徐渭の「雌木蘭替父従軍」

明代初中期には、それまで民間演劇の世界で演じられていた戯曲をまとめた「三国志演義」や「西遊記」「封神演義」が白話文(会話文)長編小説として成立している。が、これらの”小説”の作者ははっきりとは分かっていない。
そもそも戯曲・戯作、あるいは小説の類は、まっとうな士大夫の読むべき物、書くべき物とはみなされていなかった。また、演出には時に鋭い世上への批判、風刺を含むため、思想統制の厳しかった時代にあっては、やはり匿名である必要もあったのだろう。
ところが明代後期になると、歴とした士大夫達が、戯曲の作者として名を残している。およそ文名のある士大夫は、競って戯曲に打ち込んだと言っていいほどの時代であった。また戯曲は絵図を含んだ精緻な刻本が印刷され、盛んに出版され、読まれている。
徽州は西溪南鎮出身の汪道昆は、政界から身を引くと、郷里にこもって戯曲の創作にいそしんでいる。また汪道昆の友人であり、「方氏墨譜」や「程氏墨苑」に墨讃を残す屠隆も、当時著名な劇作家のひとりである。第一級の史学者、文学者であった王世貞には戯曲の研究があるばかりではなく、彼の作と疑われる戯曲がいくつか残っている。

日本では特に溌墨技法の画で知られる、徐文長こと徐渭であるが、彼も当時は有名な劇作家のひとりである。現代中国でも、徐渭の作品が改作されて演じられることがある。
徐文長は汪道昆とほぼ同時代人であり、汪道昆の元上官である胡宗憲の幕僚を務めている。また名墨匠である羅小華こと羅龍文の同僚であり、徐文長が胡宗憲に羅龍文を紹介したことで、羅龍文は歴史の舞台に登場するのである。また当時の胡宗憲の幕下には、文徴明などが名を連ねている。

徐渭の戯曲の代表作に「四声猿」という連作がある。これは「狂鼓吏漁陽三弄」「玉禅師翠郷一梦」「雌木蘭替父従軍」「女状元辞鳳得凰」という、独立した四部の作品から構成されている。
このうちの「雌木蘭」と「女状元」は、どちらも女性が男装し、男の独占世界であった軍隊と官界で活躍する物語である。
また「玉禅師翠郷一梦」は、男性の僧侶が女性に転生して妓女に身をおとすという、”男と女”、”聖と俗”の二重の転倒がある。当時の社会の性差というのは、現代社会とは比較にならないほど分離していた。その世界を転倒してみせたときの面白さというのは、現代人が感じる以上のものがあったかもしれない。

徐渭の出身地は紹興であり、胡宗憲に幕僚として紹興周辺地域を転戦していたほかは、彼の書画家、文学者としての活動も郷里の紹興が中心である。
紹興には”紹興戯”という、特有の演劇文化が根付いていた。これがのちに上海へ進出して”越劇”に昇華し、江南を代表する演劇として現在にいたっている。魯迅が子供のころに見ていたのも、紹興戯の系統の地方演劇であっただろう。
現代の越劇というと女性ばかりの劇団とされているが、初期のころは男性のみで演じられていたという。しかし昔から、地方演劇というのは、男性だけの劇団”男班”と、女性だけの劇団”女班”の両方が存在していたらしい。紅楼夢では、少女を買いあつめてお抱えの劇団を作る話があるが、これなどは”女班”である。また劇団が地方を巡業するに際しての、あるいは儒教倫理上の理由からだろうか。女性と男性が共存する舞台というのが、そもそも普通ではなかったのかもしれない。
そうなると必然的に女性が男性を演じる、あるいは男性が女性を演じる、ということが起こる。たとえば本来は女性である花木蘭を男性俳優が演じ、さらに演劇の中では花木蘭が男性を演じるのである。ここに脚本と役者による二段重ねの虚構が仕組まれるということになるが、実に主演俳優の技量が問われるような演目であっただろう。

以下に「雌木蘭」の冒頭から花木蘭が出征するまでの段の大意を紹介してみる。
セリフの中で「俺」が頻出するが、これは「我」に置き換えられる一人称である。現代中国でも北方では「我」のかわりに「俺」が用いられることがある。日本で「オレ」と言えばほぼ男性のみが使う一人称であるが、中国では使用にあたって男女の区別はみられない。
また語尾に「儿(アル)」が頻出するが、とくに意味はなく、北方で多用される語尾の巻き舌音である。関西弁でいうところの「〜や。」というところだろうか。また「儿」単独で、親が子供を呼ぶ時に使われている。
花木蘭の活躍した時代は北魏時代であるとされるから、隋唐よりもずっと古い時代である。いわゆる漢族からみれば、北魏王朝自体が北方で起こった鮮卑族の「拓跋氏」による異民族王朝である。である。その北魏も絶えず北方からの侵略に悩まされていた。

【花木蘭】:妾身姓花名木蘭,祖上在西漢時,以六郡良家子,世住河北魏郡。

私(わたくし)、姓は”花”、名は木蘭、先祖は後漢の時代には(強兵の産地で名高い北方の)六郡の良家の家の出で、代々河北の魏郡に住んでおりました。

(西漢は前漢時代。つまり花木蘭は漢族である。「隴西 、 天水 、 安定 、 北地 、 上郡 、 西河」の六郡は「六郡多壮士」とうたわれ、強兵の出身地として知られている。)

【花木蘭】:俺父親名弧字桑之,平生好武能文,旧時也做一个有名的千夫長。娶過俺母親賈氏,生下妾身,今年才一十七歳。雖有一个妹子木難,和小兄弟咬儿,可都不曽成人長大。」

父親の名は”弧”、字(あざな)は桑之、平生より武芸を好み、また文才もあり、昔は名のある千夫長の一人でございました。私の母である賈氏を娶り、私が生まれましたが、今年で十七歳になります。一人の妹”木難”と、幼い弟の”咬儿”がおりますが、ふたりともまだとても幼いのです。

(妹の名は”木難(ムーナン)”であり、これは姉の”木蘭(ムーラン)”に合わせた名であろうが、”木難”とは宝珠のことをいう)

【花木蘭】:昨日聞得黒山賊首豹子皮,領着十来万人馬,造反称王。俺大魏拓跋克汗,下郡征兵。

昨日聞いたところでは、”黒山賊”の首領、その名も”豹子皮”が、十万人の人馬をひきつれて反乱を起こし、王を称したとか。わが大魏国の拓跋克汗は都を出て、この賊の征伐にむかいました。

【花木蘭】:軍書絡繹,有十二巻来的,巻巻有俺家爺的名字。俺想起来俺爺又老了,以下又再没一人。

過去の出征の記録は家に何巻もありますが、すべての巻に父の名が記されております。私は父がすでに年老いたことを想い起すにつけ、父が再びここへ名を連ねることはできないとおもっています。

【花木蘭】:況且俺小時節,一了有些小気力,又有些小聡明,就随着俺的爺也読過書,学過些武芸。這就是俺今日該替爺的報頭了。

私は小さいころから、ちょっとした気力があり、またすこしばかり機転のきくところがあったのか、父について本を読み、いささかの武芸も習いおぼえました。そういうわけで、今日この日こそは、私が父に替って、出征者の名簿に名を連ねようというわけです。

【花木蘭】:你且看那書上説,秦休和那缇萦両个,一个拚着死,一个拚着入官為奴,都只為着父親。終不然這両个都是包網儿、戴帽儿、不穿両截裙襖的麼?

あなたも本で読んでいるでしょうけど、惰弱な弟に代わって親の仇討をした秦休や、父の罪をかぶって妓女になろうとした淳于缇萦といった、古(いにし)えの孝女達に私も倣おうというのです。ひとりは死をも厭(いと)わず、ひとりは奴婢になることも辞さなかったけれど、ふたりとも父親のためにしたこと。結局は秦休も捕えられてしまうこともなければ、缇萦は妓女になることもなかった。けれど彼女たちだって、帽子をかぶり、スカートをはかない(つまり男装する)、なんて羽目にはなったかしら?

(秦休は、戦国春秋時代の燕国の孝女。惰弱な弟に代わって父母の仇を市中で殺害し、自首した。その孝心によって赦され、のちに燕国王の妻となった。
淳于缇萦は前漢時代の孝女。父親の淳于意が肉刑(肉体を傷つける刑罰)に処せられそうになった際に、自らが官婢(官府で使われる奴婢)になることで、父親の刑罰を購おうとした。漢の文帝が彼女の孝心に感心し、肉刑を廃止したといわれる。
両截裙襖は上下が別々にわかれた着物で、下はスカート状の着物をみにつける、女性の服装である。軍務につけば、下はスカートではなくズボンを穿くことになるのである。


【花木蘭】:只是一件,若要替呵,這弓馬槍刀衣鞋等項,却須索従新別做一番,也要略略的演習一二才好。

ただほかにも、もし父に替わるのであれば、弓や馬や槍刀、衣類は靴といったものは、すべて探して用意するか、新しく作ったほうがいいですね。そして男を演じる練習のひとつふたつを、すこしばかりすればいいことでしょう。

【花木蘭】:把這要替的情由,告訴他們得知。他豈不知事出无奈,一定也不苦苦留俺。叫小鬟那里?

