程大約「筆花生夢賦」 ?
程大約「筆花生夢賦」の2回目。
「一日夢境、見架上管城曄然生花、喜而弄之、醒覚聰明、稍益質之文通疇。昔之夢為不爽、焉吁嗟嗟乎、事亦奇矣。由是漸著作之、林宗弟巨源曁一二友人、時時見過、相輿彈射。遂使奉教於大雅君子得宣幽憤之懐傳播區宇。沉冤幸釋、雖實天之所啓、抑亦精神之所感召歟。乃茲纂集墨苑追憶其事屬良史圖而載之併以賦云。」
「一日、夢境に架上(かじょう)の管城(かんじょう)、曄然(ようぜん)として花(か)を生ずるを見、喜びて之を弄(もてあそ)び、醒覚(せいかく)して聰明(そうめい)、質の文を稍益(しょうえき)し通疇(つうちゅう)。」
「架上」は筆架、「管城(かんじょう)」は筆の美称である。これは唐代は韓愈(かんゆ)の「毛穎(もうえい)伝」に見える「秦皇帝使恬賜之湯沐、而封諸管城、号曰管城子、曰見親寵任事」から採っている。
製筆史の上では、秦の将軍蒙恬(もうてん)は、現在の安徽省南東部の宣城付近を占領した際に、周辺に生息する野兎の毛を用いてすぐれた筆を作ったといわれている。韓愈はその伝承をアレンジして「毛穎伝」を書いた。
「毛穎伝」では始皇帝が蒙恬の功績を嘉して「湯沐(ゆあみ)」を下賜し、「管城」に封ぜられ、「管城子」を名乗らせたとしている。「管城」すなわち「筆」が蒙恬という、歴史上の人物に擬せられるのである。始皇帝が蒙恬に賜った「湯沐」とは、もちろん筆を洗うことである。「管城」の「管」もすなわち「筆管」のことである。「管城」とは、より具体的には「宣城」を指すといえるかもしれない。
古代の士大夫、文章家達は、身近な文房四寶を擬人化してさまざまな詩文にうたい、親しんできた。この趣向というのは、先に蘇軾の「万石君羅紋伝」を紹介した際でも述べた。宣城は現代でこそ湖筆の陰に隠れてしまっており、その筆の品質も見るべき物が少ないが、歴代名筆工を出した名産地なのである。
程大約は、その筆が光輝いて花を生じたことから、喜んでこれをもてあそんでいたところで目覚め、「聰明」になったということだ。「聰明(そうめい)」は現代中国語では頭が良いという意味だが、いわゆる「道理」を理解して「クリア」になった状態である。
「質之文」の意味であるが「質」には「誠信」という用法がある。すなわち「質の文」で「誠信の文」ということである。つまり「誠信の文」は「通疇(つうちゅう)」であるといっているのである。
「通疇」は易経に見える「畴通俦」である。これは八卦の「九四」にあたり「有命无咎,志行也。」とある。困難に遭うも、「有命」すなわち天命であり「无(無)咎(とが)」つまりは罪ではないということである。また「志行也」とは、その志しを押し通して良いということである。文章に誠意を込めれば、罪ははれてその志がまっとうされる、というところだろう。
「易経」といえば、現代では「占い師」か中国思想の研究者など、かなり特殊な職業の人にしか読まれていないかもしれない。しかし当時の士大夫の子弟にとっては、科挙受験の必須のテクストであり、最下級の試験に挑む場合でも、でもこれを諳(そら)んじていることを求められた本である。先に「綜困(そうこん)」とあったように、詩文で「易経」の語句が使われることは珍しいことではない。
この「通疇」の部分には、獄中で「程氏墨苑」の編纂を進め、また冤罪を訴え続けた程大約の想念が濃厚に表れているかのようだ。
(大意)「あるとき夢の中で、筆架におかれた筆が光り輝き、その筆鋒から花が咲いているのを見た。喜んでこの筆を手にとってもて遊んだ。夢から覚めると、道理がクリアになり、至誠をこめた文章というのは罪を晴らし、その志を為さしめるものであることを、ようやくにして悟ったのである。」
