ではなかったであろう。
蘇軾の息子の蘇過(1072〜1123)の記憶では、夜半に失火したことになっている。油烟を採取する作業が夜更けまで続き、ついウトウトしたときに灯心を覆う容器を外すのを忘れ、加熱されて発火点に達した油が一気に燃え広がったのではないだろうか......あくまで推測だが........蘇過も松烟墨における成功の数々よりも、失敗した油烟墨の方が印象に残ったのかもしれない。膠を蘇軾自ら作り、配合がうまくゆかなくて形にならなかったところなども、あるいは「但調不得法」と符号する内容である…….蘇過は膠がなかったので牛皮から造ったと述べているが、膠がなければ松烟墨も造れない。蘇軾の試行錯誤の様子が、蘇過の記憶にはそのように残ったのかもしれない。製墨に通じた蘇軾と潘衡をして、失敗に終わらせるほどの墨というのは、松烟墨というよりはやはり油烟墨であったと考えたいところである(確証はないが)。
蘇軾の「書所造油烟墨」は、いつ頃書かれた文であるかは定かではないのであるが、あるいは潘衡が去った後も蘇軾は油烟墨の研究を重ね、その製法を完成させたのちに書かれた文であるとも考えられる。無論、それがどのような墨であったかは確かめる術がない。しかし欧陽季黙から送られた、照明用の灯火の煤を集めた油烟墨とは、明らかに別格の墨であっただろう。やはり蘇軾の製墨というのは、製墨史においても時代を画する出来事であった。
雪堂で数百の墨を試し、李廷珪の墨を用い、名墨匠の潘谷と親しく、墨の賞玩にかけては並ぶものがなかったであろう蘇軾である。しかしその晩年に至っても自ら墨を製するなど、その愛好と探求の念は、窮まるということがなかったのであろう。
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葉夢得と文房四寶

宋詞の作者として知られ、北宋から南宋にかけて活躍した葉夢得(よう・むとく:1077〜1148)であるが、傑出した行政官であり、政治家でもあった。北宋末期には悪名高い蔡京との交際が緊密であったが、蔡京に対してもよく直言してこれを改めさせた、数少ない人物の一人であるとされる。
紹興の和議が成る前には、金軍に対する最前線の江東安撫大使、建康(現南京)の知府、を兼任し、よくこれを守っている。岳飛ほどの華々しさはないが、抗金の戦いに果たした役割は大きい。秦檜との関係は定かでは無いが、交友関係から察するとどうも距離をおいていたようにとれる。しかし岳飛をはじめとする軍閥の首領達のように、強硬な主戦派ではなかったようだ……秦檜への歴史の評価はいささか不当であるとおもうのだが…..紹興の和議の後は金との国境を離れ、福州の知府を任されている。晩年は湖州卞山石林谷に隠居し、石林居士と号し、読書吟咏の日々を送ったという。
葉夢得は若い頃に、蘇軾(1034〜1101)に師事したという伝承もある。その真偽は別としても、葉夢得は特に蘇軾の詩詞を愛し、これを深く学んでいた。宋代を代表する詞(詩ではない)の作者である葉夢得の作品には、蘇軾の詩詞の影響が色濃い。また葉夢得の蘇軾への傾倒ぶりには、詞や文章以外の、嗜好にまで及んでいたと考えれられるところがある。文房四寶、特に墨への愛着がそのひとつであり「避暑録話」には文房四寶、とりわけ墨にたいする葉夢得の見識の高さが現れている。また、その賞玩の姿勢には多分に蘇軾からの影響が感じられるのである。
先に蘇軾が潘衡と墨を製したことが書かれている箇所を紹介したが、他にも文房四寶に関わる記述があり、葉夢得の文房四寶の愛好の念と造詣の深さを窺うことができる。
原文は簡潔にして論旨が明快であり、いたって読みやすい文である。蘇軾と潘衡の故事を紹介するにあたっては、大意のみを示すに留めたが、以下には原文に拙い書き下しを併載する。
葉夢得と文房四寶(原文)「世言歙州具文房四宝、謂筆、墨、紙、硯也、其実三耳。歙本不出筆、盖出于宣州。自唐惟諸葛一姓世伝其業、治平、嘉祐前有得諸葛筆者、率以為珍玩、云“一枝可敵他筆数枝”。 熙寧后世始用无心散卓筆、其風一変。諸葛氏以三副力守家法不易、于是浸不見貴、而家亦衰矣。」
世に言う歙州(きゅうじゅう)は文房の四宝を具(そな)えると、筆、墨、紙、硯と謂う、其の実は三(さん)耳(の)み。歙(きゅう)は本(もと)より筆を出さず、盖(けだ)し宣州より出(いづ)る。唐より惟(た)だ諸葛の一姓が世(よ)に其の業を伝える、治平、嘉祐の前の諸葛筆を得るを者有れば、率(み)な以って珍玩と為し、“一枝は他の筆の数枝に敵う可し”と云う。」熙寧の后、世に无心散卓筆を用い始め、其の風は一変す。諸葛氏は三副に力(つとめ)て以って家法を守って易(か)えずも、是(これ)において浸(ようや)く貴(き)と見られず、而(しこう)して家も亦(ま)た衰(おとろえ)るや。

(浅解)注意すべきは「三副」という語であろうか。三種類の毛筆を指し、それぞれ栗尾筆、枣核筆、散卓筆である。黄庭堅の 「林為之送筆戯贈」詩に“ 閻生作三副、規摹宣城葛 。”とある。

(大意)世間では歙州は文房四寶、いわゆる筆、墨、紙、硯を具えているというが、その実は三つのみである。歙州ではもともと筆を生産していないのであり、これは宣州の筆を(歙州で産すると)誤解したものであろう。唐の時代より、ただ諸葛氏のみが宣州の筆業を継承し、治平、嘉祐年間以前の諸葛筆を持っている者は、こぞってこれを珍玩となし「一本の筆で、他の数本の筆に敵(かな)う“と言っている。
熙寧の後に世間では無心散卓筆が用いられ始め、(製筆の)風は一変したのである。諸葛氏は三副(筆)の製作に注力し、家伝の製法をかえることなかったが、その後だんだんと貴ばれなくなってきたから、あるいはその家も衰えたのだろう。
葉夢得と文房四寶(原文)「歙州之三物、硯久无良材、所謂羅文眉子者不復見、惟竜尾石捍堅拒墨、與凡石无異。欧文忠作「硯譜」、推歙石在端石上、世多不然之、盖各因所見尓。方文忠時、二地旧石尚多、豈公所有適歙之良而端之不良者乎?」
歙州の三物は、硯の久しく良材なく、所謂(いわゆる)羅文(らもん)眉子(びし)の者は復(かさね)て見ず、惟(おもう)うに竜尾石の捍堅(かんけん)にして墨を拒むは、凡石と異(こと)なる無し。欧文忠作「硯譜」、歙石は端石の上に在りと推す、世の多くは之を然らざるとす、盖(けだ)し各(おの)おのの所見に寄るや。方(まさ)に文忠の時、二地の旧石は尚(な)を多く、豈(あ)に公の所有は歙(きゅう)の良に適い而(しこう)して端の不良の者ならん。

(浅解)欧文忠は欧陽脩のこと。「硯譜」は日本でも広く知られている。以前に蘇軾の「万石君羅紋傳」を紹介したが、その文でも歙州の佳材が世に少なくなったことを嘆いていることに注意したい。

(大意)歙州の他の三つの物のうち、硯は長らく良材がなかった。いわゆる羅紋や眉子の物が再びみることができず、龍尾石といえど硬くて墨を拒む(最近の)石は、凡石となんらかわるところがない。欧文忠(陽脩)が著した「硯譜」は歙州を端溪石の上に推しているが、世間の多くはそのことを認めてはいない。おそらくはおのおので見るところが違うからであろう。まさに文忠公が存命んころは、歙州と端溪の旧石がいまだ多くあり、おそらくは公が所有していた歙州石が良いもので、端溪石があまりよくないものだったのではないだろうか。

(原文)「紙則近歳取之者多、无復佳品、余素自不喜用、盖不受墨、正與麻紙相反、雖用極濃墨、終不能作黒字。」
紙は則(すなわ)ち近歳に之を取る者多くも、復(かさ)ねて佳品なし、余は素(もと)自(よ)り用いるを喜ばず、盖(けだ)し墨を受けず、正に麻紙と相反し、極濃墨を用いると雖も、終(つい)に作黒字を作するあたわず。

(浅解)紙について述べている。墨の発色が紙によって決まる事をよく述べている。「麻紙」と「相反」とあるが、これは麻紙とちがった性質を有する紙、という意味なのか、麻紙で裏打ちした際に反り返ってしまう、ということを言っているのか。麻紙は一般には筆書に用いる紙ではないのである(用いられる事もあるが)。

