婺源 農村の料理店

今年一月に訪れた、江西省は婺源県のとある村。黄山市屯溪区から、婺源県へ向かう途上、屯溪から峠を越えて平野に出たところに位置している。遅くとも唐代から悠久に続く、街道沿いの小村落である。

村の道端に肉屋の露店が開かれている。徽州の田舎では、今なおよく目にする光景である。お昼時であったせいか、肉屋の主の姿はそこには見えない。品物も道具おも置きっぱなしである。小さな村の事、さしたる心配も無いのだろう。丸太を皮付きのまま、縦に厚切りにして脚に横たえただけの長机が露店のすべてである。これは全体が巨大なまな板でもある。その上に厳冬の山間の冷気にさらされて固まった、大きな白い豚の脂身が横たわっている。その横には光沢のある深い小豆色の肝臓が、これも形よく並べられている。脂身の下に敷かれているのは、骨をも断ち切れそうな、手斧のような肉包丁である。ここに場合によっては豚の頭部がそのまま置かれていたりもするのであるが、今日は売れてしまったのであろうか、目にしない。豚の頭部は農村部では人気の食材なのである。また脂身の多い豚肉というと、日本ではかならずしも珍重されないが、大陸、とくに田舎の方ではよく肥えて脂肪の厚い肉が好まれる。季節は1月、昼間の気温も数度までしか上がらない。新鮮な豚肉を空気にさらしていても大丈夫、というわけであろう。そのおこぼれにいくらかでも預かろうという魂胆か、あるいは店の留守番なのか、日本の犬に似た犬が寝そべっている。
この時、例によって知友の作硯家の家を訪ねたのである。ちょうどお昼時で、近くの“農家菜(田舎料理)“の店に行く事になった。いつもは奥さんが自家栽培の野菜をつかった、美味しい田舎の家庭料理をふるまってくれるのであるが、今日は子供の塾通いのために留守にしていたからである。
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江南の場合、小さな村であっても、たいていはそれなりの料理屋はある。たとえ専業の農家でなくとも、自分の家で食べるくらいの野菜は、このあたりであればどこの家でも作っているから、このあたりの家庭料理はすべて“農家菜”なのである、といえばそうである。とはいえ食事が重要な社交の場である大陸の事、それとはまた別に地元料理のお店もある、というわけだ。
作硯家の家から車で数分の村の外れに、その料理屋はある。庭の前には、青菜が栽培されている、よく整理された畑が広がっている。料理屋というよりも、村はずれの農家の、やや大きな納屋そのものといった風情である。
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店の周りには鶏が駆け回り、時折犬がけたたましく吠えている。何度か訪れているこの小さな村で、この店に案内されるのは今日が初めてであるが、なんでも最近開業したそうである。大陸も自家用車が増え、田舎の方にドライブに行く都会の人もだいぶん増えている。そこで街道筋に、こうした料理店がちらほらと見受けられるようになったのである。
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料理のオーダーは、直接広い厨房に入り込んで、食材をみながら適当に頼むのであるが、要はたべたい食材を指示すれば、あとは適当に料理してくれるのである。調理法まで指定したければ出来るのであるが、お任せにしておけば、調理法や味が重なることがない。料理が出来るまでは、食卓に着かずに適当に庭でくつろいでいればいい。
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店の横には建築を途中でやめたかのような、がらんとした徽州建築風の大きな建物がある。ウダツをあげた白い漆喰の壁を残し、あとは屋根以外は柱と骨組みだけである。二匹の犬の吠える声が、屋根に反響してよく響いてくる。その傍らを、恐れる気配もなく数羽のニワトリが歩き回っている。
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料理屋の前庭は農家の庭そのもので、つるされた皮つきの褐色の豚の足や、よく肥えた塩漬けのガチョウの干物が、黄色い脂身をみせている。
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ほのかに燻製の烟の香が漂っている。ここでも先ほどの露店の肉屋ではないが、なかなかもって生生しい光景を目にするものである。また厨房の裏手には大きな水槽がいくつもおかれ、観賞魚の店さながらに、淡水の様々な生き物が泳いでいる。
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さて、料理が出来ると「料理が出来たよ。」と声がかかる。それから円卓を中央に置いた小部屋に通され、食事が運ばれるのを待つ。テーブルの上にはたいてい、各自、箸、小椀と小皿と湯のみが一緒になってセットされ、回転式の円卓の縁に等間隔に、ひまわりの種や落花生、漬物などが載っている。
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今回、うっかりしてあまり料理の写真は撮っていなかったのであるが、おしなべて質朴な料理である。野生の豚肉、というが、たぶん猪のことではないだろうか。これはしっかりした歯ごたえがある。もちろん野菜はとりわけ新鮮で、簡単な調理であるが、上海や北京の街の料理屋ではこれは味わえない。
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徽州では固形燃料をたいた小さなコンロの上に鉄の小鍋がおかれ、肉や小魚を煮た料理が2〜3出てくることが多い。この日も、渓流の小魚の醤油炒め、鴨肉、タケノコとハムといった三種類の小鍋料理が登場した。特に徽州の農家で自家製された硬いハムの塩味がしみ込んだ、厳冬の孟宗竹のタケノコはサクサクとして甘く、同行した上海や屯溪の友人等も、続けて箸を伸ばさない人はいない。また干したマダケを水で戻し、野菜といためた料理も徽州の定番である。
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寒さしのぎに、温めて刻んだショウガを入れた紹興酒(紹興産ではないが)を頼むと、小さなやかんに入って出てくる。

明朝初期に成立した水滸伝には、よく居酒屋に入る場面がある。旅をしていると居酒屋の旗がたなびくのが見え、居酒屋に入った豪傑が注文するのはたいていは酒、そして数斤の牛肉だけなのである。野菜や豆腐を使った惣菜や、漬物、あるいは米飯の類などは酒と肉を注文しさえすれば一緒についてくる、という事になっている。
その昔、大陸の牛は原則労働力なのであって、屠られるのは働けなくなった老牛である。肉の硬い老牛を美味しく食べようとおもえば良く煮込むしかなく、それでも硬く筋っぽいので、煮込んで冷えたところを薄く切って出すよりない。水滸伝にはそこまで書かれていないけれど、水煮にした牛肉を薄く切った料理というのは、いまでも中国各地に存在している。
話がそれたが、大陸全土をまたにかけた豪傑達が旅の道々で立ち寄るのは、やはりこのような農家が兼業していたような居酒屋だったのではないだろうか。晩唐の杜牧が「水村山郭酒旗風」とうたったように、そうした農家兼業の居酒屋はかなり昔から点在していたのであろう。

たっぷり時間をかけて食事を終えると、作硯家の家に戻り、休憩しながらの硯石選びである。真冬の歙州硯は、その色沢のせいであろうか、夏場に目にするよりもこころなしか冴え冴えとしている。寒い時期は膠が固まってうまく墨が磨れないものであるが、その寒さの中でもしっかりと硬い墨が溌墨する硯石こそ、まことに得難いものなのである。
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豆柿の味

