2019紹興行 列車と宿

........今回は合間を縫って1泊だけの日程で紹興に足を延ばすことにした。紹興を訪問するのは三度目で、6年ぶりである。仕事道具が詰まったスーツケースを1泊目に泊まった上海桂林路のビジネスホテルに預け、小型のリュックひとつに一泊分の着替え備品をつめてから駅に向かう。

南北に珠玉を連ねたように点在する江南の諸都市であるが、上海からさほど遠くない距離にあり、個人的に気に入っているのが揚州と紹興である。
江南で「地上の天堂」と併称されるのが「蘇州・杭州」であるが、蘇州の旧市街は今や繁華に傾きすぎたきらいがある。また人が多くて渋滞し、夕方は移動に難儀する。杭州の昔の中心市街はすっかり開発されてしまって、西湖周辺も近代的で趣にかけるものがあるうえに、やはり移動に難儀する。
その点、目覚ましい経済発展からはすっかり取り残された体であるが、それだけに揚州と紹興は古い江南水郷都市の雰囲気を濃厚に残している。もちろん嘉興からほど近い烏鎮など、江南水鎮をそのまま残したような場所もあるにはある。それはそれで情緒風情にあふれる場所なのであるが、中国史に残る古くからの都会というわけではない。
なんといっても紹興は紀元前の呉越の時代、会稽と呼ばれた昔から栄えた江南屈指の古都であり、三国時代の呉の主要都市を経て、さらには東晋政権の首都として、隋によって統一されるまで南方に依った漢民族政権の根拠地であり続けた。
杭州といえども、北宋に入りかの蘇軾が知事として赴任する時期に前後して大規模な開発が進み、南宋政権が根拠地とするに至って江南屈指の大都市に成長したのであり、江南にあっては新興の都市なのである。

いつもは上海の朋友に交通機関から宿泊先の手配まで依頼するのであるが、今回はインターネットの予約サイトを利用して、上海から紹興までの高速鉄道と宿を予約した。高速鉄道の予約はTrip.comで、宿の予約はBooking.comで、あっけないほど簡単にできてしまったものである。
高速鉄道が開通するよりずっと前の大陸の列車の旅といえば、まず乗車券の入手がひと仕事であった。予約システムなどないから駅の券売所にならぶ。それも1時間も2時間も、どんどん横入りされる切符売り場の窓口で並ばなければならない。乗車券の取得が半日仕事になることさえあった昔に比べれば、いまや格段に手軽になった。

高速鉄道の乗車券のオンライン予約は、中国国内では以前から可能だったが、駅で窓口に並んで乗車券と引き換える必要があった。人民のIDカードがあれば自動の発券機を利用することもできたが、パスポートの外国人は窓口に並んで乗車券と交換しなくてはならない。これも面倒なもので、30分前後は並ぶことを覚悟しなくてはならないから、広大な駅を移動する余裕を見て1時間前には駅に到着するように時間を見計らって移動していた。
しかし、今では予約サイトの予約番号とパスポートを改札で見せればそのまま乗車できるという。もちろん座席は予約時に決定している。そのような説明が予約番号を記載したメールに書いてあるにはある。しかしそこは大陸旅である。
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念のため、上海から行きの列車は上海虹橋の切符売り場の窓口にならぶ。上海虹橋駅には外国人専用の窓口もある。そこで予約番号の記載されたメールの画面とパスポートを窓口で渡すと、従来の磁気用紙の切符と交換してくれたのである。
しかし結論から言えば、このような手続きは不要だったのである。帰りの紹興の駅で再び切符売り場にならぶと、窓口で「切符との交換は不要だから、改札で予約番号とパスポートを見せなさい。」と言われ、切符と交換はしてくれなかった。そうは言われてもイザ乗車する段になって「切符がないと乗れません」ということはなかろうな?と乗る直前まで疑ってしまうあたりが習性であろうか。

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ともあれ大陸の高速鉄道の予約から乗車までは格段に速くなった。以前は高速鉄道の駅が空港並みに離れていることと、窓口に並ぶ時間のロスから近距離の利用では都心から出発する高速バスとトータルの所要時間が大差ないのではないか?と思うくらいであったのだが、これも改善されたことになる。また上海起点の高速鉄道の本数もだいぶ増えた様子で、連休や週末にかからなければ当日でも座席が確保しやすくなっている。数年前は数日前に予約しないと「无座」といって立っていかなければならないこともあったのであるが。
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高速鉄道の駅の構内に入るにはパスポートを提示し、荷物を検査機に通す必要がある。これなども以前は形式的なものであったのだが、だんだんと空港並みに厳しいチェックになってきている。
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高速鉄道になる際は、外国人はパスポートを機械にスキャンする必要がある。しかし、今回は紹興往復と、また別途湖州に行く際に嘉興を往復したのであるが、都合四回の乗車機会に際して一度もこのパスポートスキャンの機械が正しく動作しない。そこには駅の係員が立っており、結局は係員にパスポートと予約番号を見せて無事乗車することができたのである。パスポートのスキャンがうまくいかないことを見越して、あらかじめ人員を配置しているような恰好である。
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高速鉄道の改札は、乗車時と降車時の2回通るのであるが、以前からうまく動作しないことが多い。乗車時はともかく、降車時では機械の不調で渋滞したころ合いで、駅員がゲートを開放して降車した乗客を通してしまうようなこともある。
磁気用紙の切符が不要になって便利になったのであるが、この外国人はパスポートチェックを降車時にもしなくてはならない。たいていは改札の右側に一か所だけ専用のゲートがあり、そこで機械にかけるなり駅員に確認してもらうなりしないといけないので要注意である。
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さて、高速鉄道で上海から紹興までは1時間半程度の旅であるが、そこは取り立てて書くこと事はない。
紹興北という高速鉄道専用の駅に到着し、それから市内に向かう。宿は魯迅故里にほど近い場所に位置している。かれこれ20年近く前の昔は、列車の駅から中心市街の魯迅故里まで歩こうと思えば歩ける距離にあったのだが、高速鉄道の駅は例にもれず旧市街地からは相当な距離がある。地下鉄が建設中であるが、まだ開通していない。市内へは”BRT”という直通バスが通っていて、3元で市内に移動できる。これに乗るのが便利である。いくつか路線があるが、多くは魯迅故里に停車するので問題はない。
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旧市街地へ向かう途中、郊外の開発区や建設中の高層ビル群を目にするのは今や江南諸都市共通の光景である。
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日本でも今や”民泊”経営が盛んであるが、大陸の観光地にも昔はなかった民宿が増えている。
今夜の宿の「老台門魯迅故里青年旅舎」も江南の故民居を改装した民宿であり、京都でいえば「町屋旅館」といったところであろうか。「青年旅舎」といっても別段年齢制限があるわけではない。紹興観光の中心地ともいうべき魯迅故里の通りを中興中路から反対側に通り抜けた出口付近に位置していて、ほど近くには咸亨酒店や紹興には少ないSTARBUCKSがある。観光の拠点としてはすこぶる便利である。
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受付で日本で予約した際の予約確認メールとパスポートを見せるとあっさり受付が完了した。1泊の宿賃は日本円で2千円しない。部屋は二階である。
カードを二枚渡され、部屋に案内される。部屋は二階である。中庭を囲んで軒をめぐらした建物の構造は、もちろんのことこの家がある程度の格式を備えた物件であったことを意味している。
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若い人達が宿泊客の中心なのであろう、壁には無数の落書きがみられる。廊下の柱や壁面は、現代的な樹脂塗料ではあるが赤く塗られている。王朝時代であれば「紅楼朱閣」というように、建物を赤く塗装できるのは官舎や貴族、寺院などの限られた身分格式の建物だけである。日本でいえば加賀藩に由来する東大「赤門」といったところである。
紹興にあっては中産階級の邸宅であったであろう建物ではあるが「朱閣」にするのはやや大げさである。しかし古い建物を改修する際に何か塗装しようということで”赤”になったのであろう。
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中庭を見下ろすように取り囲んだ廊下の手すりに沿って長い腰かけがあるが、これを「廊椅」あるいは「飛来椅」といい、また別名「美人欄」という。いわゆる「欄干」の一種なのであるが、夏の暑い日はここに座って涼むこともできるし、刺繍や裁縫など、明るい光が必要な作業もここで行われるのである。
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詩詞で「斜倚欄(欄にななめによりかかる)」というと美女の形容であるが、橋の欄干のように立って寄りかかる恰好というよりも、このように座れる欄干に座りながら背もたれ部分によりかかってくつろぐ風情である。腰掛けながら体をひねって欄干に体を預け、中庭や夜空を眺めるのであるから、ほっそりとしなやかな女性の体つきが想起される、というわけである。
このような座れる欄干は日本の建物にはあまり見られないから、日本人の描いた美人画には橋の欄干にもたれた美女が登場する、ということになる。
唐代までは床に敷物を敷いて座る習慣があったが、北宋から徐々に椅子に座る習慣に変化したといわれる。初めは縁台や濡縁のような場所に低い欄干をめぐらせていたのが、椅子に座る習慣が浸透するにつれてこのような座れる欄干に変わっていったと考えられるが、このような「飛来椅」が建築に流行したのは元代だという。日本にある楼門や五重塔の手すりは低いが、五重塔の建築様式が渡来したのは大陸でいえば唐の時代で、まだ椅子に座る習慣はない。
この中庭に面した「美人欄」は往来から人にのぞかれることはない。座りながら琵琶も弾けるし笛も吹く。明清のころの都会の中流以上の家庭では”纏足”が当たり前だった昔、立っている姿勢というのは女性にとって楽ではなかった、ということは思い返す必要があるだろう。
あいにくこの日は気温も低く、曇天である。たとえば暖かい季節の月の明るい晩などに、この「飛来椅」に座ってみたいものである。
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方形の回廊の一辺の中ほどにある扉をカードキーで開ける。正面左右にトイレとシャワールームがある。そして左手右手にそれぞれ部屋があり、もう一枚のカードキーで入室するのである。右手の部屋が自分の部屋であったが、左手の部屋には若い二人連れがが宿泊しているようだ。
中庭を挟んで対面のちょうど同じ位置にも部屋がある。ほぼ東西南北対称に家屋が造られているようである。
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古民居であるから、当然広い部屋ではない。四畳半ほどの部屋には窓と反対側に頭を向けた広いベッドと、枕の頭上にエアコンが一台。ベッドわきに木製のサイドボード、廊下に面した窓の下には机と椅子が置かれている。いたって質素な部屋だが、かえって読書人の家を思わせる。
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いわゆる「明窓浄机」とはこのように窓のすぐそばに机が置かれる事で、室内照明などあまりなかった昔の家屋では、机はかならず明るい窓に面しておかれていたのである。
また道路がアスファルトで舗装されていなかった時代、屋外からはしばしば風に乗って粉塵が舞い込むものである。砂埃が硯に落ちては厄介であるから、硯と窓の間に「硯屏」が置かれることがある。江南はまだしも、北方の冬などは必須であろう。
日本のように縁側や濡縁を挟んで座敷に机を置く場合はさまでほこりは入り込まないから、硯屏の必要性は薄い。ゆえに単なる文房の装飾品と解釈している向きもあるが、大陸式の家屋や家具の構造を理解していればその必要性もわかるだろう。
また蓋ができる構造の硯があるのは、墨が蒸発することを防ぐと同時に、やはり砂埃を避けることが理由である。
前述のように椅子と机に座る習慣は北宋からで、これが徐々に広まり、筆書に向かう姿勢が変化する。これが筆の持ち方に作用し、ゆえに書体にも影響したのである。北宋の蘇軾が筆を寝かせる斜筆、ないしは偏筆なのは、蘇軾の故郷の四川省にはまだ椅子と机の習慣が浸透していなかったことを示唆している。
また床に置かれていた硯が次第に机の上に置かれるようになり、勢い小型化し、硯の高さも低くなるわけである。
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屋内の壁や梁は塗装をし直してあるが、故民居特有の曲線的に削り出された梁の形状が見て取れる。
塗料を塗ってしまっているのはもったいない気もするが、このように改修しながら観光用に利用されるからこそ、建物として残ってゆくのかもしれない。
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翌朝、格子窓を通して白い朝の光が差し込んでくる。この机で何か書き物でもしたいくらいであるが、文房用具はすべて上海に置いてきている。午前中はさらに紹興の街を散策の予定であるから、ほどほどに準備して宿を後にすることにする。
隣の部屋と共同のシャワーとトイレ、というのは民宿ならではである。しかしそういった点を気にしないのであれば宿賃もいたって廉価であるし、利用してみるのも一興であろう。すくなくとも紹興観光の拠点として、場所は非常にいい。
ただし夜間は12時の門限があるので、夜更けまで遊びたい向きは注意が必要であろう。しかし今の紹興は夜はひっそりと静かである。昔の、それこそ夜通しの喧噪がうそのようである。ちなみにこの宿にはテラスをしつらえたレストランカフェ&バーもあり、朝食から昼食、夕食もここでとることができる。
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とはいえさすがは古代から知られた銘酒の産地であり、地元の人でにぎわう酒と料理の店はある。その話題はまた稿を改めたい。





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2018年11月の揚州行

.......旅の風情とか街の情緒というものは、あるいは旅人の得手勝手、というようなところがあるのかもしれない。そこの住人にしてみれば不便きわまりないものであり、できれば近代的な利便性に置き換えたくて仕方がない、というようなものなのかもしれない。
京都の町屋や奈良の山奥の木造瓦葺の日本家屋が、外国人にどんどん買われている昨今なのである。日本の、特に若い世代にとっては不便に思える家屋であっても、文化の違う外国人の目からすれば、修復保善に多少の苦労をしつつも所有したい、住みたいと思える何かがあるのだろう。

幾度か訪れてる揚州は、江南地方で古い都の風情を今に残す数少ない街である。江南の都というと蘇州・杭州を想起する日本人は多いと思われるが、杭州の西湖周辺も近代的なテーマパークのような整備にあって、交通渋滞をぬってまで行きたいとおもわせるような何かがない。強いて言えば蘇州はまだしも、なのであるが、それでも”蘇州駅”を中心に、だいぶん様変わりしてしまっている。

