金冬心と方密庵 〜五通の手紙

前に少し触れたが許承尭(きょ・しょうぎょう)が著した「歙事閑譚(きゅうじかんたん)」には、金農(きんのう)が方密庵(ほう・みつあん)に宛てた、五通の手紙の釈文が収録されている。これは許承尭自身が目にしたものを、書き留めておいたもののようだ。
東京国立博物館の高島コレクションには、十数通の金農の尺牘が所蔵されているということだが、その半数はやはり方密庵へ宛てたものだという。これは残念ながらいまだ過眼の機会に恵まれない。
方密庵こと方輔(ほう・ほ)は、乾隆年間における徽州の著名な墨匠である。齋号を“茹古齋(ここさい)“といい、あるいは”君任(くんにん)“という号が知られる。乾隆年間から嘉慶年間にかけて、”“方密庵“あるいは” 茹古齋“を款した墨が見られるのであるが、方密庵の生卒年は未詳であり、活動時期もよくわかってはいない。
金冬心 隷書彝器記冊 上海博物館蔵

乾隆期に勃興した名工、汪節庵との継承関係が推測されているが、後の汪継定という墨匠の作例にも、「君任氏」の款がなされた墨が知られている。汪節庵も有名であった割に謎の多い墨匠であるが、方密庵も名声のわりにその実像がつかめていない墨匠である。
李斗(ろ・と)の「揚州画舫録(ようしゅうがぼうろく)」には「密庵先生即方輔、清安徽歙県人。字密庵、号茹古。工書、法蘇、米,能擘窠大書、尤善分隶。」とある。書に巧みで、その書風は蘇軾、米芾の書法に倣っているということになる。また「擘窠(へきそう)」とあるのは、格子を切った紙に書くことである。石に碑文や墓誌を刻むことが盛んになった頃から、紙にマス目を切ることが行われていたが、後に作品様式のひとつとして定着したと考えられる。方密庵はこれに長じていたようだ。
また「善分隶」とあるのは、「八分書」と「隷書」を得意としたということである。方密庵の著書には、隷書と八分書を論じた「隷八分辨(れいはちぶべん)」があり、ここでは隷書と八分書を詳細に論じ、楷書の成立過程について旧説に疑義を提唱している。また序文で「吾友金冬心最工八分、得漢人筆法」と、金農の八分書を賞賛している。金農は八分書を独自に変化させた“漆書”が著名であるが、その成立過程では方密庵との書体研究の影響がうかがわれるところである。
ともあれ「歙事閑譚」に五通ほど収録されている、金農から方密庵へ宛てた手紙を読んでみたい。
金冬心 隷書彝器記冊 上海博物館蔵金冬心 隷書彝器記冊 上海博物館蔵
一通目。
「平湖趙龍威先生、既従淮上来揚州。君家潜山尋墓詩冊、作一長歌、極尽淋漓、杰作也。渠亦願識高賢、相訂今日在仆寓、以志倒、即望命駕。我午前来、共蔬飯也」

「趙龍威(ちょう・りゅうい)」なる人物は未詳であるが、「平湖」は現在の浙江省平湖市のことであろう。“淮“は広く安徽のことを指す。つまりは趙龍威が安徽から揚州に来ている、ということになる。おそらく趙龍威は金農と方密庵の共通の友人であり、その消息を伝えているのだろう。
そして次に「潜山(せんざん)尋墓詩冊」とあるが、「君家」とあるのは方密庵が所蔵する「潜山尋墓詩冊」ということになる。潜山は安徽省南西部、安慶市に属する地域であるが、ここでは誰かの号であろうか。「尋墓詩冊」とあるが、「尋墓」とは字義のとおり「墓を尋ねる」ことで、古人の墓ないし墓誌を探すことである。文脈によっては“墓の盗掘”という意味にも使われるが、ここでは古人を慕って、その墓を尋ねた旅の過程で出来た詩集ということになる。墓を尋ねるというのは、一見すると奇妙な旅に思えるかもしれないが、歴史を尋ねる旅をしようと思えば、過去の人物の生誕ないし没した地を訪問しないわけにはゆかないものである。もちろん旅の過程で詩を作るのである。
ここで「作一長歌、極尽淋漓」とある。「長歌」というが、金農自作の詩ではなく、「潜山尋墓詩冊」に収録されていた長歌の一篇であろう。「極尽淋漓」とあるが、「淋漓(りんり)」は普通は「墨色淋漓」として、墨色がしっとり艶やかに黒々としている様を言う。そして「また「杰作也」と続くが、「杰作」はすなわち「傑作」。つまりは金農が詩集の中の一篇を書にかいて、自ら傑作だ、と言っているのである。
ここは金農の面白いところであるが、自分の書いた書や画に自画自賛をしてのけるのである。これをもって、金農の自負心や強い自我の表れであるということがよく言われてきた。しかしそこにはやはり金冬心先生の深い韜晦や諧謔を見るべきで、言葉どおりの心情の吐露であったかどうかは断定できないところだ。ここでは方密庵に会いたいがために、いささか茶目っ気のある言い回しをしていると読むべきであろう。
「渠亦願識高賢」とあるが「渠(みぞ)」には「すぐに」という意味がある。「願識高賢」というのは「ご高覧を賜りたく」というとことで、自分の作品を方密庵に鑑賞、批評してもらいたいということだろう。
「相訂今日在仆寓」の「相訂」は約束すること。仆は自称であるから、私は今日は寓居先にいることを約束します、というところだろう。そこへ「以志倒、即望命駕」とあるが「以志倒」は「曲げて」、「即望命駕」の「命駕」は駕籠を命じるということだが、つまりは出発してもらう、こちらへ来てもらうということになる。
「蔬飯」というのは「蔬菜」の「飯」、つまりは野菜主体の粗末な食事、という意味であり、多くは自宅に招いて、家庭料理を饗応することを謙遜した表現である。ごく軽く、一緒にお昼御飯を食べましょうというところだろう。
次の「我午前来」というのが少しわかりにくい。金農の寓居先に方密庵が訪れ、金農が「我午前来(私は午前中に来ます)」と言うのであれば、金農はこの手紙を書いたときに別の場所にいたことになる。「蔬菜」というのは、自分が相手に饗応する場合に謙遜して言う語であり、金農が方密庵を訪れることではない。尺牘の解釈というのは、前後関係がわからないだけに難しいところがある。

(大意)「平湖の趙龍威(ちょう・りゅうい)先生は、既に安徽から揚州にきています。君の家の“潜山尋墓詩冊”を読み、その中の長歌のひとつを書にしてみましたが、墨色はことごとく淋漓をきわめており、傑作であるといえるでしょう。またご高覧、ご批評を賜りたいものです。私は今日は寓居先におりますので、曲げてお越しいただければと思います。私は午前中には来ているので、粗末なものしかありませんが、一緒に昼食を食べませんか」
金冬心 隷書彝器記冊 上海博物館蔵金冬心 隷書彝器記冊 上海博物館蔵
二通目。
「仆六月間游海州、今自海州還、暫寓揚州鈔関門外、不過河、沿河半里許、汪元泰茶叶(葉)行内。数日内便返杭州。傾聞文駕到此、喜不可言、欲告之語、統俟面罄、枉願期以辰刻。」

「仆(ぼく)」はここでは自称である。「游海州」とあるが、海州をさす地名はいくつかある。しかし揚州へすぐ戻れる距離であるから、この場合の“海州”は現在の江蘇省連雲港市の一地域を指すと考えられる。このとき金農は、海州への旅行の後に揚州へ戻り、「鈔関門」付近に寓居していたようだ。
その滞在先は「汪元泰茶叶行内」とあるが、「茶叶(葉)行」は茶葉を扱う商店である。「汪元泰(おう・げんたい)」は未詳であるが、汪姓から察するに徽州出身の茶商であろう。徽州商人は塩業の他、茶葉の交易にも大きな勢力を持っており、揚州を中心に江南の茶葉の流通をほぼ独占していたのである。茶商も単に品物としての茶を売買するだけではなく、“茶引“とよばれる一種の有価証券を扱い、大きな利益を手にしていたのである。ゆえに「銀行」ならぬ「茶葉行」というわけである。”大店(おおだな)”であれば、空き部屋もあったでろう、金農はその一室に滞在していたというところか。「数日内便返杭州」と、数日したら杭州へ帰るといっている。
そこへもって「傾聞文駕到此、喜不可言」である。ここで「文駕」は「紋駕」つまりは飾りつけをした立派な駕籠、という意味であるが、旅の途上、あるいは移動中の人への尊称である。本当に駕籠で旅をしているかどうかはわからない。ここではすなわち方密庵が「到此(ここに)」滞在していることを「傾聞(聞いた)」ということである。それが「喜不可言」というのだから、嬉しくて言葉にもならない、というところだろうか。
この手紙が書かれたのがいつ頃であるかはわからないが、この当時の金農は、まだそれほど長期にわたって揚州に滞在していなかった時期なのであろう。今回も海州への旅の帰りに揚州へ寄り、数日して杭州へ戻る予定でいたのである。方密庵にしても、普段は徽州におり、揚州へは商用でたびたび訪れていたのだろう。偶然同じ時期に居合わせたことを知った金農は喜び、もう方密庵に会いたくて会いたくて仕方がない、といった風情である。
「欲告之語、統俟面罄、枉願期以辰刻」と、いささか性急に、会う約束を取り付けようとしている。「欲告之語」というのは、自分が揚州に来ていることを告げ、「統俟面罄」とある。「俟面」は面(会)を俟(ま)つことで、それが「罄(むな)しい」というのはじっとして会えるのを待っているのも空しいことだ、ということか。
そして「枉願期以辰刻」すなわち「枉(ま)げて願(ねが)う、辰刻を以って期す」と言っている。「辰刻」は「辰(たつ)の刻」つまりは午前8時前後とも考えられるが、「辰刻(しんこく)」で普通に「時刻」という意味がある。ここでは時間を決めて会う約束をしましょう、というところだろう。
(大意)「私は六月の間は海州を遊歴していましたが、今は海州から帰って、暫く揚州の鈔関街の門外に滞在しています。河を渡らず、河に沿って半里ほど行ったところ、汪元泰の茶葉店の内です。数日したら杭州に帰ります。あなたが揚州に来ていることを聞き、嬉しいことは言葉にもなりません。私もちょうど来ていることをお知らせしたいとおもいました。こうしてお会いできるのをただ待っているのもむなしいことですので、まげて時間を決めてお会いする約束をいただきたいのです。」
金冬心 隷書彝器記冊 上海博物館蔵金冬心 隷書彝器記冊 上海博物館蔵
三通目。
「乞丁敬先生篆刻、不必凍石、或青田、或峰門一種、便好。今送来峰門旧石五方、價頗賎、又方整有品、議價一両、不識愜意否?“集古録”諸君要五銭一部。此書一時難得、便略價多些、可要否?」

「丁敬先生」は言うまでも無く、“西冷四子”の筆頭の丁敬(てい・けい)で、当時の杭派篆刻を代表する人物である。金農とは同郷、同世代の人物であり、その親交が知られているが、金農が方密庵を介して丁敬に篆刻を依頼しているということは、丁敬は方密庵を介して金農等と交際するようになったのだろうか。
また「不必凍石、或青田、或峰門一種」とあるのだが、“凍石”は印材の中でもとくに透明ないし半透明の印材であり、当時としても珍重されたのだろう。寿山石や昌化石、青田石にも“凍石”はあるが、普通は寿山石を想定するところである。また“青田”は言うまでも無く青田石のことであろう。さらに「峰門(ほうもん)」とあるのだが、これはどこの石だろうか?ちょっと調べたのだがよくわからない。
青田石の産地でとくに青田県山口鎮の封門から産する、青く均質な地色の材を「封門(ふうもん)」または「封門青」という。この「封門」の「封」の発音は「fēng」であり、「峰門」の「峰」の発音「fēng」とまったく同音である。あるいは金農は「封門」を「峰門」と表記していたのかもしれない。
「今送来峰門旧石五方」とあるが、これは方密庵から金農に送った印材であろう。「峰門」の「旧石」が「五方」、つまりは五個の印材である。金農が適当な印材がないかと打診したところ、方密庵が選んで送ったのかもしれない。それには方密庵がつけた値段が付記されていたのだろう、それを見た金農は「價頗賎」と言っている。「賎」つまりはとても安いということだ。さらに「又(また)方整(ほうせい)有品(ゆうひん)」と、きちんと角柱に整えられており、「有品」つまりは品格のある品物であるといっている。そう述べた上で「議價一両」、つまりは一両で相談できませんか、と値引き交渉をしていっるのである。さらに「不識愜意否」と、その可否を問うている。なかなか金農もしたたかである。
ついで「“集古録”諸君要五銭一部」と、おそらく欧陽修が碑帖について考証した“集古録“を「諸君要五銭一部」つまりは、欲しい人には一部五銭で売ります、といっているのである。逆に商談をしかけていることになる。また「書一時難得」つまりこの本は一時入手難といい、さらに「便略價多些」と、「略價」つまりだいぶ値引きしているのですが、「可要否?」(いりませんか)ということである。
この後の展開を考えると、金農は方密庵から印材を受け取る対価として、方密庵には「集古録」が何冊か渡ったのではないかと想像されるところである。価格を表に出しているが、おそらくは実質的な物々交換である。
方用彬の「七百通」にも見られることであるが、士大夫の交際において、品物をやり取りすることはしばしば行われている。その際には値段をきちんと言い、さまざまな交渉も行っている。近現代の日本においては、雅友の間で金銭を介したモノのやり取りを嫌う傾向がある。そのあたりの感覚というのは、王朝時代の士大夫は違うものを持っていたと考えなくてはならない。

(大意)「丁敬先生に篆刻をしていただきたいのですが、凍石である必要はありません。青田石、あるいは峰門石の何かであれば充分です。いま送っていただいた峰門の旧石五個は、値段がとてもやすく、また角柱に形が整えられ品格が有ります。(それでも)値段を一両でご相談したいのですが、ご意向はいかがでしょうか?“集古録”は、必要な人には一部五銭でおゆずりします。この本はいっときとても入手し難いものでした。随分と値段が安くなっています。必要ありませんか?」
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四通目。
「像賛古雅莫匹、今之人無此筆也。陰雨連夕、輒念友生、想同心者亦念我也。来日雨霽、得歩屐過我劇潭、更所顒望」

「像賛」は肖像画に金農が書いた賛文であろう。この場合の「像」は「仏画」であることも考えられるが、後の文脈から察するに、金農の知友の誰かの肖像画であろう。金農の自画像であるとも考えられる。畫の画き手が誰であるか、この手紙だけでは判断できないが、少なくとも賛文は金農自身の手によるものだろう。それを「古雅莫匹、今之人無此筆也」と言っている。すなわちその賛文の書の古い雅味は匹敵するものがなく、今の人で之だけの書き手はいないだろう、と自賛しているのである。
先の「潜山尋墓詩冊」のところでも少し触れたが、金農にはこうした物言いを好んでしたようだ。通常、封建時代の人々というのは、ともかく卑屈なほどの謙遜をするものである。そいうことが習慣として身についていないと、生きていられない社会なのである。特に士大夫の子弟は、謙譲の姿勢を徹底的に叩き込まれる。“礼“の教育というのは、とどのつまりは相手を立て、自らを卑下する姿勢を身につけることと言って良いかもしれない。将来、科挙に及第し宮廷にあがろうものなら、この謙譲を身につけていなければ、複雑な宮廷政治の世界を泳ぎきることは出来ないのである。そこへもって、金農の天真爛漫までの自画自賛は、”怪”の“怪”たる所以であろう。しかしそこには、嫌味というものがなかったに違いない。
つづいて「陰雨連夕」とある。陰々とした雨が降り続き、友人との往来もままならない日々が想像される。そこへ「輒(すなわ)ち友生を念じる。」とある。「友生(ゆうせい)」はすなわち朋友のこと、友のことを思わずにはおれず、また「想同心者亦念我也」と、「同心者」つまりは心を通わせた間柄の友であれば、「念我也」つまりは自分のことを思ってくれているだろう、そうであってほしいと言っているのである。
「来日雨霽」とあるが「霽(さい)」は雨があがること。さらに「得歩屐過我劇潭」とあるが、「歩屐」は木製の靴、下駄。「劇潭(げきたん)」は劇流の潭(ふち)であるが、つまりは雨が止んだら靴をはき、雨で増水した劇流をわたって、「更所顒望」ということである。「顒」は「仰望」すなわち仰ぎ見ることであるが、お会いすることが出来るでしょう、というところである。
どうもこのあたり、揚州における人士の交際にあって、金農が中心人物になった理由が伺えそうなところである。金農を慕って人が集まってくる一方で、金農自身もともかく社交を好んだようだ。そもそも、一人でいるのはあまり好きではなかったのだろう。方密庵に対する手紙にも、あたかも恋人を待つかのような渇望が現れている。

(大意)「肖像画の賛文の古雅なことは並ぶものがなく、今の人でこれだけの書を書ける人はいないでしょう。陰々として連日雨が降り続いていますが、私は友人の身の上が案じられてなりません。心を同じくするものは、また私のことを思ってくれているでしょう。雨が上がる日がきたなら、下駄を履いて増水した流れを渡り、お会いすることができるでしょう。」
金冬心 隷書彝器記冊 上海博物館蔵金冬心 隷書彝器記冊 上海博物館蔵
五通目。
「午后肩輿恭詣送行、閽人辞以公出、未獲良晤。画扇四把、付閽人。徽州麻酥糖并蜜棗、是珂里方物、秋冬間大駕倘来、乞帯数斤、以慰老饞当作筆墨奉答也」

「閽人(こんじん)」は、門番のことである。当時の都市はすべて城壁で囲まれており、城内への入出は時間帯が決まっていた。また治安のために、人の出入りは厳しく監視されていたのである。「良晤」は楽しい集い。それが「未獲」というのは、出発しなければならなくなり、最後に送別の宴をはって楽しく過ごすことが出来ませんでした、という方密庵から金農へ宛てた伝言であろう。「画扇四把、付閽人」というのも、方密庵が画扇を門番に預け、金農がそれを受け取ったということである。この手紙は方密庵が(おそらくは)揚州を去った後、方密庵に向けて書かれた手紙であろう。方密庵は旅の途上か、故郷の徽州でこの手紙に接したと考えられる。
「徽州麻酥糖」とあるが、“酥(そ)”は胡麻や松の実、落花生などを粉にし、砂糖や小麦粉と合わせて固めたお菓子である。日本にもある落雁に近いが、固くなく崩れるような脆さがある。「麻酥」は胡麻の“酥”ということになる。現在の徽州でも“徽墨酥(きぼくそ)”と呼ばれる、黒胡麻を使った真っ黒な“酥“がある。また蘇州の” 酥“も有名で、呉昌碩はこれを好んだ。「蜜棗」は干して砂糖漬けにしたなつめの実で、これも現在の徽州でもお土産物屋でよく目にするものである。かなり甘い。
「珂里」の「珂(か)」は、馬の鞍につける飾りであるが、「珂里(かり)」はすなわち相手の故郷にたいする敬称。「珂里方物」ということで、麻酥や蜜棗が徽州の名物である、といっている。
また「秋冬間大駕倘来」とあるが、「大駕」はつまりは大きな“駕籠(かご)“あるいは” 車駕(しゃが:馬車)“ということであるが、相手に来てもらうことの丁寧な表現で「お越しいただく」というほどの意味になる。つまり秋から冬にかけて、また揚州を訪れるのでしたら、というところ。「乞帯数斤」ということだから、揚州再訪の際には、徽州特産の麻酥や蜜棗を数斤欲しいということだろう。「老」の「」は、むさぼることでるが、「食欲」ということになるか。金農もなかなかの甘いもの好きであったようだ。そして「作筆墨奉答也」と、自分の書画でもってお礼をいたします、ということである。
「数斤」というと、1斤500gとして数kgの重さになるが、そもそも方密庵は交易のために徽州の物産をもって揚州をたびたび訪れていたと考えられる。徽州から揚州への往来も、多くは水路が用いられる。他の物資の輸送のついでに、数斤の菓子を持ってくることぐらいは造作もなかったであろう。

