揚州羅聘故居

資料整理などの必要があり、少し間が空いてしまいました。

揚州では“羅聘故居“を訪ねた。揚州には何度も足を運んでいるが、羅聘の家はこれが初めてである。10年以上前、揚州を初めて訪問した際にも揚州八怪記念館を訪ねた。しかし羅聘の家は見ないままであった。揚州八怪記念館同様、書画の展示が期待できなかったからでもあるが、明代の遺構をもつ西方寺と違い、大半が近代に改装された建物であると聞いたからでもある。
揚州羅聘故居揚州羅聘故居
揚州市内に残る羅聘の家は、金農が仮寓した西方寺に程近い場所にある。現在でも、早足で歩けば十数分で行けるだろう。この家から西へ200mの距離に汪士慎の家があり、また西に200mほどゆくと高翔の家があったという。また鄭板橋の仮寓先とも近かったという。
昼過ぎに訪れたところ、午前中の開館時間は過ぎており、午後2時まで待たなければならないということであった。
揚州羅聘故居訪問しておいて言うのもなんであるが、現在のこの羅聘の家というのは観るべきものがあまりない。いや、民国風のアンティーク家具に興味がある方であれば楽しめるかもしれない。家屋は民国時代に再建された建物が基礎になっており、相当に立派な家具も置かれている。もちろん昔のものではない。それでも羅聘の家の敷地は、隣接する区画との間で若干の移動があったと考えられるが、ほぼ昔のままであるという。
見学した内容に基づいて何か書こうと考えても、とりたたて言うべきところは無いのであるが、ともかく羅聘の家を中心にした、当時の人々の交流や関係について漫然と考えてみた。
揚州羅聘故居何度か訪れている呈坎にも羅聘の家がある。正確には羅聘の父親が育った家、あるいは祖父の家ということになるだろうか。奇しくも明代の名墨匠、羅小華の家の近くである。呈坎羅氏宗族の中にあっても、名門一族であったことをうかがわせる。
父親の羅愚溪は康煕五十年の挙人であり、羅聘が生まれたころは揚州で小さな役職についていたようだ。しかしこの羅愚溪が応じたのは武官向けの試験であった“武挙”であるという説がある。科挙といえど武官向けの試験となると、挙人といってもその資格の値打ちはかなり低い。小さな役職を得るのが精一杯であろう。逆に文官の挙人であれば、康煕年間当時ならうまくすれば県知事くらいには任命されることがあり、役職の名前も伝わっていないというのはやや不自然なのである。
ちなみに徽州は古来から武芸も盛んな土地であり、有名な“八卦拳“は徽州が発祥という説がある。北方から戦乱をさけて移住してきた人々としては、武装と自衛の必要性が念頭にあったということだ。徽州の市鎮のことごとくが、要害の地に築かれていることからも伺える。明代には胡宗憲汪道昆といった名将を輩出しており、墨匠を見渡しても、水泳に長けた羅小華や、馬術を好んだ方于魯、あるいは拳法と剣術に凝って戦功を挙げた程正路のように、文武に秀でた人物は多い。官吏となれば兵を率いる必要性もあったであろうし、他郷へ交易の旅に出るとなれば、自衛の必要もあったであろう。教育熱心で、徽州の大半の子弟が科挙に応じるといっても、机に縛り付けて受験勉強だけさせていたということではなさそうである。徽州商人のビジネスといっても、現代のようにデスクワークで完結できるわけがなく、交易の旅に際しては相当に基礎体力が求められたことだろう。
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それはさておき、郷里を出た羅愚溪であるが、実家である呈坎の羅家と、まったく交渉がなかったと考えることは出来ないだろう。また羅愚溪亡き後、羅聘の成人までは、呈坎の父親の実家の支援がかなりあったはずである。おそらく度々呈坎を訪れ、ある程度の期間滞在したことも複数回に及んだであろう。霊金山の霊山村には羅聘の對聯が残っていた、ということが霊山村の方建青氏の調査でわかっている。
現在はそれほどでもないが、当時の徽州の士大夫にとっては、原籍地は重要な意味を持っている。他郷であっても死ねば棺は原籍の村に運ばれ、そこで正式に葬儀が行われるのである。羅愚溪も、おそらくは郷里に葬られたことだろう。その際に羅氏であれば羅氏宗族の祖先を祭る廟、宗廟が重要な役割を果たすのである。これは日本の氏神様に、あるいは近い存在といえるだろう。また祭祀においては、宗家の家長がこれを取り仕切るのである。(羅小華は呈坎羅氏の宗家であり、呈坎にあっては普通の身分ではない。)ともかく儒教というのは祖先崇拝が中心的な価値観であり、故郷に葬るのが(相当な費用を要するが)何よりもの親孝行なのである。
揚州羅聘故居呈坎の羅聘の家と異なり、現代の揚州の羅聘の家は、大半は近代になって改装されており、往事の面影を偲ぶというのは、随分と異なった雰囲気になってしまっている。とはいえ、家屋のおおよその構成は当時のままのいわゆる“三合院”をなしており、その位置はほぼ昔のままであるそうだ。この揚州の羅聘の家が、羅愚溪から受け継いだ家なのかどうかはわからない。

