新老坑小硯四面

新老坑小硯を四面、近日中に販売する予定である。前回のリリースで最後かと思っていたら、もう若干数の仕入れが可能になった運びである。そういうことを毎回言っていると、実は無尽蔵にあるのではないかと思われそうだが、資源に限りがあるためそういうわけにはいかない。ただ、本当にあと何面調達可能かというと、これも定かではないというのが本当のところなのである。

新老坑小硯 

掲載した硯のうちの一面は、硯の一部が破損した状態であった。この部分の欠片がどこかにあるのではないか?と思いたいが、残念ながら行方不明ということである。しかし洗硯が終わった状態で眺めてみると、この割れた面はうっすらと黄色がかった石色が認められる。

新老坑小硯

おそらくはかつては金線のようなものが硯面から硯背にかけて走っており、その線にそって割れてしまったものなのだろう。これも自然の造作、いわゆる天工とみなし、そのままにしておいたのかもしれない。惜しむらくは、墨池や彫琢の一部が失われてしまっている。まさしく作硯が終わって後のことなのだろう。欠片があれば修復が可能なものだが、なにゆえしなかったのだろうか。ともあれ、そういう状態の硯を販売することに躊躇も覚えるが、ご理解いただける方に愛用していただければと考えた。

ところでこの四面の端溪硯をよくご覧になったうえで、以下の写真をご覧いただきたい。

 歙州小硯

これらは手元にある、歙州硯の小硯の一群である。一体、端溪と歙州とでは、硯の作風も異なった傾向がある。今回販売する四面のほか、今まで販売してきた新老坑小硯の多くは、古い硯ではないにしても、その作風は端溪硯の特徴を備えている。一目見て、端溪硯らしいフォルムをしているのである。どういうところかというと、ひとつにはおおむね硯の上辺が狭く、下辺にかけてゆるやかな広がりがある。全体を台形の角をまるめたような恰好にして、安定した印象を与えているのである。そのフォルムは直線や平面ではなく、曲線と曲面で構成されているのである。

一方、歙州硯の方といえば、長方形を基本とし、ほぼ直線的に硯石をカットしている。このような形状が、歙州硯のひとつの特徴なのである。いかにも歙州硯らしい作風であるなと、見る人が見れば思うのものである。直線ではなく曲線を大胆に用いた硯もあるが、それは写真中にもあるように、円や楕円のような、幾何的な対称性を狙って構成されている。

歙州硯と端溪硯の作風にこのような違いが表れたのは、おそらくは産出する硯材の質や量に違いがあったと考えられる。長方形や楕円形など、一定の幾何的な形状を得るためには、採掘された自然の形状の硯材について、その多くの部分を切り捨てなければならない。端溪の佳材、とくに老坑や新老坑は、もともと大きな原石を得ることが難しかった。ゆえに天然形、ないしは原石の形状に沿ったうえで、なるべくバランスの良いプロポーションを求めたと考えられる。こうした傾向は、おそらく清朝あたりに定まったのではないか?と推測している。明代末期から開採された、老坑水巌に巨材があまりとれなかったことも影響しているだろう。

 

北宋あたりの作硯を見る限りでは、端溪も歙州と同じく直線的幾何的な形状を基本としていたことがわかる。時代を経るごとに両者の作硯様式に違いが表れるのは、やはり歙州硯と端溪硯の、硯材の産出量の推移の違いに理由を求めることができるのではないだろうか。

台北の故宮博物院に収蔵される、康煕、雍正、乾隆時代につくられた官作の松花江緑石硯を見渡せば、前述の事情のごく短期的な変化を追うことが可能である。すなわち康煕年間から乾隆年間にかけて、硯はおおむね小型化している。これは採掘される硯石が徐々に乏しくなってきたことに拠る、と考えるのが自然である。加えて康煕年間は四直方形を基本とした作硯が多いのであるが、時代を下るごとに天然の不定形、ないしは不定形を基礎とした意匠が増えるのである。これも硯材が枯渇に近づき、大きな材が払底した結果、大きさを残すために天然の形状を生かす作硯が増えたためと考えられる。

 

むろん、こうした硯の特徴をめぐる議論というのは常に必要条件であって十分条件ではない。逆は必ずしも真ではない。

歙州硯であっても、天然の不定形をとった硯もある。しかしそうした不定形の歙州硯が多くみられるのは、もっぱら近年、せいぜい数十年内の硯のうちである。たとえば以下に掲げる硯のごとくである。また古い時代の端溪硯であっても、四直方形の佳硯がないわけでない。しかし稀なものであり、しいて言えば硯板状に作硯されたものがある。

歙州新硯

 

三月にニューヨークのクリスティーズ・オークションで、日本の藤田美術館から青銅器をはじめとする多くの大陸文物が出品された。2.6億米ドルという落札総額は、南宋の五龍図や、青銅器の多くが牽引した結果であるが、その中に数点ながら硯をはじめとした文房四寶も入っていた。

そのうちの一点にAN INSCRIBED SHE INK STONEという硯がある。SHEというのはのことで、すなわち歙州硯ということなのであろう。サイトの中国語表記では『清歙石七襄報章硯』となっている。この歙石、クリスティーズのサイトには表から蓋をかぶせた格好で写した一枚の写真しかないのであるが、一見して歙州硯と呼ぶには違和感のあるフォルムをしている。全体的に丸みがあり、上辺が狭く、下辺が広い。それに日本で作られたという、紫檀の上下蓋がついている。写真からでは硯面の石色がよく見えないのであるが、歙州硯という断りがなければ端溪硯、と思ってしまいそうである。これは清朝の硯ということなのであるが..........近年、歙州硯でもこうしたしもぶくれの格好をした硯も作られることがあるのだが、歙州に硯材が豊富であった清朝の硯、と言い切るには苦しい。あるいは端溪と歙州を誤認しているのであろうか........?

硯背には”qi xiang bao zhang”という字が彫られているというが、これは”棋qi 祥xiang 宝bao 重zhang”、すなわち”祺祥重宝”であろう。”祺祥”は清の同治帝の代に公布されながら施行されなかった年号であり、この年号をいれた銅銭に”祺祥重宝”、”祺祥通宝”がある。すなわちこの硯は銅銭を意識した硯、ということになる。古銭を意匠にとった作硯は、陳端友のリアリズムに富んだ作例にもみられるが、金銭を”銅臭”と蔑む文人の価値観にはそぐわないものである。

 

さらに言えば、日本で作られたという上下蓋に緑がかった玉石がはめ込まれている。上下蓋というのは、たしかに日本の唐木職人特有の仕事ではあろう。しかし日本で産出したわけでもない玉石を嵌め込んであるのには、やはり違和感を覚えるものでる。玉石を麗々しくはめ込んだ唐木の硯箱というのは確かにあるのだが、古い時代の文人の趣味では、やはりない。おそらく後からはめ込んだものだろう。

 

そもそも文人にとっては良い硯こそ無上の宝なのであり、それをわざわざ玉石でもって飾るというのは俗悪である。王朝時代の知識人にはそぐわぬ趣味、というよりない。硯の価値のわからない者でも、この玉石をもって価値を認めるかもしれない。宝石箱を宝石で飾る愚と同様、硯の良し悪しのわからない者にもよからぬ心を抱かせる元になるものであり、実際忌避すべきところである。(参照:考槃餘事)

ついでに古硯に精通した知人に言わせれば、墨池の形状位置もまったくもっておかしい、という。確かに古い時代の歙州硯であれば、墨池はもっと上辺に寄っていてほしい。また台形基調の硯に、楕円〜紡錘形の墨池はいかにも安定感を欠くものである。あるとすれば半月形ないしは方形を基本とする墨池であって然りであろう。........このような疑問百出硯というのは、玄人ならば持ちたがらないものである。しかし結局は162,500ドルで落札された。数千万ドル単位で落札された青銅器などに牽引されたとはいえ、これも時勢のなせるわざであろうか。

 

..........縁遠いオークションのことはともあれ、この新老坑の小さな硯達、である。オークションに出品されるような硯ではむろん無いのであるが、小さいながらもいかにも端溪硯らしい作風を備えている。今日日稀な品であるとはいえるだろう。ご愛用いただける方に、ご検討いただければ幸いである。

 

※訂正 クリスティーズの中国語サイトをよく見ると「qi xiang bao zhang」はすなわち「七qi 襄xiang 報bao 重zhang」なのでした。「棋qi 祥xiang 宝bao 重zhang」ではないということで、訂正します......ただ両句をかけているのかもしれない。硯背の写真もほしいところであるが。また英語サイトには記載がなかったが、明治十年に天皇が御覧ということで、事実とすればそれくらいの時代はあるのだろう。ただ硯背に足が三本あり、石眼が三つある、ともある。とすればやはり端溪なのではないか?と考えたくなる。眼が出るのは端溪だけではないが、歙州に石眼はさすがに........端溪とすれば、まあ、清末でも納得できるのであるが。

 

※追記:英語版を読むと”amidst three raised circular bosses which reveal the gold inclusions in the stone.”とあるのだが、”gold inclusions"というのは金星のようなものだろうか。しかし”three raised circular”とあるから、眼柱のように盛り上げて造っている?金星が出るなら歙州なのだろうが、しかし金星を眼柱仕立てにしている作例は寡聞にしてきかない。やはり硯背の写真もないと.....
 

