賛に曰く 〜蘇軾「萬石君羅文傳」:最終回

前回で本文が終わった「萬石君羅文傳」には、最後に蘇軾自身の賛文があるが、実のところ本文も賛文も蘇軾自身の創作ということになる。
宋代の硯「賛曰羅紋之先无所見。豈左氏所称羅国哉。考其国邑在江漢之間。為楚所滅。子孫有散居歙間者。嗚呼。国既破亡。而后世犹以知書見用。至今不絶。人間豈可以无学術哉。」
『賛に曰く、羅文の先は見る所無き。豈(あ)に左氏の称する所の羅国哉。其の國邑は江漢の間に在りと考える。楚の為に滅する所となる。子孫は(い)歙の間に散居する者有り。嗚呼。國既に破れ亡ぶ。而して后世に書を知るを以って用を見る。今に至れど絶えず。人間は豈(あ)に学術の无くべからざるや』

この「萬石君羅文傳」を紹介している後藤朝太郎の「文房四寶」には、賛文のみ、訳出されている。ここでは小生如きの拙い訳を掲載するよりも、大先輩の後藤翁が「羅文傳」を紹介している全文を掲載し、解釈に代えたい。
宋代の硯以下、後藤朝太郎「文房具至寶」298ページ、「十八、蘇東坡の文房具小説」より

「宋代の小説に文房具に因んだ名文が見えてゐのは興味深ゐ話である。而かも東坡が自分で萬石君羅文傳の題の下に端渓に對して、安徽歙州の羅紋石を主人公にとり、色々紙(楮先生)だの筆(毛頴)だの、墨(墨卿)だの云ふ仲間を持つて来て漢の武帝の生活を描き、端溪(端紫)と云ふ新参ものが現れるまでの得意な處を述べ、遂に端渓の文采は乏しゐが令色を以って寵愛を得るに至り、羅文は次第に不遇の生涯を辿ったこととなったその淋しゐ心境を面白く仕組んだもの。誠に軽妙な筆で言言句句の間に歙州石の運命が間然する處なく描かれてゐるのは、翰墨史上の一點彩と称することが出来る。尚東坡の賛に曰く、

羅氏(歙州石)の先祖はよくは判らぬ。がまさか左氏傳に云う羅国のことでもあるまゐよ。其國邑の位置がどこゐら邊りにあるかを辿り考へて見ると、長江漢水の間に大體の見當がつけられる。が既にその國邑は楚の為に滅ぼされ、子孫は今何でも、安徽県歙県の間あたりに散居してゐるとの事である。哀れ、故國は亡びたりとゐへども後世なほ典籍文書に明るく學問の出来てゐる為め尚用ゐられ今日に至ってゐる。人間と云ふものは學問の道だけはどうあつても充分出来てゐなくてはならぬものである。

とかやうにとぼけて云つてゐる。今日東坡の小説を読み端歙雨石の文房具界に於ける消長の迹を見るに、百のうち十百も歙石の方はどこの蔵硯中にももつからぬ。良材は黄山山下、黟縣、歙縣の山渓幽谷の間にそのまま埋もれ採掘せられなゐままに打ちやられてゐる。どちらかと云ふと當世は端溪ひとり世に榮(さか)えつ歙石羅文はとり残された形であるのだ。羅文傳の内容はその原文を噛みしめ讀(よ)みこなせばこなすほど妙味が湧ゐて出て來(く)る。この名文はひとり日本人ばかりでなく支那の本場の同好君子にも見せたゐとの微衷からこゝに原文のまま挿入し文房具趣味の國際化を期圖(きと)したゐからである。
やゝもすると世俗は書道の盛なるに拘らず、墨場で墨を磨ることを厄介視したり、薬品混じりの墨汁でその場限り一時を糊塗する者がそこゐら邊りにもゐたりして、しんみり文房具そのものに浸り腰を嵌(は)める者が少なくなった感じもする。
世の中は多忙。支那は張學良の西安事變で又胃痙攣を起こした。文房具同好の我が雅友は忙中閑ありておのづから別天地の心田を有せらることであろらうから、篤と之を讀み味つて頂きたゐものである。」
宋代の硯文中の「西安事變」というのは、昭和11年(1936年、中華民国25年)に西安で起きた張學良による蒋介石監禁事件で、この事件を契機にいわゆる「国共合作」が成立し、共産党と国民党は協力して日本軍の侵略に抵抗することになる。
この「文房至寶」が出版されたのは昭和12年7月のことであるが、先立つ1931年(昭和6年)9月18日に満州事変が、1932年(昭和7)1月28日には上海事変が勃発している。この本が出版された翌年には武漢攻略戦が始まり、その兵力確保のために“国家総動員法“が成立する。また武漢の陥落とともに、大陸における日本軍の侵攻は限界点に達し、膠着から泥沼化し、次第に日米開戦へと追い込まれて行くのである。
後藤翁は文中で中国を「支那」と表記しているが、もちろん戦前の人である後藤翁は差別的なニュアンスをその語に認めてはいない。小生もここは原文を直すようなことはしない。また後藤翁の文はさりげなく書かれているが、太平洋戦争が始まる数年前であり、当時の重苦しい緊張感が伝わってくる。しかしそんな時代であってもつとめてのんきに構え、また文房具への愛好を通じて平和と友好を志向する心情を披瀝しているようである。
宋代の硯昭和7年に起きた5.15事件では、犬養毅首相が暗殺されている。この犬養毅こと犬養木堂翁こそ、大正昭和における硯石愛好と文房具趣味の領袖なのであった。当時の政界きって知中派であった犬養首相が暗殺されたことで、以降坂道を転がり落ちるように中国戦線は拡大、泥沼化してゆく。犬養木堂とも親しく、また中国大陸の文人墨客との交わりの深かった後藤朝太郎は、それをどのような思いで見ていただろうか………

