蘭亭叙 捏造の名品
先日、東京に用事があったついでに、上野の「王羲之展」を観に行った。今回は王羲之に直接の興味があったわけではなく、同時に展示される蘇軾、米芾、黄庭堅、あるいは祝允明や董其昌や文徴明の佳品を見たかったのである。これらを十分堪能できた。
展示内容で関心をもったのは「楷書への道のり」という企画である。唐代に完成を見た楷書体であるが、後漢以降、長い年月をかけて隸書から変化してきている。その変遷を4世紀、5世紀の写経本などを具体例としてあげて辿っている。結びに「王羲之の書には唐代の筆意を残すものがある」と、思わせぶりなことが述べられている。
要は今日”王羲之の書”として伝えられている書のなかに、実のところは唐代あるいはその近傍の時代に”つくられた”ものがある、ということ示唆しているのであろう。
それはたとえばそれはどの作品なのだろう........あくまで個人的な見解であるが、”蘭亭叙”は「捏造の名品」だと考えている........「楷書への道のり」が言わんとするところも、おそらく”蘭亭叙”のことであると思われる。しかしさすがに押し寄せる書道ファンの手前、憚りがあったのだろう、明言は避けてはいる。
王羲之と蘭亭叙の知名度、権威は数多の書法家、その筆跡のなかでも断トツなのであり、”書聖”と冠せられるがごとく、信仰に近いものですらある。いわば「蘭亭偽作説」は研究者は別として、一般の書法の世界で疑義となえることは、今もってある種のタブーである、といっていいかもしれない。
しかし唐代に限定しなくても、幅を広げれば隋唐時代を思わせる、相当に整理された楷書の筆意が、明瞭にあらわれているのが蘭亭叙なのである。蘭亭叙は一般的に”行書”作品ということになっているが、ほとんど楷書体から崩れていない楷書そのもののような筆跡がたくさん入っている。行書とサラリと書いた楷書がごちゃ混ぜになっている、というのが実情だろう。そこからうかがえるのは、蘭亭叙に使われている書体の成立のためには、楷書体が相当に完成していなければならない、ということである。
王羲之の後裔、隋代の智永は「真草千字文」を遺しているが、これは隋代の楷書と、連綿のない草書を対比させている。一応これをもって、隋代までの楷書と草書の典型例としていいだろう。「真草」の「真」は「真書」であり、現代的な意味での楷書を指す。「真書」の名が示すとおり、隋代には隸書に代わってすでに楷書が標準書体として定着していた。しかし「真草千字文」の楷書は、実のところかなり崩した楷書も見られる。「真草千字文」の楷書も楷書として許容しうるとすれば、蘭亭叙にもかなり楷書が混じっている、と言えるのである。
ただし蘭亭叙は行書であり、行書の成立には楷書が必要で、王羲之以前にはたして楷書が存在したかどうか?という問いに問題を単純化してしまうと「行書とは何か?」と定義しなくてはならなくなるのだが、これは実際難しい。書体論については諸説あるからである。
しかし蘭亭叙にあらわれている”筆意”が,楷書由来か隸書由来か、あるいはいつの時代の標準書体か?ということについては、つぶさに観察すれば議論できることである。また4世紀中葉にこの書体が存在しうるかどうか?という問いに換言してもいいだろう。また存在したとすれば、5世紀、6世紀の書体にどのように影響したか?も考えなくてはならないが、はたしてそれが認めうるだろうか。
隸書、草書、楷書、行書と、いうように書体は大きく分類されるが、厳密な線引きは不可能である。その時代の公文書などに使われる、フォーマルな書体としての篆書、隷書、楷書は典型例を求めることができるが、慣用的に発達した行書や草書についていえば,この尺牘は行書、この尺牘は草書、というような分類は難しい。書き出しが楷書で、ついで行書が、さらに草書に変化する書簡などは珍しくない。また、楷書の早書きと隸書の早書きが、結果的に似通ってしまう文字もある。またそれまで隸書を崩した書体から生まれた草書と、楷書を崩した行書の連綿が合流し、変化してゆくこともある。
しかし王羲之に先立つ時代、はたして蘭亭叙にみられるような、洗練された楷書の”筆意”を含む作例として、信頼に足る資料が認められうるだろうか.........(おそらく「楷書への道のり」が言いたかったところの核心部分もここであろう。)
