祝允明 唐子畏墓誌並銘

明代の文芸文化の発展が宋代のそれと異なっている点のひとつに、著名な詩人、書画家のうちに、官界での職位の高い者があまり見られない、と言うところであろうか。無論、官界での出世が、詩文書画の実力に相関などあるはずがないのだが、宋代の場合、欧陽脩や梅尭臣、王安石を始め、司馬光、蘇軾兄弟など、政府高官に詩人や名文家、書法に長けた者を多く輩出している。これは宋代に入って急に増えた知識人達を養うのに十分な経済が、まだ十分には発達していなかったことが理由にあるだろう。貴族制から脱し、地方の地主階級を中心として新たに知識人階級が勃興したが、蘇軾や王安石のような中央政界の高級官僚ですら、一度失職すれば自給自足でもするよりなかったのである。官途に無縁なまま、大家族を養いながら著作に専心するのは難しかったのだろう。政界に縁遠い黄庭堅も国立大学の学長ではあったし、自由不羈とみられる米芾ですら、地方の低い官職を転々としているのである。

明代に入ると、宋代とは逆に国政レベルの政治官僚や、地方太守といった権力者層に、見るべきほどの文化人が現れなくなる。祝允明や唐寅の生きた明代中後期の江南地方は、商業、文化が爛熟し、知識人の子弟のうちには官吏とならずとも、文筆でもって生計を立てることが可能な者が現れたのである。

こういった人士達の出現は、王朝時代においても社会が安定し、経済が活発な一時期に限られる現象である。明代の中〜後期は、遠く新大陸南米からの銀の流入により江南経済が過熱し、ありあまる経済力が文化面にも注がれたのであった。同様の現象は清朝初中期の江南でも塩業を基礎として再現し、袁枚や揚州八怪といった専業文化人が現れた。

祝允明自身は地方試験に合格し、”挙人”の資格は得たものの、唐寅と同様、ついに進士には及第しなかった。一度広東で県知事を務め、南京応天府の通判も務めてはいるものの、宮仕えに嫌気がさして以後はもっぱら蘇州にあって筆墨で生活したのである。

家譜の序文や碑文、銘文、特に墓誌銘を依頼されることが多かったが、内容は依頼者の注文通りに書いてやったと言う。墓誌銘には決まった形式があり、故人に好ましからざる所業があったとしても、むろんそれは書かない。せいぜい依頼者が喜ぶように美文で飾り立ててやるのである。依頼人は名高い祝允明の撰であるという事で大いに孝養をたてたつもりで、また世間への体面も良い。当の祝允明としては、こうした作文は潤筆料目当ての”応世の文”であって、自分の節義とは何ら関係ないのである。

 

この祝允明のような処世態度は市中の隠者、いわゆる”市隠”というべきものである。すなわち市井にあって俗世間と付き合い、生計を立てながらも節操はかえない、というところである。むろん”市隠”というような生き方は、教養を積んだ知識人のあり方としては社会に対してやや消極的、と言う向きもあろう。さりながら、祝允明は少し後の王陽明のように、後の社会に影響を及ぼすほどの哲学・思想家ではなかったとしても、やはり時代の文化を代表する人物なのであった。

数ある”祝允明撰”の墓誌銘であるが、この唐寅の墓誌銘はとりわけ異彩を放ち、哀切で胸を打つ内容である。これは唐寅の弟、唐申(子重)の依頼で書いている。 墓誌銘は故人の行状を依頼人に聞かなければ書けないが、祝允明は唐寅が十代のころから弟のようにかわいがっていた人物である。科挙の不正事件への連座もふくめて、唐寅の生涯を身近に目の当たりにしていただけに、時にその筆致は生々しい。祝允明にとっては、この墓誌銘は”応世の文”の類などではないだろう。唐寅の女婿である能書家の王寵がこれを浄書したというが、筆跡は伝わらない。 祝允明は墓誌銘の他、「哭子畏二首」「再挽子畏」の詩を作り、唐寅の死を嘆いている。

 

”墓誌銘”はすなわち墓誌と銘からなる。以下に大意を示す。



唐子畏墓誌並銘   祝允明



子畏(しけい)死す、余、歌詩(かし)を為し、往(ゆ)きて之を哭(こく)し慟(なげ)く。將(ま)さに葬(ほうむ)り、其の弟、子重(しちょう)、銘を為さんことを請う。

子畏、余の肺腑(はいふ)の友、子重に微(あら)ずも且(か)つ之を銘す。

ーーーー子畏が死んだ。私は詩をつくり、弔いに行って彼の死を嘆き悲しんだ。埋葬するに際して、その弟の子重は私に子畏の墓誌銘を書いてくれと頼んだのである。

子畏は私の心からの友人であり、たとえ子重に頼まれなくともこの墓誌銘を作るのである。



子畏の性、穎利(えいり)に絶し、千士(せんし)に度越(どえつ)す。

世の所謂(いわゆる)穎者(えいしゃ)、數歲にして能く科舉の文字を為し、童髫、科第に中(あ)たり、一日、四海(しかい)驚き之を稱(しょう)す。

子畏不然(しからず)、幼きより書を讀(よ)み、門外の街陌を識らず、其の中に屹屹(きつきつ)として、一日(いちじつ)千里の氣(き)有り。

ーーーー子畏(しけい)は生まれつき大変に賢かった。それは千人の士大夫の上に出るほどのものであった。

世のいわゆる賢い者というのは、数歳で科挙の答案を書く事が出来、まだ童形(どうぎょう)のうちに科挙に及第し、一日にして四海(しかい:世間中が)皆(みな)驚いてこれを賞賛する、というものである。

しかし子畏は違った。幼いころから本を読み、家の外の世間を知らず、(家と書物の世界の)中(うち)に孤高を守って、高い気概を保っていた。



友一人に或(とらわ)れず、余(よ)之を訪ねるに再(さい)、亦(また)答えず。

一旦(いっせき)、詩二章を以て余に投じ、傑特(けつとく)、之の志は錚然(そうぜん)たり。余亦(また)詩を以て報い、其の少しく舒を弘げるを加うるを勸む、萬物の轉高(てんこう)轉細(てんさい)を言い、未だ華峰の都聚を建てるべきを聞かず。惟(おも)うに天の極峻にして且つ無外、原(はじめ)て萬物の宗と為すが稿(ごと)しと。

子畏始めて肯可(ていか)し、久しゅうして乃ち大契す、然れど一意に古豪の傑を望み、殊(こと)に場屋(じょうおく)の事に不屑(ふせつ)す。

ーーーー友人は一人にとどまらなかったが、私が幾度か訪ねても、ろくに返答がなかった。

あるとき、二章の詩を私に寄越したのであるが、詩には彼の抜きんでて高い志が鳴り響いていた。 そこで私は彼にもう少し視野を広げるように進め、万物が変移流転するさまを説き、(喩えて言えば)眺めるには立派だがとても険しい山峰に、大きな都会が建設されるという事はまだ聞いたことないと言った。 (また喩えるなら)天は高みの極地にありながら、(その広がりは)極まりないものであり、それではじめて(老子の言う天道は)”万物の宗”となるがごとくである、と言った。 (つまり才能があってもそのように孤高を守っていては、大成しないよ、と説いたのである)

子畏は始めて納得し、しばらくして大いに意気投合した。しかしひたすらに古(いにしえ)の豪傑のように生きる事を望み、とくべつ科挙の事には関心を持たなかったのである。



其の父廣(とくこう),賈業し而つ士行す、將に子畏を用いて家を起こさんと、舉業(きょぎょう)に到り、歸して子畏を教える、子畏、父の旨に違(たが)うを得ず。

廣、常に人に語るに、此の兒は必ず名を成さん、家を成し難き殆(あや)うきや?父沒(ぼ)っすも、子畏猶(な)を落落(らくらく)。

一日、余之に謂いて曰く“子、先志を成すを欲さば、當(まさ)に且つ時業に事し、若(も)し必ず己れの願に從わば、便ち襕襆(らんぼく)を褫(はが)し、科策を燒くべし。今徒(いたずら)に泮廬(はんろ)に籍名(せきめい)し、目に其の冊子を接(う)けず、則ち取舍(しゅしゃ)奈何(いかに)”

ーーーー彼の父の徳廣は、商いをしながら、読書人の務めもしていた。子畏をもって家運をもりたてようと考え、(自ら)科挙の八股文を学び、子畏にこれを教えた。子畏は父の意志に従うしかなかった。

徳廣は常々人に、此の子はかならず名を成すだろう、大家を成すのは難しくないだろう、と言った。(しかし)その父が亡くなっても、子畏はまだうだつがあがらないままであった。

ある時、私は彼に言った。「君、志を実現したいというのであれば、まずあわせて生計を立てる道に専念すべきだ。もし念願がかなったら、そのときこそ官服を脱ぎ捨て、科挙の参考書など焼き捨ててしまえばいい。いまいたずらに学校に在籍しながら、教科書を読もうともしない、その選択はいかがなものか。」と。



子畏曰:“諾。明年當(まさ)に大比(だいひ)、吾れ試みて一年を捐(けん)じ力(つと)めて之を為さん、若し售(う)ること勿(な)ければ、之を一擲(いってき)する耳(のみ)。”即ち戸を墐(ふさ)ぎ交往を絶し、亦(また)時輩の講習を覓(もと)めず、治むるところの毛氏の詩と所謂(いわゆる)四書の者を前に取り、翻討(ほんとう)擬議(ぎぎ)、祗(まさ)に時義に合うを求める。

ーーーー子畏が言うに「わかりました。来年はちょうど郷試があります。私はためしに一年をささげて科挙の勉強に努力しましょう。もし合格しなければ、それをなげうつだけのことです」すなわち門戸をふさいで交友を絶ち、また当時の八股文教師の講義などは受けず、毛詩(詩経)を修得した者と、いわゆる四書を学んだ者とを前に、繰り返し討論し、文の意義を考え、それが現代においてどのような意味を持つか?という事を追求した。



戊午、應天府に試し、錄して第一人を為す。己未、會試に往く。時に傍郡に富子(ふうし)有り、亦已(すで)に鄉に於いて舉(あ)げ、子畏を師慕す、載りて與俱(とも)に北す。

既に試に入り、二場の後、富子に仇(あだ)する者有り、朝に於いて抨(はじ)き、主司(しゅじ)と私(わたくし)有りと言い、並(なら)んで子畏連(つら)なる。

ーーーー戌午の年、応天府(南京)の郷試を受験し、首席で合格した。(翌年の)己未の年、会試を受験しに(北京へ)出かけた。時に近郊の郡に資産家の子がおり、すでに郷里で郷試に合格して挙人になっていたが、子畏を師と慕い、乗り物に一緒に乗って北(の北京)へ行った。

試験が始まり二次試験まで進んだところで、この資産家の子に恨みを持つ者がいて、宮廷の場で弾劾して、(彼が試験監督である)主司と私的な関係があると言い、一緒に子畏も関連があるとされた。



詔(みことのり)を馳(は)せて禮闈(れいい)に敕(めい)じ、此の主司(しゅじ)閱卷を得(え)ざらしめ、亟(いそ)ぎ富子及び子畏を捕えて詔獄(しょうごく)に付し、主司を逮え出し、同じく廷に於いて訊(とが)む。

富子既に承し、子畏は辨を復さず、與(とも)に罰を同じく、浙藩の掾に黜(しりぞ)ける、歸りて往かず。或(ある)いは少(しば)らく貶(おとしめ)るを勸(すすむ)も、異時(いじ)亦(また)一命を失せず。子畏大笑、竟に行かず。

ーーーー(そこで)皇帝の命令書を会試会場に飛ばして命令し、この(試験監督の)主司に試験答案の閲覧を禁じ、急いでその資産家の子と子畏を捕えて投獄し、主司を逮捕し、一緒に法廷の場で訊問した。

資産家の子は既に罪を認めたが、子畏は抗弁はせず、(とうとう)一緒に同じ罰を受け、浙江の補助員として都を追放した。(子畏は郷里に)帰ったが任地へ行かず、ある者はしばらくの間我慢せよと勧めたが、子畏は大笑いをして、ついに(任地に)行かなかった。



放浪の形跡、翩翩(へんぺん)として遠遊(えんゆう)す。扁舟に獨(ひと)り祝融に邁(すす)み、匡廬、天臺、武夷、東南に海を觀、洞庭、彭蠡に浮かぶ。蹔(しばらく)して歸(かえ)り、將(まさ)に復た四方を踏み得んや。

久しくして少(やや)愈(い)え、稍(しばら)く舊(も)との緒(しょ)に治まる。

ーーーーその後の放浪の形跡をたどれば、あてどもなく遠方へ旅をしている。小さな小舟に独り浮かんで祝融(楚の国)に行き、匡廬(九江廬山)、天台(山)、武夷(山)、さらには東南の方で海をみて、洞庭湖、彭蠡(鄱陽湖)に浮かぶ、といった具合であった。しばらくして帰って来るや、すぐに出かけてあちらこちらを踏破した。

久しくそのようにしていて傷心も少しいやされ、しばらくしてもとのような生活に戻ったのである。



其の學務は造化(ぞうか)を窮研(きゅうけん)し、象數(しょうすう)を玄蘊(げんうん)し、律歴(りつれき)を尋究(じんきゅう)し、楊(よう)馬(ば)の玄虛、邵氏(しょうし)の聲音の理(ことわり)を求め、而して之を賛訂(さんてい)す。傍に風鳥に及び、壬遁、太乙、天人之間に出入し、将に一家の學を為す、未だ章に成るに及ばして歿(ぼっ)す。

ーーーーその学問は造化の理を研究し、易学の数理に玄妙深奥を極め、歴法の根底を探り、楊雄、司馬相如の詩賦、邵雍の音律を求めつつも、それに賛と訂正を加える、といったものだった。その合間に風鳥、壬遁、太乙といった(占星術にも通じ)、天の理(ことわり)と人の世の間を往来して、まさしく一家の学問と言うべきものを成したのだが、まとまった文章を作る前に亡くなってしまった。



其の應世に於ける文字、詩歌は甚だ惜まざるも、意謂(おもえら)く後世に是を知る在(あら)ざると、我れ一班(いっぱん)に見せて已(やま)ん。

奇趣(きしゅ)時に發っし、或いは畫に於いて寄す、筆を下さば輒(すなわ)ち唐宋の名匠を追う。

ーーーーその世に応じる文学としては、詩歌をそれほど重視していなかったが、これは後世その詩意を理解するものなどいないだろうと、ごく内輪の者に見せるだけであった。

変わった着想が時に沸いて、画に描くこともあったが、筆を下せば唐代宋代の巨匠に迫る腕前であった。



既に復た人の請乞を為す、煩雜して休ず、遂に亦(また)精に及ばざるを諦む。且つ已(すで)に四方(しほう)之を慕い、貴賤富貧と無く、日に門に詣で征(ゆ)きて文詞(もんじ)、詩畫(しが)を索(もと)め、子畏隨(ほしいまま)に之に應じ、而して必ずしも至る所を盡さず、大率(だいそつ)遐邈(かばく)に興(きょう)を寄せ、一時の毀譽(きよ)重輕(けいちょう)を以て取舍(しゅしゃ)を為さず。

ーーーー何度も人が(その書画を)乞い求めること、煩雑で休みなく、とうとう細部までの完成は諦めざるえなかった。また四方の人が彼を慕って、身分の高下、お金の有無にかかわらず、彼の家の門に日参しては文章や詩、画をもとめたが、子畏はきままに応じてやった。必ずしも注文どおりに書き尽くすわけではなく、おおよそ変幻自在なところに面白味があり、その時その時の人の評価による毀誉褒貶などは意に介さなかった。



子畏(しけい)事果に臨み、事多く大節を全うし、即ち不合の少なきは問わず。故に知る者は誠に之を愛寶(あいほう)し、玉(ぎょく)珍貝(ちんべい)に異ならんが若(ごと)し。 王文恪公最も慎予(しんよ)す可く、之を知るに最も深重(しんちょう)。知ざる者は亦た其の才望を歆(よろ)こばざる莫(な)し。而媢嫉(ぼうと)の者先後して之有り。

ーーーー子畏は物事に臨んでは、大きな節義を全うする事が多く、わずかな不都合などは問題にしなかった。だから彼を知る者は誠に宝として愛し、玉石や珍しい貝のように珍重した。王文恪公が彼を知るにもっとも深く、かつこれを重んじた。 (子畏の人となりを)よくは知らない者でも、彼の才能と名声を大いにもてはやしたのだが、しかしながらそれを嫉妬する者も前後して現れた。



子畏、財貨を糞土とし、或いは其の惠を飲し、諱(い)み且(か)つ矯(いつ)わり、其の菑(わざわ)い楽しむ、更に之を下(くだ)すに石とし、亦た其の禍の由を得る也。

ーーーー子畏は財産を糞土のように軽んじ、(父親が残した遺産の)恩恵は酒にして飲んでしまい、また細かい事は言わず、金が無くなっても高楊枝を鳴らし、その災いを(むしろ)楽しみ、更にお金をなげうつことはまるで石ころのようで、それがまた彼の病の元をとなったのである。



桂(かつら)伐(た)ち漆(うるし)割(わ)る、雋(しゅん)を害し特を戕(ころ)す、塵土(じんど)物態(ぶったい)、亦た何んぞ子畏を傷つけん、余(よ)子畏を傷つけるに是をもってせず。

英靈に気化し、人に大略數百歲一發の鐘、子畏之を得、一旦にして已矣(やんぬるかな)、この其の痛(つう)宜(よろ)しく如何(いか)に置かん。

人に過ぐるの傑(けつ)有りて、人歆(よろこ)ばず而して更に毀(こぼ)つ、世に高きの才有(あ)りて、世(よ)用いず而して更に擯(しりぞ)ける、此れ其の冤宜(めんぎ)如何にして已(や)まん。

ーーーー呉剛が幾度も天宮の桂樹を断ち切ろうとして切れず、初めてこれが特別な桂樹という事を理解したように、あるいは漆の木は傷つけられてはじめて漆の液を得るように(子畏はさんざん痛めつけられながらその才能を発揮したのである。そもそも)俊英を害し、特別な才能を殺すような、俗世間の小人輩などが、どうして子畏を傷つけることが出来ただろうか。私はつまらぬ過失でもって子畏を貶めるものではないと考える。

すでに英霊となってみれば、おおよそ数百年の歳月もあたかも一発の鐘の音のように過ぎ去る(はかない)人の一生、子畏はその生を得るも、あっという間に(貶められ、死んでしまい)どうすることもできなくなってしまった、この痛切な気持ちをどのようにすればよいだろうか。

人に勝る傑物でありながら、人はこれを喜ばすに排斥する、世間に高い才能があっても、世はこれを用いずに排斥する。このような、いずれ解くべき恨みはどのようにして終わりにすればよいのだろう。(私は貶められて終えた子畏の死が無念でならない。)



子畏文を為し、或いは麗(れい)或は淡(たん)、或は精(せい)或は泛、常態(じょうたい)無し、鍛煉の功を為すを肯(うべな)わず。

其の思、常に多く而して用を盡さず。 其の詩は初め秾麗(のうれい)を喜び、既に又(また)白氏に倣(なら)う、情性に達するに務め而して語は璀璨(さいさん)に終わる、佳者は多く古と合す。

嘗つて九鯉神に仙遊する夢、一担の惠之墨の夢を乞(もと)め、蓋(けだ)し終に文業を以て傳(つた)えん。

ーーーー子畏が作った文章は、あるいは華麗、あるいは恬淡、あるいは精密、あるいはとらえどころのない、といったもので決まりきったものではなく、良く煉って推敲し完成させようとはしなかった。

その思考はいつも豊富であったが、実用を為すためのものではなかった。 その詩は初めは艶やかでなまめかしい文辞を好んだが、まもなくして白居易に倣って(簡明なものになり)、自分の情緒に合致することにつとめながらも、語の用い方はきらびやかで輝かしく、その佳作は古人の趣に合っていた。