 

落款印01

新老坑硯五面

確実に使える硯をそろえるのも難しい時代になってきた。現在、かなりの勢いで、かつて日本に大量に輸出された硯が大陸に還流しているという事情もある。
昨今の日本人は、硯で墨を磨らなくなったので、大陸に硯が帰ってゆくのは良いのではないか?と考える向きもあるだろう。それもそうかもしれないが、大陸の硯が帰ってゆくばかりではなく、日本で採石された硯石で造られた和硯も、産業としてもはや風前の灯という有様である。
こういった現状を嘆かわしいと思うか、いやいやこれも時代の流れですよ、と達観できるかは人それぞれだろう。しかしこの”コンピューター”万能の時代に、毛筆を手に取って墨でもって紙に字を書こうなどという、はなから時代錯誤な事をものする人であれば、少し立ち止まって考えてみるくらいのことは、あってしかりなのではなかろうか。
新老坑
端溪は旧坑洞はすべて閉鎖されてしまったので、現在採石されるのは旧坑のある斧柯山から見て西江の対岸にある、いわゆる北嶺の硯石ばかりである。宋坑など、それなりに歴史のある坑洞も存在するのであるが、いかんせん質が粗慢な点は否めない。宋坑にしても沙浦にしても、使っているうちにどんな良い墨を使っていても硯が黒ずんでゆくのがいただけない。しかも鋒鋩も概して弱い物なのである。
大陸の市場では、新しい端溪硯として流通するのはこうした北嶺の石ばかりであるから、良質な硯石をもとめようと思えば日本で探すよりないところである。

とはいえ実のところ、現在大陸でさかんに硯を蒐集している人々の多くは、墨など磨らない。いまの中国で、ある程度お金に余裕のある階層と言うと、やはり50歳代以上、60代が中心なのであるが、彼等は書をやるといってももっぱら墨汁を使用する人々である。また墨を磨るどころか、書をたしなむようなこともない者も多いのである。
墨汁を多用する傾向は70年代から強まり、文革を経て、現在の名の通った書画家のほとんどが墨汁専家である。ゆえに大陸の現代作家の作品などは、いくら有名でも買わない方が無難である。
しかしながら20代から30代の若い人は、何に啓発されたのか、墨を磨り始めているという事実があるのも、見逃せない動きである。良質な硯石をもとめるのも、多くは若い人達である。それ以外の、蒐集の中心となっている中高年層は、やれ在銘硯とか、著名人の持ち物であったとか、硯譜に載っているだとか、日本の古い図録に掲載されているとか、箱が立派だとかが評価基準である。要は硯の本質などまるでわからない人々の集まりで、自慢できるような品、売りさばくときに売りやすいような硯が欲しいのである。

ところで日本では、若いグラフィックデザイナーの中には、コンピューターグラフィックスではなく、筆や刷毛でもって、手書きで仕事をするような人も増えてきているという話も聞く。この動きは、少し注目していいかもしれない。
おもえばここ半世紀、コンピューターは目覚ましい発展を遂げてきた。ひと昔前は、コンピューターは貴重で高価なものだった。大枚をはたいてやっとの思いで購入すれば、それはそれは今まで何日もかかって処理していた仕事が一瞬で終わることもあった。コンピューターを使いこなせなければ仕事がなくなるという、一種の強迫観念すらあった時代を経てきた人からすれば、なんでもコンピューター化、デジタル化しなければ、という意識が強いのも無理はない。
ソフトウェアで書道や水墨画のような効果が可能なツールが開発されたのも、あるいはこうした時代の産物であろう。
新老坑
しかし、かつて電卓がそうであったように、個人用コンピューターの価格がどんどん下がり、学生でも持っているのが当たり前という時代である。否、ただの携帯電話すら、十数年前の個人用コンピューターの性能をはるかに上回るのである。いうなればコンピューターが当たり前の時代になったところである。操作性も洗練され、ソフトウェアなどはほぼ無料で手に入る時代である。このような時代、かえって人間の手業が当たり前でなくなってきた、という事なのかもしれない。
あるいは今の若い人は、物心ついたころから、コンピューターが身近にあり、すでに珍しい物ではないので、コンピューターを使ったものに、さほど強い関心を持つようにはならないのかもしれない。ゆえにコンピューターグラフィックスなどはいくらリアルでも当たり前すぎて、かえって手書きが良い、という事なのだろう。むしろコンピューターの急速な発展と威力を目の当たりにしてきた今の中高年の方が、コンピューターを特別視し、ありがたがる傾向があるのかもしれない。

少し前、人工知能の囲碁ソフトウェアが、囲碁の世界チャンピオンに勝利して大騒ぎになった。これをもって、コンピューターが人間の知性を上回った、いやいずれ上回るなどという、まことにはやまった話も聞かれる。世の中、粗忽者は小生だけではないらしい。
しかしかつてチェスの世界チャンピオン、カスパロフ氏がチェス・コンピューターに敗れたのは1997年の事である。これは忘れられてしまっているようだ。チェスはただの遊戯ではなく、西洋においては”知性の証し”とも言うべき文化であり、コンピューターに人間のチャンピオンが敗れるなど、あってはならないことであった。当時、欧米の知識人は相当な衝撃を受けたはずである。それから20年後の今、囲碁のチャンピオンが敗れたからといって、計算能力の拡大の速度を思えば、さほど不思議な事ではないはずである。

人工知能のビジネスに投資している人々からすれば、派手に宣伝した方が資金を集めやすくていいのだろう。しかし”ニューラルネットワーク”という、囲碁の人工知能に使用されたアルゴリズムはいたって昔からあるものだ。別段、革新的に新しい技術というわけではない。囲碁コンピューターを開発した”グーグル”のエンジニアが、持ち前の膨大な計算資源を集中して、かろうじて人に勝ったというのが実情なのである。また人工知能は過去に人間の対局で生み出された膨大な局面を記憶、学習してはじめて強くなれるのであり、いうなれば敗れた囲碁のチャンピオンは、囲碁の歴史そのものと対局したようなものである。
囲碁にしろチェスにせよ、あるいは将棋にせよ、局面の情報は相互に完全であり、かつ偶然が入り込む余地はないままに手順にしたがって進行する。こうした事柄に限っては、処理速度の速い計算機がいずれ有利になるのは当然と言えば当然である。

しかし、人間の特定の能力を計算機が上回る、という点では、はるか昔に電卓の計算速度がこれを達している。電卓が人間の暗算能力を上回ったところで、電卓が人間の知性に勝った、などと考えるのであれば、それこそその人の知性を疑いたくなる話になる。あるいは写真機が普及し始めた頃、画家は必要なくなる、などという論がなされたのと同様の話ではなかろうか。いつの時代も粗忽長屋のような世間があり、実のところを知らない人が大勢いるもので、たしかにちょっとした騒ぎにはなるのだろう。

いずれ人間の仕事のある部分は、人工知能にとって代わられる、という話もある。それはあるいはそうかもしれない。人工知能によって自動車の自動運転が可能になると、タクシーの運転手は必要なくなる、というような話もある。しかしすでに、航空機の操縦は離陸から着陸まで、自動運転が可能なのだそうだ。それでもパイロットが必要なのは、不測の事態に備えるのもそうであるが、離陸をするかしないかの判断は人間にしか出来ない、という事なのだという。
しかし離陸するべきかどうかの助言をコンピューターがするくらいの事には、すぐになるかもしれない。過去の経験を蓄積し、現在の状況と照合して少し先の未来を予測する事という事が、コンピューターにも可能になって来るからである。
いうなれば、人間の独壇場であったはずの、経験を必要とする高度な判断......これが人工知能に可能なってしまう、という事である。ひとりの人間が、その限られた個人的経験に照らして判断するよりも、膨大なデータを集積、分析できるコンピューターの方が、より的確な判断が可能なになるかもしれない。そうなると、現在のいわゆる”ホワイトカラー”の仕事も、多くは陳腐化されてしまう可能性もある。
そういった時代に、人間の営みとしていったい何に価値があるのかという事は、少し立ち止まって考えてみるのも良いのかもしれない。
新老坑
現代は、書も大半はデジタル化されて流通している。書かれた作品が画像データとなり、インターネットを通じて拡散しているのである。あるいはお酒などの商品に使われている毛筆をつかった”書文字”も、一度はデジタルデータになってから印刷されている。いっそ、墨を使って書くのではなく、初めからコンピューターを使って書いてはどうだろうか......と思っていたら、そういうソフトウェアは既にいくつかあるそうな。もっとも、そういった書は”本物の作品”ではないし、あくまで広告やパッケージのデザインに使うものだ、という話もある。
しかし、やろうとおもえば”それらしい”作品を書くことが出来るソフトウェアも開発は可能だろう。墨の滲みは拡散のアルゴリズムでシミュレート出来るであろうし、”線の揺らぎ”といった偶発性の再現なども、計算機の得意分野である。高解像度のインクジェットプリンタで宣紙に印刷されれば、手書きとほとんど見分けがつかなくなるだろう。

いやいや違う、本物の書は、何百枚も書いて一枚を選ぶから価値があるのだ、という事も聞かれる。しかし怒られるかもしれないが、それはもはや強弁に近いものがある。パラメーターを少しづつ変えながら、いくつものパターンをシミュレートする作業というのは、現在のコンピューターは得意分野なのである。それこそ数千、数万通りの出力を一瞬で吐き出すことも可能であろう。
リッター単位の墨汁を用意し、何百枚も書いて偶然の一枚を選ぶ式の手法など、そのうちソフトウェアの書いた書と大差のない事になるかもしれない。少なくとも素人目にはわからないであろうし、世の中の大半は素人目なのである。
コンピューターの書いた書を床の間にかけて楽しいかどうかはともかくとして、商業的な場面ではこれで充分、と考える向きもあるかもしれない。速度や効率という角度から価値を考えている限り、人間がコンピューターに勝てるものではない。

時間が無いから墨汁を使う式の書は、いうなれば効率、経済性の追求である。効率を求めている時点で、自らコンピューターに敗北する道を選んでいるようなものである。このような時代に、毛筆でもって字を書くという行為を、もう少し考えなおさなければならないのだろう。無条件無前提に”書”というものが価値を有していた時代ではもはやない、といっても言い過ぎではないのだから。

迂遠なようでも硯を洗い、紙を選び筆を選び、墨を丹念に磨って準備し、心静かに書をものす。そこに現れる満足感や充実感というのは、それこそコンピューターなど入り込む余地など無い。この価値がある限り、書は人間のものでありつづけるだろう。墨を磨る意味がわからない人間が、しかし毛筆でもって字を書く価値だけはわかるというのは、まったくもって本末転倒な話なのである。
新老坑
それはさておき、今回の新老坑硯である。いままで出してきた小さな硯よりも、一回り以上大きなサイズになる。小さな硯も手軽に使えるのでもう少し扱いたかったが、資源は有限である。ついに尽きてしまったのである。それらを集める過程で、ある程度の大きさの硯も集まった。その一部を今回販売するに至った次第である。
墨としては、一般的な唐墨の二両装(鐵齋翁書畫寶墨などの一般の大きさ)、ないし和墨の四丁型の墨も磨る事が出来るだろう。古硯に多い形状として、特別墨池といったものは掘られていない。そのかわり硯面が軽く凹面になっており、中央に墨が集まる仕組みである。まさに陸放翁の「古硯微凹聚墨多」というわけである。しかしこの形状には実用上の意味もあって、磨った墨は”焦墨”といって、少し乾かして濃度を高めてから使う事がある。このような使用法では、硯面に墨を広げて少し水分を蒸発させ、中央にたまった濃い墨を使う事が出来る、こうした墨池の無い硯が便利なのである。扱いに慣れておくと、技法上でも後々応用が利くであろう。

