今日から辰年

今日は旧正月の新年です。2月の初めともなると「新春」の語にふさわしい気配も感じられなくもありません。日本では明治五年から太陽暦を採用し、新暦の1月1日を正月に定めていますが、長年大陸を往来したせいか、せめて干支だけは旧正月の元旦から始めたいような気分があります。

先日、京都の『清風荘』を見学する機会がありました。清風荘は出町柳から百万遍に向かって柳通を歩いてゆく途中にあります。
清風荘は明治末期に首相を二度務めました、西園寺公望公の京都の別邸として建てられた建物で、京都大学が管理している重要文化財です。
昨年から月に1度ほど、百万遍のある研究会にお誘いいただいてお邪魔しているのですが、そのたびに出町柳からこの清風荘の塀の前をずっと歩いていました。とはいえ今まで、どなたの所有なのかさえしかとは認識していませんでした。京都大学に通う学生さん達も、ほとんどの方は邸内を見ないままに卒業されるとかされないとか。今回、邸内の撮影は許可いただいたものの、一般公開されていないために、残念ながらここに写真を掲載することはできませんが、いろいろと勉強になりました。

佳木佳材をふんだんに使用した茶室、伴待に始まり、邸内七十本もの松を植えた美しい芝と池と築山の庭園、明治期の数寄屋建築の粋を極めた邸内をくまなく案内していただきました。網代編みの壁や明治ガラスの雪見障子、また応接室の天井の羽目板が屋久杉で出来ていたり、現代ではとても建てる事が出来ない贅沢な建物でした。手すりや取っ手に使われている真鍮金具や、瀟洒なペンダントライトなども実にお洒落です。
しかし考えてみれば庭園の石木も、建物の材料もほぼすべて天然に存在する材料です。主屋は瓦葺きですが、これは町家にも使われる桟瓦で、質朴な趣きがあります。茶室の屋根は松皮で葺き、また欄間に煤竹など古材、また枯れて趣ある形象に腐食した桐の古木などを使用しているあたりも「わかる人にはわかる贅沢」。こういった趣味性というのは、贅を尽くすほどに簡素な景観を呈すもので、西洋におけるいわゆる「上流階級」の目指す絢爛豪華とは程遠いものがあります。

木造建築は火災で失われる事がありますが、絶えず木材を必要とする意識が山林を育てます。世界的には、豪華な建物といえば基本的に焼成した磚(せん:レンガ)を重ね、漆喰で壁を塗ります。それはそれで美しい建築様式を生み出すのですが、屋根瓦や磚、タイル等を造るために、大量の薪を必要とします。磚も再利用されるとはいえ、やはり歴史的に古代都市周辺の山林減少の一因となった、という面は否めないものがあります。環境負荷の面からも、日本の木造建築は優れた建築文化、と言えるのではないでしょうか。(ただ、維持管理はそれなりに大変ではありますが)

では辰年の本年、皆様方には飛躍の年となられますよう。

店主 拝
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鳳凰雲

....今年は6月から猛暑が続き、10月の頭まで暑さが残り、なかなかもって苦しい毎日だったように思う。仲秋も蒸し暑く、重陽になっても依然、暑さが残るようでは小春日和という言葉の使いどころも少なくなる。
この季節の感じは、以前しばしば滞在していた香港や広東省のようで、今現在住んでいる国が果たして日本なのかどうか、自問したくなるほどだ。

夏生まれでありながら、生来、暑さに弱いせいか夏はどうも体調を崩し気味で、やるべきことなすべきことがなかなか前に進まなかった。とはいえ、簡単なこともままならないもどかしい気持ちが、さらに心身の状態を悪い方向へと押し流してしまう事もあるという事で、こういうときはあまり逆らわず、じっと時節を待った方が良いのだろう。

この暑かった夏の、これは代償というべきか、今年の秋は好天に恵まれた週末が多いように思う。10月まで続いた残暑から急に気温が下がったので、一時は秋を通り越して冬になるのではないか?と懸念するほどであったが、遠い記憶の中の初秋よりはだいぶん涼しいものの、天にかかる雲は刷毛でひいたように薄く、また高く、空気はいたって澄明である。季節感がなくなった、と言われて久しいここ十年のうちでは、今年はこれでもなかなかの秋が来てくれた、というべきではないだろうか。


関西にいると特にそうかもしれないが、夕刻の西の空が美しい朱に染まる日が多い。周知のごとく、朝夕の空が赤いのは、大気を通した光が特に赤い光を届けるためであるが、それは大気中の細かい塵などで、短い波長の光、青がカットされてしまうからである。要は地平線近くの大気に微粒子が多い、という事になる。

関西から見て日が没する方角にはむろん、大陸があり、察するに大陸上空の空気中に、活発な人間活動に由来する微粒子が多く浮遊しているのであろう。大陸上空の大気で赤い光線主体にフィルターされた光を、日本の澄んだ空気越しに見ているのであるから、とりわけ紅に観えるのかもしれない。特に地平線のかなたの大陸から投げかけられたであろう赤い光線が、日本上空にかかる薄い秋の雲を焼き上げると、これも尋常でないほどの茜雲が現れる。美しいが、ここまで紅いと、いささか不安を覚えるほどである。

古来、紅い夕映えは美しいものとされるが、そうしばしばみられるものではなかったように思う。たそがれ....は「黄昏」と書くように、本来は夜空の濃い藍色が、東の空から西の地平近くの明るい黄色へ向かう調子が、だんだんと光量を減じながら没してゆくものだ。それが近年、時に禍々しいまでの濃い紅色の空を目にする事が多いように感じるのは、気のせいばかりなのだろうか。

夏の低山歩きは、晴れて気温が高いと何倍も体力を要するものである。例年にない暑さで体調も今一つ、という事もあって、今年の夏はほとんど山には行かなかった。
ともかく今年の夏は、酷暑の上に、週末に天気が悪い日が多かった。夏の低山山の場合、朝方は晴れていても、午後には激しい雷雨が山頂から山麓までを覆う事は珍しくない。特に、しばしば出かけている金剛山から大和葛城山一帯は、午後に”雨雲レーダー”が豪雨を示すように、レーダーがとらえた雨雲の分布画像が真っ赤になっていることが多かった。これは間違いなく激しい雷雨である。雷雨は低山といえども侮れないものだ。雷にあたらなくとも、煙り立つような豪雨は視界を悪くし、狭い山道はたちまち小川のようになって、足を滑らせる危険が倍増する。


週末は天気予報を調べて、体調と都合が許せば、土曜日か日曜日か、なるべく天気の良い方を選んで山に行くようにしている。10月の半ばから六週続けて、少なくとも金剛山の山頂には登頂できているから、それだけでもまずまずの秋ではあると思う。

片付かない用件があったとしても、短い秋の貴重な好天の週末に、じっと家で作業しているというのは、天の好意を無下にするように感じる。それ「天の与うるを取らざれば反って其の咎めを受く」のだから、たとえ朝から何かをしているうちに山登りには少し遅い昼近い時刻になってしまっていても、ともかく出かけるようにしている。

先々週だったか、登山口から登り始めたのが午後1時、という日だった。タカハタ谷にルートをとって、およそ1時間と10分くらいで山頂に出るのであるが、そこから水越峠におりて大和葛城山へ登るには、時間が少し足りない。

大和葛城山山頂から御所に下る”北尾根”という登山道は、東向きの斜面であるから、ちょうど夕日を山にさえぎられ、暗くなるのが早い。この”北尾根”は葛城山ロープウェーの駅付近の登山口に至る、比較的利用者の多い登山道であるが、かなり傾斜のついたところもあり、また存外、道が荒れて足場が悪い箇所がある。そういった山道というのは、登るときは何でもないものだが、下山するときには思わぬ事故に遇いかねない。

早く帰ろうと思えばそのまま大阪側に下山すればよいのであるが、1時間もしないで元の登山口に戻るのも、それはそれで遠出した甲斐がない。そこで金剛山の山頂から南へ少し稜線を歩き、展望台を過ぎたあたりから奈良側へ延びる山道を下る。この登山道は、奈良の御所と五条の間にある北宇智というところに出るのだが、植林された杉が鬱蒼として暗い。あまり人が通らないのか、道もやや不明瞭になっている。ゆえに明るいうちに下りきってしまわなければならないことは、葛城山の北尾根以上なのだが、金剛山から奈良側に降りる登山道としては山頂からもっとも近く、早く麓に降りる事が出来る。それでしばしば利用している。かつては(今も?)修験の古道だったのだろう、途中、麓近くに真言宗にまつわる巨石が現れる。


山道を下りると集落の山際に出て、そこからJR和歌山線の北宇智駅まで1時間程度、舗装された道をゆるゆる下りながら歩くことになる。この日、時刻は午後4時を回ったころであるが、すこぶる大気が澄んでいて、紅葉の木々が路上に濃い影を落としていた。

 

山道もいいが、舗装された道路をのんびりと下ってゆくのも、あたりの田畑や人家の様子も秋めいていて、これもいいものである。


西へ向かう道路を歩いていると、ふと前方の丘陵の上に、虹のかけらのような光が見えた.....虹ではなく、傾いた太陽の光が薄い雲を透かして回析し、五彩を呈している.....いわゆる彩雲であろう。また、光彩を放つところから、二筋の傾斜した雲が左右に伸び上がっている。ちょうど五色の頭部をもつ大鳥が、翼を広げたような形勢である。鳳凰.....にも観える。

雲を観て吉凶を占うことは古くからおこなわれていたようで『周禮・春官』「保章氏以五雲之物,辨吉凶水旱之祲象」とある。この場合の五雲とは、雲の形の事ではなく色であるという。また『史記·天官書』にも『雲氣有獸居上者勝』とあり、高祖劉邦も、その居場所には常に雲気がわだかまっていた(と妻の呂氏が言った)という。

虹のような五色を呈する雲を特に彩雲と言い、これは慶雲、瑞雲とも呼ばれ、吉祥、瑞兆であるとされる。『呉書・孫破虜傳』に「冢上數有光怪、雲氣五色、上屬于天、曼延數里」とあり、この「雲氣五色」も彩雲であろう。

古い文献に「鳳凰雲」という語は聞かないが、大きな鳥に似た雲を「鳳凰雲」と称した画像がインターネット上には散見され、話題になっていることがあるようだ。彩雲だけでも瑞兆であるとされるのに、それが鳳凰の恰好をしているとなると、空恐ろしいほどの吉祥ではある。同じ時刻に、果たしてどれほどの人がこの彩雲を目撃できたであろうか。

彩雲は太陽光が奇跡的な角度で雲に入射したときにおこる現象であるだけに、この時もほんの数分で五彩は失われ、後には澄んだ青空に白い大きな鳥の翼のような雲だけがたなびいている........しばし茫然として見入っていたが、電車の時刻があるので再び北宇智駅に向かって歩き始めた。単線のJR和歌山線は、本数が少ないのである。

北宇智の駅に近づくと、稲の借り入れが終わった、乾いた水田が広がっている。さらに向こうに高速自動車道の高架が観えるが.....その上に透けるように薄く、北から南に強い風で吹き散らされたような雲がかかっている。ちょうど、サルノコシカケのような、カサを重ねたように見える雲は「霊芝」に観えなくもない......これも瑞兆であろうか。


霊芝に観える雲.....いわゆる「霊芝雲」は図案化されて、古代から王朝時代にかけて、工芸品や絵画に多く見られる。唐草模様と人気を二分する存在であるが、霊芝雲も唐草模様の変形である、という人もいる。
霊芝雲は鳳凰雲と違い、瑞兆としては現在はあまり人気がないのかもしれない。インターネットでしらべると図案の画像はたくさん出てくるが、それらしい実物の雲の画像が出てこない。たまにあると、キノコ状に盛り上がった入道雲の画像が出てくるが、それは現実に観えるサルノコシカケの姿からの連想ではないだろうか。本来の「霊芝雲」はそうではないだろう。それは「天高く」といわれる秋に観られる、高層にかかる薄い雲の形状からの連想であり、図案化された「霊芝雲」の末端が、必ず細くとがって尾を引くように伸びていることからもわかる。
高空を霊芝に似た雲が飛び交う様相は、図案の世界にとどまらず、時にこうして現実の光景として古代人の眼前に現れることがあっただろう。そこへ龍が翔け、鳳凰が舞い、神仙が飛翔するイメージは、墨や硯にも好んで用いられてきたモチーフでもある。

この日は山に行こうか作業をしようか迷っていたのであるが、出かけたおかげで良いものを観られたものである。人に同じ山に何度も登って飽きないか?と聞かれることもあるのだが、同じ道であっても自然に近いところでは、このように季節や天候でまったく違った様相があり、新しい発見もある。

近年、気候が極端になってゆき、春と秋が短くなった、という事はよく言われる。印象としては短くなったうえに、変化が急なので、秋に関して言えば初秋と晩秋がなくなったような雰囲気ではある。とはいえ、秋はあくまで秋である。夏とも冬とも違う。兎にも角にも、せめて11月いっぱいくらいは秋らしくしてもらえれば、ひとまず御の字というべきではないだろうか。


