金冬心と方密庵 〜五通の手紙
前に少し触れたが、許承尭(きょ・しょうぎょう)が著した「歙事閑譚(きゅうじかんたん)」には、金農(きんのう)が方密庵(ほう・みつあん)に宛てた、五通の手紙の釈文が収録されている。これは許承尭自身が目にしたものを、書き留めておいたもののようだ。
東京国立博物館の高島コレクションには、十数通の金農の尺牘が所蔵されているということだが、その半数はやはり方密庵へ宛てたものだという。これは残念ながらいまだ過眼の機会に恵まれない。
方密庵こと方輔(ほう・ほ)は、乾隆年間における徽州の著名な墨匠である。齋号を“茹古齋(ここさい)“といい、あるいは”君任(くんにん)“という号が知られる。乾隆年間から嘉慶年間にかけて、”“方密庵“あるいは” 茹古齋“を款した墨が見られるのであるが、方密庵の生卒年は未詳であり、活動時期もよくわかってはいない。
乾隆期に勃興した名工、汪節庵との継承関係が推測されているが、後の汪継定という墨匠の作例にも、「君任氏」の款がなされた墨が知られている。汪節庵も有名であった割に謎の多い墨匠であるが、方密庵も名声のわりにその実像がつかめていない墨匠である。
李斗(ろ・と)の「揚州画舫録(ようしゅうがぼうろく)」には「密庵先生即方輔、清安徽歙県人。字密庵、号茹古。工書、法蘇、米,能擘窠大書、尤善分隶。」とある。書に巧みで、その書風は蘇軾、米芾の書法に倣っているということになる。また「擘窠(へきそう)」とあるのは、格子を切った紙に書くことである。石に碑文や墓誌を刻むことが盛んになった頃から、紙にマス目を切ることが行われていたが、後に作品様式のひとつとして定着したと考えられる。方密庵はこれに長じていたようだ。
また「善分隶」とあるのは、「八分書」と「隷書」を得意としたということである。方密庵の著書には、隷書と八分書を論じた「隷八分辨(れいはちぶべん)」があり、ここでは隷書と八分書を詳細に論じ、楷書の成立過程について旧説に疑義を提唱している。また序文で「吾友金冬心最工八分、得漢人筆法」と、金農の八分書を賞賛している。金農は八分書を独自に変化させた“漆書”が著名であるが、その成立過程では方密庵との書体研究の影響がうかがわれるところである。
ともあれ「歙事閑譚」に五通ほど収録されている、金農から方密庵へ宛てた手紙を読んでみたい。
一通目。
「平湖趙龍威先生、既従淮上来揚州。君家潜山尋墓詩冊、作一長歌、極尽淋漓、杰作也。渠亦願識高賢、相訂今日在仆寓、以志倒、即望命駕。我午前来、共蔬飯也」
「趙龍威(ちょう・りゅうい)」なる人物は未詳であるが、「平湖」は現在の浙江省平湖市のことであろう。“淮“は広く安徽のことを指す。つまりは趙龍威が安徽から揚州に来ている、ということになる。おそらく趙龍威は金農と方密庵の共通の友人であり、その消息を伝えているのだろう。
そして次に「潜山(せんざん)尋墓詩冊」とあるが、「君家」とあるのは方密庵が所蔵する「潜山尋墓詩冊」ということになる。潜山は安徽省南西部、安慶市に属する地域であるが、ここでは誰かの号であろうか。「尋墓詩冊」とあるが、「尋墓」とは字義のとおり「墓を尋ねる」ことで、古人の墓ないし墓誌を探すことである。文脈によっては“墓の盗掘”という意味にも使われるが、ここでは古人を慕って、その墓を尋ねた旅の過程で出来た詩集ということになる。墓を尋ねるというのは、一見すると奇妙な旅に思えるかもしれないが、歴史を尋ねる旅をしようと思えば、過去の人物の生誕ないし没した地を訪問しないわけにはゆかないものである。もちろん旅の過程で詩を作るのである。
ここで「作一長歌、極尽淋漓」とある。「長歌」というが、金農自作の詩ではなく、「潜山尋墓詩冊」に収録されていた長歌の一篇であろう。「極尽淋漓」とあるが、「淋漓(りんり)」は普通は「墨色淋漓」として、墨色がしっとり艶やかに黒々としている様を言う。そして「また「杰作也」と続くが、「杰作」はすなわち「傑作」。つまりは金農が詩集の中の一篇を書にかいて、自ら傑作だ、と言っているのである。