かつて九鯉湖へ遊んだ際に、夢に祈願をしたところ、一抱えもある墨を贈られる夢をみた。おそらくこれによって文筆の業を後世に伝えることになるだろう、と。



唐氏世吳人、吳趨裏に居す。子畏の母丘氏は成化六年二月初四日を以て子畏を生む、歲は庚寅に舍(あた)り、之の名を曰く寅、初字を伯虎、更に子畏とす。嘉靖癸未十二月二日に卒す、年(とし)五十四を得たり。徐を配し、沈継ぐ、一女を生み、王氏國士、履吉之子に許(とつ)ぐ。墓は堙箍Σ搬爾忘澆蝓

ーーーー唐氏は代々蘇州の人で、吳趨(ごすう)界隈に住んでいた。子畏の母の丘氏は成化六年二月初四日に子畏を生み、庚寅の歳にあたっていたので名を寅、初め字を伯虎、後に子畏とした。嘉靖癸未十二月二日に死す、享年五十四歳。妻ははじめ徐氏、のちに沈氏。(沈氏は)一女を生み、国士(国立大学校生)であり、履吉の子である王氏(すなわち王寵)にとついだ。墓は堙箍Σ搬爾砲△襦



子畏罹禍(らか)の後、好く佛事に歸し、六如と號し、四句の偈(げ)を取りて旨(となえ)えた。桃花塢の北に圃舍を治め、日に般(おお)いに其の中に飲み、客來らば便(すなわ)ち共に飲み、去るを問わず、醉いては便ち頹寢(たいしん)す。子重(しちょう)は名を申、亦た佳士、難弟兄(なんていけい)と稱(しょう)す也(な)り。

ーーーー子畏は病気にかかった後では、佛道を篤くうやまい、六如と(佛号)を号し、金剛経の末尾四句の偈語を取ってとなえた。桃花塢の北に農家を営み、しばしばその家で酒を大いに飲み、客が来れば一緒に飲み、もう帰りなさいとなどとは言わず、酔えば寝たいだけ眠った。弟の子重は名を申といい、やはりよき人物であり、(子畏とはどちらが年長かわからないほどの仲の良い)困った兄弟だ、と称した。



銘曰


穆天門兮夕開、紛吾乘兮歸來。

睇桃夭兮故土、回風衝兮蘭玉摧。

不兜率兮猶裴回、星辰下上兮雲雨漼。

椅桐輪囷兮稼無滯穟。

孔翠錯璨兮金芝葳蕤。

碧丹淵涵兮人間望思。

穆(ぼく:音もなく)として天門、兮、夕に開き、紛として吾(われ)乘りて、兮、歸り來る。

桃夭(とうよう)故土(こど)を睇(てい)し、兮、回風(かいふう)衝(つ)いて、兮、蘭玉(らんぎょく)摧(くだ)く。

兜率(とそつ:兜率天)不(あら)ずも、兮、猶を裴回(はいかい)、星辰(せいしん)下上し、兮、雲雨(うんう)漼(そそ)ぐ。

椅桐(きとう)は輪囷(りんこん)し、兮、稼(か)は滯穟(たいすい)無し。

孔翠(こうすい:孔雀と青鸞)錯璨(さくさん)、兮、金芝(きんし)葳蕤(いずい:繁茂)す。

碧丹(へきたん:天宮)淵涵(えんかん)、兮、人間(じんかん)望思(ぼうし)す。



語句の解説までいれると長くなりすぎるので、書き下しに大意を添えるのみとした。 祝允明と唐寅が知り合い、交友を深めていったところから書き始め、唐寅の生涯を概観し、その為人を説いている。 ”銘”では、唐寅の魂が天に昇っていく様が歌われている。助詞の”兮(ケイ)”は訓読しないが、歌の合間にいれて語調を整える役割である。古文復古の影響から、詩経の詩句がふんだんに取りいれられている。 兜率天は仏教用語であるが、この銘では死者が帰るべき天界、というような使われ方である。唐寅は晩年佛典に深く帰依したところからだろうか。あるいは死者の魂が天空に昇ってゆくというイメージは、明代中後期に伝来したキリスト教の影響も考えられる。いうなれば鎮魂歌のような銘である。

”一抱えもある墨”の夢であるが、唐寅が福建省の九鯉湖に遊んだ際、湖の神を祀った祠で夢を祈願した。今風にいうところの「夢」の実現を神様に祈願するのとは違って、この場合の「夢」というのは実際に睡眠時に見る夢である。一種の夢占いであるが、未来を預言する夢を見るように祈る場合と、希望する未来を夢に見せるよう、祈る場合などがある。前者はあらかじめ内容を問わないが、後者は見たい夢を見せるように祈るのである。 ゆえに桃花塢にこのことを記念して「夢墨亭」を建てている。

唐寅は現代においては書画によって名高いが、その志は文学にあった事は、もう少し省みられてもよいのではないかと思う。

 

祝允明と唐寅の交際は途切れなく続いていたようであるが、一方で文徴明とは時に亀裂が入ることもあり、また文徴明が幕僚稼業で蘇州にいない時期もあり、ときに断絶していたようである。このあたり、唐寅から見て年長者でありウマのあった祝允明と、同じ年頃で性格の違う文徴明とで、付き合い方に差があるのだろう。

唐寅の死の後も、祝允明は文徴明やまたその子の文嘉との交際は続いていたようである。

 

唐寅はむろん、当時の蘇州のみならず江南から都にも名の聞こえた名士であったが、一世を風靡した名士であっても、大半は忘れ去られるものである。まとまった文集を編むにいたらなかった唐寅の行跡が広く長く伝えられたのは、やはり祝允明や文徴明といった、畏友の存在が大きかったと見るべきであろう。


 

落款印01

程大約「筆花生夢賦」 ?

程大約「筆花生夢賦」の2回目。

「一日夢境、見架上管城曄然生花、喜而弄之、醒覚聰明、稍益質之文通疇。昔之夢為不爽、焉吁嗟嗟乎、事亦奇矣。由是漸著作之、林宗弟巨源曁一二友人、時時見過、相輿彈射。遂使奉教於大雅君子得宣幽憤之懐傳播區宇。沉冤幸釋、雖實天之所啓、抑亦精神之所感召歟。乃茲纂集墨苑追憶其事屬良史圖而載之併以賦云。」

「一日、夢境に架上(かじょう)の管城(かんじょう)、曄然(ようぜん)として花(か)を生ずるを見、喜びて之を弄(もてあそ)び、醒覚(せいかく)して聰明(そうめい)、質の文を稍益(しょうえき)し通疇(つうちゅう)。」

「架上」は筆架、「管城(かんじょう)」は筆の美称である。これは唐代は韓愈(かんゆ)の「毛穎(もうえい)伝」に見える「秦皇帝使恬賜之湯沐、而封諸管城、号曰管城子、曰見親寵任事」から採っている。
製筆史の上では、秦の将軍蒙恬(もうてん)は、現在の安徽省南東部の宣城付近を占領した際に、周辺に生息する野兎の毛を用いてすぐれた筆を作ったといわれている。韓愈はその伝承をアレンジして「毛穎伝」を書いた。
「毛穎伝」では始皇帝が蒙恬の功績を嘉して「湯沐(ゆあみ)」を下賜し、「管城」に封ぜられ、「管城子」を名乗らせたとしている。「管城」すなわち「筆」が蒙恬という、歴史上の人物に擬せられるのである。始皇帝が蒙恬に賜った「湯沐」とは、もちろん筆を洗うことである。「管城」の「管」もすなわち「筆管」のことである。「管城」とは、より具体的には「宣城」を指すといえるかもしれない。
古代の士大夫、文章家達は、身近な文房四寶を擬人化してさまざまな詩文にうたい、親しんできた。この趣向というのは、先に蘇軾の「万石君羅紋伝」を紹介した際でも述べた。宣城は現代でこそ湖筆の陰に隠れてしまっており、その筆の品質も見るべき物が少ないが、歴代名筆工を出した名産地なのである。
程大約は、その筆が光輝いて花を生じたことから、喜んでこれをもてあそんでいたところで目覚め、「聰明」になったということだ。「聰明(そうめい)」は現代中国語では頭が良いという意味だが、いわゆる「道理」を理解して「クリア」になった状態である。
「質之文」の意味であるが「質」には「誠信」という用法がある。すなわち「質の文」で「誠信の文」ということである。つまり「誠信の文」は「通疇(つうちゅう)」であるといっているのである。
「通疇」は易経に見える「畴通俦」である。これは八卦の「九四」にあたり「有命无咎,志行也。」とある。困難に遭うも、「有命」すなわち天命であり「无(無)咎(とが)」つまりは罪ではないということである。また「志行也」とは、その志しを押し通して良いということである。文章に誠意を込めれば、罪ははれてその志がまっとうされる、というところだろう。
「易経」といえば、現代では「占い師」か中国思想の研究者など、かなり特殊な職業の人にしか読まれていないかもしれない。しかし当時の士大夫の子弟にとっては、科挙受験の必須のテクストであり、最下級の試験に挑む場合でも、でもこれを諳(そら)んじていることを求められた本である。先に「綜困(そうこん)」とあったように、詩文で「易経」の語句が使われることは珍しいことではない。
この「通疇」の部分には、獄中で「程氏墨苑」の編纂を進め、また冤罪を訴え続けた程大約の想念が濃厚に表れているかのようだ。

(大意)「あるとき夢の中で、筆架におかれた筆が光り輝き、その筆鋒から花が咲いているのを見た。喜んでこの筆を手にとってもて遊んだ。夢から覚めると、道理がクリアになり、至誠をこめた文章というのは罪を晴らし、その志を為さしめるものであることを、ようやくにして悟ったのである。」

「昔の夢に不爽(ふそう)を為せど、焉(いずくん)ぞ吁嗟嗟乎(ああ)、事は亦(ま)た奇(き)。」
「昔の夢」は江淹の夢。「不爽(ふそう)」は「大差ないこと」つまりは(人に筆を与えられたという)江淹の夢に大差はないが、なんとも不思議なことではないか、ということである。「吁(う)」「嗟嗟(ああ)」もともに感嘆、慨嘆を表す語であるが「焉(いずくんぞ)」と併せて、「ああなんとも不思議なことである。」という深い感慨の念をあらわしている。
夢にインスピレーションを得た、という話は洋の東西を問わないが、程大約の場合も夢を契機として文学的才能が開花し、その意義を悟ったということを言っている。
つまりは夢に筆花を見て以来、ようようにして人に見せられる詩文をつくることができるようになったということであり、またその文才をもって冤罪を晴らすべく奮起したというところだろう。
(大意)「その昔の江淹の夢と大きな違いはなが、ああなんとも不思議なことではないだろうか。」

「是れ由えに漸(ようや)く之を著作し、林は宗弟(そうてい)巨源、一二の友人に曁(およ)ぶ。時時に見過(けんか)、相輿(そうよ)して彈射す。」
とある。
「是由」というのは、夢を見たことを契機として「之」を著作した、つまりは「之」を文章に書き表したということである。「之」とは、後述するように程大約の冤罪事件のあらましのことである。
次の「林」は「衆」に同じ。ここでは「仲間」というくらいの意味で良いだろう。次の「巨源」とは、明代徽州の文学者で程巨源のことである。程巨源は程氏墨苑にも墨賛を寄せている人物であるが、徽州は休寧(きゅうねい)の人とされる。徽州では著名な劇作家であったようで、戯作「西厢記」は現代でも著名である。また「宗弟」とある。程大約の「宗弟」ということであるが、つまり「程巨源」は、「程氏宗族」における長幼の序列に入るという事であろう。
徽州にあって「程氏」は幾つかの分派に分かれており、「宗弟」と言った場合は同じ宗廟をまつる一族の間柄ということになる。
ともあれ程巨源と1〜2人の、決して多くは無い友人等に文を見せたということだ。
「見過」はここでは程大約の書いた文を読むことだが、より具体的には批評し合うということだろう。「時時」は「時々」ではなく、「常々」のである。「相輿」は相乗りの籠であり、「彈射」は弾丸を発射することだが、古語では言語を用いて特定の人を論難することである。すなわち糾弾、指弾ということである。
「相輿」して「彈射」するのだから、彼の友人等と一緒に論陣を張り、冤罪を晴らすための文を書き、発表していったということであろう。すなわち夢で悟ったところの「質(至誠)の文は通疇(つうちゅう:罪をはらし、志しを遂げる)」ことを行ったのである。
たとえば現代においても、検察と係争中の著名人が本を書いて世論に冤罪を訴えるといったことがしばしば見られることを考えれば、理解しやすいであろう。
(大意)「そういうわけでようやく事情を文章に書きわして、仲間と言えば宗弟の巨源や一、二の友人であるが、彼らに常々読んでもらい、一緒に忘恩の輩を指弾していった。」

「遂(つい)に大雅(たいが)の君子に奉教(ほうきょう)して、幽憤(ゆうふん)の懐(かい)を宣(せん)して區宇(くう)に傳播(でんぱ)するを得しむ。」

「大雅の君子」というのは、具体的には当時の文壇の著名な作家ということだから、すなわち「奉教する」というのは、文壇の著名作家の講評を得たというところであろう。
士大夫の生涯にとっての中心課題は、もちろん「文章」や「詩」を作ることである。紅楼夢で黛玉や宝玉達が詩の結社を作ったように、当時無数の詩文の結社やサークルが生まれては消えていった。そうした無数の結社のなかに、地域ごとにその地域を代表する有力なグループがおり、その中心人物はすなわちその地域の文化を代表する人物と目されるのである。有力なグループはその構成員がそれぞれ別のグループの長であったり、他地域の著名な結社と交流があったりもする。
たとえば徽州は西溪南においては汪道昆が主宰した「豊干社」があり、その幹部には汪道昆を含む「豊干七子」がいる、といったような具合である。そこへ他地域から李維?(りいてい)朱多炡(しゅたせい)のような人物が訪問したり、結社に加わることもある。
そのような中小の結社が集まる中で自然と周囲に影響力を認められるグループが現れ、その中心人物の講評を得るという事は、すなわち当時の文学界に広く知れ渡ることを意味するのである。
「區宇」は天下、宇宙、すなわちここでは「世間」ということであるが、端的には当時の「文壇」ということになるだろう。そこに「幽憤の懐」を傳播(でんぱ)したということである。
「幽憤の懐」とあるが、程大約には「圜中草」という、獄中時代に詠まれたという詩文集がある。小生は未読であるが、日本の国会図書館に納められているということだ。「圜」はすなわち「圓(円)」のことであるが、「圜中」は「獄中」のことである。
「幽憤の懐」は、より直接的には、自らの冤罪、無実を晴らすための文である。しかし当然のことながら、文壇で支持を得るためには、優れた文である必要がある。
(大意)「ついに文壇の名士の推薦をいただき、牢獄における私の心情を宣布して、ひろく世間の人にそれをしらしめることができたのである。」

「沉冤(ちんえん)は幸(さいわい)に釋(しゃく)す。實(じつ)に天の啓(けい)する所と雖(いえ)ども、抑(あるい)は亦(ま)た精神の感ずる所を召(しょう)さんか。」

「沉冤(ちんえん)」はすなわち「冤罪」。それが幸いに「釋(釈」すというのだから、冤罪で投獄されたが、幸いに釈放されたということである。「冤罪」に陥れたのが、自分が恩を施した近親者であるというのだから、その痛憤のほどはいかばかりか?というところである。
殺人の冤罪で投獄された事は、よくも悪くも彼の人生に重大な影響を与えたようだ。しかも冤罪を着せたのは程大約の一族や友人達であり、しかも彼らの苦難を救ってやった後のことなのである。このことは「程氏墨苑」に付された「続中山狼傳」から読めるのだが、その内容を紹介するのは別の機会にしたい。
「続中山狼傳」の内容は、程大約側からの視点による事件の概要である。あるいは「忘恩の輩」と罵られている、方于魯を初めとする程大約の親類友人達の方にも、存念があるやもしれない。しかしあくまで程大約の主観からみれば、社会的経済的に、また精神的に深刻な傷を負った事件である。その事件を克服することが、どうやら程大約にとっての大きな創作動機であったとは言えるかもしれない。
少し面白いのが、冤罪を晴らす行動をとる契機となった「筆花の夢」を「天の啓示」としながらも、「精神の感ずる所」として、もしかすれば自分の潜在意識の中で生じた想念が、夢となって現れたのではないかと述べている点である。自己の精神を分析し、より合理的な解釈をしようとしている点などには、程大約の素養における、科学性が感じられるところだ。

「冤罪は幸いにして晴れた。(筆花の夢を見たのは)まったく天の啓示ともおもわれるが、あるいは私の精神が無意識に感じていたところが夢に現れたのだろうか。」
長くなるので、残りは3回目に。

旧友や親族の忘恩を詰って「中山狼図」あるいは「中山狼傳」を墨苑に付属させた程大約であるが、ここでは名指しで非難を加えていない。あくまで喩えをもって「諭した」という体裁になっている。しかしそれでも腹に据えかねることがあったのか、「続中山狼傳」では実名入りで事の詳細が述べられているのである。
小生としては程大約と方于魯との確執に白黒をつけるのは目的ではないし、意味の有る行為とも思われない。程大約の主観によって書かれた「続中山狼傳」を基に、方于魯や程大約の親族を難じるのも、アンバランスな見方である。
これも「続中山狼傳」を紹介する際に詳細を述べたいが、製墨業以前に程大約が営んでいた商売というのは、実は今で言う“高利貸”なのである。これでかなりの資産を築いたことが察せられ、またその財力を製墨や出版事業に傾注したことがわかる。職業を差別するわけではないが、ひとつ間違えば、何かと恨みを買いやすい業種ではあっただろう。とくに明代後期は、インフレーションが昂進した時代である。物価が上がる時代に高利で貸付を行うというのは、悶着なしにはすまないものである。
経済活動の盛んな徽州にあっては、当然のことながら金融業も発達していた。清朝末期には広東へ移り、金融、証券事業も手がけた徽州の人々である。程大約もこれを行って巨利を得たのであるが、まったく反感を買わないと言うわけにはゆかなかったかもしれない。方于魯の「忘恩」の内容はともかく、親族との摩擦は結局は金銭トラブルが発端になっていることも、何事かを示唆している。また「墨苑自序」では方于魯が他人と金の貸し借りを巡ってトラブルになり、自分が彼を捕縛したとも述べている。このあたりにも、何らかの事情が潜んでるのかもしれない。
とはいえ、仮に程大約の人格に欠点があったからといって、あるいは社会的に過失を負う身であったからといって、彼の製墨事業や「程氏墨苑」の文化的な価値が減じられるものではない。それは程大約が論難するように、方于魯の素行に非難すべき点があったからといって、方于魯の墨や墨譜を貶めるにはあたらないのと同様である。

(つづく)
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程大約「筆花生夢賦」 ?

