黛玉と李商隱

紅樓夢の「第三十八回」に、黛玉が李商隱の詩に言及する箇所がある。

秋になり大観園中の池の蓮(ハス)が枯れ、使用人たちはこれをみな引き抜いてしまっていた。この情景を見た黛玉が「我最不喜歡李義山的詩、只喜他這一句‘留得殘荷聽雨聲’,偏你們又不留著殘荷了」と言っている。つまり「私は李義山(李商隱)の詩が一番嫌いなのですが、ただ彼の”残荷を留めて雨聲を聴く”という一句は好きですわ。それなのにあなた方ときたら、枯れたハスをまったく残していないとは。」と言っているのである。

これは李義山こと李商隱の「宿駱氏亭寄懐崔雍崔袞」における

秋陰不散霜飛晩
留得枯荷聽雨聲

という詩の句である。すなわち枯れたハスの葉に雨がおちて、おそらくはポタポタと乾いた音を立てているのを聴く、という侘しい情景である。

黛玉はここで「李義山の詩は最も好みませんけど」と、わざわざ断った上でその詩に触れている。しかし、黛玉の言葉を言葉通りに受け取ってしまうと、紅樓夢に登場する彼女の詩歌や、紅樓夢の世界観を理解しにくくなるかもしれない。黛玉と李商隱、さらには紅樓夢と李商隱との関係については、大陸に多くの研究がある。全部に目を通したわけではないものの、別段ここで述べるのは目新しい見解でも何でもない。今の日本では唐詩は流行らないし、まして李商隱の詩は教科書にも出てこない。加えて紅樓夢を読む人が多くないという事を踏まえて、簡単に触れておこうかという次第。
 

晩唐における詩の大家、李商隱についてはここでくだくだしく述べるまでもないだろう。また物語中の黛玉の詩歌を詠めば、李商隱への深い傾倒がうかがえるのである。さらに紅樓夢の情景演出においても、李商隱の詩に頻出するさまざまなモチーフが繰り返し現れる。おそらくは黛玉だけではなく、紅樓夢の作者自身も李商隱を愛誦していたのではないだろうか。

そもそも紅樓夢の「紅樓」は、李商隱の「春雨」にある、「紅樓隔雨相望冷(紅樓、雨を隔てて相い望めば冷ややかなり)」から採られているといわれる。
「紅樓」は朱塗りの建物の事であるが、厳しい身分制度の時代、建物を朱塗りにできたのは寺院や官舎でなければ上流階級に限られている。なので「紅樓」はもともと「紅樓夢」の舞台である、大邸宅を表す語なのである。李商隱に限らず、さまざまな詩詞に使われるが、李商隱の「春雨」の一句に使われている「紅樓」こそが、「紅樓夢」の主題に沿った「紅樓」と言われている。付け加えれば「夢」というのも李商隱の詩に頻出する。夢にもいろいろあるだろうが、唐詩の世界で「夢」といえば、屈原の弟子の宋玉の「高唐賦」において楚の懐王が巫山の仙女との逢瀬を夢に見た、とうたって以来、多く男女の逢瀬を暗示するのである。
 

大観園の少年少女の詩人達の中で、いうなれば黛玉の作風は李商隱そのものである、といえば言い過ぎだろうか。紅樓夢をより深く読み味わおうと思えば、李商隱について理解を深めることは無駄ではないように思われる。
しかし李商隱の詩と紅樓夢中の黛玉の詩を比較して、その共通点を探る、というのはいささか専門的に過ぎるので、その道の人に任せよう。たとえば黛玉の「秋窗風雨夕」などの詩詞に現れる「黄昏」「夢」「涙」「蝋燭」「水時計」「雨」「風」といったモチーフは、李商隱も好んで繰り返し用いているところである、と言うにとどめたい。
 

それとは別に、第四十二回のエピソードには、黛玉の作詩感覚が現れている。第四十回における詩の競作の際に、黛玉が元代の戯曲集「西廂記」と、明代の戯曲「牡丹亭」の中の語彙をうっかり詩中に使ってしまう。これを宝釵にたしなめられる場面がある。黛玉は第二十三回で宝玉と「西廂記」を読んで、すっかりハマってしまっていたのである。
ちなみに「西廂」の「廂」は部屋のことで、すなわち女性の部屋を暗示する。女性の部屋は西の方角にあったからなのであるが、同じ意味で「西窗(まど)」も女性の部屋を暗示する。「西廂記」は今風に言えば自由恋愛をうたった戯曲なのであり、牡丹亭もまた然りである。当然のことながら、封建社会においてはキチンとしたオウチの子女が読むべきものではないとされた。
物語中で宝玉が「四書五経以外は本じゃない!」との叫んだように、科挙の必修科目である四書五経ないしその注釈、解説書、あるいは史書以外は、正当な知識人の教養の範囲外なのである。もっとも、宝玉がそう叫んだのは「四書五経なんて焼き捨ててしまいたい。」という、逆の心情の表れなのであるが。宝玉に限らず、また当時の知識人にしても、芝居や戯曲には熱中していたに違いない。黛玉の詩に”ピン”ときた宝釵も実は読んでいる、ということでもある。........日本でも明治の昔、「小説なんか読んでいたら不良になる」と言われた時代があった。私小説などは、隠れて読むものだったのである。漱石などは、子供の目に触れるところには置いておけなかった..........歴とした家の子女が、戯曲など読みふけるものではないとされていたのである。そういうわけで、自分の詩にそうした本の語彙を使うというのは、宝釵にしてみれば、黛玉の女性としての評価に傷がつく事も心配したものかもしれない。またそういう文学から詩句を引用するなどは、もっての外、というわけだ。
 

こうした事は紅樓夢の物語世界に限った話ではなく、作詩論においても、古典からの引用、すなわち典故についてはやかましく言う向きがある。いわゆる”正統的”な唐詩の作詩論においては、たとえば故事をモチーフにする場合でも、史記や漢書など、古代から評価の定まった詩賦や書籍に現れるような事柄に限るべき、という考え方があった。つまり、出典が定かではないような伝承や説話集の類、あるいは戯曲の創作的な場面を典故とするのは慎むべき、ということになる........
 

話はそれるが、日本におけるいわゆる”漢詩”の作詩論は、ほとんどそういった”正統的”な作詩論の範疇を、伝統的に出ていないようなところがある。極端に言えば、典故どころか、古代の詩でよく使われている詩句のみを使って詩を作るべし、というような主張も見受けられる。なので日本における漢詩の作詩法というと、季節ごとの詩語をパズルのように組み合わせて、それでも押韻平仄だけは合うように並べるだけ、というような事が解説されている本が、実のところ昔から多いものである。もちろんそれは、いわゆる”漢語”を母語としていない人が、”漢語”そのものをマスターしないままに”漢詩”の体裁をした作詩を行えるようになるための、ひとつの方法ではあっただろう。しかし、それでは作詩そのものが面白いはずがない。かつて盛んだった漢詩の作詩が、俳句や和歌ほどに現代では行われていないのは、ひとつは型にはまりすぎた作詩法にあるのではないかというのが、最近考えていることである。
また昔から知られた典拠、典故を用いるべし、というこの論も、少々の問題は指摘できる。たとえば先に述べた宋玉の賦にうたわれている、楚の懐王の夢の中での神女との邂逅にしたところで、おおもとは伝承伝説の類には違いないからである。宋玉が楚の地方伝承や民謡をモチーフとしたかもしれないといっても、宋玉の「高唐賦」がそれをもって貶められることはない。さらにいえば、杜牧や蘇軾がうたうところの「赤壁の戦い」などの三国志世界は、ほとんど「演義」すなわち史実が戯曲化された世界を典故としている........古典化していたらそれでいい、という事なのかもしれないが、線引きはむろん厳密なものにはなりえない。あやふやな典拠、典故から引けば引くほど「格調」が損なわれるといったような価値観があったのであろう。
 

それはさておき話を戻せば、黛玉が戯曲であっても妙句であれば作詩に取り込んだように、晩唐において、典故・典拠に関する”約束”をほとんど無視して作詩に耽ったのが李商隱なのである。李商隱の作詩においては、典拠・典故の確からしさに関するところはかなり自由なのである。晩唐の当時流行していたかもしれないが、現在はまったく喪われたような小説類にも典故を求めている形跡が多々ある。これは出典を調べる後世の研究者を悩ませることになるのであるが、それが李商隱を晩唐、いや唐代の詩人の中でも際立った存在にしているともいえるだろう。

いわゆる”名の通った”書籍や作品に「典故を求めよ」というのは、あくまで同時代人から見て”昔”の、という、いわば時間軸上の話になる。しかしそれを時代時代で厳格に守りすぎると、詩詞の世界に広がりも生まれないことになる。やはりどこかで李商隱のような、わりと近い時代の説話や伝承の類に典故を求めるような詩人が現れることも必要といえるだろう。李商隱の時代には手に取ることができた書籍の多くも、後に亡失してしまって今に伝わっていないことが、李商隱の詩を一層難解にしているにしても、である。李商隱からすれば、後世の人が理解できるかどうか?という事は、あまり念頭におかず、純粋に詩的表現を追求したのかもしれない。その点、明快さをもとめた白居易などとは対照的である。
 

黛玉は「西廂記」や「牡丹亭」に典故を求めたわけではないが、戯曲であっても良い語句であれば取り込む事を躊躇しないところなど、やはりどこか李商隱を思わせるところがある。詩のモチーフばかりではなく、作風からみても、黛玉は李商隱的、と考えたくなるのである。また李商隱がそうであるように、文学性という意味においては宝釵等の価値観よりも、際立って現代的である。

さて、ハスがすっかり抜かれてしまった池に落胆した黛玉である。自分が好きな詩の情景に出会うのは、詩を愛好する者にとって大きな楽しみなのである。それを奪われた黛玉に「李義山は一番嫌い」と言わせているのは、やはり黛玉の李商隱の傾倒ぶりを表す場面である、とはいえるだろう。
 

落款印01

陸游「折墨」詩

陸游は一万首もの詩を遺しましたが、それは中年以降に編纂した文集に収録されている分だけで、実際はもっとたくさん作っていたかもしれません。85歳と、当時としては長命であったことも理由ですが、それにしても多い。
また陸游は宋代の士大夫の常であるところの、文房四寶への造詣も非常に深かったようです。陸游の文集には、文房四寶にまつわる詩や硯銘などが豊富にみることができます。それは「重簾不卷留香久、古硯微凹聚墨多」に限らない、というわけです。

その中から「折墨」という、文字通り「折れた墨」を詠った、五言古詩の体裁の詩を読んでみたいと思います。

「折墨」

鸞膠擣松煙
成此金石姿
雖以剛故折
挺特終不移
微功在簡冊
敢惜身蹈危
雖非破硯文
永世亦有辭

鸞膠(らんこう)松煙(しょうえん)を擣(つ)き
此(こ)の金石(きんせき)の姿と成る
剛(ごう)を以て、故折(こせつ)すると雖(いえど)も
挺特(ていじ)して終(つい)に移(うつ)らず
微功(びこう)も簡冊(かんさつ)に在らば
敢(あえ)て身(み)の蹈危(とうき)するを惜しまんや
硯文(けんもん)を破(やぶれ)るに非(あら)ざるといえども
永世(えいせい)亦(ま)た辭(じ)有(あ)らん

簡単に用いられている語について考えてみます。
まず「鸞膠」とありますが、漢代の東方朔(が書いたといわれている)「海內十洲記.鳳麟洲」には”西海中有鳳麟洲、多仙家、煮鳳喙麟角合煎作膏、能續弓弩已斷之弦、名續弦膠、亦稱鸞膠”とあります。大意を示せば、『西海には鳳麟洲という島があり、仙人の家が多い。(そこでは)鳳(おおとり)の喙(くちばし)を煮て麟角(麒麟の角)と合せて煎じて膏薬を作る。能續弦がきれてしまった弓や石弓をよくつなぐため、名を”續弦膠(ぞくげんこう)、または”鸞膠(らんこう)という』。
むろん、想像上の膠です。
これを「松烟」と混ぜて、墨をつくるのですね。金石は現代では一般に青銅器のことを指す語ですが、非常に硬い物体、という意味もあります。また青銅器に限らず、古代の古器に文字が刻まれたもの、という意味もあります。墨は硬く、また型入れをして墨銘が入っているものが多いですから、”金石”という語であらわしていると読めます。
「故折」は折れる、という意味。挺特(ていじ)は、群にぬきんでて優れていること。漢の班固の「為第五倫薦謝夷吾表」に“英姿挺特,奇偉秀出”とあります。
「蹈危(とうき)」は身を危険にさらすこと。硯文はすなわち「硯紋」で、硯の紋様のことですが、ここでは単に「硯」と読んでみます。「有辞」は「怨言(うらみごと)」あるいは「正言相告(真意をつたえる)」の意味がありますが、ここでは後者でしょう。

(大意)

強力な青鸞(せいらん)から採った膠と松煙(しょうえん)を擣(つ)き合わせ
このとても硬い墨になった。
とても硬いので、折れてしまったのだけれども
飛びぬけて優れた墨だったので、最後まで崩れてしまうということがなかった。
微(わずか)な功績であっても、簡冊(かんさつ)に文字として残るのだから
あえてその身(み)を(磨る事で)破断の危険にさらすことも惜しむものではない。
墨は硯をすり減らしてしまうものではなく、墨の方が磨ってなくなってしまうのであるが、(それでも墨によって)永久にすぐれた文章が残るものである。

ところで「鸞膠」には暗喩するところの意味があり、「(琴の)弦を継ぐ」という意味があります。そこから転じて、妻を喪った男性が継室(後妻)を迎える、ということを指す語になりました。
「琴瑟(きんしつ)」という語があります。「琴」と「瑟」はともに弦楽器ですが、同時に演奏されよく音が調和することから夫婦の意味で用いられます。また「断弦」という語があり、これは(瑟も弦がありますが)とくに琴の弦が切れることを言います。すなわち、妻が先立つことを暗示します。
つまり「弦」を「継(つな)ぐ」ということは、継室を迎えることを意味するわけです。”鸞膠”は「弦をつなぐことができる強力な膠(接着剤)」ということですから、”鸞膠”という語は暗に後妻を迎える、という意味でつかわれるようになりました。
五代から宋代初期にかけての人物、劉兼「秋夕書懷呈戎州郎中」という詩に“鸞膠處處難尋覓、斷盡相思寸寸腸”という句があります。大意をしめせば”鸞膠はどこへいっても探し求めることは難しい。相思の念がことごとく断たれて、腸をずたずたに切り裂いてしまう”というところでしょうか。
青鸞(せいらん)は鳳凰と同じく想像上の神鳥で、すなわち”鸞膠”もまた伝説上の接着剤です。現実には入手することはできません。おそらくもともとは亡妻を生き返らせる、つまりは不可能を可能にする、くらいの意味があったと考えられます。ゆえに「鸞膠」は後妻を迎えて安穏とするのではなく、劉兼の詩のように、妻を喪って悲嘆する気持ちを表わす語だったと考えられます。

陸游があえて「鸞膠」をこの詩に持ってきた理由は、やはり自身をこの「折れた墨」と重ね合わせる意味を含ませていると考えられます。先立たれた妻は、やはり暗に唐琬を指すでしょう。もっとも陸游は唐琬に先立れたわけではなく、別れさせられた後に後妻を迎えているのですが、その喪失感は死別にちかいか、それ以上のものがあったのかもしれません。唐琬は陸游より先にこの世を去るのですが、その後の陸游の唐琬の偲び方というのは、亡妻を偲ぶ心情そのものです。
この「鸞膠」の一語で「折墨」を陸游自身の事を詠っていると読むと、その意味するところが明瞭になります。「松煙」は「墨」そのものを指しますので、鸞膠と松烟をつき混ぜるという事は、唐琬を喪った悲しみを文墨によって紛らわせる、という意味に読めます。