意外に思うのが、昭和初期の硯石愛好の世界で、歙州硯が非常に珍しかったという事実である。たまたま後藤翁の過眼した硯の中に歙州石が少なかったのだろうか?いやいや、当時の日本における硯石愛好の中心にあった後藤翁の言うことである。また後藤翁は日本では滅多に見られぬからといって、歙州石を求めて大正時代に徽州を訪れている。あるいは事実としてそうであったのかもしれない。
蘇軾が「羅文傳」を書いた当時も、ひょっとすると歙州硯は端渓におされ気味だったのかもしれない。そのことを、羅文が端紫の登場によって落剥して行く物語として描いたとも考えられる。ただし蘇軾よりも一回り年下であった米芾の「硯史」を読む限りでは、歙州石も端渓石も健在である。しかしながら端渓下巌は既に尽きており、採石されるのはもっぱら上巌、つまり今で言う山巌だとすれば、ある程度の大きさのある硯材であったかもしれない。一方の歙州石が採石していた鉱脈がやせ細り、小さな硯材しか取れなくなっていったということも考えられる。そして硯材の良否ではなく、大きな硯が好まれたことで、歙州石は凋落していった可能性もある。まあ、あくまで憶測の域を出ないが、宋代きっての文学者でありまた優れた歴史学者であった蘇軾が、たとえ荒唐無稽な小説に過ぎないとしても、それほど根拠の無いことを書いたとも思われないのである。
しかしもう一方の事実として、宋代の出土硯を見るに、圧倒的に歙州石が多いことである。宋代の出土硯の蒐集家であるT.H先生が以前に言っていたことであるが、宋硯においては、歙州硯10に対し、端渓は1もないそうな。もちろん、他にも雑多な硯材が多く見られるなかでである。たしかに、出版されている出土硯の書籍にも、宋代と思しき硯には端渓は多くない。となると、蘇軾の文と矛盾するようであるが、ともかくこのあたりの事情の解明は今後の課題としたい。
宋代の硯「萬石君羅文傳」には、「硯石」「文房四寶」「武帝の時代」「官僚の宮廷生活」が実にたくみに織りあわされている。また、架空の評伝に漢の武帝の時代を舞台に選んだ理由は、蘇軾が生きた北宋は、遼という北方異民族の圧迫に絶えず晒されていたことと関係するのかもしれない。とすればこの「羅文傳」には、蘇軾が仕えた仁宗ないし神宗の時代の対外政策に対して、ある種の提言が込められていると読むことが出来る。
大規模な遠征を行い、匈奴の勢力を弱めながら前漢の最盛期を築いた武帝であるが、「羅文傳」では軍事面での成功は強調されていない。あくまで文治主義によって、異民族の脅威を排除しているように描かれている。
また、別の読み方をすれば読書人の家庭の子弟にたいする訓戒ともとれる。士大夫の家に生まれた男子は、幼い頃より学問に励んで官界を目指すことになるが、この「羅文傳」で毀誉褒貶あり栄辱ありの高級官僚の一生をダイジェストして読ませることによって、“邯鄲一炊の夢“の如く、その処世への警句を鳴らすかのようでもある。とはいえやはり、賛文にもあるように、人は学問をしなくてはならないと説いてはいるのだが。
このようにさまざまに読める「羅文傳」だが、後藤翁もこの「羅文傳」に込められた、蘇軾の文治主義のメッセージを読み取っていたことだろう。軍事に傾斜した昭和初期の世相にあって、あえてこの一文を紹介した後藤翁の意図もまた、今日改めて考え直してみるのも良いであろう。
またこの一文は日本人のみならず、当時交戦中であった中国の人士に向けたメッセージともなっている。ここに後藤翁の文芸に対する深い信頼を見ることが出来るのであり、それはまた「羅文傳」を書いた蘇東坡が政治において「文」を重視した姿勢とも重なるものである。今日のわれわれが古人の文を学ぶ理由もまた、そこにあるといえるのではないだろうか。

この「萬石君羅文傳」の紹介はひとまずここまでとしたい。

(おわり)
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旧恩の余薫 〜蘇軾「萬石君羅文傳」?

