蘭亭叙 捏造の名品

先日、東京に用事があったついでに、上野の「王羲之展」を観に行った。今回は王羲之に直接の興味があったわけではなく、同時に展示される蘇軾、米芾、黄庭堅、あるいは祝允明や董其昌や文徴明の佳品を見たかったのである。これらを十分堪能できた。

展示内容で関心をもったのは「楷書への道のり」という企画である。唐代に完成を見た楷書体であるが、後漢以降、長い年月をかけて隸書から変化してきている。その変遷を4世紀、5世紀の写経本などを具体例としてあげて辿っている。結びに「王羲之の書には唐代の筆意を残すものがある」と、思わせぶりなことが述べられている。
要は今日”王羲之の書”として伝えられている書のなかに、実のところは唐代あるいはその近傍の時代に”つくられた”ものがある、ということ示唆しているのであろう。
それはたとえばそれはどの作品なのだろう........あくまで個人的な見解であるが、”蘭亭叙”は「捏造の名品」だと考えている........「楷書への道のり」が言わんとするところも、おそらく”蘭亭叙”のことであると思われる。しかしさすがに押し寄せる書道ファンの手前、憚りがあったのだろう、明言は避けてはいる。
王羲之と蘭亭叙の知名度、権威は数多の書法家、その筆跡のなかでも断トツなのであり、”書聖”と冠せられるがごとく、信仰に近いものですらある。いわば「蘭亭偽作説」は研究者は別として、一般の書法の世界で疑義となえることは、今もってある種のタブーである、といっていいかもしれない。

しかし唐代に限定しなくても、幅を広げれば隋唐時代を思わせる、相当に整理された楷書の筆意が、明瞭にあらわれているのが蘭亭叙なのである。蘭亭叙は一般的に”行書”作品ということになっているが、ほとんど楷書体から崩れていない楷書そのもののような筆跡がたくさん入っている。行書とサラリと書いた楷書がごちゃ混ぜになっている、というのが実情だろう。そこからうかがえるのは、蘭亭叙に使われている書体の成立のためには、楷書体が相当に完成していなければならない、ということである。

王羲之の後裔、隋代の智永は「真草千字文」を遺しているが、これは隋代の楷書と、連綿のない草書を対比させている。一応これをもって、隋代までの楷書と草書の典型例としていいだろう。「真草」の「真」は「真書」であり、現代的な意味での楷書を指す。「真書」の名が示すとおり、隋代には隸書に代わってすでに楷書が標準書体として定着していた。しかし「真草千字文」の楷書は、実のところかなり崩した楷書も見られる。「真草千字文」の楷書も楷書として許容しうるとすれば、蘭亭叙にもかなり楷書が混じっている、と言えるのである。
ただし蘭亭叙は行書であり、行書の成立には楷書が必要で、王羲之以前にはたして楷書が存在したかどうか?という問いに問題を単純化してしまうと「行書とは何か?」と定義しなくてはならなくなるのだが、これは実際難しい。書体論については諸説あるからである。
しかし蘭亭叙にあらわれている”筆意”が,楷書由来か隸書由来か、あるいはいつの時代の標準書体か?ということについては、つぶさに観察すれば議論できることである。また4世紀中葉にこの書体が存在しうるかどうか?という問いに換言してもいいだろう。また存在したとすれば、5世紀、6世紀の書体にどのように影響したか?も考えなくてはならないが、はたしてそれが認めうるだろうか。

隸書、草書、楷書、行書と、いうように書体は大きく分類されるが、厳密な線引きは不可能である。その時代の公文書などに使われる、フォーマルな書体としての篆書、隷書、楷書は典型例を求めることができるが、慣用的に発達した行書や草書についていえば,この尺牘は行書、この尺牘は草書、というような分類は難しい。書き出しが楷書で、ついで行書が、さらに草書に変化する書簡などは珍しくない。また、楷書の早書きと隸書の早書きが、結果的に似通ってしまう文字もある。またそれまで隸書を崩した書体から生まれた草書と、楷書を崩した行書の連綿が合流し、変化してゆくこともある。

しかし王羲之に先立つ時代、はたして蘭亭叙にみられるような、洗練された楷書の”筆意”を含む作例として、信頼に足る資料が認められうるだろうか.........(おそらく「楷書への道のり」が言いたかったところの核心部分もここであろう。)
蘭亭叙が通常分類されるところの”行書”についていえば、隷書の早書きも楷書の早書きも、文字によっては結果的に字形が似てしまうことがある。しかし字の形状だけではなく、筆法の含蓄、筆意を細かく見ると、隸書の筆意を含むのか、あるいはより楷書の筆意を含むのかを判別することができる。当然、楷書の筆意を含む「崩した字」であれば、その文字が書かれる時代には、筆意の元になるような楷書の筆法が存在している必要がある。

四世紀に生きた、王羲之以前の楷書と言われる書、楷書の名手とされる書法家がいないわけではない。代表的なのは三国魏、曹操に仕えた鐘繇であろう。王羲之も伝説では鐘繇の書を学んだといわれる。王羲之の蘭亭叙が唐に至らなくとも隋代くらいまでの楷書の筆意を含むことは自明なのであるが、そうなると王羲之以前あるいは同時代に、このような楷書が存在していないのは不自然なのである。
現代の書家ならともかく、往時の書法家がもとめるのは変化を含む洗練であって、ほかにみられないような奇抜な文字、ケレン味を追求するという価値観はないのである。
いうなれば王羲之以前に、”隋唐にみられるような楷書”の名手が存在する必要があり、その“必要”を満たす存在が、鐘繇とその小楷作品とみられる作品群といってもいいかもしれない。
しかし鐘繇の作(が元になっているといわれる)宣示表や急就章、王羲之の小楷作品といわれる黄庭経や楽毅論などは、通俗的な書道史の世界ではともかく、多くの研究者は後世の偽作であると考えている。鐘繇の楷書と伝えられる作品は、北宋徽宗皇帝の淳化閣帖に収録されているのが最古なのだが、そのひとつひとつからして、鐘繇の真跡とするには根拠が乏しいものである。仮に鐘繇が隋唐にみられるような楷書を能くしたのであれば、洗練された楷書ないし小楷を刻んだ後漢〜三国時代の刻石が現れてもよさそうであるが、そうした刻石の出土例はないのである。
鐘繇や王羲之の作とされる小楷作品群、あるいは魏晋の「楷書」といわれる碑帖の類については、検証してゆくとすべて怪しい処だらけなのであるが、(ずるいかもしれないが)とても長くなるのでここでは触れない。

しかし後漢から魏晋にかけての隷書については、碑帖の出土例がある。また隸書を崩したところの章草や草書についても、木簡などにはその早期の例を見ることができる。ところがなぜか三国魏から晋にかけての小楷、ないし楷書と認めうる作品については、はるか後世の北宋にもなって、淳化閣帖で始めて現れるのである。これがいかにも”不自然”ということは、そろそろ指摘されてもいいだろう。
たとえば鐘繇の「宣示表」は王羲之が臨摸した、などといわれるが、あくまで話だけ伝わっていることである。そもそも「宣示表」は鐘繇が孫権の和睦の意向を曹操に代弁して上書した内容であり、いうなれば公式の外交文書である。かならずフォーマルな書体で書かれているはずで、当時のフォーマルな書体は隸書体であることを考え合わせると、これが楷書というのは違和感を覚えないだろうか。仮にフォーマルな書体として楷書が併用されていたのであれば、何ゆえ三国時代の刻石や木簡に、ひとつも楷書体の出土例がないのだろうか。