(大意)紙は近年になってこれを多く手に取ったが、昔に比べて良い物はないから、私はもとより使うのを好まない。そもそも墨を受けつけず、まさに麻紙と相反する性質で、極めて濃い墨を用いたといえども、ついに黒々とした字画を書くことができない紙である。
葉夢得と文房四寶(原文)「墨惟黄山松豊腴堅縝、與他州松不類、又多漆、古未有用漆烟者、三十年来人始為之、以松漬漆并焼。」
墨は惟(おもう)に黄山の松で豊腴にして堅縝、他州の松に類(るい)せず、又漆も多、古(いにしえ)は未だ漆烟を用いる者有らず、三十年来人は始めて之を為す、松を以って漆に漬(ひた)して并(あわ)せ焼(や)く。

(浅解)ここでは黄山の松を賞賛し、また製墨材料としては、やはり松脂を多く含んだ老松を求めていると考えられる。また漆烟の製造に言及している点も注意したい。油烟と並んで漆烟もまた明代に盛んに製せられたと言われているが、葉夢得の言のとおりであれば、その端緒は北宋末期から南宋初期にみることが出来ると考えられる。またその製法であるが、松を漆に漬し、おそらくは乾燥した上で焼いたのであろう。明代における漆烟が、多くは桐油と混合されて製せられたのとは異なっている。また水溶性であり、液体のままでは燃やす事が出来ない漆から、どのようにして煤をとったか?という疑問に対しても、ひとつの答えを出している。

(大意)墨はただ黄山の松で松脂が豊富で硬く引き締まったもの、他の地域の松とは異なったものが良い。また漆も良いが、古来は漆烟を用いる者はなく、ここ三十年来ではじめて漆を燃やして煤をとるようになったのであり、これは松を漆に浸して一緒に焼き、煤を採るのである。
葉夢得と文房四寶
(原文)「余大観間令墨工高慶和取煤于山、不復計其直。又嘗被命館三韓使人、得其貢墨碎之、参以三之一、既成、潘張二谷、陳瞻之徒皆不及。」
余は大観の間に墨工の高慶和に令して山に煤を取らしむ、復(ま)た其の直を計らず。又嘗(かつ)て館の命を被って三韓に使いし人、其の貢墨を得て之を砕き、三之一を以って参じ、既(すで)に成る、潘張二谷、陳瞻の徒は皆(み)な及ばず。

(浅解)「潘張二谷」と言っているが、潘谷と張谷のことで、張谷はすなわち張遇の子である。陳瞻もまた潘谷と同時代の名墨匠である。

(大意)私は大観年間に、墨工の高慶和に命じて山で煤を採取させたが、以来そのような理にかなったことをはかっていない。またかつて翰林館で命をうけて三韓(朝鮮)に使いしたときに、(もらった)貢墨を砕き、三つの墨をひとつに合わせて練り直した。それが完成するや潘谷や張遇、陳瞻といった名墨匠の墨も及ばなかったのである。

(原文)「喪乱以来、雖素好事者、類不尽留意于諸物。余頃有端硯三四枚、奇甚、杭州兵乱亡之、慶和所作墨亦无遺。毎用退墨硯磨不黒滞筆、如以病目剰員御老鈍馬。」
喪乱以来、素(もと)より好事者と雖も、類(るい)して諸物に意を留めるを尽くさず。余の頃は端硯三四枚を有し、甚(はなは)だ奇とするも、杭州の兵乱は之を亡ぼし、慶和の作る所の墨も亦(ま)た遺(のこ)るなし。毎(ことごと)に用いるに墨を退ける硯で磨すも黒からず筆は滞るは、病目の剰員を以って老いた鈍馬を御するが如し。

(浅解)「喪乱」とあるのは、もちろん北宋が金の侵入によって滅び、長江以北を喪失した戦乱を言う。葉夢得は1148年に亡くなっているが、南宋が平和に安定するのは紹興12年(1142)に「紹興の和議」が成ってからである。この「避暑録話」が書かれた時期は、葉夢得自身の序文によれば紹興5年の5月から6月にかけてであるから、まだ岳飛も存命で抗金の戦いに活躍していたころであった。戦時下にあっては、文化面でのゆとりをみなかったに違いない。北宋の最末期である徽宗皇帝の御世は、北宋文化が最盛期を迎えた時期であった。徽宗に仕え、南宋に遷って後も抗金の戦いの最前線で活躍した葉夢得としても、つい往事を想わずにはいられなかっただろう。

(大意)(宋室が金によって華北を追われた)戦乱以来、もとより好事家といえども、それら文房四寶に意を留める事を尽くさなくなった。私はその昔は端溪硯を三、四面ほど有して、はなはだ珍重していたが、杭州の兵乱によって喪われてしまい、高慶和の作った墨ももはや残っていない。いつも使っている墨は硯の鋒鋩を摩滅させ、また黒くなく、(墨液が粘って)筆を滞らせる。(その頼りなくことがはかどらない様子は)あたかも目を病んだ乗り手が、老いた鈍馬を御するが如しである。
葉夢得と文房四寶(原文)「今世不留意墨者多言未有不黒、何足多較?此正不然。黒者正難得、但未嘗細別之耳。不論古墨、惟近歳潘谷親造者黒。他如張谷、陳瞻與潘使闕徒造以応人、所求者皆不黒也。写字不黒、視之耄耄然、使人不快意。」
今の世の意を墨に留めぬ者は多く未だに黒からず有らざるを言う、何ぞ多きに較(かく)するを足る?此正に然らざる。黒者は正に得難し、但(た)だ未だ嘗(かつ)て之を細別せぬ耳(の)み。古墨は論ぜず、惟(おもう)に近歳の潘谷が親造の者は黒し。他の張谷の如き、陳瞻と潘の闕(そ)の徒に造らしめて以って人に応ずる、求める所の者は皆なく黒からず。字を写して黒からずは、之を視ても耄耄然とし、人をして意を不快せしむる。

(浅解)今の若い者は、墨が黒くないわけはないじゃないかというが、そういう連中はいったいどれほどの墨を見比べて言っておるのか。本当に黒い墨ってのはまたくもって得難いものじゃ、というところであろう。この葉夢得の詠嘆などは、そっくり現代にも当てはまるかのようである。
またここなどは、蘇軾が雪堂で数百の墨を試し、心に叶う黒はほんの数個に過ぎないと述べた故事が下敷きにあるようだ。またやはり蘇軾の親友であった潘谷の墨を第一に挙げている。しかも潘谷が親しく造った墨、つまりは自製した墨などは良いが、名墨匠といえど門人に指示して作らせたような墨は黒くない、と言っているのである。

(大意)今の世間で墨に意を留めない者も言葉数だけは多い割りに、黒くない墨は無いと言っているが、いったいどれほど多くの墨を比較検討したというのだろう?そんな(簡単な)話ではないのである。本当に黒い墨というのは、全く得難いものなのだ。ただ(世間の者達は)単に細かく鑑別できていないだけなのである。もちろん古い墨、一昔前の潘谷が自ら製した墨などは黒いといえるだろう。他に張谷(張遇)、陳瞻や潘(谷)が、需要に応じてその弟子達につくらせたような墨は、求めたところで皆黒くはないものだ。字を書いても黒くなく、之を視ても墨色は朦朧として曖昧で、人を不快な気分にさせるものである。

(原文)「平生嗜好屏除略尽、惟此物未能忘、数年来乞墨于人、无復如意。近有授余油烟墨法者、用麻油燃密室中、以一瓦覆其上、即得煤、極簡易。膠用常法、不多以外料参之、試其所作良佳。大抵麻油則黒、桐油則不黒、世多以桐油賎、不復用麻油、故油烟无佳者。」
平生の嗜好は屏(へい)して除(のぞ)き略すを尽くす、惟(た)だ此の物は未だに忘れるを能(よく)せず、数年来墨を人に乞い、復(ま)た意の如く生し。近くに余に油烟墨の法を授ける者有り、麻油を用いて密室の中に燃やし、一瓦を以って其の上を覆い、即ち煤を得る、簡易(かんい)を極める。膠は常法を用い、多からぬ外料を以って之に参じ、其の作る所を試すに良佳(りょうか)。大抵の麻油は則ち黒く、桐油は則ち黒からず、世の多くは以って桐油を賎(さげす)むも、復(ま)た麻油用いず、故(ゆえ)に油烟に佳(よ)き者はなし。