仕入れ段階ではすべて箱が無かったのであるが、箱の無い硯というのも寂しいので、漆の箱をつけてある。この箱は中身の硯に応じて少し古色をつけた仕上げになっているから、目に馴染むのも早いことかと思われる。

何度も繰り返しているが、新老坑は旧坑系(麻子坑や坑仔巌、老坑)の中でも優れた硯材を産出しており、唐墨から和墨まで多くの墨に対応するので、現代における実用性は老坑水巌に勝るかもしれない。なまじい、麻子坑や坑仔巌をもとめると、いまの市場にある多くは北嶺は沙浦の中で似た硯石を選んだいわゆる”新麻子坑”や”新坑仔巌”である。その点、”新”がついても新老坑は、まぎれもなく斧柯山の硯石である。

価格は小さな新老坑硯よりは高価になってしまうが、考えてみれば硯はほとんど消耗することが無いわけである。これから20年、30年使う事が出来る。
今は消耗品の紙や筆を買うのにお金がかかって精一杯だから、いつか買おうというよりも、長い付き合いになるのだから、初めに買っておいた方が良いのが硯なのだ。
また使い終われば誰かに譲ることも出来ると思えば、消耗品の高い紙や墨や筆を買う事に比べれば、さほどの事はないのである。ろくでもない硯はいずれ二束三文になるかもしれないが、きちんとした品であれば、値が騰がっている事はかならずしも無いにしても、それなりの値はつくものである。その差額分、楽しんだ時間で割れば、実は硯がもっともお金がかからない道具である事がわかるであろう......おっと、こうした考え方こそ経済的合理主義か。

ともかく、そのような硯しか店としては扱いたくはないものだ。
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「天硯」 〜(明)張岱「陶庵夢憶」より

だいぶん、ご無沙汰しておりました。実は祝允明の書いた唐寅の墓誌銘、「唐子畏墓誌並銘」を解釈の際、難読の箇所があって少し時間がかかっているところ。そこで先に別の一文をご高覧に呈します。


明末清初の張岱に「陶庵夢憶」という、随筆集がある。日本でも抜粋したものが松枝茂夫の訳で岩波文庫から出ている。
張岱は紹興の名門一族に生まれた。前半生は富貴の中にあって、若いころから放蕩三昧、芝居から歌舞音曲に惑溺し、詩書画骨董通じぬものとてなく、茶を好んで名水と茶葉の産地を能く飲み分けたという。しかし明朝が滅亡に向かう後半生にあっては、戦費と兵乱で資産をすっかり失い、山中に乱を避けて飢餓に苦しみながら著述に勤しみつつ、明の遺民として生涯を終えた。

紹興というのは、現在の浙江省にあってはすっかり地方都市の地位に甘んじてしまっているが、文化水準の高い相当に繁華な都会であった。張岱の張家はその紹興屈指の名門貴族で、張岱の曽祖父の張元忭は徐渭の良き庇護者としても知られる。妻を殺害して投獄された徐渭を、奔走して赦免させたのも張元忭であった。張岱も若いころから徐渭の詩文に傾倒したと述べている。
張家は書画骨董の大収蔵家でもある。手元の法帖集でもふとみると、趙子昴の「道徳経」に張元忭の蔵識が款せられている。古書画の名品の蔵印に、張元忭の名はまま見られるものである。

張岱の後半生は自ら述べるように、兵乱を避けて山中にこもり、老身でわずかな土地を耕作しながら飢えをしのぐ凄惨な生活であった。しかし伯夷叔斉にも比すべき晩年を送った張岱を支えたのは、著述であった。張岱が生涯をかけた明代の通史「石匱書」は、清朝に編纂された「明史」も多くを参照している。
その一方で、昔の栄華の日々の思い出話を徒然に綴ったのが「陶庵夢憶」である。老齢を迎え悲惨な生活のうちにあるのは、若いころに富貴の身でろくなことをしてこなかったからと、その韜晦のきいた諧謔味のある文章には、読むべき味わいがある。やはり万巻の読書によって積み上げた、深い教養に裏打ちされた精神の強さだろうか。ただ過去の栄華と追憶に浸るだけの老人ではなかった、ということなのである。

この「陶庵夢憶」のうちの一編、「天硯」の意訳を試みた。登場人物が張岱以外に二人出てくる。燕客こと張燕客は張岱の従弟で、一生こと秦一生は張岱の友人である。しかし「天硯」の文中、燕客は一生の甥、とあるから遠近の親戚関係にあるのだろう。燕客は張岱が別に伝を立てて述べるに、母親に甘やかされて育った挙句、粗暴で権勢をかさに横暴を極めたろくでもない人物であるが、最後は明朝に殉じている、とある。秦一生についてもまた伝を立てているが、あらゆる遊びを張岱と共にした仲間である。


「天硯」


少年視硯、不得硯醜。徽州汪硯伯至、以古款廢硯、立得重價、越中藏石俱盡。閱硯多、硯理出。曾托友人秦一生為余覓石、遍城中無有。

少年(しょうねん)硯を視るに、硯醜を得ず。徽州(きしゅう)汪硯伯(おうけんはく)至り、古款を以て硯を廢(はい)し、立(たちま)ち重價(じゅうか)を得る、越(えつ)中藏石俱(ことごと)く盡(つき)る。閱硯多かれば、硯理(けんり)出ず。曾(かつ)て友人秦一生に托して余が為に石を覓(もと)むるに、城中遍(あまねく)く有る無し。

若いころに硯をみても、硯の良し悪しはわからなかった。徽州の作硯家の汪硯伯が紹興に来て、古い落款銘を入れて硯を荒らし、たちどころに大金を手に入れ、紹興でめぼしい硯石の収蔵はことごとく尽きてしまった。
(歳を経て)硯を多く見てきたので、硯を視る目がついてきた。かつて友人の秦一生に依頼して私の為に硯を探させたが、紹興の城内をあまねく探しても(私が見るべきほどの)硯石はないという有様であった。

山陰獄中大盜出一石、璞耳、索銀二斤。余適往武林、一生造次不能辨、持示燕客。燕客指石中白眼曰:“黃牙臭口、堪留支桌。”賺一生還盜。燕客夜以三十金攫去。

山陰(さんいん)獄中の大盜(だいとう)一石を出す、璞(あらたま)耳(の)み、銀二斤を索(もと)む。余(よ)適(たまた)ま武林に往き、一生(いっせい)造次(ぞうじ)辨(べん)ずる能わず、持して燕客に示す。燕客(えんきゃく)石中の白眼(はくがん)を指し曰く“黃牙臭口、桌を支え留めるに堪えん。”一生を賺(すか)して盜(とう)に還(かえ)す。燕客夜に三十金を以て攫(さら)い去る。

紹興の獄中の大泥棒が、一つの硯石を出してきたが、まったく玉の原石のような硯石で、銀二斤を要求してきた。私はたまたま武林(杭州)に行って留守であり、秦一生はすぐには鑑別出来なかったので、持っていって張燕客に見せた。燕客は石の中に瞳の無い白眼があるのを指して「これは”黄牙臭口(歯が黄色く口が臭い)”というべきもので、テーブルの脚を支えるのに使えるくらいのもんだ。」と、一生を説いて盗人に還(かえ)させた。(ところが)燕客は夜に金三十両をもって(盗人の手からその石を)さらいとってしまったのである。

命硯伯制一天硯、上五小星一大星、譜曰“五星拱月”。燕客恐一生見、鏟去大小二星、止留三小星。一生知之、大懊恨、向余言。余笑曰:“猶子比兒。”亟往索看。

硯伯に命じ一天硯を制せしむ、上に五小星一大星、譜に曰く“五星拱月(ごせいきょうげつ)”。燕客(えんきゃく)一生(いっせい)の見るを恐れ、大小二星を鏟(けず)り去り、三小星を留め止む。一生之を知り、大いに懊恨(おうへん)し、余に向かいて言う。余笑って曰く“猶子(ゆうし:甥)兒に比す。”亟(すみや)かに往きて看るを索(もと)める。

(そして燕客は)汪硯伯に命じて、一つの天然硯を作らせた。上に五つの小さな星に大きな星がひとつあり、硯譜に曰く「五星拱月」。燕客は一生が見て露見するのを恐れ、大小の二つの星を削りとってしまい、三つの小さな星だけを残した。一生はこの(燕客が自分を騙して出し抜いた)ことを知って、大いに恨み後悔し、私に向かって言ってきた。私は笑って言うに「甥っ子は我が子のようなもの(というじゃないか)。」
そしてすぐに(燕客のもとへ)行って硯を見せるように求めた。

燕客捧出、赤比馬肝、酥潤如玉、背隱白絲類瑪瑙、指螺細篆、面三星墳起如弩眼、著墨無聲而墨沈煙起、一生癡瘛、口張而不能翕。燕客屬余銘、

女媧煉天、不分玉石
鰲血蘆灰、烹霞鑄日
星河混擾、參毀ф

燕客捧げ出ず、赤きこと馬肝に比し、酥潤(すじゅん)玉の如く、背に白絲の瑪瑙指螺(しら)細篆(さいてん)に類(に)たるを隠し、面に三星墳起(ふんき)し弩眼(どがん)の如く、著墨(ちゃくぼく)無聲(むせい)而して墨沈み煙起つ、一生癡瘛(ぎきつ)し、口張り而(しこう)して翕(わ)する能わず。燕客余に銘を屬す、銘に曰く

女媧(じょか)煉天(れんてん)、玉石を分けず
鰲血(ごうけつ)蘆灰(ろばい)、霞を烹(に)、日を鑄(い)る
星河(せいが)混擾(こんゆう)し、參(しん)箕(き)翕(ごう)して横たわる。

燕客は硯を奉げて出してきたが、その赤いことは馬の肝(きも)のようで、滋潤(じじゅん)なること玉の如く、硯背に瑪瑙か指紋か小篆の模様のような細かい白線を隠し、面には三星が墳墓のように盛り上がりまた怒った眼のようである。墨を磨れば音もせず、墨がなめらかに沈み込むそばから烟立つように墨水が広がる様である。秦一生はたいそう悔しがり、口をあけたまま、仲直りをしようとしなかった。

燕客は私に銘を依頼したが、その銘に曰く

女媧が天を補修した時、玉と石ころを区別しなかった。
女媧が洪水をせき止めるために使った蘆(あし)の灰に大海亀の血を注ぎ、霞を煮て、太陽を鋳造した。
天の川が混濁して、參(しん)や箕(き)といった星座が合わさって天に横たわった。
(そのような硯である)