「羅文伝」も本文は今回が最終回である。

「子堅嗣。堅 資性温潤。文採缜密。不減文。而器局差小。起家為文林郎侍書。東宮昭帝立。以旧恩見寵。帝春秋益壮。喜寛大博厚者。顧堅器小。斥不用。堅亦以落落難合于世。自視與瓦礫同。
昭帝崩。大将軍霍光以帝平生玩好器用后宮美人置之平陵。堅自以有旧恩。乞守陵。拜寝郎。后死。葬平陵。自文生時宗族分散四方。高才奇特者王公貴人以金帛聘取。為从事舎人其亦與巫医書箅之人游。皆有益於其業。或因以致富焉。」

「子堅嗣。堅 資性温潤。文採缜密。不減文。而器局差小。起家為文林郎侍書」
『子堅嗣(つ)ぐ。堅、資性温潤。文採は缜密。文に減(げん)ぜず。而(しか)して器局は差(わず)かに小。家を起こし文林郎侍書と為す』
羅文の死後、長子の堅、すなわち羅堅が跡を継いだのである。その性格、資質については第一回目の羅文の描写を再度読み直していただければわかるように、同様な素質を持ち、「文に減(げん)ぜず」と劣らないことを述べている。しかしながら「器局」すなわち人間としての器量はやや小さいと言うのである。
「起家」というのは、家業を興隆させること。ここでは宮廷官僚であった羅文の跡を受け、士大夫の家の長子として自ら学問に励み、一族の子弟の教育にあたった、と読むことが出来る。そして朝廷より「文林郎侍書」という官位を与えられたのである。
この「文林郎」であるが、実のところ漢代にはなかった官位で、隋の文帝の時代に設置されている。この「羅文伝」の作者の蘇軾が生きた宋代における「文林郎」は「散官」つまり、官位のみあって実際の官職がない名目上の官であったそうだ。
また「侍書」であるが、これは皇族の教育係である。「侍書」というと、特別な意味としては「書法」すなわち筆法や書写を教授する役割ということになる。
唐代の官制によれば、他にも文章読解のための「侍読」や「侍講」などの官員が存在したが、「侍書」と「侍読」がひとりで兼ねられることもあった。とはいえ、「文林郎」であるから、実際に皇太子なりの教育を行ったとは限らない。
「文の極官」ともいわれる中書舎人であった父親の羅文に比べると、同じく文官ではあるが「肩書き」だけの、多分に名目的な位置に置かれたと見ることが出来るであろう。
官僚組織、制度というのは、時代によって不要になったり、実質的な役割を失いながらも存在し続ける官職が多く出て来る。そのような無駄な官吏「冗官」の存在は官僚支配の必然ともいえるが、特に蘇軾の生きた北宋時代では「冗官」による国費の濫費が国家財政の大きな負担となったのである。
また羅堅の登用にあたっては、父親の羅文の生前の功績によって、朝廷から特別な配慮があったと考えられる。漢王朝は、功績のあった家臣の生前の業績を嘉し、その子孫を取り立てることがある。まあ、大抵は2代目はともかく、三代目、四代目で罪を犯し、領地と爵位を没収されるのであるが。このあたりは司馬遷の「史記」にいくらでも例がある。
羅文は祁門に封地と爵位をもらっているから、その後継者に家門に見合う程度の名目所の官位を与えてやった、というところであろう。
これを「硯石」という文脈で考えれば、石だけにその息子は「堅い」のであり、硯石としての性質は優れていたが、大きさがやや小さかったということになる。そして宮廷における書法教授である「侍書」に配置されたのも、たとえ肩書きのみにせよ、似つかわしいところである。