「昔の夢に不爽(ふそう)を為せど、焉(いずくん)ぞ吁嗟嗟乎(ああ)、事は亦(ま)た奇(き)。」
「昔の夢」は江淹の夢。「不爽(ふそう)」は「大差ないこと」つまりは(人に筆を与えられたという)江淹の夢に大差はないが、なんとも不思議なことではないか、ということである。「吁(う)」「嗟嗟(ああ)」もともに感嘆、慨嘆を表す語であるが「焉(いずくんぞ)」と併せて、「ああなんとも不思議なことである。」という深い感慨の念をあらわしている。
夢にインスピレーションを得た、という話は洋の東西を問わないが、程大約の場合も夢を契機として文学的才能が開花し、その意義を悟ったということを言っている。
つまりは夢に筆花を見て以来、ようようにして人に見せられる詩文をつくることができるようになったということであり、またその文才をもって冤罪を晴らすべく奮起したというところだろう。
(大意)「その昔の江淹の夢と大きな違いはなが、ああなんとも不思議なことではないだろうか。」
「是れ由えに漸(ようや)く之を著作し、林は宗弟(そうてい)巨源、一二の友人に曁(およ)ぶ。時時に見過(けんか)、相輿(そうよ)して彈射す。」
とある。
「是由」というのは、夢を見たことを契機として「之」を著作した、つまりは「之」を文章に書き表したということである。「之」とは、後述するように程大約の冤罪事件のあらましのことである。
次の「林」は「衆」に同じ。ここでは「仲間」というくらいの意味で良いだろう。次の「巨源」とは、明代徽州の文学者で程巨源のことである。程巨源は程氏墨苑にも墨賛を寄せている人物であるが、徽州は休寧(きゅうねい)の人とされる。徽州では著名な劇作家であったようで、戯作「西厢記」は現代でも著名である。また「宗弟」とある。程大約の「宗弟」ということであるが、つまり「程巨源」は、「程氏宗族」における長幼の序列に入るという事であろう。
徽州にあって「程氏」は幾つかの分派に分かれており、「宗弟」と言った場合は同じ宗廟をまつる一族の間柄ということになる。
ともあれ程巨源と1〜2人の、決して多くは無い友人等に文を見せたということだ。
「見過」はここでは程大約の書いた文を読むことだが、より具体的には批評し合うということだろう。「時時」は「時々」ではなく、「常々」のである。「相輿」は相乗りの籠であり、「彈射」は弾丸を発射することだが、古語では言語を用いて特定の人を論難することである。すなわち糾弾、指弾ということである。
「相輿」して「彈射」するのだから、彼の友人等と一緒に論陣を張り、冤罪を晴らすための文を書き、発表していったということであろう。すなわち夢で悟ったところの「質(至誠)の文は通疇(つうちゅう:罪をはらし、志しを遂げる)」ことを行ったのである。
たとえば現代においても、検察と係争中の著名人が本を書いて世論に冤罪を訴えるといったことがしばしば見られることを考えれば、理解しやすいであろう。
(大意)「そういうわけでようやく事情を文章に書きわして、仲間と言えば宗弟の巨源や一、二の友人であるが、彼らに常々読んでもらい、一緒に忘恩の輩を指弾していった。」
「遂(つい)に大雅(たいが)の君子に奉教(ほうきょう)して、幽憤(ゆうふん)の懐(かい)を宣(せん)して區宇(くう)に傳播(でんぱ)するを得しむ。」
「大雅の君子」というのは、具体的には当時の文壇の著名な作家ということだから、すなわち「奉教する」というのは、文壇の著名作家の講評を得たというところであろう。
