.......商用の渡航の事であるから、泊まる場所の贅沢はしない。大陸の大半の宿の場合、部屋の広さは問題ない。あとは清潔で空調が機能していれば、快適に過ごせるものである。
深圳は宝安空港にほど近い、地下鉄1号線の直上のマンションに、朋友のS小姐とその家族が住んでいる。いつもはそこからほど近い、簡素なビジネスホテルを手配してもらっていたのである。週末を除けば一泊200元前後のそのホテルでの滞在に過不足はなく、充分満足していた。しかし今回、S小姐曰く「あのホテルは往来や車道の音がうるさいであろうから、もう少し静かな場所の部屋を探した。」という。むろん、閑静なのは結構なことである。
こうして紹介されたのが、個人が宿泊用に所有する部屋を滞在者に貸し出している、いわゆる”民泊”のような宿なのであった。
大陸の民泊制度については詳しくないのであるが、はたして外国人が泊まることが出来るのであろうか?正規のホテルであっても、認可がおりていなくて、外国人の宿泊は出来ないホテルというのが稀に存在するものである。
また、だいぶ昔に聞いた話であるが、個人宅に外国籍の者を泊める場合、公安に届け出が必要という制度があったはずである。これなどは「外国のスパイかもしれない。」という、古い時代の名残の制度なのだろうが、それが改まったという話も聞かない。ともあれ、小生がどこどこへ泊るか、泊まったかなどは、入出国の際にも聞かれることなどないのではあるけれど。
個人で貿易会社を営むS小姐は、華為(ファー・ウェイ)に勤める夫と1歳の男の子、また四姉妹の末の妹と一緒に住んでいる。そこへ時折、子育ての手伝いに湖北省の彼女の実家の両親が滞在することがある。
一家の部屋は、大陸の標準としては若干小ぶりな、広さ70平米くらい部屋である。姉と同じく会社を経営する”やり手”の妹は、少し長い休暇をとって、明日からチベットに旅行に行くという。なので2泊目以降、その部屋に泊っていっても良いともいう。せっかくの申し出であるが、商用の旅のことで仕事もするし、やはりそこは朝夕の支度の気兼ねもするものである。
そういうわけで今回手配してくれた部屋というのが、S小姐一家の住むマンションと同じ一群にある28階建ての高層マンションの一室の、そのまた一室、ということなのであった。
10月の広東はまだ蒸し暑い。香港から高速鉄道に乗ってボーダーのある羅湖に移動し、出入国を済ませてから深圳駅の地下に降り、そこから地下鉄1号線に乗る。この深圳で一番最初にできた、羅湖と宝安国際空港を結ぶ地下鉄の、ほぼ端から端まで移動することになる。
9月に広州湾に侵入した猛烈な台風は、深圳にも相当な被害をもたらしたようだ。無数の気根が垂れ下がる街路のガジュマルやヤシの傷も、まだ完全には回復しきっていない。
宝安空港から数駅手前の駅で降りてから、S小姐の住んでいるマンションに連なる、ショッピングセンターに入る。地下鉄直結のショッピングセンターにつらなる高層マンションは、むろんこのあたりでも屈指の好物件といえるだろう。ショッピングセンターが提供する無料のWiFiに接続し、微信でS小姐に連絡を取ると「まずウチに来なさい、それから案内する。」という。
スーツケースを引っ張ってS小姐の家にたどり着くと、S小姐と1歳になる長男、それに料理の最中の家政婦さんがいた。家政婦さんに家事の一部を委託するのは、共稼ぎの大陸では珍しいことではない。この季節の果物”龍眼”を少しつまんで少し寛いだ後、今夜の宿に案内される。
S小姐の一家は、地上8階に住んでいる。8階のその部屋からまずエレベータで4階に移動するのである。エレベーターを降りると、厚いガラスに囲まれた明るいエントランスに出る。しかしセキュリティ・カードが無いとここからは出られない。S小姐の持つカードをかざして開錠し、ガラス張りの重いドアを押し開ける。すると熱帯の樹木や草花が植えられた、空中の広場に出る。この広場が一群のマンションを、相互に連絡しているのである。