1月に、婺源の作硯家を訪ねた時の事。この家は農家、ではないのであるが、家で食べる野菜くらいはほとんど自分の家で作っている。毎回、奥さんの手料理をふるまわれるのであるが、今回は遠く婺源市街の塾に通う息子さんに付き添って留守であった。それで近くの”農家菜(田舎料理)”の店に行こうという事になったのであるが、食事が終わって作硯家の家に戻ってきてから「口直しに」と出された一山の果物。

豆柿

色はオレンジ色、ピンポン玉よりもさらに小さく、プチトマトくらいの大きさである。季節外れであるが、やはりプチトマトであろうか。大陸ではプチトマトは果物扱いで、食事の後によく出されるのである。それにしてはヘタの部分がやや茂りすぎにも見えるのであるが.......手に取るとひんやりと冷たく、実はほうずきの実を揉んだように、薄皮の中に柔らかくなった果肉が感ぜられる。ほうずきも食用にするのであるが、ほうずきではない。ヘタを取って、中身を吸い出して食べよという。そう、これは柿の熟柿(じゅくし)なのであった。もとは渋柿なのであろう、濃厚な甘さの奥から渋みの残りが伝わってくる。渋みが後を引くので数は食べられないが、懐かしい甘味である。

大陸では甘柿を見ることは少なく、たいていは渋柿を渋抜きした柿である。冬場には干し柿も多く出回っている。日本で干し柿もすっかり高級になってしまった感があるが、大陸の方はまだまだ安価である。それにしてもこの小ささはどうであろう。日本でいうところの”豆柿”であろうか。

”豆柿”は接ぎ木の台木にされるというが、その実はほとんど出回っていないだろう。果物は大きく甘いが珍重される昨今、小さな渋柿なぞ、顧みられることは無いのかもしれない。柿はありふれた果物であるとはいえ、山村でこのように出されれば、やはりどこか珍奇な果物に思えてくるものである。

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深圳の人参果

.......深圳のとある市場で、怪異な果物を見つけた。”人参果”、とある。これは....
人参果
南朝梁に書かれたといわれる「述異記」には、
”大食王國,在西海中。有一方石、石上多樹、幹赤葉青、枝上總生小兒、長六七寸、見人皆笑、動其手足、頭著樹枝。使摘一枝、小兒便死。這果子遇金而落、遇木而枯、遇水而化、遇火而焦、遇土而入。”
”大食(たいしょく)王國、西海(せいかい)中にあり。一方の石あり、石上に樹多く、幹は赤く葉は青く、枝上に総て小兒を生ず。長さ六七寸、人を見て皆な笑う、其の手足を動かし、頭は樹枝に著かる。一枝を摘(つ)ましめば、小兒は便(すなわ)死す。果子は金に遇えば落ち、遇木に遇えば枯れ、水に遇えば化し、火に遇えば焦(こ)げ、土に遇えば入る。”

この人参果であろうか。

あるいはまた「大唐三藏取經詩話·入王母之池第十一」には
”已有王母蟠桃入池化為小兒、再化為乳棗、猴行者取以食法師、“後東歸於唐朝、遂吐於西川、至今此地生人參是也”
”已に(西)王母の蟠桃(ばんとう)、池に入りて化して小兒と為るあり、再び化して乳棗と為る、猴行者(こうぎょうしゃ)取り、以って法師に食わす。後に(法師が)唐朝に東帰(とうき)するにおいて、遂に西川(せいせん)において吐き、今に至り此の地に生人參を生ずるは是れなり”
人参果
とある。これであろうか.......確かに皆笑っている.......しかし子供というよりはふくよかな僧侶を思わせる風貌であるが......皆死んでいるに違いない。ためしに5〜6個買って、夕食時に呼ばれた朋友の家に土産として持参してみた。

湖北出身の朋友も目にしたことが無く、「ひとつ食べれば齢三千年を得る」とか「収穫するときするどい叫び声をあげ、聞いたものは死ぬから訓練した猿にとらせる。」などと言い合って楽しんだが、しばらく飾って楽しもう、ということになった。
ところで朋友夫妻のところには子供が生まれていて、子供の面倒を助けるために実家から両親が来ていたのだった。夕食はお父さんが作ってくれるのである。食事が終わってくつろいでいると、お母さんが果物を切って運んできてくれた。赤いスイカの隣には、緑色のメロンのような切片が.......どうやら人参果を2個ほど切ってくれたらしい。皮をむいたら、メロンと大差ない。朋友は「あ〜、もったいない。」と言っていたが、せっかく切ったのだから食べるよりない。味は、というと......味のないメロン、胡瓜のような味である。とらえどころのない、昔風に言えば「タマシイのような」味である。
.......はたして延寿に功ありや否や。
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屯溪の毛豆腐

今まで書かなかったのも不思議なくらいの話題なのであるが......黄山の珍味に、毛豆腐、というものがある。
屯溪毛豆腐
その昔、初めて屯溪を訪れたとき、屋台の料理屋で勧められるままに食べたのが毛豆腐であった。生の唐辛子と一緒に、炒めたものが出てきたのである。辛そうな赤い油に、焦げた、ショートブレッドほどの大きさの固形の物体が沈んでいたのを覚えている。まわりに脱脂綿のような繊毛が切れぎれに付着しているのをみると、口にいれることにかすかなひるみを覚えたものである。皿からは、納豆を炒めたときのような、独特の香りが漂っている。箸で割くと糸、というよりも皮膜のような粘りがのびる。噛むと薄い皮の中から、木綿豆腐を柔らかくしたような、糸を引く濃厚な内容物が出てくるのであるが......
これがはたして口中強烈な臭いのする食べ物で、味をたとえるならやはり納豆に近いだろか。その納豆のアンモニア臭を強烈にして細かくすりつぶして裏ごしし、固めて焼いたような風味、というところだろうか。納豆を焼いたときの、あの臭いをさらに強くしたような.........珍味には違い無いが、ひとふた口で充分、というのが当時の印象であった。
ところがそれから屯溪行の回を重ねるごとにだんだん口になれ、今では屯溪にいったら一度は食べたい味になった。毛豆腐は、中国の人といえども当時はほとんど知られていなかったのである。なので同行の朋友に「屯溪に来たらぜひ毛豆腐を食べなきゃ。」とかなんとかいって食べさせているうちに、自分も慣れていったというわけである。子供のころから納豆に慣れている日本人の方が、あるいは慣れやすいのかもしれない。いまだに駄目な朋友もいるのである。
屯溪毛豆腐
屯溪毛豆腐
ひとつには毛豆腐自体の臭気が、だんだんと和らいでいったということもあるだろう。現在の毛豆腐は、かつて感じたほどの臭みがなく、いたってマイルドな味になっている。毛は生えているのであるが、毛豆腐同士は納豆のように糸を引くことがない。そのむかしは箸で割っても、しっかり糸を引いていたものなのであるが.......。
それは紹興や長沙の臭豆腐しかりで、個性的な風味が穏やかになるにつれて全国的に受け入れられるようになった、ということかもしれない。
それは日本の納豆などにも言えることだろう。納豆も思えば昔は臭かったもので、練り辛子と刻んだネギを入れないと子供心には抵抗感があったものである。それが今やネギを入れてしまうと納豆の味がしない。
屯溪毛豆腐
毛豆腐にもいくつか食べ方があるのだが、多くは「紅焼」つまりは醤油炒めである。唐辛子を入れて辛く仕上げている場合が多い。
毛豆腐は徽州全般で食べられているかというとそうでもなく、やはり屯溪地区に多いようである。績溪や、婺源では見たことが無い。その屯溪でも、全住民が好んで食べているかというと、敬遠する人もいるのである。
しかし屯溪でも、昔はもっぱら毛豆腐を売りにする店などなかった。各家庭で作るか、市場で売っているのを料理屋が仕入れて出していたのである。ところがCCTVの「舌尖上的中国」で毛豆腐が放送されてから有名になり、今や”毛豆腐専門”の小店が老街周囲にいくつかできている。朝食に餛飩を出す小さな店で、朝から毛豆腐を食べることができる.........しかしもともと、朝食向きの食べ物であったのだろうか.....?
もっとも、そういった「専門店」の毛豆腐はいわば万人向けのいたって食べやすい味で、日本の納豆が食べられる人であれば普通に食べることが出来るだろう。
屯溪は徽州、黄山観光の基地であるから、お立ちよりの際は”毛豆腐”を試してみるのも一興であろう。
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白岳のタケノコ