揚州に行くには上海から直通三時間のバスか、鎮江まで高速鉄道で行き、鎮江からバスかタクシーで行くのが通例であった。列車の駅があるにはあるが、南京を経由しなければならず、本数も少ないので利用したことがない。今年になってようやく高速鉄道が開通した。揚州は兄弟のように隣接する江都に広範な工業地帯があるにはある。しかし江南屈指の古都にして、大陸の高度成長には完全に乗り遅れた格好である。
そのおかげもあってか、揚州の旧市街地は初めて揚州を訪れた20年近く前とあまり変わっていないような雰囲気がある。もちろん商店は入れ替わり、変わるところは変わったのであるが、旧市街は大略は変わっていない様子がある。
巨大な鉄筋コンクリート建築や、郊外に層層と林立する無人の高層マンション群が織りなす人造の前衛山水画にいささか目が疲れを覚えるころ、歩きたくなるのが古い町並みなのである。

さて、令和に年号が代わってからは、諸事情あって残念なことに大陸には渡航できていない。以下は昨年の11月の揚州行の模様である。上海から蘇州を経由し、蘇州市街で若干の要件を果たした後、揚州へ向かう。揚州で一泊して翌日要件を片付け上海へ戻るという、ごく短い旅程である。

蘇州までは上海から高速鉄道で移動したが、蘇州から揚州へは今回は車である。同行してくれた上海のD君が、”滴滴”という配車アプリによって車を手配してくれるのである。
この日の蘇州は晩秋の冷たい細雨。そろそろ夕闇が迫ろうかという時候、獅子林近くの人民路に面したコンビニエンスストアのイートインスペースで、D君がアプリを使って車を探すことしばし。運よく蘇州から揚州へ帰る車が見つかった。
現れたのは江南の地方都市に多い、フォルクスワーゲンの黒いセダンである。私とD君をピックアップした後、蘇州旧市街のはずれでもう一人の客を待つことさらに暫時。蘇州の大学に通う揚州出身の女子学生を一名助手席に乗せ、揚州へ向かったのである。
案の定というべきか、この日の揚州への高速道路の車の流れはあまりよろしくない。急速に整備された大陸の高速道路網であるが、大陸有数の人口密集地帯を南北に移動する車両の数量を考えればドイツのアウトバーンよろしく8車線位にするべきところを、規格の上では日本の高速道路を模したかのような車線と道幅であるから、曜日時間帯によっては渋滞は避けられない。ひとつには昔の日本でもやっていた、車線変更で前を追い抜く車が多いのである。それが全体の車の流れを悪くする一因でもある。
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D君は上海の出身であるが、江蘇の方言も話すことができる。完全なる蘇州弁、揚州弁というわけではないが、曰く上海語を横滑りさせると近い雰囲気に聞こえるのだそうだ。大阪弁ならぬ関西弁、というところなのかもしれない。D君曰く、なるべく方言に近い発音で話した方がいい、ということである。それはそういうものだろう。

日本では無許可の個人が旅客を運ぶ、いわゆる”白タク”行為は禁止されているが、そもそも日本はタクシーが過剰なくらい多い、という前提がある。大陸はどこの都市もタクシー業界は台数が規制されていて、正規のタクシーはまったく足りないのである。それで従来から白タク行為が横行していたのであるが、配車アプリが公認されることで堂々と、かつ効率的に白タク経営が可能になった、という事情がある。
そうは言っても、見ず知らずの運転手に頼っての長距離移動であるから、運転手と親しんでおくに越したことはないのである。
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日没の車窓から広大な江蘇の田園を眺めると、田畑や水濠や一叢の木立のかなたに。一群の鼠色の高層マンションが現れては遠ざかる。車のヘッドライトが点灯し始めたほどにあたりは暗くなってきているが、みえるマンションの一棟一棟、夕もやの中に暗くたたずんでいるだけである。
建設途中のマンションの上部には、さまざまな角度で首をかたむけた巨大な水鳥のくちばしのようなクレーンが数基、静止している。それは聳え立つ岩峰のいただきに根づいた松が蓋を傾けているようでもあり、これが現代の大陸の”江南高楼図”ということなのかもしれない。

レーニンの時代『社会主義とは全国の電化である』というスローガンがあった。1972年にソ連で製作された『電化を進めよ』という短編アニメーション映画がある。
現代の中国を見る限り『社会主義とは全国を高層マンションで覆いつくすこと』ということなのかもしれない。確かに大陸は慢性的な住宅不足の時代がかつてあった。それが解消され、あまつさえ過剰な現在の様相を呈するようになったのは、鉄筋建築工法とエレベーターの国産化によるところが大きいのである。
近現代史において、もっとも経済に影響を及ぼした科学技術は自動車でも電気でもなく、鉄筋建築工法ではないか?と最近は考えている。鉄と石灰、砂でもって無尽蔵かつ急速に資産を増やせる建築法は、どこか人間の理性を集団的に麻痺させ、狂わせる何かがあるのだろうか。

ともあれ、揚州についたときは時計は20時を回っていた。まず旧市街から外れた揚州郊外の住宅街で女子学生を下ろし、揚州市街地へ向かう。この日の宿はD君が手配してくれた”東関街”の路地にある一軒の民泊である。
東関街は、その名の通り揚州旧市街の東門から街の中心に向かって伸びる通りに面して展開する商店の多い街並みである。東関街を東に、昔の城壁を抜けたあたりに昔の揚州の東門があり、その先には運河と船着き場もある。この揚州の運河は一方では市街に続き、一方では長江にまで連絡している。江南地方はその昔は水路伝いに主要な都市を行き来できたわけであるが、その名残をとどめているというわけである。
以前に『唐解元一笑姻緣』の解釈を試みたが、蘇州で秋香を見初めた唐解元が無錫まで船で跡を追いかけ、城門近くで船を降りる場面があった。このような場所は江南の都市のそれぞれに存在したのだろう。

もちろんのこと東関街も東門も多分には観光地化を目的に再建された姿なのであるが、古い建築材料を使うなど工夫を凝らしているためか、それなりに良い塩梅に古色を帯びた風情がある。
通りから垂直に枝分かれする路地が”小巷”ということになるが、迷路のように入り組んだ路地の中の民家で最近民泊を開業する家が多いのである。
東関街には自動車を乗り入れることはできないから、東関街とほぼ平行に走る文昌中路の皮市街付近で車を降り、東関街の裏側から路地に入る。
東西南北に道路が交錯するのが大陸の都市構造の基本である。区々たる”小巷”とて計画当初、大略は東西碁盤の目のように整備されたはずなのであるが、それが長い年月で敷地権なり所有権なりの交代を経、消滅する道もあり新たに通り抜け可能な道もできるといった具合で、結果的に迷路のようになってしまうのである。
11月の揚州は気温もすでに低い。小巷の小路や家々の”磚”や漆喰にまでしみこんだ冷気が左右足元から迫るところを、小さなスーツケースの車輪をガラガラと響かせながら、目的の家まで急ぐ。
”磚”すなわち青いレンガを敷き詰めた路地をぐるぐると廻り、民泊の小さな看板を掲げた一件の民家にたどり着く。
古民家を外から見ると”磚”と漆喰、それに瓦といった無機質で単調な色彩が印象に残るものだが、この民家の建物の内部は木材が多用され有機的で色調も暖かい。外界と対蹠的な雰囲気である。
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しばしそこの女主人とD君が話をしていたが、話がかみ合わない。どうも宿の場所を間違えたようである。気を取り直してあらためて女主人から目的の宿の場所を教えてもらい、そこへ向かう。初めの宿からいくたりかの辻々をまがり、ようやく今宵の宿にたどり着く。
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時間が遅いためか扉には閂がかけられている。
先ほどの「客桟」よりも、より普通の民家に近い格好である。
大陸のホテルは「酒店」「飯店」「賓館」という。大規模な国営ホテルは「酒店」ないしは「大酒店」、やや規模の小さなホテルが「飯店」「賓館」というように、ホテルの規模によって呼び名が分類されるという話もあるが、現在はあまり関係ないような印象である。そこへ民泊は多く「何々客桟」というような呼称を用いるところが多い。「客桟」は時代劇で使われる単語である。
予約された二部屋のうち、D君は一階、私は二階の部屋と決まった。一階の玄関すぐの広間から狭いらせん状の木の階段を上って二階に上がると、民家らしく人ひとりが通れるくらいの、左手に画欄、右手に画額の迫った短い廊下があり、その奥に今宵の寝床の部屋がある。6畳ほどの部屋は広いベッドが占有している。1畳ほどの空間をガラス戸で仕切ってシャワールームがしつらえられている。この設備は客桟のために新たに設置されたものだろう。
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揚州は夜が早い。少し正確に言えば早くなった。大陸の経済が沸騰していた以前は、夜半まで料理屋の明かりがついていたもので、それでも足りなければ市街のいたるところ路傍で屋台が盛んに炊煙をあげていたものである。
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民泊の家人に近郊の店を教えてもらう。ここは地元の人しか行かないような小さな店であるが、一通りの揚州料理が提供されている。地元の人が家族で行くようなお店というのはたいていは一皿の量が多いのであるが、はたしてこのお店もそうであった。
こうした地元の人が来る料理屋というのはラストオーダーの時間も閉店時間も曖昧で、顔なじみの近所の人が家族で宴会をしていれば、彼らが引き上げるまで閉店時間は延長される。我々が店に入った9時過ぎは、そろそろ終わりという時刻だったようなのだが、まだ2〜3の宴席が残っていて、しかしそれもそろそろお開きに近いのであろうか、食後の歓談が続いている風情である。店の人は快く空いたテーブルに案内してくれた。
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ここで定番の揚州炒飯、獅子頭、蟹黄湯干絲、蟹黄豆腐、それに魚香肉絲....は久しぶりにせよ、二人の人数にしては少し注文し過ぎだったかもしれない。D君に言わせると獅子頭が淡泊すぎるとか、揚州炒飯がここは正宗ではない、というのであるが、総じて味は悪くない。揚州料理は総じて薄味で、油脂も控えめなので量が食べられるのである。王朝時代、何日も宴会が続くような繁華な大都会の料理というのは薄味淡泊で、消化がいいように作られているのである。たとえば揚州名物の「獅子頭」は豚の脂身をたっぷり肉餡に練りこんでいるのだが、時間をかけて蒸しあげてはわざわざ脂を抜くのである。
ともあれほどほど食べ過ぎたところで店を後にする。
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恒例になりつつあるが、皮市街(ぴー・すー・じえ)で少しお茶を飲んでいこうということになり「皮市街」へ足を向けると、どことなく通りが暗い。10時近い時刻であるが、店の明かりがまばらである。
なんどか訪れている「浮世記」に行こうとおもったのであるが、文昌中路から皮市街に入り、まっすぐあるいて右手に見えてくるはずの「浮世記」が見当たらない。皮市街中ほどを過ぎておかしいと思い引き返すと、店はあったのだが今日はすでに店を閉めた後のようだ。記憶では11時くらいまで開いていたはずなのであるが。いささか残念である。
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そこで開いていたもう一軒のカフェに入った。明るいテラスを意識したようなインテリアに、観葉植物を多く置いている。Wifiを完備し、室温もほどよく調整されていて、外の冷気と世界を別にしている。何度か述べているが、江南の寒い季節に上着を脱いでくつろげる場所というのは、ホテルの自室以外ではあまりないのである。
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ここで私は自家製の果実酒、D君は珈琲を頼み、しばしの休憩である。果実酒は安徽の農村の酒屋で飲めるような、コケモモを度数の強い酒に漬けたほのかに甘い酒である。値段はどちらも30元くらいで、邦貨にして500円を超えない程度である。
メニューをみていると、この店は洋食を出すレストランカフェのようで、たとえば150gのステーキと羊のリブ・ロースト二本、チキンの手羽が二本というボリュームのあるセットがひとり158元である。もちろん、こういったお店で過ごすお値段というのは、揚州の一般的な消費の感覚からすれば高めであるが、ある程度の需要があるのだろう。
揚州の夜の街が最も繁華であった2008年〜2010年を想起すると、現在の揚州の夜は相当に静かである。東の空が白むころにようやく屋台が店じまいを始めるといった、あの夜更けの喧噪はいったいどこに行ってしまったのだろうか。
店の中には若干の若者がくつろいでいたが、全般に閑散としている。この店でD君と1時間ほど今後の事を相談し、店を出た。宿に帰ると門が閉まっていたのであるが、呼び鈴で帰宅を知らせると家人が開けてくれたのである。こうした民宿は門限があるので、帰宅時間と夜間外出には注意しなければならない。家人はほとんど寝静まっているようなので、我々も早々に自室に退散し、寝についた。
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翌朝。朝の白い窓から、晩秋の揚州の光が部屋に淡く滲みだしている。家屋が密集しているためか、窓に曇りガラスがはめ込まれているので、寝る前に厚手のカーテンを閉めなかった。せっかくなら朝の光で目を覚ましたかったからでもある。
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昨夜までの冷たい細雨からは案に反して、この季節の江南にしてもいささか珍しい、念入りに掃いたような青い空である。窓外の景観を鉄筋コンクリートの白い建物がふさいでいるのは致し方ないとして、手前にはここにあること幾星霜といった風情の、黒く薄い甍が魚のうろこのように重なっている。眼下には路面も壁も新旧のレンガに囲まれた路地が見える。伝統的には”青磚”、つまりは青灰色のレンガであるが、ところどころ他所から運ばれたのか赤いレンガが見えている。