士大夫の生涯にとっての中心課題は、もちろん「文章」や「詩」を作ることである。紅楼夢で黛玉や宝玉達が詩の結社を作ったように、当時無数の詩文の結社やサークルが生まれては消えていった。そうした無数の結社のなかに、地域ごとにその地域を代表する有力なグループがおり、その中心人物はすなわちその地域の文化を代表する人物と目されるのである。有力なグループはその構成員がそれぞれ別のグループの長であったり、他地域の著名な結社と交流があったりもする。
たとえば徽州は西溪南においては汪道昆が主宰した「豊干社」があり、その幹部には汪道昆を含む「豊干七子」がいる、といったような具合である。そこへ他地域から李維?(りいてい)や朱多炡(しゅたせい)のような人物が訪問したり、結社に加わることもある。
そのような中小の結社が集まる中で自然と周囲に影響力を認められるグループが現れ、その中心人物の講評を得るという事は、すなわち当時の文学界に広く知れ渡ることを意味するのである。
「區宇」は天下、宇宙、すなわちここでは「世間」ということであるが、端的には当時の「文壇」ということになるだろう。そこに「幽憤の懐」を傳播(でんぱ)したということである。
「幽憤の懐」とあるが、程大約には「圜中草」という、獄中時代に詠まれたという詩文集がある。小生は未読であるが、日本の国会図書館に納められているということだ。「圜」はすなわち「圓(円)」のことであるが、「圜中」は「獄中」のことである。
「幽憤の懐」は、より直接的には、自らの冤罪、無実を晴らすための文である。しかし当然のことながら、文壇で支持を得るためには、優れた文である必要がある。
(大意)「ついに文壇の名士の推薦をいただき、牢獄における私の心情を宣布して、ひろく世間の人にそれをしらしめることができたのである。」
「沉冤(ちんえん)は幸(さいわい)に釋(しゃく)す。實(じつ)に天の啓(けい)する所と雖(いえ)ども、抑(あるい)は亦(ま)た精神の感ずる所を召(しょう)さんか。」
「沉冤(ちんえん)」はすなわち「冤罪」。それが幸いに「釋(釈」すというのだから、冤罪で投獄されたが、幸いに釈放されたということである。「冤罪」に陥れたのが、自分が恩を施した近親者であるというのだから、その痛憤のほどはいかばかりか?というところである。
殺人の冤罪で投獄された事は、よくも悪くも彼の人生に重大な影響を与えたようだ。しかも冤罪を着せたのは程大約の一族や友人達であり、しかも彼らの苦難を救ってやった後のことなのである。このことは「程氏墨苑」に付された「続中山狼傳」から読めるのだが、その内容を紹介するのは別の機会にしたい。
「続中山狼傳」の内容は、程大約側からの視点による事件の概要である。あるいは「忘恩の輩」と罵られている、方于魯を初めとする程大約の親類友人達の方にも、存念があるやもしれない。しかしあくまで程大約の主観からみれば、社会的経済的に、また精神的に深刻な傷を負った事件である。その事件を克服することが、どうやら程大約にとっての大きな創作動機であったとは言えるかもしれない。
少し面白いのが、冤罪を晴らす行動をとる契機となった「筆花の夢」を「天の啓示」としながらも、「精神の感ずる所」として、もしかすれば自分の潜在意識の中で生じた想念が、夢となって現れたのではないかと述べている点である。自己の精神を分析し、より合理的な解釈をしようとしている点などには、程大約の素養における、科学性が感じられるところだ。
「冤罪は幸いにして晴れた。(筆花の夢を見たのは)まったく天の啓示ともおもわれるが、あるいは私の精神が無意識に感じていたところが夢に現れたのだろうか。」
長くなるので、残りは3回目に。
旧友や親族の忘恩を詰って「中山狼図」あるいは「中山狼傳」を墨苑に付属させた程大約であるが、ここでは名指しで非難を加えていない。あくまで喩えをもって「諭した」という体裁になっている。しかしそれでも腹に据えかねることがあったのか、「続中山狼傳」では実名入りで事の詳細が述べられているのである。