蘭亭叙が通常分類されるところの”行書”についていえば、隷書の早書きも楷書の早書きも、文字によっては結果的に字形が似てしまうことがある。しかし字の形状だけではなく、筆法の含蓄、筆意を細かく見ると、隸書の筆意を含むのか、あるいはより楷書の筆意を含むのかを判別することができる。当然、楷書の筆意を含む「崩した字」であれば、その文字が書かれる時代には、筆意の元になるような楷書の筆法が存在している必要がある。
四世紀に生きた、王羲之以前の楷書と言われる書、楷書の名手とされる書法家がいないわけではない。代表的なのは三国魏、曹操に仕えた鐘繇であろう。王羲之も伝説では鐘繇の書を学んだといわれる。王羲之の蘭亭叙が唐に至らなくとも隋代くらいまでの楷書の筆意を含むことは自明なのであるが、そうなると王羲之以前あるいは同時代に、このような楷書が存在していないのは不自然なのである。
現代の書家ならともかく、往時の書法家がもとめるのは変化を含む洗練であって、ほかにみられないような奇抜な文字、ケレン味を追求するという価値観はないのである。
いうなれば王羲之以前に、”隋唐にみられるような楷書”の名手が存在する必要があり、その“必要”を満たす存在が、鐘繇とその小楷作品とみられる作品群といってもいいかもしれない。
しかし鐘繇の作(が元になっているといわれる)宣示表や急就章、王羲之の小楷作品といわれる黄庭経や楽毅論などは、通俗的な書道史の世界ではともかく、多くの研究者は後世の偽作であると考えている。鐘繇の楷書と伝えられる作品は、北宋徽宗皇帝の淳化閣帖に収録されているのが最古なのだが、そのひとつひとつからして、鐘繇の真跡とするには根拠が乏しいものである。仮に鐘繇が隋唐にみられるような楷書を能くしたのであれば、洗練された楷書ないし小楷を刻んだ後漢〜三国時代の刻石が現れてもよさそうであるが、そうした刻石の出土例はないのである。
鐘繇や王羲之の作とされる小楷作品群、あるいは魏晋の「楷書」といわれる碑帖の類については、検証してゆくとすべて怪しい処だらけなのであるが、(ずるいかもしれないが)とても長くなるのでここでは触れない。
しかし後漢から魏晋にかけての隷書については、碑帖の出土例がある。また隸書を崩したところの章草や草書についても、木簡などにはその早期の例を見ることができる。ところがなぜか三国魏から晋にかけての小楷、ないし楷書と認めうる作品については、はるか後世の北宋にもなって、淳化閣帖で始めて現れるのである。これがいかにも”不自然”ということは、そろそろ指摘されてもいいだろう。
たとえば鐘繇の「宣示表」は王羲之が臨摸した、などといわれるが、あくまで話だけ伝わっていることである。そもそも「宣示表」は鐘繇が孫権の和睦の意向を曹操に代弁して上書した内容であり、いうなれば公式の外交文書である。かならずフォーマルな書体で書かれているはずで、当時のフォーマルな書体は隸書体であることを考え合わせると、これが楷書というのは違和感を覚えないだろうか。仮にフォーマルな書体として楷書が併用されていたのであれば、何ゆえ三国時代の刻石や木簡に、ひとつも楷書体の出土例がないのだろうか。
王羲之は361年に死去しているが、現存する写経巻や碑帖から判別できる限りでは、4世紀半ばのその頃は、隸書から楷書体への過渡期なのである。初期の楷書体は5世紀後半から6世紀初めの北魏時代の碑帖などにみられる。後漢以後、墓誌銘や碑帖など、石に文字を刻むことが貴族階級に流行した。しかし先立つ後漢から三国時代の碑帖と言えば、もっぱら隸書体であって、隋唐のような楷書体と認められるものは存在しないのである。
楷書成立以前の標準書体である隷書は、その前時代の標準書体である篆書が変化したものである。隸書体の成立には木簡という、当時の記録メディアの物理的形状が大きく影響している。限られた面積の木簡に筆写していた時代は、たくさんの文字を詰め込むために、自然と文字が扁平になる。
隷書以前の篆書は、たとえば石鼓文の篆文にみられるように円が多用され、あらゆる角度に傾いた線で構成されていた書体であった。これが幅の狭い木簡に書かれる過程で、斜めの線が整理され、多くの筆画が水平と垂直方向に整理されるようになる。