この家で羅聘と方婉儀の夫妻が家庭を営んでいたわけであるが、当然のことながら家の中を取り仕切ったのは妻の方婉儀である。遠出していることが多かった羅聘であるが、留守を方婉儀が守ってくれたことは大きかったに違いない。詩文と梅畫に優れた才能を発揮し、子供たちも名の聞こえた梅畫の名手に育てた方婉儀は、揚州八怪の1人に加えるべきであるという意見もある。詩文書画の技量や羅聘の交際に果たした重要性を考えると、あるいはそれも正しい見方といえるかもしれない。彼女が加われば、八仙に何仙姑がいるようなものだ。(揚州八怪は八人と決まっているわけでなはい)
この方婉儀は良家の育ちではあったが、深窓に控えているようなことはなく、時には夫と一緒に金農や鄭板橋等との社交の場に顔を出し、また旅にも着いて行くことがあったという。儒教倫理からみればいささか逸脱した行為なのであるが、道教的な価値観からすれば女性の身で男性の雅会に立ち混ざることはありえた。ただし大抵の場合は妓女である。
乾隆年間後期の揚州が舞台となった「浮生六記」でも、妻の陳芸が夫の友人等と一緒に詩会や遊興を楽しんだことが述べられている。そういう女性の姿はちょっと珍しいにしても、それはありえたことなのだろう。
羅聘の妻の方婉儀の30歳の誕生日を祝った日に、金冬心は方婉儀の才色を称える詩を贈り、また鄭板橋は蘭竹の大幅を画いて詩を題し、大いに楽しんだという。その交際の親しさがわかるであろう。またこの金冬心の詩から、方婉儀が詩書畫だけではなく、容色にも優れた女性であったことが伺えるとされる。
筋金入りの読書人というのは、美人で文才があれば多少病弱でもかまわない、そういう人を妻にしたい、そう考えていたようなフシがある。紅楼夢の黛玉も、そういう意味では当時の読書人の男性が思い描く、理想の女性像なのかもしれない。「浮生六記」が広く長く読まれたのも、主人公の妻に詩藻があり、やはりやや儚げな女性であったからかもしれない。方婉儀が生来病弱であったかどうかはわからないが、羅聘より早く47歳で病没している。この時代、とにかく妻と死別する例が多い。誰しも長い生涯で2人ないし3人の妻を迎えている。「夫婦共白髪」を願うというのは、それがなかなか難しいことだからである。羅聘は方婉儀に先立たれた後、ついに妻を迎えるという事は無かった。
この時代の女性が早世する要因であるが、ひとつは当時の炊事場の構造にあるといわれる。換気がわるく、カマドの煙が充満するなかで炊事をするので、呼吸器を傷めてしまうのである。
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ところで揚州八怪の首領と目されるのは金冬心であるが、次席を挙げるとすれば鄭板橋であろう。金農とほぼ同世代で親しい友人であった鄭板橋には、羅聘もずいぶんと可愛がられたようである。恬淡とした金冬心と比べてややアクの強さを感じさせる鄭板橋は、羅聘の父親である羅愚溪の友人であったことがわかっている。亡友の遺児に鄭板橋としても目をかけたのであろうし、羅聘が金農に師事する契機となったことも考えられる。
鄭板橋は蘇州にほど近い興化の出身である。父親は鄭本といい字(あざな)を立庵、孟陽と号し、私塾の教師であった。鄭板橋の生母は汪氏といい、鄭板橋が幼い頃に他界している。祖父、曽祖父ともに興化の人であり、多くの資料では鄭板橋の原籍は興化であるとされる。しかし異説もある。
その祖先を鄭重一といい、明の洪武年間に蘇州周辺に移民してきた一族であるという。興化には三つの鄭氏の一族がおり、“鉄鄭”“糖鄭”そして“板橋鄭”といった。もちろん鄭板橋は“板橋鄭”に属している。この鄭板橋の出身一族であるが、ひょっとすると徽州をルーツに持つのではないか、ということを前から考えていた。鄭も徽州にあっては、それなりの数を誇った宗族のひとつなのである。
民国時代の許承堯が編纂した「歙事閑譚」には、鄭姓の人物が数多く出てくる。とくに「双橋鄭氏諸人詩画」という項では、「黄山画苑論略」の記述に基づいて、詩書画にすぐれた鄭姓の人物を列記している。ちなみに徽州の休寧県には板橋村という村があり、また歙県には板橋山(村)、鄭村鎮がある。(下図左上と右下)
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「だからどうなの?」といわれると返答に窮してしまう。これだけの証拠で鄭板橋が徽州に原籍をもつとはいえないであろうし、仮にその祖先が徽州の鄭氏からわかれたとしても、ずっと時代の下った鄭板橋の人生に、徽州の鄭氏が関係したともいえない。しかし気になるところではある。
ともかく鄭板橋は金冬心とおなじく、揚州に家があったのではなく滞在していたのである。羅聘の家に近い距離に定宿があったことからも、その往来の頻繁であったことが伺えるのである。
揚州羅聘故居揚州八怪のうち、金農、鄭板橋に次ぐ存在といえば、汪士慎であろう。年齢的には金農より一歳年上の最年長である。
汪士慎は休寧県出身とする資料が多いが、歙県とする場合もある。これも推測であるが、歙県が休寧県と接する地域に上溪東、下溪東という地名がある。呈坎の南東部にあたる地名であるが、汪士慎が自ら“溪東外史”と号したことを考えれば、あるいはこの地域の出身なのではないだろうか。ちなみに歙県には西溪南、南溪南といった地名があるが、このばあいの“溪”というのは古くは“龍溪”とよばれた呈坎を指し、呈坎を中心に考えた方角が地名になっているのだという。
汪士慎は徽州の大塩商である馬兄弟と非常に親しかったが、揚州における人士との交遊関係は、金冬心や鄭板橋に比べると限られたものであったらしい。晩年は失明して孤独のうちに日を送ったと言われる。汪士慎は羅聘と方婉儀の双方にとっても同郷の先輩である。汪士慎の失明後、羅聘夫妻は常々近所に住むこの老人を気にかけていたのではないだろうか。
揚州羅聘故居 羅聘がこの場所に、羅家の一家族のみで住んでいたかどうかまではわからない。意想外に大きな家である。
現代の日本人からみれば、中国は広大であるから平均して日本の家屋よりも広い家に住んでいると思われているかもしれない。しかし江南の都市部に住む人々が広い家に住めるようになったのは近代に入ってからのことで、もともと城郭で囲まれた中国の都市においては市街地の敷地面積が限られており、庶民の家は狭いのである。市街地を拡張するということは城壁を拡張するということであり、非常に経費がかかることである。そういった城郭の中では、広い邸宅であっても、何世帯かの家族でシェアして生活している場合も多い。現在は観光地になっている蘇州や揚州の園林も、民国時代には数世帯の家族の生活の場であったものが多いのである。
金農が寓居した西方寺は、広い寺院ということもあり、羅聘に限らず揚州や、時には他郷から人士が入れ替わり立ち代り訪れたという。一時期汪士慎が仮寓した馬兄弟の小玲瓏山館もまた、主要な社交の場であった。また一方では羅聘の家も、金農の生前から多くの人士が訪れている。
たとえば羅聘の家には歙県出身の優れた篆刻家達が度々訪れている。すなわち巴慰祖(は・いそ:1744〜1793)、汪肇(おう・けい:生卒未詳)、胡唐(こ・とう:1759〜?)であり、これに程邃(1607〜1692:てい・すい)を加えて、“歙中四君子”といわれた。とくに胡唐と巴慰祖は後の趙之謙にも大きな影響を与えている。このうち巴慰祖はとくに製墨でも名を残した人物であり、周紹良「蓄墨小言」には陳鴻寿(曼生)など六人連名で製した墨が収録されている。また「歙事閑譚」には「金涂塔墨聯句詩」として、巴慰祖、胡唐、朱文翰、黄沫等が集まり、鑑古齋に依頼して墨を製し、句を連ねて詩を作ったことが記載されている。
また揚州には“西冷四子(あるいは西冷前四家)”とよばれる、杭州出身の四人の篆刻家がたびたび訪れている。彼等も羅聘とは親しく、丁敬以外の若い三人は羅家に滞在することも多かったようだ。すなわち丁敬(てい・けい:1695〜1765)、蒋仁(しょう・じん:1743〜1795)、黄易(こう・えき:1744〜1801)、奚岡(けい・おく:1746〜1803)であるが、このうち最年長の丁敬は金農とも親しい友人であり、羅聘も「丁敬像」を残している。さらには?石如、王文治などの姿もある。いずれも近代の金石学、あるいは篆刻において大きな影響を与えている人物達である。
揚州羅聘故居“西冷四子”と呼ばれる杭州出身の一群の篆刻家達は、同郷の金農との関係を契機に、羅聘達との交際の輪に入っていったことが想像される。また一方の歙四子はやはり篆刻に優れた汪士慎、ないし羅聘が交際に関係したであろう。
徽州は明代における金石学の先進地域であり、金石学を背景に持つ古印の研究、さらには古印研究を基礎とする篆刻が精緻な発展を見せている。(古印の研究においては、呈坎の羅小華が先駆的な研究を残しており、その遺産は子の羅王常に継承され、孫の羅公権へと続いている。)
「西冷」は杭州の呼称であるが、“西冷印社”に代表されるように、近代における金石学、篆刻の中心は杭州にあるとされる。しかしその源流をさかのぼれば、徽派篆刻からの影響関係は無視できないものであり、その契機は揚州における金農と羅聘の師弟関係に求められるかもしれない。
揚州羅聘故居羅聘が金農に弟子入りするにあたっては、窮迫した金農が、燈籠や団扇に畫を画いて路傍で売っていたところ、羅聘がその畫を学ぶために毎日買っていったことがきっかけになったという逸話がある。しかし金農というのは当時の揚州にあっては隠れもない名士であり、画の買い手に不自由する身ではなかった。それでもときに窮迫したのは事実なのかもしれないが、その要因は金農が生涯をかけて取り組んだ、金石学の研究のためであると考えられる。資料の蒐集にせよ、また執筆した著作の出版にせよ、とにかく多額の資金を要するものである。
古代の青銅器や碑石、またそこに書かれた文字を研究する金石学は、現代の考古学とも言うべきものであるが、骨董価値をもつ青銅器やその拓本というのは当時としても高価であり、その蒐集には費用を要した。また書籍自体も大変に高価である。
金農が、その共同研究者ともいうべき徽州の方密庵に送った手紙が「歙事閑譚」に収録されている。その中に「集古録」が五銭すると書れた手紙がある。集古録といえば、おそらくは金石学の学祖とされる欧陽脩の「集古録」であろうが、古代の碑刻四百を交渉したこの書籍は、金石学の研究には欠かせないテキストである。それが五銭ということであるが、五銭といえば一両の半分である。
紅楼夢で描かれる貴族の生活のモデルとなったのは、康煕年間の大貴族の家庭である。そこでは上流の女中の俸給が月に三両であるとか四両であると述べられている。女中とはいえ、普通の富豪の家の娘よりも、はるかに豪奢な生活を送ることが出来た彼女達の月の手当てがそれぐらいである。
例示としては大雑把であるが、ともかくいかに重要な書籍にせよ、一冊の本が五銭なのである。とすれば、金農はすくなくとも生活費レベルの金策に窮していたわけではなさそうである。
後に弟子の羅聘も経済的に逼迫した状況におかれるが、その理由というのも金農の著作をまとめ、出版すると言う難事業に取り組んだためであると考えられる。いうまでもなく当時の書籍出版というのは、多額の資金を要する事業であった。

揚州八怪という呼称が出来たのは清朝末期、定着したのはつい最近であると言われる。司馬遼太郎氏が、作家連と中国政府に招かれて中国を訪れた時の様子を旅行記に書き残している。たしか「江南の道」という本であったと記憶しているが、そのなかで司馬氏は、揚州では是非とも揚州八怪ゆかりの場所を尋ねたいと考えていたそうだ。ところが案内をしてくれた人…ただの旅行ガイドではなく、中国政府から派遣された、それなり以上に文化的素養のある人物であるが……彼が揚州八怪を知らなかったというのだ。いつか揚州八怪を題材に小説を書きたいと考えていた司馬氏、これは意外におもったそうである。あるいは揚州八怪という呼称も、先に日本で定着したのかもしれない。