話がそれるが、三島由紀夫の「文章読本」には、上手な文章の書き方の原則として「形容詞を多用しない」というものがある。形容詞というのは名詞にくらべて不安定で、時代や地域によって変化しやすいものだから、ということである。言い添えれば、形容詞の多い文章というのはたしかに主観的に偏った印象を受ける。何でも「美しい」では何が美しいかわからない。
「青い」や「赤い」のような色彩にかかわる形容詞も要注意で、たとえば大陸中国で「青い」といった場合は、かなり黒に近い色が想起される。日本人がイメージする「ブルー」は「藍」である。だから「青磚」といっても、ほとんど暗灰色のレンガである。墨に「青墨」があるが、いわゆる”ブルー”ではない。
三国志における「赤壁」の「赤」についても、「赤」が「レッド」を指すことは稀である。通常は「レッド」は「紅」である。「赤」は「赤子」ないしは「赤裸々」というように「むきだしの」という意味が原義であるから、赤壁というのは「あかい壁」ではなく、むき出しの河畔の岸壁の事なのではないだろうか.......話がそれた。
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部屋は民宿にする際に改装したのであろう、白い壁紙の壁面は新しいが、窓の木桟には時代のついたつやがにぶい光を放っている。墨色にも通じる話であるが、手沢にまみれた翳りを帯びた光は好ましいものである。大陸の都心というのは昔も今も人工物で囲まれており、地面が露出したところが少ない。その隙間隙間に工夫を凝らして住人が植物を植えこんでいる。
こういった民宿に逗留しながら2〜3日ゆっくり滞在したいところであるが、今日の夕方には上海に戻らなければならない。
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朝食はいつもの国慶路沿いの「五亭吟春茶社」へ。文思豆腐(10元)をふたつ、三丁包(3元)と五丁包(8元)を二つづつ、虾仁蒸餃(3.5元)をふたつ、小籠蟹黄湯包(15元)をひとつ、蟹黄獅子頭(15元)ふたつ、を注文する。このお店もわずかづつであるが値段が上がっていて、数年前は1.5元だった三丁包が3元に上がっている。しかし湯干絲の小皿が6元、普通の小籠湯包(五個)が8元、あるいは麺とスープだけの陽春麺が4元というのは、物価高騰の著しい江南にあってはまだしも穏やかな方である。
”蟹黄”はこの季節が旬である淡水の蟹肉と蟹味噌を肉の餡に混ぜたもので、普通の湯包や獅子頭(肉団子)より少し値が張るがたまにしか来られないのでいいだろう。この店は観光客にも有名になってしまったのであるが、地元の人にとっては依然として忙しい朝に朝食をとったり、包子をテイクアウトして職場に向かう店なのである。

朝食後、午前中に用件を済ませると、少し空いた時間を使って揚州文物商店をひやかす。揚州文物商店は、硯の売り場が大きく縮小し、ながらく二階にあったの硯のショーケースが書画とともに1階に移ってきている。むろん、買おうと思うモノには出会えないし、相場もずっと高くなってしまっている。
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ついで文物商店から程近い、銀杏の巨木が色づいた天寧寺の骨董街の散策で過ごすことにする。昔は地方都市の骨董街は上海の骨董街よりずっと安かったのであるが、今や情報化によって相場が変わらなくなってしまっている。高い家賃を払って古玩城(骨董ビル)に店を構える業者も減り、インターネットでの取引をもっぱらとする方が主流なのである。ここでもモノを買うというよりは、秋の天寧寺の境内散策と合わせて、骨董街をのぞいてみる、くらいの趣向である。
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そこで骨董ではないが、なかなかよく焼けた釣窯のティーセットが一式売られていた。価格は50元と破格である。どこかに瑕疵があるのだろうが、普段使いには申し分ない格好である。とはいえ、釉薬には発色のため鉛や重金属が使用されている可能性がある。
釣窯は基本的に酸化銅、酸化チタン、酸化錫などが使用される金属であるが、発色の隠し味に何を使用しているかは定かではない。使用にあたっては注意が必要である.....と思いながら買ってしまう。怖いのは鉛であるが、たまに酒器につかうくらいは大丈夫であろう。

その後軽く昼食をとり、やはり”滴滴”で車を探す。今度はなんと上海まで帰る車が見つかったということで、一息に上海に戻ったのである。帰途は車中で眠りっぱなしであったので、取り立てて書くべきことがない。それにしても手軽になったものであるが、滴滴を使うには現地の携帯電話番号を持ち、決済の口座がないと利用することができない。その点、改善してほしいところでもあるが、当局者としてはトラブルの発生を考えると、外国人にはあまり利用してもらいたくないのかもしれない。
ともあれ今回もD君には感謝感謝、である。
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揚州文物商店の硯

......揚州に行った際に、天寧寺近くの文物商店に立ち寄った。天寧寺は昔は揚州市博物館があった場所であるが、現在は博物館は郊外に移転している。その代わり、境内には古玩店が軒を連ねている。
大陸の博物館の近くというのは、場所柄、昔から骨董街になっている場合が多く、国営の文物商店もおおむねそこに位置しているものであった。しかし近年、新設の博物館が建設されるに及び、博物館と骨董街の位置関係も変わってきている。
この揚州の文物商店は、はじめて揚州を訪れた十数年前にもこの場所にあったものである。以来、行くたびに少しのぞいてはいるが、買った記憶があまりない。

ここの文物商店、硯や書画は長いこと二階にあったように記憶している。ところが今回、これらが1階に並べられている。また、硯と扇面などの小さめの書画の数量がだいぶん減っているようだ。
話を聞くと、北京から来た人が大量に硯や書画を買っていった、という事だ。むろん、一度にまとめ買いしたという事は、つけている値段よりもいくらか値引きをさせたのであろう。しかしこの数年間、揚州の文物商店では、少なくとも硯にはみるべきものがあったかどうか。
現在に限らないが、ここの硯や印材は”いい値段”をつけている。ザッと見ても数千元から数万元である。ちょっとした大きさの端溪硯が1万元を超えている。値札に10万、とある大硯が目に入る。10万円、ではなく、10万元、である。1元およそ17円で計算できるところだろうか。ここで数千元程度の硯は、十数年前であれば数百元がせいぜいのレベルである。まったく、資産インフレとは恐ろしいものである。

物価の高騰は仕方ないとしても、数千元、邦貨にして数万〜十数万円するのであれば、端溪であればせめて新老坑であってほしいものである。しかし、一見して老坑の端にもかかりそうな硯はただのひとつもない。歙州硯はまだしもとしても、端溪硯は端溪も怪しいような硯ばかりである。端溪石のような、紫ないしは赤味のかかった硯石というのは福州石や金沙江も含めて幾種類かある。それが粗悪な墨で黒ずんでいると、一見、端溪に見えない事も無いのである。こういった硯は、使い物になればまだいいのであるが、硯石としての性能もがっかりすることが多い。
無論、どういった硯が良いかというのはもちろん人の好みであろうけれど、それにしても、たしかにこの程度の硯がこの値段であれば、硯、特に端溪硯は日本で探したほうがはるかに安価である、とは言えるだろう。業者目線で逆に考えると、日本で硯を販売する事を考えた場合、大陸ではもはや仕入れにならない、という事でもある。作硯家に依頼すれば、新硯であっても古硯より高いくらいである。

日本のインターネットのオークションでも最近は端溪硯が多く出ているようで、中には老坑ないしは新老坑であろう硯も散見される。しかし困ったことに、老坑でない硯も老坑のような顔で出品されている、という実情がある。
実のところ(新)老坑か否かの弁別は、骨董を少し扱った程度の経験では十分に出来ないものなのであるが、その辺は等閑視されているようである。なので老坑であればたしかに割安かもしれないけれど、老坑でなければ高い買い物、のようなのが多いのが現状なのである。たまにこれは老坑ですか?という質問が来ることもあるのだが「実物をみないとわかりません。」と答えることにしている。老坑でない、という事までは写真だけでもかなりの確度で判別する自信はある。しかし確実に老坑ないし新老坑か?という事になると、それなりに高い値段がついているし、責任は取りかねる、というところである。

端渓硯の高騰ぶりを確認されるのであれば、揚州までいかなくても、上海に行く機会があれば南京東路の朶雲軒や福州路沿いの古玩城をご覧になっても良いかもしれない。北京は久しく見ていないが、値付けはそれ以上だという。もっとも、その価格で品物が動いているかどうかまではわからない。実際問題、大陸では今回はっきり「不景気」という言葉を耳にするようになった。しかし大陸の不動産の価格もそうであるが、しばし売れていないからと言って、値札を簡単に付け替えないのである。

これから値段があがるので、買うなら今のうちですよ、という事はあまり言いたくないものである。ただ、年々仕入れが厳しくなっている現実は、ご紹介する必要があると考えている。筆の価格などは、今までの筆匠の工賃が安すぎたという事もあり、致し方ない面もある。しかし、文房四寶全般の高騰は、おおむね大陸の資産インフレに引っ張られている面がある。当面継続するのかもしれない。
揚州文物商店や天寧寺の骨董街は、のぞいてみる分には面白いかもしれないが、ちょっと掘り出し物を、というわけにはいかないくらいの値段がついている。昔は地方都市の骨董街は、たとえば北京や上海あたりの古玩城と比べれば、比較的安価なものであった。情報化の影響であろうか、大都市と地方都市でも、骨董の相場はさまで変わらなくなってしまった。当面、硯などは日本で探すのが無難なのかもしれない。
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深圳のシェアハウス

.......商用の渡航の事であるから、泊まる場所の贅沢はしない。大陸の大半の宿の場合、部屋の広さは問題ない。あとは清潔で空調が機能していれば、快適に過ごせるものである。

深圳は宝安空港にほど近い、地下鉄1号線の直上のマンションに、朋友のS小姐とその家族が住んでいる。いつもはそこからほど近い、簡素なビジネスホテルを手配してもらっていたのである。週末を除けば一泊200元前後のそのホテルでの滞在に過不足はなく、充分満足していた。しかし今回、S小姐曰く「あのホテルは往来や車道の音がうるさいであろうから、もう少し静かな場所の部屋を探した。」という。むろん、閑静なのは結構なことである。
こうして紹介されたのが、個人が宿泊用に所有する部屋を滞在者に貸し出している、いわゆる”民泊”のような宿なのであった。

大陸の民泊制度については詳しくないのであるが、はたして外国人が泊まることが出来るのであろうか?正規のホテルであっても、認可がおりていなくて、外国人の宿泊は出来ないホテルというのが稀に存在するものである。
また、だいぶ昔に聞いた話であるが、個人宅に外国籍の者を泊める場合、公安に届け出が必要という制度があったはずである。これなどは「外国のスパイかもしれない。」という、古い時代の名残の制度なのだろうが、それが改まったという話も聞かない。ともあれ、小生がどこどこへ泊るか、泊まったかなどは、入出国の際にも聞かれることなどないのではあるけれど。

個人で貿易会社を営むS小姐は、華為(ファー・ウェイ)に勤める夫と1歳の男の子、また四姉妹の末の妹と一緒に住んでいる。そこへ時折、子育ての手伝いに湖北省の彼女の実家の両親が滞在することがある。
一家の部屋は、大陸の標準としては若干小ぶりな、広さ70平米くらい部屋である。姉と同じく会社を経営する”やり手”の妹は、少し長い休暇をとって、明日からチベットに旅行に行くという。なので2泊目以降、その部屋に泊っていっても良いともいう。せっかくの申し出であるが、商用の旅のことで仕事もするし、やはりそこは朝夕の支度の気兼ねもするものである。
そういうわけで今回手配してくれた部屋というのが、S小姐一家の住むマンションと同じ一群にある28階建ての高層マンションの一室の、そのまた一室、ということなのであった。
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10月の広東はまだ蒸し暑い。香港から高速鉄道に乗ってボーダーのある羅湖に移動し、出入国を済ませてから深圳駅の地下に降り、そこから地下鉄1号線に乗る。この深圳で一番最初にできた、羅湖と宝安国際空港を結ぶ地下鉄の、ほぼ端から端まで移動することになる。
9月に広州湾に侵入した猛烈な台風は、深圳にも相当な被害をもたらしたようだ。無数の気根が垂れ下がる街路のガジュマルやヤシの傷も、まだ完全には回復しきっていない。

宝安空港から数駅手前の駅で降りてから、S小姐の住んでいるマンションに連なる、ショッピングセンターに入る。地下鉄直結のショッピングセンターにつらなる高層マンションは、むろんこのあたりでも屈指の好物件といえるだろう。ショッピングセンターが提供する無料のWiFiに接続し、微信でS小姐に連絡を取ると「まずウチに来なさい、それから案内する。」という。
スーツケースを引っ張ってS小姐の家にたどり着くと、S小姐と1歳になる長男、それに料理の最中の家政婦さんがいた。家政婦さんに家事の一部を委託するのは、共稼ぎの大陸では珍しいことではない。この季節の果物”龍眼”を少しつまんで少し寛いだ後、今夜の宿に案内される。
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S小姐の一家は、地上8階に住んでいる。8階のその部屋からまずエレベータで4階に移動するのである。エレベーターを降りると、厚いガラスに囲まれた明るいエントランスに出る。しかしセキュリティ・カードが無いとここからは出られない。S小姐の持つカードをかざして開錠し、ガラス張りの重いドアを押し開ける。すると熱帯の樹木や草花が植えられた、空中の広場に出る。この広場が一群のマンションを、相互に連絡しているのである。
温室公園の中を進むように、中心の植樹をめぐる道を左回りに進むと、広場を囲むマンションのエントランスが次々に現れる。何番目かの、やはりガラス張りのエントランスの前で立ち止まる。ここで再びセキュリティー・カードで開錠し、中に入る。二基のエレベーターがあり、このエレベータで1階を指定すると、やはりマンション群に囲まれた、先ほどの空中庭園よりも大きな広場に降り立つのである。その広場の小径を経由し、とあるマンションの前にいたる............もうここにいたる過程で、夜になったらひとりで帰る自信がゆらぎはじめている。
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民泊のあるマンションのエントランスは、S小姐が持っているセキュリティ・カードでは開かない。インターフォンのタッチパネルを操作し、26階の所定の部屋番号を指定し、住人を呼び出すのである............正直なところその煩瑣なこと、これなら以前のホテルで良かったと、後悔しかけたものである。
ともあれタッチパネルのインターフォンで部屋の住人を呼び出し、エントランスを開けてもらう。エレベーターで26階に上がったところの一室が、今夜の宿泊場所、というわけであった。部屋の玄関のドアは開け放たれていろ。大陸のマンションによくある構造であるが、玄関を入ってすぐが応接間を兼ねたリビングである。ここで靴を室内履きのサンダルに履き替えるのは、昔はなかった最近の大陸の習慣である。S小姐と小生の姿を認めると、中からひとりの女性が出迎えに出てきた。
年のころは30歳になるかならないかだろうか、肩下までの髪にノースリーブの短い紺のシャツ、褐色のサルエルといった、いたって楽な部屋着のようないでたちのこの女性は、この部屋のオーナーなのだという。彼女は同じマンションの別の部屋に住んでいるそうだ。このマンション群にすくなくとも二つの物件を有するということは、若くしてちょっとした資産家ということでもある。