ここは金農の面白いところであるが、自分の書いた書や画に自画自賛をしてのけるのである。これをもって、金農の自負心や強い自我の表れであるということがよく言われてきた。しかしそこにはやはり金冬心先生の深い韜晦や諧謔を見るべきで、言葉どおりの心情の吐露であったかどうかは断定できないところだ。ここでは方密庵に会いたいがために、いささか茶目っ気のある言い回しをしていると読むべきであろう。
「渠亦願識高賢」とあるが「渠(みぞ)」には「すぐに」という意味がある。「願識高賢」というのは「ご高覧を賜りたく」というとことで、自分の作品を方密庵に鑑賞、批評してもらいたいということだろう。
「相訂今日在仆寓」の「相訂」は約束すること。仆は自称であるから、私は今日は寓居先にいることを約束します、というところだろう。そこへ「以志倒、即望命駕」とあるが「以志倒」は「曲げて」、「即望命駕」の「命駕」は駕籠を命じるということだが、つまりは出発してもらう、こちらへ来てもらうということになる。
「蔬飯」というのは「蔬菜」の「飯」、つまりは野菜主体の粗末な食事、という意味であり、多くは自宅に招いて、家庭料理を饗応することを謙遜した表現である。ごく軽く、一緒にお昼御飯を食べましょうというところだろう。
次の「我午前来」というのが少しわかりにくい。金農の寓居先に方密庵が訪れ、金農が「我午前来(私は午前中に来ます)」と言うのであれば、金農はこの手紙を書いたときに別の場所にいたことになる。「蔬菜」というのは、自分が相手に饗応する場合に謙遜して言う語であり、金農が方密庵を訪れることではない。尺牘の解釈というのは、前後関係がわからないだけに難しいところがある。
(大意)「平湖の趙龍威(ちょう・りゅうい)先生は、既に安徽から揚州にきています。君の家の“潜山尋墓詩冊”を読み、その中の長歌のひとつを書にしてみましたが、墨色はことごとく淋漓をきわめており、傑作であるといえるでしょう。またご高覧、ご批評を賜りたいものです。私は今日は寓居先におりますので、曲げてお越しいただければと思います。私は午前中には来ているので、粗末なものしかありませんが、一緒に昼食を食べませんか」
二通目。
「仆六月間游海州、今自海州還、暫寓揚州鈔関門外、不過河、沿河半里許、汪元泰茶叶(葉)行内。数日内便返杭州。傾聞文駕到此、喜不可言、欲告之語、統俟面罄、枉願期以辰刻。」
「仆(ぼく)」はここでは自称である。「游海州」とあるが、海州をさす地名はいくつかある。しかし揚州へすぐ戻れる距離であるから、この場合の“海州”は現在の江蘇省連雲港市の一地域を指すと考えられる。このとき金農は、海州への旅行の後に揚州へ戻り、「鈔関門」付近に寓居していたようだ。
その滞在先は「汪元泰茶叶行内」とあるが、「茶叶(葉)行」は茶葉を扱う商店である。「汪元泰(おう・げんたい)」は未詳であるが、汪姓から察するに徽州出身の茶商であろう。徽州商人は塩業の他、茶葉の交易にも大きな勢力を持っており、揚州を中心に江南の茶葉の流通をほぼ独占していたのである。茶商も単に品物としての茶を売買するだけではなく、“茶引“とよばれる一種の有価証券を扱い、大きな利益を手にしていたのである。ゆえに「銀行」ならぬ「茶葉行」というわけである。”大店(おおだな)”であれば、空き部屋もあったでろう、金農はその一室に滞在していたというところか。「数日内便返杭州」と、数日したら杭州へ帰るといっている。