“揚州八怪”はなんとなく語感が良いし、便利なので小生も多用しているが、揚州八怪と言った場合は、一群の畫人達が想定されているようだ。“揚州畫壇”というような言われ方もする。現在から見れば画家の集まり、というようにみられる揚州八怪であるが、実のところその“結合力”は畫というよりも詩や文章、金石学の研究なのである。畫家の集まりというよりは、在野の考古学者や文学研究者、詩人の集まりであったというほうが実際に近いことだろう。ただし、今も昔も純粋な学問というのは御飯のタネにならない。糊口をしのぐためには、商品性の高い畫や書を画くこともしばしばあった、というのが実相に近いのではないだろうか。
揚州羅聘故居日本における揚州八怪の受容には、明治時代の欧州における印象派の画家達の伝説、“モンマルトルの丘“ではないが、画材もろくにそろえることが出来ず、食うや食わずで絵を描いていた、放浪の画家達とイメージがかぶっているのではないかという疑惑がある。
「冬心題画記」には、楽しみで画いた畫を売って米や肉に代えている、という金農の言がある。しかし実のところは書籍や金石学の資料の蒐集に手一杯というところで、資金に余裕があれば著作の出版準備をしたいところである。当時の出版といえば版を彫ることから始めるのであるが、一度には版を作る資金が無いため、少しづつ彫っては貯めて置くのである。
しかしもし金農が題文に「畫を画いて、それでもって本や拓本を買っている」としたらどうだろう?書籍も拓本も安い買い物ではない。自分の畫の価値を書物や碑帖と等価であるかのように言うのは、いかにも衒いが行き過ぎてかえって俗である。読書人の日々の勤めとして本や金石を蒐集、研究するのは当然のことで、ことさら口にすべきことではないといったところであろか。「学問が好きなんです。生活は大変ですが一生懸命研究してます。」なんていう詩は読んだことが無い(あるかもしれないが)。ここでは自分の畫なんぞは、幾ばくかの米や酒と交換するのがせいぜいと、サラリと言いところである。
ともかく金農にせよ羅聘にせよ、徽州商人が栄えた揚州で住んでいれば、値段はともかく畫の買い手に事欠くほどのことはなかった。他の揚州八怪の面々も、売畫で暮らしを立てるために、進んで揚州へ赴いているのである。
なんでもかんでも徽州と結び付ければ良いというものでもないだろうが、当時の揚州が塩業を扱う徽州商人によって繁栄し、その経済発展の上に豪壮な邸宅や園林が築かれ、当然の如く對聯や畫の需要が高まったことは、考えあわせる必要がある。公共施設としての博物館が出来、美術品がある程度の公共性を帯びて語られる現代とは、まったく異なった市場が存在したと考えなくてはならない。
徽州商人の繁栄の大きな要因となった塩業であるが、徽州商人達はほかにも茶業や木材、生薬、工芸品の流通に大きな権益を持っていたのである。とくに塩業や茶業に関しては、単に必需品の流通を支えていた、というだけではこれほどの経済発展の理由が見えてこないのであるが、羅聘の家から逸れて行くのでまた別の機会に述べたい。
揚州羅聘故居ともかく羅聘の家というのは、当時の揚州にあっても一応の格式を備えた、中流以上の家庭の家である。書斎もあり来客を迎えて手狭というほどの家ではない。もちろん維持するのも大変であっただろうし、実際の家計は火の車であったにせよ、馬兄弟や金冬心亡き後は、揚州における重要な社交場であったことだろう。

あるとき陝西は上元県の知事で張五典という人物が、揚州を過ぎるにあたって羅聘の家を表敬訪問した。彼も詩書画で名のあった人物である。あいにく羅聘は外出しており、羅聘の家人が彼を接待していた。アポ無しの訪問だったのだろう、なかなか羅聘は帰ってこない。仕方無しに羅聘の書斎に詩を一首したためて立ち去った。その詩「過羅両峰香叶草堂」を以下に示す。(細かい解釈は省く)

言訪羅含宅、閑看碧樹秋。
苔濃如渲染、石痩未雕捜。
経籍先秘伝、詩篇老輩投。
閉門斜照外、歌吹是揚州。

羅含(らがん)の宅(たく)を言訪し、閑(しず)かに碧樹(へきじゅ)の秋を看る。
苔は濃く渲染(せんせん)の如く、石は痩せて雕(ちょう)を捜(さが)せず。
経籍(けいせき)は先(ま)ず秘(ひ)して伝(つた)わる、詩篇(しへん)老輩(ろうはい)の投(とう)ず
門を閉じ斜照(しゃそう)の外、歌は吹(ふ)く是(こ)れ揚州と。

(大意)
「詩にうたわれた、菊の花が咲く羅含の邸宅のような、羅聘先生の家を訪ねていまいりました。お留守のようだったので、杜甫が“寒蝉碧樹秋”と詠んだように、先生を慕ってしばし静かに秋の碧樹を眺めながらお待ちしていました。庭の苔の緑は濃く石に染み込んだようで、石は摩滅して痩せており、施された彫刻が見えなくなっていますが、侘びた良いお住まいですね。なかなかお戻りにならないので、書斎で蔵書を拝見していました。書物というのは、まずは秘密のうちに伝わるものなのですね。詩文の大先輩があなたに送った詩編を読み、その交情の厚さに深く敬服いたしました。門を閉じて陽の傾いた街へ出れば、どこからか歌声が聞こえ、杜牧が詠んだとおりの繁華な揚州の街の中です。」

おそらく「詩篇老輩投」とあるが、「老輩」とは金農や鄭板橋、または汪士慎ではなかっただろうか。彼等が羅聘に送った詩編を読んだ、ということである。それらはごく親しい身内の間で交わされた詩であり、出版されていた詩集には掲載されていなかった作品かもしれない。「経籍先秘伝」と、思いがけず高名な金農等の未発表作を看ることが出来、胸を躍らせたのだろう。無論、その場で書き留めるか暗記して帰ったであろう。
張五典は乾隆二十五年(1760)の挙人であるが、県知事として赴任したのはそれから早くとも数年後のことであり、金冬心や鄭板橋は既にこの世を去っていたころかもしれない。高名な羅聘に会えるかと訊ねたところ、羅聘に会うことは出来なかったが、半ば伝説化した揚州の老大家の詩を目にすることが出来、望外の喜びを覚えのだろう。

長くなったので、この張五典の詩をもってひとまず羅聘故居の訪問記(?)を終わりたい。
落款印01

金農と墨 〜「冬心先生題画記」より

今回はおよそ十年ぶりに、揚州八怪記念館を訪ねた。揚州八怪記念館といっても、特別な施設があるわけではない。揚州八怪の核心人物である金冬心こと金農が、揚州滞在の折に度々寓居し、その晩年を過ごした西方寺という寺院がそれである。
揚州では体調を崩していたのだが、市街の中心に位置する西方寺まで行くのはさほど苦にはならない。
この西方寺であるが、唐の永貞元年(805)に智完という僧がこの地に寺院を建立したのが起源とされる。後に明の洪武五年(1372)に僧普得がこれを重建(改修・増築)している。明の永楽年間から清の乾隆年間にかけては、度々屋根の葺き替えなどがおこなわれており、揚州の市内にあってそれなりに重視された寺であったようだ。
しかし咸豊三年(1853年)には大殿以外の大半の施設が、太平天国の乱に伴う兵火によって焼かれてしまう。その後同治、光緒年間に修復が進められた。現在の西方寺は、幸いに明代の大殿がほぼそのままの形で残っているほかは、廊房、方丈室は清朝末期に再建されたものである。また大殿の後方に銀杏の大樹があり、これも明代からこの場所にあるという。
揚州八怪記念館といっても、金農はおろか揚州八怪の書画の一枚でもかかっているわけではない。そのあたりは同じく揚州市内に残る、羅聘の家と似たような状況だ。さすがに揚州八怪の真筆となれば、省級の博物館にでもゆかなければお目にかかることはできないものである。
金農が自作の畫に題した文や詩を集めた「冬心(先生)題画記」という著作がある。収録されている題文の多くは、金農が老境に入って西方寺に寄宿していた時期に書かれたものであるという。清朝の製墨史を調べている過程でこの「冬心題画記」を読み、あらためて揚州八怪記念館こと、西方寺を訪れようと考えたのである。
揚州八怪記念館「西方寺」清朝中期までの揚州は、徽州文化の影響が濃い地域である。揚州八怪の「核心」とも言われる金冬心は、その画の題文などから、墨や紙などの文房四寶に深い造詣を有していたことが伺える。
明代末期から清朝初期にかけて、徽州の新安四家(新安画派)や八大山人石濤によって書画の新しい論理や表現が発展していった。それが揚州に進出した徽州商人達によってひろく江南や京師に定着し、その上に揚州八怪の成立があったと言っていいだろう。
揚州八怪のうち汪士慎は歙県の出身であり、また羅聘はその妻方婉儀とともに徽州にルーツをもつ書画家である。さらに揚州八怪のパトロンとなったのは、馬兄弟を初めとする徽州商人たちであった。
その交際の中心にあった金農が、徽州の優良な墨や精錬された加工紙に触れなかったと考える方が困難であり、それは現在残されている金農の書や畫からも、十二分に察せられることである。事実、金農が畫に題した文や詩句を集めた「冬心題画記」には、作畫に使用した紙墨への言及や、用法に関わる文が見られるのである。特に墨に言及しているいくつかを拾い上げ、その意味を考えてみたい。