王羲之は361年に死去しているが、現存する写経巻や碑帖から判別できる限りでは、4世紀半ばのその頃は、隸書から楷書体への過渡期なのである。初期の楷書体は5世紀後半から6世紀初めの北魏時代の碑帖などにみられる。後漢以後、墓誌銘や碑帖など、石に文字を刻むことが貴族階級に流行した。しかし先立つ後漢から三国時代の碑帖と言えば、もっぱら隸書体であって、隋唐のような楷書体と認められるものは存在しないのである。
楷書成立以前の標準書体である隷書は、その前時代の標準書体である篆書が変化したものである。隸書体の成立には木簡という、当時の記録メディアの物理的形状が大きく影響している。限られた面積の木簡に筆写していた時代は、たくさんの文字を詰め込むために、自然と文字が扁平になる。
隷書以前の篆書は、たとえば石鼓文の篆文にみられるように円が多用され、あらゆる角度に傾いた線で構成されていた書体であった。これが幅の狭い木簡に書かれる過程で、斜めの線が整理され、多くの筆画が水平と垂直方向に整理されるようになる。
しかし篆書の線の多くが垂直と水平、直交に整理され、これが扁平につぶれて行くと、文字と文字の区別がつきにくくなる。そこで点画を識別しやすくし、可読性を高めるために、出鋒における波拓が強調されるようになる。そこには篆書の速記という必要も作用していただろう。筆記用具としての筆の発達によって、出鋒が楽になる。隷書の筆法でいうところの「蚕頭燕尾」の「燕尾」である。こうして生まれていったのが隸書体であると考えていいだろう。
また篆書から隸書への変化は、刻石の影響もある。篆書を特徴づける丸みを帯びた転折は、石に刻まれることでより鋭角を帯びてくるようになる。
この篆書から隸書への刻石上での変化は、後世の楷書の成立にも直接接続していると考えられる。楷書に比べればまだ丸みを帯びていた隸書の筆線は、忠実に石に刻んでいる優れた例も少なくないが、石に刻み続けることで、勢い筆線は直線に傾斜してゆく。石は直線は彫りやすいが、曲線はやや難度が上がる。丸みを帯びていた入筆や転折にも、だんだんと刻線の鋭角が加わるようになる。そして石碑に刻まれた文字は、繰り返し拓をとられ筆書の手本となり、毛筆の書体にも影響を与えてゆくのである。

これは西洋においてギリシャ語のアルファベットにが繰り返し石板に刻まれる過程で、セリフのついた”ローマン”書体が成立することと、ほぼ軌を同じくした変化であろう。また後世の木版印刷における宋朝体、明朝体の成立と考え合わせても理解しやすいだろう。
木版印刷における書体は、大量の文字を刻むに際してほとんどすべての筆画が直線化され、一画一画が直交するようになっていった。かつ可読性を高めるために筆画の入筆、終部分が強調されているく。
刻石上で鋭角化が進んだ楷書であるが、刻石上での変化がすべてではない。漢代以降、紙の普及するのである。すなわち、細長い木簡よりは書くことができる字形に自由度が生まれるのである。広い面積を持つ紙の使用によって、縦に長い字形をとることも許されるようになる。篆書から隸書への変化の過程で抑圧された、点画の方向性にも再び自由が与えられる。これによって隷書ではほぼ横並びの”さんずい”や、ほぼ縦並びの”れんが”などの点のひとつひとつが、異なった方向に展開され、際立った特徴を備えるようになるのである。その変化を筆書しうる精緻な筆の運動は、やはり篆書や隸書における石に刻むという行為のみでは生まれなかっただろう。また唐楷の歐陽詢のような、縦長のすっきりとした字形は成立しないのである。

いうなれば、「石に刻む」ことと「木簡に書く」という行為の相互作用の間で生まれたのが隸書体であり、同じく「石に刻む」行為と「紙に書く」行為の相互作用の間で成立したのが楷書である、といっていいかもしれない。ゆえに”木簡に書く”、”紙に書く”という、毛筆による筆書だけでは、書体の成立と変遷を追う説明は充分とはいえない。
4世紀、5世紀の写経本を見る限りでは、あらわれている過渡期の楷書は、縦画などは入筆が軽く終筆が重い。これは隸書の筆画の影響を、筆書の世界ではまだ引きずっていたことがうかがえる。5世紀の終わりから6世紀の初めにかけて、龍門造像記など、いわゆる龍門二十品がつくられるが、ここで見られる楷書体も相当に隸書の筆意を残した書体である。またその彫りの技術は質朴そのもので、どこまで忠実に元の筆跡をたどっているかはわからない。
6世紀の後半になると、王羲之の後裔といわれる智永が現れる。署名がないので「真草千字文」が本当に智永の作かどうかはわからないのであるが、すくなくともこれが隋の時代、6世紀ないし7世紀初頭の書なのだとすれば、このころにはかなり洗練された楷書体が存在した、と考えていいだろう。また先にも述べたが、蘭亭叙に現れる楷書の筆意に、もっとも近い肉筆の例ではないかと考えている。

王羲之は天才ゆえに時代を超越した書体を創造したのだ、とまで言い出す人もいないとも限らないが、神格化も度が過ぎるというものだろう。書体の変化は一朝一夕にして起きたものでもなければ、まして一人の”天才書家”によって為される変化ではないのである。
王羲之は永和九年に、蘭亭で”蘭亭叙”という文章を、あるいは作ったかもしれない。しかし王羲之の死後300年の動乱のち、智永が生きた隋代に真跡が残っていたとすれば、それはまさに奇跡に近い。3世紀から6世紀というのは、大陸最大の動乱の時代である。この時代の尺牘や書簡の類は、出土品ないし日本への渡来品しか現存していない、ということも考え合わせる必要があるだろう。

蘭亭叙に”類する”ような「王羲之の行書」は、太宗の造らせた集字聖教叙と次代の興福寺断碑しかなく、もちろんこれらはともに”集字”で作られた碑帖なのである。この点にも注意が必要であろう。蘭亭叙は頻出する「之」の一文字を取り上げて、”すべて違っている、実に多彩な変化だ”などと言われるが、あちらこちらから取り出してきたのだからバラバラなのは当然である。実のところ、同じ種類の一本の筆で書かれたとは信じがたい字の集まりなのである。蘭亭叙を作る元になった尺牘の類も、実際は王羲之の手によるものではないだろう。
少なからず残っている雙鉤填墨本の尺牘類、たとえば「喪乱帖」や「快雪時晴帖」などもかなり怪しいものである(と考えている)。

蘭亭叙は王羲之の後裔の僧侶智永が所蔵し、智永の死後はその弟子の弁才という者の所蔵に移り、これを太宗がだましとらせたという伝説が残っている。王羲之の後裔の智永が蘭亭叙を持っていた、というのはいかにもありそうな話である。また真筆は太宗とともに葬られ、現在は臨書か雙鉤填墨本の写ししか残っていないということになっているが、唐代に存在したオリジナルの蘭亭叙は、ほかの多量の尺牘類と同じく、すでに集字によって造られた雙鉤填墨本だったのだろう。これらは王羲之の書の鑑定に当たった歐陽詢、虞世南、褚遂良等、宮廷書法家達によって、蘭亭叙は捏造されたのだろう。彼らはみな「蘭亭叙」の臨書を残している。また集字聖教叙を選集したのは褚遂良であることも注意していい。彼等は蘭亭叙と集字聖教叙の類似性、その”ごちゃまぜぶり”に気づいていないと考えるほうが難しい。むろん宮廷書家達だけではなく、指示は太宗自身によって行われたのだろう。

何故”蘭亭叙”を捏造する必要があったかといえば、直接的には集字聖教叙(興福寺断碑は、あるいはその集字の元となった宮廷蒐集の尺牘類の信憑性を、最終的に担保するためであったかもしれない。しかし究極的な目的としては、王羲之の時代にすでに楷書体および行書体が存在したという虚構の”事実化”、いうなれば書法の歴史の改竄である。この歴史の改竄が太宗にとって、また極初期の唐王朝にとってどんな意味を持つか?についてはまだ整理しきれていないし長くなるのでここでは述べないが、政権による歴史の改竄、捏造は今に始まった話ではない、という事実は忘れてはならないところである。政治的な必要があれば、史実すら改変、捏造するのであるから、いわんや書画をや、ということである。これはなにも大陸の王朝に限った話ではない。文献に「書かれた歴史」がすべて事実であるといえほど、いつの時代も権力にたいして楽観的になれる理由はどこにもないのである