温室公園の中を進むように、中心の植樹をめぐる道を左回りに進むと、広場を囲むマンションのエントランスが次々に現れる。何番目かの、やはりガラス張りのエントランスの前で立ち止まる。ここで再びセキュリティー・カードで開錠し、中に入る。二基のエレベーターがあり、このエレベータで1階を指定すると、やはりマンション群に囲まれた、先ほどの空中庭園よりも大きな広場に降り立つのである。その広場の小径を経由し、とあるマンションの前にいたる............もうここにいたる過程で、夜になったらひとりで帰る自信がゆらぎはじめている。
民泊のあるマンションのエントランスは、S小姐が持っているセキュリティ・カードでは開かない。インターフォンのタッチパネルを操作し、26階の所定の部屋番号を指定し、住人を呼び出すのである............正直なところその煩瑣なこと、これなら以前のホテルで良かったと、後悔しかけたものである。
ともあれタッチパネルのインターフォンで部屋の住人を呼び出し、エントランスを開けてもらう。エレベーターで26階に上がったところの一室が、今夜の宿泊場所、というわけであった。部屋の玄関のドアは開け放たれていろ。大陸のマンションによくある構造であるが、玄関を入ってすぐが応接間を兼ねたリビングである。ここで靴を室内履きのサンダルに履き替えるのは、昔はなかった最近の大陸の習慣である。S小姐と小生の姿を認めると、中からひとりの女性が出迎えに出てきた。
年のころは30歳になるかならないかだろうか、肩下までの髪にノースリーブの短い紺のシャツ、褐色のサルエルといった、いたって楽な部屋着のようないでたちのこの女性は、この部屋のオーナーなのだという。彼女は同じマンションの別の部屋に住んでいるそうだ。このマンション群にすくなくとも二つの物件を有するということは、若くしてちょっとした資産家ということでもある。
しかしこの部屋、小生だけが泊まるわけではなさそうである。ざっとみたところ、3〜4人の男女が、既に相当期間ここで生活しているという。たしかに、こなれた生活感がある。
物件の広さはS小姐一家の部屋よりも広く、部屋数から察するに、大陸の標準的サイズといわれる100平米はありそうである。リビングの天井は3mを超えるだろうか。キャンドルを模したLEDのシャンデリアが下がっている。4年前に買ったS小姐の部屋は、今では倍に値が上がり、邦貨にして1億円は超えていえる。同じマンション群のこの部屋も、おそらくは相当な価格であろう。その部屋のオーナーが若い女性というのは.........現代の深圳では、実のところ珍しい話ではないのである。
リビングには男性が2名、女性が1名。ずれも仕事をはじめて数年といった年のころであろうか。とくに当方らに関心を示すでもなく、ソファでノートパソコンやスマートフォンに視線を落とし、ヘッドフォンをかけるなどして思い思いに寛いでいる様子である。リビングとダイニング、キッチン、バス・トイレは共有スペースで、あとは各自の部屋があるようだ。
リビングを通った奥、小生が泊まる部屋に通された。
部屋の家具としてはダブルサイズのベッドがひとつ。柔らかすぎる枕は仕方がないが、スプリングがしごく硬いのは悪くない。青い色柄のシーツがいかにも民泊である。ベッドに向かって、ハンガーがかかった物干しがある。大陸のマンションはベランダがあまり広くないので、屋内でも洗濯物をよく干すのである。
広い窓際には床の間を高くしたようなスペースが設けられ、小さなテーブルに向かい合った座椅子が置かれている。ここは外を眺めながら、お茶を飲むなどして寛ぐスペースであり、大陸のマンションではよく目にする部屋のつくりである。深圳に限らず、中国のマンションにはベランダが設けられていることが少ないのであるが、その代わりであろうか。
巨大な姿見の右奥に、個別のシャワールームとトイレがある。この部屋だけ、バス・トイレが別途用意されている。このマンションの一室が、もともと一世帯が住むことを前提に作られていたすれば、この部屋はさしずめゲスト・ルーム、という事であろう。
住人の男性のひとりは、シャツの上からもそれとわかるようなしごく筋肉質な体格である。両脇の髪を短くカットし、鼻梁が通り、なかなかに端正な顔立ちである。後で聞いた話では、彼は深圳航空の男性客室乗務員、という事であった。大陸の航空会社で、男性の客室乗務員は珍しくない。かならず1名は搭乗しているのである。体を鍛えているのは、機上での不測の事態に備えるためであろう。