「冬心題画記」は「冬心題梅画記」「冬心題竹画記」「冬心題画佛記」「冬心題画馬記」などの各章に分かれている。著作の中で金農は「冬心先生」と呼称されており、多くは金農の没後に弟子達が編修した文章がもとになっていると考えられる。しかし現在通行している「題画記」は、清同治11年に潘氏桐西書屋から出た刻本が元になっており、金農が死去した乾隆年間からはだいぶ隔たりがあることには注意を要するだろう。
金農の作品は弟子による代作が多く、題文にもそれが及んでいないとは限らない。“入室の弟子“と言われ、文才も豊かな羅聘であれば、畫はおろか題文すらもそれらしいモノを書けたことだろう。「題画記」も、その大本は羅聘や項均といったごく近しい弟子が編纂したとしても、後代になって怪しげな作の題文が紛れ込んでいないとも限らないのである。しかしここでは一応、その内容に信を置くとして話を進めたい。
揚州八怪記念館「西方寺」以下の「冬心題画記」からの抜粋であるが、冒頭で述べたように、収録されている題文を載せた畫作の大半は、金農が西方寺で晩年を送った時代に画かれたと考えられている。西方寺には金冬心の畫室が残されているが、境内の随所には竹が植えられ、金農が竹を画きながら晩年を送った往事を偲ぶことが出来る。
まず「五代隃麋内庫紙、開軒画竹雲舒舒」というところ。(大意)「五代の墨と宮廷の蔵紙、窓を開けて竹を画けば空には雲はゆったりとながれている。」五代の隃麋(墨)と述べているが、文字通りに理解するなら五代十国時代の墨ということになる。無論のこと、五代十国を代表する墨匠は南唐の奚超・奚廷珪父子である。南唐は現在の南京を首都としていたが、奚超父子は北方の戦乱を避けて易水から江南に渡り、南唐に仕えて李姓を賜っている。
また”隃麋(ユビ)”という語を忠実に解釈すれば、その墨は北方易水で作られた官製の墨ということになる。「内庫紙」は「内庫」、すなわち宮廷の倉庫に収蔵されていた紙、というほどの意味になり、官製墨である隃麋と対応するのである。
また「李超児墨日供揮洒、為二友称賞」とある。(大意)「李超の息子の墨を日々揮毫に用い、二人の友人に賞賛されたのだ。」ということである。ここで言う「二友」とは高翔(こう・しょう)と汪士慎のことで、画かれているのは竹の畫である。また「李超の息子」とはもちろん李廷珪のことをいう。李廷珪の墨を使って画いたということだ。
揚州八怪記念館「西方寺」金農が「冬心題画記」の中で語るところでは、畫を画くようになったのは60歳を過ぎてからである。とすれば18世紀半ば、清朝もすでに乾隆年間である。はたして900年近く前の南唐の李廷珪の墨が、市場で入手できたかどうかは大いに疑問が残るところではある。
李廷珪の倣古墨というのは、繰り返し徽州で造られている。現実的には金農が使用していたのはそういった李廷珪の倣古墨、しかし品質は優良な墨であったのかもしれない。しかし金農が別の箇所で言及している墨というのも、現在では片鱗すらも目にすることが出来ない品である。
たとえば「予用吾郷元時林松泉代群鹿膠墨摹之」とある。(大意)「私は郷里(杭州)における元代の製墨家、林松泉(りん・しょうせん)の鹿膠(ろくこう)の墨で之を模写する」というところであるが、実はこれは元の柯九思(か・きゅうし)の詩「墨工林松泉来求薦就写寄 先朝誰進林家墨,曽試竜楼鳳餅新.....」に拠っていると考えられる。
柯九思は元代における墨竹畫の名家であり、竹畫を好んだ金農も深く傾倒していたようである。この一文は金農が柯九思の竹畫を模していることを述べているのだが、柯九思と同様に林松泉の墨を使っているのということであろうか。
徽州は優良な墨の産地として古い歴史を持っていたが、その周辺地域である浙江や江蘇、あるいは松江(現上海)といった地方にも、徽州の影響を受けながら、数少ないながら優れた墨匠が記録に残っている。特に元代は、どういう理由からか名を残すほどの墨匠が、徽州に少ないのである。
林松泉は徽州以外の江南地域に生まれた名墨匠のうちの1人で、杭州近郊の銭塘の出身である。ゆえに杭州出身の金農にとっては、「吾郷(私の故郷)」ということになるのである。郷里の先輩というのはともかくとして、元代の墨にしたところで、はたして乾隆年間まで残っていた墨があったのであろうか?
金農自身は杭州の名望家の家に生まれている。郷里の杭州仁和は、林松泉の出身地の銭塘に隣接する地域である。あるいは故郷の伝説的な墨匠に関する知識もあったのかもしれない。または家伝の古墨という可能性もある。しかし次の一文に現れる墨匠もまた珍しい。
「晨起、用杜道士小龍墨、為梅兄写照」(大意)「朝起きて、杜道士の小龍墨を用い、梅兄を写生する」とある。金農は梅を愛し、敬意をこめて「梅兄」と呼んんでいる。
ここでは”杜道士”の”小龍墨”とあるが、杜道士は林松泉と同じく元代の墨匠、杜清碧(とせいへき)であると考えられる。江西省清江県(現在の江西省樟樹市。製薬で有名)の人で、薬理・医術にたけ「氏傷寒金鏡録」を残している。武夷山で道教を学んだため、杜道士というのである。杜清碧は婺源の墨匠として名が残っているが、やはり林松泉と同じく、清の乾隆年間の金農が、元代の墨匠の墨を入手可能であったかどうか。
他に「暇日則写貌、黟県陳元資我不浅也」とある。(大意)「暇のある日にその(竹の)容貌を写生するのであるが、黟県の”陳元”が私を助けてくれるところは、浅いものではない。」文中の黟県は徽州歙県北西の市鎮である。黟県の陳元はこの場合は人物ではない。すなわち陳”玄”であり、玄は墨のこと。すなわち「陳(ふる)い玄(墨)」ということである。ではこの「黟県の陳元」を作った墨匠は誰であろうか。
五代末期から北宋初期にかけての名墨匠である張遇は、李超父子よりやや遅れて、北方易水から徽州は黟県へ移住している。“龍香剤”と銘打った油煙墨を製して名を馳せ、北宋の蔡襄はその墨は李廷珪に次ぐと賞している。また子の張谷、孫の張処もまた名墨匠として名をのこしている。黟県はこの張氏によって製墨業が栄えたが、南宋以後衰えたのか特筆すべき墨匠を輩出していない。
黟県の“陳元”というのも、あるいは張遇の名を意識してのことであろうか。李廷珪の墨を用いると述べている部分とのバランスを考えると、黟県から特定でき、李廷珪などに時代・名声が比肩する墨匠といえば、張遇以外にはちょっと見当たらないのである。もっとも、そこまで考える必要はなく、単に“徽州”という地域を代表して“黟県”という地名を述べたのかもしれない。
この墨の作者はともかく、ここでは墨の良さが畫作を助けてくれると、金農がはっきりと述べていることに注目したい。金冬心が、書画の制作には優れた墨が必要とされるということを、明確に考えていたことがわかる一文である。
またさらに「因磨王仲卿墨、画此紙幅、瀟瀟秋声如濯两耳」とある。(大意)「王仲卿の墨を磨り、この一幅の紙に(竹)画を画く。秋風が竹を蕭蕭とゆする声に、両耳を濯(すす)がれる心地がする」というところか。
ここで言われている王仲卿という墨匠に至ってはまったく未詳である。王仲卿といえば前漢の臣、王章、字(あざな)は仲卿がいるが、王章が製墨を能くしたという記録はないし、磨って使えるような墨が前漢に存在したかは不明である。現代のように膠と混ぜ、硯で磨って用いる墨は、後漢の韋誕を待たねばならないとされる。また前漢時代に作られた墨が、使用可能な状態で清朝乾隆期まで存在したとは考えられない。