蘭亭叙が太宗によって”造られたもの”であったとしても、それによって王羲之の優れた書法家としての価値は何ら変わることがない(王羲之にとっては、あずかり知らぬことである....)。王羲之の書の真骨頂は、やはり隸書の早書きから連綿に変化してゆく流麗な草書に十二分にあらわれていると言っていいだろう。
今日真跡が残っておらず、現存する雙鉤填墨本もどこまで真を写しているかわからないにせよ、王羲之の書法が唐代にいたる後世に影響を与えた事は疑いようのないところである。元になった尺牘も、智永ないしその周辺の、相当な名手によるものであろう、手本とするのに不足はない。しかし”蘭亭”を”集字”ではなく”真筆”としてしまったことも、少なからぬ影響を後世に与えている。”蘭亭叙”によって、筆書の世界に”積極的に変化すること”がひとつの価値観として定着した、ということは言えるかもしれない。蘭亭叙がなければ、あるいは後世の筆跡が、若干単調な方向に傾斜していた可能性は考えられるのである。

通俗的な”書道史”としては、”蘭亭叙伝説”はその来歴や太宗の手に落ちたエピソードと合わせて、あまたの名跡の中でも、やはりぬきんでた光彩を放っている。しかし史料を加味しての検証に耐えうる史実なのかどうか、これはまた別問題である。三国志演義には史実が反映され面白いことは面白いが、歴史的事実としての三国志はまた別、ということにも似ているかもしれない。ことは蘭亭叙に限らないが、そろそろ”通俗的書道史”からの脱却がはかられてもいいころだと思う次第である。

ちなみに「蘭亭偽作説」については70年代の郭沫若氏の仕事がよく知られているが、近年では祁小春氏の「王羲之論考」が、蘭亭叙の文章内容の面から詳細に考察を加えている。とくに諱(いみな)の面から内容について疑義を呈している(つまり文章自体が後世の捏造)ところなどは、参考になると思われる。
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高級油烟墨詐欺

数年前、上海で仕事をしているある日本人の方とお酒を飲む機会があった。小生より10歳ほど年長のその人は、今は中国で広告代理店を経営していると語っておられたものである。関心を惹かれたのは、その方が現在経営されている会社の話ではなく、それ以前にやっていた仕事の内容である。嘘か誠か、曰く「詐欺師のアシスタントをしていた。」のだという。
詐欺の手口というのは大体決まっている。ブランド物の紳士服を着て良い靴を履き、高価な時計をつける。そして北京の高級クラブに出入りし、カモと見込んだ人物の前で、派手にお金を使って見せるのだそうだ。そして同じクラブに出入りしている、日本人の駐在員......大手メーカーや大手商社など.....と知り合って仲良くなる。
大手企業の駐在員ともなれば手当も多くて懐は結構豊かなはずなのであるが、それでも目の前で高級ワインやウイスキー、シャンパンをどんどん空けるような派手な飲み方をされると「きっとこの人は凄い人」と思ってしまうのだそうだ。舞台装置として、高級寿司屋まで開いていたらしい。寿司ネタは築地からスーツケースにつめて、飛行機でハンドキャリーしていたそうだ。スーツ・ケースからドライアイスの気体がもれて困ったとか.......今考えると生モノもって、よく飛行機乗って入国できたなあ、と思う話である。今では絶対無理だろう。911テロ以前の航空会社も空港も牧歌的だったのだという。
そして相手が自分に傾倒するようになった頃合いで、「投資しないか?あなたを儲けさせてあげよう。確実だよ。」とささやきかけるのだそうだ。そうすると案外コロッと騙されて、貯えをはたいたり、借金までして架空の投資話につぎ込むのだそうだ........最後にその詐欺師がどうなったかというと、風のうわさでは香港で撃たれて死んでしまったのだという...........まあ聞いた話だし、話1/3としてください。
日本と海外を往復して商売していると、とかく怪しげな話が巡ってくることがある。小生の場合で言えば、それは現地の人からではなく、大陸で仕事をするか、行き来をしている日本人から来ることが多い。数年前に話題になった、冷凍エビの養殖詐欺や、米大統領選のマネーロンダリング詐欺、インドマグロ詐欺なんていう話は、これがニュースになるずいぶんと前から流れている話であった。
”米大統領選のマネーロンダリング詐欺”は、大統領選の選挙資金を作るために”マネーロンダリング”に加担しないか?という話である。こんなのはたとえ本当の話であっても犯罪なのであるが、山っ気のある人物は案外ひっかかるそうだ。選挙運動者、支援者がもつ、海外の秘密口座の資金を送金するため、海外口座を貸してくれ、と持ちかけられるのである。送金額の何%かを謝礼にくれるというのだが、アメリカ大統領選の選挙資金だけに100億とか200億という額で、数%でも数億は転がり込む、ということである。しかしよく考えればおかしいことに気付くのであるが、そもそもそんな巨額の外貨をお咎めもなにもなしに海外に送金できるのかどうか。そして資金がそのカモになった人物の口座に振り込むにあたって、手数料を先払いしなければならない、と言われるのである。そして詐欺師が指定する口座にすくなからぬ額の手数料を振り込むように指示され、それが複数回続く。いつまでたっても、送金のための資金は自分の口座に振り込まれない。やがて連絡が絶たれるのである。まあ、マネーロンダリングの目的はアメリカ大統領選であったり、さる王室のスキャンダル揉み消し費用だったり、不妊治療費だったり、バリエーションはいろいろあるそうだ。この手の話には、何故か王室とか皇族とか、大統領とか王様が出てくる。騙り手も、王室とか皇族の端に連なる人物を名乗るのだそうだ。
ひところ話題になった冷凍エビの養殖詐欺は、エビの養殖に投資しないか?というわりと素朴な詐欺である。これは東アジアで商売をしている人達の間では、かなり古典的な詐欺だそうだ。ちゃんと投資して真面目に養殖したら、意外とうまく行くかもしれないが、実際に事業はしないから詐欺なのである。まあ考えてみれば、話だけの段階なら、”まっとうなビジネス”と”良く練られた詐欺”は、なかなか見分けがつかないかもしれない。

小生も詐欺をひとつ考えてみた。名づけて”高級油烟墨詐欺”である。投資用の墨を売るのである。そして「墨は寝かせれば寝かせるほど良くなって価値が出ます。」「腐ることはありません。」「中国では書画市場が拡大して、高級墨の需要がきっと高まります」「今からたくさん買っておけば、将来きっと価値が出ますよ。」ってな具合で投資を募る。ひとつひとつの歌い文句はまんざら嘘でもない。嘘でもないが、絶対の保障などどこにもない。ある日突然、墨の市場が消えてなくなる、なんてことがないとも限らない。まあ、さらに悪どくするなら、一番粗悪な材料で墨を作っておいて「10年経つまで決して磨ってはいけません。磨ったら価値が半減します。」と言い添えておく。割れにくいように油松煙墨にし、それでも見てくれは良いように金泊で巻いておく.........イタリアではパルメジャーノ・チーズが融資の担保になるという。すりおろしてパスタやサラダにかけるあれである。年数を経れば成熟が進んで美味しくなるし、イタリアでパスタにかけるチーズの需要が消えることはない、というところか。それであれば墨も年数を経れば熟成して色がよくなる、という理屈もあるとおもうのだが。しかし今後需要が先細らないという保障はどこにもない......やはり無理か。
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程瑶田の書