そして父に替わらなければならない理由があることを、家族達にもわかるように説明することにしましょう。父もこれはどうしようもないことと、わからないわけでもないだろうから、きっと私を無理に引き止めたりはしないでしょう...........下男の小鬟(しょうびん)はどこにいるのだろう?呼んでみよう。

(このあと、下男の小鬟に馬や武装を買ってこさせる。また纏足していた両足をほどいて、秘薬を塗りこんで足を大きくする。すっかり男の恰好を整えると、家族の前に現れるのである。もちろん両親弟妹はびっくり仰天。)

【賈氏】:儿,今日呵!你怎的那等样打扮?一双脚又放大了,好怪也!好怪也!

おまえ、今日はどうしたっていうの?なんて恰好をしているんだい?両足もこんなに縛らずに放りだしたまんまで、おかしい、おかしいよ!

【花木蘭】:娘,爺該従軍,怎么不去?

母さん、父さんは従軍しなければならないはずだけど、どうして出発しないの?

(娘、というのは母親の呼称である)

【賈氏】:他老了,怎么去得?

父さんはもう年だからね。どうして戦(いくさ)にいけるもんかね。

【花木蘭】:妹子兄弟,也就去不得了。

わたしの弟は、行けないというの?

【賈氏】:你瘋了!他両个多大的人,去得。

馬鹿なことをおっしゃい!あの子はあと二年もしたら、いけるでしょうよ。

【花木蘭】:這等様儿,都不去罢。

このようすじゃ、二人(父と弟)とも行けないわね。

【賈氏】:正為此没个法儿、你的爺急得要上吊。

まったくこれはどうしようもないのよ。父さんは首を吊らなくてはならないわ。

【花木蘭】:似孩儿這等様儿,去得去不得。

私がこんな格好をしたとしたら、戦にいけないなんてことがあるかしら?

【賈氏】:儿,俺暁得你的本事,去倒去得。

お前、母さんはあなたの言いたいことはわかっているわ。行けるのだったら行ってもいいわ。

【花弧】:只是俺老両口儿怎麼舎得你去?又一桩,便去呵,你又是个女孩儿,千郷万里,同行搭伴,朝餐暮宿,你保得不露出那話儿麼?這成什麼勾当!?

【花弧】:ただもしもお前が行ってしまったら、わしと母さんはどうやって暮らしていけばいいだろう!いやいや、まだいろいろあるぞ。もし戦に行けば、お前は若い女の身でひとりなのに、千里万里、男どもに交じって旅をする。朝は一緒に食事し、夜は同じ宿営地に寝る、バレないなんてことがあろうか?そんなことは出来っこないだろう!?

【花木蘭】:娘,你尽放心,還你一个闺女儿回来。

母さん、安心してよ。戻ってきたらおとなしい女の子にもどるから。(みんな泣く)

軍人二人組:這里可是花家麼?

ここが花氏の家か?

【家の外】你問怎麼?

「何でしょう?」

【軍人】:俺們也是从征的。俺本官説這坊廂里,有个花弧,教俺們来催発他,一同去路。快着些!

我々もこれから出征するのだ。私の上官はこの街に、花弧という古つわものがいるから、我々が彼を誘い、一緒に来るように命令されたのだ。早く出発してくれ。

【花木蘭】:哥儿們少坐,待俺略収拾些儿,就好同行。小鬟,你去帯回馬来!

兄さんたち、ちょっとお座りください。私が少しだけ準備を整えるのをお待ちいただければ、喜んで同行しますから。小鬟、行って馬を連れておいで!

【花弧】:好馬好器械儿!你去一定成功,喝採回来。好歹信儿可要長梢一封,也免得俺老両口儿作念。偌咱要逓你一杯酒儿,又忙劫劫的。才叫小鬟買得几个熱波波,你拿着路上也好嚼一嚼。有些針儿線儿,也安在你搭連里了,也預備着,也好縫些破衣断甲。

これは良い馬に良い武具だ。お前はきっと手柄を立てて、喝采を浴びながら凱旋するだろうよ。いいことでもわるいことでも、手紙で知らせてくるんだぞ。わしと母さんを少しだけでも安心させておくれ。
さあ、酒を一杯飲むがいい。まったくあわただしいことだな。ちょっと小鬟を呼んで、温かい食べ物でも買ってこさせよう。お前が道々少しづつ食べられるような物をな。ちょっとした針や糸も必要だからな。これを準備しておけば、破れた衣類や鎧を繕うこともできるからな。

【軍人二人組】:快着些!

少し急いでもらえませんか!

【花木蘭】:大哥們,労久待了。請就上馬趱行。

兄さんたち、大変お待たせしましたね。馬に乗って急ぎましょう。

【軍人二人組】:這花弧倒生得好个模様儿,倒不象个長官,倒是个秫秫,明日倒好拿来応応急

この花弧ってのはまったく奇麗な若者だな。これじゃ部隊長というよりは、まるでお小姓じゃないか。まま、とにかく明日までに連れて来いということだから、急ぐとしようか。

(一応ここまで)

現代の価値観からすれば、老いた父親の身代わりに若い娘が戦場へゆくなどありえないと考えられるかもしれない。しかしながら、現実に若者が出征し、親より先に死んでゆくのが戦争なのである。儒教的な倫理観からすれば、親のために子が死ぬのは最大の孝行とされて肯定されていた。そういう時代の物語である。
無論「雌木蘭」のストーリーの中には”自己犠牲”をうかがわせるような悲壮感はなく、男装の花木蘭の武勇伝に満ちている。
徐渭は胡宗憲の倭寇征伐に功績をたてているが、胡宗憲の幕僚にはいる以前は、地元の義勇軍を率いて倭寇や匪賊と闘っていたといわれる。花木蘭が北方から侵入する異民族と戦う物語には、徐渭自身の軍務の経験が生かされていたことだろう。またこの時代の江南地方の人々は、倭寇の跳梁に苦しんだ。花木蘭の活躍は、当時の江南の人々にとっても、身近に感じられる話だったはずである。

「木蘭従軍」を素材とした最近の作品としては、2009年に趙薇主演の映画がある。この映画の結末と徐渭の「雌木蘭」の結末はだいぶ趣を異にするのであるが、映画のほうは未見の方もおられると思うので伏せておこう。

徐渭の「雌木蘭」では花木蘭が出征したのは17歳であり、当時としてはちょうど結婚適齢期である。その後12年間もの間、従軍して手柄を立てる。ゆえに軍務を終えて帰郷したときには、29歳になっているはずである。父親のためとはいえ、当時の常識で考えれば婚期を逃してしまっているところである。また男に交じって従軍していた娘など、はたして貰い手がいるかどうか?というところである。しかし「雌木蘭」の最終場面では、彼女の孝心と愛国心を聞いた前途有望な若者から求婚されるのである。男装を解いた花木蘭は、花婿との対面の段になって、羞恥のあまり背中を向けてしまう。それを見た母親が、すかさず花木蘭をしかりつける。

「女儿!十二年的長官,還害什麼羞哩?」

「おまえ!十二年も隊長をしておいて、まだ恥ずかしいということがあるもんかね?」ということであるが、母親に叱られた花木蘭が、くるりと身を翻すところで戯曲は終わっている。
帰郷したら女の子に戻るという、母への約束を果たす場面でもある。ここは観客はドッと笑いに沸くところだろう。徐渭の温かいユーモアが感じられる幕切れである。
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羅小華逃亡説 〜?之誠「骨董瑣記」より

清朝末期の歴史学者、?之誠(1887-1860)が編した「骨董瑣記」という本がある。?之誠は祖籍は江蘇省南京の人で、字は文如、明齋あるいは五石齋と号した。光緒十三年に生まれ、私塾には入って学び、読書を非常に好んだそうである。官僚であった父親の任地に従い、雲南、四川を転居してあるく。雲南両級師範学堂、成都外国語専門学校法文科を卒業。1910年には昆明第一中学に歴史教員として赴任するが、武昌蜂起後は革命運動の宣伝に努めた。1917年に北京大学に招聘され、以後は北京の北平師範大学、燕京大学等と兼任で教鞭を執り、また中国史の研究を行っている。1941年に太平洋戦争が勃発すると、燕京大学が日本軍に占領、閉鎖され、?之誠は逮捕投獄されたが翌年釈放される。戦中は日本軍への協力を拒んで、売字売文で糊口をしのいだと言う。戦後は再び北京で教鞭を執り、かつ著述を行った。1960年の1月に73歳で北京で死去。
骨董瑣記「骨董瑣記」は金石、書画、陶磁器、彫漆などの骨董文物についての断簡集であるが、文房四寶に関する記述も多く見られる。またこの本には清朝末期の蔵墨家として著名な、袁励準(1876-1935)や葉恭綽(1881-1968)が序文を寄せている。

この「骨董瑣記」には以下のような羅龍文の小傳がのっている。

「羅龍文,字小華、徽州人。羅小華負侠名,能入水中竟日夜。家素封,善鑑古。从胡宗憲征倭,招徠汪、徐諸酋,叙功為制敕房中書。入厳幕,與世蕃同死西市。或曰,先遁去,死者族子,非竜文也。子六,一改名王延年,游呉越間,鬻骨董自給。頗能詩。
《野獲編》云“小華墨価逾拱璧,以馬蹄一斤易墨一肉,亦未必得真者。」