しかし篆書の線の多くが垂直と水平、直交に整理され、これが扁平につぶれて行くと、文字と文字の区別がつきにくくなる。そこで点画を識別しやすくし、可読性を高めるために、出鋒における波拓が強調されるようになる。そこには篆書の速記という必要も作用していただろう。筆記用具としての筆の発達によって、出鋒が楽になる。隷書の筆法でいうところの「蚕頭燕尾」の「燕尾」である。こうして生まれていったのが隸書体であると考えていいだろう。
また篆書から隸書への変化は、刻石の影響もある。篆書を特徴づける丸みを帯びた転折は、石に刻まれることでより鋭角を帯びてくるようになる。
この篆書から隸書への刻石上での変化は、後世の楷書の成立にも直接接続していると考えられる。楷書に比べればまだ丸みを帯びていた隸書の筆線は、忠実に石に刻んでいる優れた例も少なくないが、石に刻み続けることで、勢い筆線は直線に傾斜してゆく。石は直線は彫りやすいが、曲線はやや難度が上がる。丸みを帯びていた入筆や転折にも、だんだんと刻線の鋭角が加わるようになる。そして石碑に刻まれた文字は、繰り返し拓をとられ筆書の手本となり、毛筆の書体にも影響を与えてゆくのである。
これは西洋においてギリシャ語のアルファベットにが繰り返し石板に刻まれる過程で、セリフのついた”ローマン”書体が成立することと、ほぼ軌を同じくした変化であろう。また後世の木版印刷における宋朝体、明朝体の成立と考え合わせても理解しやすいだろう。
木版印刷における書体は、大量の文字を刻むに際してほとんどすべての筆画が直線化され、一画一画が直交するようになっていった。かつ可読性を高めるために筆画の入筆、終部分が強調されているく。
刻石上で鋭角化が進んだ楷書であるが、刻石上での変化がすべてではない。漢代以降、紙の普及するのである。すなわち、細長い木簡よりは書くことができる字形に自由度が生まれるのである。広い面積を持つ紙の使用によって、縦に長い字形をとることも許されるようになる。篆書から隸書への変化の過程で抑圧された、点画の方向性にも再び自由が与えられる。これによって隷書ではほぼ横並びの”さんずい”や、ほぼ縦並びの”れんが”などの点のひとつひとつが、異なった方向に展開され、際立った特徴を備えるようになるのである。その変化を筆書しうる精緻な筆の運動は、やはり篆書や隸書における石に刻むという行為のみでは生まれなかっただろう。また唐楷の歐陽詢のような、縦長のすっきりとした字形は成立しないのである。
いうなれば、「石に刻む」ことと「木簡に書く」という行為の相互作用の間で生まれたのが隸書体であり、同じく「石に刻む」行為と「紙に書く」行為の相互作用の間で成立したのが楷書である、といっていいかもしれない。ゆえに”木簡に書く”、”紙に書く”という、毛筆による筆書だけでは、書体の成立と変遷を追う説明は充分とはいえない。
4世紀、5世紀の写経本を見る限りでは、あらわれている過渡期の楷書は、縦画などは入筆が軽く終筆が重い。これは隸書の筆画の影響を、筆書の世界ではまだ引きずっていたことがうかがえる。5世紀の終わりから6世紀の初めにかけて、龍門造像記など、いわゆる龍門二十品がつくられるが、ここで見られる楷書体も相当に隸書の筆意を残した書体である。またその彫りの技術は質朴そのもので、どこまで忠実に元の筆跡をたどっているかはわからない。
6世紀の後半になると、王羲之の後裔といわれる智永が現れる。署名がないので「真草千字文」が本当に智永の作かどうかはわからないのであるが、すくなくともこれが隋の時代、6世紀ないし7世紀初頭の書なのだとすれば、このころにはかなり洗練された楷書体が存在した、と考えていいだろう。また先にも述べたが、蘭亭叙に現れる楷書の筆意に、もっとも近い肉筆の例ではないかと考えている。
王羲之は天才ゆえに時代を超越した書体を創造したのだ、とまで言い出す人もいないとも限らないが、神格化も度が過ぎるというものだろう。書体の変化は一朝一夕にして起きたものでもなければ、まして一人の”天才書家”によって為される変化ではないのである。
王羲之は永和九年に、蘭亭で”蘭亭叙”という文章を、あるいは作ったかもしれない。しかし王羲之の死後300年の動乱のち、智永が生きた隋代に真跡が残っていたとすれば、それはまさに奇跡に近い。3世紀から6世紀というのは、大陸最大の動乱の時代である。この時代の尺牘や書簡の類は、出土品ないし日本への渡来品しか現存していない、ということも考え合わせる必要があるだろう。