何意秋天掛彩雲
鳳頭燦然五色分
神異祥瑞須臾去
唯見紅葉落日曛

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2020年1月 上海〜深圳 高速鉄道夜行寝台

.......目下、次回はいつ大陸に渡航できるかわからない情勢である。前回の渡航から丸二年が立とうとしているが、その時の紀行に関する事を書こうとして結局あまり書かなかったのは、カメラのデータがどうしても見つからないから、という事がある。

いわゆる”スマートフォン”で手軽に撮った写真もあるのだが、携行したカメラの方がもう少し画質が良いし、写真の数量が多い。SDカードに入っているはずであるが、いやどこへやったものか.....前回は上海から深圳に移動し、深圳から日帰りで恵州を訪れた。蘇軾が配流された恵州であるが、上海から列車で浙江省、江西省を通過して、深圳に入る前に恵州を通過する。大昔はこのルートをたどって南方に左遷、事実上の配流が行われた。
時間の関係で蘇軾が仮寓したといわれる地域までは行けなかったものの、ゆかりの史跡を見る事が出来た。他、上海や香港での出来事等等、多少は材料があったのだが、せっかく撮った写真が見つからないので気乗りがしなかったものである。

しかし長らく更新を停滞しているような体たらくもどうかとおもうので(どなたも気にしていないかもしれないが、開店休業のようにも見えるので)高速鉄道の夜行寝台車で上海から深圳へ移動した経緯でも簡単に書いておこうかと思う。写真はすべてスマートフォンで撮影したものであるが、列車移動の最中はわざわざカメラを出さない、という事でもある。

広い大陸では、高速鉄道といえども夜行寝台車両がある。かれこれ10年近く前の話になるが、上海から北京へ、高速鉄道の寝台車を使って移動した事がある。今回も上海でもそこそこ要件があり、また香港と深圳で少し時間を取りたかったので、寝ている間に到着する夜行寝台を久しぶりに利用してみた次第である。

上海を起点とする高速鉄道となると、上海虹橋駅からが本数が多い。しかしながら宿泊し、用事のある浦東や上海旧市街からは距離がある。上海では人民広場にほど近い場所に宿を取ったのであるが、インターネットで切符の手配をしてくれた朋友はその点も考慮してくれて、今回は上海駅始発、深圳北駅着の高速鉄道夜行寝台車である。

目まぐるしく変わる上海であるが、上海駅の駅前広場の景観は、比較的昔の面影を残している。上海の鉄道の駅といえば上海駅しかなかった頃、8元の普通列車無座(座席無し)で蘇州へ向かった20年以上前の昔が懐かしい。また黄山(当時は屯溪)への一泊二日の夜行寝台列車もよくここから乗ったものである。

乗車券と身分証(パスポート)、手荷物のスキャンが実施される厳重なセキュリティチェックを経て駅の構内に入る。昔は(昔話ばかりだが)この正面入り口のエレベーターが動いていなくて、長い階段をスーツケースを抱えて上ったものである。

上海駅の廊下から各待合室へ至る基本的構造は旧来のままであるが、軒を連ねる売店の数々については、さすがにその顔触れが変わってしまっている。

ともあれ電光掲示板に表示された自分が乗る列車番号を確認し、まずは待合室に入る。

座れる席などは空いていない。治安の良い上海であるが、昔今も、大陸では列車の駅では特に手回り品に気を付けた方が良い。ひとり旅で広大な待合室にいると大きな荷物から目が離せないので、カフェを探して発車時刻まで停滞する。

発車時刻が近づいたので待合室に移動する。プラットフォームへ至る改札は待合室一か所しかない。そこにすべての乗客が集められ、身分証チェックを含む改札を通過の上で、プラットフォームに下りてゆく。

この上海駅の構造も、高速鉄道が出来る前から変わらないのであるが、長大な大陸の鉄道に対し一か所しか入り口が設けられてないから、先頭か末尾の車両に座席があるときは大移動になる。

数年前までは、各車両の入り口に車掌(か係員)が1名いて、乗客が乗り込むときに乗車券をチェックしていた。違う号車の車両からは原則乗せてくれず「〇号車はあっち」と指示されるので、余裕をもって移動していないと難儀する。もっとも発車ギリギリだと手近な車両から乗せてくれるのであるが、昔の鈍行列車は通路も乗客でふさがっており、自分の座席まで荷物を抱えて移動するのに難儀するのである。
しかし現在は日本の新幹線と同様、乗客は自分の車両を確認し、乗り込むことになっていた。とはいえこのスタイルも次回はまた変わるかもしれない。

列車番号”D905”は、上海駅から浙江省、江西省を経由し、広東省の深圳北駅へ至る全行程1623km、日本でいえば青森から北九州の少し先へ列車で移動するくらいの距離を走破する。夜7時半に出発し、明朝の6時半に深圳北駅に到着する予定である。およそ11時間を超える長い旅であるが、寝ている間に過ぎてしまう。

夜行寝台というと、乗車時に車掌がコンパートメントを訪問し、身分証、外国人であればパスポートを車掌に預ける。これは降車時に返却してもらう。明け方到着が近くなると車掌がコンパートメントに現れ、下車する乗客の身分証を返却する。有無を言わせずパスポートを回収するのであるから、大陸の列車の車掌というのは大変な権限がある、と思ったものだ。しかし今回はそれが無かった。というのは、おそらく乗車時に改札で身分証のチェックをしたからではないかと思う。

最先端の高速鉄道の寝台車ではあるが、寝台とテーブルの配置、寝台の脇にかけられたハンガー、湯を入れたポット、果物を剥いたりするときに使うステンレスのトレイ、テーブルの下のくず入れ、という配置は”伝統的”な大陸の”夜行寝台軟臥”のを彷彿とさせるものがある。
今回の私のベッドは下の段であった。ベッドの下には若干のスペースがあり、スーツケースを収納できる。誰が乗ってくるかは当然わからない。

出発してしばらくすると、廊下に積み上げられた段ボール箱から乗務員が”夜行糧食”を配布してくれる。パックの豆乳にカップケーキ、菓子パン、干しブドウ、豆菓子、搾菜、レトルトの牛肉の醤油煮、ティーパックの紅茶、それにフォークやスプーン、ウェットティッシュが入っている。

深夜に走る高速鉄道の場合、車内販売は回ってこないし、1両しかないカフェテリアの売店にもさほどの品物が置いてあるわけではない。到着するのは早朝なのであるが、駅の売店も飲食店も開いていない。なので夜食と朝食を兼ねているのかもしれない。

夜間の移動なので、車窓には通過する街の明かりや、高速道路のハロゲン灯のオレンジ色の光の他には、ほぼ何も見えない。月明りもない。就寝するには早い時間であるから、時間つぶしに本をもってカフェテリアへ向かう。

寝台車の廊下には折り畳み式の、臨時の腰掛けのような座席もあり、旅行者は腰掛けて電話をかけたりスマートフォンを閲覧したりしている。しかしパソコンをひらいて仕事をしたい向きなどは、椅子とテーブルのあるカフェテリアに往くよりないだろう。

長大な高速鉄道であるが、カフェテリアは一両しかない。結構な人数が乗り込んでいるはずなのであるが、そろそろ就寝時間になろうとするのにカフェテリアを利用しようとする人はあまりいないようで、席を見つける事が出来た。

配布された”夜行糧食”の中から豆菓子と搾菜を取り出してつまみながら、少しビールを飲む......さすがに高速鉄道では冷やした缶ビールが飲めるようになった。旅が便利になり、旅情に無聊がとってかわった、と言っては贅沢の極みなのであるが、いささかの退屈しのぎが必要なのは否めない。かつて上海から紹興を経由し、贛州で何泊かの後に深圳へ移動したのは高速鉄道ではなく普通列車であった。

寝台車のほかにも普通席の車両もある。軟臥(ソフトベッド・寝台車)、のほかに安価な硬座(ハードシート)が用意されている。乗車料金は季節変動があるが、軟臥が上海から深圳北までおよそ700元、硬座は488元である。200元(3600円)ほどしか違いが無いならソフトベッドがよさそう、とは言い切れない。やはり少しでも安価に移動したい、という需要がある。
浙江省から江西省を南北に縦断するのであるが、このあたりは移動手段も限られるので、深夜であっても乗り込んで移動したい需要があるのだろう。

四人を収容できるコンパートメントであるが、二人以上で移動していれば、同じ部屋を予約することも可能であり、寝台の空きに余力があれば四人で一室を借りきる事も可能である。しかし一人旅の場合は、おおむね、赤の他人と同居することになる。この同居人についてであるが、女性と男性で配慮されてなるべく同性の組み合わせになるように決定されているか、というとどうもそういう事は無いようで、女性と同室になることも珍しくない。だからといってどうということもないのであるが、やはり男性よりは若干気を遣う。ただ珍しい事に、今回は貸し切りであった。


夜通し走る夜行寝台車は、停車する途中駅で乗客が乗り込んでくる事もあるから、自身が乗ったときに空いているからといって、乗車券と違う寝台で眠ってしまっては具合が悪い。一応の消灯時間というのもあって、コンパートメントが消灯される。あとは各自読書灯を使うなりしてください、というところだ。
この列車は上海から深圳北へ至る途中、杭州東と寧波にしか停車しない。寧波に到着するのが夜の10時を回ったころであるから、それ以降は就寝時間、という事になる。

掛け布団のカバーもシーツも糊が効いている。寝台に横になるとレールをすべる車輪の気配を感じるが、眠れないほどの騒音というわけでもなく(気になる人にはなるかもしれないが)床下で動力が働いている、という事がわかる程度のもので、バスや船舶の寝台に比べればいたって静かである。揺れも少ない。これは振動を低減するシステムが働いているからであろうが、大陸の鉄道全般、カーブが少ないためでもあるだろう。

いつの間にか眠ってしまったらしい。目が覚めると、車窓はすでに明るい。朝の6時半を回ったばかりの深圳北駅は売店や飲食店などもまだ開いておらず、降車した乗客以外の人影は少ない。

真冬の上海の、冷たく乾燥した空気の中を出発し、一夜あけて列車を降りると、初夏の早朝のような、涼しくやや湿った外気である。これから深圳宝安空港近くまでの移動がまた長いのであるが、面白い事も無いので省くこととしよう。

上海から広東へは飛行機で移動することが多かったが、深圳なら2時間半でついてしまう。とはいえ寝ている間に広東に移動しているというのも、日程に限りがあるときなどは、昼間の時間が長く使えて便利である。

この移動は2020年の1月5日〜6日の事であったが、思えばこの時はまだ武漢の方で謎の肺炎が流行っている、というニュースを日本のネットで目にするようになったころだった。香港から日本へ帰国した1月13日では、香港でも新型肺炎の患者が発見された、という事を香港の朋友に聞いたばかりの頃であった。深圳在住の朋友は湖北省随州の出身で、その姉は武漢に住んでいた........1月末には武漢の都市封鎖が始まる......その後の大陸や世界の変転を考えると、たった2年前の事とはいえ、どこか隔世の感がある。

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2019紹興行 列車と宿

........今回は合間を縫って1泊だけの日程で紹興に足を延ばすことにした。紹興を訪問するのは三度目で、6年ぶりである。仕事道具が詰まったスーツケースを1泊目に泊まった上海桂林路のビジネスホテルに預け、小型のリュックひとつに一泊分の着替え備品をつめてから駅に向かう。

南北に珠玉を連ねたように点在する江南の諸都市であるが、上海からさほど遠くない距離にあり、個人的に気に入っているのが揚州と紹興である。
江南で「地上の天堂」と併称されるのが「蘇州・杭州」であるが、蘇州の旧市街は今や繁華に傾きすぎたきらいがある。また人が多くて渋滞し、夕方は移動に難儀する。杭州の昔の中心市街はすっかり開発されてしまって、西湖周辺も近代的で趣にかけるものがあるうえに、やはり移動に難儀する。
その点、目覚ましい経済発展からはすっかり取り残された体であるが、それだけに揚州と紹興は古い江南水郷都市の雰囲気を濃厚に残している。もちろん嘉興からほど近い烏鎮など、江南水鎮をそのまま残したような場所もあるにはある。それはそれで情緒風情にあふれる場所なのであるが、中国史に残る古くからの都会というわけではない。
なんといっても紹興は紀元前の呉越の時代、会稽と呼ばれた昔から栄えた江南屈指の古都であり、三国時代の呉の主要都市を経て、さらには東晋政権の首都として、隋によって統一されるまで南方に依った漢民族政権の根拠地であり続けた。
杭州といえども、北宋に入りかの蘇軾が知事として赴任する時期に前後して大規模な開発が進み、南宋政権が根拠地とするに至って江南屈指の大都市に成長したのであり、江南にあっては新興の都市なのである。

いつもは上海の朋友に交通機関から宿泊先の手配まで依頼するのであるが、今回はインターネットの予約サイトを利用して、上海から紹興までの高速鉄道と宿を予約した。高速鉄道の予約はTrip.comで、宿の予約はBooking.comで、あっけないほど簡単にできてしまったものである。
高速鉄道が開通するよりずっと前の大陸の列車の旅といえば、まず乗車券の入手がひと仕事であった。予約システムなどないから駅の券売所にならぶ。それも1時間も2時間も、どんどん横入りされる切符売り場の窓口で並ばなければならない。乗車券の取得が半日仕事になることさえあった昔に比べれば、いまや格段に手軽になった。