そこへもって「傾聞文駕到此、喜不可言」である。ここで「文駕」は「紋駕」つまりは飾りつけをした立派な駕籠、という意味であるが、旅の途上、あるいは移動中の人への尊称である。本当に駕籠で旅をしているかどうかはわからない。ここではすなわち方密庵が「到此(ここに)」滞在していることを「傾聞(聞いた)」ということである。それが「喜不可言」というのだから、嬉しくて言葉にもならない、というところだろうか。
この手紙が書かれたのがいつ頃であるかはわからないが、この当時の金農は、まだそれほど長期にわたって揚州に滞在していなかった時期なのであろう。今回も海州への旅の帰りに揚州へ寄り、数日して杭州へ戻る予定でいたのである。方密庵にしても、普段は徽州におり、揚州へは商用でたびたび訪れていたのだろう。偶然同じ時期に居合わせたことを知った金農は喜び、もう方密庵に会いたくて会いたくて仕方がない、といった風情である。
「欲告之語、統俟面罄、枉願期以辰刻」と、いささか性急に、会う約束を取り付けようとしている。「欲告之語」というのは、自分が揚州に来ていることを告げ、「統俟面罄」とある。「俟面」は面(会)を俟(ま)つことで、それが「罄(むな)しい」というのはじっとして会えるのを待っているのも空しいことだ、ということか。
そして「枉願期以辰刻」すなわち「枉(ま)げて願(ねが)う、辰刻を以って期す」と言っている。「辰刻」は「辰(たつ)の刻」つまりは午前8時前後とも考えられるが、「辰刻(しんこく)」で普通に「時刻」という意味がある。ここでは時間を決めて会う約束をしましょう、というところだろう。
(大意)「私は六月の間は海州を遊歴していましたが、今は海州から帰って、暫く揚州の鈔関街の門外に滞在しています。河を渡らず、河に沿って半里ほど行ったところ、汪元泰の茶葉店の内です。数日したら杭州に帰ります。あなたが揚州に来ていることを聞き、嬉しいことは言葉にもなりません。私もちょうど来ていることをお知らせしたいとおもいました。こうしてお会いできるのをただ待っているのもむなしいことですので、まげて時間を決めてお会いする約束をいただきたいのです。」
三通目。
「乞丁敬先生篆刻、不必凍石、或青田、或峰門一種、便好。今送来峰門旧石五方、價頗賎、又方整有品、議價一両、不識愜意否?“集古録”諸君要五銭一部。此書一時難得、便略價多些、可要否?」
「丁敬先生」は言うまでも無く、“西冷四子”の筆頭の丁敬(てい・けい)で、当時の杭派篆刻を代表する人物である。金農とは同郷、同世代の人物であり、その親交が知られているが、金農が方密庵を介して丁敬に篆刻を依頼しているということは、丁敬は方密庵を介して金農等と交際するようになったのだろうか。
また「不必凍石、或青田、或峰門一種」とあるのだが、“凍石”は印材の中でもとくに透明ないし半透明の印材であり、当時としても珍重されたのだろう。寿山石や昌化石、青田石にも“凍石”はあるが、普通は寿山石を想定するところである。また“青田”は言うまでも無く青田石のことであろう。さらに「峰門(ほうもん)」とあるのだが、これはどこの石だろうか?ちょっと調べたのだがよくわからない。
青田石の産地でとくに青田県山口鎮の封門から産する、青く均質な地色の材を「封門(ふうもん)」または「封門青」という。この「封門」の「封」の発音は「fēng」であり、「峰門」の「峰」の発音「fēng」とまったく同音である。あるいは金農は「封門」を「峰門」と表記していたのかもしれない。
「今送来峰門旧石五方」とあるが、これは方密庵から金農に送った印材であろう。「峰門」の「旧石」が「五方」、つまりは五個の印材である。金農が適当な印材がないかと打診したところ、方密庵が選んで送ったのかもしれない。それには方密庵がつけた値段が付記されていたのだろう、それを見た金農は「價頗賎」と言っている。「賎」つまりはとても安いということだ。さらに「又(また)方整(ほうせい)有品(ゆうひん)」と、きちんと角柱に整えられており、「有品」つまりは品格のある品物であるといっている。そう述べた上で「議價一両」、つまりは一両で相談できませんか、と値引き交渉をしていっるのである。さらに「不識愜意否」と、その可否を問うている。なかなか金農もしたたかである。