(浅解)戦時下にあって、往年の文雅な楽しみはすべて控えざるえなかったのかもしれない。しかしそれでも「惟此物未能忘」と、佳墨を楽しむことだけは忘れられずにいる、ということである。葉夢得の墨への想いの深さを見るようである。
また葉夢得も製墨を試みており、これは油烟墨である。麻油とあるが、胡麻油のことである。また胡麻油を桐油より良いとしているが、宋代に油烟墨が作られ始めた頃は、桐油の評価が低かったようである。しかし明代の多くの名墨匠は、桐油を使って佳墨を製している。ひとつには、油烟の生成技術が明代において向上したためであろう。
江南の開発はすでに五代六国の時代から始まり、隋唐を経て北宋に続いたが、南宋にいたってその生産量が劇的に増大している。国土の半分以上を失いながら、南宋の税収と食糧生産力は北宋を凌ぐほどにいたったほどである。余剰ともいえる生産力は、紹興の和議による和平後、南宋文化の爛熟を支えている。
油脂の原料となる胡麻にせよアブラギリにせよ、基本的に南方の産物であり、その消費量・生産量も南宋にいたって増大したことは想像に難くない。食用ないし照明用の需要以上の油脂の生産が、高級墨が松烟墨にかわって油烟墨となる背景にあるといえるかもしれない。

(大意)このごろ私は日ごろの楽しみを失っており、なんでも簡略に済ませてしまっているが、ただ此の物(墨)の楽しみだけは未だに忘れることが出来ない。それでここ数年来、人に良い墨を乞うているのであるが、昔のように意のままになるというわけにはゆかないものだ。近頃、私に油烟墨の製法を授けてくれる人物がいた。麻油(胡麻油)を密室の中で燃やし、瓦を使って灯心を覆い、その煤を得るという方法で、とても簡単なやり方である。膠は通常の方法を用い、さらに添加する材料も多くはない。試しに作ってみたところ、良い物であった。大抵の(胡)麻油は黒いが、桐油は黒くない。世間の多くは桐油を蔑んでいるが、(かといって)麻油を用いようともしない。ゆえに(世間で流通している)油烟墨に良い物はないのである。
(実はこの後に続く文章が、蘇軾と潘衡の故事なのである。)
葉夢得と文房四寶油烟が主流になる、というのはあくまで高級墨の世界である。学童用、事務用、印刷用をも含む、墨の需要全体の中では、依然として松烟が必要とされ続けたと考えられる。また灯明や鍋窯などからかき集めた煤も、いたって下等な墨の原料に使われていた。
墨匠の銘の入った墨というのは、やはり特別な存在なのであり、学童の日常の学習や、役所、商店での事務に使用されていたわけではないことは、注意が必要だろう。庶民にいたるまで油烟墨を手にすることができるようになったのは、少なくとも清朝後期を待たなければならないと考えている。
ともあれ、激動の時代を生きた葉夢得、戦時下にあっても墨だけは良い物を使いたかったようだ。蘇軾を敬慕し、佳墨を求める心には、古きよき(北宋)時代をしのぶ気持ちがにじみ出ている。徽宗皇帝の御世を知り、また当時の超一級の文化人でもあった人物にしてかくの如しである。現代の人のように、北宋・南宋といえば陶磁器や絵画などを想起するのとは、また違った価値観があったと考えられるのである。やはり北宋・南宋においても、墨というのは特別な文物なのであったと、思わざるをえない。
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蘇軾と油烟墨 〜「欧陽季黙以油烟墨二丸見餉各長寸許戯作小詩」

松烟墨が主流であったと考えられる宋代であるが、油烟墨が皆無ということではなかった。明代に本格化する油烟墨の製造は、その普及の端緒は宋代に現れていたと考えていいだろう。理由のひとつには松烟の原料となる松林の資源が不足し始めたこと、また江南の開発の進展によって、油脂の生産量が徐々に増加したことが挙げられるかもしれない。
北宋の蘇軾の詩に「欧陽季黙以油烟墨二丸見餉各長寸許戯作小詩」というものがある。蘇軾の友人である欧陽季黙が、蘇軾のところへ油烟墨を二つ持ってきたという。その際に戯れに作った詩であるということだ。
欧陽季黙は北宋八大家のひとり、欧陽脩(おうよう・しゅう)の息子である。名に「季」とあるので、おそらくは四番目の息子であろう。蘇軾には他に「送欧陽季黙赴闕」という詩がある。蘇軾が科挙に応じて及第した際、試験監督は欧陽脩であった。合格者にとっては、自分の答案すなわち文章を認めてくれた人物ということで、試験監督と合格者は師弟関係を結ぶのである。欧陽脩は蘇軾の文才を高く評価しており、自然とその交際は息子の世代を交えたものになったと考えられる。
ともあれ「欧陽季黙以油烟墨二丸見餉各長寸許戯作小詩」を読んでみたい。

書窓拾軽煤、佛帳掃余馥。
辛勤破千夜、収此一寸玉。
癡人畏老死、腐朽同草木。
欲将東山松、涅尽南山竹。
墨堅人苦脆、未用嘆不足。
且当注虫魚、莫草三千牘。

書窓(しょそう)に軽煤(けいばい)を拾い、佛帳(ぶっちょう)の余馥(よふく)を掃(は)く。
辛勤(しんきん)は千夜を破り、此(ここ)に一寸の玉(ぎょく)を収める。
癡人は老死を畏れるも、腐朽(ふきゅう)すれば草木(そうもく)に同じ。
将に東山の松を欲すれば、涅(そ)め尽くす南山の竹。
墨は堅けれど人は脆(ぜい)に苦しみ、足らざるを嘆いて未だ用いず。
且(か)つ当(まさ)に虫魚(ちゅうぎょ)に注ぎ、三千牘(さんぜんどく)を草(そう)す莫(なか)れ。

一句目「書窓拾軽煤、佛帳掃余馥。」とある。「書斎の窓」といっても、現代のように板ガラスがはめ込んであったわけではない。「柳窗」というように、換気と採光ができるように隙間模様が施された窓であったことだろう。その「窗(まど)についた煤を集めるというが、これは夜間に蝋燭や灯心を燃やして勉学に励んだことを暗示している。また「佛帳」とあるが、佛壇にめぐらされた「帳(とばり)」である。この煤を払うという事だから、これも夜間に読経に励んだことを暗示している。
蘇軾は士大夫の常として、詩作や文学研究に励む一方で、深く佛教に帰依していたのである。この油烟墨は欧陽季黙がもたらしたものであるが、あるいは欧陽季黙も同じような生活習慣の持ち主であったのかもしれない。すなわち「辛勤破千夜、収此一寸玉」なのであり、幾夜も幾夜も学問と読経に励んだ結果、かき集めた煤を固めて、墨が出来てしまうほどであったということである。蝋燭や灯心を燃やせば、当然のことながらいくらかの煤が出る。
寺院などでは、仏像や天井にすくなからぬ煤が付着し、時折それを掃除しなければならないことは日本でも中国でも変わりは無い。しかし個人の書斎や仏堂で、墨が作れるほどの煤を採取しようと思えば、どれほどの歳月を要するであろうか。もちろん、詩にうたわれている内容を真に受ける必要は無く、複数の家々から集めた煤で作られた墨かもしれないが。
日本でも江戸時代になると、灯心を燃やして明かりをとる生活が庶民の家庭にも広まった。燈明には当然のことながら煤が出るが、その煤を回収する業者が存在した。回収した煤は印刷用の顔料や、安価な墨の製造に使用されたという。
次の「癡人畏老死、腐朽同草木」というのは、蘇軾が傾倒した佛教の教えに基づく死生観であろう。
そして「欲将東山松、涅尽南山竹」ということである。「将に東山の松を欲せんとして」とあるが、この場合の東山は孔子の故郷、魯の国(現山東省)の“東山”を指すのだろう。「蓬莱の松」というように、古来から魯の国の松は著名であり、当然松烟の生産も行われたであろう。孔子の時代は筆記に際しての紙の使用が一般化する以前であり、墨も現在のような硯で磨って墨液を得るものではなかった。煤を固めただけの「墨丸」と呼ばれる墨を砕いて漆や膠に混ぜ、木簡や竹簡に書いていたと考えられる。
孔子の故郷は学問(=儒教)の聖地である。東山の松を欲する、というのは同時に学問の道を志すということである。しかし「涅尽南山竹」と言っている。ここでの「南山」はもちろん唐の都長安の南方の山、終南山を指す。終南山の麓には、漢の武帝の陵墓がある。北宋の首都は開封であるが、長安の南の終南山といえば「都」の暗喩する語であり、さらに言えば官吏として宮廷に仕える「宮仕え」の象徴でもあるといえる。
また「終南山の竹」というのは、自生している竹のことではなく古代の筆記用媒体である「竹簡」のことであろう。「涅(そ)める」の「涅」はもともと墨で黒く染めるという意味がある。つまりは官界にあって、行政文書や奏上文を書くことになったことを言うのだろう。「尽(つ)くす」という表現には、多くの仕事に追われた日々があったという意味が込められているようだ。また『欲将』には、「〜を欲していたところが」という意が含まれている。つまりは学問を志していたのに、いつのまにか官界にあって官吏としての仕事に追われていた、という意味にとれる。
士大夫の子弟は幼い頃から学問に励み、学問に励むということは究極には科挙に合格し、官界で栄達することが目的であった、というのが一般的な価値観である。蘇軾自身もそのような道を歩んできたはずであるが、この詩では官界での栄達とは無縁の、純粋な学問への関心という価値観をとなえているかのようである。
つぎに「墨堅人苦脆、未用嘆不足。」ということである。「墨は堅けれど人は脆(もろ)きに苦しむ」ということであるが、これは「非人磨墨墨磨人」に似た感情の吐露であろう。墨を惜しんで使わないうちに、人は老いていってしまう、ということで「足らざるを嘆いて未だ用いず」につながる。この油烟墨もごくわずかな量なので、惜しんで使わないでいるうちに、墨は堅くもとのままだが人は年老いてしまうのである。
最後の「且当注虫魚、莫草三千牘。」であるが、「虫魚(ちゅうぎょ)」は、文献の注釈のこと。「虫魚に注(そそ)ぐ」あるいは「虫魚を注(ちゅう)す」とも読めるが、いずれにせよ古代の文献に注釈を施すことであり、純然たる文学研究を行う事である。つづいて「三千牘を草(そう)す莫(なか)れ」ということであるが、「三千牘」とは奏上文のことである。すなわち「史記」の「滑稽列伝」には“(東方)朔初入長安 、至公車上書、凡用三千奏牘。”とある。つまりは「三千牘」といえば、皇帝に向けた長篇の奏上文のことである。また特に諫言をいう事がある。蘇軾も他に「次韵子由送千之姪」に“閉門試草三千牘、仄席求人少似今。” として是を用いている。
つまりは学問や佛道研究に励んで得られた、この貴重な油烟墨は、政治の世界で用いるべきではなく、純粋な学問のために使用するべきである、と言っているのだろう。ここに現れている価値観は「欲将東山松、涅尽南山竹。」に対応するものであり、学問に励むのは何も官界での成功のみを目指したものでは無い、というところだろうか。一応、大意を示しておく。