以上を踏まえて、さらに大意を考えてみると、

愛妻と引き裂かれた悲しみを筆墨の世界に紛らわせているうちに、私の精神はとても強靭で優れたものになった。
しかしあまりに強すぎて凡人には理解されず、またも(官界で)挫折を味わうのだけれども、とびぬけて優れた詩文の能力によって、まったく埋没してしまうことはなかった。
私が書くちょっとした詩や文章であっても、結局は書物としてこの世にのこるのであるから、書きたいことを書いて非難中傷されることだって恐れるものではない。
私が詩文を作ってもそれで世間が動くわけではなく、かえって私の身がすり減ってしまうのだろうけれど、それでも私の精神が生み出す、すぐれた詩が後世にのこるのだ。

というところでしょうか。

「釵頭鳳」の紹介で、陸游のことを「女々しい」と思ってしまう人が多いのではないかと思って、豊富にある文房四寶にかかわる詩から何か紹介しようと考えたのですが、解釈をつくっているうちに、やはり唐琬の事が出てきてしまいました。
「松煙」にあわせるなら、「鹿角膠」や、いや伝説で行くなら麒麟の角の膠でもいいわけです。文房四寶の語彙の世界ならそうなります。「鸞膠」はやや異様なのですね。ここであえて「断弦」を暗示する「鸞膠」をもってくるあたりは、考えてあげなければならないところですね。
1万首近い詩を遺したというのは、歴代の大詩人の中でもやはり尋常なことではなく、やはり何か精神上に強い衝撃をうけたことが理由にあると考えられます。陸游の場合は政治生活での挫折も大きいのですが、詩人としての創作の動機においては、やはり唐琬の存在が大きかったのかもしれません。
落款印01

陸游「釵頭鳳」雑考

黛玉や史湘雲に「重簾不卷留香久、古硯微凹聚墨多」を批評された陸游ですが、やはり南宋前期を代表する大詩人です。
また陸游と唐琬の悲劇的な「釵頭鳳」の故事は良く知られ、古くからさまざまに戯作化されて、現代でも演じられています。通俗的に理解されている陸游と唐琬の物語は、だいたい以下の通りです。

”................陸游には幼いころから一緒に育った、唐琬という表妹(いとこ)がいました。唐琬の母親はすなわち陸游の母親の嫂(あによめ)でした。二十歳の時に、陸游は唐琬をめとります。二人はとても仲が良かったのですが、母親はなぜか嫁が気に入りません。一説では、陸游の母親が実家にいた頃、唐琬の母親、すなわち嫂と折り合いが悪かったとか。あるいは占い師が唐琬を中傷したことが影響しているなど、いろいろな憶測があります。
そして結婚から一年後、とうとう唐琬は陸游の家を出されてしまいます。唐琬は完全に離縁されたのではなく、別居を命じられたようなのですが、その後も二人は密会を重ねていました。しかし陸游の母親に察知され、とうとう二十三歳の時に陸游は王氏という後妻と結婚させられます。そして陸游は科挙の受験勉強に励むのでした。
その後、唐琬の実家の唐家も陸家の仕打ちに憤り、唐琬を趙士程という著名な読書人のもとへ嫁がせます。趙氏は南宋皇室の親類でもあります。この趙士程はなかなかの人物で、唐琬に同情して丁重に扱います。また彼は陸游の文友でもありました。
唐琬と別れた後に猛勉強に励んだ陸游は、29歳の時に科挙に合格します。しかし試験結果が秦檜の孫の秦塤の上に出で、これが秦檜の怒りに触れたといわれます。これがもとで官界では出世せず、任用されたのは秦檜の死後、三年の後でした。いかにも奸臣秦檜らしいやり口のように見えますが、実際には陸游が熱烈な主戦論者で、秦檜の金との和平策に反していた、という事が大きいといわれます。陸游と秦塤は後々まで友人として交際しています。
陸游は31歳の春に、紹興の沈園という庭園で、偶然唐琬に再会します。二人っきりでばったり出会ったのではなく、互いに誰かを連れて花見の外出でもしていたのでしょう。この時唐琬は、陸游が好きだった料理に酒を添えて送ってよこしました。
これに深く感じ入った陸游は、”釵頭鳳”という形式の詩歌をつくって唐琬に贈ります。唐琬もまた”釵頭鳳”を返し、これに唱和しました。その後ほどなくして唐琬はこの世を去りました。後年、陸游は何度も沈園を訪れ、詩をつくり、晩年に至るまで唐琬を偲びます................”

以上が陸游と唐琬の”釵頭鳳”の故事のあらまし。”釵頭鳳”というのは、六十文字からなる一種の詩歌の形式で、劇中で歌われる詩歌でした。しかし単に”釵頭鳳”というと、陸游と唐琬の”釵頭鳳”を指すほど、二人の釵頭鳳が有名です。
ただ、この陸游と唐琬の物語は、劇作にもなっているだけに、後世の創作がかなり入り込んでいるようです。
陸游の”釵頭鳳”は陸游の”渭南文集”に収録されていますが、唐琬に宛ててつくられたものかどうかについては、序文も何も記されていないので明確にはわかりません。一説には蜀の妓女に宛てて作られた詩であるともいわれます。また唐琬の返歌は”全宋詞”に収録されていますが、これも後世の偽作であるといわれています........そう考えてゆくとロマンも何もあったものではないですね。そこで史料を少し漁ってみましょう。

南宋の陳鵠という人が書いた「耆舊續聞」の卷十には、

”余弱冠客會稽、遊許氏園、見壁間有陸放翁題詞云「紅酥手黄藤酒滿城春色宫墻?東風惡歡情薄一懐愁恨幾年離索錯錯錯春如舊人空瘦淚痕紅裛鮫綃透桃花落?池閣山盟雖在錦書難托莫莫莫」、筆勢飄逸、書於沈氏園。辛未(1151)三月題。放翁先室內琴瑟甚和、然不當母夫人意、因出之。夫婦之情、實不忍離。後適南班士名某、家有園館之勝。務觀一日至園中、去婦聞之、遣遺黄封酒果饌、通殷勤。公感其情、為賦此詞。其婦見而和之、有“世情薄、人情惡”之句、惜不得其全闋。未幾、怏怏而卒。聞者為之愴然。此園後更許氏。淳熙間、其壁猶存、好事者以竹木來護之。今不復有矣。”

とあります。大意を記せば、

”私は若いころに會稽(かいけい。現紹興)に旅をし、許氏の園に遊んだ。壁をみると陸放翁の題詞があったのだが、筆勢(ひっせい)は飄逸(ひょういつ)「....(陸游の釵頭鳳は略)........沈氏の園に書す辛未(1151)三月題」とあった。陸放翁とそのはじめの妻は”琴と瑟のごとく”仲が良かったが、陸放翁の母親の意にそまず、家を出されてしまった。夫婦の情としては実に離れるに忍びがたかったという。後に(婦人は)南班(皇室の眷属)の士である某に嫁がされたが、その家には美しい庭院があった。あるとき務觀(陸游の字)はその園を訪れたが、婦人はこれを聞き、人に命じて黄封酒(政府から下賜される酒)と酒肴を贈り、慇懃(挨拶)を通じたのである。陸放翁はその婦人の情に感じ、詩賦をつくったのである。婦人はこれを見て和し、“世情薄、人情悪”の句だけはわかっているのだけれど、惜むらくは其の全てはわからない。その後しばらくたたないうちに、(婦人は)不満のうちに亡くなったそうである。この話を聞いた者は、みな心を痛めたという。この園は後に許氏のものとなった。淳熙間(1174年 - 1189年)、その壁はなお残っており、好事者は竹や木で(囲いをつくって)これを保護していた。今はもうない。”

陳鵠という人物の生卒年はわかりませんが、陸游の題した壁を許氏の園で観た、と述べています。ということはこの文にあるように、南宋の淳熙年間(1174年 - 1189年)、に青年時代を過ごした人物なのでしょう。その題詞について”筆勢飄逸”とありますが、陸游は筆法家としても著名ですね。陸游は1125年から1210年まで、85年間も生きた人物ですが、陳鵠は陸游の孫のような世代にあたるのかもしれません。
この内容に拠れば、陸游と唐琬の故事は、当時からよく知られた話であったことがわかります。また沈園で偶然再会したのではなく、自宅に陸游が来ていることを知った唐琬が酒と料理を運ばせた、ということになっています。

また劉克莊という南宋後半の1187年から1269年にかけて生きた著名な詩人の「後村詩話續集・卷二」には、

”放翁少時,二親教督甚嚴。初婚某氏,伉儷相得。二親恐其惰於學也,數譴婦。放翁不敢逆尊者意,與婦決。某氏改事某官,與陸氏有中外。一日通家於沈園,坐間目成而已。翁得年甚高、晩有二絕云’腸斷城頭畫角哀、(略)……’、’夢斷香銷四十年(略)……”

”陸放翁は若いころ、両親から非常に厳格に教育監督された。はじめは某氏をめとったが、夫婦仲は非常によかった。両親は陸游が学問を怠けるのをおそれて、たびたび婦人を譴責したのである。陸游はあえて親の意志に逆らわず、ついに婦人と別れてしまった。婦人はその後別の官吏に嫁ぎ、陸游とは完全に離れ離れになってしまった。(陸游は)ある日沈園で家族同士の交際の場で、宴席の中に婦人を目にしたのだが、見にしただけで何も言わなかった。陸放翁はとても長生きをしたが、晩年になって絶句を二首をつくり(想いを遺した)”

劉克莊も、やはり陸游の孫の世代にあたる人物といえるでしょう。しかし劉克莊の記述では、陸游と唐琬の”釵頭鳳”の応酬には何も触れられていません。しかし晩年に至っても、陸游が唐琬を偲んでいたことを述べています。

四庫全書にも収録されている、南宋末期から元代初期に生きた周密の「齊東野語」の巻一には

”陸務觀初娶唐氏、閎之女也、於其母夫人為姑侄。伉儷相得而弗獲於其姑、既出而未忍絕之、則為別館時時往焉。姑知而掩之、雖先知挈去、然事不得隱、竟絕之、亦人倫之變也。唐後改適同郡宗子士程。嘗以春日出遊、相遇於禹跡寺南之沈氏園。唐以語趙、遣致酒肴。翁悵然久之、為賦「釵頭鳳」一詞、題園壁間。實紹興乙亥歲也”

”陸務觀(陸游の字)の最初の妻は唐氏、閎之の娘であった。陸游の母親の姑侄(めい)にあたる。夫婦はとても仲がよかったが姑にうとまれ、家を出されてしまった。しかし、断絶するに忍びず、すなわち別の家で時々密会していた。陸游の母親はこれを知って陸游の行き来を遮った。陸游はそれを知って駆け落ちしようとしたが、事を秘密裏に運ぶことができず、ついに関係が断たれたのである。これもまた”人倫の変”というべきであろう。唐氏は後に同郡にすむ南宋宗室の(趙)士程に嫁いだ。ある春の日に外出した時、たまたまふたりは禹跡寺の南、沈氏の園で再開した。唐氏は(夫の)趙氏に語り、酒肴を運ばせた。陸放翁は長い事ふかく感じ入り、”釵頭鳳”一詞を作り、園の壁に題した。に紹興乙亥(1155)の年であった。”

「齊東野語」では陸游がこの後三度にわたって沈園を訪れ、過去を偲ぶ絶句を遺したことを述べていますが、長くなるので引用はここまでとします。

文中の「姑侄」はすなわち姪(めい)のことですから、陸游と唐琬は従兄妹ということになっています。しかし最近の考証では、唐琬の父親の唐閎之と陸游の母親は、同姓というだけで親戚関係になかったという説があります。確かに近しい親戚関係であれば、このようなことをすれば非常な禍根をのこします。母親といえど、親戚の娘との良好な夫婦関係を引き裂くことは実際のところ難しい話で、たとえ子供ができなくても妾を入れるなりして、正妻の座から追うようなことはしないでしょう。唐琬は陸游の表妹ではなかったという説は、説得力があります。ただし当時の慣習として、陸游の母親と同姓であれば、あえて姪のような扱いにした、ということは考えられます。
周密は1232年から1298年にかけて生きた人物ですから、先の陳鵠のさらに孫の世代、というあたりでしょう。このころには二人は沈園で偶然再会していることになっています。当然と言えば当然ですが、唐琬は夫の趙氏と一緒です。ここでは趙氏に断りをいれてから陸游に酒肴を運ばせたことになっています。
また陸游はこのとき”釵頭鳳”を作ったと述べられています。しかしその出来事は1155年で、陳鵠が若いころに見た題詞に記されていた1151年とは時間にズレが生じています。
........とはいえ、歴史的事実はともかくとして、”文学的事実”としては、陸游の釵頭鳳には唐琬の返歌があった、ということで良いのかもしれません。そこには”人はこうありたい”という、後世の人々の願いがあるのでしょう。
また二人の故事がどうであれ、少なくとも陸游が唐琬のことを忘れられなかったのは事実のようです。齊東野語によれば、陸游は晩年にいたるまで繰り返し沈園を訪れ、唐琬との思い出を詩に詠んでいます。それらの詩については、また別の機会に述べたいと思います。

「釵頭鳳」を紹介しているところも少なくないようですが、この釵頭鳳を巡っていろいろな解釈があります。とくに唐琬からの返歌の意図については幅があります。私なりの解釈を以下に示してみます。

陸游の釵頭鳳

紅酥手、黄縢(藤)酒。
滿城春色宮牆柳。東風惡、歡情薄。
一懷愁緒、幾年離索。錯、錯、錯。
春如舊、人空瘦。
淚痕紅浥鮫綃透。桃花落、閑池閣。
山盟雖在、錦書難托。莫、莫、莫。

(大意)
あなたが送ってくれたのは、宮廷で供される紅酥手と、官吏に下賜される黃縢酒。本来は科挙に合格した喜びを、あなたと祝いたかったものだけど。今日の紹興は街中春の気配に満ちて、宮廷の柳もそよいでいることでしょう。でも花を吹き散らす春一番の風が吹いて、この喜びもつかのまでしょう。それはまるであなたと共に暮らした、あの美しくも短かい日々のようですね。わたしは胸を愁いで満たしながら、この何年もの間、離れ離れになってしまった孤独感に沈んでいました。錯、錯、錯。
春は昔の通りの春なのに、わたしはあなたを想い続けて虚しく痩せ衰えてしまいました。あなたの涙が頬紅を流して、お菓子に添えてくれたハンカチにしみとおっていますね。桃の花はもう落ちてしまい、この庭園の池や楼閣もどこか物寂しい。かわらぬ誓いの気持ちはまだあなたの心にあるといっても、あなたからわたしに手紙を送るのは、やはり難しい事なのでしょうね。莫、莫、莫。

