屯溪の民宿

.......屯溪での宿泊は、いつも地元の旅行代理店に勤める、P小姐に依頼している。屯溪の老街に実家がある、生粋の地元っ子なのである。今は一児の母となって、老街近郊のマンションに家族で住んでいる。とはいえ仕事をしている関係上、よくあることだが、ひとり息子を両親に預けていることが多い。それでしばしば老街の実家にも滞在しているのである。
今回、上海の朋友のD君は、彼女を伴っている。現在、杭州の中国美術学院に通うこの女性は、文房四寶に興味があるので同行を希望した、というわけなのである。それはまったく問題ないのであるが、P小姐には私と彼らの分と、二部屋の予約をお願いしたのである。P小姐は地元のホテルはたいてい知っているので、直前の予約であってもほどほどの値段で良い部屋を用意してくれている。今回は少し急であったので、老街の実家近くにある民宿に部屋をとったのだという。

日本でも増加する外国人観光客に対して宿が足りず、ホテルの増設にも限界があるという事で、いわゆる”民泊”が認められようとしている。実のところ大阪界隈では法整備に先立って、かなりの数の民泊が営業しているようである。格安航空会社の普及と、途上国の経済成長のおかげなのか、海外を旅する人は年々増加傾向にあるという。
海外に限らず、旅行者が増えているのは大陸中国の国内旅行も同じことなのであるが、ひとつには高速鉄道や高速道路網の整備によって、交通の便が良くなった、ということもある。特に距離のわりに安価な高速鉄道の恩恵があげられるだろう。そのため大型連休など、ピーク時の宿泊施設のキャパシティがどこの観光地も不足気味なのである。そこで屯溪でも部屋を改装し、民宿を始める人が増えてきた。屯溪観光の中心である老街であるが、老街の住人で若い人は郊外にできた新しいマンションに居を構える傾向にある。空室になった古民居を改装し、宿泊業を営むのである。
昔から安価な宿泊施設としては”招待所”というところがあったのだが、招待所は基本、外国人は泊まることが出来ない。ちなみに宿泊施設の呼称としては、酒店、賓館がいわゆるホテルである。他に旅社、旅館、招待所があるが、民宿というのは最近見るようになった単語である。旅社や招待所は、そこしか宿が無いような小さな町でない限り、外国人は泊まれない、と考えた方がいいかもしれない。
大陸のホテルでも、外国人の宿泊が認可されているホテルと、されていないホテルがある。たとえば上海のような大都市でも、おなじビジネスホテルチェーンでも、認可の有無に違いがあるから注意が必要である。さらにいえば、個人、たとえば友人の家には泊まることが出来ない........という法律があったように記憶しているが、今でもそうであろうか。

その民宿は、まさにP小姐の実家から歩いて30秒かからない距離の、老街小巷の一隅にあった........が、若干の危惧を覚えなくもない。思い起こせば、初めて中国を一人で旅した時、揚州で知り合った地元の人に案内してもらった”招待所”のようなごく素朴な宿なのである。

玄関をあがって二階の部屋に通された.......うーむ、少々簡素であるが.......清掃は行き届いている感じがあるし、wifiも個室シャワーもある。どうせ寝るだけなのであるから、自身はこの部屋でも構わない。まあ、久しぶりに昔の貧乏大陸旅行を思い出しながらの夜も良いものである.......と思ったのであるが、彼女を伴ったD君はどうであろう。案の定、二人して難色を示している。D君一人であればこの部屋でも問題ないとしたであろうが、彼女に気を使っている様子。D君の彼女も別段気取ったところもなく、素朴でさばけた人なのであるが、せっかくの旅なのである。
P小姐は、D君が連れてくる友達が女性であるとは思っていなかったらしい。急いで近くの他の民宿を探してくれた。ほどなくして、この”招待所”から50歩あるくかどうかの距離に、別の民宿を見つけてくれたのである。今後の参考までに部屋を見せてもらうと、古民居の味を残しつつ、家具照明等等、モダンなしつらえである。なるほど、これなら悪くはないだろう。

さて、食事が終わって夜の11時くらいに宿に戻ったのであるが、休む前に水を買っておこうと思い立った。ところが玄関の扉が堅く閉ざされている.......外に出ることが出来ない。玄関でしばしば思案しているとこの宿の老板が出てきて、何か必要か?と聞く。水がほしいというとポットを持ってきてくれた。沸かせば飲める、ということらしい........外出したいというと、門限があるから明日にしなさい、という。これには少々閉口してしまう。
まあ、しいて外出したい用件があるわけでもないが、朝まで部屋を出られない、というのはやや窮屈なおもいを抱かざる得ない。防犯上の事であるからいかんともしがたいのであるが.........この部屋で一泊60元というのは、安価なのであるがその分制約もあることである。ともあれ、空調はきちんと稼働しているし、朝シャワーを浴びようとしてもちゃんとお湯が出たから問題は無い。1月の屯溪、とくに老街の朝夕はひどく冷えるのである。ひとつには石材を基礎とした建造物が、冷気をため込んでしまうからかもしれない。屋内で燃料を燃やすストーブを置いている家などほとんどないが、せめてエアコンの暖房が無いと過ごしきれない。地元の人はほとんど暖房の習慣が無く、夜は早々に布団にくるまって寝てしまうのであるが。

私が泊まったこの招待所、はたして外国人の宿泊が大丈夫なのか?疑問に思うような宿なのである。記帳もノートに名前とパスポート番号を書いておしまい、である。地元で近所のP小姐が保証人のようになっているから、これはこれで大丈夫なのかもしれない。
ひさしぶりに泊まった”招待所”には、一種のなつかしさを覚えたものであるが、次回はそう、もう少し雅味のある古民居風の宿を頼もうかと思う。
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斉雲山の梨

.......徽州の斉雲山に登った時の事。麓から山林にはいってしばらくし登ったころ、山中の小集落を過ぎようかというところの路傍で、ちょこなんと腰を下ろした痩せた老婆がいる。老婆の前にはいくつかの籠がおいてあり、野菜や果物がはいっている。日焼けした肌に蓬髪を束ねている。山中で暮らす農婦なのであろう。小生の姿をみとめると、手招きして籠の中身を見せるのである。じつのところ、きつい方言としわがれた声で何を言っているのか聞き取れなかったのであるが、言わんとすることはわかる。
斉雲山の梨
水以外に何も携帯しないまま登り始めてしまていたので、ここで何か食べ物を買っておくのもいいだろうと、籠の中を見た。見ると、不ぞろいな恰好の胡瓜がいくらか。またよく使いこまれた、きれいに編まれた竹籠の中にスモモがある。それに梨、があるのであるが、これがなんとも小さい梨である。ほぼスモモと同じくらいの大きさである。
おそらくは斉雲山に登る人の、喉を潤す食べ物を売っているのであろう。胡瓜もいわば飲料の代わりなのである。
斉雲山の梨
山奥のスモモはさすがに酸っぱい、あるいは渋みを強いかもしれない。無難に見えた小さな梨をいくつかほしいというと、老婆はひと籠全部を袋に入れようとする。さすがにそんなにいらないと言うのだが、耳が遠いのかなかなか伝わらない。ともあれ10個ほどを買って袋に入れてもらう。お代はひと籠10元、ということなので10個で幾らになるか、老婆は少し困った顔していたのであるが、かまわず10元を渡すと、再び山道を登り始めた。ひとつ梨を取り出してかじると、少し皮が厚く、ガリガリとした歯触りである。しかし香りがよく、甘みもなかなか強い。

中国の梨は、日本原産のいわゆる和梨とやや違っている。鴨梨という、少しとがった皮の薄い、酸味のある梨を見ることが多い。日本の梨でいえば、二十世紀梨に近いような味である。
しかしこの小さな梨は、日本で昔良く出回っていた、長十郎を小さくしたような梨である。そういえば長十郎梨は、よりやわらかく果汁の多い、豊水や新水のような梨にとってかわられたのか、最近は姿をみない。その意味では懐かしい味である。
斉雲山の梨
登山中に2〜3個ほども食べたであろうか。夕方下山して屯溪に戻り、朋友に梨を見せると、屯溪にずっと住んでいる朋友もこんなに小さな梨は見たことが無いという。「へえ斉雲山の梨?きっと霊験あるわよ。」というので、残りは朋友に進呈した。斉雲山の稜線上の集落では、やはり小さな霊芝も売られていた。この不思議なほど小さな梨も、なるほど霊芝が採れるほどの山中ならではなのかもしれない。

盛夏の時候に登った斉雲山へは、また季節を選んで登ってみたいと考えている。しかし山道で、再びあの老婆に会うことが出来るであろうか。あの小さな、甘い梨をまた食べてみたいと思っても、おそらく二度と目にすることは無いのではないだろうか。概して不思議な果実とはそうしたものであろう。
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「蘭雪茶」 〜(明)張岱「陶庵夢憶」

先に徽州の高山茶で少し触れたが、明代末期、張岱の「陶庵夢憶」に『蘭雪茶』という、茶に関する一節がある。

日鑄者、越王鑄劍地也。茶味棱棱、有金石之氣。歐陽永叔曰“兩浙之茶、日鑄第一。”王龜齡曰“龍山瑞草、日鑄雪芽。”日鑄名起此。
京師茶客、有茶則至、意不在雪芽也、而雪芽利之、一如京茶式、不敢獨異。

日鑄(じっちゅう)者は、越王(えつおう)鑄劍(ちゅうけん)の地なり、茶味は棱棱(りょうりょう)として金石(きんせき)の氣有り。歐陽(おうよう)永叔(えいしゅく)曰く“兩浙の茶、日鑄を第一とす。”と。王龜齡(おうきれい)曰く“龍山の瑞草、日鑄の雪芽。”日鑄の名は此に起こる。
京師の茶客(ちゃきゃく)、茶有れば則ち至るも、意は雪芽に在らざるなり、而(しこう)して雪芽は之を利とし、一如(いちにょ)に京の茶式、敢(あえ)て獨(ひと)り異とせず。