この季節になると、ソラマメとタケノコを食べたくなるのであるが、今年はどちらもめっぽう高い。まあ、それでも旬のものだから一度は食べようかと、398円のソラマメを一袋買って莢をむいたら、まともな大きさの豆が14粒しか入ってなかった。1粒あたりに換算すると28円もするのである。その話を深圳の朋友にしたら「3粒で朝ごはんが食べられる。」と言って驚いていた。たしかに深圳のような物価の高いところでも、100円も出せば河粉なり腸粉なり、簡単な朝食はとれるものである。昨年の天候不順から続く野菜の高騰、という事情があるにしても、難儀なことである。この時期、江南あたりを旅していたら、皿に山盛りのソラマメの炒め物を食べられたものであるが。

ついでに言うならタケノコも今年は高価である。子供の時分は、タケノコなどは近所の人の所有する竹藪のタケノコを山ほどもらって、これが毎日食卓に並ぶので食べ飽きるほどであった。実際、子供の舌はアクに弱いもので、タケノコを食べた後の舌やのどの奥が少し焼け付く感じが苦手でもあった。しかし今は数片の煮物でもありがたい感じがする。日本で孟宗竹のタケノコを食べるこの時期は、江南では真竹のような、少し細いタケノコを炒め物などにして旬の味として食べている。徽州の方では孟宗竹のタケノコはまだ雪をかぶっている時期に掘って食べるのであるが、初夏のこの時期になると、成長させてから乾燥し、保存して一年中食べるのである。

書こうと思って書ききれていないことはたくさんあるのだが、数年前に徽州の白岳に登ったのもその一つである。白岳や黄山は、清朝初期から墨の意匠として多用されるようになった名山である。白岳や黄山の山水画、いわゆる白岳図や黄山図が墨の図案に多く採られるようになったのは、おそらくは明末清初の石濤あたりが、白岳や黄山の山水図を描くようになったことと関連しているのではないかと考えている。
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それはさておき、いつかの夏に白岳に登った際、山中の飯屋で昼食を採った。白岳は山岳信仰の山であるから、山上に旅館やホテルがあり、小さな集落を成しているのである。一軒の飯屋に入ると、店には大学生くらいの娘さん一人しかいなかった。学校では日本語を勉強しているということで、今は夏休みで帰省し、店を手伝っているのだという。このような山上の小さな飯屋にはメニューなどはなく、その時あるものしか出せないのである。何でもいいから食事を、というと、しばらく食堂に引っ込んで作ってくれたのが、この料理。
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おそらくは干したタケノコを水に戻して、(自家製の)中華ハム少しと一緒に醤油炒めにしただけの簡単な料理である。空腹、ということもあったのだろうが、ひどくうまかった。日本では干したタケノコを常食するというのはあまりないように思えるが、江南では乾燥したタケノコを年中利用するのである。
20170428_R0051903.jpgそれも日本のようにラーメンの上に数本載っているかどうか、というようなものではなく、山盛りの一皿で出てくるのである。タケノコの年間消費量はいかばかりであろう。ついでに日本へも水煮のタケノコは大量に輸出されている。竹林も手入れをしないと良いタケノコが採れないというが、いったいいかばかりの竹林が地表を覆っているのであろうか.......?
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ちなみに大陸ではタケノコは肉と一緒に調理されることが多い。『浮生六記』では、タケノコを食べすぎて無性にのどが渇く、という話が出てくる。タケノコを食べると血を失うという考え方があり、たくさん食べるなら、増血のために肉を一緒に食べたほうが良いという。あるいはアクの強さを忌避する意味かもしれない。
そういえば、ソラマメもあまり食べすぎては良くないという。その割には皿に山盛りで出てくるのであるが。ソラマメは酸性が強い、という話を聞いたことがあるが、それが理由であろうか。もとより14粒で多いということはなかろう。タケノコもソラマメも、日本にいては、今年は食べ過ぎることは出来なさそうである。
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揚州燙干絲

揚州独特の料理に、”燙干絲(タン・ガン・スー)”というものがある。”燙”は湯を下から火であぶる格好の字なのであるが、熱湯という意味である。字形を見る限り、ポットのお湯などではなく沸かしたての、火からおろしたばかりの沸沸たる熱湯、という様相を想起させるところがある。
揚州燙干絲
”干絲(ガン・スー)”とは、”豆腐干(トウフ・ガン)”を細く切ったものである。”豆腐干”は、固く作った豆腐に重しをかけてさらに水気を抜き、かるく干した食材である。手で持っても崩れず、常温で放置しておくことが出来る。原料の豆腐自体が、かなり固い豆腐なのである。”絲”とあるように、これを細かく切るか、薄くスライスして料理に使われる。魚肉の練り物のような、しっかりとした歯ごたえがあるので、精進料理では肉の代わりをつとめることもある。
”豆腐干”を細く切った”干絲”を使った料理は揚州に限らず、江南各地に多くみられる。上海の家庭料理(家常菜)を出す店などでは、これに香菜などと和えた冷菜としてよく出される。
上海以外でも”干絲”といえば概ね、冷菜に使われる。しかし揚州の食べ方は少し独特で、”干絲”を温めて供するのである。その方法は、朱自清先生の「説揚州」に簡潔ではあるが、要玦が説き尽くされている。

”先將一大塊方的白豆腐干飛快地切成薄片、再切為細絲、放在小碗裏、用開水一澆、干絲便熟了、潷去了水、摶成圓錐似的、再倒上麻醬油、擱一撮蝦米和干筍絲在尖兒、就成。”