蘭亭叙に”類する”ような「王羲之の行書」は、太宗の造らせた集字聖教叙と次代の興福寺断碑しかなく、もちろんこれらはともに”集字”で作られた碑帖なのである。この点にも注意が必要であろう。蘭亭叙は頻出する「之」の一文字を取り上げて、”すべて違っている、実に多彩な変化だ”などと言われるが、あちらこちらから取り出してきたのだからバラバラなのは当然である。実のところ、同じ種類の一本の筆で書かれたとは信じがたい字の集まりなのである。蘭亭叙を作る元になった尺牘の類も、実際は王羲之の手によるものではないだろう。
少なからず残っている雙鉤填墨本の尺牘類、たとえば「喪乱帖」や「快雪時晴帖」などもかなり怪しいものである(と考えている)。
蘭亭叙は王羲之の後裔の僧侶智永が所蔵し、智永の死後はその弟子の弁才という者の所蔵に移り、これを太宗がだましとらせたという伝説が残っている。王羲之の後裔の智永が蘭亭叙を持っていた、というのはいかにもありそうな話である。また真筆は太宗とともに葬られ、現在は臨書か雙鉤填墨本の写ししか残っていないということになっているが、唐代に存在したオリジナルの蘭亭叙は、ほかの多量の尺牘類と同じく、すでに集字によって造られた雙鉤填墨本だったのだろう。これらは王羲之の書の鑑定に当たった歐陽詢、虞世南、褚遂良等、宮廷書法家達によって、蘭亭叙は捏造されたのだろう。彼らはみな「蘭亭叙」の臨書を残している。また集字聖教叙を選集したのは褚遂良であることも注意していい。彼等は蘭亭叙と集字聖教叙の類似性、その”ごちゃまぜぶり”に気づいていないと考えるほうが難しい。むろん宮廷書家達だけではなく、指示は太宗自身によって行われたのだろう。
何故”蘭亭叙”を捏造する必要があったかといえば、直接的には集字聖教叙(興福寺断碑は、あるいはその集字の元となった宮廷蒐集の尺牘類の信憑性を、最終的に担保するためであったかもしれない。しかし究極的な目的としては、王羲之の時代にすでに楷書体および行書体が存在したという虚構の”事実化”、いうなれば書法の歴史の改竄である。この歴史の改竄が太宗にとって、また極初期の唐王朝にとってどんな意味を持つか?についてはまだ整理しきれていないし長くなるのでここでは述べないが、政権による歴史の改竄、捏造は今に始まった話ではない、という事実は忘れてはならないところである。政治的な必要があれば、史実すら改変、捏造するのであるから、いわんや書画をや、ということである。これはなにも大陸の王朝に限った話ではない。文献に「書かれた歴史」がすべて事実であるといえほど、いつの時代も権力にたいして楽観的になれる理由はどこにもないのである
蘭亭叙が太宗によって”造られたもの”であったとしても、それによって王羲之の優れた書法家としての価値は何ら変わることがない(王羲之にとっては、あずかり知らぬことである....)。王羲之の書の真骨頂は、やはり隸書の早書きから連綿に変化してゆく流麗な草書に十二分にあらわれていると言っていいだろう。
今日真跡が残っておらず、現存する雙鉤填墨本もどこまで真を写しているかわからないにせよ、王羲之の書法が唐代にいたる後世に影響を与えた事は疑いようのないところである。元になった尺牘も、智永ないしその周辺の、相当な名手によるものであろう、手本とするのに不足はない。しかし”蘭亭”を”集字”ではなく”真筆”としてしまったことも、少なからぬ影響を後世に与えている。”蘭亭叙”によって、筆書の世界に”積極的に変化すること”がひとつの価値観として定着した、ということは言えるかもしれない。蘭亭叙がなければ、あるいは後世の筆跡が、若干単調な方向に傾斜していた可能性は考えられるのである。
通俗的な”書道史”としては、”蘭亭叙伝説”はその来歴や太宗の手に落ちたエピソードと合わせて、あまたの名跡の中でも、やはりぬきんでた光彩を放っている。しかし史料を加味しての検証に耐えうる史実なのかどうか、これはまた別問題である。三国志演義には史実が反映され面白いことは面白いが、歴史的事実としての三国志はまた別、ということにも似ているかもしれない。ことは蘭亭叙に限らないが、そろそろ”通俗的書道史”からの脱却がはかられてもいいころだと思う次第である。
ちなみに「蘭亭偽作説」については70年代の郭沫若氏の仕事がよく知られているが、近年では祁小春氏の「王羲之論考」が、蘭亭叙の文章内容の面から詳細に考察を加えている。とくに諱(いみな)の面から内容について疑義を呈している(つまり文章自体が後世の捏造)ところなどは、参考になると思われる。