”紅酥手”の”紅酥”は”赤味のさしたなよなよとした”という意味で、”紅酥手”は”ほっそりとした女性の手”とも読めます。しかし”紅酥手”は宋代において宮廷で供された点心(お菓子)の一種でもあります。”酥”は”もろい”という意味で、今で言うクッキーなどの焼き菓子、ないし練粉菓子です。”紅酥手”は、小さな手の形をした赤い色の点心、ということでもあります。
また黄藤酒は、黄蝋酒ともいい、黄色い蝋箋で封をされた酒です。”藤”とあるのは、あるいは”藤紙”で蝋箋を製したことによるのかもしれません。紹興は藤(フジ)を原料にした、藤紙の産地でもありました。この黄蝋酒は、毎年春節になると宋代の官吏に朝廷から下賜されました。
俗説では、唐琬は新婚のころに陸游が好きだった手料理を運ばせた、ということになっています。さすがにそれは行き過ぎでしょう。史料にも「黄封酒」とあるのですから、”紅酥手”も、それに応じた点心、と解釈するのが自然ではないでしょうか。
また「紅酥手」をかつての唐琬のほっそりした手、と詠んで、その手がお酒を注いでくれた昔を想起している、という読みも多いのですが、それはせいぜいウラの文脈ですね。当時の陸游は科挙に合格して間もない頃ですから、それを祝して表敬した、というのが適切であるように思われます。
「東風惡」は、かつての陸游の母親の仕打ち、と解釈するのが定説になっています。これにしたがえば、眼前の春の光景を詠いながら、過去の追憶を重ねている、という意味に読めます。
また二段目の「人空瘦」は、「耆舊續聞」に拠れば陸游は唐琬の姿をみていないのですから、陸游自身の衰えた姿、と私は解釈しています。互いの姿を見ていない方が、詩歌を通じた気持ちのやり取りが引き立つように思えます。
また”錦書”は、多くは妻女から夫に宛てて書かれる手紙のことです。時に夫から妻子へ、という場合にも使われます。しかしここでは唐琬から陸游へ、という意味で解釈しました。なぜなら唐琬の返歌では、手紙を書きたいと思ったけれど、出来なかった旨が詠われているからです。
陸游から手紙を送るくらいはなんでもなかったでしょう。この釵頭鳳と一緒に、お菓子を持ってきた女中に手紙を渡しているかもしれない。「錦書難托」と言っているのは、やはり陸游から唐琬へ手紙を送るのが「難」ではなく、唐琬から陸游へ私信を送るのが「難(なのだろうね)」とよめるところです。
唐琬は酒と点心を贈ってくれたが、陸游としては唐琬からの手紙が添えられていないのが残念だったのかもしれない。添えられていたハンカチに涙の痕をみとめて、わずかに唐琬の心情を忖度するしかない、というように解釈しています。
また”錯、錯、錯”と”莫、莫、莫”は無理に訳さないで、そのままでもいいのではないかと思います。ただ”錯、錯、錯”は、”錯誤”ではなくて、”錯乱”に近い意味にとったほうが詩の主旨に沿うと思われます。
対する唐琬からの返歌は、

世情薄、人情惡。
雨送黃昏花易落。曉風乾、淚痕殘。
欲箋心事、獨語斜闌。難、難、難。
人成各、今非昨。
病魂常似鞦韆索。角聲寒、夜闌珊。
怕人尋問、咽淚裝歡。瞞、瞞、瞞。

(大意)
世間の人情は軽薄で、人の心は思いのままにならないものです。昨日の黄昏(たそがれ)時に春の雨がしとしとと降ったので、(桃の)花はたちまち散り落ちてしまいました。歳月はこのように循環して移ろいゆくもの。過ぎ去った日々を思い出して嘆くのは、ほどほどになさってくださいね。明け方は晴れて風が乾いていたので、目覚めの涙の痕がハンカチに残ってしまっただけなのです。心のうちを手紙に寄せて差し上げたいとは思いましたが、他家に嫁いだ私は欄干にもたれて独り言をつぶやくことしかできません。難、難、難。
あなたとわたしはそれぞれの道をたどり、今は昔とは違うのです。私を想い続けてくれる、あなたの迷う心は鞦韆(ぶらんこ)の紐(ひも)のように、ゆらゆらと同じところをゆれるばかりで、定まるところがありませんね。でも今はまだ、金と戦って中原を回復する悲願があるのですから、しっかりなさってください。この紹興の街にも、警戒を告げる角笛の音はなお寒々と響いて、夜は出歩く人も少なく物寂しい。見回りに不審に思われるといけないので、淚をこらえて楽しそうに装ってくださいね。瞞、瞞、瞞。

唐琬からの返歌ですが、「耆舊續聞」に残っている”世情薄、人情惡”は、”東風惡、歡情薄”と対になります。
唐琬の返歌は後世の偽作と言う説もあります。しかし少なくとも詩歌を返した事、そこに”世情薄、人情惡”の句があったことは信じて良いのかもしれません。
一段目は、陸游の釵頭鳳に対する”返事”になっています。ここで唐琬は、ハンカチの涙の痕の言い訳をしたうえで、手紙を書くことができない、とうたっています。
二段目に「病魂」と「鞦韆索」があります。この”病魂”を唐琬自身の事とする解釈もあるのですが、そうしてしまうと前の「人成各、今非昨」で、「ひとはそれぞれ、今は昔と違う」という、やや決然とした述べ方と矛盾しているようです。ここは解釈に幅ができるところですが、唐琬自身のことではなく、未だに迷妄さめやらぬ陸游の心情、というように解釈した方が正しいように思えます。ゆえに「鞦韆(ブランコ)」のヒモのようにユラユラと揺れ続ける心情も、陸游の心情、というように読めます。
唐突に”角聲”、すなわち角笛の音色が出てきますが、「角聲寒」の一語でこの詩の調子をがらりと変えています。「角聲」は古典的な詩語としては、特に軍隊で使われる角笛の音を指します。「角聲(かくせい)寒し」は、北方の辺境で異民族と戦う最前線の街の描写です。それまで”江南の春”を詠んでいたのに「角聲(かくせい)寒し」で、ピリッとした空気に変わります。「角笛」自体は繁華な都会でも使われますが、「角聲寒」といったら、凄涼とした砂漠の厳しい光景が想起されます。ここで「角聲」という語が出てくるのは、いままで春の情景を詠っていた文脈と合わないようにも思えます。
しかし当時は南宋と金が1140年に講和してから10年は経過しているころですが、依然として金と戦って中原を回復しようという声が高く、陸游は父親の代からの抗金論者です。紹興も大都会とはいえ対金の前線近くの都市であり、完全に夜間の警戒を解くには至っていなかったでしょう。「角聲」はこれを象徴していると考えられます。
この「角聲」を「角笛の音」とサラリと解釈する向きもありますが、繁華な大都会の春景色に「角笛」はやはり少し異様です。金と激戦を繰り広げた南宋前期という時代性を考えれば、この語は無視できないところです。唐琬としてはいつまでも私の事を未練がましく思っていないで、男なら仕事に専念してください、というところかもしれません。
そして”夜闌珊”の”闌珊”は、まさに衰える事、物寂しい事が原義です。金との和平を進めた秦檜は、抗金論者に対して厳しい監視を敷いていました。秦檜の死去は1155年で、陸游が官界で登用されるのは秦檜の死後三年後でした。陸游もまた、時の政権から警戒される人物でした。また夜の街も、警戒で物寂しかったことでしょう。陸游は親譲りの対金主戦論者ですから、それを知っている唐琬は”私への迷妄にとらわれず、油断ならない時ですから、しっかりなさってください”と励ましているというように解釈しています。
最後の「怕人尋問、咽淚裝歡」、すなわち”人に不審に問われるといけないから、涙を咽(の)んで歓びを装う”は、陸游に向けた言葉ともとれますし、あるいは唐琬自身がそうする、という意味にも解釈出来ます。ただし陸游の釵頭鳳では「歡情薄」と詠んでいます。とすれば「裝歡(歓楽びを装う)」は陸游がするべきことですね。やはり「泣いているに違いない陸游」へ向けていると読みたいところですが、唐琬と陸游がともに「裝歡」とも読めます。こういった箇所を唐琬と陸游のどちらに傾斜して読むかによって、唐琬の釵頭鳳における心情の解釈に幅ができてしまっているようです。
ただ、さらに言えば、陸游は壁に自分の釵頭鳳を書き付け、唐琬はそれに返しています。当然、人が読むことを想定して作られます。「涙をこらえて喜んでいるフリをする」と解釈すると、今の生活に余程不満があるかのようで、さすがに夫や世間がそれをどう思うか?というところです。
唐琬の釵頭鳳が偽作であったとしても、やはり南宋時代の人物が作ったと考えられますから、その時代性は考慮したいところです。

前述のように、唐琬の釵頭鳳は、詩句が暗示する心情が唐琬自身のことを指すのか、陸游の事を指すのか、あるいは互いの事を指すのか、解釈に幅ができる余地があります。すべて唐琬の心情を指すと解釈すれば、陸游と同じく”情痴”に惑う女性の姿が現れますし、陸游の心情に傾いて解釈すれば、やや毅然とした態度をそこに読み取ることになります。
個人的には「人成各、今非昨」や「角聲寒」などの”ピリッ”とした語にみられるように、唐琬の方がより現実を見ている、あるいは強いてそういう態度をしているように感じます。それはそれとして、まったく過去を葬り去ってしまったとか、陸游の想いに同情する部分が無いわけではないでしょう。
唐琬は、いつまでも子供みたいな陸游をなだめつつ、道理をさとすような内容を返しているように読めます。ハンカチも「暁の風」が乾かした、つまりは今泣いたのではないのですよ、と言い訳している。とはいえ、陸游の想いを完全に断ち切るわけでもない。「手紙は書きたかったけれど、出来なかった」とあるように、意味深な言い方をしています。それは今でも自分を想い続けて心が千路に乱れている陸游を可哀想に思ったのか、あるいはやはり唐琬の心のどこかにやはり秘めた想いがあったのか。あるいははその両方でしょうか。

陸游は未練たっぷり、10年たっても前妻が忘れられずにここで惑い続けています。陸游の釵頭鳳は、そんな陸游の(ほとんど)迷妄に満ちた言葉にあふれています。対して唐琬はどうだったのでしょうか。これは現代でもそうかもしれませんが、一般に女性の方が”割り切り”が上手で、過去の感情の整理をうまくつけてしまえるもの、と言われています(個人差はあるでしょうけれど)。唐琬の返歌を巡っては、もう唐琬は他家で幸福に暮らしているのだから、陸游の迷妄に満ちた釵頭鳳を送られては迷惑だ、というように解釈する向きもあります...........ただそこまで言われては、陸游の立つ瀬がありませんね。

唐琬が今の夫に断りを入れてから、陸游に官吏に下賜される黄藤酒と点心を送ったのは、常識で考えれば、官界にのぼった陸游への敬意をあらわしていると考えられるわけです。しかしそこに(陸游の勘違いでなければ)”涙の痕”の残ったハンカチを添えていたのだとすれば、やはり唐琬の方にも微妙な心理がうかがえるところです。
ただそのことが、陸游にさらなる迷いを生じさせてしまう。罪作りといえばそうかもしれないですが、それを許せないというのはあまりに鉄面皮。陸游は唐琬の行いを、最大限好意的に解釈しています。しかも陸游は”釵頭鳳”を壁に書き付けてしまうのですから大胆、というより唐琬の事情はまるで無視しているかのようです。後年、自由奔放にふるまって自ら「放翁」と号した、陸游らしい所業といえますが、その壁を保存しておく者達がいたというのも、いかにも好事な行いです。(ただ、題詞自体は、庭園の持ち主が変わって以後、別の誰かが書いた可能性が高いと思われます)

現存する唐琬の釵頭鳳は、冒頭の「世情薄、人情惡」を除いてはすべて後世の創作かもしれない。とはいえ冒頭を除いて偽作であったとしても、「耆舊續聞」に述べられているように、実際に唐琬からの返歌はあったと考えていいのでしょう。しかし陸游は自分の詩文集にそれを記録していません。あるいは「耆舊續聞」が記している「世情薄、人情惡」以下、実際の唐琬の釵頭鳳は、現存する釵頭鳳よりもさらに深刻な想いが詠われていた可能性もあります。「世情薄、人情惡」はかなり痛烈な表現ですね。内容はともかくも、陸游は唐琬からの返歌を詠んでいるのですから、晩年にいたるまでの陸游の想いというのも、あながちとばかりは言い切れない。

すぐれた詩人というのは決して夢想家ではなく、現実のとらえ方が普通の人よりも深刻な人こそがなれるものです。陸游が唐琬のちょっとした行いからその心情をさまざまに忖度してしまうというのは、いわば詩人の性(さが)というべきところでしょうか。第三者的にみれば「たぶん、そういう意味ではないよ」と言われそうなところであっても、これが確かめえない事実に対する、陸游なりの認識であるわけです。

史料に拠る限りでは、唐琬の方が陸游よりも大人の対応をしているわけですが、むろん唐琬の方にも抑制した強い感情があったのかもしれません........少なくとも陸游はそう信じたかったでしょう。ただそれをさらに確かめる事も出来ないまま、唐琬はこの世を去ってしまいます。伝承にある通り、鬱屈がたまってこの世を去ったのか。沈園で釵頭鳳が詠まれたのが陸游31歳の時ですから、唐琬はそのとき30歳近い年齢でしょう。30歳前後で女性が死去するのは、当時としては珍しくなかったことですから、やはり真相は闇の中です..........ともあれ、唐琬への想いが晩年にいたるまで続くのですから、陸游はやはり常人とは違うわけです。

いや、この場合「想いが続く」ということが、彼の詩の定番化した主題、という見方も出来ます。それは李白が友情を、李商隱が恋愛を、蘇軾が兄弟愛を、主題としてたびたび詩を詠んだのと同じく「生涯の追憶」をテーマとした詩作の追求であるとも考えることが出来ます。
また考えなくてはならないのは、陸游は科挙にトップクラスで合格し、一万首以上の詩を遺し、南宋を代表する大詩人になる人物、ということでしょう。感受性が強いだけに受けた心の傷も深く、記憶力が良い分だけ昔の悲哀を忘れ去ることができない。皮肉なことに、それが同時に詩人としての素質でもあるのです。感傷の深さにおいても、想念が長く長く続くことにおいても、現代の一般的な男性の基準はあてはめて考えるにはあたらないですね。
陸游を世間並の”未練がましい男”で片づけてしまったら、南宋時代の詩文の世界には入れない、というところでしょうか。

落款印01

黛玉と”凸凹”

紅楼夢の第四十八回に、香菱が南宋の詩人、陸游の詩をひいて関心し、黛玉にたしなめられる場面があります。すなわち

香菱笑道「我只愛陸放翁的詩、”重簾不卷留香久、古硯微凹聚墨多”、說的真有趣」黛玉道「斷不可學這樣的詩。你們因不知詩、所以見了這淺近的就愛、一入了這個格局、再學不出來的」。
香菱は笑って「私は陸放翁の詩が好きですわ”重簾(ちょうれん)卷かず香を留めて久しく、古硯(こけん)微(わず)かに凹(くぼ)んで墨を聚(あつ)めること多し”というところなんて、本当に趣がありますね」黛玉が言うには「断じてそのような詩を学んではいけないのです。あなたがたは詩をよくはしらないものだから、そんな浅薄な詩をよんですぐに好きになってしまうのですよ。一度そのような”格局”に入り込むと、いくら勉強しても、ものになりませんよ」

黛玉は陸游の詩の「格局」がよくないといっているようです。格局というのは、モノの配置、構造のことです。文学の場合は文学形式、といううことになるでしょうか。詩の場合は”格式”とでも言いましょうか。
この後黛玉は香菱に詩の学習法を伝授するのですが、まずは唐代の王維から始まり、李白、杜甫を学びなさいと指導しています。たしかに詩の初心者が詩を学ぶのに、南宋の詩人から入るというのは、当時の詩の学習法の常識としては外れているかもしれません。唐代の詩をはじめに学ぶという事は、書道で言えば歐陽詢や虞世南といった、唐代の楷書から勉強に入るようなものでしょう。書道の初心者が、蘇軾や黄庭堅から入る、というのは確かにあまり聞かない話です。
ただここでは黛玉は陸游の詩のこの対句を批判しています。しかし、それほど悪い対句でしょうか?個人的には、磨墨で硯面が磨滅してわずかに凹(くぼ)み、磨った墨がそこにあつまって墨香が漂っているという、いかにも文雅な情景が想起される好句だと思います。「格局」を「格律」、つまり平仄押韻が整っているかどうか?ということだと解釈しても良いですが、
陸游のこの句の場合、○を平音、●を仄音、◎を多音として、
重簾不卷留香久
◎○◎◎◎○●
古硯微凹聚墨多
●●○○●●○