あるいは王姓の別の墨匠を指すと考えるべきだろうか。宋代には王順、王迪(おう・てき)、王湍(おう・たん)といった墨匠が名を残しているが、“仲卿”なる字ないし号があったかどうかは確かめられていない。清朝初期には集錦墨で名を馳せた徽州の王麗文(おう・れいぶん)がいるが、ここに挙げられた「王仲卿」も先の林松泉などと同じく、少なくとも元代以前の墨匠を指しているように思われてならない。
揚州八怪記念館「西方寺」ともあれ乾隆年間、既に明代の羅小華や程君房、方于魯の墨ですら希少である。まして元代や宋代の墨ともなれば、清朝の墨の収蔵家のコレクションにみられるものも極めて少ないのであり、李廷珪墨に至ってはさすがにいかがなものか、ところである。
乾隆五十六年、陝西巡撫であり、また大収蔵家であった華沅(か・げん)が献上した李廷珪の墨がある。現在も台北故宮博物院に残る「翰林風月(かんりんふうげつ)」がそれであるが、喜びのあまり乾隆帝が「御製李廷珪古墨歌」という詩歌を作っている。この墨とて、真偽については諸説ある。ともあれ李廷珪の墨といえば、乾隆時代には文字通り“幻”と言って良いほどのものであった。はたして金農が手にしていたのが正しく李廷珪の墨であったかどうかは、疑問が残るところである。
無論のこと、仮に李廷珪の墨でなかったとしても、それによって金農の書画の価値が減じられるということはまったくない。また金農やその周辺の人物達が、墨の鑑別に通じていなかったと考えるのも当たらないだろう。
金農のごく親しい友人に徽州の名墨匠、方密庵がいる。彼の名は「冬心題画記」にもあらわれる。方密庵は「五百斤油・冬心先生造」という墨を金農のために製したといわれ、一時期は曹素功、汪近聖と名を等しくしたほどの名工である。また西溪南近郊出身の汪士慎や呈坎に原籍を持つ羅聘も、墨の良し悪しに暗かったとは考えられない。
ともあれ総じて感ぜられるのは、前朝、すなわち明代と清朝当時の墨匠の名が挙がっていない、ということである。明代を飛ばして元代や宋代、果ては南唐の墨匠を引っ張ってくるあたりは、いかに揚州八怪の首領とはいえやや無理を感じなくもない。
小生のような凡俗の輩が穿った見方をすれば、そうやって珍しい墨を畫作に用い題文に明記することで、意図的に畫に希少性をもたせたのではないか、と考えたくなる。事実この時期には金農は売畫で生計を立てており、「冬心題画記」にも「養畜収利之説、則托之墨卿」(大意)「家畜を養って利益を収めるという話だが、私はこれを墨卿に托そうか。」とある。「萬石君羅文伝」でも触れたが、墨卿とは墨そのものを指すのである。生活の糧を得るには、もっぱら墨に頼ろうか、ということである。このあたりの真意は冬心先生の深い韜晦のうちにあり、小生如きが伺えるものではない。
揚州八怪記念館「西方寺」あるいはこう考えることも出来る。入れ替わり立ち代り出入りする人物達は、金農の寓居に色々な古墨を持ち込んだことだろう。物の真偽は別として、程君房や方于魯、あるいは羅小華の墨でさえも、墨銘でそうとわかる墨は一、二にとどまらなかったと考えられる。ただ汪士慎や羅聘、または馬兄弟といった徽州ゆかりの人士達が持ち込んだ墨の中でも、林松泉や杜清碧といった名は非常に珍しかったに違いない。
揚州八怪記念館「西方寺」乾隆年間の当時、明代の墨を目にすることは、現代で言えば清朝の汪近聖汪節庵を見るようなものであるが、金農サロンではそれがまだ可能であったと考えられる。しかし元の時代以前の墨であれば、現代で言えば明墨を得るような、いやおそらくはそれ以上に困難なことであっただろう。それでも真贋はともかく、宋元の墨匠の名を冠した墨が全く無かったわけでもなかったであろう。現代に至るまで、倣古墨というのは繰り返し造られてきた歴史があるのだ。
現代では清朝の汪近聖や汪節庵といえど、確実なものを過眼する機会は極めて稀である。それでも長い経験をもつ業者や蒐集家であれば、手に取った千を越える清朝の墨のうち、数十〜百数十というオーダーでは汪近聖や汪節庵の墨を目にする機会を得るという。しかし博物館ではなく市場に流通している墨で「確実に明代の墨である」と確信がもてるほどの墨というのは、三十年の経験をもつ玄人でも手に取ったのは五指に満たないと聞く。逆にいえば、ほんの数個の明墨を目にする過程で、清朝の墨であれば相当な数を過眼するということである。
揚州八怪記念館「西方寺」明代の方用彬がそうであったように、徽州商人の中には主に文房四寶を扱う者もおり、時代時代で筆墨紙硯の流通に関してはエキスパートが必ず存在したと考えられる。揚州八怪のパトロンであった馬兄弟は塩商とはいえ、その交際の範囲から明代の墨をたぐり寄せるくらいはまだ可能であっただろう。冬心先生がさりげなく「林松泉」や「杜清碧」の名をあげている背景には、明代から清朝最初期にかけての、相当な数の古墨が集まっては散っていった事情が伺えるのである。
しかし金農といえど、「李廷珪墨」や「林松泉」や「杜清碧」といった墨を、本当に南唐や元の墨と確信して使っていたとは限らない。墨面にそう書かれているならそういう気持ちで使いましょう、柯九思を偲んで竹を画くのだから、といったところであったのかもしれない。
ともかくも「好古の士」であり、揚州きっての詩人なのである。都会の庭の石や池を見ても、幽遠な山水を想起するのが詩情である。血相を変えて墨の真贋を云々することとは別趣の境地で、金農はただ飄々と墨を磨って畫を画いていたのかもしれない。
「冬心題画記」にはまた「予屑隃麋半挺、漫然写意」(大意)「私が惜しんで使っている隃麋(墨)の半挺がある。のんびりと胸中の意を写すのである」あるいは「予画竹、一月之中、麝煤狐柱、破費凡几許」(大意)「私は竹を画いて一月(ひとつき)の間に、およそどれほどの墨をつかったのだろう」といった文が見える。金農が日々使用した墨や紙の多くは、庇護者によってもたらされたものであろう。パトロンといっても、金品を投げ与えるわけではない。朋友の間でその種のやり取りはありえないのである。
揚州八怪記念館「西方寺」晩年は窮迫のうちに日を送ったとされる金農である。現代の人からみれば、老境に入って売画で糊口をしのぐ毎日というのは、それは惨めなものに思えるのかもしれない。しかしこの西方寺には入れ替わり立ち代り友人達が出入りし、側には忠実な弟子である羅聘や項均がいた。
揚州八怪記念館「西方寺」朝起きれば窓を開けて部屋に光を入れ、机上に墨を磨って紙を敷き広げる。朝日の中で境内にそよぐ竹垣を写し、画き終えれば筆を置き茶を喫し、朝の読経の為に大殿に向かう。画いた畫や書のうちの幾枚かは友人の求めに応じ、残りをわずかな米や肉と交換したという。しかし筆墨に事欠くことはなかったであろうことは、この「冬心題画記」からは伺えるのである。
羅聘が編纂した「冬心続集」の「后記」によれば、羅聘の筆で”癸未秋、先生歿于揚州佛舎”とある。すなわち乾隆二十八年(1763)の秋に、金農はこの世を去ったことになる。この”揚州佛舎”は西方寺であるという説が有力である。妻に先立たれ子もなく、家も財産も持たなかった金冬心が、この西方寺を「終(つい)の棲家」としたのであれば何をかいわんやである。
この西方寺を訪ねてみれば、晩年の金農の生活が「貧窮した老後」という字義通りのイメージからは、いささか異なった日々であったように思えてならない。あるいは、これ以上の豊かな晩年も得がたいのではないだろうか。
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揚州の羅聘の家