展示内容で関心をもったのは「楷書への道のり」という企画である。唐代に完成を見た楷書体であるが、後漢以降、長い年月をかけて隸書から変化してきている。その変遷を4世紀、5世紀の写経本などを具体例としてあげて辿っている。結びに「王羲之の書には唐代の筆意を残すものがある」と、思わせぶりなことが述べられている。
要は今日”王羲之の書”として伝えられている書のなかに、実のところは唐代あるいはその近傍の時代に”つくられた”ものがある、ということ示唆しているのであろう。
それはたとえばそれはどの作品なのだろう........あくまで個人的な見解であるが、”蘭亭叙”は「捏造の名品」だと考えている........「楷書への道のり」が言わんとするところも、おそらく”蘭亭叙”のことであると思われる。しかしさすがに押し寄せる書道ファンの手前、憚りがあったのだろう、明言は避けてはいる。
王羲之と蘭亭叙の知名度、権威は数多の書法家、その筆跡のなかでも断トツなのであり、”書聖”と冠せられるがごとく、信仰に近いものですらある。いわば「蘭亭偽作説」は研究者は別として、一般の書法の世界で疑義となえることは、今もってある種のタブーである、といっていいかもしれない。
しかし唐代に限定しなくても、幅を広げれば隋唐時代を思わせる、相当に整理された楷書の筆意が、明瞭にあらわれているのが蘭亭叙なのである。蘭亭叙は一般的に”行書”作品ということになっているが、ほとんど楷書体から崩れていない楷書そのもののような筆跡がたくさん入っている。行書とサラリと書いた楷書がごちゃ混ぜになっている、というのが実情だろう。そこからうかがえるのは、蘭亭叙に使われている書体の成立のためには、楷書体が相当に完成していなければならない、ということである。
王羲之の後裔、隋代の智永は「真草千字文」を遺しているが、これは隋代の楷書と、連綿のない草書を対比させている。一応これをもって、隋代までの楷書と草書の典型例としていいだろう。「真草」の「真」は「真書」であり、現代的な意味での楷書を指す。「真書」の名が示すとおり、隋代には隸書に代わってすでに楷書が標準書体として定着していた。しかし「真草千字文」の楷書は、実のところかなり崩した楷書も見られる。「真草千字文」の楷書も楷書として許容しうるとすれば、蘭亭叙にもかなり楷書が混じっている、と言えるのである。
ただし蘭亭叙は行書であり、行書の成立には楷書が必要で、王羲之以前にはたして楷書が存在したかどうか?という問いに問題を単純化してしまうと「行書とは何か?」と定義しなくてはならなくなるのだが、これは実際難しい。書体論については諸説あるからである。
しかし蘭亭叙にあらわれている”筆意”が,楷書由来か隸書由来か、あるいはいつの時代の標準書体か?ということについては、つぶさに観察すれば議論できることである。また4世紀中葉にこの書体が存在しうるかどうか?という問いに換言してもいいだろう。また存在したとすれば、5世紀、6世紀の書体にどのように影響したか?も考えなくてはならないが、はたしてそれが認めうるだろうか。
隸書、草書、楷書、行書と、いうように書体は大きく分類されるが、厳密な線引きは不可能である。その時代の公文書などに使われる、フォーマルな書体としての篆書、隷書、楷書は典型例を求めることができるが、慣用的に発達した行書や草書についていえば,この尺牘は行書、この尺牘は草書、というような分類は難しい。書き出しが楷書で、ついで行書が、さらに草書に変化する書簡などは珍しくない。また、楷書の早書きと隸書の早書きが、結果的に似通ってしまう文字もある。またそれまで隸書を崩した書体から生まれた草書と、楷書を崩した行書の連綿が合流し、変化してゆくこともある。
しかし王羲之に先立つ時代、はたして蘭亭叙にみられるような、洗練された楷書の”筆意”を含む作例として、信頼に足る資料が認められうるだろうか.........(おそらく「楷書への道のり」が言いたかったところの核心部分もここであろう。)
蘭亭叙が通常分類されるところの”行書”についていえば、隷書の早書きも楷書の早書きも、文字によっては結果的に字形が似てしまうことがある。しかし字の形状だけではなく、筆法の含蓄、筆意を細かく見ると、隸書の筆意を含むのか、あるいはより楷書の筆意を含むのかを判別することができる。当然、楷書の筆意を含む「崩した字」であれば、その文字が書かれる時代には、筆意の元になるような楷書の筆法が存在している必要がある。