「東宮昭帝立。以旧恩見寵。帝春秋益壮。喜寛大博厚者。顧堅器小。斥不用。堅亦以落落難合于世。自視與瓦礫同。」
『東宮の昭帝立つ。旧恩を以って寵(ちょう)を見る。帝の春秋は益(ますます)壮(そう)。寛大博厚の者を喜ぶ。堅の器(うつわ)小(しょう)なるを顧(かえり)み、斥(せき)して用いず。堅亦(ま)た世に合い難きを以って落落す。自らを瓦礫と同じく視る』
武帝が崩御し、「東宮」すなわち皇太子が即位したのである。史実では紀元前87年に、わずか8歳で即位したのが漢の八代皇帝の昭帝(AD.94-74)である。昭帝は幼く、また夭折したが実際上の職務は武帝が定めた側近である大司馬大将軍の霍光、左将軍の上官桀、車騎将軍の金日磾によって補佐されたことになる。ちなみに羅文を死なせた金日磾は、昭帝の即位後ほどなく死去している。
「以旧恩見寵」の「旧恩」はもちろん羅堅の父親羅文の功績である。功臣の子弟ということで、目をかけてもらったということになる。
8歳で即位した昭帝の「春秋」は益々盛んになるといっている。この場合の「春秋」は時代を意味し、昭帝の治世が年を追うごとに盛んになったと述べている。その勢いをもって、昭帝は「寛大博厚」すなわち「寛(ひろ)く大(おお)きく」で「博(ひろ)く厚(あつ)い」の者を喜んだ、ということである。
一言で言えば器の大きな人物ということになろうか。そんな昭帝であるから、羅堅の器が小さいとして顧(かえり)みて、これを斥(しりぞ)けて用いることがなかった、ということである。
「侍書」であった羅堅は、教育係として昭帝に接する機会はあったのかもしれない。しかしながら、器量の小さいことを見抜かれたのだろうか、結局名目上の官位どまりで重要な官職に任じられることはなかったのである。
多少器量が小さくとも、性格が温厚で能力があれば、整った組織の中では活躍できるものである。ただしそういった人物は、時代の変革期や国家の拡大期にはより器量の大きな人物の影に隠れて、色褪せて見えてしまうものであるかもしれない。
羅堅のような人物は、後のより安定した、そしてさらに精密な官僚制度が完成した時代には、能吏として活躍できたかもしれない。
羅堅は時代に合わないことを思い「落落」すなわち消沈した日々を過ごし、自分などは「瓦礫」と同じ石ころに過ぎないと嘆じるのである。
硯ということで考えれば、昭帝は「寛(ひろ)く、大きく、また博(ひろ)く厚(あつ)い」硯が好まれ、質は良いが小さな硯が顧みられれなくなったことを言っているのであろう。硯材として優良であっても、小さいために用いられなかったとすれば、あたら良材も瓦礫と同じであると述べているようである。
宋代端渓硯と龍尾石硯の比較「昭帝崩。大将軍霍光以帝平生玩好器用后宮美人置之平陵。」
『昭帝崩(くず)る。大将軍霍光は帝の平生玩好せし器、用いる后宮の美人を平陵に之を置く。』
霍光は、武帝時代の名将霍去病の異母弟。武帝の信任が厚く、幼い(即位時8歳)昭帝の後見をまかされた。昭帝は若くしてなくなったが(21歳)、その間の政治は実質的に霍光が取り仕切った。
「置く」とあるが、つまりは昭帝が亡くなったのち、霍光は昭帝が生前愛用していた器を陵墓に集め、また昭帝に仕えた後宮の女官を平陵の近くに住まわせたのである。
ちなみに漢代には既に殉葬を禁じる法が出来ている。後宮の女官達も殉死を強いられたのではなく、陵墓近くで余生を送れということであろう。気の毒であるが、後宮内での派閥抗争を防ぐ意味もある。
漢王朝はその創成期に、劉邦の后であった呂后の一族が権力を振るい、皇統が危うくなった時期がある。いわゆる「外戚の弊」を除くことは、後代にも重く意識されたようである。昭帝の母親である趙氏は、武帝によって殺害されているほどである。
「堅自以有旧恩。乞守陵。拜寝郎。后死。葬平陵。」
『堅は自(みずか)ら旧恩有るを以って。陵を守るを乞う。寝郎を拝す。后(のち)死す。平陵に葬むらる。』
羅堅は宮廷にあって重用されることはなかったとしても、ともかく親子二代にわたって皇恩を受けたのであるから、自らその陵墓を守る役割を望むのである。そこで寝郎(しんろう)という官職を拝することになる。
漢代には「寝陵園食官属官」という総称の下、宗廟を守る「廟郎」、棺を納めた墓所を守る「寝郎」、陵墓を含む園地を守る「園郎」とそれに員吏、衛士、などの役職があり、皇帝の墓守りをしたのである。
皇帝の陵墓とはいえ、完全な閑職であり、そこを望むというのは宮廷政治の世界での望みを絶った、というに等しい。

本文とはあまり関係ないが、小生が学生時代に住んでいた大阪の堺市は、古墳がたくさんある。毎朝仁徳天皇陵の前の坂道を通ったものである。大学の敷地に接して中規模の前方後円墳があり、小生の安下宿の近くにも小さな古墳があった。当然これらの古墳は、宮内庁が管理するところである。なんとなく、そういった陵墓を守るひっそりとした気分は想像できるのである。

とはいえ漢代にあっては、その皇帝の命日や祭日にはそれなりの儀式があったであろうし、その際には色々としなければいけないこともあったであろう。
余生を墓守として過ごし、死んで昭帝が眠る平陵に合葬されたということになる。武帝の眠る茂陵に葬られた羅文に倣った生き方といえるだろう。