「羅龍文、名は小華、徽州人なり。羅小華は侠名を負う。能く水中に入り日夜に竟(わた)る。家は素封、善く古(ふる)きを鑑(み)る。胡宗憲に従い倭を征(せい)し、汪、徐の諸酋(しょしゅう)を招徠(しょうらい)し、功を叙(じょ)し制(せい)を為して敕房(そうぼう)中書。厳幕に入り、世蕃とともに同(おなじ)く西市に死す。或(あ)る曰(いわ)く、先(さき)んじて遁去(とんきょ)し、死者は族子、龍文に非ず也。子は六、一(ひと)り名を改め王延年、呉越の間に游(あそ)び、骨董を鬻(しゅく)し自給す。頗(すこ)ぶる詩を能くする。
『野獲編』に云(い)う:“小華の墨は価(あたい)拱璧を逾(こ)ゆる、馬蹄一斤を以って墨一肉に易(かえ)る、亦(ま)た未(いま)だ必(かなら)ず真者を得ず。」

(拙訳)
「羅小華は任侠の名を負っていた。水の中に入ること(泳ぐこと)が出来、昼間と夜とを問わなかった。家は素封家で、骨董書画の鑑定に明るかった。胡宗憲にしたがって倭寇を征伐し、汪(直)や、徐(海)などの首領を引き寄せて捕らえた。その功績により、敕房の中書舎人となった。厳嵩の幕僚となり、(そのため厳嵩が失脚すると息子の)厳世蕃とともに、西市で斬罪に処されたのである。或るものが言うには、先に遁走して逃げ去り、死んだのは一族の別人であり、龍文ではないのだ、と。子は六人あり、うち一人は王延年と改名し、呉越の間を遊歴し、骨董を商って生活した。非常に詩文の才能があった。
また野獲編を読むに、羅小華の墨の値は王侯の玉壁を越えるもので、馬蹄銀1斤でようやく一塊の墨を買うことが出来た。とはいえ、必ずしも本物を得られるとは限らなかった、ということである。」

信憑性の程はおくとして、一応この記載内容について考えてみたい。

羅小華が、徽州歙県の呈坎鎮の富豪の子弟であったことはよく知られている。また「任侠」的な性格の持ち主であったということだが、これは羅龍文に限らず、当時の知識人階級の男子によく見られる気質であり、方于魯や徐文長、汪道昆兄弟の行状からも多分にこれを感じることが出来るのである。
“任侠“というのは、一言で言えば利他主義の徹底といえるかもしれない。”侠気”を重んじる伝統は、春秋戦国時代に既に認めることが出来、司馬遷の史記には「游侠列伝」としてまとめられている。また「墨侠」と呼ばれるように、「博愛交利」を説いた墨家集団の活動にもその端的な例が見られるものである。
明代に「水滸伝」や「三国志」が成立し、当時の知識人の間で広く読まれたことからも、「義気」や「侠気」を重んじる風潮を見て取ることが出来るものである。徽州は古来出版の盛んな地域であったが、明代の萬暦年間に徽州で出版された「忠義水滸伝」には、「天都外臣」という号で汪道昆が序文を書いており、徽州の士大夫の間でも読まれていたことが伺えるのである。

面白いのが羅小華が「泳ぎが出来た」ということである。「水中に入る」であるから、あるいは潜水のようなことを意味しているのかもしれない。呈坎の市中には縦横に川が流れ、また沼にも接している。泳ごうと思えば泳げそうなところである。
話がそれるが、小中学校で水泳が必修の日本と違い、中国ではそもそもプール設備がある学校が少ないため、泳げない人というのが大半である。これが南の広東、福建の方だと泳げる人が少し多いかもしれない。
毛沢東が水泳好きで、盧山の別荘地や中南海の特設プールで毎日泳いでいた話は有名であるが、中国にもプールがたくさんあるかというとそうでもない。いや、かなり増えてきてはいるが、日本ほど数が多くないという意味である。特に水資源が少ない北方ではプールが少なく、よほど好きな人で無い限りあまり泳げないのが普通である。
古代中国、江南ではどうであっただろうか。古代の画像石には、船団同士の戦いにおいて、水中に潜って船底に穴をあけ、敵船を沈める役割を負った兵士の姿が描かれていることが知られている。三国志の呉の将兵の中には、泳げるものが多くいたことだろう。ただし河川や沼沢の多い江南と、水源に乏しい華北では事情が異なっていたはずである。荘子が「真人は水に入っても溺れず、火に入っても焼かれない」と言っているが、やはり泳げるというのはやや特異な技能であったのだろう。
仮にこの記事が事実として、羅小華が泳ぎが出来たというのであれば、夏の暑い盛りに川べりで水浴びをする延長というようなものではなかっただろう。昼夜にわたって水中に居られた、というのはまるで忍者の修行のようで、やはり何らかの武術のひとつとして習得していたのかもしれない。徐渭が若い頃に剣術に熱中していたことや方于魯が馬術や狩に長じていたように、スポーツ(特に格闘技)で体を鍛えていた、というのはこの頃の士大夫には珍しくなかったのだろう。あるいはこの泳ぎに達者ということが、後に胡宗憲に従って倭寇と海上で戦うときに、威力を発揮したのかもしれない。
「招徠汪、徐諸酋,叙功為制敕房中書」とあるが、その胡宗憲に従っての倭寇征伐に功績をあげ、「敕房(そうぼう)」の「中書」に任じられたということであるが、この「敕房」というのは明代中期から内閣府の下に置かれた機関である。誥敕房、制敕房というのがあり、それぞれ中書舎人がおかれている。誥敕房は清朝でも継続されたが、主に皇帝の詔令を起草ないし浄書する役割を負っている機関である。
「中書舎人」という官職は時代によって宮廷制度における位置が変化してゆくが、漢代以降、王朝時代を通じて「中書舎人」といえば“文吏の極官”であり、文才に秀でた官僚の代名詞とも呼べる官職なのである。詩文書画を能くしたという羅小華であるが、その実力が宮廷で詔勅の起草を行うに充分であると認められたのだろうか。あるいは権臣のひきたてにより、好みの官職が得られたとも考えられるが、進士を経ずして軍事的成功によってこの地位を得たというのは、やはり異例のことである。
「入厳幕,與世蕃同死西市。」厳嵩の幕僚となり、厳世蕃に連座して西市で斬られた、ということになる。ちなみに“西市”とは明清時代の北京では処刑場がおかれた場所である。このあたりは、羅龍文に関する他の資料とほぼ一致した内容になっている。

ところがここに、謎のような一文がある。「先遁去,死者族子,非竜文也」とあり、すなわち死んだのは羅龍文ではなく、その“族子”なのだと。羅龍文は先に逃亡したのだ、と言っているのである。
“族子”ということは、羅氏一族の何者か、ということになるのだろう。呈坎羅氏にとって、羅小華は22代目の宗主であり、ただの羅氏ではないのである。宗家とは、宗族全体にとっては宗廟の祭祀に責任を持つ一族であり、いわば呈坎羅氏にとっては皇族に等しい一家である。ほかならぬ宗主の羅龍文が、都で処刑されるというのは大きな衝撃であっただろう。あるいは年恰好の似た人物が身代わりに立つ、ということも、ありえないような話ではないかもしれない。
呈坎の容安館の伝承が確かならば、羅龍文は厳嵩父子を数年間にわたってかくまったことになる。このことは、「明史・厳嵩傳」にも同様な記述があることから、そういうことがあったのだろう。逆に考えれば、羅小華単身で逃げようと思えば機会はいくらでもあったと考えられる。ただ任侠の徒としては、義兄弟を見捨てての逃亡はありえなかったのかもしれない。
ともかく羅龍文が本当に逃亡したかどうか、今となっては不明である。一応、潘之恒の「亘史外記・羅龍文傳」に、処刑された亡骸を息子が密かに運んだ、という記述がある。その具体性から考えて、出所が怪しい羅小華逃亡説よりは、信じてよいのではないかと思われるのだが、今となっては確かめる術も無い。
ただ、素性確かではない伝承にしても、何ゆえ羅龍文は逃げ延びたことにしなければならなかったかのだろうか。逃げ延びて、何をしたのか?ということには何も触れられていないのである。これはやはり、宗家というものの存在の重さが理由になるのかもしれない。社稷(しゃしょく)が絶えるというのは、血の尊崇によって結びついた社会にとっては、その存在の正統性を喪失するに等しいことであっただろう。
呈坎鎮を訪れた際、今に残る羅龍文の旧邸には厨房が10部屋もあった。つまり普通に考えると、多いときで10人の夫人を抱えていた、ということになる。その子が六人いても不思議は無いだろう。
「子六,一改名王延年」というのは、そのうちの一人が逃げ延びて王延年と改名したということになる。この話も、羅龍文が京師で処刑されたときに同行していた羅南斗が、密かに逃げ延び、王姓に改名して隠れ住んだ話と符合する。
羅南斗こと羅王常(延年)は、篆刻を能くし、古印研究における源流を為した一人である。その子孫も、篆刻に名があったことが知られている。羅王常が古印や金石、あるいは書画骨董の鑑定に明るいのも、また詩文に優れているのも、羅家の家学、あるいは羅龍文譲りの技能であったとすれば不思議なことではない。
また最後に『野獲編』の記述も付記されている。『野獲編』は明代末期の沈徳符(1578-1642)が書いた、伝承や巷間における異聞記である。書名は「野之所獲(野の獲る所)」からきている。萬暦三十四年ないし三十五年にかけて三十巻が成立し、また四十七年ごろに“続編“十二巻が書かれた。
この「野獲編」からの引用は、その「新安製墨」の項の内容である。そこには宋の徽宗皇帝が製したといわれる蘇合油の墨を、金の章宋がこれを求めたところ黄金1斤でようやく1両を得たに過ぎなかった、という話で始まり、次に羅小華の墨について述べている。
「拱璧」とは、原義は古代で祭祀に用いられた大型の玉璧であり、天子が天を祭る際の祭器とされたものである。ここには多少の誇張があるが、玉璧にたとえられ、馬蹄銀一斤(500g程度)と墨一個が等価であったというから大変高価な墨ということになる。また必ずしも本物が得られるとは限らなかった、というのはその倣製品も萬暦年間から随分とあったことが伺えるのである。また「野獲編」には羅小華に続けて方于魯と程君房の確執に触れており、明代後期の製墨業のあらましを概観した文になっている。

