祝新元号 「万葉集 梅花歌併序」

万葉集 梅花歌併序

(原文)

天平二年正月十三日。萃於帥老之宅。申宴會也。
於時初春令月。氣淑風和。
梅披鏡前之粉。蘭薫珮後之香。
加以曙嶺移雲。松掛羅而傾蓋。
夕岫結霧鳥封而迷林。
庭舞新蝶。空歸故鴈。
於是蓋天坐地。促膝飛觴。
忘言一室之裏。開衿煙霞之外。
淡然自放。快然自足。
若非翰苑何以攄情。
詩紀落梅之篇古今夫何異矣。
宜賦園梅聊成短詠。

(書き下し)

天平二年正月十三日。
帥老(しろう)の宅(たく)に萃(あつ)まり、申(かさね)て宴(うたげ)を會(かい)すなり。
時は初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)
気(き)は淑(しと)やかに風(か)和(やわらか)し
梅は披(ひら)く鏡前(きょうぜん)の粉(ふん)
蘭は薫(かお)る珮後(はいご)の香(こう)
以って加(くわ)うるに曙(しょ)の嶺(やま)は雲を移(うつ)し、
松は羅(ら)を掛け蓋(がい)を傾く。
夕岫(ゆうしゅう)は霧(きり)を結び、鳥は封(とざ)して林に迷う。
庭に新蝶(しんちょう)舞い、
空に故鴈(こがん)帰(かえ)る。
是において天を蓋(がい)とし地を座(ざ)とし、
膝(ひざ)を促(つ)めて觴(さかずき)を飛ばさん。
一室の裏(うち)に言を忘れ、煙霞(えんか)の外に衿を開く。
淡然(たんぜん)として自から放(はな)ち、快然(かいぜん)として自から足る。
若(も)し翰苑(かんえん)にあらざれば何を以って情を攄(の)べん。
詩に落梅之篇(らくばいのへん)を紀(しる)す、古今(ここん)夫(そ)れ何ぞ異とするや。
宜(よろ)しく園梅(えんばい)に賦(ふ)して聊(いささ)か短詠(たんえい)を成さん。

(補足)
和製漢文なので、語順の感覚に注意が必要かもしれません。あくまで漢文として読んでみます。
「申」は重ねて、の意味があり、正月の宴の二次会を会のリーダー的年長者の邸宅で開いたと思われます。
氣淑風和」は、漢語風にいえば「淑気」「和風」ですが、意図的に逆転したのでしょうか。
「粉」ですが、ここは次の蘭の句と対句になっており、対応する「香」がおそらく香炉を表すことから対応して「白粉」という解釈が可能でしょう。「鏡前」とありますが、白粉から連想して「鏡台」を指すかのように思えますが、庭に向けて魔除けにおいた鏡のことでしょう。いわゆる照魔鏡は、鬼瓦と同様大陸から伝来しましたが、貴族の邸宅では一般的な風習でした。それに庭の梅花が映っているのを、鏡台の前の女性の化粧になぞらえたと考えられます。
「珮」はしめた帯。
「蘭」ですが、旧暦の正月13日といえばまだ2月下旬で、梅はともかく蘭の開花時期としてはギリギリです。庭に咲いたのではなく、室内で鉢植えで育てられた蘭を想定していると思われます。ゆえに「香」一字で「香炉」、ということになります。また蘭の花は単独で君子を表します。しめた帯のあたりから蘭の香が漂うというのですから、集まった者達がいずれ劣らぬ君子ぞろい、ということを暗示しています。
「曙」は日本語ではもっぱら「あけぼの」、朝の光を指しますが、漢語では明るい太陽の光のことでもあります。夕暮れに向かう前後の文脈から「朝陽」のことではなく、山際におちかけて最後の光芒を放つ陽の光をいうのでしょう。
「松掛羅」の「羅」を「うすもの」としている訳例がありますが、松に羽衣をかける文脈は前後にないですね。「松羅」は松に寄生する和名サルオガセという地衣類で、漢語では女羅といいます。また蓋(がい)を傾くというのは、天蓋(屋根)のように広がり茂った松の枝葉のことです。
「鳥封」は、鳥が霧に閉じ込められて林で迷子になる、ように訳している例がありますが、それなら「封鳥」のはずです。「封」は口を閉ざす、という意味があります。鳥は鳴くのをやめて、というように解釈しました。
「煙霞」は「紅塵」と同じく、世俗、俗世間のこと。「煙霞」の外、ということですが、あつまった者達の間にも階級や職位の区別はあるわけです。それを忘れて楽しみましょう、という事ですね。なので「開衿」の対句の「忘言」の「言」は、身分に応じた言葉遣い、という意味に解釈できます。
「淡然」はたんぱくな気持ち。名誉や利益から離れた心境。
「詩」とあるのは詩経。古く詩経にも梅を詠んだ詩があります。

(大意)

天平二年の正月十三日、頭(かしら)だつ人の家にあつまって二次会の宴会をひらいた。
時節は初春の(正月)めでたい月。空気もようやく温かく、風も穏(おだ)やかに吹いている。
鏡には、白粉のような白い梅の花が映り、集まった君子たちのしめた帯の背中からは、蘭の薫(かおり)が香炉(こうろ)を置いたようにかすかにただよってくる。
傾いた日が山際にさしかかり、山裾には雲がながれるのが見える。
女羅がさがった老いた松は、屋根のように大きなその枝葉を庭にかたむけている。
山にかかる夕靄はふもとにおりて霧となり、鳥は鳴くのをやめ、林をさまようかのように飛びわたる。
目の前の庭には生まれたばかりの蝶が舞い、遠くの空には故郷へ帰る雁が飛ぶ。
(ああ、美しいこの場所、)ここでもって天地の区別なく無礼講で楽しむことにした。
そこで席順を崩し、膝をつきあわせ、酒杯を応酬する。
一部屋の中で言葉遣いも忘れ果て、世俗の身分に関係なく、衿(えり)を開いて打ち解けあう。
名利を忘れて自由な気持ちになり、楽しい気分になって満足する。
もし、文学に拠らなければ、どうやってこの楽しい感情を表し残したらいいのだろう。
詩経に落梅花を詠んだ詩があるくらいだから、昔も今も(この季節に梅を詠むことに)違いはないのだ。
だから皆でもって庭の梅をテーマにして、すこしばかりの短歌をつくったのである。


ともあれ「令和」が良い時代にならんことを。
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桜と新元号

明日、新しい元号が発表になります。とはいえ明日をもって平成の時代が終わるわけではないですが、気持ちの上ではひとつの時代の区切りの日となりそうです。

今年は三月下旬に寒い日が続き、桜の開花が遅いように感じるのですが、昨年がやや早かったからかもしれません。今日は全国的に気温が低く、関西では小雨がパラつく地域が多かったと思います。大阪ないし東京周辺のお花見のピークはやはりこの週末、あるいは来週末、というところでしょうか。
和歌はあまり勉強したことが無いのですが.......桜と新元号にちなんで(ご愛敬までに)四首ほどつくってみました。

三十一(みそひとの)すぎゆく御代をおくらむと
散りぬるころをまてし花影

咲きそめし花をさそいて春雨の
ふりゆくままにうつる御代かな

御代やあらむ、花やむかしの花ならぬ
うつりにけるは人ばかりなり

たいらかになりてのどけき春の日に
新しき世を迎ふるよろこび

一昔三十年と言いますから、平成をもってひとまず一昔、というところでしょうか。散る花や、昭和も遠くなりにけり.............
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「祭姪文稿」見逃し残念記