硯ということで考えれば、生前ほとんど使われることはないまま、葬られた硯ということになる。古代の墓から出土する硯には、そういった使われた形跡が感じられない硯が多くみられる。
硯には、副葬品専用に作られたような小さな硯もある。なぜ副葬品としてつくられたかといえば、とても硯材に使えないような石が使われているからである。とはいえ副葬品とはいえ、それなりの硯材を使った硯もある。
また良い硯材を用いている硯は、作行も材質に応じて立派なものである。大きさもある。しかしながら状態が完備で、手ズレの跡が見られないのは初めから副葬品として作られたとも考えられる。あるいはほとんど使用されなかったのか、いずれにせよ今となってはなかなか判別し難いものがある。
宋代端渓硯と龍尾石硯の比較「自文生時宗族分散四方。高才奇特者王公貴人以金帛聘取。為从事舎人其亦與巫医書箅之人游。皆有益於其業。或因以致富焉。」
『文生時より宗族は四方に分(わ)かち散(ち)る。高才奇特(こうさいきどく)の者は王公貴人が金帛(きんぱく)を以って聘取(へいしゅ)す。従事舎人を為し、其(そ)の亦(ま)た巫医(ふい)書箅(しょざん)の人に游(あそ)ぶ。皆(みな)其(そ)の業に益(えき)有り。或(ある)いは因(よ)り以って致富(ちふ)す。』
羅文が生きていた頃から、その宗族は四方に散り、そのなかでも才能があって、奇特(きどく)、すなわち言行や人物が優れた者達は、王侯貴族が「金帛(きんぱく)」金や絹の反物を持って招聘し、用いたということである。
その役割は従事、つまり王侯貴族の家庭における家宰や執事、あるいは舎人すなわち幕僚などを勤めたのである。
一方その才能によっては「巫医(ふい)」や「書箅(しょざん)」を行う人々のもとで游(あそ)ばれた、ということである。この場合の「游」はいわゆる「遊ぶ」というよりも、遍歴あるいは人手を渡った、というニュアンスがある。
「巫医」は、“まじない“によって怪我や病気を治し、災いを未然に防止しようとする者達である。あるいは道教を信仰する道士達のことが念頭にあったかもしれない。民間にあって道士はしばし「道術」を用いて治療を行った。また道士とまでいかなくても、もっとあやしげな「まじない」によって治療を試み、金銭を得る者達が存在した。
「巫(まじない)」と「医」というのが同一視されているというのは、現代の感覚からすれば奇異に思えるかもしれない。しかし中国では、精緻な漢方医学の一方で、呪術によって病気を治すといことが民間医療の世界では広く行われていたようである。森鴎外の「寒山拾得」にはその気分が良く現れている。あるいは老舎の「駱駝祥子」や魯迅の「薬」などを読むと、近代においてもその信仰の抜きん難いことが思われる。
呪術ということで当然、お札なども書かねばならないので、硯は必要であろう。
「書箅」の「箅」は所謂「格子窓」であるが、すなわち算盤であり、商売である。無論、事務会計処理に筆記が必要であり、硯も必要とされたわけある。そうはいってもやはり、宮廷にあって詔勅を起草するなどといった職務と比べると、当時の価値観においては雲泥の差があるというわけである。
しかしながら皆がそれぞれの生業(なりわい)において貢献し、「或因以致富焉」すなわちあるものはその貢献をもって、「致富」すなわち財産を築いた、ということになる。
市井にあっても、良い硯は実用の道具として重宝されたということになろう。また優れた材は、非常に高価なものであったということが述べられている。「金」や「帛」は漢代のみならず、宋代に至っても貴重品の代名詞である。硯の良材はそれと等価であるといわれていることになる。
宋代端渓硯と龍尾石硯の比較
前回で、端紫の登場によって羅文が用いられなくなったことに加えて、その子の羅堅も器量が小さいことをもって、やはり宮廷で顧みられなくなったことが述べられている。
羅文が登場した前半部では、その硯石の擬人化の描写が濃密であったが、後段になるにつれてややあっさりとした記述に変じている感がある。しかしながら、硯を研究している者にとっては、この後半の展開こそが興味深いところである。
歙州龍尾石は、もともと北宋に先立つ南唐の李後主によって、“李廷珪墨”、“澄心堂紙”とともに重んじられた硯材である。それが北宋初期の端渓硯の登場によって市場を奪われ、また採石される硯材も小さくなった。そして次第に姿を消していったことを、蘇軾はこの「羅文伝」で述べているのではないかということである。この点は、次回この「羅文伝」を著作の中で紹介している後藤朝太郎氏の見解とともに考察したい。

