浦東空港から杭州東駅に車で移動、高速鉄道に乗るまで 2018年1月

今回は、いや今回も、というべきか、大陸への渡航は日程にあまり余裕が無い。上海浦東空港に到着するや地下鉄2号線に乗り、”広蘭路”という駅で降りるとD君が車で迎えに来てくれている。スーツケース積み込んで、そのまま杭州へ移動...というせわしさである。本来なら上海で1,2泊はしたいところであるが....
商用の旅であるから、これもいたしかたないとはいえ、昔のゆったりとした大陸旅が懐かしい.......ともあれD君、黒いミニバンサイズの自分の車を運転してきている。見た目にも新車ではないのであるが......「車買ったの?」と聞いたら「友達からもらった。」という事である。手ズレ感は否めないが、まだ運転に自信が無いので練習用にこれで充分、という話である。D君は自分の会社用のオフィス・ルームはポンッと一部屋買うくらいのことをするのであるが、仕事以外はいたって質実剛健、なのである。今日日の若い老板(社長)としては珍しい人物かもしれない。

しかし走り始めても、スピードメーターが一向に上がらない........なぜ?壊れているのだそうだ......そのかわりにダッシュボードの上にスタンドでスマートフォンを固定し、このスマートフォンが速度をフロントグラスに投影している......おそらくGPSを搭載したアプリケーションが移動速度を計算して表示しているのであろうが.......車検通っているの?などという質問はするのも愚かである。他にバックミラーも、みると鏡ではない。バックミラー型のカラー液晶画面に地図が表示され、別途音声で行先をナビゲーションしてくれているのである。

D君は時折「小妹、小妹」と話しかけると、バックミラーのアプリからであろう、女性の声で「我在ヨ〜」というかわいらしい返事がある。D君はその声に向かって、誰それに電話しろだの、どこそこへのルートを検索しろだの、といった指示をすると、その通りに実行される。このAI(?)アシスタント・ソフトウェアによって、ハンドルを握りながらでも電話をしたり、ナビゲーションを操作したりできるようになっているのである。
......その昔、人工知能を搭載した、しゃべるスーパーカーが活躍するアメリカのドラマがあったように記憶しているが.......そういった自動車に、まさか大陸で乗ることになるとは思わなかったものである。

スピードメーターが壊れていたら、日本の公道は走れまい.........このような状態の車に、自前で計器類を積んで走らせているような体裁であろうか。ブレーキを踏むと、後輪のほうでギシギシという音がする。まあ、無事に着けばよことではあるのだが、D君には「一応、修理に出したほうが良いよ。」というのみである。
上海から杭州へ延びる高速道路の走行は、これがいたって単調な道のりで、日本の高速道路ではありえないような長い長い直線が続く。眠くなるのではないか?という懸念もあるが、運転歴の浅いD君にはこの方がいいようである。

高速道路の途上には、サービスエリアが設置されている。大陸に高速道路が建設され始めた当初は、サービスエリアといっても、食べるところも買うものも、いたって簡単なものしかなかったものである。しかし最近は、軽食類から本格的な食事までそろい、またご当地のお土産類も充実しはじめている。しかしD君と私の定番は”五芳斎”の粽なのである。この竹皮で包まれた粽は、今や江蘇や浙江のサービスエリアではどこでも売っている。安価で温かく、手軽に食べることが出来て至極腹持ちが良いのである。日本ではさしずめコンビニのおにぎり、というところであろうが、大陸の人は基本的に冷めた食べ物は好まない。粽がここまで拡大したのも、そういった食習慣が影響しているのかもしれない。

車は杭州東駅の、地下駐車場に駐車し、高速鉄道に乗り換える予定である。杭州市街の渋滞を覚悟したが......料金所を出たところで渋滞に巻き込まれる.......しかしこの渋滞、よく見ると道路の構造上、起こるべくして起きている。
というのは、7〜8レーンほどある料金所から、一般道へ延びる道路の幅が急速に収斂しており、最後は2車線の狭さにまで狭められている。ちょうど液体が漏斗の出口に向かうように、車同士が割り込みあいながら進むものであるから、当然のごとく渋滞するのである。車線の減少が、距離に対して急激すぎるのである。日本の高速道路でも、出口付近は渋滞しやすいのが常であるが、その比ではない。極め付きは、2車線から市街の幹線道路へ接続する箇所に信号機が設置されていることである。この信号機によって、2車線を進む車は交互に片側一車線づつしか幹線道路に合流出来ないように規制されるのである。これでは渋滞しない方が不思議である。D君と二人して、この交通システムを考えた設計者をさんざんに罵ったものであるが........

杭州市街を杭州東駅にひた走る。杭州東駅周辺は、落ちかかる西日が道路に反射してまぶしいことこの上ない。高速鉄道の出発まであと30分程度である。間に合うかどうか......何故だか”走れメロス”を思い出してしまう。ともあれ駅に着いたが、広大な大陸の駅のこと、駐車場までは距離がある。D君は駐車場に車を停めてくるから、私は先に窓口で切符を受け取りに行き、後で合流することとなった。
私の高速鉄道の乗車券は、D君が購入済みである。購入済みであるが、窓口で身分証(外国人ならパスポート)を見せて、乗車券を受け取らないといけないのである。日本の新幹線に乗る時に身分証は必要ないが、大陸旅では身分証なくしては列車の旅は出来ないのである。インターネットで乗車券が買えるようになったのは便利といえば便利なのであるが、窓口に並ぶのは相変わらずである........大陸の人々は、身分証(IDカード)があれば自動発行機を使用することが出来る。しかし外国籍のパスポートには対応していないのである。
時間が差し迫っている場合などは、これがもどかしい。以前、深圳から武漢に高速鉄道で向かった際は、時間が無いので購入完了の画面をスマートフォンで見せ、それとパスポートを提示して乗り込むことが出来た。このような手段が採れない事も無いようだが、そのような事は誰も教えてくれないのである。
しかし杭州東駅の切符売り場「售票処」には、親切にも外国人専用窓口があり、他の窓口よりは並んでいる人が少なかった。比較的スムーズに切符を受け取ることが出来た。
駅の構内に入る時には、空港並みのセキュリティチェックを受ける。大荷物を抱えていると、これがなんとも煩わしい.......電話で「候車口」の番号をD君に教えて待っていたが、車を停めたD君と合流できたのはまさに改札が始まった時であった........乗車券を改札機に通すが、うっかり切符を裏にしたり、逆さまにすると改札が通れない。改札口には係員がついており、改札機に切符を入れる要領を得ない乗客に指導している。半自動改札、なのである......ともあれ座席に座れば一安心である。

大雑把に言えば、隅々まで浸透したスマート決済もそうであるが、既存のシステムをより便利にするというより、システムの不足や不備をいきなりソフトウェアや電子デバイスが補っている、というようなところがある。日本の場合、いたるところアナログ的なシステムが成熟しているので、それをデジタルで刷新する必要性があまりない、という事もあるかもしれない。
とはいえ、今や大陸の方が日本よりもはるかに進んでいるような印象を覚えないわけにはいかない。進んでいる、進んでいるのは確かかもしれないが、では総体として「便利か?」と聞かれると、少し考えてしまうところである。
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地下鉄のキャッシュレス

急速に拡張が進む上海の地下鉄であるが、一回一回切符を買うのは至極面倒である。例の使い勝手の悪い券売機の前の列で待たされることもあれば、券売機がマトモに稼働していない場合もある。よくあるのが「Coin Only」という表示で、要は釣銭が切れているのか、硬貨でないと買えないのである。おり悪く日本の500円玉とほぼ同じ大きさの1元硬貨を複数枚持っていないと、時に地下鉄の乗車券も満足に買えない。深圳の地下鉄では、紙幣が使えても5元札か10元札しか使えない、という券売機で難儀したことがある.......
そこで頻繁に地下鉄を使用する場合、日本における場合と同じく、料金をチャージして使用するICカードを使うことになる。この地下鉄のカードは大陸で共通化されていない。上海なら上海の地下鉄カード、深圳なら深圳の地下鉄のカードが必要になる。とはいえ少額なものであるから、都市ごとに作り、毎回の渡航時にこの地下鉄のカードを持って行っていた。しかし今回久しぶりに渡航するにあたって、上海の地下鉄のカードに限って、日本から持ってくるのを忘れていたのである。

仕方がないので、新たにカードを買うしかない。このカード、以前は地下鉄駅の窓口で購入できた記憶がある。世紀大道の地下鉄2号線の駅、改札近くの窓口に行く。しかし窓口では今やこのカードが買えないという。
2015年を以て、地下鉄カードの窓口での販売を取りやめたそうだ。以前は地下鉄のカードの購入、およびチャージをするために、改札近くに設けられている円形のカウンターの窓口には、人が群がっていたものである。省力化のためであろうか。今ではこの改札窓口に人が並んでいる光景を目にしない。ともあれ地下鉄カードの販売をやめるのは勝手であるが、ではどこで買えばいいのであろうか?一応、どこそこに一か所、発券所がある旨、書かれているのであるが(どこの駅でもあるわけではない)。行くのは面倒である。
あたりをみると地下鉄の券売機ならびの横には、カードの販売、およびチャージを行うと思しき、いささか目新しい機械がある。ところがこの機械、現金の投入口がどこにも無いのである。ロゴマークの表示を見る限り、銀聯の決済が使えるようであるが.......香港の地下鉄のカード、通称”オクトパス”は現金でカードを買えるし、コンビニでチャージも出来る。深圳は臨時窓口のようなところで、カードを現金で売っている。上海ではいち早くキャッシュレス化、ということなのだろうか。ともかく、大陸のデビッドとしては古株の、銀聯カードがあれば買えるようである。幸いにして、銀聯の機能が付与された中国銀行のキャッシュカードを持っていた。

これを使用して買おうとしたのであるが..........どうも50元分の乗車料金と、カード発行手数料の20元分の決済は終了したと思しき反応が、機械の表示からは見受けられたのであるが、肝心の地下鉄のカードが出てこない。いくら待っても出てこない。
仕方がないので、改札口に設けられている窓口の駅員に聞いてみた。駅員も要領を得ないような表情で、その辺の他の駅員を呼び、何やら相談していたのであるが、別の駅員の付き添いで、発券機のところでもう一回やってみるように言われる。同じ手順で50元分のカードを買おうとしたところ、今度はなにやらレシートのようなものが出てきた。1回目のトライではレシートすら出なかったが。レシートにははっきりと、50元分のチャージと、発行手数料70元が引かれた明細がプリントされている.........ところが、いくら待ってもカードが出てこない。今度は駅員の目の前である。そこでまた窓口の方に行って駄目だった旨を伝えたのである。窓口の中年配の女性の駅員は、面倒くさそうにファイルを引っ張り出し、いくつかページをめくっていたが、対処法がマニュアルになかったのであろう。あきらめた顔で「カードの自動発行機のところに電話番号が書いてあるから、そこに電話するように。」と、言うのである.......カードの券売機の事は、会社が違うからわからないと言う.........電話しても、決済は済んだがカードが出てこない、2回試したが駄目だった、などという事をどう説明したものか。
付き添った店員は素知らぬ顔でどこかへ行ってしまった........不案内な外国人に代わって、ちょっと電話で状況を説明してくれてもよさそうなものなのであるが........ああ、この塩対応、どこか懐かしさを覚えるこの感じは......と記憶を揺り起こしてみると........そう、これは紛れもなく、昔の社会主義中国、皆が国営だった、あのころの雰囲気である。あの頃はまだ骨董街で安価に面白いモノが買えたなあ......と感慨にふける暇もなく、この時は人を待たせていて時間があまり無いので、とりあえず普通の券売機で一回分の券を買って先を急いだのである。

夕方、上海人のD君に会ってそのことを話すと「それは”メイバンファ”ですね。たぶん、電話してもラチあかなかったでしょう。その発券機の会社の人は、駅員に聞いてくれ、と言ったでしょう。」という。まあ、2回分で140元、邦貨にして2,000円超は授業料という事か........もう少し長期滞在で時間があれば、そのカード発行機のサービスに電話してみるのも一興であったかもしれないのであるが。

それにしても現金でカードが買えないというのは、時には不便である。思えばたまたま銀聯を使えるキャッシュカードを持っていたからまだ購入をトライできたが、現金しか持っていない、海外からの短期滞在者はどうすればよかったのであろうか。
この地下鉄カードの発券機が、現金で購入できないように作られている理由としては、ひとつにはコストの問題があるだろう。硬貨や紙幣を扱うメカニズムというのは複雑で、動きのある機械というのは故障しやすく、メンテナンスも必要になる。センサーやアンテナで、ICカードを読み取るだけの機構であれば、ある程度簡単なもので済むのである。
また便利なようで不便なのは、この上海の地下鉄のカードは、他の都市では使用できないのはもちろん、地下鉄に乗る時しか通用しないのである。日本のこの手のICカードであれば、他の鉄道会社にも乗れるし、買い物も可能である。たとえば香港の”オクトパス”は、やはり地下鉄やバスだけではなく、コンビニやスーパーなどでの買い物も可能である。香港などは硬貨が大きく重いので、”オクトパス”カードに多めにチャージしておくと、小銭を持ち歩かなくてよく(香港の硬貨は英国を倣って大きくて重い)、さらに便利なのである。

ともあれ猛烈な勢いでキャッシュレス化が進んでいる大陸であるが、なかば屋台のような零細な飲食店の、至極少額の決済であってもスマートフォンで行うようになった理由のひとつには、偽紙幣の横行も影響している。最高額紙幣の100元札だけではなく、10元や20元など少額な紙幣にまで偽札が氾濫し、1元硬貨に至っては、そのまま通用しているようなありさまである。キャッシュレス化は、要は自国の貨幣に信用が無い、という事でもある。
とはいえ、現金で支払うことができないわけではもちろんなく、タクシーでも飲食店でも、いまもって現金払いは可能である。しかし何故、地下鉄のカードは原則出来ないのであろうか........?ICカードの利用によってキャッシュレスになったところで、そのICカードの購入もキャッシュレスとは........たしかにお金など、数字の羅列にすぎないのであろうけれど。
キャッシュレスにするのはまあ、良いとしても、扱う機械が故障しているのでは意味が無い。また機械というものは、そのそも故障するという事を前提に業務を組むべきであろう。

大陸で急進するキャッシュレス化に、ひとりの外国人としてはついていけないものを感じるが.....便利になったのか不便なのかわからない。どうもこのキャッシュレス化、そもそもの利便性の向上とは別の理由があるのではないか?と考えたくなる。急激に拡張する上海......に限らない、大都市の地下鉄網であるが、あるいは人員の拡充がついて行っていないのかもしれない。
昔の大陸の鉄道や空港といえば、数人かたまってのどかにおしゃべりをしている年配の駅員の一群をどこでもみかけたものである。しかし今は何かを聞こうとしても、しかるべき人を捕まえるのがとにかく難しい。それらしい人を捕まえて尋ねても「私は駅員ではありません。」という事が多い。インフォメーションのカウンターがあっても、そこのスタッフは駅の事はまるで知らない、という事もままある。
人員が拡充されているのは、改札を通る前のセキュリティチェックの要員ばかりである。改札前のセキュリティチェックの要員は、以前はまるでやる気がなく、大半の人が無視して通過していたものであるが、今ではきちんと手荷物をスキャンしないと通してくれない。どころか、荷物の内容を確かめられることもある。こういう部分だけは管理が強化されているようである。
それは都市の地下鉄に限らず、国の大号令で進む鉄道や空港でも同様である。空港内ないしは駅の構内に入る前に、かなり厳重にチェックされるのである。さらにいえば、赤字経営が必然のこれら公共インフラの経営には、セキュリティ以外の部署での、人員確保の余力がないのかもしれない。キャッシュレス以前に、要ヒューマンレス、という事情があるのではないかと、考えたくなる........昔の大陸の交通機関は、人が多い割に処理が遅く、なかなか思うように事が進まない場合が多かった。いまさらながらにアナログ的手段も残しておいてほしい、と思う出来事であった。
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深圳北駅で高速鉄道にのるまで

深圳から随州へ向かう際には高速鉄道を利用した。深圳北駅から乗車し、武漢駅へ向かうのである。高速鉄道は時期に関わらず当日券を買うのは既に厳しい利用状況であるから、予約が無難である。
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今回は湖北の朋友に予約してもらったのであるが、現在はインターネットで予約ができるから便利である。外国人の場合は、姓名とパスポート番号を連絡しておけば、本人でなくても予約することが可能である。予約時に決済も出来るが、チケットは基本的に駅の窓口で受け取らなくてはならない。
実はこれがなかなか難儀な話で、いまどきは皆々、インターネットで予約しているから窓口も勢い長蛇の列になる。自動発券機のようなものがないか?といえば、ある。しかし身分証番号をもつ中国人民にしか使えない仕組みになっているから、外国人は利用できないのである。
仕方なく窓口に並ぶのであるが、窓口には予約をしないで当日券を買おうとする人や、予約を変更しようとする人も並んでいるから、ある程度の時間は覚悟しなければならない。
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高速鉄道は何度も乗っているが、深圳北駅から乗るのは以前に湖南省の長沙に行ったとき以来である。およそ、高速鉄道の駅は実に広大に造られているである。とくに広東の高速鉄道の駅、広州や佛山など、ここで国際見本市でも出来そうな容積である。
窓口で並ぶ必要があるので、1時間前には到着した方が無難なのであるが、この日の深圳北駅は見込み見当が外れてしまった。深圳北駅も例にもれず、野球とサッカーが同時にできそうなほど広い上に、この駅は窓口などの配置が(慣れないせいか)よくわからない。だいたい、正面入り口に向かって左右に窓口があるものなのであるが、「售票処⇒」の表示が見やすいところに無いのであった。
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入り口から人があふれ出て大長蛇の列を造っているところがあるので、あるいはこの列なのかと、嫌な予感もしながら後尾の人に聞いたら「そうだ。」という。普通、列を作っているといっても、售票処の中で窓口毎に列をつくっているものなのであるが、この日の深圳北は様相が違っている。ともかくも最後尾に並んだのであるが、いっかな列が動かない。
一応、ロープで行列のルートが仕切られて、折りたたむように"售票処"、日本で言えば”みどりの窓口”の中に続いているのであるが、その售票処の中にさらにどれくらいの人が並んでいるか、皆目見当がつかない。
およそ、窓口に並び始めて30分もすれば一応は先頭にたどり着く。運が良ければ十数分である。これはおおむね、上海南や上海虹橋、鎮江などの江南の駅での最近のリード・タイムなのであるが、どうも今日の深圳北はそれどころではないようだ。乗車券を受け取ってからも、駅ロビーへ入る時のセキュリティ・チェックや、また広大なロビーを目的の乗車口まで歩いてゆく時間も考慮すると、どうも間に合うような雰囲気ではないのである。
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駅のロビーへ入るセキュリティ・チェックは、外国人の場合はパスポートと乗車券を見せなければならない。当日の乗車券の無い人が勝手に駅に入れないしくみなのである。つまり乗車券を発券してもらえないと、普通は中に入れないのである。しかるべき駅員を捕まえてどうするべきか聞こうとしたのであるが、この膨大な人々の海の中で、口をきいてくれそうな駅員を探し出すこと自体が至難である。
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時間は刻刻と過ぎてゆく。しかたないので、朋友が画像で送ってくれた乗車券の予約が完了したという画面を携帯に表示し、それとパスポートを見せて駅に入れないか、ないしはどうすべきかセキュリティ・チェックの人に聞こうと思って駅の入り口にならんだのである。見ると、私だけではなく、前方に並んでいる何人かが、携帯の画面を見せてチェックを通り抜けている。これはいけるかもしれない。
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案の定というべきか、チェックの係員は何も言わずに通してくれた。しかし、乗車券が無いので、列車にのれるのかどうかは分からない。係員に言うと「中で聞いてくれ」といわれる。誰に聞けばいいのだろう...........
駅の中に発券窓口でもあればいいのであるが、そうしたものはない。ただ自動発券機は何台か置いてあって、中国人民はこれで発券することが出来るようになっている。
朋友に電話でどうしたら良いのか聞いたのであるが、まわりがうるさいのと電波が微弱な為か、よく聞き取れない.....。
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駅中は巨大な待合室になっており、十数メートルおきに改札口がある。自分が乗る列車の改札口へ行っても、駅員らしき人物は誰もいない。インフォメーションでもないのかと歩いているうちに、駅の反対側の入り口のところまで来てしまった。たいてい、広東の高速鉄道の駅は反対側にも入り口がある。場合によっては窓口もあり、それはオモテの窓口よりすいていることがある。あるいはとおもって、一度駅を出たら、はたして售票処があった。その中に入るまでに並ぶという事もない。これは良いと思って中に入って、ある窓口に並んだ。ところがこの窓口がなかなか動かない。ひとりの人物の処理に十五分くらいかかっている。前にはまだ10人くらいの人がいる。
このとき気が付いたのであるが、窓口の上に設置されている大型のLED表示板に、列車の空席や運行状況の表が表示されている。それはどこの駅にも設置されている設備なのであるが、そこに「温聲提示」......「温い聲」というわりには、良いお知らせでないのはよくある事だが..........そこには台風接近のため、深圳から南へ向かう列車の多くが運行中止、という告知が表示されているのである。