四世紀に生きた、王羲之以前の楷書と言われる書、楷書の名手とされる書法家がいないわけではない。代表的なのは三国魏、曹操に仕えた鐘繇であろう。王羲之も伝説では鐘繇の書を学んだといわれる。王羲之の蘭亭叙が唐に至らなくとも隋代くらいまでの楷書の筆意を含むことは自明なのであるが、そうなると王羲之以前あるいは同時代に、このような楷書が存在していないのは不自然なのである。
現代の書家ならともかく、往時の書法家がもとめるのは変化を含む洗練であって、ほかにみられないような奇抜な文字、ケレン味を追求するという価値観はないのである。
いうなれば王羲之以前に、”隋唐にみられるような楷書”の名手が存在する必要があり、その“必要”を満たす存在が、鐘繇とその小楷作品とみられる作品群といってもいいかもしれない。
しかし鐘繇の作(が元になっているといわれる)宣示表や急就章、王羲之の小楷作品といわれる黄庭経や楽毅論などは、通俗的な書道史の世界ではともかく、多くの研究者は後世の偽作であると考えている。鐘繇の楷書と伝えられる作品は、北宋徽宗皇帝の淳化閣帖に収録されているのが最古なのだが、そのひとつひとつからして、鐘繇の真跡とするには根拠が乏しいものである。仮に鐘繇が隋唐にみられるような楷書を能くしたのであれば、洗練された楷書ないし小楷を刻んだ後漢〜三国時代の刻石が現れてもよさそうであるが、そうした刻石の出土例はないのである。
鐘繇や王羲之の作とされる小楷作品群、あるいは魏晋の「楷書」といわれる碑帖の類については、検証してゆくとすべて怪しい処だらけなのであるが、(ずるいかもしれないが)とても長くなるのでここでは触れない。
しかし後漢から魏晋にかけての隷書については、碑帖の出土例がある。また隸書を崩したところの章草や草書についても、木簡などにはその早期の例を見ることができる。ところがなぜか三国魏から晋にかけての小楷、ないし楷書と認めうる作品については、はるか後世の北宋にもなって、淳化閣帖で始めて現れるのである。これがいかにも”不自然”ということは、そろそろ指摘されてもいいだろう。
たとえば鐘繇の「宣示表」は王羲之が臨摸した、などといわれるが、あくまで話だけ伝わっていることである。そもそも「宣示表」は鐘繇が孫権の和睦の意向を曹操に代弁して上書した内容であり、いうなれば公式の外交文書である。かならずフォーマルな書体で書かれているはずで、当時のフォーマルな書体は隸書体であることを考え合わせると、これが楷書というのは違和感を覚えないだろうか。仮にフォーマルな書体として楷書が併用されていたのであれば、何ゆえ三国時代の刻石や木簡に、ひとつも楷書体の出土例がないのだろうか。
王羲之は361年に死去しているが、現存する写経巻や碑帖から判別できる限りでは、4世紀半ばのその頃は、隸書から楷書体への過渡期なのである。初期の楷書体は5世紀後半から6世紀初めの北魏時代の碑帖などにみられる。後漢以後、墓誌銘や碑帖など、石に文字を刻むことが貴族階級に流行した。しかし先立つ後漢から三国時代の碑帖と言えば、もっぱら隸書体であって、隋唐のような楷書体と認められるものは存在しないのである。
楷書成立以前の標準書体である隷書は、その前時代の標準書体である篆書が変化したものである。隸書体の成立には木簡という、当時の記録メディアの物理的形状が大きく影響している。限られた面積の木簡に筆写していた時代は、たくさんの文字を詰め込むために、自然と文字が扁平になる。
隷書以前の篆書は、たとえば石鼓文の篆文にみられるように円が多用され、あらゆる角度に傾いた線で構成されていた書体であった。これが幅の狭い木簡に書かれる過程で、斜めの線が整理され、多くの筆画が水平と垂直方向に整理されるようになる。
しかし篆書の線の多くが垂直と水平、直交に整理され、これが扁平につぶれて行くと、文字と文字の区別がつきにくくなる。そこで点画を識別しやすくし、可読性を高めるために、出鋒における波拓が強調されるようになる。そこには篆書の速記という必要も作用していただろう。筆記用具としての筆の発達によって、出鋒が楽になる。隷書の筆法でいうところの「蚕頭燕尾」の「燕尾」である。こうして生まれていったのが隸書体であると考えていいだろう。