........話題の顔真卿祭姪文稿、残念ながら2月は多忙で東京まで観に行く機会がとれなかった。その腹いせ、という意味では全くないが、祭姪文稿他、顔真卿の”三稿”の真実性には前から疑問があった。残念記念で少しその事を以下に。観に行かれた方には、あるいは水を差しかねまじき内容もあるかもしれないので、その点はお含みおきいただきたい。

個人的には、あの安禄山との激しい戦乱の最中、顔真卿ほどの能筆家が自己の感情もあらわに筆跡が乱れた(と言われている)草稿を残していただろうか?という疑問がある。また続く内戦と唐末の大乱の最中、石碑ですら原刻が喪われたもの数多という中、紙片が残るものだろうか?という点も。さらには1000年以上後まで伝存するような精良な紙を、草稿に使用するだろうか?という疑問がわくところである。
事実、現在知られる唐代の楷書の碑帖も原刻はすでに喪われているものが多い。また拓本も宋代より以前にさかのぼれない、というものが非常に多い。
唐代の筆書が実際どのようなものであったか?という点については、巷間言われているほどにはわかっていないことがまだまだ多いと考えている。ある意味、確実な史料がほとんどない王羲之の時代よりも、なまじ唐代の書と言われるものが多いため、かえってつかみにくいところがある、といえるのではないだろうか。

顔真卿はそれまで主流であった「二王」こと、王羲之と王献之の書風を超克するというところに問題意識があり、それを成し遂げたと通俗的書法史では評価されている。王羲之を越えないまでも、書の変革者であると。

これも私見で恐縮であるが、東晋の名門貴族として実在したであろう王羲之が、”書聖”であったというのは唐の太宗時代に創られた完全な虚像、と考えている。ゆえに現在みられる”蘭亭序”をはじめとする王羲之、王献之の書は、すべて隋唐から北宋にかけて創作されたものだろう、と。
それはごく少数の東晋時代の碑文や、先立つ漢代における隷書体の碑文をつぶさに検討すれば理解することは容易である。たとえば蘭亭序のような楷書を崩した行書体が、四世紀に存在したか?という問題である。さらに完成された楷書を崩した「蘭亭序」にみられる”行書”しかり、また草書の尺牘の類についても同じことが言えるのである。

顔真卿は四十四歳の作と言われる多宝塔碑で、北魏以来の楷書を集大成した、雄渾かつ端正な楷書体に到達しているとされる。しかしその後に書風を一変し、顔勤礼碑や顔氏家廟碑、麻姑仙壇記で”顔体”と称される独自の書風を確立している。これらをもって、王羲之以来の流麗な書風を革新したと、一般的には言われているのである。とはいえ王羲之の時代には完成した楷書体は存在しなかった。鐘繇や王羲之の小楷は、実際は北宋に入ってからの偽作と認められて久しい。

今日言う”楷書体”というのは、漢民族からみれば異民族王朝である北魏において大略完成した書体である。しかしそれは紙の上に毛筆で書かれた筆書として発展した書体ではなく、刻石の上で展開し、整理されていった書体であろうと考えられる。
北魏に先立つ漢代の碑、いわゆる漢碑における隷書体は、毛筆で書かれたであろう筆書の原型をかなり忠実に石に刻んでいる。それは毛筆書体のもつ美への深い理解と、それを後世に伝えんとする意識に支えられたものであると考えられる。
それが漢、西晋と時代を経て、北方に異民族王朝の北魏が成立すると、様相が大きく変化してゆく。おそらくは前後漢で成立した毛筆書の文化に疎い人々の手によって刻まれた刻字は、元の筆書を忠実にたどったものではなかったと考えられる。刻石の刀法の影響で筆書の曲線が直線に矯められ、隸書特有の右へ長い波磔が短縮される、という変化があったことだろう。
すなわち書がしるされる媒体の物性によって、書体が変化してゆくのである。たとえば木版印刷の上で彫りやすいように筆画が変化していった、活字書体である宋朝体、明朝体がある。また楷書体と同じく刻石の上で成立した、英数字のローマン書体と比較して理解されるところであろう。骨片に刻まれた甲骨文や青銅器上の篆文なども、書かれた媒体の性質を考えることで、書体の発展の必然性を説明することが可能である。
このような、文字を書く道具と材料の変遷が書体に影響を与える、といよりほとんど書体を決定してきた、という考え方は、西洋におけるアルファベットの書体の変遷の説明ではごく普通の見方である。しかし通俗的書法史によれば、すべて現代と同じような毛筆でもって紙の上で変化してきたかのようなとらえ方が主流になるところに、錯覚や誤解がみられる。これが東洋における書の歴史がそのまま能書家の列伝であり、あたかも英雄伝説のようなストーリーから脱し得ない原因ではないかと考えている。

漢代の竹簡や木簡の上で発展した隷書体は、一辺の木簡に一行が原則の書体として、より多くの文字を書き入れるために扁平になって行った。また可読性を高めるために、波磔が強調されるようになる。

文字を刻んだ石碑の製作が流行するのは漢代に入ってからである。それは硬い石に彫刻を施すのに適した、焼きを入れた鋭利な鉄器の精錬が可能になったからであると考えられる。その技術は、刻石の文化と同時に、西方から伝播したであろう。漢代は、それまで青銅器を主流とした戦国春秋〜秦時代から、鉄器の文化へと移行した時代でもあった。
摩擦に弱い青銅の刀では、硬質な石材に緻密な線を彫り上げることは難しい。春秋戦国時代にみられる画像石のような、ごく柔らかい石におおらかに図像を彫り上げるのが限界であろう。また硬い石でなければ、そもそも繊細な線を彫れないのである。ごく硬い石に精緻な文字が刻まれるようになるのは、道具の進化と無縁ではない。

文字が刻石上に多く刻まれるようになると、縦横の方眼の方が見た目には整然としている。さらには縦方向に文字を目で追う上で、隸書のような横広がりの文字よりは、正方、ないしやや縦長に構成されていた方が視線を移動して読みやすい。さらに漢字という文字の構造上、筆画の外側は直線的に彫りやすい。しかし内側の点画はやや慎重に彫らないと、内包された点画など、文字の構造を壊してしまう。こうして、顔真卿以前の楷書は、歐陽詢に代表されるように、いわゆる”外方内円”の字形をとるようになったと考えられる。

また刻石上の下書きは、多くは石の上に直接書かれたであろう。総じて字形が大きな魏碑の文字は、円錐状の筆ではなく、平たい刷毛のような筆で書かれたと考えられる。刷毛であれば、毛筆書の心得の薄い者でも、比較的容易に、縦横に整った線をえがくことが可能なのである。