高速鉄道の乗車券のオンライン予約は、中国国内では以前から可能だったが、駅で窓口に並んで乗車券と引き換える必要があった。人民のIDカードがあれば自動の発券機を利用することもできたが、パスポートの外国人は窓口に並んで乗車券と交換しなくてはならない。これも面倒なもので、30分前後は並ぶことを覚悟しなくてはならないから、広大な駅を移動する余裕を見て1時間前には駅に到着するように時間を見計らって移動していた。
しかし、今では予約サイトの予約番号とパスポートを改札で見せればそのまま乗車できるという。もちろん座席は予約時に決定している。そのような説明が予約番号を記載したメールに書いてあるにはある。しかしそこは大陸旅である。
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念のため、上海から行きの列車は上海虹橋の切符売り場の窓口にならぶ。上海虹橋駅には外国人専用の窓口もある。そこで予約番号の記載されたメールの画面とパスポートを窓口で渡すと、従来の磁気用紙の切符と交換してくれたのである。
しかし結論から言えば、このような手続きは不要だったのである。帰りの紹興の駅で再び切符売り場にならぶと、窓口で「切符との交換は不要だから、改札で予約番号とパスポートを見せなさい。」と言われ、切符と交換はしてくれなかった。そうは言われてもイザ乗車する段になって「切符がないと乗れません」ということはなかろうな?と乗る直前まで疑ってしまうあたりが習性であろうか。

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ともあれ大陸の高速鉄道の予約から乗車までは格段に速くなった。以前は高速鉄道の駅が空港並みに離れていることと、窓口に並ぶ時間のロスから近距離の利用では都心から出発する高速バスとトータルの所要時間が大差ないのではないか?と思うくらいであったのだが、これも改善されたことになる。また上海起点の高速鉄道の本数もだいぶ増えた様子で、連休や週末にかからなければ当日でも座席が確保しやすくなっている。数年前は数日前に予約しないと「无座」といって立っていかなければならないこともあったのであるが。
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高速鉄道の駅の構内に入るにはパスポートを提示し、荷物を検査機に通す必要がある。これなども以前は形式的なものであったのだが、だんだんと空港並みに厳しいチェックになってきている。
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高速鉄道になる際は、外国人はパスポートを機械にスキャンする必要がある。しかし、今回は紹興往復と、また別途湖州に行く際に嘉興を往復したのであるが、都合四回の乗車機会に際して一度もこのパスポートスキャンの機械が正しく動作しない。そこには駅の係員が立っており、結局は係員にパスポートと予約番号を見せて無事乗車することができたのである。パスポートのスキャンがうまくいかないことを見越して、あらかじめ人員を配置しているような恰好である。
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高速鉄道の改札は、乗車時と降車時の2回通るのであるが、以前からうまく動作しないことが多い。乗車時はともかく、降車時では機械の不調で渋滞したころ合いで、駅員がゲートを開放して降車した乗客を通してしまうようなこともある。
磁気用紙の切符が不要になって便利になったのであるが、この外国人はパスポートチェックを降車時にもしなくてはならない。たいていは改札の右側に一か所だけ専用のゲートがあり、そこで機械にかけるなり駅員に確認してもらうなりしないといけないので要注意である。
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さて、高速鉄道で上海から紹興までは1時間半程度の旅であるが、そこは取り立てて書くこと事はない。
紹興北という高速鉄道専用の駅に到着し、それから市内に向かう。宿は魯迅故里にほど近い場所に位置している。かれこれ20年近く前の昔は、列車の駅から中心市街の魯迅故里まで歩こうと思えば歩ける距離にあったのだが、高速鉄道の駅は例にもれず旧市街地からは相当な距離がある。地下鉄が建設中であるが、まだ開通していない。市内へは”BRT”という直通バスが通っていて、3元で市内に移動できる。これに乗るのが便利である。いくつか路線があるが、多くは魯迅故里に停車するので問題はない。
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旧市街地へ向かう途中、郊外の開発区や建設中の高層ビル群を目にするのは今や江南諸都市共通の光景である。
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日本でも今や”民泊”経営が盛んであるが、大陸の観光地にも昔はなかった民宿が増えている。
今夜の宿の「老台門魯迅故里青年旅舎」も江南の故民居を改装した民宿であり、京都でいえば「町屋旅館」といったところであろうか。「青年旅舎」といっても別段年齢制限があるわけではない。紹興観光の中心地ともいうべき魯迅故里の通りを中興中路から反対側に通り抜けた出口付近に位置していて、ほど近くには咸亨酒店や紹興には少ないSTARBUCKSがある。観光の拠点としてはすこぶる便利である。
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受付で日本で予約した際の予約確認メールとパスポートを見せるとあっさり受付が完了した。1泊の宿賃は日本円で2千円しない。部屋は二階である。
カードを二枚渡され、部屋に案内される。部屋は二階である。中庭を囲んで軒をめぐらした建物の構造は、もちろんのことこの家がある程度の格式を備えた物件であったことを意味している。
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若い人達が宿泊客の中心なのであろう、壁には無数の落書きがみられる。廊下の柱や壁面は、現代的な樹脂塗料ではあるが赤く塗られている。王朝時代であれば「紅楼朱閣」というように、建物を赤く塗装できるのは官舎や貴族、寺院などの限られた身分格式の建物だけである。日本でいえば加賀藩に由来する東大「赤門」といったところである。
紹興にあっては中産階級の邸宅であったであろう建物ではあるが「朱閣」にするのはやや大げさである。しかし古い建物を改修する際に何か塗装しようということで”赤”になったのであろう。
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中庭を見下ろすように取り囲んだ廊下の手すりに沿って長い腰かけがあるが、これを「廊椅」あるいは「飛来椅」といい、また別名「美人欄」という。いわゆる「欄干」の一種なのであるが、夏の暑い日はここに座って涼むこともできるし、刺繍や裁縫など、明るい光が必要な作業もここで行われるのである。
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詩詞で「斜倚欄(欄にななめによりかかる)」というと美女の形容であるが、橋の欄干のように立って寄りかかる恰好というよりも、このように座れる欄干に座りながら背もたれ部分によりかかってくつろぐ風情である。腰掛けながら体をひねって欄干に体を預け、中庭や夜空を眺めるのであるから、ほっそりとしなやかな女性の体つきが想起される、というわけである。
このような座れる欄干は日本の建物にはあまり見られないから、日本人の描いた美人画には橋の欄干にもたれた美女が登場する、ということになる。
唐代までは床に敷物を敷いて座る習慣があったが、北宋から徐々に椅子に座る習慣に変化したといわれる。初めは縁台や濡縁のような場所に低い欄干をめぐらせていたのが、椅子に座る習慣が浸透するにつれてこのような座れる欄干に変わっていったと考えられるが、このような「飛来椅」が建築に流行したのは元代だという。日本にある楼門や五重塔の手すりは低いが、五重塔の建築様式が渡来したのは大陸でいえば唐の時代で、まだ椅子に座る習慣はない。
この中庭に面した「美人欄」は往来から人にのぞかれることはない。座りながら琵琶も弾けるし笛も吹く。明清のころの都会の中流以上の家庭では”纏足”が当たり前だった昔、立っている姿勢というのは女性にとって楽ではなかった、ということは思い返す必要があるだろう。
あいにくこの日は気温も低く、曇天である。たとえば暖かい季節の月の明るい晩などに、この「飛来椅」に座ってみたいものである。
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方形の回廊の一辺の中ほどにある扉をカードキーで開ける。正面左右にトイレとシャワールームがある。そして左手右手にそれぞれ部屋があり、もう一枚のカードキーで入室するのである。右手の部屋が自分の部屋であったが、左手の部屋には若い二人連れがが宿泊しているようだ。
中庭を挟んで対面のちょうど同じ位置にも部屋がある。ほぼ東西南北対称に家屋が造られているようである。
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古民居であるから、当然広い部屋ではない。四畳半ほどの部屋には窓と反対側に頭を向けた広いベッドと、枕の頭上にエアコンが一台。ベッドわきに木製のサイドボード、廊下に面した窓の下には机と椅子が置かれている。いたって質素な部屋だが、かえって読書人の家を思わせる。
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いわゆる「明窓浄机」とはこのように窓のすぐそばに机が置かれる事で、室内照明などあまりなかった昔の家屋では、机はかならず明るい窓に面しておかれていたのである。
また道路がアスファルトで舗装されていなかった時代、屋外からはしばしば風に乗って粉塵が舞い込むものである。砂埃が硯に落ちては厄介であるから、硯と窓の間に「硯屏」が置かれることがある。江南はまだしも、北方の冬などは必須であろう。
日本のように縁側や濡縁を挟んで座敷に机を置く場合はさまでほこりは入り込まないから、硯屏の必要性は薄い。ゆえに単なる文房の装飾品と解釈している向きもあるが、大陸式の家屋や家具の構造を理解していればその必要性もわかるだろう。
また蓋ができる構造の硯があるのは、墨が蒸発することを防ぐと同時に、やはり砂埃を避けることが理由である。
前述のように椅子と机に座る習慣は北宋からで、これが徐々に広まり、筆書に向かう姿勢が変化する。これが筆の持ち方に作用し、ゆえに書体にも影響したのである。北宋の蘇軾が筆を寝かせる斜筆、ないしは偏筆なのは、蘇軾の故郷の四川省にはまだ椅子と机の習慣が浸透していなかったことを示唆している。
また床に置かれていた硯が次第に机の上に置かれるようになり、勢い小型化し、硯の高さも低くなるわけである。
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屋内の壁や梁は塗装をし直してあるが、故民居特有の曲線的に削り出された梁の形状が見て取れる。
塗料を塗ってしまっているのはもったいない気もするが、このように改修しながら観光用に利用されるからこそ、建物として残ってゆくのかもしれない。
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翌朝、格子窓を通して白い朝の光が差し込んでくる。この机で何か書き物でもしたいくらいであるが、文房用具はすべて上海に置いてきている。午前中はさらに紹興の街を散策の予定であるから、ほどほどに準備して宿を後にすることにする。
隣の部屋と共同のシャワーとトイレ、というのは民宿ならではである。しかしそういった点を気にしないのであれば宿賃もいたって廉価であるし、利用してみるのも一興であろう。すくなくとも紹興観光の拠点として、場所は非常にいい。
ただし夜間は12時の門限があるので、夜更けまで遊びたい向きは注意が必要であろう。しかし今の紹興は夜はひっそりと静かである。昔の、それこそ夜通しの喧噪がうそのようである。ちなみにこの宿にはテラスをしつらえたレストランカフェ&バーもあり、朝食から昼食、夕食もここでとることができる。
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とはいえさすがは古代から知られた銘酒の産地であり、地元の人でにぎわう酒と料理の店はある。その話題はまた稿を改めたい。





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2018年11月の揚州行

.......旅の風情とか街の情緒というものは、あるいは旅人の得手勝手、というようなところがあるのかもしれない。そこの住人にしてみれば不便きわまりないものであり、できれば近代的な利便性に置き換えたくて仕方がない、というようなものなのかもしれない。
京都の町屋や奈良の山奥の木造瓦葺の日本家屋が、外国人にどんどん買われている昨今なのである。日本の、特に若い世代にとっては不便に思える家屋であっても、文化の違う外国人の目からすれば、修復保善に多少の苦労をしつつも所有したい、住みたいと思える何かがあるのだろう。

幾度か訪れてる揚州は、江南地方で古い都の風情を今に残す数少ない街である。江南の都というと蘇州・杭州を想起する日本人は多いと思われるが、杭州の西湖周辺も近代的なテーマパークのような整備にあって、交通渋滞をぬってまで行きたいとおもわせるような何かがない。強いて言えば蘇州はまだしも、なのであるが、それでも”蘇州駅”を中心に、だいぶん様変わりしてしまっている。

揚州に行くには上海から直通三時間のバスか、鎮江まで高速鉄道で行き、鎮江からバスかタクシーで行くのが通例であった。列車の駅があるにはあるが、南京を経由しなければならず、本数も少ないので利用したことがない。今年になってようやく高速鉄道が開通した。揚州は兄弟のように隣接する江都に広範な工業地帯があるにはある。しかし江南屈指の古都にして、大陸の高度成長には完全に乗り遅れた格好である。
そのおかげもあってか、揚州の旧市街地は初めて揚州を訪れた20年近く前とあまり変わっていないような雰囲気がある。もちろん商店は入れ替わり、変わるところは変わったのであるが、旧市街は大略は変わっていない様子がある。
巨大な鉄筋コンクリート建築や、郊外に層層と林立する無人の高層マンション群が織りなす人造の前衛山水画にいささか目が疲れを覚えるころ、歩きたくなるのが古い町並みなのである。

さて、令和に年号が代わってからは、諸事情あって残念なことに大陸には渡航できていない。以下は昨年の11月の揚州行の模様である。上海から蘇州を経由し、蘇州市街で若干の要件を果たした後、揚州へ向かう。揚州で一泊して翌日要件を片付け上海へ戻るという、ごく短い旅程である。