(大意)
日鑄(じっちゅう)嶺は越王が刀剣を鋳造した(山)地である。(その地の)茶の味は(造剣の地だけに)カドがあり、金石(青銅)の気味があった。(北宋の)欧陽脩曰く”両浙の茶は、日鑄が第一である。”と。また南宋の王亀齢(十朋)が言うには”龍山の瑞草、(あるいは)日鑄の雪芽”と。日鑄の名はこれによって知られるようになった。
都の茶の仲買人は、茶があると聞けばすぐにやってくるが、目的は(日鑄の)雪芽になかった(龍山の瑞草を選んだのである)。しかしながら雪芽はこれをよいこととし、まったく京の茶の(製法)淹れ方に従い、それにあえて異論をとなえるものがなかった。
 
三峨叔知松蘿焙法、取瑞草試之、香撲冽。余曰“瑞草固佳、漢武帝食露盤、無補多欲、日鑄茶藪、‘牛雖瘠憤於豚上’也。”遂募歙人入日鑄。
扚法、掐法、挪法、撒法、扇法、炒法、焙法、藏法、一如松蘿。

三娥叔、松蘿(しょうら)の焙法を知り、瑞草を取り之を試みるに、香り撲冽(ぼくれつ)たり。余曰く“瑞草は固より佳し。漢の武帝は露盤を食らい、無補(补)にして多欲(たよく)。日鑄の茶藪(ちゃすう)、‘牛は瘠(やせ)たりといえども豚の上に憤(ふんす)る’也。”遂(つい)に歙人を募り日鑄に入れる。扚法、掐法、挪法、撒法、扇法、炒法、焙法、藏法、一に松蘿の如く。

(大意)
叔父の(張)三娥は、松蘿茶の焙(煎)法を知り、(龍山の)瑞草を摘んでこの焙煎法を試してみたが、清らかな香りが鼻腔を撲(う)った。私が言うに『(世間の珍重する龍山の)瑞草はもとより良いものです。昔、漢の武帝は承露盤を設け仙人掌に受けた甘露を飲んでも、なんら益がないうえにかえって欲深くなるというありさま。(そんな意味のない高価な茶を飲むよりも、誰も目をつけてない)日鑄(山中)の茶藪(畠)は、”痩せて弱い牛でも、豚の上にのれば豚は驚いて死んでしまう”というものです。』
そこでとうとう、歙県の製茶に通じた人を募り、日鑄に入らせて茶を作らせた。その扚(ひ)く法、掐(つ)む法、挪(も)む法、撒(ま)く法(以上、茶葉の摘み方、揉み方か)、扇法(ひろげ乾燥させる法)、炒法(熱を入れる)、焙法(焙煎)、藏法(保存法か)は、まったく松蘿(茶)の製法のようにした。

他泉瀹之、香氣不出、煮禊泉、投以小罐、則香太濃郁。雜入茉莉、再三較量、用敞口瓷甌淡放之。

他泉でこれを瀹(にる)に、香氣(こうき)出でず。禊泉(けいせん)を煮て、小罐を以て投じ、則ち香は太いに濃郁(のういく)。茉莉(まつり)を雑入し、再三(さいさん)較量(かくりょう)し、口(くち)敞(ひろ)き瓷甌を用いて之を淡放(たんほう)す。

(大意)
ほかの泉の水で日鑄の茶を煮ると、その香気は現れない。禊泉(けいせん)の水を煮て、小さな壺に入れると、実に濃厚な香りがする。(茶の香がきつ過ぎるので)茉莉花を混ぜ合わせ、なんども攪拌し、口のひろい磁器の瓶に入れて茶葉をくつろげる。

候其冷、以旋滾湯衝瀉之、色如竹籜方解、冓棺勻、又如山窗初曙、透紙黎光。取清(青)妃(媲)白、傾向素瓷、真如百莖素蘭同雪濤並瀉也。
雪芽得其色矣、未得其氣、余戲呼之“蘭雪”。

其の冷める候、滾湯(こんとう)を旋(まわ)し之に衝瀉(しょうしゃ)す、色は竹籜(ちくたく)の方(まさ)に解(と)けたる、冓粥覆蠅腓ふん)の初めて勻(う)ちたるごとく。又た山窗(さんそう)の初曙(しょしょ)、透紙(とうし)黎光(れいこう)の如し。清(青)を取って白に妃(媲:はい)し、素瓷に傾向すれば、真に百莖(ひゃっけい)の素蘭の雪濤と同じく並び瀉ぐが如し。
雪芽は其の色を得るも、未だ其の氣を得ず、余戲(たわむ)れに之を“蘭雪”と呼ぶ。

(大意)
その冷めるころに、煮えたぎった湯をまわしかけてると、その色はまさに竹の皮がむけたばかりの、白い粉がまぶれた青竹のごとく。また山荘の窓辺に朝日がさしこみ、障子の紙を透かしたあかつきの光のごとく。青をとって白に配するように(うまく塩梅をとって)、素焼きの壺に茶をかたむければ、まさにおびただしい素蘭が、波頭(なみがしら)も白き波濤とともに、そこへおちかかるようである。
(新芽を摘んだ日鑄の)雪芽(茶)はそのような茶の色をしているものの、まだこのような香気を得るにはいたっていなかった。私は(新しい製法で出来たこの日鑄の茶を)戯れに”蘭雪”と呼んだ。

四五年後、“蘭雪茶”一哄如市焉。越之好事者不食松蘿、止食蘭雪。蘭雪則食、以松蘿而纂蘭雪者亦食、蓋松蘿貶聲價俯就蘭雪、從俗也。乃近日徽歙間松蘿亦名蘭雪、向以松蘿名者、封面系換、則又奇矣。

四五年の後、蘭雪茶は一哄(いっこう)して市(いち)の如く。越の好事者、松蘿を食(くら)らわず、止(とど)めて蘭雪を食らう。蘭雪則ち食わば、松蘿を以て而して蘭雪の者に纂(さんし)て亦た食らう。蓋(けだ)し松蘿は聲價(せいか)を貶(おとし)め蘭雪に俯就し従俗(俯仰随俗)也。乃ち近日の徽歙の間、松蘿は亦た蘭雪に名を改め、向って松蘿の名の者を以て、封面を系換(けいかん)す、則ち又奇矣。

(大意)
四、五年の後、蘭雪茶はドッともてはやされて、(蘭雪茶をほめそやすこと)まさに市場の喧騒のようなありさまとなった。越(紹興)の好事の者は、松蘿(茶)を飲まずに、人を引き留めては蘭雪を飲んだ。蘭雪を飲めば、松蘿茶であるのにそれを蘭雪茶であるとして飲み、こうして松蘿茶は評価を落として蘭雪の置くというのは、(おのおのが茶の味を解したわけではないく、まったくって)世間の流行に乗せられたものであった。
また最近の徽州の歙県あたりでは、松蘿は蘭雪に名をあらため、松蘿とすべき茶を、封面(ラベル)を(蘭雪)張り替えているのは、まったく奇怪なことである。

 
(補足)
日鑄の”茶藪”というのは、日鑄山中の、半ば野生化した茶畠のことではないだろうか。野生の茶樹は雲南省などの内陸にあり、紹興近郊の山中にあるような茶樹は、かつて人の手によって植えられたものであると考えられる。欧陽脩の生きた北宋の初期に日鑄の茶は高く評価されていたが、その後ながらく廃れてしまっていたのかもしれない。
”雪牙”は龍井茶と同じく、出初めの新芽を摘んだ茶であろう。”牙”に草冠を載せればすなわち”芽”、なのである。茶の新芽には産毛のような細かい繊毛があり、白っぽく見えることから”雪牙”と名付けられたのだろう。
その味は”茶味は棱棱(りょうりょう)として金石の氣有り”と述べていることからわかるように、そのまま適切な製法を用いずに飲むと、アク強く、カナ気のような、舌を指すような気味があったのかもしれない。
王亀齢によって日鑄の雪芽と併称された龍山の瑞草は、張岱の生きた明代後期に至っても、都の茶人に愛飲されていたのだろう。
”茶客”とは茶の仲買人であるが、日鑄の雪牙はさほど気に留めていなかったようだ。雪牙は茶の新芽を摘むが、瑞草は松蘿と同じ製法を試したというから、新芽ではないのだろう。当時の茶客達は、雪牙のような味の淡泊な新芽よりも、ある程度成長した茶葉から製した濃厚な茶を求めたのかもしれない。それはおそらく当時の茶の飲み方の流行とも関係するのであろう。京の茶式というのは、大都会の茶の飲み方のことであろうが、その飲み方(あるいは製法も含めて)にならう限り、雪芽はさほど高い評価を得られなかったのだろう。要は製法と飲み方の工夫が足りないと、ここにひとり張岱が異を唱えた、というところである。

煎茶の製法と淹れ方が確立した現代とは異なり、かつては茶の製法や淹れ方は、各自独特の工夫があったようである。日鑄の茶畠は荒廃して”藪”のようになってしまっていたが、しかし張岱は、そのように衰退してしまった日鑄山中の茶であっても、宋代の士人に愛された以上は「やせ衰えた牛であっても、豚の上にのしかかれば豚は圧死してしまう。」と、他の凡庸な茶の上に出るものであろう、と考えたのである。
そこで茶の製法に精通した歙人、つまりは徽州は歙県の製茶の職人や茶商を呼び、松蘿という徽州の銘茶の製法と同じ製法で日鑄山中の茶を摘んで作らせたようである。
 

その茶の色は蘭や雪のたとえたように、色は白いという。
宋代は茶は白いものが良いとされた。現代中国では、湖州の”白茶”の如く、煎茶にして入れても緑の色が薄く、白色透明に近いものを以て宋人が好んだ”白茶”であるとしている文がある。しかし王朝時代はそもそも茶の製法、飲法が現代と違うのである。宋代の茶の製法、淹れ方は陸羽の”茶経”に詳しいが、他にも飲む人が各自工夫していようであり、ここで述べられた張岱の法も一例であろう。