それほど悪いようには見えません。そもそも唐代の詩は「格律」にはそれほど厳格ではないですから、南宋の陸游のこの句も十分許容範囲ですね。

紅楼夢の作者は、陸游の詩もかなり気に入っていたようなフシがあります。宝玉付きの女中の筆頭である花襲人は、花珍珠というのが本名ですが、宝玉が陸游の「花氣襲人知驟暖:花氣(かき)、人を襲いて驟(にわか)に暖(あたたか)きを知る」という句からとって「襲人」と呼び名を改めさせています。
この陸游の詩を黛玉が否定した理由については諸説あるのですが、ひとつには「凹」という字が俗字であり、黛玉はこの点を嫌った、という見解もあります。
しかし黛玉は三十八回では蟹を詠んだ詩で”蟹封嫩玉雙雙滿、殼凸紅脂塊塊香”という句を作り、凹ならぬ凸を使っています。凹はダメで凸は良い、ということはないでしょう。もっともこの詩は即興でつくってあまり出来が良くないと思ったのか、すぐに破り棄ててしまいます。しかしとっさとはいえ、普段から気に入らないような字は使わないでしょう。
また紅楼夢の舞台の大観園中にはなんと”凸碧山荘”と”凹晶溪館”という、一対の建物があります。また黛玉は史湘雲と妙玉と一緒に”右中秋夜大観園即景联句三十五韻 ”という、大観園を主題にした聯句をつくるのですが、その中で史湘雲と黛玉は”寒塘渡鹤影、 冷月葬花魂”という対句をつくります。前の”寒塘渡鹤影”は史湘雲、後ろの”冷月葬花魂”は黛玉が作っています。これは大観園中の”凸碧山荘”と”凹晶溪館”を暗に対にして詠んだ句なのですが、すなわち間接的に”凸”と”凹”を対にしているわけです。
史湘雲は、詩の実力においては、宝釵、妙玉にならぶ黛玉の好敵手なのですが、この凹と凸を対にした句を作ってしまったことを気にします。

「只陸放翁用了一個‘凹’字、說‘古硯微凹聚墨多’、還有人批他俗、豈不可笑。」
陸放翁(陸游)は一個の”凹”字をつかって”古硯微凹聚墨多”という句をつくったために、彼を俗だという人がいますわ。笑い事ではありません。

と史湘雲。しかし黛玉が言うには、

“也不只是放翁才用、古人中用者太多。如江淹《青苔賦》、東方朔《神異經》、以至《畫記》上雲張僧繇畫一乘寺的故事、不可勝舉”。只是今人不知、誤作俗字用了。
それはなにも放翁(陸游)に限ったことではないわ。古人の中にはこの字を使う人は多かったのです。江淹『青苔賦』や、東方朔の『神異經』、『畫記』の”上雲張僧繇畫一乗寺的”の故事など、数え上げたらきりがないわ。ただ今の人はそれを知らないで、間違って俗字を使ってしまったといっているだけなのよ。

と、凸も凹も使用するにやぶさかでないと論じています。(それにしても黛玉の学識の深いこと!)ともかく、黛玉が陸游の詩を批判したのは、「凹」が理由ではなさそうです。ではどうして黛玉は陸游のこの両句を批判したのでしょうか?”千里の伏線”を敷くことが好きな紅楼夢の作者ですが、四十八回の後、七十六回で史湘雲にふたたび陸游のこの”古硯微凹聚墨多”を例にとって”凸凹”の問題を投げかけています。
四十八回では、黛玉は詩の勉強を始める前の香菱をたしなめたのであって、初心者が”凸凹”を使った詩句に感心するものではない、という意味かもしれません。普通に考えるとそうでしょう。どうも、作者は”凸凹”に何か特別なこだわりがあるようにも思えます。

とはいえ陸游の著名な詩句に対して「浅近(浅薄)」というのは、やや言い過ぎのようにも思えます。しかし黛玉が香菱に勧めたのは、唐代、それも盛唐以前の詩人の詩を読むことで、これらの詩に比べると陸游の詩も「浅近」のそしりは免れないのかもしれません。

ただし、陸游に関していえば、ひとつ思い当たる点があります。
陸游は二十歳の時に唐琬という、表妹(いとこ)をめとります。唐琬もゆたかな詩才に恵まれた才媛で、二人は小さいころから一緒に詩を作りながら大きくなった間柄でした。しかしなぜか陸游の母親は嫁を気に入らない。結婚の翌年、遂に唐琬は陸游の家を出されてしまいます。2年後に陸游は後妻をめとらされ、唐琬も別の士大夫に嫁がされてしまいます.....後年、二人はとある庭園で偶然再会します。互いに「釵頭鳳」という形式の詩歌を贈り合い、変わらぬ心を確かめ合うのですが、その後まもなくして唐琬は亡くなります。

この陸游と唐琬の故事は宝玉と黛玉のその後の運命と似ています。宝玉と黛玉は結局は宝玉の母親の王氏の意向が影響して、結ばれずに終わります。黛玉はあるいは陸游のこの故事を暗に避けたのかもしれません。

紅楼夢で二回も”古硯微凹聚墨多”という陸游の詩が出てくるのは、何か理由があると思うのですが、76回の黛玉と史湘雲の”凸凹論争”で語られているように、理由は”凹”の字にあることは間違いなさそうです。しかも大観園に”凸碧山荘”と”凹晶溪館”という建物まで作るという、舞台装置の凝りようですから、あるいは喪われた80回以降に何か理由が分かる箇所があったのかもしれません。
ともあれ”凸凹”の詩への使用をも敢えて辞さないあたり、詩人としての黛玉の性格が表れているとも考えられます。黛玉は周囲からは偏狭な性格とみられていますが、世人の言う事になびくことを潔しとしないところがあり、物語中で黛玉が作るの詩にはそれがよく表れています。通論や封建的な価値観をあまり顧慮しない、体は弱くとも精神は毅然としています...........ともあれ、文房四寶の愛好家としては陸游の”古硯微凹聚墨多”はやはり良しとしたいところです。陸游にはほかにも”活眼硯凹宜墨色、長毫甌小聚茶香”という句も作っており、ここでも硯との関連で”凹”をつかっています。”活眼硯”というのは端溪有眼硯のことでしょう。やはり硯の愛好家としては捨てがたいものがあります。作詩も入門編が終われば、陸游の詩も楽しんでいいのではないかと思います。
落款印01

秋窗風雨夕

雨が続いていますね。雨のせいかだいぶん涼しいようです。雨が降り続くのは日本では梅雨の時期か秋雨ですが、大陸ではどちらかというと秋に重点が置かれているように思えます。北海道に梅雨が無いように、大陸でも華北では梅雨が無いせいかもしれません。秋でなくても、雨がシトシトと降り続く様子を「まるで秋のよう」とたとえることがあります。蘇軾の黄州寒食詩には「今年又苦雨、両月秋蕭瑟」とあり、春に長雨が続くことを「秋のようだ」とたとえています。

「雨」といえば、「紅楼夢」の物語中に、黛玉が秋の夜雨に詠んだ「秋窗風雨夕」という美しい歌があります。先に宝玉の「紅豆歌」をご紹介しましたが、ちょうど対を為す美しくも悲しい歌です。「秋」ということで今の季節には合わないですが、ちょうど雨の時期ということと、岩波の「紅楼夢」には書き下しのみで、この歌を紹介しているところもあまり見当たらないことから、ここで簡単に触れておこうと思います。

※この「秋窗風雨夕」は、中国国営放送で制作された「紅楼夢」でも、曲がつけられて挿入歌としてうたわれました。「秋窗風雨夕」で検索すれば映像を視聴することができるでしょう。

秋花慘淡秋草黃 耿耿秋燈秋夜長
已覺秋窗秋不盡 那堪風雨助淒涼
助秋風雨來何速 驚破秋窗秋夢?
抱得秋情不忍眠 自向秋屏移淚燭
淚燭搖搖爇短檠 牽愁照恨動離情
誰家秋院無風入 何處秋窗無雨聲
羅衾不奈秋風力 殘漏聲催秋雨急
連宵脈脈復颼颼 燈前似伴離人泣
寒煙小院轉蕭條 疏竹虛窗時滴瀝
不知風雨幾時休 已教淚灑窗紗濕

秋花(しゅうか)慘淡(さんたん)秋草(しゅうそう)黃(き)ばみ、耿耿(こうこう)たる秋燈(しゅうとう)秋夜(しゅうや)長(な)がし。

已(すで)に覚(おぼ)ゆる秋窓(しゅうそう)に秋(あき)盡(つ)きざるを、那(な)んぞ堪(た)えん)風雨(ふうう)淒涼(せいりょう)を助(たす)くるを。

秋(しゅうふう)を助くるに風雨(あめ)來(き)たること何(な)んぞ速(はや)き、秋窓(しゅうそう)を驚破(きょうは)して秋夢(しゅうむ)緑(みどり)。

抱(いだ)き得(え)ん秋情(しゅうじょう)眠(ねむ)るに忍びず、自(おのず)から秋屏(しゅうへい)に向かいて淚燭(るいしょく)を移す。

淚燭(るいしょく)揺揺(ようよう)として短檠(たんけい)爇(も)え、牽愁(うれ)いを牽(ひ)き恨(うら)みを照らして離情(りじょう)を動かす

誰が家の秋院(しゅういん)か風入るなからん、何処(いづこ)の秋窓(しゅうそう)か雨聲(うせい)なからん。

羅衾(らきん)いかんせん秋風(しゅうふう)の力、殘漏(ざんろう)の聲(こえ)は秋雨(しゅうう)催(うなが)すこと急(きゅう)。

宵(よい)を連ねて脈脈(ばくばく)復(ま)た颼颼(そうそう)、燈前(とうぜん)、離人(りじん)を伴いて泣(な)くに似る。

寒煙(かんえん)の小院(しょういん)転(うた)た蕭條(しょうじょう)、疏竹(そちく)の虛窓(きょそう)は時に滴瀝(てきれき)たり。

知らず風雨(ふうう)幾(い)く時(とき)に休(や)むを、已(すで)に淚(なみだ)を窓紗(そうしゃ)に灑(そそ)いで濕(ぬ)らしむ。

古来、女性が男性を想ってひとり部屋で涙を流す閨愁、閨怨の詩なり歌なりというのは多いものです。ただし「閨愁」というのは、ひとつの古典的な詩の主題であって、かならずしも特定の相手、特定の状況を詠んでいるとは限りません。意味からすれば女性が詠むべき詩のテーマですが、男性の詩人も多くこの主題の詩を作っています。

「秋」の詩語が多用されている点に目が行きますが、この「秋窗風雨夕」のポイントは、黛玉の詩らしく「涙」にあります。「涙」が別のものにたとえられて、ふたつ、詠みこまれています。すなわち「泪燭」と「雨」がそれです。
「泪燭」は、ろうそくの蝋が涙の跡のように流れている様子からそう呼ばれますが、これは黛玉自身の涙です。いまひとつが「雨」ですが、「離人」とありますから、黛玉にとっての「離人(はなればなれの人)」、すなわちこれはどこかで泣いている(に違いない)宝玉の涙です。蝋燭はいづれ燃え尽きますが、雨は降り続きます。すなわち蝋燭はいずれは燃え尽きてしまうものですから、自分のはかない命への予感もここに込められています。涙を流すことによって尽きてしまう蝋燭は黛玉であり、いつまでも降り続くかのような秋の雨が宝玉の涙をあらわします。黛玉がこの世を去った後も、宝玉は黛玉を想って涙を流し続けることの暗喩です。

「誰家秋院無風入、何処秋窓無雨声」という両句がありますが、すなわちどこの家、どこの窓辺も風が吹き、雨が降っている。それなら自分と同じ感性を持ったあの人(宝玉)も同じ事を考えているに違いない、自分を想って泣いているに違いない、ということです。そして「連宵脈脈復颼颼、灯前似伴離人泣」として、雨音と蝋燭の灯りしかない部屋では、まるで二人が一緒に泣いているようだ、と詠っています。これは灯が映し出した黛玉の影をもう一人の人物、すなわち宝玉に見立てています。李白が月と自分と、月光に映し出された自分の影を含めて「三人」と詠ったように、影もひとりに数えます。

「秋窗風雨夕」は、眠れない秋の夜の情緒をうたっています。「残漏(水時計)」や「紗窗(薄絹を張った窗)」また窓辺の「風雨」といった道具立てから、第二十八回の宝玉がうたった「紅豆歌」をふまえて詠んでいるに違いなく、黛玉が宝玉を想って詠んだ歌であることは明らかです。「紅豆歌」もはからずも宝玉と黛玉の悲しい未来を暗示していますが、この「秋窗風雨夕」も同様の運命が詠われています。作中でも「別離に代えて」、黛玉が作った歌とされています。
物語中では、黛玉がこの「秋窗風雨夕」をつくり終えたところで、秋雨をついて宝玉が黛玉の見舞いに現れます。黛玉は宝玉に「秋窗風雨夕」を読まれて、あわてて破り棄ててしまいますが、宝玉はすっかり暗記してしまいます。二人ともこの時は意識していませんが、黛玉の「破り捨てる」という行為が宝玉の「暗誦」によって無効になること、これも歌の通りに未来が進行するという暗示でしょう。

ちなみに永井荷風の「濹東綺譚」では、この「秋窗風雨夕」を引いて
『わたくしは年々秋風秋雨に襲われた後の庭を見るたびたび紅楼夢の中にある秋窓風雨夕と題された一篇の古詩を思い起す。 
  
秋花惨淡秋草黄。
耿耿秋燈秋夜長。
已賞秋窓秋不尽。
那堪風雨助凄涼。
助秋風雨来何速。
驚破秋窓秋夢緑。

そして、わたくしは毎年同じように、とても出来ぬとは知りながら、何とかうまく翻訳して見たいと思い煩うのである。』

とあります。永井荷風はどの写本を読んでいたのでしょうか、「已覚」が「已賞」になっています。「覚」と「賞」の誤植でしょうか。しかし「賞する」では「秋の景色を観賞する」となって、合わないような気がします。
ともあれ文豪をして小説中で翻訳を「とても出来ぬ」といわしめた「秋窗風雨夕」ですが、おこがましくも以下に大意を示します。

(大意)

秋の花々は無残に散ってしまい、庭の草も黄色く枯れてしまった。灯心のほのかな灯りが揺れると、その絶えなんとして尽きぬ様子が、長い秋の夜をさらに長々しいものに感じさせる。

窓の外は見渡す限りどこまでもすっかりと秋の景色だというのに、そのうえ冷たい雨風(あめかぜ)がもの寂しさをいや増すのを、ひとりわたしはどうやって耐え忍んだらよいのでしょう。

それにしてもこの秋の雨風がやってくるのが、今年はどうしてこんなに早いのでしょう。毎年この季節には体が思わしくなくなりますが、今年に限って早いのは、先がもう長くないのかもしれない。窓の傍に置かれたベッドに伏せて、幼いころのわたしとあなたの事をうたた夢に見ていたというのに、雨と風の音に目を覚ましてしまいました。

一度目が覚めてしまうと、秋の夜更けがもよおす感傷的な気持ちを抱いたまま、再び眠りにつくことができなくなってしまう。寂しげな窓の方は見るに堪えないので、燭台を移してぼんやりと屏風でも眺めるよりない。

短い燭台の上のろうそくは涙のように蝋が垂れ、炎が揺らめきながら灯心が燃えている。それは頬を涙で濡らしながら、傷心に心が揺らめく、そしていずれは命が燃え尽きてしまうであろう、わたしの姿を見ているよう。これにいっそう秋の夜のもの寂しさと、離れたところにいるあの人を想う気持ちをかきたてられてしまう。

でも、誰の家の庭院であっても秋風は入り込むものだし、どこの部屋の窓の外でも雨音がしているもの。だから別のところに住んでいるあの人もわたしと同じように、この秋の雨夜(あまよ)の感傷に浸っていることでしょう。またわたしを想って涙を流しているに違いないでしょう。

この薄い絹の掛布団では、とても冷たい秋風をしのぐことはできない。それなのに、(無情にも)残漏(ざんろう:水時計)が時を告げる音にせきたてられるように、雨はやむ気配なく降りつのっています。

一晩中降りしきる雨は、離れたところであなたが泣いていることを思わせるし、この今のわたしの姿のような燭台の灯りを伴えば、あかりに照らされた私の影も泣いている。それはまるであなたとわたしが一緒に泣いているよう。

ひっそりとしたこの庭院は秋の雨霧に包まれていっそううら侘(わび)しく、窓の外のまばらな竹からは絶えず雨のしずくがしたたり落ちている。

雨はいつやむともしれないように、(いつかわたしを喪ってからも、)愁いに沈むあなたの涙は尽きることがないのでしょうか。雨か涙か、窓に張られた薄絹はもうすっかりとぬれてしまっている。

落款印01

"紅豆"の由来は?