(大意)
書斎の窓から煤をかき集め、仏壇の帳(とばり)からも煤を掃いて集める。
学問と仏門に捧げた苦労は千夜にもおよび、(出来た煤で)こうして玉にも等しい希少な油烟墨が出来た。
オロカな者は死を恐れるが、人間死ねば朽ち果てて草木と変わりないものだ。
(学問を志して)孔子の故郷、魯の国の松を求めたが、結局は終南山を仰ぐ都に出て、宮中の竹簡を墨で黒く涅(そ)めることになった。
墨は堅いといえど、人の一生は脆くもはかないものである。しかし量の少ないのが惜しまれて使う事ができない。
まったくもってこの墨は経典の注釈など学問に用いるべきで、奏上文を書くことに用いるべきでは無いよ。

蘇軾の生涯を振り返ってみれば分かる事であるが、二度の大きな毀誉褒貶を経験している。一度は投獄されて死刑になりかけているし、また後の流刑は事実上の死刑である。
蘇軾が合格したのは科挙でも政治エリートを選抜する「賢良方正能直言極諫科」である。その名の通り皇帝に「直言」し「極諫」する人物として選別された蘇軾であるが、有名な新法と旧法の派閥抗争の渦中にあって、新法派から詩文によって皇帝を誹謗・中傷したとして告発される。つまりは「諫言」は良いが「侮辱」してはいけないということである。この告発は蘇軾に敵対する新法派が仕掛けた、多分に「言い掛かり」的な告発と考えられている。しかし若い蘇軾自身も、弾劾で指摘されたような皇帝・朝政批判の気分を、詩文に織り交ぜていなかたとは言い切れ無いものがある。
いわゆる「筆禍」なのであるが、蘇軾はこれを「身から出た錆」として深く後悔し、死一等を免ぜられて都を追放されて以降、悔恨と恭順の姿勢を繰り返し詩文にうたっている。卑屈なまでの自己批判を繰り返すのだが、中央の政敵に対する“ポーズ”という意味合いもあったであろうし、同時に若気の至りを悔いる気持ちもあったであろう。
この「欧陽季黙以油烟墨二丸見餉各長寸許戯作小詩」が、いつ頃読まれた詩であるかはわからない。老境に入った人物の思索が感じられるところもある。しかし「三千牘を草(そう)す莫れ」という気分には、宮廷にあって筆禍にあった過去を悔恨する感情が読み取れる。「宮仕えはもうこりごり、野にあって経典の注釈でもしていたほうがいい。」という気持ちが見えるのである。また「死」を暗示する語が散見されるところをみても、一度目の投獄より釈放され、地方官に左遷(事実上の流刑)された頃の作詩であるかもしれない。
ところで蘇軾が墨や墨匠についてよんだ詩は多いが、ここではわざわざ「油烟墨」と、墨の材料を明記している。つまり宋代では一般的に「墨」といえば「松烟墨」のことであり、油烟墨というのはやはり少し珍しい墨であったのだろう。
またこの詩でうたわれている油烟墨というのは、詩文でうたわれている通り、本当に書斎や佛堂の煤をかき集めて作った墨かどうかは定かでは無い。しかし墨の鑑別、製法に詳しく、名墨匠である潘谷と交際し、自ら墨を製したという蘇軾である。もしこの墨が、明代の油烟の採烟法に見られるような、複雑な工程を経て作られた油烟墨であれば、それを詩にうたったことであろう。宋代における油烟墨の製造については情報が乏しいのであるが、生活から出る廃物を利用して、油烟墨が作られていたことは事実としてあったことであると考えられる。
蘇軾の「黄州寒食帖」は黄州(今湖南省黄岡県)に流されていた頃に書かれたが、湖南省は当時から桐油の原料であるアブラギリ(シナアブラギリ)が多く自生し、現在でも桐油の生産が盛んであった。ここで蘇軾は製墨を試みなかったであろうか。
蘇軾が墨を製したという逸話は、蘇軾よりやや後代の葉夢得(1077〜1148)が「避暑録話」の中に書いている。葉夢得は北宋にあって中書舎人、翰林学士を歴任し、汝州の知事をつとめた。また宋が南宋へ移った後も建康(江蘇南京)知府を任され、抗金の戦いの最前線にあってよくこれを防いだ人物である。若い頃に蘇軾に師事したといわれている。原文は長いので併載せず大意のみ示すが、
「宣和の初年頃、潘衡という江西で墨を売るものがいた。自ら海南で蘇軾と一緒に墨を作り、その秘法を得たと言ったので、人は争って是をもとめた。私は許昌で蘇軾の四番目の息子の蘇過に会い、このことを訊ねてその秘法を求めた。しかし蘇過は笑って言うには『なんの秘法がありましょうか。そんなのもは私も知りません。潘衡さんが来たときに私も居合わせましたが、別室を使って煤を採っていたところ、夜半に失火し、部屋ごとすべて燃えてしまったのです。灰燼の中に煤をわずかに数両ほど得られたでしょうか。しかし膠を作る法を知らなかったため、牛の皮を煮て自ら膠を作り、この煤と混ぜましたが、型入れすることが出来なかったのです。それで握って固めた、ちょうど指先のような墨が数十出来たばかりだったのです。父は腹を抱えてわらいましたが、潘衡さんはこの失敗を謝って立ち去りました。』ということだった。おそらくは後に潘衡自身で製法を研究し、墨癖のあった蘇軾の名を借りてこれを宣伝したのであろう。潘衡はいま銭塘(杭州)にいるが蘇軾の名を借りたがために、墨の売値は以前の数倍になった。しかし潘衡の墨が良い墨であるというのもまた事実であり、墨の品質を以って名声を得たのである。(蘇軾に名を借りた虚名ではない)」
葉夢得は世代的には蘇軾の息子の蘇過と同世代であり、実際にあって聞いた話を収録したと考えられる。蘇過は「小東坡」と言われ、もっともよくその文才を受け継いだとされる人物である。また葉夢得も文房四宝に深い関心を寄せ、造詣が深かったことは「避暑録話」から伺える。
潘衡は名墨匠として名を残しているが、墨匠というよりは墨の商人であった、という説もある。墨匠であれば、膠の製法に詳しくないというのは、たしかに不自然ではある。蘇軾の名を借りて大いに利益を上げた、という言われ方もあるが、葉夢得は潘衡の墨も優れていると述べている。そもそも海南島というのは当時の中国ではまさに地の果てであり、酷暑と風土病の地である。そこへ左遷(流刑)されるということは、蘇軾にとっては事実上の死刑なのである。その蘇軾をはるばる訪ねた潘衡の心情も、単なる商略を越えたものがあったであろうし、僻遠の地で屈託無く製墨に親しんだ、晩年近い蘇軾の人格もまた博大である。
この葉夢得の文は、蘇軾が製墨を行ったという伝説の、おそらくはもっとも信じるに足る資料である。後世この話が流伝する過程で潘衡がこの故事を利用して「南海松煤」という墨を作ったとか、二人は松脂(まつやに)を燃やして煤を採ろうとしたというような話も作られている。「南海松煤」あるいは「南海松烟」という名称の墨は、近代でも見られるが、「南海」は蘇軾の流刑の地、海南島での潘衡との故事によるのである。
「松脂(まつやに)」を燃やそうとした、というのはどうだろう?蘇過の話が事実であるとすれば、蘇軾と潘衡は室内で煤を採取しようとしたようである。とするとたくさんの樹皮を重ねて燃やす“松烟”を採取しようとしたというよりも、室内に灯心をたて、なんらかの油脂を燃やして煤を採取しようとしたとも考えられる。「松脂を燃やした」ということは蘇過の話の中にはどこにも出てこないのであるが、そもそも松烟の採取に老松を燃やすのは、樹皮に多くの松脂がしみこんでいるからであった。それならば直接松脂を燃やした方がよかろうというのは、なるほど核心をついた着想ではある。また蘇軾は松脂を用いて藥酒を造ったとか、松脂を薬として服用していたという記録も残っている。
煤はともかく、墨用の膠の製法がよくわからなかったため、牛の皮を煮て膠と自製したところ、墨を型入れできなかったようである。これは現代の製墨技術からも説明できることである。膠の濃度や配合が適切でないと、墨は形を成さない。また牛の皮から膠をとる法は明代の程君房もその製法に言及しており、墨に良いとされる広膠(広東の膠)もまた牛の皮より作られる。
松脂から墨を製することは現在は行われていないが、明の「考槃餘事」にも「余嘗謂松烟墨深重而不姿媚、油烟墨姿媚而不深重。若以松脂為炬取烟、二者兼之矣。」とある。すなわち「私はかつて松烟墨は色が深く沈着だが艶やかさに欠け、油烟墨は艶やかであるが沈着さに欠けると考えていた。もし松脂を持って煤を採れば、その二つの性質を兼ね備えるのではないだろうか。」ということで、松脂を燃やすというような着想がなかったわけではなさそうである。
蘇軾が欧陽季黙への詩によんだように、生活の中で油を燃やして灯をとる際の、廃物から作られたのが油烟墨のはじまりであると考えられるし、あるいは松脂からの類推で油脂を燃やすに至ったとも考えられる。しかし蘇軾と潘衡が製造に失敗したように、油烟墨の製法は充分に確立されていなかったのかもしれない。また生活から出た煤を集めて作った油烟墨に、蘇軾ほどの墨の巧者が詩文で言及しているところを見ると、やはり油烟墨の本格的な使用と製法の洗練は、明代を待たなければならないようである。とはいえ、次の時代の主流になるべき油烟墨にたどり着いていたところは、さすがに蘇軾であるといえるだろう。
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蔡襄「文房四説」?