昔は屯溪市内(現在の黄山市屯溪区)の小高い丘の上にあった黄山市博物館は、現在は黄山空港近くの郊外に移転している。少し時間があったので寄ってみたのである。
程瑶田の書地方都市の博物館のこととて、あまり期待は出来なかったが、一点だけ展示されていた程瑶田の書には興味をひかれた。
程瑶田(1725-1814)は清朝初期における徽州の著名な学者のひとりである。字を易田と言い、徽州は歙県の出身である。同じく著名な学者の戴震(1724-1777)と同期である。極めて実証主義的な学問姿勢をもって、数学、天文学、地理学、生物、農業、土木工事、武器の製造、農具の改良や音楽にまで精通していたといわれる。詩文、散文の優れていたことは言うに及ばない。
黄山書社からは「程瑶田全集」が出版されており、小生も1部入手している。その格調高い名文はどこかで紹介できればと思っているのだが、あいにく小生の学識はとても程瑶田先生には及ばないため、果たせずにいる。
程瑶田の書何ゆえ程瑶田に関心を持ったかと言えば、程瑶田もやはり清朝初期の徽州の名墨匠のうちに数えられているのである。程瑶田、あるいは程易田と銘打たれた墨は、ごく少数だが周紹良氏の「清墨談叢」にも収録されている。
程瑶田しかし「程瑶田全集」には不思議なことに、農具や兵器の製造法が記されているものの、製墨法はどこにも記されていない。硯について言及した文があるものの、墨についてのべられている文は、小生が読んだ限りではただの1行も見当たらないのである。
程瑶田の書現代の墨匠が言うには、徽州の墨匠として名が残っていたとしても、実際に製墨業を営んでいた人物は少ないだろうということだ。贈答品あるいは、委託して作らせたものが大半であるという。程瑶田は優れた教育者としても名高い人物であったから、弟子が先生に贈った墨も多かっただろう、ということである。
程瑶田の書いまひとつ考えられる理由としては、墨の製法は家伝の秘法であり、書き残すことは出来なかったということである。
「程瑶田全集」を読む限りでは、人文学者というよりは自然科学や技術の方面に強い印象をうける程瑶田先生であるが、墨を自製していたのであれば製法を書き残してくれていても良さそうではある。
「歙県志」には徽州の墨には文人自製の伝統があったと言われている。周紹良氏の盟友にして近世の蔵墨の大家、尹潤生氏の遺した「尹潤生墨苑鑑蔵録」によれば、清朝における程氏製墨の伝統は程虚谷に始まり、次世代に程音田こと程振甲がいて、さらに次の世代に程瑶田、程洪溥、程怡甫が出たとされる。ただし程虚谷から程瑶田にいたる系譜については未確認であり、単に同姓の人物であったというだけという可能性もある。もちろん明代の程君房とのつながりも確かめようが無い。
程瑶田が製墨に親しんだかどうかはさておくとしても、著名な学者が製墨史に名を留めているという事実は、製墨業の徽州文化における位置の重要性を暗示していると言えるのではないだろうか。
名高い学者であり教育家であった程瑶田であるが、詩文は無論のこと、書にも秀でていた。この博物館に収蔵されている對聯の真贋までは定かではないが、雄渾で古雅な筆致である。墨色は光沢に乏しいが、深々とした漆黒である。表具を治せば、生彩がよみがえるのではないだろうか。
黄山市博物館は市内から遠くなり、飛行場への往来が無い限りは交通に不便なところであるが、少し時間があれば立ち寄られてみるのもわるくはないと思われる。
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新年のご挨拶

新年明けましておめでとうございます。

「新年快楽!」あるいは簡単に「新年好!」というのが中国における新年の挨拶です。年末年始は仕入れと調査のため、渡航しておりました。写真は蘇州での用件のついでに立ち寄った、蘇州博物館で展示されていました羅聘の「墨蘭図冊」の一項です。
羅聘 墨蘭撮影技術の稚拙さと、展示室があまり明るくなかったため、やはりというか凡庸な絵に写ってしまっていますが、実物は素晴らしい絵でした。墨一色で、草花の瑞々しさと柔らかい光線の変化を余韻豊かに描きあげています。墨のみを使いながら、そこには確かに、多様な色彩の存在を感じさせる表現の力がありました。
羅聘は明代最高の墨匠、羅小華と同じ徽州呈坎出身です。また妻の方婉儀は、方于魯と故郷を同じくしています。彼が優れた墨を用いていたことは疑いようも無いことですが、それはこの画からも充分に察せられる事実です。そして墨色の美しさは優れた紙の使用によって生まれます。
精良な紙墨が書画の名品を生むのであり、やはり”文房四寶”という言葉になんら誇張は無いといえるでしょう。
この一枚を以って、新年のご挨拶に代えさせていただきます。

4日から営業を開始いたします。また、新春セールを開催いたします。

今年も弊店をご愛顧いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。
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上海博物館「謝稚柳生誕百年芸術回顧展」