意訳すれば
『まず大きな一塊の”豆腐干”をすばやく薄くスライスし、ふたたび切って細かい絲のようにし、小椀の中に入れ、湯をかけて洗い、干絲が温まったら、椀を傾けて湯を捨て去り、円錐状にまとめ、上からごま醤油をかけ、ひとつかみの干しエビと干し筍の千切りを載せ、完成。』

ということである。

蛇足ながら補足すれば、干絲を深めの皿に入れ、熱湯を上からかけまわす。そして干絲が温まったら、箸で抑えながら湯を切る。これで豆腐の豆臭さを抜き、締まった干絲を温めて柔らかくするのである。この温まった干絲を、円錐状にうずたかくまとめる。この干絲の小丘の脇に、濃い醤油のタレとごま油を注ぎ入れ、少量の”海米”と呼ばれる小さな干しエビ、干し筍をもどして細く切ったもの、数切れの香菜、ないしは刻んだネギが小丘に載せられる。さらに細く刻んだ生姜を載せるところもある。
醤油のタレは、”老醤油”という黒いくらいの濃い色をした醤油を使っている。これは濃い色ほどに辛くはない醤油で、陽春麺などにも使われていて、濃い醤油色を呈するのである。これに干しエビ、沸かした酒などからできているようだ。干しエビが無ければ、醤油を酒で割って煮たてたくらいでも十分に思える。ごま油の量は店によるが、印象としてはかなりたっぷりとかけている。このごま油が、程よく枯れて香りの良いものでないといけない。日本の市販のごま油の多くでは、新しいと香りがキツ過ぎる嫌いがある。
揚州燙干絲
この燙干絲に載った香菜は、細く青いネギを刻んだものが使われる場合もある。香菜は大陸でも好まない人もいるから、嫌いであれば除けて食べればいい。干し筍は無い場合もある。熱湯をかけられているものの、やけどしかねまじき熱さではなく、舌にちょうど温かい程度である。
地元の人の食べ方を見ると、出された燙干絲をまず箸でよく混ぜている。そしてタレとごま油が干絲になじんで全体が褐色に、混然一体となってから食べ始めるのである。私はどうも、盛られた燙干絲の姿をすぐに崩してしまうのが惜しく、また部分的に醤油やごま油の濃淡があった方が面白いので、いつも崩さずに食べている。好き好きだろう。

燙干絲は、観光客向けに終日出しているところもある。しかし基本的に揚州では”早点”、すなわち朝食のメニューなのである。”治春”や”富春”といった、旧国営系の大手茶館の観光客向けの”早点套”(朝食の点心セット)にも、通常は一皿の燙干絲が入っている。他にも、朝早くから点心を供する揚州特有の”茶館”では、きまって出されている料理なのである。日常的に燙干絲を食べるのは、揚州の他、揚州に近い泰州だけなのだそうだ。
一見、かなり量が多いのであるが、もとが豆腐だけに軽く食べられてしまう。燙干絲を食べ終わってから、包子や麺を食べる人もいる。お腹にさほどたまらない、軽い料理なのである。しかしごま油のせいか、腹持ちは悪くない。とはいえもたれるほどではないから、なるほど朝食には適した料理であろう。
揚州燙干絲
揚州で干絲といえば、朝食に限ったわけではない。夜のメニューにも干絲を使った料理がある。これには鶏スープと煮込んだ”鶏火煮干絲”や、蟹味噌の黄色いスープに浸した”蟹黄干絲”など、夜の食事なりに豪華な料理に仕立てられている。
とはいえ、やはり揚州で干絲といえば朝の燙干絲の印象が強い。ホロッと崩れるような特有の食感、香り高いごま油と共に忘れ難いものがある。
日本でも朝食などにこの燙干絲を食べることが出来たら.........と思う事が時にある。作り方は至極簡単であり、”豆腐干”以外の材料は、日本で入手できる品でも妥協できよう。しかし主役の”豆腐干”が難しい。
燙干絲は繊細な姿の割に至極安価な、庶民的な朝の軽食なのである。とはいえもとは、揚州で栄えた塩商達の、夜ごとの酒宴の翌日、お腹に優しい朝食として考案された料理なのだという。考えてみれば、朝から豆腐の加工品をふんだんに使った料理を食べること自体、非常に贅沢な事であっただろう。やはりこれも昔日の揚州の富強なることを忍ばせる料理である。
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武漢の湯包

以前、香港の至る所にある、エビワンタンのとある店に入った時の事。店にはエビワンタンの由来を記した小札が掲示してあった。そこには意外にもエビワンタンは武漢の発祥であると書いてあった。
エビワンタンというと広東料理のようなイメージがあるが、そのあと深圳をはじめ、広州や佛山、中山、珠海、新会といった地域に行く機会があるに及び、広東一帯の街の辻々にそのようなエビワンタン、ないしはエビワンタン麺を売る小さな店が存在するというわけではない、ということが分かってきた。
エビワンタンが街角の軽食として頻繁にみられるのは香港、あるいはマカオなどの、広東でも一部の地域である。香港、マカオといった特別行政区以外で多く見られる軽食というのは、腸粉や湯粉という、もっぱら米粉を使った料理なのである。

エビワンタンも、あるいはかつて広東一帯に広まっていたが、大陸側の近代における政治経済の混乱を経て、今や香港とマカオにしか残っていないのかもしれない。現在の深圳や広州で見られるエビワンタン(麺)の店は、多くは香港からの出店なのである。
エビワンタンにはほかにも湖南省の料理人が広東で創めた、という説もある。長江と洞庭湖を挟む湖南省や湖北省であれば、沿岸よりはるか内陸ではあるが、縦横に走る大小河川と無数の湖沼が存在する。巨大な湖の上に、切れ切れに陸地が浮かんでいるような地勢なのである。淡水の魚介が豊富に採れるのであるから、エビワンタンの材料にも事欠かないのであろう。
ワンタン自体は小麦粉を使う”粉もん”料理だけに、発祥は北方であるとされる。歴史的には概ね、北方は小麦粉ないし高粱を主食にし、南方は稲作による米食である。
湖北や湖南は北上すれば長安にあたるように、昔から北方の文化との交流が盛んだった地域である。北方由来の小麦粉の皮に肉を入れたワンタンに、エビやカニを入れるのは、淡水の魚介がよくとれる南方特有の発想であろう。川蝦はやはり温かい地域でよく繁殖する。

広東には"飲茶(ヤムチャ)”に供する”点心(ディムサム)”という、”粉もん”を主体とする豊富な軽食料理の一群があるが、その源流は揚州あたりなのだと考えていた。揚州料理の源流は、さらに徽州に求めることが出来る。塩商として揚州に進出して大いに栄えた徽州商人であるが、それも乾隆年間には複雑に証券化された塩業そのものが、規制によって衰微を見せる。揚州に盤踞した富商達は、清朝後期には広東に進出し、海外との交易や金融でふたたび栄えるのである。無論、富商らと共に、料理も伝播してゆく。現在の揚州にも残る、やや大ぶりな、小麦粉主体の点心群が、広東で米粉と海鮮と出会い、さらに消化しやすく洗練されていったのではないか?というのがおおよその(独断による)理解であった。
しかし広東は現在でも湖南や湖北、四川といった地域からの人口の流入が続く地域である。大陸というのは南北よりも東西の人の移動が多いのであり、それは大河川が東西を貫流しているからでもある。なので広東料理に、湖南や湖北の影響がないとは言い切れない。
どうも”江南中心主義”とも言うべきか、洗練された都会文化は江南地方にこそある、と考えてしまいがちなのであるが、湖南や湖北の影響力も見直してみる必要があるかもしれない。