実はこの「骨董瑣記」の記事は、民国時代に出版された「歙事閑譚」に引用記述されていたものを読んでいた。そこで出典の「骨董瑣記」を探していたのだが、昨年この「骨董瑣記」が再版されたのを幸いに、入手したのである。
残念ながら、「骨董瑣記」の方にも、この小傳の出所について情報は無かったものである。あるいは、当時の北平(北京)にあつまっていた、清朝の翰林館出身の古老、たとえば袁励準などから聞いた昔語りなのかもしれない。
ともかく「骨董瑣記」は民国時代の著作であり、またその信憑性の程は確かではないが、これも羅龍文こと羅小華の消息を伝える資料のひとつとして紹介した次第である。
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墨の製法に仮託して 〜徐文長の「応制咏墨詞」を読む?

前回まで一句一句訳していたが、以下は5句まとめて解釈を試みる。そうしないと意味が通りにくいのである。

・龍剤犀膠
龍香剤に犀(さい)の角の膠

・收来共伴灯烟因。
收め来たり共に伴う灯の烟因

・煉修依法
煉修すること法に依り

・印証随人
印証、人に随ふ

・才成老氏之玄。
才(わづか)に成す老氏の玄。

まず「龍剤犀膠」であるが、唐代の馮贄(ふうさん)の「雲仙雑記」(うんせんざっき)が下敷きになっている。
「雲仙雑記」には『唐玄宗御案上有墨。有一天,玄宗看見墨上有一个小道士如蝿而行,当即叱之。小道士呼万歳,自称是“墨精”。并説凡世人有文者,其墨上皆有竜賓。以后竜賓就成為墨之代称。玄宗御墨是用油烟入脳麝金簿(即竜香剤)制成的。』とある。
意訳すれば、「唐の玄宗の机の上に墨があった。ある日、玄宗は墨の上を蝿のように小さな道士が行くのをみた。玄宗がこれを叱りつけると、道士は「万歳」を叫んだ。「墨の精」であると自(みず)から称し、
『およそこの世の文才のある者には、(使う)墨の上に皆“龍賓”がいるのです』と言った。
このことがあって以後、“龍賓”は墨の代名詞となった。また玄宗は油煙に龍脳、麝香、金箔をいれて(すなわち龍香剤)御墨をつくった。」となろうか。
ここで言う「犀膠」は犀の角から作った膠のことである。もちろん、当時の中国に犀が生息していたわけではない。東南アジア・インド方面から、珍貴な薬材としてもたらされたものである。漢方薬における犀の角は、インドのサイということになっている。
ただし実際問題、本当の犀の角かどうかは疑わしい面もある。「説文解字」には「犀、水牛に似る」とあるのだが、それこそ水牛の角で代用したということも充分に考えられる。現代おける印鑑用の犀角の多くが実際は水牛の角であるのと同じような事情で有る。
また“麒麟”が“キリン”ではなく、“獏”が“バク”ではないように、“犀”もいわゆる野生動物の“サイ”ではなく、空想上の動物を指していることも考えられる。「龍剤」の「龍」と並ぶためである。
現在の中国の製墨においては、使われる膠は牛の皮から生成したものが主流である。しかし、かつては鹿の角の膠も作られたようである。墨の側款に、「鹿角膠」を明記した古墨も見ること出来る。(清墨鑑賞図譜参照)
次の「收め来たり共に伴う灯の烟因」の「灯の烟因」は、油脂を灯(とも)して採取された“煙(烟)“を指す。油煙墨の原料である油煙である。すなわち「龍剤犀膠」と「灯の烟因」を「收め来たり共に」であるから、共に混ぜ合わせるのである。まさに製墨の工程における原料の配合である。
「練修すること法に依り」は、その油煙と龍香剤を、「法に依り」つまり製法に則って「練り」「修める」のである。油煙と膠、各種香料を練り合わせ、叩きに叩き、墨型に入れて墨をカタチ造る、ここも墨の製法そのものである。
「印証随人」は印証は字義通り「印」であろうが、製造した墨に墨匠の名を記すことであろうか。
「才(わづか)に成す老氏の玄」の「老氏の玄」はすなわち墨の美称であり、前段のような手間暇をかけ、「やっと墨が出来る」あるいは「わずかな墨が出来る」という意味だろう。
まとめると「龍剤犀膠」から「老氏の玄」までで、油煙墨の製造の様子を詠っていることになり、
「龍脳に犀の角の膠、それに油煙を混ぜ合わせ、製法に則って練り、型に入れる。それに墨匠の印を施し、ようやく素晴らしい墨が出来るのである。」とでも訳せようか。

ここで使われている「玄」にはもう一つの意味がある。「雲仙雑記」に出てくるのは唐の玄宗皇帝であるが、まさに「玄宗」の「玄」であり、端的には「皇帝」を意味しているとも解釈できる。そのばあい、前段ももう一つ、別の意味で解釈しなくてはならない。
まず「龍剤犀膠」であるが、「龍剤」も「犀膠」ともに中国の物産ではなく、外来の高貴薬であり、主に周辺国からの献上品としてもたらされるものである。
また「灯の烟因」であるが、「灯」は、街や村落の家家の「灯」であり、「烟因」は庶民の家の炊煙と読むことが出来き、民の活力そのものをあらわしていると解釈できる。それを「収める」のであるから、収税を意味していると読める。
また「煉修すること法に依り」であるが、「龍賓」の「賓」は発音が「兵」と同じであり「墨(龍賓)を練(煉)る」を「兵を練る」と解釈でき、「軍法に則って練兵する」と読めようか。
「印証随人」もまた別の意味として解釈しなくてはならなくなる。ここは古代の中国社会における「印」が、どのようなものであったかを考える必要がある。
「印証」すなわち「印」は、官僚や貴族に太守や郡守などの役職を与える際に、君主から授与されるものである。任命された者は、その役職にある限りは、印紐にヒモを通してその印を首にぶら下げておくものである。
「印を置く」「印を外す」はそのまま辞任を意味し、「印を奪う」というのは権限を剥奪することを意味した。古代中国における印は、現代よりも濃厚に決裁権(=権力)の象徴であったといえる。すなわち「印証人に随う」は人材に応じて(適材適所に)役職を任命する、と理解することができる。
まとめると「朝廷への献上品とともに、庶民から税を納めさせ、その財力を法に基づいて行政(や軍事)に用い、また印証を与えて官僚を任命する」墨の製法に仮託して、封建時代の王朝の統治の姿そのものが述べられていることが読めてくる。

「応制咏墨詞」の冒頭からまとめると、
「松滋国を(荘園として)拝領し、褚郡の太守を兼任する。そして宮廷に召致され、さまざまな宮廷内の役職をつとめる(経験を積んだ後、皇帝になった)。朝廷には珍貴な品が献上され、庶民からは税が納められる。そうやってもたらされた国家の財力を、法に基づいて軍事に使用し、また印を授けて人材に役職を任命するのである。そしてようやく皇帝の権力というのは維持されるのである。」とでも読めようか。
字句の解釈にはまだほかに色々な意味があると思うが、「老氏の玄」を「皇帝」と解釈することによって、これより前段の詞の内容が墨に事寄せて、王朝の統治そのものを詠ったものであると読むことが出来る。またそう読むことによって、以降の詞の意味も明らかになってくるのである。
「応制詞」は、皇帝から出された「御題」にしたがって詞を作り、献上された詞である。単に「墨の製法」を詠った詞であるとは、考えてはいけないだろう。

(つづく)
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古代の墨の産地 〜徐文長の「応制咏墨詞」を読む?