ついで「“集古録”諸君要五銭一部」と、おそらく欧陽修が碑帖について考証した“集古録“を「諸君要五銭一部」つまりは、欲しい人には一部五銭で売ります、といっているのである。逆に商談をしかけていることになる。また「書一時難得」つまりこの本は一時入手難といい、さらに「便略價多些」と、「略價」つまりだいぶ値引きしているのですが、「可要否?」(いりませんか)ということである。
この後の展開を考えると、金農は方密庵から印材を受け取る対価として、方密庵には「集古録」が何冊か渡ったのではないかと想像されるところである。価格を表に出しているが、おそらくは実質的な物々交換である。
方用彬の「七百通」にも見られることであるが、士大夫の交際において、品物をやり取りすることはしばしば行われている。その際には値段をきちんと言い、さまざまな交渉も行っている。近現代の日本においては、雅友の間で金銭を介したモノのやり取りを嫌う傾向がある。そのあたりの感覚というのは、王朝時代の士大夫は違うものを持っていたと考えなくてはならない。
(大意)「丁敬先生に篆刻をしていただきたいのですが、凍石である必要はありません。青田石、あるいは峰門石の何かであれば充分です。いま送っていただいた峰門の旧石五個は、値段がとてもやすく、また角柱に形が整えられ品格が有ります。(それでも)値段を一両でご相談したいのですが、ご意向はいかがでしょうか?“集古録”は、必要な人には一部五銭でおゆずりします。この本はいっときとても入手し難いものでした。随分と値段が安くなっています。必要ありませんか?」
四通目。
「像賛古雅莫匹、今之人無此筆也。陰雨連夕、輒念友生、想同心者亦念我也。来日雨霽、得歩屐過我劇潭、更所顒望」
「像賛」は肖像画に金農が書いた賛文であろう。この場合の「像」は「仏画」であることも考えられるが、後の文脈から察するに、金農の知友の誰かの肖像画であろう。金農の自画像であるとも考えられる。畫の画き手が誰であるか、この手紙だけでは判断できないが、少なくとも賛文は金農自身の手によるものだろう。それを「古雅莫匹、今之人無此筆也」と言っている。すなわちその賛文の書の古い雅味は匹敵するものがなく、今の人で之だけの書き手はいないだろう、と自賛しているのである。
先の「潜山尋墓詩冊」のところでも少し触れたが、金農にはこうした物言いを好んでしたようだ。通常、封建時代の人々というのは、ともかく卑屈なほどの謙遜をするものである。そいうことが習慣として身についていないと、生きていられない社会なのである。特に士大夫の子弟は、謙譲の姿勢を徹底的に叩き込まれる。“礼“の教育というのは、とどのつまりは相手を立て、自らを卑下する姿勢を身につけることと言って良いかもしれない。将来、科挙に及第し宮廷にあがろうものなら、この謙譲を身につけていなければ、複雑な宮廷政治の世界を泳ぎきることは出来ないのである。そこへもって、金農の天真爛漫までの自画自賛は、”怪”の“怪”たる所以であろう。しかしそこには、嫌味というものがなかったに違いない。
つづいて「陰雨連夕」とある。陰々とした雨が降り続き、友人との往来もままならない日々が想像される。そこへ「輒(すなわ)ち友生を念じる。」とある。「友生(ゆうせい)」はすなわち朋友のこと、友のことを思わずにはおれず、また「想同心者亦念我也」と、「同心者」つまりは心を通わせた間柄の友であれば、「念我也」つまりは自分のことを思ってくれているだろう、そうであってほしいと言っているのである。