また篆書から隸書への変化は、刻石の影響もある。篆書を特徴づける丸みを帯びた転折は、石に刻まれることでより鋭角を帯びてくるようになる。
この篆書から隸書への刻石上での変化は、後世の楷書の成立にも直接接続していると考えられる。楷書に比べればまだ丸みを帯びていた隸書の筆線は、忠実に石に刻んでいる優れた例も少なくないが、石に刻み続けることで、勢い筆線は直線に傾斜してゆく。石は直線は彫りやすいが、曲線はやや難度が上がる。丸みを帯びていた入筆や転折にも、だんだんと刻線の鋭角が加わるようになる。そして石碑に刻まれた文字は、繰り返し拓をとられ筆書の手本となり、毛筆の書体にも影響を与えてゆくのである。
これは西洋においてギリシャ語のアルファベットにが繰り返し石板に刻まれる過程で、セリフのついた”ローマン”書体が成立することと、ほぼ軌を同じくした変化であろう。また後世の木版印刷における宋朝体、明朝体の成立と考え合わせても理解しやすいだろう。
木版印刷における書体は、大量の文字を刻むに際してほとんどすべての筆画が直線化され、一画一画が直交するようになっていった。かつ可読性を高めるために筆画の入筆、終部分が強調されているく。
刻石上で鋭角化が進んだ楷書であるが、刻石上での変化がすべてではない。漢代以降、紙の普及するのである。すなわち、細長い木簡よりは書くことができる字形に自由度が生まれるのである。広い面積を持つ紙の使用によって、縦に長い字形をとることも許されるようになる。篆書から隸書への変化の過程で抑圧された、点画の方向性にも再び自由が与えられる。これによって隷書ではほぼ横並びの”さんずい”や、ほぼ縦並びの”れんが”などの点のひとつひとつが、異なった方向に展開され、際立った特徴を備えるようになるのである。その変化を筆書しうる精緻な筆の運動は、やはり篆書や隸書における石に刻むという行為のみでは生まれなかっただろう。また唐楷の歐陽詢のような、縦長のすっきりとした字形は成立しないのである。
いうなれば、「石に刻む」ことと「木簡に書く」という行為の相互作用の間で生まれたのが隸書体であり、同じく「石に刻む」行為と「紙に書く」行為の相互作用の間で成立したのが楷書である、といっていいかもしれない。ゆえに”木簡に書く”、”紙に書く”という、毛筆による筆書だけでは、書体の成立と変遷を追う説明は充分とはいえない。
4世紀、5世紀の写経本を見る限りでは、あらわれている過渡期の楷書は、縦画などは入筆が軽く終筆が重い。これは隸書の筆画の影響を、筆書の世界ではまだ引きずっていたことがうかがえる。5世紀の終わりから6世紀の初めにかけて、龍門造像記など、いわゆる龍門二十品がつくられるが、ここで見られる楷書体も相当に隸書の筆意を残した書体である。またその彫りの技術は質朴そのもので、どこまで忠実に元の筆跡をたどっているかはわからない。
6世紀の後半になると、王羲之の後裔といわれる智永が現れる。署名がないので「真草千字文」が本当に智永の作かどうかはわからないのであるが、すくなくともこれが隋の時代、6世紀ないし7世紀初頭の書なのだとすれば、このころにはかなり洗練された楷書体が存在した、と考えていいだろう。また先にも述べたが、蘭亭叙に現れる楷書の筆意に、もっとも近い肉筆の例ではないかと考えている。
王羲之は天才ゆえに時代を超越した書体を創造したのだ、とまで言い出す人もいないとも限らないが、神格化も度が過ぎるというものだろう。書体の変化は一朝一夕にして起きたものでもなければ、まして一人の”天才書家”によって為される変化ではないのである。
王羲之は永和九年に、蘭亭で”蘭亭叙”という文章を、あるいは作ったかもしれない。しかし王羲之の死後300年の動乱のち、智永が生きた隋代に真跡が残っていたとすれば、それはまさに奇跡に近い。3世紀から6世紀というのは、大陸最大の動乱の時代である。この時代の尺牘や書簡の類は、出土品ないし日本への渡来品しか現存していない、ということも考え合わせる必要があるだろう。
蘭亭叙に”類する”ような「王羲之の行書」は、太宗の造らせた集字聖教叙と次代の興福寺断碑しかなく、もちろんこれらはともに”集字”で作られた碑帖なのである。この点にも注意が必要であろう。蘭亭叙は頻出する「之」の一文字を取り上げて、”すべて違っている、実に多彩な変化だ”などと言われるが、あちらこちらから取り出してきたのだからバラバラなのは当然である。実のところ、同じ種類の一本の筆で書かれたとは信じがたい字の集まりなのである。蘭亭叙を作る元になった尺牘の類も、実際は王羲之の手によるものではないだろう。