東洋絵画の愛好家で、呉湖帆(1894-1968)や張大千(1899-1983)、謝稚柳(1910-1997)を知らないといったら、まあモグリといわれても致し方ないところがあるが、実際日本ではあまり知られていない彼等である。呉昌碩(1844-1927)や斉白石(1863-1957)が有名なわりに、二人よりわずかに後輩の伝統派の画家達に対する評価は正直どうなんだろう?と思ってしまうところがある。結局のところ、先の大戦による国交の断絶が影響しているのかもしれない
かくいう小生も、謝稚柳先生の作品を今回初めてまとまって見る機会を得た。まあ渡航のついで、たまたま時期が重なっただけなのだが、この展覧会のためだけにでも渡航したいくらいである。2009年上海博物館 謝稚柳展謝稚柳は江蘇省武進の出身。妻の陳佩秋(1922-)もまた著名な書画家、鑑定家であり、その娘である謝小珮(1954-)女史も、両親の薫陶を受け書画家として活躍している。
裕福な家庭に生まれた謝稚柳は、幼少期より古文辞など、古典的な文学的素養を身につける。また当時著名な銭振鍠について画を学んでいる。この銭振鍠(1873-1944)は日本ではあまり知られていないが、謝稚柳と同じ江蘇省武進の人である。この機会に少し触れておく。
銭振鍠は光緒年間の進士で、官位は官刑部主事にまで上ったが、混迷を深める清朝末期にあって盛んに時勢を批判し、ついに郷里へ帰って後裔を指導したのである。当時の江南ではその文章を以って名高く、「江南大儒」と称された。書法に精通し、彼の墨跡は人士の間で大いに珍重され、また彼について書画を学ぶものが多かった。また民衆の困窮に深く同情し、書画を売ってこれを助けたという。日中戦争で郷里が荒廃した後は上海に移住し、売字売画で生計をたてた。
銭振鍠が書法について語るに、「毎見俗士作書,既怕筆痛,復恐紙癢,軽弱慢移,如捉虫蟻,如玩雑技,以此?其奇巧,无非自欺:俗士の書を見る毎に思うのだが、おそらく筆は痛み、またおそらく紙に痒みがあるかのようで、軟弱でのろのろとしていて、蟻が這っているが如く、雑多な技巧を弄ぶが如く、奇抜な技巧でもって幻惑し、自らを(一人前のつもりで)欺いているかのようだ。」となかなか痛烈である。つまりは流行を追ったケレン味を嫌ったのであろう。この姿勢は後の謝稚柳の上に大きく影響し、伝統派書画家の道へ、彼を方向付けた要因のひとつとなったことだろう。
銭振鍠は「星陰楼雑記」のほか、20あまりの著作が知られている文章家でもあった。謝稚柳も単に画のみを学んだのではなく、読書や書法など、伝統的な読書人家庭の素養を手ほどきされたことだろう。また郷里で偶然に明代最末期の巨匠、陳洪綬(1598-1652)の梅花図を目にして深い感銘を受ける。その後は陳洪綬の画風を深く学んだという。工筆画の細密なタッチで丹念に描かれた背景の中に人物を立たせる画法には、陳洪綬の影響を感じさせるものがある。
2009年上海博物館 謝稚柳展20代の初めの頃の、1930年代に上海に出て張大千や徐悲鴻(1895-1953)等と出会い、親交を深める。1942年には敦煌の莫高窟に張大千とともに赴き、唐代の壁画の多くを写生している。彼は実に精密な調査を行い、その記録を「敦煌石室記」に、また「敦煌芸術叙録」を残している。1943年に中央大学芸術系教授。1949年には上海市文物管理委員会編纂、1956年に上海中国画院籌備委員会委員。1962年には国家文物局が組織する中国書画鑑定組に参加。1983年に全国古代書画鑑定組の長に任命される。
1960年代から1980年代にかけてキャリアに空白があるのは、妻の陳佩秋と共にいわゆる五人組、特に江青と親交があったためといわれる。五人組逮捕の後は、一時上海で隠棲を余儀なくされていたのである。1997年6月1日に上海で死去。
よく、張大千を評して「最後の伝統派の巨匠」と言われることがあるが、「最後の巨匠」という意味では、謝稚柳先生がそれに当たるともいえる。上海博物館「謝稚柳生誕百年芸術回顧展」この人物画には張大千の人物画と同様、莫高窟での写生の経験が反映されている....という以上に、どうも張大千の仕女図の影響が濃厚に感じられる画である....この画を見せられて「張大千の仕女図」と言われても、正直なところ「ごもっとも。」と言ってしまいそうである。模倣によって画を学ぶ伝統がある中国では、同時代の作家の模倣にも実におおらかである。(模倣もされない書画家というのは、実のところ飯が食えない作家である)
女性が手にしている画扇にも、細密なタッチで見事な山水が描かれているが、こういった技法は陳洪綬の画にもよく見られるのである。このあたりには、その当時の謝稚柳の独自といえなくもない。また同時に展示されていた水墨山水からも、重厚な山水画の技量を伺うことが出来る。小生が見たところ、やはり熟宣に油煙墨を用いて描かれており、艶やかな濃墨は昨日描いたように瑞々しい光彩を放っていた。
2009年上海博物館 謝稚柳展謝稚柳より10歳以上年長の張大千や徐悲鴻にとって、謝稚柳は弟のような存在であったという。また謝稚柳も当時既に画壇で赫々たる名声を築いていた両人に、深く傾倒していたようである。彼等はそれぞれ書画の名品を収蔵し、交換し合っていた。
あるとき、徐悲鴻と張大千、謝稚柳の三人が重慶に会した。謝稚柳は董源の「西岸図」を収蔵しており、張大千はこれが欲しくて仕方がなかった。だが、直接徐悲鴻に頼んで断られることを恐れ.....謝稚柳に仲立ちを依頼した。このあたりの機微というのは、それぞれの面子が絡んだ微妙なものである。そのとき徐悲鴻は徐悲鴻で、揚州八怪の金農の画に傾倒していた。謝稚柳は張大千が所蔵する金農の「風雨帰舟図」となら「西岸図」を交換してもいいいうことを聞き出し、かくして「西岸図」と「風雨帰舟図」との交換が成立したという。
書画家が書画の収蔵に熱心だったのは、ひとつには真筆から直接技法を学ぶことができるからであり、同時に鑑賞眼を養うためでもあった。名品から学んだ素養と技法の基礎の上に、時代と自らの感性を以て描くのが、伝統派と呼ばれる書画家達の創作であった。
2009年上海博物館 謝稚柳展娘の謝小珮女史は、上海博物館に謝稚柳の若い頃の作品のほか、使用していた用具の多くを寄贈したが、そのなかに謝稚柳が特注で作らせていた墨があるという。今回の展示ではそれを見ることが出来なかったが、墨のみで描かれた”翡翠(かわせみ)”の尾の深遠な漆黒には、謝稚柳の紙墨への深い造詣の程をうかがうことが出来る。
もちろん、ここに掲載した画像は全体のごく一部で、今回は60点に及ぶ作品が展示されている。
今回の展示は9月19日からはじまり、来月25日までの開催となる。期間がやや短過ぎる気もしなくは無いが、内外の収蔵家からの出品を集めた得がたい機会である。上海へ行かれることがあれば、観覧されるのも良いかも知れない。
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徽商と倪雲林 〜弘仁(漸江)「九溪峯壑図軸」(上海博物館蔵)

弘仁の「九溪峯壑図軸」(上海博物館蔵)である。
弘仁(漸江)「九溪峯壑図軸」(上海博物館蔵)漸江で知られる弘仁は万暦38年(1610)に生まれ康煕2年(1663年)に54歳で没している。弘仁の詳しい履歴についてはいまさら紹介するまでもないだろう。京都の泉屋博古館をはじめ日本にも名品が伝存し、愛好者も多い。漸江はその画法に元代の大家、倪瓚(雲林)の影響を強く受けている。またその漸江の画法を深く学んだのが清朝末期の画僧の虚谷であることは以前にも述べた。
弘仁は徽州は績渓、現在の安徽省績渓県の出身である。弘仁が36歳の年の順治2年(1645)、清朝の軍が徽州一帯に侵攻し、弘仁は郷里の抗清の志士等と抵抗するも敗れ、徽州府(現歙県旧市街)は陥落。弘仁は明朝の遺児である唐王に従って福建省へ落ち延びる。しかし翌年には早くも清軍が福建省に侵攻し、唐王はとらえられて地方の抗清勢力は瓦解。弘仁は武夷山へ逃れ、ここで生き残りの同志とともに古航道舟の下で出家する。数年の間、ここで仏道修行と画作を行ったようである。そして順治16年(1656)に故郷の徽州へ戻り、(それ以前にも黄山や白岳を遊歴したようであるが)、西干五明寺に住む。
弘仁(漸江)「九溪峯壑図軸」(上海博物館蔵)徽州の商人、徽商達は、伝統的に書画骨董の収蔵に熱心であった。むろん、今も昔も、中国の富豪というのは古美術品に目がないものである.....とはいえ特に徽州商人達が書画の蒐集に励んだのは、ひとつには土地の少ない地域であるから資産を不動産である土地よりも、動産である骨董や美術品で持っておく、という意味があったといわれる。また、山間で農耕に適した土地が少ない徽州にあっては、農閑期に制作する工芸品や、木版出版などが重要な産品であった。これらの制作の参考に、また素養を養うために、多くの美術品を蒐集、蓄積したとも考えられるのである。(まあ、好きだったから、という理由でもいいのかもしれないが)
古書画の蒐集は、古来より蘇州で最も盛んであった。その都市に蓄積された古代の名筆名画の存在が、沈周や仇英、祝允明や唐寅、文徴明といった“呉門(蘇州)”の大家達を育てることになる。また徽州における古書画の蓄積も、呉左千や丁雲鵬、さらには新安四家や石濤といった大家を生む土壌となったといえようか。
富の蓄積に応じて名品が聚(あつ)まり、名品が蓄積された地域に書画家が集まり、その中からまた名家が生まれる、といった関係が、明代中後期から清朝初期の書画の歴史に明瞭に認められるのである。
明代最末期の徽州では、とくに元代の山水画の大家、倪瓉(げいさん)(1301-1374)の蒐集が流行したという。ひとつには、倪瓉の描く平明で広豁な山水風景が、徽州の山河の様相に合致していたからといわれる。あるいは明代末期における抗清の戦いの最中、清と同じ異民族王朝の元朝に使えなかった倪瓉に共感したからともいわれる。ともかく、明代中期から後期にかけて、多くの倪瓉の書画が(真贋混淆であったにせよ)徽州にもたらされという。
弘仁(漸江)「九溪峯壑図軸」(上海博物館蔵)徽州でも西渓南の呉氏は書画の蒐集に熱心であった。祝允明も母親が西渓南呉氏の出身であることを以前述べた。倪瓉の画も、とくに西渓南の呉氏が蒐集に熱心であったという。
また西渓南の呉氏といえば、古来から富商が多い。明代末期の天啓五年には、宮廷の奸臣魏忠賢が呉養春の私財を狙った「黄山大獄冤案」という事件が起きている。
弘仁も、同年輩の親しい友人に呉其貞(1607-1678)という西渓南の裕福な塩商がいた。呉其貞は清初の大収蔵家である梁清標(1620-1691)の鑑定代理人であり、自身も著名な蒐集家であった。
「呉氏書画記」(四庫全書収録)という著書を残しており、これから当時の書画骨董の伝世の様子がうかがえる。その中で陸機の名品「平復帖」(現北京故宮博物院蔵)を、皆が贋物という中で、唯一人これを愛したという旨を述べており、鑑識には相当な自信があったようである。
まだ若い頃、弘仁はその呉其貞の下で西溪南呉氏が収蔵していた倪瓉の「幽澗寒松」「東岡草堂」「汀樹遥岑」「呉淞山色」の真跡を目にするや、病と偽って三か月の間そこに逗留し、臨摸に励んだ。このことは「呉氏書画記」に述べられている。画法のみならず、書法も改めて倪瓉に倣うといった傾倒ぶりであったそうな。その後に、それ以前の彼の作品をすべて破棄してしまったという。また当時の徽州にはすくなからぬ数の弘仁の描いた“倪瓉“が流通し、真跡として通ったというからその専心修練の程がうかがえよう。
弘仁(漸江)「九溪峯壑図軸」(上海博物館蔵)とはいえ、弘仁は模倣のみでは終わらなかった。波乱を経て出家後、好んで黄山や白岳を跋渉し、その景勝を画に描くのである。ここで初めて模倣を脱し、弘仁は独自の画境に至ったのである。
今でこそ、黄山は山水画の画題として特別な地位を占めているが、“黄山”が中国絵画の世界に突如として屹立するのは明代末期から清初にかけてである。また製墨の世界でも「黄山図墨」「白嶽図」のように、複数の景勝をセットにした、明代にはなかった墨の意匠が現れるのである。この複数の異なる図案の墨から構成される「山水図墨」は、清朝独特の墨の意匠であるといえる。
中国の伝統的な山水画というのは、あくまで「胸中の丘嶽」を描くものであった。すなわち想像上の風景であり、実在の何所の景色であるのか、ということは問題にされていなかった。無論写生もあったにせよ、実在の風景をいかに描くかということが、その画の主題ではなかったのである。
それが弘仁に影響をうけた石濤や梅清によってさらに黄山が描かれ、(おそらく)初めて実在の山である黄山がメジャーな画題として確立する。それは、王時敏、王鑑、王原祁、王石谷などの伝統的な山水画の方法論とは明らかに一線を画するものであった。その差異と独自の創作理論は、石濤の「画語録」によって精緻に理論化されるのである。
弘仁や石濤等は必ずしも現実の風景を目の前にして描いたわけではなく、後に情景を思い浮かべて描くこともあった。そういう意味では「胸中の丘嶽」という伝統に則っているともいえる。がしかし、以前の山水画家の多くが画の臨摸によって山水のイメージを養おうとしたのとは異なり、あくまで現実の風景に拠って「胸中の丘嶽」を発展させていったのである。
弘仁(漸江)「九溪峯壑図軸」(上海博物館蔵)この「九溪峯壑図軸」(上海博物館蔵)の制作時期は未詳であるが、落款に「道弟 弘仁」とあるから、武夷山の古航道舟の下で出家し、修行していた頃の作品ではないだろうか。若いころに研鑽した倪雲林の画法が独自の画境に昇華してゆく様がみられる作品である。