軽食一般を”小吃”ともいう。武漢はこの”小吃”が豊富なことで有名なのである。おおよそ、独特な”小吃”が発達している地方というのは、繁華な都会としての歴史が古い地域である。
もっとも、現在は各地方の”小吃”が他地方にも進出して、どこの都市でも同じような”小吃”を食べることが出来るようになったのではあるが。

大陸の古い都会を歩く時、面白いのは”巷”をのぞいて回る事だと思っている。”巷”はすなわち大通りから入った路地裏のような狭い通りで、小さな商店や民家がひしめき合っている。近年の開発などで、昔ながらの”巷”の多くが喪われた。それがそのまま都市の個性の喪失につながっている事に、市の当局者達も遅ればせながら気づいたのであろうか。その再生を試みる街もあるのだが、それが再びその街固有の景観として馴染んでゆくのは、少なからぬ歳月を要するであろう。
湖北省の省都である武漢も近代化を強力に推し進めた結果、古い街の面目の多くを喪っているのだが、かろうじて昔から続く”巷”を幾つか残している。武漢固有の”小吃”を食べたければ、こうした”巷”を歩くのが良いという。

丁度、宿泊していた臙脂路の安宿から20分くらい歩いたところに”戸部巷”という、著名な”巷”のひとつがあり、ここは”武漢小吃”の小店がひしめき合っているという。
ともあれ暑い。ようようの事、この日の太陽が沈んだのは午後の七時半を回る時刻。夜の帳さえ降りてくるのが億劫な気配の、薄明るく蒸し暑い暮れを、とぼとぼと戸部巷へ向かう。臙脂路を民生路につきあたって右手にまっすぐ歩いてゆくと、戸部巷へたどり着く簡単な道順である。民生路に沿った数階建ての棟の屋根越しに、黃鶴樓が横目で見送ってくれる。
武漢の湯包
”戸部巷”は150メートルほどの一筋の通りである。この”巷”は明代に形成され、その名の通り”戸部衙門(ぎょもん)”、すなわち戸籍を管轄する役所(=戸部)がこの場所にあったことに拠る。大陸の今風に言えば、武漢の民生局、といったところであろうか。
武漢の湯包
役所とそこへ集まる人々の需要を当て込んでか、さまざまな軽食屋台や料理店や集まるようになり、清朝の頃にはすでに”小吃”を以て知られていたという。また後に”早嘗戸部巷、宵夜吉慶街”というように”朝は戸部巷で、夜更けは吉慶街で”食事をとるといった、武漢の都会生活人の符牒が出来た。吉慶街といえば、池莉の小説「生活秀」の舞台となった、これも武漢では有名な小巷である。

武漢の代表的な”小吃”と言えば”熱干麺”である。それはゆでた麺に胡麻や落花生のペーストでつくったタレで和え、漬物などを乗せた汁無しの麺料理である。これは全国に進出していて、江南諸都市のほとんどの街の辻々に、この”熱干麺”の店が出来ている。あるいは屋台料理として供されている。しかしこうした”地方熱干麺”は、武漢の”正宗熱干麺”とはまるで違ってしまっているという。ほかの地方に進出している”熱干麺”は、麺の量が多く、軽食の範囲を超えてしまっているような感じである。
(下図 武漢蔡林記の熱干麺)
武漢の湯包
この機会に”正宗”を体験するのも一興なのであるが................この日の武漢はとても暑く、”熱・干”の字面を見ただけで、どうにも食べる気が進まない。(翌日食べたが。)

”朝食は戸部巷で。夜食は吉慶街で。”ということであるが、その戸部巷は夕方から夜も賑わっている。路地に並ぶ店の軒先からは、調理の盛大な熱気とともに、様々な食べ物の匂いが漂って来る。
武漢の湯包
戸部巷も、地元の人の生活の一部というよりは、多分に観光地化されている。おそらく夜間は若い人や、他所から武漢に来た人でにぎわっているのだろう。戸部巷に軒を連ねるのも、必ずしもすべてが武漢特有の”小吃”、というわけではなく、他の地方でも散見される”流行”の軽食類も多い。しかしそれはさておき。

いささか空腹を覚えたが、とにかく蒸し暑い。覚悟を決めていくつかの行列に並ぶとか、串を焼く熱気に耐えながら料理を待つというのは、情けないことにこの日の気力がもちそうにない。
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どこか座れる店で落ち着いて食べたいと思って歩いていると、戸部巷から枝分かれした路地に入ったところに「湯包」の看板が出ている。「湯包(タンパオ)」ないし「小湯包(シャオタンパオ)」は、上海周辺で言うところの「小籠包(シャオロンパオ)」のことである。
店内に人はあまりいないようだが、雑踏と熱気を避けたい気持ちになっていたので、ともかく入ってみよかと考えた。店の奥には短く刈った白髪頭の店主らしき人物がおり、入り口でしばらく逡巡している私の姿を認めると、「座りなさい。」と声をかけてくれる。
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店内の奥には白い猫が2匹ほど、思い思いの恰好でくつろいでいる。
ごく小さな店であったが、ありがたいことにほどほどに空調が効いている。テーブルの上には、ステンレスの容器に入った透明な酢に浸した、千切りの生姜がおいてある。
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これは上海の小籠包にはつきものであるが、特にエビやカニを入れた小籠包に合せる。漢方の考え方では、エビやカニなどを食べるときは、これらは体を冷やす食べ物であるから、体を温める生姜を必ず添えるのである。今ではカニやエビが入っていなくても、酢生姜を添えるようになった。
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椎茸入りの小湯包をひとつと.....ビールを1本頼み、じゃれつく猫を適当にあしらいながらビールを飲んで待つことにする。小さな店の常として、注文を受けてから包み始めるので、少々の時間は必要なのである。壁には雄渾な書体で、この店の湯包の味の優れたることが記された書額が掲げられている。
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待っているうちに、店の表からおかみさんらしき年配の女性が入って来て、店主を手伝って手際よく湯包をつつみ始める。また一人、二人の客が入って来て、湯包をひと蒸篭づつ注文している。彼らは戸部巷の表通りの多勢を占めていた、観光客のような雰囲気が無い。地元の人にはやはりそれなりに知られた店なのであろう。
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盛大に白い湯気の立った蒸し器に、湯包のはいった蒸籠を重ねてから、蒸すことものの数分で運ばれてきた。意外、というべきか皮が薄く、中のスープも脂濃いこともなく、上品な味の湯包である。餡の肉はあまり練っておらず、口の中で崩れるような感触である。
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実は武漢には、この店の他にも小湯包を出す店は少なくない。
「四季美」「華美」「楚漢」「今楚」「湯包大王」など、多くの湯包の名店がある。そのうちもっとも歴史が古いのが「四季美」である。創業は1927年だという。四季美の創業者が、蘇州式の湯包を武漢に持ち込み、武漢人の味覚に合わせて調理を見直し、提供し始めたという.........そういえば、猫のいる湯包の店の名を記すのを忘れていた.....
(翌朝の朝食は戸部巷にある「四季美」の湯包にした。下図)