(大意)「午後に私は輿に乗り、あなたが出発するのをお見送りに行こうとしました。ところが門番には、あなたがすでに門を出て出発してしまい、会見する機会を得られなかったことを告げられました。画扇を四本、この門番に預けていただきましたね。徽州の胡麻を固めたお菓子と蜜棗は、あなたの故郷の特産品ですが、秋冬間にもしお越しいただくことがあれば、数斤ばかり持ってきていただけないですか。老いた身の食欲を慰めたいばかりです。私の書画を持って御礼をいたします。」

五通ばかりの手紙であったが、ともかく金農と方密庵との、親しい関係がみてとれる内容である。この方密庵には「開天容」「古隃麋(こゆび)」あるいは「冬心先生造・五百斤油」という墨の作例が知られている。同じ墨銘の墨は汪節庵も製している。
“五百斤油“という墨銘は明代の墨譜には見られない名称であり、”紫玉光”と同様、清朝に入って創案された墨であるといえる。金冬心 隷書彝器記冊 上海博物館蔵

清墨談叢に掲載されている汪節庵の「乾隆丙午年造・五百斤油」の書体は金農の漆書を思わせるものである。
金農自身が徽州で製墨に親しんだ、ということを裏付ける資料は見つかっていない。おそらくは金農が方密庵に依頼するか、あるいは方密庵が金農のために作った墨であろう。
方密庵は他に「開天容」という墨が著名であるが、これは明代末期、方于魯と親しかった潘方凱が創案した墨である。方于魯と汪節庵の出身地は近接しており、方密庵も歙県にあってどちらかといえば西溪南寄りの地域の出身だったのではないだろうか。

金農の書作を見る限りでは、ともかく漆黒の濃墨をふんだんに使用していることがわかる。「冬心先生題画記」で金農が自ら述べているように、南唐〜宋代の墨を使って書かれていたのかどうかは、今となっては確かめるすべはない。しかし身近に、精良な紙や墨を供給してくれる人物の存在が不可欠であり、方密庵がそのひとりであったことは充分考えられることである。
著名な方密庵の「古隃麋(こゆび)は、唐代の官製の墨を模した墨である。金農が「題画記」で述べているような、考えられないほど古い時代の墨も、実のところは方密庵の製した墨を使用しながら、諧謔を交えてそう記したのかもしれない。
方密庵は、金石学や隷書、八分書の研究で名高い人物であったが、もちろん学問研究で生計が立てられるわけではない。また墨匠として名を残している方密庵であるが、この手紙からも明らかなように、その扱う品物は墨だけではなく、紙、筆、硯などの文房四寶に加え、印材や扇面、拓本や書籍など、文房でもちいられる諸具にわたっていたと考えられる。文房四寶の産地である徽州と、その消費地である揚州を往来し、商品を流通させていたのだろう。また金農からの手紙にあるように、交際する書画家から品物の対価として書画の作品を受け取り、それを流通させることもあったのかもしれない。この点などは、明代に文房四寶を扱った徽州商人である方用彬を彷彿とさせるものがある。
方用彬がそうであったように、方密庵もやはりある程度の資本力を持った裕福な商人であったと考えられる。高級な墨を製するためには、やはりそれなりの資本が必要である。この方密庵の存在が金農の書画や金石学の研究において、きわめて重要な役割を果たしていたことは想像に難くない。墨を初めとする文房四寶の供給にとどまらず、金農の書画の批評や金石学の研究、より積極的には金農の作品の流通などにも関わったことだろう。
揚州八怪の核心人物とされる金農と、徽州の名墨匠である方密庵との、頻繁にして親密な交際がうかがえるところである。また書画家と墨匠の交友の様相は、北宋の蘇軾と潘谷のそれを想起させる。なにより“揚州八怪サロン”の形成が、揚州に進出した徽州文化の影響のもとに成立したこと、その端的な現れといえるだろう。

落款印01


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曹寅と程正路 〜棟亭集「送程正路之黄陂丞兼懐赤方先生」

曹寅(そういん)は、江寧織造(こうねいしょくぞう)という重要な役職に任じられ、また徽州の人士と親しく交際したことは前に述べた。またさらに両淮巡塩監察御使(りょうわいじゅんえんかんさつぎょし)を兼務したことから、徽州商人とも濃厚なつながりを持つことになるのである。
この「江寧織造」という機関は、表向きは江南で生産される織物の流通を統括する行政府である。しかし一方では、江南一帯で清朝に反感をもつ漢人士族や民情の監視や、また宮廷機密費を捻出する役目を負っていたのであった。
安徽省歙県「槐塘」の街江寧織造という、きわめて重要な役職を任されるという事からも、曹寅がいかに康熙帝の信任を得ていたかがわかる。曹寅の母親である孫夫人が康熙帝の乳母を勤めたことで、曹寅と康熙帝は乳兄弟であり、若いころから康熙帝に近侍していたことも要因のひとつであろう。しかしこの重責を担うだけの資質が、曹寅にあったと考えなければならない。
江寧織造は、想像するだに役得の多い機関であるかのように見えるが、事実相当な余禄があったようである。曹寅はさらに、揚州を中心とする塩政を統括する「両淮巡塩監察御使(りょうわいじゅんえんかんさつぎょし)」を兼務したというから、徽州商人達からの贈答品だけでも膨大な資産になりえただろう。
しかしその出費も莫大なものであった。たとえば康熙帝は南巡といって六度にわたって江南に巡幸したが、その際の経費の大部分は江寧織造がまかなう必要があった。曹寅の家族がモデルとなった「紅楼夢」では、皇帝巡幸がいかに途方もない出費を伴うかが描かれている。曹寅のような相当な役得を有した大貴族でも、結局はその負担が響き、その子の代には没落してしまうのである。
安徽省歙県「槐塘」の街徽州人士と曹寅の曹家との交際は、曹寅の大伯父であった曹鼎望の代から続くものであった。何ゆえこれほどまでに徽州が重視されたのであろうか。ひとつには、儒教教育の盛んな徽州では、異民族の征服王朝である清朝への反感が根強いとみられたことが考えられる。
安徽省北部を淮北(わいほく)、南部を淮南(わいなん)というが、明王朝を起こした朱元章は淮北の出身である。朱元章ゆかりの朱姓の宗族は、この淮北・淮南、および隣接する江西省、とくに南昌を中心に分布していたようだ。南昌は徽州の婺源(現江西省)を経由して、徽州と連絡のあった地域である。明代の朱多炡と方于魯との交際、後の石濤や八大山人と徽州商人との関係に見られるように、明王朝の宗室の連枝達と、徽州の人々は親密な関係があったようである。
曹寅の棟亭集にも、“朱赤霞(しゅ・せきか)“という、明の宗室につらなる人物の名前がみられる。八大山人(朱耷)や石濤(朱若極)と同じく、詩文書画を能くした人物であり、曹寅や程正路と交友があったことが「棟亭集」に収録されている詩文からわかる。ただこの朱赤霞なる人物の来歴は明らかではない。そもそも「朱(あか)い」に「赤(あか)い霞(かすみ)」である。「赤霞」とは恐らくは名ではなく、字か号であろう。
安徽省歙県「槐塘」の街安徽省歙県「槐塘」の街曹寅の棟亭集には「題朱赤霞対牛弾琴図」という文が見える。これは朱赤霞が画いた「対牛弾琴図」という畫に、曹寅が題文を寄せたということになっている。しかし朱赤霞の「対牛弾琴図」は伝わっていない。故宮博物院には曹寅の題文を冠した、石濤の「対牛弾琴図」がある。このことから朱赤霞は、同じ明の宗室出身の石濤とも、なんらかの関係があったと見られている。
明の宗室の連枝である朱赤霞、また徽州の中でもとくに学芸が盛んで、かつ塩商が軒を連ねた槐塘の程正路、彼等と曹寅の交際というのは、曹寅が果たすべき使命を如実にあらわしているともいえる。徽州は見方によっては、清朝への大きな抵抗勢力になりえる地域なのである。また江南を中心に中国全土にネットワークをもつ徽州商人の存在を考えれば、反清朝の感情や思想の他の地域への波及も懸念されるところであろう。
安徽省歙県「槐塘」の街康熙帝に信頼された曹寅の裏の任務は、清朝に対する反感を監視することもそうであるが、より積極的に慰撫や融和をはかるということにあったようである。その実際上の行動というのは、おそらくは清朝に反感を持つ人物を調査し、摘発するといった陰湿な性格のものではなかったであろう。その程度のことに曹寅ほどの人物を充てる理由はないのである。
曹寅の詩文集「棟亭集」に収録された「送程正路之黄陂丞兼懐赤方先生」という詩がある。この詩は槐塘の著名な墨匠である程正路が、黄陂県の丞に任じられ任地へ赴くのを、曹寅が見送った時の詩である。また「兼懐赤方先生」とある。すなわち、曹寅が程正路を見送るにあたって、「赤方先生」という人物に思いが及んだ、ということである。この「赤方先生」とは誰のことであろうか。
「赤方先生」については、棟亭集にはまた「舅氏顧赤方先生擁図書記」という文がある。つまりは姓は顧、また曹寅が“舅“と呼ぶ間柄の人物である。これは明朝の遺老、顧赤方こと顧景星(こ・けいせい)である。”舅“というのはつまりは曹寅の妻の父親ということになる。曹寅にははじめ顧氏という妻がいたが早くに亡くなり、李煦(り・く)の父親である李士禎の族弟、李月桂の娘の李氏を迎えている。(この李煦は紅楼夢の作者を考証する上で、重要な鍵を握る人物なのであるが、話が逸れてゆくので今は置おく)
亡妻の舅である顧景星とはその後も交際が続き、曹寅はずっと”舅“と呼び、顧景星は曹寅を”甥“と呼ぶ間柄であった。顧景星が曹寅を”甥“と呼んだのは、曹寅が李氏を後妻に迎えたことを憚ったためであると考えられる。
安徽省歙県「槐塘」の街顧景星(1621〜1687)は字(あざな)を赤方といい、また黄公と号した。蕲州、すなわち現在の湖北省蕲春県蕲州鎮の人である。明代末期に貢生となった。そして明も最末期、南に建国された南明の弘光帝に仕えたが、南明が滅んだ後は野に下って清朝に仕えなかった。このように明清交代時期に科挙の受験機会を逸し、在野に埋もれた人物のことを明の「遺老」という。
後に康熙帝は学識優れた明の遺老達を招聘し、明史の編纂などにあたらせようとした。康熙己未(1679)に顧景星も“博学鴻詞(はくがくこうし)”に推薦されている。しかし病と称してついに出仕しなかったという。また固辞するに際して、死ぬ覚悟を見せて抵抗したという。
曹寅がいわば筋金入りの明の遺老である顧景星を“舅”と呼び続け、交際を続けたことは、曹寅の性格や行動を考える上で、注意を払う必要があるだろう。一方で、棟亭集に収録されている顧景星へ向けた詩文からは、顧景星に対する曹寅の深い敬愛の念が感じられるものである。
安徽省歙県「槐塘」の街「送程正路之黄陂丞兼懐赤方先生」に戻ると、このとき程正路は「黄陂丞」つまり「黄陂県」の「丞(補佐官)」に任命され、任地へ赴くところを曹寅が見送っているのである。この「黄陂」は現在の湖北省武漢市、黄陂区周辺の地域であり、顧景星の出身地も程近い距離にある。
ここで清朝初期、槐唐の名墨匠、程正路について触れてみたい。石国柱の編修した「歙県志」の巻十「人物」に程正路の伝がある。それによると、
「程儀、字は正路、号して耻夫、又は晶阳子、槐唐の人である。詩に巧みで畫を善くし、拳法と剣術にたけていたという。粤(えつ)を遊歴した際に呉留村(ご・りゅうそん)、王孝揚(おう・こうよう)の幕下にはいった。軍功を以って黄陂県の丞に任じられる。土地の大官は程正路の画を善くすることを聞き、競ってこれをもとめたが、抗ってこれに応ぜず、官を辞して郷里に帰った。帰郷してますます狷僻(けんぺき)がつのり、金に飽かせて畫をもとめるものには画いてやらなかったという。好事家で彼の性格をよく知る者達は、程正路の空腹時を見計らい、鼎で煮た肉や豚の肩肉を持って訪問した。そういう時はよろこんで筆をとったという……」
程正路は「耻夫」と号したというが、「耻」はすなわち「恥」である。何を恥じたのだろう?この「恥夫」という号であるが、これは孟浩然の「望洞庭湖贈張丞相」という詩の「欲済无舟楫、端居恥聖明」から来ている。これはひとつには官途にもつかずぼうっとしていることを(天子に)恥じている、という意味がある。またもうひとつは「無君之恥」であり、いただくべき君主を持たぬという「恥」、という意味がある。つまり解釈によっては「明の遺民」としての強烈な意識の表れともうけとれる。また彼の墨肆は名を「悟雪齋」というが、この「悟雪」の「雪」は「恥」と対応し、「雪恥」すなわち「恥を雪(すす)ぐ」という意味があるとも言われる。
程正路は武芸に優れ、粤(えつ)を遊歴した際に軍に身を投じ、戦功を上げたようだ。「粤」というのは現在の広東省の別称であり、清朝に対して最後まで抵抗していた地域である。とはいえ1662年には南明政権も滅んでいる。程正路の生卒は明らかではないが、すくなくとも曹寅(1658-1712)と同年代かやや若いくらいではないだろうか。とすれば程正路が血気盛んに南へ向かった時期には、すでに明王朝の復興ののぞみも絶たれて久しい時期である。
この時の程正路の戦功がどのようなものであったかは明らかではないが、功績によって黄陂県の補佐官に任じられているのだから、ともかく清朝側の軍に入ったのだろう。明朝の遺民を自覚する程正路としては、このあたりの行動は矛盾しているかのように見える。あるいは広東で南明の残党がいたなら合流し、明朝の復興に参与しようとしたのかもしれない。ところが現地に行って復興の希望が無いことを知り、治安回復のための戦いに参加したのかもしれない。ともかく程正路の出身や素養、交際から考えても、官職に着きたいがために戦う必要はないのである。
安徽省歙県「槐塘」の街その程正路を推薦し、ともかくも黄陂県に赴任させてしまったのは、この詩の内容から察するに曹寅なのである。詩中に見える程正路の意識としては、やはり官吏になりたいが為に戦ったわけではなかったようである。また康熙帝の寵臣であった曹寅との交際も、官界へ望みがあったためではないとうけとれる。相当に難色を示したことが伺えるのだが、ここで曹寅もどう説き伏せたのか、ともかく黄陂に向かわせることに成功するのである。
以上を踏まえた上で「送程正路之黄陂丞兼懐赤方先生」の大意を探ってみたい。

平生独奇尚、紳笏一時情。
羨爾濯髯處、宥然江水清。
先賢妙為政、遊藝幸無名。
舒巻青雲内、非同骯髒行。
畫家遵北苑、墨法秘南唐。
二者能兼得、茅齋竟夕香。
嗜交尤念舊、汲引愧為郎。
挙轡黄州近、全身問楚狂。

書き下し「平生(へいぜい)独奇(どっき)を尚(しょう)す、紳笏(しんこつ)は一時の情。
羨(うら)やむ爾(なんじ)の髯(ぜん)を濯(すす)ぐ處(ところ)、宥然(ゆうぜん)として江水(こうすい)清(きよ)し。
先賢(せんけん)は政を為すに妙(みょう)、遊藝(ゆうげい)は名の無きを幸いとす。
青雲(せいうん)の内に巻を舒(の)べるは、骯髒(こうそう)の行に同(おなじ)きに非ず。
畫家は北苑(ほくえん)を遵(じゅん)し、墨法(ぼくほう)は南唐を秘す。
二者を能(よ)く兼(か)ねるを得、茅齋(ぼうさい)に夕香を竟(おわ)る。
交を嗜(たしな)み舊(ふる)きを念ずと尤(いえ)ど、汲引(きゅういん)して郎と為すを愧(は)じる。
轡(くつわ)を挙げて黄州近(ちか)く、身の完(ま)ったきを楚狂に問え。」