小生としては程大約と方于魯との確執に白黒をつけるのは目的ではないし、意味の有る行為とも思われない。程大約の主観によって書かれた「続中山狼傳」を基に、方于魯や程大約の親族を難じるのも、アンバランスな見方である。
これも「続中山狼傳」を紹介する際に詳細を述べたいが、製墨業以前に程大約が営んでいた商売というのは、実は今で言う“高利貸”なのである。これでかなりの資産を築いたことが察せられ、またその財力を製墨や出版事業に傾注したことがわかる。職業を差別するわけではないが、ひとつ間違えば、何かと恨みを買いやすい業種ではあっただろう。とくに明代後期は、インフレーションが昂進した時代である。物価が上がる時代に高利で貸付を行うというのは、悶着なしにはすまないものである。
経済活動の盛んな徽州にあっては、当然のことながら金融業も発達していた。清朝末期には広東へ移り、金融、証券事業も手がけた徽州の人々である。程大約もこれを行って巨利を得たのであるが、まったく反感を買わないと言うわけにはゆかなかったかもしれない。方于魯の「忘恩」の内容はともかく、親族との摩擦は結局は金銭トラブルが発端になっていることも、何事かを示唆している。また「墨苑自序」では方于魯が他人と金の貸し借りを巡ってトラブルになり、自分が彼を捕縛したとも述べている。このあたりにも、何らかの事情が潜んでるのかもしれない。
とはいえ、仮に程大約の人格に欠点があったからといって、あるいは社会的に過失を負う身であったからといって、彼の製墨事業や「程氏墨苑」の文化的な価値が減じられるものではない。それは程大約が論難するように、方于魯の素行に非難すべき点があったからといって、方于魯の墨や墨譜を貶めるにはあたらないのと同様である。
(つづく)
「一日夢境、見架上管城曄然生花、喜而弄之、醒覚聰明、稍益質之文通疇。昔之夢為不爽、焉吁嗟嗟乎、事亦奇矣。由是漸著作之、林宗弟巨源曁一二友人、時時見過、相輿彈射。遂使奉教於大雅君子得宣幽憤之懐傳播區宇。沉冤幸釋、雖實天之所啓、抑亦精神之所感召歟。乃茲纂集墨苑追憶其事屬良史圖而載之併以賦云。」
「一日、夢境に架上(かじょう)の管城(かんじょう)、曄然(ようぜん)として花(か)を生ずるを見、喜びて之を弄(もてあそ)び、醒覚(せいかく)して聰明(そうめい)、質の文を稍益(しょうえき)し通疇(つうちゅう)。」
「架上」は筆架、「管城(かんじょう)」は筆の美称である。これは唐代は韓愈(かんゆ)の「毛穎(もうえい)伝」に見える「秦皇帝使恬賜之湯沐、而封諸管城、号曰管城子、曰見親寵任事」から採っている。
製筆史の上では、秦の将軍蒙恬(もうてん)は、現在の安徽省南東部の宣城付近を占領した際に、周辺に生息する野兎の毛を用いてすぐれた筆を作ったといわれている。韓愈はその伝承をアレンジして「毛穎伝」を書いた。
「毛穎伝」では始皇帝が蒙恬の功績を嘉して「湯沐(ゆあみ)」を下賜し、「管城」に封ぜられ、「管城子」を名乗らせたとしている。「管城」すなわち「筆」が蒙恬という、歴史上の人物に擬せられるのである。始皇帝が蒙恬に賜った「湯沐」とは、もちろん筆を洗うことである。「管城」の「管」もすなわち「筆管」のことである。「管城」とは、より具体的には「宣城」を指すといえるかもしれない。
古代の士大夫、文章家達は、身近な文房四寶を擬人化してさまざまな詩文にうたい、親しんできた。この趣向というのは、先に蘇軾の「万石君羅紋伝」を紹介した際でも述べた。宣城は現代でこそ湖筆の陰に隠れてしまっており、その筆の品質も見るべき物が少ないが、歴代名筆工を出した名産地なのである。