なるほど、武漢の湯包は蘇州の湯包に似て、やや大きめである。上海のように、出来る限り小さく、皮はぎりぎりまで薄く、という格好ではない。ただ蘇州の湯包はおおむね”甘い”、わりと脂濃いのであるが、武漢のそれは甘いということはなく、味も比較的清淡である。甘さを好まないというあたりが、武漢人の好みなのかもしれない。しかし四季美の湯包には、蘇州や鎮江と同じく、黒い酢(香酢)が添えられており、昨夜の店のような透明な酢ではない。このあたりが”ルーツ”のしるしであろうか。
”甘い”湯包というのは、概して、蘇州、無錫、鎮江のあたりに分布するのであるが、鎮江特産の黒い香酢の利用に関係するのかもしれない。揚州に至ると、甘い、という事はない。長江北岸と南岸での味の傾向の違いか。ともあれ湯包ひとつとっても、地方の特色があるものである。

エビワンタンの由来が武漢とする説があるように、あるいは湯包も湖北あたりから東に下った可能性もあると考えたのだが、逆らしい。それが20世紀の初頭の時期であるというのは、蒸気機関を積んだ船舶によって、長江の遡上が容易になった時代とも重なる。かつて武漢には各国の領事館が並び、租界もおかれていた。
武漢の湯包
古い”巷”の周辺には、上海の老街を思わせるような西洋風の建物の面影ものこっており、内陸に位置しながら国際色豊かな都会であったことを忍ばせる。そういった時代の是非はともかく...............上海の小籠包ならぬ武漢の湯包が著名なのも、あるいは当時の面影を今に残している、といえるのかもしれない。
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斬瓜刀

上海郊外の、とある田舎街を上海の朋友と歩いていた時の事。ちょっとした市場の体をした、広い果物屋の前を通り過ぎようとしたとき、異様に大きな刃物の存在が目についた。

細切れにされた、普通サイズの西瓜と比べると、その長大さがお分かりかと思う。どうも西瓜を切って、試食せよ、という事らしい。朋友に注意を促すと「ああ、そういうものは、不衛生だから食べてはだめです。」という。いやいや、そういうことではなくて、たかだか西瓜を切るのに、この青龍刀のような刃物はどうなのか?という事なのである。このような刃物を店先においていたら、日本であれば確実にとがめられそうである。日本の料理包丁の世界にも、マグロをさばくものなどに、実に長大な刃物がある。しかしそういった専門の職人が使うような刃物は、まず一般の人の目に触れることはない。

この刃物で西瓜を切っているところを実見したわけではないのだが、これを手にした人が実際に目の前にいたら、ちょっと遠巻きにしたくなるかもしれない。

実のところ、果物が好きなので、旅の間に果物ナイフ程度のものは買うことがしばしばある。果物は「水果」といい、果物ナイフは「水果刀」という。「五金」という、日本で言う金物屋で「水果刀」が欲しいというと、たいていは5元(100円)くらいであるものである。手のひらサイズの小さなものがほとんどであるが、その形状というと手裏剣か何か、大陸の武侠小説でいう「暗器」ともいうべき、かなり危険な恰好をしたものがある。そうしたナイフは、飛行機にはもちろん持ち込めない。うっかり手荷物検査で没収される事もおおいのであるが、いくつかは持ち帰っている。家で使う分には危険はないが、数が増えた時に、もし万一「家宅捜査」を受けた時などは、なかなか言い逃れが難しいのではないか?と思うような鋭利な刃物もある。

いつかまとめて紹介しても面白いと思っているが、やや物騒な雰囲気もあるので控えている。さすがに、この「斬瓜刀」ともいうべき刃物ほど長大なものはないのだが、峰に向かって反り返った刀身というのは、なにやら危険な雰囲気がするものである。また西洋風に言えば「ペティナイフ」といったところの、薄刃で小型で反り返ったナイフなども、その曲り具合が草刈り鎌のようなものもある。果物の皮を剥くよりも、喉笛を掻っ切るためにできているのではないか?というような、やはりある種の危険性を感じるものがある。別段、選んで買っているのではなく「五金」の店にそれしかおいていなかったから、という場合がほとんどなのであるけれど。

ともあれ、多種多様な料理用の「刃物」が存在する大陸の人が、日本に来た時に好んで買ってゆくのが「セラミック包丁」なのだというから、これもまた意外な印象をうけるものである。
 
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倭豆と日本大豆

少しさかのぼって、今年の初夏の頃の話。
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五月に上海に滞在した時の事。この季節の江南の楽しみといえば、空豆(蚕豆:ソラマメ)である。上海豫園の近くの庶民の街、上海老街の市場には、山積みのそら豆を見ることができる。このそら豆、羅漢豆というような別称もあるのだが、最近上海の市場などでは「日本大豆」という名前で売られているのをよく目にする。
このそら豆、地中海が原産地だというが、中国への伝来は早く、「太平御覧」によれば漢の張騫が西域から持ち帰ったものであるという。さもありなん、三国時代には「胡豆」という名であらわれているそうな。「胡」の一時は「胡人」というように、広い意味では西域の物産に冠せられる一字であるから、やはり西方から伝来した豆なのだろう。今でも四川省では「胡豆」というそうだ。そういえば、そら豆は香り高い豆板醤には欠かせない材料である。

そら豆は、その太ったサヤがカイコを連想させるところから「蚕豆」とも書く。李時珍の「本草綱目」にも、すでにその名称が紹介されている。日本には中国から伝来しているので、この「蚕豆」の表記は今でも共通である。
しかしそのソラマメを、何故「日本大豆」というのだろうか........?屋台で”日本大豆”を売っている人に「なんで日本大豆というのか?」と聞いたらこれが「もともと日本から来た豆だからだよ。」という返事。それは明らかに認識違いである。
上海の朋友の父親は寧波出身なのであるが、話によれば寧波では古くから「倭豆」と呼んでいるそうである。「倭」は周知のとおり、やや差別的なニュアンスを含んだ、日本に対する異称でもある。何故寧波の人々が「蚕豆」を「倭豆」と呼んでいるのだろうか?
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明代後期、大陸の南方沿岸地域は倭寇が猖獗を極めていた。上海から少し南に下った地域に位置する寧波は、特にその被害を受けていたという。特に4月、5月、そら豆が熟する季節をねらって倭寇が襲来したという。これは海上の天候にもよるのだろう。すなわちそら豆が熟する時期には「倭寇に気を付けろ」という、警告の意味を込めて「倭豆」と呼ばれるようなった、ということだ。
それは北方における「天高く馬肥ゆる」秋に北方騎馬民族が襲来するから警戒せよ、という警句と同様であろうか。北では牧草を食べて馬が肥えるのが秋であり、騎兵の長距離移動が可能になる。農耕民族の秋の収穫時を狙って来襲するというわけだ。
またこの地方を荒らした倭寇達は、土地のそら豆の味が気に入って、好んで食べたともいう。そこで寧波の人はあるとき一計を案じ、そら豆を大量に集めたうえで毒を盛り、倭寇に大打撃を与えた、という話もあるそうな.........
 