しかしこの部屋、小生だけが泊まるわけではなさそうである。ざっとみたところ、3〜4人の男女が、既に相当期間ここで生活しているという。たしかに、こなれた生活感がある。
物件の広さはS小姐一家の部屋よりも広く、部屋数から察するに、大陸の標準的サイズといわれる100平米はありそうである。リビングの天井は3mを超えるだろうか。キャンドルを模したLEDのシャンデリアが下がっている。4年前に買ったS小姐の部屋は、今では倍に値が上がり、邦貨にして1億円は超えていえる。同じマンション群のこの部屋も、おそらくは相当な価格であろう。その部屋のオーナーが若い女性というのは.........現代の深圳では、実のところ珍しい話ではないのである。

リビングには男性が2名、女性が1名。ずれも仕事をはじめて数年といった年のころであろうか。とくに当方らに関心を示すでもなく、ソファでノートパソコンやスマートフォンに視線を落とし、ヘッドフォンをかけるなどして思い思いに寛いでいる様子である。リビングとダイニング、キッチン、バス・トイレは共有スペースで、あとは各自の部屋があるようだ。
リビングを通った奥、小生が泊まる部屋に通された。
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部屋の家具としてはダブルサイズのベッドがひとつ。柔らかすぎる枕は仕方がないが、スプリングがしごく硬いのは悪くない。青い色柄のシーツがいかにも民泊である。ベッドに向かって、ハンガーがかかった物干しがある。大陸のマンションはベランダがあまり広くないので、屋内でも洗濯物をよく干すのである。
広い窓際には床の間を高くしたようなスペースが設けられ、小さなテーブルに向かい合った座椅子が置かれている。ここは外を眺めながら、お茶を飲むなどして寛ぐスペースであり、大陸のマンションではよく目にする部屋のつくりである。深圳に限らず、中国のマンションにはベランダが設けられていることが少ないのであるが、その代わりであろうか。
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巨大な姿見の右奥に、個別のシャワールームとトイレがある。この部屋だけ、バス・トイレが別途用意されている。このマンションの一室が、もともと一世帯が住むことを前提に作られていたすれば、この部屋はさしずめゲスト・ルーム、という事であろう。
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住人の男性のひとりは、シャツの上からもそれとわかるようなしごく筋肉質な体格である。両脇の髪を短くカットし、鼻梁が通り、なかなかに端正な顔立ちである。後で聞いた話では、彼は深圳航空の男性客室乗務員、という事であった。大陸の航空会社で、男性の客室乗務員は珍しくない。かならず1名は搭乗しているのである。体を鍛えているのは、機上での不測の事態に備えるためであろう。
女性は長い髪を無造作に束ね、黒のレギンズにフィットネスシャツという格好。長身で細身であるが、よく体を鍛えているのが見て取れる。ひとり掛けのソファに、しなやかに体を丸めて納まっている様が、ネコ科の肉食獣を思わせる。先の男性と同業?あるいは熱心にトレーニング・ジムにでも通っているのかと思ったら、これも後で聞いた話では近くの富裕層向けフィットネスクラブのインストラクターなのだという。
部屋の隅にはダンベルが転がっており、テーブルの上にはハンドグリップが置かれている。筋肉トレーニングの教則本のような本もおいてある............こうしたツールはフィットネスインストラクターの女性が使うのか、あるいは客室乗務員の男性が使うのだろうか。プライベートでも鍛錬に余念がない、といった雰囲気である。
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もうひとりの男性は、やや小太りで........実際はそれほど太っていなかったかもしれないが、他の二人とちがって、肉体を鍛錬している形跡がないのでそう感じた.............シャツに短パン、黒縁のメガネをかけて、ノートパソコンでなにやら熱心に作業中である。日系企業に勤めている、という。彼は日本語が少しできるので、わからない事があれば聞くと良い、とオーナーには言われたのであるが、残念ながら彼ともほとんど会話をする機会が無かった。
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リビングの家具の上にも、めいめいの私物が置かれているのだが、共有スペースのこのような利用の仕方には、きっと暗黙のルールが存在するのだろう。共用のバス・トイレのほかに、小生の部屋だけ個別のバス・トイレがある。誰も泊まる者が無い場合は、住人たちが使っているらしい。短期滞在者がいると、少し不便を感じるかもしれない。
共有のWifiがあるが、小生の泊まる部屋はドアを閉めると電波が遮断されてしまうというので、モバイル・ルーターを貸してくれた。S小姐は、少し休んでから食事に来いといって、自宅に戻っていった。
10月の深圳はまだ蒸し暑い。シャワーを浴びてから、少し休憩し、S小姐の家に向かう。部屋を出る時、リビングにはまだ部屋のオーナーがいた。住人たちとなにやら寛いでいたが、年恰好は近い感じであるから、仲良くなるのだろう。しかし若くしてほぼ同世代の大家さん、という境遇の違いは............気にしても仕方ないのだろう。
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こういったシェアハウスでは、互いに過度に干渉しないのがおそらくマナーというものであろう。特に短期滞在の小生に関心を払うでもなかったわけであるが、不親切ということはなく、洗濯機がどこか?とか、冷蔵庫を使ってもいいか?と尋ねたときはこころよく案内してくれたものである。
むろん短期滞在の事であるし、彼等のプライベートを詮索するのもどうか?というところである。実のところ昼間は所用で目いっぱい出かけており、夜は毎晩、S小姐の家で食事をしていたし、夜は疲れて早めに寝たかった。結局のところ彼等と朝夕のあいさつ以上の交流するまでは至らなかったのである。
やや困ったのが部屋への出入りで、短期滞在者用のセキュリティ・カードの用意が無いのである。エントランス前でインターホンで呼び出してもなかなか開かない。S小姐の話では「部屋にはいつも誰かがいて、彼らはいつも夜遅くまで起きているので、夜の出入りも大丈夫です。」というのだが...........他の住人が入るのを待って、自動ドアをすり抜けることもしばしばであった。こういった行為は他の住人もよくしているので、とくに見とがめられることは無い。
出入りの不便さを除けば、高層階だけにたしかに静かで、なかなか快適な部屋であった。しかしS小姐曰く、おそらくこの部屋に泊まることは二度出来ないだろう、という。なぜなら、オーナーが短期滞在に供していたこの一室は、小生の退去を待って、他の住人が1年契約で住むのだという。最終日、リビングには越してくる住人の所有であろう荷物が積まれていた。
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実際のところ、大都市ではこうしたシェアハウスに住んでいる若者は非常に多いのである。S小姐も、結婚前は妹と従兄弟、時に知人の女性と部屋を共同で借り、シェアして住んでいたのである。後に借りていた部屋を買い取って、新婚の新居としたのであるが、ちょっと無理して買い取ったのは、家賃が半年で月に1000元単位であがるからでもあった。その部屋の価格も今や倍以上である。
このS小姐一家の隣の部屋もシェアハウスで、一か月7000元の家賃を7人でシェアしているという。
小生のとまった民泊は、シェアハウスとはいえ、高級タワーマンションの一室ではあるし、ここに住める彼らは比較的恵まれた方であるともいえる。単身者の住まいとして、引け目を感じることも無いであろう。
しかし、である。仮に1億を超える物件の賃料がひと月7000元(≒12万円弱)というのはどうであろう?投資リターンにして1.5%である.......それでも月に1000元の家賃を払える若者は、まだ恵まれているのである。20代で1万元以上の収入を得る人も少なくは無いが、将来的な支出、とくに不動産購入に備えた貯蓄まで考えると.....とても足りないのである。

一説には、大陸には35億部屋のマンションの在庫があるという。いやそれは誇張で、35億部屋ではなく、35億人が生活できる空き部屋、だともいう。小生が知る限り、もっとも控えめな数字では3億部屋の在庫、である。4人で住んでもやはり12億人分くらいの空き部屋が控えている、という計算になる。この種の統計がいつも怪しげで不確かなのは、そもそも不動産登記がキチンと行われてないからである。不動産登記が曖昧で済むのは、不動産にかかる固定資産税が無いからでもある。固定資産税が無いからこそ、高騰する物件もいつまでも保持できるのであるが、それが不動産価格が高止まりする要因にもなっている。
先日のBloombergの記事。四川省成都は西南財経大学の甘犁教授が試算したところによると、中国の都市部の空家率は22%で、ざっと5000万戸の空家があると。東京都の空家率が11%、という事を考えるとたしかに高い数字だが、直感的にかなり控えめな数字であるとの印象は否めない。
そもそも中国の「都市部」の範囲がどこからどこまでなのか?がわからないが、東京の多摩ニュータウンや大阪の千里ニュータウンにくらべて面積も数倍、マンションも高層といった、空家の巨大高層マンション群の数々をみてきている者からすると、空家は少なくとも億単位、と考えたくなる。

ともあれ大量の不動産の在庫がありながら、それに手が届かない若者や庶民が大勢いるのである.......彼らは仕事の能力がないのではなく、ほんの少し生まれるのが、社会に出るのが遅かっただけなのだ。この種の矛盾は、深圳のおとなり香港でも、より先鋭化した形で見ることが出来る。とどのつまり、資産インフレというのは、先に生まれた世代が得をするだけの世界なのかもしれない.............
大陸でシェアハウスが流行しているいまひとつの事情は、経済的事情もさることながら、もともと単身者用のワンルーム・マンションが少ない、という事もある。単身者に向いたような小さな部屋のワンルームマンションが造られないのは、家賃収入よりも不動産の値騰がりによる利益がはるかに大きいからであろう.........さらにいえば、意外に大陸の若者は共同生活を苦にしない、という事だ。逆に一人は寂しいのだという。確かに、朝はともかく、夜にひとりで食事している若い人というのはあまり見ないものなのだ。そういう意味では欧米でも”ルーム・メイト”という存在は珍しくないから、シェアハウスが流行語になった日本の方が少し変わっているのかもしれない。

さて、帰国前日の深圳最終日。香港にもどる朝は、皆出かけていったのか、リビングにも誰もいなかった。もう少し交流する時間があれば、微信を交換するなどして、夜間の出入りも楽になっていたかもしれない。いかんせん、商用の旅である...........しかし思い起こせば、少し不思議な取り合わせの住人たちであった。..........彼等はそれぞれ昼間の仕事をしながらも、イザというときは一致団結して巨悪と戦うのかもしれない。筋肉質の男女は武闘派、眼鏡のエンジニアはハッキングか武器開発が担当かもしれない。そして部屋のオーナーの美女がスポンサー........などという埒もない事を少し考えながら、重たくなったスーツケースを引きずりつつ、マンションを後にした。
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豪雨・欠航

.......少し前の話題。2017年9月の渡航で、帰国の前日。泊まっていたのはいつもの上海浦東新区である。その一帯が夜半近くから、時ならぬ驟雨に見舞われた。
ちょうど腹ごなしに、宿泊先付近をひとりで散策していた時であった。空模様を油断していただけなのであるが、丸腰である。とはいえ、仮に傘などを持っていたとしてもまるで役に立たぬ雨勢である。上海旧市街とは違い、浦東新区はすぐに駆け込めるような店舗はあまりない。このようなときに、タクシーなど全然捕まらない。手を挙げていてもアッサリと素通りされる。幸い、深夜まで空いていたカフェがあった。そこに駆け込んで暫時雨宿りである........しかし雨は強弱緩急をつけながらも降りやまない。閃光がまたたき、雷鳴が轟く......
コーヒーが空になったところで、就寝が遅れるのもどうかと考え直し、若干雨音が弱まったスキに店を出た。雷雨特有の冷たい雨ではあるが、このときは例年になく暑い9月で、多少濡れても寒いということは無い。とはいえ歩き出してしばらくすると、再び雨脚が強くなる。もともと人口密度の低い上海郊外の浦東地区であるが、この深夜の豪雨で無人の街のようである。
道路はたちまち小川のような流れにかわる。うっかり流れに足をいれて、排水溝などの深みにはまると危険である。十字路の、側道の交わるあたりは、浅瀬なのか淵なのか、深さが見当もつかない。矢玉のような雨がたたきにたたいて白く水煙があがり、まるで煮えたぎった湯が流れているかのようである。LED街灯の無機質な白い光だけが、煌々と水の流れを照らしている。
全身濡れそぼりながらも、ようよう宿に帰ることができたのであるが、時刻は午前2時を回っていた。眠りにつきながらも、この雨で上海周辺の航路は大混乱に陥っていることが思いやられた。
翌日、帰国便は夕方6時の離陸予定である。雨はほそぼそと降り続いてはいるが、勢いはだいぶん弱まっている。友人が手配してくれた車で、定石どおりに離陸予定の2時間前に空港に到着する。が、果たして、というべきか、大幅な遅延である。チェックインカウンターで『出発は夜の11時30分』と案内される。むろん、空の便の混乱は自分が搭乗予定の便にとどまらず、浦東空港を利用する航空各社各便に及んでいるようだった。なので空港ロビーは便をまつ人々でごった返している。
後で知ったことであるが、昨夜の豪雨で上海の浦東、虹橋の両空港で数百便が遅延・欠航していた、という。今日はかろうじて離陸可能な状態のようであるが、昨夜欠航・遅延になった便の離陸が押しに押していて、今日の便も遅れに遅れている、という事である。雨は弱まったとはいえ、空港上空は厚い雲が覆い、離発着のコンディションは必ずしも良くは無いであろう。
チェックインは済ませたものの、このまま出国審査を済ませて、搭乗口に向かうべきか?と、ふと考えた。何度も利用したことのある浦東飛行場であるが、搭乗口周辺に時間をつぶせるような、手ごろな(気の利いた)店舗は乏しいのである。この時、多くの人が搭乗口で待たされているであろうから、混雑も予想される。充電できるような場所もあまりないから、パソコンを開いて仕事をするにしても不便である。いっその事であるが、空港を出て、近郊の適当なカフェなりで時間を待とうと考えた。
そこで空港の荷物預かり所に荷物を預け、地下鉄2号線で上海市街に向けて数駅戻った”川沙鎮”という街に向かったのである。
川沙鎮は、上海市街の喧騒に飽いたときに、時折訪れる小鎮である。上海旧市街からは距離があるが、宿泊している浦東からはほど近い。清朝の昔、上海周辺の水郷小鎮は富商一族で栄えていたのであるが、川沙鎮もそのひとつである。再建された楼閣が往時の繁栄をしのばせるが、今やこれと言った歴史文物があるわけではない。しかし上海市に属しながら、江蘇省の小さな田舎町のような雰囲気がある。以前は夜になると屋台が軒を連ねたり、骨董を売る露店などもあったのだが、ここ数年で屋台の取り締まりが厳しくなってからは姿を消している。