蘇州までは上海から高速鉄道で移動したが、蘇州から揚州へは今回は車である。同行してくれた上海のD君が、”滴滴”という配車アプリによって車を手配してくれるのである。
この日の蘇州は晩秋の冷たい細雨。そろそろ夕闇が迫ろうかという時候、獅子林近くの人民路に面したコンビニエンスストアのイートインスペースで、D君がアプリを使って車を探すことしばし。運よく蘇州から揚州へ帰る車が見つかった。
現れたのは江南の地方都市に多い、フォルクスワーゲンの黒いセダンである。私とD君をピックアップした後、蘇州旧市街のはずれでもう一人の客を待つことさらに暫時。蘇州の大学に通う揚州出身の女子学生を一名助手席に乗せ、揚州へ向かったのである。
案の定というべきか、この日の揚州への高速道路の車の流れはあまりよろしくない。急速に整備された大陸の高速道路網であるが、大陸有数の人口密集地帯を南北に移動する車両の数量を考えればドイツのアウトバーンよろしく8車線位にするべきところを、規格の上では日本の高速道路を模したかのような車線と道幅であるから、曜日時間帯によっては渋滞は避けられない。ひとつには昔の日本でもやっていた、車線変更で前を追い抜く車が多いのである。それが全体の車の流れを悪くする一因でもある。
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D君は上海の出身であるが、江蘇の方言も話すことができる。完全なる蘇州弁、揚州弁というわけではないが、曰く上海語を横滑りさせると近い雰囲気に聞こえるのだそうだ。大阪弁ならぬ関西弁、というところなのかもしれない。D君曰く、なるべく方言に近い発音で話した方がいい、ということである。それはそういうものだろう。

日本では無許可の個人が旅客を運ぶ、いわゆる”白タク”行為は禁止されているが、そもそも日本はタクシーが過剰なくらい多い、という前提がある。大陸はどこの都市もタクシー業界は台数が規制されていて、正規のタクシーはまったく足りないのである。それで従来から白タク行為が横行していたのであるが、配車アプリが公認されることで堂々と、かつ効率的に白タク経営が可能になった、という事情がある。
そうは言っても、見ず知らずの運転手に頼っての長距離移動であるから、運転手と親しんでおくに越したことはないのである。
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日没の車窓から広大な江蘇の田園を眺めると、田畑や水濠や一叢の木立のかなたに。一群の鼠色の高層マンションが現れては遠ざかる。車のヘッドライトが点灯し始めたほどにあたりは暗くなってきているが、みえるマンションの一棟一棟、夕もやの中に暗くたたずんでいるだけである。
建設途中のマンションの上部には、さまざまな角度で首をかたむけた巨大な水鳥のくちばしのようなクレーンが数基、静止している。それは聳え立つ岩峰のいただきに根づいた松が蓋を傾けているようでもあり、これが現代の大陸の”江南高楼図”ということなのかもしれない。

レーニンの時代『社会主義とは全国の電化である』というスローガンがあった。1972年にソ連で製作された『電化を進めよ』という短編アニメーション映画がある。
現代の中国を見る限り『社会主義とは全国を高層マンションで覆いつくすこと』ということなのかもしれない。確かに大陸は慢性的な住宅不足の時代がかつてあった。それが解消され、あまつさえ過剰な現在の様相を呈するようになったのは、鉄筋建築工法とエレベーターの国産化によるところが大きいのである。
近現代史において、もっとも経済に影響を及ぼした科学技術は自動車でも電気でもなく、鉄筋建築工法ではないか?と最近は考えている。鉄と石灰、砂でもって無尽蔵かつ急速に資産を増やせる建築法は、どこか人間の理性を集団的に麻痺させ、狂わせる何かがあるのだろうか。

ともあれ、揚州についたときは時計は20時を回っていた。まず旧市街から外れた揚州郊外の住宅街で女子学生を下ろし、揚州市街地へ向かう。この日の宿はD君が手配してくれた”東関街”の路地にある一軒の民泊である。
東関街は、その名の通り揚州旧市街の東門から街の中心に向かって伸びる通りに面して展開する商店の多い街並みである。東関街を東に、昔の城壁を抜けたあたりに昔の揚州の東門があり、その先には運河と船着き場もある。この揚州の運河は一方では市街に続き、一方では長江にまで連絡している。江南地方はその昔は水路伝いに主要な都市を行き来できたわけであるが、その名残をとどめているというわけである。
以前に『唐解元一笑姻緣』の解釈を試みたが、蘇州で秋香を見初めた唐解元が無錫まで船で跡を追いかけ、城門近くで船を降りる場面があった。このような場所は江南の都市のそれぞれに存在したのだろう。

もちろんのこと東関街も東門も多分には観光地化を目的に再建された姿なのであるが、古い建築材料を使うなど工夫を凝らしているためか、それなりに良い塩梅に古色を帯びた風情がある。
通りから垂直に枝分かれする路地が”小巷”ということになるが、迷路のように入り組んだ路地の中の民家で最近民泊を開業する家が多いのである。
東関街には自動車を乗り入れることはできないから、東関街とほぼ平行に走る文昌中路の皮市街付近で車を降り、東関街の裏側から路地に入る。
東西南北に道路が交錯するのが大陸の都市構造の基本である。区々たる”小巷”とて計画当初、大略は東西碁盤の目のように整備されたはずなのであるが、それが長い年月で敷地権なり所有権なりの交代を経、消滅する道もあり新たに通り抜け可能な道もできるといった具合で、結果的に迷路のようになってしまうのである。
11月の揚州は気温もすでに低い。小巷の小路や家々の”磚”や漆喰にまでしみこんだ冷気が左右足元から迫るところを、小さなスーツケースの車輪をガラガラと響かせながら、目的の家まで急ぐ。
”磚”すなわち青いレンガを敷き詰めた路地をぐるぐると廻り、民泊の小さな看板を掲げた一件の民家にたどり着く。
古民家を外から見ると”磚”と漆喰、それに瓦といった無機質で単調な色彩が印象に残るものだが、この民家の建物の内部は木材が多用され有機的で色調も暖かい。外界と対蹠的な雰囲気である。
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しばしそこの女主人とD君が話をしていたが、話がかみ合わない。どうも宿の場所を間違えたようである。気を取り直してあらためて女主人から目的の宿の場所を教えてもらい、そこへ向かう。初めの宿からいくたりかの辻々をまがり、ようやく今宵の宿にたどり着く。
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時間が遅いためか扉には閂がかけられている。
先ほどの「客桟」よりも、より普通の民家に近い格好である。
大陸のホテルは「酒店」「飯店」「賓館」という。大規模な国営ホテルは「酒店」ないしは「大酒店」、やや規模の小さなホテルが「飯店」「賓館」というように、ホテルの規模によって呼び名が分類されるという話もあるが、現在はあまり関係ないような印象である。そこへ民泊は多く「何々客桟」というような呼称を用いるところが多い。「客桟」は時代劇で使われる単語である。
予約された二部屋のうち、D君は一階、私は二階の部屋と決まった。一階の玄関すぐの広間から狭いらせん状の木の階段を上って二階に上がると、民家らしく人ひとりが通れるくらいの、左手に画欄、右手に画額の迫った短い廊下があり、その奥に今宵の寝床の部屋がある。6畳ほどの部屋は広いベッドが占有している。1畳ほどの空間をガラス戸で仕切ってシャワールームがしつらえられている。この設備は客桟のために新たに設置されたものだろう。
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揚州は夜が早い。少し正確に言えば早くなった。大陸の経済が沸騰していた以前は、夜半まで料理屋の明かりがついていたもので、それでも足りなければ市街のいたるところ路傍で屋台が盛んに炊煙をあげていたものである。
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民泊の家人に近郊の店を教えてもらう。ここは地元の人しか行かないような小さな店であるが、一通りの揚州料理が提供されている。地元の人が家族で行くようなお店というのはたいていは一皿の量が多いのであるが、はたしてこのお店もそうであった。
こうした地元の人が来る料理屋というのはラストオーダーの時間も閉店時間も曖昧で、顔なじみの近所の人が家族で宴会をしていれば、彼らが引き上げるまで閉店時間は延長される。我々が店に入った9時過ぎは、そろそろ終わりという時刻だったようなのだが、まだ2〜3の宴席が残っていて、しかしそれもそろそろお開きに近いのであろうか、食後の歓談が続いている風情である。店の人は快く空いたテーブルに案内してくれた。
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ここで定番の揚州炒飯、獅子頭、蟹黄湯干絲、蟹黄豆腐、それに魚香肉絲....は久しぶりにせよ、二人の人数にしては少し注文し過ぎだったかもしれない。D君に言わせると獅子頭が淡泊すぎるとか、揚州炒飯がここは正宗ではない、というのであるが、総じて味は悪くない。揚州料理は総じて薄味で、油脂も控えめなので量が食べられるのである。王朝時代、何日も宴会が続くような繁華な大都会の料理というのは薄味淡泊で、消化がいいように作られているのである。たとえば揚州名物の「獅子頭」は豚の脂身をたっぷり肉餡に練りこんでいるのだが、時間をかけて蒸しあげてはわざわざ脂を抜くのである。
ともあれほどほど食べ過ぎたところで店を後にする。
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恒例になりつつあるが、皮市街(ぴー・すー・じえ)で少しお茶を飲んでいこうということになり「皮市街」へ足を向けると、どことなく通りが暗い。10時近い時刻であるが、店の明かりがまばらである。
なんどか訪れている「浮世記」に行こうとおもったのであるが、文昌中路から皮市街に入り、まっすぐあるいて右手に見えてくるはずの「浮世記」が見当たらない。皮市街中ほどを過ぎておかしいと思い引き返すと、店はあったのだが今日はすでに店を閉めた後のようだ。記憶では11時くらいまで開いていたはずなのであるが。いささか残念である。
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そこで開いていたもう一軒のカフェに入った。明るいテラスを意識したようなインテリアに、観葉植物を多く置いている。Wifiを完備し、室温もほどよく調整されていて、外の冷気と世界を別にしている。何度か述べているが、江南の寒い季節に上着を脱いでくつろげる場所というのは、ホテルの自室以外ではあまりないのである。
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ここで私は自家製の果実酒、D君は珈琲を頼み、しばしの休憩である。果実酒は安徽の農村の酒屋で飲めるような、コケモモを度数の強い酒に漬けたほのかに甘い酒である。値段はどちらも30元くらいで、邦貨にして500円を超えない程度である。
メニューをみていると、この店は洋食を出すレストランカフェのようで、たとえば150gのステーキと羊のリブ・ロースト二本、チキンの手羽が二本というボリュームのあるセットがひとり158元である。もちろん、こういったお店で過ごすお値段というのは、揚州の一般的な消費の感覚からすれば高めであるが、ある程度の需要があるのだろう。
揚州の夜の街が最も繁華であった2008年〜2010年を想起すると、現在の揚州の夜は相当に静かである。東の空が白むころにようやく屋台が店じまいを始めるといった、あの夜更けの喧噪はいったいどこに行ってしまったのだろうか。
店の中には若干の若者がくつろいでいたが、全般に閑散としている。この店でD君と1時間ほど今後の事を相談し、店を出た。宿に帰ると門が閉まっていたのであるが、呼び鈴で帰宅を知らせると家人が開けてくれたのである。こうした民宿は門限があるので、帰宅時間と夜間外出には注意しなければならない。家人はほとんど寝静まっているようなので、我々も早々に自室に退散し、寝についた。
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翌朝。朝の白い窓から、晩秋の揚州の光が部屋に淡く滲みだしている。家屋が密集しているためか、窓に曇りガラスがはめ込まれているので、寝る前に厚手のカーテンを閉めなかった。せっかくなら朝の光で目を覚ましたかったからでもある。
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昨夜までの冷たい細雨からは案に反して、この季節の江南にしてもいささか珍しい、念入りに掃いたような青い空である。窓外の景観を鉄筋コンクリートの白い建物がふさいでいるのは致し方ないとして、手前にはここにあること幾星霜といった風情の、黒く薄い甍が魚のうろこのように重なっている。眼下には路面も壁も新旧のレンガに囲まれた路地が見える。伝統的には”青磚”、つまりは青灰色のレンガであるが、ところどころ他所から運ばれたのか赤いレンガが見えている。