おそらく長蛇の列と、列の消化がなかなか進まないのは台風接近による運行の乱れが原因であろう。単にキャンセルする人もいるのかもしれないが、日程をずらしたり、路程をかえる人もいる。並ぶ前に考えてくれればいいのであるが............たいていの人は窓口と相談しながら決めるのであるから、これが進まない。
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幸い、深圳から西北の武漢へ向かう高速鉄道は正常運行である。ともかくこの日の深圳北駅は、台風接近のために幾分”非常事態”といえるのかもしれない。非常のときは大抵.........非常手段が使えるものである。
先ほど駅のセキュリティを携帯電話の予約画像で通った手が、おそらく改札時、乗車時にも使えるのではないか..........そう考えて再びセキュリティ・チェックを通って駅の中にはいり、120ヤードほども荷物を引きずりながらロビーを走って改札口へ向かうと、いまにも改札が始まりそうな時刻である。改札が始まる直前にならないと駅員は来ない。改札でダメと言われたらアウトである。ここがこの<<社会主義国>>の難しいところで、今日のように非常時には非通常の手が通ることがあるのだが、融通が利かないときには全く利かない。ともあれもう時間がないので運次第である。
駅員が来ると人が改札口に人が押し寄せて、駅員の側に近づく事も出来ない。が、しかし、ここでも何人かがチケットの代わりに携帯電話の画面をかざしている........難なく乗車することが出来た。しかしこの7月の暑い深圳で荷物を抱えて広大な駅を右往左往である。指定した座席のシートに落ち着いたときには、だいぶん汗をかいていた。これから武漢まで五時間半、である。
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外国人.....の多くはしらないが、”みどりの窓口”しか知らない日本人にとっては大陸の鉄道システムは依然として難易度が高い、のではないだろうか。いろいろな所から来た人が利用するのであるから、せめてアナウンス、インフォメーションは空港並みには充実させてほしいものであるが。
大陸の列車を利用する際に事前に予約していたら、その予約完了の旨がわかる姓名とパスポート番号が表示された画面なりを画像かプリントアウトして持って行く事をお勧めしたい。通常、パスポートだけあれば窓口でパスポート番号で照会して発券してもらえるのであるが、この日のような事もあるのだ。
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ひさしぶりに、大陸の旅特有のスリルを味わう事になったのであるが........昔の小さな駅、ゆっくり走る列車の旅では、さまで慌てることは少なかったように思う。高速鉄道網が整備され、便利になったはずの大陸旅でも、なんだか昔の旅より疲れを覚えることがある。あながち、自身のトシのせいばかりではないと思っている。
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湖北の水害

7月の武漢〜随州行に際して、一番の懸念は水害による交通機関への影響であった。まずは深圳から武漢へたどり着かなければならない。長江流域内陸部は長雨の影響で各地で河川の氾濫、家屋への浸水被害が出ている。出発の前々日に、武漢駅前が冠水している画像を目にしていた。武漢で待つ朋友は、飛行機で来るなら空港まで迎えに行くというのであるが、悪天候ともなれば飛行機は大幅な遅延ないし欠航もあり得る。五時間待たされた挙句に欠航、という事態も大陸では珍しいものではない。招かれた婚礼の前日に現地に入る日程であったから、飛行機の欠航は致命的である。

「船で行こうか?」と冗談を言ってみたものの、本当にどうするか?考え込んでしまった。上海の朋友などは、危険だから行くのを止めた方が良い、とも言う。私も正直、途上で立ち往生する可能性も鑑みて、辞退する方に気持ちが傾きかけたのであるが、湖北の朋友は「万難を排して」来てほしいような雰囲気である。
ともかく、空港で為す術もなく待たされるよりは、という事で高速鉄道を選んだ。深圳北駅から武漢駅までは5時間半の距離である。
結果的に、何の障害もなく武漢にたどり着いたのであるが、運もよかったのかもしれない。広東から南方に行く高速鉄道は、接近する台風の影響で運行停止が目立っていた。高速鉄道の車窓からは、岳陽から武漢の間の上空に、高層な雷雲が暗く聳えているのが見えた。あの雷雲の中を飛行機で下りてゆくのはゾッとしない。
ともかく深圳から北西方向へ向かう武漢方面は、特に影響がなかったのである。武漢に到着したら、駅前の冠水も水が引いていた。
車で武漢の市内を流れる長江を渡った時は、両岸の河川敷がすっかり水に浸っていたのを目にしたのであるが、それでも市街への浸水は限定的であるという事だ。武漢在住の朋友の姉は何事でもないような口ぶりである。写真に撮る間がなかったが、膨大な灰色の流れの中に、群島のように連なって、大小の灌木の僂浮かんでいた。

武漢と随州の間は水害の影響はまったく感じられなかった。随州での婚礼の後に武漢に戻り、黄州へ向かう高速バスの車窓からも、増水して岸辺の木々が水につかっている池沼を時折目にするほか、洪水の被害というほどの光景は見られなかった。
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黄州から武漢への帰途は、鄂州市から武漢への高速鉄道に拠った。黄州からタクシーで長江をわたり、対岸の鄂州市の駅へ行く。そこから高速鉄道に乗るのである。その武漢へ向かう高速鉄道の車窓から、氾濫浸水した家屋がいくつも目撃されたのである。やはりというべきか、相当な被害が出ていたようである。とはいえ、武漢周辺の長江流域の広大な範囲からすれば、これでもほんの一部なのであろう。たまたま堤防が崩れたとか、低地にあったという事で浸水被害を免れなかったのかもしれない。水面からわずかに屋根を見せているほどに浸水している区画に隣接した領域では、何事もなかったかのように乾いた地表が露わになっているのである。
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洪水で思い出すのは、武漢より長江沿いのはるか上流にある「三峡ダム」である。計画自体は1950年代、毛沢東の時代から存在した。建設を提唱したのは毛沢東である。しかしダムの建設が強力に進められたのは江沢民時代の1995年からで、ダムが完成したのは2006年。さらに周辺設備が完成したのが2009年である。いうなれば完成から10年ほどしか経過していない。
かつて毛沢東は、三峡ダムが完成した暁には「一万年に一度の大洪水も防ぐことが出来る。」と豪語したという。しかし近年、たびたび起こる三峡ダム下流域の洪水は、そんなノアの大洪水のような規模ではない。
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察するに、堆積する土砂によって、ダムの貯水容量自体が計画と違ったものになっているのであろう。ダムは定期的に浚渫、排砂しなければその機能が低下するのであるが、三峡ダムほどの規模のダムに有効な浚渫の手法が存在するのかどうかは分からない。今現在の三峡ダムの正味の能力がどの程度なのか、数値が見当たらないので想像するよりないが、下流域で頻繁に起こる洪水を見る限り、計画には程遠い能力しか残されていないのだろう。
三峡ダムに限った事ではないが、途上国にしばしば建設される巨大ダムというのは失敗例が多い。建設に伴って土地を追われた原住民は都会で貧困化し、建設されたダムの電力は有効に使用されない。とどのつまりダム建設に伴う利権目当てでその国の支配者階級や、国際的なゼネコンが潤う、という仕組みなのである。

昨年あたりから、現在の三峡ダムには洪水調整能力がほとんどない、という事も言われるようになってきている。それどころか「もし三峡ダムが決壊したら、下流域にはどのくらいの被害が出るのか?」という、空恐ろしい話もささやかれている。またそれと関連した話なのかもしれないが、一発のミサイルでもって山峡ダムを破壊すれば、核兵器を用いずとも中国を壊滅出来るというような、至極物騒な事を言い出す大陸の論者もあらわれている。そういった無辜の人民に巨大な被害をもたらすような作戦を、いったいどこの国が好んでやると考えているのだろうか。しかし、勝つためには人民にどれほどの犠牲を強いても構うまい、というあたりがいかにも大陸的ではある。

..........寒くなるにしたがって、大陸では再び大気汚染が深刻化している。それは北方を中心に、製鉄所をはじめとした工場の稼働率が高まっているからである。大気汚染がここニ年ほど改善を見せていたかのように見えたのは、過剰生産を踏まえた生産の抑制が奏功していたためである。あれほど声高に対策が叫ばれていたにも関わらず、また二十数兆円に上る公害対策費が計上されたと報道されていたにも関わらず、抜本的には何も改善されていなかった、というのが実情のようである。
工場の生産が再び活発化するに先立って、大規模な金融緩和が実施されている。それは今年の秋口くらいまでの不動産の高騰をもたらし、停滞していた建設プロジェクトを再開させ、それが石炭鉄鋼などの旧態産業が息を吹き返す契機となっている。

大気汚染は相も変らぬ債務の拡大に頼った投資主導の経済成長の副産物なのであるが、そうでもしないと既に膨大な債務を積み上げた地方政府や大手企業の資金繰りがつかなくなり、金融危機に見舞われる。もはや環境がどうなろうが、経済の実質がどうなろうが、この壮大な悪循環を止められないのが今の大陸経済の現実なのであろう。常識で考えれば、このサイクルは既に持続不能な水準に至っているのであるが、権力至上主義の政府は、そうは考えないのだろう。すでに産業の至る所「大きすぎて潰せない」状況が固着している。もはや構造を変える事も出来なければ、悪循環を停止する事も出来ない。それは”三峡ダムプロジェクト”と同様、プロジェクト自体が目的化してしまっているのである。よほどの政変でも起こらない限り、そういった状況が続く事は覚悟しなければならないのだろう。
無論、住んでいるわけではなく、時折短期滞在するだけなのであるが、やはりどことなく気が重くなる。やりきれない話だが、現代中国はそういう国家なのである。
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黄州拾遺

東坡赤壁から黄岡市の市街に向かう。小さな街とはいえ、歩いて戻るにはホテルはいささか遠い距離にあり、またこの日はあまりに暑過ぎた。東坡赤壁の入り口にある広い駐車場では、いくらまってもタクシーが来る気配がない。ともかく車を拾えるところまでは歩こうと、黄岡市街の方へ歩いていゆく。
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蘇軾はその「初到黄州」の詩で

長江繞郭知魚美  
好竹連山覺筍香

長江は郭を繞(めぐ)りて、魚の美なるを知る
好竹(こうちく)山に連なりて、筍の香ばしきを覺ゆ

と、黄州の第一印象をうたっている。黄州は長江の湾曲した流れの内側に位置し、ほぼ東西南の三方を長江に囲まれている。赤壁が長江の流れに面していたとすれば、城壁も長江の流れに臨んでいたであろう。まさに”長江は郭をめぐる”なのである。

黄州時代の蘇軾は一応は官員であるが、同時に罪人であり、勝手に黄州を離れる事は許されない。
蘇軾は黄州に着いてしばらくは”定恵院”という、寺院の中の官舎に住んでいた。それから”臨皋(亭)”にうつり住む。さらに従者の馬夢得に軍営の跡地を借りてもらって開墾し、そこを”東坡”と名付ける。馬夢得の名義で土地を借りたのは、これも流刑人の禁則に触れるからかもしれない。”東坡”とは、唐の白居易が忠州に左遷されていた時、城市の東側の斜面に花を植え”東坡(東の斜面)”と名付けた故事に拠っている。
白居易は江州、忠州左遷の後、中央政官界に返り咲いているから、蘇軾が自らの耕作地を”東坡”と名付けたのは、いつかは宮廷に戻らんとする意志の表れであるとも言われる。また白居易が”琵琶行”を書いたのは江州左遷時のことであり、蘇軾の”赤壁賦”の下敷きのひとつに”琵琶行”がある事とも符合する。
また耕作地の”東坡”に、”雪堂”というあずまやを築いた。ここで墨の比較品評なども行っている。

黄州に到った蘇軾が仮寓した定惠院は、当時黄州随一の寺院であった。王朝時代、各地の寺院は宿泊施設としての役割も担っており、官吏の出張の旅の際には宿を提供していた。また赴任してきた官吏が住む、官舎としても利用された。名士の来駕ともなれば、勢い社交の場ともなる。
実際、市井の宿というのは”水滸伝”に描かれるように、無頼の徒も出入りするところであった。食事だけならともかく、不用意に泊まるのは危険ですらあったのである。
大陸の寺院は街中の宿よりも清潔に保たれ、寺院はほぼ自給自足で食材の蓄えもある。部屋も多いから、多少の人数の、急な宿泊も可能なのである。家族連れでの移動が常であるから、身分の高い女性の世話の必要もある。大陸の寺院の多くは尼僧院が併設されており、女手にも不足しないのである。
また旅の宿ではなく、官吏が一定期間定住することもあった。王安石は南京の鐘山寺を、隠棲の地としている。いうなれば地方にあって”官舎”の役割を果たす事によって、寺院にも政府からの修繕費や、また士大夫からの寄進も期待できるというわけである。
寺社に宿泊しての旅については、後藤朝太郎の「支那の山寺」を読むと、その雰囲気の一端がつかめるかもしれない。
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今回、黄州は一泊の滞在である。もとより、史跡のすべてを訪ね歩くことはかなわない。そもそも黄州は度重なる戦乱で、めぼしい史跡はほとんど残っていないのである。南宋の陸游は黄州を訪問して、臨皋や雪堂など、蘇軾の事跡を尋ねたという。しかしその後の金軍や元軍との戦いで黄州は激戦地になり、蘇軾の寓居を忍ばせる跡はあらかた焼失してしまったのだという。
蘇軾の東坡や臨亭、雪堂が何処にあったか?という事も、今や定かではない。後赤壁賦の内容などから察するに、寓居の臨皋や耕作地の東坡、また東坡に築いた雪堂などは、赤壁から徒歩で往来できる、たがいにほど近い距離にあったのだろう。
元豊五年、長沙に赴任していた米芾は黄州の蘇軾を訪ね、初めての面識をもったといわれる。(米芾の黄州行はほかに元豊四年、あるいは七年という説もある)
このとき蘇軾45歳、米芾32歳。後、米芾が蘇軾と再会するのは、蘇軾が海南島の流刑から許されて都へ戻る途上、常州でのことである。米芾との再会からほどなくして蘇軾は体調を崩し、一月後に蘇軾はこの世を去る。米芾は若いころから蘇軾の筆跡を熱心に臨書するほど、蘇軾に傾倒していた。黄州での米芾は詩や書画について大いに啓発されるところがあったようだ。
米芾は黄州で臨皋や雪堂を目にしている。また蘇軾の死後、黄庭堅が黄州を訪れ、やはり臨皋と雪堂をたずねている。

赤壁から勝利路へ向かい、勝利路を市街方向に歩くと、東に向かうなだらかな傾斜になっている。黄州は長江向かって傾斜のある丘陵上にあり、市街近くに耕作地をもとめるとすれば、傾いた土地にならざる得なかったのであろう。”東坡”の「坡(さか)」を想起させる地形である。