方于魯が詩文の世界で当時名高かったように、程君房こと程大約も著名な文章家であった。膨大な著作は「程幼博集」にまとめられているが、四庫全書の「存目」に収録されているだけで、本文は未収である。そのせいもあってか、文章家としての程大約の業績は忘れ去られた感がある。方于魯と同様その文名は「墨を以って蓋う」ものであり、製墨における業績の巨大さが、その詩や文章を覆い隠してしまったようである。
たしかに非常に多くの詩人、劇作家、文章家を輩出した明代後期にあって、一頭抜きん出るのは容易ではない。また現代における明代文学扱われ方そのものが、西遊記や三国志、水滸伝といった白話小説に主役を奪われている感がある。清朝以降、現代に至るまで、当時の士大夫達による本格的な詩文の研究が、あまり盛んではないということも理由にあるだろう。
現在「程幼博集」は小生が調査している範囲では、現存している物が見つかっていない。程氏墨苑も方氏墨譜に比べて伝存が少なく、日本にわずかに残っているだけなのであるが、「程幼博集」も残っているとすれば日本にあるのかもしれない。(所在をご存知の方は、教えていただければ幸甚である)
「程氏墨苑」では墨に関する程大約の豊富な文を読むことが出来、それだけでも程大約の博学と文章家としての力量を伺うには充分なのである。しかしやはり内容が墨に偏っており、墨苑に付属された「中山狼伝」を除いて、程大約の事跡を伺わせる情報は少ないのである。一方で、「墨苑」に収録されている文からは、程大約は辞賦や散文に長けていたことが伺うことが出来る。
清の康熙帝が編纂させた「御定歴代賦彙」には、程大約の賦が三編収録されている。四庫全書にも収録されている「御定歴代賦彙」は、歴代の辞賦集である。これは陳元龍が主持をつとめ、康熙四十五年に成立している。程大約の三編の賦は、補遺巻に納められている。「辛うじて」納められている、という感もなきにしもであるが、そもそもこの集の選に入る事自体が容易なことではないのである。文章家として名を残さなかったとは言い難い。
この三編のうちから「筆花生夢賦」を読んでみたい。やや長いため、全体を何回かに分ける。今回の部分は以下の通り。

筆花生夢賦 程大約

『昔江淹夢人貽筆一枚毫端生五色花光彩可愛由是文思日進壇名。當時余幼承父命、習計然之策。浮游江湖不遑問學。中年適有所激奮、跡成、均始親經史、領略大義而已。薄宦一載歸羅家難、乆綜困保宮。情思無聊間以篇籍自娯、麄渉吟詠思致蹇澀、未敢示人。』

「昔江淹夢、人貽筆一枚、毫端生五色花、光彩可愛、由是文思日進壇名。」
『昔(むかし)江淹(こうえん)の夢、人の(貽(おくる)、貝+台たい)る筆一枚、毫端(ごうたん)は五色の花を生じ、光彩(こうさい)は愛す可(べ)し、是れ由えに文思(ぶんし)は日に進み壇名(だんめい)。』

江淹(444〜505)は字を文通(ぶんつう)、南朝時代の官僚であり、また辞賦に長けた著名な文学者である。南朝の宋、斉、梁の三朝に仕えた。
南朝宋の泰始二年(466)、彼は将軍劉景素の幕僚にあった。ところが劉景素の叛乱の密謀を諌めて容れられず、福建の浦城の県令に左遷されてしまう。(のちに劉景素は叛乱に失敗)
浦城の郊外で午睡中、夢に神人が現れ五彩を放つ筆を与えられたという。その後は名文が湧き出る如く脳裏に現れるようになり、一躍文壇の首魁に登ったということである。これを「夢筆生花」という。
またこの後日談として、「江朗才尽」という話がある。江淹はその後官界で出世を重ねたが、それと反比例するように文章は振るわなくなった。梁の鍾?の著した「詩品(詩の評論集)」に拠れば、あるとき江淹の夢に晋代の詩人郭璞が現れ、昔貸してあげた筆を返して欲しいといわれたという。懐をさぐると五色の筆がある。これを返すと夢から覚め、以降はまったく文章がかけなくなったということだ。
普通、「江淹の夢」というと、筆を返して文才を喪う方を指すが、程大約は筆を得る話を下敷きに採用している。いつの時代もおよそ読書人たるもの、素晴らしい文章が書けるという事に生涯を賭していたのである。事に真偽はともかくとしても、その価値観がよく現れた逸話である。

(大意)「その昔、江淹の夢に人物が現れ、一本の筆を与えられた。筆鋒の毛は五色の花のようで、光り輝いており、まことにいとおしく感じられた。このことによって江淹の文章は日ごとに進歩し、文壇に名を馳せるようになったのである。」

「當時余幼、承父命習計然之策、浮游江湖、不遑問學。」
『余は幼き時に當り、父命(ふめい)を承り計然(けいぜん)の策を習う。江湖(こうこ)に浮游(ふゆう)し、學を問う遑(いとま)なし。』

計然は春秋戦国時代、越の名臣である。越王勾践の時代、名宰相の范蠡(はんれい)に「経世の術」つまりは経済政策を与えたといわれる。計然の献策によって越は富国強兵を成し遂げ、呉を破って会稽の恥を雪(そそ)ぐことになる。その後范蠡は、国家政策において有効であった計然の策を、個人が商売に適用したら成功するだろうと考えた。そこで名を変えて他国へ渡り、商業で大成功を納めるのである。以上の話は史記の「貨殖列伝(豪商の列伝)」に見られる。すなわち「計然の策」といえば、端的には商売(のやりかた)のことである。
徽州では男子は幼い頃から教育を受けるが、12,3歳の頃に基礎教育が済んだところで素質や家庭の経済状況に応じてコースが振り分けられる。すなわちそのまま科挙の勉強を継続するか、家業(多くは商業)を継ぐかを選択、いや本人の意思というよりは多分に親の命ずるところにより決められるのである。いわば義務教育後に、商業コースか官僚コースに進むということだ。
程大約の場合は科挙受験の素質が無かったのか家の事情からか、後者を父親に命じられたということだ。もちろん当時の社会の倫理から言えば、父親の命令は絶対である。程大約の家庭はほどほどに裕福であったから、あるいは科挙向きの学問にはあまり向いていなかったのだろか。事実程大約は生涯何度か科挙に応じているが、生員(科挙受験資格者)を出なかったのである。あるいはまた、父親が高齢であれば家業の行く末を危ぶんだとも考えられる。
士大夫の家庭の価値観といえば科挙に合格することが絶対であるが、学問を続けるためにはその家庭の財政基盤も不可欠なのであり、家業を潰してまで子弟に学習を続けさせることは出来ないのが普通である。
そこで「江湖に浮遊」とあるが、「江湖」は俗に言う世間。そこを漂ったというのだから、程大約も徽州商人の例に漏れず、他地域への交易に日を送ったことであろう。それで学問をしている暇がなかったということだ。いささかの不本意が読み取れるところである。
(大意)「私は幼いときは、父親に命じられて商売のやり方を勉強していた。交易のために色々なところに行き来していたため、学問をする閑などなかったのである。」

「中年適、有所激奮、跡成、均始親經史、領略大義而已。」
『中年に適(あた)り、激奮する所(ところ)有り、跡を成し、經史に親しむに均始(きんし)して大義を領略(りょうりゃく)すのみ。』

ここで「中年」と言っているが、いわゆる四十代、五十代という年齢の意味ではなく、人生の半ばというほどの意味であろう。昔は人生五十年だから、二十代の半ばを指すと解釈できる。とはいえ、24,5才の頃には北京に游学していたから、学問に専念し始めたのは20歳前後のことであろう。「激奮」とあるのは、発奮するところがあって、というところだ。
現代の感覚からすれば晩学というほどでもないが、早期英才教育が基本の当時の士大夫にあっては、やはり遅いという見方が出来る。古典の世界でも「中年」は四十、五十歳くらいの年配を指すことがあるが、ここでは「晩学」を強調するためにあえて「中年」としたのかもしれない。
「跡(せき)を成す」というのは「墨跡を成す」というほどの意味であろう。書法も本格的に学んだようである。「經史」はいわゆる経書と史書であり、当時の士大夫の必須の教養である。すなわち「五経四書」のことであろうが、当時の士大夫の子弟は、幼少期に少なくとも五経四書の全てを暗誦できるように教育されていたのである。
さすがにこの時期に程大約がそのレベルの暗誦から始めたとは考え難く、ここではより深くその文の意義を理解する本格的な読解だったのであろう。そしてその学問を通じて「大義」すなわち、世の中の大きな道理を理解した、ということを述べている。文末に「而已」とあるのは、「〜に過ぎない」という意味を強調している。
(大意)「大人になってから発奮するところがあって勉強をやり直した。書を習い、経書や史書を学びなおし、世の中の道理の根本を理解したに過ぎないが。」

「薄宦一載歸羅家難、乆綜困保宮。」
『薄宦の一載、羅家の難に歸し、乆(=久:ひさ)しく保宮に綜困(そうこん)す。』
(大意)「しかしながら都でわずかな官職にありついて、一年ばかりで羅龍文の事件が起きてしまい、郷里に帰らざる得なくなった。また(冤罪に遇って)しばらくのあいだ監獄で過ごさなければならなかった。」

「薄宦」というのは、文字通り俸給の薄い下級官吏のことである。「墨苑自序文」に拠れば、程大約が北京に游学していたのは嘉靖四十三年(1564)とある。このとき程君房は「国士監生」だったのであるが、官僚養成学校の学生ということである。ちなみに程大約はこの学生資格を「資を以って」つまりお金を出して購っている。また「墨苑」に収録されている友人の趙鴻程の文に拠れば、程大約は隆慶元年(1567)にこれを卒業している。
「国士監」を卒業することによって「太学生」という身分を得ることになるが、後に程大約はこの「太学生」資格により、鴻路寺序班という官職に充てられる。これが「薄宦」のことであろうか?しかし程大約が鴻路寺序班に任じられたのは万歴年間のことであり、次の「羅家の難」と前後関係が異なるのである。
「羅家の難」というのはもちろん、嘉靖四十四年に羅小華こと羅龍文が厳世蕃とともに処刑された事件であろう。「歸す」とあるが、「歸(帰)る」というのは普通は官吏が郷里に「帰る」ことを言う。「一載」は「一年」。すなわち羅龍文が刑死したのは嘉靖四十四年であるから、嘉靖四十三年から一年で郷里に帰ったということであれば、文意に沿うのである。「国士監」も大学校と同様、下級の官吏の身分であるから「薄宦」といえなくもない。しかし隆慶元年に「国士監生」を卒業しているのであるから、「歸」を辞めて郷里に帰った意味と取ると、文意と実際が合わなくなるのである。
次に「保宮に綜困(そうこん)す」とある。「保宮」というのは地方の収監所、監獄である。「綜困(そうこん)」というのは、易経でいうところの「井綜困」であろう。凡その意味は「井戸に落ちる」ことであり、これは良い場所からよくない場所へ下る卦であるから「投獄」というほどに解釈していいだろう。現代人にはピンと来ないが、当時の士大夫の子弟は「易経」はすべて暗記していたのである。
つまりここでは、程大約が投獄されたことをさしているのだろう。いずれ詳述したいが、程大約は親類との間で係争があり、身内によって殺人の冤罪に陥れられるという、陰惨な経験をしているのである。後世、この事件が方于魯や汪道昆との確執と混同されているが、これとは別の事件である。
ともあれ、これはあくまで「賦」なのであるから、実際の事件を反映した内容ではなく、羅家の難や自らの収監などを理由として、「官途」を断念せざるえなかったことを述べているに過ぎないだろう。ただし程大約が賦の中で、羅龍文の事件に言及している点は注意したい。
羅龍文が時の権門であった厳嵩に接近したように、徽州の人士達の中には、積極的に羅龍文に近づいた者たちも多かったであろう。その交際の範囲に、程大約が含まれていた可能性は、十二分にある。
もとより当時から墨癖があった程大約のこと、墨匠としても今をときめく羅龍文に関心がなかったとは考えられないことである。程大約が「国士監生」として都に滞在していた時期に、羅龍文の処刑は行われ、ついで胡宗憲が獄死しているのである。これらの事件が程大約の人生や心理に、どのように作用したかはいずれ考えたいところである。

「情思無聊間、以篇籍自娯、麄渉吟詠思致蹇澀、未敢示人。」
『情思(じょうし)無聊(ぶりょう)の間(かん)、篇籍(へんせき)を以って自ら娯(たの)しみ、麄渉(そしょう)して吟詠(ぎんえい)し、思い致るも蹇澀(けんじゅう)、敢えて人に示さず。』

「麄渉(しょしょう)」はすなわち「粗渉」であるが、そぞろ歩き。歩きながら吟詠し、景物を見て「思致」つまりは詩文の構想が浮かぶも、「蹇澀(けんじゅう)」とあるのはなかなか詩にまとまらない、いわゆる苦吟の様相である。またそのような詩文を、敢えて人には見せなかったということである。
この箇所は前の文の「保宮」を受けている。程大約には「圜中草」という詩文集があり、これは投獄中に読まれたものだと言われる。程大約の獄中生活がどのようなものであったかは未詳であるが、自家の財力を使って、ある程度はその環境を緩和していたことは考えられる。程大約はその一族の者が罪に触れたときも、大金をはたいて救うということもしている。屈辱的な生活であるには違いないが、本を差し入れてもらい、散歩できる程度には拘束を緩めてもらったのかもしれない。
程大約の獄中生活は、万歴二十一年(1594)から万歴二十八年(1600)までの、実に6年間に及んでいるといわれる。しかしこの間にも、「墨苑」の製作は鋭意進められているのである。収監といっても本当に監獄に入れられていたのか、あるいは自宅で行動を制限されていた程度なのかは未詳であるが、ともかく詩文を作ったり、墨苑の編纂作業が出来る程度の自由はあったようだ。

(大意)「物思いに耽って手持ち無沙汰なときは、本を読んで一人で楽しんだ。またそぞろ歩きをしながら詩を吟ずるなどをしていたが、詩句が頭に浮かんでも、なかなか体裁を整えることが出来ずにいた。そうして作った詩賦は、あえて人に読ませるということをしなかったのである。」

(つづく)
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墨と膠と漢方薬 ?

墨に含まれる成分については、その墨色以外にも成分の違いを感じることがある。たとえば、硯を洗う時である。
そもそも硯を洗うことは、中国でも「滌硯(じょうけん)」という詩語にもなっているくらいで、士大夫の日課とされていたものである。裕福な家庭の士大夫などは「書童(しょどう)」という助手に墨を磨らせたり、硯を洗わせるのである。しかし「滌硯」といった場合は、文字通り手ずから硯を洗うことである。すなわち書童などもおけないような、侘び暮らしにおける士大夫の毎日のつとめである。また田舎へ隠棲した後の、清貧にして文雅な生活を暗示するのである。
これとは別に、老坑水巌の石質や石品を際立たせるために「洗硯(せんけん)」という作業を行う愛好家や業者がいる。小生も老坑水巌や新老坑に対して、たびたびこれを行うことがある。愛好家や業者が行う「洗硯」の場合は、「滌硯」のように、日常の使用後に硯を洗浄するということではない。硯材を美しく見せるための、より積極的な作業である。
「洗硯」を行うためには、主に清朝の佳墨が用いられる。明代の墨はあまりにも希少であるし、民国以降の墨は洗硯に適するものがないためである。この墨を丁寧に磨墨し、その墨液を極極薄く希釈する。ガラス瓶に入れて向こうが透けて見えるほどの、非常に希薄な墨液をつくるのである。これを硯に薄く塗布し、しばし置いて乾燥させる。そして墨液が乾燥したら、再び希薄な墨液を塗りなおすという事を繰り返すのである。すなわちかつての士大夫が日常の使用の中で墨を磨り、硯を洗うといった行為を繰り返したことの再現である。これを加速度的に行うのである。
こうすることで、硯が良材であり使用する墨がよければ、いかにも使い込んだ硯の古びた風格を帯び、また石質に温潤さが現れるようになる。「石」という無機的な物質の質感が「赤子の肌合い」とも形容される、有機的な質感を帯びるようになる。この効果には、やはり墨に含まれる膠の寄与が大きいと考えられる。膠などは水で洗えば流れてしまうと思われがちであるが、一度乾燥して固着した膠は容易なことでは流れないのである。
また作硯されたばかりの新しい硯などは、洗硯を繰り返すことで鋒鋩が細かく整って行く。いわば墨によって研磨されるのであるが、耐水ペーパーや砥石による目立てでは不可能な、微細な鋒鋩に仕上げることが出来るのである。
「洗硯」は新硯に古色をつけるときに行われることがあるが、墨が硯石に作用することで硯らしい風格が増すというのは、これももっともなことである。
ただし使用する墨は厳選しなければならず、汪近聖や汪節庵、初期の曹素功などが貴ばれるのは、洗硯に使用してその効果が高いからである。
この「洗硯」をおこなう際に、すくなからぬ墨液が手指に付着することは免れない。しかし毎日のように「洗硯」を行う人が、よく言うことがある。「洗硯」を毎日していると、冬場でも手が荒れないということである。これは徽州の佳墨が持つ特別な作用として、これを行う業者や愛好家の間で不思議に思われてきた。しかしそもそも墨自体が漢方薬の塊のようなものであり、特に皮膚に良いとされる薬材が配合されているのであるから、当然と言えばそうなのかもしれない。
また「洗硯」の際に下に敷く布切れなどは、墨液を吸って洗わなくてもカビや臭いなどが出ないとも言われる。汪近聖や汪節庵のような墨は、こぼれた墨液といえどももったいなくて、それを吸った布などは何年も洗わないでそのままにしていることがある。これも墨に防腐、殺菌に効果がある薬材が含まれるためかもしれない。
もとより小生には漢方医薬の素養はないのであるし、上に述べたことは正確な漢方医薬の知識とは考えないでいただきたい。ただ、もともとは動物の皮膚や角から採れるたんぱく質が膠なのである。「皮膚」を保全するような工夫を加えることで、長い年月の間も墨や墨跡が劣化しないだろうと考えるのは、自然な発想である。
また事実として、明末清初と考えられる墨であっても、膠の効力が無くなってしまい、いくら磨っても墨液にならない墨はある。そういった墨というのは、たとえ古くてもやはり製法に問題があったと考えざるえない。外見が如何に優れていても、これを佳墨とは認めがたいものがある。

「墨と膠と漢方薬」の後編に行く前に、やや脱線気味に「程氏墨苑自序文」の大意を掲載した理由は、そこには明代の優れた製墨法に関するかなり具体的な記述が見えるからである。もとより、書かれていることが全てではないだろう。しかし油烟の採取についてはかなり詳細な解説がされており、また膠についても「鹿角膠」ではなく「広膠」、すなわち広東や福建からよいものを選んだとしている。また添加している香料については、麝香、龍脳(氷片)、沈香に触れており、何れも非常に高価な香料を使っていることがわかる。ここで香料は同時に漢方の薬材であるということにも、注意しなければならない。
徽州の墨には、発達した漢方薬学の知識が投入されており、非常に高価な薬材が用いられていた。もっとも「麝香、龍脳(氷片)、金箔、真珠、熊胆、鹿角膠」を入れたとうたっているだけで、実際にはそれほど高価な材料を使用していない墨もあったのだろう。程君房が程氏墨苑の自序文で批判するように、そういった高価な材料の使用をうたって価格を偽る、という墨も多かったに違いない。あるいは一部には用いておいて、多く造る分には添加しないなどということも、あったであろう。
しかしながら、実際に使用した墨も作られたことも事実である。そうではあるが、墨というのはどういった材料を使っていたかまでを、外観で判別するのは難しい。どのようにその違いを見分けたのだろうか。
当時の士大夫であれば、香料や漢方薬に関する知識も持ち合わせていた人物も珍しくはなかった。「香合」という用具があるが、複数の種類の香料を練り合わせて楽しむようなことも、広く行われていたのである。墨に添加した香料は、経年によってその香りが失われるが、同時代の人にはまだその香りを判別することが出来たようである。磨った墨液から立ち上る香りを嗅ぎ分けるような、鑑別の仕方があったようだ。
明の邢侗(けいどう)は「程氏墨苑」に数編の賛文を寄せているが、程君房と方于魯の確執を目の当たりにした人物と考えられるが。その著「墨談」には方于魯の墨は香気が強く(が、墨気が無いと述べ)、程君房の墨には香が少ないといい、程君房の墨を方于魯の上に置いている。すなわち程君房は余計な添加剤をあまり使わず、煤と膠だけで墨の本色を追求したのであると述べているのである。
また舐めてみることも行われていたようである。方于魯の真品には熊胆が使われており、舐めると苦いことで見分けられる、とも言われる。
程君房が「程氏墨苑自序」で羅小華の墨を評して「奢侈に過ぎる」と述べているのも、多量の薬材、真珠や金箔などによって墨色を調整している点を批判していると考えられる。逆に言えば墨に香料や薬材を加えることが、普通に行われていたということであろう。