さて蔡襄の「文房四説」の2回目。

「世有王君、得墨易水張遇、歙州李庭珪、庭寛、承晏、文用、又有柴?、朱君徳小墨、皆唐末五代以来知名者。然人間少得之、皆出上方、或有得者、是為家寳也。」

(大意)世のなかには王侯貴族というものがいて、易水の張遇、歙州の李庭珪、庭寛、承晏、文用の墨を得、また柴?、朱君徳の小墨を得るが、これらの墨は皆唐末五代から名を知られたものである。自然と世間一般で是を得るものは少なく、宮廷のしかるべき場所から出るものである。あるいはこれを得るものがあれば、家宝とするのである。
別製油烟墨「天瑞書巻墨」(浅解)柴?(さい・じゅん)、朱君徳(しゅ・くんとく)もともに宋代の墨匠である。「上方」というのは「尚方」と同じで、宮中で器物の製造をつかさどる部署である。つまりは、良い墨というのは王侯貴族が財と権勢に任せて買い集めてしまい、あるいは宮中に集められてしまい、一般に流通しているものは少ないという事情を物語っている。このあたりの事情は、近代における清朝の古墨の流通事情とも良く似ているだろう。しかるべき墨の出所を尋ねれば「なるほど。」という場合が多い。市井の骨董店から佳墨が出る事は、まずないのである。

「李庭珪墨為天下第一品、祥符、治昭應宮為染飾、今人間所有、皆其時餘物也。其族庭寛、寛之子、文用亦造墨、較之其祖、莫能及也。過睢陽、倅車李侯言有庭寛墨、遂得之。李氏墨、余得其三世者、可謂富矣。 」

(大意)李庭珪の墨は天下の第一品と為すものである。しかしながら真宗の(大中)祥符年間中に、昭應宮を建設した際、庭珪の墨を用いて染飾に使ってしまい、今世間が所有するものは、皆当時のあまり物なのである。その一族の庭寛、庭寛の子、文用もまた墨を作るが、その祖先(李超・李廷珪)にくらべると、及ぶものではない。睢陽を過ぎるとき、倅車の李侯が庭寛の墨があるというので、ついにこれを得た。李氏の墨は私は三世代の墨を持っているが、(墨については)豊富であるというべきである。

別製油烟墨「天瑞書巻墨」(浅解)睢陽は現在の河南省商丘付近の地名。「倅車」というのは「副車(そえぐるま)」、つまりは主君に随身する者を指す。あるいは幕僚という意味である。この場合の「倅車」がこの文章の筆者(つまりは蔡襄)の幕僚であったのか、なんらかの官位・爵位にあった者かは読み取れないが、「李侯」とありまた「睢陽を通り過ぎたとき…」と断っているので、後者であろう。「李侯」ということから、李庭珪の一族の者であるということが匂わされているが未詳である。
「祥符」とあるのは、北宋真宗の御世の年号「大中祥符年間」を指すのだろう。この時期には昭應宮が造営されている。ここでは、北宋の真宗が昭應宮造営の際に李庭珪の墨を染物に使用したことが述べられている。「染飾」とあるが、服飾なのかカーテンのような内装資材なのか、具体的にどのような品物であったかは不明である。墨といえば、かならずしも筆書や作画に用いられたとは限らず、北宋の太宗が「淳化閣帖」の印刷を李庭珪墨で行ったように、高級な顔料として、書画以外の用途にも用いられたようだ。
ちなみに北宋の陳正敏(生卒未詳)の「遯斎閑覧」という文章がある。
「唐末墨工李超與其子廷珪,自易水渡江,遷居歙州,本姓奚,江南賜姓李氏,廷珪始名庭邽,其后改之,故世有奚庭珪墨,又有李廷珪墨。或有作李廷邽字者,偽也,墨亦不精。庭珪之弟庭寛,庭寛之子承晏,承晏之子文用,文用之長子尓明、次子尓光,尓光之子丕基,皆能世其業,然皆不及庭珪。祥符中,治昭応宮,用庭珪墨為染飾,今人間所有,皆其時余物耳。有貴族嘗誤遺一丸于池中,疑為水所壊,因不復取,既逾月,臨池飲,又墜一金器,乃令善水者取之,并得其墨,光色不変,表里如新,其人益宝蔵之。然墨喜精堅,多珍宝之,愈久而愈妙也。」とある。大意をしめせば、
『唐末の墨工、李超と其の子の廷珪は自ら易水を渡江し、歙州に遷居した。本姓を奚と言い、江南で李氏に姓を賜った。廷珪は始め名を庭邽といったが、其の后に之を改めた。故に世には奚庭珪墨が有り,又李廷珪墨が有る。或いは李廷邽という字に作る者があるが,贋物である。墨もまた精品ではない。庭珪の弟の庭寛、庭寛の子の承晏、承晏の子の文用、文用の長子で爾明、また次子の爾光、爾光の子の丕基は、皆な能く其の業を継いでいる。然れども皆な庭珪には及ばない。宋の真宗の(大中)祥符年間、昭応宮を建設した際に、庭珪の墨を用いて染飾をほどこした。(このときに多くの李庭珪墨が使われたが)今の世間で所有されているものは、皆な其の時の余り物なのである。ある貴族がかつてあやまって(李庭珪の墨)の一丸を池の中に落としてしまった,水に落ちて駄目になったとあきらめて、あえて拾う事をしなかった。一月ほど経過した後に、池のほとりで宴会を行い、また金の器を池におとしてしまった。すぐに泳ぎの上手い者に命じてこれを回収させたが、同時に(以前に落とした)墨をも拾った。(墨の)色艶はもとのまま変わらず、その表面は新品同様で、そういうわけでその人はますますこれを宝として蔵したという。墨はその精堅なことを喜び、多くはこれを珍しい宝とするから,年数が経過するごとに一層妙となる。』
ということである。
別製油烟墨「天瑞書巻墨」明らかに「文房四説」の文は、この「遯斎閑覧」を踏まえたものであろう。真宗の在位期間は(997-1022)、蔡襄の生卒は(1012〜1067)である。「遯斎閑覧」の執筆時期については、著者の陳正敏の生卒が未詳なため不明だが、蔡襄がその文章を参照したとすれば、ほぼ蔡襄と同時代の人物によって書かれた文章であろう。無論、はるかに後世の人が「遯斎閑覧」を参照の上、文を混入させた可能性がある。しかしこの「遯斎閑覧」では李庭珪の父親の李超から数えて、七代後に李丕基(り・はいき)という人物がいたことがわかる。近代の曹素功も、墨匠として十数代を数えているが、名墨匠といえど大抵は三代続けば良いほうである。一代限りが大半の墨業にあって、少なくとも七代にわたって(無論、李超以前にも継承があったと思われるが)続いたということは、李氏の製墨業の影響の深さ・広さをうかがわせるものがある。すなわち製墨法で言われるところの「易水法」が、多分に李氏の製墨法を暗示していることは疑いのないところであろう。