黄岡市は湖北省の小さな街であるであるが、勝利路沿いにはいくつかの垢抜けた雰囲気の洋菓子屋やパン屋なども見られる。
武漢も暑かったが、このときの黄州も大変な暑さと湿気で、夕方からよるにかけても気温が下がらない。東坡赤壁を出た時は四時半を回っていたが、日没は7時半であり、8時くらいでも外は明るい。
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勝利路から右に折れてゆく通りに、”黄州中心市場”なる市場がある。現在の行政区としては黄岡市であるが、ここではまだ”黄州”の呼称がのこっている。
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赤い樹脂製の桶いっぱいに”龍虾(ロン・シャア)”すなわちザリガニが売られている。大陸にとっても外来種であるはずの龍虾は、戦前に日本を経由して持ち込まれたという。大陸では生態系を乱す外来種として嫌われる事は無く、かえって養殖すらされて美味しく食べられている。
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黄岡は背後にダム湖が控え、汚染されていない水で育った龍虾は高級品として大都市へも出荷される。もっとも、この小さな市場で売られている龍虾は地元の消費に供されるのであろう。
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通りを中心に、左右に店の看板が並んでいる。生鮮食品から酒類、雑貨までいろいろな店がある。建物は白い鉄筋造りなのだが、間口の幅が同じである。また店の看板が黒地に金文字の、これも時代がかった横看板で、どことなく往時の市場の様子を感じさせる。
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”黄州中心市場”の次に右に折れる通りが”考棚路”である。この”考棚路”は勝利路に交差しながら、ちょうど”黄州実験小学校”に突き当たっている。”考棚”とは科挙の試験会場の俗称であり、厠のような狭い区画に仕切られたスペースで、受験者達は試験に挑んだのである。
正しくは黄州府試院と呼称され、また貢院とも呼ばれた。府試、院試は科挙の地方試験のさらに予備段階であり、府試合格者が院試に挑み、院試合格者は秀才と呼ばれ、郷試の受験資格を得るのである。
黄州は教育の盛んな土地柄であったようで、小さな地方の街であるが唐代には十余名の進士及第者を出している。こうした試験会場は、試験の行われない期間はそのまま読書学習の場として提供されたという事である。現在、その史跡が黄岡実験小学校の敷地内にあるという
いうなれば黄州は古くからの”文教の地”である。後に広東の恵州、果ては海南島にまで流されることに比べれば、田舎町といえども、左遷先としてはまだしも配慮が感ぜられるところである。
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考棚路から勝利路に戻りまたしばらく歩くと、やはり右手に”勝利新街”という、まだ新しそうな、ショッピングセンターと思しきアーケードの通りが目に入る。
テナントはほとんど入っておらず、また閉店しているところも多い。当時鳴り物入りで開業したのであろう。しかし家賃と売り上げがアンバランスなのか、その後閑散としている商業施設は、地方都市でよくみかける光景である。かつてにぎわったところがさびれたのではなく、一度もにぎわう事なくさびれていっているのである。急速に成長すると期待された地方都市の経済が、ここにきて急減速している傍証でもあるのだが、このように無駄に終わった投資の跡はおびただしく存在している。
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そこに一軒、暢気に店を開けている喫茶店があった。この日は頗る暑い。少し涼をとろうと、店に入る。コーヒーを頼んでから、二階に上がってしばらく休憩する。
店内ではWi-Fiが使え、本や漫画、雑誌がおいてある。また”禁煙”とある。日本では当たり前になったが、大陸でお茶を飲むところといえば、同時にタバコをふかす場所でもあるから、これもやはり新傾向なのである。
どことなく、日本の個人経営の喫茶店に近いような雰囲気である。最近、地方の街でも、このようなゆったりした喫茶店を見かけるようになった。日本においてそうであるように、儲かるような商売ではないが、一定の需要があるのだろう。あるいは資産をもった経営者が、趣味で営業している場合もある。
食事をするでもなく適当に休憩できる場所というのは、地方の街ではなかなか見つからなかったのであるが、近頃はこうした店でしばし体を休めることも出来るようになったのがありがたい。
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このショッピング・アーケードの裏手に、アーケード街に沿ったように高く、長大な壁が続いている。見上げると胸壁が供えられ、表は古い煉瓦と漆喰で固められている。これも昔の城壁の一部なのだろう。市街の中心に位置しているが、かつて二重三重の城壁が存在した可能性はある。小さな街であるが、長江中流域の要衝に位置し、古来争奪が繰り返された城であることをしのばせる。
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ひとりだけの夕食を、どこで何を食べようか?と考えた。
蘇東坡ゆかりの料理といえば、東坡肉が有名である。蘇軾が若いころ、徐州知事として赴任した際に、黄河の決壊を防ぐために官民を動員し、水害を防いだ際に住民から礼として豚肉を贈られる。その豚肉を蘇軾が料理し、官民に贈答した料理にはじまるとされる。しかし今ではもっぱら、杭州の名物料理のひとつに数えられている。
蘇軾は「食猪肉頌」という”打油詩”の中で、黄州の豚肉について

黃州好豬肉,價賤如泥土。
貴者不肯吃,貧者不解煮

と詠っている。
「猪」は日本ではイノシシであるが、大陸では今でも「豚」を指す。「黄州の豚肉は美味しいが、値の安いことは泥土の如しであり、お金持ちはあえて食べないし、貧しい者は調理がわかっていない」という。蘇軾が「食猪肉頌」で説く豚肉の調理法は、豚の頭部をトロ火で柔らかく煮込んだ料理のようである。現在知られる「東坡肉」のように、豚のアバラ肉の料理ではない。
黄州で豚肉が珍重されなかった理由はわからないが、おそらくは河川から採れる魚介類に恵まれていたからかもしれない。蘇軾が黄州を去って後も、蘇軾に「食猪肉頌」で皮肉られた通りだったのか、豚肉の煮込み料理はついに黄州の名物料理にはならなかったというわけである。

東坡肉はさておき、蘇軾が「初到黄州」で「魚の美なるを知る」と言い、また後赤壁賦で「巨口細鱗」とうたったところの、黄州の魚を食べてみよう、と考えた。
”後赤壁賦”が描写する、友人達とのささやかな酒宴では、友人が網で捕った魚をどのように調理したのかはうかがえない。季節も晩秋に到っているから寒いはずで、ぶつ切りにして鍋料理にでもしたのだろうか。舟の上でも炊事は出来るようになっている。小さな舟であっても、たいていは雨をしのぐための”苫”があり、煮炊きできるようになっていたのである。
しかし賦には”巨口(きょこう)細鱗(さいりん)、身は松江の鱸(ろ)に似たり”とある。松江は現在の上海北辺の地域を指す。また「鱸(すずき)」とあるが、「松江の鱸魚」といえば、別に”四鰓鱸”と言い、”四枚の鰓(エラ)”のある魚、すなわちハゼに似た魚のことであるという。
「世説新語」によれば、西晋時代の張翰は、宮廷で激化する権力闘争を嫌い、また故郷の松江の鱸魚の鱠(なます)と蒓(ジュンサイ)のスープ恋しさのあまり、官を擲って故郷に帰ってしまったという。以来、”蒓鱸”は、(出生栄達を望まず)望郷の念を表す語として用いられるようになる。

その”秋風歌”に曰く
秋風起兮佳景時
松江水兮鱸魚肥

とある。この歌にあるように、「鱸魚」は「太平広記」によれば、旧暦の八月九月(現九月十月)の霜の降りる頃、身が雪のように白くなり、鱠にすると生臭くなく美味であったという。
蘇軾が「身は松江の鱸に似たり」とうたったのであれば、やはり膾(なます)、つまり刺身にして食べたのではないだろうか。といっても北宋当時の”膾(なます)”は、今の日本の”刺身”のようなものではなく、細かく刻んだ魚肉を芹などの香草、調味料と和えた料理であったようだ。

蘇軾は魚の調理法としては「膾(鱠)」を好んだようで、その「有以官法酒見餉者因用前韻求述古為移廚飲湖上」には”喜逢門外白衣人、欲膾湖中赤玉鱗”とある。また「和蔣夔寄茶」には”金齏玉膾飯炊雪”とし、膾に白い米飯を添えている。
さらに「和蔡準郎中見遨遊西湖詩三首之三」では”船頭斫鮮細縷縷,船尾炊玉香浮浮”、あるいは「泛舟城南會者五人分韻賦詩得人皆若炎字四首」の”運肘風生看斫膾、隨刀雪落驚飛縷”とあるように、舟の上でも魚をさばいて刺身にしている。あるいは「杜介送魚」にも「病妻起斫銀絲膾、稚子歡尋尺素書」とあり、家庭でも刺身をつくって食べていたようである。四川省出身の蘇軾は、魚と米飯を好んだようだ。
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しかし蘇軾の昔はいざ知らず、現在の大陸では淡水魚を生食することはほとんどない。三国時代、呉の虞翻は生魚の寄生虫にあたって死んだという。時代が下がるほどに人口が増え、排水によって河川や沼沢が汚染され、寄生虫の害が無視できなくなったのだろう。清朝の随園食単には、既に魚を生食するという調理法がみあたらない。
わずかに紹興や上海を中心に、酒粕に生の蟹を漬け込んだ”酔蟹”や、生きた川蝦を度数の強いアルコールに浸して酔わせて食べる料理、あるいは淡水の蟹や貝類を塩漬けにしたものがあり、そこに淡水魚介の生食文化の名残を見るのみである。
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当然、今の黄州でも魚の生食は望むべくもない。先ほど「黄州中心市場」で、「黄州滑魚湯」という看板を出す店が何軒か目に入った。どうも黄州の名物料理のようである。そこで「黄州中心市場」に戻り、「黄州滑魚湯」を出す店に入った。
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「滑魚湯」あるいは「黄州滑魚湯」は、淡水の魚のスープである。これは魚のほかに豆腐がふんだんに入っており、江南でよく見かける「魚頭豆腐湯」に似たような料理である。「魚頭」だけではなく、魚が丸ごと一匹入っている。どのあたりが「滑魚」なのかというと、魚にでんぷん粉をつけて油で焼いてからスープを注いで煮ており、スープを吸った粉のために舌触りが滑らかになる、ということである。
連日、非常な暑さであり、そこにまたスープ料理である。しかし武漢ではお腹を少々壊しており、あえて温かい料理を選んだ、という事情もある。
この魚は、長江でとれた魚ではなく、黄岡市の背後の山間部にある、ダム湖でとれたものだという。上流に人が住んでいないので、汚染されていない水で育った魚、という事だ。なるほど、小骨が多いのは淡水魚の常であるが、味は淡白で泥臭いということもない。それに少しのごはんを添える。
調子を崩したお腹には、消化の良い白身魚と豆腐、それに暖かいスープは良い料理であった。

食事を終えて店を出ると、大粒の雨が降ってきた。夜の散策はあきらめざる得ない。明日の昼過ぎには武漢から高速鉄道で深圳、香港に戻らなければならない。現在の黄州こと黄岡県に、蘇軾の足跡をしのばせる史跡は少ないのかもしれない。とはいえ、もう少し探索しいたい場所である。再訪を期待し、翌朝、黄州を後にした。
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黄州赤壁行

武漢から黄州への移動はバスに拠った。武昌駅近くの中長距離バスターミナルから、大小の湖水と河川の上を一時間ほどひた走ると、黄州こと湖北省黄岡県に到着する。ホテルに荷物を置き、暑かったので少し休憩してから「赤壁」へ向かう。
ホテル前の通りで捕まえたタクシーの運転手に「赤壁(チー・ビー)」といえば、すぐに案内してくれる。黄岡県は小さな街である。十数分ほどで、「東坡赤壁」に到着する。牌坊前のひろい駐車場で私を下すと、タクシーは走り去っていった。
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ふとみると、入り口のすぐ右手の方が崖になっているのであるが、(写真では白っぽく写ってしまっているが)その色が果たして赤い。崖にそって、赤レンガの崩れかけた城壁のような構造物も見える。すわ赤壁かとおもいきや、それはもう少し先の方である。ビニールシートで覆っているのは、雨で崩落する事を防ぐためだろう。訪問する直前、湖北省一帯は長雨で氾濫の被害が出ている。岩と言っても、粘土質の地層であり、崩壊の危険性はある。そのうちコンクリートで固められるのかもしれない。

以前、徽州の岩寺鎮で、”岩寺”の名称の元となった巨石を探しに行ったことがある。それもやはりこのような赤い色の粘土岩であった。徽州ではところどころでこうした赤い粘土層が露出しており、この粘土を原料として煉瓦を焼くと、真っ赤な煉瓦になる。聞くところでは、太古、巨大な湖の底であった時に、土砂が堆積して出来た地層なのだそうだ。それは安徽、江西、湖北など、大陸内陸部にまたがる広範な地域に及んでいるという。
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もとより黄州赤壁は、三国時代の赤壁の古戦場ではない。古戦場の”武赤壁”に対して、詩賦に読まれたことから”文赤壁”とも呼ばれる。古い地誌では赤鼻磯(せきびき)ないし赤鼻山(せきびざん)などと呼ばれている地形である。また赤鼻磯という呼称から、黃鶴樓のあった現武漢の黄鵠磯と同じく、長江の流れに突き出た岩礁であったことがうかがえる。しかし現在の黄州赤壁は、長江からは完全に分離し、江岸から1kmほど内陸の池水に浮かんだ岩崖として残っているのみである。
麻姑のいう「桑田蒼海」ではないが、長江流域では長い年月の間に流れが陸地になったり、また陸が水底に沈むことも珍しくはない、ということなのだろう。
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史跡の名称としては「東坡赤壁」である。しかし黄州赤壁を古戦場にみたてて詩をよんだのは蘇軾が初めてではない。一般に、それは唐代の杜牧にはじまるとされている。ただ、杜牧より少し先輩の李白にも、赤壁の戦いを詠んだ詩がある。これが黄州で読まれた詩であるかどうかは不明であるが、注意をひく。李白の「赤壁歌送別」は

二龍爭戰決雌雄、赤壁樓船掃地空。
烈火張天照雲海、周瑜於此破曹公。
君去滄江望澄碧、鯨鯢唐突留餘跡。
一一書來報故人、我欲因之壯心魄。

と、赤壁の激戦を勇壮にうたい上げている。
ではどこでこの詩がよまれたか?についてであるが、李白の詩は年代日時を特定できるものがすくない。この詩も開元二十二年(734年)ごろ、李白が江夏を旅していたころの作品であると言われている。主題が赤壁の戦いなのであるから、江夏周辺で読まれたのは間違いないだろう。ただし李白はその前後十年ほど、江夏(現武漢)を中心に漂泊していたというから、いつどこでだれを相手によまれた詩なのかは、実のところ特定しがたいのである。

「赤壁(せきへき)樓船(ろうせん)地を掃いて空」「烈火張天(ちょうてん)雲海を照らす」という二句には、呉軍の火計によって魏の水軍が破られた様が活写されている。また「周瑜於此破曹公」から、呉の周瑜が戦勝の立役者であったという認識がうかがえる。「於此」とあるから、範囲はともかく、歌をよんでいるこの場所が赤壁な戦い場だったのである、というように読める。第五句には「君去り滄江(そうこう)澄碧(ちょうへき)を望む」とあり、「君去る」ということは、送別の友人はこの地から去ってゆく、というように解釈できる。

戦史上の赤壁の場所については諸説あるが、武漢から岳陽へ長江をさかのぼる中間、現在の赤壁市付近であるといわれる。そこは近代に入るまで、蒲圻県という、ごく小さな街があるだけであった。
李白は洞庭湖、嶽陽樓の詩も多く読んでいるから、江夏(武漢)から長江をさかのぼる途上の蒲圻近郊で、古戦場としての赤壁を目にしていたかもしれない。しかし蒲圻に李白が長期滞在した形跡はなく、この「赤壁歌送別」が蒲圻で歌われた、というのはやはり考えにくい。当時ほかの李白の送別詩と同じく、江夏の中心、現在の武漢あたりでよまれたのではないだろうか。

このころの李白の送別詩では、年代がはっきりし分かるものとして開元二十二年(734年)に宋之悌が驩州へ赴くのを見送る「江夏别宋之悌」がよく知られている。

楚水清若空、遙將碧海通。
人分千里外、興在一杯中。
谷鳥吟晴日、江猿嘯晚風。
平生不下淚、於此泣無窮。 

唐詩選にもいくつかの詩が集録されている著名な宮廷詩人であり、五言律詩の完成者と目される宋之問がいるが、宋之悌はその弟である。
「平生不下淚、於此泣無窮」とある。”ふだんは涙を流さないのに、ここで泣けて泣けてしかたがない”という、友を送る真情にあふれている。それは表現上の誇張にとどまらない。宋之悌が行く先の驩州(かんしゅう)は交祉ともよばれた現ベトナム北部で、当時は大変な蛮地であったからである。驩州への赴任は事実上の流刑で、様々な風土病や蛮族が跋扈し、生還は期しがたいと考えられていた。
宮廷で宋之悌の兄の宋之問と併称された沈佺期(しんせんき)も、やはり驩州に流刑の憂き目にあった。その「初達驩州」という詩で、蛮地に送られた絶望感をうたっている。

個人的には、李白の「赤壁歌送別」は、宋之悌に向けてよまれたのではないだろうか?と考えている。前四句の赤壁の戦いを描写する、いささか過剰なまでの激しい筆致は、これから友が行く先での戦いを暗示させる。また後半四句と比べての前半四句の壮烈さは、友人を鼓舞するためと考えれば腑に落ちる。それは”江夏の地で起こったこの壮大な戦いに比べれば、南の蛮族相手の戦いなどモノの数ではない”と励ましているかのようによめるのである。
事実、宋之悌は驩州へ赴任後、現地の蛮族の蜂起に遭う。しかし勇士八人を鼓舞して力戦し、ついに反乱を退けたという。とすれば、勇猛な人物であったのだろう。撃剣の使い手で任侠肌の李白とは、ウマの合った人物であったに違いない。
李白の「赤壁歌送別」が江夏で読まれたとすれば、具体的には何処であろう?と考えると、それは黃鶴樓のあった現武漢中心地ではなく「春風三十度、空憶武昌城」とうたわれるように、武昌城のあった現鄂州市あたりとも考えられる。
もっとも李白にはほかに「江夏贈韋南陵冰」という詩がある。その末尾四句は

我且為君槌碎黃鶴樓
君亦為吾倒卻鸚鵡洲
赤壁爭雄如夢裡
且須歌舞醂ネ

である。
大意を示せば”私は君をもって黃鶴樓をうちこわすから、君はわたしを鸚鵡洲におしたおしてみなさい。赤壁の両雄の戦いだって夢の中の出来事のようなもの、なにもかも歌い舞って別離の憂いをくつろげようじゃないか”という、酔いに任せた体の、実に奔放な内容である。ひろく”江夏”と言った場合、そこに黃鶴樓も赤壁も含まれるという、李白らしい気宇の大きな詩である。
ただ、李白は神仙世界のような、現実に存在しない世界を主題とする以外は、目に見た景物から空想を膨らませて詩をよんでいる。この「赤壁歌送別」も、想像の契機となるような、李白が目にした景観が、どこかにあったのかもしれない。
黄州に李白の足跡は確認できないが、対岸の武昌城ではいくつか詩を残している。李白は黄州の赤鼻磯を目にしたことがあっただろうか。
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現在の東坡赤壁は、史跡の中に入る前にも公園がある。色あせて放置された近代的な遊具の姿にやや興を削がれる思いがしたが、ともあれ入場料を払って史跡の中に入る。
昼過ぎに黄州に到着し、午後3時ごろに東坡赤壁に到着している。七月初旬の昼下がりのこととて、日差しも強く気温も湿度も高い。史跡の中に入ると、きれいに整備された園庭があらわれる。正面に向かえば、赤壁の岩崖上に構築された楼閣へのぼるようになっているが、まずは蘇軾が遊んだ赤壁をみたいものである。入って左手に見える、蓮の葉の繁茂する池に沿って歩いてゆく。
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淡水を蒸らした沼池の匂いが漂い、大きな蓮の葉が湖面をおおいつくしている。そのところどころに紅いハスの花が揺れている。小さな鴨が泳ぎながら、水にもぐったり、蓮の葉をくぐったりしている。池水の上に人の影が動くのに応じて、時折大きな魚が身を躍らせる水音が聞こえる。園内の低い木々には、蝉の声が喧しい。
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木の桟道をわたってゆくと、開けた池水の上に白い亭閣をいただいた岩崖が見える。この岩色は東坡赤壁入り口右手の岩肌と同じ色調であり、連続した地層なのであろう。なるほど、赤壁というだけあって、たしかに赤いのである。池水には白い壁と赤い岩がさかさまに映し出されている。
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唐代の杜牧は、蘇軾に先立って赤鼻磯を古戦場にみたてる詩をつくっているが、蘇軾のように、赤壁の元で船遊びを楽しんだという形跡はない。
杜牧は当時斉安郡ともよばれた黄州に、刺史として赴任している。それは杜家の長子として、失明した弟の家族も含めた大家族を養うために、なにかと役得の多い(かつ都会のような社交上の出費もすくない)地方官への転出を希望したと言われる。また一説には、牛李の党争と呼ばれる、宮廷党争から距離をおく為であったとも言われる。その「赤壁」は

折戟沈沙鐵未銷
自將磨洗認前朝
東風不與周郎便
銅雀春深鎖二喬

史学家でもあった宰相を祖父にもつ杜牧は、若いころの出世作である「阿房宮詞」にみられるように、史料に精通していた。また歴史上の事件を巧みに絶句にダイジェストして読み込む、”詠史詩”に長けている。

「赤壁」でも「東風(とうふう)周郎に便ぜずんば」と、赤壁が火攻めによる戦いであったこと、周瑜が主な功労者であったことにふれ、「銅雀春深鎖二喬」として、曹操が二喬を銅雀臺に侍(はべ)らすことを夢想した故事を織り交ぜながら、歴史の一場面を短い絶句に凝縮している。
しかし銅雀臺の建設は赤壁の戦いの後であり、袁紹の残党を掃討し、河北を完全に掌握してからの事である。”赤壁の戦い”と”二喬”を結びつけるのは、おそらくは当時すでに戯曲化された”三国志”の脚本に拠ると考えられる。

杜牧は黄州赤鼻磯付近で、川砂の中から「折戟(せつげき)」を拾った、とされる。杜牧自身がひろったのではなく、魚の網にでもかかったものだろう。赤鼻磯が古戦場でなくとも、武昌城付近では戦いが繰り返されたから、河底から古い武器が現れても不思議ではない。無論、これ自体が創作であるとも考えられる。
ここで杜牧は、赤鼻磯を古戦場の赤壁に見立てる構想に及んでいるが、この詩がいつどこで作られたか?については、実ははっきりしていない。一説には、この詩は杜牧と同時代の李商隱の作であるとも言われている。
たしかに二喬という絶世の美女に曹操・周瑜といった英雄の故事をからめてうたいあげるのは、恋愛詩に長けた李商隱の範疇としてもよさそうではある。とはいえ、李商隱が黄州に滞在した形跡はない。李商隱の作とすれば「折戟」をひろったというのも、まったくの空想という事になる。
”ハッピーエンド”で詩が終わるのは、悲劇性と残酷ともいえる描写を好んだ李商隱の作としては、少し物足りない感じも否めない。李商隱であれば.......周瑜の戦勝によって小喬は救われたけれど、その後すぐに周瑜は夭折してしまい、小喬は寡婦となって晩年寂しく過ごしたのである........というような、哀調に満ちた詩を作るのではないだろうか..........