ところで清朝初期の曹素功には十八品の銘墨があり、たとえば「蒼龍珠」なら「蒼龍珠」の配合、「紫玉光」なら「紫玉光」の配合と、それぞれの配合が異なっていたといわれている。また品種によって、その価格もそれぞれ違いがあったことが分かっている。その価格の違いが何から生じるかを考えると、単純には材料原価が違うということになる。
ひとつには灯心を減らして収率を悪くながらも、高品位の油烟を採取したことも影響しているだろう。また、ひとつには微量であっても原価に大きく影響するような、高価な香料や薬材の使用があったのではないだろうか。
墨の品種によって使われる材料の配合が異なったとしても、それは明示的に墨色に表れるものばかりではなかったであろう。香料やその墨の品質の永続性を担保する、薬材の使用にも相当な違いがあったと考えられる。しかしながら現在となっては「曹素功十八品」のそれぞれの墨について、どういった配合であったかは(一部を除き)謎である。
また「墨銘」は必ずしも墨の配合と対応していない。曹素功が作った紫玉光と、汪節庵や胡開文といった墨匠の紫玉光とでは、配合が同じであったとは限らない。また初代曹素功と後世の曹素功では、同じ墨銘であっても、材料や製法が異なることは明らかである。材料の種類は同じでも、高価な材料を減らしていることは、充分に考えられる。近代における鐵齋翁書畫寶墨などは、70年代にくらべて80年代の作例では、使用されている金箔の枚数が大きく減らされたといわれる。

顔料としての「墨」そのものは中国全土で作られていたのである。しかし数百年の時間を経ても、墨あるいは墨跡までも優れた状態を保ち続けたのは徽墨であり、それが格別の名声の由縁であろう。
もともと徽州の製墨業は、唐代末期に河北の易水の墨匠達が戦乱を避け、徽州へ移り住んだところから始まっているとされる。この易水は南宋時代には「金」の支配領域であったが、ここから張元素という人物を始祖として、漢方医学における一流派「易水学派」が生まれている。もちろん金代(南宋)以前から、易水は医学や薬学についてはかなり進んだ地域であったに違いない。徽州は漢方医学の先進地域であったが、その源流は墨と同じく「易水」に求められるのかもしれない。そして医学が盛んな徽州にあっても、特に歴代名医を多く輩出したのが槐塘であった。清朝初期には、また程正通(敬通、松崖)という名医がおり、とくに眼科に優れその著作は清朝の眼科医療の世界で著名である。
ちなみに墨に用いられる龍脳(氷片)は、漢方薬では止痒防腐の効果があるとされており、目の充血を抑える目薬の材料としても処方されていた。また漢方の「生肌(しょうき)」今で言う“スキンケア”の医薬品としても効果があることが、古くから知られていた。冬場の手指の乾燥やささくれなどを防ぐのである。墨に使用される膠の原材料が、牛の皮であることを考えれば、その防腐や保全に氷片の配合を試みても不思議は無いところである。
槐塘は唐模と隣接し、岩寺鎮にも近い地域である。また槐塘には「程氏」宗族が集まり住んでおり、歴代の名医もこの「程氏」から輩出している。岩寺鎮出身とされる程君房であるが、彼の書簡集からは、この槐塘の「程氏」とのつながりが伺える。また清初の名墨匠、程正路は槐塘の出身である。その程正路に学んだ初代胡開文こと胡天柱は、当初藥墨で名を馳せたのである。徽州の製墨業と進んだ漢方医学の関係については以前にも触れているが、やはり密接な関係があったことが伺える。また徽州以外の地域の製墨においては、ただ単に膠と言う媒材に煤を雑ぜた顔料、という発想以上の墨が、遂につくられなかったのかもしれない。

ところで程君房は羅小華の墨を凌ごうと研鑽を重ね、結果的に非常に優れた墨を作り上げている。その初期の製法の秘訣の全ては、方于魯にも分かち与えたところであろう。時代は下って清初の曹素功は母親の程氏が程君房の後裔一族の出身であり、曹素功の製墨は程君房から大きな影響を受けていると考えられる。また曹素功によって洗練された製法は、後に汪近聖によって継承されているのである。
また方于魯の製墨においては、実務面で大きな役割を果たしたのは息子の方子封(ほうしほう)である。方子封は「方氏墨譜」にも墨賛を残しているが、程君房と決別した後の方家の墨業にあっては、方于魯がプロデューサーであれば、チーフ・ディレクターが方子封であった。この方子封は方于魯亡き後も墨業を続け、父親の文友との交際も絶えなかったようである。方子封の墨に対して、方于魯の親友であった大泌山人こと李維?が懇切な評を与えている。
また同じく方于魯の友人であった潘方凱は、数寄が昂じて製墨に手を染めている。北宋の名墨匠潘谷の後裔を自称し、蘇軾の詩にちなんだ「開天容」を創案した潘方凱であるが、その製墨には方子封の協力があったと考えられる。潘方凱の墨で現存するものは少ないが、文献に残る作例には「九玄三極」や「非烟」など、方于魯と創案した墨銘が見られるのである。また「開天容」という墨銘は後に方密庵が継承しているが、方密庵を受け継いだのが汪節庵というセンがいまのところ濃厚なのである。
以上はかなりラフな関連付けであり、まだ裏づけが充分に進んでいない。しかしおぼろげながら明代後期から清朝初期にかけての、名墨匠の系譜のようなものが見えてくるようである。ここに清朝における汪近聖と汪節庵の造る墨の格別な点を、説明することが出来るかもしれないという期待がある。
清朝における「二汪」の墨というのは、同時代のあまたの墨匠の追随を許さないものがあり、何より違うのが墨質であり、すなわち膠の質感なのである。「墨質」を追求できた背景には、やはり墨をただ黒いだけの顔料ととらえるだけでは、及ばないような感覚を有する人々の存在があったのだろう。またその感覚を製法に反映できたのは、製墨業以外の産業.......医学、薬学.......の発展を下地に持っていたからではないだろうか。
製墨における重要な材料である膠について考えたとき、そこにはかなり高度な漢方薬学の知識が応用されていることがわかってきた。それゆえ容易なことでは、その模倣が難しかったのではないかと推察されるのである。

......墨をそのままの形として後世に遺したい、あるいは磨り去って墨跡となっても、その墨跡をいつまでも美しいままでこの世にとどめたい、そういう願いがなければ何も高価な香料や薬材を添加する理由は無いのである。経済性を考えると、不可思議に思えるほどに高価な材料を使った背景には、当時の社会の倫理観、死生観も含めて考えなければ理解することは出来ない。
単に「黒ければ良い」のであれば、墨の製法は二千年の昔から変化する必要はなかった。明代後期に羅小華を初め、程君房や方于魯が製法に洗練を重ねたのは、やはり相応の意味があったのである。しかしどうも、現代に於いては墨は「黒ければ良い」ということのようだ。色はもとより、その耐久性、永続性には考慮が払われない。所詮は現世利益、自分が生きている間だけのことだから、という考え方だからだろうか?
しかし千年は優に墨跡の生彩が保たれる墨を使うからこそ、すくなくともその書き手の生きている間はずっと光彩を放ち続けるのである。たかが半世紀で寿命が尽きてしまう墨や、表具に耐えないような墨汁を無造作に使うようでは、後世はおろか10年後もおぼつかないであろう........過去と現代に生きる人々の価値観の変容を、墨の製法は物語っているかのようである。
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「程氏墨苑自序」についての解説未満の補足

程君房が心血を注いだ「程氏墨苑」であるが、彼は多くの士大夫から贈られた序文、賛文、跋文と共に自らの序文を掲載している。前回その大意を掲載したが、今回はその内容について少し考えて見たい。
(ちなみに他の士大夫達が程君房を文中で名指すときは「幼博」であり、程君房が自らの文に署名するときは「程大約」とすることが多い。)

彼はまず自分自身に抜き難い“墨癖”があると言い、佳墨の蒐集遍歴と、各時代の墨に対する批評を述べている。名墨匠が同時に墨の蒐集家であったという事は、たとえば初代曹素功が「曹氏墨林」の中でも述べている。母親が程君房の一族の出身であり、程君房の墨に学んだと述べている曹素功であるが、数寄が昂じて自作するようになったというあたりも両者通じるところがある。六朝の張永から延々と、元の朱万初にいたるまでの墨を集めたというが、もとより16世紀の当時、3世紀や4世紀の墨が入手できたかどうかは疑問であり、程君房自身も確信がもてない旨を述べている。
嘉靖四十三年(1564)に都において、国士監生(国立大学の学生)として学んだと述べ、その際に骨董業者が出入りして、彼からあれこれと古墨を買求めたと言っている。しかし古墨を蒐集する過程で、業者があやしげな由来の墨に高値をふっかけて売りつけようとするあたりなどは、いかにもというところである。
当時北宋年間の墨が入手できたということになるが、明代後期に至っては、時代を隔てること優に五百年である。現代の我々が明代の墨を求める以上に困難であったということは、念頭に置いて読むところであろう。また明代以前の墨に対しては、松煙を漆で固めているとしており、また明代初期の墨については油烟と松煙を雑ぜた、いわゆる油松煙であると述べている。この点、蘇軾などの製墨法をみるに、北宋年間には既に膠が使われていたことがわかる。程君房がどのような墨を見、それを漆で固めていると判断したかが未詳であるが、この点はやや疑問を覚えるところである。
また嘉靖四十三年という年に注意すれば、その翌年の嘉靖四十四年には、厳嵩が失脚し、厳世蕃とともに羅龍文(小華)が都で処刑されたと明史には書かれている。それに先立ち胡宗憲は失脚、投獄されており、徽州の人士の周辺は何かと騒がしい時期であっただろう。当時おそらく20代であった程君房にとっても、印象深い事件であったに違いない。
ともあれ、羅小華は若き日の程君房にとっては、同じ時代を生きた人物であり、製墨で名を残す上ではかならず凌駕しなければならない対象であったのだろう。また後に羅小華の墨を数函入手したとのべているが、万歴年間に神宗皇帝が蒐集を命じたことでもともと高価な羅墨がさらに高騰し、市場からも消えてしまったことを考え合わせると、当時の程君房であればまだ入手可能であったのだろう。まさか清朝乾隆時代の紀暁嵐のように、贋物をつかまされたとも考えにくいところである。程君房は実地に羅小華の墨を使用してみて、その優れているところは認めつつも、改善の余地があると考えたようである。
その後郷里に帰ってから程君房は製墨を試みたようであるが、北京で学んでいる間に古墨の蒐集が進み、古い墨を賞玩しながら、だんだんと自分でも墨を造りたいという気持ちが沸き起こってきたのであろう。ともかく自分の故郷は製墨の本場なのであるから、帰郷するなり職人をあつめて墨を造り始めたようである。
程君房は「業者を卑視せず」と言っている。このところは、儒教倫理に基づいた封建社会の価値観が色濃く現れているところである。すなわち士大夫たるものは文章を作ることをこととするべきであり、手仕事によってモノを作ることなどは卑賤のすることであるという価値観である。後段でも程君房は「墨はモノであり、それを作ることを競うのは恥である。」と言っている。このあたりは程君房の本心というよりは、多くの士大夫が賛文を連ねる墨苑の序文において、自らの行いについての弁明の気持ちが働いているのかもしれない。
もとより、本当に墨づくりを卑しい行いであると考えていたわけではないだろう。モノづくりが卑しいなどというのは、現代からみればなんともやりきれない価値観であるが、その当時の社会通念を踏まえて程君房もタテマエを述べたところであろう。実のところ徽州の人士は農業や手工業を始め、商業にも手を染めていたのであるから、そういったさまざまな仕業に対していちいち蔑視していたかどうかは疑問である。
またここで考えなければならないのは、程君房の製墨との関わり方である。つまりは程君房が墨を造ったといっても、自ら手を下したわけではなく、専門の墨工を集めて指導して作らせたということであろう。いわばプロデューサーである。もちろん墨の品質はプロデューサーの采配に寄って決まるのであるから、程君房が造った墨としてもなんら差し支えないのである。
ここで程君房は、油烟の採取法について詳細に述べている。明代の油烟の採取については、現代の墨の愛好家のほとんどが誤解している点がある。すなわち高いところについた煤を最上とする考え方である。もちろん古墨の蒐集を多少手がけたといっても、多くは製墨の実際をまったく知らないのであるから、この種の誤解が生じたとしても致し方ないところがある。また清朝末期に墨汁を創製した謝?岱が、近代的な油烟の採取法を述べるに、密室で油脂を燃やし、天井に付着した煤を最上、壁に付着したものを次善、床に落ちたものを最下等とした話が伝わっている(これも真偽は定かではないが)。あるいは松煙の採取において、小高い山の山腹に長い円筒を寝かせその中に松を焚いた烟を通し、上部についた煤を最上とするという採取法がある。これらの話が合わさって、油烟も長い円筒を立て、頂部に付着した煤を最高とするというような「まことしやかな」話が定着しているのかもしれない。しかし奈良の製墨における点烟の法や、明代、清朝における点烟の器具を見る限り、そのような事実はない。明代と清朝では、灯心を燃やして油烟を採取する、いわゆる点烟の法は大きな違いが無く、器具が若干変化しただけである。程君房が述べているのは、上等な油烟を取るための秘訣であり、きわめて重要な示唆が含まれている。要約すれば、煤を付着させる天蓋は高すぎても低すぎてもいけないのであり、また焔は強すぎても弱すぎても駄目ということである。
現代の製墨法でも分かっているのは、あまり強い火力で生成した煤の品質が悪いということである。煤の収率や生産性に直接大きく関係するのは焔の強さであり、焔の強さは立てる灯心の本数によって大きく変化する。「独草」というのは、灯心を1本だけ立てる法である。また清朝の宮廷における製墨法を記したと言われる「内務府墨作則例」には烟に「三草」とある。灯心を三本だけ立てて製した烟(煤)であるという。灯心を沢山立て、火力を強くするほど短時間で多くの烟を採取できる。また油の量に対する収率も良くなるという。反面、墨に使う煤としての品質は低下し、黒味や潤いに乏しくなるのだと言う。
小生が墨匠に聞いたところでは、清朝の佳墨と呼ばれる墨で3本から5本、宮廷では稀に独草を用いたと言う。また清朝末期には十数本から数十本もの灯心を立て、油烟を量産したというのであるから、その墨質の低下は推してしるべしであろう。清朝末期の墨が、いかに硬質で優れているように見えても、いまひとつ黒味と色味に乏しい要因かもしれない。
良い烟ほど軽いものであるから高く舞い上がり、円筒の高い位置に付着するというような話はいかにも理解し易いが、油烟の製法の実際とは全く関係の無い話なので注意したい。

そこで方于魯が登場する。方于魯と程君房のそもそもの関係であるが、生卒年を調べた限りでは二人は同年の生まれである。年が近いことも考え合わせると、二人は親しい友人だったのかもしれない。また方于魯も若いときに北京へ遊学していたことを考えると、親交は二人の北京時代に始まっていた可能性がある。
製墨においては、プロデューサーが程君房であれば、いわばチーフ・ディレクターが方于魯だったのかもしれない。方于魯が窮乏していたことは、方于魯の墓誌銘や方于魯が残した手紙などからも伺えるから、程君房が彼を経済的に援助したということはあったのだろう。とはいえ、雇われの身であればなかなか一家を思うように食べさせることは出来ないから、独立して製墨の事業を立ち上げたいと、方于魯は程君房に相談したようである。このあたりは、一方で程君房の製墨業に対する関わり方を考えなければならないところである。また方于魯自身も、製墨という生業に対して、なんらかの自負心のようなものが芽生えていたのかもしれない。最初期の程君房の製墨業において、方于魯というのは現場レベルではかなり重要な存在であったのかもしれない。その方于魯が独立して一家を構えたいと言った時、程君房はそれを支援しているのである。
方于魯が出版した「方氏墨譜」に対し、程君房は「墨図を盗んだ」と言って非難している。事実、「方氏墨譜」と「程氏墨苑」には図の重複があるのである。この事情を逆に考えれば、出資者と事業者との間で、版権の所在が曖昧であったことがひとつの理由になるだろう。それはすなわち、方于魯の墨業の創業期に、程君房がいかに密接にかかわっていたかも暗示している。
あるいは方于魯の独立と同時に、程君房の最初の墨業は一度閉じた可能性がある。素封家の家に生まれた程君房にとって、製墨は当初自分の墨癖を満足させ、交友の人士を喜ばせる範囲のものだったのだろう。しかし方于魯にとっては、なにより生計を立てるための手段であった。あるいはその相違が、後に両者に深刻な確執を生む要因であったとも考えられるところである。また方于魯の後援者となった汪道昆と、もとのスポンサーであった程君房との間で、塩業の利権を巡る対立があった可能性もある。ともあれ方于魯も程君房に教えられたとおりに墨を造る以上の才能が、やはりあったのだろう。とはいえ資金にモノを言わせてなかば趣味で墨を造るのと、墨業のみで生計を立てるのとでは、その造るものに違いが出るのもいたしかたないところである。それは現代でもそうであるが、超一級品だけで経営を維持するのは難しいのである。幅広い顧客層に合わせて、ある程度の幅のランクを形成しなければならなところである。対抗する程君房側の非難を鵜呑みには出来ないが、方于魯としても程君房が「得られるのが少なすぎるのが難点」と述べた、そんな墨ばかり造ってるわけには行かなかったのは事実だろう。方于魯の墨の粗製濫造については、その後援者の汪道昆も之を咎め、一度は方于魯を笞打ったという話も残っている。
墨譜が成って名声が喧伝され、一度に生じた大量のオーダーに応じようとしたことが、墨質の低下を招いたとも考えられる。また程君房やその同輩の評価が、墨質に対してとりわけ厳しかった可能性もある。さらに方于魯の同時代人による倣製も、可能性としては多いに考えられるところである。
それにしても、従属に甘んじてはいられなかった方于魯の思いも、自らのライフ・ワークを一度は持ってゆかれてしまった程君房の心痛も、察するにあまりあるところである。

ともかくこの自序文における、程君房の方于魯への攻撃は凄まじい。「ペテン師」と訳したのは原文では「偽人」とある。かなり執拗に方于魯を非難しているのであるが、一方で「程氏墨苑」を編んだのは、方于魯の「方氏墨譜」に対抗する分けでは無いと述べている。しかし「方氏墨譜」を否定する上で、「譜」の意味にさかのぼってその意義を否定し、かつ自らの「墨苑」は墨の本義に基づくのであると言い切るあたり、実に周到で執拗である。すなわち「墨苑」を編んだのも、ふたたび製墨へ手を染めたのも、方于魯への対抗心からではなく、「真を正す」為であったということを主張している。程君房が墨を愛する心は真実であろうし、すべて私怨に根ざすと思われたらやりきれないというところだろう。
ここで程君房は、墨譜あるいは墨苑の図と、実際の墨との関係を考えるにあたって、実に形而上学的な思考を展開している。マテオ・リッチに「非常な博学」と評された程君房であるが、その哲学的思考に関する素養の豊かさの片鱗がここにみられるところである。
程君房の性格については、これから「程大約集」などの著作を読みながら考えようとおもっているが、この自序文を読む限りでは相当に執念深い男のように思える。もちろんそうであるからこそ素晴らしい墨を作り、「程氏墨苑」という優れた著作を遺したのであろう。もちろん、方于魯の方は方于魯の方で存念があったであろうし、小生が今になって黒白をつけようというつもりはもちろん無い。ただ方于魯との確執のほかにも、同族から誣告を受けたり、また晩年近くになって劉県令と軋轢を生じるなど、とかく人間関係では摩擦の多い人生であったようだ。その一方で、程氏墨苑に載せられた多くの賛文に見られるように、篤実な友人も多くいたようである。また方于魯とも、仲たがい以前は親しい友人同士であったことが察せられるのである。
墨譜、墨苑を遺したことで、製墨史のみならず文化史に大きな足跡を残した程君房と方于魯であるが、かれらの人生や性格については分かってないことが多い。やや恬淡とした印象の詩人方于魯に対して、一癖も二癖もありそうな程君房であるが、彼等の人格や思想には非常な興味を覚えるところである。
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「程氏墨苑自序」を読む