程大約は、その筆が光輝いて花を生じたことから、喜んでこれをもてあそんでいたところで目覚め、「聰明」になったということだ。「聰明(そうめい)」は現代中国語では頭が良いという意味だが、いわゆる「道理」を理解して「クリア」になった状態である。
「質之文」の意味であるが「質」には「誠信」という用法がある。すなわち「質の文」で「誠信の文」ということである。つまり「誠信の文」は「通疇(つうちゅう)」であるといっているのである。
「通疇」は易経に見える「畴通俦」である。これは八卦の「九四」にあたり「有命无咎,志行也。」とある。困難に遭うも、「有命」すなわち天命であり「无(無)咎(とが)」つまりは罪ではないということである。また「志行也」とは、その志しを押し通して良いということである。文章に誠意を込めれば、罪ははれてその志がまっとうされる、というところだろう。
「易経」といえば、現代では「占い師」か中国思想の研究者など、かなり特殊な職業の人にしか読まれていないかもしれない。しかし当時の士大夫の子弟にとっては、科挙受験の必須のテクストであり、最下級の試験に挑む場合でも、でもこれを諳(そら)んじていることを求められた本である。先に「綜困(そうこん)」とあったように、詩文で「易経」の語句が使われることは珍しいことではない。
この「通疇」の部分には、獄中で「程氏墨苑」の編纂を進め、また冤罪を訴え続けた程大約の想念が濃厚に表れているかのようだ。
(大意)「あるとき夢の中で、筆架におかれた筆が光り輝き、その筆鋒から花が咲いているのを見た。喜んでこの筆を手にとってもて遊んだ。夢から覚めると、道理がクリアになり、至誠をこめた文章というのは罪を晴らし、その志を為さしめるものであることを、ようやくにして悟ったのである。」
「昔の夢に不爽(ふそう)を為せど、焉(いずくん)ぞ吁嗟嗟乎(ああ)、事は亦(ま)た奇(き)。」
「昔の夢」は江淹の夢。「不爽(ふそう)」は「大差ないこと」つまりは(人に筆を与えられたという)江淹の夢に大差はないが、なんとも不思議なことではないか、ということである。「吁(う)」「嗟嗟(ああ)」もともに感嘆、慨嘆を表す語であるが「焉(いずくんぞ)」と併せて、「ああなんとも不思議なことである。」という深い感慨の念をあらわしている。
夢にインスピレーションを得た、という話は洋の東西を問わないが、程大約の場合も夢を契機として文学的才能が開花し、その意義を悟ったということを言っている。
つまりは夢に筆花を見て以来、ようようにして人に見せられる詩文をつくることができるようになったということであり、またその文才をもって冤罪を晴らすべく奮起したというところだろう。
(大意)「その昔の江淹の夢と大きな違いはなが、ああなんとも不思議なことではないだろうか。」
「是れ由えに漸(ようや)く之を著作し、林は宗弟(そうてい)巨源、一二の友人に曁(およ)ぶ。時時に見過(けんか)、相輿(そうよ)して彈射す。」
とある。
「是由」というのは、夢を見たことを契機として「之」を著作した、つまりは「之」を文章に書き表したということである。「之」とは、後述するように程大約の冤罪事件のあらましのことである。
次の「林」は「衆」に同じ。ここでは「仲間」というくらいの意味で良いだろう。次の「巨源」とは、明代徽州の文学者で程巨源のことである。程巨源は程氏墨苑にも墨賛を寄せている人物であるが、徽州は休寧(きゅうねい)の人とされる。徽州では著名な劇作家であったようで、戯作「西厢記」は現代でも著名である。また「宗弟」とある。程大約の「宗弟」ということであるが、つまり「程巨源」は、「程氏宗族」における長幼の序列に入るという事であろう。