「来日雨霽」とあるが「霽(さい)」は雨があがること。さらに「得歩屐過我劇潭」とあるが、「歩屐」は木製の靴、下駄。「劇潭(げきたん)」は劇流の潭(ふち)であるが、つまりは雨が止んだら靴をはき、雨で増水した劇流をわたって、「更所顒望」ということである。「顒」は「仰望」すなわち仰ぎ見ることであるが、お会いすることが出来るでしょう、というところである。
どうもこのあたり、揚州における人士の交際にあって、金農が中心人物になった理由が伺えそうなところである。金農を慕って人が集まってくる一方で、金農自身もともかく社交を好んだようだ。そもそも、一人でいるのはあまり好きではなかったのだろう。方密庵に対する手紙にも、あたかも恋人を待つかのような渇望が現れている。
(大意)「肖像画の賛文の古雅なことは並ぶものがなく、今の人でこれだけの書を書ける人はいないでしょう。陰々として連日雨が降り続いていますが、私は友人の身の上が案じられてなりません。心を同じくするものは、また私のことを思ってくれているでしょう。雨が上がる日がきたなら、下駄を履いて増水した流れを渡り、お会いすることができるでしょう。」
五通目。
「午后肩輿恭詣送行、閽人辞以公出、未獲良晤。画扇四把、付閽人。徽州麻酥糖并蜜棗、是珂里方物、秋冬間大駕倘来、乞帯数斤、以慰老饞当作筆墨奉答也」
「閽人(こんじん)」は、門番のことである。当時の都市はすべて城壁で囲まれており、城内への入出は時間帯が決まっていた。また治安のために、人の出入りは厳しく監視されていたのである。「良晤」は楽しい集い。それが「未獲」というのは、出発しなければならなくなり、最後に送別の宴をはって楽しく過ごすことが出来ませんでした、という方密庵から金農へ宛てた伝言であろう。「画扇四把、付閽人」というのも、方密庵が画扇を門番に預け、金農がそれを受け取ったということである。この手紙は方密庵が(おそらくは)揚州を去った後、方密庵に向けて書かれた手紙であろう。方密庵は旅の途上か、故郷の徽州でこの手紙に接したと考えられる。
「徽州麻酥糖」とあるが、“酥(そ)”は胡麻や松の実、落花生などを粉にし、砂糖や小麦粉と合わせて固めたお菓子である。日本にもある落雁に近いが、固くなく崩れるような脆さがある。「麻酥」は胡麻の“酥”ということになる。現在の徽州でも“徽墨酥(きぼくそ)”と呼ばれる、黒胡麻を使った真っ黒な“酥“がある。また蘇州の” 酥“も有名で、呉昌碩はこれを好んだ。「蜜棗」は干して砂糖漬けにしたなつめの実で、これも現在の徽州でもお土産物屋でよく目にするものである。かなり甘い。
「珂里」の「珂(か)」は、馬の鞍につける飾りであるが、「珂里(かり)」はすなわち相手の故郷にたいする敬称。「珂里方物」ということで、麻酥や蜜棗が徽州の名物である、といっている。
また「秋冬間大駕倘来」とあるが、「大駕」はつまりは大きな“駕籠(かご)“あるいは” 車駕(しゃが:馬車)“ということであるが、相手に来てもらうことの丁寧な表現で「お越しいただく」というほどの意味になる。つまり秋から冬にかけて、また揚州を訪れるのでしたら、というところ。「乞帯数斤」ということだから、揚州再訪の際には、徽州特産の麻酥や蜜棗を数斤欲しいということだろう。「老饞」の「饞」は、むさぼることでるが、「食欲」ということになるか。金農もなかなかの甘いもの好きであったようだ。そして「作筆墨奉答也」と、自分の書画でもってお礼をいたします、ということである。
「数斤」というと、1斤500gとして数kgの重さになるが、そもそも方密庵は交易のために徽州の物産をもって揚州をたびたび訪れていたと考えられる。徽州から揚州への往来も、多くは水路が用いられる。他の物資の輸送のついでに、数斤の菓子を持ってくることぐらいは造作もなかったであろう。