ところで四世紀の東晋時代〜南朝宋時代までの、南方の碑文や墓誌の類というのは現存するものが非常に少ない。しかしはじめから無かったわけではなく、後世になって破壊されたり建材にされたり、新たな墓誌や碑帖の材料として刻面が削り取られてしまったからと考えられる。それは北朝に南朝が征服されてゆく過程での、意図的な破壊もあったと思われる。
五世紀の南方の筆書を伝える数少ない碑の一例を挙げれば、420年に東晋がほろんで後の南朝劉宋の時代、458年に造られた「爨龍顏碑」がある。これは清朝の乾隆年間に雲南省で発見されている。これは地元豪族の墓誌であるが、雲南省のような僻地であったからこそ、奇跡的に破壊を免れたのだろう。ゆえに南朝の支配地域において、墓誌を刻む習慣がなかったとは言えないのである。東晋〜南朝時代の南方の碑帖が異様に少ないのは、やはり北朝の征服過程と統治下で、相当な破壊があった事がうかがえるのである。
この碑の書体を見る限りでは、現代のゴチック体を思わせるところがあり、唐代の洗練された楷書にはまだ相当な距離がある。5世紀の時点では依然として、唐代の整理された楷書体への発展過程にあったのではないか。

北魏を中心とする北朝で楷書体が発展を遂げていた同じ時期、南朝では隸書の早書きである草書体が洗練の度を増していた、と考えられる。それは会稽を中心とした製紙業の隆盛が背景にあり、また筆や墨の質の向上も貢献していたであろう。草書の連綿の発展は、精良な紙と筆墨なしには到達できないものである。
ゆえに南朝貴族の自国文化に対する矜持は、草書の美に拠るところが大きい、と考えてよいだろう。それは平安朝における仮名の発達と対比して理解しても良い。
草書のような筆記書体は平安朝における仮名と同じく、書き手の個性を表現する事が可能であり、むしろ積極的に表現を試みたであろう。同時に、名手の筆跡の模倣も盛んにおこなわれるのである。
対して北朝の、いわゆる魏碑を中心とする碑帖群は、作者がほとんど分かっていない。北方騎馬民族を継承する異民族王朝であり、政権における軍事色の強い北朝にあっては、文字はあくまで通信や広報手段の道具である。そこに書き手の個性を表現する必要性は、おそらく認められなかったのであろう。

隋の楊氏も唐代の李氏も、もとは鮮卑族をルーツに持つ武川鎮軍閥の出身である。一方で、唐の太宗のブレーンの多くは漢王朝以来の南朝貴族たちある。虞世南、歐陽詢、褚遂良たちは互いに師弟関係にあり、その祖に王羲之の後衛と言われる智永がいたとされる。
彼等”唐の三大家”は、北朝で完成された楷書体(とおそらくは異字の統一など)が採用されることに、積極的に関与している。そこには隋唐王朝の成立と同時期に、楷書体が公文書における制式な書として定められたのであれば、その模範となる書体は、ぜひとも南朝文化の継承者の手によって、完成されなければならないという、ある種の危機感のようなものがあったのではないだろうか。
それと同時に、南朝文化を継承する運動として、おそらくは”書聖王羲之”を創造したのではないか?と考えられるのである。

書体の変遷に当時の政局が影響していることは、近代史における簡体字の採用、また文化大革命における独特なプロパガンダ書体などにも類例を見ることが出来るものであり、別段特殊な事ではない。

ゆえに楷書体はすでに王羲之の時代に完成していた、という物語の中に”蘭亭序伝説”を位置づけることで(楷書がなければ行書も生まれないので)、文化面での南朝の優越性を太宗以下の北方出身の貴族たちに認めさせたか、あるいは信じさせた可能性がある。あるいは太宗も南北融和のために積極的に王羲之を賞賛した、という事もありうるだろう。
智永は楷書と草書を併記した”真草千字文”を八百本も書き、寺寺に配ったといわれている。またその一本が日本に伝存していると考えられている。その真偽はさておくとしても、何故智永が数多くの真草千字文を書き、配布したか?という故事の謎がある。これも北朝の刻石文化と、南朝の豊富な紙の生産の上に洗練された草書体文化の融合、という文脈で説明できるのではないだろうか。あるいは歐陽詢等よりやや後代の、孫過庭の「書譜」における草書の美と、書論の内容についても、やはり南朝貴族文化の系譜の上で理解しなければならないのではないだろうか。

そこで顔真卿に話を戻すと、多宝塔碑以降に顔真卿が目指したのは、結論的にはおそらく漢代の筆書への回帰であったのではないか?
それは北魏以来の刻石における(おそらくは石刻職人の技量や筆書への理解の不足に基づく)直線的な楷書体から、漢碑の隸書体における曲線的な筆線や波磔への回帰ではなかったのかと。また”ネズミのしっぽ”とも呼ばれる、(おそらくは褚遂良を継承した)顔真卿の楷書体における独特な波磔や、外円内方の、まる味を帯びた筆画にあるのではないかと。そう考えたくなるのである。
ゆえに二王以来の流麗優美な書風に対抗し、雄渾な書風と確立した、というのはまったく後世のこじつけであり(そもそも王羲之の時代に完成された楷書体は認めがたいのだから)、むしろ顔真卿の意識は、北魏以来の北方異民族政権による中原文化への圧迫に対する、ある種の抵抗の感情があったのではないか。

唐代にいたり、碑帖における毛筆書体の再現性は、再び漢代における漢碑のごとく、精緻な技術を回復する。毛筆書特有の線の肥痩までもが忠実に刻まれるところには、碑帖の製作者と注文主が、筆書に深い理解を持たなければならない。
顔真卿の後期の楷書作品にみられる、"ねずみのしっぽ”とも呼ばれる特徴的な右の波磔は、それが毛筆による筆書であることを強調しているように見える。この点、おそらくは平たい刷毛のような筆で書かれたであろう、北魏の碑帖とは文字通り一線を画すことを宣言しているかのようである。

顔真卿は虞世南や歐陽詢、褚遂良といった南方貴族の出身ではなく、山東省に本貫をもち、魯の国の孔子の高弟、顔回の末裔と称する一族の出身である。山東には漢代以来の刻石刻碑の類が現在も多く残っている。はじめ褚遂良以来の唐楷を極めた顔真卿も、やがて故郷に残る漢碑の隸書や八分書の影響を受け、その味わいを唐楷に取り入れようとしたのではないか?というのが、ごく個人的な理解なのである。唐朝への忠誠心を後世称えられる顔真卿であるが、文化面ではまた別の感情があった事と察せられるのである。

顔真卿の草稿については、俗にいう”三稿”があり、そのうちの「争座位帖」については、北宋の米芾が”見た”と書いている。それ以前に記録文献には見られない。唐末から五代の動乱のすさまじさは、あまたの文物の亡失が想像されるのだが、文献資料すらほとんど残っていない事実からも、その損失の程が察せられるのである。
総じて、記録が残っているが実物は残っていない例はあるものだが、古い記録が無くて実物のみが残っている、というのはなかなかあり得難いところである。北宋の米芾からさかのぼること、唐代は二百五十年以上前の時代。今でいえば2000年代の人が乾隆年間の書を見たような、そういう時間の経過が横たわっていることは、意識しなくてはならないだろう。
実のところ顔真卿の書風は時代によって毀誉褒貶を繰り返してきているのであるが、まず北宋において再評価の時期を迎えている。北宋は毛筆書の即興性、いわゆる”卒意”が重視された時代である。そうした北宋人の美意識の下で顔真卿が評価されたところに、”三稿”の位置づけを考えてみてもよいだろう。それは唐代初期において、”卒意”の書とされる”蘭亭序”が創作され、称揚された経緯も参考になるのではないだろうか。
蘭亭序の真偽に象徴される”書聖王羲之”の実在性と併せて、唐代の筆書文化の全体像についても、再考の必要があるのではないだろうか。
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窮屈さを増す大陸旅