(拙訳)
「(羅文は死んで)子の羅堅が跡を継いだ。羅堅は性格が温厚で慈悲深く、またその文章は緻密であった。父親の羅文に劣らなかったのである。しかしながら器量はわずかに小さかった。家業を盛んにし、「文林郎侍書」に任じられた。
(武帝が死去し)皇太子の昭帝が即位した。父親の羅文の功績をもって皇帝の寵愛を受けた。帝の治世はますますさかんになり、寛大で博厚の人物が喜ばれた。羅堅はややその器の小さいことを見られ、排斥されて用いられなかった。羅堅は我が身の才能が時代にそぐわないことを嘆き、自らを瓦礫に等しく思ったのである。
昭帝が崩御された。大将軍霍光は、帝が生前から愛用していた器物や、後宮の女官たちを昭帝の墓所である平陵にあつめて陵墓を守らせた。羅堅は、昭帝より賜った皇恩を想い、陵墓を守ることを自ら望んだ。願いは聞き届けられて寝郎を拝した。後に死ぬと平陵に埋葬された。
羅文の生前より、羅氏の宗族は四方に分散していた。才能があって人物が優れた者は、王侯貴族達が金や絹を以って競って招聘した。そして従事や幕僚となってはたらき、またある者達は巫術師や商売人のもとを渡り歩いた。しかしながら皆それぞれ生業において貢献するところがあり、あるものは富を築くに至ったのである。」

宋代端渓硯と龍尾石硯の比較
「羅文伝」もこれで完結であるが、実はこの後きちんと賛文がついているのである。もちろん本文も賛文も蘇軾の創作であるが、実に念の入ったことである。
次回でこの賛文を紹介し、長かったこの「羅文伝」も最終回とさせていただきたい。

(つづく)
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比較硯討 〜五代の硯と北宋の硯

出土硯の時代をどのように特定するか?という問題がある。出土文物であるが、いつ、どこで出土したのかが、流通過程で不明になってしまっていることもある。
宋代の出土硯を、何を以って宋代と言い切るか、というのはなかなか難しい問題がある。ひとつにはその前後の時代と比較し、様式の変遷を追う、という作業がある。さらに出土記録がはっきりしている資料や、過去の文献の記述などから時系列を推定するのである。ただ時系列を追って、歴代の硯の様式を追う事は別の機会にしたい。ここでは時代のイメージをなんとなくつかめる程度に、簡単に紹介するにとどめたい。
五代の硯と北宋の硯左は、以前に掲載した北宋の端渓硯。右は五代の端渓硯である。例によって硯もその鑑賞の視点も、T.H先生からの借り物である。
一見して五代の硯のほうが、その硯縁や墨堂が極極薄くに造られていることがわかる。
五代や遡る唐代の硯は、宋代以降の硯と比較して、全般に薄いつくりをしている。ひとつには、唐代に先立つ漢代の硯の多くが陶磁器で造られた、いわゆる”陶硯”であったことによると考えられている。
つまり陶器で作られた硯だけに、比較的薄くつくることができるのである。漢代後期から唐代にはいり、とくに唐代に端渓紫石が現れてから、硯は本格的に石硯の時代に入った。が、造形については前代の作硯様式の影響を受けながら、素材やその時代に応じた変化が加えられていったと考えられるのである。
五代の硯と北宋の硯墨堂の真ん中に存在する貝殻のような突起は、この時代の硯にまま見られるものである。が、何を模した意匠なのか、いまだに判然としていない。淡い紫色を呈し、特徴的な石品から硯材は端渓石であることがわかる。

石の硯材の場合、薄くつくるというのは、当然それだけ多くの石を削らなくてはならない。石を整形する過程で、石の内部に隠されていた石瑕が現れ、価値を減ずるリスクがある。石瑕が現れないようにするためには、削りとる部分を極力少なくするに限るのである。逆にいえば、ある程度の大きさの硯材が採れなければ、石瑕や病脈を避けながらこのような造形に硯を作るのは非常に困難である.....
作硯様式が、後代になるにつれ天然形が多くなってくるのは、一つには充分大きな硯材が採れなくなったことに由来すると考えられている。もとより、天然の趣(おもむき)を好んだというよりは、硯材という有限の資源の質の変化によるところが大きかったのではないだろうか。
五代の硯と北宋の硯五代の硯は、平面的で直線的な面線で作られた立体ではあるが、薄く削り出した面と面との構成が心地よい緊張感を生み出し、軽快かつ瀟洒なたたずまいを見せている。
対する宋硯は、五代にくらべると構成する面はぐっと厚みを増している。それでいながら鈍重さを感じさせないのは、五代の硯を構成するやや単調な平面や直線にくらべ、微妙な曲面や曲線が複雑かつ巧妙に組み合わされているからである。これらが硯材の重厚さに雄渾を加え、同時に優美さを兼ね備えた立体を生み出しているのである。とくに力強く隆起した墨堂は限られた平面を雄大に見せる効果をもたらし、墨堂から落潮、墨池へとつながる空間をドラマティックに演出している。
現在のところ、一般には実物の出土硯をまとまって観る機会は少ないと思われる。中国大陸では、出土硯の蒐集家の書籍も出版され始めているが、限られた紙面の下、掲載できる写真にも限界がある。
単純極まりない立体に隠された、古代の硯の作硯の妙というのは、多様な角度で観察しないとわからないものである。
実物を手にとって見ることがもちろんベストであるが、ともかくも「羅文傳」などの宋代の硯にまつわる話を掲載するにあたり、文章から多少なりとも正確にイメージする一助となればと思い、簡介した次第である。
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骸骨を乞う 〜蘇軾「萬石君羅文傳」?