日本にも伝来した茶葉を粉末にした”抹茶”は、北宋に確立され、明代に至って廃れたという。粉末の茶を煮て攪拌し、空気を入れることで香りを立て、苦みのある口当たりをまろやかにするのであるが、泡状になった茶は不透明な白色を帯びることになる。
この茶葉の色に乳白色の”おどみ”のかかった抹茶には、緑色の青磁や、建窯の黒磁などの単色釉の茶碗が好適、ということになる。時代が下って透明白緑色の煎茶が好まれるようになると、茶の色を観るに白磁が適切となる。

張岱は日鑄が高く評価されていた宋代に倣い、抹茶に近い淹れ方を採用したのかもしれない。茉莉(ジャスミン)を入れるのは、現代のジャスミン茶を思わせる。それでは茶本来の香りが変化してしまうと考えてしまいそうであるが、そこは茶の香りに対する考え方の違いであろうか。”フレーバー”を加えることに、それほど躊躇はなかったようである。
日鑄の”雪芽”は、その色を得たが、その気を得てはいない云々、というのは張岱はあらたに松蘿の製法を採用して茶を製するに、”雪芽”のような新芽ではなくある程度成長した茶葉を摘んだものと思われる。龍井茶のように、初春の茶の新芽を珍重する向きもあるが、新芽はおおむね色は薄く、香りも淡泊なものである。それまでもっぱら”雪芽”をもって知られていた日鑄の茶に、新たな価値を加えたところが、茶人としての張岱の真”面目”というものだろう。

果たしてそれから数年の後に蘭雪は紹興において大流行したようである。”俯就〜従俗”はすなわち”俯仰随俗”という語で、世間の流行に乗せられて人や物事を毀誉褒貶すること。張岱は自らの見識に基づいて工夫し、日鑄の蘭雪を見出したのに、後に続く大衆は、ただいたずらに松蘿を貶めて蘭雪を持ち上げたのである。いつの時代もそうかもしれないが、本当のところがわかっている人は少なく、後は雷同するのである。とはいえ、蘭雪の名を高めたのは、紹興の茶界における張岱の影響の大きさによるところだろう。
その流行にあわせて、歙県の松蘿は蘭雪に名を改めて流通する有様であったという。松蘿の製法で作られた蘭雪は、似通ったところがあったのだろう。しかし結局のところ、世間の大方はその違いはわからなかった、ということでもある。

この日鑄のお茶は、現在でも浙江省は紹興の近郊、会稽山のふもと、王化卿の日鑄嶺で作られているという。とはいえ、張岱の昔と同じ味がするとは限らないのであるが。
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徽州の高山茶

徽州は休寧県の斉雲山(白岳)に登った時のこと。こんな山奥にも小さな茶畠が点在していた。さまで広くはない山域ではあるが、稜線を少し下ったわずかな平地に集落があり、耕作も営まれている。斉雲山では、”白岳黄芽”という銘茶を産するという。
烏龍茶に高山烏龍茶、という種類がある。台湾の基準では、海抜1000メートル以上の高所の茶畠で採れた茶葉で作られた烏龍茶を高山烏龍、ないし高山茶、というそうだ。
斉雲山の茶畑
”高山”は地名ではなく文字通り高い山、ということなのであるが、高山茶は烏龍茶に限った話ではない。およそ、大陸で日常的に飲まれている茶の大半、一説には8割以上は緑茶に分類される茶なのであるが、緑茶にも”高山”を冠する茶は多い。
斉雲山は海抜600mに満たないが、これくらいの高所で作られる茶も徽州では高山茶、と呼ばれることがある。
茶は基本的に同じチャノキの葉から作られるというが、産地や製法によって千差万別である。
日本の煎茶の場合は、つんだ茶葉を蒸してからよく揉み、しかる後に乾燥させて作られる。日本茶はこの茶葉を”揉む”工程を念入りにすることで、うまみと色を出しており、これが日本の煎茶を特徴づけている製法ではないかと思う。
大陸の緑茶の場合は、龍井茶のように摘んだ新芽をそのまま釜で焙煎してつくる製法が良く知られている。他にも日本茶のように、茶葉を”揉む”工程を取り入れている種類もある。
印象として、杭州の龍井茶や、あるいは湖州の白茶のように、沿岸部の大都市圏で飲まれているのは生の茶葉をそのまま焙煎し、乾燥させて作られているものが多いように感じる。蘇州の碧螺春は炒った後に揉んで乾燥させている。日本人にも愛好家が多い龍井は、焙煎の工程で釜に茶葉を押し付けるようにしてつくるが、これが多少は”揉む”効果を兼ねているのかもしれない。また徽州に行くと、揉む工程を含んだ多くの茶がある。ただ、徽州の緑茶は、日本のように蒸してから”揉む”のではなく、生の茶葉の状態で”揉む”のである。

ところで徽州には祁門(チーメン)という、紅茶の古い産地がある。一説には、紅茶の製法は江西省に始まるといわれている。江西省の婺源は昔は徽州に含まれる地域であり、祁門での紅茶の製造も江西から早い時期に伝播したのかもしれない。
紅茶にも茶葉を”揉む”という工程がはいる。”揉む”ことで、茶葉の繊維組織を破壊し、酵素成分を外気に触れさせ、発酵を促進するということである。徽州の緑茶は”揉む”工程の後に、釜で炒って発酵させないことで緑茶の色と香りを保っている。紅茶に製法は、もとは緑茶のそれから派生したのかもしれない。
斉雲山の茶畑
徽州は茶の名産地として古くから知られていたようで、明代末期の張岱も「陶庵夢憶」の中で、わざわざ歙県から人を招聘して茶を製造させた話を残している。徽州は山がちで稲作に適した平地が少ないため、山間で栽培される茶葉は貴重な現金収入源であった。王朝時代にもてはやされた徽州の茶葉は、清朝末期には屯溪から水路伝いに広州に運ばれ、英国をはじめとする欧州に盛んに輸出されていた。
近年、中国経済の過熱に伴って茶葉も異常なまでに高騰し、いったんは落ち着いた様子だが、銘柄によっては高止まりしている種類もある。1斤の価格でいえば、下は数元のものから、上は数千元、数万元の品も珍しくはない。むかし杭州の龍井山で、茶農家から1斤600元で買った明前龍井は大変おいしかったが、今ではその値段ではとても手が届かなくなってしまった。当時も龍井のどこの村のどこの畠であるとかないとか、うるさく言われたものであるが、今ではそんなことを言っていたら手に入らない。ひとくちに”明前”つまりは清明節の前につまれた龍井茶といっても、三月初めの出初めの新芽を摘んだものが良く、清明節の直前に摘まれたものは、味も香りも薄くなるのは否めない。

中国では茶は嗜好品である以前に必需品であり、あらゆる階層の人々が飲むため、茶葉の価格の格差はかの国の所得格差の反映ともいえる。あるいは社会の階級化の表れか。それは現代に限った話ではないのだが、王朝時代でも”茶淫”とも称される茶狂いの一群がおり、それこそ金に糸目をつけずに茶葉や名水、茶器を求めて飽くことを知らぬありさまであった。そこにはそれでも趣味の追求があった。前述の張岱も明代末期の傑出した一人であるといえるだろう。
しかし現代中国の茶葉の幾何級数的な暴騰ぶりは、それだけの趣味性が伴っているかというといささか疑問ではある。ワインでも、あるいは文房四寶や書画骨董でもそうかもしれないが、あまりに”スノッブ”な話が幅を利かせ始めると、いただけないことになる。

良いお茶というのはたしかにあり、悪いお茶というのも確かにある。よいお茶を飲むと、悪い茶はのどに苦く感じるようになってしまう。しかし良い茶葉が必ずしも高いかというとそうではない。徽州の農村では農家でなくとも自分の家で飲む茶は自家製造していたりするのであるが、頼んでおいて分けてもらったような、そうした緑茶には悪いものはなかった。そうしたお茶にはとくに銘柄もなかったりするのであるが、聞くと「高山茶だ。」と言われることがある。あるいは「高山雲霧」などという、銘というべきか採れた場所の情景そのままなのか、わからないような名がついている。要は徽州の山間部で採れた茶葉、ということである。

徽州の山間には放置された茶畠や、半ば野生化した茶樹が山中に点在している。それは所有権も曖昧に、摘みたい物好きは摘んでいい、というような話なのである。そうした茶葉を摘んできて、自家製造したお茶は、毎年同じ味、香というわけにはいかない。このバラつきが大きいためか、銘をつけて流通させるには至らないのであるが、出来のいいものに当たるとうなるようなお茶がある。
徽州の緑茶は生の茶葉を”揉む”せいか、かすかな発酵香を感じることがある。その加減がうまいぐあいに入った茶は、凍頂烏龍茶などとも違う、青々とした、果実を感じさせるような、なんとも清々しい香りがするのである。同じ緑茶に分類されている日本の煎茶とは、かなり違った風味の飲み物である。しかし茶葉がこうした状態をたもっているのは製せられてからのわずかな期間で、日が経つと芳香が薄まってしまう。あの香りをまた味わいたいと思って同じ人に頼んでも、翌年同じような味と香りの茶が手に入るとは限らない。そういうものと、思うよりないのである。
そこで来年は何斤か買うから余分につくっておいてくれと頼んでおくと、翌年の茶は「あれ?こんなお茶だったかなあ」という事が通例なのである。不味いとか、悪いというわけではない。何か別の茶葉のような味なのである。しかし徽州の農村の人にとっては、日常の、しかも自家用の必需品なのであるからバラつきがあろうがあまり気にしていない様子なのである。そこに以前との細かな違いや、繰り返し同じものを求めるというのは、所詮は現代の都会の消費者の意識というものかもしれない。