ともかく、どうもこの「倭豆」がヒントになりそうである。おそらく「倭」が「日本」に転じて「日本大豆」になったのではないだろうか.......?と考えたのだが、そのような情報は見当たらない。上海の朋友に聞いても「え、日本大豆?聞いたことがありません。」という答え。確かに、小生自身の記憶に照らしても、市場で日本大豆と表記するようになったのは、最近の事ではないかと思うのである。
たしかに大陸の人は、細かい分類にあまり気を払わない気分もあって、たとえば大豆だろうがえんどう豆であろうが、そら豆であろうがピーナッツであろうが、すべて「豆」でくくって済ましてしまうような場面が多々ある。豆もいろいろなのだから「何豆ですか?」と聞きたくなるところだが、何豆かどうかなんて、そりゃあなたの目の前にあるんだから、聞くまでもないでしょう?というところである。なので「大豆?」といわれると、違和感を感じるような歴とした”そら豆”であっても、となりの店が「日本大豆」と書いて売っているのだから、うちの店もそうせねばな、というような至極ゆったりとした雰囲気で広まっていったのではないかと推測するわけである。
なのであながち、「日本大豆」における「日本」には悪い意味は込められてないのかもしれない。いつぞやと同様、「日本ナントカ」というだけで、不買運動でも起きかねまじき空気がそこにあるのだとしたら、そのような名称があえて広がらないだろうと思うのである.......しかしそう考えたところで「日本大豆」の名称の由来は今もって謎のままである。
さて、そら豆は買った。あとは紹興酒である。それも上海に多い紹興酒のブランド、「石庫門」のような琥珀色で味が軽いものではなく、このときの気分としては紹興の咸亨酒店の店先で飲めるような、醤油色をしたやや甘く濃厚なものが良い........これを甕からくみ出して量り売りにする店も、ちゃんと上海老街にはあるからありがたい。

酒を選んで計量してもらっている途中、向かいの飲食店から男がひとりやってきた。男は無言で飯茶碗大の器を突き出すや、酒屋の主は計量の手を少しとめて、その安物の白磁の器に濃褐色の酒を注いでゆく。男はお代も払わず器を手にまた向いの店に戻っていった。きっと老街の住人なのだろう。食事時に紹興酒を飲む人は、上海の人でもあまり多くはないから、あるいは紹興か寧波出身の人だったのかもしれない。良い光景である。いっそここで飲んで帰ろうか、とも考えたが.......手に下げたそら豆を茹でなければならない。紹興酒とそら豆をぶら下げながら、上海老街を後にした。
 
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五亭吟春茶社のえびそば

※管理画面の操作ミスで、一時的に休止状態になっていました。休止を解除いたしました。ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。


揚州滞在中の事。最近気に入って通っている、五亭吟春茶社の点心は欠かせない。揚州の茶店というと、三丁包のような饅頭もさることながら、麺料理にも特徴がある。ちなみに点心といえば軽い食事の事であり、麺類も点心に含まれるのである。しかし五亭吟春茶社の麺はかなりボリュームがあるので、食事として食べる場合は饅頭類と一緒では少し苦しい量である。なので麺を食べるか、包子の類にするかは、これはなかなか悩ましい問題なのだ。
今回は揚州を発つ最後の食事として、五亭吟春茶社の麺を食べようということになった。時刻は昼時である。今日中に上海に戻るのであるが、揚州から鎮江にタクシーで移動し、鎮江から高速鉄道で上海に戻るルートである。鎮江から午後三時時出発の高速鉄道のチケットはすでに入手してある。揚州から鎮江までは、およそ45分から1時間を見込めばよい。なので30分前に到着している事を想定すると、遅くとも午後1時半には揚州を発つ必要がある。

 

ところで高速鉄道のチケットはインターネットで予約、購入が可能であるが、駅の切符売場で身分証を呈示の上で”発券”してもらう必要がある。売り場の窓口が込み合っている事も多いから、並ぶ時間を見込んで少し早目に駅についている必要がある。ちなみに往復分を予約、購入しておけば、行きのチケットを発券してもらうときに、同時に帰りの分も発券してもらえる。帰りのチケットの入手に並ばなくてよいので、一度に買っておいた方がよいかもしれない。これは、かつて起点の駅からでしか列車の切符が買えなかった時代を思い起こせば、格段に便利になってはいる。
そういうわけで帰りの切符は入手済みで、かつ鎮江の高速鉄道の駅はさほど大きくもないから、30分前に到着すれば充分であろうと踏んでいた。とはいえ、何が起こるかわからない大陸の旅の事であるから、時間に余裕は欲しいところである。

 

昼過ぎに五亭吟春茶社に入り、1時間ほどゆっくり食事をして、1時過ぎに出れば充分であろうとこのときは考えていた。
さて、揚州では「陽春麺」という、何の具材も乗っていないシンプルな”かけそば”がある。また「蝦餃麺」という、エビワンタンが入った麺もある。五亭吟春茶社では「陽春麺」が5元(100円)で、「蝦餃麺」が7元である。数年前に比べて騰がったとはいえ、いまどき上海で5元では場末の”蘭州拉麺”すら食べられない。そう考えると、やはり揚州の物価は安いといえる。
特徴的な「陽春麺」を食べてもいいと思ったが、今回は揚州初めてという日本の知人が同行していた。「せっかくだから.....」という意識もあって、もう少し豪華な麺にしょうか?とフト考えた。メニューを見ると、最下部に「虾仁麺(シャアレンメン) 18元」というのがある。「虾仁(シャアレン)」は文字通りエビのこと。エビソバである。これが麺料理ではこの店の最上級の料理のようだ。18元といえば、このときのレートで360円ほどである。しかし「陽春麺 5元」に比べると別格に高価である。このときは一人旅ではないし、少し贅沢をしようと考えた。そこで「虾仁麺」と、炒め料理を一皿頼み、席に着いたのである。
 

五亭吟春茶社はレジで半券になったチケットを買い、テーブルに着くと店員がチケットの半券をもぎってオーダーを通すシステムである。オーダーミスを防ぐために、テーブル番号の書いた”洗濯ばさみ”に半券をはさんで持ってゆくようなスタイルもある。
このとき、チケットをもってテーブルに着くと、やや年配の女性の店員が来て、チケットをもぎっていった。その時、半券を少し見て「.....虾仁麺は少し時間がかかりますが、良いですか?」と聞くのである。さもありなん、地元の人でわざわざ18元もする虾仁麺を頼む人などいないのかもしれない。シンプルな「陽春麺」などは5分もしないで出てくることがあるから、時間がかかるといっても10分や15分、少し多めに時間がかかるのだろう、と高をくくり「可以(いいよ)」と返事をした。麺ができるまで、ビールを飲みながら炒菜(炒め料理)でもつついていればよい、という程度の、このときは浅い料簡だったのである。

 

杭州に「龍井虾仁(ロンジン・シャアレン)」という、小エビを塩味で炒めて緑茶の香りをつけた料理がある。杭州の銘茶である「龍井茶」が新茶の季節の名物料理なのであるが、小エビの炒め料理は江南諸都市はどこでもある。この料理は火の通し加減と塩加減の妙もさることながら、芝エビよりも小さなエビをひとつひとつ殻をむく労力も相当なものである。やはりなかなかの高級料理なのである。なので「虾仁麺」といえば、おそらくこの小エビの塩炒めが麺の上に載っているに違いない。小エビをある程度の量むいてゆくのは大変であるから、それなりに時間がかかることは察せられる。
エビを載せた麺、というのは、江南の水郷地帯ではよく見る麺料理である。「舟子麺(船頭そば)」というものも、たいていはエビが入っている。水郷地帯は昔は船で移動したから、船上で簡単に作れる軽食として、この種の麺料理が食されたのだろう。川エビはどこでもとれるし、エビを煮れば良い出汁になる。またエビの卵を塩漬けにして乾燥させたものは、”蝦子粉”という調味料になる。これをかけた「蝦子麺」は香港のエビワンタン麺もそうであるが、もとは安徽省南部の湖沼地帯の名産であるという。

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ところで五亭吟春茶社は、包子や麺料理だけではなく、炒菜もよくできている。ただ惜しむらくは、ここの揚州炒飯は格式にのっとった「正宗」ではない。普通の炒飯である。同行の知人には「正宗」の揚州炒飯を食べてもらいたかったので、前の晩は「食為天」で食事をしたのであるが、揚州炒飯以外の揚州伝統料理であれば、ここのような「茶館」もまったくもって悪くない。とくに五亭吟春茶社の「文思豆腐」などは、その豆腐を糸のように細かく刻む技量とスープの味わいにおいて、「食為天」のような有名店をしのぐものがある。


しかしはたして炒め料理を食べ終わっても、麺はまだ出てこない。件(くだん)の服務員が寄ってきて「今作っているところだから、もう少し待ってね。」という。うーむ、予想以上に時間がかかっているようだ。あるいは川や濠に小エビを採りに行っているに違いないと、冗談を言いながら新たに青菜の炒め料理を一皿頼むことにした。
この地方を訪れる三日前まで、南京から揚州にかけて豪雨が襲った。揚州では運河や濠があふれかえり、市民は路上に出て素手で魚をつかみどりした、という報道があった。我々が来た時にはすでに水はすっかり引いていたのであるが、痩西湖の水面は、やはりいつもと違った量感に満ちていたものである。
そういうわけで、小エビ共なんぞは洪水に流されて、皆皆逃げ散ってしまったのではなかろうかとも考えた。


これが北京、上海といった大都会の大きなレストランであると、さんざん待たされた挙句にオーダーが通っていなかった、なんていうオチもザラである。ザラであるから、地元の朋友などは服務員に何度も催促するのであるが、それでも時にままならないものである。
しかしこの五亭吟春茶社の場合は、何度も服務員が寄ってきて「もうしばらくお待ちください。」と告げてゆく。おそらく厨房の方にも行って様子を見てくるのだろう。このとき店に客も少なくなっていたので、忙しいから後回しにされている気配もない。ともあれこうして丁寧に「お待ちください」と言われれば、「はいそれでは」と待つ気になるものだ。
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五亭吟春茶社の店員は揚州市内の人、あるいは近郊に住む人で、地元の人が地元の客を接客するので、応対はなかなか親切である。これは北京、上海や深圳といった大都会では、今やあまりない応対である。
北京や上海のような大都市の住人は、飲食店の服務員などはなりたがらないから、地方の田舎から出てきた若者達がやっている場合が多い。しかし現代中国の地方と大都会の環境格差は大きく、彼らはなかなか都会の勝手がわからないのだろう。彼等のサービスが要領を得ない上に、大都会の顧客もなかなかもって気短かな連中も少なくない。また残念ながら、都会の人々は地方出身者に対してとかく隔意があるものである。そういうわけで、概ね、サービスをする側とされる側で良好な関係が成り立たないのである。

揚州の茶社や餐店においては、そういった店員と顧客の間でのギスギスした空気が見られないのもよいところである。
ちなみに日本に来ている留学生などは、飲食店でアルバイトしている人も珍しくないかもしれない。しかし大陸で都会の大学生が飲食店の給仕をしている、というのはまずお目にかからないものである。飲食店の給仕が一等低い職業とみられているところが、まずもって残念なところである。
 

それにしても、待てど暮らせど麺は来ない。ここでいよいよ大変な料理を頼んでしまったことに気が付き始めた。鰻屋に上がって蒲焼が焼き上がるの待つではないし、あるいは麺を打っているのか?イチから出汁をとっているのか?あるいはこの特別な麺料理は、厨房の親方しか作れないのではないか?その親方は本日休みか休憩中で、その弟子共が親方を呼びに行っているのではないか?その親方はたぶん趣味の釣に出かけていて、これがなかなか見つからないのではないか?などなど、いろいろ考えた。
時計はすでに午後の1時を回って半にかかろうとしている。あと五分待ってこなかったら、店には誠にもって申し訳ないけれど列車の時間があるから退散しようか、と思っていたところ「出来ましたよ。」と服務員が言うや、奥から恭しく熱々の麺が二杯、服務員に奉げられて出てきたのである。
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思いがけずスープの色が、白い。「陽春麺」のような、濃褐色の醤油味のスープでを予想したのであるが、そうではなかった。スープの塩気は薄目だが、思いのほか味が奥深く、上品な後口に淡白なエビの旨味が潜んでいる.........具材は青菜にきくらげ、それに子供の指の爪先ほどの小さなエビがたくさん入っている。なるほど、この小さなエビをむくのは手間である。麺は「陽春麺」などと同じ、やや平たい太めの麺である。
日本であれば優に二人前はあるかという量であったが、二人とも麺は得意な方であったから瞬く間に食べ終え、少しあわただしく店を後にした。
 

しかしエビをむくのにこんなに時間がかかるわけがないから、あるいはスープをとるために貝柱を水でもどすところからやっていたのではないか?という考えがよぎった。が、これから鎮江までのタクシーを拾って急ぐことを考えると、このときはそれを確かめている時間はなかった。
1時間も麺の出てくるのを待つというのも実に悠長な話かもしれないが、その悠長なところを味わうのも、近頃は味わえなくなった大陸の旅の本来の良さかもしれない。とはいえ待たされている間は、やっぱり簡単に陽春麺か蝦餃麺(エビワンタン麺)にしておけばよかったと、少し焦りを感じたものである。

が、不思議と時間が経って思い返すと「揚州に行ったら、またあの虾仁麺を食べようか」と思わないでもない。
 

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