(大意)「常日頃は孤高にして奇絶の士を誇っていた君のことだ、官吏になるのも一時の気まぐれということだ。私は君が髯を洗うのをみると羨ましくなるよ、実にゆうぜんとして髯を洗った河の水も清らかなまま、(官界にいる私と違って)君の節義は汚れてなどいないということだ。古代の賢人は優れた政治を行うもので、遊藝の徒は無名であることを幸いとするものだ。旅の空の下で畫巻を拡げて畫や詩をつくるようなもので、決して汚れた行いの旅ではないのだよ。古来から畫家は董北苑の画法を遵守し、製墨法は南唐の李廷珪の法を秘伝としたものだ。君は既に畫と製墨の二つの能力を兼ね備えているのだから、あばら屋暮らしもそろそろ終わりにしないか。
私が交際を好み、古人の行いを尊敬していると言いながら、友達の君に無理を言って官途に着かせた事を、恥ずかしいと思っているよ。馬の轡(くつわ)を挙げて出発したまえ。黄州が近くなったら、無事息災かと、かの楚狂(顧赤方先生)を訪問して欲しい。君も赤方先生と同じ高節の士だからね。」
安徽省歙県「槐塘」の街「紳笏(しんこつ)」の「笏」は聖徳太子像が手に捧げ持っているような、大臣が朝見に際して手にしている長方形の板のこと。つまりは官途につくことである。この1、2句は曹寅自身の心情を詠んでいるとする解釈もあるが、さすがに曹寅の身分を考えると「平生」に「独奇」は違和感がある。程正路の「平生」のことであろう。
次に爾(汝:なんじ)つまりは程正路が髯を洗って、その河の水が清いままなのを羨む、とある。もちろんこれは「潁水に耳を洗う」を踏まえたものである。古代の聖天子の堯(ぎょう)が許由(きょ・ゆう)に天下を譲ると言う話をしたところ、そんな話を聞いたら耳が汚れる、と言って河で耳を洗った。また下流で牛を飼っていた巣父(そうふ)という人物は、そんな耳を洗った河の水が汚いといって、生活の場を移した。この故事による。ここでは耳の代わりに程正路のヒゲを洗うとしている。つまりは程正路が官職を得たとしても、その節操が汚れたわけではないと言っていることになる。
最後の「楚狂」がポイントであるが、「楚狂」とは論語に出てくる楚の狂人、陸通である。 また字を接輿(せつ・よ)という。楚の昭王の時代、政治が乱れたため狂人をよそおって出仕しなかったという。孔子の車を通り過ぎるときに「鳳兮鳳兮、何徳之衰」という、いわゆる“接輿歌“を歌い、楚の昭王に謁見しようとする孔子を風刺したという。
後世”楚狂“といえば、節義を持して仕えない、在野の士を指すようになった。この場合は死を賭して清朝への出仕を拒んだ、顧景星を言うのであり、故に詩の題も「兼懐赤方先生」なのである。また顧景星は湖北省の出身であり、湖北は古代の楚の国である。
曹寅が詩でこの”楚狂”を訪問せよ、ということを程正路に言うのは、程正路もまた顧景星と同じく、清朝の官吏となることを強く拒んだためであろう。ともかく説得して程正路を黄陂に行かせたが、君の心情はよくわかる、君もかの顧赤方先生と志を同じくするものだ、ということを詩にうたって慰めたのであろう。
安徽省歙県「槐塘」の街曹寅といえば、今を時めく大貴族であり、康熙帝が厚い信頼を寄せる人物である。むしろ多くの人は競って交際を結ぼうとする人物である。当然のことながら程正路が役職を得れば、戦功があったにせよ、世間は曹寅との交友もモノを言ったと思うであろう。程正路としては、そう思われることを潔しとしない、という気概があったというところか。「歙県志」の記述の通りであれば、あっさりと官を捨てて帰郷してしまっているのである。大官が作畫を強いた云々というのは多分にこじつけで、曹寅としては苦笑するより他なかったであろう。
しかし、もう一方の見方も出来る。程正路の槐唐におけるステータスについては、まだ充分調べきれていないのであるが、おそらくは槐塘にあっても中心的な一族の出身ではないだろうか。親族や縁者に、塩業で栄える家族が多かったことも予想されるのである。
であれば、程正路と曹寅の交際も、個人的なつながりにとどまらないものであっただろう。程正路自身の倫理観はともかく、親族や宗族の繁栄のためには、曹寅に対してある程度の折り合いは求められたとも考えられる。
安徽省歙県「槐塘」の街ともあれ清朝初期に漢族の不満分子を鎮撫するという難題を担った曹寅が、どのように徽州の人士と接し、彼等と清朝との融和を図ったのか、その苦心のほどが伺えるような詩である。また詩の内容は微妙なニュアンスを含んでおり、見方によっては暗に清朝への批判を含んでいるとも捉えられかねない言辞を含んでいるのである。士大夫にとっては、詩は日常の感情や心情の吐露にとどまらず、自らの思想や節義の表現である。
程正路の出身地である槐塘の程氏一族は、徽州の八大塩商の一角であり、特に大きな勢力を誇っていた。そこでの曹寅と程正路の交友というのは、個人的な友誼は別として、政略的な色彩を帯びないわけには行かない。徽州商人には塩業の世襲という、巨大な権益があたえられた。それによって大勢を清朝になびかせることには成功していただろう。
しかしどうにも困るのが、顧景星や程正路のような存在であっただろう。殷代末期の伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)や、魏晋の頃の“竹林七賢”のように、しばしばこういった人物達の存在が、王朝の交代期には現れる。
地位も財産も名声も、場合によっては命さえもいりません、ひっそり隠れ住んで節義を通したいだけなのです、という人物達である。結局この手の人物達というのは、そっとしておくほかはない。この点については、康熙帝と曹寅の間ではコンセンサスがとれていたのかもしれない。また曹寅と康熙帝の信頼関係が絶対的なものでなければ、その種を曹寅が実施することは出来なかっただろう。
安徽省歙県「槐塘」の街政権側にとってはある意味恐い存在で、こういった人々を核として革命の気運が醸成されることがしばしば起こるのであるから、絶えずその動静をうかがわなければならない。
では康熙帝の内意をうけた曹寅が、監視目的のみでそうした明の遺民たちと交際していた、と考えるべきであろうか。
相手を味方につけるという、融和政策というのは、見方によっては謀略の最たるものである。康熙帝は満州族に漢族文化を積極的に導入し、いわば満州族を漢民族化させてまで、融和政策を成功させている。曹寅やその父親の曹爾、伯父の曹鼎望達も、徽州士大夫と積極的に交際し、いわば“徽州化”することによって、康熙帝の漢族融和政策の核心を担ったのではないだろうか。曹鼎望とその息子達、あるいは曹寅が、自ら製墨に親しんだという事実に、それが象徴されていると考えられるのである。
見方によって色々な解釈が可能であるが、では康熙帝にせよ曹寅にせよ、政策上の理由から、本来は好まない漢族文化、徽州文化に親しんだとは考えられない。そこはやはり、超一級の政治家、知識人の見識の基づき、すぐれた文化を愛好し、これをとりいれたのではないだろうか。
安徽省歙県「槐塘」の街曹寅が徽州の墨匠の下で親しく製墨を学び、自分の手で墨を製したのを見れば、徽州の人士も曹寅を受け入れるのにやぶさかではなくなるであろう。真に融和が目的であれば、まず相手が一番大切に思っている文化に対し、最大限の敬意を払うことが必要である。康熙帝も曹寅もそれをおこなったということだ。
曹寅と程正路との交友には、そのことがよく現れているといえるのではないだろうか。
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「浮生六記」と江南塩業

揚州で羅聘の家を訪れてから、どうも羅聘(ら・へい)と方婉儀(ほう・えんぎ)夫妻の姿と「浮生六記」の沈復(ちん・ふく)と陳芸(ちん・ゆん)夫婦の姿がイメージの中で重なってしまった。沈復夫妻はそのもっとも窮迫した時期を揚州で過ごし、妻の陳芸は揚州でこの世を去っている。
徽州商人の塩業で栄えた揚州であるが、羅聘の壮年期である乾隆中期には、その繁栄もすでに斜陽に向かっていた。羅聘は顧客をもとめ、しばしば北京へ赴いている。
乾隆三十三年、塩業が傾斜を始める契機となった「両淮塩引案」という一大不正事件がおきている。この事件の詳細は別所に譲りたいが、世襲の塩商が支配する巨大な利権が弊害を生み、倫理の弛緩によって起こるべくしておきた事件であるともいえる。
あの四庫全書の中心的な編纂者のひとりで、蔵硯家として著名な閲微草堂こと紀暁嵐(き・ぎょうらん)もこの事件に関係して降格、流刑の処分をうけている。揚州におけるクライアントの大半が徽州商人であり、徽商と深い関係のあった羅聘も、これに無関係ではいられなかった。後に羅聘が死の床にある方婉儀を残して、北京へ旅立たねばならなかった理由は、この事件の影響であるとも言われている。
乾隆帝は乾隆八年に徽州の名墨匠、汪近聖の次子である汪惟高を宮中に召しだし、製墨法の教授に当たらせている。このとき作らせた墨に「御製耕織図墨」がある。「耕織図」とは、男が綿花を育て女が機を織るという、ありふれた農村の生活を描いた図である。紀元前の古代からその原形がみられるが、作画は宋代に盛んになった。つまりは農業を奨励し商業を抑えるという、中国の歴代王朝の基本政策である「重農抑商」を象徴する意味がある。
「両淮塩引案」の起きた翌年の乾隆三十四年、乾隆帝は元代の畫家、程(ていけい)の描いた「耕織図」を圓明園の建物の中に掲げ、その畫中に書かれていた詩の韻をふまえて、自ら一首づつ詩をつくった。また工匠に命じて図を石に刻み、自らの詩をこれに加え、合計48幅を庭園内の回廊に掲げたのである。無論、石に刻ませたのは印刷のためで、各所に複製が配られたのである。
乾隆中期以降、製墨の意匠に耕織図の流行をみている。元代の画人の程は、湖州の安吉の人とされるが、実はその原籍は徽州の歙県なのである。これ、なにをかいわんやである。つまりは徽州商人達へ向けた、乾隆帝の明確なメッセージであるとかんがえられる。さらに乾隆年間の献上墨にはこの「耕織図墨」が多く見られるが、これは臣下の側からの、恭順の意のあらわれであろう。いわば墨の意匠を介した”政治”であり、文物としての墨の重要性を象徴する事件であるといえるだろう。
天上世界のことはさておき、話を「浮生六記」の沈復にもどしたい。沈復は績溪県を訪れた際、塩商の程虚谷に招かれたことが「浮生六記」に述べられている。程虚谷は徽州の大塩商であるが、製墨でも名を残しており、尹潤生「墨林史話」には”乾隆程虚谷虔制般若波羅密多心経墨”が掲載されている。また故宮博物院には双竿比玉墨が収蔵されている。
沈復の父親を沈稼夫(ちん・かふ)という。「浮生六記」の中では尊称をつけて「稼夫公」と表記されている。沈復はこの沈稼夫の長男ということになる。稼夫公は幕僚、幕友を生業としており、沈復にこの仕事の跡を継がせるのである。
科挙に及第し、朝廷より任命された正規の官員は、その赴任先で実務を処理するにあたり、吏務に長けた者を個人的に採用した。いわば官僚の私設秘書が幕友、幕僚である。彼等の多くは士大夫といっても挙人未満の生員か、あるいはまったくの無位無官のものであることもあった。私設秘書といっても、雇い主の官吏からは「先生」と呼ばれ、それなりの礼遇を受けるのが通例である。
明代末期に倭寇討伐に活躍した徽州績溪出身の胡宗憲は、徐渭や文徴明を幕僚として招聘しているが、このような臨時スタッフを私費で招聘することは古くから行われてきた。実務上の必要もさることながら、在野の賢人を召抱えるということは、ある程度の地位をもった官僚であれば、その容儀を整えるためにも必要なこととされた。
受験戦争を勝ち抜き、科挙に及第したばかりの官吏たちは、当然のことながら実務能力を有しているとは限らない。実際問題として、行政実務に長けたスタッフの存在が必要になるのである。
また進士に及第したキャリア官僚は、地方に着任して数年して宮廷に戻り、また数年して地方へ赴任する、ということを繰り返す。見知らぬ土地の県知事に任命されれば、当然その土地の事情に通じた者が必要になる。また知事の交代の際には、その現地スタッフが後任の知事に再び採用されることにより、行政の継続が保たれる、という機能もあった。土着の有力な読書人階級の人士は”郷紳”などと呼ばれるが、その土地の事実上の実力者であると言っていいだろう。
ともあれ沈復も父親のこの家業を継ぎ、幕友で身をたてることになる。沈復やその稼夫公の場合は、幕友といってもあちらこちらの地方政府から、都度招聘をうけて仕事についていたことが「浮生六記」の記述からわかる。沈復は転任を繰りかえしながらさまざまな地方をめぐる生活を、”幕遊(ばくゆう)”と言っている。しかしどのような職務内容だったのであろうか。
清朝の歴史をひも解いてみても、進士及第者ならともかく、おそらくは科挙に応じていないであろう、稼夫公や沈復のことについては史書には出てこない。布衣(無官)の者であっても、金農や羅聘のような当時の著名人というわけでもないのである。やはり沈復の自伝的小説ともいえる「浮生六記」から探るより他無いだろう。
冒頭、「余生乾隆癸未冬卜一月二十有二日、正値太平盛世、且在衣冠之家,后蘇州滄浪亭畔」とあるように、沈復は蘇州で生まれ、また陳芸との新婚時代を蘇州の滄浪亭のほとりで送っている。ここに「且在衣冠之家」とあり、また文中稼夫公が「我輩衣冠之家」と言っている。「衣冠」つまり沈復と稼夫公自身は幕友であったとしても、その何代か前は科挙に応じて官吏になったものがいたのであろう。
読書人の子弟が進士に及第でもすれば、その兄弟で優秀なものがいれば”太学生”の身分が与えられ、国士監(国立の官吏養成学校)で学ぶことが許されるなどの恩恵をうけた。またその子や、場合によっては孫の代までは、なんらかの官職が与えられるという特典があった。しかし沈復の場合は、先祖の事跡は詳らかではない。
沈復自身は科挙に応じるために準備をしていたが、父稼夫公が大病を患うにあたり、その将来を危ぶんだようである。そこで沈復に試験の道を捨てさせ、自分の幕友の仕事を学ぶように命じたのである。沈復はこれを「恥辱」と表現している。
いたって廉潔な人物であっても相当な役得があったのが、当時の官吏の生活である。その余禄は幕友にまでも及んだようだ。むしろ実際上の職務を担当する地方の専門職の幕友のほうが、なにかと余禄が多い場合もあったという。稼夫公は沈復に自分の幕友の仕事を継がせるに際し、おそらくは同業者の自分の義弟に弟子入りさせ、仕事を学ぶことを命じている。その仕事はある程度の習熟が必要な、なんらかの専門性を持った内容のようである。どのような仕事についていたのだろう?

この稼夫公の赴任した地域について記述がある。すなわち

「余年十五時,吾父稼夫公館于山陰趙明府幕中。」とあり、また
「甲辰之春,余随待吾父于呉江明府幕中,」さらに、
「是年,何明府因事被議,吾父即就海寧王明府之聘」そして、
「吾父不凖偕游,遂就青浦楊明府之聘」とある。

ここでは「山陰」「呉江」「海寧」「青浦」といった地名が出てくる。「明府」というのは太守のことであり、清朝にあっては県令、つまりは県知事である。その地域の知事の招聘をうけて任地に赴いているのである。
まず「山陰」は山西省のこともさすが、ここでは別に「時吾父稼夫公在会稽幕府」とあり、会稽はすなわち現紹興付近である。また呉江は江蘇省南端、また青浦は現在の上海市郊外、さらに海寧は浙江省海寧市である。これらの地方は、いずれも当時の塩の生産地なのである。特に海寧はその名も「鹽(塩)官」という街をもち、南は江蘇省の「鹽(塩)城」とならぶ、塩の大生産地であった。
すなわち稼夫公が幕友として関わっていたのは、おそらくは当時の江南経済を過熱させた、塩業.....行政側からみれば「塩政」ではなかろうかと推測されるのである。
また稼夫公は息子に幕友を継がせるにあたり、「我托汝于盟弟蒋思斎」と自分の義理の弟の蒋思斎に師弟の礼を取らせるのである。ついで「癸卯春,余从思斎先生就維揚之聘」とある。蒋思斎は招聘をうけて「維揚」にむかったということであるが、「維揚」は現在の揚州市、いうまでもなく塩業の中心地である。
無論、稼夫公や師匠の任地だけをみて、塩政に関わる仕事をしていた、と断定することは出来ない。しかし他にも塩業とのかかわりを感じさせる記述がみられるのである。
父の家業を継いだ沈復であるが、さまざまな事情がもつれて、父親からは勘当同然の身となる。揚州で妻の陳芸と窮迫した生活を送っていた沈復は、ある年の暮についに金策に窮してしまう。そこで妻の陳芸が提案するのは、「君姉丈範恵来現于靖江塩公堂司会計,十年前曽借君十金」ということである。つまりは「あなたの姉の夫である範恵来(はん・けいらい)は靖江(せいこう)の“塩公堂”で会計の任についていますが、十年前に貴方から十金を借りています。」というのである。つまりはその借りを返してもらって、急場をしのげないでしょうか、というところである。
「塩公堂」とは、塩政における地方局のような存在で、多量の塩を貯蔵するため、大きな建物が充てられるのが普通である。そこで義兄が会計の任についていた、というのである。沈復はすっかり忘れていたのだが、ともかくも旅装をまとめて靖江(現在の上海北部)へ向かうのである。
途中困難にあいながらも「塩公堂」にたどり着く。来意を告げたところ範恵来は、恩義もあり助けたいのはやまやまであるが「无如航海塩船新被盗,正当盤帳之時,不能移豊贈」というのである。つまり「无如航海塩船新被盗」塩を運ぶ船が盗賊の被害に遭い、「正当盤帳之時」帳簿に監査が入っているので「不能挪移豊贈」、つまりは余分にあるところ(の金)を移して、贈る事が出来ないと.....一種の公金横領である。
海賊の被害に遭って、塩を運ぶ船が喪われたのであろう。そこで塩公堂の会計に監査がはいるとはどういうことだろう?この理解には「鹽(塩)引」とよばれた、当時の塩政の制度について考えなければならないのだが(解説は長くなるので)、ともかくここでは盗難のドサクサで帳簿をごまかす不正を防ぐ、という理解に留めておきたい。それを行うのはそのような弊風が蔓延していたからであり、現に範恵来は公金を融通しようとしているのである。むろん沈復も半ばはそれを期待したような気配がある。
ともあれ、ここでは沈復の姉の夫が塩政関連の事務職にあり、そこを沈復が頼ったということになる。公金横領が出来ない範恵来は、間に合わせの西洋銀貨二十枚で、この借を清算したことにしてくれと、沈復に頼む。沈復ももとより多くは望んでいなかったので、承諾して帰途につくのである。
また別に胡省堂(こ・せいどう)という人物が登場する。「訪故人胡肯堂于邗江塩署」とあり(故人は古い友人の意)、彼もまた邗江(かんこう:江蘇中部、宜興に近い)の”塩署”につとめているところを沈復は尋ねるのである。
このとき沈復は”貢局”に欠員が出たので、短期間ながら職を得て人心地つくのであるが、”貢局”とは宜興の名産、紫砂の急須の生産をつかさどる行政事務局である。このとき沈復自身は塩署に職を得られたわけではないのだが、この「友人」とされる胡省堂もまた塩政に関わる人物である。胡省堂については別にもう一回登場し、沈復が彼に十金を貸してあげたことがのべられている。
また「琢堂(たく・どう)」という、沈復の幼馴染の友人が登場する。彼が「有旧交王?夫孝廉在淮揚塩署」とある。つまり琢堂は淮揚(わいよう)の塩署につとめる孝廉(こうれん:すなわち挙人)の王?夫(おう・えきふ)という友人がいる、ということである。
この淮揚はすなわち揚州を含む地域であり、ここの塩署は江南最大の塩の生産地である鹽(塩)城を管轄に置き、別格の規模を誇る塩政局で、揚州にあった。
琢堂は沈復と回り道をして王?夫に会いにいっている。もちろん誼(よしみ)を通じるためであっただろう。このとき既に妻の陳芸はこの世になく、沈復はついでに揚州で陳芸の墓参りをしている。
沈復は多くの雅友がおり、陳芸と一時その屋敷に身を寄せた魯半舫などがいる。しかし金策がらみ、仕事がらみで出てくる範恵来、胡省堂、琢堂(の友人の王?夫)といった面々は皆、大なり小なり塩政に関わっているのである。
江南一帯でいかに塩業が栄え、それに応じた塩政当局の利権が大きかったにせよ、他にもさまざま行政府があるはずである。しかし「浮生六記」の沈復と稼夫公のキャリアからは、”塩”の匂いが濃厚なのである。
また父親の稼夫公は沈復によって「慷慨豪侠(こうがいごうきょう)」の人物と表現されている。また人に施すのが好きで、そのような場合は金銭を塵芥のように心得ていたという。「吾父稼夫公喜認義子、以故余異姓弟兄有二十六人。吾母亦有義女九人」とある。つまりは義理の息子、娘を多く持ったということである
中国においてはこの義兄弟姉妹、あるいは義子の盟を結ぶ、という風習が古くからある。劉備が劉封を義子としたことは有名であるが、一度義理の子とした以上は、息子同様にそれを庇護するのである。義子を持つということはその親とは義兄弟になるということである。養子のように必ずしも養育まで一切合財の面倒を見たとはかぎらないが、冠婚葬祭において身内同様にあつかうのである。稼夫公が26人の義子を持ち、その妻が9人の義女を持ったというのは、逆にいえばそれだけの稼夫公とその妻が義兄弟、義姉妹を持ったということである。同時に義子達は沈復にとっての義兄弟姉妹である。稼夫公の義弟の1人が沈復の幕友の師匠である、蒋思斎という人物ということになる。また先の範恵来は沈復の姉の夫、ということであるがこの「姉」が実姉であったかどうかは不明である。
ともあれ、父親の稼夫公が塩政にかかわっていたならば、その同僚や友人にもやはり塩政・塩業がらみの人物が多かっただろう。義子や義女というのは、多くは友人の子供たちをそう扱うのである。またその子供たちもそれぞれ家業を継ぐとすれば、沈復の幼馴染に塩政に関わる人物がいても不思議は無い。
沈復が績渓県を訪れたのは「余年二十有五,応徽州績渓克明府之召」という記述がある。すなわち績溪の「克」という県知事に招聘されたのであり、その際に塩商の程虚谷に招かれたのである。沈復が塩政にかかわる幕友であったとすれば、その交友も怪しむには足らないだろう。
沈復が塩政に関わる幕友の仕事に着いていたとすれば、沈復夫妻の窮迫もその理由が察せられるのである。沈復が績溪に行った「乾隆癸未」は乾隆二十八年(1763)であるが、この年に揚州で金農が死去している。その五年後に「両淮塩引案」という、塩業界を震撼させる大不正事件が起こる......起こるというよりは、大なり小なり不正は行われており、規模の大きなものが発覚したということが正しいのかもしれない。
以降、乾隆帝は「耕織図墨」に象徴されるような「重農抑商」政策へ傾き、巨大な権益を誇った徽州の塩商達も、その特権的な地位を失って行くのである。
塩業が衰退すれば、塩業をつかさどる塩政に携わる官吏も没落せざる得ない。沈復が金策に奔走する場面にも現れているが、塩政を担う官吏のモラルもずいぶんと緩んでいたようである。また程虚谷が沈復を招いたように、”商”と”官”の癒着の構造というのは、さまざまな弊風の温床となったことだろう。
沈復がまだ少年期の乾隆四十四年には羅聘の妻、方婉儀がこの世を去る。すでに揚州は主要な書画の市場ではなくなり始めているころである。沈復が陳芸と揚州で売畫生活を送るのはこれよりさらに後、乾隆年間も最末期のころであると考えられる。
沈復が塩政に関わる幕友として生計を立てていたのであれば、徽州の塩商の衰退とともに、塩政そのものも斜陽に向かってゆく頃である。その幕友の道にゆきずまり、揚州で売画生活を始めたときには、やはり揚州における徽州商人の衰退により、書画の需要そのものが減っている時期なのである。
沈復は父親によって早くから科挙への道を断念させられ、その後は官界にあっても書画家としても、恵まれた道を歩んでいたとは言えないものがある。その学識というのも、当時の読書人の子弟としてはごく常識的な水準である。詩文や金石学で名士になれるほどの素養は無かったと、自分自身でもよくわかっていたようだ。「浮生六記」には対句は出てくるが、完成した詩は一篇もない。ほぼ同時代に成立した「紅楼夢」の華麗さには、及びもつかないところである。
しかし、後代になるほどこの「浮生六記」の小説としての評価は高くなってゆく。つくづく時代に合わなかった沈復であるが、まさか自分の書いたものが、日本語に翻訳されて日本人に読まれているとは思いもよらないことであろう。清朝に成立した小説としては、あるいは紅楼夢に次いで、海外では読まれている小説かもしれない。(現在は喪われた第五編では、沈復は沖縄を訪れたことが書かれている)
それはさておき、当時の塩業の衰退の様相を知る傍証としても、ドキュメンタリー私小説である「浮生六記」の内容は興味深い。沈復が塩政に関わる幕友についていたという、確実な証拠はないにせよ、塩業の盛衰に翻弄されたとは言えるのではないだろうか。
”揚州八怪の殿軍(しんがり)”と呼ばれた羅聘よりも、さらに遅く揚州に来てしまった沈復ではあったが、ともかくも「揚州八怪後の揚州」の姿を文章に留めておいてくれたことは、往事を知りたい者にとっては感謝の念に耐えないところだ。
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鮑瑞駿「造墨歌」