少し話が逸れるが、弘仁というと今年の冬に泉屋博古館で公開されていた「江山無尽図巻」などは素晴らしい名品である。この画をつぶさに見ると、必ずしも画には油煙墨が一辺倒に用いられていなかったことを、あらためて考え直さなければならないと思ったものである。点苔の艶を抑えた漆黒は、石濤の墨色の好みとは明らかに異なるものである。
弘仁などは、蓋し明代の佳墨を用いたに違いないのであるが、新安四家と製墨業との関係は、今後明らかにしてゆきたいと考えている。
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蘇州怡園の若き画家 〜胡錫珪「白描仕女巻」(蘇州博物館)

胡錫珪「白描仕女巻」(蘇州博物館蔵)より。室内の照明が押さえ気味だったので、写真が暗いのはいたしかたない。この日の蘇州博物館は、清朝後期〜民国にかけての呉門派の画家達の仕女図が多く展示されていた。胡錫珪も清朝後期の蘇州で活躍した書画家の1人である。胡錫珪「白描仕女巻」(蘇州博物館蔵)胡錫珪(1858-1890)は蘇州の人。原名は文、字は三橋。号して紅茵館主。幼い頃から画に親しみ、才能を謳われた。人物、花卉に優れ、また碑帖を多く臨模し、その筆力は勁健であるとされる。呉昌碩との親交が深かったという。「紅茵館」という号は、おそらく一世代前の仕女図の名手、姜暁泉(1764-1821)の号、紅茵館主人にならったと思われる。
「仕女図」は魏晋南北朝にはじまるとされ、当初は宮廷に仕える女性を描いた画であったが、後代には貴族や市井の女性たちの生活を描いた画も含めて「仕女図」と呼ばれるようになった。日本では「美人画」というような呼ばれ方をすることもあるが、日本のいわゆる「美人画」とは、かなり趣を異にするものである。胡錫珪「白描仕女巻」(蘇州博物館蔵)中国の伝統的な「仕女図」というと、琴や活花、あるいは書画、喫茶など、何らかの道具を使って作業をしていたり、複数の女性が集まり、会話や視線を交し合っている光景が描かれていることが多い。清朝後期になると、女性単独の画が多く見られるようになる。
胡錫珪「白描仕女巻」(蘇州博物館蔵)中国の工筆画というと、岩彩で華麗な着色がなされた画が思い浮かぶが、胡錫珪は、繊細な筆致の上に水墨を施しただけの「白描」にもっとも秀でているとされる。
この「白描仕女図」も、紙に墨のみを用いて描かれている。一見すると柔弱な印象をうけるが、緻密な描線は呉昌碩が「筆は髪の毛のようだが、その筆力は勁健」と賞したように、力のこもった端整な曲線で描かれている。また、要所に塗り重ねられた淡い墨の色使いも美しい。胡錫珪「白描仕女巻」(蘇州博物館蔵)髪は、繊細な筆致によって線が何度も重ねられている。滲まない加工紙に描かれているが、淡墨を何度も重ね塗りすることによって深みのある墨色が発揮され、豊満で艶やかな頭髪の質感を描き出している。
これも伝統的な工筆画の絵画技法のひとつである。花鳥や人物の描写において、淡墨を幾度も幾度も塗り重ねることによって、紙上に別種の質感を生み出している。その塗り重ねは、一見しただけでは想像もつかないほどの回数が施されているという。用いられる加工紙は、丈夫で重ね塗りに耐える紙である必要があり、また墨をしっかりと受け止めて美しく発色出来なくてはならない。胡錫珪「白描仕女巻」(蘇州博物館蔵)蘇州にのこる数多くの名園の中に、清朝後期の大収蔵家、雲楼主人こと顧文彬(1811-1889)が創建した怡園がある。数多くの画家を後援した顧文彬だが、怡園には作画に便利な環境が整えられていた。顧文彬は当時名高い書画家を怡園に招いては手厚く礼遇し、制作の便を図ったのである。また収蔵している膨大な古画を、書画家達が臨模して学べるように提供したのである。清朝末期から民国にかけて活躍した多くの書画家が、ここで学んでいる。
顧文彬は、若く才能ある新人画家を発掘し、育てたいと考えていた。あるものは虚谷を推薦したが、顧文彬は虚谷が僧侶であることに遠慮して、彼を選ばなかった。
そのうちに、若い胡錫珪の才能に目をとめる。そして怡園に招いて存分に画を学ばせ、制作を助けた。この期間に胡錫珪の画技は非常に向上し、将来は呉門(蘇州)画派の第一人者になることが期待された。が、惜しくも怡園に滞在すること数年にして、病でこの世を去る。長生していれば、その画業もさらに伸長したであろうと、顧文彬はその死を深く悼んだという。

「白描」は、それだけで工筆画の一ジャンルであるが、画を臨模して学ぶときに、繰り返し鍛錬される技術でもある。白描にせよ着色するにせよ、工筆画の基礎がこの「白描」であるとされる。
胡錫珪は、古画の臨模を通じ、相当にこの技法を洗練させて行ったのであろう。この「白描仕女巻」は、怡園に滞在中に描かれている。
胡錫珪は、清初の工筆画の大家である?寿平を深く学んだというから、あるいは彩色によっても充分な技量を発揮できたのかもしれない。「白描」も、完成された画には違いないのであるが、この仕女図にはどこか未完に終わったような余韻が感じられる。惜しくも夭折した豊かな才能と、生涯最後の数年間を捧げた深い修練の精華が、この「白描仕女巻」にはあらわれているようである。
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臨書と作品 〜祝允明「臨唐宋書冊」より?

祝允明「臨唐宋書冊」(上海博物館蔵)より、五点ほどを抜粋して掲載する。”呉中四才子”の中では最も好きなのが祝允明なのであるが、その臨書作品である。それぞれ、手本にしたのは誰のなんという作品であるか、お分かりになるであろうか?(正解しても何も出ませんが......)
祝允明「臨唐宋書冊」これをみて「やはり色々な人の臨書をやらなくてはならないのだろうなあ。」と思うのは早計かもしれない。中国書法の学書の方法論では、臨書はまずはひとつの作品を徹底的に学書し、モノにするべきであると説いている。例外は耳にしない。まずは自分が気に入った手本をマスターし、充分に消化し、何も見なくても同じように書けるようになって初めて、他の名跡の味を取り入れることが許されるということである。
色々な名家の味を自分の中でブレンドし、独自の書風を創り上げる。これが、中国における伝統的な学書の意味と目的であるといえるのである。その配合の加減こそが、オリジナリティーであるともいえる。
また、いくら古人の書を学んだからといっても、どこかにその人独自の癖が残るものである。徹底的に個性を滅し去ろうとしても、それでも消しきれない自己、これこそが真に「個性」というべきものではないだろうか。
祝允明「臨唐宋書冊」ここに数多くの作品を臨書した跡があるからといって、祝允明が濫りに多くの作品の学書を行ったと考えてはならないだろう。これらは祝允明35歳の頃の作品だという。充分以上の基礎が出来、すでに独自の書風を確立していた頃である。
臨書といっても、適宜参照しながら行ういわゆる”明臨”ではなく”暗臨”、すなわち拓本の手本を頭にいれ、一気に書き下したものと考えられる。
またこれらは学書としての臨書ではなく、祝允明の作品としての臨書である
。手本を傍らに置き、横目でチラチラみながら筆を走らせたのでは、このような気脈は生まれない。また、自らの作品として残すほどのモノではないだろう。祝允明「臨唐宋書冊」唐代からは楷書を、宋代からは行草を選んできている。おそらく一度は真跡を眼にしていると思われる、宋代の法帖の臨書は比較的忠実であるが、拓本しか残存していない唐楷に関しては、かなり自由な解釈が見られる。
厳格な唐楷も、祝允明の手にかかれば軽快洒脱の気韻が漂う。筆画の間隔や行間の間白のバランスの絶妙さを、観察していただければと思う。用筆はあくまで沈着端整で、その布局にはいささかの偏りも破綻もみられない。祝允明「臨唐宋書冊」明の四大家の中でも、最も早熟で天才肌の祝允明である。彼が様々な書風を書き分けることが出来たからといって、それが一般的な水準であるとは考えてはいけないだろう。祝允明「臨唐宋書冊」現代の日本では、”篆隷草楷行”すべての書体を、しかも様々な古典を学習するという話も聞くが、ずいぶんと難しいことをするなあと、思わなくも無い。
中国の歴代の作品を見ても、名家として名を残すのは、1人の能書家にたいして、1書体ないし2書体がせいぜいである。すべての書体を能くしたという祝允明は、まったく稀有な才能の持ち主であったといえる。ただし、「天才」の一言で片付けるのは、やや安易な見方である。
画も能くした文徴明や唐寅と違い、書にのみ専心した祝允明であるが、別に”書で飯を食う”ことを志していたわけではない。幼い頃より、科挙の受験勉強のために、小楷が徹底的に訓練されたのである。その研鑽の程は、現代人からみれば常人離れして見えるだろう。とはいえ、そうした学習自体は、当時の士大夫や読書人階級の子弟にとっては、ごく当たり前の日課であった。

祝允明は、33歳で科挙の地方試験である郷試に合格し、挙人となる。しかしそれ以後、中央の上級試験である京試には、七度試みたがついに合格しなかった。
官途に志が得られなかった祝允明だが、呉(現蘇州)中での詩文とその書名は高まる一方であった。30歳半ばからは、唐寅とつるんで呉中での遊興に日を送っていた祝允明、どこまで本気で官界を志望していたかは不明瞭なのであるが。
祝允明が実際にどのような学書をしていたか、いまとなっては作品からうかがい知るより他無い。その作品には”逸気”が横溢していても、その学書のプロセスと姿勢は極々オーソドックスなものであっただろう。この臨書作品に見られるケレン味の無さから、それが感じられるのである。

現代においても、臨書は学習の基礎として重要であることには変わりないそ。しかしその方法と目的は、歴代の名家が行ってきた学書とは、相当に違ったものになってしまっているのではないだろうか。もちろん、現代の日本人が科挙を目指すことはありえない。時代の隔たりゆえに、違いがあるのは当然であるが、無自覚な態度はいかがなものか。
「臨書は創作の基礎」とはよく言われるが、「厳格な臨書ばかりやっていると、創作が出来なくなる」というような、わけのわからない話も聞く。厳格な学書を繰り返した古人の書には、それでも個性や独創性は溢れかえっているのだが。

話がそれたが、ここに掲げた祝允明の臨書作品の、オリジナルは何か?正解は、残りの作品の紹介と共にまた次回にでも。
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紙上を墨が泳ぎだす 〜八大山人「魚鴨図巻」(上海博物館蔵)より

