墨、香、薬

古典落語の演目に「抜け雀」というのがある。小田原で宿屋を営む夫婦。旦那が客引きで呼び込んだ客が、大酒を飲んで7日も逗留するが、実は一文無し。聞けば狩野派の絵師だという。宿代がわりに衝立(ついたて)に墨で雀の絵を描くや、後日を約して宿を去る。その雀、朝になると衝立から抜け出して餌をついばみ、また衝立の中に戻る。これが評判を呼んで店は大繁盛するが.......もともと上方落語らしいが、米朝や志ん生、志ん朝ら名人が高座にかけきた噺(はなし)である。

狩野派の絵師は親子で登場する。初めに泊まって雀を描いて去るのが息子で、後に訪れて衝立に鳥籠を描きくわえるのが父親である。「狩野派」とあるだけで、誰とは明らかではない。江戸時代も中後期になると、「狩野派」を名乗る絵師は大勢いる。しかし衝立から飛び出るほどの雀を描ける名人といえば、やはり探幽前後の人物を念頭に置いているのかもしれない。ともかく衝立に描く場面で、墨は宿屋の主人に磨らせるのである。不承不承に墨を磨る宿屋の主人、墨を手に取ってふと匂いを嗅ぐと.......ずいぶんいい匂いが......と演(や)る。
 

「いい匂い」というのは、麝香をきかせた、おそらくは日本の墨であろう。ただ、狩野派の名人なら、やはり唐墨を使っていたのではないかと思うところであるが、ともかく世間一般ではいい匂いのする墨というのが「高級品」という認識があるのだろう。それを踏まえて、正体不明の「絵師」が実は只者ではない、というところを演じる部分である。
 

たしかに和墨の高級墨などは、麝香の香りの芬芬とした墨がある。これらなどは、唐墨の高級墨の配合に麝香があることに倣ったと思われる。聞けば膠の生臭い匂いを消すためであるという。しかし唐墨において麝香を配合するのは、香料というより漢方薬という観点からである。麝香も氷片(龍脳)同様、炎症鎮静の効果があるとされる。墨を単なる黒い色彩顔料という視点から見るだけでは、製墨文化の全体像はつかみがたい。また唐墨と和墨の、その色沢の性質の明確な違いも、あるいはそのあたりからくるのではないかと考えている。

唐墨の古墨は匂いがしないというが、稀に濃く磨って強く嗅ぐと、かすかに漢方薬のような薬っぽい匂いが感じられるものがある。しかし唐墨の古墨で麝香の香りを強く感じた墨は無い。また和墨の古墨などは、依然として馥郁たる麝香の香りを発するものがある。ゆえに唐墨のような恰好をしていても、磨って麝香の香りがするようであれば、それは唐墨ではない可能性が高いのである。


最近、黄山市の朋友が、薬墨の写真を送ってきた。見ると80年代ごろの胡開文の「八寶五胆」である。この名の薬墨は通例、金箔で巻いた細い六角柱をしている。しかし、この「八寶五胆」は廉価版なのか金箔は巻いてはいなかった。この墨を磨った墨液を、帯状の湿疹の膿みに悩む知人の父親の患部に塗布したところ、たちまち快方に向かったと言う。80年代の薬墨にしてもまだそれなりの薬効があったのかと、少し驚いた。このあたりの事情は、当方薬理の専門家ではないので伝聞を述べるにとどめる。しかし昔で言う徽州、現在の黄山市周辺ではまだ墨を薬として扱うことがあるのだな、思ったのである。
 

日本でもたまに薬墨を目にするが、ほどんと磨ってある形跡が無い。墨が薬になるというのは、日本人にはピンと来ないであろう。何に効くかもよくわからないので、金巻の完墨のまま残っているのかもしれない。
徽州の墨匠に言わせると、昔は戦乱の際に徽州からは墨工が駆り出され、彼らは戦傷薬として墨を携行したという。傷口に塗るのである。なるほど徽州のちゃんとした墨には氷片(龍脳)という香料にも使われる漢方薬が配合されており、これは外用すれば痛みどめや防腐効果があるという。むろん、傷にも悪くないのかもしれない。また松煙も炎症を抑える効果があるという。先の徽州の朋友の話にしても、皮膚の疾患に効いたというのはなるほどと思わせる。
 

唐墨と漢方薬の関係については、以前調べたことがあり、ここでも述べたことがある。概ね、唐墨の発展は漢方薬の発展と密接な関係があったと考えられる。唐代の墨は松烟を鹿角膠で固めたものと伝えられるが、松烟も鹿角膠も漢方の薬剤である。そもそも粉末を膠で固めるという発想が、元は漢方の製薬技術からの派生をうかがわせる。古来、丸薬を固める媒材として膠がもちいられるからである。
唐代の官製の佳墨は松烟に鹿角膠を使ったといわれるが、古来、黒い顔料は松烟に限らない。木炭や黒鉛などでも用は足せるはずで、ことさら松烟が用いられた理由も考え合わせる必要があるだろう。その膠に麝香や氷片などの香料を配合するという発想は、あるいは漢墓に見られるミイラの製法に起源を求められるかもしれない。エジプトのミイラに施される防腐香料と同様、皮膚の形質を損なわないための処方なのだとすれば、おなじコラーゲンを主成分とする牛の皮や鹿の角で造られた膠にも効く、という考え方をしても不思議ではない。

墨は長く寝かせることで膠が”枯れて”作用が弱くなり、粘りが消えて使いやすくなるという話がある。それはあるいは和墨に対しては当てはまるかもしれない。しかし唐墨に関しては、おそらく何十年、何百年たっても膠の効力が失われないような墨が追及されたのではないだろうか。経年によって膠の効力が失われるという事は、使用したのちも膠が弱くなってゆき、ついには剥落してしまう事を意味するからである。
 

漢代の墳墓の壁画を描くために使われた顔料は、色彩もさることながら、その材料そのものに、おそらく思想上の意味があったのではないかと考えている。赤い顔料に丹砂が使われたのは、堅牢な赤色顔料がほかになかったという以前に、神仙思想の死生観に拠った理由付けが可能であろう。同じ意味で、漢墓で「墨丸」という松烟をまるめかためた固形墨の祖型が発見されているのも、松烟が顔料以外の意味で使用されている事を示唆している。おそらくは老松の巨木が青龍にたとえられるように、神仙ないし五行思想を源泉とする、なにがしかの理由があったのかもしれない。唐代の出土硯に亀、いわゆる玄武の恰好をしたものや、鳳池、すなわち鳳凰の姿を模したものが散見されるのも、当時の葬礼にまつわる宗教的な儀式との関連を暗示している。しかしこうした儀式にまつわる記録というのは、真言密教の秘儀がそうであるように、克明に文献に残される性質のものではないだけに、今となっては論証できかねるのが残念なところである。

色彩が氾濫している現代では忘れがちであるが、「色」という語はそもそも人間の認識過程の一部を表す形而上の概念である。それを顔料を配合しながら自在に現出させるという行為自体、ある種の魔術的な意味を帯びていた時代があったのだろう。それは幻覚作用を引き起こす薬物と同様、この世にあらぬものを知覚させるという意味において、墨や丹砂なども現代人が考える顔料とはちがった意味合いを持っていた、と考えられるのである。
 

話は変わるが、子供の頃”お習字”に通っていたときに、梅雨の時分には固形墨をよく腐らせた。墨は腐ると膠の作用が弱くなり、濃く磨っても筆線の外縁が淡くにじんでくる。また磨った液も生臭く、嗅ぐと鼻に刺激臭がする。そもそもお習字の後で道具を広げて乾かしておけばいいものを、当時は心得も悪く、そのまま書道用具箱に入れたまま遊びに行ってしまうからこうなる。次に開けるのは”お習字”のある翌週なのである。思えば当時は高価な唐墨など使っていたはずがなく、日本の墨でも学生用の廉価な墨であったのだろう。腐ったからと言って新しく買ってもらえるわけではないから、早く使い切ろうと躍起になって磨ったものだ。一度腐った墨というのは乾かしても駄目なもので、以後妙にやわらかい磨り味になる。
長じて唐墨を使うようになってから、思えば墨を腐らせた覚えはない。管理に気を遣うようになった、という事でもあるが、適当に放って忘れていたような墨でも、唐墨に限っては腐ったものを見たことが無い。
湿気の強い大陸では”いい加減”に造られた倣古墨が、骨董屋の片隅で黴臭くなって転がっているのは珍しくないが、これらはもとより材料の配合に信をおけるものではない。”まとも”な墨に、防腐効果のある漢方薬材が使われているのであれば、膠が多少の湿気を吸ったところで、腐敗には至らないのかもしれない。
 

往年の映画”ラストエンペラー”。少年皇帝の溥儀が宦官の忠誠心を試めすために、(いじめで)多量の墨液を飲ませるシーンがある。いかにも残酷で、皇帝の我儘ぶりを示す場面として挿入されているのであろうし、事実少年皇帝は宦官を人間とは考えていなかったのである。
この場面をみた大半の人、とくに西洋人にとっては、毒でも飲まされた如く見えたであろう。おそらくこの宦官は後で死んだのだと思ったかもしれない。しかし、実際にこのようなことがあったとしても、たぶんその宦官は死ぬようなことはないだろう。どころか、皇帝が使うほどの墨であれば漢方薬がふんだんに配合されており、かえって健康になったかもしれない。試験に臨む士大夫は、文章の上達を願って墨液を飲んだという。墨を飲まされるというのは(映画の演出上の主旨とは違うが)清朝の宮廷にあっては、かならずしも屈辱的な事ではなかったかもしれない。
 