「新安所作墨甚佳、然其名印以庭、為廷非是;又肌理不細、椎練不熟、使墨工得一見之、為語其未至、必能少進其蘜。南方蒸濕、古墨尚覺有潤、況其新者、宜以漆匣宻蔵之、入秋冬間可用耳。」

(大意)新安で作られる墨は非常に良い、しかれどもその名は“庭”を以って刻印されており、“廷”という字を使っていない。また肌理が細かくなく、搗き込みが足りない墨というのは、墨工にこれを見せて、工程がまだ充分ではないことを言えば、必ずその墨をつき固めることを少し進めてくれる。
南方は蒸し暑いので、古墨でさえも湿り気を覚えるものである。いわんやその新しい墨などは(湿気が多く、膠が粘って用いにくい)。よろしく漆盒をもってこれを密閉して収蔵し、秋から冬の間にはいってから用いるべきである。

別製油烟墨「天瑞書巻墨」(浅解)「蘜」とあるが「鞠」の誤りではないかと思われる。「鞠」は「まり」であるが、きつく固める、絞る、というような意味がある。ここでは搗き込みが足らない墨を墨工に見せ、再度杵で打ちなおしてもらうことであろう。現代であれば、1個1個の墨に対し、そのようなことを墨匠に依頼してもセンの無いことである。しかし松烟が主流であった宋代に置いては、良質な松烟そのものが希少であり、自ずと墨1個に対する価値、扱い方も異なったものであったのだろう。
また南方は蒸し暑く、夏の間は古墨でさえも「覺有潤(潤いの有るを覚える)」とある。この場合の「潤」とは、湿気を帯びる気味であろう。古墨は一般に乾燥が進んでいる。「潤」を覚える状態を、好ましく思っていないのであるが、その理由はやはり膠が重く(粘る)感じることであろう。古い墨ですらそうなのであるから、乾燥の進んでいない新しい墨ならなおさら、ということである。ゆえに漆盒に密閉し、秋冬に用いるべきであると説いている。この文が書かれたのが北宋期であるとすれば、南方といえば江南地方である。
このことなどは、江南と同じく高温多湿の日本列島に住む日本人としても、理解しやすく経験のあることであろう。

「欲求李庭珪墨、終難得。或庭寛、承晏、文用、皆其家法、易水張遇亦為精好。然庭珪圎墨、殊未覩矣。」

(大意)李廷珪の墨を得ようと欲しても、ついに得る事は難しい。あるいは庭寛、承晏、文用、みなその(李廷珪の)家法を得ている。易水の張遇の墨もまた精品である。しかし李廷珪の墨で円形というものは、未だに見た事が無い。

別製油烟墨「天瑞書巻墨」(浅解)李庭珪の墨で現存するものというと、台北故宮博物院に収蔵されている「翰林風月」が著名であるが、これとて真偽の程は定かではない。明代後期に著された、方瑞生の「墨海」という著書には、李庭珪墨の墨式が掲載されているが、たしかに円形の墨はない。(ほぼ楕円というものはあるが)。特に墨の形状に言及しているが、この時期李庭珪を名乗る倣古墨が相当に流通しており、そのなかには円形の墨もあったのかもしれない。またここでも張遇は易水の墨匠として認知されているようだ。

近得歙烟、令造墨、便有李庭珪風採、不為浮光、乃知木性隨其地土所異。予嘗有辨、信不誣矣。

(大意)近頃歙州の(松)烟を得たので、墨を作らせた。李庭珪の風采があるが、(その墨色は)光が浮かび上がるまでは至らなかった。このことから(材料となる松の木の)木性というのは、その地の土にしたがって異なるということを知ったのである。私はかつて(多くの墨を)弁別した事があるから、いい加減な事をいっているのではない。

(浅解)「歙烟」とあるのは、特に歙州の松烟ということであろう。製法が及ばなかったのか、材料が及ばなかったのか、ともかく李庭珪墨には及ばないと述べている。「木性」が「土」によって異なるというのは、おそらくは五行説に基づいた物質観を指すと思われる。ここで比較対象になっている李庭珪の墨に使われた、松烟の産地にまでは言及していない。李庭珪も歙州に移り住んで製墨を営んだのであるから、土地による違いを論じるのはやや論旨に疑問を感じるのであるが、あるいは歙州遷移前の、易水で製した墨との比較であろうか。易水時代に李庭珪が父親の李超の下で墨を製していたとしても、若年のころであり、北宋当時にしかとそれがわかる品が現存していたとは考えにくい。
ともあれここでは、当時の墨が松烟の質にその品質が大きく依存していたこと、また松烟墨といえど、光沢が貴ばれていたことが言われている点は、注意していいだろう。

「文房四説」の成立をめぐっては、その作者が蔡襄なのかどうかをふくめて、不確かな部分が多い。しかしながら何者が書いたにせよ、やはりある程度以上に文房四寶に対する造詣の深い人物が書いた文章であり、やや真偽が疑わしい箇所もあるにせよ、当時の士大夫の墨に対する考え方、見方の一端が現れていると見ることが出来る。
少なくとも、ここで登場する「墨」は松烟墨を前提としており、松烟墨が主流であった時代の文章である事は間違いなさそうである。明代中・後期からは油烟が高級墨の主流を占めるに至ったが、明代以降の墨を論じた文章が、油烟の製法に関心のウェイトが置かれている点と比較すると、材料の違いはあるものの、共通して求めている墨の性質(光沢・堅さ)が明確になってくる。
現代の松烟が光沢に乏しいからといって、宋代のそれも同じと考えてはならないようだ。

(つづく)
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蔡襄「文房四説」?

北宋の蔡襄(さい・じょう)が著したという「文房四説」という、文房四寶について述べた文章がある。蔡襄といえば先に「澄心堂紙について」を紹介したが、北宋四家に数えられる蘇軾米芾黄庭堅に共通しているのが、文房四寶への造詣の深さと傾倒ぶりである。しかしこの「文房四説」は一応、蔡襄の文ということで四庫全書には納められているが、実際に全て蔡襄が書いた文章であるとは考えられない文である。あるいは蔡襄が文房四寶について述べた断簡を収録したとも考えられ、また一部がそうであるにせよ、すべてが蔡襄の手によるものかは異論がある。明らかに矛盾した内容や、同じ内容の繰り返し、他の文からの転載、また後世の注釈と思われる文章が挿入されているからである。
蔡襄自身の書いた文がはじめに存在したのか、あるいは蔡襄に仮託した後世の作であるかははっきりしないうえに、複数の人の手によって改作が行われた可能性は充分にある。いったいいつの時代の文房四寶の状況を反映しているか、定かでないところがあるので、ただちに北宋時代の文房四寶について述べられていると考えるのは危険である。
しかし墨に関する記述は、かなり詳細にまで及んでおり、当時使われていた松烟墨が、その材料の松烟の品質に大きく左右される事をよく説明している。やはりその道に通じた人物が、書いた文章であることをうかがわせるものである。
以下ではこの「文房四説」を読みながら、墨に関する記述を中心に考えてゆきたい。
少し長いので、書き下し文なしで大意のみ述べる。文中「李廷珪」が繰り返し出てくるが、四庫全書の原文でも「李廷珪」と記載されずに「李庭珪」となっている。この「庭」と「廷」の違いについては、本文に理由が述べられている。

「新作無池研、龍尾石羅紋、金星如玉者、佳。筆、諸葛?、許頔皆竒物。紙、澄心堂有存者、殊絶品也。墨、有李庭珪、承晏、易水張遇亦為獨歩。四物文房推先、好事者所宜留意散卓、筆心長、特佳耳。」

(大意)新しく作らせた墨池の無い硯で、龍尾石で羅紋、金星があり玉のごとき物、これは佳い。筆は諸葛高、許頔(きょ・てき)はみな優れているものだ。紙は(昔の)澄心堂紙が残っているなら特に絶品である。墨には李庭珪があり、(李)承晏あるいは易水の張遇もまた、独歩の地位をしめている。これら四つの文房の用具をまず推薦できる。また好事家であれば散卓筆に意を留めるべきであるし、その筆の心(芯)が長いものは特によいものである。