その昔、婺源の作硯家にわけてもらった茶は、北宋の献上茶にもなった「金竹峯」という茶なのであるが、翌年の茶を頼んだら入手できなかった。山奥の廃寺の前庭に茶樹があるというのだが、道が悪くなって人が入れなくなってしまったという。残念なことである。
茶葉は同一の産地であっても、茶畠によって個性がある。山間の傾斜につくられた茶畠は、日照も異なる。日本の茶畠に比べるとかなり自由に栽培されており、細かく言えば茶樹によっても違いがある。こうした緑茶をもし輸入して日本で販売しようとしても、茶葉ごとに食品検疫を通す必要があり、検査コストを考えればとてもわりに合わない。強いてするならブレンドして、ある程度の量で検疫を通すしかない。小さな茶畠の茶葉ではとても量はとれないから、複数の茶畠の茶を混ぜるよりない。そうしてしまうと個性も損なわれる。良くも悪くも平均的なお茶にしかならない。そうなると面白くない。なので特徴のあるお茶などは、お土産の域を出ないのである。
それは大陸で流通している茶葉もそうで、市場に集まって流通する過程で産地ごとに複数の畠の茶が混ぜられてゆく。品質は均一になるが、そのぶん個性も薄まってしまっている。

現在の大陸では高級な茶葉としては烏龍茶やプーアル茶が流行しており、緑茶はむしろ大衆的で、龍井や碧螺春、徽州なら太平猴魁などの一部の高級品種を除くと、さまでの評価は得られていないような雰囲気である。銘茶としてもてはやされないと高い値段はつかず、省みられることがない、ということでもある。それはそれで、気軽に飲めるのでありがたいことなのではある。
屯溪の朋友の父方の本家は山上で茶業を営んでいるのだが、いつか訪問したことがある。山の上だけに新茶の季節はこれからなのだそうだ。少しばかり頼んでみたが、どのようなお茶が出来ているのか?楽しみにしている。
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書と焼き物 〜民国の青花

以前に現代詩の「青花瓷」を解釈していて、書法と陶磁器のかかわりについて現在どの程度認識されているのだろう、とふと思った。陶磁器の世界における「青花」とは、日本で言う「染付け」の焼き物の事であるが、染付けにおける”絵付け”という作業が絵画を基礎とする以上、書法と絵画が緊密なかかわりを持つ大陸に於いては、書法が陶磁器とかかわりが無いと考えてはいけない。
「青花瓷」の詩には「在瓶底書漢隸倣前朝的飄逸」とあったが、この箇所と「臨摹宋體落款時卻惦記著你」だけは、ちょっと疑問を感じなくもない。「瓶底」に”書”を入れるなら落款であろうが、普通は下のような篆書の印文であろう。書と焼き物”漢隸”は”漢代の隸書”、ということであろうけれど、漢代の隸書を代表するのは礼器碑や曹全碑などの”漢碑”の隸書といってよいだろう。石碑の書体は基本的にフォーマルな、整ったものであり、”飄逸”に書くものではない。”飄逸”の”飄”はもとは風が気ままに吹きすさぶ様の形容で、書でいえば”手の赴くまま”といった雰囲気である。”逸”は”逸(はや)る”、つまり格式を超えようとする気概である。隸書は楷書が出来るまでは、公文書用の正式書体であって、気ままに書く書体ではない。あるいは隸書を崩した草書や、木簡、竹簡における早書きが想起されるが、”前朝的飄逸”が指すところはそこであろうか。

また「臨摹宋體落款時」も、疑問の出るところで、「落款」の対象が書画であろうと、陶磁器であろうと、「落款」に印刷書体が使われた例は寡聞である。単に「宋體」を「臨模」と読むと、印刷書体を「臨模」する意味が通らない。これらの二か所については、詩の作者の書や陶磁器の造詣について、若干の疑問を感じてしまうところである。とはいえまあ、これ以上の詮議立てが必要な事でもないであろうけれど。
書と焼き物書と焼き物話は変わる。屯溪老街に硯好きの、硯のお店を開いている老板娘(お店の女主人、女社長の意味)がいるという話は......書いた事が無かったかもしれない。実際のところ、硯が本当に好きな女性というのはあまりいないのであるが、僅少なうちの一人がいる。本当に好きかどうかは、それが好きな者同士であればすぐにわかるものだ。しばらく前まで老街でカフェをやっていた。老街の家賃の値上がりをうけてカフェは店じまいして、今は硯を置いた小さな店を開いている。
書と焼き物書と焼き物この老板娘がどれくらい硯好きかという事は今はさておき、硯以外にも陶磁器が好きで、いくつか店に飾っている。ほとんど非売品である。実はここに掲載している品がその一部なのである。意図的に筆跡の部分を拡大して掲げている。
ざっと見るとなかなかいい趣味をしているなあ、と思うのは、それらが今出来の倣古品ではなく、少なくとも民国以前はあるだろう古いモノという事もあるが、もうひとつは選ぶ視点である。目を引くのは、”絵付け”の中の書法である。「前朝的飄逸」と言えば、こういう書風が目に浮かぶ。
書と焼き物書と焼き物徽州では民国時代にこういった文人画を図案にとった染付が流行する。陶工が文人画の素養を持ったというよりは、文人がそのまま陶工となって製作に関わった、と考えた方が理解しやすい。
一般に、儒教的な価値観では、知識人は職人仕事に手を染めないもの、というものがある。清朝〜民国くらいの上流階級の人士は、爪を長く長く伸ばし.......つまりは手を使った仕事はしていませんよ、という事を誇示するような習慣があった。
しかしそれは、北京などの大都市の富豪や貴族階級の習慣であり、徽州ではかならずしも職人の手仕事は程度の低いものとみなされてはいなかった。明代の名墨匠、程君房などは、製墨という仕事に勤しむことを卑下するような文章を書いているが、それとて当時の”タテマエ”沿ってそう述べてみたまでの事である。
ともあれ、徽州では、製墨にせよ、木彫にせよ、知識人としての素養を備えた人々が製作に関わっている。土地の狭い徽州では、農業生産で完全に人口を賄う事が出来ない。そこで子弟の教育に力を入れ、科挙に挑ませる。しかし難関の科挙に及第できるものはごく一部であり、能力の問題や、経済的な理由で学業を継続できない者の多くは、他郷へ交易の旅に出る。その際に、徽州の優れた工芸品が、いわば有力な輸出品になるのである。書と焼き物その輸出品も、ともかくも科挙に挑むための基礎教育を受けた者達で造られる。教育だけではなく、日常生活の中でも、教養人としての趣味性が磨かれる。ゆえに彼らが製する品物も、顧客である知識人階級の嗜好を満足させるような、格調高い物に仕上がっているのである。陶磁器というと「字も読めない人間が作ってきた」というような偏った事をいう人が多いものだが、必ずしもそうではないのである。
書と焼き物収蔵品の中の有名どころとしては”汪友棠”の名が目を引く。汪友棠は徽州の黟県出身、号を柳村、室号を”修竹軒”、齊号を”修竹山房”といった。清朝末期における景徳鎮官窯、また袁世凱の帝政復僻期の御製窯の画師である。老板娘のこの収蔵は......汪友棠と落款があるものの、絵付けがやや漫然としている。あるいはその弟子あたりの作だろうか。しかし経年した白磁特有の釉色を見る限り、今出来のものではないと知れる。
民国時代と称される焼き物の中には、現代焼かれた偽物も多いのであるが、大抵は書が下手なところで見分けることができる。陶工のみならず、書家に限ったとしても、このような書を書ける人はもう何人もいないかもしれない。
もっとも、筆跡の良し悪しをもって真贋を完全に鑑別できるわけではない。現代のプリント技術をもってすれば、プロの陶工ですら手書きの筆致と見誤る。過去の作品の筆跡や絵付けを、そのまま転写できるのである。それほどまでの機械的な絵付けが可能な時代ということは、これも注意を要する事実なのである。

徽州で陶磁器、特に”青花”、染付の類の本当に古いモノを買うのは難しい。近くに景徳鎮があり、歴代陸続と焼かれて運ばれてきているからである。また明代の顔をした染付けでも、清朝以降に倣古として作られたものであるかもしれないし、清朝の様式の品でも、民国、現代に真似て造られた焼き物はたくさんある。北京、上海などの古玩城が占めているのも99%(もっと?)はまったくの”現代”の倣古であり、1%くらいは民国以前の倣古かもしれないが、”青花瓷”がうたうところの「傳世的青花瓷」なんて徽州に限らず、市井にほとんどないのが現実である。
辛うじて「古いという点で言えば確かに古い」陶磁器であっても、無論、”名品”というほどのものはまずない。そもそも陶磁器の名品を、大陸の骨董街で”掘り出そう”という事自体が已(す)でに”お伽話”である。あっても朝廷御用達の”官窯”のはずがなく、普及品を焼く”民窯”なのであるが、”民窯”であっても良い物はもちろん少ない。骨董街には”官窯”写しの偽物もあれば、”民窯”写しもしっかり広範にわたって作られているからである。”官窯”があるはずないということがわかっていても、”まさかこの程度の民窯の偽物は作らないだろう”と思って、民窯風の陶磁器に手を出していると際限がないものである......陶磁器も愛さぬではないが、いまひとつ集める気になれないのは、いうなれば硯における老坑水巌に匹敵するほどの美麗な陶磁器となると、とてものこと、手が出せる値段ではないからでもある..........まあ、それはそれとして、それなりの楽しみ方もあろうというものであるが、この老板娘の収蔵などは好例と言っていいのではないだろうか。無理のない範囲で見どころのある品を集めている。屯溪の老街に骨董店は数多存在するが、ちょっと例を見ない収蔵ではある。
書と焼き物書と焼き物老板娘がカフェを開いていた時は、秘蔵の硯を取り出してきて、墨を磨りながら硯談義に耽ったものである。今は小さな硯のお店で、績渓県の銘茶......老板娘は績溪の人である........”金山時雨”を淹れてもらいながら、最近の徽州の硯石市場の事や、作硯家の評判等等に耳を傾ける。10年ほど前、台湾の墨匠が徽州で墨を造っていたことなども、この老板娘が教えてくれるまでは知らなかった。その墨匠はもともと上海墨匠の職人で、文革を避けて台湾へ渡ったという事だ。彼が造らせたという墨は、無論、大陸では流通していないし、台湾でも一般の市場には出回っていないそうだ。ちょっと磨らせてもらったのであるが、70年代の鐵齋翁書畫寶墨を思わせる、カチッとした墨であった。
時折、若い作硯家が店を訪れては、新作の硯を見せに来る。お茶を飲みながら彼らの硯をあれこれと論評しているうちに、老街の夜は更けてゆくのである。
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石榴の村 〜徽州石家村