明代後期の名墨匠、程君房(大約、程幼博)は「程氏墨苑」に自ら序文を書いている。そこにはそもそも墨苑を編んだ理由のほかに、程君房の墨癖や墨の蒐集の遍歴、方于魯との確執のあらまし、また自身の製墨法についてのべられている。ことに製墨法については、本来秘伝とされるべきところを述べ、かなり突っ込んだ内容に叙述が及んでいる。もちろん、それだけで製墨の秘密の全てではないだろうが、示唆に富んだ内容である。墨の性質については、易学に基づく論を展開した部分などがあり、予備知識がないと難読であるが、通読できるように大胆に意訳し、適宜文意を補っている。少なくとも大意においては、原文との齟齬はそう大きくはないと思われる。長いので大意のみ示す。

「程氏墨苑自序」

私は幼い頃より骨董を愛好する心が強かったが、今現在にいたるまで特に墨癖(ぼくへき:墨に執着すること)に耽けることから抜け出せなかった。すなわち墨の古いものであれば、より一層これを愛玩したのである。およそ製墨法の由来や、現代の蔵墨家の家は、手を尽くして捜索することを極め、十のうちその九までを手に入れることが出来た。そのように蒐集につとめても(製墨の祖といわれる)韋誕の墨ははるかに昔のもので、手に入れることはできなかった。いわゆる一点漆の如くと言われる墨というのは、本当に少ないものだ
。韋誕より以降は六朝の張永、唐の祖敏、陳朗、奚鼎、五季(五代)の奚父子、(李)超といい、庭珪といわれるもの、宋の柴詢、潘谷、常和、張遇、王油、陳?、蘇解、元の朱万初、これらはみな製墨で後世に名を遺したものたちである。しかしながらその作ったところの墨は喪われてしまい、いたずらにその名声のみが喧伝されて伝わっているのみなのである。普通には(完全な形の)一挺も入手できないのが恨めしいところである。
嘉靖甲子(四十三年:1564)に、私は都の大学に学んだが、骨董を売るものがいて、私に墨癖があることを知って、熱心に名家の墨を集めて来たのである。いつも自分が仕入れたものを持ってきては、私に買わせたのである。丸いものもあれば、挺(長方形)のものもあり、金で飾り立てたものもあれば、蛟(みずち)の紋様が描かれたものもあった。色は漆黒にして煤けたようなものがあり、磨った残墨、半分近く使われてしまった墨もあった。割れてしまって完全な形でないものもあった。その墨匠の数でいえば、およそ百数十家を下らなかった。あるいは奚氏の墨であるといい、または蘇軾が錦嚢(にしきのふくろ)に納めていた墨であるといい、ややもすると非常に古いので連城(れんじょう)の値(:いくつもの城と交換できるような、高価な玉壁)よりも高い値段をふっかける始末であった。私はどうしてそんなことが信じられただろうか。その墨を吟味して、その色や臭いをみれば、とても往事のものといえないことは直ぐにわかったのである。それが古ければ善しとしても、(質がよくなければ)それほどの宝というものではない。
ついで宣徳年間の墨を数挺得たのである。また、郷里(歙県)の羅小華の墨を数函入手できた。これを試しに使って比較してみれば、すなわち羅小華の墨はもちろん宣徳の墨よりは良いものである。また宣徳の墨は、明代より以前の墨よりは良い物である。古い墨というのは、煤は松脂を燃やして採取しており、それを練り固めるのに漆を使っていた。常に湿り滞(とどこお)って、その墨質は粗慢なものである。宣徳年間の墨は油烟を松烟に混ぜ、膠より煤の方が量が多いのである。その墨質は堅いが、色は薄いものである。羅小華はすなわち桐油を燃やして煤を採り、練り固めるに膠を用いたのである。さらに真珠を埋め込むなどして装飾し、贅を尽くしたのである。なるほど、製墨の技術というのは、羅小華によって完成したとはいえるだろう。しかしながらそれは奇を衒(てら)ったところがあり、華美を求めて墨の本質から逸脱したところがある。その油烟の採取法、膠の混ぜ方を見るに、まだまだ改善の余地があるのではないか。
私はもともと職人の仕事を蔑視したことはなく、自ら考え、工夫をこらした。(このように努力をするならば)どうして(製墨という)小さな技術の世界において、第一人者にならないということがあるだろうか。
常に一室を用意し、木で作った槽(おけ:長方形。四方を板で囲う)を置いて、鐙(トウ:”鐙”は”灯”に古同。油脂を満たす碗)をその中にいれ、これに桐油を注ぐ。そこへに茜草(:あかねぐさのつる)をもって灯心を立て、(これを燃やして)油烟を採るのである。また(煤を付着させるために)燃える灯心の上に蓋をかぶせて覆いをするのである。灯心を覆うには高すぎてはいけない。高ければ生じた煤は(空気中に)分散してしまうからである。また低すぎてもいけない。低すぎれば煤に不純物が混じるからである。ただ(立てる)灯心の多い少ない、焔の燃え上がる高さに応じて、煤の清濁が分かれるのであり、なるべくその清浄なところを採らなければならない。もっともよくないのは、小さく明るい炎をもとめることである。またもっとも禁じなければならないのは、柴艸茜(:未詳)を灯心にいれること、また蘇木(そのき)などを燃やすことである。焔が燃え始めたころの、火が盛んなうちは煤をとってはいけない。すでに火が弱くなって、焔が微(かす)かなのはよくない。また焔が消えてしまうまで煤を採ってはいけない。焔の大きさに応じてそれぞれ高下を調整し、そのもっともよいところを採らなければならない。これが油烟の煤を採るときの秘めた奥義であり、微妙なところはなかなか言葉で言い表せないところである。そうしてから、煤に膠を混ぜ、これを杵でうつのである。膠はその時期によって産地を厳選し、そうして杵で打つ回数にも決まりがあり、実験を重ね、工夫を重ね、ようやくして良いものが得られるのである。はじめは形のないものであるが、(型に入れて)圭(まるい墨)となり笏(四角い墨)となり、ひとたび墨の塊となれば硯で磨って墨液を発するのであり、その墨液の光彩は人の目を射抜くようである。筆に含ませて書けば(粘ることなく筆跡は)流れるようであり、紙の上では(その墨痕は)まるで画のように美しいものである。これを他の墨匠に比べれてみても、ただたんに彼らを凌駕するのみではない。凌いだ上でわれながら言うのであるが、これは製墨の技芸を極めているのであり、これ以上のものは誰にも作れまい。しかしながら、その得られる量が少ない事が難点である。ただ、自分で秘蔵して用いるくらいしか作れないものであった。
友人の中に私の製墨に意見を言うものがいて、利益のためにするのではなく、(採算を考えず)名を高めるためにあえて(製墨を)して欲しいということである。私はあくまで儒者であり、工者であることは恥ずかしいから(彼の意見を)固く断り、(採算の取れないこの事業をしないおかげで)貧困に陥らずに済んでいた。
しかしかの方于魯というものは、もともと私のところで厄介になっていたものなのであるが、かれが謂うに「雇われの身で朝夕の生計を糊するには足らないので、お願いですから独立して製墨業をいとなませていただき、それでもって家族を養いたいのです。」と言ったのである。私は彼が困っているのを哀れんで、なにからなにまで彼を支援し、(独立の際の)資本も助けてやったのである。さらに墨の図案なども金に糸目をつけずに提供した。こうして方于魯はにわかに頭角をあらわし、千金の富を得たのである。私は方于魯に(私が与えた)基礎によって事業を営み、また(優れた墨を作るという)本分を忘れてはおるまいな、と問うたのである。なのになんというべきことだろう、その墨作りという行いを堕落させ、私の恩に報いるとは。
また方于魯は市人の金を貸して罪に触れ、都に逃亡したのである。たまたまそのとき私は都で鴻盧の職務に従事していたため、私は都で方于魯をとらえて、郷里に送還したしたのである。彼は故郷へ帰ると、まえよりも一層無頼な振る舞いに出て、一時の名声を盗み取ったのである。いたずらに墨の外見を華美に装い、人々の耳目をひきつけておきながら、それいでいて墨がその等級の別に見合った内実を持っていたわけではない。
墨を求める者がいれば、わざとゆっくりとこれに応じてもったいをつけ、ありがたがらせた。また甲乙の墨をならべておいて、甲の墨を求めるものがあれば乙を与え、乙を求めるものがあれば甲を与えるといった具合であったが、甲乙の等級を分けていたといっても、実のところは同じ墨だったのである。目でもって墨を判断しようとするものはその外見に惑わされ、その名声で判断しようとするものはその墨の品質を疑わなかった。その墨は日に日に悪くなりながら、その価格は日増しに高くなっていったのである。
わたしは「失人(人物を見誤る)」の罪をまぬがれようとは思わない。だから(真を正すため)、私はふたたび製墨業に専心し、職人をあつめてその事業に特別に力を注いだのである。画は江世会(:著名な画家)のように技巧に優れたものがあり、またその墨形は鄭一桂(:著名な画家)の(画)ように精密で、またその事業の経営監督にあたっては洪自寛(:未詳)のような賢才を用いた。.
油烟の採取にあたっては、桐油を蜀や楚(四川省、湖北省)にその材料をもとめ、膠片はすなわち閩(福建)や広(広東省)に赴いて探し、香料は沈香や龍脳、麝香を用い、灯心は紫茜双葍(:未詳だが、すなわち灯心に使う植物の根)を用いて、杵で打つときはすなわちその回数を数え、毎回規定の回数に至らぬことがないようにした。ひとつに膠と煤との混ぜ方は方于魯に教えたとおりであり、墨の名称や形式についても同様である(もともとは私が教えてやったのだ)。
その値段は半ば損ばかりであるが、ただし豨(キ、猪の子)の脂や、独草、鹿角膠といった材料、手法の類は、膠の品質によってすべてこれを用いなかった。いったい豨(き)の脂などは、焔は強いが、烟はあまり出ない。墨色に光沢があると言っても、その墨の光は白いものだ。(灯心に草を1本しかたてない)独草はその炎は暗く、煤などとれるものではない。鹿の角で作った膠などは病気に用いるものであるし、実のところは偽物が多いのである。また光沢があるといっても、その光の色はやはり白いものであり、製墨に使用してよいものではない。
これら(の特殊な技法や高価な材料)は方于魯のようなペテン師がことごとしく言って自分の利益をごまかし、世間のほかの墨匠までをも欺いているのである。(方于魯が製墨の世界を混乱させたこと、)これがもっとも恨むべきところである。私が製墨に専念したのは、彼の欺瞞を暴くことだけが目的なのではない(墨の本来の姿を明らかにしたかったのである)。ここに墨には真実の姿が完成され、こうしてペテン師の事業は失墜したのである。すなわち私は利益を削って墨を作ったが、方于魯は墨の材料を悪いものにして利益を得たのである。(だから)私の墨と彼の墨のどちらが真実であるか、弁別することは容易である。
友人の呉仲良(文璧)は、つね日ごろ私の製墨ことを述べるに、(三国時代、墨匠の祖)韋誕(いたん)になぞらえて語っていた。しかしながら韋誕より以降は、奚李(易水の製墨名家の奚氏は南唐で李姓を賜った)が継承し、(三国時代から明代までの)各世代に墨があるといっても、名前ばかりがのこっているばかりである。その墨の実物は残っていないのであり、何に基づいて名声を判断するべきであろうか。すなわちそれら墨匠の名声といえども書物に書かれているのを見るに過ぎないのであり、いまだにその墨匠達の実力の程はわからないのである。現代になって、(私が)墨の(存在)意義の一切の精神を汲んで(墨を作り)、使ってみて文章をつくることに大いに役立つものとしたのである。その墨の意匠は巧妙であり、品等は多くに及んだ。ペテン師はその墨の意匠を盗んで、利益と名声を得たのである。
大昔から色々な品物があったわけだが、日常の物のひとつひとつにいたるまで残っているわけがない。図になっているものが、わずかに(図として)残っているだけである。(だから物を図で表した)譜(図鑑)になっていなければならないのだと。(だから墨を図に残した方が良いと、呉仲良は言うのである)
私が言う、ああ、墨は物にすぎないではないか。作るのは墨工という職人である。私はまさに(士大夫として、ことさら文章以外の作業に従事する)このことを恥じているのである。どうして今、墨のことでもって、あえて人と競おうとするだろうか。しかしペテン師は私の製墨法を極めていながらその(志の)本分を忘れ、虚名をひろめていって不正に名利をえようとしているのである。まさに天下の人々を自分の方になびかせながら、その批評や見識を欺いているのである。ゆえに墨の頽廃をおしすすめて、真実の墨というのものを世の中から消し去ってしまおうとしているのである。しかし今、(ふたたび真実の墨を作って)すでに真贋については明らかにした。そのうえさらに墨の名を用いて(譜を作り)、(呉)仲良の言われた通りにする必要があるだろうか。(私がこの墨苑を作った目的は)そうではないのである。
純粋に黒く落ち着いているのが墨の本質である。墨の色合いやその光沢は墨の装飾なのでである。意匠に(八卦の)象を採用し、墨の図案をその(象の)形をにせてつくるのは、(それが)墨の実際の姿なのであり、かつ(象が形となってあらわれる)神秘的な作用なのである。なぜならば、(象の)形というものは物の根本であり、物というものは天の原理に基づくからである。一つの物と一つの形に、造化(天地創造)の作用でないというものはない。これは昔の人の作るところであるが、(易の)規定にのっとってその意義を解釈し、その由来を考えて名前をつけるのである。
おそらく謂う者がいるだろう、墨はそもそもこうした(易を立てる行いに)似ているのであると。(いやいやしかしそれは違って、墨は)硯にあてて磨れば興趣をもよおすものであり、墨液を眺めながらあれこれと文章に思いをめぐらさずにはいられない。これが墨というものが、それを使う人に与える作用の大きなものである。どうしてただ(象をかたどり色々な種類を作って)名声を競うための物であろうか。
しかしながら墨は使えば尽きてしまうものであり、いくら墨を作っても、形ある物だけにそれが失われることからはまぬがれない。ゆえにこれを譜(図鑑)にして残さざるえないと謂う(者もいるだろう)。すなわち譜は墨が図となって表れたものであると。また墨は譜が実際の姿となったものであると。名(譜)と実(墨)が相互に関係しあっているのであって、決して滅びることはないのだと。
私が言うのは(譜というものは)そういうものではない。譜とは墨に序言を与えたに過ぎないのであり、その名称や族類(:分類)をならべたてているだけである。譜をみて墨を捜し、墨をみて譜を捜したところで、(対応するものが必ずしも得られないから)いたずらに痒みに手が届かない思いをするだけである。その図の由来を象(すがたかたち)の(さらに上にある)概念に求めて、(それを書いた文章が)古人も賞賛するほどという意味では、いまだにそれをつくしきるところがない。しかしながら、ペテン師はすでにこれをつくってしまった。その本心は図をかかげて価格を吊り上げることである。しかしながらその墨は譜に沿ったものではなく、譜は文にそったものではない。いたずらに図をよせあつめて、巧みにそれをみせているだけであるが、(その譜でもって名声をたかめ)ついに墨において(古代の名医)秦越(のような権威)となったのである。はなはだしいのは奢侈に飾り立てて皇帝にのみ許された図案(:龍など)を用いて、宮中を侮辱したことである。また収録した図案もまたすべて陳腐であり、それについて説明を述べているものはない。何をもって天下に(第一人者と)称するというのか。(そんなわけだから相手にするのも馬鹿馬鹿しいのであり、)私は、どうしてふたたび(方于魯と墨の)名声を争うようなことをするのだ、という謗(そし)りを受けたいとおもうだろうか。
やむを得ず(墨苑を作ることを)するのであれば、すなわちその墨(図のそれぞれ)に文章を書いて、本当のところを述べようとおもうのである。そこで文章を(墨)図のわきに入れ、読む人がその図案の由来を知ることが出来るようにした。あるいはこれをもって収蔵するに値する本としたのである。これは私の得意とするところであったのである。そういうわけで常日頃蒐集していた文章や、自分自身でも文章の数章をつくって墨銘の来歴をただした。すなわち(方于魯の墨譜なぞは)私の志を盗むものであり、到底私にはおよばないのだと言えるだろう。
(呉)仲良はよろこんで言うには「それでは(その集の名を)このように命じよう。すなわち私が聞くには、苑は物をたくわえるところであり、族類の具函である。古(いにしえ)より、文苑あり、説苑があった。大きなものでは天地の造化、小さい物であればモノゴトのこまごましたこと、すべてを包括してつつみこまないものはないのである。あなたの墨苑は、墨の集大成なのだ。古い時代を考えてその(墨の)造(つくり)を考え、(墨の)造を考えて文を編んだ。一つの造にたいして一つの文、皆物類に根ざすものである。すなわちその著作は墨の宗工を悉くしたものである。凡そ翰墨の世界に身をおきながら、おおよそ網羅してほとんど尽くしている。“苑“をもって墨集の名とするに、どうしてよろしくないということがあるだろうか。願わくば、その集の名を“墨苑“となずけることを。」
ここにおいて、つとめて承ってその(呉仲良の言う)とおりにしたのである。墨をとりあげてその本来の意義をたて、その品目をならべること六部、そのほか雑多なものはこれに付録とした。すべては天の意思が形となってあらわれたものを図案とし、また国家の威光を明らかにし、あらゆる物の最も優れたところを採用したのである。どうしてあえて、才子が群れ集まる中に肩を並べることをもとめるだろうか(孤高にして抜群なのである)。願わくば私の墨を愛好する心を、ここに成就させてほしいのである。

萬歴甲子午日新都幼博程大約著

(埼玉に避難された福島のお客様よりメールいただきました。安堵いたしました。)
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羅小華と蛟龍 〜呈坎羅東舒祠

祖先崇拝の“廟(みたまや)“である宗廟は、祖先の中でも特に功績をあげた”偉人“を中心に祀られている。偉大な祖先を神格化し、その祖先の功業を神話として語り継ぐのは、世界各地に見られる”信仰“の原初的な形態である。それだけに、徽州各地の宗廟・家廟を目にすると、あたかもそれが紀元前の昔から延々と信仰されてきたものであるあのように錯覚してしまう。しかし徽州に現在も残る宗廟の多くは、明代後期から清朝初期にかけて作られたものなのである。
羅東舒祠の蛟龍安徽省歙県、呈坎(ていかん)鎮にのこる羅東舒祠(らとうじょし)は、13代目の羅氏宗主である羅東舒(らとうじょ)を祀(まつ)った祠堂(しどう)である。
この羅東舒祠の来歴を調べると、この宗廟の建設を開始したのは、呈坎羅氏の21代目の宗主である羅潔宗(1494〜1553)であるとされる。しかし嘉靖十九年(1542)に“ある事情”によって建設が中断され、それから70年もの間、工事が中断したままになるのである。万歴年間に入りようやく、呈坎羅氏22代目の宗主である羅応鶴(ら・おうかく:1540〜1630)が、その建設工事を完成したとされる。ところがこの羅応鶴の父親は羅灌宗(ら・かんそう)という人物で、別の資料ではこの羅灌宗が呈坎羅氏21代目の宗主ということになっている。呈坎羅氏宗主の21代目には、羅潔宗と羅灌宗の2名が存在したのであろうか?