女性は長い髪を無造作に束ね、黒のレギンズにフィットネスシャツという格好。長身で細身であるが、よく体を鍛えているのが見て取れる。ひとり掛けのソファに、しなやかに体を丸めて納まっている様が、ネコ科の肉食獣を思わせる。先の男性と同業?あるいは熱心にトレーニング・ジムにでも通っているのかと思ったら、これも後で聞いた話では近くの富裕層向けフィットネスクラブのインストラクターなのだという。
部屋の隅にはダンベルが転がっており、テーブルの上にはハンドグリップが置かれている。筋肉トレーニングの教則本のような本もおいてある............こうしたツールはフィットネスインストラクターの女性が使うのか、あるいは客室乗務員の男性が使うのだろうか。プライベートでも鍛錬に余念がない、といった雰囲気である。
もうひとりの男性は、やや小太りで........実際はそれほど太っていなかったかもしれないが、他の二人とちがって、肉体を鍛錬している形跡がないのでそう感じた.............シャツに短パン、黒縁のメガネをかけて、ノートパソコンでなにやら熱心に作業中である。日系企業に勤めている、という。彼は日本語が少しできるので、わからない事があれば聞くと良い、とオーナーには言われたのであるが、残念ながら彼ともほとんど会話をする機会が無かった。
リビングの家具の上にも、めいめいの私物が置かれているのだが、共有スペースのこのような利用の仕方には、きっと暗黙のルールが存在するのだろう。共用のバス・トイレのほかに、小生の部屋だけ個別のバス・トイレがある。誰も泊まる者が無い場合は、住人たちが使っているらしい。短期滞在者がいると、少し不便を感じるかもしれない。
共有のWifiがあるが、小生の泊まる部屋はドアを閉めると電波が遮断されてしまうというので、モバイル・ルーターを貸してくれた。S小姐は、少し休んでから食事に来いといって、自宅に戻っていった。
10月の深圳はまだ蒸し暑い。シャワーを浴びてから、少し休憩し、S小姐の家に向かう。部屋を出る時、リビングにはまだ部屋のオーナーがいた。住人たちとなにやら寛いでいたが、年恰好は近い感じであるから、仲良くなるのだろう。しかし若くしてほぼ同世代の大家さん、という境遇の違いは............気にしても仕方ないのだろう。
こういったシェアハウスでは、互いに過度に干渉しないのがおそらくマナーというものであろう。特に短期滞在の小生に関心を払うでもなかったわけであるが、不親切ということはなく、洗濯機がどこか?とか、冷蔵庫を使ってもいいか?と尋ねたときはこころよく案内してくれたものである。
むろん短期滞在の事であるし、彼等のプライベートを詮索するのもどうか?というところである。実のところ昼間は所用で目いっぱい出かけており、夜は毎晩、S小姐の家で食事をしていたし、夜は疲れて早めに寝たかった。結局のところ彼等と朝夕のあいさつ以上の交流するまでは至らなかったのである。
やや困ったのが部屋への出入りで、短期滞在者用のセキュリティ・カードの用意が無いのである。エントランス前でインターホンで呼び出してもなかなか開かない。S小姐の話では「部屋にはいつも誰かがいて、彼らはいつも夜遅くまで起きているので、夜の出入りも大丈夫です。」というのだが...........他の住人が入るのを待って、自動ドアをすり抜けることもしばしばであった。こういった行為は他の住人もよくしているので、とくに見とがめられることは無い。
出入りの不便さを除けば、高層階だけにたしかに静かで、なかなか快適な部屋であった。しかしS小姐曰く、おそらくこの部屋に泊まることは二度出来ないだろう、という。なぜなら、オーナーが短期滞在に供していたこの一室は、小生の退去を待って、他の住人が1年契約で住むのだという。最終日、リビングには越してくる住人の所有であろう荷物が積まれていた。
実際のところ、大都市ではこうしたシェアハウスに住んでいる若者は非常に多いのである。S小姐も、結婚前は妹と従兄弟、時に知人の女性と部屋を共同で借り、シェアして住んでいたのである。後に借りていた部屋を買い取って、新婚の新居としたのであるが、ちょっと無理して買い取ったのは、家賃が半年で月に1000元単位であがるからでもあった。その部屋の価格も今や倍以上である。