昨年の10月末の事。深圳から香港に移動する際の羅湖の入管で、中国に渡航を始めて以来、実に初めて指紋をとられたのである。これは原則、入国する外国人全員に原則義務付けられるようになったようである。
その昔の1980年代、日本でも一部の外国人への、指紋押捺の義務に対する反対運動が巻き起こったことがあった。その運動の是非はともかく、たしかに指紋をとられるというのは、正直あまりいい気分ではない。
むろん、いまでは民間企業が提供するシステムにも、”指紋認証”が普及しているのであって、そのデータもどこでどう管理しているかはわからない。要は悪いことをしなければいい、悪いことをするつもりがないならいいではないか?というのも確かにその通りなのである。しかしそうはいっても、ある組織や権力機構に、自分の身体のプロファイルが採られてゆくという事に、心の奥底の不快感はぬぐえない。

そもそも”悪いこと”が、ルールに違反しない、という明確な定義づけがあるなら良いし、処罰についても客観的な証拠に基づいて審理するという過程を経るなら、まあ良いのである。しかし時に政権の”恣意”に拠ることがあるのなら、話は全く別である。
品物などから簡単に指紋をスキャンすることが出来るセンサーを使い、あらゆる場所から指紋を採取できるようになれば、その情報を使って行動をトレースすることも容易になるのである。防犯カメラの顔認識の技術とあわせて、現代では、いつどこで誰がだれと会っているのか?という事も、比較的簡単に割り出せるようになった、ということでもある。それは犯罪捜査や、犯罪を未然に防ぐことに使われるのは結構なことではあるが、それ以外の事には使用しないでほしいと、切に願うものである。

それとは別に、11月に上海に渡航した際。上海の浦東の入管での出来事。入国カードの記載内容についてとがめられたのである。大陸では入国、出国の際に黄色いカードの記載事項を記入するが、これとていままではいい加減なものであった。生年月日とパスポート番号、サインがあればそれでOK、のようなものである。パスポート番号を間違えていても通った、という話も聞く。
”入国カード”には、入国時と出国時では記入内容に違いがある。入国時にはやや事項が詳細にわたり、宿泊先などを書く欄がある。この箇所などは書くのが面倒なので、いつも斜め線を引くだけで”未定”のような体裁で出していた。これでなんの問題も無かったものである。
それが今回、入管の女性の審査官に「宿泊先はどこですか?」と聞かれたのである。実のところ、この時点で宿泊先は確定していなかった。そういう事はままあるもので、とりあえず上海について、その日の宿は適当に朋友に予約を入れてもらう、という事もあるのだ。「今は決まっていません。」と中国語でいうと、女性の審査員は冷たく「宿泊先を書かないといけません。」という。それが書けない場合は一体どうするのだ?という感じであるが「これから友達に会う。友達が手配してくれているが、今は知らない。」というと「友達に電話で聞けませんか?」という。あいにく、携帯電話が充電されていない。そもそも大陸を訪れる外国人の大半は、中国で通じる携帯電話など持っていないだろう。それも出来ないというと「友達の住所は?」と聞くので、思い出す限りで適当に書いてやったらやっと通ったのである。面倒になったものである。
今でもそうだが、入国ゲートに「〇〇先生」とか「Mr.〇〇」と書いたカードを持った迎えの人がいて、それからホテルに案内する場合もあるであろうし、そのホテル名を事前に知らない、などという他人任せな話もあるだろう。宿泊先が突然変更になることだってあるし、今回は上海のほかに揚州で一泊している。昔、旅行にもビザが必要だった時は、日程と宿泊先ホテルを詳細に申告しなければならない時代もあったものであるが、その時代に逆行してゆくのだろうか。
上海の浦東では、簡易なビジネスホテルに宿をとってもらったのであるが、ここでも何やら顔を認証すると思しき機械を使い、パスポートの顔写真と照会していたようである。おそらくこのシステムはオンラインでデータが集められ、いつどこのホテルに、何者が泊ったか、即座に情報が届く仕組みになっているのであろう。むろん、今までも、宿泊の際はパスポートを見せ、番号を控えるなどしている。それは公安に報告されるのであるが、紙ベースでの作業であり、おそらく後でまとめて報告していたのであろう。それが現在はチェックイン時に即座に、である。どうも情報がどこかに送られ、当局のOKが出て初めて宿泊が許される、ような雰囲気である。
しかしそう考えると、大陸で最近増えている民泊などは、依然として適当なものである。宿帳に姓名とパスポート番号を書いてオシマイ、という形態が一般的である。これなども、今後は厳しくなってゆくのかもしれない。

地下鉄に乗る際の荷物検査も、近頃ではちゃんと検査機に荷物を通さないと通してくれない。少し前などは、みんな無視して通っていたものである。それがきちんと荷物を通さないと通過できなくなっただけではなく、実際に中身を改められるようなことが数度あった。
たくさんの筆を持って乗ろうとしたときなどは、爆竹の束を持ち歩いているかと疑われたし、数個の硯を持ち歩いたときなどもバッグをあけられて「これは何ですか?」と聞かれたものである。何ですか?って硯ですよ、と言っても通じない人もいるのである。墨、についても同様な事があったが、これらはX線の検査機には固体の爆薬にでも見えるのだろうか。真鍮製の筆帽をたくさん持ち歩いたときは、弾丸かなにかと勘違いしたらしい。
空港のセキュリティであれば致し方ないとも割り切れる。高速鉄道の駅でも、致し方ないとは思う。しかし日常乗る地下鉄でこれをやられると、これはたいそう難儀な思いがする。昔に比べて交通の便が良くなったはずなのに、なぜだか移動のストレスが高くなっているようなのは、気のせいばかりなのだろうか。自動改札の存在を打ち消して余りある。それは煩わしさ、である。
上海の朋友に言わせれば「比較的安全な上海で警戒を厳しくする理由はなんだと思いますか?犯罪ではないですよね?テロを警戒してのことだと思います。」という。
もちろん、実際に地下鉄で有毒ガスを使ったテロを経験した国の人間からすれば、起こりえない事ではないというのもわかる。場合によっては、航空機のテロ以上の犠牲者が出かねないわけである。

大陸政府では、個人の行動履歴を蓄積するシステムを構築し、特定個人に法令違反などがあれば銀行口座を開設できない、また航空券や列車のチケットを買えなくなるなどの、行動の制限を設けようとしている。これを”档案”制度というが、この制度は今に始まったことではない。古くは王朝時代に起源がある。しかし王朝時代の”档案”は一定身分の者が対象として限られていたが、中華人民共和国成立後ほどなくして実施されたのは、すべての人民が登録される国民管理制度である。
しかし書類で管理されてきた牧歌的な”档案”の情報を、データ化してオンラインで照会できるとなると、全く違った威力をもつシステムになる。飛行機や列車での移動にも身分証が必要なのが大陸の旅であるが、IDと档案を紐づければ、問題のある人物への乗車券、搭乗券の発券を止めること事が出来る。それは移動の自由だけではなく、さまざまな行政サービス、銀行、あるいは就業などの、あらゆる生活面に影響を及ぼすことが、原則として可能になるのである。