徽州にあって「程氏」は幾つかの分派に分かれており、「宗弟」と言った場合は同じ宗廟をまつる一族の間柄ということになる。
ともあれ程巨源と1〜2人の、決して多くは無い友人等に文を見せたということだ。
「見過」はここでは程大約の書いた文を読むことだが、より具体的には批評し合うということだろう。「時時」は「時々」ではなく、「常々」のである。「相輿」は相乗りの籠であり、「彈射」は弾丸を発射することだが、古語では言語を用いて特定の人を論難することである。すなわち糾弾、指弾ということである。
「相輿」して「彈射」するのだから、彼の友人等と一緒に論陣を張り、冤罪を晴らすための文を書き、発表していったということであろう。すなわち夢で悟ったところの「質(至誠)の文は通疇(つうちゅう:罪をはらし、志しを遂げる)」ことを行ったのである。
たとえば現代においても、検察と係争中の著名人が本を書いて世論に冤罪を訴えるといったことがしばしば見られることを考えれば、理解しやすいであろう。
(大意)「そういうわけでようやく事情を文章に書きわして、仲間と言えば宗弟の巨源や一、二の友人であるが、彼らに常々読んでもらい、一緒に忘恩の輩を指弾していった。」
「遂(つい)に大雅(たいが)の君子に奉教(ほうきょう)して、幽憤(ゆうふん)の懐(かい)を宣(せん)して區宇(くう)に傳播(でんぱ)するを得しむ。」
「大雅の君子」というのは、具体的には当時の文壇の著名な作家ということだから、すなわち「奉教する」というのは、文壇の著名作家の講評を得たというところであろう。
士大夫の生涯にとっての中心課題は、もちろん「文章」や「詩」を作ることである。紅楼夢で黛玉や宝玉達が詩の結社を作ったように、当時無数の詩文の結社やサークルが生まれては消えていった。そうした無数の結社のなかに、地域ごとにその地域を代表する有力なグループがおり、その中心人物はすなわちその地域の文化を代表する人物と目されるのである。有力なグループはその構成員がそれぞれ別のグループの長であったり、他地域の著名な結社と交流があったりもする。
たとえば徽州は西溪南においては汪道昆が主宰した「豊干社」があり、その幹部には汪道昆を含む「豊干七子」がいる、といったような具合である。そこへ他地域から李維?(りいてい)や朱多炡(しゅたせい)のような人物が訪問したり、結社に加わることもある。
そのような中小の結社が集まる中で自然と周囲に影響力を認められるグループが現れ、その中心人物の講評を得るという事は、すなわち当時の文学界に広く知れ渡ることを意味するのである。
「區宇」は天下、宇宙、すなわちここでは「世間」ということであるが、端的には当時の「文壇」ということになるだろう。そこに「幽憤の懐」を傳播(でんぱ)したということである。
「幽憤の懐」とあるが、程大約には「圜中草」という、獄中時代に詠まれたという詩文集がある。小生は未読であるが、日本の国会図書館に納められているということだ。「圜」はすなわち「圓(円)」のことであるが、「圜中」は「獄中」のことである。
「幽憤の懐」は、より直接的には、自らの冤罪、無実を晴らすための文である。しかし当然のことながら、文壇で支持を得るためには、優れた文である必要がある。
(大意)「ついに文壇の名士の推薦をいただき、牢獄における私の心情を宣布して、ひろく世間の人にそれをしらしめることができたのである。」
「沉冤(ちんえん)は幸(さいわい)に釋(しゃく)す。實(じつ)に天の啓(けい)する所と雖(いえ)ども、抑(あるい)は亦(ま)た精神の感ずる所を召(しょう)さんか。」
「沉冤(ちんえん)」はすなわち「冤罪」。それが幸いに「釋(釈」すというのだから、冤罪で投獄されたが、幸いに釈放されたということである。「冤罪」に陥れたのが、自分が恩を施した近親者であるというのだから、その痛憤のほどはいかばかりか?というところである。