このS小姐一家の隣の部屋もシェアハウスで、一か月7000元の家賃を7人でシェアしているという。
小生のとまった民泊は、シェアハウスとはいえ、高級タワーマンションの一室ではあるし、ここに住める彼らは比較的恵まれた方であるともいえる。単身者の住まいとして、引け目を感じることも無いであろう。
しかし、である。仮に1億を超える物件の賃料がひと月7000元(≒12万円弱)というのはどうであろう?投資リターンにして1.5%である.......それでも月に1000元の家賃を払える若者は、まだ恵まれているのである。20代で1万元以上の収入を得る人も少なくは無いが、将来的な支出、とくに不動産購入に備えた貯蓄まで考えると.....とても足りないのである。
一説には、大陸には35億部屋のマンションの在庫があるという。いやそれは誇張で、35億部屋ではなく、35億人が生活できる空き部屋、だともいう。小生が知る限り、もっとも控えめな数字では3億部屋の在庫、である。4人で住んでもやはり12億人分くらいの空き部屋が控えている、という計算になる。この種の統計がいつも怪しげで不確かなのは、そもそも不動産登記がキチンと行われてないからである。不動産登記が曖昧で済むのは、不動産にかかる固定資産税が無いからでもある。固定資産税が無いからこそ、高騰する物件もいつまでも保持できるのであるが、それが不動産価格が高止まりする要因にもなっている。
先日のBloombergの記事。四川省成都は西南財経大学の甘犁教授が試算したところによると、中国の都市部の空家率は22%で、ざっと5000万戸の空家があると。東京都の空家率が11%、という事を考えるとたしかに高い数字だが、直感的にかなり控えめな数字であるとの印象は否めない。
そもそも中国の「都市部」の範囲がどこからどこまでなのか?がわからないが、東京の多摩ニュータウンや大阪の千里ニュータウンにくらべて面積も数倍、マンションも高層といった、空家の巨大高層マンション群の数々をみてきている者からすると、空家は少なくとも億単位、と考えたくなる。
ともあれ大量の不動産の在庫がありながら、それに手が届かない若者や庶民が大勢いるのである.......彼らは仕事の能力がないのではなく、ほんの少し生まれるのが、社会に出るのが遅かっただけなのだ。この種の矛盾は、深圳のおとなり香港でも、より先鋭化した形で見ることが出来る。とどのつまり、資産インフレというのは、先に生まれた世代が得をするだけの世界なのかもしれない.............
大陸でシェアハウスが流行しているいまひとつの事情は、経済的事情もさることながら、もともと単身者用のワンルーム・マンションが少ない、という事もある。単身者に向いたような小さな部屋のワンルームマンションが造られないのは、家賃収入よりも不動産の値騰がりによる利益がはるかに大きいからであろう.........さらにいえば、意外に大陸の若者は共同生活を苦にしない、という事だ。逆に一人は寂しいのだという。確かに、朝はともかく、夜にひとりで食事している若い人というのはあまり見ないものなのだ。そういう意味では欧米でも”ルーム・メイト”という存在は珍しくないから、シェアハウスが流行語になった日本の方が少し変わっているのかもしれない。
さて、帰国前日の深圳最終日。香港にもどる朝は、皆出かけていったのか、リビングにも誰もいなかった。もう少し交流する時間があれば、微信を交換するなどして、夜間の出入りも楽になっていたかもしれない。いかんせん、商用の旅である...........しかし思い起こせば、少し不思議な取り合わせの住人たちであった。..........彼等はそれぞれ昼間の仕事をしながらも、イザというときは一致団結して巨悪と戦うのかもしれない。筋肉質の男女は武闘派、眼鏡のエンジニアはハッキングか武器開発が担当かもしれない。そして部屋のオーナーの美女がスポンサー........などという埒もない事を少し考えながら、重たくなったスーツケースを引きずりつつ、マンションを後にした。