徐渭の「応制咏墨詞」今回は第3句目。(まったく進んでいないのであるが)
(参照)全文第一句第二句

絳入品秩多般。
絳(こう)、品秩(ひんちつ)に入り、多般(たはん)。

この「絳」は「赤い」と同意義である。「品秩」(ひんちつ)はここでは官位によって定められた宮廷内での官服の色のことであると考えられる。
南北朝の陸修静(406〜477)の「陸先生道門科略」に“道家法服,犹世朝服,公侯士庶,各有品秩,五等之制,以別貴賎”とある。すなわち道教の法服や朝廷の官服、あるいは貴族と庶民では服に「品秩」があり、色によって貴賎を分けたということである。たとえば「絳巾」は紅色の頭巾のことで、宮中の侍衛をさす。また「絳」にはもう一つ意味がある。
唐朝の韓愈(かんゆ)に「毛穎(もうえい)伝」という文章があるが、この文も文房四寶を擬人化したものである。
「穎與絳人陳玄、弘農陶泓及会稽褚先生友善,相推致,其出処必偕。」
これは「(中山人の)毛穎と絳州人の陳玄、弘農(こうのう)陶泓(とうこう)、及び会稽(かいけい)の褚(ちょ)先生は善き友であり、ともに推薦しあい、往く所は一緒であった」とでも読めようか。
まず「毛穎伝」(長いので全文引用しない)の「毛穎」とは筆のことである。「毛穎伝」の冒頭はじめに、「毛穎者,中山人也。」とある。中山は現在の安徽省宣城市、ケイ県付近である。ここは「宣筆」で知られる、古代からの筆の産地である。また筆に使われる「毛」の先端の透明部分を「穎」という。
「絳人陳玄」の「絳」は昔の絳州、現在の山西省新絳県を指す。絳州は古代の易州に近い地域であり、易州と同じく墨の産地としてその名を知られ、朝廷へ献上品を納めていた。「陳」は「古い」の意味。「玄」は「墨」のことであるから、「陳玄」で「古墨」ということになる。意味は「絳州の古い墨」ということになろうか。
「弘農の陶泓」であるが、隋唐の時代は陶器製の硯、すなわち「陶硯」の使用が盛んであった。現在の河南省霊宝は、唐代は弘家郡とよばれ、陶硯の産地として知られていた。「泓(おう)」は「深い」という意味で、墨液を溜めることの出来る深い(墨池を持った)陶硯の意味であろう。
「会稽褚先生」は、会稽(現在の紹興)の褚先生の意。これは前句の「守楮郡」の解説を参照していただければと思う。
これら四者が「行く処は必ず一緒」というのは、文房四寶の関係を考えればすぐに理解できることであろう。もちろん、「必偕」の「偕」は「楷書」の「楷」にかけている。唐代に精緻を極めた楷書体の発展を思わせる。
やや逸れたが、「絳」一字で「墨」をあらわしていると解釈してよいだろう。
戻って「絳入品秩多般。」の「多般」は多種多様。ここではさまざまな役職を指すか。よって「絳、品秩に入り、多般」は「官職は宮廷内侍になり、さまざまな職務を経験した。」というほどの理解で問題なかろうか。
前二句と併せて、「松滋国を(荘園として)拝領し、褚郡の太守を兼任する。そして宮廷に召致され、さまざまな宮廷内の役職をつとめる。」というくらいの意訳でよろしいだろうか。(超訳ということで....)
領地を拝領するのであるから、官吏登用試験を通過した官僚のキャリアというよりも、皇族・貴族階級の履歴を表現しているようでもある。

このように、古代の文房四寶の生産地は、各時代の文学者がつくる詩文の中で繰り返し歌われている。そして時代が変わってその地で生産されなくなったあとも、後代の詩人や文学者によって引用、踏襲されることにより、文房四寶の美称別称として生き続けることになるのである。文房四寶に限らず、中国のある時代の詩文を理解するためには、それより前の時代の歴史や文章を知っている必要がある。
明の嘉靖年間に羅小華の墨が名を馳せて後、万暦年間にはいよいよ程君房と方于魯が製墨の歴史に現れる。「方氏墨譜」と「程氏墨苑」に載せられている序文や墨賛には、当時の著名な文学者がこぞって名を連ねている。彼らの文の中にも、墨の歴史に関わる記述や、過去の文献を踏まえた表現が多く使われている。
古典を踏まえた文章を書くのは、王朝時代の文学者にとっては当たり前のことであった。しかし逆に言えば、墨や文房四寶の歴史背景に関わる知識が、当時の知識人の一般的な教養の範囲内であったということもいえるだろう。
現在のように、「書」と「文」が乖離してしまった時代と異なり、文章を書くという行為と、文房四寶の使用は不可分の関係にあったのである。そして文明の担い手という意識を、明確に持っていた当時の知識人達にとって、何より重要であったのは文章を作ることであった。これは多少強調しておく必要がある。
現代では、博物館や美術品市場における扱われ方を見る限り、東洋美術、特に中国美術においては、絵画と陶磁器がその二大分野になっているようだ。
しかし王朝時代の文化の担い手であった知識人達が、何より重んじたのは優れた文章を作る能力であった。文章でも、論説、散文が上で、詩文は下である。次いで評価されたのが優れた筆跡であった。絵画は書よりも下位である。まして自分で作るものでもなく、食器や日用の雑器に過ぎない陶磁器は、その意識のはるか下方の存在であった。この構造を、そのまま「美術品」という現代的なカテゴリーへ移行すると、「文」は範囲外になるので、「書」が最高位ということになるはずであるが。
物理的に実在する「モノ」よりも、より「ココロ」に近い対象に重きを置くというのは、古今東西の文明文化に共通した、ある意味普遍的な価値観であるともいえるだろう。その「ココロ」の現われこそが、「文」にほかならないのである。
「モノ」よりも「ココロ」に重きを置く文化の中で、「モノ」としての文房具は、数ある「モノ」の中でも別格の扱いを受けているのは、何より「ココロ」としての「文」に近い存在であったからに他ならないのではないだろうか。

また歴代の著名な製墨家の多くが、同時に文学者でもあったという事実は、「墨を造る」という行為の意義を改めて考えさせられる。

(つづく)
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筆と紙の美称 〜徐文長の「応制咏墨詞」を読む?

前回からの続きで、「応制咏墨詞」の解釈を進める。全文は1回目を参照していただければと思う。第二句目、

守兼楮郡

書き下せば、
「守(しゅ)、楮郡(ちょぐん)を兼(か)ぬ」
になろうか。

「守、楮郡を兼ぬ」はそのまま訳せば「楮郡の太守を兼ねる」というところであろう。第一句の「侯、松滋を拝し」と併せて、「松滋国を拝領し、楮郡の太守を兼任する。」というほどの意味か。この「守兼楮郡」も墨の美称である。

後唐の馮贄「雲仙雑記•墨封九錫」に“稷(薛稷)又為墨封九錫,拜松烟都護、玄香太守、兼毫州楮郡平章事。”(稷は又、墨を九錫に封じ、松煙郡を拝領し、玄香太守、毫州楮郡の平章事を兼ぬ) とある。「守兼楮郡」はこの一文を踏まえていると考えられる。

この馮贄の「墨封九錫」も、墨を高級官僚に擬した一文である。
薛稷(649〜713)は唐代の官僚・書画家で、書は欧陽詢・虞世南・褚遂良並んで初唐の四大家とされる。
「九錫」は元は九種類の礼器のことである。天子が諸侯を饗応するとき、これを用いることは最高の礼遇を意味する。転じて“位人臣を極める”という意味でも用いられる。
「薛稷が墨を九錫に封じる」というのは、墨とその墨を用い重んじた書画家の関係を示している。
「拜松烟都護」は第一句「侯、松滋を拝し」とほぼ解釈を同じくするとしていいだろう。
「玄香太守」の「玄」は前回も説明したが墨の別称である。
「毫州楮郡平章事」の「毫州」は現在の安徽省西南部にある「毫州市」をさす。「平章事」は実質的な宰相である。
「毫」は商の時代(BC.1562-1066)の都邑であり、現在の河南省商丘付近である。その南東方向、すなわち安徽省北西部は「南毫」と呼ばれた。北周(AD,556-581)末期にこの地が「毫州」とされた。「毫」はもちろん羊毫の「毫」であり、そこにかけて「毫州刺史」といえば筆の美称である。
「楮郡」は「会稽褚知白」という語がある。「会稽の人、姓は褚、名は知白」である。「会稽」と呼ばれた現在の浙江省の紹興は、古代の紙の産地で、献上紙を納めていたという。また名の「知白」は「(余)白を知る」、すなわち紙を指す。よって「会稽褚知白」というと、紙の美称となる。
「褚」は「楮(こうぞ)」と音が同じであり、「楮」はいうまでもなく、紙の原料である。今では和紙に専ら用いられると考えられがちであるが、現在の中国でも「楮」を用いた紙は作られている。
また河南省華陰県も古代紙の産地であり、「褚知白為華陰人士,字(あざなは)守玄」ともいう。いずれにせよ「楮郡」というと紙の産地をさし、紙そのもの指すと考えていい。さきほどの「毫州」は河南省に近接しているから、ここでの「楮郡」は河南省付近を指している可能性もある。
また「字(あざな)守玄」というと「玄」すなわち「墨」を「守る」ことから「紙」を指す。墨の表現効果の決め手となるのが「紙」ということであれば理解しやすいであろう。
逆に「守楮郡」というと、「楮郡」すなわち「紙」を「守る」、ということから「墨」を指すのである。