墨の薬効を思わせるのに、いまひとつ”箱”の話がある。清朝の御墨、あるいは汪近聖や汪節庵などの高級なセット墨には、墨が1個ないし2個づつ、紙箱に入れられている場合を散見する。たとえば八本組みで漆盒に入っている場合でも、2本づつ四組みの箱入りになっているのである。紙箱といっても、紙の上に錦を張った瀟洒なものである。またそうした墨の多くは、一本一本が黄色い絹地でぴったりとしたケースに収納されているものである。時代を経ている事であるし、こうした紙箱や絹地も蟲食いになっている事が多いかというと、そうでもない。否、むしろ、蟲食っているケースなどは僅少である。

康熙や乾隆の墨で、外箱の漆が湿気で相当に痛んでいる場合などでも、中の紙箱は、蓋が開閉ですり切れてしまっているのは仕方がないとしても、割合しっかりしているものである。墨の紙箱に蟲がつかないというのも、やはり墨に配合された漢方薬を蟲が嫌うからではないだろうか。
 

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明墨信仰を考える

日本にはどうも明墨信仰、とでもいうべきか、明代に製せられた唐墨をやたらとありがたがる傾向があるようだ。それは今に始まったことではなく、江戸から明治にかけての書壇や画壇では、明墨に対する尊崇の念がことさら強いように感じられ、それが今もって日本画の世界などに継承されていることが感ぜられる話を聞くことが多い。横山大観の生生流転は明墨で描かれた、という類の話である。
 

明代後期から末期、日本の戦国時代から江戸初期においては、確かに大陸から相当量の墨、とくに徽墨が輸入されていた形跡がある。今も徳川美術館に多く残る唐墨は、大半はこのころ輸入されたものだろう。ところで日本で植物油を熱した油烟墨の製造が本格的に始まったのは、江戸初期、徳川幕府の奨励もあって菜種油の量産が可能になった頃からである。戦国時代は油脂は大層な貴重品であり、美濃の斎藤道三が身を起こした荏胡麻の油などは、寺社仏閣の灯明として、ヒトのためではなく神様に奉げられた品だった。なので国産できるのは、松烟墨か、あるいはカマドや灯明からかきとった”スス”を利用した、ごく質素なものに限られていたのである。また油烟墨が量産できるようになった江戸時代とて、油烟墨は大変な高級品で、使用出来る人達は限られたものだった。商人の帳簿の書付などは、相変わらず”回収煤”を利用した、安価な墨が使われていたのである。
 

江戸時代初期までの油烟墨といえば大陸より輸入するしかなく、高級品であったとしても、あるいは国産するよりはまだしも廉価であった可能性がある。日本の松烟墨の製法は大陸の松烟墨の製法とは異なり、普通の松の木そのものを燃焼させるため、ススの粒子が大きく、油烟墨ほどの黒さは発揮されない。日本の知識人層が渡来品の唐墨の黒さと艶に憧れたのも、無理からぬことだっただろう。江戸幕府は鎖国政策をとっていたものの、筆や墨などは、ある程度の量を大陸から輸入されていた。日本の製筆業などは、原料は輸入しなければ成り立たなかった産業である。日本の古梅園には、曹素功との製墨に関する交流の記録が残っている。
 

しかし明代の墨に比べて、清朝の墨が日本で伝世している例は、ことのほか少ないものである。江戸時代から伝わる汪近聖、汪節庵などはまずお目にかからない。それはおそらく、当時の日本人が明王朝が滅んだ後も、「明墨」を求めたからではないだろうか。実際に、墨は型があれば同じ恰好をしたものを作ることができる。型は墨匠ごとに保存され、繰り返し使われる。今現在でも、清朝から残る型を使った倣古墨が「古墨」として流通している現実がある。明代末期から清朝にかけて、同じことが行われていなかったとは考えられないものである。当時の日本人にしても、清朝初期において大きく変わってゆく唐墨の質や意匠の変化についてゆくよりは、「明墨」に対する憧憬を継続してゆく方が、心情的にしっくりくるものがあったのかもしれない。そして何より、舶来された墨の図案集、方氏墨苑、程氏墨譜の影響力は絶大だったことだろう。
ゆえに以降の日本において、唐墨といえば、明代の墨のスタイルが定着してしまったと考えられる。また江戸時代に大陸から輸入された墨は、大半が「明墨」の姿をしていたのではないか?と考えている。
 

また、日本の墨匠も、好んで明代の墨を模した墨を造った形跡がある。型は「墨譜」から採れば良いし、あるいは墨型そのものが伝来することもあった。唐墨、明墨を模した方が、単純に売りやすかったからだろう。
今現在、巷間で「明墨」として通っている墨の多くは、実際は江戸時代に日本で造られた、いわゆる”江戸和墨”がほとんどである。それは外観は似せることが出来ても、質までは複製出来ていなかったために見分けられるのであるが、実のところそれに気づく人は少ないものである。江戸初期に油烟墨の製法が日本に伝わった事は確認できるのであるが、墨用の膠の製法や、漢方薬の配合などの秘密は、ついに伝わらなかったのだろう。大陸における墨の製法は、漢方薬の配合技術が基礎になっている。いうなれば製薬技術がもとになっているのである。
しかし和墨の製造においては、初めから黒い「顔料」としての墨を求めたのであって、その製法も顔料としての「スス」と媒材としての「ニカワ」の配合という発想の範囲内である。高価な麝香も「漢方薬」としてではなく、香りをつける「香料」として添加されたのである。
いうなればそれぞれの技術が基礎を置くところの思想が根本的に違っているのである。それが同じ「墨」とはいえ、唐墨と和墨に顕著な違いが現れる所以であろう。
 

以上を踏まえて「明墨信仰」に話を戻せば、実のところ日本では「明墨」で通っている墨の大半は和墨であるし、ある部分は清朝の墨であると察せられるのである。「明墨崇拝」を信奉する人が明墨と思い込んでいる墨の多くは、間違いなく明代に作られた墨である可能性は僅少である。どれくらい少ないかといえば、かくいう小生の経験でも、明墨間違いないといえるほどの墨、しかも博物館の収蔵ではなく市場にあって、ちょっと磨ってみても構わない、という状態の「明墨」を過眼したのは、ほんの数点に限られる。確実に清朝康熙年間から乾隆くらいのまで佳墨なら、過眼したのは種類にすれば数十点という単位になる。これが質はともかくとしても、時代は少なくとも清朝、というまでに範囲を広げれば千点くらいにはなるかもしれない。それほどまでに、古い時代の墨は少ない。もともとの生産量が少なく、使えばなくなるのだから、当然といえば当然である。民国時代の墨と比較した場合、確実に清朝の墨と言える墨の数は、経験的には民国の墨100に対して清朝の墨は1もないかもしれない。70年代以降に造られた墨と、民国時代に造られた墨の現存数を比較すれば、その比率はどうなるであろうか?という事を考えてみるのも良いかもしれない。

いまひとつ懸念があるのは、今残る明代の墨のうちどれほどの数の墨が、果たして今も実用に耐えるか?という事である。唐墨は耐用年数が長いことにも特徴があるが、400年以上も経過していると、さすがに膠の効力が尽きている可能性をぬぐえない。「徳川美術館」の明墨を集約した「古墨 徳川美術館」には試墨の見本が掲載されているが、その多くが膠の効力が尽きていることをうかがわせる墨色である。古い墨において、膠の効力が尽きるとどうなるかというと、ススが水にうまく馴染まず、粗い粒子として浮いてしまうのである。しかし三百年前の康熙年間や二百五十年前の乾隆年間の佳墨は、依然として膠は生きており、書画に使うことが可能である。それは明代と清朝の百数十年の時間の隔たりによる差か、品質の差であろうか。あるいはその両方かもしれない。清朝の佳墨は、明代の普及品よりは配合の妙が上回っている事だろう。同じ時代に作られる墨にも当然上下がある。膠の良否や、使用する貴重な漢方薬剤は、材料原価に跳ね返るからである。
なのでもし明墨と称される墨で、今現在も唐墨に特徴的な墨色を発する墨があるとすれば、それは清朝に作られた墨である可能性を考慮した方が良いだろう。清朝においても、明代の墨を目指した製墨が行われてもいたし、同じ型を使った倣古墨も、相変わらず造られ続けていただろう。使用するものとしては、結局のところ良い墨なら良い、という話に落ち着くのが本筋ではなかろうか。
 

どうも「明墨信仰」に懐疑的になってしまうのは、和墨と明墨を誤認している事例があまりにも多いからでもある。その墨がなにゆえ明墨ではないかと問われれば、これはすくなくとも大陸で造られた墨ではありません、ということがほとんどなのである。唐墨と和墨の違いを認識できていなければ、それは明墨云々以前の話になってしまうのである。

それにしても何故、清朝をすっとばしていきなり「明墨」を求めるのだろうか。いやいや、中華民国の墨もある。清朝の佳墨であっても大変少ない、というのが現実である。もっといえば、70年代の油烟101も今や市場で見かけることは稀なのである。70年代と80年代の墨の質の違いを認識するにしても、キチンと硯を整えて真面目にやらないとたちまちおかしな方向へそれてしまう。
正しく明代の墨と、清朝の佳墨を比較したうえで「明墨」という事であれば腑に落ちるわけであるが、残念なことにそれを十二分に研究できるほどの資料をそろえるのは至難の業である。世間の「明墨崇拝」は、それを行った上での事なのか、それとも昔のエライ先生のいう事を鵜呑みにしているだけなのか。
なにより明墨以前に、墨の質の違い、良し悪しを知るべきであろう。和墨と唐墨の違い、質の良い墨と劣った墨の違い、それに新しい墨と古い墨の違い、少なくともそういった事を認識できることが必要だろう。加えて表現者であれば墨の磨り方や濃度、紙による発色の違い等々、その変化は無限にある。ひとえに「明墨」をもってくれば万事解決、と言えるほど単純な話ではないのではないだろうか。明墨の威光の前に、思考停止してしまってはいかがなものか?というところである。
 

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墨と化粧品と

1月の初旬、韓国から若い画家の来訪があった。仮にP氏としよう。彼はまだ20代半ば過ぎの若さであるが、画材を買いに時々日本へ来るという。彼は画に使う墨を探していて、相談を受けたのである。

さて事前のやりとりで察するに、若い彼は英語にとても堪能なようなのであるが、小生はまったく自信が無い。茶飲み話もあやしいが、まして墨や墨色に関する微妙に感覚的な話となると、うまく伝える自信がまったくない。せっかく来てもらって、もどかしい思いだけ残るのもなんであるから、あらかじめ通訳を探すことにした。日本語対英語の通訳ではなく、せっかくならばとハングル対日本語の通訳である。お互い母国語で話せるに越したことはないのである。

旧知の大学の先生に「韓国からの留学生いませんか?」と聞いてみたのであるが「韓国の留学生はあいにく身近にいませんが、ハングルが出来る中国からの留学生ならいますね。」といって紹介してもらったのが、延平から交換留学で来ていたWさんである。彼女は中国からの留学生と言っても朝鮮族の人なので、ハングルが「母語」なのである。ハングルが「母語」で大陸の普通語が「母国語」というのは、感覚的にわかりにくいが、ハングルのネイティブということに違いはない。また交換留学での日本滞在1年足らずにも関わらず、日本語にも大変堪能である。(Wさんも湖南のYさんと同じく、先日帰国していった。)

「墨について」といっても、会合での話の重点は日本の墨ではなく、大陸古来の墨の話になる。画家のP氏はそれまで日本の墨を使用していたのだが、表現上の必要性から中国の墨に関心を持ったのである。墨による墨色の違いを知って、表現に応じて使い分ける事を考えるあたり、彼は非常に良い感性をしているなあ、とおもった。そこで時間の大半は中国の古い工芸文化について、日本人が韓国の人に説明をするという、ちょっと珍しい機会となったのである。しかし朝鮮族出身のWさんに通訳をしてもらったのは正解であった。
語学に長けたWさんとて、文房四寶や墨について深い知識が事前にあったわけはないのであるが、そこは大陸の人なので、それぞれがどういうものか?くらいはもちろん知っている。話の中で「膠」とか「煤」、墨の製法、あるいは硯や紙などに話が及んでも、さほどの説明を要さずにスラスラと通訳が進んだ。また古い墨の話に及んだ時に「康熙、乾隆」といっても、すぐに通訳してくれる。日本語で「ニカワ」と言うとすぐにはわからないようだが、単語くらいは中国語の発音で「膠」と言えばすぐに理解してくれる。これが大陸の歴史文化にまったく予備知識の無い、単に「ハングルの出来る日本人」などであれば、通訳への説明に時間を要してしまったであろう。おかげで短い時間ではあったが、小生にとっても非常に勉強となる、充実した会合となった。
さて、本稿の主題はこの韓国の若い画家との、墨と表現にまつわる微妙で興味深い話ではない。それはそれでまた別の機会に紹介するかもしれない。

おおむね、スラスラと通訳が進んだのであるが、墨の質の違いがもたらす色や艷の違いについて説明するとき、Wさんが少し怪訝な顔をした。そこで会合にオブザーバーとして同席していただいていたH先生が、その点について「たとえば、顔に塗る化粧品によって肌の色艶が違って見えるようなもの。高級な化粧品と安物では、やっぱりちがうでしょう?」という”喩(たとえ)”で説明したら、Wさんも得心がいったようで「わかります。私も故郷にいたときはずっと”シャネル”のファンデーションを使っていましたが、日本に来てからはちょっとお金がなくて”DHC”をつかっているんですが、やっぱり全然違います。」という........ここでは汪近聖、汪節庵レベルの墨と、他の凡百の墨の効果の違いについて話をしていた下りだったのであるが、Wさんの何気ない一言で少し意識が別の方へ逸れてしまった.........え、最近の中国の女子学生は”シャネル”の化粧品使っている??

...........”シャネル”はともかく、大陸の女性はあまり化粧をしていない印象があった。特に若い人ほどしないものであった。美容に収入の大半を費やすのは事実のようだが、顔に塗る化粧をあまりしない代わりに、美容効果のある健康食品やサプリメントなどに資金を”つぎ込んで”いるイメージである。それも変わってきているのか。そういえば、上海の歳若い朋友も「最近の若い女性は本当の顔がよくわからないんですよ。」と嘆いていた...............「男は女の本当の顔ほどには、本当の心を知ろうとはしない。知りたくはないからである。」なんて。

「新粧(しんしょう)」という詩語がある。李白の「清平調詞其三」にも

借問漢宮誰得似
可憐飛燕倚新粧

とある。この詩で李白は、楊貴妃を趙飛燕の「新粧」した姿に喩えて詠っている。「粧」は「よそおい」という意味を含むから、顔に塗る化粧だけを指すのではないが、より端的には”化粧”である。蘇軾の「西湖雨後」にも

欲把西湖比西子
淡粧濃抹總相宜

とある。詩の大意は、杭州の西湖の晴雨の風情を伝説の美女西施にたとえれば、「淡粧(晴れの景色:薄化粧)も濃抹(細雨濛々たる景色:濃い化粧も)どちらも美しい」というわけである。中国では学校で暗誦させられるので蘇軾の詩の中でも良く知られている。
西湖の景観を讃えた詩なのであるが、現代では最後の一句のみが独り歩きして「美人は化粧をしていてもしなくても美人」あるいは「美人は何を着ても美人」のように使われてしまっている。

紅楼夢の第四十四回では、宝玉が熙鳳に打擲されて泣きはらした平児の、化粧なおしを手伝ってやる場面がある。

「又笑向他道“這不是鉛粉,這是紫茉莉花種,研碎了兌上香料制的。”平兒倒在掌上看時,果見輕白紅香,四樣俱美,攤在面上也容易勻凈,且能潤澤肌膚, 不似別的粉青重澀滯.........また彼(宝玉)が笑って言うには「これは”鉛白”などとちがって、紫茉莉花の種で出来ていて、すりつぶして香料と混ぜてできています。」平児が掌にとってみていると、軽さといい、白さといい、ほんのりと赤味のあるところといい、また香りの良いところなど、すべての点で優れており、顔になでつければよく伸び、また肌をしっとりとさせるところなど、粉青(金属の酸化物、化合物などの顔料)をつかった化粧品の重くなじまないのとはまったく違っていた.......」

「紫茉莉花(ムラサキマツリカ)」は、日本でいうところの”オシロイバナ”である。黒い種を割ると白いでんぷん質の粉が出てくるのであるが、ママゴトの世界で”おしろい”の代わりに使われるからこの名がついているという。しかし子供の”ママゴト”にかぎらず、実際に大人の化粧品として使用されていた、という話もある。
宝玉が持ち出した「おしろい」は、このオシロイバナを精製したものだろうか。対して鉛白は古来からある炭酸鉛を原料とする「おしろい」で、良く知られているように有毒物質だけに、長期間の使用は肌に有害である。宝玉は口紅を食べるような嗜好のある少年であるが、体に有害な品は口にしていなかったのかもしれない。
Wさんにとっての”シャネル”と”DHC”の違いは、あるいは「紫茉莉花」と「鉛白」の違いか......いやそれほどではないか。

..........話がそれたが、現代はともかく、大陸の女性は伝統的には化粧好きだったのかもしれない。それが一時的に無くなってしまったのは、やはり70年代の文革の影響を否定できないところだ。また逆に考えれば、歴史的には(現代と違って)化粧をした女性を男性が好んできた、ということかもしれない。いやいや、男性の好悪に限らず、女性は「粧(よそお)い」というものが好きなのである、という話もある。ともかく見た目美しければあとは演技でもなんでもいい、という価値観も古典文学の世界などからはうかがえなくもない。極端な姿があの京劇の”隈取(くまど)り”.......なのかどうかまではわからないが。
が、少なくとも最近の大陸の女性にとって、”化粧”に対する抵抗感が急速に無くなってきているのは事実なのだろう。その変化についてゆけない、男性の側の抵抗感がまだ残っているにしても。

どんどん墨から話が離れてゆくようだが、ここで戻る。化粧の中に「眉墨(まゆずみ)」というものがある。今や書画に使う墨とは別物とされているが、古来はそもそも同じ品であったのではないか?と小生は考えている。古い化粧道具の中にも、「眉墨」を磨るための小さな硯などを見る事もある。すなわち、書画に使って優れた墨は、あるいは「眉墨」に使っても優れていたのではないだろうか?また服用しても大丈夫な材料で造られていた墨は、肌に塗布しても問題は少なかったことだろう。

それにしても昨今、化粧品ほどには墨色にうるさい話を聞かない。今や女性の顔ほどには真剣に書画を観ていない時代なのかもしれない。画家のP氏は、人物画を描くときに使う墨を求めていたのである。いままで使っていた日本のある種の墨の色沢では、どうしても不満があるのだという.......彼は将来、きっと優れた画家になるだろう.........現実の人間の顔も、画に書いた顔も「好ましく見える色」というのは、さほど大きな違いがないのかもしれない。墨色は使う紙の性質によって大きな影響を受けるが、あるいは肌の状態によって化粧の状態も.......というような話も出来るかもしれない。「化粧のノリ」というような事を聞くが、「墨のノリ」の良い紙と悪い紙と言う者は確かにある。滑らかな紙に胡粉を磨り込んで磨き上げた加工紙があるが、これなどもさしずめ.......ファンデーションを塗り込むようなものなのかもしれない。
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三折寒膠

寒膠


”寒膠”という語がある。寒い時期の膠、という意味であるが、冬ではなく秋ごろの膠を指す語である。また大陸北方地域を前提としている。
墨の性質にも表れているが、膠は乾燥を好み、湿気を嫌う。夏の高温多湿では、膠も湿りがちで弾性が弱くなる。これが気温、湿度ともに下がる秋になると、乾いて強度が増してくるのである。古代においては、膠は接着剤、樹脂材として重要な役割を果たしていた。特に強い弓を作る材料として、膠は不可欠であった。
漢代以前より、繰り返し中原に侵入を図ってきた北方の騎馬民族は、騎兵の機動力と、強力な”弓”が軍事力の頼みである。彼らが馬上でひく、軽くて強靭な弓の制作に強い膠が必要とされた。当時の弓は、木材を芯として、動物の角や骨を薄く削ったもの、また乾燥したアキレス腱など、弾性の強い材を何層にも張り合わせて作られている。この接着に膠が用いられるのである。そして膠自体の弾性も弓の強弱に影響するのである。
弓の材料を貼り合わせている接着剤が湿度によってゆるむと、弓の張りや復元力にも影響する。湿度と温度が高い夏場の時期は、膠も幾分緩んで、射程距離や命中精度も悪くなるとされた。ゆえに”寒膠”はより直截的には”強い弓”を意味する語でもある。

北齊の樊遜「禍福報應對」に“三折寒膠,再遊金馬”という句があるが、”三折”というのは”折れる”ことではなく、弓のしなりかたである。すなわちこの”三折寒膠”は強い弓を指しているのである。
また唐の駱賓王にも”虜地寒膠折,邊城夜柝聞”とある。この”虜地”とは、異民族の住む北方辺境を指す。また夜柝は警戒を喚起する打楽器の音であり、”寒膠”の季節の北方の緊張感がうたわれている。

秋にはいわゆる”秋高肥馬(秋の空は高く、馬は肥える)”という語もあるが、これは秋になると北方異民族の馬が肥えて、長距離移動が可能になる、ということを指している。すなわち秋は北方異民族の活動が盛んになる時期であるから、大陸北辺の国境地帯は緊張したのである。それと併せて「寒膠」は、異民族の弓の威力が増すということで、その武力が警戒される時期でもある。
騎馬民族の用いる弓の製法というのは複雑で、なかなかまねることが難しかったようである。ひとつには膠の製法に要領を得なかったのかもしれない。膠は材料を煮出して作る工程も大切だが、材料の選別も重要である。日本でも伝統的な弓の制作には、接着剤として膠、それも鹿皮の膠が用いられるという。弓用の膠の製法にかけては、動物の扱いに長けていた北方異民族が優位に立っていたのかもしれない。対する漢族の方は、より機械的に威力をたかめた”弩”と歩兵戦術で対抗するのだが、馬の品種改良と弩の強化により、漢代の武帝の頃には北方の脅威を払いのけることに成功している。

膠と筆書


この”寒膠”という語が示すように、古代から膠は接着剤として重要な役割を担ってきた。松の樹液から製した”松脂”と並んで、人が身近に扱える樹脂のひとつであったのだろう。膠は乾燥すれば固く軽くなるので、持ち運びにも便利である。
古く漢代は、墨液を得るのに媒材として”漆”が用いられた、という説がある。しかし漆はもともと南方の植物であり、膠のように固形で持ち運んで再度溶解して用いるようなことはできない。漢代の皇族の墓からは優れた漆器が出土しているから、塗料の媒材として漆が使われていたのは間違いないが、筆書にもちいられていたのかどうか。楼蘭や敦煌周辺では、木片に記された筆書、いわゆる木簡が出土する。このような北方で、膠をさしおいて漆が用いられたというのは、少し考えにくいことである。木簡ないし竹簡の書の成分を分析すれば、膠成分がわずかに残っている事が確認できると思うのであるが、そのような分析調査はまだ聞いたことが無い。

膠と製薬


膠を溶解させるためには常に煮溶かさなければならないわけではなく、固体の膠を硯で磨っても溶解する。最初期の墨は”墨丸”といって、松烟を丸めただけのもので、それを石板の上ですりつぶして用いたという。そこへ溶かした膠を混ぜて用いるのは、それほど手間を要することではない。また墨丸をまるめるてカタチを保つための材料に、すでに膠が用いられていたとも考えられる。
膠は製薬業においても重要な材料であるが、膠自身に薬効が認められていた上に、丸薬を固めておく材料として、遅くとも漢代にはすでに用いられている。また松烟そのものが漢方の材料であったことと考え合わせると、最初期の墨丸という墨の形状の成り立ちにも説明が与えられそうである。松烟は止血に効果があるとされ、戦地には欠かせない物資でもあった。清朝においても”薬墨”が作られ、現在も散見されるが、製墨業は歴史的に製薬業と密接なかかわりをもっていたことをうかがわせる。

再び墨用の膠


ある日本の筆匠から聞いた話であるが、日本で墨専用の膠を作る職人は10年くらい前に最後の一人が亡くなり、絶えてしまったのだという。老舗は多量の在庫があるので当面は大丈夫だろうが、作れる数にも制限が出てくるだろう。これも心細い話である。
大陸でも墨専用の膠は、広東膠、いわゆる”広膠”と呼ばれる膠があった。”広膠”は明代の程君房も程氏墨苑の自序文で触れているから、昔から墨用の膠の主原料として知られていたのだろう。また”広膠”は墨の原料であると同時に、やはり薬材でもあったという。
この”広膠”の製造は、70年代末に一度途絶えている。ゆえにどう頑張っても、80年代の上海墨廠の墨は70年代の墨にはその墨質が及ばない。何年寝かせても同じである。70年代で比較しても、初頭と末年では質に開きがあるのだが、80年代との差は隔絶としたものがある。

数年前から墨匠自身が墨用の膠の製造に着手している。墨匠が言うには、良い墨をつくるには、やはり膠の製法が良くなければいけない、という。乾燥した膠は、溶解して煮詰めればどのようにも性質が変わるように思えるが、実はそうではなく、原材料から作る過程で膠の品質が決まるのだという。ゆえに悪い製法で作られた膠では、その後どんなに手を加えても、良い墨にはならないのだそうだ。なので墨用に造られていない膠を使った場合、どう頑張っても限界があるのだそうだ。膠の製法を喪った日本の墨の伝統の先行きにも不安なものがある。仮に大陸から墨用の膠を輸入したとしても、和墨の性質は従来とは違ったものになるだろう。
”膠”すなわちゼラチンであるが、現代では食用のゼリーが身近である。他に膠の性質の違いについては、現代人はあまり意識する機会はないだろう。現代においてさまざまな合成樹脂が研究されている如く、古代においては膠の製法や性質が深く研究され、それぞれの方面で様々な製法があったようである。しかし墨用の膠と同様、時代の変化とともに継承されることなく消えていったのだろう。

ともあれ、強い弓矢と同様、墨も膠が重要であることは、これを強調して過ぎることはない。また季節によって膠の性質が変化し、これが墨に影響するのも同様である。墨を磨ることを通じて、季節の変化を知ることも出来るというわけである。
”寒膠”は古代北方の荒涼とした風景と、戦いが想起される殺伐とした語であるが、”寒膠”の秋は同時に墨を磨るのに良い季節でもあるわけである。戦時と平時の対比を想いながら、秋の夜長にゆっくりと墨を磨り、墨戯に興じるのも、また楽しい過ごし方ではないだろうか。
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和筆の筆匠と膠の話

和筆の筆匠との会話


お店の販売では唐筆をもっぱらとしつつも、個人的には一部は日本の筆も使用している。もっとも今の日本の市場では、和筆のような恰好の筆であっても実際は大半が大陸で作られた筆なのであるから、日本では筆を作った筆匠と直接会話できる店でしか買うことはない。
とある日本の筆匠との会話の中で、筆と墨の関係の話になった。筆匠が言うには、良い筆を使うなら絶対に墨汁は使ってくれるな、ということである。筆匠の言葉を借りれば墨汁には「ボンド」が入っており、これが筆の毛を駄目にしてしまうのだという。使ってすぐに駄目になるわけではないが、大事に使えば何年も何十年ももつはずの筆でも、墨汁を常用していると1年くらいで駄目になるという。どういうことかと言えば、筆の毛の付け根の方が痩せてくるのだそうだ。それで毛が切れやすくなり、あっという間に寿命が尽きると。「良い羊毫は、一度でも墨汁を使ったらアウト」なのだそうだ。
さらに「日本の固形の墨のなかにも、ボンドを使ったものがある」という、驚愕の事実を語ってくれた。無論、すべての和墨がもはやボンドで製せられているということではないそうだが、そもそもボンドなるもので墨を造って、磨って墨液になるというのが驚きであった。
この筆匠の店では、筆だけではなく和紙も扱っている。使用している硯も和硯であった。いささか国粋主義的なところも感ぜられるが、誇り高き和筆の職人なのだから、それはそれでいいのだと思う。しかし筆の試し書きに使用している墨は唐墨の、70年代くらいの鐵齋翁なのであった。言うには、和墨はどれが正しいのかもうわからなくなったので、古い和墨以外は使わない、ということだ。
しかし合成糊でもって、墨汁を造るというのは想像できるが、磨れる固形墨を造ってしまうあたり、恐るべきは日本の墨メーカー(どこかは知らないが)の技術力である。

墨用の膠


日本でも墨用の膠を造る職人が一人だけ残っていたのだが、十年ほど前に亡くなり、技が絶えたのだそうだ。そういえば二、三年前か、日本画などに使う三千本膠を造っていたところが店を閉めるということになり、日本画界に衝撃が走ったという話を耳にしていた。が、そのさらに前に、墨用の膠の伝承は絶えてしまっていたのである。
日本における墨用の膠も、大陸の膠の製法とはまったく同じではないだろうが、独自の伝統と工夫があったのだろう。喪われたのは残念なことである。日本の製墨業は大陸と違い、政府によって伝統工芸品として保護されているから大丈夫と考えていたのだが。
日本の墨メーカーは、大陸から輸入した阿膠(ロバの皮の膠)も使用しているという。また老舗には多量の膠の在庫もあるであろう。最近作られた日本の墨のすべてが”ボンド”で製せられていると考えるのは早計である。しかしそのような墨が作られているのであれば、メーカーはその旨は表示する義務があるだろう。筆を大切に使いたいから墨を磨る、それも和墨をもっぱら使いたい人もいるだろうが、それがかえって筆を傷める結果になるとすれば罪な話である。
大陸では80年代初頭に、墨用の膠、”広膠”を造る工場は操業をやめている。それ以降の墨のぼほ全ては、食用の膠の転用である。80年代の鐵齋翁書畫寶墨や中国書画研究院といった特製の墨が、いくら年数を経ても70年代の鐵齋翁にかなわないのはそういうわけである。
小生と付き合いのある大陸の墨匠は、長い間、墨用の膠の研究を続けている。その前は一般の膠のメーカーに指示をして特注の膠を造らせていたのだが、ここ数年は、墨用の膠を自製することも始めている。
墨匠が言うには、膠の品質や性質は、原料から膠を煮出す工程で決まってしまい、そのあと幾ら工夫しても限界があるということだ。また言うまでもなく、墨の質における膠の影響は非常に大きい。「煤は工程を踏めば誰でも同程度の品質を得られるが、膠の製法と、漢方薬の配合は微妙で、とても難しい」という。

膠に対する認識


筆匠と会話していて思いがけず膠の話になって盛り上がったのであるが、筆匠は京人形や陶磁器の絵付けの職人達の需要で多くの筆を作っており、そういうところに出入りするところから、道具や材料の話に話題が及ぶのだという。
たとえば京人形をつくる職人などは、顔料の媒材の膠は自分で作り、膠は三世代分くらいの在庫をもっているのだそうだ。良い膠が無ければ色を塗る事もできないのだから、市販に任せることはできないと。膠の製法は無論のこと、秘中の秘である。墨用の膠の製法とどう違うか興味があるところだが、固形の墨をつくる場合と、岩絵の具を溶いて人形に塗布するのでは、求められる性質が違うのかもしれない。これは日本画の世界における三千本膠などとも違うのかもしれない。また膠は製法も重要だが、原料の選別も大切なのだという。これは大陸の墨匠も同じような話をしていた。

おもえば現代、書画をやる者が、人形師ほどに墨や膠といった材料、道具に意を用いているかどうかは疑問である。これは日本に限らず、大陸においても実は同様なのであるが。
黒ければなんでも良いということであるから墨汁も可也、ということになってしまっている。供給側も需要に応じた製品しか作らない。気が付いたら、日本では膠も作れなくなってしまっている。それでもボンド入りの墨汁、固形墨で充分、ということでこの世界は続いてゆくのだろうか.......なんともうすら寒い話と感じるのは、小生だけなのであろうか。
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破断した墨の補修

墨は割れるもの


墨は自然に割れることがある。これはいかんともしがたい。
破断した墨の補修たまに「本当に古い墨は割れない」と言う人がいるが、正しくは保管が適切であれば「割れにくい」というところで、必ず割れないというこわけではない。墨の材料の配合や製造時の工程によって、自然に割れやすい墨と割れにくい墨が出来る。
古い時代の墨が完品で残っていたとしよう。これを逆に考えると、割れにくい墨であるがゆえに完品で残った、ということも出来るのである。また完品のように見えても、実は修理されている可能性もある。うまく行われた補修であれば、継ぎ目を見分けるのが難しいこともある。
破断した墨の補修また新しく作った墨は、乾燥工程で割れるものが出てくる。型入れの時の微妙な力の不均衡によるひずみが、乾燥によって断裂を生んでしまうのである。これは膠の配合などにもよるが、一般に油烟墨は割れやすく、松烟墨は割れることが少ないという。
墨は陶磁器などと違って、割れたところで本質的にその価値を減ずるものではない。しかし割れた墨を放置しているのもあまりうれしい事ではないし、破片の大きさによっては使い勝手が悪い時もある。また意匠の凝った古い墨などは、なんとか旧に復したいと思う事がある。
割れた部分をくっつければいいのであるが、いずれ「磨られるもの」ということを考えると、墨とあまりに異質な樹脂製の接着剤などは使いたくないところだ。墨は膠と煤でできており、媒材としての膠はそもそも古代から使用されてきた接着剤である。「墨を以て墨を継ぐ」ことがもっとも望ましいのであり、事実そうして修理する人が多かった。

墨の接着には


ところが最近、墨の修理には難儀しているという話を聞く。見た目、修理がうまくいっていないような墨も多く見かけるようになった。
墨の修理は、やったことがある人ならわかるが「一発勝負」なのである。一度でうまくゆくと、ほとんど継ぎ目が分からないようにきれいに継げる。しかし一度接着に失敗すると、双方の断面に不整合が生じて、きれいに接着できなくなるのである。
墨の接着には、破断した墨と同じ墨を磨るのが理想的だが、磨っていない墨などは磨ってしまうのが惜しい時もある。また破断しやすい墨の膠は、そもそも接着力が弱い場合がある。なので墨の接着には、膠の強い新しい墨を使うとうまくゆくことが多いとされる。古い墨は一般に膠の効力が衰えているからである。しかし最近の新しい墨は膠の品質があまりよくないため、接着する力が弱い場合がある。特に80年代以降、上海墨廠などの一般の唐墨の膠の質は低下しており、墨の接着に使えるレベルではなくなっている。
むしろ和墨を使った方が良い、という人も多い。しかし和墨も十年前に膠を造る職人が絶えてしまっているから、選択には注意したほうがよいだろう。また和墨の膠は数十年で「枯れて」効力が低下するので、永続的な接着が可能かどうかはわからない。
そこで「墨用のボンド」なるものが登場してきた。小生は使用したことが無いが、青い樹脂状の接着剤である。これをつかって修理をした古墨などは、下手な修理では青い樹脂がはみ出しており、見るも無残である。黒い墨に青い樹脂が付着しているのは、いかにも異質なのである。
この「墨用のボンド」は、おそらく磨ってもそのまま墨液に溶け込むように作られているのだろうが、何故色を「不透明黒」にして作らなかったのか、この点が不思議なところである。最近ではこれを修理に使う人も多いが、上手に使う人は、墨を濃く磨った上にこの「墨用ボンド」を少し混ぜて修理している。最近の弱くなった墨の接着力を補う分にはいいのかもしれない。

補修の一例


小生の場合は、墨の修理に最近は膠を使う。昔は70年代の鉄斎など、膠の強いしっかりした墨を使っていたが、墨を使うよりも膠を使う方がうまくゆくし、多くの場合に仕上がりもきれいである。ただ膠といっても、日本画につかうような三千本膠は接着力が弱いのでうまくゆかない。
破断した墨の補修これは墨匠にわけてもらった、墨用の鹿角膠が好適なのである。接着力が強く、乾くと透明になって目立たない。あるいは墨に磨り混ぜて使用してもいいだろう。
破断した墨の補修使い方は墨と同じように、硯面で磨って溶かし、膠液を得るのである。破断した墨の補修少し濃い目に磨り、さらに少し時間を置いて水分を飛ばし、濃度を高める。この少し乾かして濃度を高める方法は、墨を磨って接着する場合にも有効である。破断した墨の補修。例にとった墨は、清末の胡子卿の墨であるが、すでに一度接着に失敗している墨なのである。切断面がかなり不整合になってしまっているが、なんとかしたいところだ。接着に失敗して再度剥落した場合、仮に継げたとしても、断面の不整合の分だけ継ぎ目は残ってしまう。しかしこれはいかんともしがたい。
破断した墨の補修濃度を高めた鹿角膠を両方の断面に塗り、少し置いてから圧着する。そして水平に置いてずれない様に両端を抑えておく。このまま数日間置いて乾燥させるのであるが、その際に紙を1枚上にかぶせて、風よけにする。墨匠が言うには、流れる空気の中に置いておくと、墨は割れやすいのだそうだ。新しく試作した墨を乾かす際は、エアコンの風のあたる場所に置いて、紙をかぶせておくのが良いと言っていた。膠が充分に乾けば、あとは普通にとりあつかってもまず大丈夫である。

陶磁器などと違い、墨にひたすら完品を求めるのは、いささか料簡の狭い観方であると思う。古墨を見て「ここが欠けている、少し磨ってある。」などと言って値下げを交渉する人などは、墨を善く識る側から見れば経験の浅さが見抜けてしまうのである。
「形あるモノはいづれ.....」なのであるから、まして「磨られる」ことを前提に造られた墨などは、その形を喪う事ではじめて本質に立ち戻るのである。とはいえそれだけに、束の間のその姿が愛惜されるのである。希少な文化財でもあるのだから、その補修も安易な手段に頼らず、適切に行われて欲しいものである。
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微妙玄通 墨の試作品

墨匠からは色々な試作品をもらうのであるが、中には写真のような棒状の墨も多い。こういった棒状の墨は、墨匠が墨の材料を手の平でコロコロと転がして、長細い円柱状にまとめただけの墨である。
表面は作業台の木目や墨匠の掌紋がうつっていて、文字通りの「お手製」の墨である。たまに表面に磨きをかけて艶を出していることもある。
徽州 唐墨の試作品このような棒状の墨は、清末から民国時代に、安価な筆記用の墨として生産されたものを時折目にすることがある。棒状の墨に紙でラベルをしてあるのが一般的だが、この手の墨に墨質の良いものは見たことがない。型に投資する必要が無い、いかにも量産に向いた形状ではある。
また正倉院御物などで見られる唐代の墨は、楕円形ないし紡錘形を扁平に押し潰したような恰好をしている。こういった墨も、型入れをせずに手作業で成形され、中央に封泥よろしく型押しされて作られたと考えられる。

ところで墨匠が試作用に造るこれらの墨は、見た目こそ質朴であるが、材料も製法も十二分に意を用いて作られている。またこの棒状の墨は、工程上は成形する一歩手前の墨である。成形した墨を作る場合も、やはり墨型の大きさに合わせて材料をとり、型に入れやすいようにコロコロと転がして、棒状にまとめるのである。しかる後に墨型にいれ、型を圧着して成形する。
丸めただけの棒状の墨は、型入れのように圧力を加えて成形していないので、墨の密度はそれどほ高くないのではないかと考えてしまう。またできたばかりの棒状の墨は柔らかいので、型入れした墨に比べて軟弱なのではないかと単純に考えていた。しかし墨匠に聞いたところ、墨の固さは墨の材料と製法で決まるという。つまり型入れしてもしなくても、乾燥すれば最終的には同じ固さ、密度になるのだという。
実際にこれら棒状の墨も、時間が経過すると型入れした墨と遜色ないほどの固さになる。磨り味も固い感触で、すり口も密である。
次々に試作品を作って試す場合、いちいち型入れするよりは、こういった形状の方が便利ではある。ひとつひとつには、およその材料や製法が書かれているが、ここでは伏せてさせていただく。さらに具体的な材料・製法は墨匠のみぞ知る、である。
徽州 唐墨の試作品微妙に材料の配合を変えた何種類かの墨を試すのは、研究と同時に大きな楽しみでもある。無論、ひとつひとつの配合の詳細までは立ち入って教えてはもらえない。しかし微妙な違いを知る事で、墨に対する認識がより深くなってゆく心地がする。無論、墨への認識は究極的には墨匠に及ばないしても、使う立場から墨匠と語り合うための知識や感覚は、やはり試作品を繰り返し試用することしか得られないのである。

墨の配合は秘中の秘なのであるが、墨匠に「配合は書き記しているのですか?」と聞くと「大雑把なところは記録しているが、具体的な量などはとても微妙で書ききれない。頭の中にしかない」という。重要なのは二十数種類にも及ぶという、漢方生薬の配合である。それぞれ墨に与える性質が違い、また相互にも作用する。求める墨の性質をイメージしながら配合を考え、出来た墨をテストしてさらに考え直す。「その違いは微妙で、とても言葉では語りつくせない。」のだそうだ。どこかしら老荘の徒が「道」の働きについて語っているかような雰囲気である。

老子に「微妙玄通」という語がある。緻密な奥深い心理に到達することを言うが、”玄”は墨の異称でもある。まさに優れた墨への到達も、要訣は”微妙”なところにあるに違いない。
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程幼博集はどこに?

明代の墨匠、程君房こと程大約のことを調べる上で、彼の詩文集である「程幼博集」をぜひとも読みたいのであるが、現在のところその存在を確認できていない。”幼博”は程大約の字であり、「程大約集」とも表記されることがある。

程君房と言えば「墨苑」の方がつとに有名で、こちらの方はいくつかの図書館で閲覧できるし、印影本を手に入れることができる。日本の国会図書館では、デジタルデータですべてのページを公開し、インターネット上で参照することも可能である。この「墨苑」、いくつかの版がある。日本各地の図書館に現存する「墨苑」の版については、中田勇次郎先生のが詳細に調べておられる。

また近年、中国のオークションでも時折「墨苑」が出品されているが、「墨苑」はその内容に方于魯への誹謗が含まれるとして、方于魯の庇護者であった汪道昆が大半を回収して焼いてしまった、という伝承がある。あるいは「墨苑」に関しては、状態のいい本は日本の方が多く残っているかもしれない。
「墨苑」については版はともかく、現代でも比較的容易に閲覧、入手が可能である。やはり程大約のひととなりや思想を深く知ろうと思えば、その詩文集を読むに勝ることはない。ところが「程幼博集」は、小生が現在知る限りにおいては、見つかっていないのである。

ひとつには程君房と、彼の旧友にして生涯の仇となった方于魯の確執の原因の一端を知りたい、ということがある。方于魯こと方建元については、「方建元集」という詩集が入手可能で、これは手元にある。方建元は詩集のほかに、特に文集は残していないようだ。またその庇護者の汪道昆「大涵集」や、友人の李維?の「大泌山人集」も入手している。しかし方建元側の資料ばかりを読んでしまうと、程大約に対してフェアな判断が下しにくくなるだろう。

「程幼博集」の存在については、「四庫全書」の「存目」に収録されていることでわかる。目録に書名を残しているだけで、その内容は四庫全書には収録されていない。そもそも「存目」というのは、清朝の政策を批評している内容や、思想的に問題ありと判定された書籍を整理、記録する目的で編纂されている目録集なのである。そこに名を連ねている以上「四庫全書」に収録されるどころか、清朝においてはオフィシャルには流通が認められないような本、ということになる。

乾隆帝が四庫全書を編纂したのは、純粋な文化事業という側面ばかりではなく、思想統制という政治的な目的も有している。先立つ明代においては、とくに後期に印刷、出版が盛んになった。明が滅んだ後も、清朝の政策にとって好ましからざる本も世間には多く残っていたのである。大陸における言論、思想統制というのは、何も今に始まったことではない、というところだろうか。

しかし「存目」に収録されたからといって、その本を徹底的にあつめて焼き捨ててしまうという事でなかったようだ。「存目」は、資料の整理・保存という目的も兼ねていたのである。ただし「存目」に入ってしまった以上、再版して流通させるのは難しかっただろう。事実上の発禁本ということになるが、あつめて焼き捨ててしまったわけではなかったようだ。そのあたりは始皇帝時代の焚書の暴挙と併称されることが憚られたからかもしれない。

「程幼博集」は、「卷一百七十九·集部三十二○别集類存目六」に「程幼博集・六卷(浙江孫仰曾家藏本)」としておさめられている。つまり「浙江の孫仰曾の家の藏本」ということで、存目が作られたときには少なくとも孫仰曾の家には程幼博集が存在したのだろう。

孫仰曾は字は虚白、号は景高。浙江仁和(現杭州)の人である。清朝、乾隆年間に生きた蔵書家である。無論、一代で書籍を集めたわけではなく、何世代かにわたって蒐集していて、父親の孫宗濂は”壽松堂”という図書館を建設して、数万巻の書物を納めていたという。

乾隆三十八年に四庫館が開館すると、全国の蔵書家は競って家蔵の秘籍珍本を献上したのであるが、このとき孫仰曾も家蔵の二百三十一冊の書籍を献上したという。無論献上という体裁であっても、”禁書狩り”としての側面も持っていた。ともかく四庫全書の「存目」に「程幼博集」があるということは、当然、献上した書籍の中に「程幼博集」があったということだろう。

「存目」には各書籍について簡単な書評があり、何ゆえこの書が「存目」に選ばれたか?その理由の説明を為している。「程幼博集」について、その書評の詳細は別の機会に述べたいが、要は程大約の文章の不羈奔放で矯激なところが疎まれたようだ。「禁書」といっても、かならずしも清朝を批判する内容を有していることが理由になるわけではない。ひとつには、清朝政府の政治統制上の支柱となるべき思想対して、批判的な書物が退けられたのである。また清朝政府が異民族の王朝であることから、あまりに偏狭な民族主義、排外主義、攘夷思想も警戒された。また自由奔放な内容の書物も問題視された。明代末期は民間経済が膨張したが、経済格差などの社会矛盾が拡大していた。また倭寇や女真族との戦いで朝廷の出費がかさみ、明王朝の財政は疲弊していた。在野の知識人の多くは「憂国の士」を自認するものが多く、民族主義が高揚していた時期でもあった。
「程幼博集」の書評には「多暢所欲言、不拘格律、如汎駕之馬、不可以羈勒範之。」という文があり、要は”言いたい放題、文章の格式を無視し、あたかも馬車の馬が勝手気ままに暴れまわっているかのようだ”と評されている。あるいはこのあたりが理由か?

「存目」に収録されている書籍は全部で6,793種、93,551巻にも上る。その多くはどこへ行ったのだろうか。1992年から中国東方文化研究会歴史文化会が提唱し、「四庫全書存目叢書」プロジェクトがスタートしている。これは「存目」に収録されているすべての書籍を収集し、閲覧可能なデータとして整理保存しようという計画である。この計画によれば、「存目」にある書籍は乾隆帝以来の動乱を経、今では四千種六万巻あまりしか確認できないという。またこれらの古籍は、中国全土200余りの図書館に分散保管されているということである。はたしてその中に「程幼博集」が入っているだろうか?

「存目」に入れた書籍を、乾隆帝が紫禁城のどこかに秘蔵しておいてくれればよかったのであるが、どうもそれらの書籍は持ち主に返却されたかあるいは処分されたか、ともかく紫禁城内には残っていなかったようだ。「程幼博集」が「存目」に収録後、孫仰曾に再び返却されたとすれば、そののちも孫仰曾の蔵書の中に眠っていたことになる。あるいは献上する際に、写しくらいは作っていたのではないだろうか。
仮にそうであれば孫仰曾の蔵書の所在がどうなったかが気になるところだが、残念ながら壽松堂は咸豊十一年(1861)の戦乱、つまりは太平天国の兵乱で散逸してしまったという。1861年といえば、太平天国軍が杭州を占領した年である。このとき杭州の文瀾閣におさめられていた「四庫全書」も散逸している(これは後に復元された)。壽松堂もその難にあったのだろう。

程大約は「程氏墨苑」のほか、「圜中草」という詩集の存在が確認できている。まだ手に取った事はないのであるが、日本の「全国漢籍データベース」で調べると、いくつかの研究機関に存在することがわかる。また「程氏墨苑」も、かなりの種類の版が日本に現存していることがわかる。「程氏墨苑」は、大陸で出版流通していたほぼ同時代に、日本にも日明貿易を経由してかなりの冊数が入ってきたと考えられる。ところが程大約の詩文集である「程幼博集」はどこにも見当たらない。
また「圜中草」は中国ではその所在を確認できていない。あるいは日本にしか残っていないのかもしれない。個人的には、「程幼博集」も残っているとすれば日本であろうと考えている。

「程幼博集」の所在について心当たりのある方は、ご一報いただければ幸甚の極みと思う次第。
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墨の色と光

墨色についてはさまざまな誤解があるのだが、良い墨色の基準としてよく言われるのが「紫が最上、次が黒、青、白がもっとも下」というものである。これはおそらく、宋代の晁貫之の「墨經」の中の記述に「凡墨色紫光为上、墨光次之、青光又次之、白光为下」と書かれているところから来ているのだろう。
実際に墨色についてやかましい人の間でも、滲みやすい宣紙に淡墨で書いて、その色が紫なのか青なのか?ということのみを、もっぱら議論している向きがなきにしもである。無論、紙に書いた時の色も墨色には違いないのであり、その好みも様々にあるだろう。佳墨を良紙に用いて、淡墨で青を感じさせるようなグレーを呈することが多いのも事実である。
しかし宣紙に書いた墨色でもって、王朝時代の墨の鑑賞におけるそれと混同するのはあきらかな間違いである。注意しなければならないのは、「墨經」では「紫」や「黒」と言っているのではなく、あくまで「紫光」や「青光」と記述されている点である。
多くの文章では、「墨經」の記述は「白光为下」までしか引用されていないのであるが、「墨經」には続く文に「凡光与色不可廃一,以久而不渝者为貴,然忌膠光。」とある。「凡そ光と色とはひとつとして廃すべからず、以て久しく渝(かわ)らざる者を貴とし、然るに膠光を忌む」と読める。
すなわち「光と色はどちらも無視していいものではなく、長い時間が経過しても変化しない者(墨)こそが貴重なのだ。しかし膠が光っているだけのような墨は避けるべきである」というところであろう。ここでは墨色を、「色」と「光」の両面から観賞している点が重要である。
晁貫之の言うところの「紫光」や「白光」というのは、紙の上に浸透した後の墨色が紫や黒、という意味よりも、より積極的には墨の光沢、艶のことを言っていると考えられる。さらに具体的には墨に光を当てた時の反射光である。
また明代初期の沈繼孫が著した「墨法集要」には、桐油で製した墨について「但桐油得烟最多,为墨色?而光,久則日?一日」と述べている。「为墨色?而光」がポイントであるが、「墨色は黒(くろ)而(しこう)して光を為す」と読める。すなわちここでも、墨色を「黒」と「光」に分けて鑑賞し、述べているのである。黒は無論のこと墨の黒さのことであるが、「光」は墨の光沢のことであると考えられる。

現代の墨匠に聞いても、良い墨は「紫光」を発する、という。こういう話をすると、これは特別な鑑賞眼をもった人にしか見えない、何か神秘的な光であるかのように思う人がいる。しかし以下に示すように、墨の紫光は誰にでも見ることができるし、以下の写真のようにデジタルカメラのセンサーにすら、ちゃんと感知できるものである。
油烟墨の紫光油烟墨の紫光墨の「紫光」の意味がよく理解されていないのは、一つには「紫光」を発するほどの墨が現実問題として少ないこと。そして「紫光」を観察する場合の条件が、あまりよく知られていないことに起因するかもしれない。むろん、墨色を鑑賞することすら、いまや稀なのかもしれないが。
墨の紫光を観察したいときには、光源が重要である。硯なども、太陽の下で見なければ、本当の石色は鑑賞することができないといわれる。墨や硯に限らず、鑑賞するときには光源は重要なのである。

以下、ご存知の方には今さらの内容である。

人間は、対象を照らす光源に含まれる光の波長の範囲内でのみ、視覚で色を認識することができる。色の違いは、波長の異なった光(電磁波)を知覚することで認識されるからである。
人の目に色として認識できる波長の光が可視光である。光に含まれる可視光の分布は、スリットとプリズムを通し、虹の七色のようにスペクトル分解することで把握できる。
トンネルなどで使われる、オレンジ色のナトリウムランプは単色の可視光である。ゆえにトンネルを通過する際には、車の中はオレンジのモノ・トーンになる。スペクトル分解すれば、オレンジ色の帯域の光のみが得られることになる。

最近急速に増えているのがLED照明である。LED証明は、同じ白色光源であっても、その波長の分布は製品によって様々である。現在の一般的な白色LEDは、青色を発光する素子に白の蛍光剤を使って白色を出している。このような光源を使うと、含まれる光の波長はおおむね”青”に偏っている。その一方で”赤”の波長が非常に弱い。結果的に、対象の見え方も青色が強くなり、赤色の部分は弱くなる。
晴天時の太陽の光は、すべての可視光が含まれているため、鑑賞する場合の光源として自然光(太陽光)が最も優れているといえる。ただし曇天時には、波長の長い”赤”が雲によってカットされるため、曇天下では対象の色味や人物の顔色が冴えない印象を受ける。血色が悪い顔というのは、元気がないように見えるものだ。
つまり光源がどのような波長の光を、それぞれどのような強度で含むかによって、照らされた対象の見え方は相当に異なってくるのである。

たとえば老坑水巌の石品、とくに青花を観賞するときは、水につけて太陽の下で鑑賞せよとは、清朝の昔から言われ続けてきたことである。光源にさまざまな可視光の波長がバランスよく含まれていないと、青花のような微妙な石品を、クリアに識別することは難しいからである。識別の面からだけではなく、石品が本来持つ美しさを充分に感得するためには、やはり光源が優れている必要があるのである。