こうした管理の強化は、人民の総意を経たものではむろんないし、人々が反対か賛成かにかかわらず、政府の意思によってどんどんと進行してしまうのが、かの国の体制が民主国家ではない所以でもある。
このような国民総管理システムの構築は、犯罪捜査や、犯罪抑止、またはテロの抑止にも、たしかにある一定の効力はあるだろう。シンガポールが公共のマナー違反にこと細かく罰金を科していった結果、街が美しくなっていったごとくである。そういえば現主席は、シンガポールの統治を大いに称揚していたものである。

しかし当然、専制独裁国家におけるその種の制度は、国民の健康安全のためではなく、体制維持が主目的である。個人的な予測であるが、今後、この”档案システム”は、さらに広範に、精緻に構築が進むと考えている。人民は今までより一層、体制に従順であることを強いられるだろう。”档案システム”の強化は、逆の面から考えると、それだけ人民の体制への不満の高まりを、政府自身が予測している事実の表れであるともいえる。人民の不満の原因は、いつの時代も変わらず、経済、経済政策、である。
実際の所、昨年の大陸の経済情勢は思わしくないし、数々の施策によっても、劇的な改善はほとんど見込めそうにもない。どこを見渡しても過剰設備が山積しており、投資効果が著しく低下している。金融や財政出動の手段を講じても、もはや有効なカネの使い道が乏しいのである。各地の不動産価格は下落傾向を強めているが、大陸政府はきたるべき不動産バブルの本格的な崩壊に、身構えているようにさえ見える............

日本でも”マイナンバー制度”が施行されたが、どうもうまく普及が進んでいないようである。運用面でも疎漏が多いというが、本質的には、番号で個人が特定され、あらゆる情報と紐づけられることへの、本能的な忌避の感覚があるように思える。そうはいっても、現在はクレジットカード番号、電話番号、パスポート番号、運転免許証、そのほか生活上必要な様々な番号やデータで、個人情報の特定や関連付けは、可能といえば可能な時代である。それでもそれが(縦割り行政等等のおかげで)分散管理されて(いるとはおもうのだが)、しかも個人の意思で改変や離脱が出来るのと、それが出来ないというのは大きな違いがある。
番号で国家に一元管理される事への嫌悪感というのは、民主主義の社会の住人の感覚としては、至極真っ当とはいえまいか。
ある日突然、銀行口座も電話もカードもすべて解約放棄し、住民票を離脱し、見知らぬ土地に越してしまえば、追跡は実際上は少し困難である。自由主義を標榜するのであれば、行方知れずになる自由も、どこかに少しあってもいいのではないか?くらいに思うのである。制度とはすべて、便利な反面、弊害もあることは、忘れてはならないだろう。
落款印01

豚<猪<彘

新年、あけましておめでとうございます。今年も何とぞよろしくお願い申し上げます。
型通りの挨拶で恐縮でございます。干支は”猪”、ですが、感覚的には干支の更新は旧正月以降(2月5日)にしたいものです。ちなみに”猪”は日本では文字通り”イノシシ”ですが、中国語ではいわゆる”ブタ”です。現代中国語だけではなく、昔からそうであって、蘇軾の有名な”猪肉頌”も、ブタ肉を使った料理のことです。いわゆる”イノシシ”のことは野猪、といいます。”野生のブタ”くらいの意味ですね。
では”豚”は何を指すかというと、小さなブタ、ブタの子供、子ブタのことです。フグを”河豚”と書きますが、”河の子ブタ”、という意味になります。小さいので”河猪”ではないわけですね。説文解字に「豚,小豕也」とあり、親ブタを”豕”とする場合もあるようです。”亥年”の”亥”はこの”豕”と字源を同じくすると言われます。

また古くは「彘(テイ)」という字もあり、これは「大きなブタ」を指すのが原義です。鴻門の会で樊噲が食らったのが「彘肩(テイケン)」、ですから大きなブタの肩肉、という事になります。並みのブタの肩肉では壮士にふさわしくないわけですね。また高祖の死後、戚夫人が処されたのは「人彘」、であります............大きさの順に豚<猪<彘、ということになり、成長段階によって別称があり、それぞれに文字が用意されているところから、古代から人間にとって身近かつ重要な動物であった事がうかがえます。

ともかく、伝統的には今年は”ブタ年”であって、”イノシシ年”ではないということですが、干支の人を”ブタ”呼ばわりするのは、さすがにいかがなものか、というところです。

本年も重ね重ね、よろしくお願い申し上げます。

店主 拝
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まず贋物よりはじめよ?

先日、香港で行われた”クリスティーズ”のオークションに「蘇軾木石図」が出品され、邦貨にして68億円で落札された。これは東洋の絵画としては史上最高の落札価格だそうだ。敬愛する東坡翁の作品とて、多少の関心はあった。この絵は1930年代から行方不明であったが、今年になって日本で発見され、今回のオークションに出品されたという事だ。
また日本から文物が流出したと、これを嘆く向きもあるようである。しかし私が不可解におもうのは、なにゆえこのような疎漏だらけの(せいぜい清朝あたりに作られたであろう)贋作が、アジア古美術品市場、史上最高値で落札されたのか?という点である。

日本の報道では、確実に蘇軾の絵と断定できる、数少ない作品のひとつと、オークション会社の紹介をそのまま流しているような内容ばかりで、それ以上突っ込んだ解説はない。仔細は省略するが、この絵が蘇軾の画であることを、断定できるような証拠は絵の上にどこにもないのである。これは科学的な分析とか、絵画に関する知識以前の問題で、最初の跋文を読んで、ほんの少し考えれば「蘇軾の真筆と断定できる」という命題が”偽”ということは、わかるのである。初歩的な論理学の問題とさえいえるのであるが。
落札したのは、個人ではなく何らかの機関であろうけれど、それにしてもお世辞にも名品とはいいがたい、参考にもならないような作品をよくぞ落としたものである。「蘇軾木石図」が真筆であるということに客観的な証拠は存在しないのであるから、68億円という大金は、誰ぞの主観に対して支払われた、という意味になる。
もっとも、落札者は未詳であるし、本当にお金が支払われたかもわからない。ともあれ、作品の真贋は同時に、鑑定した人物や組織の真贋を明らかにしてしまうのである。
もし本当に落札者がいて、お金が支払われたのだとすれば、これをどう考えるべきであろう.........と考えていて「まず隗より始めよ」という、戦国策に出てくる故事を思い出した。燕の昭王に郭隗が就職面接の際にひいた、たとえ話である。

君主に一日に千里を走る名馬をさがすように命令された家臣が、死んだ一日千里の名馬の骨を五百金で買って戻ってきた。君主が激怒すると「千里の名馬なら、その骨さえ五百金で買うのならば、まして生きていれば。」とその家臣はこたえる。はたして一年の間に、三頭もの千里の馬がやってきた、という話である。
有能な家臣を求める昭王に、郭隗が「まず私を採用してください。この私ごときが採用されると聞いたら、能力のあるものが次々と燕国にあらわれるでしょう。」というわけである。果たして楽毅が魏から、鄒衍が齊から、劇辛が趙から燕国にいたり、多士済々となった燕は富国強兵に成功し、大国斉を打ち破ったのである。

...........贋作すら買う、まして本物であれば、いったい幾らで落札されるのだろう?「まず贋物よりはじめよ」というわけで、本物の名品が陸続と出品されることを期待しての”自作自演”だったのかもしれない。とすれば多少は腑に落ちるのである。もっとも「あの程度でも通るのか。」と、現実にはコマシな贋物が、続々と現れてきそうではあるのだが.......千里の馬のたとえにしても実際は「骨が売れるのか?」と言うわけで、大量の馬の骨をかついで来るものが絶えなかったのかもしれない。むろん、どこの馬の骨なのか?わかったものではない。
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豪雨に思う