ここで少し脱線する。馮贄の「墨封九錫,拜松烟都護、玄香太守」から「九錫」と「玄香」をとって「九錫玄香」といえば、羅小華の墨として知られている。これは日本の宇野雪村氏が所蔵していることでも有名であるが、未だ過眼する機会は無い。一説には、羅小華の墨の中でも最高級品だという。
この「九錫玄香」が本当に羅小華の作った墨だとすれば、日本へもたらされたのは、やはり明代の嘉靖年間のころと考えられる。時代が下がり、万暦年間になればとてものこと、すでに伝説となった羅小華の墨が日本へ流出するチャンスはなきに等しいと考えられるからである。まして清朝に入れば、日本の江戸幕府はすでに鎖国をしいている。しかも中国でも、羅小華の墨は残墨といえど、極めて入手困難になっている時期である。
当時の中国でも非常に高価で希少な羅小華の墨が、日本へ招来されていた可能性はあるのだろうか?
少し前までは、「本物が渡来した可能性はほとんどゼロ」と考えていた。が、色々調べていると、あるいはひょっとして、と思わなくも無い。

史書にははっきり書かれていないが、羅龍文(小華)が処罰された罪状から察するに、王直や徐海が排除された後の倭寇残党の取りまとめに、羅龍文が大きく貢献していたと考えられる。かつ倭寇勢力と結合した密貿易に、羅龍文が深く関わっていたフシが見られるのである。
理由の一つが、羅龍文の”日本亡命計画”である。
処断された厳世蕃と羅龍文の罪状は、百を越えて数え上げられたというが、その中で“外投日本”という罪状がある。厳世蕃とともに、日本へ逃亡(亡命)しようとしたというのだ。(この件は別の機会に検討したい)
結局事は成らなかったが、もし、羅小華が日本へ逃げおおせていたならば、日本の文化史にそれなり以上の足跡を残したかもしれない。あるいは日本の製墨業も、いまとはずいぶん違ったものになっていたかもしれない。

「応制咏墨詞」の解釈を試みるにあたり、ここで詠われている「墨」は羅小華の墨ではないか?というぼんやりとした予測があった。読解を進めるにつれて、だんだん確信に近いものが感じられるようになった。もっといえば、この詞は、徐文長がその生涯で経験した、重大な政治事件が下敷きになっているのではないか?と考えられるのである。

(つづく)
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「秦漢印統」と羅小華の息子

呈坎鎮については、もう少し調べたいことがあるため、間があいてしまっている。呈坎の古石橋羅聘の家を出て、最後の見学場所に向かう途中、前方から牛を引く住人が現れた。牛や馬、驢馬などは、江南の農村ではいまでも貴重な労働力である。高速道路の建設現場で、建設資材を運搬する驢馬の一群に出会ったこともある。
この日は年の暮である。前から牛が来るところに出くわすのも、この”八卦村”の風水ゆえだろうか。呈坎の古石橋呈坎鎮をS字に貫く川である。この川によって、ちょうど集落が易学でいうところの「太一」のように分かたれていることも、呈坎が”八卦村”と言われる所以である。呈坎の古石橋川にかかる石橋は、元の時代に架けられたという。明代後期に生きた羅小華も、この橋を往来したに違いない。

羅王常(延年)が編纂した「秦漢印統」には当時著名な史学者であった、李維?の序文がある。
李維?は、日本ではピンと来ない人も多いかもしれないが、「明史・文苑伝」では、文徴明、唐黄、徐渭、董其昌、王世貞に並ぶほどの文学者である。
実はこの李維?、方于魯ともかなり親しい関係にあり、また程君房とも浅からぬ縁があったようである。方于魯の「墨譜」に李維?の序文や墨賛が多く見られる。またこの李維?は、程君房の墨苑にも序文を載せている。
基本的に方于魯と親しかったようであるが、程・方の確執の渦中にあっては、やや中立的な姿勢を示し、仲介するような言辞も見られる。さすがに歴史学者らしいバランス感覚というべきであろうか。この李維?が羅小華の息子とも親しかったとすると…..ある空想に耽りたくなるのだが、ここではまず話を羅王常に戻そう。

その李維?の「秦漢印統」の序文を拙訳すると…..
『羅延年の父である内史は、任侠かつ知謀にすぐれていた。胡宗憲の倭寇討伐を助けて功績があった。また広く古典を好み,制墨と“箋(紙)“を造ることにもっとも工(たく)みであった。今に伝わるその墨は一螺(一個)で万銭するものである。所蔵する古器は夥(おびただ)しい数に及んだが、法に触れ、その家は断絶してしまった。ただ、古印や旧章の類のみのこった。顧(従徳)氏の「印薮」が世に盛行であったが、(印譜を)購い求める者がますます増えたので,羅延年は友人の呉伯張とともにおよそ20年にわたって編纂校閲し,あと少しで出版というところで、惜しくも羅延年はなくなった。呉伯張はそれが失われることを望まず、あとを継いで出版した。名を曰く”秦漢印統“という』

この羅延年(王常)の父親である「内史」が、羅龍文こと羅小華である。羅小華が罰せられたことについては、原文では「内史」とのみ記して実名を挙げず、その事件も「既坐事受法」と、ややぼかされたように書かれている。当時の江南の知識人階級の間では、この文章を読めば、誰のことを言っているのかはすぐにわかったことだろう。

この時の事情は、潘之恒が著した「亘史鈔 外記」の游侠卷に見られる「羅龍文伝」にもやや詳しい記述がある。それによると、(拙訳で恐縮だが)
「厳氏が罰せられたとき、羅龍文は京に出頭せよと命じられ、厳世蕃と同じく西市で斬られた。その一族朋友は禍を被る事を恐れて、あえてその遺体を引き取るものがいなかった。海上(上海)の顧氏父子は、共に都に遊興に来ていたが、羅龍文との交際が厚かった。そこで、羅龍文の息子の某を匿い、自分の使用人の中に潜ませた。それは誰にも知られなかった。この子の某は、金を出して役人を買収し、父親の遺体を引き取って荒寺に安置した。顧氏は京を出て、棺桶も一緒に運び出した。子の某はその後『王常』と改名した。熱心に古典を学び、博雅絶倫であった。人は『王先生』と読んだが、その人の来歴については誰もしらなかった。海上に四十年住み、ようやく元の姓を上につけて名を羅王常、字を延年と名乗った。私は海上の陳大参宅を訪ねたとき、彼に会うことがあった。年はすでに七十歳であった……」
潘之恒は、歙県出身で、嘉靖年間中に中書舎人であった。潘之恒と羅王常とは友人関係にあったようである。事件の記述も、余人が知りえる内容ではなく、潘之恒が直接羅王常から聞いた話と考えられる。

「西市で斬られた」ということは、公衆の面前で斬られ、屍を市場で晒されたのである。惨刑と言っていい。顧氏とは、「印薮」および「集古印譜」などの編纂で、古印研究の先駆けとなった顧従徳である。羅小華が処刑されたとき、その息子を匿ったのである。義侠の行いであるが、羅小華とは相当に親しい関係にあったことがわかる。また改名前の羅王常(当時は南斗といった)、何とか父親の亡骸を引き取ることに成功している。そこに顧従徳の後援があったことは間違いない。そして共に棺を守って出京し、顧氏の郷里の海上(現上海近郊)へ向かったのであろう。
その後、名を“王常“(姓は王、名が常)字を”延年”と改名し、海上の顧従徳のもとで古印の研究を行ったようである。王常と名乗っていた頃は、太原(山西省)出身としていたことが、「集古印譜」の序文から分かっている。
そして後年、もとの姓の羅を王常の上につけ、”羅王常”、字(あざな)を”延年”としたのである。“延年“という字には、死すべきところを「生き延びた」という意味が込められているように思える。

羅小華の家を訪ねたら、妻妾の部屋が10もあったところを見ると、子供もそれに応じて多かったに違いない。呈坎の伝承では、羅龍文が罰せられたとき、一族は皆処刑の憂き目にあっている。羅王常はたまたま父親について北京にいたことで、かえって難を免れたことになる。「博雅絶倫」と評されているところをみると、羅家にとっては麒麟児だったようだ。羅龍文としても、都につれていって人士と交流させたかったのだろう。後継者とみなしていた息子であったとも考えられる。

「秦漢印統」はその成立を巡って諸説あり、中国の金石学の世界では、詳細な研究もなされている。おおむね顧従徳が編纂した「印数」や「顧氏集古印譜」などの印譜を元に、羅王常等がその内容を増補しながら完成したもののようである。
最近、安徽省合肥市の安徽省博物館に「羅氏古今印藪」(明羅龍文)という書籍があることを、現地の知人が教えてくれた。残念ながら一般に出版されている本ではないということで、まだ目にしていない。本物とすれば羅小華が遺した唯一の著作であり、その刊行は「秦漢印統」に先立つものであろう。古印の研究が、羅家にとって家学とでもいうべきものであったことをうかがわせる。羅王常が顧従徳とともに古印の研究を行ったのも道理であろうし、顧従徳と羅小華とは、古印の研究を通じて深い結びつきがあったと考えられるのである。

(つづく)
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徐文長の「応制咏墨詞」を読む?