すこし以前に、NHK特集の「中国共産党と文化大革命」のビデオを観せていただいた。(小生の家にテレビは無いので……)なかなか面白い内容だったが、特に興味を惹いたのが文革から改革開放経済へ移行する時期の、共産党内部における政治闘争の様子である。徹頭徹尾論戦が行われるのだが、共産党の機関紙に政治論文を発表しながら議論が戦わされるのである。
これを見ると、共産党が支配する現代中国も、あるいは王朝時代の士大夫達の宮廷における闘争と、たいして変わっていないのではないかと考えてしまう。政治・政策論争が常にイデオロギーに照らされて議論されるところも、古代王朝の宮廷における政策論争を彷彿とさせる。儒教や聖天子の事跡がマルクス主義にとって代わったようなものである、といったらさすがにいい過ぎだろうけれども。
中国は、秦の始皇帝が整備した巨大な官僚機構を、後の王朝が相続しながら統治してきた歴史がある。一党独裁の中国共産党も、王朝時代の中国で言えば全国に広がる“士大夫階級”の20世紀版、とでも言えるのかも知れない。文革で知識人階級や儒教は徹底的に弾圧されたが、10年やそこらの嵐が吹き荒れようとも、二千年以上にわたって培われてきた統治の論理と文化は容易に破壊できなかったのだろう。
中国の歴代王朝の士大夫達が、硯や文房四寶について語った詩文は非常に多い。もっとも身近な用具であり、“文”を以って闘争した彼らにとって、いわば武人における刀槍の如き存在が文房四寶であったといえようか。
宋代龍尾石宝珠硯「上曰、吾非不念尓。以尓年老,不能无少圓缺故也。左右聞之以為上意不悦。因不復顧省。文乞骸骨伏地。上詔使[馬付]馬都尉金日磾翼起之。日磾,裔人,初不知書。素悪文所為。因是擠之殿下顛僕而卒。上憫之。令宦者瘗於南山下。」