”紅豆”という筆がある。狼毫を兎毫でまいた兼毫筆で、副毛(そえげ)の兎毫を赤く染めている。民国時代の魯迅先生が執筆活動に愛用したといわれる「金不換(きんぷかん)」という筆も、やはり副毛の兎毫を赤くそめており、構造的には”紅豆”と同じである。
狼毫を芯とし、兎毫を副毛とした筆には”蟹爪(かいそう)”という筆がある。一説にはこのような形状の兼毫筆を北方では”紅豆”、南方では”蟹爪”と呼んだといわれている。
この”紅豆”であるが、似たような筆をさかのぼって探すと、静嘉堂の蔵品「唐筆一式」に「京毫水筆」という名の筆が見られる。筆鋒のサイズはかなり異なるが、基本的に狼毫とみられる芯を、兎毫で巻いていると思しき構造である。また同様の形状で副毛を紅く染めている筆に「水筆」がある。魯迅先生愛用の「金不換」も、もとは「本京水」という名称であった。また「京水」という名の同様の兼毫筆も散見される。おそらくこれらの筆が現代の「紅豆」の原型になったのではないかと考えている。また筆鋒を赤く染めた筆は、北方に限らなかったとも考えられる。
静嘉堂の「京毫水筆」の「京」は「首都」という意味であるから、明代半ばより、北京を指すことがわかる。「水筆」は、墨液に浸したまま用いる筆記用の筆。今風日本風にいえば”東京ボールペン”くらいの意味になるが、わざわざ”京”としたのは何故だろう?

これは小生の推測の域を出ないが、やはり科挙の受験と関係があると考えている。以前にも述べたかもしれないが、紅(くれない)は、「朱閣」というように、王朝時代の官庁舎を象徴する色である。あるいは首都で行われる科挙の上級試験である「京試」ないし、宮廷での最終試験である「殿試」への合格を記念した意味があったのではないだろうか。現代風にいえば「合格鉛筆」のようなものである。またそういった筆を日常使用することで、科挙の受験勉強における、精神的な支えとしたのかもしれない。

ところで科挙は(受験したことなど無いが)端正な楷書体で答案を筆記しなくてはならない。答案作成の過程で筆鋒の調子が変化すると少し厄介である。書をされる方なら皆ご存じのことであるが、一般の純羊毫ないし純狼毫筆は、捌(さば)いてから墨液に浸し、時間が経過するほど毛が柔らかくなる。この調子の変化は、小楷や写経などをしているときには顕著に影響する。しかし水筆はもともと墨に浸しっぱなしで使うことを前提にしている筆なので、使用中に大きな弾性の変化が起こりにくいのである。

それはさておき「紅豆」であるが、昔から「紅豆」という名称が存在したのだろうか。「紅豆」に対して「緑豆」があり、これは日本でいうところの小豆と同じように使える豆であるから、紅豆はさしずめアズキのことだろうと思うと間違いである。
手元に実物が無いが、真紅に近い色をした、レンズ豆のような形状をした豆である。漢方薬としても用いられるが、古くから男女の相思相愛を祈念する豆として、また婚礼の儀式などにも用いられてきた。詩にも時折詠われるのだが、古くは韓愈(かんゆ)に


紅豆生南國
春來發幾枝
願君多采撷
此物最相思


という詩がある。「紅豆は南国に生じ、春来(きた)れば幾枝か発(ひら)く。願わくば君、多く采(つ)み撷(と)れ、此の物は最も相い思わす。」ということになる。内容はわかりやすいだろう。
他にもいろいろ紅豆にちなむ詩があるのだが、紅樓夢の第二十八回に、宝玉が琵琶にあわせて即興で詠った「紅豆歌(詞)」もよく知られている。


滴不盡相思血淚拋紅豆
開不完春柳春花滿畫樓
睡不穩紗窗風雨黃昏後
忘不了新愁與舊愁
咽不下玉粒金蒓噎滿喉
照不見菱花鏡裏形容痩
展不開的眉頭
挨不明的更漏
呀恰便似遮不住的青山隱隱
流不斷的?水悠悠


一応書き下すと、


滴(したたり)て尽(つき)ず、相思(そうし)の血淚(けつるい)は、紅豆(こうとう)を抛(なげう)つ(如く)
開(ひら)き完(おえ)ぬ春柳(しゅんりゅう)と春花(しゅんか)は畫樓(がろう)に滿ちたり
睡(ねむ)りて穩(おだやか)ならず紗窗(しゃそう)風雨(ふうう)黃昏(こうこん)の後(あと)
忘(わする)れ了(はて)ぬ新愁(しんしゅう)與(と)舊愁(きゅうしゅう)と
玉粒(ぎょくりゅう)咽(のど)を下らず、金蒓(きんじゅん)噎(む)せて喉(のど)に滿(み)つ
照(てら)せども見えず菱花(りょうか)の鏡裏(きょうり)に形容(けいよう)痩(や)せ
眉頭(びとう)は展(の)べても開(ひら)くまじき。
更漏(こうろう)は挨(ひら)いて明(あ)けじ。
呀(ああ)恰(あたか)も便(すなわ)ち似(に)たり、遮られて住(とどまら)ぬ青山(せいざん)の隱隱(いんいん)たるに、(また)?水(りょくすい)の悠悠(ゆうゆう)、流(なが)れて斷えずに。


しかしこの歌が登場するのはまだ第二十八回目で、八十回を数える物語のまだ前半である。紅樓夢では未来を暗示する詩を早くから登場人物に詠ませているが、これは宝玉と黛玉の悲劇的な運命がうたわれている。まさに黛玉を喪った後(のち)の宝玉の、尽きぬ悲嘆と深い絶望感がよく表れている歌であるのだが、これをうたったときの宝玉は、琵琶を片手に朗々と歌い上げて人々の喝さいを浴びているだけである。さながら現代のシンガーソングライターのようであるが、その歌が自らの運命を暗示していることなどは、無論この時は知る由もない.............細かく解釈していると長くなりすぎるし、筆から話がそれて行くので、関係する紅樓夢の内容を踏まえて、以下にやや踏み込んだ大意を示すにとどめたい。



わたしとあなたの、永遠に果たされることのない相愛の思いは、今なお私の心に点点と続いて尽き果てることなく、胸の内には紅豆をつかんでなげうつように(まわりの者達に打ち砕かれてしまった、わたしたちの相愛を悼む)血の淚がはらはらと落ち続ける。
幼いころからずっと一緒だったあなたとわたしの思い出は、あの絢爛たる大観園の楼閣に満ちあふれているのに。
黄昏(たそがれ)が過ぎ、薄絹(うすぎぬ)を張った窓の外では風と雨が吹き乱れているけれど、わたしの心も(風雨と同じように)千路に迷い乱れて眠りにつくことができない。
昔あなたと過ごした日々も、今あなたを永遠に喪ってしまった悲しみも、きっといつまでも、忘れてしまうことなんてできはしない。
憂愁に悶えるわたしには、珠玉(しゅぎょく)のようにつやつやした白いご飯も咽(のど)を通らないし、なめらかに光るじゅんさいのスープだって、むせてしまって喉(のど)につかえてしまうばかり。
あなたがいつも使っていた菱花鏡(りょうかきょう)は、そのほっそりとした面差を映しだすことはもうないのだけれど、在りし日のあなたの姿を、わたしはこの鏡の中に求めてやまない。でも鏡は(食事ものどを通らぬあり様の)痩せ衰えた私の姿だけを、むなしくうつしだすばかりじゃないか。
まわりの者達が心配するからと、無理に愁眉(しゅうび)をひらいてみたとしても、わたしの心はもう誰に対しても開かれることはないだろう。そして更漏(こうろう:水時計)が夜明けを告げてもけっして朝が来ることがないように、このまま時が過ぎていっても、わたしの心は孤独と絶望の深い闇の中に閉ざされ続けるのだろう。
ああ、あなたの面影が心から消え去ることはないのに、もうこの手が届くことはないなんて。まるで遠くかすかに見える山々へ、ずっと遮られてたどり着くことができないかのようだ。そして清らかな水の流れが澄みきったままゆったりと絶えることがないように、亡きあなたへの想いとこの苦しみも、今と変わらぬまま、途切れることなく永遠に続いてゆくのだろう。



ストーリーを踏まえ、大意を考えるだに落涙を禁じ得ぬほどに悲痛な詩であるが、男性が女性へむけて想いを詠っているという意味で、この歌も王朝時代の詩の中では(たぶん)珍しい部類である。実際は男性から女性へ向けた詩歌としても、女性が男性に向けた体裁に作っている詩の方が多いのである。しかし物語中の宝玉の価値観をよくあらわしてもいる。
またうたわれている情感が、現代人にも共感を呼びやすいようだ。この詩にさらに詩句が追加され「紅豆詞・南方二重唱」という歌謡曲がつくられて歌われている。が、この「南方二重唱」の追加の歌詞ときたら、まったく紅樓夢を読んだことが無い人物の作によるものなのだろうか、軽薄浅薄で聞くに堪えない。ここでは紹介しない。現代の歌曲なら王菲の歌う”紅豆”の方がいい歌詞である............話が逸れた。なんの話だったか、そうそう、何ゆえ「大京水」というような筆が、現代で「紅豆」という名に変化したかである。これはやはり「写奏」という筆銘が姿を消してもっぱら「写巻」とい筆銘に変わったように、時代背景が関係していのではないだろうか。
例によって大胆な推測を。

「京毫水筆」や「大京水」が、仮に科挙に関係しているとすれば、清朝末期に科挙が廃止されて以降、暫時姿を消していったのではないだろうか。写奏という筆銘が消えた決定的な理由は、新中国の成立ないし文革の影響があると考えられているように、科挙がなくなれば「大京水」という筆銘の意味も時代に合わなくなる。そして筆鋒を赤く染めたこの小さな兼毫筆は、試験の答案を書くよりも、むしろ叙情的な詩文に用いられるものとして、「紅豆」という名が定着していったのではないだろうか。その定着を決定付けたのもやはり新中国や文革と無関係とは思われない。なにしろ共産党は「紅軍」である。農村の労働者が主役(の建前の)新中国において、「紅い豆」と言う名は似つかわしく思える。また首領の毛沢東は紅樓夢の愛読者だったのだから、「紅豆」という名称の筆が流通するのに憚られる理由は少なそうだ。あるいは「紅豆」のほかに「紅毛」とも呼ばれるが、これが「紅(あか)い毛沢東」と関係すると考えるのは行き過ぎであろうか?ともあれ「大京水」といった筆銘が、もしわずかでも残っていたとすれば、おそらく新中国の成立、あるいは文革の時代に完全に姿を消したと考えられる........紅豆に限らないが、実用の消耗品である兼毫筆というのは、高級な大筆よりも現存する資料に乏しく、なかなかその変遷の実相をつかむことは難しい。勢い推測につぐ推測にならざるを得ないのだが、いずれまた新しい資料なり情報が得られることに期待したい。


”紅豆”は早くから扱ってきたが、小生も重宝している筆なので、欠かさぬようにしたいとは考えている。しかし質の良い品を作れる職人も減ってきている。
ついでにいうと、注文した筆が仕上がってきた。筆銘だけ公開すると「玉峰翠麓」「無無明尽」「方流圓折」である。「方流圓折」は以前別の名前で入荷し、売り切れてしまった筆のリピートであるが、今回から筆銘を変更するのである。また「玉峰翠麓」は、とある古い筆をその構造と特徴を考えながら再現を試みた筆。そして「無無明尽」は......これは名称で用途がわかるかもしれないが、今まで弊店で扱ってこなかった、ある方面の筆書専用の筆である。近日中に公開する予定であるが、それまで筆銘だけであれこれと、どんな筆か推測していただければと思う次第。
落款印01

探春の部屋 〜紅楼夢第四十回より

紅楼夢第三十九回〜四十回は、無心のために寧国邸を訪れてきた遠い親戚の劉ばあさんに、大観園を見物させる内容である。大観園に住む黛玉や宝釵達の部屋を見て回るのであるが、ここに探春の部屋を描写するくだりがある。文房四寶に関心を持つ者としては、この探春の部屋の描写は気になるところである。

『探春素喜闊朗、這三間屋子并不曽隔断。当地放着一張花梨大理石大案、案上磊着各種名人法帖、并数十方宝硯、各色筆筒、 筆海内插的筆如樹林一般。』
「探春はもともと明るく広々とした部屋が好きで、三間の部屋を仕切りで隔てることはしなかった。花梨と大理石で出来た大きな机をどっかりと置き、そのうえに各種の名人法帖を無造作に積み重ね、あわせて名硯が数十面、またさまざまな色の筆筒、筆海には筆が林のごとく立てられていた。」

「并数十方宝硯」なのであるが、普通に読めば「併せて数十方の宝硯」である。「宝硯」つまりは”名硯”を”数十面”置いていた、ということになる。小さな硯であっても、平面に硯を数十面を置くことが出来る机というのは、どれだけの広さを持った机であっただろう?
「数十」を仮に20面と解釈しても、硯は重ねて置くことができないから、占有するのは相当な面積である。紅木か花梨の木で出来た小さな棚が机の上にあり、そこに硯が整理されていたのならまだしもであるが、ともかくここではそのような描写にはなってはいない。また「宝硯」というのは、宝になるほどの名硯ということであるから、単なる道具以上の価値をもった硯、ということになる。
ほかに机の上に置かれている「名人法帖」は、臨模練習用の碑帖の法帖であろう。現代でも”二玄社”の”法帖シリーズ”などを手本として練習される方も多いと思われるが、清朝でも木版の法帖が多数流通している。しかし探春の部屋にあったのは、元の石碑から直接拓を採った、いわゆる原拓本かもしれない。
また「各色筆筒」は、さまざまな釉色の陶磁器の筆筒であり、筆筒は円筒、筆海は方形の容器である。そこに筆が「樹林の如く」、立てられていたというのである。この有様は、単に士大夫の文房の趣味を越え、書画で生計を立てている読書人の机のような風情がある。それにしても相当な大きさの机であることは伺える。次に、

『那一辺設着斗大的一个汝窯花嚢、插着満満的一嚢水晶球儿的白菊』
「また一方には一斗枡ほどの大きさの汝窯の花嚢がひとつあり、水晶の玉のような白い菊が一杯にいけられていた。」