揚州にある、羅聘の家である。羅聘の家といえば徽州の呈坎にもそれがあるが、実際に羅聘が長い年月を過ごしたのは揚州であり、呈坎は彼の一族の出身地という位置付けである。呈坎の羅家にも、たびたび羅聘が滞在していた形跡が残っているので、一族としての付き合いは続いていたようだ。
羅聘の家「羅聘の家」といえど、実際に乾隆年間の家屋がそのままのこっているわけではない。「羅聘の家」というよりは「羅聘の家があった場所」というべきか。家屋の大部分も近代になって改装されたものである。古い家具が置かれているが、これも清朝当時の家具ではない。
羅聘の事跡を紹介したディスプレイが展示されているが、もちろん本物の羅聘の絵なり書なりは、一点も展示されていない。とはいえ、市内の中心近くに位置し、庶民的な小巷の中にある閑静な邸宅である。邸内にはトイレもある。揚州市内を散策する機会があれば、覗いてみるのもいいかもしれない。
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羅聘「蘭画冊」 〜蘇州博物館

今回は蘇州でもあまり時間が無かったので、トイレに寄るついでにほんの少しだけ蘇州博物館に入ったのである。もちろんざっと書と画の展示室だけ観て回った。文字通り駆け足で見た書画の中では、羅聘「蘭画冊」が印象に残っている。前にも述べたが、中国の公営博物館の入館料は無料なのである(例外があるかどうかはわからないが)。入館料を払って観ているならもう少しゆっくりみたいところだ。
蘇州博物館 羅聘「蘭画冊」どこの博物館でも、作品保護のために照明を落とし、センサーで人が前に立ったときに軽いスポットを当てるようになっている。蘇州博物館はスポットの照明の光も落とし気味であり、感度をあげてとっても小生のカメラではこれが限界であった。ISO800で撮ったので画面が粗い。撮影は自由だが、撮影のために展示しているのではないから、文句は言えないところだが。
羅聘は花鳥、人物、山水などすべての画題を能くしたがというが、蘭画についてもその作風には幅がある。羅聘は「白昼見鬼」と自ら言い、「鬼趣図」によって独特な画境を開いている。「鬼」は日本のいわゆる”オニ”とはイメージが異なり、霊魂、幽鬼、幽霊というほどの意味になる。心霊現象が見える、と言い切って描くあたりがまさに”怪”である。
しかしこの墨蘭はケレン味の無い端整な筆致で描かれており、淡墨の透明感をふんだんに駆使しながら、墨一色で変化する光線を見事に表現している。蘭石には文徴明の蘭画を思わせる清澄な空気が漂っており、”揚州八怪”の”怪”たる所以は観られない。
もちろん、使用している紙は滲みひとつない精錬された熟紙であり、おそらくは表面を滑らかに加工しているだろう。この紙が墨色の艶と透明感を引き出し、また運筆をいささかも滞らせること無く、蘭葉の瑞々しい生彩と明るさを生み出しているのである。
蘇州博物館 羅聘「蘭画冊」やや青に傾斜した墨色が、艶やかな漆黒から限りなく透明に変化してゆく効果は、精良な油烟墨の使用によるものであると考えられる。日本では青味はもっぱら松烟で出ると考えられているようだが、良質な油烟墨でも紙を得れば青味に傾いた発色を呈する墨がある。
もっとも、微細な鉱物顔料をわずかに墨に混ぜ、青い色調を出していることも古画では皆無ではない。水墨画は墨一色と考えられがちであるが、八大山人徐渭などの作例には、墨とごく微量の色顔料を用いて効果を出している例が多く見られる。この羅聘の例は、コントラストの関係で青く見えるが、実物を見た印象では、墨のみの色に思えた。
”水墨画”といえば墨しか用いてはならないという、暗黙のルールでもあるかのような話も聞く。現代では「青墨」といって墨に青い顔料を混ぜ込んだ墨も数多く流通しているが、”ルール”を守るためにあらかじめ墨に色味を添加するというのでは、いささか本末転倒のようにも思える。(とはいえ、古来から墨に顔料の添加が無かったわけではないが)
蘇州博物館 羅聘「蘭画冊」羅聘(らへい:1732-1799)は揚州八怪の殿軍(しんがり)とみなされる名手である。呈坎鎮には羅聘の家が残っているが、これは羅聘の祖父・父親の世代の家である。羅聘が生まれ育ったのは揚州であり、揚州には彼の家が観光スポットとして残っている。
羅聘は、落魄した徽州士大夫の家庭に生まれている。貧しい家庭であっても子弟の教育に力をいれる徽州の伝統が、その才能を育んだと言っても良いだろう。
羅聘の父親である羅愚溪は、康煕五十年の郷試(科挙の地方予備試験)で挙人となり、小さな役職についていたようだ。ちなみに羅聘の叔父は羅任は烏程県の県令になっているから、官吏を目指す士大夫階級に属する家庭に生まれたことになる。
揚州で売画生活を送っていた金農に羅聘が弟子入りしたいきさつは、有名なエピソードとして残っているが、これは多分に伝説的な話のようだ。
そもそも父親の羅愚溪は鄭板橋(1693-1765)と交遊があり、揚州博物館には羅愚溪の画に鄭板橋が題した画が残っているという。(この画が真作であれば)あるいは金農との結びつきも、鄭板橋と羅愚溪との交遊を契機にしたものであったかもしれない。徽州出身の多くの男子と同じく、羅愚溪も官吏を目指したものの、羅聘を含めて五人の子供を抱える家庭を養いきれず、揚州で売画の生活を送っていたのかもしれない。
ただし羅愚溪は羅聘が満一歳を迎える頃にはこの世を去っている。その後の羅家と鄭板橋との関係は未詳である。金農とはほぼ同世代で親しい友人であった鄭板橋は、当時すでに高名な詩人であった。
また羅聘は金農に「詩弟子」すなわち詩文を学ぶ弟子として入門しており、画を学ぶために入門したのではない。羅聘は金農の独特な画風を吸収し、金農の代作を多くつとめたと言われているが、士大夫にとっての中心的課題は詩文であり、画はあくまで余技である。
ちなみに”揚州八怪”というが、揚州で生まれ育ったのは羅聘と高翔(本籍は江蘇甘泉)だけであり、他は皆他郷の出身者である。羅聘の師の金農(1687-1763)も杭州の人であり、揚州には仮寓していたに過ぎない。羅聘が入門したのは乾隆二十二年(1757)、金農71歳のときだが、この際も金農が揚州西方寺に寓居していたときであった。その六年後の乾隆二十八年(1763)に金農は揚州で死去するが、身寄りのなかった金農の葬儀は有志が出資して費用を賄い、羅聘がこれを主催した。また金農の棺を守って、故郷の杭州臨平黄鶴山に葬っている。

実は今回、霊山村を再訪したかったのは、羅聘の扁額が残されているということを聞いたからである。あるいは父親を亡くしてしばらくの間、羅聘は呈坎鎮の親戚の下へ身を寄せていた時期があったのかもしれない。
蘇州博物館 羅聘「蘭画冊」羅聘の妻の方婉儀(1732-1779)の祖籍は方于魯と同じ、西溪南近くの聯墅村である。同じ歙県ということで、羅聘と原籍が同じということになるのである。
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方于魯の出身地でもある「聯墅」あるいは「聯墅村」の位置が謎なのであるが、岩寺鎮に近接し「臨河」を挟んで「臨河村」の対岸にあるというから、おそらくこのアタリ(上地図中央部分)ではないかという見当がついている。(汪節庵の出身地である信行村のほぼ隣である)
方婉儀の祖父の方願瑛は、広東布政使および朝廷の監察御使の高位に上った官僚であり(ということは当然進士出身以上であろうが)、また「人譜類記」という著書を残している。
父親の方宝倹は国子学生にとどまったが、徽州士大夫の家庭の常として、娘の教育にも熱心であったようだ。方婉儀も、単に羅聘の妻としてではなく、自身も詩書画、とくに梅画の名手として名を残している。
羅聘と同じ徽州の士大夫の家庭の出身だが、格から言えば朝廷の高官を祖父に持つ方婉儀の方がかなり上である。にもかかわらず方婉儀が羅聘に嫁いだのは、非常な秀才であった羅聘の将来性……もちろん詩人や画人としてではなく官吏としてだが……に方婉儀の家族が期待したのではないだろうか。
ただし羅聘はその師金農に倣ったのか、ただの一度も試験を受けず布衣(無位無官)のままであった。羅聘の画名が徐々に上がるのは、金農の死後のことであるから、そのころまでの羅聘の生活は、方婉儀の実家の支援があったとも考えられる。
羅聘夫妻が生きた当時の揚州は、塩商で栄える徽州商人が、その最盛期から下り坂にさしかかった時代であった.....羅聘は方婉儀の勧めで画を揚州では売らず、もっぱら他郷にでかけて売画を行い、人士と交際したという。

徽州の女性は「10年連れ添っても一緒にいたのは1年だけ」といわれるほど、夫が官僚として中央や地方に赴任したり、あるいは交易の旅で家を空けることが多く、その留守を守るのが主婦の務めであった。
羅聘と方婉儀の25年の夫婦生活も、その大半は羅聘が京師や山西地方へでかけて留守であり、その間の家政の一切は方婉儀に任されていたのである。羅聘は後年、詩文と画においては朝鮮にまで達するほどの非常な名声を博するが、彼女の支援なくしては為しえなかったことであろう。
羅聘の子の允紹、允纉、また娘の芳淑に至るまで書画を能くし、特に母親譲りの梅画に優れていたことから「羅家梅派」と呼ばれたほどである。家庭内での方婉儀の子供への教育が、どのようなものであったかが伺える。
乾隆四十四年(1779)方婉儀は肺病を患うが、その年の五月には病床に伏せる妻を置いて羅聘は京師(北京)へ旅立った。方婉儀はその13日後に息を引き取る。旅先でそれを知った羅聘は、翌年まで帰郷することがかなわなかったという。
不思議なのは羅聘はこの際、友人であった大塩商の汪雪礓と江春(鶴亭)に、自分が帰郷するまで遺児の面倒を見て欲しい、他に頼る者とてないからと依頼している。妻の実家ないし、自分の親類縁者ではなく、友人に依頼するところが不自然なのである。
憶測に過ぎないが、一向にうだつのあがらない娘婿と、諌めるどころか一緒になって芸事にいそしむ娘には、方婉儀の実家も愛想が尽きていたのかもしれない。
余命幾許も無い病身の妻を置いて上京したことと、妻の訃報を聞いてすぐに帰郷しなかったことは、当時の倫理観としても大いに非難されるべきところなのである。あるいは「心を鬼に」しなければならない、のっぴきならない事情があったのかもしれない......大方は経済問題であろう。
蘇州博物館 羅聘「蘭画冊」羅聘と同時代、蘇州の貧しい読書人家庭の生活を記した「浮生六記」でも、病身の妻を残して遠方へ借財を申し込みに行く主人公の姿が描かれている。生活費はもとより、借金の返済や利払いを求められているケースも考えられるのである。
徽州は土地が狭く、この地に生れ落ちた人々の多くは、官界や商業などを通じて他郷に生計を求めることを余儀なくされるのである。しかし清朝も中期を越えると既に官吏の道はあまりにも狭く、明代末期からの江南経済の膨張も、乾隆年間には飽和状態に達していた......揚州を舞台に富強を誇った徽州の塩商も、乾隆年間後期からその繁栄にかげりが見え始めるのである。揚州八怪の最後の一人の羅聘は、揚州を舞台に活躍した金農や鄭板橋、汪士慎等の先輩とは異なり、揚州の外に活路を求めなければならなかったのかもしれない。
揚州に進出した徽州商人の繁栄の上に興った“揚州八怪“とよばれる画人達であるが、その活動の幕引きもやはり徽州に縁の深い羅聘によって行われている。これも明代中期から清朝にかけての、徽州文化の江南への影響の終焉を、象徴する出来事であると言えるのかもしれない。
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「千磨万撃」 〜鄭板橋「竹石」詩