石家村


墨や硯の用件の合間に、安徽省績溪県にある石家村を訪問した。石家村は績渓県西方に位置し、車で30-40分程度の距離にある。その名の通り、村人は皆石姓を名乗るという。50戸程度のごく小さな村落であるが、創建は明代初期にさかのぼるといわれる。
北面の村 〜石家村村の入り口に石榴(せきりゅう:ざくろ)の赤い実が重たげに揺れている。村の入り口だけではなく、この村のあちこちに石榴が植えられているのだが、すなわち”石榴”は”石”ということで、”石氏”の村であることを表わしているのだという。つまり”石榴が繁る”村という事で、子孫繁栄の意味も込められているだろう。

 

象棋盤上の村


石家村は龍川ほどの広さはなく、また呈坎や宏村のような外壁もない。しかし家々はやはり徽派故民宅の特徴を備えている。またこの村落の構造の面白いところは、道路と区画がちょうど碁盤の目のように直交しているところである。
徽州石家村よく知られているように、古くは洛陽や長安、中世以降は北京や南京といった大都市の道路は基本的に道路や区画が直交して街が作られている。しかし徽州の古鎮の多くは、地形に沿って、あるいは水の流れに沿って、緩やかに湾曲した経路が交錯している。これは小さな村落であれば、道路が錯雑していないと外敵の侵入を防ぎにくいからである。意図的に死角を造るわけである。古鎮の多くは内部が迷路のようになっていて、外敵に侵入されても地の利を生かせるというわけだ。
北面の村 〜石家村ところが石家村は、本当に小さな村であるのにも関わらず、道路が直交しているのである。そのような街の構造はよく”碁盤の目”に喩えられるが、石家村の街路は”棋盤”、つまり将棋盤に喩えられる。将棋と言っても、もちろん9マス×9マスの日本の将棋盤ではなく、中国将棋、いわゆる”象棋(シャン・チー)の将棋盤である。
中国将棋の将棋盤は、マスで勘定すると横に8マス、縦に9マスになる。しかし中国将棋は日本将棋と違い、駒はマス目ではなく、線の交点を移動するのである。横に8マスだから、線は9本になり、自陣の最後列には9個の駒が整列する。また両陣営の間には”河界”という、河を模した境界が存在している。また王将が鎮座する左右一マス、前方2マスは対角線がひかれ、”九宮”とよばれている。つまり本陣ということになる。
この石家村は、縦に三本、横に五本の道路が直交しており、将棋盤にはちょっと線が足りないようであるが、宗廟を九宮になぞらえ、村落の前を流れる桃花溪を”河界”になぞらえて、将棋盤の形勢にみたてているのである。
実際には道は完全に直線ではないのであるが、たしかに交差する箇所ではほぼ直交している。

 

 

石守信の後裔


石家村は北宋創建の功臣、石守信の後裔の一族が、明代初期にこの地に移り住み始めたのが起源といわれる。また後に将棋盤状に整備されたのは明代中期といわれる。
石守信は宋朝きっての名将のひとりであったが、太祖趙匡胤と仲が良く、かつその将棋相手、”棋友”でもあった。ゆえにこの地に石家村を築いた石一族は、道路や区画の配置を、将棋盤のように整備したというわけである。ひとつには石守信以来の軍略の伝統への意識もあっただろう。また村には決まりがあり、それぞれの家の構造物は、決して道路の通行を妨げることがないように作らねばならなかった。

 

 

白雨一洗


徽州石家村徽州石家村観光地というほどの場所ではないものの、村の建物の名を示す案内板があるのは、部外者の参観を受け入れるという意味である。とはいえ、参観料を取られるわけでもない。北面の村 〜石家村石氏宗廟のある叙倫堂は”師府”とも呼ばれ、つまりは軍陣における”本営”という事であるが、象棋の盤における”九宮”ということになる。実際にこの村が外敵に襲われた場合も、ここが本営とされることが想定されていたのだろう。師府の前方には方形の池塘、”師印塘”がある。この池の中央には”師印”つまりは、将軍の”しるし”である印に見立てた”印墩”があり、柏の木は印の柄を表わしているという。
北面の村 〜石家村北面の村 〜石家村この日は日差しの強い晴れた日であった。盛夏の白日が、宗廟前の師印塘に眩く照り返しているかとおもえば、陽を遮る雲もないままに、時ならぬ驟雨が村を見舞う。石路に突きささるような大粒の雨が降り注ぐや、水面に映る日輪が砕けて水が白く湧きかえる。

 

 

南座北面


この村の家はすべて敷地内の南側に位置し、北を向いている。日本でもそうだが、大陸でももちろん家というのは敷地内の北川に位置し、南を向いている。誰が好んで北向きの家に住むだろうか?と思うところなのだが、石家村の家々は北に面している。何故か?
石守信は河南省は開封の出身であり、さらに開封の石氏はもとは甘粛省武威の発祥であるという。つまりかつての石守信の故郷である北方の中原を想い、またさらにさかのぼって石氏の発祥地である朔北を偲ぶ、という意味なのだそうだ。むろん、宗廟も(現在は廃墟になっているが)北を向いて建てられている。
北面の村 〜石家村北面の村 〜石家村幾度となくみてきた徽州の欄窗の木彫であるが、このように顔が削り取られているものをよく見かける。これも文革時代の爪痕なのである。
北面の村 〜石家村石一族も、家譜、つまり家系図がある。淵源をたどると石守信にさかのぼれるという。ただし家譜というのは、同姓の英雄豪傑功臣を、たとえ血縁関係が無くともあとから系譜の源に書き加えてしまうものなのである。ただ600年前の建設時に、石守信や北方起源の由来を村の構造にまで反映させて建設したとなると、案外とこれは本当なのかもしれない。
この村にかつて墨の工房があったというが、それも民国時代くらいまでの話で、今はないそうだ。家屋の一部にその名残があったそうだが、今は面影も残っていない。

 

 

枕山面水


石家村は、北側は旺山という山が位置し、また黄山に源を発する桃花溪が村を巡って西向きに流れている。いわゆる”枕山面水”という形勢であり、風水にもかなっているが、兵法上でいう”不敗の地”を占めている。つまり川を挟んで敵を迎え撃つのは防御に適しており、山を背にするのは高所からの敵の動きの見通しが良く、また背後を襲われにくい。さらには敵軍に正面を圧迫された時も、味方が崩れにくいのである(背後が平地では逃げ散ってしまう)。
徽州古鎮の多くは、天然の要害の地に建設されて、小さな城塞都市を形成している。この小さな石家村も例外ではない、というところだ。またこの石氏が宋朝の名将を祖先にもつというのも、やはりあながちではないと思わせるものがある。
北面の村 〜石家村雨があがった。一洗された石路が濡れて光っている。徽州の古鎮を歩くと、四方が石や漆喰の高い壁に塞がれて、昼間もやや暗く、若干の圧迫感を覚えるところもある。近代建築ではないにせよ、人工物に囲まれた空間というのは、どこか息苦しさを感じるものだ。
北面の村 〜石家村この石家村は規模が小さいためでもあろうが、路を囲む壁面が低く、重苦しい感じが無い。午後の陽の光も、路地まで差し込んでくる。濡れた石路を風が通り抜ければ、思いのほか清涼である。
北面の村 〜石家村小さな村なので、二時間ほどで参観が終わった。とはいえ、やはりそれなりの歴史を有しているものである。村の入り口で揺れる石榴に見送られながら、石家村を後にした。


依山傍水石榴繁
線路縱横桔中村
毀廟南據惟故地
人家北面念祖恩

 

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百年前の乳母車

安徽省黄山市の中心の屯溪区には、いつも徽州訪問の際にホテルや車等の手配を依頼している、地元の旅行会社に勤める朋友がいるのですが、昨年の5月に長男が生まれました。
彼女の実家は屯溪観光の中心、”老街”で骨董店を営んでいるのですが、屯溪に行く度にここを訪問しています。ひとつには古い硯を観るのが目当てでもあります(良い硯がいつもあるわけではないですが)。骨董店を営む彼女の父親は、稀になかなか良い硯を探し出してきてくれることがあります。老街の骨董店や硯店をしらみつぶしに回るのに疲れると、ここへきてお茶を飲んだりしています。
今回も昼間に用件を済ませた夕方に、老街の骨董店を訪問すると、朋友が旦那さんと長男君と一緒に帰省(といっても同じ屯溪区に住んでいるのですが)していました.................見ると朋友の長男君が、何やら木製のカートのようなものに入っています。
徽州 昔のベビーカー徽州 昔のベビーカーこれは骨董店を営む朋友の父親、つまりは長男君のおじいさんが探してきたもので、徽州の昔の乳母車なのでした。およそ100年くらい前のものだと言います。車輪は壊れていて動かないのですが、今でもちゃんと機能しています。長男君もすでに慣れているのか、動かない乳母車の中でおとなしくしています。
徽州 昔のベビーカー100年前の乳母車意匠を見ると、まさに徽州派木彫の特徴を備えたつくりをしています。囲みの中に板をはめると子供が座ることも出来、また外すと立つことも出来る構造になっています。
しかし”ベビーカー”というよりも、やはり”乳母車”と呼ぶにふさわしい恰好です。男の子なので、思わず「大五郎。」と呼びかけたくなりました。
100年前の乳母車仮に車輪が動いたとしても、これを推しながら子供を連れて買い物に行くのは大変そうです。家の中では”ベビーチェアー”の代わりに機能しているようです。しかし良い木を使用し、家具としての作りは立派で、これもなかなか豪華なベビーチェアーと言えるでしょう。