(補足)

「天硯」というのは、いゆる天然の石の形をした、今で言う「天然硯」というものであろう。馬肝に喩え、眼の出ている事から普通に考えれば端溪石であるが、「赤い」と述べている点で、存外福州石の佳品かもしれない。「怒眼」というように、眼が出た場合、その部分だけを盛り上げて残すような作硯手法がある。
「山陰」とは今の紹興のことで、「越」といえば、紹興・杭州を中心として長江以南の今の浙江省くらいの地域である。
獄中の盗人から硯石を買うところが面白いが、獄中の罪人が私物を所持しているのも奇異な印象であるが、張家の権勢のなせる業か。盗人はその金で保釈を買ったかもしれない。

ちなみに岩波文庫の「陶庵夢憶」の序文では、周作人が若いころに投獄されていた祖父の元で「陶庵夢憶」を読んだ、という話を紹介している。獄中の祖父の元で孫が読書するというのもおかしな話のようだが、投獄といっても、軟禁のような恰好だったのかもしれない。周作人の祖父は科挙の不正事件に連座している。今でもそうだが、政治犯の監獄というのは、一般の監獄とは違った待遇もあったのだろう。なので獄中の盗賊が私物を所持している、という事もありえたのかもしれない。

しかし燕客は一生に自分が横取りした事が露見する事を恐れて、なんと眼を削り取ってしまったというが、所有欲を満たすためにひどい事をするものである。もっとも、そのかいもなく露見してしまっているのだが。
こういった僻(へき)の強い困った人物というのは、ままいたようだ。「浮生六記」にも、蘭の株分けを断ったところ、ひそかに熱湯をかけてその蘭を枯らせてしまうような人物が出てくる。その類であろうが、執着が強すぎるとかえってそのものを損なってしまうという事だろう。
文中、徽州の汪硯伯という作硯家が出てくる。往時も徽州からは新安江と銭塘江が運河で結ばれ、水路伝いに杭州や紹興とは連絡が盛んな地域であった。歙州硯の産地の徽州には今でも作硯家が多い。そのうちの優れたひとりなのだろう。
「古款を以て硯を廃(あら)し」は、今でもよくあることなのだが、さほどでもない硯にそれらしい銘文を入れて、古硯と偽って高値で売る、という事なのであろう。
燕客が「白眼」を指して欠点をあげつらうところがあるが、眼は一般に瞳の無いものは下等とされる。あるいはこの硯の眼がすべて「白眼」であったとすれば、やはり端溪ではなかったのかもしれない。白眼は端溪も出るが、まとまって出るのは稀である。しかし汪硯伯はそれを月と星と見立てて、「五星拱月」にうまく仕立てたのであろう。
この燕客の手口も現代でも良くみられる。たとえばオークション会社などが依頼する文物の鑑定家が、本物が出たら「偽物だ」と言って出品を取り下げさせ、自分が裏で手を回してモノにしてしまう、というようなやり口である。
燕客の「黃牙臭口」の牙は歯の事でそのまま訳せば「歯が(よごれて)黄色く、口が臭い」であるが、要はとるに足らない下等なものだ、という悪口であろう。

現在の大陸の玩物喪志連にも通じるようなお話であるが、外見や作硯はともかく、最後は墨を磨ってその優れたところを述べている。このあたりは、やはり王朝時代の知識人達である。墨を磨ることも硯の鑑賞のうちなのである。外見がすべての価値であれば、燕客もあえて星を削り取るようなことはしなかったであろう。張家ともなれば、磨った墨も明代嘉靖萬暦あたりの佳墨に違いなく、まったくもってうらやましい時代である。ちなみに端溪のまがい物が多い福州石でも、佳品となるとなかなかの鋒鋩をもつものがある。

張岱の銘では女媧の「煉石補天」をモチーフにしているが、「煉石補天」の際にこぼれおちた石である云々というのは、硯の佳品や玉石の比喩によく使われる。紅樓夢の宝玉が持つ石も「煉石補天」の落ちこぼれである。
また女媧は鰲という、大海亀の足切った血で蘆(あし)の灰を固めて洪水を防いだ、という伝説もある。つまり赤味を帯びたこの硯石をこれに喩えているのだろう。そして硯背の刷糸紋(さっしもん)のような石品を天の川にみたて、眼を參(しん)や箕(き)といった、星座に喩えているわけである。參(しん)はオリオン座の連星を指すこともあり、また箕(き)も四つくらいの少ない星で構成される星座である。これも硯の、もとは五つあり後に三つになった星の数と呼応している。

しかし考えなければならないのは、硯に対する態度である。燕客は、もとは「璞(あらたま)」つまりは原石のような硯材を大枚をはたいて購入し、著名な作硯家に依頼して硯に仕立て、最後に銘を施している。省みるに昨今、大陸で硯をもとめる者といえば、まず銘の有無や来歴を見、硯材の良否は見ない。王朝時代の知識人と今の大陸の好事家の硯識の隔たりの大きさとは、かくのごとくなのである。
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新老坑小硯三面

時々中国語を見てもらっている、四川省からの留学生のQさんがいる。この前のレッスンの折りに曰く、

「最近、絵を描き始めました。」

といって、パソコンを開いて水墨画........のような画像を見せてくれる。漫画やアニメではなかったのでホッとしたが、画面では、なにやら不思議な墨の滲み方をしている。筆線も何か不自然?

「これ、墨と紙はどんなのを使ったの?」

と聞いたら、

「これです。」

といって、タブレット・コンピューターと、タッチペンを取り出してきた。
タブレットの画面をペンでなぞると、ペン先の動きに合わせて、なるほど毛筆のタッチのような線が液晶画面に描かれる..........絶句。

「にじみやかすれなど、効果は色々と調整できます。墨の色も濃いのから淡いのとか......」
「うーん、不好(よくない)。ちゃんと墨を磨って毛筆で描いたほうが.......」
「いや〜、今の若い人はみんなこれ使ってますよ。」

といって、著名なCG水墨画(?)作家の作品をみせてくれた.........うーむ。大陸も今やこんな時代か。中国の古典文学の素養豊かなQさんも、毛筆の扱いには習熟していなかったか。

「墨や筆を使って水墨画を描けるようになるには時間がかかるでしょう?だからこういう道具を使うんです。」

とサラリという.......Qさんには以前「古典風の現代詩」というのを教唆してもらったわけであるが、今度は「水墨画風のCG」か......。これを入口に、毛筆を使った画の習得に関心を持つようになるのだろうか?

詩は文字情報であるから、究極、それが手書きによってなされたかどうかは問われない。しかし画の観賞というのは質感、素材感も大切なのであるが、CGではそれを出すことが出来ない。CGで描いている場合、黒はたとえばデータ的にはR00:G00:B00という数値でしか表現されないだろう。そういうものが純粋な”黒”と認識しているうちは、「黒は黒でも黒さが違う」というような事はわからないだろう。これは決定的な違いなのである。しかし現代社会でCGが必要なのもわからなくもない。それはそれでいいのだが.........

たまに行く日本の筆匠の店で、面白い話を聞いた。

「今の若い人は、手書きに戻ってきていますよ。」

という。

「CGだと結局みんな同じになってしまうんで、プロとして食えなくなるんですよ。」


ということだ。なるほど。現代中国語でいうところの「有道理!(ごもっとも)」。違いを出さなければ埋もれてしまうクリエイターにとっては、そういうものかもしれない。そう、「人と違う道具を使う」という事の大切さに、若いうちから気付いてほしいものだ。
CGを描くにしても、自分でソフトウェアの効果をプログラミングできる人は稀で、大抵はソフトウェアで提供された効果を組み合わせて画を描くのだろう。それはさまざまなツールが用意されているのだろうが、自分で工夫する余地が狭いのは致し方ないところだ。
趣味でやるなら”CGで水墨画”も良いかもしれない。しかしそれこそ趣味でやるなら”筆墨で水墨画”でもいいのでは?と思うのであるが、今の人にはそれが”面倒”なのだろうか。
「簡単に楽しめるもの」が悪いわけではない。が、ひとつだけいえるのは、簡単なものは飽きるのも早いのである。飽きの来ないモノゴト、というのはやはりそれなりの”奥行き”を有しているものである。奥行きが深いだけに、習得し、楽しめるようになるまでは時間がかかる。そう、難しいから面白いし、飽きのこない物なのだ。
昔に比べて難しい事が簡単になったのも事実かもしれないが、飽きる事も多くなったのではないだろうか。飽きてくれないと消費が先に進まないので、経済的にはそれでもいいのかもしれないが.......

前置きが長くなったが、新老坑。
以下が今回リリースした(のびのびになってしまったが)の新老坑小硯三面。
新老坑小硯三面新老坑の優秀な事については、改めて述べるまでもないだろう。”新老坑”と分類しているのは、日本の一部の厳しい業者だけで、平凡な書道用品店や大陸では”老坑”でもちろん通る。墨を選ぶ老坑水巌と違い、唐墨から和墨まで、幅広い墨に対応している。
唐墨は、墨の下りが悪いので使わない、という話を時折耳にするのであるが、どのような硯を使っているのかな?という事は気になるところである。日本に産する硯材で出来た硯、いわゆる和硯と唐墨の相性は、あまり良くないのは致し方ないところである。墨匠は磨れない墨は作らない。日本の硯に合わせて唐墨が作られているわけではないからである。
また硯が和墨と兼用で、かつあまり手入れが良くない場合、硯の鋒鋩が駄目になってしまっていることがある。和墨の多くは膠の粘性が高いので、使用後よく硯を洗浄しておかないと、硯の鋒鋩を膠の被膜が蔽ってしまい、墨が滑って下りにくくなる.......とここまで書いて、そういえば中国では唐墨(=中国の墨)をマトモに磨れる硯を使っている人が、現在どれくらいいるのだろうか?ということも考えてしまう。

しかしそれにしても、である。先日知人の篆刻家のお伴で、某書道用品店のセールに行った時の事。まあ、この店で硯を買う人はあまりいないのかもしれないが、それにしても並べられている硯がよろしくない........のはまあ、いたしかたないとして、問題は表記が間違っている事である。宋坑を宋坑として、それなりの値段を付けているのは良いとしても、やはり同じく宋坑や沙浦の硯が老坑や麻子坑として売られている。
ざっとみたところ、端溪硯といっても斧柯山の石はほとんどなく、ほぼすべてが斧柯山対岸の北嶺の硯材なのであるが、それでも老坑や麻子坑や坑仔巌として売られているのである。かなり大きな量販店であるし、スタッフもそれなりの人数がいるはずなのであるが、誰一人としてこの値札のおかしさに気が付かないのが摩訶不思議である。もっとも、ああいった店の硯は墨を磨るためではなく、墨汁を入れておく容器のようなものであり、石品があろうがなかろうが、そのうち墨液に染まって見えなくなってしまうのであろう。なので宋坑か老坑かの違いは、いずれ些細な事なのかもしれないが(値段はそれなりに違うのであるが)。