とはいえ、今や上海市内でも珍しくなった、昔ながらの湯包を売る店などもある。この徐盛昌湯包店は、いくつかの分店をもつ湯包店なのであるが、近年のシステム化が進んだチェーン展開の飲食店と違い、手作り感を残した店である。上海市街では、人手のかかる湯包店が次々に姿を消しているのであるが、川沙鎮はまだしも店舗の賃料なども安いのであろう。オーダーの仕方も、昔ながらのカウンターで先払い方式なのである。ここで軽く夕食をとることにして、湯包と三鮮砂鍋を頼んだ。砂鍋というのは、日本でいう土鍋の事で、粉丝(春雨)の入った小鍋料理である。蘇州周辺、江蘇省の湯包店や餛飩店ではたいてい供されている。簡単ながらも多少手の込んだ料理というのは、空港のカフェなどではまずお目にかからないのである。
食事を済ませて外に出ると、まだ雨が続いている。まだ離陸予定時刻にはたっぷりと時間がある。
川沙鎮には、瀟洒な雰囲気のBARやカフェなどが出来ている。駅から5分ほど歩いたところに、道路に面してテラスを出した(雨で座ることが出来ないが)水色のレストランカフェがあったので、そこで雨宿りがてら時間をつぶすことにしたのである。

こういった、大陸大都市に最近みられる西洋風のレストランカフェやBARというのは、資金に余裕のある人々が、自身の海外留学や海外赴任の経験をもとに、なかば趣味で経営している店が少なくない。この店も、輸入ビールやワインをメニューに載せているが、上海市内の......たとえば衝山路あたりの洒落たお店に比べると、ずっとリーズナブルなのである。
時間つぶしにビールと、フレンチフライを頼むことにする。瓶のビールにグラスを添えて持ってくる。ドイツ製のビールは良く冷えて本物であった。また、ほどなく運ばれてきたフレンチフライは黄色い山を成している。空調も寒からず暑からず、湿った衣服の身にはここちよい空気である。
川沙駅からしばらく歩くと、上海でも今流行りの”スーパー銭湯”と見受けられる建物が見える。ここで風呂にでも入りながら、駅へ行く時間を見図ろうと考えた。
ここの”スーパー銭湯”は、韓国資本と思しきこしらえをしており、目新しい思いがした。浴槽はまだ新しく清潔で、数種類のお湯が楽しめる。
ゆっくりと湯につかってから、休憩室で休んでいると、航空会社からメールが飛んできた。メールに曰く「出発は午前2時に延期になりました。」という事である......いかんともしがたい。中国語的に言えば、メイバンファ、没法子、である。夜2時に離陸という事であれば、夜の12時に空港に戻れば間に合う算段である。
この時点で、さらなる遅延が予想された。空港の商店も閉まっているであろうから、コンビニで水と若干の軽食を買い、タクシーに乗り込み、空港へ向かう。川沙鎮から空港までは30分くらいの距離である。
そこで再びチェックインカウンターに向かうと、のるべき便の航空会社のロゴが掲示されたカウンターには、乗客が列をなしている。ずいぶんと長い列である。しかしふと思うのは、皆、スーツケースを持っている。これはいささか妙である。というのは、大半の乗客はチェックインをすませて、預けるべき荷物は預けているはずだからである.........並んでいる人に「あなたは大阪へ向かうのか?」と聞くと「違う、東京だ。」という。東京方面の便もおそらく遅延していて、今になってチェックインするのだろうか.......最近は同じカウンターで別方面の便もチェックインするから、同じ列に混在しているのだろう、と考えているうちに自分の番がくる。

スタッフにパスポートと見せると英語で「大阪?この便は大阪へは行きませんよ。」という。「どうしてか?」と聞くと「えー、私にはわかりません.....」という事である。どうも、深夜の事とて、航空会社のスタッフではなく、空港の地上業務請負のスタッフなので、要領を得ないそうなのである。見渡したところ、目の前のカウンターには、搭乗予定の日本の航空会社A社のスタッフらしき制服が見当たらない.........これにはいささか愕然とした......とふと右手を見ると、同じカウンターのならびに主に日本人らしき人々が、荷物を持たずに並んでいる。あるいはもしや、と思ってその列の最後尾の人に聞くと、果たしてそこが、搭乗予定の飛行機の旅客たちの列なのであった。しかしこのカウンター、窓口頭上のディスプレイには、中国の他の航空会社のロゴは表示されている........そして列を受け持つ係員から手渡されたのが「欠航」の案内である.......

要はこの航空会社のスタッフも、乗客は皆、搭乗口で待っていたと思い込んでいたらしい。まさか遅延を見越して近郊の街で時間つぶしをしている旅客がいようとは、思いもよらなかったのかもしれない。
そう考えるのも無理は無いが、当方としても別段、規則に反することをしたわけではない。遅延の案内は事前に電子メールでも案内される。出発予定が大幅に遅れても、当初の出発時間に合わせてチェックインしなければならない、という事ではないのである。とはいえ、大方の人は定刻に合わせてチェックインを済ませたのであろう。そして搭乗口で待たされながら、再度の遅延をアナウンスされ、最終的に「欠航」という事で再入国し、チェックインカウンターまで誘導されてきた、という事なのであろう。
これが大陸の国内線の場合、遅延は常態化しているのであるが、そのような場合は搭乗口でおとなしく待つしかない。遅れる場合はさらに遅れるのが普通なのであるが、まれに出発が早まることもある。そうした時、乗客のひとりやふたりが勝手にどこかでレストしていたとしても、構わず出発してしまうものなのである。
しかし国際線、それも日本の航空会社の場合、遅れるといいっておいて離陸OKになったから時間を早めて出発、という事は(たぶん)無いだろう。
ともあれ「欠航」である。しかも深夜12時を回った上海で、である。封筒を渡され、中には人民元で100元札が10枚入っていた。これが今夜の宿泊交通費、というわけであるが「今夜の宿はご自身でお手配ください。」とある........いかんともしがたいので浦東のD君に電話して、家に泊めてもらう事にしたのであるが、もし大陸に不案内な個人旅行者であればどうしたであろうか。むろん、空港周辺のホテルはほかの便の旅客も合わせて、一杯になっているはずである。深夜のこの時間で、上海市内に一部屋確保する手腕など、誰にでもあるわけではないだろう。ツアー客などは、ツアーコンダクターなり、旅行会社がまとめて引き受けているようであるが。やはり空港のロビーで夜明かし、という事になるのではないだろうか。
後に知人に聞いたところ、そういう場合はあえて航空会社に、宿が手配できないか聞いた方がいい、という事だ。「各自手配してください」とは言うものの、どうしようもない客のために、若干の部屋は確保しているはず、という事である。仮に右も左もわからないような、年若い女性を深夜に放り出して、何か難儀な目に遭ったら、という事もありえるだろう。

その夜は再びタクシーを飛ばして浦東のD君宅に泊めてもらい、翌日、同じ時間の便で無事帰国したことまではくだくだしく書かない。D君曰く「日本の航空会社は旅費交通費まで出してくれて親切ですね。大陸の会社だったら、何もしてくれませんよ。」という事である。
いままで「遅延」は何度かあったが「欠航」は初めてであった。なるほど、相当な悪天候の場合、「欠航」にも備えておくべきなのだなと、これも一つの経験であった。
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浦東空港から杭州東駅に車で移動、高速鉄道に乗るまで 2018年1月

今回は、いや今回も、というべきか、大陸への渡航は日程にあまり余裕が無い。上海浦東空港に到着するや地下鉄2号線に乗り、”広蘭路”という駅で降りるとD君が車で迎えに来てくれている。スーツケース積み込んで、そのまま杭州へ移動...というせわしさである。本来なら上海で1,2泊はしたいところであるが....
商用の旅であるから、これもいたしかたないとはいえ、昔のゆったりとした大陸旅が懐かしい.......ともあれD君、黒いミニバンサイズの自分の車を運転してきている。見た目にも新車ではないのであるが......「車買ったの?」と聞いたら「友達からもらった。」という事である。手ズレ感は否めないが、まだ運転に自信が無いので練習用にこれで充分、という話である。D君は自分の会社用のオフィス・ルームはポンッと一部屋買うくらいのことをするのであるが、仕事以外はいたって質実剛健、なのである。今日日の若い老板(社長)としては珍しい人物かもしれない。

しかし走り始めても、スピードメーターが一向に上がらない........なぜ?壊れているのだそうだ......そのかわりにダッシュボードの上にスタンドでスマートフォンを固定し、このスマートフォンが速度をフロントグラスに投影している......おそらくGPSを搭載したアプリケーションが移動速度を計算して表示しているのであろうが.......車検通っているの?などという質問はするのも愚かである。他にバックミラーも、みると鏡ではない。バックミラー型のカラー液晶画面に地図が表示され、別途音声で行先をナビゲーションしてくれているのである。

D君は時折「小妹、小妹」と話しかけると、バックミラーのアプリからであろう、女性の声で「我在ヨ〜」というかわいらしい返事がある。D君はその声に向かって、誰それに電話しろだの、どこそこへのルートを検索しろだの、といった指示をすると、その通りに実行される。このAI(?)アシスタント・ソフトウェアによって、ハンドルを握りながらでも電話をしたり、ナビゲーションを操作したりできるようになっているのである。
......その昔、人工知能を搭載した、しゃべるスーパーカーが活躍するアメリカのドラマがあったように記憶しているが.......そういった自動車に、まさか大陸で乗ることになるとは思わなかったものである。

スピードメーターが壊れていたら、日本の公道は走れまい.........このような状態の車に、自前で計器類を積んで走らせているような体裁であろうか。ブレーキを踏むと、後輪のほうでギシギシという音がする。まあ、無事に着けばよことではあるのだが、D君には「一応、修理に出したほうが良いよ。」というのみである。
上海から杭州へ延びる高速道路の走行は、これがいたって単調な道のりで、日本の高速道路ではありえないような長い長い直線が続く。眠くなるのではないか?という懸念もあるが、運転歴の浅いD君にはこの方がいいようである。

高速道路の途上には、サービスエリアが設置されている。大陸に高速道路が建設され始めた当初は、サービスエリアといっても、食べるところも買うものも、いたって簡単なものしかなかったものである。しかし最近は、軽食類から本格的な食事までそろい、またご当地のお土産類も充実しはじめている。しかしD君と私の定番は”五芳斎”の粽なのである。この竹皮で包まれた粽は、今や江蘇や浙江のサービスエリアではどこでも売っている。安価で温かく、手軽に食べることが出来て至極腹持ちが良いのである。日本ではさしずめコンビニのおにぎり、というところであろうが、大陸の人は基本的に冷めた食べ物は好まない。粽がここまで拡大したのも、そういった食習慣が影響しているのかもしれない。

車は杭州東駅の、地下駐車場に駐車し、高速鉄道に乗り換える予定である。杭州市街の渋滞を覚悟したが......料金所を出たところで渋滞に巻き込まれる.......しかしこの渋滞、よく見ると道路の構造上、起こるべくして起きている。
というのは、7〜8レーンほどある料金所から、一般道へ延びる道路の幅が急速に収斂しており、最後は2車線の狭さにまで狭められている。ちょうど液体が漏斗の出口に向かうように、車同士が割り込みあいながら進むものであるから、当然のごとく渋滞するのである。車線の減少が、距離に対して急激すぎるのである。日本の高速道路でも、出口付近は渋滞しやすいのが常であるが、その比ではない。極め付きは、2車線から市街の幹線道路へ接続する箇所に信号機が設置されていることである。この信号機によって、2車線を進む車は交互に片側一車線づつしか幹線道路に合流出来ないように規制されるのである。これでは渋滞しない方が不思議である。D君と二人して、この交通システムを考えた設計者をさんざんに罵ったものであるが........