話がそれるが、三島由紀夫の「文章読本」には、上手な文章の書き方の原則として「形容詞を多用しない」というものがある。形容詞というのは名詞にくらべて不安定で、時代や地域によって変化しやすいものだから、ということである。言い添えれば、形容詞の多い文章というのはたしかに主観的に偏った印象を受ける。何でも「美しい」では何が美しいかわからない。
「青い」や「赤い」のような色彩にかかわる形容詞も要注意で、たとえば大陸中国で「青い」といった場合は、かなり黒に近い色が想起される。日本人がイメージする「ブルー」は「藍」である。だから「青磚」といっても、ほとんど暗灰色のレンガである。墨に「青墨」があるが、いわゆる”ブルー”ではない。
三国志における「赤壁」の「赤」についても、「赤」が「レッド」を指すことは稀である。通常は「レッド」は「紅」である。「赤」は「赤子」ないしは「赤裸々」というように「むきだしの」という意味が原義であるから、赤壁というのは「あかい壁」ではなく、むき出しの河畔の岸壁の事なのではないだろうか.......話がそれた。
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部屋は民宿にする際に改装したのであろう、白い壁紙の壁面は新しいが、窓の木桟には時代のついたつやがにぶい光を放っている。墨色にも通じる話であるが、手沢にまみれた翳りを帯びた光は好ましいものである。大陸の都心というのは昔も今も人工物で囲まれており、地面が露出したところが少ない。その隙間隙間に工夫を凝らして住人が植物を植えこんでいる。
こういった民宿に逗留しながら2〜3日ゆっくり滞在したいところであるが、今日の夕方には上海に戻らなければならない。
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朝食はいつもの国慶路沿いの「五亭吟春茶社」へ。文思豆腐(10元)をふたつ、三丁包(3元)と五丁包(8元)を二つづつ、虾仁蒸餃(3.5元)をふたつ、小籠蟹黄湯包(15元)をひとつ、蟹黄獅子頭(15元)ふたつ、を注文する。このお店もわずかづつであるが値段が上がっていて、数年前は1.5元だった三丁包が3元に上がっている。しかし湯干絲の小皿が6元、普通の小籠湯包(五個)が8元、あるいは麺とスープだけの陽春麺が4元というのは、物価高騰の著しい江南にあってはまだしも穏やかな方である。
”蟹黄”はこの季節が旬である淡水の蟹肉と蟹味噌を肉の餡に混ぜたもので、普通の湯包や獅子頭(肉団子)より少し値が張るがたまにしか来られないのでいいだろう。この店は観光客にも有名になってしまったのであるが、地元の人にとっては依然として忙しい朝に朝食をとったり、包子をテイクアウトして職場に向かう店なのである。

朝食後、午前中に用件を済ませると、少し空いた時間を使って揚州文物商店をひやかす。揚州文物商店は、硯の売り場が大きく縮小し、ながらく二階にあったの硯のショーケースが書画とともに1階に移ってきている。むろん、買おうと思うモノには出会えないし、相場もずっと高くなってしまっている。
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ついで文物商店から程近い、銀杏の巨木が色づいた天寧寺の骨董街の散策で過ごすことにする。昔は地方都市の骨董街は上海の骨董街よりずっと安かったのであるが、今や情報化によって相場が変わらなくなってしまっている。高い家賃を払って古玩城(骨董ビル)に店を構える業者も減り、インターネットでの取引をもっぱらとする方が主流なのである。ここでもモノを買うというよりは、秋の天寧寺の境内散策と合わせて、骨董街をのぞいてみる、くらいの趣向である。
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そこで骨董ではないが、なかなかよく焼けた釣窯のティーセットが一式売られていた。価格は50元と破格である。どこかに瑕疵があるのだろうが、普段使いには申し分ない格好である。とはいえ、釉薬には発色のため鉛や重金属が使用されている可能性がある。
釣窯は基本的に酸化銅、酸化チタン、酸化錫などが使用される金属であるが、発色の隠し味に何を使用しているかは定かではない。使用にあたっては注意が必要である.....と思いながら買ってしまう。怖いのは鉛であるが、たまに酒器につかうくらいは大丈夫であろう。

その後軽く昼食をとり、やはり”滴滴”で車を探す。今度はなんと上海まで帰る車が見つかったということで、一息に上海に戻ったのである。帰途は車中で眠りっぱなしであったので、取り立てて書くべきことがない。それにしても手軽になったものであるが、滴滴を使うには現地の携帯電話番号を持ち、決済の口座がないと利用することができない。その点、改善してほしいところでもあるが、当局者としてはトラブルの発生を考えると、外国人にはあまり利用してもらいたくないのかもしれない。
ともあれ今回もD君には感謝感謝、である。
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揚州文物商店の硯

......揚州に行った際に、天寧寺近くの文物商店に立ち寄った。天寧寺は昔は揚州市博物館があった場所であるが、現在は博物館は郊外に移転している。その代わり、境内には古玩店が軒を連ねている。
大陸の博物館の近くというのは、場所柄、昔から骨董街になっている場合が多く、国営の文物商店もおおむねそこに位置しているものであった。しかし近年、新設の博物館が建設されるに及び、博物館と骨董街の位置関係も変わってきている。
この揚州の文物商店は、はじめて揚州を訪れた十数年前にもこの場所にあったものである。以来、行くたびに少しのぞいてはいるが、買った記憶があまりない。

ここの文物商店、硯や書画は長いこと二階にあったように記憶している。ところが今回、これらが1階に並べられている。また、硯と扇面などの小さめの書画の数量がだいぶん減っているようだ。
話を聞くと、北京から来た人が大量に硯や書画を買っていった、という事だ。むろん、一度にまとめ買いしたという事は、つけている値段よりもいくらか値引きをさせたのであろう。しかしこの数年間、揚州の文物商店では、少なくとも硯にはみるべきものがあったかどうか。
現在に限らないが、ここの硯や印材は”いい値段”をつけている。ザッと見ても数千元から数万元である。ちょっとした大きさの端溪硯が1万元を超えている。値札に10万、とある大硯が目に入る。10万円、ではなく、10万元、である。1元およそ17円で計算できるところだろうか。ここで数千元程度の硯は、十数年前であれば数百元がせいぜいのレベルである。まったく、資産インフレとは恐ろしいものである。

物価の高騰は仕方ないとしても、数千元、邦貨にして数万〜十数万円するのであれば、端溪であればせめて新老坑であってほしいものである。しかし、一見して老坑の端にもかかりそうな硯はただのひとつもない。歙州硯はまだしもとしても、端溪硯は端溪も怪しいような硯ばかりである。端溪石のような、紫ないしは赤味のかかった硯石というのは福州石や金沙江も含めて幾種類かある。それが粗悪な墨で黒ずんでいると、一見、端溪に見えない事も無いのである。こういった硯は、使い物になればまだいいのであるが、硯石としての性能もがっかりすることが多い。
無論、どういった硯が良いかというのはもちろん人の好みであろうけれど、それにしても、たしかにこの程度の硯がこの値段であれば、硯、特に端溪硯は日本で探したほうがはるかに安価である、とは言えるだろう。業者目線で逆に考えると、日本で硯を販売する事を考えた場合、大陸ではもはや仕入れにならない、という事でもある。作硯家に依頼すれば、新硯であっても古硯より高いくらいである。

日本のインターネットのオークションでも最近は端溪硯が多く出ているようで、中には老坑ないしは新老坑であろう硯も散見される。しかし困ったことに、老坑でない硯も老坑のような顔で出品されている、という実情がある。
実のところ(新)老坑か否かの弁別は、骨董を少し扱った程度の経験では十分に出来ないものなのであるが、その辺は等閑視されているようである。なので老坑であればたしかに割安かもしれないけれど、老坑でなければ高い買い物、のようなのが多いのが現状なのである。たまにこれは老坑ですか?という質問が来ることもあるのだが「実物をみないとわかりません。」と答えることにしている。老坑でない、という事までは写真だけでもかなりの確度で判別する自信はある。しかし確実に老坑ないし新老坑か?という事になると、それなりに高い値段がついているし、責任は取りかねる、というところである。

端渓硯の高騰ぶりを確認されるのであれば、揚州までいかなくても、上海に行く機会があれば南京東路の朶雲軒や福州路沿いの古玩城をご覧になっても良いかもしれない。北京は久しく見ていないが、値付けはそれ以上だという。もっとも、その価格で品物が動いているかどうかまではわからない。実際問題、大陸では今回はっきり「不景気」という言葉を耳にするようになった。しかし大陸の不動産の価格もそうであるが、しばし売れていないからと言って、値札を簡単に付け替えないのである。

これから値段があがるので、買うなら今のうちですよ、という事はあまり言いたくないものである。ただ、年々仕入れが厳しくなっている現実は、ご紹介する必要があると考えている。筆の価格などは、今までの筆匠の工賃が安すぎたという事もあり、致し方ない面もある。しかし、文房四寶全般の高騰は、おおむね大陸の資産インフレに引っ張られている面がある。当面継続するのかもしれない。
揚州文物商店や天寧寺の骨董街は、のぞいてみる分には面白いかもしれないが、ちょっと掘り出し物を、というわけにはいかないくらいの値段がついている。昔は地方都市の骨董街は、たとえば北京や上海あたりの古玩城と比べれば、比較的安価なものであった。情報化の影響であろうか、大都市と地方都市でも、骨董の相場はさまで変わらなくなってしまった。当面、硯などは日本で探すのが無難なのかもしれない。
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深圳のシェアハウス

.......商用の渡航の事であるから、泊まる場所の贅沢はしない。大陸の大半の宿の場合、部屋の広さは問題ない。あとは清潔で空調が機能していれば、快適に過ごせるものである。

深圳は宝安空港にほど近い、地下鉄1号線の直上のマンションに、朋友のS小姐とその家族が住んでいる。いつもはそこからほど近い、簡素なビジネスホテルを手配してもらっていたのである。週末を除けば一泊200元前後のそのホテルでの滞在に過不足はなく、充分満足していた。しかし今回、S小姐曰く「あのホテルは往来や車道の音がうるさいであろうから、もう少し静かな場所の部屋を探した。」という。むろん、閑静なのは結構なことである。
こうして紹介されたのが、個人が宿泊用に所有する部屋を滞在者に貸し出している、いわゆる”民泊”のような宿なのであった。

大陸の民泊制度については詳しくないのであるが、はたして外国人が泊まることが出来るのであろうか?正規のホテルであっても、認可がおりていなくて、外国人の宿泊は出来ないホテルというのが稀に存在するものである。
また、だいぶ昔に聞いた話であるが、個人宅に外国籍の者を泊める場合、公安に届け出が必要という制度があったはずである。これなどは「外国のスパイかもしれない。」という、古い時代の名残の制度なのだろうが、それが改まったという話も聞かない。ともあれ、小生がどこどこへ泊るか、泊まったかなどは、入出国の際にも聞かれることなどないのではあるけれど。

個人で貿易会社を営むS小姐は、華為(ファー・ウェイ)に勤める夫と1歳の男の子、また四姉妹の末の妹と一緒に住んでいる。そこへ時折、子育ての手伝いに湖北省の彼女の実家の両親が滞在することがある。
一家の部屋は、大陸の標準としては若干小ぶりな、広さ70平米くらい部屋である。姉と同じく会社を経営する”やり手”の妹は、少し長い休暇をとって、明日からチベットに旅行に行くという。なので2泊目以降、その部屋に泊っていっても良いともいう。せっかくの申し出であるが、商用の旅のことで仕事もするし、やはりそこは朝夕の支度の気兼ねもするものである。
そういうわけで今回手配してくれた部屋というのが、S小姐一家の住むマンションと同じ一群にある28階建ての高層マンションの一室の、そのまた一室、ということなのであった。
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10月の広東はまだ蒸し暑い。香港から高速鉄道に乗ってボーダーのある羅湖に移動し、出入国を済ませてから深圳駅の地下に降り、そこから地下鉄1号線に乗る。この深圳で一番最初にできた、羅湖と宝安国際空港を結ぶ地下鉄の、ほぼ端から端まで移動することになる。
9月に広州湾に侵入した猛烈な台風は、深圳にも相当な被害をもたらしたようだ。無数の気根が垂れ下がる街路のガジュマルやヤシの傷も、まだ完全には回復しきっていない。

宝安空港から数駅手前の駅で降りてから、S小姐の住んでいるマンションに連なる、ショッピングセンターに入る。地下鉄直結のショッピングセンターにつらなる高層マンションは、むろんこのあたりでも屈指の好物件といえるだろう。ショッピングセンターが提供する無料のWiFiに接続し、微信でS小姐に連絡を取ると「まずウチに来なさい、それから案内する。」という。
スーツケースを引っ張ってS小姐の家にたどり着くと、S小姐と1歳になる長男、それに料理の最中の家政婦さんがいた。家政婦さんに家事の一部を委託するのは、共稼ぎの大陸では珍しいことではない。この季節の果物”龍眼”を少しつまんで少し寛いだ後、今夜の宿に案内される。
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S小姐の一家は、地上8階に住んでいる。8階のその部屋からまずエレベータで4階に移動するのである。エレベーターを降りると、厚いガラスに囲まれた明るいエントランスに出る。しかしセキュリティ・カードが無いとここからは出られない。S小姐の持つカードをかざして開錠し、ガラス張りの重いドアを押し開ける。すると熱帯の樹木や草花が植えられた、空中の広場に出る。この広場が一群のマンションを、相互に連絡しているのである。
温室公園の中を進むように、中心の植樹をめぐる道を左回りに進むと、広場を囲むマンションのエントランスが次々に現れる。何番目かの、やはりガラス張りのエントランスの前で立ち止まる。ここで再びセキュリティー・カードで開錠し、中に入る。二基のエレベーターがあり、このエレベータで1階を指定すると、やはりマンション群に囲まれた、先ほどの空中庭園よりも大きな広場に降り立つのである。その広場の小径を経由し、とあるマンションの前にいたる............もうここにいたる過程で、夜になったらひとりで帰る自信がゆらぎはじめている。
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民泊のあるマンションのエントランスは、S小姐が持っているセキュリティ・カードでは開かない。インターフォンのタッチパネルを操作し、26階の所定の部屋番号を指定し、住人を呼び出すのである............正直なところその煩瑣なこと、これなら以前のホテルで良かったと、後悔しかけたものである。
ともあれタッチパネルのインターフォンで部屋の住人を呼び出し、エントランスを開けてもらう。エレベーターで26階に上がったところの一室が、今夜の宿泊場所、というわけであった。部屋の玄関のドアは開け放たれていろ。大陸のマンションによくある構造であるが、玄関を入ってすぐが応接間を兼ねたリビングである。ここで靴を室内履きのサンダルに履き替えるのは、昔はなかった最近の大陸の習慣である。S小姐と小生の姿を認めると、中からひとりの女性が出迎えに出てきた。
年のころは30歳になるかならないかだろうか、肩下までの髪にノースリーブの短い紺のシャツ、褐色のサルエルといった、いたって楽な部屋着のようないでたちのこの女性は、この部屋のオーナーなのだという。彼女は同じマンションの別の部屋に住んでいるそうだ。このマンション群にすくなくとも二つの物件を有するということは、若くしてちょっとした資産家ということでもある。