現状、本物の斧柯山の旧坑系の石を仕入れて一面数千円で売るというのは、まったくもって”不可能”なご時世になってしまった。山ほど取れる北嶺の石を仕入れるしかないわけであるが、それにしてもそれを”老坑”というのはいくらなんでも酷い気がする。骨董屋じゃないのだから、客の”目利き”に選択をゆだねきってしまうのも、これはいかがなものか。専門店の名が泣くというものではなかろうか。

書画や陶磁器の騰落に比べて、ここ数年の硯の価格上昇はゆっくりしたものだった。とはいえ端溪硯についていえば、良質な硯材の出る斧柯山の硯坑が閉じられてしまったためか、歙州硯よりも価格の上昇が著しいのは隠しようもない。
しかし日本でバブル崩壊によって硯石の値段が暴落したように、中国においても現在の資産バブルの崩壊とともに、硯の値段が凋落しないとも限らない。今買うのが正解かどうかについては、実のところ何とも言えないものがある。しかしどちらにせよ、「これからまた高くなるから、今買っておいた方が良いですよ。」というような、大陸の不動産仲介業者のような事は言いたくはないものだ。小売業者の任務は、安定した価格と品物の供給であるということは、忘れてはならない。事実、若干の値上がりを余儀なくされたものの、店を始めて以来、さほど値段を上げずに来れたのは、仕入れの妙と言うべきか、店としては自慢して良い事だと考えている。

日本はデフレで売値は下がる、大陸はインフレで仕入れ値はあがる、しかも人民元は高くなる(円は安くなる).......という状況で、大陸での安価な仕入れに依存した、従来型の書道用品店(ないし卸売業者)の経営は成り立たなくなってきている。
ここ数年、老舗の倒産が相次いでいるが、残念ながらこの流れはしばらく続くだろう。書道人口も減少傾向にあるが、業界としてある程度の規模は残るだろう。”ある程度”の規模が残った時に、問題は中身に何が残るか?なのであるが、これについてははなはだ心もとないところがある。かつて勇んで大陸へ渡り、丁々発止のやり取りを繰り広げた強者達も”老兵ただ去るのみ”な現状である。業者側の努力だけで市場は成り立たない。購入するユーザー側も、そろそろ考えていただかなくてはならない時に来ている事は、申し上げても良いのではないだろうか。

今年に入って新製品のリリースが少ないが、これには少し事情がある。たとえば新作の筆は四種類あがってきているのだが、筆銘を入れる必要のある三種類について筆匠が「筆銘を手彫りするのが難しい。」と言って来たのである。「レーザーで良いか?」と聞かれたのだが、さすがに”レーザー”は抵抗がある。「コストは構わないからやってくれ」と頼んでも、彫れる職人がいないというのである。全くいないわけではないが、高齢化して、あまりたくさんの筆銘は彫れないのだという。無理してやってもらうのも問題であるし、どうしようかと思案中なのである。筆の件だけではなく、他についてもいろいろと、用意はあるものの進めるのが難しい状況になってきているのは事実である。これをどう突破するか、対策を講じているところである。これまでもなんとかしたように、今回もなんとか出来るだろうと思っている。しかし本年中に新製品のリリースが少ないのは如何ともしがたいと、覚悟している。

とはいえ、新老坑三面、久しぶりの新商品である。ご覧いただければ幸いである。
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香港芸術館の端溪硯

最後の経由地、香港で少し時間が余ったので、香港芸術館を訪問した。ここは常設展示で虚白斎収蔵の良い作品が観られるので毎回楽しみにしているのだが、生憎今回は企画展の現代美術の展示が入っていて、書画を観ることが出来なかった。陶磁器は観ることができる。ここの陶磁器も悪くは無いのだが、どうもこのときは焼き物を見る気分ではなく、心に入ってこない。清朝の粉彩中心の展示は、いかにも大陸の観光客の趣向に迎合した観がある。小さな硯が1面展示されており、他に筆筒が何点かあったのが収穫であったか。
ここ2週間ちょっと、上海を起点に広東、湖南とめぐってきて、俗悪なモノには食傷気味だったところである。書画でなく陶磁器なら、さほど名品でなくてもいいから、出土品でもいいから、唐なり宋なりの質朴で優美なモノが観たかったところだ。粉彩がわるいわけではないが、この時の気分にはそぐわなかった。
入館料は10HKD(130円)くらいなので、観たいものがなければ足早に出てしまう。それでも1階の香港芸術館内の書店を少し覗いて行こうと考えた。図録や美術書は重たいので買うかどうかは別として、ここは良い本がそろっているので少し覗きたくなる。
ところが本を置いているスペースが大幅に減り、代わって書画や文房四寶が展示されている。画......とみると、特定作家の山水画が何枚も展示されている。価格がついているものもある。また価格は要連絡となっている作品もある。販売されているようだ。この傅抱石の山水を部分拡大して雑にしたようなその画風.......作家の名前に見覚えがある。
先月のいつだったか、香港で開催された北京保利のオークション会場で、間違って作品がゴミとして処分されたかもしれないとかなんとかいう、あの某氏である。聞いた時からなんだかたいそうに胡散臭い話だなあ、と思っていた。なんせオークションの主催はあの悪名高き北京保利である。この作家の作品のトップの落札価格は1億8400万香港ドル(25億円くらい)で、ゴミになったと言われる画は2880万香港ドル(3億8千万円)という。こうなってくるともう、”バブル”というより”量的緩和価格”とでもいおうか。濫作しやすい画風で、これから何百枚描けるかわからない存命作家の作品としては”付け過ぎ”としか言いようがない。しかし”ゴミ箱行き”というのがなんとも、その後のこれらの画、しいては書画市場全般の運命を暗示しているかのようでもあり、仮に話題作りとしてもセンスのない話である。
しかもそのニュースの切り抜きをカラーコピーして、これみよがしにおいてある。香港のちいさな飲食店では、紹介された雑誌の切り抜きを壁にベタベタ貼ってある。中には日本の雑誌の抜粋も珍しくない。それはそれで、小さな庶民のお店を一生懸命繁盛させようとしている意気も伝わってくるのであるが、あるいはそれと同じ感覚なのかもしれないが、香港を代表する美術館、そこへもって億円単位の作品を書く作家の作品の売り場にしては、これはなんとも品位の無い話である。
画はもうどうでも良いので、硯の方に目をやる。置いている硯はすべて端溪硯で、端溪の作硯家の新しい硯ばかりである。無論、大きいばかりで、材といい作行といい、良い硯などただのひとつもない。話のタネに写真を撮ろうとしたら、店員さんに「写真を撮らないでください。」とやんわりと制止されてしまった。本気で売る気があるなら、写真を撮るくらいは大目に見るべきなのだが.......それにしても唖然とするような新硯に、茫然とするような価格がついている。一番大きな硯に、百四十万香港ドルの値段がついていた時は、本気でゼロを数え間違えていないか勘定してしまった。控えめに言ってもゼロを3つくらい削り取ったほうが良いのでは?と余計な事を考えてしまう。端溪硯が高騰しているのは事実であるが、鑑別がまだまだ甘いということか。もっとも硯を”置物”にする向きには、材質などはどうでもいいことなのかもしれないが。

文房四寶だけに墨も筆もおいていたが、もちろん観るべきものは無い。墨汁は北京一得閣、墨は胡開文、すべて今出来で良い品ではない。画宣紙はなし。もっとも、もともと書画や文房四寶が専門でも何でもないこの書店で、いろいろ置いたところで店員が対応できないだろう。香港で筆墨を買うなら中環の文聯荘に言った方が良い。
それにしても香港芸術館の品位も落ちたものだと、今回はやや憮然となった。
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端溪の高騰

端溪硯が高騰している。原因は良質な硯材の払底である。すでに老坑や麻子坑、坑仔巌といった、旧坑系の坑洞はすべて閉坑になっている。現在も採石されているのは、老坑などのある斧柯山の対岸でとれる、宋坑や沙浦といったいわゆる”北嶺(ペーリン)”の石である。
そういった事情は当然のことながら大陸の市場でも広く知れ渡っており、端溪硯が無いわけではないが「良い端溪硯は少ない」という認識が浸透しているようだ。
一方の歙州系の硯は、10数年前と比べると原石の価格はほぼ100倍になるまで高騰した。ただし、小生の印象ではここ3〜4年は価格は横這いである。もっとも、有名作家の硯は高い値段がついているのであるが、それも天井が見えた感がある。また歙州硯の硯材、すなわち龍尾石に関していえば、値段が高止まりする一方で、さほどモノが動いていない印象がある。

天然の硯のように、規格化が難しい品物には、ほんらい定価がつけられるものではない。その時々の相場があるのみである。値札が一応ついていたとしても、実際は売りたい人、買いたい人の間でモノが動いた時にはじめて値段が決まるのである。そういった取引が繰り返されることで、価格の情報が流通して”相場”が形成される。取引が不活発になると、値札だけが張り付いたままモノが動かなくなり、ある日突然”暴落”なんてことが起こりかねない。これは硯に限った話ではないだろう。
別段、歙州が「暴落」するなどと言うつもりはないのであるが、10年前に比べて高くなりすぎた感のある歙州硯にたいしては、ここ3年ばかりは模様眺めをしている。