人工光源を”色の良さ”という面で考えると、いかに太陽光に近いか?がひとつの基準になる。これを”演色性(Ra)”といい、太陽光を基準(100)として、0〜100の数値で表される。
従来使われてきた白色光源である蛍光灯と白熱電球では、蛍光灯がRa80〜90、白熱電球がRa100である。普及している安価な白色LEDの多くはRa75〜85であるから、室内の照明をLED照明に交換した場合は、鑑賞という面では注意が必要である。
実はRaが100といっても、スペクトル分解すれば、まったく太陽と同じスペクトルということではない。特定の色の波長で比較すれば強弱があり、したがってモノの見え方が厳密に同じということではない。しかしおおむね、Raが良い方が美術品の鑑賞のための光源としては優れていると考えて差し支えないだろう。
普通に考えると、Ra100の白熱電球が優れているということになるが、白熱電球は光に赤外線を含み、照射対象を発熱させるので、長時間照射するのは作品の保存という観点からは望ましいものではない。また発光効率が悪いため、省エネの観点から、近年欧州などでは白熱電球の生産を停止しつつある。ハロゲンランプもRa100を実現する製品があり、発光効率は白熱電球よりも高い。また紫外線カットガラスを使って、ある程度は照射対象へのダメージを低減して使用されている。
中国の博物館や、宝飾品のショーケースを見た限りでは、ハロゲンランプの利用が多いように思える。また作品保護のため、人感センサーを使用し、人が作品の前に立つ一定時間のみ、光を照射するような機構を採用している場合が多い。

光源の話はさておき「紫光」の鑑賞に戻る。
油烟墨の紫光油烟墨の紫光前に掲示した写真を撮影した時の方法を述べておく。まず墨を濃く磨り、しばらく放置して墨が乾くに任せる。時間が経過すると、墨液が周囲から乾いてゆき、中心のほうに濃縮された墨液が集まってくる。これを自然光の下で見ると、明らかに黒や単純な反射光以外の色彩が見えてくる。自然光といっても、直射日光の下ではやや光が強すぎるかもしれない。このときは天井の明かり窓から採光された、幾分やわらいだ光の下で撮影している。
乾燥させて濃縮させなくても「紫光」を見ることはできる。しかしここではより明瞭に示すため、以上のようなプロセスを経た。デジタルカメラの性能にもよるが、人の目に見えたとしても、カメラのセンサーではっきりと写し撮るためには、若干の工夫が必要である。

墨匠の話では、墨色に「紫光」や「青光」の違いが表れる原因には、煤や膠、漢方薬など、さまざまな要因があるという。これは一概に言えることではない。しかし一つ言えるのは、少なくとも「紫光」を呈する墨は、非常に細かい油烟を使用しなければならない、ということだそうである。粒子が粗いと、これが「青光」に近くなる。そして膠が重い墨は「白光」になりやすいのだという。これは晁貫之がいう「忌膠光」のことを言うのかもしれない。膠は墨の光沢を決定する重要な要因であるが、膠のみに光沢を依存した墨というのはよろしくない、ということであろう。
墨匠の基準で良い墨が紫光を発する、というのは逆にいえば紫光を発する墨は微細で良質な油烟から作られている、ということでもある。
油烟墨の紫光油烟墨の紫光油烟墨の紫光ちなみに上の写真で、硯面上にある左と中央の墨だまりは新しい墨の試作品、右は乾隆時代の汪近聖である。中央の新墨は明瞭に紫光を呈しているが、右側の汪近聖はどちらかといえば青紫に近い色である。これは墨の経年によるものか、あるいは清朝においては、この色を紫光と呼んでいたのか?また晁貫之の生きた北宋時代は松烟墨が主流であり、一般的に松烟は油烟よりも粒子が粗い点も考え直す必要があるところである.........ともあれ、墨を鑑賞する際には、その光沢を見ることも必要であることと、光源にも留意していただきたいところである。
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徽州の墨工

墨工場では、新しいスタッフが作業をしていた。いやいや”スタッフ”というと、この場合はデスク・ワーカーのように聞こえてしまう。やはり伝統的な呼称に敬意を表し、この場合は”墨工”と呼ぶべきであろう。
まるで墨から生まれ出てきたような男性であるが、まだ入って日が浅いそうだ。工場長からいろいろ指導を受けているところである。知らない人がみれば「炭鉱夫であろうか?」と思ってしまいそうだが、作業に慣れてくるとここまで煤けてしまうことはない。小生もここまで真黒な墨工は見たことがない。

この墨工場も若干であるが規模を拡大しており、人も随時募集している。しかし墨造りは過酷な重労働であり、募集をしてもなかなか人が集まらない。特に若い人など見向きもしないそうだ。しかも力仕事に加えて感覚の繊細さも必要であるため、適任を見つけるのは難しいのだそうだ。腕力さえあれば、すぐにでも始められる仕事ではないのである。
墨工は、重さ4kgの槌でもって墨の原料を叩きに叩く。小生などは十数回もやれば肘を壊してしまいそうである。「十万杵」が嘘かまことか、ともかく非常な重労働であることは間違いない。墨は冬場に製するものが最良であるが、廉価な墨は夏場も製造がおこなわれる。墨の原料が冷え固まってしまわないように、冷房などはもちろんしない。湿度の高い、暑熱の室内で槌を振るう仕事は、半端な体力では無理なのである。職場の男女平等では日本より進んでいる(であろう)中国でも、ここは男の職場である。
また墨工は、墨の原料を叩き込んで型入れするところまでを任される。煤を膠やそのほかの原料と練り固めた材料をうまく型入れするには、手で触った感触で墨の状態をつかむ必要がある。この感覚が悪いと、型入れがうまくゆかず、後の乾燥工程で墨が容易に断裂するなどの悪影響が出てしまう。墨工の腕によって、歩留りが変わってくるのである。墨の状態というのは一定ではなく、その日の湿度や温度にも左右される。午前と午後でも違うのであり、その状態を感じ取れなければならない。何回叩けばいいとか、マニュアル化できる仕事内容ではないのだ。
もちろん、墨の硬軟を回一回人に聞いていたら仕事にならない。これはまさに”体で覚える”仕事なのである。相当な体力も必要であるが、微妙な違いを手で感じ取る感性も必要とされるのである。
小生が注文しているような特殊な墨は、製法の秘密を守ることと、非常に繊細な型入れが要求されるため、墨工場の老板と工場長の二人のみによって作られる。普通の製品を作っている墨工では、適度な状態での型入れが難しいのである。墨工場の大将達といえど、必要とあれば自らエモノを振るうのである。
墨は材料の配合がわかれば同じように作れるというものではなく、製造過程での微妙な操作が大きく影響する。料理が同じ材料を使っても作り手によって同じ味にはならないように、墨も作り手によって結果が大きく異なってくる。厳密にいえば、同じ銘柄の墨でも微妙な違いが生まれているのである。
ゆえに弊店の製品も、まったく同じかといえば実のところそうではない。200個の墨を1か月かけて作ったとすれば、初めのころと最後の方では、季節も温度条件も変わり、いわく言い難い差異が生じている。良し悪しではなく「違い」があるのである。それが使用する人の保管状態、季節、使い方によってもさらに違いが生まれてくる。もちろん均質を目指して工程を管理しているが、墨は生き物であり、若干の個性がでるのは免れないのである。

かつて太平天国の乱では、徽州一帯で激戦が繰り広げられた。ために徽州は荒廃するのであるが、この戦いで多くの墨工が戦場に駆り出されることとなったという。日々、8斤(4Kg)の槌を振るう墨工達は、戦場でも貴重な戦力であったという。また墨、特に松烟墨には出血を止める作用があることが知られている。墨は戦傷を癒す薬品として、戦場へも携帯されたと言われている。墨工達は、吹き出る血潮に墨を塗って戦ったことだろう。事実墨工の多くが、太平天国軍から郷土を守る戦闘で斃れていったという。徽州の製墨業は、太平天国の乱を境に、決定的に変質を見るのである。

中国の製造工場では法令によって、昨年から工員の報酬を20%アップするように強制されている。中国に進出した多くのメーカーや、部材を調達している日系企業にとっても、これは頭の痛い問題であろう。
伝統工芸を継承する墨工場でも、これは例外ではない。日本の場合は伝統工芸と認められた個人、あるいは企業には税制上の優遇措置すらあるが、中国では墨も宣紙も普通の製造業と同じ扱いなのである。人の手間をかけるのが伝統製法というものであるだけに、これは辛いところである。最低賃金が比較的安い、地方に工場があるのがせめてもの救いではある。しかし伝統製法を守る前提で工程が固定されているから、コスト吸収の余地はもともと少ないのである。しかも人件費が20%アップしたうえに、松烟や桐油などの原材料も高騰が続いている。といっても、それをすべて製品価格に反映させるわけにはゆかない。よって伝統製法を守りつつ、ある程度の合理化は考えてゆかざる得ないのだという。
墨を叩き込む工程に、機械を導入することも検討したという。しかし機械だけではどうしてもうまくゆかない部分があり、機械を使用する場合でも煤と膠を混ぜる最初の攪拌にとどまるのだという。
手作業を機械化してゆくのが工業化のプロセスでもある。研究を重ねれば、熟練した墨工が作るのと同じ墨を、機械によって作ることも可能になるかもしれない。しかし相当な研究と開発費用がかかるであろうし、そうして出来た機械への需要が多くあるわけでもない。やはり現場での修行を通じて技法を継承してゆくほうが、事業としては今のところは有利なのである。
徽州の墨廠から、槌の音が絶えることは当面はなさそうである。
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