清朝の鮑瑞駿(ほう・ずいしゅん)という人物がつくった、「造墨歌」という面白い歌がある。鮑瑞駿は字(あざな)を桐舟といい、歙県の人である。勤勉で詩文もよくした文章家としてしられた。道光癸卯(1843)に挙人となる。また同治年間に軍功を賞され山東省館陶県令、同じく山東省黄県令、ついで擢候補知府にのぼった。「桐華舸詩鈔」という詩集があり、「造墨歌」もこれに収録されている。
「造墨歌」はその名の通り、製墨についてうたわれた歌謡であるが、製墨史を概観した内容になっている。概観とはいえ、随所の記述は実に具体的であり、歙県出身の鮑瑞駿が、製墨にも深い理解をもっていたことが窺える。あるいは鮑瑞駿自身も製墨に親しんだことも考えられる。鮑姓もまた徽州に多い姓であり、清朝末期には鮑乾元(ほう・けんげん)という名の製墨家が知られている。
まず原文を掲載し、書き下し分を添えた。「歌」だけに、原文は軽快な節回しで吟ずることが出来るようになっている。書き下し分も調子を整えるために、あえて省略した文字もある。ともあれその全文を。

「造墨歌」

昔人造墨焼古松,今之焚膏毋乃同。
板屋松陰跨幽澗,下有流水鳴淙淙。
壁如蜂窠紙如幔,参差鐙影紗籠中。
承鐙以碗碗注水,水與火済凝烟濃。
液融鹿角香噴麝,陰房疑搗紅守宮。
塗脂从印燥不滓,槍金細字蟠虬龍。
程方遺制効奚李,厥貢后数曹家工。
家伝古井清且冽,雲與易水霊源通。
烟軽膠旧井華孕,紫玉一笏隃麋空。
荒唐誰説十万杵,杵以万杵堅于銅。
尤其偽者滲以漆,光則黝然不可礲。
羅家銀墨広陵散,色如碧葉秋来紅。
紫雪之精鬱霊気,西陂小景撫呉淞。
再和之法亦一瞬,几人犹弆呉綾封。
龍賓十二落誰手,磨人磨墨倶怱怱。

○ 昔人造墨焼古松,今之焚膏毋乃同
「昔人(せきじん)造墨(ぞうぼく)古松(こしょう)を焼き、今の焚膏(ふんこう)同じからん。」
かつては松を焼いて松烟を採っていたが、この際は樹齢を重ねた“老松“が良いとされていた。老いた松は溜まりたまった樹液が堆積しているから、高温でよく燃え、こまかい煤が大量に取れるからであろうか。
現在は膏(こう)、すなわち油脂を焚(た)いて煤をとっていることを言っている。「毋乃」は「非莫(あらざるなし)」とおなじ二重否定であるから、強い肯定であり「同じこと」と言っている。

○ 板屋松陰跨幽澗,下有流水鳴淙淙
「板屋(はんおく)松陰(しょういん)幽澗(ゆうかん)跨(また)ぎ、下に流水(りゅうすい)鳴きて淙淙(そうそう)」
これは山中に分け入って、松烟墨を取る方法である。「板屋(はんおく)」は板で作った急造の山小屋である。きちんとした家であれば專(せん:レンガ)と漆喰でつくる。作業小屋、山小屋ということになる。「幽澗(ゆうかん)」は山奥の水の流れる細い谷間。そこへ松が枝を伸ばして覆っており、「淙淙(そうそう)」と水が流れている様子である。
古代の松烟の精製はこうして山中に老いた松を求め、その場で焚いて煤を採ったというが、これらのことは明代の宋応星(そう・おうせい)の著した「天工開物(てんこうかいぶつ)」などに記載がある。

○ 壁如蜂窠紙如幔,参差鐙影紗籠中
「壁は蜂窠(ほうそう)の如く紙は幔(とばり)の如く、参差(さんさ)の鐙(とう)は紗篭(さろう)の中」
「蜂窠(ほうそう)」はすなわち「蜂巣」で、蜂の巣である。壁にたくさんの穴が開いている様子であるが、もちろん内部で火を焚いて煤をとるので、その換気のためである。その内部に、幔幕(まんまく)のように紙で覆った空間を作る。通気を良くしつつも、風が吹き込むことを遮断するためである。これは前の松烟を採る内容の句と異なり、一転して油烟を採る方法を述べているのである。
「参差(さんさ)」は不ぞろいな様。「紗籠」は「紗(さ:うすぎぬ)」で造った籠であり、すなわち燈籠(とうろう)である。鐙(とう)は馬の鞍にとりつける“あぶみ”ではなく、古代の三足のついた食器という意味がある。また古くは“灯”と同義である。すなわち紗籠の中で油を満たし、灯心を置いた容器ということになる。燈籠の中でこの鐙(とう)の影が不ぞろいに揺れている様であろう。

○承鐙以碗碗注水,水與火済凝烟濃
「碗を以って鐙(とう)を承(う)け、碗(わん)に水(みず)注(そそ)ぎ、水と火済(そろ)いて凝烟(ぎょうえん)濃く」
すなわち、灯心を燃やした上部に、椀状の容器をかぶせて煤を付着させるのである。また椀に付着した煤は、水で洗い流してあつめる。
日本の製墨法では金属製の器から刷毛を使って煤を集めているが、中国では陶製の器を用い、水で洗い流し、同時に水分をくわえるのである。この煤に水分を加えるということは、製墨では重要な工程である。いきなり膠とあわせようとしても、うまく混ざらないのである。
火と水という二つの相反する要素がそろって、はじめて“凝烟(ぎょうえん)“すなわち濃い煤がとれるということである。

○ 液融鹿角香噴麝,陰房疑搗紅守宮
「液は鹿角(ろくかく)を融(ゆう)し香は麝(じゃ)を噴(ふん)し、陰房(いんぼう)に紅守宮(こうしゅきゅう)を搗(つ)くを疑う」
すなわち膠を交ぜて、よく搗きこむところである。鹿の角を溶かし、麝香と煤を混ぜて捏ね上げる。
「陰房疑搗紅守宮」であるが、これは唐代の詩人李賀の「宮娃歌(きゅうけいか)」にある“蝋光高懸照紗室,花房夜搗紅守宮”をもじっている。すなわち女性たちが夜半に花房内で蝋燭をともし、鳳仙花(ほうせんか)から採った染料を搗き、爪を染める…つまりはマニキュアを作っているところである。この場合の染料は油脂と混ぜて赤い餅状になっているものである。しかし造墨歌では、煤けて真っ黒な部屋で、紅守宮ならぬ墨を搗いているのであり、その杵音が聞こえるというわけである。

○ 塗脂从印燥不滓,槍金細字蟠虬龍
「脂を塗り印に従い燥(そう)して滓(そう)せず、槍金(そうきん)の細字(さいじ)、蟠(ばん)の虬(こう)龍」
“从印”は“従印”ということで、印に従うということであるが、ここで言う“印”は墨型のことである。それが“不滓“ということであるが、”滓(かす)”がつかない、綺麗に型から取り出すという意味に読める。しかし「塗脂」の意味は若干不可解である。現在では墨を型入れするときに、型に油脂を塗るようなことはしないからである。ともかく脂を型に塗るかすれば、取り出すときには都合が良さそうではある。
“槍金(そうきん)”は漆工芸にみられる金属象嵌(ぞうがん)であり、ここでは象嵌のように細かく端整な文字が刻まれるということであろう。また「虬」であるが「虬」は日本語の音がないので仮に「こう」とした。小さな龍である。ここでは蛟(みずち)と同義としていいだろう。蟠(ばん)はとぐろを巻くことであるから、とぐろを巻いた蛟や龍ということである。蟠龍(ばんりゅう)とも言うが、墨の意匠を代表している。
ちなみに“泥蟠不滓”という詞がある。志が得られずとも節操を喪ってはならないという意味であるが、これは「三国志・蜀书・秦宓(しんひつ)伝」に“有補于事,泥蟠不滓,行参聖師“からきている。つまり龍であれば濁った泥の中に潜んでいても、その身に泥滓がつくことはないのだ、というところである。よってこの二句では”蟠龍”を墨の意匠として引き合いにしていることがわかる。

○ 程方遺制効奚李,厥貢后数曹家工
「程方の遺制は奚李を效(なら)い、厥(そ)れ貢后(こうこう)の数(すう)は曹家(そうか)の工」
ここでいう“程方”はもちろん程君房と方于魯を指す。“奚李“は奚超と李廷珪である。奚超は李廷珪の父親であり、李廷珪もはじめは奚姓を名乗っていたが、のちに南唐の李公主から李姓を賜ったのである。「效」には”模倣”の意味がある。つまりは程君房や方于魯も、李廷珪の製墨法に倣ったのだ、というところである。
また二句目の「貢后」は献上すること。「曹家」はもちろん曹素功の一族である。それが“工”であったというのは、“工(たく)み”であったということと、功績・業績があったということをかけている。清朝における献上墨の代表格である曹素功に言及しているのだが、この二句全体で歴代の名墨匠にふれているのである。

○ 家伝古井清且冽,雲與易水霊源通
「家伝の古井(こせい)は清(せい)且(か)つ冽(れつ)、雲と易水(えきすい)霊源(れいげん)通(つう)ず。」
“古井(こせい)“は古い井戸であるが、生活上の重要性から井戸は神聖なものとされており、また。”清(せい)且(か)つ冽”はすなわち井戸の水が“清冽(せいれつ:冷たく清らか)“といところである。
また”雲與易水霊源通“は、”易水”は徽州製墨の発祥地であるが、易水という黄河の支流域でもある。これが“雲”と“霊源が通じる“というのは、”雲“すなわち”天”であり、“易水”はすなわち“地”上の河である。易水を流れる河の水も元は天の雲から降り下った雨であり、ともに“水”という同一の元素からできていることを言う。
もちろん、ここで“水”に象徴されているのは製墨法である。家伝の古い製墨法は時を経ても濁ることはなく、そもそも“易水法“の名に残る徽州古来の製墨法は天来のものである、という自負がうかがえる。

○ 烟軽膠旧井華孕,紫玉一笏隃麋空
「烟は軽(けい)に膠(こう)は旧(きゅう)に華孕(かよう)を井(せい)し、紫玉(しぎょく)一笏(いっこつ)隃麋(ゆび)は空(くう)」
つまり、烟(煤)は軽いものがよく、膠は古いものが良いということである。が、気をつけなければならないのは「膠が古い」というのは、作ってから年数の経過した膠がいいということではなく、古い製法で膠が作られている、ということである。
すなわち項元汴(1525—1590)の「蕉窓九録(しょうそうきゅうろく)」のうちの“墨録”には「烟細膠新」とある。「烟細」は煤が細かい、つまりは軽いことである。「膠新」というのは、膠が出来てからまだ新しいことを言う。また「古之妙工,皆自制膠」と、古代の名人はみな膠を自分で作り、それは綺麗に処理した牛革を煮てつくり、その煮汁がまだ冷えかたまらないうちに烟と混ぜたという。
すなわち新しい膠を用いるのが、古い膠の用法であり、「膠旧」はこの膠の用法のことを指していると考えられるのである。この項元汴の文は後代、たびたび引用されている文であり、鮑瑞駿も当然知っていたであろう。また何十年も寝かせた膠を用いた方が良い、という文は見当たらないのである。
「華孕(かよう)」は「花孕」あるいは「孕花」ともいい、受粉して結実した花房である。“井(せい)“には整斉と周囲を取り囲む、という意味があり、ここでは墨を型入れするときの様子をいうのであろう。製墨の工程を見ているとわかるのであるが、墨匠は墨の原料の大きな塊から重さを図ってひとつかみの材料を取り、それを手の平で転がし、適当な円筒ないし紡錘にまとめる。これを木型にいれて圧迫するのである。すなわち型入れ直前の墨の材料を、受粉した花の子房にたとえたのであると考えられる。
次の「紫玉」は端溪紫石の形容にも使われるが、”一笏“とあるのでやはり「紫玉光」としての墨を意味すると考えられる。また”隃麋”は古代の官製の墨の名称であり、墨、特に古い墨の代名詞である。ここでは新旧の佳墨を対比させていると考えられる。すなわち今は一笏の紫玉光があるが、古(いにしえ)の隃麋はすでに「空(ない)」と。

○ 荒唐誰説十万杵,杵以万杵堅于銅
「荒唐(こうとう)誰(だれ)説く十万杵(じゅうまんしょう)、杵(しょう)は万杵(まんしょう)堅きは銅」
ここも面白いところで、かつ鮑瑞駿が製墨に精通していたことをうかがわせる一句である。つまり「誰が言ったのか、墨をつくこと十万杵などと。荒唐無稽な話だ。」と言い切っているのである。そして「万杵(まんしょう)」すなわち一万回もつけば、墨は銅のような固さになってしまう、と言っているのである。
「十万杵」は李廷珪の製墨法にうたわれている。あるいは後漢の韋誕(い・たん)は自ら「三万杵」と延べ、曹素功の次代の曹永錫(そうえいしゃく)も「三万杵の技」を誇ったと言う。しかしこの鮑瑞駿の説に従えば、一万回でも行き過ぎということになる。
やはり清朝初期の名墨匠にして傑出した学者である程瑶田(てい・ようでん)の製墨法を、同時代人の姚が詩にうたっているが、“我愛瑶田善論琴,博聞思攬好深淇。才伝墨法五千杵,已失家財十万金。”とある。ここでは「才伝墨法五千杵」とうたわれているが、あるいはこのあたりが真実に近いのかもしれない。

○ 尤其偽者滲以漆,光則黝然不可礲
「尤(もっと)も其(そ)の偽者(ぎしゃ)漆(うるし)が滲(にじ)む、光は則ち黝(くろ)きも礲(ろう)せず」
この“漆が滲む”というのは墨の鑑別法のひとつで、良い墨はその磨った面に漆をたらしても滲むことはないが、わるい墨は漆が滲んでしまうというのである。粗悪な墨は、質が粗慢で漆すら浸透してしまうということである。
「礲(ろう)」は、磨くという意味があるが光沢をいうのであろう。そういう偽者の墨は、色は墨色が黝(黒)くとも磨いたような艶がないと言っているのである。