少なからず残っている雙鉤填墨本の尺牘類、たとえば「喪乱帖」や「快雪時晴帖」などもかなり怪しいものである(と考えている)。
蘭亭叙は王羲之の後裔の僧侶智永が所蔵し、智永の死後はその弟子の弁才という者の所蔵に移り、これを太宗がだましとらせたという伝説が残っている。王羲之の後裔の智永が蘭亭叙を持っていた、というのはいかにもありそうな話である。また真筆は太宗とともに葬られ、現在は臨書か雙鉤填墨本の写ししか残っていないということになっているが、唐代に存在したオリジナルの蘭亭叙は、ほかの多量の尺牘類と同じく、すでに集字によって造られた雙鉤填墨本だったのだろう。これらは王羲之の書の鑑定に当たった歐陽詢、虞世南、褚遂良等、宮廷書法家達によって、蘭亭叙は捏造されたのだろう。彼らはみな「蘭亭叙」の臨書を残している。また集字聖教叙を選集したのは褚遂良であることも注意していい。彼等は蘭亭叙と集字聖教叙の類似性、その”ごちゃまぜぶり”に気づいていないと考えるほうが難しい。むろん宮廷書家達だけではなく、指示は太宗自身によって行われたのだろう。
何故”蘭亭叙”を捏造する必要があったかといえば、直接的には集字聖教叙(興福寺断碑は、あるいはその集字の元となった宮廷蒐集の尺牘類の信憑性を、最終的に担保するためであったかもしれない。しかし究極的な目的としては、王羲之の時代にすでに楷書体および行書体が存在したという虚構の”事実化”、いうなれば書法の歴史の改竄である。この歴史の改竄が太宗にとって、また極初期の唐王朝にとってどんな意味を持つか?についてはまだ整理しきれていないし長くなるのでここでは述べないが、政権による歴史の改竄、捏造は今に始まった話ではない、という事実は忘れてはならないところである。政治的な必要があれば、史実すら改変、捏造するのであるから、いわんや書画をや、ということである。これはなにも大陸の王朝に限った話ではない。文献に「書かれた歴史」がすべて事実であるといえほど、いつの時代も権力にたいして楽観的になれる理由はどこにもないのである
蘭亭叙が太宗によって”造られたもの”であったとしても、それによって王羲之の優れた書法家としての価値は何ら変わることがない(王羲之にとっては、あずかり知らぬことである....)。王羲之の書の真骨頂は、やはり隸書の早書きから連綿に変化してゆく流麗な草書に十二分にあらわれていると言っていいだろう。
今日真跡が残っておらず、現存する雙鉤填墨本もどこまで真を写しているかわからないにせよ、王羲之の書法が唐代にいたる後世に影響を与えた事は疑いようのないところである。元になった尺牘も、智永ないしその周辺の、相当な名手によるものであろう、手本とするのに不足はない。しかし”蘭亭”を”集字”ではなく”真筆”としてしまったことも、少なからぬ影響を後世に与えている。”蘭亭叙”によって、筆書の世界に”積極的に変化すること”がひとつの価値観として定着した、ということは言えるかもしれない。蘭亭叙がなければ、あるいは後世の筆跡が、若干単調な方向に傾斜していた可能性は考えられるのである。
通俗的な”書道史”としては、”蘭亭叙伝説”はその来歴や太宗の手に落ちたエピソードと合わせて、あまたの名跡の中でも、やはりぬきんでた光彩を放っている。しかし史料を加味しての検証に耐えうる史実なのかどうか、これはまた別問題である。三国志演義には史実が反映され面白いことは面白いが、歴史的事実としての三国志はまた別、ということにも似ているかもしれない。ことは蘭亭叙に限らないが、そろそろ”通俗的書道史”からの脱却がはかられてもいいころだと思う次第である。
ちなみに「蘭亭偽作説」については70年代の郭沫若氏の仕事がよく知られているが、近年では祁小春氏の「王羲之論考」が、蘭亭叙の文章内容の面から詳細に考察を加えている。とくに諱(いみな)の面から内容について疑義を呈している(つまり文章自体が後世の捏造)ところなどは、参考になると思われる。
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