「小学生必背詩詞」の「必修」詩のリストをみると、圧倒的に唐詩が多い。ついで宋である。元が一首しかないのは、元王朝そのものが短かったことにもよるにせよ、明代もわずかに一首。明代は他に見渡すと補充篇にみえる夏完淳が辛うじて明にいれてもいいかどうか。やはり清初と見るべきか。明代は一般に詩の停滞期と言われているが、そのことは別の機会に述べたい。詩はともかく、明代も文藝そのものは決して停滞していた時期とは言えないものがある。
明代はさておき、清朝は辛うじて四首が選ばれている。その四首のうちの一首に鄭燮(1692-1765)が入っている。鄭燮(ていしょう)は、清朝初期における優れた詩人である。揚州八怪のひとりの鄭板橋(ていはんきょう)としてしられる鄭燮であるが、日本ではその画ほどにその詩は親しまれていないかもしれない。揚州八怪の中でも、金農(冬心)と並んでその詩を讃えられている人物である。
上海博物館蔵 鄭燮「竹石図軸」揚州八怪は、単にその画を以って名高かったのではない。むしろ当時は詩文や書、篆刻でその名声が広まったのである。現在のようにコロタイプ印刷もグラビア印刷もなかった時代、まずはその作詩が人口に膾炙することよって名が知られるようになるのである。
先に画が知られ、後に詩が知られるというのは、いわゆる読書人の書画においては「ありえない」。よって今日彼らの書や画を鑑賞する際も、同時にその詩文への理解が無ければならないだろう。
上海博物館蔵 鄭燮「竹石図軸」その鄭燮の「竹石」である。(この「竹石」詩とは直接関係ないが、上海博物館の蔵品の鄭燮「竹石図軸」を併載している。)

竹石 鄭燮(清)

咬定青山不放松 
立根原在破岩中
千磨万撃還堅勁
任尓東西南北風

青山(せいざん)に咬定(こうてい)して放松(ほうまつ)せず。根原(こんげん)は破岩(はがん)の中に在(あ)りて立つ。
千磨万撃(せんまばんげき)は還(かえ)りて堅勁(けんけい)、東西南北の風に任す。

「咬定」は、咬み定める、すなわちしっかりと定着すること。「青山」は緑豊かな山。ここでは立てた志の意味を含む。「放松」の「放松」は緩めること。(“松を放さず”と読んではいけない……小生のことである)。
「千磨万撃」は字義通り、千回磨し、万回撃つこと。この場合、竹が生えている岩が、風雪に耐えることである。
「尓」は、ここでは「那」とよみ「任那」で「随那」と言う意味に読み「〜に随う」つまり東西南北の風のまにまに随うこと。
上海博物館蔵 鄭燮「竹石図軸」(拙訳)
青山にしっかりと根を張ってゆるめることはない。岩の裂け目に堅固な根を張って立っている。たとえ根元(の岩)を千磨万撃したとしても、それは還(かえ)って岩を堅くし、根を強くするのだ。(岩に根を張った竹は)東西南北の風のまにまになびき随うが、倒れることはないのだ。

わかりやすいと思うが、強い志を立てたならば、様々な障害や波乱に耐え、鍛えられ、強固な意志を持ち続け、たとえ世間の波風になびかされようとも、倒れてしまうということはないといっている。小学生に対しては、実に教育的な内容に満ちた詩といえるだろう。
「咬定青山不放松」というのは、現代中国でも繰り返しつかわれるそうだ。たとえば株価について、一時的なショックで急落したが、ふたたび堅調に上昇する場合など。なので昨今の金融危機でもこの「咬定青山不放松」がたびたび使われたとか。
慣用句として定着するようになったのは、日中戦争あるいは国共内戦時代に、人民解放軍の中で士気を鼓舞するためにたびたび用いられたからだそうだ。
上海博物館蔵 鄭燮「竹石図軸」揚州八怪に序列をつけるとしたら、首領の金農は揺るがないにしても、副首領格にあたるのはやはり鄭燮(ていしょう)であろうか。実に恬淡としていたのか、金農がとかくエピソードに乏しいのにくらべ、鄭燮はユーモラスな逸話に事欠かない人物である。しかし多かれ少なかれ、貧窮とは無縁でいられなかった八怪のなかで、その前半生でもっとも辛酸を舐めたのは、あるいはこの鄭燮ではないだろうか。
この詩の上の詩で言うところの「青山」すなわち「志」というのは、当時の士大夫階級の常としてはやはり「官界」での立身であったと普通は考えるところだ。
ちなみにこの「竹石」の詩は、鄭燮の最晩年、74歳のときの竹石画に題された詩である。あるいはその生涯を振り返り、思うところを読んだのかもしれない。
前にも述べたが、鄭燮は科挙の試験に落ち続け、40歳を過ぎてやっと進士に合格し、官界に入った人物である。その間に貧窮から父親と息子を無くしているというから、その窮迫は想像を絶するものがある。また鄭燮を支え続けた、夫人とも39歳のときに死別している。その試練を「千磨万撃」とたとえるのも、なんら誇張ではないだろう。
上海博物館蔵 鄭燮「竹石図軸」また官界に入ってからも、民間の中に深く入り込み、実情に基づいた救済策を実施しようとしている。とくに鄭燮が赴任した当時の山東省は、飢饉や災害に苦しむ地域であり、そこで鄭燮は民衆の救済に乗り出すのである。
結局は腐敗した官界に絶望し、また激務で体調を悪くしたので、61歳のときに官を辞去するのであるが、任地であった山東の潍県を去るとき、民衆は鄭板橋が官にとどまるように請願し、百姓たちは帰郷する鄭板橋を引き留めて道をふさいだという。また家々には鄭板橋の画像を祀(まつ)り,また潍県の県城には鄭板橋の祠が建立されたという。鄭燮の官にあっての施政も、当時の民衆にとっては並々ならぬ恩恵があったのだろう。挫折したとはいえ、鄭燮の「青山」が並大抵と考えてはならない。
ともあれ、13億の人口を抱える現代中国の子供たちの心には、この鄭板橋の詩はどのように響くのであろうか?
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蘭竹専科 〜鄭燮 蘭花竹石図軸

鄭燮(ていしょう)「蘭花竹石図軸」(上海博物館蔵)である。鄭板橋 蘭花竹石図軸自ら「蓬の如く」と称したように、自由奔放に描かれた蘭葉である。墨の濃淡、線の粗密のバランスが絶妙で、雑然とした感じはしない。濃墨から淡墨へと蘭葉が変化してゆく様が美しく、画面にみずみずしい光彩が溢れている。鄭板橋 蘭花竹石図軸鄭燮(1693〜1765)は字を克柔,号して板橋,「鄭板橋(ていはんきょう)」で広く知られている。現在の江蘇省揚州市興化の人。”詩書画”すべてに優れ”三絶”と称され、揚州八怪の領袖である金農に次ぐ重鎮とされている。が、大器晩成と言うべきか、世に出るのは遅かった。
康煕年間に19歳で秀才となったが、その後は振るわず試験に落ち続ける。23歳で結婚し、生活を営むため揚州で売画生活を送ったが、当時はまったく書も画も売れず、生活は困窮を極めた。30歳ごろ窮乏の末に父親をなくし、後に息子をなくしている。悲惨な境遇であった。
雍正十年(1726)、40歳になってようやく挙人となり、44歳の乾隆元年(1736)に進士となる。貧窮の中で、売画をしながら科挙の受験勉強をするのは容易ではなかったはずである。またこの頃「難得糊塗」という落款印がある。また後に「康煕秀才雍正挙人乾隆進士」という方印落款が見られるが、これも履歴を誇っているのではなく、秀才から進士に上るのに20年もかかった事実を、自嘲を込めて印に刻んだのである。
乾隆七年に山東省の範県の知県(知事)を勤める。乾隆十三年に乾隆帝が東方へ巡幸し泰山にいたり、その際に書画史に任じられる。
山東省一帯が飢饉に苦しんだ際に、官庫を開いて飢民に施し、また買占めを図る商人たちに強制的に食料を供出させて飢餓を救済したという。が、このため一部の官吏や商人に恨まれ、乾隆十八年に弾劾を受けて官を辞し、揚州へ戻って再び売画生活を営む。このとき歳はすでに60歳を過ぎていた。
鄭板橋 蘭花竹石図軸若い頃は徐渭を非常に崇拝していて自ら「青藤門下走狗」と彫った印を用いていたほどである。蘭の筆法も、”破筆”を用いた徐渭の影響が見て取れる。明代後期の画蘭では、ひたすら端整な蘭葉を描いた文徴明と、破筆を用いた徐渭は対照的な存在であるが、いずれも後世の蘭画に及ぼした影響は大きい。
鄭板橋 蘭花竹石図軸題跋を鄭板橋独特の、楷書と隷書を織り交ぜた「六分半書」で書いている。画や詩だけではなく、当時の揚州文人の例に漏れず、「金石学」にも深い造詣を持っていた。隷書特有の出鋒の勢いと、蘭花の花弁の筆致の類似が良く観察できる。鄭板橋 蘭花竹石図軸”怪”と称されたほどの個性的な書体であるが、結構がしっかりしており、放埓に流れない。一見粗放なようで、つぶさに見れば入筆運筆ともに実に沈着痛快。上下左右の字画の配置と連絡の緊密さに妙がある。