実は呈坎羅氏には“前羅“と”後羅“の二系統が存在するのである。またその家廟も”前羅家“と”後羅家“の二つに分かれて存在していたという。呈坎の羅氏が二系統に分かれるようになった原因は、その通婚の習慣が影響しているといわれる。中国の古代社会における交換婚の名残であろうか、羅氏の中でも朱姓の宗族と通婚を重ねた一派が”前羅“になり、汪姓の宗族と通婚した一派が”後羅“になったのである。いわばそれぞれの外戚の影響により、羅氏そのものが二派に分かれてしまったというのだ。この”前羅“と”後羅“は呈坎の中にあって互いに対立する関係にあり、とくに風水上優れた土地をめぐっての静かな抗争を繰り広げてきたという。

男系による姓の相続で成り立つ父系宗族社会は、同姓での通婚をタブーとすることで必然的に別姓の”外戚”を身内に招いてしまう。この外戚の勢力の拡大により、宗家の姓が次第に少数派に転化するという、制度上の欠陥を持っているのである。しかし同姓婚をタブーとしなければ、儒教の同姓尊重の原理と重なることで、おそらくは近親婚の積み重ねによる血統そのものの衰退を招いたであろう。同姓不婚というのは儒教の成立以前から存在した風習であり、儒教の教え以前のいわば常識であったため、特に儒教で明文化されて禁忌とされたわけではない。

羅潔宗は呈坎羅氏の中でも“前羅”の系統である。では羅灌宗、羅応鶴は“後羅”なのかとも考えたが、そうではなく羅応鶴も歴とした前羅の系統なのである。しかし羅応鶴が前羅の22代目であり、その父親の羅灌宗が21代目ということであれば、羅東舒祠を起工した羅潔宗が21代目ということと矛盾してしまう。
この点について羅氏家譜は沈黙しているのであるが、ここにはおそらく羅龍文こと羅小華が関係した、明王朝への大逆事件が関係していると考えられるのである。そもそも22代目の羅氏宗主は羅龍文なのである。また長子相続が普通であることを考えれば、羅龍文の父親は羅潔宗と考えて良さそうである。
残念ながら、呈坎羅氏の詳細な家譜はいまだ閲覧の機会に恵まれない。ゆえにともに21代目の羅潔宗と羅灌宗の関係について、その詳細は明確にはわからない。しかし互いの名に「宗」の一字を共有することからみて、兄弟かあるいは宗族内の同世代の人物というのは間違いないところであろう。
呈坎の伝承では、羅小華が厳世蕃とともに都で斬刑に処されたとき、羅小華の家族も軒並み処刑の憂き目にあったという。羅小華の息子の羅王常が、改名してまでその身を隠さねばならなかったことが事実であるとすれば、その累が家族にまで及んだということもおそらく事実であろう。
この際に刑を受けたのが、その一族のどの範囲までのものかはわからない。中国では「族滅」といって、宗族皆殺しという例もある。ともあれ21代目の宗主の羅潔宗の没年は、羅龍文が刑死する以前である。とすれば厳世蕃の逮捕時には、羅氏の宗主は既に羅龍文に代替わりをしていたはずである。宗主とその家族の処刑は、呈坎の羅氏を震撼させたことだろう。また羅龍文が刑死した後、しばらく宗主が空白の時期があったのかもしれない。
どういう経緯か、羅応鶴が22代目の羅氏宗主に納まったとき、あわせて21代目の宗主を羅灌宗となるように、家譜を修正したと考えられる。
“前羅”22代目宗主となった羅応鶴という人物は、明代の呈坎羅氏の中でも優れた人物の1人である。もともと“前後”の羅氏では「前商後儒」というように、前羅の一族は商業の道に、また後羅の一族は官吏となる傾向があったという。政和二年の進士で吏部尚書に登った羅汝楫、「羅鄂州」で知られ朱熹にも賞賛された羅願、また紹熙四年進士の羅似臣などは“後羅”の系統である。
羅応鶴は“前羅”であるが、このときは官界を志したようだ。隆慶辛未年(1571)に進士、官は都察院右僉都御史、誥封嘉議大夫を歴任し、戸部侍郎にまで登った。中年以降は思うところがあって官を辞して帰郷し、著書の執筆、後裔の指導にあたったという。羅龍文の父親が着工した羅東舒祠は、この羅応鶴の手によって完成をみるのである。
羅東舒祠の蛟龍前羅氏族譜の記載によれば、羅東舒祠は羅潔宗が嘉靖十八年(1539)に創建したが、「后寝几成遇事中辍,循垂70年」とある。つまりは「後寝殿がおおよそ出来たところで、“遇事“が発生し、停滞してそのまま70年が経過してしまった。」というところである。しかしその理由は族譜には記載されていない。
この中断の原因は、後寝殿が“九間(およそ16.2m)”の広さをもち、彩絵に黄色を使用し(黄色の使用は通常皇室に限られる)、さらに“鯉魚吐水”の彫刻にある鯉魚の頭が、どうみても成竜の頭であったからであると言われている。龍を意匠に用いるのは、原則として皇族に限られる。つまりは臣下の分際を越えた建築であるという事だ。ただしこういった建築の格式というのは、功績によっては特例が許されることがある。
建築計画が中断した正確な経緯は明らかではないが、基準を超える建造物を建築しているということで、工事の差し止めを命令されたと考えられる。しかし基準に合わないからといって、取り壊して規模を縮小して完成させるということはしなかったようだ。どうも工事を中止にしたまま、許可がおりる時期を待とうという腹だったのかもしれない。歙県に残る許国の八脚牌坊や、許村にのこる許氏宗廟の格式などは、追認という形であるが基準以上の建造物を認められているのである。
羅潔宗から羅氏宗主を継承した羅龍文であるが、その念頭に羅東舒祠の完成がなかったということはないであろう。しかし壮年の頃に郷里を離れ、浙江で倭寇と戦い、ついで北京で厳嵩・厳世蕃と行動をともにし、その厳嵩父子が失脚するや呈坎に戻って厳世蕃を匿い、最後は厳世蕃と揃って逮捕され、都で処刑されてしまったのであれば、羅東舒祠の完成に手をかける暇はなかったであろう。
羅東舒祠の建設が中断していた理由が、臣下の分際を越える建築物であることを、朝廷に咎められたということが事実であれば、宗主である羅龍文の反逆罪による処刑と、その罪の重さを考えればどうであろう。羅龍文に代わって宗主となった羅応鶴としても、とてものこと、羅東舒祠の建築をすぐに再開することなどは、思いも寄らなかったに違いない。

この羅東舒祠の後寝殿には18枚の見事な石雕欄板(せきちょうらんばん)が存在する。羅東舒祠の伝承によれば、この石雕欄板は績溪県の胡宗憲の族人が、羅応鶴に贈った品であるといわれている。もともとこの羅東舒祠には38枚の石雕欄板が贈られたが、この18枚のみが建物に使用され、残り20枚は廟内のいずこかに埋設されたという。
羅東舒祠の蛟龍羅東舒祠の蛟龍
倭寇討伐に活躍した胡宗憲は、倭寇の頭目である王直と内通した嫌疑をかけられて、また失脚した厳嵩との共謀を疑われて投獄され、冤罪を訴えながらついに獄死している。その後、胡宗憲の一族はその冤罪と名誉回復を訴えていたが、明代も万歴年間になってようやく羅応鶴がこの案件をとりあげ、胡宗憲の冤罪を晴らしたのである。石雕欄板はその御礼に績溪の胡氏から贈られたものであるといわれている。羅東舒祠の蛟龍羅東舒祠の蛟龍もとは38枚あったといわれる石雕欄板のうち、18枚のみを羅東舒祠の後寝殿で観ることが出来る。そのことごとくが、蛟龍(こうりゅう)が霊芝(れいし)と戯れる図である。空想上の神獣である蛟龍の意匠は、あたかも現実の動物であるかのように生き生きと描かれており、小生がこれを初めて目にしたときは、新品の模造品かと思ったほどに状態は完美であった。明代後期における、徽派彫刻の代表作のひとつと言って良いだろう。
小生はこの18枚の石雕欄板をはじめて目にしたとき、どうにも羅小華の墨を思わずにはいられなかった。羅小華の墨で現存するものを目にする機会は少ないが、「墨表」に記載されている墨銘から、その意匠に“龍“が用いられているものが多いことがわかっている。”龍“といっても、成龍を意匠に用いるのは皇族の持ち物に限られていた。通常士大夫に許されたのは、成龍未満の蛟(みずち)、すなわち蛟龍(こうりゅう)である。明末の方瑞生の著した「墨海」には、羅小華の墨の図案が数点記載されている。やはり龍、あるいは蛟龍を扱ったものが過半を占めている。以下にその図像を示す。
羅東舒祠の蛟龍羅東舒祠の蛟龍羅東舒祠の蛟龍羅小華は“華道人”あるいは“小華道人”と号し、墨銘にもその号を用いたものがある。あるいは“小道士”という、玄宗皇帝の伝説に基づく墨銘を用いている。“道人”というのは、言うまでも無く道教に帰依した人物が用いる号である。羅小華が道号を用いたのは、おそらくは厳嵩との関係が影響しているのだろう。厳嵩は道教に精通し、道術に耽った嘉靖帝の信任を得た経緯がある。羅龍文が厳嵩に取り入る契機となったのが、伝説どおりにその墨なのであれば、墨の意匠に道教思想を反映させたものを作ることを、羅龍文が考えないはずがない。唐の玄宗皇帝の文治政策を讃えた“小道人”の墨などは、厳嵩を通じた嘉靖帝へのアピールを意図していたと考えられなくもない。
羅東舒祠の蛟龍ここで羅東舒祠の石雕欄板に戻ると、18枚の欄板のすべてが、蛟龍が霊芝(れいし)に戯れる図である。霊芝は不老長生の仙薬とされ、道教思想と深く結びついた植物であり、出現自体が瑞兆とされるものである。霊草と神獣とが結びついたこの意匠は、これでひとつの招福の図案となってはいる。しかし吉祥や瑞兆ということであれば、他にも数多くの図案がある。神獣も、蝙蝠でも獅子でも鯉魚でも良いのである。執拗なまでに蛟龍と霊芝の図案が繰り返された、この一連の石雕欄板を見ていると、どうしても羅龍文を想起せずにはおれないのである。
績溪の龍川(りゅうせん)は胡宗憲の故郷であり、かれは龍川胡氏の宗主の地位にあった人物であった。この胡宗憲の冤罪と獄死にいたる経緯には、実は羅龍文が関係しているのである。
権勢を誇った厳世蕃は、度重なる弾劾を受けてついに失脚し、その義兄弟であった羅龍文とともに逮捕される。厳世蕃と厳嵩、およびその取り巻きである“厳党”とよばれた一派への追及は厳しく、胡宗憲も関与を疑われ一度投獄される。しかし嘉靖帝は胡宗憲を信頼し、一旦は胡宗憲は釈放されるのである。
ところが都(北京)の羅龍文の家が家宅捜査された際に、胡宗憲から厳嵩と厳世蕃へ宛てた手紙が発見され、これがもとで胡宗憲は再び投獄されてしまうのである。一説では、この手紙を代筆したのは胡宗憲の幕僚を務めていた、徐文長こと徐渭であったとも言われる。
実際のところ、胡宗憲が厳嵩へ接近しようとしていたのは事実であったらしい。ただ厳世蕃の処刑の原因になるような、倭寇や日本などの海外勢力との内応の事実はなかったということだ。厳嵩へ誼を通じようとした手紙の発見によって、胡宗憲も“厳党”であるとみなされ、倭寇との内通の嫌疑とともに再び投獄されるのである。
胡宗憲は正式に罪に服したのではなく、嫌疑をかけられ投獄されたまま、獄中で(一説では食を断ち)死去する。厳世蕃と羅龍文は処刑されるが、厳嵩自身は死一等を免じられ、家財没収、庶人に階級を落とされた上に郷里に追放されている。しかし世論としては、胡宗憲は倭寇と内通した“売国奴“であるという評価が固定したまま、嘉靖帝の治世は終わる。
胡宗憲の冤罪に関しては、隆慶六年(1572)に江西安陸の人で、兵科給事中の劉伯燮が上書しその冤罪を弁じた。劉伯燮は隆慶年間の進士であるが、かつては胡宗憲の下で対倭寇の戦いに活躍した人物である。この劉伯燮の訴えが奏功し、胡宗憲は倭寇平定の功績をもって追封をうける。しかし胡宗憲が倭寇と内通した裏切り者であるという公論は、いまだ根強く残っていた。
明代後期にあっては、北方の国境線は女真族の進入を受け、沿岸部は倭寇が荒らしまわるなど、明の国土はとかく国外勢力に圧迫されていた。当時の江南地方には外国人に対する反感や、排外的な気分が充満していたようである。宣教師のマテオ・リッチも、南京から退去させられるなどの迫害を受けている。そういう外国嫌いの機運というのも、考え合わせる必要がある。
しかし反逆の罪で厳世蕃とともに処刑された羅龍文については、政治犯以外の何者でもない。羅氏の宗主にあった者が、世間からそうみなされているというのは、羅応鶴を初めとする呈坎羅氏としても肩身が狭かったことだろう。宮廷の高官にのぼった羅応鶴としては、官界にあっては呈坎羅氏の名誉回復に努めたことは想像に難くない。
中国の量刑には、功績を以って罪を帳消しにするという、面白い考え方がある。場合によっては罰金を支払って帳消しにしてしまう。この帳消しの感覚というのは実にさっぱりとしたもので、文字通り罪が消えるというわけで、後々までそれで後ろ指を差されない。この点の“罪”に対する感覚は、日本人とは随分違ったものだろう。日本社会のように「脛に傷」というようなことが、いつまでもついて回るということがない。
羅応鶴としては、羅龍文にも功罪あったことくらいはせめて認めてもらいたい、と考えただろう。羅龍文の功績といえば、なんといっても倭寇討伐に活躍したことで、これは動かしがたい事実である。しかし肝心なことに、その当時の上官であった胡宗憲が倭寇と内通した汚名をかぶったままである。
万歴16年(1588)には徽州の汪道昆、許国が再度上層文を上書し、胡宗憲の冤罪を弁明した。このとき汪道昆は官を辞して郷里にあったが、かつて胡宗憲を助けて倭寇討伐に活躍し、隠棲してからは文壇に大きな影響力を有していた。また許国は嘉靖〜万歴の三朝に仕えた朝廷きっての元老であり、その門下生の多くが進士に及第して官界にあった。この両名の訴えは、相当に効果があったと考えられる。またこのとき関係当局にいた羅応鶴もとくにこの案件を取り上げ、胡宗憲の汚名撤回に大きく貢献したのである。
翌年になって胡宗憲の孫である胡灯が奏上し、胡宗憲の棺を故郷の天馬山に帰郷させ、ここに葬ることが許された。また神宗皇帝は胡宗憲に諡号として“襄懋”と、さらに諡文をたまわった。そして特に“抗倭名臣”の扁額を下賜したのである。これによって胡宗憲の名誉は完全に回復したと言って良いだろう。ゆえに龍川の胡氏は、羅応鶴に深く感謝したのである。
胡宗憲は内通の嫌疑のみ晴れれば、倭寇討伐と治安回復に果たした功績は大きなものであった。羅龍文も、倭寇の大頭目の徐海を投降させる際に重要な役割を果たしている。羅応鶴が胡宗憲の冤罪案件を取り上げた際には、おそらくは呈坎羅氏の名誉回復も意識の上にあったことだろう。
最終的に羅龍文の功罪について、どのような配慮があったかは不明である。しかし万歴帝神宗が羅小華の墨を酷愛して買い集め、市中から羅小華の墨が消えてしまったという事実を見れば、羅龍文に対する名誉も回復されたことが察せられるのである。
いかに羅小華の墨が優れていたとしても、反逆の汚名を持った人物の作った墨を、皇帝が蒐集を命じるわけにはゆかないだろう。公然と赦免することは無理であったにせよ、あるいはそういう形で羅龍文への恩赦を、世間にしらしめたのかもしれない。羅小華の息子の羅王常も、晩年になってようやく羅姓を名乗ることができたと述べているが、ここにも羅応鶴の働きが感じられるところである。
こうした羅応鶴の運動というのは、要路に多額の金をばら撒く必要があったことは想像に難くない。“前商後儒”と言われた前羅出身の羅応鶴であれば、それを賄うことも充分可能であったであろう。その経済力の凄まじさというのは、羅東舒祠の壮麗さから充分に伺えるところである。
羅応鶴は45歳(数え年)の時に父親が死去し、葬儀と喪に服するために一時帰郷することになった。帰途に着く間際に、郷里の大先輩である許国の執務室に呼ばれるのである。そもそも許国と羅応鶴は、師弟関係にあったといわれる。進士に及第する前の許国は、母親の故郷である霊山村で教鞭をとっていたのだが、そのときの生徒の1人が羅応鶴であったというのだ。霊山村が呈坎に程近いことを考えると、ありえない話ではない。
羅応鶴を前にした許国は「わしもそろそろ引退を考えている。貴君が父君の葬儀のために帰郷するにあたって、この箱を贈る。郷里に帰ってから開きなさい。」といって、木箱をひとつ渡したのである。羅応鶴が呈坎に帰って葬儀を済ませてから箱をあけると、中から羅応鶴に対する弾劾の書状が、束になって出てきたのである。
つまりはそれらの弾劾文は、朝廷の元老である許国がすべて握りつぶしてきたのである。許国も引退するにあたって、もうこれ以上は庇うことが出来ないということを羅応鶴に伝えたのであった。この意味を悟った羅応鶴は官を辞し、以後は郷里で著作や羅東舒祠の建設に専念することになる。
(羅応鶴が弾劾を受けた背景には、呈坎羅氏と西溪南呉氏の間の確執にあると言われているが、長くなるのでこのことは別の機会に)
あまりにも壮麗なために規制にかかり、建設が中断していた羅東舒祠は、当初の計画をより拡充させた形で完成している。それが可能であったのも、嘉靖年間以降に宗廟の建築基準が緩和されたことと、羅龍文の名誉回復、くわえて宮廷における羅応鶴の功績が大きかったことによるのだろう。
胡宗憲は厳嵩・厳世蕃と羅龍文の失脚に巻き込まれたともいえるが、胡宗憲の方から積極的に厳嵩に接近しようとしていたことも事実のようで、そこにはいささか梟雄めいた性格もうかがえなくは無い。しかし厳嵩・厳世蕃は、正史の上では史上屈指の佞臣であるとされているが、胡宗憲は明代後期の名将・功臣であると評価されている。羅龍文は功罪相殺したものの、その名前自体が、政治史の中では小さな存在になってしまったようだ。「明史」の中でも別伝を立てられるには至らず、奸臣の厳世蕃の伝記の中に登場するのみである。しかし文化史の面では、明代最高の墨匠という評価を残し、後世の製墨業に与えた影響は計り知れない。製墨に限らず書画や詩文、骨董の鑑別に明るく、また金石学や古印研究の先駆けを成した1人なのである。
胡宗憲と羅龍文の関係を考えると、胡宗憲の失脚と獄死の近因に、羅龍文がいたという見方も可能である。その胡宗憲の名誉回復に、羅龍文に代わって羅氏の宗主となった羅応鶴が深く関わり、また胡宗憲の復権によって羅龍文の罪も軽減されたのであるとすれば、そこにはなにか“因果”のようなものを感じないわけにはゆかない。胡宗憲の子孫から羅応鶴に石雕欄板が贈られたのも、その因果の帰結を思わせるものである。
羅東舒祠の蛟龍これらの欄板に刻まれた、蛟龍の躍動感溢れる姿には、羅龍文の精力的に生きた生涯を想起させるものがある。この欄板を後寝殿に配した、羅応鶴の真意はどのようなものであったのだろうか。
羅東舒祠は祖先崇拝を目的とした建物であり、別に前羅氏の宗廟がありながら、特に功業のあった羅東舒を祀(まつ)るために別につくられた建物である。前羅氏の宗廟は歴代の宗主を中心として祀られるのであり、羅応鶴も死後はこの羅氏宗廟に祀られる。しかし本来の22代目の宗主であった羅龍文は、宗主として宗廟に祀られることはないのである。とすれば、羅東舒祠にこの石雕欄板を配することで、羅応鶴としては羅龍文の霊を祀る意図があったのではないだろうか…というのは小生の推測に過ぎない。どこにもそのような記録はない。しかしこの18枚の欄板の蛟龍を見ていると、そこに羅小華の姿を見るようでならないのである。
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呉萬春からの手紙 〜方用彬と徽墨の流通?