だいぶ間があいてしまったが、徐文長の「応制咏墨詞」の解釈の続きを。写真はあまり関係ないが、徐文長こと徐渭の「花卉図巻」(上海博物館蔵)より。挿絵代わりということで。徐渭「花卉図巻」(上海博物館蔵)詩の全文は前回を参照していただければと思う。まずは第一句”侯拜松滋”である。
書き下せば、「侯、松滋を拝し」となる。”松滋国を拝領し”と訳せるか。「松滋侯」(しょうじこう)はすなわち墨の美称である。
唐末〜五代の文嵩(ぶんすう)は、文房四宝を擬人化し、四つの評伝を創作した。硯の「即墨侯伝」、筆の「管城侯伝」、紙の「好畤侯伝」、そして墨の「松滋侯伝」である。原文は失われ、宋の蘇易簡「文房四譜・墨譜」に引用されている。
そのうちの「松滋侯伝」に"易玄光,燕人也,其先号青松子,頗有才干,封松滋侯"とある。意訳すれば『易玄光という人は燕の国の人である。その先号は青松子といい、すこぶる才幹があり、松滋侯に封じられた。』となるだろうか。
「易玄光」の「易」はすなわち燕の易水(現在の河北省易県)を意味し、易水(えきすい)は北京の南西140kmに位置する、現在の河北省易県一帯である。ここは古代の墨の生産地であった。大きな地図で見る「玄光」の"玄"(元ともされる)は墨を指し、すなわち墨の色が黒く艶やかであることを言う。「青松子」は松煙のことで、明代以前は、松煙が主な原材料であった。そして、「松滋侯」ということであるが、この「松滋」という地名は、現在の湖北省の松滋市のことではなく、安徽省にあった古代の行政区である。
漢代の高祖四年、安徽省の西南部に松滋侯国が設置され、文帝の御世に県が置かれる。のち平帝の時代に「松滋県」と称され、隋の開皇18年(598)には宿松県と称されていた。「宿松」とは松滋の意味である。さらに時代が下って、清の順治初頭には安慶府に属し、民国元年には安徽省に属し、1932年になって安慶市に属することになる。
また墨を擬人化した人名の”易玄光”は、伝説的な名墨匠、李廷圭のことを指しているとも考えられる。”歙県志”によれば、南唐(937〜975)の時代、燕の国に墨工、奚超と奚廷圭という親子がいた。奚親子は華北の戦乱を避け、一族を引き連れて易水を渡り、現在の歙県近郊に居を構えた。その地で製墨を興隆させ、松煙を用いて精良な墨を作った。子の廷圭は、後に南唐の後主、李?から墨務官に任じられ、国姓”李”を賜り、李廷圭を名乗ることになるのである。
これを当時の人は”燕の人、易玄光,字(あざな)を処晦(晦きところ、すなわち墨の黒さ)”と評したという。
文嵩は生没年がはっきりしないが、ほぼ同時代人であるから、あるいはこの李廷圭の話を伝聞し、「松滋侯伝」を創作したのかもしれない。
またこの”易玄光,字処晦”であるが、読みようによっては「晦き君主の処」、すなわち南唐の暗愚な(しかし芸術的素養に優れた)君主、李?に仕えたことを風刺しているともとれる。
ここで徽州の製墨業の歴史をふと振り返る。徽州に見られる宗族ごとに固まった古い村落は、漢代末期から三国時代、また唐代末期から五代にかけて創建されたと言われている。両時期の中国北方、いわゆる中原の戦乱を避け、安徽省南部に移り住んだ人々が建設したということである。
とすれば、唐代末期の人、文嵩の一文の意味するところは、李廷圭一人のみを指すのではないかもしれない。おそらくは易水の墨工達が、戦乱をさけて安徽省南部一帯に移り住み、再び製墨業を盛んにした事情をも暗示しているのではないだろうか。「松滋候国」はその名のとおり、大きな松林があった地域である。墨工達も墨の原材料の入手に事欠くことは無かったであろう。
ちなみに「松滋候国」があったとされる安慶市は、徽州、すなわち現在の黄山市周辺地域の北西に位置している大きな地図で見る周紹良氏の「清墨談叢」では、徽州の製墨地域を、歙県、休寧県、婺源県(ぶげんけん)の3つにわけ、それぞれの地域の墨の特色を述べている。そのうちもっとも西側に位置する婺源県は、歙県や休寧県で作られる墨の原材料、煤の生産地でもあったとも述べられている。婺源県が松林が豊かな古の「松滋侯国」に近接することを考えれば、これも理解出来る話である。
安慶市付近の一帯地域は、湖北省黄海にも隣接している。古い墨名にも「黄海松心」や「黄海松煙」といった名称が見られるのもその故だろうか。
また明代から清朝にかけて作られた墨にも、「倣易水法」、あるいは「易水法製」といった表記が墨面に繰り返し現れる。このような表記にも、徽州の墨匠達の"ルーツ"に対する自負と尊崇の念が込められているのであろう。徐渭「花卉図巻」(上海博物館蔵)”侯拜松滋”の解釈はひとまずこれくらいにして先に進みたいが、長くなったので続きはまた回を改めることとしたい。
(調べきれていないところもあり.....)
落款印01

潜口で見つけた印譜 〜徽派篆刻簡介

呈坎鎮からの帰路、「潜口故民居」へ立ち寄った際に、小さな骨董屋で古い印譜をみつけた。表紙がカビて一部腐りかけていて、かなり汚い印象であったが、中の紙は綺麗であった。はじめの数ページに印が押してある。
古い印譜いつの時代かは判然としない。雁皮紙か、上質な竹紙のような雰囲気である。古い紙のサンプルまでに、安かったので購入してみた。帰国してから改めてみると、押してある印は古雅で味わいがあり、使われている印泥の色も良い。
徽州は、篆刻が興隆した土地である。宋代から学術が盛んな徽州では、特に金石学(古代文字、言語の研究)においては全国でもその研究の中心地であった。徽州の学祖とも言うべき朱熹(朱子)以来の伝統と、明代、清朝と朱子学が国学とされたため、特に儒教教育が重んじられたことが背景にある。古い印譜明代中期以降、従来の印工による刻印に代わって、文人による刻印、いわゆる篆刻が発展していったといわれる。この時期に篆刻で名を成した「文人」の多くは金石学の研究者達であった。(現在でも、杭州の西冷印社は中国における金石学の中心地と自負しているように)金石学の中心であった徽州は、文人による篆刻の発祥の地とも言え、”徽派”あるいは”新安派”などとも呼ばれる。古い印譜古代文字を研究する金石学者達は、印についても古代の印章を蒐集、研究しながらその印の書体に反映させていった。

古印を研究する際に、重要な資料として「秦漢印統」がある。この編纂に羅小華の息子、羅王常がかかわっているらしい。「らしい」というのは、本当に羅小華の息子なのか、判然としないところがあるからである。
罪を犯して一族処刑されたはずの羅小華の息子が、なぜ生き残っているのか?まったくもって謎である。羅王常は、連座を免れるために改名までしているというが、改名程度で逃れえたのか。
この古印研究の必須の書である「秦漢印統」の成り立ちを追ってゆくと、実は羅小華の運命やその子孫のその後について、明らかになってくるだが、それはまた別の機会に述べたいと思う。古い印譜日本では、篆刻といえば、北の斉白石か南の呉昌碩か、あるいは呉熙載(1799〜1870 )かといったところであるが、その源流をたどると(斉白石を除いて)みな徽派篆刻にさかのぼることが出来る。
呉昌碩や呉熙載、また特に呉大徴(1835〜1902)はみな金石学の研究者であったことを思い合わせていただければと思う。古い印譜この印譜、印風がそろっているので、持ち主が刻した印を集めたものかもしれない。ひとつひとつ調べながら、あれこれと推理するのも楽しみである。
落款印01

徐渭「応制咏墨詞」

蘇州博物館は2年程前に、リニューアルしている。写真はその周辺の街路の様子である。蘇州博物館周辺この時は8月の暑い最中であったが、休日の人出でにぎわっていた。蘇州博物館周辺新しい白い壁が博物館の外壁を延長して続いているが、蘇州の町の雰囲気には似つかわしいものである。蘇州博物館周辺博物館周辺も整備が進み、大きな古玩城(骨董市場)が出来ている。

蘇州博物館には、徐渭の「応制咏墨詞」がある。
縦3.52m 幅1.02mにもおよぶ巨大な書である。
蘇州博物館を訪れた際に現物を観たが、まさに鬼神の書としか思えぬ迫力であった。残念ながら蘇州博物館内は撮影を禁じられていた(それが普通だが)。あまり良い画像ではないが、日本では掲載されている書籍が少なかったと思うので、一応画像をUPする。
徐渭咏墨词轴(蘇州博物館蔵)(クリックして拡大 縦の長さ800ピクセル)
條幅などの作品を書かれたことのある方であれば、縦3.5mもの紙面にこれだけ気力を横溢させ、かつ構成に破綻なく書き下す力量が、尋常一様のものではない事がお分かりになると思われる。
また剣術に通じていたという徐渭の雷光の如き運筆を想起せずにはおれない。筆線は変転しながらところどころに飛白を生じ、千変万化して極まるところがない。