○ 羅家銀墨広陵散,色如碧叶秋来紅
「羅家の銀墨(ぎんぼく)広陵散(こうりょうさん)、色(いろ)は碧葉(へきよう)秋来紅(しゅうらいこう)」
“羅家”はもちろん羅小華のことである。“銀墨“はおなじ重さの銀にも等しい墨、というほどの意味であろう。文献では金と等しいとされた羅氏の墨であるが「金(jīn)」とするとこれは平声であり、平仄が合わないので三声の「銀(yín)」としたのであろう。
さて「広陵散(こうりょうさん)」であるが、これは中国の古い楽曲で「十大古曲」のひとつ、通常は琴によって奏する。完成者は晋の嵇康(けいこう)と言われるが、嵇康は司馬昭によって罪に着せられ処刑されることになった。刑場には嵇康の助命を嘆願する、三千人の人士が詰め掛けたという。嵇康は彼等を前にして最後の「広陵散」を演奏し、曲が終わるとともに嵇康の首は地に落ちたという。つまり嵇康の「広陵散」は今に伝わっていない。
現存するもっとも古い「広陵散」は、はるか後代の明代にその断片を記した楽譜がある。すなわち「広陵散」は喪われて伝わらないものの代名詞でもある。羅小華もやはり最後は厳世蕃とともに刑に処されるが、その製墨法もともに喪われてしまった、というところであろう。
「色如碧叶秋来紅」であるが、「碧叶(葉)」は緑の葉。これが「秋(あき)来(き)たりて紅(くれない)」ということであるが、つまりは紅葉である。「碧叶」は若々しい葉をさすが、同時に秋が来れば赤く染まり、いずれは散って土中に埋もれることを暗示している。やはり羅小華の運命を比喩していると読める。

○ 紫雪之精鬱霊気,西陂小景撫呉淞
「紫雪(しせつ)の精は霊気を鬱(うつ)し、西陂(せいは)の小景(しょうけい)呉淞(ごしょう)を撫(ぶ)す」
ここでいう「紫雪」とは煤のことであり、その精粋は霊気が内に籠もっている、というところであろう。
宋犖(1635−1714)は、字(あざな)を牧仲といい、漫堂あるいは緜津山人と号した。晩年には西陂老人または西陂放鴨翁という号を用いた。康熙年間の大蔵墨家であり、その収蔵をしるした「漫堂墨品」をのこしている。官界でも立身し、江蘇巡撫、吏部尚書、加太子少保にいたり、資産も権勢も有していた。その墨癖を傾けて墨を特注したが、すべて精品であったという。後代の「百十二家墨録」にはそのうちの一笏“西陂珍賞之墨”が掲載されている。実は「造墨歌」の注釈にはこの“西陂珍賞”が国朝の第一品であるという文が記載されている。ゆえにここでうたわれている「西陂小景」は宋犖の造らせた墨ということになる。
「呉淞(ごしょう)」とは「呉淞江」であり、上海、蘇州一帯を流れる河である。また「呉淞」はこの地域を指す名称である。すなわち「呉淞を橅(ぶ)す」とは、江蘇巡撫であった宋犖をいうのである。また「橅(ぶ)」とは「模倣」あるいは「模写」という意味があり、すなわち墨の精品をもって、山水を描く意味をもかけているのであろう。

○ 再和之法亦一瞬,几人犹弆呉綾封
「再和(さいわ)の法も亦(ま)た一瞬、几人(きじん)は弆(しま)うに呉綾(ごりょう)に封ず」
“再和”の法ということであるが、これは再和墨のことを言っているのであろう。すなわち一度造った墨を砕いて墨を造る手法である。
宋代の蘇軾は、“雪堂”で三十六丸の墨を試墨し、また残墨を再び搗き砕いて再和墨を造ったといわれている。いわゆる「雪堂儀墨(せつどうぎぼく)」である。
几人(きじん)は「机人」であり、机(つくえ)の人はすなわち読書人ということになる。また「呉綾」はすなわち「呉(蘇州)」の綾錦である。「錦」で包むということは、つまりは大切に収蔵するという意味であるが、やや過度であるというニュアンスがある。
すなわち古の文豪である蘇軾は、墨を砕いてさらに良い墨を造ろうとしたが、今の読書人たちは墨が割れることをおそれて過度に大切に扱っている、と皮肉っているところであろう。「机人」という言葉には、頭でっかちの学者先生、それも中途半端な、という揶揄を含んでいる。
再和墨については「(宋)何遠(かえん)・春渚紀聞」に記載がある、対膠(ついこう)法と関連のある伝承があるが、ここでは次の句の意味を考え蘇軾の雪堂墨品の故事をとるところだ。

○ 龍賓十二落誰手,磨人磨墨倶怱怱
「龍賓十二(りゅうひんじゅうに)誰(た)が手に落つ、人(ひと)磨り墨磨り倶に怱怱(こつこつ)」
まず“龍賓十二“であるが「(唐)馮贄・雲仙雑記・墨松使者」にある、墨の精が唐の玄宗帝に万歳を叫んで述べた”凡世人有文者,其墨上皆有龍賓十二(およそこの世の文才のある者は、皆その墨の上に龍賓が十二いるのです)“という口上である。つまりは墨、それも皇帝の面前に出されるような佳墨の代名詞であり、容易に得ることは出来ない墨である。
また「(元)泰不華・桐花烟為呉国良賦(桐花烟は桐油烟墨、つまりは呉国良の造った墨をうたった)」には“龍賓十二吾何用,不意龍文入吾手。(龍賓十二なんていう希少な墨をどうして私なんぞが使えようか、と思っていたら不意に(呉国良のつくった)龍文(佳墨)が吾が手にはいった)”とある。「落誰手(誰の手に落ちたのだろう)」というのは、この詩句に対応したものであろう。
次に“磨人磨墨”であるが、これも蘇軾の「次韵答舒教授観余所蔵墨」のなかの「非人磨墨墨磨人(人が墨を磨るに非ず、墨が人を磨るのだ)」に拠っている。この「非人磨墨墨磨人」は「非」と「人磨墨墨磨人」にわけると、後ろの「人磨墨墨磨人」は真ん中で分けて「人磨墨」と「墨磨人」の左右対称になっている。また発音すると「非(fēi)人 (rén) 磨(mó) 墨(mò) 墨(mò) 磨(mó)人 (rén)」となって、無理にカタカナにすれば「フェイ、レン・モー・モー・モー・モー・レン」となる。もちろん、カタカナでは同じ「モー」でも「磨(mó)」は二声、「墨(mò)」は四声で聞き分けることが出来る。しかし蘇軾の狙いとしては、文字も左右対称にし、音も似通った配列になることで、まったく「人が墨を磨っているのか、墨が人を磨っているのかわかりゃしない」という気持ちを強調しているところである。
これは「舒教授」という人が、蘇軾の収蔵していた墨を観て作った詩に対し、韻を合わせて蘇軾が答えた詩である。長いのでこの詩の解説は別の機会したいが、詩の中には蘇軾が三十年の間少しづつ集め、また使っていた墨達が出てくるのである。同時に蘇軾は髪も薄くなり、歯も弱くなった老境の自分を自嘲まじりにうたっている。磨り減った墨達と老いた我が身を重ね、「墨を磨る」つまりは詩作や作文、あるいは官僚としての実務に明け暮れるうちに、一生が過ぎ去ってしまったなあ、というところである。このとき蘇軾は左遷されて、小さな畑を耕し細々と生活していたころであるが、この詠嘆には同時に文事に明け暮れた生涯に対する、深い充実感も感ぜられるところである。
「怱怱(こつこつ)」であるが、「怱(こつ)」はたちどころに消え去る、という意味で「怱怱」というのは人の一生も、墨を磨り潰すのもあっというまだよ、というところである。

長くなったが、最後に大意をまとめて付したい。もともとが節回しの良い歌謡であるから、日本語でもそれなりの調子がでるように意訳したのでご了承いただきたい。小生如きでは随分と品格の下がる、俗な調子になってしまうものであるが。

(大意)
昔の人は老いた松、焼いて煤(すす)採(と)り墨造(つく)る。今じゃ脂(あぶら)を焼くけれど、もともと同じ墨造(づく)り。
山に分け入り松の陰(かげ)、ちょいとばかりの小屋を建て、谷川越えて松探す、耳を澄ませば水の音。
壁は蜂の巣(す)穴だらけ、紙で作った蚊帳(かや)の内、薄絹(うすぎぬ)造りの籠(かご)の中、灯火(ともしび)ゆらゆら揺れている。
椀(わん)を被(かぶ)せて煤(すす)を受け、水を注(そそ)いで煤洗う。水火(すいか)そろったそのときに、煤は集まり黒くなる。
膠(にかわ)造るにゃ鹿の角、麝香(じゃこう)の匂いもぷんぷんと、黒く煤(すす)けた奥の部屋、なぜか不思議と紅(べに)を搗(つ)く。
脂を塗って型に入れ、乾いたあとでも滓(かす)はなし。象嵌(ぞうがん)見紛う細かい字、とぐろを巻いた蛟(みずち)や龍(りゅう)。
程氏も方氏もその墨は、奚李(けいり)の親子を真似たもの。今じゃお上に納めるは、曹家(そうけ)の貢墨(こうぼく)これ一番。
代々伝わる古い井戸、いまも冷たく澄んでいる。雲から易水(えきすい)同(おな)じ水、秘伝の製法廃(すた)れない。
煤(すす)は軽いし膠(にかわ)良し、墨を握って型に入れ、紫玉が一笏(いっこつ)隃麋(ゆび)は無し。
誰が言ったか出鱈目よ、杵(きね)で搗(つ)くこと十万回。万も搗いたら銅になる。
もっとも偽者(にせもの)漆(うるし)が滲(にじ)む、黒いは黒いが艶がない。
羅小華(らしょうか)造(つく)るは銀の墨、あわれ仕置(しお)きの露(つゆ)と消え、これ春秋(しゅんじゅう)の理(ことわり)か、夏には緑の山の葉も、秋が来たなら紅(あか)くなる。
煤の上物(じょうもの)霊気が籠(こ)もる、西陂(せいは)の大臣佳(い)い墨造り、呉淞(ごしょう)の山水これで描(か)く。
文豪(ぶんごう)東坡(とうば)は墨(すみ)を和(わ)し、今の先生墨を得りゃ、後生大事にお蚕(かいこ)ぐるみ。
龍賓十二(りゅうひんじゅうに)は誰(だれ)のもの?考えたって仕方無い、墨を磨ってりゃそのうちに、書生の一生すぐ終わる。

(ああコリャコリャ)
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「黛玉」の意味について

「黛玉(たいぎょく)」という名称の意味については諸説あるが、小生の文字通りの憶断を述べたい。「黛玉」の「黛(まゆずみ)」であるが、今風に言えばアイ・シャドウということになる。またこの「黛」という文字には、青黒い顔料という意味がある。「まゆずみ」すなわち「眉墨」は、実際に固形の墨を硯で磨って眉に塗っていたという。「眉墨」を磨るための小さな硯を「黛硯(たいけん)」と言い、時折袖珍硯(しゅうちんけん:袖にいれて持ち歩き、常時愛玩できるような小さな硯)として過眼することがある。
「眉墨」に使われていた「墨」というものが、果たして「眉墨」専用に作られた墨であったのか、あるいは筆書に用いられる墨を兼用していたのかは定かではない。しかし下等な眉墨は鍋釜の煤を用いていたというから、油烟や松烟を使い、さらに香料まで混ぜた墨をもし使えばよほど上等であったかもしれない。また古くから精良な墨を「玉璧」に喩(たと)えた文は多く見られるのであり、そう考えると「黛玉」は墨そのものを喩えたと言ってもよさそうだ。
父の勧めで栄国邸に越してきた黛玉が、宝玉と初めて出会ったとき、宝玉は彼女に雅号を勝手につけようとする。架空の書物を引いて「西方有石名黛,可代画眉之墨:西方に石あり名を黛という。眉を画く墨の代わりになる」と言い放つのである。所詮は宝玉の即興のでたらめであるが、紅楼夢の中での“黛玉“という名の意図するところは黒い玉石であり、やはり墨を暗示しているのではないか?という想像(妄想?)が働くのである。
実は“墨“以外にも、黛玉が”筆“を象徴しているのではないかと思わせる部分がある。
大観園に移り住んだ宝玉達が詩社を結成した際、黛玉につけられた雅号は「瀟湘妃子(しょうしょう・きし)」であった。これは賈宝玉の腹違いの姉の探春がつけた雅号である。黛玉が住んでいるのが青竹の茂る「瀟湘館」であるということからでもあるが、林黛玉がいつも泣いてばかりいるということとも関係している。
そもそも「瀟湘妃子」という語の由来であるが、太古の聖天子である舜帝は、南巡(なんじゅん:南方の視察)した際に蒼梧(そうご)で崩御した。堯帝の二人の娘であり舜帝の妃であった娥皇(がこう)と女英(じょえい)の姉妹は湘水(しょうすい)のほとりで舜帝の死を泣きに泣く。二人の流した涙が河畔の竹の上に降り注いで斑点となり、これがすなわち斑(まだら)模様のついた竹、斑竹(はんちく)になったという。故に現在でも斑竹を「湘妃竹(しょうきちく)」ともいう。「斑竹」は竹の品種ではなく、河畔で水に浸かった竹に特殊な菌類が付着して斑点が出来るのである。よって水辺で取れる竹の一部が斑竹になるのであり、山林の竹にはあまり出来るものではない。現在の中国では湖南省や福建省が主な産地である。
湘水は瀟水(しょうすい)とともに湖南省を流れるふたつの河川であり、洞庭湖に注いでいる。「瀟湘(しょうしょう)」というと、これら二つの河川の流域一帯を指す言葉であり、現在の湖南省一帯がそう呼ばれる。
すなわち「瀟湘妃子」は湘水のほとりで涙を流す二人の女性を意味するが、より直接的には斑(まだら)模様の付いた竹、すなわち斑竹のことである。古来より斑竹はその紋様の美しさを愛でて、筆管に用いられてきた。とすれば黛玉の雅号は“筆”を暗示しているとも考えられ、それは“黛玉”という名の意味するところの墨とも綺麗に対になる。名や字(あざな)と雅号を対にするというのは、よくある発想なのである。名と雅号を墨と筆とで対にすることで、大観園きっての詩文の名手である黛玉の文才を現しているかのようである。
林黛玉の父親の林如海は、50歳近くになってからであるが、なんと科挙に“探花”で合格したほどの人物である。つまり黛玉は、歴代役人を輩出してきた学問の家柄の出身なのである。その林如海の妻の賈敏(か・びん)は賈政の妹であり、林黛玉は賈宝玉の従妹なのである。しかし母親の賈敏は、黛玉が幼い頃にこの世を去る。林黛玉の兄弟姉妹は皆夭折し、林如海のただひとりの子が黛玉ということなのである。林如海もこの一人娘を溺愛していたが、そこはやはり跡を継ぐべき男の子がいないのを残念に思い、彼女に男子顔負けの教育を受けさせたのである。
林如海は“探花”に及第した翌年に、揚州の巡塩御史という要職に任命されている。ちょうどその頃に林黛玉の家庭教師として依頼されたのが、賈宝玉と縁続きの賈雨村という人物なのであるが、彼も進士及第の才人であった。栄国邸・寧国邸と同じ賈姓であるが、直接の血縁姻戚関係には無い。この人並み以上に才気はあるが、やや俗物的な性格も併せ持つ賈雨村という人物は、紅楼夢のストーリーの中ではしばしば現れて重要な役割を果たすのである。
当時は地方官であった賈雨村が、私腹を肥やしたために弾劾されて免職になっていたという事情もあるが、娘の家庭教師にわざわざ進士及第者をつけるあたりは、林如海の娘の教育への力の入れようは尋常ではない。黛玉は虚弱なため賈雨村の授業も滞りがちであったものの、進士及第者の弟子には違いないのである。黛玉自身の素質ももとより、そうした環境に育った黛玉からすれば、宝玉等の詩文など高の知れたものであったに違いない。
ところで揚州で巡塩御史をつとめた林如海は、当然のことながら徽州出身の塩商との交際があったであろう。巡塩御史は皇帝から直接派遣された、塩の流通の監督官である。また康煕年間の当時、揚州で塩業を牛耳っていたのが徽州商人達である。彼等からすれば目下の塩業に深くかかわるだけではなく、“探花”及第者であり、将来の出世も約束されたような林如海という人物は、なんとしてでも深く交際しておきたい相手である。単なる“進士及第”でも尋常なことではないが、首席から数えて三番目の“探花”ともなれば、下手をしなければ地方官どまりという事は無く、将来は宮廷の高官に出世することは間違いないところである。
娘に進士及第者を家庭教師につけるほど学問好きの林如海であれば、揚州の徽州商人達からは精良な徽州の文房四寶が送られたことであろうし、一人娘の林黛玉としては、それらをふんだんに手に取り、使うことが出来る立場であっただろう。
やがて林黛玉は賈雨村に連れられて、宝玉のいる栄国邸に引き取られる。賈雨村は同時に復職のつてを得るために、林如海の紹介を得て栄国邸を訪問するのが目的であった。この経緯については賈政の母親、つまりは宝玉や黛玉の祖母だが、死んだ末娘の忘れ形見である林黛玉を手元におきたがっていた、ということになっている。この宝玉の祖母の史太君は栄国邸の最高実力者でもあるが、孫娘を引き取るために再三使いを立て、また迎えの使者まで寄越しているのである。林如海としても可愛い娘を手放すに忍びなかったところであるが、当時の女性としての躾というのは、女親がいない家庭ではなかなか難しいという事情もあり、娘を母方の実家に預けることにするのである。
実のところを言えば栄国邸の方でも、林如海といういずれ宮廷の高官になるであろう人物との、縁を深める狙いがあっただろう。しかしこの林如海も病に倒れて揚州で病没するのである。この父親の死こそが、黛玉のその後の悲劇を決定付けたと言って良いだろう。
林如海が病に倒れたとき、黛玉は父親を看病するために一時揚州へ戻るのである。そして林如海が死去すると、葬儀のためにさらに揚州へとどまる。また林如海と黛玉父娘の原籍は姑蘇、すなわち蘇州であり、当時の葬儀の習慣として林如海の亡骸は原籍地に葬らねばならない。黛玉は栄国邸の支援も受けながら、無事葬儀を執り行って、栄国邸へ戻ってくる(このときはまだ大観園に移り住んではいない)。
もちろん黛玉は従姉妹たちにお土産を用意しているのだが、それは紙や筆であると描写されている。また多くの書籍を持ち帰り、自分の部屋に置くのである。この当時の普通の女子であれば、蘇州や揚州から帰ったのであれば、紅白粉や香、あるいは小物の類をお土産にしただろう。それが当時10歳に満たない黛玉の持ち帰った物というのが、本や文房四寶なのである。まるっきり科挙を目指す若い書生のようで、やはり当時としては並の女の子ではないものを感じるところだ。
後に黛玉が移り住む「瀟湘館」は、大観園のうちでも賈宝玉が「宝鼎茶閑烟尚緑,幽窗棋罷指犹凉」という對聯を作った場所にある。江南の邸宅風につくられた館であるから、江南出身の林黛玉が住むには相応しいというわけである。しかし對聯には隠棲した士大夫の生活がうたわれており、どう考えても若い女性の居室というよりは、老成した読書人の男性が隠遁生活を送るような雰囲気であろう。そこに黛玉が住むというのは、やはり彼女の文学的素養の高さや嗜好、育ってきた環境を暗示しているのかもしれない。
また大観園の姉妹従妹達が宝玉の宿題の代作をしてあげたときも、黛玉だけは精良な“油拳紙”に蝿の頭ほどの小楷を書いて云々と描写されている。黛玉の筆書の技量もさることながら、文房四寶にも相当に精通していたことが伺えるのである。
林如海が娘に「黛玉」と命名したのも、どうも紅白粉の類である「眉墨」という意味のほかに、精良な墨の意味をかけて彼女の学問の成就を望んだように感ぜられるのである。
また薛宝釵の兄の薛蟠が江南への行商から帰還し、その土産を分ける場面がある。宝釵は自分が貰った土産もみんな分けてしまうのであるが、気配りの行き届いた宝釵であるから、送る相手が喜びそうなものをきちんと分けて送る。本文では「一分一分配合妥当,也有送筆墨紙硯的…」とあるのだが、この「筆墨紙硯」を送られたのはほかならぬ林黛玉であろうと推察していた。あるいは探春もそのひとりかもしれないが、ともかく薛宝釵から送られた「江南の文物」を見て、林黛玉は身内のいない境遇を嘆いて涙に暮れるのである。彼女に「身内」を想起させるような江南の文物といえば、やはり揚州で目にしていたような精良な徽州の墨や硯だったのではあるまいかと思うのである。