西日本が記録的な豪雨にみまわれています。被害に遭われた方々には、心よりお見舞い申し上げます。

台風などではなく、長雨でこれほどの被害が出たのは記憶に無いと思います。その昔、昭和50年くらいから20年間ほどの降雨のデータを整理するような仕事をしていたことがあり、特に名称がつけられるほどの集中豪雨であるとか、記録的な大雨がどのくらいの降水量であるか、およそ見当はつくのですが、それにしても今回の雨量は尋常ではないと思います。今後、日本列島における水災害の性格が変わっていくのではないか?いや、すでに変わってきている、という気もします。

話がそれるようですが、先日、ワインを商っている人と話をしていたのですが、ヨーロッパのワインの世界では、2004年からはっきりと温暖化の傾向が出ているということです。
具体的に言えば、気温が高いためにブドウの皮が薄くなり、糖度が高くなっているということです。全般的にワインが甘くなる傾向があることと、ブドウの皮が薄いために渋み、タンニンが弱くなったと。
ワインは寝かせることでタンニンが軽くなり、渋みが抜けるのですが、はじめからタンニンが弱いので、あまり寝かせなくても飲みやすいワインが増えているのだそうです。
世界的にワインの消費量が伸びている中で、あまり寝かせないでも飲みやすいワインが出来ることは、ワインを供給する側からいえば有利な面もあり、醸造家も”若飲み”出来るワインを造る傾向にあるそうです。その反面、伝統的なワインの味わいからはだんだんと離れてきている、という事実もあるのだとか。

温暖化のメカニズムについては、解明されていないところが多いのが現状だという事です。CO2の増加が主要因に上げられ、それなら化石燃料を燃やすのはやめて原発にしましょう、という論理に基づく、産業界全般の流れのようなものがあったのも事実です。が、一説には原発が無駄に捨てていいる膨大な熱量が、冷却水で熱交換されて最終的に海に流れ込むため、海水温があがって温暖化を招いている、という説もあります。

印象として、たしかにここ10年で気候が毎年急激に変化しているように思えます。ちょっと思い当たるのが、雲の動きです。
雲は大気の熱を宇宙に拡散させない働きがあり、雲が少ないほど気温は冷えやすい、という事です。冬場に晴天が続くなかで強く冷え込む、いわゆる放射冷却がそれですね。
しかし一方で、地表の熱で水蒸気が生まれるとき、気化熱となって地表が冷却されます。水蒸気が高い高度で冷やされて雲になり、冷やされた水蒸気が雨となってまた地表の熱を冷ます効果もあるわけですね。
曇天の方が一般的に気温があがらないわけですが、逆に雲があることで宇宙に熱が逃げにくい、という見方もあるとすると、その差引勘定はきっと複雑で解析的には解けないような数理モデルになるのであろうなあ、という事はぼんやりと想像されます。

2004年からの、記憶に残るほどのやや急激な気象の変化を思い浮かべつつ、その間に人間社会に何が起きていたか?というと、ごく狭い個人的体験に照らせば、やはり大陸中国の経済成長です..........ただしもちろん、温暖化傾向を大陸の産業活動のみにこじつけよう、という意図はありません。
しかし一点、懸念されるのは、大陸で盛んにおこなわれている人工降雨です。


慢性的な水不足に悩む大陸では、各省でヨウ化銀をロケットで雲に打ち込んで降雨を促す、人工降雨が盛んにおこなわれています。隣接する省ごとに、雲の奪い合い、というような事態になっている、という話も聞きます。さらに今年の4月、チベットや新疆で、イベリア半島の数倍の面積におよぶ広範囲で、人工降雨を試みる、というプロジェクトがあることが報道されています。チベットには黄河の源流があるわけですが、ここの雨量を増やすことにより、特に水が不足する中国北部の水資源を確保しようという試みですね。ヨウ化銀を気化させる装置で降雨を促し、百億トンにもおよぶ降水量の増加を計画しているという事です........大陸の水不足の深刻さは昨日今日に始まったことではないですが、直感的に、こういうやり方が地球の気象環境に与える影響はどうか?というような事を考えないわけにはいきません。いずれ雨となって地表に降り注ぐにしても、本来上空にあったはずの雲が予定よりも早く消失してしまうという現象を人為的に起こしたときに、何も特別なことが起こりえないものでしょうか。
もっともこの人工降雨、なにも大陸だけではなく、いまや世界各国、もちろん日本でも行われています。

気象操作の元祖はやはりアメリカで、ベトナム戦争の際は、アメリカ軍が「ポパイ作戦」と称する降雨増加作戦をおこなっていました。
また北米を襲うハリケーンの中心に、爆撃機でもって大量のヨウ化銀やドライアイスを散布し、上陸する前に雨を降らせてしまう事で勢力を弱める、というような実験はかれこれ半世紀前にアメリカで実際に行われていました。その結果、予想されたハリケーンの被害は確かに相当減ったそうです。しかしその後継続されなかったのは、一回発生したハリケーンの被害を防ぐことで、後続して発生するハリケーンがさらに強大化するといった、副作用をもたらす可能性がある、という事が主張されるようになったから、という話があります。
大きな被害をもたらすハリケーンや台風も、地球上の壮大な熱の循環過程で、やはり理由があって発生しているわけですから、それを人為的に変えてしまう事で、どこかで別の被害が生じる、という事は考えられるわけですね。しかし、そのシステムは相当に複雑で、証拠を並べて「こうだ!」と断定するのは、実際の所は相当難しい、というところがあります。”十分条件”しか言えない”サイエンス”というものの、本質的な限界、という事かもしれません。

なので人工降雨と、甚大な被害をもたらした今回の豪雨を結び付けて因果関係を主張するのは、もちろんナンセンス、という事になります。
そうなってくると、やはり先人たちが持っていた、自然に対する畏れ、はばかりといったような、”知恵”のようなものを、あらためて見直す必要があるのかもしれません。
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今日は四新


昨年の暮れは”三末”、では今年の新年は?というと”四新”というのだそうです。
四新?三末なら、三新はわかるのですが.......新しい週、新しい月、新しい年......それに新しい一日が加わって、四新、ということだそうです。毎年、”三新”はかたいところですが、週の初めがこれに加わるのは数年に一度、という事ですね。

昨今、世上を賑わすのが人工知能、AI、ですね。まあ、AIの開発にもコストがかかることですから、世の中のあらゆる分野がAIにとってかわる、という事でもないと思います。とはいえ、事業をする上でもっともコストが高いのが人件費、ということであれば今まで高い人件費を支払っていた分野ほど、AIが進出してゆきそうですね。合理化、機械化も「人を使った方が安い」うちは進みませんから、世の中の低賃金の仕事ほど、AIやロボット化は進まないでしょう。人間の仕事を機械に奪われる、というのは何も今に始まったことではなく、紡績業の昔もそうですね。建設現場でも、昔に比べれば、だいぶ少ない人数でより大規模な建築が可能になっています。ここ十数年でいえば、身近なところでは、DTPやWEBの仕事等も、仕事そのものがなくなりそうな勢いで単価が下がっていった分野だと思います。これは機械というよりも、ソフトウェアの進歩とコスト低下によるものですが、要はAIに限らず、テクノロジーの進歩によって今までの仕事の価値(≒相場)が変わってしまう、という事はあるという事です。それは今までもありましたし、これからもあるでしょう。あるひとつの仕事で一生ご飯を食べて行ける、という事がまず無いのは、普通に仕事をしていてもすくなからずあることだと思います。