徽州 昔のベビーカー大陸の田舎の子供というのは、知らない人が来ても好意的ですね。都会の小さい子は、警戒心が強いのか恥ずかしがって、笑ってもくれないことが普通なのですが、このあたりの田舎の子はどんどん前に出てきます。
夏休みという事もあって、徽州の片田舎にも小さな子供を見ることが多いのですが、見知らぬ外国人のわたしにも非常に愛想が良い。大人たちは硯や墨を見ながらあれこれと細かい相談をしているのですが、子供達にはまったく関係ないですね。
徽州 昔のベビーカー初対面の子供に笑ってもらえているうちは棄てたものではないと、救われたような気持ちになるのが不思議です。今回はちょっと複雑かつ”没想到”な話が出てきて、頭を悩ませているところだったのですが、つまりは童心に帰って考えろということなのかもしれません。
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万安鎮の羅針盤

前回の上海からの帰国便では、機長さんのアナウンスがちょっと面白かった。”えーこれより関西空港まで、過去最高のフライトで皆様をお届けいたします.......次の御旅行の機会にも、アルファベットの10番目から始まる航空会社ではなく、アルファベットの一番初め、Aで始まる当社の便をぜひご利用いただきますよう、心からお願い申しあげます......”。爆笑こそ起こりませんが、機内ではクスクスと笑いをこらえる声があちらこちらから聞こえてきました。続いて英語でのアナウンスが入ったのですが、これはほぼ”定番のご挨拶”で、この内容は入っていませんでした。
日本の航空会社の機長さんのアナウンスでは、たまに面白い事を言う人がいます。昔は歌を歌い始める名物機長もいたそうですが.......そういえば大陸の航空会社では、そのような変わったアナウンスを聞いたことがありません。これもお国柄でしょうか。
万安羅盤他、機長さんからのアナウンスではないですが、この航空会社の別の便で印象に残ったキャビンアテンダントさんのアナウンス。
香港からの帰国便ですが、離陸前から空港周辺は暗くなるほどの厚い雲が垂れ込めて土砂降り。定刻通りに離陸しましたが、これは雲の上に出るまでに相当揺れるなあ、と思っていたら案の上、機体は相当激しく揺さぶられました。震度3−4の地震が連続して続くような感じでしょうか。どうしても雲は密度があって、雲の中は気流も乱れているので揺れますね。もちろん昔のゼロ戦と違い、現代の飛行機は頑丈で、雨雲に突っ込んだくらいでは壊れないわけですが、知らないと怖いかもしれません。
スウッと落下する感じがしたかと思うと”ドシン”という衝撃を感じて機体が大きく揺れたときなどは、機内から”キャア!”という悲鳴が上がりました。こういう時には機長から”当機は現在厚い雲の中を通過中で.....機体が激しく揺れておりますが.....飛行の安全性には全く問題がありませんので.....”というアナウンスが入りますね。続いてキャビンアテンダントさんが”激しく揺れましても飛行の安全性にはまったく支障がございません。どうぞシートベルトをしっかりとお締めになり、座席からお立ちになりませんよう.....”というようなアナウンスが流れますね。
大陸と日本の往復の便では、キャビンアテンダントさんのアナウンスは、日本語、中国語(普通語)、英語の順で流れます。ただこの時は相当雲が厚かったのか、かなり長い時間、揺れ続けていたように感じました。私はシートテレビプログラムの映画を観ようと思っていたのですが、機内のアナウンスがある間は、映像の再生は中断されてしまうのですね。いつまでも中断されたままなので「早くアナウンス終わらないかなあ」と思っていたのですが、なぜかこれがなかなか終わらない。一回英語のアナウンスまで終わってから、また”現在香港上空は厚い雨雲に覆われており、当機は雲の中を上昇中です..........雲の中では時々大きく揺れることがございます.......大きく揺れましても、飛行の安全性には問題ございません..........ご気分の悪くなったお客様は、座席前ポケットのエチケット袋をご利用ください....”と少し内容を変わりますが、同じようなアナウンスが繰り返されています。シートテレビが観られないので仕方なしに本を広げながら、なんとなしにアナウンスに耳を傾けていたのですが、いつもよりかなりゆっくりしたしゃべり方、ということに気づきました。
しゃべるスピードは人によって違うかもしれないですが、アナウンスのスピードについては聞き取りやすく話すように訓練されているはずなのですねえ。なのでこの航空会社の場合、いつの便でもだいたいスピードは一定。しかしこの時は明らかにゆっくり話していることがわかりました。英語の”.....Please fasten your seat belt securely.......”という英語のアナウンスも、初級英会話教室のレッスンのような、一語一語抑揚のついたゆっくりとした話し方。機体はガタガタと振動して、時々密度の濃い雲か気流が”ドン”という音をして機体にぶつかってくる衝撃を感じるのですが、小さな子供が泣き始めたりしています。そうしたやや緊張した雰囲気の機内で、「悠長」と言ってもいいほどゆっくりしたアナウンスが流れ続けるというのは、ああこれは揺れて怖い人の緊張を和らげるために、意図的にゆっくりアナウンスしているのだなあ、と気が付いたのでした。事実、アナウンスは機体が雲の上に出るまで続いたのでした。こういうあたりはマニュアル化されているのか機転なのかわからないですが、”よく出来ている。”と感じました。
中国の航空会社は最近は国内線でしか乗らないのですが、東方、南方、上海、海南、深圳、廈門、吉祥、春秋....etc、いろいろ乗りました。アナウンスは中国語(香港離発着の場合は広東語も)と英語、それも大抵早口でアナウンスされます。気流が乱れているときなどは、”We're experiencing some turbulence....."が切迫感のある早口でまくしたてられるので、いやがうえにも緊張感が増してきます.......まあ中国国内線は、ベルト着用サインが点灯しているのにトイレ行く乗客とか普通にいますので、ちょっと怖がらせるくらいがいいのか........それと場合によっては離陸後、着陸前は音声テープの再生。合理的と言えば合理的ですが、ちょっと味気がないような。その代り、着陸態勢前にリラックスを兼ねた体操の指導をしてくれる便が多いです。これはこれで面白い...............いや、”マクラ”が長くなりすぎました。

くだんの”A”で始まる日本の航空会社、私は大陸への渡航にはいろいろ便利な点が多いので、数年前からほとんどこの会社の便を使っています。マイレージもたまりますしね。月刊の機内誌が発行されており、これがなかなか内容が充実しているので楽しみしています。ここ数年はほぼ毎月利用しているので、毎号持ち帰って家に積んであります。
この航空会社が中国路線に力を入れているためか、中国の都市や街を紹介する特集「中国万事通」が連載されていました。そこで紹介されている場所や内容が実にマニアックなのですね。たとえば山西省の運城とか、雲南省の沙渓とか、私も聞いたこともない場所が登場します。いつだったか、徽州の万安鎮(ばんあんちん)が紹介されているのには少々驚きました。徽州の古鎮といえば、世界遺産の宏村とか、あるいは映画の舞台によくつかわれる南屏あたりが有名どころなのですが、よりによって万安鎮。しかも万安鎮の名産の羅針盤を紹介しています。
徽州は易学の研究が盛んな地域だったのですが、易学や方位学に欠かせないのが方位の正しい計測です。ある意味、徽州の歴史を代表する産品のひとつであるともいえるでしょう。
この万安鎮は徽州へ通い始めた2007年に訪れたことがあります。2009年に簡単に紹介しています。(万安鎮)
徽州における中心市街の屯溪から、車で20分くらいの距離にあります。徽州では休寧県に属し、ちょうど屯溪と休寧県城の中間くらいに位置する古鎮です。
万安 羅盤前回訪問したのは、万安鎮でも「古城巌」といわれる、岩山の上に築かれた集落のあるエリアで、今回は古城巌から新安江を挟んで対岸にある”万安老街”のエリアです。上の写真では、向こう岸の小高い丘の上に塔がみえますが、ちょうど万安老街から古城巌を眺める格好です。万安の老街の様子についてはまた別の機会にご紹介しましょう。
万安 羅盤万安 羅盤万安 羅盤前述したように、万安鎮の名産のひとつに羅針盤があります。羅針盤といっても航海用のそれではなく、いうなれば方位磁針の精密なもの、というところです。
羅針盤は中国古代四大発明のひとつと言われています。宋代には船に取り付けられて方位を知るために使用されていたといわれます。また中国では陸上で方位を正確に測定されるために使われていました。たとえば中国の風水術は方位が重要です。”方角を占う”という言葉があるように、方角が正しくわからないと家も建てられないし、物の位置も定められません。葬儀も出来なければ、軍隊の進退も出来ない、というほどかの国の人々の意識、行動原理に深く影響しています。
万安鎮には、明を開いた朱元璋は、万安にある仙人洞という洞穴に隠れ住んだという伝説があります。またこれからどちらへ向かったほうが良いか、古城巌の上の塔にこもって占った、という言い伝えもあります。そういういった伝承にもなんとなく”方角を占う”という意味で羅針盤の存在を暗示しているように思えます。
万安鎮の羅針盤は、万安羅盤ともよばれます。万安羅盤は胡開文墨店も扱って日本へも輸出されたようですが、日本で万安羅盤の現存するものを見たことはありません。
2007年に訪れた古城岩は、万安鎮の観光開発エリアで、当時はまだ開発が進んでいる最中でした。今では参観に入場料が必要です。万安 羅盤万安鎮の羅針盤前述したように、今回立ち寄ったのは、万安鎮の”老街”があるエリアです。この周辺の街道沿いに、万安羅盤を作り、売るお店があります。老街を少し歩いたあとで、”万安羅盤”を売るお店の一軒に入ってみました。万安鎮の羅針盤万安羅盤は円盤状にした木の中心に磁針を置き、方位の割り振りと方位名を小刻みに掘り込んでいます。大きな万安羅盤ほど方位の分割が詳細になります。この分割の精度が重要なのだとか。古くは二十四方位がありましたから、360度を24分割すると、方位が15度になりますが、分度規などを使わないで分割するそうです。また磁石が狂わないことと、磁力を失わないこと、また針の回転に偏りがない事が重要なのですが、これにいろいろな秘伝があるのだとか。針に磁力を持たせるために、強力な磁力をもった隕石に鐡針を吸引させ、磁力を持たせるのだそうです。そうすると、何百年経っても磁力が失われないとか。
羅盤に刻まれた古代の方位の呼称がいいですね。丑寅の方角、と言われても東西南北ではピンと来ないですが、この万安羅盤を観ればわかりやすい。小さいと方位の分割が少ないですし、大きすぎても気軽に持ち歩けないので、中くらいの大きさのものを1個買いました。