しかし中国の王朝時代にあっては、女性が学問をしたところで科挙に応じて官吏になれるわけではない。紅楼夢の中でも、宝玉やその姉妹従妹達は詩社を作って詩文の腕を競うが「女子の詩は人様に見せるものではない」とはっきり述べられている。男性であれば、人士と交際するためにある程度の詩文の才は必須の素養であった。しかし女性の場合は、自作の詩文を家庭の外の人に見られることを極度に避けるのであった。人口に膾炙するほどの女子の詩文といえば、大抵の場合は妓女の作に限られるのである。
一般に考えられているように、中国の封建社会にあっては「文」は男性の占有物であり、女性にとっては嗜み以上のものではなかったのは事実としても、何故か紅楼夢には男性である宝玉を圧倒するほど詩文に長けた少女達が数多く登場する。
その原因というのは、実は物語の中にも述べられているのであるが、康熙帝の文治政策が深く影響していると考えられるのである。紅楼夢は舞台となった場所や時代を特定していないのが建前であるが、背景となった時代はいうまでもなく清朝の康熙帝の御世である。
康熙帝は当時、漢族の女子の中から品性・学問に優れた者を選んで女官とし、宮中で皇族の女性の勉強相手としたのである。中国の歴代王朝においても、臣下の娘が宮廷に奉公にあがるというのは常々行われてきたことである。しかし康熙帝が満州族の女性に漢民族の文化や習慣を学ばせようとしたのは、明確に政策的な働きかけであり、影響もまた大きかったのではないだろうか。
詩文においては黛玉の好敵手とも言うべき薛宝釵(せつ・ほうさ)であるが、彼女も父親が溺愛のあまり男子並の教育を受けさせたとされる。しかし彼女とその家族が栄国邸で住むようになったのも、兄の薛蟠(せつばん)の思いつきで宝釵を宮中の女官に押し上げようと画策し、上京したのがきっかけなのであった。
とはいえ、宝玉の兄嫁の李(りがん)のように、やはり「女子は才が無い方のが“徳”である」という両親の考え方で、多少の読み書き以上の教育は受けなかった女性もいる。やはりこちらの方が一般的な考え方であったのかもしれない。しかし康熙帝による、積極的に漢族の女性を宮廷に入れようとする姿勢は、ある程度の経済的余裕のある階層の女子への教育を重視させる効果があっただろう。もちろん、より経済的に恵まれない士大夫達も、そういった有力な貴族の邸宅へ娘を奉公させようと考え、女子に教育を施すということが行われたことだろう。
国も時代も異なるが、清少納言や紫式部が活躍した平安時代の、日本の貴族社会の状況を想起すればあるいは理解しやすいかもしれない。当時もやはり貴顕の家の子女の家庭教師ないし勉強相手として、文学的素養に優れた女性が必要とされた背景があり、下級貴族の家でも、権門に取り入るために女子の教育が盛んになった背景がある。
そういう意味では、林黛玉や薛宝釵のような存在は、やはり康熙帝が生涯をかけて実施した重商政策ならぬ“重文政策”が生み出した少女達であったと言えるかもしれない。紅楼夢に出てくる詩文の数々は曹雪芹の創作であるにせよ、そうした詩文の才に恵まれた女の子達が、やはり実在したと想像するには難くないのである。
賈政に命じられ、對聯や題を次々と作り上げた賈宝玉であったが、このときの彼の年齢は若干12歳である。詩文に関しては神童といっても良い宝玉であったが、そもそも彼が文字や詩文の学習を始めたのは3歳から4歳のころなのである。そのとき手を取って教えたのが実姉の元春であり、彼女の手ほどきでもって、何冊かの本と数千字の文字を覚えこんだと書かれている。この元春は時の皇帝に嫁いで妃となるのであるが、大観園に帰省した際に発揮されたように、やはり文学的素養に優れた女性なのであった。
清朝における女性詩人の活躍というのは、他の歴代王朝に類を見ないものである。康煕年間に顧之瓊(こ・しけい)が創建した「蕉園詩社」には、顧姒(こ・じ)、紫静儀(し・せいぎ)、朱柔則(しゅ・じゅうそく)、林以寧(りん・いねい)、銭雲儀(せん・うんぎ)という“蕉園五子”と呼ばれた女性詩人が名を連ねている。また随園こと袁枚(えんばい)には多数の詩の女弟子がおり「随園女弟子詩選」が残っている。また袁枚と同時代の陳文述(ちんぶんじゅつ)にも多数の女弟子がおり、「碧需仙館女弟子詩」がある。揚州八怪のひとり羅聘の妻の方婉儀も、これも優れた詩人であった。
こういった女性の詩人の活躍は、明代末期にその端緒を求めることが出来るのであるが、清朝初中期でのその隆盛は、康熙帝のおこなった文化政策の影響と無縁とはいえないだろう。
その康熙帝の文化政策に大きな影響を与えたのは、製墨をはじめとする徽州文化と深い関係を持つにいたった豐潤曹氏であり、とりわけ康熙帝の側近中の側近であった曹寅(そういん)なのではないかと考えている。康煕年間における、曹家をモデルに書かれたのが紅楼夢である。物語で描かれている家庭には、しっかりとした教育を受け詩才にすぐれた少女達があつまっているのも、事実に基づいた話なのではないだろうか。特にそのヒロインである黛玉はとりわけ文房四寶を愛好し、まさに天才的な詩人として描かれている。その名や雅号にもやはり墨や筆が象徴されているというのは、あながちでもなかろうと考えているのであるが、いかがであろうか。
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曹寅「棟亭集」

ようやく、曹寅(そういん)の詩文集「棟亭集(とうていしゅう)」が入手できた。上海在住の朋友がインターネットを通じて捜索してくれたのだが、中国広しと言えども、欲しい本が簡単に見つかるかというと、必ずしもそうではないのが辛いところである。
人口が日本の10倍を軽く超える中国なのだから、本の発行部数も軒並み日本の10倍、というわけにはゆかない。「毛沢東語録」などという、例外中の例外は別として、10万部を超えればベストセラーの部類であるというから、日本と大差はないということになる。
曹寅「棟亭集」出版不況と言われつつも、いかに日本が本の出版が好きかということになろうか(読書が好きかどうかは別として)。くわえて中国では本は貸し借りで読む習慣が定着しており、さらに海賊版がすぐに出たりといった事情があり、出版された冊数以上に読者は多いと言われている。
ともあれ、人口に比して本の絶対数が少ない中国で、特に古書籍を入手するというのは言うほど容易ではない。この曹寅の「棟亭集」も、上海古籍書店から1978年に出版されたということになっているが、読みたいと思って探してもなかなか見つからなかったのである。
1978年といえば文化大革命終焉の前夜であるが、装丁は綺麗な線装本に仕立て上げられている。中国の出版界にあっては過酷な時代に、凝ったことをするものだなあ、と感心してしまう。
>棟亭集曹寅「棟亭集」
「銅陵市人民医院図書室」と押印してある。どうやら安徽省銅陵市の病院の図書室の蔵書になっていた本のようだ。なんで病院の図書室に「棟亭集」などという、清朝の詩文集があったのかは謎であるが、あるいは病院に勤めていた人の個人的関心に拠る蔵書であったかもしれない。
曹寅「棟亭集」しかし本の後ろにを見ると図書室の貸し出しカードとおぼしきものが付いている。日本の市民図書館(といっても一昔前の話で、最近はバーコードで管理しているかもしれないが)と同じようなカードを使っているのだなあ….と思うと同時に「待てよこの本、大丈夫な品だろうか?」と考えた。きちんとその図書館が蔵書を処分したものなのかどうか。一応カードには金額らしきメモがあるので、放出されたと考えるべきなのだろうけれど、それならそれで何かそのシルシがないものかと探してみたが見当たらない。安徽省の銅陵市人民医院は現在も存在するので、ちょっと問い合わせてみた方がいいかな、とも考えている。問い合わせたところで、状況を把握している人が存在するとはとても思えないのであるが。
最近は厳しくなったのかもしれないが、かつて中国の公立の図書館や博物館からは、整理によって蔵書や蔵品が市場に流れ出てくることがあった。あるいはこの本もその一部なのかもしれない。

数年前「巴爾扎克与小裁縫(バルザックと小裁縫)」邦題は「中国の小さなお針子」という文革中の中国を舞台にしたフランス映画があった。映画の中でとある町の産婦人科医が、農村に下放された青年(文革期、都会の青年達が農村に送られ、農作業などに従事した)の持っていたバルザックの原著と引き換えに、極秘で青年の恋人の堕胎を施術するという場面がある。
本といえば「毛沢東語録」しかなく、洋書などは持っていたら反動的知識分子としてつるし上げを食いかねない時代である。当時は迫害された知識人階級出身であろう医師が、いかに純粋に文学的内容の本に飢えていたかをよく描いている。銅陵市人民医院でも、あるいは似たような事情があったのかもしれない。貸し出しカードの記録では、1980年に一度だけ借りた人がいたようだ。おそらくはこの人が購入を申請したのではないだろうか。

まあ、曹寅(そういん)に関心を寄せる人というのもあまりいない思うので、小生のところにこの本が来たのも何かの縁であろう。しばらく借りるつもりで大事にしたい。何度か触れているが、曹寅は紅楼夢の作者(異説も多いが)の曹霑(そうてん:つまりは曹雪芹)のお祖父さんであり、紅楼夢にも曹寅をモデルにした人物が登場するという研究がある。そういう関係で紅楼夢研究が盛んな中国ではわりと知られている人物である。
曹寅「棟亭集」曹寅「棟亭集」
巻頭の序文に「在馬列主義」「毛沢東思想指引下」という、懐かしいフレーズが見られる。「馬列主義」とは「馬克思列寧主義(マルクス・レーニン主義)」の略であり、さらに「毛沢東思想の指導の下に」社会主義科学文化事業の一環として、この本は出版された云々とある。当時の文献や論文のいわば書き出しの決まり文句であり、また結びの一文にも同じフレーズが繰り返されたのである。“ブルジョア的反動知識分子“とレッテルを貼られ、糾弾されないための一種の”呪文“のような一文である。この一文が必ずしも免罪符代わりになるわけではなかったそうであるが、ともかくも往時の中国の文献、論文にはほぼかならずこのような文言が書き加えられていたのである。
この序文の最後には、曹寅という人物が、紅楼夢の作者の祖父であると述べている。これもあるいは一種の免罪符代わりかもしれないのであるが、なにしろ毛沢東は紅楼夢の大ファンであったからである。“プロレタリア文学”というにはあまりにも“ゴージャス”な紅楼夢の世界であるが、当時の毛沢東主席がそうおっしゃるのならそうなのである、というご時世であった。
この本の元になったのは、上海博物館に収蔵されている康煕年間の刻本であるという。曹寅は順治十五年(1658)に生まれ、康煕五十一年(1712)になくなっている。この「棟亭集」は曹寅の死後、その門人たちの手によって編纂され、刊行された本であるという。
曹寅「棟亭集」印影本であるから、中の刻字の書体もそのまま目にすることが出来るのがありがたい。おそらくは門人のうちの誰かが浄書したのを刻したのだろうと思われるが、完整な台閣体が美しく、筆書の手本に出来そうなくらいである。官界に生きた曹寅の交遊を考えれば、科挙試験に必須の素養である精緻な楷書体を能くする門人には事欠かなかったことであろう。

曹寅に関心を持ったのは、もちろん紅楼夢のためではなく、曹寅や曹雪芹の出身一族である北方曹家と、徽州の製墨家達とのかかわりにおいてである。
上の写真には「送程正路之黄陂丞兼懐赤方先生」とあるが、程正路は清朝初期の名墨匠のひとりである。詩の詳しい解釈はまだ出来ていないが、詩の中に「画家遵北苑、墨法秘南唐」という対の句がある。また続けて「二者能兼得」とある。
「北苑」とはもちろん北宋時代の大家である董源(とうげん)であり、「南唐」はこの場合奚超(けいちょう)と奚廷珪、すなわち李廷珪を指す。「画家は北苑の画法を遵守し、製墨法は南唐の製法を秘法とする。」ということになろうか。それを「二者能兼得」というのだから、程正路は画作にも製墨にも優れていたという事になる。
程正路は号を恥夫、又は晶陽子といい、別号に雪斎がある。また彼の墨肆(墨店)は悟雪斎といった。歙県は槐塘の人である。康煕年間に非常な名声を博したというが、程正路の墨で現存するものは少ない。一説では、あの胡開文も程正路の店で墨工として働いていた時期があったという。曹寅自身も製墨に親しんだと言われているが、あるいはこの程正路との交際が関係しているのかもしれない。
実は程正路の履歴についてはまだ詳しいことがわかっていないのであるが、程姓の墨匠であるからといって明代の程君房の後裔と考えるのは早計であり、徽州に程姓は多い。ただ出身地域が「槐塘」ということは、やはり程君房や曹素功の出身地である巌寺鎮に近接する地域の出ということになる。
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多くの名墨匠が、この巌寺鎮を中心とした歙県城と休寧県城の中間に位置する地域から出ている。ひとつには「文人自怡」の製墨の伝統が、広く深く根付いていた地域であると伺われるのだが、往時のこの地域の経済力、また文化レベルの高さというのは、現存する明清の建築群からも十二分にうかがえるものである。
曹寅は程正路だけではなく、多くの徽州人士との交際があったようだ。文集の中には徽州出身とおぼしき姓名が散見される。
徽州人士と北方曹家との交流は、曹鼎望が徽州府知事をつとめたころに始まるだろう。また徽州人士だけではなく、明の宗室の後裔の名も、その中に見られるのである。そのひとりが「朱赤霞」という人物であり(明朝は朱姓)、朱赤霞の描いた「対牛弾琴図」という画に曹寅は題文を書いている。この朱赤霞はまた程正路の友人でもあった。

小生はひとつ誤解をしていたのだが、康煕六年(1667)に徽州知府を勤めた曹鼎望(そう・ていぼう)は、正しくは曹寅の“叔父”ではない。曹鼎望と曹寅の父親の曹璽は兄弟ではないのであり、“豐潤曹氏”の流れの曹鼎望と、同じく北方であっても“遼陽曹氏”の出の曹璽とでは、家系を別にしているそうだ。しかし曹寅は曹鼎望を“叔父”と呼び、曹鼎望の子の曹鈖(そう・ふん)を曹寅は“兄”と呼んで親しく交際していたことは事実である。
また曹鼎望が監修した「豐潤曹氏宗譜」では、曹璽の一族はももとは豐潤曹家と同族であり、あるときさらに北方の遼東に移住したことになっている。どうもこのあたり、有力な北方の曹姓の家同士が、積極的に結びつこうとしたフシが伺えるのである。曹鼎望はさらに、豐潤曹氏の家譜と徽州や江西省近辺の曹氏の家譜を統合し、南北の曹氏が同宗の一族であるという、やや荒唐無稽とも言える家譜を編纂している。
ともあれ曹璽と曹鼎望が、早くから満州族に投降し、宮廷で重用された漢族同士であることは確かである。康煕時代の初期に曹鼎望は徽州知府をつとめ、曹璽は江寧織造に任命され、曹璽のこの職は後に曹寅が継ぐことになる。「江寧織造」は表向きは宮廷・官吏用の絹織物の製造をつかさどる役職であったが、その実は南方の漢族の不平分子の監視・懐柔という任務があったのである。
曹寅が曹鼎望を「叔父」と呼ぶということは、曹璽と曹鼎望は「兄弟」と呼び合った関係ということになる。曹璽が漢族不平分子の懐柔を担う要職にあったとき、曹鼎望が徽州知事として赴任し、そこで「善政」と記されるほどの統治を行ったということは、逆に言えば“徽州“という地域の政治的な重要性を意味している。
異民族の征服王朝である満州族は、儒教イデオロギーからすれば本来は蔑まれるべき野蛮人なのである。曹鼎望の出身地である山東省はかつて孔子の故郷である魯の国であり、古来より儒教の聖地とされてきた。また徽州は明代における儒教の正統派である朱子学の学祖、朱熹の出身地であり、ここも儒教にとっての聖地であるとされるのである。また徽州からは朱熹にはじまり程颐や程颢など、多くの儒教理論家、教育家が輩出している。曹鼎望が徽州に赴任したのは、清朝初期に康熙帝が行った、漢族に対する思想統制や融和政策における腐心に理由が求められるだろう。また曹鼎望が徽州の名門校「紫陽書院」を修復し、息子をそこで学ばせたのも、そういった政治的意図と無関係とはいえないのである。
また康熙帝に少年時代から侍立していたのが、曹璽の息子の曹寅である。彼に「江寧織造」を継がせて引き続き南方士大夫の監視と懐柔にあたらせたのも、曹寅自身の素養の高さもさることながら、清朝による漢民族統治の完成が、一代や二代で仕上げられるものではないことを見越していたからかもしれない。
曹鼎望やその息子の曹鈖、あるいは曹寅が、徽州士大夫独特の文化である「文人自怡」の製墨に親しんだという事実が、彼等の徽州士大夫との交際の深さを物語っている。徽州という地域性に無関係な士大夫同士の交流であれば、詩文や書画を通じた交際で足りるのであり、曹鼎望にしても曹寅にしても、その方面の素養に事欠くことはなかったはずである。士大夫自ら製墨に手を染めるという所作が、徽州独自の文化であり、その文化的意味の重さを見抜いたからこそ、曹鼎望以下の北方曹氏と徽州製墨との積極的なかかわりがあったのではないか。
また徽州においてすぐれた製墨家を輩出した地域が、同時に徽州の中でも特に経済・文化水準が高い地域であったということも、偶然とはいえない。また康熙帝に特に「紫玉光」と称揚され、清朝初期を代表する製墨家となったのが、何故”曹”素功であったのかも、そこに手がかりがあるのではないかと考えている。
またこの徽州士大夫との交際の輪の中に、先にあげた朱赤霞や、石濤のような明王朝の宗室の者たちが含まれてゆくのである。少しさかのぼれば明代末期の汪道昆や方于魯といった徽州人士と、朱多炡など明の皇室の連枝との交際も想起しなければならない。