「汝窯(じょよう)の花嚢」とある。「花嚢(かのう)」はここでは花生けとして使われている。何気なく「汝窯」という陶磁器の名が出てきているが、東洋陶磁に少しでも詳しい人なら”のけぞる”思いがするだろう。
汝州窯は唐代から焼かれはじめ、北宋後期に最盛期を迎えたと言われる。北宋時代の官窯(宮廷用の官製品を焼く窯)のひとつであり、代表である。官窯とはいえ、宮廷に納められた最優等品以外は、若干民間にも流通したようである。しかし汝窯の官窯は北宋最後の徽宗の治世である、わずか二十年間しか焼かれなかったといわれる。これは特に”汝官窯”と呼ばれ、現在確認されているものが全世界で六十数点という少なさである。北宋末期に金軍が侵入し、北宋が滅びると同時にその技術も喪われ、以降はその製法が再現されていない。”似て非なるもの”が焼かれるようになったのも、ごく最近のことである。
探春の部屋にあった汝窯が仮に民間に流伝した品であったとしても、少なくとも北宋時代の希少な陶磁器である。それを部屋において、気軽に白い菊を生けているのである。紅楼夢が書かれた清朝当時の士大夫といえども、気軽に汝官窯を見ることができたわけではない。いかな大貴族の子女の部屋とはいえ、存在自体が奇跡のような品である。
康熙帝の寵臣であった、屈指の大貴族の家に生まれたと推察される紅楼夢の作者は、おそらく本物の汝官窯を観ているのだろう。それはその花嚢に指されていた「水晶玉のような(まるく透き通るような白さの)白菊が生けられている」という、菊の花の色彩の描写からも伺える。

『西墻上当中掛着一大幅米襄陽"烟雨図"左右掛着一副対聯、乃是顔魯公墨迹、其詞云:

烟霞閑骨格
泉石野生涯


「西側の壁には、一服の米芾の”烟雨図”がかかり、その左右には一服の對聯が下げられている。ここそまさに顔真卿の墨跡であり、その詩には

烟霞は閑(かん)骨格
泉石は野生涯



北宋米芾の「煙雨図」とはまた逸品である。もちろん普通の家庭にあるものではない。仮に米芾の山水図がホンモノであったとしても、さすがに唐代の顔真卿の”對聯”というのはどうだろう。唐代の真筆の伝世は非常に稀であり、よりにもよって顔真卿である。
對聯の字句にある「烟霞」は山水、山林を言う。骨格は人物の志向、趣向。「野生涯」は山野に一生を送ること。すなわち「天然自然の性向は烟霞(山水(のように閑散しており、野山に閑居した生活は常に泉石を伴う」と言うところである。
幽玄な米芾の山水畫に、雄渾な顔真卿の對聯である。山水畫は士大夫の精神上の境地を表す。浮世離れした、多彩な趣味人であった米芾の山水畫に、節義を守って殺された顔真卿の書であるのだから、王朝時代の良家に育った少女の趣味とては、そうとうに「渋い」。先に汝窯の花嚢に挿されていたのは菊であるが、菊は四君子(梅竹蘭菊)の中でも貞潔、孤高、「隠君子」を体現した存在とされる。探春の部屋の品々に現れているのは、まるっきり、隠者の高潔な境地そのものなのである。そして極めつけは、

『案上設着大鼎。左辺紫檀架上放着一个大観窯的大盤、盤内盛着数十个嬌黄玲瓏大佛手。右辺洋漆架上懸着一个白玉比目磬、旁辺掛着小錘』
「机の上には大きな鼎(かなえ)が置かれ、左手の紫檀の棚には大観窯の大盤がおかれ、盤の中には数十個の黄色も鮮やかな大きな佛手(柑)が盛られていた。また右手の西洋漆(ワニス塗り)の棚の上には、白玉で出来た磬(けい)が吊られ、傍らには小さな金槌がかかっていた。」

「大鼎」とある。「鼎」は古代の王権、権力の象徴であり、出土する事自体が瑞兆とされる。これが古代の聖天子の遺徳をしのぶ品として、士大夫の庭や書斎に置かれるのである。もちろん、そのほとんどは後世の倣古品で、信の置けるもの極めてわずかである。
三国時代の呉の”末帝”、孫皓(そんこう)の治世には鼎が出土したことから「宝鼎」という年号がある。孫皓の治世には他にも甘露や鳳凰、天冊(大赦を示す文字が書かれた銀板が出土)や天璽(大赦を記す文字が彫られた印が出土)などの年号があるが、もちろんすべて自作自演、捏造である。求心力を喪った為政者が瑞兆を捏造するために、贋物を作ることがしばしば行われているのである。
「磬(けい)」は、古代の打楽器である。紐を通して吊ったものを「挂磬(けいけい)」という。「比目磬」は比目(ヒラメ)の魚体をかたどった挂磬のことである。打楽器だけにこれを打つ「小錘」つまりは小さなカナヅチが添えられてるが、玉で作られた「挂磬」は装飾であり、実際に叩くものではない。
古代の聖天子の時代に、音楽は重要な政治手段であった。孔子によって君子の徳目としてとりわけ重要視されたのが、音階がわかること、音楽がわかることである。正しい音(階)は、政治の正しさをそのままあらわすものとされたのである。
また「大観窯」とある。「大観」は、北宋の徽宗皇帝時代の年号である。故に「大観窯」はその時代の官窯であるとされる。ひとくちに”官窯”と言っても意味には幅があり、広くは先の汝官窯のように各地の窯で宮廷用に焼かれた「官監民焼」の陶磁器を指す場合と、狭くは文字通り官設の窯で焼かれた陶磁器をいう場合もある。いわゆる「北宋官窯」と言った場合は北宋大観年間、および政和年間に汴梁(べんりょう)に設けられた、官設の窯で焼かれた陶磁器である。とすれば、ここに「大観窯」とあるのは、紛れもなく「北宋官窯」のことであろう。先の「汝窯」の花嚢には及ばないにしても、やはり例えようも無く貴重な品である。当時屈指の大貴族の娘であっても、大観窯のしかも佛手柑(香りを楽しむ)を数十個も盛れるような大皿を有しており、それを部屋に置いていたというのは............

ちなみに劉ばあさんは探春の部屋の前に黛玉の部屋を訪れている。黛玉の部屋は極々シンプルで、机の上に硯と筆、本棚には書物がぎっしり詰まっているだけと描写されているのである。これをみて劉ばあさんは、女の子ではなく「男の子の部屋ですか?」と訪ねたほどである。
おそらくはこの前後二回で黛玉と探春の部屋を対比させた、作者の意図は巧妙である。見方によっては探春の部屋は士大夫の「理想」の部屋そのものなのである。そこには鼎(かなえ)や挂磬(けいけい)に象徴される政治への志向と、菊花や山水畫に現れる、隠遁生活への愛慕が両存している。登場する陶磁器が官製の窯で焼かれているということも、官界、宮廷での栄達を強く意識させるものである。
おそらく士大夫の多くは、黛玉よりも、探春の部屋により関心を示すであろう。人によってはこれぞ「士大夫の理想の部屋」と思うかもしれない。しかし当時の士大夫達のその「趣味性」こそが、「紅楼夢」の中で作者が批判、攻撃したかった価値観のひとつなのである。そういった「政治」や「官界」を意識させる品が何ひとつない、黛玉の部屋との対比にその意図が端的に現れている。
さらに言えば、探春の部屋の品々も、おそらくほとんどは贋物なのである。宝硯や名人法帖はともかく、「米芾の山水畫」や「顔真卿の對聯」がでてくるあたりでいい加減わからないといけないが、出てくるモノの”ありえなさ”に気付かない読者に対しては、作者はさらに劉ばあさんが連れてきた孫の”板児”という幼い子供を使って暗示している。すなわちこの男の子は、玉で出来た”飾り物”の「挂磬」をほんとうに槌で叩こうとして止められる。玉の挂磬を金槌で叩けば割れてしまうだけである。また(香りを楽しむだけの)佛手柑を食べようとして、これも止められてしまう。探春は「食べられないのよ」と言って、自ら板児に佛手柑を分けてやるのだが、部屋の主自身の口から置かれているのが「仮のもの」であると言わせている。つまり探春の部屋にあるものは全て「かりそめ」の品々なのである。(架空の品々を置いてその世界の非現実性を暗示する手法は、宝玉が訪れた秦可卿の部屋の描写にもみられるのだが)
「真」と「仮」の対比は、紅楼夢の物語世界の基礎を為す構造である。物語中にはこれが繰り返し現れる。探春の部屋の品々に象徴される価値観は、当時の士大夫社会の通念からすれば「真」かもしれないが、それも実は「仮」に支えられているに過ぎないということである。さらには純粋に詩文を愛好する黛玉の如き部屋に比べれば、一見すると「文房趣味」に満ちたような探春の部屋も実は俗悪な「虚構」に過ぎないというわけである。「文房の趣味」の本質が何であるかということを、当時超一級の読書人であった作者はわかっていたのだろう。ここが王朝時代の「文房四寶」の趣味性を考える上で、「紅楼夢」という文学作品への理解が外せない点なのである。また「硯と筆、あとは本があれば充分なのだ。」と言い切る作者には、本当の「文人」としての”凄み”を、やはり感じるものである。
落款印01

謎の「雪浪紙」 〜紅楼夢第四十二回より

紅楼夢には「雪浪紙」、あるいは「雪浪箋」という紙が出てくる。どのような紙であろうか?

紅楼夢の四十二回に、宝釵が惜春に畫法を教えるくだりがある。惜春は新しく造営した「大観園」の畫を書くように命じられたのだが、彼女は絵心があるといっても、ちょっとした写意の花鳥畫を画いている程度である。本格的な大庭園などは画いた事がなかった。そこで宝釵は、惜春に楼閣を含む庭園山水の畫法をレクチャーする。この宝釵の畫に対する造詣の深さは並のものではない。
紅楼夢の作者とされる曹雪芹は、宮廷画家への推薦もあったほど、畫法に通じた人物であったといわれている。宮廷画家へ推薦されたという事であれば、その畫技は水墨による写意といったような、士大夫の趣味の畫ばかりではなく、精密な描画を求められる工筆畫にも及んでいたことだろう。宝釵の畫法への精通の程は、曹雪芹自身の畫法に対する見識が濃厚に反映されていると考えていいだろう。(紅楼夢の作者は曹雪芹以外の人物であるという説もあるが、何れにせよ当時の大貴族の家に生まれ育った人物であれば、普通人以上に畫に通じていても不思議は無い)
さてこの「大観園」の図を、どのような紙に画いたらようだろうというところで、宝玉が口をはさむ場面がある。『宝玉道“家里有雪浪紙,又大又托墨。”』とある。「托墨」の「托」は、受ける、乗せるという意味があるから、墨のノリが良い、という意味になる。宝玉は「それならウチにある雪浪紙を使ってはどうか?あれなら大きいし墨のノリも良いし。」と申し出るのである。ところが宝釵はフンッと笑って、宝玉の提案を一蹴してしまう。
『我説你不中用!那雪浪紙写字画写意画儿,或是会山水的画南宗山水,托墨,禁得皴染。拿了画這个,又不托色,又難滃,画也不好,紙也可惜。』というのである。すなわち「だから私はあなたの意見はとるにたらないというのです。雪浪紙のような紙は字を書いたり、写意の画を画いたり、あるいは山水画を得意とするする人が、南宗山水のような畫を画くにはいいでしょう。墨も乗るし、”皴染”の法もよく受け付けますから。ところがこれから画こうとしている絵に使うのであれば、色は乗らないし、”滃染”するにも難しいから適当ではありません。紙がもったいないわ。」といっているのである。

雪浪紙という紙は、つまり「皴染(しゅんせん)」には適しているが、「滃(ろう)」はし難い、というのがこの紙の性質を知る上での核心であろう。「皴染」は山水画の技法を要約した、「勾、皴、染、点」における「皴」と「染」である。「皴」は「皴法(しゅんぽう)」であり、山や岩肌、樹木を画く際に使用される筆致の技法である。また「染」は淡墨によって、画面に濃淡をつける手法である。「皴法」は筆の筆致そのものを、対象の細部や立体感の表現に用いる技法であり、「染」は墨の濃淡によって陰影向背を表現する技法である。
対して「滃」であるが、「滃染(おうせん)」という語があり、これは画面に筆致を残さない画き方である。「滃(おう)」は水が盛り上がる、という意味がある。
熟箋のように、吸水性が完全に抑制された紙であれば、墨液を落としても紙に浸透する事はない。水分が蒸発するまでの間は、紙の上で墨液の流動性が保たれる。筆の動かすことで墨液が流れ、紙上に落筆した痕跡をかき消してしまうことが可能なのである。近現代においては、「没骨法」と呼ばれる画法がこれにあたるといえるだろう。これは墨に限らず、着色する場合も同様である。(清初の?格の花卉においても、その優れた例を見る事が出来る。)
対して半熟箋のように、わずかに紙に墨液が浸透する紙であればどうだろう?この場合は、筆致の上に筆致を重ねても、下の筆致の輪郭は既に紙に定着していれば、これをぼかしてしまうことは難しくなる。すなわち「雪浪紙」は、この「滃染」技法には適さない紙、と宝釵は言っていると解釈できる。
また「雪浪紙」は「托墨」つまり墨の乗りはいいが、「不托色」すなわち色(絵の具)の乗りは悪いと言う。これはどういうことであろうか?
この時代の絵の具は、すべて天然の化合物、鉱物や貝殻などの動植物を破砕した粉末顔料に、膠を主とする媒材を混ぜて作られている。
こうした固形物を砕いて作られた顔料の場合、粒子の細かさによって、その色調が分かたれる。たとえば濃いブルーと淡いブルーは、藍銅鉱という同一の鉱物を破砕して作ることが出来る。粗いほど原石に近い濃いブルーになり、細かく砕くほど色は白っぽく淡い色調になる。すなわち「明度」は上がるが「彩度」は下がる。「彩度」の高い色を使いたければ、粗い粒子の顔料を使わなければならない。
この鉱物等を破砕した色絵具と、油烟や松烟によって造られた墨とでは、紙への定着に相当な違いがある。
原料を相当に細かく砕いた顔料であっても、やはり油烟のカーボン粒子の細かさに比べれば、ずいぶんと粗い粒子である。この顔料を紙面に定着させる媒材としては、膠が用いられる。膠を溶かして顔料と混ぜ、絵具とするのである。
滲みやすい紙にこれを用いると、乾く前に媒材となる膠水が紙に吸収されてしまい、顔料の粗い粒子は紙面に取り残されてしまう。顔料の紙への定着が弱く、粒子が剥落しやすくなるのである。
しかし工筆画に使用されるような熟箋、すなわち吸水性を完全に抑制した紙の場合は、膠水が紙に浸透することはほとんどない。乾燥しても膠は紙面上に残留し、粗い顔料の粒子を確実に定着させることが出来るのである。
墨の場合はカーボンの粒子が非常に細かいので、吸水性の高い紙であれば紙の繊維にカーボンの粒子が膠とともに浸透する。また吸水性の低い紙であれば、墨液は紙面上にとどまり、乾燥に従って墨痕が定着するのである。
色の乗りが悪いという宝釵の説明からも、宝玉が薦めた「雪浪紙」は、完全に滲みをとめた、精密な工筆画に適した熟箋ではないことがわかる。以上をまとめると「皴染」に適しても「滃染」には適さず、「托墨」であっても「不托色」であるということから、「雪浪紙」は豆腐箋煮捶宣のような、半熟箋の類であると考えられる。
しかし雪浪紙の性質がわかったところで、その紙の当時の産地や来歴も、まったくのところ不明である。現代の市場にも、「雪浪紙」なる紙は流通していないのである。
「雪浪紙」は、紅楼夢第三十八回にも、「雪浪箋」の名で登場している。宝玉達が結成した詩社の会において、菊をテーマとする十二首の詩が競作された。その際に「別拿了一張雪浪箋過来,一并謄録出来,某人作的,底下贅明某人」とある。すなわち一枚の「雪浪箋」に十二首の詩を列記し、作者と賛を書き出したというのである。「紙」と「箋」の違いはあるが、同一の紙と考えて良いだろう。
郭荣光主编の「紅楼夢辞典」には「“雪浪箋”为“一種白色詩箋,紙中波浪暗紋,故名雪浪箋”」とある。「一種の白色の詩箋で、紙には波条の暗紋があり、ゆえに雪浪箋という」とあり、上海書画出版社刊の「文房用語辞典」の「雪浪箋」の項も、この説を採っている。しかしその出典根拠は定かでは無い。「紅楼夢」以前の文献にも、「雪浪紙」あるいは「雪浪箋」なる紙はどこにも見られない。どうも「文房用品辞典」が解説しているような、雪のように白く、波状の暗紋がある紙などというのは、いかにも名称から類推したこじつけのように思えるのである。
紙に暗紋を入れる法としては、あらかじめ紙を漉く簀(すのこ)に刺繍を施しておく方法がある。あるいは漉きあがった紙を加工して、白い胡粉によって紋様を描き入れる法もある。あるにはあるが、それらのいずれかが「雪浪紙」なのだろうか?
また「紅楼夢辞典」では、詩の書写に使われたので「詩箋」としているのだろうが、十二首の詩を列記したのであれば、それなりに大きな紙である。また四十二回では、宝玉はこの紙を使って、大観園の図を画かせようとしている。「又大又托墨」と言っているから、庭園図を画く充分な大きさがあるということになる。便箋ないし色紙大の「詩箋」とは、やや趣が異なる紙のようである。
紅楼夢には別の回に「油拳紙」という紙が登場するが、これは杭州近郊の油拳という村で作られていた、竹を原料とした実在する竹紙である。紅楼夢の中には「油拳紙」についての説明はとくになされていないが、これはよく知られた紙であったからだろう。
「雪浪紙」に関して言えば、宝釵がわざわざその紙の用法を詳しく説明しているのである。そう考えると、どうも一般に知られている紙であったとは考えにくい。というよりも、「雪浪紙」という紙は、紅楼夢の物語中にのみ存在する「架空の紙」であるとも考えられるのである。