再び戻った揚州での、鄭燮の名声は日増しに高まっていた。昔まったく売れなかった頃の自分の作品に、やや自嘲気味に「二十年前旧板橋」という印を押したという。

鄭板橋に書画を求める者たちがひっきりなしに訪れ、次々と書画の注文が舞込んだが、鄭板橋は彼らに潤筆料を堂々と請求した。

その「潤筆小巻」に
「大幅六両,中幅四両,小幅二両,書条対聯一両,扇子斗方五銭。
凡送礼食物,総不如白銀為妙,盖公所送,未必弟之所好也。
若送現銀,則中心喜楽,書画皆佳。礼物既属糾纒,赊欠尤恐頼账,
年老神倦,不能陪諸君子作无益語言也。

  画竹多于買竹銭,紙高六尺価三千
  任渠話旧論交接,只当秋風過耳辺。

干隆己卯 拙公和尚属書謝客 板橋鄭燮」
とある。意訳すれば
「大幅は六両、中幅は四両、小幅は二両、対聯は一両、扇面は五銭。食べ物を送られるより、白銀がもっともいい。あなたが送る物が、私が必ずしも喜ぶとはかぎらない。現金を送ってくれるのがもっともうれしいし、書も画も皆傑作になるでしょう。礼物は邪魔ですし、掛け売りしても踏み倒されることが怖いです。年老いて精神も疲れたから、聖人君子のような妄言は口に出来ませんよ。
  画竹は多くの竹銭で買ってくれ 六尺の紙(に描かれた画)は値三千(両)
  昔の交友を持って説かれても、秋風が耳元を通り過ぎるだけ(馬耳東風ですよ)
」となろうか。
現在でもそうであるが、清雅を事とする文人が、金銭のことをはっきりと口に出すことは珍しい。が、鄭板橋にとっては、若い頃の窮迫を思えば、いまさら口幅ったいことを言うのは片腹痛い、といったところだったのかもしれない。またあまり気の進まない相手には、「法外」ともいえるような画料を請求している。
もっとも、高い画料を請求したのは、金や権勢をかさに着た商人相手で、鄭板橋はごく親しいものには無料で描いてやったことも多かったという。自身も貧困を経験し、また官吏としての任地で酷い飢饉を経験した鄭板橋にとって、暴利を貪る商人からは、いくら金をとっても痛痒は感じなかったのであろう。
徽州の大商人、馬兄弟の小玲瓏山館の常客であり、金農や李蝉等と親しく交際した。馬兄弟の人士を遇する態度というのが、やはり他の商人とは違っていたのであろう。
鄭板橋には面白いエピソードがたくさんあるが、ここではいちいち紹介しきれない。
中国の伝統的な絵画というと、山水、人物、花鳥と、さまざまなジャンルがあるが、鄭板橋は自ら「専画蘭竹,五十余年,不画他物」(蘭竹をもっぱら描き、五十年あまり、他の物は描かず)と語っている。
鄭板橋がはなはだ蘭や竹を好んだということもあるだろうが、蘭竹画はそれだけ奥深いということでもある。またその蘭竹画のみをもって高い画名を得、後世に大きな影響を与えているのである。
およそ画を描く者で、蘭竹を描けない者はいない。が、蘭竹で名を成すものは稀である。その専心修練の程は、計り知れない。
落款印01

梅花と友誼 〜汪士慎「梅画図軸」(上海博物館蔵)

上海博物館蔵、汪士慎「梅画図軸」である。前回訪れたときと展示されている絵が代わっている。前回展示されていたのは壮年期の作品だが、この「梅画」はそれよりも幾分老境に入った頃の作か。老熟した描線である。
汪士慎(1686-1759)は字を近人、号に巣林、別号渓東外史、七峰。とくに梅花を愛し、また非常なお茶好きで「茶仙」とも号した。詩、書、画、そして篆刻に優れていた。徽州は歙県の富渓村で生まれたという。
流浪の末に揚州へたどり着き、ここで塩業を営む徽州の大商人、馬兄弟にめぐり合う。馬兄弟は、揚州画壇のパトロン的存在の中でも、もっとも大きな影響を与えた人物と言って良いだろう。汪士慎「梅画図軸」徽州で商業が盛んになった理由は、山間の狭隘な地形に人口が密集し、農業ではその人々を養いきれないためであった。「前世不修,生在徽州。十三四歳,往外一去」(前世の因果か徽州に生まれ、13、4の頃から出稼ぎよ)といった俗謡がある。徽州人の多くは、周辺地域との交易によって生計をたてたのである。しかし、この環境こそが、この地に高度な教育と文化が熟成される要因ともなったのである。汪士慎「梅画図軸」漢代末期の戦乱、また唐代末期の戦乱を避け、徽州一帯に移り住んだ中原の人々は、黄河流域に発展した高度な文明技術をこの地にもたらした。当初は、木材、漆、茶、工芸品などの特産品を扱っていたが、次第に薬剤、布、陶磁器、絲綢などに産品を拡張してゆく。そして明代中期から急速に勃興したのが塩業、出版業、金融業であった。また「塩、出版、茶、木材」は、徽商の主要な四大産業とみなされている。
中でも徽商の興隆を担い、そしてその衰亡の要因ともなったのが「塩業」であった。汪士慎「梅画図軸」揚州は、江南地方における塩の集散地であり、江南諸都市の巨大な市場を背景に、朝廷から塩の専売権を与えられた徽州商人たちはこの地で巨万の富を築きあげた。俗に”揚州商人”とも言われるが、清朝中期までは、その実体は徽州商人達であったと言っても良いだろう。
徽州の祁門出身の馬日(1688-1755)と馬日(生卒不詳)の兄弟は、そうした塩業を営む商人たちのなかでも、乾隆年間に「揚州二馬」と呼ばれ、特に盛況を誇った商人であった。汪士慎「梅画図軸」馬兄弟は、“徽商”の例にもれず、単なる商人ではない。兄弟で経史を研究し、詩文でも当時名高い文学者であった。また馬日は乾隆年間に挙人となり、国子生にもなっている。そして塩業で得た巨万の富を、文化事業や在野の学者達の支援に投じたのである。
兄弟は非常な蔵書家であり、万巻の図書を揚州「小玲瓏山館」に蓄えた。稀覯本には千金を惜しまなかったという。また出版事業を手がけ、「叢書楼目録」を編んだ。また馬日琯は著書に「谷集」がある。馬日は「南斎集」,「清史列伝」がある。
馬兄弟は客を好み、才能ある人士と進んで交際し、支援した。「小玲瓏山館」は、当時の在野の学者や売文売画で生計を立てるものたちが集まる為の、格好の場として提供された。また窮乏した彼ら文人たちが一時身を寄せるための部屋も用意されていたのである。

流浪の末、揚州にたどり着いた汪士慎は窮乏の極みにあり、住むところもままならないありさまであった。その汪士慎を知った馬兄弟は彼を熱心に引き留め、汪士慎は暫時「小玲瓏山館」にとどまることになる。汪士慎と馬兄弟の友誼は日増しに深まり、また汪士慎は馬兄弟を通じて金農や羅聘、鄭板橋、高翔などと知り合い、交流を深めていった。

彼等の交際の篤さは、幾つかの逸話として語り遺されている。
馬兄弟には今一人長兄の馬日楚がおり、汪士慎とは特に親しかったが、汪士慎が「小玲瓏山館」を去った後、惜しくも早世した。雍正六年春、汪士慎は馬日楚を追憶する「梅花」という詩を作っている。後にその詩を読んだ馬兄弟は亡兄を想って感激し、汪士慎に兄の代わりに「小玲瓏山館」に住むように懇請した。「小玲瓏山館」に残る「七峰草堂」は汪士慎の住んだ部屋である。
汪士慎は篆刻を能くしたが、54歳(一説に51歳)の時に病で左目の視力を失い、それから後は専ら梅画のみを描き、”左盲生”と号した。67歳になって右目の視力も失い全盲となり、以後は大字狂草のみを能くし、“心観道人“と称した。これを金農は「盲其目不盲其心」と賛じ、その書はかえって妙を極めたという。
一生を清貧に送ったという汪士慎であったが、彼自身はあまり貧乏を気にかけず、人柄はいつも晴朗闊達であったという。
「清貧」というが、いやいや、「小玲瓏山館」に住み、梅花を愛で、銘茶を喫し、金農や高翔等文雅の人士と親しく交際する毎日とは、なかなか得がたい贅沢な生活であったと、思われてならない。

落款印01

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