(浅解)はじめにざっと、文房四寶のもっとも良い物について概観している。この文房四説のおもしろいところは、墨なら墨、紙なら紙と独立した章立てになっておらず、文房四寶全体に関する概観を、何度か繰り返して述べているところである。蔡襄自身の編纂であれば、もう少し構成に統制が取れていてもおかしくは無い。蔡襄の雑考の寄せ集めとも考えられるし、後世の人の作が紛れ込んでいると思われる所以である。
承晏とあるのは、後述されているところでは、李庭珪の息子であり、李庭珪の墨業を受け継いだ人物である。
墨について「硯、端溪無星石、龍尾、水心緑紺如玉石、二物入用、餘不足道也。墨、李庭珪為第一、庭寛、承晏次之、張遇易水次之、陳朗又次之。不獨造作有法、松烟自異、當辨是也。
紙、李王澄心堂為第一、其物出江南池、歙二郡、今世不復作精品。蜀牋不堪乆、自餘皆非佳物也。筆、用毫為難。近宣州諸葛?造鼠鬚散卓及長心筆、絶佳。常州許頔所造二品、亦不減之。然其運動隨手無滯、各是一家、不可一體而論之也。」

(大意)硯は端溪石で星の無い者、龍尾石で水に沈めて視れば緑紺で(温潤なことは)玉石の如きもの、この二つの硯材のみが入用で、ほかの硯材については言うには及ばない。墨は李庭珪を第一とし、(李)庭寛、(李)承晏がこれに次ぎ、易水の張遇はこれに次ぎ、陳朗はさらにこれに次ぐ。その(墨)の造作が巧みな者は独りではないが、(使われている)松烟が自ずと異なるのであり、(これによって)墨を弁別する事ができるのである。
紙は南唐の李王朝の澄心堂紙が第一である。その紙は江南の池州、歙州の二郡で作られるが、現在はふたたび精良な品をつくることはできない。(次いで有名な)蜀牋は長い年月に耐えることが出来きないから、自ずと他の物はみないいものではない。筆は材料の毛に良い物をそろえる事が難しい。近年では宣州の諸葛?が造った、鼠の髯(ひげ)の散卓筆で芯の長い筆は絶佳である。また常州の許頔(きょ・てき)の作るところの二品(最上級品とそれに次ぐ品)は、また諸葛?の筆に劣らない。すなわち筆を執って動かせば、手の動きに応じて意のままに働いて滞るところがない。(諸葛?と許頔は)それぞれ一家を成しており、(互いに性質は違うがその優劣を)一概にして論じる事が出来ないものである。

(浅解)冒頭で文房四寶について述べた後、ふたたび文房四寶全般について、やや詳しく述べている。易水から江南へ渡った李超・李庭珪の親子以外に、その製墨法が子から孫の代へと継承されていったことがわかる。また南唐から北宋時代にかけては、易水から徽州へ製墨業の中心が遷移した時期であるが、張遇がまだ易水の墨匠として認識されている。張遇もやはり易水から徽州は黟県に移り住んだといわれているが、この間の事情は未詳である。またここでは墨の弁別の根拠として、使われている松烟によって判断できる事が述べられている。
また硯は端溪と龍尾石、紙は澄心堂紙、筆は諸葛?が良いとするのも、冒頭の文を踏まえて繰り返しやや詳しく述べているところである。

「歙州績渓紙乃澄心堂遺物、唯有新也、鮮明過之。今世紙多出南方、如烏田、古田、由拳、温州、恵州、皆知名。擬之績渓、曽不得及其門牆耳。婺源石硯有羅文、金星、蛾眉、角浪、松文、豆斑之類、其要在堅宻温潤。天將隂雨、水脈自生、至可磨墨、斯可寳者。黄山松煤至精者、造墨可比李庭珪。然匠者多貧、人於以求利、故不逮也。近有道人、自能燒烟、遣令就黄山取煤、必得佳者。歙州此三物竒絶、唯好事以厚資可致之。若臨以官勢、莫能至也。李隩下於績渓而優於由拳、與烏田相埒。循州藤紙微精細而差黄。他處以竹筋、不足道。房用之筆果可用、鋒齊勁健。今世筆、例皆鋒長難使、比至鋒銳少損、已禿不中使矣。」
  
(大意)歙州績溪の紙は、すなわち澄心堂紙の遺物であるが、ただ新しいモノがあるのみであり、昔の澄心堂紙に及ばないのは明らかである。現代の紙の多くは南方で作られる。烏田、古田、油拳、温州、惠州の如きは皆名前を知られているが、績溪(の澄心堂紙)をまねたものであり、ただしその門前にすらおよばないものである。
婺源の石硯には羅紋があり、金星があり、蛾眉(がび・すなわち眉子)があり、角浪があり、松紋があり、あるいは豆斑の類のものもあるが、重要なのは(石の紋様ではなく)その材質が堅牢で緻密、温潤であることである。天将が陰雨を降らせれば、水脈は自ずから生じるようなもので、(水脈の中でそのように天然の性質を得て)墨を磨ることができるに至った硯材というのは、まさに寶とするべきものである。
黄山で採取される松烟の、もっとも精選されたものは、墨を作れば李庭珪に匹敵する事が出来る。しかしながら職人の多くは貧しく、人は利益を追求して墨を求めるので、(そのような素晴らしい墨は)得る事ができない。近年、道理を得た者がいて、自ら能く松烟を採取することができた。彼に依頼して黄山で松烟を採取させたところ、かならず良い松烟を採取したのである。歙州はこの(紙・硯・墨の)三つのものが素晴らしく優れているが、ただ好事家が大枚をはたいてやっと得られるものである。官界の権勢をもってこれらを得ようと挑んでも、良い物を得る事はできないものである。
李隩(り・おう)は績溪に下って(紙を作ったが)、油拳にまさっており、烏田と肩を並べるものである。循州の藤紙は肌理が精細であるが、(紙の色は)少し黄色がかっている。他の竹を材料にした紙などは、言うに及ばない。
文房用の筆で使って良い物というのは、筆鋒がそろって勁健なものである。現代の筆で、たとえば筆鋒ばかり長くて使い勝手の悪い筆というものは、いくらその穂先が鋭いといっても、その毛をわずかに損なえば、たちまち禿筆となって使用できなくなってしまうのである。

(浅解)紙、硯、墨、紙、最後に筆、という順序で記述されている。この文で注目すべきは、やはり墨、松烟墨の製法に関してである。松烟墨は材料の煤、松烟の品質が墨の品質を大きく左右する事情が明瞭に伺える文である。
なかなか良い松烟が得られないというのは「利潤」を求めるからであると述べている。おそらく松烟は材料である希少な老松を厳選し、燃やして煤を採れば良い松烟が採取できるのだろう。しかし老松は限られているのであり、利潤を追求しようと思えば、当然のことながら若い松を燃やした松烟を混ぜてかさ上げをはかるだろう。よって文の作者(蔡襄とすれば)は松烟の採取に長けた者に、特に頼んで松烟を採取させ、墨を造っているのである。
墨について「余収歙州父子四世五人墨。超自易水来江南、為歙人、超之子庭珪、珪弟庭寛、寛子承晏、晏子文用。用之後、墨無傳焉。有孫惟慶、今為墨務官。李氏墨、超始知名、珪(或為邽)與寛最精好、承晏而下、不能用家法、無足取者。世之好竒者多借庭珪姓名、模倣形制以造之。有至好者、苟非素蓄之家、不能辨之。偹條數等、傳諸雅尚之士。或有未見、他日續其後。」

(大意)私は歙州の(李)親子四世代五人にわたる墨を収蔵している。すなわち(李)超、彼は易水より江南に渡り歙州の人となった者であるが、さらに李超の子の李庭珪、李庭珪の弟の庭寛、また庭寛の子の承晏、そして承晏の子の文用の五人(が造った墨)である。文用の後、(李家の)墨(の製法)は今に伝わっていない。その子孫は祖先の余徳によって、今もなを墨務官をつとめている(に過ぎない)。

(浅解)李超以降の四世代にわたって、李氏の墨匠の継承関係が述べられている。李超以降、曾孫の李文用まで製墨法が伝わったが、現在はその製法が継承されていない事がわかる。蔡襄の文とすれば北宋時代でも李氏の子孫は墨務官をつとめているということであるが、実務の実際はつまびらかでは無い。あるいは形式的な官名・地位であったことも考えられる。