しかしこの部屋、小生だけが泊まるわけではなさそうである。ざっとみたところ、3〜4人の男女が、既に相当期間ここで生活しているという。たしかに、こなれた生活感がある。
物件の広さはS小姐一家の部屋よりも広く、部屋数から察するに、大陸の標準的サイズといわれる100平米はありそうである。リビングの天井は3mを超えるだろうか。キャンドルを模したLEDのシャンデリアが下がっている。4年前に買ったS小姐の部屋は、今では倍に値が上がり、邦貨にして1億円は超えていえる。同じマンション群のこの部屋も、おそらくは相当な価格であろう。その部屋のオーナーが若い女性というのは.........現代の深圳では、実のところ珍しい話ではないのである。

リビングには男性が2名、女性が1名。ずれも仕事をはじめて数年といった年のころであろうか。とくに当方らに関心を示すでもなく、ソファでノートパソコンやスマートフォンに視線を落とし、ヘッドフォンをかけるなどして思い思いに寛いでいる様子である。リビングとダイニング、キッチン、バス・トイレは共有スペースで、あとは各自の部屋があるようだ。
リビングを通った奥、小生が泊まる部屋に通された。
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部屋の家具としてはダブルサイズのベッドがひとつ。柔らかすぎる枕は仕方がないが、スプリングがしごく硬いのは悪くない。青い色柄のシーツがいかにも民泊である。ベッドに向かって、ハンガーがかかった物干しがある。大陸のマンションはベランダがあまり広くないので、屋内でも洗濯物をよく干すのである。
広い窓際には床の間を高くしたようなスペースが設けられ、小さなテーブルに向かい合った座椅子が置かれている。ここは外を眺めながら、お茶を飲むなどして寛ぐスペースであり、大陸のマンションではよく目にする部屋のつくりである。深圳に限らず、中国のマンションにはベランダが設けられていることが少ないのであるが、その代わりであろうか。
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巨大な姿見の右奥に、個別のシャワールームとトイレがある。この部屋だけ、バス・トイレが別途用意されている。このマンションの一室が、もともと一世帯が住むことを前提に作られていたすれば、この部屋はさしずめゲスト・ルーム、という事であろう。
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住人の男性のひとりは、シャツの上からもそれとわかるようなしごく筋肉質な体格である。両脇の髪を短くカットし、鼻梁が通り、なかなかに端正な顔立ちである。後で聞いた話では、彼は深圳航空の男性客室乗務員、という事であった。大陸の航空会社で、男性の客室乗務員は珍しくない。かならず1名は搭乗しているのである。体を鍛えているのは、機上での不測の事態に備えるためであろう。
女性は長い髪を無造作に束ね、黒のレギンズにフィットネスシャツという格好。長身で細身であるが、よく体を鍛えているのが見て取れる。ひとり掛けのソファに、しなやかに体を丸めて納まっている様が、ネコ科の肉食獣を思わせる。先の男性と同業?あるいは熱心にトレーニング・ジムにでも通っているのかと思ったら、これも後で聞いた話では近くの富裕層向けフィットネスクラブのインストラクターなのだという。
部屋の隅にはダンベルが転がっており、テーブルの上にはハンドグリップが置かれている。筋肉トレーニングの教則本のような本もおいてある............こうしたツールはフィットネスインストラクターの女性が使うのか、あるいは客室乗務員の男性が使うのだろうか。プライベートでも鍛錬に余念がない、といった雰囲気である。
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もうひとりの男性は、やや小太りで........実際はそれほど太っていなかったかもしれないが、他の二人とちがって、肉体を鍛錬している形跡がないのでそう感じた.............シャツに短パン、黒縁のメガネをかけて、ノートパソコンでなにやら熱心に作業中である。日系企業に勤めている、という。彼は日本語が少しできるので、わからない事があれば聞くと良い、とオーナーには言われたのであるが、残念ながら彼ともほとんど会話をする機会が無かった。
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リビングの家具の上にも、めいめいの私物が置かれているのだが、共有スペースのこのような利用の仕方には、きっと暗黙のルールが存在するのだろう。共用のバス・トイレのほかに、小生の部屋だけ個別のバス・トイレがある。誰も泊まる者が無い場合は、住人たちが使っているらしい。短期滞在者がいると、少し不便を感じるかもしれない。
共有のWifiがあるが、小生の泊まる部屋はドアを閉めると電波が遮断されてしまうというので、モバイル・ルーターを貸してくれた。S小姐は、少し休んでから食事に来いといって、自宅に戻っていった。
10月の深圳はまだ蒸し暑い。シャワーを浴びてから、少し休憩し、S小姐の家に向かう。部屋を出る時、リビングにはまだ部屋のオーナーがいた。住人たちとなにやら寛いでいたが、年恰好は近い感じであるから、仲良くなるのだろう。しかし若くしてほぼ同世代の大家さん、という境遇の違いは............気にしても仕方ないのだろう。
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こういったシェアハウスでは、互いに過度に干渉しないのがおそらくマナーというものであろう。特に短期滞在の小生に関心を払うでもなかったわけであるが、不親切ということはなく、洗濯機がどこか?とか、冷蔵庫を使ってもいいか?と尋ねたときはこころよく案内してくれたものである。
むろん短期滞在の事であるし、彼等のプライベートを詮索するのもどうか?というところである。実のところ昼間は所用で目いっぱい出かけており、夜は毎晩、S小姐の家で食事をしていたし、夜は疲れて早めに寝たかった。結局のところ彼等と朝夕のあいさつ以上の交流するまでは至らなかったのである。
やや困ったのが部屋への出入りで、短期滞在者用のセキュリティ・カードの用意が無いのである。エントランス前でインターホンで呼び出してもなかなか開かない。S小姐の話では「部屋にはいつも誰かがいて、彼らはいつも夜遅くまで起きているので、夜の出入りも大丈夫です。」というのだが...........他の住人が入るのを待って、自動ドアをすり抜けることもしばしばであった。こういった行為は他の住人もよくしているので、とくに見とがめられることは無い。
出入りの不便さを除けば、高層階だけにたしかに静かで、なかなか快適な部屋であった。しかしS小姐曰く、おそらくこの部屋に泊まることは二度出来ないだろう、という。なぜなら、オーナーが短期滞在に供していたこの一室は、小生の退去を待って、他の住人が1年契約で住むのだという。最終日、リビングには越してくる住人の所有であろう荷物が積まれていた。
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実際のところ、大都市ではこうしたシェアハウスに住んでいる若者は非常に多いのである。S小姐も、結婚前は妹と従兄弟、時に知人の女性と部屋を共同で借り、シェアして住んでいたのである。後に借りていた部屋を買い取って、新婚の新居としたのであるが、ちょっと無理して買い取ったのは、家賃が半年で月に1000元単位であがるからでもあった。その部屋の価格も今や倍以上である。
このS小姐一家の隣の部屋もシェアハウスで、一か月7000元の家賃を7人でシェアしているという。
小生のとまった民泊は、シェアハウスとはいえ、高級タワーマンションの一室ではあるし、ここに住める彼らは比較的恵まれた方であるともいえる。単身者の住まいとして、引け目を感じることも無いであろう。
しかし、である。仮に1億を超える物件の賃料がひと月7000元(≒12万円弱)というのはどうであろう?投資リターンにして1.5%である.......それでも月に1000元の家賃を払える若者は、まだ恵まれているのである。20代で1万元以上の収入を得る人も少なくは無いが、将来的な支出、とくに不動産購入に備えた貯蓄まで考えると.....とても足りないのである。

一説には、大陸には35億部屋のマンションの在庫があるという。いやそれは誇張で、35億部屋ではなく、35億人が生活できる空き部屋、だともいう。小生が知る限り、もっとも控えめな数字では3億部屋の在庫、である。4人で住んでもやはり12億人分くらいの空き部屋が控えている、という計算になる。この種の統計がいつも怪しげで不確かなのは、そもそも不動産登記がキチンと行われてないからである。不動産登記が曖昧で済むのは、不動産にかかる固定資産税が無いからでもある。固定資産税が無いからこそ、高騰する物件もいつまでも保持できるのであるが、それが不動産価格が高止まりする要因にもなっている。
先日のBloombergの記事。四川省成都は西南財経大学の甘犁教授が試算したところによると、中国の都市部の空家率は22%で、ざっと5000万戸の空家があると。東京都の空家率が11%、という事を考えるとたしかに高い数字だが、直感的にかなり控えめな数字であるとの印象は否めない。
そもそも中国の「都市部」の範囲がどこからどこまでなのか?がわからないが、東京の多摩ニュータウンや大阪の千里ニュータウンにくらべて面積も数倍、マンションも高層といった、空家の巨大高層マンション群の数々をみてきている者からすると、空家は少なくとも億単位、と考えたくなる。

ともあれ大量の不動産の在庫がありながら、それに手が届かない若者や庶民が大勢いるのである.......彼らは仕事の能力がないのではなく、ほんの少し生まれるのが、社会に出るのが遅かっただけなのだ。この種の矛盾は、深圳のおとなり香港でも、より先鋭化した形で見ることが出来る。とどのつまり、資産インフレというのは、先に生まれた世代が得をするだけの世界なのかもしれない.............
大陸でシェアハウスが流行しているいまひとつの事情は、経済的事情もさることながら、もともと単身者用のワンルーム・マンションが少ない、という事もある。単身者に向いたような小さな部屋のワンルームマンションが造られないのは、家賃収入よりも不動産の値騰がりによる利益がはるかに大きいからであろう.........さらにいえば、意外に大陸の若者は共同生活を苦にしない、という事だ。逆に一人は寂しいのだという。確かに、朝はともかく、夜にひとりで食事している若い人というのはあまり見ないものなのだ。そういう意味では欧米でも”ルーム・メイト”という存在は珍しくないから、シェアハウスが流行語になった日本の方が少し変わっているのかもしれない。

さて、帰国前日の深圳最終日。香港にもどる朝は、皆出かけていったのか、リビングにも誰もいなかった。もう少し交流する時間があれば、微信を交換するなどして、夜間の出入りも楽になっていたかもしれない。いかんせん、商用の旅である...........しかし思い起こせば、少し不思議な取り合わせの住人たちであった。..........彼等はそれぞれ昼間の仕事をしながらも、イザというときは一致団結して巨悪と戦うのかもしれない。筋肉質の男女は武闘派、眼鏡のエンジニアはハッキングか武器開発が担当かもしれない。そして部屋のオーナーの美女がスポンサー........などという埒もない事を少し考えながら、重たくなったスーツケースを引きずりつつ、マンションを後にした。
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豪雨・欠航