呉萬春という人物から方用彬へ宛てた手紙が二通ある。

呉萬春は「七百通」の【考釈】によれば、『呉萬春、字(あざな)元生、歙県人、居徽州府城。善畫能詩、県志入(藝能傳)』とある。徽州府城に住み、書画詩文を能くしたということだ。また「七百通」の【資料】にはもう少し具体的に、
『呉萬春、字元生、群城翀山巷人。聡明、工畫花卉翎毛、信筆倶佳。而山水挂幅、縦横任意。其于叔明、子久、時離時合、卓自名家。又頗能為韻語、題之不淺。登臨之興、毎有韻士訪之、則須盤礴時、又遂輟筆、携杖頭銭、不東走問政、則西往水西、頻頻不厭、又怪士也、子楚、姪麟、各得一長(萬暦歙志)傳巻九(文藝・藝能)』とある。
すなわち、
「呉萬春、字は元生、群城(すなわち徽州府のあった歙県城)翀山巷(ちゅうざんこう:通りの名)の人である。聡明で、花卉や鳥類の畫に工(たく)みであり、信書(手紙、書簡の類。卒意で書く書)に優れていた。また山水画は(縦長の)掛け軸でも(横長の)画幅でも縦横自在に描くことができた。その画風は叔明と子久(王蒙と黄公望。ともに元末四大家のなかでもしばしば併称される)の間にあり、それらの名手の画風から時に離れ、時に近づき、ついに自ずから優れて名家となったのである。また頗(すこぶ)る能(よ)く韻語(対句・詩文を作ること)を為し、題(題名、扁額を考えること。ネーミングセンス)にもまた浅からぬ素養を持っていた。好んで山河を跋渉し、韻士(=詩文の素養の高い人)がいれば之を訪れ、すなわち盤礴(ばんばく:想念が胸中に満ち溢れる)の時や、また遂に筆が進まないときなどは、杖頭銭(じょうとうせん:杖の先に仕込んだ百銭内外の銭。僅かな金で飲み歩くこと。奔放不羈な様)を携えて、東に走り時勢を問い、西に水西(水辺の西方。山水の景勝)を求めて放浪し、頻繁に出歩いてこれを厭うことなく、まるで世間並みの規範にとらわれない男であった。子の楚、姪(甥)の麟はそれぞれ得意とするところがあった。」
というところだろうか。呉萬春は呉姓であるが、いわゆる西溪南の呉氏ではなく、歙県城内の人物のようである。残念ながら、彼の作品は寡聞にして目にしたことがないが、当時の徽州士大夫の例に漏れず、詩文と書画を能くしたのだろう。また奔放不羈な性格とあわせて放浪癖があったようだ。彼の書や画のレベルがどの程度であったかは不明であるが、歙志は地元の人が書いた地方史であるから、多少は“お国贔屓”の感情も加味して考えなくてはならない。とはいえ、当時の一般的な士大夫の詩文書画の素養の水準が、現代人と同じと考えてはならないだろう。

この呉萬春が、方用彬に宛てた手紙の一通目を読んでみる。
「兄携来射皮字并姫水字五張、不識其(価)幾何?望賜示。魯墨事、問有售者、令人回報。連日病復作、不能恭候左右、待少愈領教萬萬。社弟萬春頓首。大雅元素老丈座又。」

拙訳「兄(方用彬への尊称)の携えてこられました、射皮(しゃひ:朱日藩)の書と姫水(黄姫水)の書の五張は、その価格がいかほどか存じません。(お値段を)教えていただければと思います。方于魯の墨の事は、購入を希望する者がおれば)人をやってお知らせします。ここ連日は(息子の?)病がぶり返してきて、お供できません。少し病気が癒えるのを待っていただけ色々とお教えいただければと思います。社弟萬春頓首。大雅元素老丈(=老僧)座又」(金冊〇六四)
文中、“射皮”とあるのはすなわち“射陂”こと朱日藩(しゅ・ひはん)。江蘇は宝応の人で、嘉靖二十三年(1544)の進士、烏程県令、九江知府を歴任。閉じこもって書を読むことを好み、また晋代名家の書を熱心に臨書したという。「字」というのは「字画」すなわち「書」のことである。
“姫水”とあるのはもちろん黄姫水(こうきすい)のこと。黄姫水は蘇州の人で、五岳山人こと黄省曽の孫。文徴明と同じく書を祝允明に学び、また文徴明やその子の文嘉と深い親交があった。
朱日藩も黄姫水も共に呉門(蘇州派)の書の名手であり、彼等の書を五枚ほど方用彬が呉萬春に持って行っ見せたのだろう。それを見て呉萬春は買う気を起こしたのか、価格を方用彬に問い合わせているのである。
また「魯墨」とあるのはもちろん方于魯の墨のことである。「七百通」の著者の陳智超氏は、方用彬はこれらの書を見せたときに「方于魯の墨を欲しい者はいないか?」と呉萬春に打診したのだろうと考証している。おそらくそうであろう。呉萬春は希望する者がおれば「令人回報」すなわちご連絡します、という返事をしている。
方用彬が方于魯の墨を商品として取り扱っていたことが、明確にわかる一文であると言える。また方用彬は文房四寶の他に、書画の売買も行っていたことが伺える。文房四寶を扱う店が一方で書画の流通を担うというのは、瑠璃廠の北京栄豐齋に代表されるように、特に奇異なことではない。
この際に方用彬が携えた書がどのような品であったかは確認するすべが無いが、明代後期の蘇州と徽州の間では人士の交流は相当に盛んであった。
たとえば祝允明の母親は西溪南呉氏の出身であり、祝允明は西溪南を訪れて呉一族が収蔵する古代の名家達の書の真跡を学んでいる。唐寅は祝允明との関係から西溪南の収蔵家の呉用郷と親しく、また文徴明は胡宗憲の幕僚を務め、度々徽州を訪れている。あるいは文嘉や周天球など、呉門の書画家達の名は方氏墨譜や程氏墨苑の墨賛に見られる。
よって、西溪南に近い位置にいる方用彬が、同時代人の朱日藩や黄姫水の書を数点所持していたところで、特に怪しむには足らないのである。
前回紹介した手紙に比べると、呉萬春の性格を反映してか、あるいは方用彬との関係からか、かなりざっくばらんな調子の手紙である。最後に「連日病復作」と、病がぶり返して、方用彬の元へ行けないことをわびている。この手紙だけ読めば、呉萬春自身が病気とも解釈できるが、もう一通の手紙の内容と併せて読むと、彼の息子が病気であることが察せられる。
最後に「老丈座」と言っているが「老丈」とは老僧のことであり、「老丈座」といえば老僧の居るところである。このとき方用彬は寺院に滞在していたのかもしれない。
汪道昆は詩社の「豐干社」とは別に、禅の結社である肇林社も主催していた。また方用彬のいる巌寺鎮は仏教が盛んなところであり、方用彬が寺社に居たとしても不思議ではない。さらに言えば、昔の中国では寺院が旅先の宿泊施設として広く利用されていたのである。「老丈座」というのは、先の手紙を届ける際に、使者が方用彬が寺院に滞在していることを伝えたことをうかがわせる。(当然だが、滞在先を告げなければ手紙が届かない)

「七百通」にはもう一点、呉萬春の手紙が収録されている。

「承往顧、不成意思、大愧無地。奈因犬子病甚、未得奉送、歉歉。蒙許恵白石、近間叔度丈歸、得接示音、専浼、小?恭領。其夫筏日下青銭百文、敢煩足下亦部署之。統容面謝不盡。小弟呉萬春頓首。元素先生社丈大雅。(鈴印、壽翁、呉萬春印)」(金冊 〇八四)

「ご訪問をいただきましたのに、おもてなしもなかなか意のままにならず、おおいに愧(は)じて身の置き所もありません。愚息の病が甚だしく、お見送りすることもかないませんでした。大変申し訳ありません。もったいないことに白石をおゆずりいただく恩恵を蒙りました。最近、(何)叔度がもどり、貴殿からの消息に接しました。(それによると)当方が貴殿に依頼したもの(=白石)は、小?を派遣して謹んで受領いたします。運送するための筏に目下のところ必要な銅銭百文につきましては、敢えて貴殿の方で御手配いただければと思います。統容面謝不盡。小弟呉萬春頓首。元素先生社丈大雅」

冒頭「承往顧」とあるのは、方用彬が徽州府城内の呉萬春を訪ねたことを言っているのだろう。「不成意思」とは、なかなか意のままにならず、ということだが「ゆきとどいたおもてなしも出来ず」といったところか。「大愧無地」というか、大いに恥じております、くらいに意味に成るだろう。「犬子」とは、「豚児」「愚息」というほどの意味で、自分の子供を謙遜して言う言葉である。陳智超氏の考証によれば、この手紙は先の一通とほぼ時期を接して書かれたものであるというから、先の手紙も息子が病気で目が離せないのです、というところだろう。そこで「未得奉送」と、方用彬が巌寺鎮の方に戻るにさいし、見送ることができなかったことを詫びている。「歉歉(カンカン)」は謝罪の言葉である。
「蒙許恵白石」とあるが、「七百通」の考証におれば、この「白石」というのは呉萬春が方用彬に依頼した品物であるようだ。後段で「其夫筏日下青銭百文」とあるのは、その白石を運搬するのに「筏(いかだ)」すなわち水路で運ぶことを必要とした、ということになる。船で運ばなければならないということであれば、小さな石ではないだろう。庭石か、あるいは彫刻に使う素材であるかは未詳である。
「専浼」だが「浼」は「依頼」の意、それが「專(すべ)て」ということだから、呉萬春から方用彬に依頼した品でここでは「白石」のことを言うのだろう。
「小?」はおそらくは呉萬春の下で働く小者であるかもしれない。方用彬が水路で石を運ぶ段取りをし、呉萬春から派遣された小?なる者が受領し、徽州まで運搬するといったいみになるのだろ。
最後に「其夫筏日下青銭百文、敢煩足下亦部署之」として、運搬に使った筏の代金百文については、「敢煩足下:敢えて足下(方用彬を指す)を煩わし」「亦部署之:亦これを部署」とある。「部署」はここでは現代中国語でいう「安排(アンパイ)」すなわち“処理”というほどの意味である。つまり方用彬に、日下(=目下)の筏を使った送料を負担してください、と言っていることになる。
ちなみに「筏」と言っているが、このとき方用彬が巌寺鎮におり、呉萬春が徽州府城、すなわち現在の歙県市街にいるのだとすれば、その間の交通・輸送は臨河を使って行われたと考えられるのである。
最後に「社丈」と敬称をつけているが、先の一通に「老丈」とつけたように、社丈といえば「社長」すなわち豐干社の社長、ということであろう。とすればこのとき方用彬は豐干社が結社した場所である「豐干」すなわち西溪南に滞在していたとも考えられる。とすれば西溪南を貫く「豐楽水」すなわち臨河を使っての徽州府城との往来ではないかと、想像できるのである。

方用彬の扱っていた商品はどのようなものがあったのだろう。また扱っていた墨は方用彬自身が製墨を手がけていたのか、あるいは墨匠達の製品を仲介して流通させていたのか。少なくとも方于魯の墨を扱っていたことは事実であり、また積極的に方于魯の墨を流通させようとしていた気配がうかがえる。「七百通」の中には、墨の流通に関わると考えられる手紙がいくつかみられるが、すくなくとも名指しされているのは方于魯だけなのである。
方用彬と方于魯の関係は「宗族」という以上のことは、いまのところわかっていない。どうも巌寺鎮を中心に潜口や西溪南といった地域における、血縁や宗族をからめた人士の交流の中に、その関係が求められるのではないかと考えている。さらにいえば方于魯とは仇敵の間柄になってしまった程君房も、もともとは同じ交際の範囲にあった者同士なのではないか、という予想がある。方于魯と程君房は、仲たがいする以前は同世代の友人として、かなり親しい交際をしていたと考えられるからである。方于魯は程君房の単なる下僕であったというのは、やや認識の修正が必要かもしれない。

ともあれ、呉萬春は方用彬に方于魯の墨の購入希望者の有無を打診されている。呉萬春も、その手紙の内容から伺えるのは、方用彬が属した「豊干社」のメンバーかそれに準ずる人物ということである。やはり詩文の道を通じた交際のネットワークの中で、方于魯の墨が流通していたということを思わせるものである。

(つづく)

落款印01

画蘭と董其昌

昨年販売していた熟宣、特製煮硾宣(しゃついせん)であるが、ことしも若干量の入荷を見込んでいる。2009年の春〜初夏にかけて製造された煮硾宣も、一年経過してだいぶ落ち着いてきた印象がある。入荷した当時は、撥水の効果が高く、滲まないどころか墨を撥(はじい)てしまうような気味があったのが、若干しっとりと墨が乗る感じに変化していている。書いてすぐは、墨色が薄くやや浮ついた印象を覚える紙であるが、乾くにしたがって色味が落ち着いてゆく。また表具すれば一段と生彩が引き立つのも、加工するベースとなっている紙が良質なためである。無論、書にも画にもいい紙である。
紙・筆と画蘭紙・筆と画蘭「四君子」の中でも、蘭と竹は年中書いても良い、という気がしている。詩に蘭がうたわれる時には、春の季節が多く、それなら画も梅の季節の終わった晩春から初夏にかけて書かれるべきなのかもしれない。しかしもとは熱帯から亜熱帯にかけて生息する植物であり、開花時期が春にあたるのは東アジアの場合である。さらに現代では温室栽培により、年中開花した蘭が見られるものであるが。(人気があるのが胡蝶蘭であるが、小生はどうもあの丸い扁平の蘭葉に馴染めないのだが…)
「竹梅蘭菊」を四君子というが、梅と菊は厳しい寒さにも耐え抜くことができる。そもそも梅の花というのは「(君子は)風雪に耐えて咲く」という意味がある。しかし梅や菊というのは、多くは屋敷や庭園の内にあって栽培される植物であり、野生の梅や菊を愛でるという状況が想定されることはあまりない。陶淵明が東籬の下で採んだ菊も、植えられたものなのである。寒さに耐えるとはいえまったく土壌を選ばないということはなく、ある程度の人の手を必要とするのが梅と菊である。
しかし蘭や竹となると、多くは野生に自生している状態が想定されていることが多い。またどちらももとは熱帯の植物である。野性といっても、実のところ蘭の栽培にはかなり熱心であったのだが、その栽培された蘭も多くは深山に分け入って採取した株であり、どうしても蘭は山の奥深いところで咲くべきもの、という前提がある。
その姿に自分の境遇を重ねているとなると、かなり過酷な、あるいは超俗的な環境に身をおいていることを想起させるものである。同様に竹も相当に過酷な環境に耐えて自生する植物である。清初の鄭板橋が蘭竹画に専心し、また好んで詩を作ったことからは、そういった気分の表れを読み取ることが出来なくも無い。
紙・筆と画蘭紙・筆と画蘭
「読書人が書く画」がどういうものかといえば、詩に言葉でもって表現された明確な主題があるように、やはり明瞭な主張を背景にもった画である。この場合の「明確さ」というのは、やはり言葉でもってある程度は説明可能な概念なり情念ということになるだろうか。
もちろん画はそのまま画として鑑賞してもかまわないと思うのであるが、当時の士大夫の思想や哲学、社会情勢や書き手の人生を考えながら、画の意味を考えるのもひとつの観方である。無論その画の意味がわかったところで、時代も社会もことなる現代の自分が共感できるかどうかは別問題であるが、すくなくとも当時の士大夫同士であれば相互に理解できたメッセージであったことは考えてみてもいいだろう。ともあれ書と画が不可分な関係にあったように、詩と画も不可分な関係にあった。詩の多くは画になりうるものであったし、画の主題もただちに詩文に転化することが可能な内容を持っていたのである。

明の董其昌に「蘭」を主題にした二首の詩がある。二首続いた詩であるが、はじめの一首に「画蘭」すなわち絵に書いた蘭をうたっている。というより、蘭を描くという行為そのものがうたわれているのである。完成された蘭の画を眺めて楽しむだけではなく、蘭画を“書く“という行為そのものが、当時の士大夫達にとっては楽しみのひとつだったのである。

緑葉青葱傍石栽(zāi)
孤根不與衆花開(kāi)
酒闌展卷山窓下
習習香从紙上来(lái)

緑葉(りょくりょう)は青葱(せいそう)にして石栽(せきさい)に傍(はべ)る
孤根(ここん)は衆花(しゅうか)とともに開(ひら)かず。
酒闌(しゅらん)にして卷(かん)を山窓(さんそう)の下に展(の)べ
習習(しゅうしゅう)の香(こう)は紙に从(したが)い上来(じょうらい)す。

○『青葱(せいそう)』は青ネギ、ではなくて翠緑色が原義。「(唐)韋応物・“游渓“詩」に“縁源不可極,遠樹但青葱。”とある。○『石栽』盆栽。とくに怪石をあしらった盆景。○『孤根』独立した根。独立した一株。「(宋)王安石・“金山寺“詩の三」に“滄江見底応无日,万丈孤根世不知。”とある。○『衆花(しゅうか)』さまざまな花。群芳。
○『酒闌(しゅらん)』すなわち酒宴が闌(たけなわ)であること。「史記・高祖本紀」には“酒闌、呂公 因目固留高祖 。”とある。○『山窓下』すなわち山荘の一室、窓のそばである。「(宋)顧逢・雷峰寺聴琴」に“尽日山窓下,松風細細吹。”とある。
○『習習(しゅうしゅう)』ここではかすかな風が吹く様「詩経・邶風・谷風」“習習谷風,以陰以雨。”○『上来』立ち上る様子。

四君子(竹梅蘭菊)のひとつに数えられる「蘭」であるが、深山にひっそりと根を下ろして咲くことから、隠逸の士の姿に重ねられることが多い。「孤根不與衆花開」というのは、「衆花」すなわち華々しさを競って咲く、さまざまな花から離れてひとり咲くということであるが、これも名利を競う俗人の群れから離れ、高い節義を持して独立するということである。
「習習香从紙上来」の「香从紙上来」とある「香」は「紙に从(した)がって」ということであるから墨の香りであるが、これを画中の蘭の香りとかけている。蘭の香りは「幽香」と表現される幽(かす)かな香りであり、「幽玄」に通じるものとされ「玄」すなわち「墨」に通じるのである。

(大意)
青く透き通るような葉は、石が置かれた盆景にこそ似つかわしいものだ。
この蘭の一株は、他のさまざまな花とともにあるよりは、ひとり咲いているほうがいい。
酒を酌んで良い気分になったところで、山荘の窓辺の机の上に、巻子をひろげようか。
墨を磨って蘭画を描くと、良い墨の香が紙から立ち上ってくるかのようだ。
紙・筆と画蘭紙・筆と画蘭其二

无辺?草嫋春烟(yān)
穀雨山中叫杜鵑(juān)
多少朱門貴公子
何人消受静中縁(yuán)