杜牧がやはり黄州でよんだ「齊安郡晚秋」には

柳岸風來影漸疏 使君家似野人居
雲容水態還堪賞 嘯誌歌懷亦自如
雨暗殘燈棋散後 酒醒孤枕雁來初
可憐赤壁爭雄渡 唯有蓑翁坐釣魚

「憐れむべし赤壁(せきへき)雄を争いし渡(わたし)」として、黄州赤壁をモチーフに選んでいる。
「渡(わたし)」は船着き場のことであるが、黄州城外に付帯した赤鼻磯近くには長江に臨んだ城門がある。あるいはそこには船の停泊地もあったのだろう。齊安郡は黄州の別称であるから、この詩は杜牧の黄州刺史時代の詩であることがわかる。他「齊安郡偶作」など、黄州刺史時代の杜牧は佳品を多くのこしている。
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赤壁を違う角度から眺めようと、赤壁に向かって左手方向、池に沿って歩いてゆく。途中で赤壁下の池とは分離された、一面萍(うきくさ)に覆われた緑色の水面が現れる。その奥には、斜めに池水に滑り込もうとするような、巨大な赤い岩石が鎮座している。なるほど、池水に斜めに突出した赤い岩を人の鼻梁とみたてれば、赤鼻磯ないし赤鼻山という呼称もうなずける。
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この赤壁正面からみて裏手に当たるこのあたりの池は、魚の養殖でもしているのであろうか。水に近づくと、一面の浮草の間からフツフツと魚の吐くあぶくがはじける音がする。時折、池の真ん中のほうでは大きな魚が銀色の鱗をきらめかせて跳躍し、須臾のまにまに浮草の暗い破れ目から水中に消えてゆく。
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それにしても水面下をうかがいがたい、一面の緑である。杜牧の「齊安郡后池絶句」では

菱透浮萍儷喘
夏鶯千囀弄薔薇
盡日無人看微雨
鴛鴦相對浴紅衣

とよんでいるが、うき草が一面におおった池水を「緑錦」と形容している。あるいはこのような水面であろうか。
201607黄州赤壁行
ところで岩波文庫「杜牧集」における「赤壁」の解説には、黄州赤鼻磯が赤壁の古戦場ではないことを杜牧は知ったうえでの創作であろう、と述べている。しかし現在の大陸では、杜牧や蘇軾は、黄州赤鼻磯を赤壁と”誤解”していたのだ、とする人も少なくない。この点については多くの論考がある。
仔細はともあれ、地理や戦史に精通していた杜牧が、史上の赤壁を取り違えたままにしていたとは考えにくい。
杜牧は「早春寄嶽州李使君李善棋愛酒情地閑雅」という詩で

烏林芳草遠
赤壁健帆開

とよんでいる。「早春寄嶽州李使君李善棋」というから、早春に嶽州にいる李使君と李善棋の両氏にむけて寄せた詩であろう。嶽州(岳州)は、嶽陽樓のある現在の岳陽市で、長江の洞庭湖への注ぎ口にあたる。
赤壁の古戦場の現実の場所については諸説あるものの、概ね、武漢から長江をさかのぼり岳陽へいたる途上であると考えられている。また赤壁付近の長江北岸の烏林は、曹操が陣を敷いた場所として「三国志・魏書」ないしは「呉書」に記述がある。優れた史家であり、軍事家であった杜牧は、すくなくとも黄州の赤鼻磯が、三国時代の”赤壁”ではない、という事は認識していたに違いない。

自身すでに病んでおり、また大家族を養い難く、地方官に進んで転出した杜牧である。黄州刺史は歴とした地方長官であるが、いかんせん小さな街である。経世救民の理想からすれば、中央政官界から距離をおくのは辛い。しかし対抗勢力の監視と弾劾にさらされがちな中央にあるよりも、地方官の方が何かと役得が多いのも事実であったようである。また都会にあって社交に日を送るのは、出費の上からも、消渇(糖尿病)を患う杜牧の身体の上からも、負担が大きかったのかもしれない。

実入りが多いと言っても、杜牧の場合は貪官汚吏のそれとは違い、当時の慣行以上のものではなかっただろう。黄州での杜牧は旧弊を改めながら、善政に努めたことが伝わっている。またこの地から中央官界の友人に向けて、西方異民族への対処をめぐる献策をしきりにおこなっている。
軍事家の杜牧としては、ふと、大軍を前に存分に采配を振るう自身を夢想することがあったかもしれない。それが赤鼻磯を赤壁にみたてる奔放な発想につながっているというのは、考え過ぎであろうか。
201607黄州赤壁行
白い亭閣をいただいた正面からの赤鼻磯よりも、裏手の景観の方が、杜牧や蘇軾が目にした赤壁に近い自然な形をたもっているのではないだろうか。もとより、赤鼻磯の上には、さほどの建物などなかったようである。
”後赤壁賦”では蘇軾は舟を下りて断崖によじ登り、岩の上から長嘯(ちょうしょう)する。これは腹からしぼりだすように、長く連続した発声法で、野外でしばしば興にまかせて行われたという。蘇軾の長嘯に応じて草木が振動し、崖下の水は沸き返る、と描写される。赤壁の岸壁上にはハヤブサが巣食っていたというが、それはあの岩の上の鬱蒼としたあたりであろうか。
池を横断して橋があったが、途中で道が切れている。可能であれば岩崖をよじ登ってみようとも考えていたが、道もなく危険であろうから断念する。外国人が史跡に無断でよじ登った、という騒ぎになるのは有り難くないので、ここは自重である。

杜牧のように依願しての転出ではなく、流罪として黄州に左遷された蘇軾である。罪人だけに、黄州を勝手に離れることはできないし、政治行政上の権限も何もない。形ばかりの官職は、杜牧が任じられた刺史とは比較にすらならない。”黄州団練副使”という、地方の自警団の、それも副団長である。文字通り役得もない名ばかりの地位である。それでもいくばくかの俸給があったようであるが、自嘲交じりに「官家圧酒嚢」とうたったように、ほとんど現物支給のような薄給であった。ゆえに蘇軾は、昔の軍営のあった土地を借りて自ら耕作し、ほとんど自給自足の生活を強いられるのである。

ところで身分制度の時代、地位に応じた出費がつきまとう。地位と利権が与えられる代わりに、相当な支出も義務付けられたのである。それは節約すればいい贅沢、などというような性格のものではなく、怠れば罰せられる、という”制度”なのである。たとえば喪中の禁は死者との関係によって細かい決まりがあり、禁を犯せば罰せられたのである。

日本の江戸時代で言えば、大名には地方の収税権が認可される代わりに、石高に応じて人数格式を整えた参勤交代が義務付けられ、どこの藩もその支出に苦しんだ。旗本御家人であっても、石高によってやしなうべき人数があり、また武具馬具などは自弁の必要があった。
清朝の紅樓夢では、膨大な利権を与えられた屈指の大貴族の家でも、身分格式に伴う莫大な出費や、それにともなう経済観念の麻痺による浪費により、ついには没落する様が描かれる。紅樓夢のモデルとなった江寧織造の曹家も、江南の織物や塩業を仕切るという巨大な利権の見返りに、清朝皇室の御用金の調達を命じられていた。それが出来なくなったことが”お家断絶”の直接の理由になっている。

黄州は地方であるとはいっても、それなりの交際があり、なにより蘇軾は左遷されたとしても名士である。当時節句には、官府で官吏を集めた宴会が催される。流罪の身の蘇軾は参加できないか、またある程度は辞退することもできたであろうが、一応の官職があり、時宜に応じた最低限の交際は求められたであろう。

当時の黄州には李宜という名妓がおり、黄州を離任する間際の蘇軾に詩をねだった故事がある。「贈黄州官妓」という詩が残っている。当時は地方にあっても官設の妓楼があり、官選の妓女、いわゆる官妓がおかれていた。彼女たちは罪にあって断絶したり、破産没落した士大夫の家庭の子女達から選ばれ、官府で催される宴席に侍って歌や舞を供したのである。蘇軾の「贈黄州官妓」は

東坡五載黃州住
何事無言及李宜
卻似西川杜工部
海棠雖好不吟詩

概要を示せば「東坡が五年も黄州にいて李宜について何も言い及んでいないのは、あたかも蜀で杜甫が(蜀におけるすばらしい)海棠の詩をよんでいないかのようだ。」
という事で、逆説的に李宜のすばらしさを形容しているという詩である。杜甫が西川(蜀)に滞在したのも、蘇軾の黄州滞在と同じく五年間であった。

またこの詩からうかがうに、左遷の身とはいえ黄州にあって一応の官職を持っていた蘇軾は(なにより当代の名士でもあり)、官府の宴や当地の官吏との社交に、まったく無縁であったという事ではないのだろう。しかしそれは経済的に困窮していたのに妓楼で遊んでいた、というような事ではなく、なかば仕事なのである。蘇軾は離任までしばしば李宜の出る宴席に出ていたであろうにも関わらず、彼女に詩を贈らなかったのは、謹慎しての事であろう。
宴会費用は官費から出るにしても、それなりの容儀や祝儀など、自弁の支出も少なくなかったはずである。晴耕雨読の清貧の生活をしたくとも、官界の端に身を置く以上は避けられない社交や出費があり、それにくらべて現金収入はあまりに少なかったのが、黄州の蘇軾の生活であったのだろう。
しかし”前後赤壁賦”に描かれるように、気の置けない友人と連れ立って、妻の用意してくれた自家醸造の酒や簡単な酒肴を携え、船を雇って気ままに遊ぶ楽しみもあった。その方が、気楽に楽しめたに違いない。
201607黄州赤壁行
東坡赤壁の史跡の外縁に沿って、楼閣が築かれ、そこに赤壁賦を書いた歴代名家の筆跡の墨拓が掲示されている。もとより、この史跡の整備に伴って作られたものであろう、時間を割いて見るべきものはない。
201607黄州赤壁行
赤壁の正面に戻り、岩崖上の亭閣に登る。このあたりの岩を切り出して壁をつんだのであろうか、赤い人工の壁の上に白い壁の亭(あずまや)が建てられている。頂には、極彩色の楼閣が見えるが、この景観には蛇足の感がある。
201607黄州赤壁行
下の池水から立ち上って来るのか、湿度の高い熱気に蒸しあげられるようであったが、岩壁上に乗ると多少の風があり、暑さを和らげてくれる。
201607黄州赤壁行
”前後赤壁賦”が書かれた同じ年の十二月の蘇軾の誕生日に、蘇軾たちはまた赤壁に遊んでいる。”後赤壁賦”の”十月の望”のさらに後の時期である。赤壁下に舟を出して遊ぶのは一度や二度の事ではなく、お気に入りの遊び場であったようだ。この誕生日の宴の様子を記した「李委吹笛並引」がある。以下に大意を示せば

元豊五年十二月十九日、東坡の誕生日であった。赤壁磯(せきへきき)の下に宴席を張り、高峰に踞(うずくま)り、鵠巣(こくそう)を俯(あお)ぐ。
酒も酣(たけなわ)になったころ、江上に笛の音が鳴り響いた。客に郭氏、石氏の二人がいて、とても音楽に詳しかった。彼らが東坡に言うには「この笛の音には新しい趣があり、きっと非俗の者の工夫でしょう。」そこで人をやって奏者を訪ねさせると、すなわち進士の李委という者で、東坡の誕生日であると聞き、新たに曲「鶴南飛」をつくり、これを献じたというのである。
そこで李委を呼んで前にすると、青い頭巾と紫の簡素な服に、笛を携えただけであった。既に新曲を演奏し、またたちまちいくつかの曲を即興で演奏した。それは音節明瞭で、雲をうがち石をさくといったような激しくも優れた音色である。客は皆な演奏に酔いしれて倒れ伏すという有様であった。李委は、袖からすこぶる良い紙を一幅を出していうに
「私はあなたさまに特に求めるものはありません。絶句をひとつ、いただければ充分です。」東坡は笑ってたのみをきいてやった。 その詩に曰く

山頭孤鶴向南飛
載我南遊到九疑
下界何人也吹笛
可憐時復犯龜茲

という様子である。
このときの赤壁の游は、時系列で言えば”前後赤壁賦”よりも後の出来事なのであるが、どことなく”前後赤壁賦”の内容と重なる部分がある。このときは舟は出さず、赤鼻磯付近の陸上に野外の宴をはったようである。ともあれ、蘇軾とその気心の知れた友人たちとのうちとけた遊びの様子がうかがえ、また地位は低くとも蘇軾が当地の人士に重んじられていた、その気分のようなものが伝わる内容ではある。

蘇軾は元豊二年の十二月に黄州へ至り、元豊七年の四月にここを離れている。”前後赤壁賦”や、この「李委吹笛並引」の出来事は黄州生活の半ば、元豊五年の事である。この年の四月には「黄州寒食詩」が詠まれ、その困窮ぶりが切々とうたいあげられている。
ただ蘇軾の黄州赴任も三年が経過し、その間耕作に勤めた甲斐あって、あるいはこの年が豊作に恵まれたのだろうか、その晩夏から秋にかけての赤壁賦には若干の余裕が感ぜられるところである。

蘇軾が黄州で「赤壁」を詠んだ詩といえばまず「念奴橋・赤壁懐古」がある。

大江東去、浪淘盡、千古風流人物。
故壘西邊、人道是、三國周郎赤壁。
亂石穿空、驚濤拍岸、卷起千堆雪。
江山如畫、一時多少豪傑。
遙想公瑾當年、小喬初嫁了、雄姿英發。
羽扇綸巾、談笑間、強虜灰飛煙滅。(檣櫓 一作:強虜)
故國神遊、多情應笑我、早生華髮。
人生如夢、一樽還酹江月。

これは唐代の李白や杜牧の後を受けて、さらに民間での戯曲化が進んだ三国志世界が念頭に置かれているのだろう。特に「羽扇綸巾、談笑間」というくだりは、これよりはるか後世、明代の”三国志演義”を読んだ者からすれば、あたかも諸葛孔明を描写しているかのようでもある。しかし北宋のこのころは、赤壁の戦いの主役はあくまで周瑜なのである。それは三国志・呉志に引用される”江表傳”などの描写が、ひろく定着したためかもしれない。
宋代までに民間の戯作世界において確立された”周瑜像”の何割かが、”赤壁の戦功”と同時に、おそらく後世の”孔明像”に移行しているのだろう。周瑜としてはずいぶんと割を食った格好ではある。

黄州に赴任するにあたり、蘇軾が唐代の杜牧を意識しなかったという事はまず考えられない。しかし不思議と、黄州における蘇軾の詩賦に、杜牧に直接言が及ぶ作品は見当たらないのである。無論、蘇軾の赤壁懐古や”前後赤壁賦”は、杜牧の詩にはじまる着想を踏まえたものであろう。”前後赤壁賦”より以前に作られた「念奴橋・赤壁懐古」には、それが顕著に現れている。
しかし蘇軾が友人の文同との間に交わした「和文與可洋川園池三十首・竹塢」には

粗才杜牧真堪笑
喚作軍中十萬夫

という句があり、「粗才の杜牧、真に笑うに堪えたり。軍中十万夫にあたって喚作するとは」と、杜牧を笑っている。「喚作」は、「わめく」こと。軍事家であった杜牧は兵事に関する詩も多く遺しており、あるいはそれを皮肉ったものか。
また「將之湖州戲贈莘老」では

亦知謝公到郡久
應怪杜牧尋春遲

とある。謝公は蘇軾が敬慕する東晋の謝安。湖州には墓がある。これに対置して「應(まさ)に杜牧の春を尋ねるに遲きを怪しむ」とよんでいるが、杜牧はその晩年、大中四年(850年)に湖州刺史として赴任し、ここで多くの詩を残す。湖州刺史は、杜牧が幾度か請願した任地であった。しかし1年足らずで中央に召喚され、長安で没している。
蘇軾のこの詩は、読みようによっては「かの謝安は湖州のような素晴らしいところに久しく住んでここで没したのに、杜牧はその最晩年になって湖州に赴任し、それが遅すぎたのが不思議なくらいだ。」という、杜牧に対してはやはり若干の皮肉が感じられるところである。
どうも杜牧は蘇軾が範とする詩の先達者の中には、含まれていなかったかもしれない。とはいえ、蘇軾は杜牧の詩をよく読んでいた、という事でもあるだろう。
蘇軾の時代、その師の欧陽脩が提唱した古文復古が定着しており、蘇軾はその中心人物のひとりである。当時の古文復古の価値観からすれば、唐代よりも古い、漢代から南北朝の文学に重きが置かれている。その見方をもってすれば、杜牧は東晋の謝安の下に位置せざるえない、とも見られる。もっとも蘇軾は、唐代の詩人のうち、白居易や杜甫に、強い影響を受けており、唐代の詩詞を否定していたわけではない。