.......少し前の話題。2017年9月の渡航で、帰国の前日。泊まっていたのはいつもの上海浦東新区である。その一帯が夜半近くから、時ならぬ驟雨に見舞われた。
ちょうど腹ごなしに、宿泊先付近をひとりで散策していた時であった。空模様を油断していただけなのであるが、丸腰である。とはいえ、仮に傘などを持っていたとしてもまるで役に立たぬ雨勢である。上海旧市街とは違い、浦東新区はすぐに駆け込めるような店舗はあまりない。このようなときに、タクシーなど全然捕まらない。手を挙げていてもアッサリと素通りされる。幸い、深夜まで空いていたカフェがあった。そこに駆け込んで暫時雨宿りである........しかし雨は強弱緩急をつけながらも降りやまない。閃光がまたたき、雷鳴が轟く......
コーヒーが空になったところで、就寝が遅れるのもどうかと考え直し、若干雨音が弱まったスキに店を出た。雷雨特有の冷たい雨ではあるが、このときは例年になく暑い9月で、多少濡れても寒いということは無い。とはいえ歩き出してしばらくすると、再び雨脚が強くなる。もともと人口密度の低い上海郊外の浦東地区であるが、この深夜の豪雨で無人の街のようである。
道路はたちまち小川のような流れにかわる。うっかり流れに足をいれて、排水溝などの深みにはまると危険である。十字路の、側道の交わるあたりは、浅瀬なのか淵なのか、深さが見当もつかない。矢玉のような雨がたたきにたたいて白く水煙があがり、まるで煮えたぎった湯が流れているかのようである。LED街灯の無機質な白い光だけが、煌々と水の流れを照らしている。
全身濡れそぼりながらも、ようよう宿に帰ることができたのであるが、時刻は午前2時を回っていた。眠りにつきながらも、この雨で上海周辺の航路は大混乱に陥っていることが思いやられた。
翌日、帰国便は夕方6時の離陸予定である。雨はほそぼそと降り続いてはいるが、勢いはだいぶん弱まっている。友人が手配してくれた車で、定石どおりに離陸予定の2時間前に空港に到着する。が、果たして、というべきか、大幅な遅延である。チェックインカウンターで『出発は夜の11時30分』と案内される。むろん、空の便の混乱は自分が搭乗予定の便にとどまらず、浦東空港を利用する航空各社各便に及んでいるようだった。なので空港ロビーは便をまつ人々でごった返している。
後で知ったことであるが、昨夜の豪雨で上海の浦東、虹橋の両空港で数百便が遅延・欠航していた、という。今日はかろうじて離陸可能な状態のようであるが、昨夜欠航・遅延になった便の離陸が押しに押していて、今日の便も遅れに遅れている、という事である。雨は弱まったとはいえ、空港上空は厚い雲が覆い、離発着のコンディションは必ずしも良くは無いであろう。
チェックインは済ませたものの、このまま出国審査を済ませて、搭乗口に向かうべきか?と、ふと考えた。何度も利用したことのある浦東飛行場であるが、搭乗口周辺に時間をつぶせるような、手ごろな(気の利いた)店舗は乏しいのである。この時、多くの人が搭乗口で待たされているであろうから、混雑も予想される。充電できるような場所もあまりないから、パソコンを開いて仕事をするにしても不便である。いっその事であるが、空港を出て、近郊の適当なカフェなりで時間を待とうと考えた。
そこで空港の荷物預かり所に荷物を預け、地下鉄2号線で上海市街に向けて数駅戻った”川沙鎮”という街に向かったのである。
川沙鎮は、上海市街の喧騒に飽いたときに、時折訪れる小鎮である。上海旧市街からは距離があるが、宿泊している浦東からはほど近い。清朝の昔、上海周辺の水郷小鎮は富商一族で栄えていたのであるが、川沙鎮もそのひとつである。再建された楼閣が往時の繁栄をしのばせるが、今やこれと言った歴史文物があるわけではない。しかし上海市に属しながら、江蘇省の小さな田舎町のような雰囲気がある。以前は夜になると屋台が軒を連ねたり、骨董を売る露店などもあったのだが、ここ数年で屋台の取り締まりが厳しくなってからは姿を消している。

とはいえ、今や上海市内でも珍しくなった、昔ながらの湯包を売る店などもある。この徐盛昌湯包店は、いくつかの分店をもつ湯包店なのであるが、近年のシステム化が進んだチェーン展開の飲食店と違い、手作り感を残した店である。上海市街では、人手のかかる湯包店が次々に姿を消しているのであるが、川沙鎮はまだしも店舗の賃料なども安いのであろう。オーダーの仕方も、昔ながらのカウンターで先払い方式なのである。ここで軽く夕食をとることにして、湯包と三鮮砂鍋を頼んだ。砂鍋というのは、日本でいう土鍋の事で、粉丝(春雨)の入った小鍋料理である。蘇州周辺、江蘇省の湯包店や餛飩店ではたいてい供されている。簡単ながらも多少手の込んだ料理というのは、空港のカフェなどではまずお目にかからないのである。
食事を済ませて外に出ると、まだ雨が続いている。まだ離陸予定時刻にはたっぷりと時間がある。
川沙鎮には、瀟洒な雰囲気のBARやカフェなどが出来ている。駅から5分ほど歩いたところに、道路に面してテラスを出した(雨で座ることが出来ないが)水色のレストランカフェがあったので、そこで雨宿りがてら時間をつぶすことにしたのである。

こういった、大陸大都市に最近みられる西洋風のレストランカフェやBARというのは、資金に余裕のある人々が、自身の海外留学や海外赴任の経験をもとに、なかば趣味で経営している店が少なくない。この店も、輸入ビールやワインをメニューに載せているが、上海市内の......たとえば衝山路あたりの洒落たお店に比べると、ずっとリーズナブルなのである。
時間つぶしにビールと、フレンチフライを頼むことにする。瓶のビールにグラスを添えて持ってくる。ドイツ製のビールは良く冷えて本物であった。また、ほどなく運ばれてきたフレンチフライは黄色い山を成している。空調も寒からず暑からず、湿った衣服の身にはここちよい空気である。
川沙駅からしばらく歩くと、上海でも今流行りの”スーパー銭湯”と見受けられる建物が見える。ここで風呂にでも入りながら、駅へ行く時間を見図ろうと考えた。
ここの”スーパー銭湯”は、韓国資本と思しきこしらえをしており、目新しい思いがした。浴槽はまだ新しく清潔で、数種類のお湯が楽しめる。
ゆっくりと湯につかってから、休憩室で休んでいると、航空会社からメールが飛んできた。メールに曰く「出発は午前2時に延期になりました。」という事である......いかんともしがたい。中国語的に言えば、メイバンファ、没法子、である。夜2時に離陸という事であれば、夜の12時に空港に戻れば間に合う算段である。
この時点で、さらなる遅延が予想された。空港の商店も閉まっているであろうから、コンビニで水と若干の軽食を買い、タクシーに乗り込み、空港へ向かう。川沙鎮から空港までは30分くらいの距離である。
そこで再びチェックインカウンターに向かうと、のるべき便の航空会社のロゴが掲示されたカウンターには、乗客が列をなしている。ずいぶんと長い列である。しかしふと思うのは、皆、スーツケースを持っている。これはいささか妙である。というのは、大半の乗客はチェックインをすませて、預けるべき荷物は預けているはずだからである.........並んでいる人に「あなたは大阪へ向かうのか?」と聞くと「違う、東京だ。」という。東京方面の便もおそらく遅延していて、今になってチェックインするのだろうか.......最近は同じカウンターで別方面の便もチェックインするから、同じ列に混在しているのだろう、と考えているうちに自分の番がくる。

スタッフにパスポートと見せると英語で「大阪?この便は大阪へは行きませんよ。」という。「どうしてか?」と聞くと「えー、私にはわかりません.....」という事である。どうも、深夜の事とて、航空会社のスタッフではなく、空港の地上業務請負のスタッフなので、要領を得ないそうなのである。見渡したところ、目の前のカウンターには、搭乗予定の日本の航空会社A社のスタッフらしき制服が見当たらない.........これにはいささか愕然とした......とふと右手を見ると、同じカウンターのならびに主に日本人らしき人々が、荷物を持たずに並んでいる。あるいはもしや、と思ってその列の最後尾の人に聞くと、果たしてそこが、搭乗予定の飛行機の旅客たちの列なのであった。しかしこのカウンター、窓口頭上のディスプレイには、中国の他の航空会社のロゴは表示されている........そして列を受け持つ係員から手渡されたのが「欠航」の案内である.......

要はこの航空会社のスタッフも、乗客は皆、搭乗口で待っていたと思い込んでいたらしい。まさか遅延を見越して近郊の街で時間つぶしをしている旅客がいようとは、思いもよらなかったのかもしれない。
そう考えるのも無理は無いが、当方としても別段、規則に反することをしたわけではない。遅延の案内は事前に電子メールでも案内される。出発予定が大幅に遅れても、当初の出発時間に合わせてチェックインしなければならない、という事ではないのである。とはいえ、大方の人は定刻に合わせてチェックインを済ませたのであろう。そして搭乗口で待たされながら、再度の遅延をアナウンスされ、最終的に「欠航」という事で再入国し、チェックインカウンターまで誘導されてきた、という事なのであろう。
これが大陸の国内線の場合、遅延は常態化しているのであるが、そのような場合は搭乗口でおとなしく待つしかない。遅れる場合はさらに遅れるのが普通なのであるが、まれに出発が早まることもある。そうした時、乗客のひとりやふたりが勝手にどこかでレストしていたとしても、構わず出発してしまうものなのである。
しかし国際線、それも日本の航空会社の場合、遅れるといいっておいて離陸OKになったから時間を早めて出発、という事は(たぶん)無いだろう。
ともあれ「欠航」である。しかも深夜12時を回った上海で、である。封筒を渡され、中には人民元で100元札が10枚入っていた。これが今夜の宿泊交通費、というわけであるが「今夜の宿はご自身でお手配ください。」とある........いかんともしがたいので浦東のD君に電話して、家に泊めてもらう事にしたのであるが、もし大陸に不案内な個人旅行者であればどうしたであろうか。むろん、空港周辺のホテルはほかの便の旅客も合わせて、一杯になっているはずである。深夜のこの時間で、上海市内に一部屋確保する手腕など、誰にでもあるわけではないだろう。ツアー客などは、ツアーコンダクターなり、旅行会社がまとめて引き受けているようであるが。やはり空港のロビーで夜明かし、という事になるのではないだろうか。
後に知人に聞いたところ、そういう場合はあえて航空会社に、宿が手配できないか聞いた方がいい、という事だ。「各自手配してください」とは言うものの、どうしようもない客のために、若干の部屋は確保しているはず、という事である。仮に右も左もわからないような、年若い女性を深夜に放り出して、何か難儀な目に遭ったら、という事もありえるだろう。

その夜は再びタクシーを飛ばして浦東のD君宅に泊めてもらい、翌日、同じ時間の便で無事帰国したことまではくだくだしく書かない。D君曰く「日本の航空会社は旅費交通費まで出してくれて親切ですね。大陸の会社だったら、何もしてくれませんよ。」という事である。
いままで「遅延」は何度かあったが「欠航」は初めてであった。なるほど、相当な悪天候の場合、「欠航」にも備えておくべきなのだなと、これも一つの経験であった。
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浦東空港から杭州東駅に車で移動、高速鉄道に乗るまで 2018年1月

今回は、いや今回も、というべきか、大陸への渡航は日程にあまり余裕が無い。上海浦東空港に到着するや地下鉄2号線に乗り、”広蘭路”という駅で降りるとD君が車で迎えに来てくれている。スーツケース積み込んで、そのまま杭州へ移動...というせわしさである。本来なら上海で1,2泊はしたいところであるが....
商用の旅であるから、これもいたしかたないとはいえ、昔のゆったりとした大陸旅が懐かしい.......ともあれD君、黒いミニバンサイズの自分の車を運転してきている。見た目にも新車ではないのであるが......「車買ったの?」と聞いたら「友達からもらった。」という事である。手ズレ感は否めないが、まだ運転に自信が無いので練習用にこれで充分、という話である。D君は自分の会社用のオフィス・ルームはポンッと一部屋買うくらいのことをするのであるが、仕事以外はいたって質実剛健、なのである。今日日の若い老板(社長)としては珍しい人物かもしれない。

しかし走り始めても、スピードメーターが一向に上がらない........なぜ?壊れているのだそうだ......そのかわりにダッシュボードの上にスタンドでスマートフォンを固定し、このスマートフォンが速度をフロントグラスに投影している......おそらくGPSを搭載したアプリケーションが移動速度を計算して表示しているのであろうが.......車検通っているの?などという質問はするのも愚かである。他にバックミラーも、みると鏡ではない。バックミラー型のカラー液晶画面に地図が表示され、別途音声で行先をナビゲーションしてくれているのである。

D君は時折「小妹、小妹」と話しかけると、バックミラーのアプリからであろう、女性の声で「我在ヨ〜」というかわいらしい返事がある。D君はその声に向かって、誰それに電話しろだの、どこそこへのルートを検索しろだの、といった指示をすると、その通りに実行される。このAI(?)アシスタント・ソフトウェアによって、ハンドルを握りながらでも電話をしたり、ナビゲーションを操作したりできるようになっているのである。
......その昔、人工知能を搭載した、しゃべるスーパーカーが活躍するアメリカのドラマがあったように記憶しているが.......そういった自動車に、まさか大陸で乗ることになるとは思わなかったものである。

スピードメーターが壊れていたら、日本の公道は走れまい.........このような状態の車に、自前で計器類を積んで走らせているような体裁であろうか。ブレーキを踏むと、後輪のほうでギシギシという音がする。まあ、無事に着けばよことではあるのだが、D君には「一応、修理に出したほうが良いよ。」というのみである。
上海から杭州へ延びる高速道路の走行は、これがいたって単調な道のりで、日本の高速道路ではありえないような長い長い直線が続く。眠くなるのではないか?という懸念もあるが、運転歴の浅いD君にはこの方がいいようである。

高速道路の途上には、サービスエリアが設置されている。大陸に高速道路が建設され始めた当初は、サービスエリアといっても、食べるところも買うものも、いたって簡単なものしかなかったものである。しかし最近は、軽食類から本格的な食事までそろい、またご当地のお土産類も充実しはじめている。しかしD君と私の定番は”五芳斎”の粽なのである。この竹皮で包まれた粽は、今や江蘇や浙江のサービスエリアではどこでも売っている。安価で温かく、手軽に食べることが出来て至極腹持ちが良いのである。日本ではさしずめコンビニのおにぎり、というところであろうが、大陸の人は基本的に冷めた食べ物は好まない。粽がここまで拡大したのも、そういった食習慣が影響しているのかもしれない。

車は杭州東駅の、地下駐車場に駐車し、高速鉄道に乗り換える予定である。杭州市街の渋滞を覚悟したが......料金所を出たところで渋滞に巻き込まれる.......しかしこの渋滞、よく見ると道路の構造上、起こるべくして起きている。
というのは、7〜8レーンほどある料金所から、一般道へ延びる道路の幅が急速に収斂しており、最後は2車線の狭さにまで狭められている。ちょうど液体が漏斗の出口に向かうように、車同士が割り込みあいながら進むものであるから、当然のごとく渋滞するのである。車線の減少が、距離に対して急激すぎるのである。日本の高速道路でも、出口付近は渋滞しやすいのが常であるが、その比ではない。極め付きは、2車線から市街の幹線道路へ接続する箇所に信号機が設置されていることである。この信号機によって、2車線を進む車は交互に片側一車線づつしか幹線道路に合流出来ないように規制されるのである。これでは渋滞しない方が不思議である。D君と二人して、この交通システムを考えた設計者をさんざんに罵ったものであるが........