殺人の冤罪で投獄された事は、よくも悪くも彼の人生に重大な影響を与えたようだ。しかも冤罪を着せたのは程大約の一族や友人達であり、しかも彼らの苦難を救ってやった後のことなのである。このことは「程氏墨苑」に付された「続中山狼傳」から読めるのだが、その内容を紹介するのは別の機会にしたい。
「続中山狼傳」の内容は、程大約側からの視点による事件の概要である。あるいは「忘恩の輩」と罵られている、方于魯を初めとする程大約の親類友人達の方にも、存念があるやもしれない。しかしあくまで程大約の主観からみれば、社会的経済的に、また精神的に深刻な傷を負った事件である。その事件を克服することが、どうやら程大約にとっての大きな創作動機であったとは言えるかもしれない。
少し面白いのが、冤罪を晴らす行動をとる契機となった「筆花の夢」を「天の啓示」としながらも、「精神の感ずる所」として、もしかすれば自分の潜在意識の中で生じた想念が、夢となって現れたのではないかと述べている点である。自己の精神を分析し、より合理的な解釈をしようとしている点などには、程大約の素養における、科学性が感じられるところだ。
「冤罪は幸いにして晴れた。(筆花の夢を見たのは)まったく天の啓示ともおもわれるが、あるいは私の精神が無意識に感じていたところが夢に現れたのだろうか。」
長くなるので、残りは3回目に。
旧友や親族の忘恩を詰って「中山狼図」あるいは「中山狼傳」を墨苑に付属させた程大約であるが、ここでは名指しで非難を加えていない。あくまで喩えをもって「諭した」という体裁になっている。しかしそれでも腹に据えかねることがあったのか、「続中山狼傳」では実名入りで事の詳細が述べられているのである。
小生としては程大約と方于魯との確執に白黒をつけるのは目的ではないし、意味の有る行為とも思われない。程大約の主観によって書かれた「続中山狼傳」を基に、方于魯や程大約の親族を難じるのも、アンバランスな見方である。
これも「続中山狼傳」を紹介する際に詳細を述べたいが、製墨業以前に程大約が営んでいた商売というのは、実は今で言う“高利貸”なのである。これでかなりの資産を築いたことが察せられ、またその財力を製墨や出版事業に傾注したことがわかる。職業を差別するわけではないが、ひとつ間違えば、何かと恨みを買いやすい業種ではあっただろう。とくに明代後期は、インフレーションが昂進した時代である。物価が上がる時代に高利で貸付を行うというのは、悶着なしにはすまないものである。
経済活動の盛んな徽州にあっては、当然のことながら金融業も発達していた。清朝末期には広東へ移り、金融、証券事業も手がけた徽州の人々である。程大約もこれを行って巨利を得たのであるが、まったく反感を買わないと言うわけにはゆかなかったかもしれない。方于魯の「忘恩」の内容はともかく、親族との摩擦は結局は金銭トラブルが発端になっていることも、何事かを示唆している。また「墨苑自序」では方于魯が他人と金の貸し借りを巡ってトラブルになり、自分が彼を捕縛したとも述べている。このあたりにも、何らかの事情が潜んでるのかもしれない。
とはいえ、仮に程大約の人格に欠点があったからといって、あるいは社会的に過失を負う身であったからといって、彼の製墨事業や「程氏墨苑」の文化的な価値が減じられるものではない。それは程大約が論難するように、方于魯の素行に非難すべき点があったからといって、方于魯の墨や墨譜を貶めるにはあたらないのと同様である。
(つづく)
お店:http://www.sousokou.jp BlueSkye:鑑璞斎