書道に関しても、コンピューターグラフィックスに落とし込むような”書文字”の分野などは、商業的な面から言えば、そのうち大部分がAIの書いた文字に置き換わるような気がしています。要は大差ないのですね。
では人間はどうしましょうか?という事になるのですが、やはり手書きで、良い紙、良い墨で作品をつくる、という事に尽きるのかもしれません。書道が出来るロボットはすでにあるようですが、ロボットが書いた字や絵を部屋に飾る、というのはあまり好まれないような気がします。AI同士の将棋の対戦が、研究上の関心は呼んでも、人間の興味をさほどひかない、という事と同じだと思います。
きれいなイラストやグラフィックも、デジタルで描画して、簡単に大量配布できる時代になりました。しかしひとりの人間が、その人の生きた時間を使って、手でもって書いた(描いた)作品というのは、やはりその一点しかないわけです。そのあたりの価値というのが見直されるのではないか?という気がしています。

大阪にはたくさんの外国人観光客が訪れています。日本に限らず、地球上は人類史上空前の大旅行時代になっていると言われます。その大きな理由として、インターネットとスマートフォンによって、いろんな地域のさまざまな瞬間について、大量の画像や動画を世界中にの人が閲覧できるようになったか、という事があります。ヒトは、映像や動画で満足してしまうものではなく、やはり現地に行きたい、実物を観たい、体験したい、という欲求があるようです。
初めからコンピューターグラフィックスで書かれた(描かれた)書や絵というのは、そのデータが”実物”なのですね。完成した時からデジタルデータの実物があり、実物がたくさん複製できてしまう。複製と実物に、本質的な違いは全くありません。ところが手書きの書画であれば、それが画像となって流通したとしても、やはりどこかに”実物”があるわけです。一点しかない。複製と本物。その”違い”に価値の差がある、というところは、変わらないのではないか?と思います。

技術が未熟で、社会の生産性が低い時代は、ひとつの国では食べるのに精いっぱいでした。そこで生存圏をかけて隣国と戦争を繰り返す、ようなことが起きていたわけですが、権力のヒエラルキーも、富の分配と戦争の遂行の必要として牢固に構築されてきたわけです。それが技術の進歩によって社会の生産性があがり、豊かになると本当は戦争する必要がなくなるわけです。同時に権力のヒエラルキーも、実は不要になるか、さほど強固な形では必要なくなるわけですね。ところが既存の権力を維持するために、危機だの戦争の必要性だのを演出する、という事はまだしばらく続くのでしょう。
振り返れば「豊かになれるなら死んだって良い。」という、本末転倒な事を繰り返してきたのが戦争の歴史なのですが、それがテクノロジーと産業の進化によって、いよいよ必要がなくなる時代が来るのかもしれません。重要なのは平和や平等をもたらしたのは、とどのつまりサイエンスやテクノロジーを基礎とした産業の進化なのであって、社会を豊かに変えていったのは、実は特定誰かの思想ではない、というところでしょうか。そう考えてみると、特段、どこかのセンセイが賢いとか偉いとかいうことも、たぶん意味がなくなるのでしょう。むろん、そんなことは、大昔の哲人達はとっくにわかっていたことであるのでしょうけれど。”AIの社会進出”によって、自分の知性に疑いを持つ人が増えてくるのだとすれば、これこそAIの優れた効能ではないかと思います。

本年も、なにとぞよろしくお願い申し上げます。

店主 拝
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今日は三末

中国語圏では、今年の年末は年末と月末と週末が重なるという事で、”三末”という言い方が流行っているようです。考えてみれば年末と月末が重なるのは毎年の事ですが、週末が重なるのは、はて......?実のところ去年、2016年も年末31日が土曜日にかかっていたのですが、去年は特に”三末”という言い方が流行っていたような記憶がありません。

そもそも大陸は旧正月を祝いますから、1月1日を祝うという感覚は、昔はあまりありませんでした。しかしここ十数年くらいの間に、インターネットの富裕と海外からの影響からか、年末年始に祝いのメッセージを送りあう習慣が定着してきたように思えます。

”三末”というと、終末が三つも重なって縁起の悪いような印象も受けますが、終わりは始まりのはじまり、というわけで、気持ちを一新して新年を迎えましょう、という意味が込められているようです。

それでは皆様、よいお年をお迎えください。
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モノポリー・香港

時事の話題をもうひとつ。
......およそ一年ぶりの渡航はまず香港へ。香港といえば食の楽しみの多いところであるが、実のところ飲食店の入れ替わりは激しい。以前に行って良かった店にまた行こうと思っても、すでに畳んでいて別の店に入れ替わっている、というケースは珍しくない。
今回も、何度か行ったことのある、尖沙咀のフランス料理のレストランへ向かってみたら、スイス料理の店に代わってしまっていた.....香港では香港料理、飲茶ももちろん良いのであるが、西洋料理もリーズナブルに楽しめる店が多い。そんな店のひとつで、味も雰囲気も良かった。かれこれ7〜8年くらいは香港滞在の折に通っただろうか。これは残念である。確実に人気のあるお店で、週末などは予約が必須であったのだが。
香港在住のO氏に言わせると、香港の飲食店の入れ替わりが激しいのは、単に競争が激しい、という理由だけではい。テナントの賃料が年々騰がっている、ということも大きな理由だそうである。せっかく流行っても、契約期間が終わると確実に賃料の値上げが要求される。嫌なら出ていけばいい、借り手はいくらでもいる、というところなのである。繁華街で相当年数生きながらえている老舗というのは、経営者がすでに物件のオーナーになっている場合に限られる、という事だ。
2010年ごろから毎年数度、香港に行くようになったが、繁華街の安価なレストランカフェ、いわゆる”茶餐店”の数が昔に比べて相当数減っている。お土産物屋や、宝飾品店になってしまっているのだ。残った茶餐店も、軒並みメニューの値上げを余儀なくされている、という現実がある。
香港2017
尖沙咀の角にあったこのスナック・スタンドも改装中........同じ店が営業するのだろうか。
くだんのO氏曰く、10年前は朝食に茶餐店で卵サンドを食べても、二個くらいの卵が使われていた。なのでお昼までその朝食で充分におなかが保たれたそうである。それがここ数年は、せいぜい卵が一個くらいしか使われていない、内容の薄いものになってしまった。ゆえに朝食に食べてもお昼前に空腹を覚えてしまうという。
O氏とは、渡航が週末にあたると、西貢からのかるい山登りを含んだハイキング・コースを歩くのであるが、入る茶餐店が毎回代わって、いまは”大家楽”というチェーンのファミリーレストランになっている。曰く、ここのモーニング・セットが最も費用対効果が高いのだという.......
香港2017
西貢に行くミニバスを油麻地で待っていると......いつもはここに”傷心酸辣湯”の大きな看板が掲げられていたのだが、これも不動産の看板に代わっている........
「住宅の問題さえ解決すれば、香港は住みやすい都市」という事を、シンガポール出身のO氏は常々言うのである。しかしこの「住宅の問題」を解決するという事が、大半の香港の住人、特に若い世代にとっては、すでに現実的ではなくなりつつあるという。2LDK、50平米未満の香港では標準的な中古マンションでも、都市のかるく1億円を超えてしまうのである。
O氏の家族との会食の席でのこと。O氏の奥さんが言うには「最近香港では、昔買って値段が騰がった香港の自宅を売って、日本のマンションを何部屋か買い、日本に移り住む人が出てきている。」という事である。
昔、まだ2〜3000万円程度で香港のお部屋が買えた時代に、多少頑張って買った人達は、今はだいたい60歳を超えたくらいであるそうだ。セントラルや旺角など、繁華街に近い場所なら普通に1億5000万〜2億近くで売れるのだという.......たしかに日本、たとえば大阪であれば、新築3LDKでも3〜4部屋は買えるのではないだろうか......駅近の70平米のタワーマンションでも6000万円を切るくらいである。仮にひとつに住んで、残りを賃貸に出せば、年金と併せて日本でゆとりのある老後が送れる、というわけである。狭いことを揶揄される事もある日本の集合住宅であるが、香港に比べると広さの面では充分なゆとりがある。また老後に気になるのが医療保険であるが、日本は国民皆保険の手前、外国人にも公的保険が適用される。かなり手厚い香港の医療保険から外れても、まずまず安心、というわけである。
香港2017
しかし香港では、こんなに高い値段の部屋でも買い手がつくのであるが、その大部分は大陸からの購入者の存在である。またもう十分に値上がりしきった感のある現在でも、年率で平均10%は価格が上昇しているというから、O氏は「クレイジー。」とあきれ顔である。
究極、今や香港の産業は「不動産と金融しかない。」という。その金融も、不動産と表裏一体の存在、というわけである。あとは観光客を当て込んだ小売、飲食、サービス業しかない。香港の経済は観光が支えているというが、観光客を相手にした飲食やサービス業などは、いまや零細な産業に過ぎないのだという。おもえば、東京都心以上に不動産が高騰してしてしまった香港にあっても、外でする食事の値段というのは、(割高感のある日本料理は別とすれば)2〜3割は安い印象なのである。為替の影響もむろんあるにしても、割安な印象はここ10年ほど変わらない。という事は、どこかに無理があるはずなのである。
しかしながら、セントラルの金融センターがすべての雇用を賄いうるはずもなく、庶民の大部分は小売、飲食や(公的も含む)サービス産業に従事するよりないのであるから、いつぞやの新型肺炎騒動のように、観光産業が打撃を受ければ香港の経済は立ち行かないのである。