反面、端溪は「越來越貴(だんだん高くなっている)」状況である。
上海で硯を扱う、とある店があった。古硯はほとんどなく、大半が現代作家の新硯である。しかし材が良くて作行きが良ければ新硯もいいものである。(材が悪く作行きも悪いのに、古硯というだけでありがたがる向きもあるが、これはどうかというところである)。
どうも徽州の作硯家とつながりのある店のようで、歙州硯が多かったのであるが、端溪硯も何面か置いていた。おにぎりくらいの大きさの小さな端溪硯があり、小さいながらも氷紋が出ていた。新硯であるが作行きもなかなか良い。しかし値段を聞くと、1万元を軽く超えている。”氷紋”が出ているという事だけで、これは”老坑”ということなのかもしれない。が、それにしてもいい値段を付けている。
この店につながる作硯家は徽州の出身らしく、龍尾石の硯に作行きも材質も良い品が散見される。値段を聞くと、これが思いのほか高くはない。端溪と比較した場合、である。厳密な比較は出来ないから、これは全般的な印象であるが、龍尾石でも滅多にないような佳材と、”老坑”と認定される端溪硯とでは、値段が3倍か4倍は端溪が高い雰囲気である。
どうなっているのだろう?と思って店の主人に聞くと「良い端溪硯は年々少なくなっている。」ということである。
おそらく「良い端溪硯」というのがポイントで、要は沙浦や宋坑のような粗慢な材ではなく、斧柯山で採れる旧坑系の硯材が「年々少なくなっている。」ということであろう。端溪硯であれば何でも高いということではないようだ。それはたしかにそうあるべきなのであるが、佳材が貴重なのはなにも端溪に限らない。歙州とのこの格差はなんだろう?と少し考えてしまった。

端溪の佳材の極め付きといえば”老坑水巌”に尽きるのであるが、そのせいかやたらと”氷紋”の出た硯をありがたがる傾向がある。”氷紋”すなわち”老坑”ではない.......”氷紋”は”老坑”の”必要十分条件”ではない.......のであるが、いまの大陸の鑑別の世界ではそういう事になっているようだ。そういうわけで、日本へ硯を買いにくる大陸の人が求めるのも”氷紋”のある端溪なのである。
実際は”氷紋”があっても老坑ではない硯材は多くあるし、また”氷紋”の出ない老坑の佳材もたくさんある。石品で珍重すべきはひとり”氷紋”のみにあらず、古人は”青花”や”蕉葉白”、”魚脳凍”といった石品も大層珍重したものである。ただしこういった代表的な石品は、沙浦のような粗慢な硯材にも盛大に出るのである。また日本に硯を買いに来るのは大半は”バイヤー”であって愛好家ではない。転売目的で”仕入れる”のであるから、”老坑”で通りやすい”氷紋”の出た端溪硯を買うのも致しかたないのかもしれない。

何はともあれ、端溪の良い硯、優れた硯材は高くなっている。天然石だけに、採石されないとなると、市場には品物が無くなる一方なのであろう。しかしもはや採石されないという点では、実は歙州龍尾石もそうなのである。なのでひとり端溪の高騰ぶりには疑問もなくはない。

ここ10年、大陸ではさまざまな文物が騰落を繰り返してきたが、端溪の高騰も一過性のモノで終わるのであろうか.......?。ただし少し注意しておくべきこととして、大陸での「国学」の振興がある。「国粋」発揚の一環として、古典文化に目が向けられているという。小学校では書法(日本でいう書道)が必修になったという。そういえば、最近知り合う若い人の中に、書画や古典文学に関心を持つ人が増えているような印象がある。また60歳以上の書画家は墨を磨らないが、20代〜40代くらいの若手は再び墨を磨るようになっているという。あるいはそういった傾向が、硯市場全体を底上げしてゆくのかもしれない。また現在はもっぱら”氷紋”に目が向いているとしても、将来的には硯材の質の違いに目覚め、氷紋の無い佳材が再評価されるかもしれない。
一方で、戦後大量に日本へ輸入された端溪硯は、日本に於ける文房四寶業界の凋落と歩をあわせて、大量に大陸へ帰還している。いずれ日本国内では端溪の佳材は目にしなくなるかもしれない。それはそれで、一抹の寂しさを感じなくもない。
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硯材をもとめて

とある書道用品の卸しをやっている人との会話で、こんな話を聞いた。「今の人は、日本の墨しか買わないのですよ。唐墨はなかなか濃くならないし、良い硯は買わないし。」
たしかに、和墨は唐墨にくらべて早くおりるかもしれない。しかし唐墨も、鋒鋩の整った硯ですれば、濃度をえるのにさほどの労力は必要としないものである。しかし鋒鋩の堅牢な硯は少ない。仮に鋒鋩の弱い硯でも、適度に目立てをしてやれば良いのであるが、それをやる人も少ないようだ。硯面の研ぎなおしはそれほど難しい事ではないのだが、これが専門家でなければ出来ないと思い込んでいる人も多いという。
龍尾石硯龍尾石硯また、近年まともな硯材が輸入されていない事も原因だろう。端溪は旧坑系の硯材の産出が停止し、沙浦や宋坑が市場の主流を占めている。これらもまったく使えないことはないが、鋒鋩は弱いものである。使い始めは良いかもしれないが、毎回よく洗っていないと、すぐに磨り味が悪くなる。そういう説明をしながら売られているわけではないのだから、買ってから「がっかり。端溪なんてこんなもんか。」ということになってしまう。
龍尾石硯少し前は、学生用に羅紋硯の安価な長方硯が出回っていたものであるが、これも少なくなった。羅紋硯といっても龍尾石のそれではなく、徽州周辺のほかの山域から取れる材なのであるが、これはこれで使えないことはなかった。
端溪硯は良い物は離墨、つまり洗っていてすぐに墨が落ちるのであるが、粗慢な材は墨が落ちにくく、汚れてくる。鋒鋩が目つまりをおこしやすい。しかし歙州系の材は、総じて離墨が良いので、鋒鋩が長持ちする。あまり硯の手入れなどをしたがらない人には歙州系の材の方が使い勝手が良い物であるが、近年これも適当で手頃な価格の材が無い。
弊店で取り扱っている新老坑硯はお勧めできるが、いかんせん小さい上に数が少ない。値段もそれなりになってしまっている。これら新老坑の小さな硯とて、今の大陸では探してもなかなか仕入れられる品ではなく、今後の供給にも不安がある。
龍尾石硯龍尾石硯唐墨の輸入は平安朝の昔から続いているのであるから、日本の文房四寶や墨の文化を語る上で、いまさら唐墨抜きという話もないだろう。適切な硯が無いために「早く濃くならない」という理由だけで唐墨が敬遠されているのだとしたら、それは残念なことである。
良い硯が無いわけではないが、日本の業者は仕入れない。硯材ひとつでも、十数年前の軽く数十〜百倍くらいに値段が上がっている。ちょっとした美材でも、1個何十元で買えた時代があったのである。昔は一山幾ら?だったのだが、今では1個幾ら?の世界である。業者としては利幅が取れないし、デフレの続いた日本では値上げが出来ない。そもそも硯を買う人も少ない。長い間在庫しておくのも大変なので、仕入れたくないのだろう。
唐墨を専門的に扱う身としては、硯の問題は何とかしないといけないと考えていた。老坑水巌のような希少な材は望むべくもないが、美観を抜きにして実用性の高い硯を、手頃な価格で供給する道はない物か?硯匠と相談しているところなのである。石品は抜きにして、作硯様式は少し古いものに倣うにしても、実用性があり、ほどほどにキレの良い作の硯.......これを1個1万円くらいの墨を買う人に提供する道が無いと、今後の日本における唐墨の市場も先細りだろう。和硯の方が今や安価に感じることがあるが、和硯の鋒鋩はやはり唐墨には適合しにくいのである。
龍尾石硯硯一面に十数万円〜数十万円、出さないと唐墨の良さが分からない、というのではやはりちょっと問題かもしれない。良い硯は一生使えるし、価値を減じないものであるが、さりとていきなり手を出せるものでもない。失敗のリスクもある。手頃な硯で磨墨の面白さを知ってから、でもいいのではないかと考えている。
端溪はもはや良材を新たに入手するのは絶望的なので、やるとしたら歙州だろう。さりとて龍尾石は高騰してしまっている。その周辺山域で、佳材が無いかどうか.......人工的に作れる澄泥硯や陶硯では、油烟墨にはやはり少し粗い。米芾は”硯史”で多くの硯材を挙げている。石品や石色などをやかましく言わなければ、意外な佳材が、まだどこかに潜んでいるかもしれない。
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硯と改刻

”改刻”された硯を見かけることがある。すなわち一度作硯された硯を、後から手を加えて彫りなおすことである。”改刻”された硯としては、日本でみかける多くは、墨を貯める墨池を広く深く掘りなおしている例である。
墨池を持っていない、硯板ないし硯板状の作硯様式もある。また宋代の鳳池硯(ほうちけん)や箕様硯(きようけん)のように、墨堂と墨池が連続しているような作硯様式もある。しかし墨堂と墨池が分離した、いわゆる”実用形式”の硯を比較した場合、一般に古い時代の方が、墨池が穿たれた面積が小さいといえる。現代の実用硯の多くは、おおむね広い墨池を持っている。墨池のみならず、墨を磨る部分の墨堂も、硯縁から深く落ち込んでいる。いうまでもなく、現代においては作品が大型化し、消費される墨液の量が増えたためである。

一昔前の日本の書家は、大陸の硯を日本の業者を通じて改刻させ、墨池を広く掘りなおしてしまうことをしばしば行っていた。現在の大陸の実用硯は墨池の容積も大きいが、一昔前は新しい硯であっても、日本の硯に比べるとまだしも墨池の容積は小さかったものである。
しかし改刻されるのが新しい硯の場合であればまだいいのであるが、中には古い時代の硯を改刻してしまっている例もある。これはさすがにどうか?と思うところである。無論、硯などは実用の道具なのであるから、使えるように改作するのは勝手であろう、というのも一つの見解ではあろう。しかし古い時代の硯はしかるべき理由があってそのように作られているのであり、そういった経緯を一顧だにしないという態度は、いかがなものであろうか。
硯と改刻愛硯家に言わせれば、墨堂から墨池へいたる造作は、硯の美観を決める重要な要素なのである。墨堂から落潮部分を経て、墨池に流れ込む曲面は、適度な緊張感を伴った傾斜と連続性を持っているからこそ美しい。たとえ幅の狭い墨池であっても、そこに無限の深遠が穿たれ、満々と墨をたたえているように見えるものである。ゆえに四直の硯に墨池を掘っただけの簡素な実用硯であっても、墨池を見ればおよその時代と作硯家の技術がわかるものである。