无辺(むへん)の?草(ケイソウ)は春烟(しゅんえん)に嫋(たおや)ぎ
穀雨(こくう)の山中には杜鵑(とけん)叫ぶ
多少(たしょう)朱門(しゅもん)の貴公子
何人(なんぴと)ぞ静中(せいちゅう)の縁(えん)を消受(しょうず)せん

○「无(無)辺」際限の無い様子。「(唐)杜甫・登高・詩」に“无辺落木蕭蕭下,不尽長江滾滾来。”○『?草(ケイソウ)』?草といえば佩蘭(ハイラン)という意味もあるが、この佩蘭はキク科の植物である。ここでは?蘭(ケイラン)の意味にとって、蘭の一種をさすのだろう。○『春烟(しゅんえん)』春の雲烟(うんえん)嵐気(らんき)、あるいは草木の間に立ち上る水蒸気。「(元)趙孟頫・桃源春暁図詩」に“ 桃花源里得春多,洞口春烟揺緑蘿。”とある。
○『穀雨(こくう)』二十四節気のひとつ。穀雨ころは降雨が増え、稲などの農作物の生長に寄与する。ゆえにこの名がある。毎年4月19日〜21日ごろ。○『杜鵑(とけん)』すなわちホトトギス。
○『朱門(しゅもん)』赤い漆塗りの門、すなわち富貴の家柄。「(明)李攀竜・平凉詩」に“惟餘青草王孫路,不属朱門帝子家。”とある。
○『消受(しょうじゅ)』受けること。とくに享受すること。「儒林外史・第二回」に“受了十方的銭鈔,也要消受。”(ただし否定を伴うと、甘受、忍受といった意味になる)
○『静中縁』これは「静縁(せいえん)」虚静な心を持ち、同時に事物の理(ことわり)に順応すること。「(唐)張説・虚室賦」“理渉虚趣,心階静縁。室惟生白,人則思玄。”とある。

一首目は静かな山荘の一室で蘭画を楽しむ詩であるが、これをうけた二首目ではその山荘をとりまく山深い春の様相がうたわれている。そして「朱門の貴公子」つまりは都会の富貴の身分にある者たちが、どうしてこの贅沢を味わえるだろうか、という逆説的な結論で結んでいる。
先の一首は画中に独立した蘭をうたっていたが、今度は山中に群生する蘭をうたっている。一首目に現れる蘭画が自らの心境を仮託した”画中画”であるとすれば、自らも化して蘭となり、周囲の蘭とともに山水の中に溶け込んで行くのである。すなわち二首目でうたわれているのは、山水画に画かれた情景そのものである。

(大意)
窓の外を見れば、数限りなく生い茂る野生の蘭が春の烟雨に濡れている。
四月の恵みの雨が降りしきる山中、どこかでホトトギスが鋭く鳴く声がする。
すくなからぬ富貴の貴公子であっても、この自ずと心静かな境地にいたる贅沢が出来るものは、幾人といないだろう。
紙・筆と画蘭紙・筆と画蘭紙・筆と画蘭紙・筆と画蘭
この詩は董其昌が何歳のころに作られた詩であるかはよくわからないが、この詩でうたわれていたような環境にあったのが、董其昌の生涯のいつ頃であったかは興味をおぼえるところだ。明の万暦年間における書画の大家である董其昌であるが、江南屈指の“貪官汚吏”として後世非難されることの多い人物である。
中国の伝統的な書画の見方では、書にせよ画にせよその人物の「人品骨柄」が現れるとされる。これは古代に限らず、現在でも多くの人がいうのは「アートは自分を表現するもの」なのだそうだから、特に理解しがたい考え方というわけではないだろう。よって作品の良し悪し以前に、その書き手の人物や素行というものが厳しく見られてしまうのである。
宋の書の四大家といえば、蘇軾、黄庭堅、米芾のほかにもうひとり、本来は蔡京(さい・きょう)がはいるところであった。しかし蔡京は徽宗皇帝の乱脈な政治を補佐した悪臣であるから、という理由で蔡襄になったという経緯がある。
その素行の善悪をはかる倫理観には、儒教の影響が濃厚であるから、董其昌のような人物はとかく非難の対象になりかねないのである。もし、清朝の康熙帝が董其昌の書を酷愛しなければ、現代における董其昌の評価もあるいはもっと低い位置におかれていたかもしれない。現代でも董其昌の作品を彼の倫理性の面から非難する声には根強いものがある。
そんなのはつまらない見方だ、作品は作品として鑑賞するべきだ、という考え方ももちろんある。当たり前だが、当時の中国と現代の日本あるいは中国では倫理観が同一とはいえないのである。ただし、そういった倫理性を無視して古代の書や画を見ようとしたときに、やはりどこか見落としているような気がしてならないのである。
紙・筆と画蘭「四君子」はどれをとっても難しい画題であり、このうちのひとつでも思い通りに書くことができれば、画はそれでおしまいにして良いとさえ思える。ただし書の世界で小楷や尺牘がイマドキ流行らないように、四君子も墨を使って書く画の主題としては、さほど中心的なテーマではないようだ。現代の中国画壇でも真っ向から蘭竹を書いているのは(知る限りでは)1人〜2人といった状況である。
古代の文房四寶を調べる上では、蘭が書ける筆や紙かどうか考えるというのは、重要な課題かもしれない。画というのは書ではやらないような極端な運筆を行うため、ある部分の特徴が出やすいからである.......まあ、あまり難しく考えなくても、書いていて不思議と気分が良いのが蘭である。
墨の香りを画中の蘭の香りに擬したあたり、さすがに程氏墨苑の中でも最も有名な”百年之后,无程君房,而有君房之墨。千年之后,无君房之墨,而有君房之名。”という墨賛を残した董其昌である。墨に対する造詣も相当に深かったのであろう。そうでなければ「芸苑百世の師」とまでは言われないだろう。董其昌と徽州、とくに西溪南の人士との深い交際の事実は、別の機会にのべてみたい。(しかし董其昌の画蘭といわれても、ピンとくる映像がないのであるが。)

しかし自らを蘭の姿に仮託するといっても、聖人君子にあらざる小生である。くわえて「人品骨柄」まで問われた日には、筆を置いて逃げ出したくなるものだ。
落款印01

蘭花と紅梅 〜方建元集より?

先日、方建元の五言律詩を二首紹介した。さらに春をうたった彼の七言律詩を二首ほど紹介したいと思う。これも律詩だけに偶数番目の句の押韻と、三、四句目と、五、六句目が対句になっていることには注意したい。一応現代語の発音をピン音で示した。往時の発音が現代と全く同じであると言う保障はないのであるが、韻はほぼ同じであると考えられる。
さて一首目は「曲水園看玉蘭花:曲水園に玉蘭の花を看る」である。曲水園で白い花をつける玉蘭を見てうたわれた詩であるが、西溪南の曲水園は以前紹介したように、汪道昆の別邸のすぐ裏手にある河畔である。豐楽水(臨河)を水路に用いて西溪南を往来した人々にとっては、四季折々に親しみのある光景であったことだろう。
よく読むとなかなか意味深な内容を含んでいるのだが、この詩の意味と方建元の事跡との関連はひとまず置き、ごくごくアッサリと詩の大意を解釈するにとどめたい。

「曲水園看玉蘭花」

亭亭萬朶破朝寒
一曲臨春十二闌(lán)
承露似?金狄掌
涵光如留水精盤(pán)
香分大国遺君佩
色重連城借客看(kàn)
安得伊人顔比玉
也教佳夢命為蘭(lán)

〜曲水園に玉蘭の花を看る

「亭亭(ていてい)として萬朶(ばんだ)は朝寒(ちょうかん)を破り、一曲は春に臨(いど)んで十二闌(じゅうにらん)。露(ろ)を承(う)けるは、金狄(きんてき)の掌(しょう)に?(ささ)げるに似(に)、光を涵(つつ)むは精盤(せいぼん)に水を留めるが如し。香は大国を分かち遺君は佩(はい)し、色は連城(れんじょう)を重ねて借客(しゃくきゃく)は看る。安(いず)くんぞ得ん伊人の顔の玉に比すを、佳夢に命(めい)じて蘭となさん。」

○『亭亭』高く聳(そび)えたつ様。「張衡・西京賦」“干雲霧而上達,状亭亭以苕苕”とある。○『萬朶』おびただしくはびこる様。ここでは曲水河畔に茂る草木を指す。○『破朝寒』朝の冷たい空気の中を駆け抜ける様。「(宋)蘇軾・扈従景霊宮」には“風伯前駆清宿霧,祝融驂乗破朝寒”とある。つまり草木が春の早朝の風に吹かれている様である。○『一曲』は『一縷(いちる)』と同義で一筋の細い線状のもの。“一曲春烟“、”一曲春烟“などのように、春のかすかな兆(きざ)しとともに用いられる。○『臨春』は春に臨む、すなわち春の気配。「(宋)劉過・登升元閣故基」に“阿房之旗矗立矮如上星期,臨春綺望仙三閣倶下頭“○『十二闌(欄)』曲がりくねった欄干。「(宋)張先・蝶恋花」に“楼上東風春不浅,十二闌干,尽日珠簾卷。”とある。また「(唐)戴叔倫・蘇渓亭」に“蘇渓亭上草漫漫,誰倚東風十二欄”とある。
○『承露』甘露をうけること。またその容器。甘露は天が善政を寿(ことほ)いで降らす甘味のある雨。「漢武故事」に“上有承露盤仙人掌?玉杯,以承云表之露。”とある。○『金狄』仏ないし仏教を指す。“金狄の掌”ですなわち“シャカの手の平”である。「(宋)蘇軾・贈梁道人詩」には“採薬 壷公 処処過,笑看金狄手摩挲。”とある。また方于魯と同時代人の「(明)王世貞・今年三月朔舎弟山池紅梅未謝玉蘭盛開乗興有作」に“露盤乍映金狄掌,如意未撃珊瑚枝”とある。○『涵光』“涵”は包み込むという意味がある。すなわち光を封じ込めたような輝きをいう。「(宋)金君卿・寄題浮梁県豊楽亭」に“百流南瀉昌江潯,涵光吐潤生良金。”とある。○『精盤』水精盤を言いあるいは“ 水晶盤 ”とも書く。水晶で作られた皿。あるいは精巧に作られた皿をもいう。やはり甘露を受ける容器である。「(唐)王昌齢・甘泉歌」に“昨夜云生拜初月,万年甘露水晶盤”とある。
○『遺君』「遺」はこの場合“たがえる”の意味。すなわち背弃の君主である。○『連城』交通連絡の通じた城邑。すなわち国の一地方。春秋戦国時代、趙の恵文王は“和氏の璧(へき:玉石)”を得たが、秦の昭王は書簡を趙王に送り、十五の城邑とその璧を交換するように迫った。すなわち“大国”とは秦を指す。「史記・廉頗藺相如列伝」に見られる話である。後に“連城”は“和氏の璧”あるいは玉石などの珍貴な品物を指すようになった。趙王は結局要求に屈して“和氏の璧”の璧を差し出すのである。しかし昭王はもちろん連城を与えることはしない。ゆえに“遺君”なのである。○『借客看』“借客”は外来の客。侠客をいう事もある。“和氏の璧”は結局昭王がこれを横領するのだが、藺相如が強談して奪還する。「完璧」の故事である。また侠客が豪家から美女を奪い去って恋の橋渡しをするのも、古典的なシナリオである。「(唐)徐・郡庭一作伯惜牡丹」に“明年万葉千枝長,倍発芳菲借客看”とある。
○『伊人』イタリア人…というのは冗談で現代中国語では“那个人(ある人)”、多くは女性を指す。○『教』ここでは使役の助詞に用いる。まえの“也“は接続詞と解した。

朝の光溢れる曲水園に、野生の蘭が露を含んで咲いている情景である。ここで詠われている“花”はもちろん佳人を暗示している。蘭の白く清楚でわずかに透明感のある花は、白い玉石の色合いに喩えられる。蘭をまず玉にたとえてうたい、玉のイメージを美女に重ねているのである。
美女を花にたとえるのも、また玉にたとえるのも古典的な暗喩なのであるが、ここでは蘭のイメージを白い玉石の上に移し、さらに玉石と蘭の両方のイメージを美女に重ねている。まさにこの世ならぬ美しい女性を想起しないわけにはゆかない。
最後の一句はやや難解であるが、美しい人を想うものの、とても自分の物にはならないのだから、せめて夢の中で“蘭“として現れて欲しいという願いをこめているのだろう。
荘子の「斉物論」では、夢の中で蝶と化して花上で大いに楽しんだとある。ここでも夢に蘭(すなわち佳人)が現れるならば、自分は胡蝶となって戯れようというところであろうが、そこまでは大意に含めなかった。夢の中の佳人は花となって現れなくてはならない..............どうせ夢に見るなら美女の姿で現れて欲しい、と願うのは、あまりに低俗である。

(大意)「高々とそびえる樹々は新緑が茂って淡く盛り上がり、朝の冷たい風の中でゆれている。早春の穏やかな風が、邸宅の欄干の間を通り過ぎて行く。(そこにひっそりと咲く蘭の姿があるが)春の細雨をうけて濡れた風情は、シャカの手のひらに甘露が捧げられているかのようで、日の光を浴びて朝露が光る様子は、水晶の小皿に水をたたえているかのようである。その香は大国の領土を分け与えようと、約束を守らない強欲な君主もこれを仰ぎ慕ったのである。またその玉のような白く清らかな花は連城にも値する宝であり、侠客でもなければ取り戻すことも出来ない。どうしたらこの玉石にも似た美しい花(女性)を手に入れるだろうか。(とても私のものにはならないならせめて)佳(よ)き夢の中で蘭花となって現れることを願おうか。」

もう一首。今度は紅梅を詠んでいる。同じく春、それも早春をうたった詩である。

池上看梅花喜紅而作

瓊枝曲曲倚闌斜
隠映凌波闕麗蕐(huā)
山借燕支飛絳雪
池分錦水濯朱霞(xiá)
含情莫解同心葉
照影那輸並蒂花(huā)
妬殺憐香人不見
却疑剪綵屬豪家(jiā)

〜池上の梅花を看て紅(あか)きを喜びて作る

「瓊枝(ぎょくし)は曲曲として闌(らん)に斜めに倚(よ)り、陰(かげ)は凌波(りょうは)に映じて闕(けつ)は麗華。山は燕支を借りて絳雪(こうせつ)飛び、池は錦水を分かち朱霞(しゅか)を濯(たく)す。情を含みて同心の葉を解く莫(な)く、影を照(て)らして並蒂(へいてい)の花に輸(ま)ける。人の見ざる憐香を妬殺(とさつ)し、却(かえ)って剪綵を疑い豪家に屬(しょく)す。」

○『瓊枝』瓊(たま)は玉のことで、ここでは玉のような丸い花をつけた梅の枝。○『闌(らん)』すなわち欄干。欄干に梅の花が斜めにしだれかっているところであるが、欄干に「曲曲」としてもたれかかるのは、佳人と相場が決まっている。すなわち紅梅=美人である。○『闕(けつ)』もとは宮城の門の両側に立つ望楼。京城、宮殿のこと○『麗蕐』華麗なさま。
○『絳雪(こうせつ)』すなわち絳(あか)い雪であるが、ここでは紅梅の花びらを指すのだろう。○『錦水』錦江。特定河川の名称と解釈すれば貴州、四川、江西に“錦江”があるが、ここでは江西であろうか。しかしここでは陽の光で水面が金色(錦)に輝いている川面を意味すると解した。○『朱霞』紅霞とも書く。赤い霞(かすみ)。暁光あるいは日没時に太陽光が雲を赤く染めた様であるが、ここでは池の水面に映じた紅梅をいう。○『燕支』は「燕支粉」ともいい、頬を紅く染める粉末状の化粧品である。油脂と混ぜて口紅にも用いたと言うが山肌を覆うのであるから頬紅と解した。
○『同心(葉)』中心から放射状に伸びた葉。四葉のクローバーなどが想起される。「(唐)毛文錫・中興楽」“豆蔻花繁烟艶深,丁香軟結同心。”とある。心ををひとつにする、一致団結、という意味もある。しかし紅梅が咲く季節に梅に葉は出ない。同様に“同心花”というと、中心から放射状対象に花弁が開いた花を言うが、梅花も同じ構造である。あるいは「葉」としたのは次の「並蒂花」との対句のためかもしれないが、のともかくここでは固く閉ざされた佳人の心と解釈した。○『並蒂』房がひとつになっている花。百合など特定の花を指すこともある。梅の場合は、同じく開花した花房が二つ並んだ様子である。また夫婦の絆をも指す。○『輸』「輸(ま)ける」と読み、ここでは劣る、負けること。つまりは名妓といえど、正式な結婚をした夫婦には劣るということである。
○『妬殺(とさつ)』妬(ねた)ませること。「(唐)万楚・五日観妓」に“眉黛奪将萓草色,紅裙妬殺石榴花。”とある。○『憐香』花のこと。“憐香人“で佳人を言う。○『剪綵』現代中国語では“テープカット”の意味であるが、すなわち“綵(さい”を“剪(き)る“のであり、ここでは梅枝を折り取ること。○『豪家』社会的地位が高く、権勢の大きな家である。

庭園の池の水面上に、紅梅がその影を映じた様を詠んでいる。「十二闌」は曲がりくねる欄干であり、廂(ひさし)のついた回廊を水上に巡らせた豪奢な邸宅を想起させるものである。また山が燕支(臙脂)を借り、絳(あか)い雪と見紛う紅梅の花弁が飛ぶ様子であるが、この山は遠景の山を指すとも考えられるし、あるいは庭園内の築山とも解釈出来る。絵画的には紅梅には築山なのであるが、ここでは遠景の山と解した。ただし次の句の「池」と対句になっているので、やはり庭園内の「築山」が妥当かもしれない。
無論、先の「蘭」をよんだ詩と同様、紅梅を女性に喩えている。この場合の「十二闌」はおそらくは妓楼であり、紅梅は妓女であろう。なぜなら「並蒂(へいてい)の花」すなわち夫婦となった女には「輸(ま)ける」のであり、また「憐香(の)人=女性」を「妬殺(嫉妬)」させるからである。あまりに美しいので、なかなかお呼びのかからない同輩の嫉妬を買うというところだろう。そして遂に迫害をおそれて“豪家”に身請けされる、といった意味合いになるだろうか。

(大意)「花をつけた梅の枝はさまざまに曲折し、池を取り囲む欄干に斜めにしだれかかっている。その影は水面のさざ波にうつり、(この庭園は)なんとも華やかなことである。日が傾き、頬紅を借りたかのように夕陽に染まった山を背景に、雪と見紛うような赤い梅の花びらが飛んでいる。金色に光り輝く河水が池に引き込まれ、日没の太陽に紅く染められた春霞(はるがすみ)のような紅梅の影が映じて、ゆれる水面(みなも)にキラキラと輝く光の中で紅梅が濯(すす)がれているかのようだ。(このように美しいこの紅梅であるが)深い思いを抱いて同心の葉のように固く秘めた心を解くことはなく、憂いを帯びた面差しで並んで咲く花には劣っているとなげいている。(余りに美しいので)人にかえりみられることのない花の嫉妬を駆り立て、あるいは断ち切られてしまうことを恐れて豪邸の庭に植えられてしまった。」

詩で“花”を読む場合は、大抵は美女、佳人を読む。またこの場合の美女というのは多くは歴史上の美女か、同時代では妓女が多い。こういった詩も方于魯の人生に起きた何らかの出来事を反映しているとも考えられるが、いまとなっては何があったのかは確かめるすべはない。
あるいは解釈の一部が間違っている可能性もあり、決してわかりやすい大意とはいえないが、ともかく生涯の過半を詩に捧げた方于魯の、その詩才の一端をご紹介した次第である。
落款印01

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