いち早く満州族に投降した北方漢民族による、南方漢民族の監視・懐柔という図式で捉えると、いかにも謀略めいた行いであるかのようにうけとられるかもしれない。しかしそもそも融和政策というものは、相手に対する誠心誠意抜きにして実現しえるものではないのである。曹鼎望をはじめとする北方曹家の者たちが、そろいも揃って権謀術数主義な性格の持ち主であった考えるのは、皮相に過ぎる見方である。
曹鼎望や曹寅が、単に政治的な意図をもって徽州の士大夫と交際し、また製墨に取り組んだかというと、決してそうではないだろう。彼等はこころから徽州の文化・風土を愛し、この土地の人士と親しく交際したことだろう。
「棟亭集」に収録された詩文の中には、まさにそういった曹寅と徽州士大夫との交流の軌跡が残されているのである。
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雄村曹氏と山東曹氏

「竹山書院」の見学を終えて、書院のそばにそびえる巨大な牌坊「大中丞坊」を再び観に行く。
歙県雄村「大中丞坊」牌坊のある場所は、竹山書院を見学にくる人々のための駐車スペースになっている。とはいえ、実のところ雄村を見学に訪れる人は少ないようだ。徽州の古鎮史跡をすべて回ろうと思ったら、駆け足で観てもどれほどの日数を要するか検討がつかない。
この「大中丞坊」には、雄村曹氏のうち、進士及第(殿試合格者)ないし挙人(地方試験である郷試合格者で殿試の受験資格者。稀に推薦で資格を得、考廉という)となったものを列記し、顕彰している。この村の男子にうまれたならば、この牌坊に名を刻むことを夢見ない者とてなかっただろう。
歙県雄村「大中丞坊」雄村の曹氏は塩商で巨万の富を築き、竹山書院を建設するなど地域の文化教育に投資する。その動きと言うのは、曹文埴や曹振镛等を輩出する遥か以前、明代中期にさかのぼれそうである。
雄村に残る巨大な牌坊「大中丞」には、明代成化年間の進士及第者、曹觀(そうかん)の名が見える。以下、ずらりと進士及第者の名が列挙され、左側に挙人の名が列記されている。雄村ではこの地の学問的水準と教育レベルの高さを誇って、進士及第者を何人かまとめ、いくつかの呼称で呼び習わしている。
まず明代、雄村曹氏では“一門四進士,四世四経魁”というのがある。明代の科挙制度においては、四書五経が必須科目である。その五経において、それぞれ主席合格者が“経魁”とよばれる。曹氏の村のある家族から四世代にわたり、四人の進士及第者と経魁が出たという事である。
歙県雄村「大中丞坊」まず曹観(そうかん)が明の成化辛卯(七年:1472)に経魁となり、乙未年(十一年:1476)に進士。その子の曹禎(そうてい)は成化丙午年(二十二年:1487)に経魁、進士となる。さらに曹観の姪孫の曹深(そう・しん)が正徳丁卯年(二年:1507)経魁、戌辰年(三年:1503)に進士となる。また曹観の孫の曹楼(そう・ろう)は隆慶丁卯年(元年:1567)に経魁、辛未年(六年:1511)に進士となったという。
清代になると“同科五進士”というのがある。その五人とは乾隆庚辰年(二六年:1760)の曹文埴(そう・ぶんしょく)、曹孚(そう・ふ)、曹樹棻(そう・じゅふん)、曹採(そう・さい)、曹裕昌(そう・ゆうしょう)の五人が同科で進士に及第する。さほど大きくも無い雄村で、一度に五人の進士及第者が出たというのも
また“一朝三学政”というのもある。「学政」というのは、清朝における省の教育行政の長官である。すなわち乾隆年間,曹文埴は江西、浙江学政、曹城(そう・じょう)は山東学政、曹振镛(そう・しんよう)は江西学政である。
さらに“父子尚書”というのがあり、曹文埴が戸部尚書に登り、息子の曹振镛[镛:金+庸]が軍機大臣となったことである。
歙県雄村「大中丞坊」「竹山書院」は、清代に入ってから建設された私塾であるが、明の成化七年(1472)に曹観が進士に及第したということは、清朝にはいる以前からこの村では学問が盛んであったことが伺えるのである。
明代、清朝にかけて進士及第者の多くは圧倒的に江蘇省蘇州周辺地域と浙江省湖州周辺地域に集中しているのだが、これらの地域と徽州とでは人口の多さが違うことも考慮しなくてはならない。徽州は土地が耕作に適した土地が狭く、多くの人口を支えられる土地ではないのである。にも関わらず、儒教倫理の伝統から多子多産が奨励された。結果的に多くの男子は商人となって他郷に交易の旅に出るか、あるいは科挙に合格して宮廷ないし地方で官僚として身を立てなくてはならなかったのである。
徽州商人になるのは、多くは科挙受験に見切りをつけた者たちであり、挫折したとはいえ、水準以上の文学的素養を有していたと考えなくてはならない。“賈為厚利,儒為名商”(商売は厚い利益を出し、学問はすぐれた商人を生む)という徽州の精神がみられるのである。
この雄村の学祖とも言うべき曹観が明の成化七年(1472)に進士となってから、乾隆四十五年(1781)に曹振镛が進士となるまで、実に300年近くの長い期間、この地の学芸が衰えなかったというのは驚異的なことである。
実際、王朝時代の中国において、名家はなかなか存続しないものである。優れた人物が辛酸の末に身を立てたとしても、その子弟達は驕慢となって奢侈に溺れ、その家門が三代保たれるというのは非常に稀なことである。「紅楼夢」は大富豪の名家が、何ゆえ急速に没落してゆくかを、余すところ無く描き出している。
竹山書院を創建した曹菫飴は、清朝初期の揚州で八指に入る大塩商であったが「財産を成すものは多いが、それを保てるものは少ない」と、常々に考えていたという。曹菫飴も、揚州であまたの富家の栄枯盛衰を目の当たりにしていたことだろう。築き上げた冨を「錦衣玉食(贅沢な衣装と食事)」に浪費することなく、教育や文化施設に投資し、かつその教育事業を継続させることで一族の繁栄をはかったのである。
雄村も中国にあっては都市ではなく、農村である。しかしながら、農村部においてもその文化レベルや教育水準は、必ずしも低いものではなかったということも、忘れてはならない。日本の江戸時代に各藩が学問を奨励した結果、優れた学者の多くが全国に遍在していたことと考え合わせれば、理解しやすいかもしれない。
歙県雄村「大中丞坊」じつはこの曹菫飴、康熙帝の第二回南巡に際して接駕に任じられているのである。接駕は文字通り、皇帝の駕籠に近侍する役職である。徽州の大塩商が清朝に接近していた様子が伺える。また、何度か触れている「紅楼夢」の作者、曹雪芹の祖父の曹寅(そう・いん)は、康熙帝の初回を除く四回の南巡に付き従っている。すなわち第二回の南巡では曹寅と曹菫飴が康熙帝に近侍していたことになる。おそらく、曹菫飴が接駕に任命された経緯には、曹寅の働きかけがあったのではないだろうか。曹寅は江南にあって、塩商を監督する役職にあった。曹寅と雄村の大塩商の曹菫飴の間で、交渉が無かったとは考えられないことである。
曹寅は少年時代の数年間を叔父の曹鼎望(そう・ていぼう)とともに徽州で過ごしていることはのべた。また曹寅の父親の曹璽(そう・じ:1620-1684)は、康煕二年に「江寧織造(こうねいしょくぞう)」に任命されている。「江寧」とは南京のことで、「江寧織造」とは、南京にあって表向きは絹織物の生産と流通を掌握し、税を徴収するする機関であったが、もうひとつ重大な役割があった。清朝に反感を覚える漢人勢力を監視し、同時に懐柔と融和も図る、清朝政府の国内諜報機関としての役割である。
南京に「江寧織造府」という行政府兼官邸が置かれ、担当官僚とその家族はここで起居していた。また徽州は「南直隷」として、南京の直轄地域であった。
曹璽の妻は孫氏といって、康熙帝の乳母であり宮廷で“一品夫人“の称号を与えられていた女性である。ちなみに曹璽の父親は曹振彦(そう・しんげん)といい、明代末期に清朝の軍と戦って破れ、捕虜になって投降した漢人武将である。曹振彦と曹鼎望は兄弟であり、曹鼎望が徽州府知として徽州へ赴任した数年間、曹寅も従兄弟達とともに徽州に滞在し、歙城内の紫陽書院で学んだと言う。
曹寅は母親が康煕帝の乳母を勤めていた関係もあって、若い頃から康熙帝の側に侍立し、康熙帝の信任が非常に厚かった。この曹寅が任命されたのが「江寧織造和兼任両淮巡塩監察御使」とあり、つまりは「江寧織造」と「両淮巡塩監察御使」を兼任していたのである。「江寧織造」は親子二代で任命されたことになる。康熙帝が江南へ南巡した際に度々行宮としたのがこの「江寧織造府」であり、政府の官邸ではあるが同時に曹寅の居館でもあり、その信頼の程がうかがえようというものである。
さらに曹寅が兼任している「両淮巡塩監察御使」であるが、「両淮(りょうわい)」というのは現在の「淮安(わいあん)、淮陰(わいいん)」を指し、現在の江蘇省淮安市淮陰区に名を残す地方である。その地方一体の塩の流通を監督する役目であり、非常な要職といってよい。また物産と流通に深くかかわるため、必然的に商人達と深く関係することになる。当時揚州を拠点に専売の塩商として莫大な富を築き上げていた徽州商人達とも、無論のこと無関係ではありえなかっただろう。
「両淮」で活動する塩商人達は、水運の要衝である揚州に邸宅を構え、活動することになる。揚州は東西に長江の水運と、江南と北京を結ぶ南北の運河が交錯しており、東西南北の物流の心臓部分である。
曹寅の曹一族は、山東省の豐潤県に原籍をもっている。しかし曹鼎望が徽州府知時代に、徽州の隣の江西武陽系の曹氏と家譜(家系図)を統合する作業を行っている。雄村曹氏が江西武陽曹氏とどう関係するかは、(資料未収で)いまのところ明らかになっていない。家譜の統合というのは、まま行われるものであるが、隣接する地域の間で互いに往来がある場合がほとんどである。北方の山東省の曹氏が、ことさら江南の曹氏との家譜と統合しよとした意味はどのようなものであっただろうか?結果、山東省の曹氏と江西省の曹氏がもとは同族ということを示す家譜が出来上がり、その関係で「紅楼夢」の作者、曹雪芹の原籍は江西武陽ということになっているそうだ。
この家譜の統合は、曹鼎望や曹璽といった、北方にあって早くから満州族に仕えていた漢人貴族達が、南方の漢人士族の懐柔と融和を行う過程で、どのようなプロセスを経たのか、それがひとつの答えになると考えている。

台北故宮博物院に残る松花江緑石硯は、康熙帝の乾隆帝の時代にかけて、皇帝の命によって満州族の発祥地を流れる松花江(しょうかこう)から採石された硯材を使い、制作されたものである。硯という、漢民族の士大夫にとってもっとも珍重される文物を、満州族に縁の深い地から取れた硯材で制作し、多く下賜したことの政治的な意味は深いものがある。
康熙帝の文化政策の面からこの松花江緑石が語られることは多いが、しかし果たして誰がそれを康熙帝に提案したのだろうか?康熙帝自らの発案であったかどうか.......そうであったとしても、少なくとも漢民族文化の真髄ともいうべき文房四寶の、その最も洗練された趣味に精通した人物なり、勢力なりのブレーンの存在が皆無であったとは考えられないのである。
時代が下って乾隆時代に進士となった、雄村の曹文埴は乾隆帝が制作を命じた「欽定西清硯譜」の編纂メンバーの一人である。雄村曹氏の文化教養レベルの高さともいえるが、墨、硯、筆、紙と、文房四寶のすべてを生産し、宋代以降つねに最高水準を保ち続けた徽州の人士であればこそ、ともいえるだろう。
どうも康熙帝の(漢人勢力との融和と懐柔のための)文化政策には、曹寅や曹璽、曹鼎望といった山東曹氏を通じて、徽州雄村曹氏をはじめとする徽州の人士を中心とした勢力の影響があったと考えられるのである。そこに、曹素功の「紫玉光」が現れるのではないか?というのが、現在のところの仮説である。
徽州人士は、異民族王朝に帰服し、その政策を支持する見返りに、塩の専売という巨大な権益を得たのではないだろうか。朱子学の聖地である徽州の士族達が、清朝の文化政策を支えるという意味は、思想統制という難題を抱える王朝にとって、計り知れない意味があったと考えられるのである。
「紅楼夢」を著した曹雪芹の出身一族である北方の曹氏と、徽州雄村曹氏という、一見無関係な二つの曹氏が、徽州の繁栄を支える塩の専売を通じて結びつく。そこにもうひとつ、曹素功が入り込むとき、康熙帝がその墨を称えたといわれる「紫玉光」伝説の謎が解けるのではないだろうか。同時に、清朝初期から流行した「黄山図」や「白岳図」などの墨の意匠の意味も、そこから説明することが可能になると考えている。
曹素功の墨がすばらしかったから皇帝が褒めたのだ....たしかに当時の曹素功の墨はすばらしかったに違いない。しかし最高権力者の公式の発言というのは、常に政治的な意味をもつものである。
また墨や硯というのは、その価値を知るか否かが、政治的な意味を持つほどに重要な文物であったということも、そこから理解されるのではないだろうか。
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徽墨三派の見方について

周紹良氏は、その著書「清墨談叢」の中で、清代における徽州の墨匠を活動地域を元に大きく三つに分けて特徴を述べている。すなわち歙県(きゅうけん)を中心とする歙派、また休寧県を中心とする休寧(きゅうねい)派、そして婺源(ぶげん)県を中心とする婺源派である。なかでもその墨質の精良を歌われているのが歙派の墨であり、清朝の墨匠のうち、曹素功をはじめ、汪近聖、汪節庵などがこれに属するとされている。
見た目が華美な割には、その質がいまひとつ、といわれることが多い胡開文は休寧派ということになり、また婺源派には?大有(せんたいゆう)を筆頭とした?氏製墨がある。

「清墨談叢」が出て以来、日本の清代の墨の愛好家の間では、歙派の墨を重んじ、休寧や婺源の墨を軽んじる傾向があるように思える。
清代における歙派の領袖として曹素功が挙げられるが、たしかに初代曹素功の原籍は歙県岩寺鎮にある。しかし彼が継承したのは休寧県で墨店を開いていた呉叔大の「玄粟齋」であり、継承後もしばらく休寧県で墨を造っていた形跡がある。休寧県は「天都」という別称があり、最初期の曹素功には「天都曹素功」の銘を冠した墨がみられるのである。
この明代最末期の名墨匠である呉叔大については、呉時行の「両洲集」に記載がある。ちなみにこの両洲集は清朝においては乾隆帝の四庫全書編纂の過程で「全毀書目」つまり事実上の発禁となった書物であり、知られているのは清の徐卓「休寧砕事(きゅうねいさいじ)」の引用である。
呉時行は崇禎年間には開封府知府を勤めた人物であるが、「両洲集」は「天都呉氏」の刊行になる版が残っている。呉時行もおそらく天都、休寧県の人であったのだろう。「両洲集」の中で呉叔大を非常に高く持ち上げているところから、両者は同族であったのかもしれない。ともかく、呉叔大は一時期休寧を代表する墨匠であり、それを継承したのが曹素功なのである。
曹素功はその後、徽州府のある歙県城内に出店したのか、「徽歙曹素功」を款(かん)した墨が今日多く見られるのである。ただし完全に休寧県から離れてしまったわけではないようだ。民国時代に徽州を訪れた後藤朝太郎翁は、休寧県城内には曹素功の本家とも言うべき店があった、と述べている。実際に翁はその休寧曹素功で墨を買い、上海曹素功と使い比べて、休寧のそれが勝っているようだ、という感想を遺している。
また、後藤翁は民国当時の歙県城内を訪れている。そこで胡開文、胡同文、胡子卿、胡学文など、「胡姓」の墨匠が非常に多く、胡姓でなければ信用が無いような雰囲気であったと述べている(文房四寶参照)。休寧派の代表と見なされ、外見の華やかさの割りに実質が伴わない墨の代名詞のように言われている胡開文であるが、歙県でも相当な勢力をもっていたようだ。また、後藤翁の見聞では当時曹素功は歙県にはなかったという。
胡開文の初代の胡天柱は、もともと汪近聖と同じ績溪県の出身である。そして休寧の墨匠、汪啓茂の墨匠を継承し発展させている。休寧の墨匠を継承し、のちに歙県城内に店舗を構えたところは曹素功と同じ経緯なのである。その論理で言えば、胡開文が休寧派であれば曹素功も休寧派としてもよさそうではある。また、主たる活動地域によって曹素功を歙派とするなら、胡開文も歙派としたくなる。
曹素功からは、康煕末年に清朝を代表する名工、汪近聖が独立している。彼は独立当初から歙県城内に店を構えたとあるから、ともかく歙県派とされているのだろう。ただ汪近聖が曹素功で働いていた時期、曹素功は休寧にあったのではないだろうか。そういう意味では、汪近聖も休寧から出た墨匠と言えるかもしれない。
汪近聖と併称される汪節庵は、徽州府城(=歙県城)で開業したため、歙派の一員ということになっている。同じ汪姓であるが、徽州というよりもむしろ宣城に近い績溪尚田村出身の汪近聖とでは、宗族によるつながりは希薄である。汪節庵が継承したと考えられている方密庵は歙人であり、無論のこと歙派とされる。汪節庵については謎が多く、徽州歙県人とされるが、出身地の信行村は西溪南に近接する地域にある。
特徴はその顧客層である。当時一級の文学者であった金農と非常に親しかった方密庵は、金農のために多くの墨を製し、また方密庵自身も金石学者である。汪節庵も、在野の文学者や無官の士大夫階級に広く支持され、嘉慶年間の文人自製墨を独占した感がある(周紹良:蓄墨小言)。
これは明代後期の西溪南において、汪道昆を中心とした文芸交流の広がりの中で、方于魯の墨が草莽の士大夫の間で尊ばれたことを彷彿とさせるものである。方密庵が方于魯の後裔で、汪節庵が汪道昆の後裔と考えるのは想像が行き過ぎなのであるが、西溪南とその周辺という地域性は考えても良いかもしれない。
ただし、汪道昆が「天都外臣」と号したように、また西溪南の呉姓の富商の多くが休寧県城へ出店していたように、この地域の人々の意識が歙県と休寧県のどちらへ傾いていたかは、少し考える必要があるだろう。西溪南は歙県の県城よりは、むしろ休寧県に近いのである。