さて、香港の滞在の後に深圳に移動した。深圳では朋友のSさん夫妻に第一子が誕生したので、その祝いを兼ねて、という事でもある。湖北省出身のSさんは、現在は宝安空港近くの地下鉄直上のマンションに住んでいる。3LDK、70平米ほどの広さであるが、2年前の購入時は300万元(現在、1元≒17円)を切る程度であった。それが今や500万元を超えているのだという。
まだ30歳未満のSさんは、電子部品を扱う小さな商社を経営している。旦那さんは大陸家電の大手企業、華為の営業マンである。概観すれば、この年代にしてはそこそこ成功している、と言ってよい境遇なのである。しかし子供の将来を考えると、そうそう楽観的になれないという。
Sさんは7〜8年前に地方都市の惠州というところに、投資用マンションを購入している。日本円にして一千万円くらいの部屋であったというが、これははっきり失敗だったという。値段も上がらないし、売ることも出来ない。
自分の住居用に買ったマンションの値段は騰がったが、ここを売っても、もっと良い場所に部屋を買えるわけではないので、金額は意味が無いという..........深圳の不動産も場所によって上昇を続けているが.......広東の他の地方都市、たとえば珠海や中山、佛山といった中小都市には、売れていないマンションが大量にある。いや広東に限らず、いまや大陸の都市ではその規模の大小にかかわらず、大量の不動産在庫を抱えている。田園風景の中に孤立した高層マンションの一群は、もはや見慣れた景観である。
Sさんの従兄弟は昨年暮れに結婚したが、深圳ではとても部屋が買えないので、隣の東莞に部屋を買って住んでいるそうだ。東莞の物件は深圳にくらべるとずっと安価なので、個人に限らず、企業も工場も深圳から東莞に移転するケースが増えているという。

深圳の後は上海に移動した。上海のD君に会うのも一年以上ぶりである。
D君も今年39歳。アメリカとのビジネスでなかなかの成功を納めている。去年、オフィスマンションを一部屋購入したのであるが、これは5〜6人の従業員を抱えるようになった自分の会社のオフィス用の物件である。自分自身の住居用はまだ購入していない。D君、実のところ家は日本で買いたいのだという。
D君は小さなメーカーを経営しているが、大陸の市場には製品を売っていない。もっぱら、アメリカを中心とする欧米が市場の中心なのである。大陸で開発、製造、輸出をしているから、仕事の基盤は大陸にあるのだから、日本へ移るというのも容易ではないだろう。しかし大陸の会社を任せられる人物がいれば、自身はすぐにでも日本に定住したいのだという........この日本移住願望は、D君と知り合ったころから聞いているのであるが、アメリカとの事業がうまくいって多忙なために、かえって実現が遠のいている状況である。

上海人のD君がしみじみ言うのは、このまま上海にいても、未来が見えないのだという.......上海が地球上で一番良いところ、というのが上海人のステレオタイプなのであるが.....D君はかなり悲観的である。
D君も「いまの中国でもしお金があるなら、何かをやるより不動産買ったほうが良い。儲かる。」という。そういうD君は好んで不動産投資をしたいという人ではなく、これは自身で製品を開発し、製造輸出をしているD君なりの当世への皮肉を含んでいる。
「不動産は馬鹿でも儲かる。」と、D君は言う。まあ、それはいくら何でも不動産業を営む人には失礼かもしれないが、D君のように海外でも売れる新製品を開発できる能力をもった人間は稀であるし、それに比べれば資金と時宜を得ていれば、比較的始めやすいビジネスなのかもしれない。資金とタイミングが合えば、の話であるが。
一面、不動産以外に有望な投資先が見当たらない、という事でもある。その不動産投資が、少ない元手で始められることでは、もちろんない。政策によって不動産の価格がある程度は維持され、インフラ投資で額面の経済は成長しているかのように見えても、人々の将来への閉塞感というのは相当なものなのである。大多数の庶民は、高額なローンや家賃にあえぎあえぎ生活しなければならないのだとすれば、それは一体、誰のための社会なのか?という事を考えてみたくなる。
今年の半ばごろから、政府の不動産投機の抑制策によって、地方都市の不動産は軒並み下落している。ただ、こうした不動産への投機ないし投資の抑制は、過去数年の間に繰り返されたもので、不良債権が増加して金融危機が表面化する前に再び緩和されるのが常なのである。昨年始まった前回の規制も、春節前には緩和に転じているのである。
香港2017
香港2017
香港芸術博物館も改装中である。
”モノポリー”というゲームがあるが、香港をみていると、なるほどと思う。香港はかなり極端な例であるが、あるいは大陸の主要大都市の未来像かもしれない。どんな商売でもたいていは場所がいるものであるが、利便性の高い場所の賃料が高すぎるとなると、見合うだけのサービスを開発するのも難しくなるだろう。その点、香港はバランスを失いつつあるのかもしれない。それはまた、局地的には日本でも起こりえることなのだろう
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