上海博物館では、八大山人「魚鴨図巻」が展示されていた。使われている紙の質と墨色を、充分に味わうことが出来る作品である。前にも述べたが、八大山人こと朱套の祖父は方于魯と同じ詩社に属しており、方氏墨譜の序文を何度か書くなど、かなり親しい関係にあったことがわかっている。八大山人「魚鴨図巻」(上海博物館蔵)また、南昌に隠棲する八大山人を後援し、長い間交友を結んだ方士館は方于魯の族人である。この交わりも、祖父の代から続くものであったことが、二人の間に交わされた書簡からわかっている。
まあ、十中八九、八大山人は方于魯かその子の方士芳の墨を使っていたと思うのであるが、裏づけのある話ではない。小生の確信的推測に過ぎないが、いかがであろうか。八大山人「魚鴨図巻」(上海博物館蔵)八大山人の作品は、後世に多大な影響を与え続けている。現代にいたってもその影響力は衰えるどころか、個性を偏重する現代の中国画壇において、ますます「八大山人風」の作画が増えているような印象である。
八大山人の描く魚や鳥などの動物たちは、その感情を様々に解釈できる不思議な表情をしている。諧謔と韜晦、自嘲、あるいは皮肉など、観る者によって多種多様な受け取られ方をされるのであるが、真意は謎である。通俗的な解釈では、滅亡した明の宗室の末裔としての悲憤や慷慨、反骨を表しているといわれているが、裏付けるような八大山人の発言は記録に残ってはいない。
八大山人は生涯清朝政府の監視を受け続けており、反逆の意志を発言ないし言葉に残すことなど、思いもよらないことであった。それでも亡国の悲憤と満腔の憤懣を、あるいは画に込めたという解釈も、故の無いこととは言い切れない。ただし、清朝期、特に康熙帝から乾隆帝の時代は思想統制が非常に厳しかった時期である。たとえ画であっても、現政権に対する反骨というような解釈が、同時代人によってなされたかどうか。
いやいや、真面目腐って魚の表情から作者の感情を、読み取ろうとする事自体が、考えてみれば多少馬鹿馬鹿しいことだろう。狙いはあるいはそんなところかもしれない。
八大山人「魚鴨図巻」(上海博物館蔵)この「眼」の漆黒。吸い込まれるような深い黒である。画から徐々に遠ざかっても、この黒い眼だけは追いかけてくる。魚を観ているのではなく、魚に観られている気分すら覚える。残念ながらそこまでの質感は、デジタルカメラでは捕らえきれていないのであるが。
墨の黒さを「童子の瞳」と例えたり、その漆黒を「目を射抜く」と形容したりするが、それらの表現が誇張でないことが、この魚の「眼」を見れば解るのである。八大山人「魚鴨図巻」(上海博物館蔵)濃墨の深い艶と、透明感のある淡墨の色、墨色の幅広い変化から、使われているのが精良な漆煙か油煙墨であると推測される。
当世の「八大山人風」の画の多くは、この眼の書き方に倣って鳥や小動物の眼を「三白眼」に描いている。「三白眼」を描くことで、あたかも伝統的な中国絵画を継承しているような顔をしている画をよく見かけるが、粗悪な紙や墨汁を使っているようではお話にならない。所詮は「似て非なるもの」に終わっているのであるが、そのような画の「三白眼」は、八大山人の描く眼の漆黒に遠く及ばない。
この「魚鴨図巻」では、全体を幅広いトーンの淡墨で描きながら、最高度の濃墨をその眼の一点に用いている。八大山人の用墨の真骨頂である。
いわば晏少翔が述べているところの「黒墨」の用法であるが、技法理論の上では誰でも知っていることである。が、いざやってみると効果を出すのは難しい。まず紙が悪いと濃墨の黒さが出ない。また眼を引き立たせようと、魚や鳥を淡墨で書くと、どうしても力の無い画面になってしまう。淡墨の濃度を高めると、今度はコントラストが出なかったり。八大山人「魚鴨図巻」(上海博物館蔵)上の写真の魚の腹を描いている筆致のカスレ具合、これも再現出来る紙は昨今なかなか眼にしない。
まるでコットン紙に木炭でサッと線を引いたような、ドライな筆致でありながら、木炭とは異なる墨独特の艶が秘められている。また魚体を覆う淡墨は、わずかな滲みの上を墨の濃淡が泳ぎだし、瑞々しい効果を生み出している。紙に粒子を定着させる木炭と異なる、液体である墨のこの表現の豊かさ。この墨と紙の性質を、十二分に生かしたのが八大山人の画の魅力でもある。
書道の世界で、「滲みとカスレの美の追求」が流行しているようだが、基本的に滲む紙のカスレというのは美しいものではない。滲む紙に書くと、カスレているようでも、ルーペで見ると、細かい線が滲みながら束になっているだけである。なのでどうしても力の抜けた、ぼんやりした線にしかならないのである。

八大山人は、滲み易い生紙を好んで用いた、といわれる事が多い。ただ小生としては、やはり滲みを抑えた半熟紙を用いたのではないかと考えている。あるいは明末清初であれば、生紙であっても現在のようにだらしない滲み方はしなかったのかもしれない。
真相はこの画の魚の如く、なかなかもって捕らえ難いところがある。
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蘇州博物館にて

昨日の午前中に、蘇州博物館を訪れた。今回、蘇州は製筆や、箱の製造に使う宋錦の調査に立ち寄った。5日の夜には上海に戻ったのであるが、少し時間があったので博物館も見てゆくことにしたのである。
蘇州博物館の蔵品博物館の蔵品に関する紹介は、いずれできればと思うが、蘇州博物館も上海博物館と同じく、フラッシュを焚かなければ写真撮影がOKなのがありがたい。以前は出来なかったように記憶している。「可以撮影」とも書かれていないが、「撮影厳禁」とも書かれていない。ということは撮って良いのだろう、と考えてカメラを出したら案の定、警備員は何も言わない。
「フラッシュ厳禁」という掲示はある。もっとも、フラッシュなんか焚いたら、すべてガラスで反射して作品など陰も形も写らないのだが。感度を最高にして、マクロ撮影するのがベターだ。今のデジタルカメラは優秀で、光の少ない室内でも、わりと綺麗な写真を撮ってくれる。あくまでカメラが撮ってくれるのであって、自分の技術だとは思えないのだが。
蘇州博物館の蔵品書画の写真を撮ったところで、なにほどのことがあろうか?と見る向きもあるかもしれないが、あとで色々と考え直すときに、記憶を喚起する材料にはなってくれる。鑑賞は、あくまで実物を観た経験に基礎をおかなくてはならないと思うが、写真に撮って改めて見直したときの発見も侮れないものがある。
蘇州博物館の蔵品市販の図録というのは、全体を写してくれてはいるが、部分となると、必ずしも自分が見たかったところを拡大してくれているわけではない。自分の視点で思う様に撮影できるというのは、それはそれでありがたいことである。
自分で撮った写真を見直すと、そのときの部屋の暗さなども思い起こされる。
蘇州博物館の蔵品人間の知覚というのは実に精巧に出来ていて、写真を観ていても、実物を観たときの記憶が喚起されて、修正された映像が脳の中で像を結ぶという。
デジタル写真程度では、質感は損なわれてしまうものだが、墨の拡散の仕方や色味の強弱など、見直せば一応の参考にはなる。紙の質感はなかなか伝わらないが、墨の滲み方を見れば、生紙なのか半熟紙か、あるいは熟紙なのか、大体の見当はつく。また墨色のコントラストの幅を見れば、油煙墨なのか松煙墨なのか、あるいは油松煙なのか、おおよその判別が可能である。
どのような材料が使われているかが関心事なので、使用した材料の効果が、端的に現れている箇所を撮影することになる。
蘇州博物館の蔵品日本の多くの博物館は、もちろん撮影禁止であろう。それはそれで理由があることであろうから、是非を問うものではない。が、ではなぜ中国の博物館は、撮影を許可しているのだろうか?しかも博物館の入館料は無料である。
商売で言えば、図録を売りたいなら撮影など厳禁にするべきであろう。撮影を許可しようものなら、それこそ画像が流通して、だれも図録を買わなくなるかもしれない。理由を少し考えてみた。
中国各地の公立の博物館は、年々収蔵を強化しているそうである。博物館に作品が収められるということは、それはそれで作品の保存、という観点からは好ましいことなのかもしれない。ただし一方で、市井に収蔵された作品から、身近に過去の名作に触れる機会が、徐々に奪われることになる。
作品など、博物館でみて勉強すればいいじゃないか?と思われるかもしれないが、書にせよ画にせよ、ショーケース越しに目に磨るのと、手にとって眺めるのとでは、認識の仕方がまったく異なってくるのである。
写真撮影を許可しているのは、もちろん書や画を研究する作家や研究者達の便を図るためであろう。見たい者すべてに手に取る機会を与えるわけにはゆかないが、せめてあとでじっくりと検討する際の、手助けになるような措置を講じてくれている、というのが小生の好意的な解釈である。
またこの施策は、中国の文化政策とも密接に関連しているはずである。日本人がイメージしているほど、中国では伝統文化が省みられていないのであるが、こういった博物館の開放は、自国の文化に対する認識の浸透に、大きく寄与するのではないかと思われる。
中国文物局の関連会社に勤める朋友が言っていたが、国の予算で博物館の入館料が無料になる代わりに、博物館側は色々な企画を講じなければならないそうだ。ただそれもこれも、税収が潤沢にあるから出来ることで、経営に四苦八苦している公立博物館が多い日本から見れば、なんとも羨ましい話である。
一昔前は上海博物館も撮影は出来なかったと記憶している。この措置、誰が言い出したかわからないが、しばらくこのまま続けてもらいたいものである。
といってもここは中国、ある日突然、「撮影厳禁」にならないとも限らない。であるから、せいぜい今のうちに資料を集めておこうか、というところで。
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