金農の方密庵へ宛てた尺牘 〜揚州八怪展
「揚州八怪展」前半は観覧する時間に恵まれなかったが、展示替え後の最終日に行くことが出来た。長雨の晴れ間で非常に蒸し暑い日であった。
大阪阿倍野にある大阪市立博物館は良い博物館だが施設が古いため、冷房は効いているが、おそらく除湿機能が弱いのだろう。なかなか汗が引かなかった。観た事もある作品も多く、初見の作品に時間を割くことにした。
なかでも金農の「行書尺牘」を観る事が出来たのが収穫である。これは方密庵(ほうみつあん)こと方輔(ほうほ)へ宛てたものであり、書冊にまとめられている。見開きで左右2通の尺牘が展示されていたが、図録には右側の尺牘しか掲載されていなかった。図録に掲載されているだろうと思って、左側の尺牘の内容を記憶(記録)しておかなかったのが残念である。「送画冊求潤筆料旬旬」というような事が書かれていたように思う。
方密庵については周紹良『清墨談叢』に数件の墨が掲載されている。また汪節庵の項に梁同書の書いた墨賛が掲載されていて、その文中「近世藝粟斎、名興昔彷彿、亦有密庵老、倣古意傾豁。汪君乃後起....」とあり、周紹良は汪節庵が方密庵の後、おそらくは乾隆三十年頃に創業した、と推測している。さらに方密庵と汪節庵の墨型や墨銘の類似性から、汪節庵が方密庵を継承した墨匠であるという説もある。
方密庵は金農と親しく交際した事が知られているが、金農の依頼で製した墨もあったであろう。「清墨談叢」の汪節庵の項に掲載されている「五百斤油」墨の墨銘の書体、特に「乾隆丙午年造」は金農の”漆書”の書風を彷彿とさせるものがある。
「五百斤油」墨は背面に「金冬心先生」と銘の入った墨の作例も知られ、あるいは方密庵が金農の為に創案した墨なのかもしれない。また方密庵の項にある「古隃麋」墨と、汪節庵の「古隃麋」もまた、書体や意匠が酷似している。
現代でも徽州の墨工場は旧家に眠る墨型を蒐集し、補修して墨の製造に利用することがある。その場合、側款の墨匠名や年号だけは改めることが行われるが、昔からそのような事が行われていたのだろう。
金農の方密庵へ宛てた尺牘は書冊に十数通あるというが、他の尺牘に具体的に墨の贈答ないし購入に関する内容が書かれているかもしれない。今後そのすべてを観る機会があるだろうか。
金農の生卒は1687年(康熙二十六年)-1763年(乾隆二十八年)であり、仮に金農の墨を汪節庵が製していたとすると(周紹良氏の汪節庵創業時期の推察が正しければ)それは金農の最晩年、という事になってしまう。やはり方密庵が先にあり、その墨工の汪節庵が製墨法を継承するなり独立するなりした、と考えるのが順当かもしれない。
そもそも「密庵」というと北宋に密庵禅師こと咸傑(1118-86)がいるが、方密庵の”密”は、むろん仏典における”密”の意味もあり、かつ北宋の著名な禅僧と同じ号を名乗る以上、方輔が禅に心を寄せていたことは疑いない。ちなみに金農が揚州で仮寓したという西方寺(現揚州八怪博物館)も禅宗の寺である。また旧揚州博物館のあった天寧寺もやはり禅宗の寺である。
密庵禅師とほぼ同時代にやはり禅宗の高僧である釋智鑒(1105〜1192)がいる。釋智鑒は号を足庵といい、滁州全椒(現安徽)人であるが、その詩に
竹密不妨流水過
山高豈礙白雲飛
という詩句がある。
竹は密生して茂っていると言っても、流れる水を妨げるものではなく、高い山が聳え立っているとしても、白雲は流れてゆく.....禅の境地を現した美しい詩句である。
密庵の”密”を「竹密不妨流水過」における密の意とすると、竹林の中の閑静な庵を意味するのではないだろうか。とすれば、汪節庵の”節”の意味も見えてくる。”節”という文字は竹冠を戴く文字だけに「竹節」が原義であるが、”節”には接ぐ、という意味もあるり、これが方密庵を継承した事を暗示している、とも読める。
方密庵の墨の例を求める事は難しい。雍正から乾隆年間前半にかけて墨を製していたのであれば、もう少し目にする事があっても良いのではないか?と思う。これは製造した墨が少なかったというよりも、実際に使用されてしまったから、という事も考えられる。方密庵の作行きは装飾が少ない簡素な作例である。贈答され収蔵される墨の雰囲気ではない。半面、汪節庵は墨銘だけの簡素な墨もあるが、非常に緻密な墨型で製せられた華麗なセットの墨も少なくない。方密庵よりも時代が下る事以上に、磨る事が惜しくなるような優れた外観ゆえに残っているのかもしれない。
鄭板橋と並んで揚州八怪の領袖と目される金農であるが、彼の本分は書画ではなく、金石学の研究である。古代の文字の研究であるが、今風に言えば考古学という事になるだろうか。いわば方輔は共同研究者、というところである。同時に徽州商人の常として画商でもあり、金農を筆頭に揚州八怪の書画の流通にかかわったのだろう。このあたりは研究すれば面白い事が見えてくるかもしれない。
清朝期の徽州の製墨家はざっと一千家と言われるが、墨銘に名前が残っているそのすべてが実際に墨を製していたかはわからない。自分では造らず、依頼して造らせていた場合も少なくないと考えられるからである。しかし梁同書の墨賛に書かれている通りなら、方密庵は曹素功と並んで墨を製していた墨匠だったのだろう。曹素功からは汪近聖が独立創業を果たすが、方密庵を汪節庵が継承したとすれば、乾隆中期以降、汪近聖と汪節庵で名声を二分したというのもうなずける話である。
お店:http://www.sousokou.jp BlueSkye:鑑璞斎