杭州市街を杭州東駅にひた走る。杭州東駅周辺は、落ちかかる西日が道路に反射してまぶしいことこの上ない。高速鉄道の出発まであと30分程度である。間に合うかどうか......何故だか”走れメロス”を思い出してしまう。ともあれ駅に着いたが、広大な大陸の駅のこと、駐車場までは距離がある。D君は駐車場に車を停めてくるから、私は先に窓口で切符を受け取りに行き、後で合流することとなった。
私の高速鉄道の乗車券は、D君が購入済みである。購入済みであるが、窓口で身分証(外国人ならパスポート)を見せて、乗車券を受け取らないといけないのである。日本の新幹線に乗る時に身分証は必要ないが、大陸旅では身分証なくしては列車の旅は出来ないのである。インターネットで乗車券が買えるようになったのは便利といえば便利なのであるが、窓口に並ぶのは相変わらずである........大陸の人々は、身分証(IDカード)があれば自動発行機を使用することが出来る。しかし外国籍のパスポートには対応していないのである。
時間が差し迫っている場合などは、これがもどかしい。以前、深圳から武漢に高速鉄道で向かった際は、時間が無いので購入完了の画面をスマートフォンで見せ、それとパスポートを提示して乗り込むことが出来た。このような手段が採れない事も無いようだが、そのような事は誰も教えてくれないのである。
しかし杭州東駅の切符売り場「售票処」には、親切にも外国人専用窓口があり、他の窓口よりは並んでいる人が少なかった。比較的スムーズに切符を受け取ることが出来た。
駅の構内に入る時には、空港並みのセキュリティチェックを受ける。大荷物を抱えていると、これがなんとも煩わしい.......電話で「候車口」の番号をD君に教えて待っていたが、車を停めたD君と合流できたのはまさに改札が始まった時であった........乗車券を改札機に通すが、うっかり切符を裏にしたり、逆さまにすると改札が通れない。改札口には係員がついており、改札機に切符を入れる要領を得ない乗客に指導している。半自動改札、なのである......ともあれ座席に座れば一安心である。

大雑把に言えば、隅々まで浸透したスマート決済もそうであるが、既存のシステムをより便利にするというより、システムの不足や不備をいきなりソフトウェアや電子デバイスが補っている、というようなところがある。日本の場合、いたるところアナログ的なシステムが成熟しているので、それをデジタルで刷新する必要性があまりない、という事もあるかもしれない。
とはいえ、今や大陸の方が日本よりもはるかに進んでいるような印象を覚えないわけにはいかない。進んでいる、進んでいるのは確かかもしれないが、では総体として「便利か?」と聞かれると、少し考えてしまうところである。
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地下鉄のキャッシュレス

急速に拡張が進む上海の地下鉄であるが、一回一回切符を買うのは至極面倒である。例の使い勝手の悪い券売機の前の列で待たされることもあれば、券売機がマトモに稼働していない場合もある。よくあるのが「Coin Only」という表示で、要は釣銭が切れているのか、硬貨でないと買えないのである。おり悪く日本の500円玉とほぼ同じ大きさの1元硬貨を複数枚持っていないと、時に地下鉄の乗車券も満足に買えない。深圳の地下鉄では、紙幣が使えても5元札か10元札しか使えない、という券売機で難儀したことがある.......
そこで頻繁に地下鉄を使用する場合、日本における場合と同じく、料金をチャージして使用するICカードを使うことになる。この地下鉄のカードは大陸で共通化されていない。上海なら上海の地下鉄カード、深圳なら深圳の地下鉄のカードが必要になる。とはいえ少額なものであるから、都市ごとに作り、毎回の渡航時にこの地下鉄のカードを持って行っていた。しかし今回久しぶりに渡航するにあたって、上海の地下鉄のカードに限って、日本から持ってくるのを忘れていたのである。

仕方がないので、新たにカードを買うしかない。このカード、以前は地下鉄駅の窓口で購入できた記憶がある。世紀大道の地下鉄2号線の駅、改札近くの窓口に行く。しかし窓口では今やこのカードが買えないという。
2015年を以て、地下鉄カードの窓口での販売を取りやめたそうだ。以前は地下鉄のカードの購入、およびチャージをするために、改札近くに設けられている円形のカウンターの窓口には、人が群がっていたものである。省力化のためであろうか。今ではこの改札窓口に人が並んでいる光景を目にしない。ともあれ地下鉄カードの販売をやめるのは勝手であるが、ではどこで買えばいいのであろうか?一応、どこそこに一か所、発券所がある旨、書かれているのであるが(どこの駅でもあるわけではない)。行くのは面倒である。
あたりをみると地下鉄の券売機ならびの横には、カードの販売、およびチャージを行うと思しき、いささか目新しい機械がある。ところがこの機械、現金の投入口がどこにも無いのである。ロゴマークの表示を見る限り、銀聯の決済が使えるようであるが.......香港の地下鉄のカード、通称”オクトパス”は現金でカードを買えるし、コンビニでチャージも出来る。深圳は臨時窓口のようなところで、カードを現金で売っている。上海ではいち早くキャッシュレス化、ということなのだろうか。ともかく、大陸のデビッドとしては古株の、銀聯カードがあれば買えるようである。幸いにして、銀聯の機能が付与された中国銀行のキャッシュカードを持っていた。

これを使用して買おうとしたのであるが..........どうも50元分の乗車料金と、カード発行手数料の20元分の決済は終了したと思しき反応が、機械の表示からは見受けられたのであるが、肝心の地下鉄のカードが出てこない。いくら待っても出てこない。
仕方がないので、改札口に設けられている窓口の駅員に聞いてみた。駅員も要領を得ないような表情で、その辺の他の駅員を呼び、何やら相談していたのであるが、別の駅員の付き添いで、発券機のところでもう一回やってみるように言われる。同じ手順で50元分のカードを買おうとしたところ、今度はなにやらレシートのようなものが出てきた。1回目のトライではレシートすら出なかったが。レシートにははっきりと、50元分のチャージと、発行手数料70元が引かれた明細がプリントされている.........ところが、いくら待ってもカードが出てこない。今度は駅員の目の前である。そこでまた窓口の方に行って駄目だった旨を伝えたのである。窓口の中年配の女性の駅員は、面倒くさそうにファイルを引っ張り出し、いくつかページをめくっていたが、対処法がマニュアルになかったのであろう。あきらめた顔で「カードの自動発行機のところに電話番号が書いてあるから、そこに電話するように。」と、言うのである.......カードの券売機の事は、会社が違うからわからないと言う.........電話しても、決済は済んだがカードが出てこない、2回試したが駄目だった、などという事をどう説明したものか。
付き添った店員は素知らぬ顔でどこかへ行ってしまった........不案内な外国人に代わって、ちょっと電話で状況を説明してくれてもよさそうなものなのであるが........ああ、この塩対応、どこか懐かしさを覚えるこの感じは......と記憶を揺り起こしてみると........そう、これは紛れもなく、昔の社会主義中国、皆が国営だった、あのころの雰囲気である。あの頃はまだ骨董街で安価に面白いモノが買えたなあ......と感慨にふける暇もなく、この時は人を待たせていて時間があまり無いので、とりあえず普通の券売機で一回分の券を買って先を急いだのである。

夕方、上海人のD君に会ってそのことを話すと「それは”メイバンファ”ですね。たぶん、電話してもラチあかなかったでしょう。その発券機の会社の人は、駅員に聞いてくれ、と言ったでしょう。」という。まあ、2回分で140元、邦貨にして2,000円超は授業料という事か........もう少し長期滞在で時間があれば、そのカード発行機のサービスに電話してみるのも一興であったかもしれないのであるが。

それにしても現金でカードが買えないというのは、時には不便である。思えばたまたま銀聯を使えるキャッシュカードを持っていたからまだ購入をトライできたが、現金しか持っていない、海外からの短期滞在者はどうすればよかったのであろうか。
この地下鉄カードの発券機が、現金で購入できないように作られている理由としては、ひとつにはコストの問題があるだろう。硬貨や紙幣を扱うメカニズムというのは複雑で、動きのある機械というのは故障しやすく、メンテナンスも必要になる。センサーやアンテナで、ICカードを読み取るだけの機構であれば、ある程度簡単なもので済むのである。
また便利なようで不便なのは、この上海の地下鉄のカードは、他の都市では使用できないのはもちろん、地下鉄に乗る時しか通用しないのである。日本のこの手のICカードであれば、他の鉄道会社にも乗れるし、買い物も可能である。たとえば香港の”オクトパス”は、やはり地下鉄やバスだけではなく、コンビニやスーパーなどでの買い物も可能である。香港などは硬貨が大きく重いので、”オクトパス”カードに多めにチャージしておくと、小銭を持ち歩かなくてよく(香港の硬貨は英国を倣って大きくて重い)、さらに便利なのである。

ともあれ猛烈な勢いでキャッシュレス化が進んでいる大陸であるが、なかば屋台のような零細な飲食店の、至極少額の決済であってもスマートフォンで行うようになった理由のひとつには、偽紙幣の横行も影響している。最高額紙幣の100元札だけではなく、10元や20元など少額な紙幣にまで偽札が氾濫し、1元硬貨に至っては、そのまま通用しているようなありさまである。キャッシュレス化は、要は自国の貨幣に信用が無い、という事でもある。
とはいえ、現金で支払うことができないわけではもちろんなく、タクシーでも飲食店でも、いまもって現金払いは可能である。しかし何故、地下鉄のカードは原則出来ないのであろうか........?ICカードの利用によってキャッシュレスになったところで、そのICカードの購入もキャッシュレスとは........たしかにお金など、数字の羅列にすぎないのであろうけれど。
キャッシュレスにするのはまあ、良いとしても、扱う機械が故障しているのでは意味が無い。また機械というものは、そのそも故障するという事を前提に業務を組むべきであろう。

大陸で急進するキャッシュレス化に、ひとりの外国人としてはついていけないものを感じるが.....便利になったのか不便なのかわからない。どうもこのキャッシュレス化、そもそもの利便性の向上とは別の理由があるのではないか?と考えたくなる。急激に拡張する上海......に限らない、大都市の地下鉄網であるが、あるいは人員の拡充がついて行っていないのかもしれない。
昔の大陸の鉄道や空港といえば、数人かたまってのどかにおしゃべりをしている年配の駅員の一群をどこでもみかけたものである。しかし今は何かを聞こうとしても、しかるべき人を捕まえるのがとにかく難しい。それらしい人を捕まえて尋ねても「私は駅員ではありません。」という事が多い。インフォメーションのカウンターがあっても、そこのスタッフは駅の事はまるで知らない、という事もままある。
人員が拡充されているのは、改札を通る前のセキュリティチェックの要員ばかりである。改札前のセキュリティチェックの要員は、以前はまるでやる気がなく、大半の人が無視して通過していたものであるが、今ではきちんと手荷物をスキャンしないと通してくれない。どころか、荷物の内容を確かめられることもある。こういう部分だけは管理が強化されているようである。
それは都市の地下鉄に限らず、国の大号令で進む鉄道や空港でも同様である。空港内ないしは駅の構内に入る前に、かなり厳重にチェックされるのである。さらにいえば、赤字経営が必然のこれら公共インフラの経営には、セキュリティ以外の部署での、人員確保の余力がないのかもしれない。キャッシュレス以前に、要ヒューマンレス、という事情があるのではないかと、考えたくなる........昔の大陸の交通機関は、人が多い割に処理が遅く、なかなか思うように事が進まない場合が多かった。いまさらながらにアナログ的手段も残しておいてほしい、と思う出来事であった。
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