先の「贈黄州官妓」では杜甫に触れているが、杜甫は蜀(四川省)で五年の間、黄州における蘇軾と似たような半ば自給自足の生活を送っている。杜甫は蜀の成都にたどりつくや、諸葛孔明を祀った”武侯廟”に詣で、孔明の事跡をよんだ「蜀相」という詩をたてまつっている。また成都郊外に”浣花草堂”をむすび、農事のかたわら詩作に耽っている。
黄州へ流刑に等しく左遷された蘇軾にとって、以後は未体験の生活である。蜀の中産階級の家に生まれた蘇軾にとって、農事は親しみやすいものであったかもしれないが「東坡八首」にうたわれるように、これで家族を養ってゆけるのかと、不安に駆られることもあったに違いない。蘇軾はある部分で、故郷の蜀に流寓の生活を送った杜甫に、模範を求めたのかもしれない。それが”雪堂”の建築や、あるいは杜甫と同じく、三国時代の英雄に想いを寄せた詩賦の創作につながった、という見方もできるだろう。おなじく黄州に滞在したとはいえ、歴とした地方長官として赴任した杜牧などには、倣うという気持ちにはならなかったのかもしれない。

「念奴橋・赤壁懐古」が作られたのは、元豊五年の七月(旧暦)である。”前赤壁賦”にいう「七月既望」と同月同日であるが、この「七月既望」は赤壁下で遊んだ日付であり、”前赤壁賦”が成立したのはもう少し後であろう。
「念奴橋・赤壁懐古」もよく知られた佳作であるが、この作品で終わっていれば、内容の上では杜牧(あるいは李商隱)の「赤壁」の範疇を出てはいない。
また月の美しい夜の江上に遊び、楽曲を聴ききながら、自己の運命のはかなさを嘆くという構想において、”前赤壁賦”は白居易の”琵琶行”と重なる部分がある。事実「泣孤舟之嫠婦:孤舟の嫠婦(りふ)を泣かしむる」と、”琵琶行”における琵琶の名手の妓女に触れ、”前赤壁賦”が”琵琶行”を一部下敷きにしていることを表している。

言語が生む旋律の、このうえない美しさをもつ”琵琶行”である。しかし主題としては零落した妓女の哀愁と、それに自己の落魄ぶりを重ねて深い同情を寄せるにとどまっている。それは貴賤を越えた人生の哀歓の存在をうたいあげてはいるが、それ以上のものではない。
”前赤壁賦”では、人の運命の儚(はかな)さを、理知によって積極的に克服しようと試みる。無論、”前赤壁賦”における「洞簫を吹く客」の悲嘆は、そのまま蘇軾の心中の悲痛な嘆きであり、それを天地自然の運動に昇華することで乗り越えようとさとす「蘇子」とあわせて、自己問答による自己超克の賦なのである。
蘇軾はこの”前赤壁賦”によって、白居易や杜牧を凌ぐ文学的成就にいたっているが、それはおそらく意識的な挑戦であっただろう。その根源的な動機としては、多く指摘されるように、やはり黄州左遷の要因となった「烏台詩案」における、死を意識しながらの辛い獄中生活のトラウマであったのではないだろうか。それは蘇軾にとって、たんなる三国時代の英雄賛美や、貴賤を越えた同情や共感といった主題では、もはや癒しきれないほど深い部分の傷であったことがうかがえる。

黄州へ赴任してからの2〜3年は、目前の生活との戦いが、蘇軾を傷心から遠ざけていたのかもしれない。それが「東坡八首」に見られる耕作の成果によって安定を見せた時、将来への展望の兆しと踵を接して、陰惨な過去が胸に去来するようになったのではあるまいか。黄州での蘇軾は、まだ官界復帰の望みを捨てきってはいない。しかしそれは「烏台詩案」で経験したような、あわや凄惨な末路をも伴いかねない道である。
神宗皇帝が在位した元豊のこのころ、宮廷からは旧法派が駆逐されていたとはいえ、各地で連絡を取り合いながら巻き返しを図っていた時期である。事実、神宗の没後、蘇軾を含む旧法派は復権するのである。

”後赤壁賦”では、”前赤壁賦”で楽天的に肯定した天地自然に対し、一転して深い畏(おそ)れと慄(おのの)きがうたわれている。
ひとり断崖をよじ登る”蘇子”の姿は、何かを乗り越えようとする強い意志の表れであが、それは「二客の從うに能わざる」というような、近しい者といえど一緒に登っては来られない孤独な、そして虎や豹、龍や蛟がひそむような、危険で険しい道である。やっと断崖に立って長簫すれば、自然は親しむどころか逆に”蘇子”を圧倒し恐れさせ、震え上がるような孤独感をもって”蘇子”を襲うのである。
そこで人間存在の小ささ、はかなさにふたたび思索が及び、自らもいまだ神仙を夢見る者であることを告白して結んでいる。それは”前赤壁賦”で「吾生の須臾なることを哀しみ、羨長江の無窮なるをうらやむ」と嘆いた客に仮託された蘇軾の傷心が、解消されていないことを表明してもいる。

”前後赤壁賦”は、内容の上からも描写の上からも対照的な一対の作品で、相互に補完する関係にある。
”前赤壁賦”における”赤壁の游”では、おもむろに舟遊の情景があらわれ、それがあたかも神仙世界に遊ぶような、夢幻的なまでに美しい筆致によって描写されている。なかば理想化された”赤壁游”なのである。”桂の竿、蘭の櫂”は賦の中で朗詠される詩であるが、あたかも富豪の舟遊びであるかのような豪奢な印象を添えている。
それが”後赤壁賦”では一転し、月の美しい晩をいかに過ごすか?その動機からはじまる。そして友人の捕った魚を手に、妻の用意してくれたとっておきの酒一壺を携え、つつましく赤壁の下に遊ぶ写実的な叙述は、”前赤壁賦”にくらべて空想的な表現が控えられ、日記のような現実感にあふれている。
また”前赤壁賦”では後半の思索部分を、まずは史上の英雄の事跡を詩賦を交えてたどる。つづいて”主”から”客”へと、まるで清談のように美しく理想化された弁証によって、苦悩の昇化が試みられる。そして抒情豊かな想念のうちに、あたかもそれが成就したような印象で閉じている。
しかし”後赤壁賦”では対話に拠らず、”主”による孤独かつ肉体的な困苦をともなう行動によって、乗り越えようとする意志が表現される。そしてそれは惨めな失敗に終わり、夢にみた神仙への空しい問いかけによって結ばれる。

つまり”前赤壁賦”で解消されたかに見えた悲嘆は、”後赤壁賦”で再び振出しに戻るのである。言い換えれば、”後赤壁賦”の”主”は、”前赤壁賦”の”客”の立場に立ち戻る。以降は”前後”の繰り返しが予想される。それは”前後赤壁賦”による”主”と”客”の入れ替わりの、あるいは”前赤壁賦”の「問答」を”仮”、後赤壁賦を「行動」を”真”とした場合の虚実の循環であり、その矛盾の運動そのものがこの世界の実相なのだという、蘇軾自身の表明なのであろう。

また”前後赤壁賦”は、蘇軾の生き方に沿って、”苦悩”の内容をさらに具体的に解釈することも可能である。たとえば”後赤壁賦”における、”険しい断崖を登攀する”という行為は、直接的には官界への復帰の道を暗喩していると考えられる。
”前後赤壁賦”の書かれた前年の元豊四年の四月、神宗皇帝は西夏討伐の軍を起こすが惨敗し、その衝撃によって病に倒れる。そして元豊八年に没するまで、安定をみせない西夏情勢とともに、神宗の容体は悪化してゆくのである。こうした政変の兆しは、蘇軾のもとへも情報として入って来ていただろう。

仲秋の歌として有名な、蘇軾の”水調歌頭”でうたわれる、美しいが冷たい月世界は、宮廷、あるいは中央政官界の比喩である。当時密州知事の任にあった蘇軾は、歌の中でその月の宮殿は「長くとどまってはいられない、地上にいた方がましだ」と、皮肉るのである。
この”水調歌頭”が作られたのは「烏台詩案」(元豊二年:1079年)の前、神宗熙寧九年(1076年)の頃である。当時の官界人からすれば、蘇軾の皮肉の矛先は明らかであっただろう。こうした点も「烏台詩案」では”不敬である”として、徹底的に追及されたのである。
黄州に左遷されてからも”東坡八首”に「我久しく官倉を食らう,紅腐(こうふ)して泥土に等し」と、官製の倉に長く貯蔵されたような古い穀物はまずくて食えたもんじゃない、とうたっている。これとて「宮仕えなんてやってられないよ」という、かるい皮肉を込めているともよめるのである。

”後赤壁賦”での断崖の登攀も、崖の上のような高みにある世界は、”水調歌頭”と同じく宮廷と置き換えられる。そこへ至るには虎や豹がうずくまり、龍や蛟が潜むような危険な道しかなく、また”二客”のような在野の友人達が一緒については来られない場所にある。しかしもひとたび宮廷に登って”長簫”すれば、草木や江水に象徴される宮廷社会からの反撃に遭い、ふたたび「烏台詩案」のような恐怖を味わう事になりかねないのである。
その救いを道士に求めたところで、道士は笑って答えない。そして前赤壁賦の「洞簫を吹く客」の嘆きに立ち戻る。「洞簫を吹く客」は、過去の英雄の事跡と自己のとるにたらない境遇を対置しているが、そこには世俗的な成功への欲求があらわである。それを哲理を動員して諭すのも、また蘇軾自身なのである。
「烏台詩案」を経たためであろう、前後赤壁賦における宮廷政界の暗喩は、たくみに韜晦されている。

歴世、官界を目指す士大夫達は、栄辱(えいじょく)の理(ことわり)の矛盾の中で葛藤を強いられるのであるが、蘇軾もそれに無縁ではない。蘇軾は、官をなげうって潔く帰農してしまった陶淵明への敬慕も抱き続けながら、一方では官途での成功と晩年の安逸を得た、白居易の中庸な生き方を理想としていたようである。
能力があって仕事がしたい人間の、世から必要とされる事への渇きや焦燥が、当時の晩年と言える年齢にさしかかった蘇軾に、なかったとは言えないだろう。それは時代や国を越えて、複雑な人の世に生きる事に絶えず付きまとう命題でもある。
”野狐禅”に陥ることのない、奥深い思索の力を持った蘇軾ではあるが、一方で世俗的な欲求にも多大な関心を隠さない。それがこの人物の魅力でもある。

その華麗かつ饒舌な筆致ゆえか、歴世の評価は前赤壁賦に比重を置きがちであるが、本来は前後併せてよみ味わうべき作品であろう。

”前後赤壁賦”によって苦悩を克服しようとした蘇軾であるが、”後赤壁賦”の結末から察するに、それに成功してはいない。しかし一方では治らない病との向かい合い方を見出したかのような、平明な希望がそこに開けたことが期待できる。
”前後赤壁賦”は大変な評判を呼んだばかりではなく、蘇軾自身のお気に入りの作品でもあった。後年になって、黄州と比較にならないほど劣悪な海南島に左遷された際も、この前”後赤壁賦”を愛唱していたという。このように人生を他人任せにすることなく、”悟り”によらずとも自己を再建し、再び生きようとする蘇軾は、やはり強靭な人格であると言わざるを得ない。
201607黄州赤壁行
赤壁上の亭閣を一通り見終わると、裏手の山へ続く方面に出口がある。ここで東坡赤壁の史跡を出る格好になる。この赤鼻磯ないし赤鼻山の裏は龍山という小高い山になっている。山上にもいくつかの史跡があるようであるが、さしたる案内もなく、日が傾き、探索の時間はなさそうである。
坂道を下りながら、東坡赤壁の入り口付近にそびえる城門につらなる城壁の端に出る。どうも補修工事中のようであるが、入場料を払えば中には入ることが出来るようだ。
201607黄州赤壁行
ところで赤壁賦の成立にあたり、やはり蘇軾も赤壁を古戦場と誤認していた、という人もいる。勘違いなのか、知ったうえでそれと見立てたのかでは大きな違いなのである。しかし杜牧と同じく、史料に精通していた蘇軾が誤認していたとは考えにくい。この問題を巡っては、多くの論考があるようなので仔細はそちらに譲りたい。ここでは「念奴橋・赤壁懐古」で「人は道(い)う、是れ三國周郎の赤壁と」とうたっている部分、「人は道(い)う」から蘇軾の認識を伺うにとどめたい。

蛇足なようであるが、”前赤壁賦”では

西望夏口,東望武昌。
山川相繆,郁乎蒼蒼,
此非孟之困於周郎者乎

とある。

すなわち「西に夏口を望み、東に武昌を望む」とあるが、夏口は現在の武漢市漢口区、あるいは三国時代の夏口城とするならば武漢市武昌区になる。またここで言う武昌は、現在の武漢市武昌区ではなく、黄州対岸の鄂州にあった武昌城を指すのであろう。蘇軾には「過江夜行武昌山聞黃州鼓角」という作品があり、長江を挟んで対岸にあった武昌山を遊覧していることがわかる。
三国時代の孫権は、江夏へ進行する足掛かりとして、黄州対岸の鄂州に城を築き「武を以て昌(さか)える」という意味でここを「武昌城」と名付けている。
ゆえに黄州赤鼻磯から見て長江上流、すなわち西方には夏口があり、下流の東には武昌(城)があることになる。地理の上では「西望夏口,東望武昌」は紛れもなく蘇軾が遊んだ赤鼻磯を指している。ただし賦の中で「此(ここ)孟の周郎にくるしめられしところにあらざるや?」という問いかけにとどめられ、それに対して「蘇子」は「然り」とは答えてはいない。ここから「客」と「蘇子」の話題は過去の英雄や神仙世界へと遷ってゆくのである。この問答の転機に地理上の位置を正確に記すことで、現実と想像の接点を際立たせる効果をあげている。
しかし、なにゆえ杜牧や蘇軾が黄州赤鼻磯を赤壁に見立てたか?という問いを煎じ詰めれば.......それはここの岩崖がたしかに”赤い”ためだったのではあるまいか。地元の訛伝があったという話もあるが、確かめるすべがない。
黄州の赤鼻磯とよばれた岩崖は、喩えでもこじつけでもなく、池水や草木の緑と対照するまでもなく、赤、という以外に形容しようのない色をしているのである。もしこの岩が黒かったり白かったりしたならば、かの名作も生まれていなかったに違いない........
201607黄州赤壁行
東坡赤壁近くのこの城楼には、城門から長い石段が下りている。これはかつてこの城門が、雨季と乾季では、かるく十数メートルの水位差があるという、長江の流れに面していたことをしのばせる。階下には桟橋が築かれ、そこから舟で赤壁下に遊ぶことが出来たのであろう。その遊びは前”後赤壁賦”が晩夏以降の出来事であるように、秋から冬にかけての乾季に限られたであろう。
城壁下には、明〜宋代にかけての亀や馬の石像が並んでいる。このあたりで出土したものであるというから、あるいは蘇軾の黄州時代につくられたものもあるかもしれない。
この城楼も再建を繰り返しているはずであるが、長江に向かって右手に山を背負うこの地勢をみるかぎり、防衛上ここに城楼を築いておくのは理にかなっている。とすれば、宋代にもこの場所に城門があったのかもしれない。現在、市内から東坡赤壁にいたる道路は低地にあり、昔は長江の流れがあったのではないだろうか。
201607黄州赤壁行
城楼に登れば、東坡赤壁を見下ろす高みにある。城楼から地平を望むと、日が沈んでゆく西の方角に長江が横たわる。日の入りの遅いこの季節、雲か水面の照り返しだろうか、地平はまばゆいばかりに白く光っている。どこまでが陸なのか江なのか、はては空と地上の境までも判然としない。


猶似海成田  城邊古渡銷

陽斜巖謐謐  影落水迢迢

丹崖連畫閣  池水渡平橋

倚苑樹蟬鳴  破儷嗄敖

魚沫青萍透  浴鳥荷花搖

孟初威挫  公瑾竟矜驕

子瞻夢一鶴  牧之懐二喬

浮舟暫酔吟  憑崖獨長簫

月懸前後賦  沙埋漢魏朝

星月回幾度  空餘壁似燒
 
落款印01

登黄鶴樓

今回は黃鶴樓のある蛇山(黃鵠山)の近く、臙脂路という小さな通りにあるホテルに宿ををとった。臙脂路からつながる民生路の歩道上から、屋根越しに黃鶴樓が見える。
武漢黄鶴楼
さて、黃鶴樓といえば崔(704〜754年)の「黃鶴樓」が有名である。

昔人已乘黃鶴去
此地空余黃鶴樓
黃鶴一去不復返
白雲千載空悠悠
晴川歷歷漢陽樹
芳草萋萋鸚鵡洲
日暮鄉關何處是
煙波江上使人愁

解釈はここに掲げるまでもないだろう。
第一句「昔人已乘黃鶴去」は、岩波文庫「唐詩選」では「昔人已乘白雲去」とある。岩波の解説では、ここを「白雲」とすることで第一句と第四句の「白雲千載空悠悠」が対応し、また第二句と第三句の「黄鶴」が対応するという構造を想定している。それも一理あると思うが、現在の大陸では「昔人已乘黃鶴去」で通っている。
そもそもこの「黃鶴樓」は一応は七言律詩に分類されるが、近体詩の格律は相当逸脱している。通常、第一句と第二句は押韻せねばならないが、第一句は韻を踏んでいない。また第一句と第三句は「二四不同」「二六対」の原則を破っている。また五句と六句は完整な対句をなしているが、三句と四句は「不復返」と「空悠悠」の対応がやや逸脱の気味がある。さらにいえば、ひとつの詩中で同じ語句はなるべく重複するべきではない、という原則があるが(もっともこれを破る佳作も少なくないが)「黄鶴」を三度も使うほか、「去」「空」を二度づつ使用している。
武漢黄鶴楼
詩の原則である格律を無視するからには、無視するに足るだけの効果を挙げていなければ駄作のそしりは免れない。崔曚痢黃鶴樓詩」は、それに成功している稀有な傑作のひとつだろう。良い詩句が浮かべば、必ずしも平仄格律に拘泥しなくても良い、という見本のような詩である。唐代の詩には、格律を踏み越えた名作が少なくないが、平仄重視の日本における漢詩作法では、なかなか発想することが難しいであろう。もともと「逸格」の詩なのであるから、あるいは岩波の解釈のような構造をあえて意識する必要はないのかもしれない。
後年、黃鶴樓に登った李白が詩をもとめられた際、崔曚里海了蹐鮓て「とてもこれだけの詩は造れない」と、筆を擲(なげう)ったという。
とはいえ李白は「黃鶴樓」にまつわる詩を幾つもつくっている。まず日本でも有名な「送孟浩然」