しかし現代の実用硯の多くは、墨堂から墨池へと漫然だらりと、ごく緩慢になだれ込んでいる格好をしている。墨液がよどんだように墨池にたまった形勢は、何ら感興を伴わないものである。
他の部分を見るとなかなかの作行きであるのに、墨池だけが不釣合いに漫然と広くなっている硯というのは、十中八九、日本で改作されたものである。そのような硯を見せられると、ともかくも「口惜しい」という感情が先に立つ。口には出さねど、改作させた持ち主の見識の無さに、実に腹立たしい思いがするものである。
そういう硯を例として掲示したいと思ったが、あいにくそういった硯を手元に持っておくのは嫌なものなので、まず買わない。以下は10年以上前、杭州の骨董屋で見つけた硯である。
硯と改刻硯と改刻いわゆる鳳池硯と琴様硯の中間のような作硯であるが、宝珠を模した足の作りと言い、わずかに凸に膨らんだ墨堂部分といい、石の節理を縦にとっていることなど、北宋の作硯の特徴を兼ね備えている。出土した硯であろう。惜しむらくは硯頭部分が完全に破断していることであり、かつてはここにあったはずの墨池が存在しない。その代りに、墨堂部分に下手な造作で墨池を掘ってしまっている。むしろそんなことはしない方がいいのであるが、この硯を改刻した人物は、ともかくも墨池が無いと硯にならないと考えたのかもしれない。つくりを見る限り、作硯家の仕事ではない。墨池を掘って使おうという目的よりは、おそらくはこの硯を売らんがための浅慮な行いであろう。こういう硯を持っていても、頭を悩ませてしまうだけのなのであるが、参考資料ということで買っておいたのである。
なんにせよ、硯というものがわかっていない者達の手にかかると、あたら貴重な文物もかくの如しなのである。これは硯に限らないかもしれない。

しかし硯の改刻は現代だけに見られるものではなく、古くから硯の改刻は行われてきている。たとえば宋代の硯を改刻した例などは、乾隆帝の西清硯譜にもみられるものである。しかし改刻といっても、多くは硯の補修の延長にある行いで、優れた硯材を再生させる意味もある。ただ、中には適切を欠いた例もあったようだ。明代の馮夢龍「古今譚概」という文章に、硯を改刻する話がある。

『明有陸公廬峰者,於京城待用。嘗於市遇一佳硯,議價未定。既還邸,使門人往,以一金易歸。門人持硯歸,公訝其不類。門人堅證其是。公曰“向觀硯有鴝鵒眼,今何無之”答曰“吾嫌其微凸,路遇石工,幸有余銀,令磨而平之。”公大惋惜。蓋此硯佳於鴝鵒眼也。 』

『明に陸公(りくこう)廬峰(ろほう)という者有り,京城において待用す。嘗(かつ)て市において一(いち)佳硯(かけん)に遇(あ)い,價(あたい)を議(ぎ)して未だ定(さだま)らず。既に邸に還り,門人をして往かしめ,一金を以て易(か)えて歸(かえ)す。門人、硯を持ちて歸り,公の其(そ)れを訝(いぶ)かるに類(るい)なし。門人、其れは是れと堅證(けんしょう)す。公曰(いわ)く“向(さ)きに硯を観るに鴝鵒眼(くよくがん)有り,今は何ぞ之の無きや?”答へて曰く“吾(われ)は其の微(わずか)に凸(で)るを嫌い,路(み)ちに石工に遇(あ)うや,幸(さいわい)に余銀(よぎん)有り,磨(ま)せしめて之を平にす。”公は大に惋惜(えんせき)す。蓋(けだ)し此の硯の佳(よ)きは鴝鵒眼(くよくがん)に於ける也(なり)。 』

難しい文ではないが、大意を示しておく。

『明の時代、陸公(りくこう)廬峰(ろほう)という者がいて,都において宮廷に仕えていた。嘗(かつ)て市場で一面の良い硯にをたまたま見つけ,値段を交渉したのだが、買いたいと思う値段にならない。それで一度屋敷に帰り、門人をに市場に行かせ、一金で買って帰ってこいと命じた。門人は首尾よく硯を(買って)持ち帰えったのだが、公はそれが本当に求めさせた硯にであるのか、非常に疑った。門人は、これはたしかにお求めの硯ですと主張する。そこで公が尋ねるに“先刻、この硯を観たときには鴝鵒眼(くよくがん)があったのだが、今ははどうしてないのだね?”門人がこれに答へて言うには“私は眼のある部分が微(わずか)に出っ張っているのが良くないとおもったのですが、たまたま路上で石工にあい、幸(さいわい)におつりがあったので,石工に出っ張ったところを磨らせて平にしました。”公はとても残念がった。おそらく、此の硯の佳いところは、鴝鵒眼(くよくがん)にあったのだろう。 』

門人も、余計な事をするものである。この門人は気を利かせたようで、これほど気の利かないことも無いのである。しかし陸公にも、行き届かない者を買いに行かせた責任もある。なにゆえ自分で値段交渉をやりきって買わずに、あえて門人を行かせたかといえば、その方が安く買えるからである。市場の商売人も、相手を見て値段をつけるのである。それなりの役職についた士大夫を相手にする場合と、門人、すなわち書生程度のものが交渉する場合では、値段の下げ方が違うのである........話がそれるが、似たような話は、大陸の骨董街でも昔はよくあった。日本人が買いに行く場合と、中国の人、それも地元の人が買いに行く場合ではつける値段が違うのである。なかなか値引きしない骨董屋では、後で地元の友人などに頼んで買ってきてもらう、というのもひとつの方法なのであった。骨董屋に定価などあろうはずがなく、人を見て値段をつけるのである。ただし、昨今は大陸にお金持ちが増え、日本人は買いにくる人自体が減ったため、日本人だからと言って、極端に高い事は言われなくなったような気もする。時に「日本は不景気みたいだから安くしてあげよう」と言われることもある..............ともあれ、陸公も、自身が買うよりも書生に行かせた方が良いと考えたのだろう。
都の一定の身分以上の士大夫の家には、書童といって、書斎においてアシスタントをする者達がいる。彼らは同じ郷里のある程度の教育のある若者であり、住み込みで主人の手伝いをしながら、科挙の受験勉強をするのである。その屋敷の主人とは師弟関係、ということになる。日本の明治時代の小説に良く出てくる「書生」と同じような存在と考えて良いだろう。

鴝鵒眼を持つのであるから、この硯は間違いなく端溪硯であり、おそらくは墨堂に眼を残した作硯をしていたのだろう。眼を残す作硯では硯背に「眼柱」を立てる作硯技法があるが、墨堂ないし墨池の場所にも眼が出る場合がある。その場合は眼柱ほどの高さになることは稀であるが、やはり眼を残して作硯する。古い時代にそういう硯は稀に見られるものである。以下はその一例。
硯と改刻陸公の硯も、墨堂はもう少し削り込む必要があるが、まんべんなく平らにしてしまうと、眼が喪われてしまうような位置に鴝鵒眼が出たのだろう。そこで眼をのこして周囲を掘り込んだ結果、眼の部分がわずかに”凸”になっていたと考えられる。
眼を残したこの”凸”の部分があったところで、磨墨にはさして支障にはなっていなかったかもしれない。硯面に凹凸があれば、たしかに墨は磨りにくい。が、硯である以上、眼を凸に残したからと言って、墨を磨る平面の余地は十分残して作硯するものである。
しかしこの門人は使い勝手を考えた場合に、墨堂が広く使えなければ不便と考えて、削らせてしまったのだろう。実用本位でそうさせたのであろうから、門人の考えにも一理無いとは言えない。しかし硯の趣味性における”実用を兼ねた美観”という点からみると、これは無粋の極みである。おそらくは、陸公がこの端溪硯を買おうと思った理由も鴝鵒眼にあったのだろう。内心「一金の値打もなくなった」と慨嘆したに違いない。まさに「三文惜しみの銭失い」のような話である。

米芾が「硯史」の序文で述べているように、硯は実用性が第一とされる。しかし実用を妨げない範囲での装飾性、あるいは機能性の洗練による「用の美」などは、否定されるべきものではないだろう。また天然にあらわれる石品の美も、硯の魅力を構成する需要な要素である。米芾もそれを否定しているわけではない。眼を削り取ってまで、平滑である理由もないのである。
漫然と広い墨池に改刻された硯などは、硯というより「容器」に近づいた格好であり、事実広大な墨池になみなみと墨汁が注がれて使われることもある。墨を磨らないのであれば容器でいいのであって、事実墨汁用のポリ容器などが広く使われるようになっている.........昔の硯は使い勝手が悪い、と言う人もいるのだが、そもそもどうしてそのようなカタチをしているのか、立ち止まって考えてみることも必要であろう。現代の使用者の価値観を、古い時代に生まれた硯に押しつけるのは、それはやはり”酷(むご)い”というものであろう。改刻された硯をみるにつけ、痛々しい思いがするものである。
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新老坑硯三面