徽州府城、あるいは歙県城は、徽州一帯を治める徽州府が置かれており、徽州における政治の中心である。また明代から清代にかけての徽州一帯は、王朝の副首都である南京へ隷属していたことを考える必要がある。徽州府城内に出店するということは、現代で言えばオフィス街の文房具店の如く.....PCと通販の普及でだいぶ減ったが.....製墨業を営む者にとってはごく当然の商略であったことだろう。
歙県は徽州において政治と文化の中心であり、歙派の墨は献上墨を筆頭に、文学者、士大夫に顧客を持つ良質な墨であるという。また商業が盛んであった休寧県では、商人達が商業事務に使う墨や、商用の贈答品の墨の需要が高かったとも言われる......これらの見方はどうか。
既に見てきたように、徽州では商人と官僚を目指す士大夫とで、異なる階級社会を形成していたのではない。同じ一族に官吏となる者もいれば、官界を諦めて商業を行う者もあった。また商業で成した富を教育や文化事業に投資し、富商の家から官吏が出ることも珍しいことではなかったのである。そして、詩文や書画骨董といった趣味は、専業の別に関わらず、素養として共有されていたのである。
「華美だが質がさほどでもない商人の墨」と「外観は質朴だが墨質に優れた士大夫の墨」という区別は、暗に商業従事者への蔑視が透けて見える。しかし徽州という地域の歴史的な経緯を考えると、どうも適切な分け方とも思えない。”分類”は便利だが、現実を無理に”分類”に当てはめようとするとわけがわからなくなることがある。
徽州製墨における歙派と休派の区別も、とらわれすぎるのはどうか、と思わなくも無い。両者の間に明確な違いがあったかどうかも、考える必要があるだろう。
また、現代人の墨色の評価の仕方も考え直す必要がある。現代では高価な古墨はもっぱら画に用いられるが、王朝時代においては圧倒的に文書作成に使われたのである。無論のこと、文書は濃墨で書かれなければならない。現代水墨画のように、滲みの強い生宣に淡墨で用いて墨色を云々していたのではないということは、決して間違えてはならないところである。
一般の商人や人士が仕事や文学研究、詩文書簡のやり取りに使っていたのは、便箋詩箋の類である。竹紙を主な原料とするそれらの紙には、油烟に松烟を混ぜた「油松烟」墨が適していたと考えられる。油松烟墨は純油烟墨に比べて光沢が少ないが、不透明で黒味が良く出る。竹紙のような吸水性の少ない紙にも、よく「乗る」墨なのである。材料原価も安くまた製造過程で割れにくいため、比較的安価に作ることができる。
精良な純油烟墨は光沢が非常に強い分、膠を多く含んで透明度が高く、手早く濃墨を作るのにはやや向いていない。竹紙で出来た詩箋の上で、濃墨を出すのも実は容易ではない。また歩留まりも悪く(製造過程で割れやすく)、価格も高価である。しかしここ一番の試験や、官僚が宮廷、あるいは上級機関に奏文を書くときは、濃墨で用いて光沢の強い油煙墨を用いないわけにはゆかなかったのではないだろうか。
であれば、高価な純油煙墨が、政治の中心である徽州府で多く流通したのも、わからない話ではない。歙県と休寧県で、あるいは墨の市場が異なっていた可能性は考えられる。だが、両県のどちらにその墨匠が出店していたかで、その墨匠の優劣まで論断できるかどうか。二県にまたがって店舗を構えていた墨店も多かったからである。
結果論的に、優れた墨匠として曹素功、汪近聖、汪節庵などを歙派とし、胡開文その他を休寧派に置くといった見方が定着しつつあるが、この考え方は少し注意したいところである。
最近では、汪近聖と胡開文が績溪県の出身であることから、”績溪派”である、というような見方まである。これはさすがにどうかと思うが、出身地ないし活動地域による派閥分けも考えものである。

一方で婺源(ぶげん)の製墨なのであるが、これはあるいは地域による明確な特色が存在するのではないかと考えている。同じ徽州ではあるが、婺源と休寧、歙県はかなりの距離がある。さらに婺源派の墨匠達が製墨を行っていたのは、現在の婺源県市街から相当に離れた山間の村であり、同じ宗族である?一族の占めるところなのである。この?一族の製墨については、別の機会に述べることが出来ればとおもう。

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汪近聖の生卒年

今度は汪近聖の生卒年?と言われそうだが.......

以前、績渓県に行った際に、“安徽省績渓県名人档案館”を訪れた。“档案”というのは、いわばプロフィールである。あいにくその日は時間がなく、館内のスタッフとの挨拶程度で終わってしまったのだが、そこで「名人故里績渓」という本を見せられたのでざっと閲覧し、汪近聖の項をさがしてみたのである。
そのときのメモに、汪近聖の生卒年が記されていたのを思い出した。この本に記載されていた生卒年は、何に基づいているのか明らかではなかったが、ともかく汪近聖の生卒年について、小生も初めて得た情報であった。
それによると、「汪近聖(1692-1761)」とだけあり、すなわち康熙三十一年(1692)に生まれ、乾隆二十六年(1761)に卒す、ということがわかる。
おそらくは、汪近聖を含む「汪氏家譜」から転載したのだろうが、「家譜」であれば生卒年月日まで記載されているはずだが、残念ながらまだ原典に当たることはできていない。汪氏家譜といっても、それぞれの系統に分かれていて、汪近聖がどの汪氏に入るのかが依然として明確になっていないのである。
そこのスタッフに聞いても、編纂者が誰かわからないので確認できないという。
ともかく、この生卒年を信じるとすると、意外なことがわかる。言うまでもなく、汪近聖は当初、曹素功藝粟齊の下で墨工として働いていたのである。
初代曹素功(聖臣)の生卒年はわかっている。
民国に編纂された「曹氏家譜」によれば、「生萬歴四十三年乙卯正月十五日,卒康熙二十八年己巳二月初五日,寿七十五歳」とある。すなわち、1615年から1689年にかけて存命したということになる。ということは、汪近聖は初代曹素功の没後3年目に生まれているということになる。
ちなみに曹素功の長男で芸粟斎を継いだ曹永錫(孝光)は「生于崇正(禎)五年壬申年十二月初九日中時,歿于康熙三十四乙亥年九月十二日亥時」すなわち1632年から1695年の間に生きた人である。
曹永錫の没時に汪近聖はまだ3歳であるから、汪近聖が曹素功藝粟斎に入ったのは、2代目の頃でもない。藝粟齊はこの2代目の永錫の代に大いに規模と質を拡大したといわれ、曹永錫の製墨の技量は父親の曹素功を凌ぐといわれている。というよりは、曹素功は墨を愛好し、蒐集し研究していたが、墨廠を開いたのは40代も半ばであった。8斤(4kg)を超す鉄塊を墨餅に打ち下ろす、といった重労働が必要な製墨の実務は、この永錫が事実上は行っていたと考えられる。曹永錫は酒豪であり、酔うと「三万杵」の技法を滔滔と語ったという人物である。
永錫には三人の息子がいたが、長子の定遠は「生于顺治己亥年九月甘二日丑时,殁于乾隆己未年五月十六日未时」すなわち、1659年から1739年にかけて存命していることになる。また次男は名を霖遠、字雨侯といい、「生于康熙六年丁未(1667),卒于康熙六十一年壬寅(1722)」である。兄弟二人で康熙二十六年(1687)に北京へ試験を受けに行き、国子監へ就学している。しかしその後は思うように官途に就くことが出来ず、帰郷して藝粟齊を継いだということである。
汪近聖が一体何歳の時に藝粟齊にはいったかは不明であるが、当時のことと考えれば、二十歳頃はすでに職についていたはずであるから、1710年前後には藝粟齊で墨工として働いていたことであろう。汪近聖が働いていた時は、壮年の曹定遠が曹素功を継承していた時期であっただろう。
汪近聖が鑑古齊を歙県城内に開設したのは、康煕六十年(1721)ないし、雍正初年(1722)と言われている。つまり29歳か30歳ころであったと考えられる。まさに「三十にして立つ」である。
乾隆六年(1741)、汪近聖の次子、汪惟高が応召して紫禁城へ向かったときは汪近聖は49歳である。汪近聖は高齢のため、次子が応じた、とあるが49歳という年齢は当時としても旅が出来ない歳ではない。たまたま病気であった可能性もあるが、その後20年も存命しているのであるから、かならずしもそうとも言えない。今となっては謎であるが、考えられるのは宮廷に召された以上、失敗すれば命が無いということを慮った、ということである。長男の汪璽臧ではなく、“次男”の汪惟高をやったのも、長子相続の前提からと考えられるのである。
現代的な価値観からすれば危険なところに息子をやる、というのは親としてどうかというところであるが、儒教の倫理観からすれば、親の為に死ぬのが子の“孝“なのである。
先立つ雍正年間というのは、士大夫や知識人にとって厳しい時代であった。雍正帝は言論弾圧を強め、筆禍によって多くの士大夫が刑を蒙っている。なんとなく、その雰囲気の余韻が残っていたかもしれない。汪家の家族会議で「俺が行くよ!」と、殊勝にも汪惟高は言ったかもしれない。名誉なことでもあるが、下手をすれば族滅ということもありえた時代である。喜びよりも怖れの方が、あるいは大きかったかもしれない。
汪惟高を見送る壮年の汪近聖の胸中にも、不安が大きく占めていたのかもしれない。であればこそ、3年の後に汪惟高が郷里に無事に帰還したときの、喜びもまた大きかったであろう。

良く言われるのが、汪近聖が抜けてから曹素功は力を落とした、ということである。康煕年間の献上墨をほぼ独占した観のある曹素功藝粟齊であるが、鑑古齊創建の雍正年間以降、次第に差をあけられたのだろう。鑑古齊が創立20年を迎えたとき、北京に応召されたのは”曹素功”ではなく”汪近聖”ということになる。
このあたりの経緯、事情は謎が多いが、たしかに康煕年間の藝粟齊の墨は、乾隆時代の曹素功製品と比べると、別格の力があることが知られている。その力というのが、そのまま汪近聖に継承されているように、思えるところがある。このあたりの事情は、墨の品質を上げる上でなんらかの手がかりになると思い、是非とも知りたいと考えているが、いまもって深い謎である。

ともかく、ここでは汪近聖の生卒年を示し、汪近聖と曹素功の関係を簡単に整理しなおすにとどめておく。
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四庫全書と墨

中国文学や中国哲学を専門にされている方には常識的なことであろうが、「四庫全書」を底本、つまり研究の基礎とする文献とするのは要注意である。
乾隆帝の大文化事業の遺産である四庫全書は、そもそも世上のあらゆる文献を蒐集整理する勢いで整理編纂された巨大な叢書である。が同時に、言論の統制を強める目的を背景にもっていた。よって、満州族による漢民族の統治に不都合な文献は禁書扱いにされて収録されなかったり、収録されても内容が改竄されたり削除されているものもあるからである。

墨に関する文献を漁っていると、「おや?」と思うことがある。以下は上海科技教育出版社が出版した「説墨」に収録されている、明代の麻三衡の著書「墨志」の一部である。
墨志より「九元三極」と読める。方于魯の最高傑作とされ、同じ名前で多くの墨匠が作った「九玄三極」であるが、「玄」が「元」と表記されているのである。ちなみに右側二行目に「重元」とあるが、これも本来は「重玄」とするべきところであろう。
何度か触れているが、「玄」は墨の別称である。「玄」は「くらい」という意味をもち、原義は黒にやや赤みを帯びた色を言う。また「玄之又玄,衆妙之門」(老子)とあるように、中国の老荘思想では繰り返し使われる文字である。これが墨の異称として古来より用いられ、とくに明代末期、易学や老荘思想と製墨が濃密に結びつくことにより、墨銘として「玄」が用いられた例を多く目にするのである。
墨志より上の写真の例でも「玄香太守」とするべきところが「元香太守」となっている。「玄香太守」が墨の美称であることは以前にも述べた。このテクスト中では、このように「玄」のことごとくが「元」に置き換えられてしまっている。
なぜ、このような表記になっているのだろうか?お気づきの方も多いと思われるが、「玄」が使われない、使えないのは康煕帝の諱(いみな)玄?(げんよう)の「玄」を憚(はばか)ったのである。ということは、おそらくはこの「説墨」に収録されている「墨志」も四庫全書に収録されていたテクストがもとになっているか、すくなくとも清朝の康煕帝以降の時代の版に拠るであろう。
よりにもよって「玄?」という諱のおかげで、以降、墨に「玄」を用いることができなくなったのである。よって清朝の墨銘に「玄」を用いた墨はほとんど見られないものである。
墨志より明代の墨に「玄」が用いられている墨は、数え上げればきりがないほどである。「玄元霊気」「玄象」「玄寶」「玄池竹」「玄海紫瀾」「山玄水蒼」「有商玄鳥」「玄鯨柱」...etc。ざっと程氏墨苑と方氏墨譜を眺めただけでもいくらでも出てくる。
康煕帝以降、墨に「玄」が使えなくなったことが、清朝の墨の意匠の面で重大な影響を及ぼしたのではないかと考えている。なにしろ「玄」というのは、「千字文」が「天地玄黄」と始まるように、「天」あるいは「天地」のように、いわば「世界」をあらわし、また思想的にも「玄奥」「玄妙」のように、根源的な存在、哲理を著わす文字だからである。
根本原理から演繹的に世界を説明してゆく易学の思想を、濃厚に反映した明代の墨の意匠は、その体系を根幹から封じられてしまうことになるのである。よって清朝の墨の意匠には、明代の墨ほどに思想の影響がみられないのではないかと考えている。
また、清朝初中期は非常に言論・思想の統制が厳しかった時代である。なんせ、北方の異民族である満州族が、はるかに優れた文化をもつ漢民族を支配するのである。漢民族の伝統的な意識の上からすれば「夷狄(いてき)」として蔑まれる存在である満州族にとって、この種の漢民族の優越感を助長するような思想の存在は、看過できるものではなかったのである。
むろん易学や老荘思想の諸説が、直接的に「華夷」(中華と夷狄:文明と野蛮)の区別を強調するような内容をはらんでいるとは限らない。しかしながら、言論の統制が厳しい時代、墨にもその思想を著わす字句や、それを具象化した図案を使用するのを控えるような風潮が生まれたのかもしれない。
清朝初期の墨は、明代の意匠を踏襲しつつも、皇室賛美の龍や瑞雲、吉祥図案が多い。また次第に「白岳図」や「黄山図」などの山水図墨、またあるいは注文主の名を刻む程度の墨が多くなってゆくのも、清朝における言論統制の厳しさからくる時代の空気を反映しているとも考えられるのである。

「徽州刻書与蔵書」(広陵出版)の巻末の附録に「清代乾隆間徽州禁毀書考録」がある。つまり徽州出身の者が書いた著書で、乾隆年間に「禁書」扱いになった本のリストがある。これをみると、乾隆年間だけで、86種の書籍が「禁書」とされているのである。もちろん、「禁書」といっても「全毀書目」と「抽毀書目」の別があり、全面的に排除された書籍もあれば、一部を削除されたものもあるようだ。
たとえば、明代末期の愛国者で、満州族の侵攻に果敢に抵抗して戦死した人物の墓誌銘などを書いていれば、削除されるか禁書にされてしまうわけである。
このリストをざっとみると李流芳の名がある。そして程大約すなわち程君房の著作集「程幼博集」もリストに入っているのである。もっとも、「程幼博集」は「抽毀書目」のあつかいで、理由はその序文になにやら問題のある個所があったようである。「程幼博集」自体は、四庫全書に収録されており、現在読むことができる「程幼博集」はおそらくは四庫全書のもののみであったと記憶している。(明代のテクストはあるとすれば日本にあるかもしれないが)

ついでに言うと、四庫全書はすべて手書きで清書されている。十億字の文献を正副合わせて8部、すべて筆書したのに使われた墨は、いったいどのような墨であっただろうか。
乾隆六年(1741)乾隆帝が徽州の墨匠を招聘し、これに応じて汪近聖の次男の汪惟高と呉舜華が上京し、宮廷内で製墨を指導したといわれている。このときいわゆる乾隆御墨がつくられたとされている。
この「御製墨」の製造に当たっては、乾隆帝が昨今の墨は皆、古式に則っていないことを歎かれ云々....といわれているが、あるいはこの際に作られた墨や、この際に確立された製法によって以降に宮中で作られた墨の多くは、四庫全書の筆写に使われたのではないだろうか。
乾隆六年といえば、四庫全書に収録する書籍を集め始めた年でもある。四庫全書の完成には四十年の歳月が費やされているが、編纂作業にあたって大量の紙墨が必要になることは、当初から明らかであっただろう。
また四庫全書の浄書には、きわめて上質な大量の墨が必要で、しかも均質であることが求められたはずである。そのような墨は内府(宮廷内)で作った方が、都合がよかったのかもしれない。
四庫全書にも納められている、「内務府墨作則例」はこの宮廷内の製墨法を記録した文書であるといわれている。
「三希堂帖」の制作には程君房の墨を用いた、といわれているが、宮廷に収蔵されている明代のすくなからぬ佳墨は、良くも悪くも個性が強いはずで、はたして大量の文献の浄書に向いていたかどうか.....以上はあくまで推測である。

またこの「四庫全書」の編纂事業の中心的な人物の一人である紀暁嵐(きぎょうらん)は、清朝初期の著名な硯癖家のひとりであり、文房四寶をこよなく愛した人物であったということも付け加えておきたい。

ともかく「四庫全書」も功罪あって、文献をとりあえず探すには非常に便利でもある反面、そのテクストを全面的に信用できるか、となると慎重にならなければいけないところがある。ただ「四庫全書」がなければ、散逸して亡失してしまった書籍もあったに違いなく、そういう意味ではやはり貴重な事業であったといえる。
また、四庫全書の編纂にあたっては、紙や墨、筆、硯などの大きな需要が生み出されている。量だけではなく、質の面からもきわめて上質なものが求められたことが、当時の文房四寶産業に大きく貢献したとも考えられる。
しかしながら、その目的はあくまで言論統制、思想統制にあったのであり、清朝を通じてその効果はいかんなく発揮されたといっていいだろう。官制の文化事業というものの影響を、考えさせられる事例でもある。
落款印01


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