故人西辭黃鶴樓 
煙花三月下揚州  
孤帆遠影碧空盡  
惟見長江天際流
 

がある。また「與史郎中欽聽黃鶴樓上吹笛」

一為遷客去長沙
西望長安不見家
黃鶴樓中吹玉笛
江城五月落梅花

も著名であろう。
さらには五言古詩の「送儲邕之武昌」にも黃鶴樓が登場し、また五言排律の「望黃鶴樓」や「江夏送友人」も黃鶴樓が登場する良く知られた佳品である。しかしいずれも崔曚痢黃鶴樓」のような、七言律詩ではない。
李白にはほかに「登金陵鳳凰臺」という詩があり、これは崔曚痢黃鶴樓」を意識して作った七律の詩であるという。

鳳凰臺上鳳凰遊
鳳去臺空江自流
吳宮花草埋幽徑
晉代衣冠成古丘
三山半落青天外
二水中分白鷺洲
總為浮雲能蔽日
長安不見使人愁

たしかに崔曚痢黃鶴樓詩」を換骨奪胎して作ったようなフシが感ぜられる詩である。
また「全唐詩」には李白の詩として「醉後答丁十八以詩譏余捶碎黃鶴樓」という詩が集録されている。冒頭四句のみ示せば、

黃鶴高樓已捶碎
黃鶴仙人無所依
黃鶴上天訴玉帝
卻放黃鶴江南歸

つまり、黃鶴樓はすでに壊れてしまって仙人は寄る辺を喪い、黄鶴は天帝に訴えて江南に帰してもらった、という内容である。以下、どこか崔曚了蹐鬚ちょくったようなところがある詩なのであるが、これは偽作とする説が支持されている。崔曚了蹐鬚靴里飴蹐作れなかった李白が、悔し紛れに作った詩というところだが、たしかに李白の詩としても格調が低過ぎるところがあり、彼の作とするには無理があるだろう。
武漢黄鶴楼
黃鶴樓は現在の武漢市武昌区の、武漢市蛇山にある。この蛇山はむかし黃鵠山といい、その西北の長江江岸に黃鵠磯(こうこくき)があった。”磯(イソ)”と言っても河川の流れに臨んだ岩礁としての”磯”である。このような地形は大陸の大河川の流域ではしばしばみられるもので、黄州のいわゆる文赤壁も、もとは”赤鼻磯”とよばれる岩礁である。”鵠”は白鳥の古名である。また黃鵠山は黃鶴山とも呼称される。
「南齊書・州郡誌」には“夏口城據黃鵠磯,世傳仙人子安乘黃鵠過此上也。”とある。
「南齊書」は南朝斉の蕭子顯(489〜537年)によって書かれた。蕭子顯は梁の皇族で、斉高帝蕭道成の孫にあたる。史学家であり、多くの著作を為したが「南齊書」以外は失伝して残らない。
「南齊書」の記載によれば、黄鶴ではなく、黃鵠、すなわち”黄色い白鳥”という記述である。後の黃鶴樓の伝説は、黃鵠が訛(なま)って黃鶴に変じたとも言われる。
また蕭子顯より少し前の南朝梁の任掘460〜508年)の「述異記」に拠れば“荀瓌憩江夏黃鶴樓上,望西南有物飄然降自雲漢,乃駕鶴之賓也。賓主歡對辭去,跨鶴騰空,眇然煙滅。”とある。大意を示せば
「荀瓌(じゅんかい)が江夏の黃鶴樓上で憩いをかこっていとき、西南を望むと雲の中から飄然とおりてくるものがあった。すなわち”駕鶴之賓(鶴に乘ったお客さん)”である。お客を主(すなわち荀瓌)は歓待し、かくして別れ去り、(客は)鶴に跨り空へ騰(あ)がった。渺然として煙のように消えていった。」
「述異記」の著者は祖沖之ともいわれ、また全文は早くに喪われているが、この話は「述異記」からの引用として唐の高祖が編纂を命じた「藝文類聚」に採録されている。
現在良く知られている”老人がみかんの皮で鶴を描いた”という伝説は、だいぶ時代が下がって清の乾隆年間に編纂された「江夏県史」に「報応録」からの引用としてそれが見られる。「報応録」は世間の「因果応報」を採録した書物であろうが、もとがどんな本であったのかは伝わらない。銭を持たない老人に、ただで酒を飲ませ続けた結果、店が大繁盛したという「因果応報話」として伝わったのだろう。
「蜜柑」は神仙の話には良く出てくるのであるが、唐代より前の南北朝時代の黃鶴樓伝説には登場しない。したがって唐代の崔曚簍白による黃鶴樓にまつわる詩詞にも「蜜柑」までは登場しない。神仙に関するモチーフとしては鶴だけである。

武漢黄鶴楼
三国志・呉志に拠れば、孫権が夏口城を築いたのは「黃鵠山」とある。黃鵠山は三国時代は江夏山、あるいは紫竹麓といい、北魏に到って黄鶴山、などと呼ばれたという。
南齊書の記述に「黃鵠磯に拠る」とあるのは、黃鵠山から長江河岸の黃鵠磯にいたる山麓に沿って城が築かれていた、という事であろう。山といっても、現在でも海抜85mほどの小高い丘なのである。しかし湾曲する長江の内周にあって、周囲の陸地の大半は堆積によって形成された平地である。長江に臨んで見晴らしがよく、要害となりそうな地形はこの黃鵠山の他にはない。
黃鶴樓は、湖南省の嶽陽樓と同じく、当初は城塞に付建された、見張りを目的とした”軍事楼”であったといわれる。それは蛇山の山頂付近ではなく、江流に面した「黃鵠磯」の上にあったという。対岸の夏口を監視し、また接近する敵を矢弾で防ぐための、切り立った岩の上に建設された城楼ないしは櫓(やぐら)だったのだろう。
南北が統一され、長江の険、さらには孫権の築いた夏口城の軍事的な価値が消滅した時代、黃鵠磯や黃鵠山には数々の楼閣が築かれ、宿泊や宴席に供せられたようだ。黃鶴樓の近傍には”南楼”という建物があり、周囲は妓楼や酒楼が立ち並んで賑わっていたそうだ。李白はその繁華な様子を「武昌夜飲懐古」で「清景南樓夜,風流在武昌」と詠んでいるし、杜牧は「南楼夜」という詩で「玉管金樽夜不休,如悲晝短惜年流」と詠んでいる。
歴世、黃鶴樓は十数回にわたって修建、再建が繰り返されたといわれる。もとより、崔曚簍白が登った黃鶴樓ですら、元の姿ではないのである。しかし少なからぬ建設費を投じて再建が繰り返されたのは、やはり「黃鶴老人」の伝承と共に崔曚簍白の詩が後世ひろく愛詠されたからであろう。

武漢黄鶴楼
ところで孫権が黃鵠山に城を築く前は、黄祖という人物が荊州の劉表に任命されてこの地を治めていた。一方で、北方に禰衡という文名を知られた若い名士がおり、曹操から劉表の元に派遣されて、荊州にわたってきた。さらに劉表から黄祖の子の章陵太守の黄射の元に送られたが、そこで黄射と禰衡は友人関係となる。
あるとき黄射は賓客を招いて宴会を催した席で、禰衡に”鸚鵡”を主題とした賦をもとめた。禰衡が席上で一気呵成に書き上げた「鸚鵡賦」は(長いのでここには掲げないが)万座の人士の間で大変な評判を呼んだという。文才あふれた禰衡とて、あらかじめ練りに練った作品に違いなく、とすれば禰衡を世に出そうとする黄射の厚意も感ぜられるところである。
そして黄射によって黄祖に推薦されて江夏にきたものの、あるとき黄祖の怒りに触れて処刑されてしまう。黄射は禰衡の死を悼み、手厚く夏口から望む長江の中洲に葬ったという。禰衡はこのとき26歳。才気と若さに任せた、いささか傍若無人な振る舞いがあったのかもしれない。
武漢黄鶴楼
禰衡の友人はほかに孔融や楊脩といったいずれも知られた名士がいたが、孔融も楊脩も結局曹操に殺されている。どうもこの交友関係には、権力者とソリの合わない共通した性向があったのだろうか。
ともあれ、黃鵠山から見下ろす位置にあったといわれる中洲は、禰衡にちなんで鸚鵡洲と呼ばれるようになった。崔曚「芳草萋萋鸚鵡洲」と詠んだのも、非業に斃れた三国時代の若者を悼んでのことだろう。また李白にも「望鸚鵡洲懐禰衡」という詩があり、禰衡を悼む気持ちを詠んでいる。
他にも李白の「経乱離后天恩流夜郎憶旧游書懐贈江夏韋太守良宰」という、長い五言古詩の中に

一忝青雲客、三登黃鶴樓
顧慚禰処士、虚対鸚鵡洲

とある。すなわち”自らを顧みれば、禰衡に対して慚愧を覚える”という気持ちを詠んでいる。鸚鵡洲に臨んで三国時代の硬骨の士を悼むというのは、当時の人士の間で共感を呼ぶ表現であったのだろう。
禰衡といえば”三国志演義”では、硬骨あまって矯激さが誇張された奇人のように描かれ、殺されても仕方ない人物のようなイメージが定着してしまっているかもしれない。「鸚鵡賦」とともに、禰衡の事跡も見直されても良いだろう。
その鸚鵡洲であるが、現在は黃鶴樓から望んで西の対岸に陸続きとなっているという。

武漢黄鶴楼
現在の黃鶴樓は1985年に鉄筋コンクリートによって再建された建物であり、訪問した際は使用されていなかったが、エレベーターもついている。
この黃鶴樓は、1975年に長江大橋の建設に伴って撤去された、長江河岸の元の黃鶴樓から1000mほど離れた距離にあるという。史跡としての黃鶴樓とは、建物も場所も違うことになる。
黄鶴楼内には、明代や清朝の黃鶴樓の模型が展示されているが、せいぜい三層の建物であり、規模は嶽陽樓と同程度であろう。
武漢黄鶴楼
武漢黄鶴楼
近代建築による黃鶴樓であるが、もとより建物自体には、歴史的価値は薄いであろう。むしろ詩賦に繰り返し詠われた、黃鶴樓からながめた景観の保存、と言うところに価値があるといえる。とはいえ黃鶴磯も鸚鵡洲も既になく、対岸の漢陽の方面にも樹林はない。長江江岸に沿って高層ビルが林立しているという有様である。
折しも武漢は気温、湿度共に高く、どことなく重たい色の空が覆っている。いずこの方角の空にも、黄鶴は見出せそうにもなかった。

 

黄鶴還雲漢

存亡回歳華

詩成懸紫極

覇略空江沙

芳渚連西岸

碧江去際涯

樓臺風拂瓦

望遍江城家
落款印01

三国争覇の地 江夏

武漢は漢口、武昌、漢陽の三鎮を統合した、広い都市圏を持つ内陸有数の大都会である。この広大な一帯は、その昔の後漢〜三国時代では、”江夏”と呼ばれた地域である。江夏区という武漢市の行政区画に地名が残っている。
武漢市街を長江の流れが貫いているが、”赤壁の戦い”が行われた古戦場は、武漢より南方の上流、岳陽より北方に位置するとされている。また蘇軾が”赤壁賦”を詠んだ黄州(現在の黄岡市)は、武漢からは長江に沿って下流に位置している。長江を挟んだ黄州の対岸に鄂州があり、現在は鄂州市として武漢の東側で接している。
漢口は漢水が長江に注ぐ河口に位置しており、ゆえに漢口という。漢水は三国時代は沔水(べんすい)とも呼ばれ、ゆえに漢口は沔口(べんこう)と呼称された。また沔水は夏水という別称もあり、ゆえに夏口とも呼ばれる。概ね、漢水(口)=夏水(口)=沔水(口)というわけである。

 

この江夏と呼ばれた武漢は、歴世の係争の地である。三国時代でも、赤壁の戦いのみならず、激しい争奪戦が繰り返された。夏口を北上すれば魏の都、許昌がある。また漢水を遡上すれば荊州、長江を遡上すれば長沙、下れば呉越に到る要衝に位置しているからである。大小の河川と無数の湖水沼沢の上に浮かんだ武漢は、要害の地であるが、水陸の連携がなければ守ることも攻める事も難しい。
長江に漢水がほぼ直行して注ぎこむことで、武漢の基礎となった漢口鎮、漢陽鎮、武昌鎮の領域に三分割される。三国時代にこれらの大河川に架橋する技術はなく、すべての領域を支配するには水軍の力が必要である。勢い、この地域を支配する勢力には、水上戦力が養われることになる。

 

夏口・武漢

 

後漢末から三国時代にかけて、赤壁の戦い以前に夏口を含む江夏を支配していたのは、黄祖という人物である。
黄祖というと、”演義”では粗野で愚かな人物として描かれている。傍若無人とはいえ、聞こえた名士の禰衡を処刑したり、甘寧を冷遇して離反を招いてこれが敗北につながるなど、優れた人物とは程遠いように描かれる。とくに英雄孫堅を待ち伏せして殺害した点なども、後世にわたって悪名を招いた理由にあるかもしれない。
黄祖は江夏土着の豪族、安陸黄氏の族人である。また後漢の名臣、黄香(68年〜122年)も江夏安陸を出身とする同じ宗族であるといわれる。安陸黄氏は江夏一帯に大きな勢力を持っていた。ちなみに呉の黄蓋の父は黄香の第五子黄瓚の長男であるとされる。ということは黄祖と黄蓋も、まるで無縁とは言えない間柄である。

 

黄祖に処刑された禰衡は”演義”では、その権威をものともしない高慢な振る舞いが曹操に疎まれた。奇人であるが、当時高節の名士とはそうした態度をとるものであった。ゆえに曹操から荊州の劉表の使者に出された。ついで禰衡を持て余した劉表が、黄祖の粗野な性格を知ったうえで禰衡を害させようと、江夏へ派遣されているのである。案の定、禰衡の傲慢な振る舞いが黄祖やその部下の怒りにふれ、処刑されてしまう。曹操、劉表としては、自身が名士を殺害した汚名をかぶらずに済んだというわけである。

 

史料の”三国志”によれば、禰衡を黄祖に紹介したのは、黄祖の子の黄射であるとされる。黄射は、やはり劉表の支配下で章陵の太守に任ぜられている。つまり一時期、黄祖・黄射の父子はそろって太守に任ぜられている。親子ともども、やはり地元に勢力をもった豪族の出身であることを裏付けている。
人物を酷評する事で知られた禰衡が黄射と交友関係を結んだのは、黄射が章陵太守の時であり、この黄射もやはりひとかどの人物であったのだろう。とすれば、劉表は禰衡を黄祖の下ではなく、黄射のいる章陵に送ったと考えられる。あるいは黄射と禰衡の相性がよさそうだと考えたのかもしれない。文事を好んだ劉表としては、禰衡を害する意図が必ずしもあったのかどうか。人選びが激しすぎる禰衡は、黄射とよほど意気投合したのだろう。
その黄射が父の黄祖に禰衡を紹介しているのである。禰衡は結局、黄祖の下で傲慢不遜な態度をとり、黄祖にもその部下にも恨まれたため処刑されてしまう。黄射は禰衡が殺されると知って、それを止めるために父のもとへ走ったが、間に合わなかったという。はじめから父に殺させるつもりで紹介したわけではなかろう。禰衡が相手によってガラリと態度を変えるという事を、交際して日が浅かった黄射はよく認識していなかったのかもしれない。黄祖も後に処刑したことを深く後悔した。禰衡は黄射によって夏口から望む長江の中州、鸚鵡洲に手厚く葬られたという。

鸚鵡州といえば、唐代の崔曚「黃鶴樓」詩で「芳草萋萋鸚鵡洲」と詠んでいる。”芳草”は芳しい香のする植物という意味であるが、君子の有徳を象徴する。この”芳草萋萋”は、ここに埋葬された三国時代の名士を意識しての表現ではないだろうか。

 

黄祖は黄氏の地盤と共に、劉表によって呉国に対する最前線を任されている人物である。史料に記載されるその戦績をみる限り、江夏を奪おうとした孫堅を落命させた戦いに始まり、その後幾度も呉軍を苦しめている。水軍の扱いにも長けた、老獪な戦上手であることがわかる。江夏の要害、また黄祖自身の手腕もさることながら、その族党である安陸黄氏にとっては、水軍戦がお家芸だったのだろう。

初平二年(191年)の孫堅との戦いでは、野戦では敗走するものの、追撃してくる孫堅を待ち伏せして弓で射殺している。これで黄祖は孫家の仇敵となり、孫策、孫権と継承される呉軍の攻撃を受け続けるのである。しかしその後も、五度にわたる呉軍の侵攻を防いでおり、野戦に挑む武勇も持ち合わせている。凌統の父である凌操や、呉の武将の徐琨がいずれも黄祖の部下に射殺されている。
”呉志”の記載では、凌操の父を射殺したのが甘寧であるという。またこの甘寧が黄祖を見限った事が、黄祖の敗死につながっているとされる。
甘寧はもとは益州の出身であるが、はじめ劉表の元へ行ったが任用されず、自身の食客数百人を連れて黄祖の下にとどまったという。しかし黄祖は度重なる戦功にも関わらず甘寧を礼遇せず、かえって食客を自分の配下に加えようとする有様であった。この点、江夏の地方豪族である黄祖の門閥意識は否めない。
そこで呉に走り、黄祖を「今年老、昏耄(こんもう)已に甚し」と、その衰えを語り、「舟船戦具、頓廃(とんはい)修(ととのわ)ず、耕農を怠り、軍に法伍無し」と語り、今攻めれば必勝であると説いた。

甘寧の進言を入れて軍を起こした孫権であるが、この戦いでも黄祖は「祖墹戚愍忸兌沔口,以栟閭大紲系石為廫,上有千人,以弩交射,飛矢雨下,軍不得前」と描写される戦術を展開し、呉軍をさんざんに悩ませている。
すなわち「兩(りょう)蒙衝(もうしょう)を横たえ沔口(べんこう)を挟守(きょうしゅ)す」とあるが、蒙衝は当時の軍船。おそらく黄祖は二隻の蒙衝をもってこの河口を挟み込むように配置し、「栟閭(しゅろ)」の縄を石につないで係留し、船上の櫓(やぐら)に射手を配置し、散々に射かけて呉軍の前進を阻んだのであろう。
周瑜は董襲と凌統に決死隊を率いさせ、両船の間の縄を切らせた。係留する縄を切ると、蒙衝は流れの中で動揺する。呉軍はその隙に進撃し、沙羨県で黄祖を討ち取っている。羨沙県は夏口の対岸であり、現在の武漢市江夏区のあたりある。
すなわち黄祖は長江を挟んで両岸に根拠地を築いており、呉に一方を攻められれば両岸が呼応して支援しあったのであろう。夏口にもおそらく江水に接して城塞が築かれていたであろう。しかし黄祖が敗死したこの戦いでも、結局のところ夏口は陥落していないのである。