杭州市街を杭州東駅にひた走る。杭州東駅周辺は、落ちかかる西日が道路に反射してまぶしいことこの上ない。高速鉄道の出発まであと30分程度である。間に合うかどうか......何故だか”走れメロス”を思い出してしまう。ともあれ駅に着いたが、広大な大陸の駅のこと、駐車場までは距離がある。D君は駐車場に車を停めてくるから、私は先に窓口で切符を受け取りに行き、後で合流することとなった。
私の高速鉄道の乗車券は、D君が購入済みである。購入済みであるが、窓口で身分証(外国人ならパスポート)を見せて、乗車券を受け取らないといけないのである。日本の新幹線に乗る時に身分証は必要ないが、大陸旅では身分証なくしては列車の旅は出来ないのである。インターネットで乗車券が買えるようになったのは便利といえば便利なのであるが、窓口に並ぶのは相変わらずである........大陸の人々は、身分証(IDカード)があれば自動発行機を使用することが出来る。しかし外国籍のパスポートには対応していないのである。
時間が差し迫っている場合などは、これがもどかしい。以前、深圳から武漢に高速鉄道で向かった際は、時間が無いので購入完了の画面をスマートフォンで見せ、それとパスポートを提示して乗り込むことが出来た。このような手段が採れない事も無いようだが、そのような事は誰も教えてくれないのである。
しかし杭州東駅の切符売り場「售票処」には、親切にも外国人専用窓口があり、他の窓口よりは並んでいる人が少なかった。比較的スムーズに切符を受け取ることが出来た。
駅の構内に入る時には、空港並みのセキュリティチェックを受ける。大荷物を抱えていると、これがなんとも煩わしい.......電話で「候車口」の番号をD君に教えて待っていたが、車を停めたD君と合流できたのはまさに改札が始まった時であった........乗車券を改札機に通すが、うっかり切符を裏にしたり、逆さまにすると改札が通れない。改札口には係員がついており、改札機に切符を入れる要領を得ない乗客に指導している。半自動改札、なのである......ともあれ座席に座れば一安心である。

大雑把に言えば、隅々まで浸透したスマート決済もそうであるが、既存のシステムをより便利にするというより、システムの不足や不備をいきなりソフトウェアや電子デバイスが補っている、というようなところがある。日本の場合、いたるところアナログ的なシステムが成熟しているので、それをデジタルで刷新する必要性があまりない、という事もあるかもしれない。
とはいえ、今や大陸の方が日本よりもはるかに進んでいるような印象を覚えないわけにはいかない。進んでいる、進んでいるのは確かかもしれないが、では総体として「便利か?」と聞かれると、少し考えてしまうところである。
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地下鉄のキャッシュレス

急速に拡張が進む上海の地下鉄であるが、一回一回切符を買うのは至極面倒である。例の使い勝手の悪い券売機の前の列で待たされることもあれば、券売機がマトモに稼働していない場合もある。よくあるのが「Coin Only」という表示で、要は釣銭が切れているのか、硬貨でないと買えないのである。おり悪く日本の500円玉とほぼ同じ大きさの1元硬貨を複数枚持っていないと、時に地下鉄の乗車券も満足に買えない。深圳の地下鉄では、紙幣が使えても5元札か10元札しか使えない、という券売機で難儀したことがある.......
そこで頻繁に地下鉄を使用する場合、日本における場合と同じく、料金をチャージして使用するICカードを使うことになる。この地下鉄のカードは大陸で共通化されていない。上海なら上海の地下鉄カード、深圳なら深圳の地下鉄のカードが必要になる。とはいえ少額なものであるから、都市ごとに作り、毎回の渡航時にこの地下鉄のカードを持って行っていた。しかし今回久しぶりに渡航するにあたって、上海の地下鉄のカードに限って、日本から持ってくるのを忘れていたのである。

仕方がないので、新たにカードを買うしかない。このカード、以前は地下鉄駅の窓口で購入できた記憶がある。世紀大道の地下鉄2号線の駅、改札近くの窓口に行く。しかし窓口では今やこのカードが買えないという。
2015年を以て、地下鉄カードの窓口での販売を取りやめたそうだ。以前は地下鉄のカードの購入、およびチャージをするために、改札近くに設けられている円形のカウンターの窓口には、人が群がっていたものである。省力化のためであろうか。今ではこの改札窓口に人が並んでいる光景を目にしない。ともあれ地下鉄カードの販売をやめるのは勝手であるが、ではどこで買えばいいのであろうか?一応、どこそこに一か所、発券所がある旨、書かれているのであるが(どこの駅でもあるわけではない)。行くのは面倒である。
あたりをみると地下鉄の券売機ならびの横には、カードの販売、およびチャージを行うと思しき、いささか目新しい機械がある。ところがこの機械、現金の投入口がどこにも無いのである。ロゴマークの表示を見る限り、銀聯の決済が使えるようであるが.......香港の地下鉄のカード、通称”オクトパス”は現金でカードを買えるし、コンビニでチャージも出来る。深圳は臨時窓口のようなところで、カードを現金で売っている。上海ではいち早くキャッシュレス化、ということなのだろうか。ともかく、大陸のデビッドとしては古株の、銀聯カードがあれば買えるようである。幸いにして、銀聯の機能が付与された中国銀行のキャッシュカードを持っていた。

これを使用して買おうとしたのであるが..........どうも50元分の乗車料金と、カード発行手数料の20元分の決済は終了したと思しき反応が、機械の表示からは見受けられたのであるが、肝心の地下鉄のカードが出てこない。いくら待っても出てこない。
仕方がないので、改札口に設けられている窓口の駅員に聞いてみた。駅員も要領を得ないような表情で、その辺の他の駅員を呼び、何やら相談していたのであるが、別の駅員の付き添いで、発券機のところでもう一回やってみるように言われる。同じ手順で50元分のカードを買おうとしたところ、今度はなにやらレシートのようなものが出てきた。1回目のトライではレシートすら出なかったが。レシートにははっきりと、50元分のチャージと、発行手数料70元が引かれた明細がプリントされている.........ところが、いくら待ってもカードが出てこない。今度は駅員の目の前である。そこでまた窓口の方に行って駄目だった旨を伝えたのである。窓口の中年配の女性の駅員は、面倒くさそうにファイルを引っ張り出し、いくつかページをめくっていたが、対処法がマニュアルになかったのであろう。あきらめた顔で「カードの自動発行機のところに電話番号が書いてあるから、そこに電話するように。」と、言うのである.......カードの券売機の事は、会社が違うからわからないと言う.........電話しても、決済は済んだがカードが出てこない、2回試したが駄目だった、などという事をどう説明したものか。
付き添った店員は素知らぬ顔でどこかへ行ってしまった........不案内な外国人に代わって、ちょっと電話で状況を説明してくれてもよさそうなものなのであるが........ああ、この塩対応、どこか懐かしさを覚えるこの感じは......と記憶を揺り起こしてみると........そう、これは紛れもなく、昔の社会主義中国、皆が国営だった、あのころの雰囲気である。あの頃はまだ骨董街で安価に面白いモノが買えたなあ......と感慨にふける暇もなく、この時は人を待たせていて時間があまり無いので、とりあえず普通の券売機で一回分の券を買って先を急いだのである。

夕方、上海人のD君に会ってそのことを話すと「それは”メイバンファ”ですね。たぶん、電話してもラチあかなかったでしょう。その発券機の会社の人は、駅員に聞いてくれ、と言ったでしょう。」という。まあ、2回分で140元、邦貨にして2,000円超は授業料という事か........もう少し長期滞在で時間があれば、そのカード発行機のサービスに電話してみるのも一興であったかもしれないのであるが。

それにしても現金でカードが買えないというのは、時には不便である。思えばたまたま銀聯を使えるキャッシュカードを持っていたからまだ購入をトライできたが、現金しか持っていない、海外からの短期滞在者はどうすればよかったのであろうか。
この地下鉄カードの発券機が、現金で購入できないように作られている理由としては、ひとつにはコストの問題があるだろう。硬貨や紙幣を扱うメカニズムというのは複雑で、動きのある機械というのは故障しやすく、メンテナンスも必要になる。センサーやアンテナで、ICカードを読み取るだけの機構であれば、ある程度簡単なもので済むのである。
また便利なようで不便なのは、この上海の地下鉄のカードは、他の都市では使用できないのはもちろん、地下鉄に乗る時しか通用しないのである。日本のこの手のICカードであれば、他の鉄道会社にも乗れるし、買い物も可能である。たとえば香港の”オクトパス”は、やはり地下鉄やバスだけではなく、コンビニやスーパーなどでの買い物も可能である。香港などは硬貨が大きく重いので、”オクトパス”カードに多めにチャージしておくと、小銭を持ち歩かなくてよく(香港の硬貨は英国を倣って大きくて重い)、さらに便利なのである。

ともあれ猛烈な勢いでキャッシュレス化が進んでいる大陸であるが、なかば屋台のような零細な飲食店の、至極少額の決済であってもスマートフォンで行うようになった理由のひとつには、偽紙幣の横行も影響している。最高額紙幣の100元札だけではなく、10元や20元など少額な紙幣にまで偽札が氾濫し、1元硬貨に至っては、そのまま通用しているようなありさまである。キャッシュレス化は、要は自国の貨幣に信用が無い、という事でもある。
とはいえ、現金で支払うことができないわけではもちろんなく、タクシーでも飲食店でも、いまもって現金払いは可能である。しかし何故、地下鉄のカードは原則出来ないのであろうか........?ICカードの利用によってキャッシュレスになったところで、そのICカードの購入もキャッシュレスとは........たしかにお金など、数字の羅列にすぎないのであろうけれど。
キャッシュレスにするのはまあ、良いとしても、扱う機械が故障しているのでは意味が無い。また機械というものは、そのそも故障するという事を前提に業務を組むべきであろう。

大陸で急進するキャッシュレス化に、ひとりの外国人としてはついていけないものを感じるが.....便利になったのか不便なのかわからない。どうもこのキャッシュレス化、そもそもの利便性の向上とは別の理由があるのではないか?と考えたくなる。急激に拡張する上海......に限らない、大都市の地下鉄網であるが、あるいは人員の拡充がついて行っていないのかもしれない。
昔の大陸の鉄道や空港といえば、数人かたまってのどかにおしゃべりをしている年配の駅員の一群をどこでもみかけたものである。しかし今は何かを聞こうとしても、しかるべき人を捕まえるのがとにかく難しい。それらしい人を捕まえて尋ねても「私は駅員ではありません。」という事が多い。インフォメーションのカウンターがあっても、そこのスタッフは駅の事はまるで知らない、という事もままある。
人員が拡充されているのは、改札を通る前のセキュリティチェックの要員ばかりである。改札前のセキュリティチェックの要員は、以前はまるでやる気がなく、大半の人が無視して通過していたものであるが、今ではきちんと手荷物をスキャンしないと通してくれない。どころか、荷物の内容を確かめられることもある。こういう部分だけは管理が強化されているようである。
それは都市の地下鉄に限らず、国の大号令で進む鉄道や空港でも同様である。空港内ないしは駅の構内に入る前に、かなり厳重にチェックされるのである。さらにいえば、赤字経営が必然のこれら公共インフラの経営には、セキュリティ以外の部署での、人員確保の余力がないのかもしれない。キャッシュレス以前に、要ヒューマンレス、という事情があるのではないかと、考えたくなる........昔の大陸の交通機関は、人が多い割に処理が遅く、なかなか思うように事が進まない場合が多かった。いまさらながらにアナログ的手段も残しておいてほしい、と思う出来事であった。
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深圳北駅で高速鉄道にのるまで

深圳から随州へ向かう際には高速鉄道を利用した。深圳北駅から乗車し、武漢駅へ向かうのである。高速鉄道は時期に関わらず当日券を買うのは既に厳しい利用状況であるから、予約が無難である。
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今回は湖北の朋友に予約してもらったのであるが、現在はインターネットで予約ができるから便利である。外国人の場合は、姓名とパスポート番号を連絡しておけば、本人でなくても予約することが可能である。予約時に決済も出来るが、チケットは基本的に駅の窓口で受け取らなくてはならない。
実はこれがなかなか難儀な話で、いまどきは皆々、インターネットで予約しているから窓口も勢い長蛇の列になる。自動発券機のようなものがないか?といえば、ある。しかし身分証番号をもつ中国人民にしか使えない仕組みになっているから、外国人は利用できないのである。
仕方なく窓口に並ぶのであるが、窓口には予約をしないで当日券を買おうとする人や、予約を変更しようとする人も並んでいるから、ある程度の時間は覚悟しなければならない。
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高速鉄道は何度も乗っているが、深圳北駅から乗るのは以前に湖南省の長沙に行ったとき以来である。およそ、高速鉄道の駅は実に広大に造られているである。とくに広東の高速鉄道の駅、広州や佛山など、ここで国際見本市でも出来そうな容積である。
窓口で並ぶ必要があるので、1時間前には到着した方が無難なのであるが、この日の深圳北駅は見込み見当が外れてしまった。深圳北駅も例にもれず、野球とサッカーが同時にできそうなほど広い上に、この駅は窓口などの配置が(慣れないせいか)よくわからない。だいたい、正面入り口に向かって左右に窓口があるものなのであるが、「售票処⇒」の表示が見やすいところに無いのであった。
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入り口から人があふれ出て大長蛇の列を造っているところがあるので、あるいはこの列なのかと、嫌な予感もしながら後尾の人に聞いたら「そうだ。」という。普通、列を作っているといっても、售票処の中で窓口毎に列をつくっているものなのであるが、この日の深圳北は様相が違っている。ともかくも最後尾に並んだのであるが、いっかな列が動かない。
一応、ロープで行列のルートが仕切られて、折りたたむように"售票処"、日本で言えば”みどりの窓口”の中に続いているのであるが、その售票処の中にさらにどれくらいの人が並んでいるか、皆目見当がつかない。
およそ、窓口に並び始めて30分もすれば一応は先頭にたどり着く。運が良ければ十数分である。これはおおむね、上海南や上海虹橋、鎮江などの江南の駅での最近のリード・タイムなのであるが、どうも今日の深圳北はそれどころではないようだ。乗車券を受け取ってからも、駅ロビーへ入る時のセキュリティ・チェックや、また広大なロビーを目的の乗車口まで歩いてゆく時間も考慮すると、どうも間に合うような雰囲気ではないのである。
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駅のロビーへ入るセキュリティ・チェックは、外国人の場合はパスポートと乗車券を見せなければならない。当日の乗車券の無い人が勝手に駅に入れないしくみなのである。つまり乗車券を発券してもらえないと、普通は中に入れないのである。しかるべき駅員を捕まえてどうするべきか聞こうとしたのであるが、この膨大な人々の海の中で、口をきいてくれそうな駅員を探し出すこと自体が至難である。
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時間は刻刻と過ぎてゆく。しかたないので、朋友が画像で送ってくれた乗車券の予約が完了したという画面を携帯に表示し、それとパスポートを見せて駅に入れないか、ないしはどうすべきかセキュリティ・チェックの人に聞こうと思って駅の入り口にならんだのである。見ると、私だけではなく、前方に並んでいる何人かが、携帯の画面を見せてチェックを通り抜けている。これはいけるかもしれない。
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案の定というべきか、チェックの係員は何も言わずに通してくれた。しかし、乗車券が無いので、列車にのれるのかどうかは分からない。係員に言うと「中で聞いてくれ」といわれる。誰に聞けばいいのだろう...........
駅の中に発券窓口でもあればいいのであるが、そうしたものはない。ただ自動発券機は何台か置いてあって、中国人民はこれで発券することが出来るようになっている。
朋友に電話でどうしたら良いのか聞いたのであるが、まわりがうるさいのと電波が微弱な為か、よく聞き取れない.....。
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駅中は巨大な待合室になっており、十数メートルおきに改札口がある。自分が乗る列車の改札口へ行っても、駅員らしき人物は誰もいない。インフォメーションでもないのかと歩いているうちに、駅の反対側の入り口のところまで来てしまった。たいてい、広東の高速鉄道の駅は反対側にも入り口がある。場合によっては窓口もあり、それはオモテの窓口よりすいていることがある。あるいはとおもって、一度駅を出たら、はたして售票処があった。その中に入るまでに並ぶという事もない。これは良いと思って中に入って、ある窓口に並んだ。ところがこの窓口がなかなか動かない。ひとりの人物の処理に十五分くらいかかっている。前にはまだ10人くらいの人がいる。
このとき気が付いたのであるが、窓口の上に設置されている大型のLED表示板に、列車の空席や運行状況の表が表示されている。それはどこの駅にも設置されている設備なのであるが、そこに「温聲提示」......「温い聲」というわりには、良いお知らせでないのはよくある事だが..........そこには台風接近のため、深圳から南へ向かう列車の多くが運行中止、という告知が表示されているのである。