この「雪浪紙」は唐代の詩箋である、「薛濤箋」ではないか?とも考えられている。
「雪浪」とは、激しい風雨によって白く泡立った波頭を言う。この場合の「雪浪」は海に限らず、大松林を海に見立て、強い風で松林が激しく波打つ際の形容にも用いられる。これは古来より詩句に多く用いられてきた単語である。
現代中国語では、「雪」の発音は「xuĕ」 であり、また「薛」の発音は「xuē」で(三声と一声の違いはあるが)同音である(日本語でもセツとセツの同音)。また「波」は「濤波(とうは)」というように「濤」につながる。「濤」はもともと大波浪の意味である。すなわち「雪浪箋」は「薛+濤(箋)」に通じる、というのである。
薛濤は後世にもその名を知られた、唐代の女詩人の代表格であり、本来は男性の役職である「校書」の異名をもっていた。紅楼夢の主題のひとつは、男性をも凌ぐ文学的才能をもった少女達の、これも詩文を介した交流の場面である。しかし王朝時代の女性であるがゆえに、いかに詩文に長じていても、その才を広く世間に知らしめる機会は無いのである。その事実に対する作者の悲憤の念は、「紅楼夢」に一貫して表れているところである。この作者(曹雪芹)の価値観が、封建社会という時代の枠を超え、この文学作品の価値を普遍たらしめている大きな点であると言える。
宝玉等が結成した詩社の会合においては、宝玉を除いてはすべて女性である。唯一の男性である宝玉も、(作者の価値観の代弁者として)女性の詩文の才能を高く評価....崇拝するほどの人物である。こうした少年少女の詩人達によって競作された詩を筆写するのに、「薛濤箋」はいかにもふさわしい紙であるようだ。
しかし唐代の「薛濤箋」は、清朝においてもすでに伝説化した紙である。また「薛濤」は、紅楼夢の主要な人物である「薛宝釵」と姓がかぶるのである。そこで「薛」を同音の「雪」に変え、薛濤箋をもじったと考えられるのである。
紅楼夢において、「薛」を「雪」に読み変えて解釈するという読み方は、実はこの「雪浪箋」に限らない。紅楼夢における薛宝釵の代表作ともいえる「柳絮詞」は、これも「雪」のイメージを主題とした詩である。「薛(宝釵)」イコール雪、純白、といったイメージの相関は、古くから紅楼夢の愛好家や研究者の間では定着した見方なのである。「雪浪箋」についても、宝釵の口から説明されているのが自然ではある。
ところで唐代の「薛濤箋」は、現代の便箋とほぼ同じサイズと考えられる詩箋である。紅楼夢の物語中の「雪浪紙」は、ある程度の大きさがあり、かならずしも詩箋に限る紙ではない。ただ薛濤の後に蜀の浣花溪で作り続けられた紙は、詩箋よりもサイズの大きな紙になったと言われている。
また「薛濤箋」はその後の蜀の「雲母箋」の原型になったと考えられるが、紅楼夢における「雪浪箋」は明らかに半熟箋である。ただし「雲母箋」と言っても、雲母の塗布の量によっては、必ずしも熟箋の性質を持つわけではない。
仮に「薛濤箋≒雪浪箋」と考えれば、このあたりの矛盾については、どこまで考証するべきかはわからない。また紅楼夢が書かれた清朝初期において、市場に「薛濤箋」なる紙が流通していた可能性は充分考えられるが、それがどのような紙であったかは確認する術が無い。
宝釵によって語られる「雪浪紙」の性質については、かなり具体的で矛盾がない。おそらく作者の脳裏には、現実に対応した紙が存在したと考えられる。しかしその紙が唐代の「薛濤箋」と同一かどうかまでは、紅楼夢の創作の中ではさまで重要なことではないだろう。「薛濤箋≒雪浪箋」とすれば、作中における女性の詩文の才を、「薛濤」の名に仮託することがねらいだったと考えられるのである。しかし直接「薛濤箋」を持ち出すのは、あからさまに過ぎる、ゆえに「雪浪箋」が現れた..........この種の謎かけは紅楼夢の中に数多く仕掛けられており、今尚すべてが解明されていない上、諸説紛々としている。これらの謎解きも「紅迷」とよばれる紅楼夢マニアを生み出す源になっている..........「雪浪紙」あるいは「雪浪箋」という紙は、現在の、いやおそらくは過去においても、市場に存在する紙ではない。しかしその性質をみるかぎりでは、上等な麻紙や皮紙に、滲みを止める漿や砑光を施した半熟箋ではないかと考えていいだろう。
「大観園」を描く事に対しては、宝釵によって退けられた「雪浪箋」であるが、同時に宝釵は書に使ってよく、写意の畫に用いて良い紙であると語っている。これを「宜書宜畫」というが、筆や墨にも、この名称を冠した品は多い。書と畫が同根であることのひとつの表れであり、宝釵や黛玉といった才媛達は、そのことを体現した存在であるとも言えるかもしれない。
落款印01

對聯と對筆 〜紅楼夢十七回より?

「對筆(ついひつ)」という種類の筆がある。あるい「對聯筆(ついれんひつ)」ないし「二聯筆(にれんひつ)」ともいうが、要は對聯(ついれん)を書くために丁度良いように作られた筆である。對聯は対になった一組の詩句「対(對)句」を「二聯(ふたつの同じ幅、長さの條幅の組)」の書幅に書いた書の布局(作品構成)のひとつである。そこに書かれる対になった句そのものも「對聯」という。

中国絵画、特に明代以降の絵画には、画面に題や詩文を入れることが常套化している。そもそも絵画に文字を書き入れているのではなく、景観を完成させるために字句は不可欠、という考え方がある。平面の絵画どころか、現実の庭園や風景の中にも、石碑や時には牌坊すら建てて、景観にふさわしい感情や思想を詩句で表したのである。つまり目に見える現実の光景の中に、文字による語句や文が入って初めて情趣が完成するという思想があった。その形式のひとつが、対(對)の詩句を書いた二聯の書幅である。
「對筆」はいわば普通に書簡を書いたり画に題跋を書くための筆ではなく、風景の中に文字を書き入れるための筆であるといえようか。
景観の中に文字がはいるのであるから、勢いかかれる書は雄渾さがもとめられる。また並んだ二聯が、対句であることがわかりやすいよう、多くの場合楷書、ないし隷書、あるいは篆書でかかれることが多い。「對筆」は、そのいずれの書体にも対応し、かつ雄渾で力強い筆致に適した筆の構造を持っている。そのような筆が生まれた背景には、好んで題や對聯をつくるという、中国の生活文化における伝統的な習慣がある。
たとえば庭園は天然の風景を模倣してはいても、人工であることは免れない。人工と天然の橋渡しをするのが、題や對聯(ついれん)といった語句や詩句であり、その景観の設計が目指すところの“天然の趣(おもむき)“を短い語句で要約しなければならなかった。まして絵画、とくに山水画は「造化を師とする」といって、天然自然に倣ってはいても、本質的に人間の空想の景色なのであるから、詩句が伴わないわけにはゆかないということになる。

この美意識をよく説明しているのが紅楼夢の十七回「大観園試才題対額 栄国府帰省慶元宵」である(紅楼夢のすべての回のタイトルも對聯である)。紅楼夢は清朝初期の、一級の知識人による芸術論としても読むことが出来るのである。
その前にこの回の背景を理解するのに必要な程度のあらすじを述べておきたい.......いや、冗漫な小生の駄文によるあらすじを読むくらいなら、岩波文庫から全訳が出ているので読んでいただいた方が良いかもしれない。ただし岩波には詩文に原文が併載されていない。これはいかにも残念なところで、とくに対句の面白さは訳出された文章ではややわかりにくくなってしまった部分がある。

主人公である賈宝玉の実姉であり、栄国府(えいこくふ:主人公の一族が住む)から皇室に嫁いだ元春であるが、皇帝の許しを得て帰省することになった。普通、宮廷にあがったら最後、勝手に宿下がりするというわけにはゆかない。しかし皇帝の特別のおぼし召しにより、妃や女官達も、日時を決めて実家に帰省することが許されるようになったのである。ちなみにこのときの「皇帝」とは康熙帝がモデルである。
元春は主人公の賈宝玉の実姉であるが、皇帝に嫁いで后となった上は、庶民の娘が里帰りするような簡単なわけにはゆかず、迎える方の実家でもさまざまに容儀を整えなくてはならないのであった。
なんと栄国府では、わずか半日程度里帰りする娘のために、巨費を投じてあらたに大庭園をひとつ造営するのであった。それが紅楼夢の表舞台となる「大観園(たいかんえん)」である。もちろん帰省する娘のために親馬鹿でそんな大庭園を造るのではなく、妃となった上は親といえども身分は下であり、主君の妃を拝跪(はいき:ひざまづく)して迎えなければならない立場なのである。それにふさわしいだけの別邸を、あらたに作るというのだから大変なことである。
その「大観園」がほぼ出来上がりかけたとき、栄国府の主人である賈政(かせい)は、その庭園の各所にふさわしい「題」や「對聯」をつくらなければならないことに、頭を悩ませていた。
この場合微妙なのは、そもそもこの「大観園」は元春を迎えるために新たに造営したのであるから、題や對聯は元春につけてもらうのが身分の尊重の上からも必要なのである。とはいえ、元春が帰省してこの庭を見たときに、なんの題もなければいかにも未完成のようで、かえって味気ない思いをさせてしまう恐れがあった。
賈政は食客の先生方........栄国府ほどの大貴族になると、詩人、学者、画人など、大勢の“食客”を抱えている。彼等は俸禄を貰って屋敷に滞在し、詩文や手紙の代筆代作、画の作成、子弟の教育などにあたっていた......の進言に従い、完成した庭に仮にでも題をつけ、あるいは似つかわしい對聯を飾るなどして、元春を迎えたときに改めて賛否を伺い、あるいはあらためて題をつけてもらうなりしようという配慮をしたのであった。
庭園に題や詩句がなければ、なんとも味気ない、未完成のようだ、と思ってしまう感覚こそ、当時の知識人階級の属する人々の美意識なのである。この感覚というのは、現代中国でも薄れてしまっているかもしれない。まして漢字が読めない外国人などは、そもそも何が書かれているかもわからないのであるから、奇異な印象しか受けないかもしれない。しかし現代の外国人がどう思おうが、それがその国の文化なのである。
賈政は食客の先生達を連れて、完成しかけている庭園を見回りながら、その仕上がりを視察すると同時に、随所にふさわしい詩句を考えさせようとはかったのである。しかし賈政は、息子の宝玉が通う家塾の先生が、宝玉は受験勉強は怠けてばかりいるが、何故か「對聯(ついれん)」を作ることにかけては非常に巧みであると聞いていた。
皇帝に嫁いだ元春は、母親以上にこの弟の宝玉を溺愛していたのである。賈政は息子宝玉の詩才を試すと同時に、元春を喜ばせるだろうと思い、宝玉にも一緒に完成間際の大観園の視察に同行させたのであった。
賈政は非常に厳格な父親であった。あえて史実と対照すると、賈家のモデルである豐潤曹家は、もともと武人の家なのである。
この賈政は、自分の母親、つまりは宝玉の祖母を筆頭に、屋敷中の女たちが宝玉を甘やかしたために、どうしようもない道楽者に育った息子をいつも苦苦しく思っていたのである。賈宝玉が勉強を怠けているのを知ると、死なんばかりに厳しく折檻し、ために屋敷中が大騒動になるのであった。姉妹や従姉妹や侍女達は、賈政が宝玉を折檻すると、この屋敷の一番の権力者である祖母がひどく嘆き悲しみ、自分たちにも責任が降りかかるのをおそれていた。なので宝玉にはなるべく賈政の意向に逆らわぬよう、フリだけでも勉強をしてくれと、いつも諌めているのであった。
この賈政に呼ばれるというので、宝玉は内心びくびくものであったが、庭を回りながらその景観にふさわしい題や対句を食客たちと議論しながらつくりあげてゆくのである。
賈政は内心息子の詩才に感心する気持ちもあったことは態度からして明らかなのであるが、普段から厳しく接している上に、食客の手前もあってあえて手厳しい態度をとる。世慣れた食客たちはもちろん盛んにお追従するが、内心舌を巻いたものも多かっただろう。
厳父の賈政にどつきまわされながらも、この回で宝玉がものした対句は四つあるが、見事なものである。

繞堤柳借三篙翠
隔岸花分一脈香

堤(つつみ)を繞(めぐり)て柳は三篙(こう)の翠(みどり)を借り
岸を隔(へだ)てて花は一脈(いちみゃく)に香(かおり)を分(わ)かつ

この場合「“繞(めぐ)る“と”隔(へだ)てる“」「”堤(つつみ)“と”岸(きし)“」「”柳”と”花”」「“借(か)りる”と“分(わ)かつ”」「三篙と一脈」「翠(みどり)と香」が対になっている。
「三篙(こう)と一脈(みゃく)」がなんで対なの?というところだが、「篙」は竹のことで、竹節によって管(くだ)を隔てた竹と、脈々と流れる水流の意の「脈」の対称である。あるいは「水辺に竹」という連想も兼ねている。また「翠と香」は「香翠」いう語があり「香=花」「翠(緑)=葉」というわけで、樹木や草花をいう。ペアになった字句は、かならずしも厳密に反対、対称の意味になっている必要はなく、連想や類義語、古詩からの引用であっても良いのである。
季節は杏の花が咲く頃、中国では明前(清明節の前)とよばれる三月の末から四月の初めである。堤(つつみ)はこの場合は河川の堤防などというものではなく、「繞(めぐ)る」のであるから、池を取り囲んだ土手である。堤(つつみ)には柳がつきものであり、その柳の淡い緑のなかに三本だけ竹の緑が混じっている。その新緑の柳のけぶるような淡い緑のなかにわずかに別の緑が混じった、色彩のアクセントをうたっている。
下の句の「隔岸花分一脈香」というのはこの対句がうたわれる前の文を読まなくてはわからないのだが「一带清流、従花木」とある。つまり庭園に引き込まれた細い清流の両岸に、花をつけた木々が立ち並んでいる光景をうたっている。
全体の情景を考えると、上の句は池の周りの景色であり、下の句は小川の景観をうたっている。これもイメージの上で対象をなしている。また上句は“葉の色彩”が主題であり、下の句は“花の香り“が主題である。葉と花、色と香、というように草木を愛でる際のポイント、また視覚と嗅覚といった人間の感覚の上でも対になっているのである。