夏口・武漢

 

夏口の対岸の羨沙県が呉軍の勢力下にはいると、孫権はここの黄鹄山(蛇山)に城を築いて”夏口城”としている。夏口城といっても、夏口の対岸である。この夏口城には、呉の黄武二年(223年)に改修された際に、物見の軍事楼が築かれ、後の”黃鶴樓”につながるとされる。
ともかく黄祖の敗死後、長江を挟んで現在の武漢の東側、武昌区、江夏区を孫権が支配したのであろう。対岸の夏口(現在の漢口)には、劉表のもとから劉が赴任し、ここを守っているのである。

 

前述したように、”江夏”と言った場合、三国時代は長江を挟んで夏口とその対岸を含んだ領域がそう呼ばれている。魏が荊州を降伏させた後は、夏口は魏の勢力下にはいり、長江両岸でそれぞれ魏と呉の支配領域にわけられたのである。魏では荊州の降将文聘が江夏太守に任ぜられ、また呉では程普が江夏太守に任ぜられているから、魏にも呉にも”江夏太守”が存在したことになる。
また孫権の築いた夏口城は、夏口の対岸あるのと同様、混同には注意が必要なところである。

 

東岸一帯の陥落で、西岸の夏口は呉に対する最前線となった。これが建安十三年(208年)の事である。黄祖の敗死後、劉表の子の劉が諸葛亮の献策によって夏口を守ることになる。演義では有名な、孔明を二階に上げておいて”梯子を外す”という場面である。
このとき劉表は既に病んでおり、この年の初秋に没するが、その直前から曹操の荊州侵攻が始まっている。また劉表の病中から、その後継を巡って荊州には”お家騒動”が起こっていた。主流派の蔡瑁一派に担がれる劉に対して、長男劉は不安を感じていたのである。そこで一計を案じて孔明に相談したところ、夏口に難を避けろと助言され、それに従うのである。
この際の”梯子を外す”の故事は、蜀志・諸葛亮傳にも記述がある。”演義”では、あの孔明が一本取られた体である。しかし蜀志・諸葛亮傳の記載では、劉は一緒に楼上にあがっており、梯子を外すのは余人を入れぬためで合った事が伺える。諸葛亮伝でも、諸葛亮は劉の相談を何度も断っているという記述があるが、これは蔡瑁派閥の耳目への配慮があったためではないだろうか。

 

夏口・武漢

 

荊州の実力者、蔡瑁は、襄陽蔡州の人であり、出身地名からわかるように土着の豪族である。蔡瑁の父、蔡諷の二女は劉表の継室である。三国志演義では劉の母親はこの蔡諷の娘、というようになっているが、史実ではこの点に確証はない。むしろ蔡瑁の娘が劉の後妻にはいった、という話もある。劉表の長男の劉は劉表の前室の子である。長子が継ぐのが通常であるが、蔡瑁としては自分の姐の子、あるいは娘婿に継がせたいところである。
ともあれ、蔡家は荊州の僭主として、荊州劉家とは濃厚な関係を形成していたのである。中原から赴任した劉表にとっても、荊州を統治する上で蔡家の協力は欠かせない。
また蔡諷の長女は、襄陽の名士、黄承彦の妻である。黄承彦といえば諸葛孔明の岳父である。当時は妻がひとりとは限らなかったし、死別して後妻を娶ることも珍しくなかったから、孔明の姑が蔡諷の長女であるとは限らない。もしそうであれば、蔡瑁は孔明にとって伯父にあたる関係になる。しかし血縁はともかく、当時の義理の感覚で言えば、孔明は蔡瑁に親戚の挨拶を交わす仲であり、また劉表とも親類つながりがあったことになる。

ついでに言えば、蔡諷の姐は張温の妻であるという。張温といえば呉に仕えて太傅となり、劉備の死後の黄武三年(224年)に、蜀と呉の修好のために蜀に使者に立ち、任務を全うした人物である。このとき三十二歳であったというから、その妻が蔡諷の姐というのは年齢的にまったく不自然である。張温といえば蔡瑁と共に劉表の幕下にあった張允の子であり、世代的には蔡諷の孫、蔡瑁の子の世代である。
”演義”では張允は臨終の劉表への劉の面会を阻んでいる。魏に降伏した後は、蔡瑁と共に呉への内通を疑われ、曹操に処刑されてしまう。しかし史料では、荊州降伏後の張允に関する記載はない。蔡瑁など、降伏した荊州人士は魏で重用されたが、張允への言及がない。また子の張温が呉に仕えているところから、魏に降らず呉に走った可能性もある。
曹操の南下は、”お家騒動”への外部勢力の介入を計った、蔡瑁の手引きを匂わせるところがある。しかし張允は劉を推していたにしても、全荊州が魏に降るところまではあずかり知らず、これを潔しとしなかったのかもしれない。後述する文聘など、荊州の独立を保とうとする意識を持った人士もいたようである。

 

張温が蔡家の娘を娶ったのであれば、やはり孔明とは親戚関係に当たることになる。孔明が劉備に出仕するまで、襄陽近郊で悠々隠棲の生活が営めたのも、蔡瑁との親戚関係を通じての劉表との関係を考えればうなづける。

 

夏口・武漢

 

劉表の長男、劉が孔明に相談を持ち掛けたのは、”演義”では「孔明の智謀を頼れ」と、劉備に勧められた事になっている。しかし孔明は他家の”お家騒動に”口をさしはさむみたくはないとして、すげなく断っている。それゆえ劉は”梯子を外す”一計により、孔明をして相談に応ぜざる得ない状況に置いている。
しかし実際は孔明は劉表や蔡瑁との縁戚関係にあり、劉表の後継者問題においても、無関心ではいられない立場にある。”演義”で書かれているような”他人事”ではない。
魏志・劉表傳では、蔡瑁・張允の一派によって、劉は夏口太守へ追いやられたと書かれている。とすれば、孔明は蔡瑁派の意を後押しした格好であるとも見ることが出来るのである。

 

孔明が劉に黄祖敗死後の夏口の守備を勧めたのは、蔡瑁派閥からの迫害を避けると同時に、黄祖死後の国境線の軍勢を掌握させる意図もあったのかもしれない。事実、曹操が南下するや、劉備は劉を頼って夏口へ走るのである。
しかし夏口の劉は、劉表の死後に劉が立てられたと聞いて激怒し、劉を討つべく兵を起こす。ところが劉表の死と前後して曹操が南進して、全荊州が魏に降ってしまう。それを聞いて劉は江南に避難したのであるが、江南といえば少なくとも江夏ではない。このとき夏口は放棄されたのだろう。

 

曹操の南進自体、蔡瑁あたりの手引きがあったフシがある。魏に降った荊州人士は、蔡瑁をはじめとして大変な厚遇を受けるのである。”演義”では呉の離間によって、蔡瑁は赤壁の戦いの前にあえなく処刑されてしまう。しかし”正史”では曹操によって列侯に取り立てられ、爵位を与えられている。曹操と蔡瑁はもとより旧知の間柄であったようで、荊州降伏後に曹操は蔡瑁を妻子ともども、親しく訪れているのである。
”戦わずして勝つ”のは最上の兵法である。難戦の末に袁紹を破った官渡の戦いを想起すれば、荊州の降伏は曹操にとって慶事であっただろう。降伏した荊州人士に対して曹操は寛大であり、破格と言って良い待遇を与えている。
また曹操の南進自体、劉表の後継者争いに介入した、という見方もできる。劉表の死に先立ってのタイミングの良さは、蔡瑁当たりの画策を思わせる。
身内の権力闘争に外部の力を利用するというのは、大陸では常套手段なのであり、そのためしばしば惨禍がまねかれる。とすれば、劉の夏口守備も、その頃からすでに呉と結ぶ意図が見え隠れするのである。まずは黄祖の死後、残った軍を掌握する事に始まり、劉備の協力や呉の後押しを利用しながら荊州を奪う、という戦略である。その筋書きがあったとすれば、それを書いたのはやはり孔明であろう。孔明は姻戚関係からすれば蔡瑁派閥に属するとみなされるところであるが、劉備に出仕して以降、すでに別の存念があったことがうかがえる。

赤壁戦後、劉備軍の荊州攻略の際には劉を劉表の後継として名文を立てており、劉の死にともなって名実ともに荊州を支配している。また「草蘆対」に書かれているように、後に劉章から益州を奪うのである。根拠地を持たない劉備が存率基盤を形成するまでの基本戦略は、魏や呉のような列強との直接対決は避け、劉表や劉章のような”地方劉家”を乗っ取ることから始まるのである。それは曹操や孫権などの気鋭のそろった新興国よりも、皇室の傾いた権威と門閥が支配する国の方が”組みし易し”というところであろう。

 

夏口・武漢

 

「草蘆対」は孔明がまだ襄陽で隠棲生活をしていたころ、劉備が訪れた際に語られた内容であるとされ、蜀志・諸葛亮傳に内容の記述がある。ただ劉表に新野を任されるかどうかの時期に、益州に目を向けるというのはいささか飛躍が過ぎるようでもある。益州攻略のための足掛かりとしても、先に荊州の一部なりをとる事が必要であり、劉表の後継者をめぐるなかで、劉に接近していた劉備・孔明の思惑がそれではないだろうか。
とはいえ「草蘆対」の頃は、劉備は劉表の世話になっているところであり、孔明もまた劉表とは縁戚関係にある。「草蘆対」に、荊州を乗っ取る意図は、あったとしても(仁義の建前から言って)述べられるところではない。
ともあれ、曹操の南下は孔明の予測を超えて捷(はや)かったようである。劉備は劉と合流すべく夏口へ向かうが、途中で劉と合流し、夏口に入っている。ただし赤壁の戦いの後、夏口は魏の文聘が守っているから、どこかの時点で夏口を放棄したのだろう。夏口は背後から迫る曹操軍を、陸続きで防がなければならないからである。

 

呉というと水軍戦がお家芸のように言われるが、孫堅も孫策もその戦歴はほぼ陸戦なのである。孫策の代から、野戦でしばしば黄祖を破りながら夏口を落しきれなかったのは、ひとつには水軍戦に不慣れであったのかもしれない。これは夏口流域の制河権を、掌握しきれていない事実にも表れている。しかし孫策の死後は孫権に継承された対黄祖の戦いの過程で、敗残兵を吸収するなどして徐々に水上戦力を整えたものとみられる。
そして黄祖を敗死させ、江夏の東側を勢力下に入れるや、呉軍はこの地の水軍を掌握したのだろう。とはいえ、これが赤壁の戦いの同年の出来事である。
そこへもって劉・劉備との共闘である。劉は夏口の軍勢1万を率いていたとあり、おそらく黄祖の敗死後も夏口側に残存していた、少なからぬ水軍戦力がこれに含まれていたであろう。呉としては、彼等と結ばない手はなかったわけである。

 

赤壁の戦いは夏口からみて長江の上流域で起きているのだが、赤壁の戦闘の時点で夏口の帰属が明らかではない。魏に投降した文聘は劉に従う、と言っているから夏口を守る劉とは決別したのだろう。曹操は文聘にも兵を与えて当陽の劉備を追撃させているが、これは劉備が夏口に入る前である。赤壁戦後、文聘を沔口に駐屯させた、とあるから赤壁の前後で夏口は魏に帰属したことがうかがえる。

この文聘もなかなかの名将である。後に夏口の守備を任され、以後数十年にわたって、江夏太守として夏口を守りぬいたという。
また文聘は荊州降伏の際、曹操の前で荊州を守れなかった事を恥じて涙を流したという。これに感じた曹操は文聘を江夏太守に任じて夏口を守らせ、上奏して関内侯の爵位を授けるなど、非常な厚遇を与えている。

あらためて地理をみると、夏口を含む江夏は荊州と江南・呉越の間に位置している。後に荊州を劉備が取った後は、東を孫権、西を劉備に挟まれる格好になっている。魏にとっては長江北岸に突出した、最前線の橋頭保である。夏口をそのまま北上すれば魏都許昌であるから、夏口の守備は非常に重大な任務である。
文聘は荊州の関羽との戦いでも、楽進等と共に夏口を良く守った。糧秣や軍船を焼くなどして、関羽軍を苦しめている。また後の呉の侵攻を防ぎ、孫権率いる五万の大軍に包囲されるも落ち着いてこれを撃退している。
文聘が江夏太守になって以降は、東に孫権、また背後の荊州に関羽を控え、黄祖の時代に比べれば、夏口をとりまく形勢がより厳しくなっている。それでも数十年も夏口を守り続けた文聘の手腕は、三国時代の武将の中でも傑出したものと言って良いだろう。

 

後年、西晋時代に呉が滅ぼされた際(280年)は、魏は夏口を攻めている。これは夏口対岸の夏口城のことではないようだ。とすれば、どこかの時点で夏口が呉の支配下に置かれたことになるのだが、時期が判然としない。

 

呉志・陸遜傳によれば、呉の嘉禾三年(234)、陸遜は諸葛瑾とともに襄陽を攻めている。戦いは不利で襄陽は落ちなかったが、帰途陸遜の計略で江夏の新市・安陸・石陽を急襲したという。石陽は夏口の北、現在の武漢市黄陂区に位置している。このときは住民が殺戮されただけで、石陽の攻略には至っていない。
またこのころ魏の江夏太守は逯式という人物であったが、文聘の子の文休とは仲が悪かった。文聘の没年は未詳であるが、このころすでに没して養子の文休が後を継いでいたのであろう。陸遜は逯式に「久しく文休とは隙があり云々」という内容の、あたかも逯式が内通しているかのような手紙を送った。これを逯式の兵が拾って逯式に見せると、逯式は恐れて妻子を人質として洛陽に送ったという。このことで兵士の間に疑心がわき、結局逯式は罷免されたという。

 

魏の嘉平年間(249年〜254年)、桓禺が江夏太守を努め、文聘と並び称される手腕を発揮したという。しかし江夏太守といっても、夏口を含むすべての領域を支配していた、とは限らない。
魏は250年に、武漢から随州へいたる途上、現在の雲夢県に上昶城を築き、ここに江夏郡府を置いたという。これは夏口から見れば北西の方角、江夏から襄陽へいたる途上にある。襄陽は魏が支配しており、上昶城は対呉の新たな最前線基地となる。268年には孫皓が施績にここを攻めさせている。
また270年には、呉の孫皓が夏口へ猪狩りと称して派兵し、この地を守っていた孫秀は謀殺される事を恐れて魏に投降している。遅くともこのころには、夏口は呉の支配下に置かれていたのではないだろうか。
279年から280年にかけて、魏は上昶城から夏口を攻め、最終的に呉を滅ぼしているのである。

 

夏口・武漢

 

現在の鄂州市にあった武昌は漢口の対岸の地名となり、本来は武漢全域を包含するような”江夏”という地名は武漢の一部の地名として残っている。現在の武漢市街の行政区の名称をそのまま三国時代にあてて考えると、思わぬ誤解を招きかねない。とはいえ「およそこのあたり」というような、あるいは「地名が残っていればいい」というような、至極おおらかな意識も見て取れる。武漢の東方に位置する黄州で杜牧や蘇軾が赤壁の戦いを偲んだのも、そういったおおらかな文学的気分で眺めるもので、厳密な地理の詮議立ては意味を成さないところなのであろう。
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楚舞と編鐘

湖北省は随州に朋友の婚礼に招かれた時の事。新婦の親戚が「お客人、”楚の国の舞”をご覧になったことはござらぬかな?」という。楚の国の舞、つまりは”楚舞”の公演を観に、随州博物館へ行くことになった。博物館では午前と午後の二回、”楚舞”の公演が行われるのであった。

 

随州は西周時代にすでに「随」という国名で侯国が存在し、戦国春秋時代では楚の国に属して随県がおかれている。現在は湖北省随州市であるが、「随」は、はるか西周時代から悠久と続く地名である。
1978年に戦国春秋時代(東周時代)に随国を治めていた曽侯乙(紀元前475年〜433年)の墓が発掘され、六十五点ひと揃いの”編鐘”が完全な形で出土している。編鐘とは、青銅でできた大小の鐘を音階順に横木につるして配列し、これを叩いて音色を出す楽器である。従来は9個ないしは13個を1セットとして鐘が配列されると考えられていたが、曽侯乙の編鐘はこれを大きく上回り、編鐘という楽器の概念の更新を迫る発見であった。この編鐘は、鐘に鋳込まれた銘文から、紀元前433年に楚の恵王が曽侯乙の逝去を知って追贈したことがわかっている。ゆえに曽侯乙の墓の副葬品として遺ったのだろう。

 

随州博物館

 

古代の楽器の中でも最大の音域を持つであろう編鐘は、礼楽の基礎をなし、もっとも重要な楽器とされる。周礼・春官では、楽器をその素材に拠って、金、石、土、革、絲、木、匏(ひさご)、竹の八つに分類し、”八音”としている。そのうち金属(主に青銅)でできた楽器を八音の首とし、編鐘は”金”楽器の首である。ゆえに編鐘はあらゆる楽器の首とされる。

 

随州博物館

 

曽侯乙の編鐘は、古代の音階を知る上で貴重な史料であり、他のおびただしい副葬品と共に非常に重要な発見である。その多くが随州博物館に収蔵されているが、出土した編鐘や曽侯乙の棺は、現在は武漢の湖北省博物館に収蔵されている。随州博物館にはその複製がある。これまでに展示用以外にも演奏用として、いくつかの編鐘の複製が製造されている。また編鐘の演奏用に、古代に主題を採った楽曲が作られ、併せて舞踊がつくられ、各地で公演されるようになった。
無論、紀元前の楽曲が残っているわけではなく、あくまで現代の舞踊なのであるが、古典舞踊や民族舞踊の要素が取り入れられ、古代の”楚舞”の再現が試みられているのである。

また曽侯乙の墓からは、周王朝の天子にのみ許されるはずの「九鼎八簋(き)」も出土している。「簋(き:下写真)」は穀物などを盛る器である。この「九鼎八簋」は曽侯乙が僭越にも周の天子の格式に倣ったという事で、東周時代の周王室の権威の衰えを証拠付けているともいわれる。ともあれ「九鼎八簋」が完全にそろってひとつの墓から出土した例はなく、やはり貴重な史料であるといえる。
随州博物館

 

随州のある湖北省は、春秋戦国時代は”楚”と呼ばれた、中原から見て南方の大国における、その北部地域にあたる。もともと楚の国は、殷代に中原に住んでいた人々が、商の時代になって北方から侵入してきた部族に押されて南下し、この地に国を建てたと言われている。およそ大陸における人々の移動は、北辺からの異民族の侵入にともない、中原の住民たちが次々に南下してゆく、という流れが続いてきている。現在の広東語や福建語に、古代の発声が保存されているという事情からもうかがえる。