「墨貴老乆而膠盡也、故以古為稱。世以歙州李庭珪為第一、易水張遇為第二。珪復有二品、龍之雙脊者為上、一脊次之。遇亦二品、易水貢墨為上、供堂次之。近世兖州陳朗亦為精。庭珪弟庭寛、子承晏、晏子文用、皆能世業、然差不逮也。近輙絶無有也。」

(大意)墨は長い年月を経たものを貴ぶのであるが、これが膠(の粘り)が尽きているからであり、それゆえに古いことをもって墨は称賛されるのである。世に歙州の李庭珪を第一とし、易水の張遇を第二とする。李廷珪にはまた(最上級と次善の)二品があり、双龍が背面に刻まれているものが上品で、一匹の龍のものは是に次ぐものである。また張遇にも二品あり、易水の(皇帝・皇族用の)貢墨は上品であり、(官吏の用に供する)供堂墨は第二品である。近世の兖州の陳朗(の墨)はまた精品である。(李)庭珪の弟の庭寛、その子の承晏、承晏の子の文用は皆家業を継いだが、しかしながら(その墨は)わずかに(李庭珪に)及ばないものである。(しかしそれら李庭珪の子孫の墨でも)近年では絶えて得る事が無いものである。
墨について(浅解)古い墨は「膠盡」つまり「膠が盡(つ)きる」と述べられており、すなわち膠の粘性が低いために貴ばれていると述べている。また先の章で延々と、李氏代々の墨匠の名を挙げていたが、ここでもそれを繰り返している。実はこの繰り返しは以降も形をややかえて、二回ほどくどいほどに繰り返されているのである。この李庭珪一族の系譜の記述の出典については、次回に述べるであろう。
ともあれ、李庭珪の墨の意匠と、墨の等級の高下の関係が興味深いところである。双龍の意匠は、以降明代、清朝の墨の意匠にも、繰り返し使用されている。あるいはその端緒が、李庭珪の墨に始まるのではないかということも考えられるのである。
双龍が貢墨、一匹の龍が供堂墨ということであるが「供堂」の「堂」はここでは宮廷内で高級官僚達があつまって執務を取る場所であり、宮廷用にしても実務用の墨ということになるのだろう。当然、貴人の楽しみに供する墨よりは、一等劣った煤(松烟)を用いるのであろう。やはり墨、当時は松烟墨は、松烟の品質に大きく左右される墨であったのだろう。また天然資源である老松を用いるのであれば、良い墨が極めて限られていたことも伺えるのである。

長いので、ひとまずここまで。(つづく)
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蓄墨数百挺 〜蘇軾「書墨」より

蘇軾の「書墨」(墨について)は短い文章であるが、蘇軾の墨色の見方や、その美意識を端的にあらわした一文である。

『余蓄墨数百挺,暇日輒出品試之,終无黒者,其間不過一二可人意。以此知世間佳物,自是難得。茶欲其白,墨欲其黒;方求黒時嫌漆白,方求白時嫌雪黒:自是人不会事也。』
(蘇軾:書墨)

『私は墨を蓄(たくわ)えること数百挺にも及んだ。暇なときにひき出しから取り出してこれを試してみたが、ついに黒い墨が見つからなかった。その中からは、わずかにひとつふたつの墨だけが、意に適うものであったのである。このことをもってみれば、世間でいうところの佳(い)い物というのが、いかに得がたいものであるかが理解できるのである。
茶はその白きものを欲し、墨は黒きものを欲する。(人が)その「黒さ」を求める時は、あたかも漆が白いことを嫌うようなものであり、その「白さ」を求める時は、あたかも雪が黒いことを嫌うようなものである。自然に、人は白い漆を求めたり、黒い雪を求めたりはしないものである。』
(「茶は白いものが良い」と言っているが、宋代の茶は茶葉を煮立てて乳白色に白濁した茶が好まれた。)

宋代最高の詩人である蘇軾をして、墨について語らしめればかくの如くである。さまざまな硯石を試して米芾が硯を論じたように、蘇軾も様々な墨を試し、比較検討しながら、その中で良い墨を選んでいる。その墨を選ぶ基準について、蘇軾はたったひとこと「可人意」(意に適う黒)と述べている。そしてその「黒」を判断する「意(ココロ)」というのは、雪には白さを求め、漆には漆黒を求めるような「意(ココロ)」だ、と説いている。

しかし数百もの墨を試してみて、意に適うほどの黒い墨がなかったとはどういうことであろうか?希代の墨癖家の蘇軾の集めた墨である。大抵の墨は、黒いことは黒かったのであろう。だが、同じ黒は黒でも黒が違うのである。
「黒」とコトバで言い切れば、たった一言になる。RGBで言えばR00:G00:B00という表現になってしまうのであろう。
が、「黒」はただ「黒」だけではない。蘇軾が言っているように、この違いを見極めることが墨色鑑賞の第一歩であり、この違いを理解することが、“墨“という顔料を理解することに他ならないであろう。

同じ黒でありながら、意に適う黒とそうでない黒があるという。そのわずかな「黒」を求めるココロというのは、人間の感性が自然と欲する色、これを求めるココロであると、蘇軾は説いているのである。

なぜ暗灰色の墨色よりも、漆黒を求めるのであろうか?なにゆえカサッと乾いたような墨色よりも、しっとりと潤んだような墨色を求めるのであろうか?「あたりまえ」で片つける人も多かろうが、考えて見れば不思議なことである。人間の感覚に訴え、心地よさを感じさせるナニモノかが、そういった墨色にはあるのだろう。
また逆に、人間の感性はそういった「美しさ」を、自然と欲するものだということを、墨を例にとってここでは述べている。もっといえば、そういった「美しさ」を表現することこそが、蘇軾にとっての詩であり、文であり、また書や画であったのではないだろうか。蘇軾の美意識がどういうものであったのか、ここに集約されているともいえる。

蘇軾と同時代人の墨匠で、著名な者は潘谷である。当時上質な墨の多くは宮廷へ貢納されていたが、潘谷の墨だけは使用が限定され、そのまま宝物庫に収蔵されたという。蘇軾とも厚い親交があり、また黄庭堅とも親しかった。潘谷が自殺的な死を遂げたとき、蘇軾は彼を悼む詩を残している。潘谷から蘇軾へ墨が贈られたこともたびたびあったようで、蘇軾もここ一番の揮毫には、あるいは潘谷の墨を使ったのではないだろうか。
潘谷は、蘇軾の詩文によれば、高麗(現北朝鮮)に産する松煙を用いたそうである。今で言う松煙墨である。油煙墨の製造はこの頃既に行われていた形跡があるが、本格的な普及と利用は、明代を待たなければならない。宋代の名墨跡の多くは、松煙らしい、艶を消した沈深たる漆黒をたたえている。
蘇軾の真跡とされている作品の多くも松煙墨を使って書かれたと考えられるが、特に「赤壁賦」などを見る限り、その墨色は松煙墨の利用を思わせるものである。現代においては、淡墨で使用されることが多い松煙墨であるが、濃墨で用いてその漆黒を鑑賞したのであろう。
また蘇軾が「意に適わない」としたように、松煙は粗悪なものは濃墨で用いても暗灰色を呈するのみである。また、最下等の煤と最上等の煤では、その質には天地ほどの開きがあるのも、松煙墨の特徴である。当時もその選別には注意を要したであろう。

生涯を毀誉褒貶と流滴のうちに送り、時に極めて困窮した蘇軾であるから、常に良い墨や紙を用いることができたわけではないだろう。だが、残された作品を見る限り、紙も墨もその精良さが伺えるものばかりである。いや、良い墨と紙を用いた作品のみが、その耐久性と保存性、そして鑑賞価値ゆえに残ったと言えるのかもしれない。
書における宋の四大家といえば、蘇軾、黄庭堅、蔡襄、そして米芾である。(かつては蔡襄ではなく、蔡京だったが、蔡京は悪政を敷いたということで蔡襄と入れ替わった経緯がある)彼らはいずれも筆墨硯紙に深い関心を寄せており、詩文によってその考えを書き残している。また、現在に遺る彼らの作品から、それは十二分に伺うことが出来ることである。

蘇軾の墨にまつわる詩文やエピソードはいずれ紹介したいと思うが、まずはこの「書墨」で、蘇軾の墨に対する意識がどのようなものであったか、ここでは簡単に触れるにとどめたい。
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宋代の墨?

たまにまったく検討もつかないものに出くわすことが有る。
宋代の墨??宋代の墨?
いわゆる”出土墨”というもので、「宋代の墨だよ」ということだが。
類例を見ない上、宋代の墨ともなると墨譜もなく現物資料も信用に足るものはなく、皆目見当付かないというのが正直なところである。
「徽州東山書屋」「解氏良超法製」の文字は明瞭に読み取れるのだが。
膠が効力を失っている割にはカタチはしっかりしているが、カビのようなものが一面を覆っている。磨ってどうこうできる代物ではなかった。
結局見送ってしまったが、疑問だけは残る。
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