現在の大陸では、端溪硯といえば「氷紋」を持った材質がもっとも好まれているようだ。要は”老坑水巌には氷紋が出る”という事で、水巌が欲しい者が氷紋を求める、ということである。しかし”逆必ずしも真ならず”、氷紋が出るからと言って必ず水巌とは限らないことは言うまでもない。麻子坑にも坑仔巌にも、あるいは沙浦であっても氷紋が出る硯材がある。
しかし氷紋は、水巌に比較的多くみられる石品であることは確かである。しかし水巌全体から言えば、氷紋の現れる硯材は多くはない。そもそも水巌自体の採掘量が圧倒的に少ないのである。そのうえ氷紋が明瞭に表れている硯材となると、やはりなかなかお目にかからないのが現実である。麻子坑や坑仔巌よりも、老坑水巌全体としては氷紋の出る”率”は高いかもしれない。が、絶対数となると、何とも言いきれない。老坑水巌に比べれば、坑仔巌や麻子坑の採掘量は大きく、また沙浦の採掘量も圧倒的に多いからである。ゆえに氷紋が出ながら、老坑水巌ではない例もまた多くみられるのである。
しかし現在の大陸の市場では、そこまで厳密に鑑別をしていないので、氷紋が出て、ある程度温潤な材質であれば「老坑水巌」で通るかもしれない。「通ればそれでよし」とする向きも少なくないのであるが、それはいかがなものだろう。
たとえば印材の田黄なども、蘿蔔紋や紅筋といった、特徴的な石品が出ているものばかりを求めようとする傾向がある。本当はそれは入口に過ぎないのであるが、ほとんどの人はそこでとどまってしまう。オークション会社のスタッフやバイヤーであれば、そういった特徴に担保を求めるのであるから致し方ないのかもしれない。が、そこが彼らの”眼力”の限界でもある。
本来は、氷紋を傍証として真の老坑水巌にたどり着き、老坑水巌の材質の優れていることを知り、そこから”氷紋は出ていないが老坑水巌”を見抜けるようにさらに眼を養うべきなのだが、多くは”氷紋”を持って”事足れり”として終わっている。
蒐集家の中にも、資産形成が目的で集めている人もいる。そういった人にしてみれば、手放す時に”売れやすい”品物であった方がよいので、やはり特徴的な石品が出ている品に人気が集まるようになる。愛好家や研究家が追求する世界と、硯石の市場は別物と考えておいた方がいいかもしれない。
新老坑硯新老坑硯それはさておき、新老坑であるが、老坑水巌に近接する硯坑であるだけに、比較的氷紋が出やすい。また氷紋に伴って金線、水線といった石品も”比較的”多く現れる。おそらく氷紋も金線、水線も、同様な形成過程を経ていると考えられる。そういった石品が出やすいことは、老坑水巌、新老坑を含む”老坑系”の硯材の特徴であるといえるかもしれない。
しかしクドイほどに繰り返しているように、石品はあくまで”傍証であるにすぎない。硯材の真骨頂はその石質にあるのであり、石質の優劣を持って鑑別されることが必要である。石品を見て材質を見ないというのは、やはり”木を見て森を見ず”である。なので玄人は、氷紋や金線が出ているからと言って、老坑であるとは断定しない。しないが、しかし石質が温潤で、氷紋や金線がはっきり出ている場合「老坑かもしれない」という、可能性程度のことは考える。そこから先は、仔細な検討が待っている。
素人あるいは日本、中国を問わず業者の大半がそうであるところの”半可通”は、氷紋を見ればもうそれだけで老坑と即断してしまう。そもそも現今の業者の多くは、氷紋があれば老坑で通るのだから、それ以上の検討など必要としていないのかもしれない。そういった浅い断定の繰り返しだから、いくら長年の経験を積んだといっても、ごくごく浅い経験であって何のアテにもならない。
新老坑硯新老坑硯小生は将棋を少しかじるが、ある程度戦型を研究して手筋を覚えると、局面を見れば第一感で指すべき”手”が浮かぶようにはなる。しかしそこからが素人と玄人の分かれ目、あるいはアマチュアとプロの分かれ目、時間いっぱいどれくらい深く検討できるかが勝負を決めるのである。第一感で浮かんだ手でもって指し続けている人というのは、何年たっても上達しないものである。
モノの見方もこれに似ていて、玄人ほど第一感に頼らずに仔細に検討して判断を下す。場合によっては何か月も、何年も判断を保留にすることもある。氷紋を見て老坑だ、と即断したり、蘿蔔紋や紅筋が出ていなければ田黄ではない、と言っているようでは、たとえ10年、20年やっていても見る目は鍛えられない。そのはずなのだが、モノを見て即断即決をやる人というのは、素人受けはするようだ。そういう人というのは実のところ”粗忽”以外の何者でもないのであるが、経験年数だけは長かったりする。それでもって、あるところでは権威として”通って”いたりするから、なるほど滑稽ではある。いや言葉が過ぎたか。
新老坑硯新老坑硯ともあれ、再び入荷ができた新老坑小硯三面である。昨今、市場に良質な端溪硯は払底している。ゆえに毎回少量づつしか仕入れられないのであるが、それはご了承願いたい。
今回の三面のうち二面はうっすらとであるが、氷紋が現れている。また三面とも金線、水線が認められる。金線にせよ水線にせよ氷紋にせよ、造岩の過程で岩石に亀裂が生じ、そこに別の成分が入り込んで形成されたと考えられる。老坑水巌に”氷紋が多い”、ということはいわれるが、いまひとつの傍証として”金線が走っている”、ということも言ってさしつかえないだろう。
しかし氷紋が出たからと言って、そういった硯材の石質がとりわけ温潤で鋒鋩が緻密堅牢ということではない。氷紋が出ても出なくても、墨を磨る性能や、質感の温潤さには関係しない。材質という観点から見れば、今回の三面もほぼ横並びに優れている。
作硯という点からいえば、龍や鳳凰、麒麟や蛟などの仰々しい神獣は出てこないが、瓜瓞、芭蕉、瑞雲、壁虎(やもり)など、親しみやすいモチーフが選ばれており、簡素で品よく形作られている。

氷紋の有無にこだわらず、作硯や石色も含めて、お好みの硯をお選びいただければ幸甚である。
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石眼がいっぱい

端溪硯を特徴づける石品(石の紋様)の代表といえば、眼、石眼があります。しかし実際のところ、眼の出ている硯材というのは非常に少ないものです。少ないだけに、古来、眼の出た端渓硯は珍重されてきました。
近いうちに、さる蔵硯家の協力のもと、眼の特集をお店のページに掲載しようと企画しています。
端溪の石眼夏目漱石の「草枕」にも、眼を持った端溪硯が登場します。この硯、蜘蛛を象(かたど)った作硯なのですが、蜘蛛の背にひとつの眼、そして八本の足にひとつづつの�諠鵒眼(くよくがん)があると描写されています。抜粋すると、

「中央から四方に向って、八本の足が彎曲(わんきょく)して走ると見れば、先には各(おの)おの�諠鵒眼(くよくがん)を抱かえている。残る一個は背の真中に、黄(き)な汁(しる)をしたたらしたごとく煮染(にじん)で見える。 」

また

「なるほど見れば見るほどいい色だ。寒く潤沢(じゅんたく)を帯びたる肌の上に、はっと、一息懸(か)けたなら、直ただちに凝(こ)って、一朶(いちだ)の雲を起すだろうと思われる。ことに驚くべきは眼の色である。眼の色と云わんより、眼と地の相交(あいまじ)わる所が、次第に色を取り替えて、いつ取り替えたか、ほとんど吾眼(わがめ)の欺むかれたるを見出し得ぬ事である。形容して見ると紫色の蒸羊羹(むしようかん)の奥に、隠元豆(いんげんまめ)を、透いて見えるほどの深さに嵌め込んだようなものである。眼と云えば一個二個でも大変に珍重される。九個と云ったら、ほとんど類いはあるまい。しかもその九個が整然と同距離に按排されて、あたかも人造のねりものと見違えらるるに至ってはもとより天下の逸品をもって許さざるを得ない。」

とあります。

巷間、眼の出た硯はなかなかお目にかからなくなりました。もともと眼のある硯材が少ない上に、人気が高いからです。端溪がどんな硯石かわからない人でも「眼が出ているから端溪」というような事を言いいます。それほど、端溪といえば石眼であり、愛硯家であれば、石眼を持つ端溪硯を一面は所有したいと思うものなのです。

端溪も坑洞によって、眼の出やすさが違います。一般に旧坑系の材では坑仔巌には比較的多く眼が現れます。”比較的多く”と言っても、他の硯坑と比べてのことですが。また麻子坑や老坑水巌でもあらわれますが、これは稀です。また北嶺の端溪では、半辺巌に比較的多くあらわれます。また梅花坑という硯石は、”梅花”の由来が数多く出た石眼を梅花と形容してそう呼ばれるように、別種の硯石のように石眼が多く出ます。なので梅花坑といえば、眼が出ていて当たり前、のようなところがあります。
端溪の石眼贅沢を言えばきりがないですが、石眼といっても、良いもの悪いものいろいろなレベルがあります。色であれば、一般に濃い翡翠色、青緑のものが最も好まれます。しかしそういった美しい眼は、旧坑系の硯材にしか現れません。翡翠の色が浅い物はそれに次ぎますが、一般にはやや緑がかった、あるいは赤味のさしたような黄色が多いです。草枕にも”黄(き)な汁(しる)をしたたらしたごとく”とありますね。

また眼というだけに、”瞳(ひとみ)”が無いとどうにも落ち着きません。しかし意外と、きれいに”瞳”の入っている眼は少ないもの。瞳の無い眼は”死眼”などと言われて、やや縁起の悪い名前で呼ばれたりもしています。対して瞳の入った眼を”活眼”とも呼びます。梅花坑の硯材には、瞳の無い眼が無数に出た材が散見されます。
端溪の石眼また瞳があったとしても、暈(うん)を巻いているかどうか?という問題があります。眼は何層にも暈を巻いたものほど珍重されるのですが、やはりそういった暈をきれいに巻いた石眼は非常に少ないものです。
さらに言えば”煮染(にじん)で見える”と草枕にあるように、輪郭がぼんやりした眼も多いもの。まわりの硯材との境界が、くっきりと明瞭に出ている眼というのは、これもまた少ないものなのです。

すなわち、色、瞳の有無、暈の数、明瞭さ、大きさ、などが眼の価値を決める場合の基準になるといえるでしょう。そもそも眼の出た硯材は少ないのに、そのうえ品評しようとなると、なかなか厳しい話です。

以上は眼そのものの鑑別の基準ですが、硯として考えた場合、さらに考えるべきポイントがあります。それは硯のどの位置に出ているか?でということです。作硯家は、硯石に眼が出た場合に、もちろんその眼を生かした作硯をします。宋代には眼柱という独特な作硯様式が生まれました。端溪の石眼また墨堂や墨池の中心にあえて眼を置くということはまずありません。墨を磨っている時には眼が隠れてしまうからです。しかし硯材に石瑕があればそれを避けたいし、形よい硯に仕上げたいという欲求もあります。そうした点からみると、眼が作硯家を悩ませる場所に出ていることもしばしばです。そして”欲しいところに眼がない”場合に、後から眼を埋め込んだ、いわゆる”嵌め眼”という技法もあります。
草枕にも「しかもその九個が整然と同距離に按排されて」とありますが、実際に蜘蛛の八本の足の位置に”おあつらえ向き”に眼があろうはずがなく、おそらくは”嵌め眼”でであると考えられます。(ちなみに草枕の硯は実在し、夏目漱石はこれを実見していたと考えられます。)
端溪の石眼端溪の硯材を採石している際に、硯にはならないが、眼の出ている小片が出ることがあります。これは嵌め眼用に取っておかれます。また硯材にも、どうにも生かしようが無い位置に眼が出ることもあり、そういう場合も削り取られ、とっておかれます。こうした嵌め眼用の材料もご紹介しようと思います。

眼の有無で端溪の価値を論じてしまうと、”木を見て森を見ず”に陥る危険性が大きいです。そもそも硯の実用性、磨墨の性能や温潤さと眼は関係がありません。大昔は、眼は忌み嫌われて削り取られていた時期もあったといわれます。また老坑水巌に眼の出た材は本当に少ないもの。眼よりも蕉葉白や青花、火捺、氷紋といったところを観たいところです。しかし端溪を鑑賞する以上、石眼は避けて通る事ができませんから、ここらで集中的に整理しておこうかと思います。乞うご期待。
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