おそらく長蛇の列と、列の消化がなかなか進まないのは台風接近による運行の乱れが原因であろう。単にキャンセルする人もいるのかもしれないが、日程をずらしたり、路程をかえる人もいる。並ぶ前に考えてくれればいいのであるが............たいていの人は窓口と相談しながら決めるのであるから、これが進まない。
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幸い、深圳から西北の武漢へ向かう高速鉄道は正常運行である。ともかくこの日の深圳北駅は、台風接近のために幾分”非常事態”といえるのかもしれない。非常のときは大抵.........非常手段が使えるものである。
先ほど駅のセキュリティを携帯電話の予約画像で通った手が、おそらく改札時、乗車時にも使えるのではないか..........そう考えて再びセキュリティ・チェックを通って駅の中にはいり、120ヤードほども荷物を引きずりながらロビーを走って改札口へ向かうと、いまにも改札が始まりそうな時刻である。改札が始まる直前にならないと駅員は来ない。改札でダメと言われたらアウトである。ここがこの<<社会主義国>>の難しいところで、今日のように非常時には非通常の手が通ることがあるのだが、融通が利かないときには全く利かない。ともあれもう時間がないので運次第である。
駅員が来ると人が改札口に人が押し寄せて、駅員の側に近づく事も出来ない。が、しかし、ここでも何人かがチケットの代わりに携帯電話の画面をかざしている........難なく乗車することが出来た。しかしこの7月の暑い深圳で荷物を抱えて広大な駅を右往左往である。指定した座席のシートに落ち着いたときには、だいぶん汗をかいていた。これから武漢まで五時間半、である。
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外国人.....の多くはしらないが、”みどりの窓口”しか知らない日本人にとっては大陸の鉄道システムは依然として難易度が高い、のではないだろうか。いろいろな所から来た人が利用するのであるから、せめてアナウンス、インフォメーションは空港並みには充実させてほしいものであるが。
大陸の列車を利用する際に事前に予約していたら、その予約完了の旨がわかる姓名とパスポート番号が表示された画面なりを画像かプリントアウトして持って行く事をお勧めしたい。通常、パスポートだけあれば窓口でパスポート番号で照会して発券してもらえるのであるが、この日のような事もあるのだ。
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ひさしぶりに、大陸の旅特有のスリルを味わう事になったのであるが........昔の小さな駅、ゆっくり走る列車の旅では、さまで慌てることは少なかったように思う。高速鉄道網が整備され、便利になったはずの大陸旅でも、なんだか昔の旅より疲れを覚えることがある。あながち、自身のトシのせいばかりではないと思っている。
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湖北の水害

7月の武漢〜随州行に際して、一番の懸念は水害による交通機関への影響であった。まずは深圳から武漢へたどり着かなければならない。長江流域内陸部は長雨の影響で各地で河川の氾濫、家屋への浸水被害が出ている。出発の前々日に、武漢駅前が冠水している画像を目にしていた。武漢で待つ朋友は、飛行機で来るなら空港まで迎えに行くというのであるが、悪天候ともなれば飛行機は大幅な遅延ないし欠航もあり得る。五時間待たされた挙句に欠航、という事態も大陸では珍しいものではない。招かれた婚礼の前日に現地に入る日程であったから、飛行機の欠航は致命的である。

「船で行こうか?」と冗談を言ってみたものの、本当にどうするか?考え込んでしまった。上海の朋友などは、危険だから行くのを止めた方が良い、とも言う。私も正直、途上で立ち往生する可能性も鑑みて、辞退する方に気持ちが傾きかけたのであるが、湖北の朋友は「万難を排して」来てほしいような雰囲気である。
ともかく、空港で為す術もなく待たされるよりは、という事で高速鉄道を選んだ。深圳北駅から武漢駅までは5時間半の距離である。
結果的に、何の障害もなく武漢にたどり着いたのであるが、運もよかったのかもしれない。広東から南方に行く高速鉄道は、接近する台風の影響で運行停止が目立っていた。高速鉄道の車窓からは、岳陽から武漢の間の上空に、高層な雷雲が暗く聳えているのが見えた。あの雷雲の中を飛行機で下りてゆくのはゾッとしない。
ともかく深圳から北西方向へ向かう武漢方面は、特に影響がなかったのである。武漢に到着したら、駅前の冠水も水が引いていた。
車で武漢の市内を流れる長江を渡った時は、両岸の河川敷がすっかり水に浸っていたのを目にしたのであるが、それでも市街への浸水は限定的であるという事だ。武漢在住の朋友の姉は何事でもないような口ぶりである。写真に撮る間がなかったが、膨大な灰色の流れの中に、群島のように連なって、大小の灌木の僂浮かんでいた。

武漢と随州の間は水害の影響はまったく感じられなかった。随州での婚礼の後に武漢に戻り、黄州へ向かう高速バスの車窓からも、増水して岸辺の木々が水につかっている池沼を時折目にするほか、洪水の被害というほどの光景は見られなかった。
2016武漢水害
黄州から武漢への帰途は、鄂州市から武漢への高速鉄道に拠った。黄州からタクシーで長江をわたり、対岸の鄂州市の駅へ行く。そこから高速鉄道に乗るのである。その武漢へ向かう高速鉄道の車窓から、氾濫浸水した家屋がいくつも目撃されたのである。やはりというべきか、相当な被害が出ていたようである。とはいえ、武漢周辺の長江流域の広大な範囲からすれば、これでもほんの一部なのであろう。たまたま堤防が崩れたとか、低地にあったという事で浸水被害を免れなかったのかもしれない。水面からわずかに屋根を見せているほどに浸水している区画に隣接した領域では、何事もなかったかのように乾いた地表が露わになっているのである。
2016武漢水害
洪水で思い出すのは、武漢より長江沿いのはるか上流にある「三峡ダム」である。計画自体は1950年代、毛沢東の時代から存在した。建設を提唱したのは毛沢東である。しかしダムの建設が強力に進められたのは江沢民時代の1995年からで、ダムが完成したのは2006年。さらに周辺設備が完成したのが2009年である。いうなれば完成から10年ほどしか経過していない。
かつて毛沢東は、三峡ダムが完成した暁には「一万年に一度の大洪水も防ぐことが出来る。」と豪語したという。しかし近年、たびたび起こる三峡ダム下流域の洪水は、そんなノアの大洪水のような規模ではない。
2016武漢水害
察するに、堆積する土砂によって、ダムの貯水容量自体が計画と違ったものになっているのであろう。ダムは定期的に浚渫、排砂しなければその機能が低下するのであるが、三峡ダムほどの規模のダムに有効な浚渫の手法が存在するのかどうかは分からない。今現在の三峡ダムの正味の能力がどの程度なのか、数値が見当たらないので想像するよりないが、下流域で頻繁に起こる洪水を見る限り、計画には程遠い能力しか残されていないのだろう。
三峡ダムに限った事ではないが、途上国にしばしば建設される巨大ダムというのは失敗例が多い。建設に伴って土地を追われた原住民は都会で貧困化し、建設されたダムの電力は有効に使用されない。とどのつまりダム建設に伴う利権目当てでその国の支配者階級や、国際的なゼネコンが潤う、という仕組みなのである。

昨年あたりから、現在の三峡ダムには洪水調整能力がほとんどない、という事も言われるようになってきている。それどころか「もし三峡ダムが決壊したら、下流域にはどのくらいの被害が出るのか?」という、空恐ろしい話もささやかれている。またそれと関連した話なのかもしれないが、一発のミサイルでもって山峡ダムを破壊すれば、核兵器を用いずとも中国を壊滅出来るというような、至極物騒な事を言い出す大陸の論者もあらわれている。そういった無辜の人民に巨大な被害をもたらすような作戦を、いったいどこの国が好んでやると考えているのだろうか。しかし、勝つためには人民にどれほどの犠牲を強いても構うまい、というあたりがいかにも大陸的ではある。

..........寒くなるにしたがって、大陸では再び大気汚染が深刻化している。それは北方を中心に、製鉄所をはじめとした工場の稼働率が高まっているからである。大気汚染がここニ年ほど改善を見せていたかのように見えたのは、過剰生産を踏まえた生産の抑制が奏功していたためである。あれほど声高に対策が叫ばれていたにも関わらず、また二十数兆円に上る公害対策費が計上されたと報道されていたにも関わらず、抜本的には何も改善されていなかった、というのが実情のようである。
工場の生産が再び活発化するに先立って、大規模な金融緩和が実施されている。それは今年の秋口くらいまでの不動産の高騰をもたらし、停滞していた建設プロジェクトを再開させ、それが石炭鉄鋼などの旧態産業が息を吹き返す契機となっている。

大気汚染は相も変らぬ債務の拡大に頼った投資主導の経済成長の副産物なのであるが、そうでもしないと既に膨大な債務を積み上げた地方政府や大手企業の資金繰りがつかなくなり、金融危機に見舞われる。もはや環境がどうなろうが、経済の実質がどうなろうが、この壮大な悪循環を止められないのが今の大陸経済の現実なのであろう。常識で考えれば、このサイクルは既に持続不能な水準に至っているのであるが、権力至上主義の政府は、そうは考えないのだろう。すでに産業の至る所「大きすぎて潰せない」状況が固着している。もはや構造を変える事も出来なければ、悪循環を停止する事も出来ない。それは”三峡ダムプロジェクト”と同様、プロジェクト自体が目的化してしまっているのである。よほどの政変でも起こらない限り、そういった状況が続く事は覚悟しなければならないのだろう。
無論、住んでいるわけではなく、時折短期滞在するだけなのであるが、やはりどことなく気が重くなる。やりきれない話だが、現代中国はそういう国家なのである。
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黄州拾遺

東坡赤壁から黄岡市の市街に向かう。小さな街とはいえ、歩いて戻るにはホテルはいささか遠い距離にあり、またこの日はあまりに暑過ぎた。東坡赤壁の入り口にある広い駐車場では、いくらまってもタクシーが来る気配がない。ともかく車を拾えるところまでは歩こうと、黄岡市街の方へ歩いていゆく。
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蘇軾はその「初到黄州」の詩で

長江繞郭知魚美  
好竹連山覺筍香

長江は郭を繞(めぐ)りて、魚の美なるを知る
好竹(こうちく)山に連なりて、筍の香ばしきを覺ゆ

と、黄州の第一印象をうたっている。黄州は長江の湾曲した流れの内側に位置し、ほぼ東西南の三方を長江に囲まれている。赤壁が長江の流れに面していたとすれば、城壁も長江の流れに臨んでいたであろう。まさに”長江は郭をめぐる”なのである。

黄州時代の蘇軾は一応は官員であるが、同時に罪人であり、勝手に黄州を離れる事は許されない。
蘇軾は黄州に着いてしばらくは”定恵院”という、寺院の中の官舎に住んでいた。それから”臨皋(亭)”にうつり住む。さらに従者の馬夢得に軍営の跡地を借りてもらって開墾し、そこを”東坡”と名付ける。馬夢得の名義で土地を借りたのは、これも流刑人の禁則に触れるからかもしれない。”東坡”とは、唐の白居易が忠州に左遷されていた時、城市の東側の斜面に花を植え”東坡(東の斜面)”と名付けた故事に拠っている。
白居易は江州、忠州左遷の後、中央政官界に返り咲いているから、蘇軾が自らの耕作地を”東坡”と名付けたのは、いつかは宮廷に戻らんとする意志の表れであるとも言われる。また白居易が”琵琶行”を書いたのは江州左遷時のことであり、蘇軾の”赤壁賦”の下敷きのひとつに”琵琶行”がある事とも符合する。
また耕作地の”東坡”に、”雪堂”というあずまやを築いた。ここで墨の比較品評なども行っている。