(大意)「午後に私は輿に乗り、あなたが出発するのをお見送りに行こうとしました。ところが門番には、あなたがすでに門を出て出発してしまい、会見する機会を得られなかったことを告げられました。画扇を四本、この門番に預けていただきましたね。徽州の胡麻を固めたお菓子と蜜棗は、あなたの故郷の特産品ですが、秋冬間にもしお越しいただくことがあれば、数斤ばかり持ってきていただけないですか。老いた身の食欲を慰めたいばかりです。私の書画を持って御礼をいたします。」
五通ばかりの手紙であったが、ともかく金農と方密庵との、親しい関係がみてとれる内容である。この方密庵には「開天容」「古隃麋(こゆび)」あるいは「冬心先生造・五百斤油」という墨の作例が知られている。同じ墨銘の墨は汪節庵も製している。
“五百斤油“という墨銘は明代の墨譜には見られない名称であり、”紫玉光”と同様、清朝に入って創案された墨であるといえる。
清墨談叢に掲載されている汪節庵の「乾隆丙午年造・五百斤油」の書体は金農の漆書を思わせるものである。
金農自身が徽州で製墨に親しんだ、ということを裏付ける資料は見つかっていない。おそらくは金農が方密庵に依頼するか、あるいは方密庵が金農のために作った墨であろう。
方密庵は他に「開天容」という墨が著名であるが、これは明代末期、方于魯と親しかった潘方凱が創案した墨である。方于魯と汪節庵の出身地は近接しており、方密庵も歙県にあってどちらかといえば西溪南寄りの地域の出身だったのではないだろうか。
金農の書作を見る限りでは、ともかく漆黒の濃墨をふんだんに使用していることがわかる。「冬心先生題画記」で金農が自ら述べているように、南唐〜宋代の墨を使って書かれていたのかどうかは、今となっては確かめるすべはない。しかし身近に、精良な紙や墨を供給してくれる人物の存在が不可欠であり、方密庵がそのひとりであったことは充分考えられることである。
著名な方密庵の「古隃麋(こゆび)は、唐代の官製の墨を模した墨である。金農が「題画記」で述べているような、考えられないほど古い時代の墨も、実のところは方密庵の製した墨を使用しながら、諧謔を交えてそう記したのかもしれない。
方密庵は、金石学や隷書、八分書の研究で名高い人物であったが、もちろん学問研究で生計が立てられるわけではない。また墨匠として名を残している方密庵であるが、この手紙からも明らかなように、その扱う品物は墨だけではなく、紙、筆、硯などの文房四寶に加え、印材や扇面、拓本や書籍など、文房でもちいられる諸具にわたっていたと考えられる。文房四寶の産地である徽州と、その消費地である揚州を往来し、商品を流通させていたのだろう。また金農からの手紙にあるように、交際する書画家から品物の対価として書画の作品を受け取り、それを流通させることもあったのかもしれない。この点などは、明代に文房四寶を扱った徽州商人である方用彬を彷彿とさせるものがある。
方用彬がそうであったように、方密庵もやはりある程度の資本力を持った裕福な商人であったと考えられる。高級な墨を製するためには、やはりそれなりの資本が必要である。この方密庵の存在が金農の書画や金石学の研究において、きわめて重要な役割を果たしていたことは想像に難くない。墨を初めとする文房四寶の供給にとどまらず、金農の書画の批評や金石学の研究、より積極的には金農の作品の流通などにも関わったことだろう。
揚州八怪の核心人物とされる金農と、徽州の名墨匠である方密庵との、頻繁にして親密な交際がうかがえるところである。また書画家と墨匠の交友の様相は、北宋の蘇軾と潘谷のそれを想起させる。なにより“揚州八怪サロン”の形成が、揚州に進出した徽州文化の影響のもとに成立したこと、その端的な現れといえるだろう。
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