楚といえば、春秋戦国時代には南の大国であった。始皇帝の大陸制覇の戦役でも、最後まで抗戦をつづけた強兵の国でもある。始皇帝は楚の征服に、老将王翦率いる六十万の大兵力を要した。天下平定間近の秦といえども、これは総力戦であった。後に秦を滅ぼす項羽は、楚の将軍家の後裔である。
また楚といえば、呉越も包含した、漠然と長江両岸以南の地域を指していう事もある。狭義には現在の湖北省と湖南省をいうが、江蘇省や浙江省、安徽省と江西省の一部も含むこともあり、河川や無数の沼沢を擁する、境界も定かではない広大な地域が想定されることもある。
秦滅亡〜楚漢の戦いの頃、”楚”という国に強烈な自負を抱いていた項羽の根拠地は今の江蘇省北部である。
”楚”には湖南と湖北にまたがって”雲夢沢”と呼ばれる大湿地帯が存在したといわれ、”雲夢”というだけに、どこかとらえどころのない、漠とした領域が想起される。現在は武漢から随州へいたる途上に、雲夢県という地名にその名が残っている。
現在の湖北省や湖南省の山岳地帯には様々な少数民族の部落があり、やはり昔中原から南に追いやられた、という伝説を持つ部族が多い。
楚の国は、中原とは異なった、独特な文化が発展した地である。中原を中華とするならば、楚は蛮地とみなされがちであるが、屈原や宋玉を出し、中原の文化にも大きな影響を与えている。もともと中原で発達した文化が、北方異民族の侵入に押されて南下し、楚の国に残った、という見方もあるが、実のところ楚で発祥し、独自に栄えた文化も広範に存在したであろう。

 

 

こうした”楚”の国で太古から歌や舞踏が盛んなのは、”鬼神”を信仰する文化に根差しているといわれる。おそらくは鬼道、さらには道教とも関連があるのだろうが、巫女(ふじょ)が歌謡と舞踏をもって神に祈念する風習である。
そもそも”巫”という字は、羽飾りを両手に持って立つ人の形をしている。羽飾りを両手に持つ姿は”羽人(うじん)”すなわち神仙の原型に通じるイメージでもある。後にそれが軽快な長い袖の衣装に変化しながらも、”飛翔”を表現するのが、その舞踏の根源的なイメージにあるのではないだろうか。

 

随州博物館

 

詩賦も無論、楽曲と舞踏に沿ったかたちで発展する。屈原の”楚辞”の”九歌”は、演奏を歌謡、舞踏を併せた、戯曲として表演された、とも言われる。ほかにも屈原の弟子の宋玉の作とされる”招魂”も、内容は”たまよばい”の祈祷文そのものであるが、楽曲と巫女の舞と共に歌唱されたと考えられる。
”楚辞”では、楚の壊王が、夢で巫山の神女と情を通じたことがうたわれている。壊王は屈原を登用した王でもある。巫山はいまの湖北省と重慶の間に位置する山であるが、”巫山”という呼称自体が、巫女との関係を想起させる。

 

随州博物館

 

歴史上、楚の楽曲にまつわる故事といえば、項羽の「四面楚歌」が特に有名であるが、”楚歌”に併せて無論”楚舞”が存在した。故郷を愛した項羽の愛妾虞姫の舞も、やはり楚舞であったことだろう。
後に高祖劉邦の愛妾戚夫人は、自分の子を後継者に出来ないと決まったことで、高祖にすがって泣いた。高祖は戚夫人に「為我楚舞,我為若楚歌」と言い、わしが楚の歌を歌うから、わしのために楚の舞を舞ってくれ、とだけ語ったという。このとき劉邦は垓下の戦いを思い起こしながら、戚夫人は自分にとっては項羽における虞姫の如く最愛の存在であるが、今は”四面楚歌”の如く皆に反対されたから、世継ぎの事はあきらめてくれ、と言って慰めたのであろう。しかし北方出身の戚夫人が楚の舞を能くしたという事は、漢代初期の当時、相当広範囲に”楚舞”が流行している事が伺える。

 

随州博物館

 

時代が下って後漢の成帝に愛された趙飛燕も、楚舞を得意としていた。「飛燕外伝」に拠れば、趙飛燕が成帝の伴奏で高台で舞ったとき、風が強く吹き付けた。風は飛燕を吹き飛ばす勢いであったが、飛燕は吹きすさぶ風に身を委ねながらますます軽やかに舞ったという。趙飛燕が飛び去る事を恐れた成帝は、左右のものに命じて飛燕のスカートを抑えさせた。飛燕は”昇仙”の機会を逸したと言って泣いたという。楚舞は飛翔する神仙のイメージと不可分である。
また楚舞は「楚腰繊細」と杜牧の詩にあるように、踊り手の細い腰を、”折腰”というように、前後に仰臥するように折り曲げる姿勢に美しさがあるという。荒川靜香の”イナバウアー”を仿彿とさせるポーズである。さらに長く軽い生地の袖を旋回し、気流を表現する。たとえば映画「十面埋伏(邦題”LOVERS”)]で章子怡が長い袖で踊るのも、楚舞を基底として創作された舞踊であろう。

 

随州博物館

 

随州博物館の編鐘と楚舞の公演は、三十分ほどの内容である。楽器は編鐘を中心として、古琴や琵琶、笙や龍笛など、さまざまな楽器が登場する。演奏者は衣冠装束を整えて位置についている。あるいは起源を一にするのかもしれないが、雅楽に通じるような、いくぶん厳かな雰囲気がある。
踊り手たちの古代の装束をイメージした衣装はやはり軽やかで、明るく華やかな色使いである。

 

随州博物館

 

まさに、

 

 

羅裙舞轉仙姿爭

紅袖風翻彩雲生

將欲招魂夢澤畔

惠王六十五鐘聲

 

 

というところ。

 

 

曽侯乙(紀元前475年〜433年)に六十五点組みの編鐘を贈った楚の恵王(紀元前?〜432年)は、呉越の戦いにも関わる楚の昭王の子(母は越王勾践の娘)である。楚の昭王(在位紀元前515〜489年)と言えば孔子(紀元前552年〜479年)の存命中に楚に在位した王であり、孔子を招聘しようとしたほど傾倒していた王であった。孔子の楚への旅は、楚がより強大になる事を恐れた他国の謀略で、その一行は道中七日間の包囲を受ける。
曽侯乙は、孔子の晩年近い時期に生まれた人物であるが、楚恵王と並んで孔子や昭王の息子世代である。楚の恵王が曽侯乙に六十五点組みの大編鐘を贈ったという事は、おそらくは父の昭王の時代にはすでに同規模程度の編鐘は存在していたであろう。

 

 

2011年、随州の葉家山墓地で、曽侯乙の時代から500年ほどさかのぼる、商代末期から西周時代初期のものとみられる墓から青銅の編鐘が発見された。これは編鐘の起源を少なくとも五世紀は前倒しする発見である。湖北より北方、陝西や河南でも編鐘の出土例はあるが、いずれも周代後期のものとみられている。最古の編鐘も、最大規模の編鐘もいずれも随州から出土しているのである。この事実は、”随国”の古代における繁栄と地位を表しているだろう。あるいは湖南湖北の少数民族の伝承にあるように、太古の時代は中原に住んでいた人々が、北から圧迫されて楚に移り住んだ、という話を裏付けているようでもある。さらには編鐘の起源と発展も、中原ではなく長らく後進地帯とみなされていた楚にあったのではないか?という可能性をも考えさせられる。
すくなくとも、曽侯乙から100年ほど後の屈原(紀元前343年〜278年)の”楚辞”に見られる文学上の達成を考慮すると、当時の楚の国が、言われるほどの後進地域であるとは考えられないところがある。
孔子も楚の国が蛮地であるから教化しに行こうなどとは語っていない。むしろその王を”大道を知る”と絶賛しているほどなのである。

随州博物館

随州博物館

 

孔子は故郷魯の西、現在の山東省の付け根部分に位置する斉の国でその国の音楽を聴き、「三月不知肉味」と、三か月の間、肉を食べても味が分からないほど感動したという。
また孔子は顔淵に国を治める法を問われたとき、「放鄭聲」と、鄭の国の音楽は淫らであるから退けよ、と言っている。この鄭聲は、「詩経・鄭風」の内容を指してその奔放な恋愛詩を批判しているとされるが、”聲”と言った場合、その詩を含む鄭の歌謡全般を指しているといえる。歌詞も駄目なら、楽曲も怪しからん、というわけである。
礼楽においては、音楽は”まつりごと”の根幹を為す行いであり、厳しい倫理が求められていた。
後の「呂氏春秋・侈楽」には”宋之衰也,作為千鍾。齊之衰也,作為大呂。楚之衰也,作為巫音”とあり、古来からの礼楽が乱される事を憂いている。千鐘はすなわち”鐘律”であり、とくに編鐘による音律のことであるといわれる。大呂も古代の音律を言い、また巫音は巫觋(巫は女、觋は男の巫師)が舞う際の楽曲を指す。要は古典に無いような楽曲の乱れが国の衰微を表す、という思想であり、楚の国の巫に関わる音楽を批判している。宋の千鐘も、奢侈にまかせてやたらと編鐘の音階を増やす事を指弾しているとも読める。
ただし呂氏春秋は孔子より200年ほど後の時代の書物であり、孔子の思想よりも法家、道家の影響が強い。

 

 

孔子の母親は身分の低い巫女であったと言われる。孔子自身、若いときは葬儀の仕事を手伝い、巫術や鬼道に通じていたという。その巫術の、いわば中心地である楚の国に大編鐘があったとすれば、その楽曲と孔子の行動に、どこかでつながりが無かったのかと考えたくなる。

「身分の低い巫女」というが、巫女そのものが、身分が高い者ではなかった。当時の身分制の埒外にあったとも考えられる。それは神と交感する巫女は、人間世界の身分制度にあてはまるものではないからとも考えられるし、一種の”畏れ”のような意識も働いていたのではないだろうか。

後の戚夫人も趙飛燕も、ともに舞を能くする事で帝王に愛された。巫女かどうかは未詳であるが、やはり低い身分の出自である。それは唐代の楊貴妃も同様であるが、楊貴妃が得意としたのは西域から伝わった、体を激しく旋回させる”胡旋舞”であると言われる。李白は楊貴妃を趙飛燕になぞらえて賞賛する「清平調詩」を即興で詠んだというが、かえって自身の出自の低さをあてこすったと楊貴妃に恨まれ、それがもとで宮中から追放されたという。あるいは豊満美人の楊貴妃は、”楚腰”と言われるような、細腰の趙飛燕と比較されて怒ったのかもしれない.........話がそれるが、紅樓夢でも宝玉が宝釵を楊貴妃に喩えている。やはり豊満美人の宝釵ではあるが、自分が太っている事を指摘されたと思って、温厚な彼女には珍しく腹を立てている。歴史上の絶世の美女だとて、安易になぞらえるものではないのである。

 

ところで孔子は昭王が治める楚の国で、後の恵王が曽侯乙に追贈したような大規模な編鐘から成る音楽を聴く機会がなかったのであろうか.......?また当時の中原に、楚の国にあるような規模の編鐘が存在しなかったのだろうか。陝西や河南の出土例では、その規模は曽侯乙の大編鐘には遠く及んでいない。
楚の国への道中、策謀で包囲を受け、七日の間絶食するほどに困窮した際、子貢を昭王のもとへ派遣し、兵を派遣してもらって包囲を解かせている。その後ほどなくして孔子一行は楚の国を去っているのは、昭王が呉に攻められた陳を救援に行った先で、没したからである。とすると孔子が包囲されていた時期、昭王は陳へ向けた援軍を率いており、孔子一行の包囲も、あるいは呉と陳との間の紛争が関係しているかもしれない。ともあれ孔子が待ち望んだ、昭王への謁見はついにかなわなかった。

孔子の著作とされる春秋左氏傳では「楚昭王知大道矣(楚の昭王は大道を知れり)」と、孔子としては君王に対する最大級の賛辞を残している。編鐘は賓客の接待の際にも演奏されるものであったから、もし孔子が昭王に謁見していれば、饗応の席でこのような大編鐘での演奏を聴くことが出来たであろう。はたして孔子はどのような感想を残しただろう......奢侈が過ぎるとしりぞけたであろうか。あるいは.......多少の想像が許されようか。
 

 

 

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武漢の花楼街

武漢に池莉という作家がいる。「生活秀」という作品が、邦題「ションヤンの酒家(みせ)」として映画化され、日本でも「生活秀」や「不談愛情」などの代表作を含む作品集の翻訳が出ているのでご存知の方も多いかもしれない。武漢を舞台に、庶民感情、とくに女性目線で代弁している作品が多い。武漢の庶民生活の細部に筆が及び、生彩富んだ描写に関心をひかれる。もっとも「生活秀」や「不談愛情」などは、70年代の終わりから80年代初頭に書かれた作品であり、現在の武漢の様子にそのまま当てはめられるものではない。
 

「不談愛情」では、主人公の若い女性は武漢の下町、「花楼街」の出身である。それがインテリ階級出身の若い医者と出会い、結婚にいたる事で起こる「家同士の付き合い」をめぐる騒動が描かれている。旧い階級社会を打倒する事で成立したはずの新中国、あるいは知識人階級を徹底弾圧した70年代を経てなお、結局のところは”階級意識”というものが根強く残っている事を感じさせるお話なのであるが、暗い結末ではない。
 
武漢の花楼街
それはそうと「花楼街」であるが、その知識人階級の若い医者の家庭から見ると、ずいぶんと見下された地域なのである。「花楼街」はその名からうかがえるように、戦前は駐在する外国人を主な顧客とした妓楼が立ち並んでいた、漢口中心部の歓楽街であった。その地域も新中国成立後は住宅として開放され、庶民が移り住んだのであるが、どうもあまり良い印象が持たれる地域ではなかったようだ。とはいえ、治安の悪いスラム街といった意味ではなく、そこには料理屋、仕立て屋から茶葉屋から、生活に必要な店が一通りそろった、歴とした生活区なのである。
 
そうではあるが、武漢という古い街の”階級社会”の中では、底辺近くに位置していたのであろう。主人公の女性はこの「花楼街」の家庭の出身である事をひどく恥じているのである。そしていつか「花楼街」から抜け出して生活する事を、固く決心し、結婚によってそれを実現するのである。また夫となる若い医者は、出身地を理由に結婚を取りやめるような事はないのであるが、それでも知った時には軽いショックを受け、また彼の家族は猛反対することになる......
武漢の花楼街
武漢の花楼街
家同士のつり合い、みたいな話は現代の日本ではもはや寡聞かもしれないが、無いこともないだろう。差別感情ないしは階級意識というのはやっかいなもので、子供のころから意識する必要もなく大きくなれればいいのであるが、たいていは周りの大人がそういった意識を植え付けるのである。さらにいえば、そのような意識から自由になれるほどの人生経験、あるいは人文の教養を積める人間というのは稀、という事なのかもしれない。
現代中国はというと、この階級意識というものが、やはりまだまだ根強く残っている、という印象がある。ここ十年の経済成長を経て、総じて豊かになったはずの社会にあっても、かえってこの意識が強化されているような気配すら感じるものである。階級という縦のベクトルと、地域という横のベクトルが交錯しながら、立体的な差別感情が形作られている、と理解される。それが今のところ深刻に見えないのは、まだ多少の流動性が残されているからなのかもしれない。

池莉の小説に描かれるところの女性達の理想は、具体的な生活像の中にあるのであって、思想や理念の中などにはない。換言すれば”自由”とは欲しい物を自由に買えることであり、”平等”とは他人が買っている不動産を自分も買える、ということである。その意味では、池莉の作品は、たしかに現代中国の庶民感情の公約数のある部分を代弁している、と言えるかもしれない。あるいは庶民に限らず、”近代化”とは近代建築を山ほど建てることだ、と思い込んでいるに違いない、本来知識人であるはずのこの国の官僚群とも、もしかすると大差ないのかもしれない。

なにがなんでも唯物論的、なのである。


別段その事を皮肉っているわけではなく、肯定的に書いているのが池莉の作品なのであるが。無論、人は理想や思想に対するよりもはるかに多く、現実生活の中で挫折を味わうものなのだろう。池莉の作品は観念としての”理想”に対しては、一貫してシニカルな姿勢をとりながら”触って、口にできる現実”に対しては、やや甘い夢を見る事が許容されている。その挫折に対する対処法もセットになっている。別の言い方をすれば、池莉作品の主人公達(多く女性は)、阿Q以来の”精神的勝利法”の現代風アレンジに長けているだけなのであるが、そのことへの問題意識は池莉には希薄なようだ。ゆえに池莉は作家として今や(政治的にも)武漢の文壇の重鎮なのも、わからなくもない。このあたりの態度が受け入れられるかどうかで、池莉文学への好みが分かれるのではないかと思う。

武漢の花楼街
武漢の花楼街
その花楼街である。江漢路という、上海の南京路を少し細くしたような通りから、少し離れた路地に位置している。その雰囲気としては、やはり上海豫園の近くの、城皇廟付近の上海老街と似た格好である。建築当時はモダンであったであろう、西洋風の古い建物に改修を重ね、人々が住み続けているような街である。上海と雰囲気が似通っているというのは、やはり早くから各国の疎開地が建設され、西洋文化の影響を受けてきた、という経緯を感じさせる。長江というのは、河川というよりも、あるいは非常に長く深い港湾、という見方も出来るのではないだろうか。いうなれば武漢もはるか内陸とはいえ、長江を経由して海外に面した港湾都市なのである。
武漢の花楼街
この花楼街のような街は、武漢特有の下町、という事でもなく、大陸の古い都市にはどこでも、一か所くらいは残っているような通りである。市街の中心部にあって、場所の価値は高いと思うのであるが、不思議と再開発などが起こらないのである。こうした下町は土地建物の権利関係が複雑過ぎる上に、古い住民はしたたかで補償の交渉もままならない。なので市の政府も手が出せない、というような事を聞いたことがある。
武漢の花楼街
武漢の花楼街
時刻は夜の10時に近かったが、飲食店、惣菜や果物を売る店、あるいは雑貨を売る店などはほとんど開いている。武漢も、中心市街の夜は遅いのだろう。路地にクツや生活雑貨などを並べて売る露店などもあり、狭い通りがさらに細くなっている。
池莉の別の作品、映画化された「生活秀」に出てくる吉慶街ものぞいてみたかったのであるが、あいにく体調を崩していたこともあって果たせなかった。もっとも、吉慶街も「生活秀」で描写されている時代からは、ずいぶんと様変わりしているという事だ。
この夜の武漢もとても暑く、長い事歩いてはいられなかったのであるが、地元の人はさすがに慣れているのか、花楼街には平然とした活気があった。溢れかえる生活の色彩と喧騒....暮しの匂い、そのものである。
武漢の花楼街
武漢に立ち寄った際は是非足を運ぶべき、というほどの場所でもないのであるが、池莉の作品を読まれたことがあれば、少し足を延ばして作品世界の一端を知るのも悪くはないのではないだろうか。
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