黄州に到った蘇軾が仮寓した定惠院は、当時黄州随一の寺院であった。王朝時代、各地の寺院は宿泊施設としての役割も担っており、官吏の出張の旅の際には宿を提供していた。また赴任してきた官吏が住む、官舎としても利用された。名士の来駕ともなれば、勢い社交の場ともなる。
実際、市井の宿というのは”水滸伝”に描かれるように、無頼の徒も出入りするところであった。食事だけならともかく、不用意に泊まるのは危険ですらあったのである。
大陸の寺院は街中の宿よりも清潔に保たれ、寺院はほぼ自給自足で食材の蓄えもある。部屋も多いから、多少の人数の、急な宿泊も可能なのである。家族連れでの移動が常であるから、身分の高い女性の世話の必要もある。大陸の寺院の多くは尼僧院が併設されており、女手にも不足しないのである。
また旅の宿ではなく、官吏が一定期間定住することもあった。王安石は南京の鐘山寺を、隠棲の地としている。いうなれば地方にあって”官舎”の役割を果たす事によって、寺院にも政府からの修繕費や、また士大夫からの寄進も期待できるというわけである。
寺社に宿泊しての旅については、後藤朝太郎の「支那の山寺」を読むと、その雰囲気の一端がつかめるかもしれない。
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今回、黄州は一泊の滞在である。もとより、史跡のすべてを訪ね歩くことはかなわない。そもそも黄州は度重なる戦乱で、めぼしい史跡はほとんど残っていないのである。南宋の陸游は黄州を訪問して、臨皋や雪堂など、蘇軾の事跡を尋ねたという。しかしその後の金軍や元軍との戦いで黄州は激戦地になり、蘇軾の寓居を忍ばせる跡はあらかた焼失してしまったのだという。
蘇軾の東坡や臨亭、雪堂が何処にあったか?という事も、今や定かではない。後赤壁賦の内容などから察するに、寓居の臨皋や耕作地の東坡、また東坡に築いた雪堂などは、赤壁から徒歩で往来できる、たがいにほど近い距離にあったのだろう。
元豊五年、長沙に赴任していた米芾は黄州の蘇軾を訪ね、初めての面識をもったといわれる。(米芾の黄州行はほかに元豊四年、あるいは七年という説もある)
このとき蘇軾45歳、米芾32歳。後、米芾が蘇軾と再会するのは、蘇軾が海南島の流刑から許されて都へ戻る途上、常州でのことである。米芾との再会からほどなくして蘇軾は体調を崩し、一月後に蘇軾はこの世を去る。米芾は若いころから蘇軾の筆跡を熱心に臨書するほど、蘇軾に傾倒していた。黄州での米芾は詩や書画について大いに啓発されるところがあったようだ。
米芾は黄州で臨皋や雪堂を目にしている。また蘇軾の死後、黄庭堅が黄州を訪れ、やはり臨皋と雪堂をたずねている。

赤壁から勝利路へ向かい、勝利路を市街方向に歩くと、東に向かうなだらかな傾斜になっている。黄州は長江向かって傾斜のある丘陵上にあり、市街近くに耕作地をもとめるとすれば、傾いた土地にならざる得なかったのであろう。”東坡”の「坡(さか)」を想起させる地形である。

黄岡市は湖北省の小さな街であるであるが、勝利路沿いにはいくつかの垢抜けた雰囲気の洋菓子屋やパン屋なども見られる。
武漢も暑かったが、このときの黄州も大変な暑さと湿気で、夕方からよるにかけても気温が下がらない。東坡赤壁を出た時は四時半を回っていたが、日没は7時半であり、8時くらいでも外は明るい。
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勝利路から右に折れてゆく通りに、”黄州中心市場”なる市場がある。現在の行政区としては黄岡市であるが、ここではまだ”黄州”の呼称がのこっている。
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赤い樹脂製の桶いっぱいに”龍虾(ロン・シャア)”すなわちザリガニが売られている。大陸にとっても外来種であるはずの龍虾は、戦前に日本を経由して持ち込まれたという。大陸では生態系を乱す外来種として嫌われる事は無く、かえって養殖すらされて美味しく食べられている。
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黄岡は背後にダム湖が控え、汚染されていない水で育った龍虾は高級品として大都市へも出荷される。もっとも、この小さな市場で売られている龍虾は地元の消費に供されるのであろう。
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通りを中心に、左右に店の看板が並んでいる。生鮮食品から酒類、雑貨までいろいろな店がある。建物は白い鉄筋造りなのだが、間口の幅が同じである。また店の看板が黒地に金文字の、これも時代がかった横看板で、どことなく往時の市場の様子を感じさせる。
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”黄州中心市場”の次に右に折れる通りが”考棚路”である。この”考棚路”は勝利路に交差しながら、ちょうど”黄州実験小学校”に突き当たっている。”考棚”とは科挙の試験会場の俗称であり、厠のような狭い区画に仕切られたスペースで、受験者達は試験に挑んだのである。
正しくは黄州府試院と呼称され、また貢院とも呼ばれた。府試、院試は科挙の地方試験のさらに予備段階であり、府試合格者が院試に挑み、院試合格者は秀才と呼ばれ、郷試の受験資格を得るのである。
黄州は教育の盛んな土地柄であったようで、小さな地方の街であるが唐代には十余名の進士及第者を出している。こうした試験会場は、試験の行われない期間はそのまま読書学習の場として提供されたという事である。現在、その史跡が黄岡実験小学校の敷地内にあるという
いうなれば黄州は古くからの”文教の地”である。後に広東の恵州、果ては海南島にまで流されることに比べれば、田舎町といえども、左遷先としてはまだしも配慮が感ぜられるところである。
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考棚路から勝利路に戻りまたしばらく歩くと、やはり右手に”勝利新街”という、まだ新しそうな、ショッピングセンターと思しきアーケードの通りが目に入る。
テナントはほとんど入っておらず、また閉店しているところも多い。当時鳴り物入りで開業したのであろう。しかし家賃と売り上げがアンバランスなのか、その後閑散としている商業施設は、地方都市でよくみかける光景である。かつてにぎわったところがさびれたのではなく、一度もにぎわう事なくさびれていっているのである。急速に成長すると期待された地方都市の経済が、ここにきて急減速している傍証でもあるのだが、このように無駄に終わった投資の跡はおびただしく存在している。
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そこに一軒、暢気に店を開けている喫茶店があった。この日は頗る暑い。少し涼をとろうと、店に入る。コーヒーを頼んでから、二階に上がってしばらく休憩する。
店内ではWi-Fiが使え、本や漫画、雑誌がおいてある。また”禁煙”とある。日本では当たり前になったが、大陸でお茶を飲むところといえば、同時にタバコをふかす場所でもあるから、これもやはり新傾向なのである。
どことなく、日本の個人経営の喫茶店に近いような雰囲気である。最近、地方の街でも、このようなゆったりした喫茶店を見かけるようになった。日本においてそうであるように、儲かるような商売ではないが、一定の需要があるのだろう。あるいは資産をもった経営者が、趣味で営業している場合もある。
食事をするでもなく適当に休憩できる場所というのは、地方の街ではなかなか見つからなかったのであるが、近頃はこうした店でしばし体を休めることも出来るようになったのがありがたい。
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このショッピング・アーケードの裏手に、アーケード街に沿ったように高く、長大な壁が続いている。見上げると胸壁が供えられ、表は古い煉瓦と漆喰で固められている。これも昔の城壁の一部なのだろう。市街の中心に位置しているが、かつて二重三重の城壁が存在した可能性はある。小さな街であるが、長江中流域の要衝に位置し、古来争奪が繰り返された城であることをしのばせる。
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ひとりだけの夕食を、どこで何を食べようか?と考えた。
蘇東坡ゆかりの料理といえば、東坡肉が有名である。蘇軾が若いころ、徐州知事として赴任した際に、黄河の決壊を防ぐために官民を動員し、水害を防いだ際に住民から礼として豚肉を贈られる。その豚肉を蘇軾が料理し、官民に贈答した料理にはじまるとされる。しかし今ではもっぱら、杭州の名物料理のひとつに数えられている。
蘇軾は「食猪肉頌」という”打油詩”の中で、黄州の豚肉について

黃州好豬肉,價賤如泥土。
貴者不肯吃,貧者不解煮

と詠っている。
「猪」は日本ではイノシシであるが、大陸では今でも「豚」を指す。「黄州の豚肉は美味しいが、値の安いことは泥土の如しであり、お金持ちはあえて食べないし、貧しい者は調理がわかっていない」という。蘇軾が「食猪肉頌」で説く豚肉の調理法は、豚の頭部をトロ火で柔らかく煮込んだ料理のようである。現在知られる「東坡肉」のように、豚のアバラ肉の料理ではない。
黄州で豚肉が珍重されなかった理由はわからないが、おそらくは河川から採れる魚介類に恵まれていたからかもしれない。蘇軾が黄州を去って後も、蘇軾に「食猪肉頌」で皮肉られた通りだったのか、豚肉の煮込み料理はついに黄州の名物料理にはならなかったというわけである。

東坡肉はさておき、蘇軾が「初到黄州」で「魚の美なるを知る」と言い、また後赤壁賦で「巨口細鱗」とうたったところの、黄州の魚を食べてみよう、と考えた。
”後赤壁賦”が描写する、友人達とのささやかな酒宴では、友人が網で捕った魚をどのように調理したのかはうかがえない。季節も晩秋に到っているから寒いはずで、ぶつ切りにして鍋料理にでもしたのだろうか。舟の上でも炊事は出来るようになっている。小さな舟であっても、たいていは雨をしのぐための”苫”があり、煮炊きできるようになっていたのである。
しかし賦には”巨口(きょこう)細鱗(さいりん)、身は松江の鱸(ろ)に似たり”とある。松江は現在の上海北辺の地域を指す。また「鱸(すずき)」とあるが、「松江の鱸魚」といえば、別に”四鰓鱸”と言い、”四枚の鰓(エラ)”のある魚、すなわちハゼに似た魚のことであるという。
「世説新語」によれば、西晋時代の張翰は、宮廷で激化する権力闘争を嫌い、また故郷の松江の鱸魚の鱠(なます)と蒓(ジュンサイ)のスープ恋しさのあまり、官を擲って故郷に帰ってしまったという。以来、”蒓鱸”は、(出生栄達を望まず)望郷の念を表す語として用いられるようになる。

その”秋風歌”に曰く
秋風起兮佳景時
松江水兮鱸魚肥

とある。この歌にあるように、「鱸魚」は「太平広記」によれば、旧暦の八月九月(現九月十月)の霜の降りる頃、身が雪のように白くなり、鱠にすると生臭くなく美味であったという。
蘇軾が「身は松江の鱸に似たり」とうたったのであれば、やはり膾(なます)、つまり刺身にして食べたのではないだろうか。といっても北宋当時の”膾(なます)”は、今の日本の”刺身”のようなものではなく、細かく刻んだ魚肉を芹などの香草、調味料と和えた料理であったようだ。

蘇軾は魚の調理法としては「膾(鱠)」を好んだようで、その「有以官法酒見餉者因用前韻求述古為移廚飲湖上」には”喜逢門外白衣人、欲膾湖中赤玉鱗”とある。また「和蔣夔寄茶」には”金齏玉膾飯炊雪”とし、膾に白い米飯を添えている。
さらに「和蔡準郎中見遨遊西湖詩三首之三」では”船頭斫鮮細縷縷,船尾炊玉香浮浮”、あるいは「泛舟城南會者五人分韻賦詩得人皆若炎字四首」の”運肘風生看斫膾、隨刀雪落驚飛縷”とあるように、舟の上でも魚をさばいて刺身にしている。あるいは「杜介送魚」にも「病妻起斫銀絲膾、稚子歡尋尺素書」とあり、家庭でも刺身をつくって食べていたようである。四川省出身の蘇軾は、魚と米飯を好んだようだ。
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しかし蘇軾の昔はいざ知らず、現在の大陸では淡水魚を生食することはほとんどない。三国時代、呉の虞翻は生魚の寄生虫にあたって死んだという。時代が下がるほどに人口が増え、排水によって河川や沼沢が汚染され、寄生虫の害が無視できなくなったのだろう。清朝の随園食単には、既に魚を生食するという調理法がみあたらない。
わずかに紹興や上海を中心に、酒粕に生の蟹を漬け込んだ”酔蟹”や、生きた川蝦を度数の強いアルコールに浸して酔わせて食べる料理、あるいは淡水の蟹や貝類を塩漬けにしたものがあり、そこに淡水魚介の生食文化の名残を見るのみである。
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当然、今の黄州でも魚の生食は望むべくもない。先ほど「黄州中心市場」で、「黄州滑魚湯」という看板を出す店が何軒か目に入った。どうも黄州の名物料理のようである。そこで「黄州中心市場」に戻り、「黄州滑魚湯」を出す店に入った。
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「滑魚湯」あるいは「黄州滑魚湯」は、淡水の魚のスープである。これは魚のほかに豆腐がふんだんに入っており、江南でよく見かける「魚頭豆腐湯」に似たような料理である。「魚頭」だけではなく、魚が丸ごと一匹入っている。どのあたりが「滑魚」なのかというと、魚にでんぷん粉をつけて油で焼いてからスープを注いで煮ており、スープを吸った粉のために舌触りが滑らかになる、ということである。
連日、非常な暑さであり、そこにまたスープ料理である。しかし武漢ではお腹を少々壊しており、あえて温かい料理を選んだ、という事情もある。
この魚は、長江でとれた魚ではなく、黄岡市の背後の山間部にある、ダム湖でとれたものだという。上流に人が住んでいないので、汚染されていない水で育った魚、という事だ。なるほど、小骨が多いのは淡水魚の常であるが、味は淡白で泥臭いということもない。それに少しのごはんを添える。
調子を崩したお腹には、消化の良い白身魚と豆腐、それに暖かいスープは良い料理であった。

食事を終えて店を出ると、大粒の雨が降ってきた。夜の散策はあきらめざる得ない。明日の昼過ぎには武漢から高速鉄道で深圳、香港に戻らなければならない。現在の黄州こと黄岡県に、蘇軾の足跡をしのばせる史跡は少ないのかもしれない。とはいえ、もう少し探索しいたい場所である。再訪を期待し、翌朝、黄州を後にした。
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