書かれている詞は以下の通り

侯拜松滋,守兼楮郡,絳人品秩多般。
竜剤犀膠,収来共伴灯烟。
煉修依法,印証随人,才成老氏之玄。
是何年,逃却楊家,帰向儒辺。
紅絲玉版霜毫畔,苦分分寸寸,着意磨研。
呵来滴水,幻成紫霧蛟蟠。
有時化作蒼蝿大,便改妝道士衣冠。
向吾皇山呼万歳,寿永同天。
応制咏墨

試みに書き下せば

侯、松滋(しょうじ)を拝し
守、楮郡(ちょぐん)を兼ぬ
绛(こう)、品秩(ひんちつ)に入り、多般
龍剤犀膠(りゅうざいさいこう),
收め来たり共に伴う灯の烟因(えんいん)
煉修(れんしゅう)すること法に依り
印証(いんしょう)、人に随ふ
才(わづか)に成す老氏の玄
是れ何れの年か,杨家を逃げ却(しりぞ)けて,帰りて儒辺(じゅへん)に向かわん。
紅絲(こうし)、玉版、霜毫(そうごう)の畔
分分寸寸に苦しむ
意を研を磨(ま)するに着け、
呵来(からい)して水を滴(したたら)せば、
紫の霧、蛟蟠(こうばん)を幻成し
時に化して青蠅の大と作(な)る有り、
便ち妆(よそおい)を道士の衣冠に改め、
吾が皇に向かい、
万歳を山呼す,
寿、永(とこし)えに天と同(おな)じうすと。

この詩は一読して理解するには、様々な文房四寶の知識と、当時の社会情勢、徐渭の政治的立場を知っている必要がある。文房四寶を歌った唐代以降の詩文を一通り読んでいないと、何を言っているのかすら分からないと思う。
この詩には、徐渭こと徐文長の当時の政治的姿勢がよく現れているのである。この「応制咏墨詞」が作られた時期は、あるいは胡宗憲の幕僚であった時期に近いと考えている。ただ、胡宗憲の失脚の先なのか後なのかはまだ思案中である。
次回は訳出をこころみながらその理由を述べようと思う。
興味を持たれた方がおられれば、一度考えてみるのも面白いかもしれない。

(つづく)
落款印01

構想の瓦解 〜胡宗憲の失脚と死

写真は黄山市郊外、休寧県万安鎮に残る徽州の豪商朱家一族の邸宅である。小高い丘の上に、塔を中心として一族の邸宅が集落を成している。この邸宅の軒の連なりに、この地方特有の宗族による結びつきの濃厚さが感じられる。
朱家遺構明代から清朝にかけての徽州派建築の姿を良くとどめている。同時に、徽州商人の経済力の大きさが伺えるのである。朱家遺構厳嵩の息子厳世蕃の乱脈な生活ぶりは、のちに書かれた「金瓶梅」の主人公、西門慶のモデルとして、その物語の中に反映されていると言われる。この厳世蕃に羅龍文は大いに接近していたのであるが、羅龍文なりの商略があった一方、富家出身であった羅龍文と厳世蕃の奢侈好みと侠気とが、妙に一致してしまったのかもしれない。
朱家遺構金瓶梅の舞台は山東省と、物語の冒頭で断られている。が、西門慶のモデルは徽州商人の呉天行であり、会話の中に徽州方言も散見されることから、本当の背景は徽州の商家であるという(強引な)説もある。(その説に基づき、黄山市には「金瓶梅」のテーマパークが建設されている。が、金瓶梅のテーマパークは山東省にもあり、論議を呼んでいる。)朱家遺構またちなみに「金瓶梅」の作者、”蘭陵笑笑生”は今もって謎の人物であるが、早くからそれは徐文長であるという説がある。(また後述の汪道昆の作という説もある)
羅龍文こと羅小華の墨は、後に神宗が酷愛し、為に明代における羅小華の墨の評価が決定付けられた。この神宗が愛した羅小華の墨は、あるいは罰せられて没収された、厳嵩・厳世蕃の私財の中に含まれていた物かもしれない。

胡宗憲の指揮下には、戚家軍を率いた戚継光や、杭州出身の兪大猷といった歴戦の名将を擁しており、武力面では相当に充実していた。また後に、歙県出身の汪道昆も福建から救援に駆けつける。彼もまた、後世名将の評価が高い人物である。それまで浙江よりも南の福建を中心に、対倭寇戦で活躍していた。尚、彼等は武将といっても武辺一辺倒ではなく、それぞれが詩人、文学者としても名を残しているのである。(後に汪道昆は、明代墨匠の双璧、方于魯や程君房と深いかかわりを持つことになる。)
武術と軍略に長けた徐文長といい、当時の士大夫達は、単に「文人」「武人」という言葉では括ることが出来ない能力と性格を有していたことを、忘れてはならないだろう。

嘉靖三十七年、胡宗憲が舟山群島で捕えられた白鹿を皇帝に献上した際に、徐文長は「白鹿を献じる表」を作り、これが嘉靖帝の賞賛を得、徐文長の文名は大いに高まった。また胡宗憲の戦勝報告は、徐文長の入幕後、すべて彼の手によって書かれたという。その戦功と名文とが相まってか、胡宗憲にたいする嘉靖帝の信任は、以後非常に厚いものとなっていった。また王直による、他の倭寇頭目への懐柔や誘降も奏功しつつあった。
厳嵩、厳世蕃親子が朝廷にあって政治工作を行い、胡宗憲が現地を統括し、王直、徐海等海商たちが交易の実務を担当すれば、徽州を索源として、壮大な物流と交易のネットワークが形成されたことであろう。
しかし、海外交易と商業主義の伸張に危機感を覚える官僚一派によって、その構想は掣肘を余儀なくされる。権勢を振るった厳嵩も、この頃すでに八十歳の高齢に達し、老齢から政治的な判断力は衰えていたといわれる。加えて息子の厳世蕃の奢侈を極めた生活ぶりも、世人の怨嗟の種になっていた。
胡宗憲への投降後、明朝側にたって対倭寇戦に協力していた王直が、結局は倭寇頭目としての罪を問われることになる。嘉靖三十八年、王直は杭州で斬刑に処される。胡宗憲はその処刑の場に立ち会ったというが、胸中どのような思いであっただろうか。
また同じく一旦は降伏した徐海も、これがために疑心暗鬼に陥り、再び独立を画策する。やむなく胡宗憲は討伐に乗り出し、徐海は攻められて敗死する。海上交易における重要な足がかりを失った胡宗憲であるが、嘉靖三十九年に世宗から対倭寇戦の功績を評価され、太子太保(皇太子の教育係)に任ぜられる。
しかし嘉靖四十一年、度重なる弾劾を受けた厳嵩の失脚によって、胡宗憲の構想は完全に頓挫する。収賄その他の十余の罪状を鳴らされた厳嵩は戸籍を抹消され、私財は没収される。その息子厳世蕃は特に皇帝の怒りを買い、逮捕され市場で処刑される。このとき厳世蕃に接近していた羅龍文も連座して斬刑に処された。
一説には羅龍文はこのとき逃亡し、以後行方不明になったという話もある。が、羅龍文の息子の羅王常が改姓して郷里を逃れたこと、また羅龍文の郷里、歙県の「羅姓」の家々は為に震撼したという記録が残っていることから、刑に服したというのが本当のところであろう。
羅龍文の家から胡宗憲の私信が見つかったことから、胡宗憲も収賄への関与を疑われ逮捕される。が、この時は皇帝世宗が「宗憲は厳党に有らず」と胡宗憲を庇って一旦は釈放される。
そして嘉靖四十三年、任を解かれて郷里に帰るも、翌年には倭寇との癒着を指弾され、再び投獄される。そして遂に獄中で自殺(食を断った。病死・他殺の説もあり)してしまう。時に胡宗憲は五十四歳。

徐文長は一貫して厳嵩や厳世蕃親子に対しては距離を置いた姿勢をとっており、そのことが彼を一連の粛清から救ったともいえる。しかし、徐文長自身は、個人的には胡宗憲に私淑すること篤かったようである。自らが強烈に自負する才能が、胡宗憲の企図した壮大な構想の中で生かされることを、あるいは望んでいたのではないだろうか。
胡宗憲が京師の獄中で自殺したとき、徐文長が受けた衝撃の深さは計り知れない。軍略、策略のような、極めて危険な能力は、それを十二分に発揮できる環境になければ開花することはないのである。徐文長にとって胡宗憲はそのような環境を与えてくれる、最高の理解者であったに違いない。それが全て失われたことは、あたかも歌い手が声を奪われるに等しい、それは喪失感ではなかっただろうか?
後年、徐文長は徽州を訪れ、胡宗憲の墓を弔っている。

(つづく)
落款印01

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