私の人生航路も気流の悪いところを通過中なのか、いささか迷走気味。ひとつこれで方角でも占ってみよう、というところです。
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霊芝の鉢植え

上海のとある収蔵家のお家の玄関のすぐわきに、霊芝の鉢植えがありました.....
霊芝の鉢植えはじめは生えているように活(い)けているだけかとおもったのですが、お話では野生に生えていたいものを、そのまま鉢植え移植して持ってきているということでした。たしかに色に潤いがあり、干からびた感じがありません。
霊芝は不老長生の霊薬として、東洋では古くから珍重されてきた歴史がありますね。徽州の木彫でも、霊芝の生えた鉢や霊芝を差した瓶などがよく見られます。
霊芝の鉢植えしかし霊芝は今でこそ栽培可能となりましたが、昔は野生の菌類の中でも大変貴重なものでした。霊芝の存在そのものが瑞兆を表すので、深山幽谷に徳の高い人が採りに行かないと決して見つけることができないとかなんとか、いろいろ言い伝えられています。
また霊芝は見つけた人がすぐに食べてしまうので、滅多に流通に乗らなかったともいわれます。不老長生が本当に実現するなら、それはお金に換えられる話ではなく、売る前に自分で食べてしまう、ということです。まあそういうものかもしれません。そういえば紅楼夢でも、実際に服用の霊芝は出てこないですね。燕の巣とか(高麗)人参は出てくるのに、霊芝はついに出てこない。

霊芝の薬効については、実のところよくわかっていないそうです。霊芝が仙薬とされたのは、西方から伝播した死生観における”生命力”のイメージと、霊芝の形状が重なるからだ、という説があります。古代エジプトの図像に出てくる”パルメット”や”ロータス”などがそれですね。メソポタミア文明における”生命樹”のイメージとの関連性も指摘されています。こういった図像は、アッシリアやエジプトの画像石や粘土板彫刻に見られます。中国の古代画像石の図像と、エジプトやアッシリアの画像石のイメージの類似性については、そのうちもう少し詳しく調べたいと思っています。
また鹿が霊芝を食べている図も中国では古くからありますが、霊芝はともかく、鹿の角は強壮剤としての薬効が知られています。霊芝のパワーが鹿の角にあつまる、という連想があったのかもしれません。そういえば鹿角霊芝という霊芝もありますね。鹿の角は毎春抜け替わりますから、角が抜けて霊芝になったという連想か。その霊芝をまた鹿が食べるのだとしたら、一種の循環ですね。”循環”というのは、生命の永遠性を表す、神仙思想における死生観の基礎にある概念です。また鹿の幼角は強い強壮効果が知られていますが、”鹿茸(ろくじょう)”と呼ばれて、キノコにたとえられているのも注意をひくところです。

霊芝の不老長生効果が本当かどうかはともかくとして、いかにも形が面白いので、観賞するにも良いですね。絵に書いても面白そうです。
中国の時代劇では、家の中で女主人が手にして召使に指図する指揮棒に、”如意”というものがありますが、この”如意”は霊芝の形状を模した恰好をしています。召使を「意のままに」操るから「如意」なわけですが、霊芝を身近に置いておくと、それだけで”万事如意”になる、という願いも込められてるとか.......万事不如意な私もあやかりたいと思うところです。
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歙南の昌溪鎮

今年の1月、徽州南部の古鎮、昌溪を訪ねた時の事。

いつも依頼しているタクシー運転手の胡氏には「明日婺源に行きたいからホテルまで迎えに来てほしい」と頼んでいた。朝、ホテルの駐車場で待つタクシーへ行くと「今日は婺源への道が閉鎖されている」との答え。仕方がないのでこの日は墨工場へ向かう事にしたのである。そのあくる日、きょうは大丈夫かと思っていたら胡氏の答えは「まだ通行止めが解除されない。」とのこと。いたしかたなく、この日も婺源行きをあきらめて、歙県(きゅうけん)郊外の昌溪という古鎮の見学へ行くことにした。

昌溪は「歙南第一」と讃えられる、渓谷に沿って開けた美しい集落であると聞いている。しかし宿泊地の黄山市屯溪区からは少し距離があり、今まで訪問することがなかったのである。
昌溪の起源をたどると、紀元前の前漢時代の生活の跡が見られるという。時代下って唐代の頃は滄溪と呼ばれ、南宋の淳煕年間に至って昌溪と改められたそうだ。最近は観光に解放され始めたとはいえ、ここを訪れる旅行者はまだ少ない。徽州の古鎮といえば世界遺産の”宏村”などが圧倒的な知名度を誇っているから、それ以外の古鎮にまで足を延ばす人は少ないのである。

いつもの胡氏の運転で山道をたどる。山麓の木々の梢には、ふるった粉砂糖まぶしたような雪が残っている。この季節の徽州の降雪時によく見られるのであるが、木々に降り積もった雪がなかなか解けないのである。溶け落ちずに樹上に何日間も残る。特に葉の上に積もった雪は、葉に付着したまま落下しない。これは山間の空気が冷たいことと、山の陰になって日照時間が短いこともあるが、晴れていても薄曇りで太陽の光が弱いためである。日本のように空気が澄明であると、日差しに熱せられてすぐに溶け落ちてくるのだが、ここ徽州では事情が違っているのである。しかし粉雪を薄くかぶった山景色もまた良いものである。

昌溪の入口には地をならしただけの駐車場がつくられ、入口には参観の受付らしき建物がある。しかし窓口は開いていない。昌溪も観光地として開放されてからは、参観料が必要なはずである。ただ昌溪は観光に解放された時期が遅い古鎮であり、黄山市における中心市街の屯溪からも距離がある。もともと訪れる人は少ないと思われるが、冬場のこの時期であればさらに少ないのだろう。どうも受付は閉めてしまっているようだ。ともかく中に入ることにする。
徽州昌溪鎮川沿いに開かれた小さな菜園に沿って、農道のような小道が続いている。雪をかぶった青菜は、黒いほどの濃い緑色の葉を延べている。
川沿いにしばらく歩くと、渡河点に出たようだ。流れの中に人が一人立てるほどの大きさの、長方形の切り石が点々と置かれているのが目に入る。切り石は流れを横断できるように、対岸に向かって直線上を等間隔に並んでいる。切り石が尽きる先には、瓦葺の木造の小屋がみえる。そこを目指してこの切り石を踏んでゆくというわけである。
木造の小屋は水車小屋で、回転していない巨大な水車が見える。元来はこの水車を機能させるたであろう、川のこの個所には人工の落差が築かれている。貯水を目的としたものではないが、一種のダムであり、動力用途という意味では発電用のダムに相当するだろうか。これを水壩(すいは)という。並べられた切り石も、流れを調整するためにおかれたものであり、両岸の往来の役割も兼ねているのである。
徽州昌溪鎮急傾斜に沿って流れが速くなっている。この日はとても寒く、水は手を切るような冷たさである。うっかり足を滑らせて流されれば、無事では済まないかもしれない。流れの中ほどで写真を撮る時も、やや緊張する。
徽州昌溪鎮この切り石は水面からほんの数センチ浮かんでいるだけで、ところによっては面積の半分ほどが、流れの下に沈んでいる石もある。冬場は水量も少ないので渡れるが、降雨で水量が多いときは渡るのが難しかもしれない。
歙南の昌溪鎮流れの中ほどで、上流の集落の方を見る。青い水面に灌木が影を落とし、その奥に集落の白い壁が見えている。遠景には淡く雪をかぶった小高い山々が続いている。

先にも述べたが、唐代の頃は滄溪と呼ばれ、南宋の淳煕年間に至って昌溪と改名されたという。滄溪の「滄」は青青とした水が広がる様子を形容する文字であり、眼前の光景がそのまま表現している。また昌溪の昌は、日の光を反射してキラキラと輝く、という様子をあらわす文字である。水面に陽光が反射する時の形容にも使われる。これも昌溪の静かな流れに太陽の光が照りかえっている様子から、名付けられたのではないかと思う。
険しさはないが、平明で美しい山水の眺めである。

対岸に渡ると、水車小屋の中から激しい水の流れの音が聞こえる。明代の弘治年間(1488年 - 1505年)に創建されたといわれる水車小屋である。水車小屋に合わせてこの水壩も築かれたであろうから、当時としてもかなり大がかりな土木事業であっただろう。徽州における王朝時代の水利事業の見事な例は、歙県近郊の新安江においてもすでに目にしてきた。
歙南の昌溪鎮歙南の昌溪鎮大きな水車の車輪は、現在は壊れていて回転していない。巨大な臼が置かれているが、かつてはここで製粉が行われたのだろう。この巨大な臼を回転させるのであるから、相当な動力である。
水車小屋から川沿いに上流へ向かうと、昌溪の入口に至る。
歙南の昌溪鎮歙南の昌溪鎮歙南の昌溪鎮途中、家屋の上を見上げると、四方へ突き出した独特な格好の拡声器が目に入った。同行していた朋友の話では「あれは昔どこの村にもあって、あのスピーカーから毛沢東の言葉とか、共産党のスローガンが流されたのです。」ということだ。日本でもああいった拡声器は田舎の農村にないわけではないが、必要時以外は今は使わないだろう。文革期の大陸では、朝から晩まで、四六時中党を賛美する歌や毛沢東語録が流れていたというのだから、今は閑静なこの村落にもそれは騒々しい時代があったのだろう。