宝鼎茶閑烟尚緑。
幽窓棋罷指犹凉。

宝鼎(ほうてい)の茶は閑(しず)かに烟は尚(な)を緑(みどり)
幽窓(ゆうそう)は棋を罷(や)め指は犹(な)を凉(すず)し

この場合は「“宝鼎”と“幽窓”」「“茶”と“棋”」「“閑”と“罷”」「“烟尚緑”と“指犹凉”」が対になっている。
上の句の「宝鼎」すなわち「鼎(かなえ)」はいうまでもなく三足の金属製の容器で、煮炊きの道具である。ここでは茶を煮立てる道具としているのであるが、昔は茶は煮出すものであった。それが「閑(しず)か」というのは、すでに火は落ちているのだが、まだなお蒸気が緑色に立ち上っている、というのである。いくら茶を煮立ているからといって、蒸気が緑色に着色するわけがない。また当時は必ずしも茶の色から緑色は連想しない。これも本文に描写があるのだが、この部屋は竹林で囲まれており、まだ温かい白い蒸気の向こうで濃い緑色の竹林の影がみえているという情景である。竹林の深いところにこの庵室のあることをうたっている。
さらに下の句に「幽窓(ゆうそう)」とあるが、「幽(かす)かな窓」とは壁の破れ目から室内が覗かれる意である。壁の崩れかけた庵室ということになるが、その庵室の中「棋(き)を罷(や)む」とは囲碁の勝負が付いたところである。それでも「指犹凉」とは、指先がまだ碁石の冷たい感触を覚えているということで、いままさに丁度勝負がおわった、というところである。

対になった箇所を考えてみる。
「“宝鼎”と“幽窓”」であるが、上の句の「鼎(かなえ)」はもともと王者がもつ祭器であり、とくに「宝鼎」といえば富貴と権勢を象徴している。これが壁の崩れかけた、隠者の住処である「幽窓」と対になっているのである。
「“茶”と“棋”」はともに隠棲した士大夫の生活に欠かせない楽しみである。また当然、碁をうつのであるから、主と客の対がある。また上の句では三足の金属製の鼎で茶を煮ることが主題であり、下の句では四足の木製の碁盤で囲碁を打つことが主題であり、これも道具と所作が対を成している。
「“閑”と“罷”」はそれぞれ“閑静“、“罷免“の意味を暗示し、意味の上で対を成すと同時に、身近に鼎のあるような宮廷政治の生活を罷(や)めて、粗末な庵室で閑静な隠遁生活にはいったという、対称的な生き方を暗示しているのだろう。
「“烟尚緑”と“指犹凉”」であるが、“烟が尚(な)を緑“とあるが、上の句では未だ冷め切らぬ温かい茶があり、下の句での碁石の冷たい感触と対になっている。ここでも視覚だけではなく、温感と冷感という皮膚感覚の対称を織り込んでいる。
さらにいえば、「茶を飲む」あるいは「茶を煮る」というのは、当時の一種の時間表現であり、紅楼夢の中でも「お茶を一杯飲み終わるほどの時間」というような表現がしばしば用いられる。ここでは囲碁を囲む前に茶を煮立てはじめ、鼎の下で焚いた炭が尽きて火が消えるほどの時間をかけて、囲碁に打ち興じている様をうたっている。すなわち茶を煮立てる比較的短い時間と、長考を戦わせた後に対局が終わる長い時間との対比である。またさらに鼎から茶の烟が未だに立ち上っている様子と、ちょうど今対局が終わったばかりという一瞬を対比させているのである......小生が読み解けるのはこの程度だが、他にもあるかもしれない。
ともかくこれでもかこれでもかと、語句の意味やイメージ、感覚の対称を重ね合わせ、即興で對聯を作り上げる賈宝玉の才能というのは、たしかに科挙の試験に向く性質のものではないのかもしれない(最後には進士及第するのではあるが)。しかし父親の賈政にとっては、多少はこの頭の痛い息子を見直す気にもなったのか、珍しく宝玉のために上機嫌になるのであった。

この回にはあとふたつ、宝玉が作った對聯があるのだが、長くなったのでここで一度区切りたい。
落款印01

古硯微凹聚墨多 〜紅楼夢第四十八回より

紅楼夢の第四十八回に、香菱が詩を林黛玉に学ぶ場面がある。

黛玉を捉まえて香菱は作詞の手ほどきを願う。そして『香菱笑道、“我只愛陸放翁的詩‘重簾不卷留香久,古硯微凹聚墨多’、説的真有趣!”』
「香菱が笑って言うには「私はただ陸放翁の詩“重ねた簾は巻かずして久しく香りを留め、古硯は微(かす)かに凹(くぼ)み墨を聚(あつめ)ること多し”という一句の説くところは本当に趣があるとおもいます。」
香菱の言葉を聞いて黛玉は『黛玉道、“断不可学這様的詩。你們因不知詩、所以見了這浅近的就愛、一入了這个格局、再学不出来的。』
「断じてそのような詩を学んではならないのです。あなたたちは詩を知らないので、そのような浅薄な詩を少し読んだだけで愛してしまうのです。いちどそのような“格局”に入り込めば、ふたたび勉強しなおそうとしても手遅れになります。」
“格局”とは、格式、布局のことで、詩文を支える構成、あるいはその格調を言う。つまりは俗悪なクセがついたら最後、勉強しなおしても手遅れですよ、と言っているのである。

そして『你只聴我説、你若真心要学,我這里有<王摩詰全集>你且把他的五言律読一百首、細心揣摩透熟了、然后再読一二百首老杜的七言律、次再李青蓮的七言絶句読一二百首。肚子里先有了這三个人作了底子、然后再把陶渊明、応、謝、阮、庚、鮑等人的一看。你又是一个極聡敏伶俐的人、不用一年的工夫、不愁不是詩翁了!”』
「あなたはただ私の言うことを聴いて、あなたがもし心底から詩を学びたいのであれば、私のところにある「王摩詰全集」がありますからこの王維の五言律詩を百首読み、心を砕いて揣摩(しま)透熟(とうじゅく)し、しかる後にふたたび老杜(杜甫)の七言律詩を百〜二百首だけ読み、次ぎに李青蓮(李白)の七言絶句を百〜二百首ほどを読むのです。
お腹に先(ま)ずこの三人をしっかりとおさめたら、基礎は完成したといえるでしょう。しかる後に陶渊明、応、謝(霊運)、阮(籍)、庚(信)、鮑(照)を一通り鑑賞するのです。あなたは聡明で怜悧(れいり)な方ですから、一年も努力しないうちに、“詩翁”(陸游の放翁にかける)になれないなどという心配はいらないでしょう。」
“揣摩”は推量、”透熟”はここでは詩の内容を精密に知悉すること。つまりはすっかり頭に入れてその意味内容や指し示すところを考えながら習熟しないさい、ということになろうか。

林黛玉に酷評された南宋の詩人陸游(放翁)の詩の全文は以下のようなものである。話が大分それてしまうが、一応簡単に解釈を試みる。

美睡宜人勝按摩 江南十月気犹和
重簾不卷留香久 古硯微凹聚墨多
月上忽看梅影出 風高時送雁声過
一杯太淡君休笑 牛背吾方扣角歌

美睡は人に宜(よ)きこと按摩に勝れり、江南十月の気は犹(な)お和(やわら)かき
重簾(じゅうれん)は巻かずとも香を久しく留め、古硯は微(かす)かに凹み墨を聚(あつ)むること多し。
月上(のぼ)り忽(たちま)ち梅影の出(い)でるを看る、風高く時に雁声(がんせい)の過ぐるを送る。
一杯淡きこと太(はなはだ)しく君は笑うを休めよ、牛背に吾は方(まさ)に角を扣(たた)き歌う。

旧暦の十月は新暦の10月下旬から12月初旬。晩秋を歌う詩である。「重簾不卷留香久」は陶淵明の「采菊東籬下 悠然見南山」(菊を采(と)る東籬(とうり)の下(もと)、悠然と南山を見る)を下敷きにし、白居易の「香炉峰雪 撥簾看」(香炉峰の雪は簾をかかげて看る)を重ねている。
「香炉」で焚く御香であるが、香を嗅ぐことを古来「香りを看る」という。この詩句は枕草子にも出てくるから、ご存知の方も多いと思われる。簾を巻き上げると窓から雪の積った香炉峰が見えるのであるが、「香炉」の「香り」を「看る」ことと、「香炉峰」の「雪」を「見る」ことをかけている。
さらにこれに陶淵明の詩の「采菊東籬下」のイメージを重ねている。東籬すなわち東側の垣に菊が植えられており、そのすぐ側に簾を重ねた窓があって、重ねた簾からも菊の香りが感じられることをうたっていることになる。
同時に簾を巻かないのだから香炉峰の雪は見られない、見るまでもない、つまりまだ冬に至らない晩秋の情景ということになる。そして、簾をかかげた窓に面て机が置かれ、机の上には古い硯がひとつ。その硯の墨堂に、磨った墨液が湛えられているのである。
また白居易も陶淵明も官を退いて、隠棲したときにこれらの詩をよんでいることも、陸游の境遇と重なるものである。
「古硯微凹聚墨多」であるが、硯には、わずかに硯面を凹面につくり、墨を磨りながら墨液を墨堂へ溜める格好の作りがある。古硯などに見られる場合、初めは平面に作ってあった墨堂が磨墨によって摩滅し、窪みが出来たというような解釈がなされる。
“硯が臼になった“というと、硯が摩滅して臼のようになってしまうほど、墨を磨り書写に励んだことを言う。米芾の「海嶽名言」に曰く「智永硯成臼、乃能到右軍。若穿透、始到鍾索也。」(智永は硯が臼になるまで猛練習したので、王右軍(羲之)の域にまで達することができたのだ。もし硯に孔が空いてしまうほどに修練を重ねたならば、はじめて鍾や索靖の域に到達できたであろう。)とある。
使えなくなった筆数千本で「筆塚」を築いたり、千字文を八百巻書いて寺に配布したなど、とかく猛烈に書写に励んだと言われる智永にたいして、「もっとたくさん練習していたら鍾になれたのに。」とはあんまりといえばあんまりな言い方であるが、米芾が智永より王羲之より、鍾や索靖を高く評価しているというように解釈できようか.....
新老坑小硯新老坑小硯
実際に、堅牢な硯材であれば、磨墨によって僅かでも硯面をくぼませるというのは非常に困難である。よほど粗悪な墨を力任せにぐいぐいと磨っていればどうなるかわからないが、優良な硯石というのは研磨に非常に強い性質を持っている。まったく摩滅しないということはなかろうが、目に見えて墨液が溜まるほどに凹ませるのは相当な使用頻度によるだろう。
硯面が微妙に凹面を為しているのは、少量の墨液を作って使うのに非常に便利である。であるから、もとから硯面を凹面に作っているという場合が殆どであろうと考えている。
陸游は官界を離れ、長い隠棲生活の間に数多くの詩作を行っている。磨墨によって凹んだ「古硯」とは、実は陸游が長年使った硯であると見ることができるだろう。これは自らの修練によって凹んだのであり、官界にはいるまでに勉学に励み、また官界に入ってからの実務や学芸に勤しんだ過去を暗示する。また湛えられた多くの墨液は、多作で知られる陸游の溢れんばかりの詩藻を象徴していると読むことができる。
「梅影」は月明かりに映し出された梅枝の影。これも常套句である。「一杯太淡」はうすい濁り酒である。ここでは農村の晩秋がえがかれているが、現在の中国製ビールではないが、農村の酒は酒精度の低い濁り酒と相場が決まっているのである。蘇軾の「月夜与客飲酒杏花下」に「山城薄酒不堪飲」(山城の薄酒、飲むに堪えざらん:山城は田舎のこと。田舎酒は薄くて飲めたものじゃない。の意)とある。そして最後は水牛の背にまたがって、角を扣(たた)いてうたうのである。

(拙訳)
心地よい眠りは、按摩をしてもらうのに勝るものだ。江南の十月の気候は温暖で晩秋だと言うのに暑くも無く寒くもない。(快適に眠ることができる)
重ねた簾を巻き上げなくとも、窓の外から菊の香りが漂ってくる。卓上の古い硯は使い込んでわずかに凹面を為していて、墨を磨るとたっぷりとした墨液が溜まる。
窓の外には月が昇り、たちまち梅枝の陰影が映し出されるのが見える。風が高い秋の空を吹きすさび、時折空を渡ってゆく雁の群の鳴き声が通り過ぎてゆく。
一杯の農村の濁り酒は薄いことはなはだしい。君はしばし笑うのをやめたまえ。わたしはあの水牛の背に乗り、角を扣(たた)いて歌って興を添えよう。
上海博物館蔵 唐寅「封田耕読図軸」上海博物館蔵 唐寅「封田耕読図軸」
陸遊の詩はこれくらいにして「紅楼夢」に戻りたい。

林黛玉が香菱に説いた作詩の学習法は、作者の曹雪芹の詩学を反映しているといえるが、あるいは当時としてもオーソドックスな学び方であったのかもしれない。
漢詩は唐代に完成されたと言われるが、王維の五言律詩、杜甫の七言律詩、李白の七言絶句はそれぞれ三者がもっとも得意とした詩の形式である。それをまずは徹底的にお腹(頭)に入れなさい、と説いているのである。
この場合の「読む」はすっかり暗謠してしまうことである。王維杜甫李白以外の陶淵明等の詩は「看」とあるが、これは暗記するまでもなく鑑賞せよ、というところになる。
黛玉は陸游を否定したというよりも、「重簾不卷留香久 古硯微凹聚墨多」を不可としたのである。ただ、基礎を学んだ後に看るべき詩人の中にも挙げていない。陸游も宋代における代表的詩人の1人で、“小李白“とも言われる名手であるが、それでも初学者が学ぶには”ケレン味”がありすぎるということなのか。書の学習で言えば、宋代の四大家や明清の名家に学ぶ前に、まずは唐楷をみっちり練習しないさいということなのかもしれない。

ともかく、墨が磨り減って凹面になるまで書写に励んだり、詩を何百首も暗記するというのは、現代から見ればよほどの修練のように見える。士大夫として生きた陸游にとって、詩文や書写の修練は生涯を支える重要な日課であった。
しかし時代は異なるが、香菱や黛玉達は、純粋に文学的関心から作詩に親しんでいたのであり、あくまで趣味の領域は出ない。後世に残そうとか、発表して有名になろうとかいうことではないということは、作中にも明言されているのである。
そんな無名の一姑娘であっても、南宋の高級官僚であり、大詩人をこき下ろしてはばかるところが無い。文字、文章というものが、圧倒的に男性の所有物であった中国の文学史において、この意味の重さを考えなければならない。
そもそも「紅楼夢」に登場する多くの女性の才能は、男性のそれをはるかに上回っているという前提があるのだが、ここにも文芸における男女の地位をサラリと転倒させてみせる、曹雪芹の筆の冴えが見られるのである。
落款印01

| 1/2PAGES | >>

calendar

S M T W T F S
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   
<< October 2018 >>

selected entries

categories

archives

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM