ラオスの壽山石?

壽山石が高騰を続けていたのは、昨年あたりまでであった。印材、とくに古印材よりも新印材の方が値段の上昇が著しかったことに、近年の印材相場の特徴があった。
印材は文房四寶には入らないが、それに準ずるものである。もし”文房八寶”を選べば、印泥などとともに、印材もこれに入るべきものかもしれない。古代の青銅器や文字を研究する、金文、金石学から派生した篆刻という業は、文人趣味にあっては比較的新しい分野である。しかし落款印は書画に欠かせないとあって、今や重きをなしている。ゆえに印材蒐集の趣味というのは、本来は篆刻や書画に嗜みのある人士の趣味なのである。
ところが近年、印材を篆刻材料としてではなく、宝石に準ずる貴石として愛玩する向きが強くなった。書画の素養がなくとも硯の蒐集に興味を持つのと同様であるが、印材に於いてはよりその傾向が甚だしかった、といえるかもしれない。書画や骨董にまるで興味が無くても、単に美しく価値が高い(また価格が騰がる)という理由だけで印材を蒐集する者が、大陸に於いて急増したのである。特に田黄は希少性から高騰を呼んだ。投資目的での蒐集がこれに加わり、手の付けられない様相を呈するに至っていた。

ちなみに”印材三寶”といえば、田黄、芙蓉、鶏血、であるが、芙蓉も鶏血も、田黄ほどの盛り上がりは見せなかった。察するに鶏血は贋物が多く、また芙蓉のような白い石は鑑別が難しい、という事情もあっただろう。翻って考えれば、昨今の大陸の印材の蒐集というのは、鑑別に於いてさほど水準の高い物ではなかった、と言っていいかもしれない。
蘿蔔紋や紅筋が出ていなければ田黄ではないとか、田黄はわかるが田白(でんぱく)はわからない、田黄凍をみてもわからないといったような、昔から印材や古印材を扱っている者からすれば、冗談としか思えないような話もよく耳にされるものである。

大陸における近年の印材愛好は、文人文化とまるで関係のない趣味性であるから、印材は新しい方が良く、大きく、純粋で傷の無い物が高く評価されるようになっていった。あるいは高名な彫師が獅子を彫った印材とか。昔の文人が掌中で愛玩したような小さな石は見向きもされない。それも寂しい話だな、と思っていた。
それが昨年の後半あたりから、拍売(オークション)などでも古印材が注目されるようになった。いよいよ文人趣味に目を向け始めたのかとおもっていたら..........どうもそういう事では無かったらしい。新印材よりも古印材が評価されるようになったのは、相対的に古印材よりも新印材の評価が下がる、ある事情が作用していたようだ。それが福州路の博印堂で見せられた以下の印材。
ラオス壽山ラオス壽山一見、壽山石の桃花凍ないし芙蓉系の石のように見えるが.......この印材の産地はなんと”ラオス”なのだという。ラオスは現代中国語で老挝、あるいは「寮国(Liaoguo)」とも言われるが、この石は老挝石ないし老挝壽山と言う名で通っているという。ここに挙げたのはその一部にすぎないが、さらに良質な材もあり、また中には田黄にそっくりの石もあるという。恐るべきことに”皮”もちゃんとついていて、壽山の田黄と同様、田んぼの中に落ちた石が年月をかけて醸成されるという。
ラオス壽山このような石が出てきたおかげで、新印材は信用できないという事になり、古印材にふたたび目が向けられるようになっているのだという。それでも古印材よりはるかに多い新印材の相場は軒並み暴落したから、古印材を含めて印材市場は全般的に凋落傾向にあるようだ。
ラオス壽山篆刻家でもある博印堂の主人が試しに彫ってみたところ......ちゃんと彫れるという。壽山石よりはやや粘りがあるが、印材として悪い石ではないという評価だ。それを聞いて喜ぶのは、篆刻で生計を立てているまっとうな篆刻家くらいなもので、投機や投資目的で印材収集、それも新印材に偏って蒐集していた人は嘆いているだろう。
篆刻家にしてみれば、既存の印材の高騰や枯渇は死活問題であるから、新しい良質な印材が発見されたというのは、長期的にみれば喜ばしい事である。それでも、印材の高騰を支えていた大部分の人は篆刻などやらないから、印材の相場は暴落と言っていい傾斜を見せている。
おもえばダイヤモンドやルビーなどの宝石類も、新しい鉱脈が発見されると一時的に相場が下がる事がある。ルビーはミャンマーやタイ、カンボジア、スリランカ、ベトナムなどに産するが、ミャンマーの物が一般的に上質とされ価格が高い。とはいえ、他の産地に価値が無いわけではない。老挝石といえど、見どころがあり印材として優れていれば高く評価されてもおかしくは無いだろう。
ラオス壽山少し先の将来を見越して、良質な老挝石を買いに走る......そういう者もいるかもしれない。ただ、印材に限らないが、大陸の資産インフレの時代も、はや曲がり角に来ているのも事実である。印材に投資していた者達は、印材が”騰がる”と信じていたからこそ買いに走っていたのであり、今回の暴落で肝を冷やし、そうそう手を出すことはないかもしれない。ようはカネとおもえばこそ”可愛い”のであって、印材や篆刻文化そのものを愛好する素養などハナから無いからである。
今後どれくらい産出するかわからない老挝石が、どのような相場に落ち着くかは不透明である。また壽山石など、既存の印材の相場に関しても、先が見えなくなってきた。凋落著しい大陸の不動産相場と同様、現在の中国は”資産デフレ”の入り口に来ているからである。かつての日本と同様、幻想と熱狂が作り上げた資産価格が、実勢の価格に向かって収斂してゆく過程である。

しかし相場の暴落は炒客(投機家)からすれば終わりに過ぎないが、目の肥えた愛好家からすれば、これは”買い”のチャンスである。
端溪も、坑洞が閉鎖されたことで硯材が枯渇し、価格の上昇が止まらない状況であるが.......いつかベトナム老坑とか、ミャンマー水巌などが出てくることがあるだろうか?
その時はその時、なのである。もしそれが、端溪の硯石を凌ぐほど優れていたのであれば、それはそれでこの世界に楽しみが増えて結構な事ではないだろうか。
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李耘萍印泥

印泥の重要性


市場に印泥の良いものが少なくなった。大陸では、普通に店頭で販売されている印泥は質を落としている。色がさえないし、劣化退色するものも少なくない。あるいは柔らかすぎ、すぐに油が分離してしまう。

書画を見るとき、落款印を見るのはひとつのポイントである。印が良い事も大切だが、印泥の色、質も見る必要がある。大陸の現代書画バブルもひと段落した格好であるが、濫作された現代作家の作品の落款印の中には、ろくな印泥を使っていないものを多く目にしてきた。
押したときはそれなりに”紅(あか)い”色だったのだろうが、数年を経ないうちに退色してしまっている。あたかも血痕が赤黒く変色したような、何とも言えない嫌な色に成り下がっているのである。そういった書画を買ってしまった人こそ悲劇である。このような”劣化の早い”作品が、後世高く評価されることはまずないからである。

経験のある美術品のコレクターは、美術品、古美術品を選ぶ際に”クオリティー”を重視する。作品に表現されている内容以前に、作品を構成する材料の品質や、その使い方が適切かどうか?というところを見るのである。コレクターや愛好家は、何年も収蔵して楽しんだ後は、手放してほかの作品を買うなりして楽しみを続けることが多い。その際に”劣化”しているような作品は、そもそも収蔵する価値が無いのである。一見古く見えたとしても、それが経年によるものか、そもそも悪い材料が劣化した結果なのか、その見極めも出来なくてはならない。
無論、”劣化”は作品の風采を直接的に損なう。作品を買う側ではなく、作る側の立場から考えても、早く劣化するようでは、数年、十数年、数十年先のその作家の評価も高いものにはならないだろう。早いうちから材料に意を用いない作家というのは、将来の成功もおぼつかないのである。それは紙や墨、絵の具の質に至るまで同様のことである。

悪い印泥を使うと、わずか数年で劣化して、多くの場合赤黒くなる。日本の表具店で額装した場合、最近は紫外線カットのガラスやアクリルでカバーされているため、劣化が起こりにくい。しかし大陸の額装の多くは普通のガラスをはめているだけである。太陽光線の差し込むところ、また蛍光灯の近くに飾られていたら、紫外線の影響で悪い印泥はみるみる劣化してしまう。
かなり有名な作家の作品であっても、印泥を見ると”残念”ということも少なくないのである。
書画家は自分の作品に押すのでまだ良いかもしれないが、他人の作品に収蔵印なり題跋を書いて印を押すなどする場合、質の悪い印泥を用いるのはまさに破壊行為である。古い書画を善くみる蒐集家の場合、かならず古い印泥、ないし現代の製品でも良い印泥を持っているものである。古い印泥が良いのは、色が良い事も理由であるが、年数が経過して劣化していないのだから、安心して押せる、というわけである。

良い製品もあるが....


70年代 北京一得閣 八寶印泥麗華斎 八寶印泥かつては福建省の”漳州麗華齋”がもっともよいとされ、また”杭州西泠印社”、また江蘇省常州の”?玉堂”を合わせて”三大印泥”と称されていた。他に”蘇州姜思序堂”、”微州益壽堂”、”北京栄豊齋”等も良い。しかし現代の製品については、よくわからないところがある。
印そのものが作品である篆刻家などは、常々良い印泥を探しているものである。篆刻を専門としない人は、知り合いの篆刻家に現在良い印泥は何であるか?聞いて選択したほうがいいかもしれない。小生も篆刻はかじった程度しかやったことがないので、現在の良い印泥については知友の篆刻家に聞くことにしている。

大陸の文房四寶は値上がりが続いているが、印泥の値段も良い品ほど高いものになっている。数年前から墨匠は朱墨の原料である水銀化合物、”朱砂”が高騰しているとこぼしていた。印泥も同じ”朱砂”を原料とするため、値上がりは避けられないのかもしれない。
無論、安価な印泥もあるのだが、質は保証の限りではない。やはり色が良く、固さも適度で安定性のある印泥となると、ある程度の値段はしてしまうものなのである。
数十年経過して退色していない印泥であれば安心であるが、そういった品も今やなかなか見つからないものである。

李耘萍印泥


小生は70年代の一得閣の八寶印泥や、同じく70年代の漳州麗華齋を常用していたが、同じものは現在求めがたい。何か良い印泥がないかと探していたところ、上海の博印堂の主人に勧められたのが”耘萍潜泉印泥”である。
この印泥を作っているのは、上海呉氏潜泉印泥三代目の継承者、李耘萍女史である。上海耘萍工藝品有限公司を設立し、印泥を制作、販売している。
上海は近代になって勃興した都会と思われがちだが、「松江」と言われた明代の終わりから、いわゆる「海上顧氏」を中心とした古印や篆刻の研究が盛んな土地である。出版された印譜としては最古の「顧氏集古印譜」も、海上の顧従徳が編纂したものである。蘇州や杭州と連絡しつつ、長きにわたって江南篆刻界の中心で有り続けた。また古い書画の蒐集にも熱心な土地柄であったから、勢い優れた印(収蔵印用途)、印泥の需要が高かった地域なのである。

”潜泉印泥”の創設者、呉隱は字を石潜、号を潜泉といった。浙江紹興の人である。書画に巧みで、篆刻や碑刻を良くした。古印をあつめた「古今楹聯匯刻」を編纂している。またその婦人の孫織雲女史も篆刻に巧みであった。
呉隱は1940年に杭州で西泠印社を設立が設立された際、呉昌碩や丁輔等とともに中心メンバーの一人であった。また呉昌碩氏の指導の下、呉潜泉は妻とともに印泥の制作に取り組み、優れた印泥を作り上げた。その製法は呉潜泉の息子夫婦に受け継がれ、かの李耘萍女史は三代目、ということである。
上海福州路にある博印堂はその名の通り、もともとは篆刻用品の専門店であり、主人の趙正範氏は上海でも著名な篆刻家である。趙氏のみならず、この店には多くの篆刻家、書画家が集まるのであるが、彼らの間で愛用されている印泥でもある。

李耘萍女史は高式熊の名を冠した印泥でも知られるが、値段やオーダーに合わせていろいろな色、配合の製品をつくっている。高価なものだと1両(約30g)で数千元のものまであり、ひとくちに「李耘萍印泥」と言っても、いろいろな価格帯の製品がある。また普通の「潜泉印泥」とは品質も(価格も)別格である。
小生も数年前から使っているが、色に安定感があり、朱磦には古い時代の印泥のような色の明るさと沈着な趣がある。いろいろな場面に使用できるので、入手難になった古い八寶印泥などに代わって、もっぱら李耘萍印泥を使うようになった。また知友の篆刻家、高黄鵬氏も作品用に愛用していて、いつも渡航するたびに購入を頼まれていたものである。
現在の日本の市場では、どれが良い印泥なのかわからなくなっているような現状がある。確実に良い、安心して使える印泥も必要であろうと考え、今回入荷することにしたのである。

博印堂印泥


博印堂 李耘萍印泥入荷を考えたのは、李耘萍印泥の中でも博印堂が特注した「博印堂印泥」である。それも今回は朱磦(シュヒョウ)に限っている。日本人はどちらかと言えば美麗や光明のような、赤味の鮮烈な色を好むようで、展覧会でも美麗を押している作品を多く見かける。ただ、古い時代の書画の印泥の色はもう少し明るい、朱色に近い色をしている。こうした色の印を押した方が、落ち着いた古雅な趣が出て良いかもしれない。落款印、題跋、収蔵印に用いて良く、むろん劣化退色するようなことはない。また適度な硬さがあり、繊細な篆刻の刻線もつぶれることなくきれいにおすことができる。(柔らかすぎると、篆刻の線がつぶれやすい)。
博印堂特注の李耘萍印泥は、色味と言い、固さと言い、非常にバランスよくできている。プロの篆刻家も納得の印泥である。一般的な印泥よりは少し値が張るが、李耘萍女史の製品の中では手頃な方である。また篆刻作家でなければ、それほど印泥を消費するという事はないものである。書画をたしなむというほどの方であれば、文房にひとつくらい、良い印泥があっても良いのではないだろうか。

ご希望の方には色見本を


今回は容器のみで、印泥の色を特に掲示していないのは、曇っていて撮影のコンディションが悪いからである。太陽光に含まれる、赤い光の波長は曇天や大気中に水蒸気が多い日は、雲に遮られて地上に届かない。印泥など、赤い色味のモノの見え方がさえないのである。今週末も天候が悪いというから、しばらく商品写真も撮影できないかもしれない。晴天をねらって撮影を試みる。もっとも、写真の印象と実際の色味はまたズレがあるものであるが。希望の方には押印した色見本のサンプルをお送りする予定なので、お申し付けいただければ幸いである。
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扇と筆墨

省エネ、ということで今年の夏は「扇子」が流行るんじゃないかと言われている。じゃあ小生も.....と行きたいところだが、扇面に使用する加工紙は試作が終わったばかりである。「古今奇観」に出てくる男ではないが、商品を準備しているうちに夏は過ぎてしまうだろう。
金陵扇に書く金陵(南京)の王氏のつくった金陵扇をもって老師のところへ行き「ひとつ涼しそうなのを.....」と揮毫をねだった。この金陵扇も良い扇であるが、扇面に使用されている加工紙を、もう少し良い紙が出来ないか考えている。無論、金陵扇に使用されている紙も、当代では吟味された特注品なのではあるが。
酒宴においてさりげなく開かれた扇面、その表の筆跡が祝枝山、しかも新作の詩であり、また裏には唐寅の画でも描かれていたら、それだけで、都の人士の耳目をそばだてずにはいられなかったことだろう。あるいはそれが名妓の筆跡ということもあったであろうし、陰士や高僧のそれであっても、自らの交際を雄弁に物語るのである。
士大夫の社会において、扇面が社交や交際のメディアとして果たした役割は重要であっただろう。扇面が書画の様式のひとつとして、定着している事実からもそれがわかる。また扇面にかけられた、並々ならぬ工芸上の工夫の数々がそれを感じさせるのである。
扇面に使用される紙は、ある程度の丈夫さが要求される。また湿気や多少の水滴などでは、破れたりしないことも必要だっただろう。吸水性の抑制した、加工紙が使用されなければならなかったのである。また揮毫に使用する墨や顔料も、開閉や湿気によって剥落しないものが求められただろう。吸水性がほとんど無い紙にしっかりと定着するには、かなり強力な媒材、ここでは膠を使用する必要がある。鉱物を粉砕した顔料に混ぜる膠にしても、墨に使用される膠にしても、精選されたものが使用されたであろう。
金陵扇に書く扇面に書くには、相当に墨を濃く磨らなければならない。充分に磨った後、しばらく置いて水分を蒸発させ、さらに濃度を高めることもある。艷や定着を強めるために、膠を磨り足してやっても良いだろう。やや粘りを感じるくらいの墨でも、扇面に使用されている加工紙では筆を取られることがない。
扇面を書く事は、詩文をこととする士大夫の仕業といっても、工芸的にも相当に繊細な技術が要求されていることがわかる。職人仕事を軽視したという、儒教倫理の価値観があったにせよ、工芸技術とまったく無縁のところで扇面を書いていたわけではないのである。
明代を通じて折扇が流行し、明代後期にはその最盛期を迎えたが、なかでも洒金箋や金箋を貼った扇面は貴ばれている。金があれば銀を、ということで銀箔を貼った扇面も作られたかもしれないが、いかんせん銀は黒く酸化してしまう。そこで雲母箋がある。
雲母は紙の上に撒いただけでも、文字通り「キラキラ」とした華奢な光彩が加わる。しかし雲母を何層にも繰り返し紙に塗布し、満遍なく敷き詰めることで、白銀色に近い光沢を帯びるようになる。ちょうど金箋と対になるような、銀色の紙になる。しかも雲母は酸化退色することがないのである。
雲母を敷いた紙は、金箔を貼った紙と同様、吸水性が著しく抑制される。また紙の表面は極めて滑らかである。この雲母箋に油烟墨を用いた場合、紙そのものの光沢が、墨を通じて表に表れるようになる。いわば墨の艷を背面から紙が支持するのである。

扇面に濃墨で書くときは、よくよく乾燥するまで扇を閉じてはいけないのはもちろんである。濃い墨というのは乾きにくい。折扇に書くと、谷のところにどうしても墨溜りが出来てしまう。短気を起こして閉じたら最後である。1日くらいは置いた方が良いだろう。また充分に乾いた後も、湿気の多い日などは、時折開いて風を入れた方が良い。
精良な加工紙に用いられた濃墨というのは、その墨色の良否がよく現れるものである。扇子自体が、人間の顔に近づけて使用するものである。勢い、その墨色を真近くでみることになる。またかざしたり、すかしたり、斜めに見るなどして、あらゆる角度から墨色は吟味される。墨色における、いわゆる紫光や青光なども、このような状態で詮議されたのではないだろうか。
明代後期、程君房や方于魯が活躍した時代は、優れた墨匠の墨であれば、たとえ非常に小さな墨であっても、金や銀の何倍もの価格で取引されたといわれる。実際のところ、扇面1枚を書くのにそれほど多くの墨は要しない。そのような墨が必要とされる用途が、当時存在したことを考え合わせなければ、その墨の価格も理解されないだろう。金箋や雲母箋など、高価な加工紙の上で用いられるのであるから、少量の墨が高価であるのは理解出来ないことではない。

さて国を挙げて省エネの夏である。現代の人も扇子を持たぬわけではないが、いわゆる書画を書かれた「扇面」ではなく、絹に彩色を施したものや、予め絵柄がプリントされているものが大半であろう。見た目にお洒落であり、あおいで涼をとる実用性があればそれで良いのかもしれない。しかし折角、筆を執る身であるのなら「扇面」に挑戦してみるのも面白いかと思われる。表を自分が書き、裏を他の人に書いてもらっても良い。落款印も是非欲しいところである。扇面という小さな平面を眺め渡すと、書、画、印、そして詩文が、不可分の関係にあることが実感せらるるかもしれない。またそれらを支えたのが、精良な筆墨硯紙であった。そしてそれらを使いこなす技能は、最終的には社交生活に必要だった時代があったということである。
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文若虚と扇子 〜「古今奇觀」より

「古今奇觀」あるいは「通俗古今奇觀」は、明代後期から末期にかけての説話集である。日本でも古くから知られ、岩波文庫から訳が出ていた(青木政兒校註。絶版)。「通俗古今奇觀」の編著者は「抱瓮老人」というが、もちろん仮名である。その中に、扇を売る男の話が出てくる。説話の一部に過ぎないものの、当時の折扇の流行についてよく語られている箇所なので、ここを三段にわけて読んでみたい。
金扇、洒金扇の例『話説国朝成化年間,蘇州府長洲県阊門外有一人,姓文名実,字若虚。生来心思慧巧,做着便能,学着便会。琴棋書画,吹弾歌舞,件件粗通。幼年間,曽有人相他有巨万之富,他亦自恃才能,不十分去営求生産。坐吃山空,将祖上遺下千金家事,看看消下来。以后暁得家業有限,看見別人経商図利的,時常獲利几倍,便也思量做些生意,却又百做百不着。』
金扇、洒金扇の例「本朝の成化年間、蘇州は長洲県、阊門外に一人の男がいて、姓を文、名を実、字を若虚といった。生まれつき聡明で器用であり、作らせれば出来、習えばたちまち上達する、といった具合であった。琴棋書画や、笛、太鼓、歌に踊りと、それぞれにおよそ通じていた。幼い頃に彼の人相を見て、「巨富の相がある」といった人がいた。彼もまた自らの才能を頼んで、家業に熱心に取り組もうとはしない。こうして“坐して食らえば山も空し”のたとえのとおり、祖先が残した千金の家産を、たちまちのうちに食いつぶしてしまった。そうなって初めて、財産には限りがあることを悟ったのである。そこで他の人々が商売をして利益を図り、いつも元手の数倍の利益を上げているのをみて、自分も同じように儲けてやろうとおもったが、手を出すものみなことごとく失敗するという有様であった。」
金扇、洒金扇の例まずは「文若虚」という人物が出てくるが、「若虚」は字(あざな)であり、名は「文実」である。名と字(あざな)をつづければ「実若虚」であるが、これは「実にして虚の若(ごと)し」ということで、漢語でいうところの「深蔵若虚」の意味だろう。外見は何も才能が無い様に見えて、真の才能が奥底に眠っていることを言う。
この文若虚先生、そこそこに裕福な家に生まれたものの、いわゆる“器用貧乏”なのだろう。生家が裕福であったのを良いことに、一芸を極めることをせずに色々手を出した挙句、どれもほどほどに身についたところで生計を立てるまでには至るものがない、というところだろう。日本でも「唐様で“売立”と書く三代目」という言葉があるが、ちょうど当てはまりそうな人物である。
しかし文中に描かれている文若虚という人物は、明代後期のこの時代を特徴付ける人物像でもあるといえる。明代は北方の異民族の侵入と沿岸部の倭寇の跳梁に苦しめられた時代であるが、明王朝の国家財政が疲弊していった反面、民間経済は史上空前の活況を呈していた。蘇州や杭州などの江南の大都市を中心に都会的な文化が爛熟を極め、多芸多才な人物達が生まれる土壌が醸成されていたのである。
ただし文若虚は、残念なことに「詩文」に優れた才能を持っていたとは述べられていない。そこが読書人として一流と二流以下の境界なのであるが、書画にいかにたくみであっても、文学的素養が高くなければ士大夫の社交の世界では重きをなさないのである。現代のように書も画も専門分化し、詩文など省みられることもない時代からは、想像もつかない価値観のように思えるかもしれない。しかしある意味人文と美術との、幸福な関係があった時代であったといえるだろう。また細分化され、専門分化した現代から見れば「多才」に見えるのではあるが、「武芸百般」と言われるように、さまざまなものに通じているようでも、大きく観ればひとつの道、という考え方があった時代である。
金扇、洒金扇の例『一日見人説:“北京扇子好売”,他便合了一个火計,置辧扇子起来。上等金面精巧的,先将礼物,求了名人詩画,免不得是沈石田、文衡山、祝枝山拓了几筆,便値上両数銀子。中等的自有一様喬人,一只手学写了這几家字画,也就哄得人過,将假当真的買了,他自家也兀自做得来的;下等的无金无字画,将就売几十銭,也有対合利銭,是看得見的。揀个装了箱儿,到了北京。』
金扇、洒金扇の例「あるとき“北京では扇子が良く売れる”と言う人がいた。文若虚はすぐさま一計を案じて、扇子を調達しようと思い立った。贈答品にもちいられるような、扇面に金箔を貼った精巧で上等な品には、それに名人の詩書画を求めたのである。しかし沈石田(周)や文衡山(徴明)、祝枝山(允明)といった蘇州の名家にちょっと筆を振るってもらうだけでも、数両もの銀子が必要だった。中等の品は食い詰めた読書人が、名家にならって書き写したような書画で、ちょっと目にはそれと分からないようなものなら偽物であっても本物として売れた。また文若虚もそのような贋作つくりが出来たのである。下等な品は金箔もなく書も画もなく、売っても何十銭になるかくらいのものであったが、これも値段なりには売れるので、見込みが無い品ではない。それぞれ見合った箱にいれ、ともかく北京へたどりついたのである。」
金扇、洒金扇の例折りたたみ式の扇子、「折扇」が士大夫の間で流行し、定着したのは明代の永楽帝の頃からと言われる。永楽帝は内務府に命じて高麗扇、すなわち折りたたみ式の扇を倣製させ、大臣や官僚達に下賜したことが、大流行の契機になったと言われる。ともかく人がそういうのなら、それなら自分もひとつ扇子を北京へ売りに行こうじゃないかと思い立ったようである。
まずは仕入れと、扇子を買い込みはじめたときに、「上等金面精巧的」とある。あきらかに「金面」というのは、金箔を一面に貼った金箋か、あるいは大きめの箔を散らした洒金箋で出来た扇面であろう。「精巧」とあるのは、扇骨のつくりが凝っていることを指すと考えられる。そういった高価な扇子には、やはり当時有名な名家の手による詩なり書なり画なりを書いてもらい、さらに付加価値を付けて売ろうと言うのである。
そこは当時蘇州のこと、文徴明に祝允明、唐寅に沈周と、詩書画の名手にはことかかなかったわけである。ただし永楽帝が南京から北京に遷都したのは1403年のことである。文若虚は冒頭で明の成化年間の人であるというから、1464年から1487年のことである。北京遷都から半世紀以上経過した成化年間には、折扇が士大夫のお洒落や社交の道具として定着していたことは無理の無い話であろう。しかし文徴明が生まれたのは1470年であるから、成化末期でもまだ二十歳前である。遅咲きの文徴明がここで出てくるというのは、ちょっと無理がある。文徴明より10歳年上の祝允明であっても、北京まで名が聞こえるほどの名声はどうか、というところである。1427年生まれの沈石田は充分可能性があるが、逆にその潤筆料が銀数両で済んだかどうかが疑問に思うところだ。
ただしそもそも中国の昔話というのは、時代考証があまり考慮されていないので、この種の考察はあまり意味が無いかもしれない。というよりも、あえていつの時代か曖昧にしている場合が多いのである。これも一種の「指桑罵槐」であって、昔話に仮託した時世への風刺、批判である場合がある。作者がはっきりしないのも、筆禍を逃れるための手段である。時代考証はさておくとしても、ここでは扇面の等級の高下について、なるほどと思わせる記述が書かれている。
金扇、洒金扇の例『豈知北京那年自交夏来,日日淋雨不睛,并无一毫暑気,発市甚遅。交秋早凉,雖不見及時,幸喜天色却睛,有妝晃尾子弟要買把蘇州的扇子袖中籠着揺擺。来買時,開箱一看,只叫得苦。原来北京歴沴,却在七八月。更加日前雨湿之気,斗着扇上膠墨之性,弄做了个“合而言之”,掲不開了。東粘一層,西缺一片,但是有字有画,値価銭者,一毫无用。止剰下等没字白扇,是不壊的,能値几何?将就売了,做盤費回家,本銭一空,頻年做事,大概如此。』
金扇、洒金扇の例「ところがこの年の北京は夏が来たというのに、毎日小雨が降って晴れることなく、しかもまったく暑さが来ないために、扇の売れ行きはまったくにぶいものだった。秋になると早々と涼しくなり、扇子を使うには時すでに遅しといえども、幸いにして晴天になったことが喜ばれた。お洒落に凝った貴公子達が蘇州の扇子を買求め、扇子を袖の中にしまい、自慢げに頭をゆらしながら街に出歩き始めたのである。ところが売り時が訪れたときになって、文若虚は扇子をしまっておいた箱をあけて一目見るや、あっと叫んで苦渋の表情を浮かべた。もともと北京は七、八月が梅雨の時期である。さらに例年にない長雨の湿気が加わったことで、扇の上では膠と墨の性質が互いに争い、まさに“合して之を言う”(道理ではあるが)扇子を掲げようと思っても、開くことができないのであった。東に紙片がくっついているとおもえば、西はどこかが欠けているといった具合である。これももっぱら書や画が書かれている扇のみのことで、すなわち値打ちのある扇ばかりが、まったく売り物にならなくなってしまったのである。辛うじて残ったのは書もなにも書かれていない下等な白扇のみである。これらは壊れていないとはいっても、一体いかほどの価値があろう?とはいえ残った扇をまとめて売り、なんとか旅費を工面して帰郷したが、元手をすっかり無くしてしまったのである。文若虚のやることといえば、いつも大抵はこんな具合であった。」
金扇、洒金扇の例乾燥した酷暑の北京の夏ではあるが、長雨で気温が低いというのはよほどの異常気象であったといえる。そして寒い夏が過ぎて秋になったところで、扇子の実用上の需要は低下する。しかし暑気は去っても、ひとまず天気が良くなったことで、外出には差し支えなくなったわけである。また扇子は既にお洒落の道具として定着していたのであり、そういうものを欲しがる若者「妝晃尾子弟」は、蘇州の扇子を欲しがったということである。
ところが文若虚が仕入れた扇子を売ろうとしたところ、扇子の墨が長雨の湿気を吸って粘り、閉じた扇面が互いに張り付いて取れなくなったというのである。「合而言之」は孟子の「仁也者、人也、合而言之、道也」からであろうが、つまりは墨や膠が湿気を吸えば、張り付いてしまうのも「道理だが」というところである。
なんともうかつな話であるが「膠墨」という語に注意したい。ここでいう「膠」は墨の膠を言うのか、あるいは加工紙に塗布された膠を言うのかやや判然としない。画が書かれているのであれば、顔料を定着させるために膠が使われていたはずであり、礬砂にも膠がふくまれる。しかし湿気によって膠が粘って紙を接着してしまうと言うことは、紙はもとより墨もまた、膠を多く含んだ墨が用いられたのだろう。また充分な濃墨で筆書されていたことが想起されるのである。更に言えば、膠の効力が切れたような古い墨ではなく、割合と新しい墨であったことも想像される。文若虚がどの程度の墨を用意できたかはわからないが、少なくとも文徴明や祝允明の名も挙がっているのであれば、いずれ徽州の佳墨であったことだろう。
例年にない異常気象に見舞われたとはいえ、北京に滞在中に大切な商品の管理に心が行き届かなかったというところが、文若虚の至らない点である。長期滞在の間、北京で遊びまわっていたのか、雨が止むのをぼんやりまっていたのかは定かではないが、ただ扇子を開いた状態で保管しておけばよかっただけのことである。
書画を書く事に関しては彼自身も素人とは言えないのであるが、紙筆の性質や書画の保存には無頓着なあたり、文若虚の「半可通」ぶりをここで筆墨の性質をからめてたくみに描写しているのである。それでも救いなのは、字も画も書かれていない白扇を売り払い、なんとか旅費を工面して帰郷したことであるが、救われただけに懲りることも中途半端に終わるのである。
「機を見るに敏」という意味ではあながち間違ってはいないし、資金を集め、書画の素養を生かして商品を仕入れ、北京までそれを運ぶのはなかなかの行動力である。しかし若干の不運に見舞われたとはいえ、大事な商品の管理を怠っているあたりは非常にお粗末な話である…..と、えらそうに論評してしまったが、小生とていつ同じようなことをやらかさないとも限らないので、実のところあまり笑えない話なのである。文若虚にしても、マーケティングと商品開発までは悪くなさそうなのであるから、良い補佐役がいれば成功したかもしれない….事実、物語りの後半は文若虚のサクセス・ストーリーである。ただし文房四寶に関係の有る話題はではなく、ここで紹介するには長すぎる話である。
金扇、洒金扇の例「古今奇觀」を編纂した「抱瓮老人」が何者であるかはわからないが、明代も最末期の人であるとされる。文中でも「成化」を国朝と言っているから明代の人物であろうが、あるいは清朝最初期にかかるかもしれない。「古今奇觀」にこめられた時世批判の厳しさからして、明の遺老の作とも考えられるのである。
この「文若虚」の話の冒頭にはさりげなく、明末清初における折扇の流行や、流通の様相を彷彿とさせるエピソードがまとまっている。(ちなみに掲載している金扇、洒金扇の写真はすべて清朝のものである)事実、現代見られる明代後期の名手の扇面には、金扇あるいは洒金箋が使われ、筆書も淋漓とした濃墨が多い。折扇、なかでも金扇の流行は、紙の加工や製墨に影響を与えたことは疑いようがないところであるが、この「古今奇觀」も往事の状況を物語っているようである。
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田黄小景

印材は文房四寶の範囲には入らないのであるが、探さないといけないこともあって、上海では何店舗か印材専門店を見て回ることがある。
「田黄」といえば、印材の王ということで、いやしくも印材を専門にうたっている店なら、幾つかはもっていないと格好がつかないそうな。田黄をショーケースに堂々と展示しているところなんてもう見かけない。金庫にしまっているのが普通だが、頼めばみせてくれない事も無い。買う気なんてさらさら無いのに見せもらった挙句、値段まで聞くというのは随分ずうずうしい話ではあるのだが、これも市場調査の一環である。もちろん、気安く見せてくれる顔馴染みの店に限られるのだが。
田黄小景中にはもったいぶった店もあるのだが、印材好きな店主のいる店というのは、買う気が無くても色々とみせてくれるものだ。そもそもショーケースで展示されている印材も、大きさがあって見栄えがある印材は巴林石や昌化石が多く、寿山石はずいぶんと少なくなった印象である。
一昔前は「なんだパーリンか」といって日本では馬鹿にされていた巴林石も、近頃は大きさのある美材が少なくなり、価格もすっかり高くなってしまった。ほか、広東緑石や西安緑石、東北凍など、二線級とみなされていた印材の高騰が著しい。
田黄小景田黄も硯石と同じで、材が採れなくなってきたころから大きさを惜しんで天然形のまま彫刻が施されるようになる。田黄も重さである程度評価されるから、重量を減らすような意匠も施されない。角柱にカットするなんてもっての他、というわけだ。
まあ、こんな小さな田黄を見せたところで見向きもしない人もいるかもしれないが、これらでもまだ印材に出来るだけ、一応の形にはなっているものである。最近では、穴を通してペンダントやブローチ、ブレスレットなどのアクセサリに加工されたものを見せられたりする。黄い石は幸運を呼ぶ石ということで、身につけることが喜ばれるそうだ。
中国では(おそらく日本でも)硯や墨を好んで集める女性は滅多にいないが、印材は好き、という女性はかなり多い。店主が女性という印材店もまま目にするのである。まあ、準貴石ということで、宝石を愛玩する感覚に近いものがあるのかもしれない。そういうわけで、カケラのように小さく印材にできないような田黄でも、それなりの需要と市場が存在するということだ。
ともかく、硯石にしても印材にしても、限りある天然資源は価格の高騰が著しい。
眺めてため息をつくのがせいぜいであるが、そんな日本人相手でも、ゆっくりお茶を出して印材の説明をしてくれるお店では、ついつい長居してしまうものである。
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筆覘(ひってん)という道具

写真は小さな玉硯にも見えるが、硯面の形状からして、硯というより筆覘(ひってん)として用いられたと考えられる。T.H先生の蔵品をお借りした。筆舐古玉の雰囲気があり、小ぶりだがなかなか可愛らしい。筆舐筆覘(ひってん)は筆点とも書くが、様々な形状がある。卓上において、筆先を整えるために使う。ゆえに筆舐、筆添ともいう。
明代の文震亨(ぶんしんりょう)が著した「長物志」(ちょうぶつし)には「筆覘,定窯、竜泉窯などは倶(とも)に佳し,水晶、琉璃の諸式も,悪くはない。玉片などで作るものは,尤も俗である。」(抄訳)とある。また明代末期、屠隆(とりゅう)の「考槃余事」(こうはんよじ)には文房諸道具45種中、第八位の位置を占めるとされている。文房四寶には入らなくてもかなり重要な道具であったことがわかる。
筆舐筆覘を持つ持たぬにかかわらず、硯面上で筆先を整えたり、あるいは筆鋒を硯縁でしごいて筆の墨量を調整するというのはなるべく避けたい行為である。
硯には鋒鋩があり、その上で筆を擦ればかならず筆先を傷めることになる。特に、仮名や写経に使われる硬毫筆は切れやすく、命毛がすぐに使えなくなる。羊毫はその点やや柔軟で切れにくいが、それでも筆鋒の周囲が削り取られるように筆鋒が減ってゆく。
特に筆覘という道具を求めなくとも、白磁の絵皿で十分であり、私などは是で代用している。ガラスの容器などでも良いだろう。
良い硯でえあれば筆を傷めないという人もいる。が、大西洞水巌(だいせいどうすいがん)などの極めて鋒鋩が微細な硯石であっても、筆を硯面で整えると言う行為は実際好ましいものではない。
筆覘は、清朝に入って端渓石や歙州石などで作られるようになり、硯と若干の融合が進んだ形跡がある。ただ、硯石はわずかにせよ鋒鋩があるため、使用に際してはいささか問題があったような気がする。
筆が早く傷んで消耗すれば、それだけ筆が売れて良いのかもしれないが、資源の浪費に思えてならない。良い筆は正しく大切に使えば長持ちするものである。
消耗を恐れて安価な筆をまとめて買うよりも、「これは」と思う筆に費用を投じたいものではないだろうか。
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