昌溪は上流地域の集落と、下流地域の集落の二手に分かれている。上流は主に呉姓の宗族、下流地域は周姓の宗族が聚居しているという。徽州の古鎮は、それぞれ多数派の宗族を中心として形成されているところが多くみられる。呈坎の羅姓や、歙県雄村の曹姓、績渓県龍川なら胡姓、槐唐なら許姓、といった具合である。しかし姓を異にする宗族が同居していないということではない。結果的に、ひとつの鎮に半々くらいのところもある。中国は伝統的に同姓婚をしない風習がある(現在は当然OKである。が、例は少ないそうだ。)また姓を異にしていても、地域によっては通婚してはならないとされる組み合わせもあった。なのである村に支配的な宗族がたとえば”汪”であっても、必然的に”呉”や”方”など、他姓の相手が入り込むのである。特定の宗族同士で通婚が繰り返される傾向があるから、いつしか他姓の人口が増え、宗廟が築かれるようになることもある。また支配的な宗族が逆転するという現象も起こるのである。

昌溪についていえば、南宋に呉姓が大量に移住してきたことを契機として、村落の名が滄溪から昌溪に改められた、という経緯があるという。北宋が金に滅ぼされた際の、北方の漢民族の大量移住の例といわれる。
歙南の昌溪鎮歙南の昌溪鎮昌溪の集落に入ってまず目にするのが、下流集落の周氏の宗廟である。宗廟の前の広場がきれいに整備されている。周姓といえば漢の高祖に仕えた周勃と周亜夫がいる。彼らは劉邦と同じ沛の出身である。徽州は北方の戦乱を避けて移住してきた宗族が多いから、昌溪の周氏も元は北方の一族であったのかもしれない。
歙南の昌溪鎮歙南の昌溪鎮しかしこの宗廟、急ピッチで修復したのかもしれないが、壁や柱を褐色のペンキで塗りたくっているのは、あまり感心できないことであった。しかしどんな形にせよ、完全に取り壊してしまうよりは保全されているだけ良いといえるのかもしれない。ちなみにこの周氏の宗廟は、昌溪出身の実業家が海外で成功し、事業で得た資産を投じて整備したのだという。再び渓流沿いに、上流地域の集落へ歩いてゆく。
歙南の昌溪鎮昌溪の歴史を体現するかのような、ふた株の樟(クスノキ)の巨木が現れる。それぞれも、非常に大きなクスノキのひと株に見えるが、実際は同程度の年輪の大木が癒着してひと株のようにそびえているのだという。ゆえに非常な巨木ではあるが、年輪は800年くらいだということだ。
歙南の昌溪鎮この巨樹がそびえる築山に沿うようにして、垂直に深く切れ落ちた水路が導かれている。水の流れから地表までは、緻密に積み上げられた石垣で覆われており、カーテンのような優美な曲面を作り上げている。実に丹念な設計であり、代々昌溪に暮らしてきた人々も、この景観を美しいと感じてながめてきたに違いない。現代の異邦人である、小生もそう思うわけである。
歙南の昌溪鎮歙南の昌溪鎮昌溪は上流地域と下流地域に分かれるが、その境目の地域には学校や病院、政府関連の建物があり、近代的な建物が多くなっている。肉屋では、解体された豚の大きな肉塊や内臓が、凍てついた外気にさらされて、鮮烈な色を見せている。前々日に降雪があり、この日は晴天だが凛とした寒気に満たされている。石と煉瓦、漆喰で出来た古鎮の中はことのほか冷えこむのである。これから旧正月へ向かう農村では、豚肉を始め肉類の需要が高まる時期であり、肉屋も繁盛するのである。
歙南の昌溪鎮歙南の昌溪鎮歙南の昌溪鎮やはり蒼溪(青い谷)、あるいは昌溪(輝く谷)というどちらの名にもふさわしい、山光明水の景観が、鎮に沿って続いている。鎮の中心区域からは対岸へ向けて、近代的な橋がかけられている。陽光に白く輝くアーチは、碧い水に映えて優美な姿だ。
歙南の昌溪鎮やや繁華な中心地域を抜けて、上流の古い集落へ入る。四角く区画された濠が現れる。徽州の古鎮の中には、集落の中に四角く濠をうがたれている場所がいくつか現れる。印象的なのは西溪南のそれがある。盛夏には蓮の葉で覆い尽くされるであろう。
歙南の昌溪鎮木製の牌坊がある。石でできた牌坊を見慣れている眼には、牌坊というよりも、全体で建物の入口のように見える。木製の牌坊に向かい合って、廊橋が築かれている。そこでは村人たちが昼食の準備をしていた。歙南の昌溪鎮内部はまだ公開されておらず、入ることができなかった。幼稚園が併設されているが、この建物自体が、昔は昌溪の子弟の教育の場であった。
歙南の昌溪鎮呉氏宗廟に辿り着いた。中には入ることができない。ここには赤い星が掲げられ、かつてはここが党の本部として使用されていたことを物語っている。これに伴って、封建時代を想起させるような意匠や彫刻が破壊された可能性があるが、一方で党本部として使用されたことにより、宗廟全体の破壊は免れた、という見方もできるのである。
歙南の昌溪鎮「聖旨」と掲げられた小屋が隣接している。こういった建物は、王朝時代の昔、宮廷から派遣された使者が皇帝の布告文、いわゆる「聖旨」を読み上げるところなのである。党本部のすぐ近くであるが、おそらく文革中などはこの「聖旨」の扁額は外されるか、上に粘土などをかぶせて隠匿していたかもしれない。
歙南の昌溪鎮歙南の昌溪鎮赤い色の文字で「民兵の家」とある。ここも元来は宗廟であったと思われるが、中には入れない。ある時期に地元の民兵の施設として使われていたのだろう。脇には毛沢東語録が筆書されている。
歙南の昌溪鎮「三眼井」である。その名の通り、三つの穴が穿たれている。中はひとつにつながっている。こうした三つの井戸の口がまとまっている式の井戸というのは、中国各地にみられるものである。由来はよくわからないのであるが、ひとつひとつの口が小さいので、動物などが入り込みにくいという理由もあるのかもしれない。南屏を訪問した際には、子供が落ち込まないようにするためだ、と聞いた。安全性を考えると、この方がいいかもしれない.........井戸に人の死体を投げ入れたとか、突き落として殺したとかいう話は昔からあるわけだが、こうした井戸ならそれも難しいわけである。とはいえ、水桶がひとつやっと入る程度の穴がもし一つしかなかったら、水汲みの順番待ちができてしまうだろう。三つくらい空いているのが、丁度いい、とも考えられる。
歙南の昌溪鎮昨夜は氷点下を優に下回る気温だったのだろう。水槽に厚く氷が張って、中の魚は哀れにも凍死してしまっている。が、店の人は気にとめた様子はない。
歙南の昌溪鎮谷間の入口を塞ぐように壁が築かれている。「衆志成城」という名がついているが、防風墻(ぼうふうしょう)である。(どうも衆志成城という名称には文革の臭いがするのだが)これは谷から吹き下ろす風が村落に入り込まないように防いでいるのである。この防風墻の外側に出ると、気のせいか寒気が厳しい。この寒気がそのまま昌溪に流れ込んできたら、村落を凍らせてしまうかもしれない。
歙南の昌溪鎮あるいは夏場などは、風向きによっては熱気が流れ込んでくるだろう。良く見ると、アーチ状に穿たれた防風墻の一部が瓦礫でふさがれているから、時代によって風量の調整が変わってきたのかもしれない。あるいはその昔は、匪賊の侵入を防ぐ拠点となっていたかもしれない。ここにも井戸が穿たれている。
歙南の昌溪鎮清冽な流れの中で、女性が青菜を洗っている。野菜に限らず、徽州の女性というのは、真冬でも清流に手を浸して炊事や洗濯をしている。慣れているのかもしれないが、大変なことであると思うわけである。呉越の戦いに登場する絶世の美女西施も、川で洗濯をしていたところを見出されたという。古代から洗濯は女性の重要な労働だったのだろう。

再び村落の中に戻る。昌溪の家々から、唐辛子を炒める香ばしい匂いが漂ってくる。徽州の家庭料理の基本的な調理法なのであるが、油を強く熱し、そこへ唐辛子をいれて焦げるほどに強く炒める。そうすると、ごま油よりもさらに香ばしい香りが出るのだが、そこへ適当な野菜を入れて塩で味付けすると、それだけで簡単なお惣菜になるのである。これに少量の肉や大蒜を加えることもあるが、やはり農村らしく野菜が中心である。どんぶり茶碗に御飯を盛り、上から総菜を乗せて出来上がりなのである。上に載せるのはほかに作り置きの煮物や漬物が加わることもあるが、たいていは2,3品である。
歙南の昌溪鎮昼時に差し掛かり、宗廟の広場にはどんぶり茶碗を抱えた村人たちが集まってくる。頻繁に見られる江南農村の昼食の光景である。この昼食のスタイルというのは、小生の見た限り、江南一帯の農村では共通ではないかと思われる(雲南でもおおむねそうだというから、ご飯を食べる地域全般かもしれない)。
歙南の昌溪鎮香りにそそられて、急に空腹を覚えた。昌溪で食事ができる店がないかと探したが、開けた雰囲気の割に飯屋の一軒もない。運転手の胡氏の話では、隣の深渡の街は、魚が美味いこと事で知られているそうだ。この提案には一議に及ばない。昌溪を後にして、深渡へ向かうことにした。

 

昌溪南歙邑
峽水繞村鄰
歲歲雙樟老
年年古廟新
堆墻寒露隔
石路碧流淪
但聽奔湍響
既无轉木輪

落款印01

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