(浅解)
「上曰、吾非不念尓。以尓年老,不能无少圓缺故也。」『上曰く、吾れは尓(なんじ)を念ぜざるあらず。尓の年老を以って、圓缺(えんけつ)の少なきあたわず故なり。』
武帝は言うに、私はそなたのことを忘れてしまったわけではない。そなたが年老いて、圓缺(えんけつ)も少なくないのではないか?ということを思っているのである。
武帝は巡幸から帰還して、羅文のすっかり生彩を失った様子を見て、やや弁解がましく言うのである。「そなたも年だ。」と。「圓缺」は、「圓(まるい)」ものが「缺(か)け」ていることを言う。つまりは年老いてその能力が衰えてきているのではないか、ということを言われているのである。ただし「不能无少(すくなくなきあたわず)」として、さすがに婉曲な言い方をしてはいる。
硯石ということで考えれば、長年の使用で傷や摩滅を負い、その性能が衰えているということを言っているのだろう。しかしながら、米芾が指摘するように、良い硯石というものは、長く使用していても鋒鋩が衰えないものである。武帝は、単に新しく見た目も艶やかな端溪に心が移ってしまったに過ぎない。
「左右聞之以為上意不悦。因不復顧省。」『左右之を聞き、以って上の意は喜ばずと為す。因(よ)りて顧省(こせい)は復さず。』
左右は武帝のこの言葉を聞き、武帝はすでに羅文への寵愛の気持ちは無くなった、と思ったのである。武帝からの信任を失ったことにより、同僚たちも羅文を「顧省」(こせい)、すなわち省(かえり)みることはなくなった、ということである。
「文乞骸骨伏地。」『文骸骨を乞い、地に伏す。』
文はそこでとうとう「骸骨を乞う」のである。「骸骨を乞う」というのは、一身を君主に捧げて仕えましたが、いま私の骸(むくろ)を引き取らせていただき、故郷に骨を埋めさせてください、という意味である。
日本で広く知られているのは、史記の項羽本紀に観られる范増が項羽の下を辞去する際の言葉だろう。漢の陳平の離間の計略にかかった項羽は、唯一の謀臣であった范増を猜疑し、ついにはその職権をすべて剥奪してしまう。項羽に失望し、激怒した范増が項羽のもとを去るとき「天下事大定矣君王自為之願賜骸骨帰卒伍」(天下の事は大きに定まれり。君王自ら之を為せ。願わくば骸骨を賜わり卒伍に帰せんと)という“棄てゼリフ”を残す。この場合の「卒伍」は兵士、小部隊という意味でも用いられるが、ここでは庶民、平民という意味である。この例だけ読むと「骸骨を乞う」は、激烈な皮肉を込めた言辞と取られかねないが、「骸骨を乞う」あるいは「骸(むくろ)を乞う」というのは老臣や政府高官が辞去するときの常套句である。
すなわち<漢紀.哀帝紀下>には「大司空彭宣見莽専権,乞骸」(大司空の彭宣(ほうせん)は莽(もう:王莽)の専権を見、骸(むくろ)を乞う)とある。また<漢書.楚元王伝>には「是時名儒光禄大夫龚歆(きょういん)移書上疏深自罪責,願乞骸骨罷」(この時、名儒の儒光禄大夫龚歆は、書を移し上疏し、深く自らの罪を責め、骸骨を乞い罷る)とある。
“故郷に骨を埋める“ということは、古代の中国人にとって非常に重要なことである。蘇軾の父親は遠く都の開封で亡くなるが、蘇軾と弟の蘇轍は父親の棺を守ってはるか故郷の眉山まで帰郷し、喪に服すのである。無論荼毘にふして遺骨を運ぶのではない。現在の河南省から四川省まで、棺を運んでの旅の困難さ、必要になる費用も並大抵ではなかっただろう。
故郷には同族の宗廟があり、宗主によって代々祖先が祀(まつ)られているのである。異郷で死去した者の亡骸は、霊柩に納めて長い旅をすることも珍しくなかった。日中戦争前に中国に頻繁に渡航していた後藤朝太郎の話では、川岸には渡し舟を待つ棺がいくつも置かれ、雨曝しになっていたそうである。
また、一昔前に流行った「キョンシー」を題材にした映画では、寺廟に安置された棺がやたらと出てくるが、あれらの多くも旅の途上の棺達である。
「上詔使[馬付]馬都尉金日翼起之。」『上、[馬付]馬都尉(ふばとい)金日磾(きんじつてい)を詔し、之を翼起せしむる。』
地に伏せって顔も上げられない羅文を、武帝は武官の「金日磾(きんじつてい)」に命じて、「翼起」(よくき)すなわち左右の腕をとって立たせるのである。背後に回り、両の腕を取って引き起こす格好になる。この金日磾は武帝時代の人で、投降した匈奴の休屠王の太子である。侍中[馬付]馬都尉、光禄大夫にのぼり、武帝の信任厚く「金」の姓を賜っている。宋代龍尾石宝珠硯この「翼起」であるが、宋代の硯は側面を持ちやすいようにすぼんだ格好で傾斜している。あるいはこの写真のように持ち上げた、というところをイメージしたのかもしれない。(まあ、いつの時代の硯もこうやってもつかもしれないが)宋代龍尾石宝珠硯「日磾,裔人,初不知書。素悪文所為。」『日磾、裔人、初め書を知らず。素より文の為す所を悪(にく)む。』
ところがこの「日磾」であるが、「裔人」すなわち異民族の匈奴であり、初めは文字や文書というものを知らなかったのである。そして「文の為す所を悪(にく)む」のであるから、宮廷において羅文が文才に優れて武帝に重く用いられていたことを、あるいは嫉視していたのかもしれない。
「因是擠之殿下顛僕而卒。」『是に拠りて之を擠(お)し、殿下に顛(お)して顛僕(てんぼく)し卒(そつ)す。』
このときの描写であるが、羅文の面は涙に濡れ意気消沈し、また宮廷を去ることへの感慨から全身から力がぬけていたのかもしれない。金日磾は羅文を支えて武帝の面前より退出するわけであるが、殿上から下る長い陛(きざはし:階段)のところで、誰にもわからぬように羅文の背を押したのだろう。老齢で、しかも憔悴していた羅文は、すっかり意表をつかれて足元を狂わせ、「殿下」に「顛僕(てんぼく)」すなわち陛を転げ落ち、頭を強く撃って死んだといことになろうか。金日磾によって事故を装って殺されたのである。そのとき金日磾は「羅文殿、大丈夫ですか!」と、さも驚いたように駆け寄ったかもしれない。
そもそも武帝の寵愛を失って宮廷から去る者へ、羅文から特に危害を与えられた恨みがあるわけでないのに、金日磾のこの仕打ちは酷いことである。
そもそも硯というものは、文書を書かない者にはまったく無用のものである。その価値がわからない者は野蛮人であり、あたら良い硯をなげうってしまうものだと言っているのである。
「上憫之。令宦者瘗於南山下。」『上、之を憫(あわ)れむ。宦者に令し南山の下(もと)に瘗(ほうむ)る。』
武帝は不慮の死を遂げた羅文を憐れんで、宦官に命じて南山の麓に葬ったのである。ここでいう南山は、長安郊外の終南山のことと考えられる。この終南山の向かいに武帝の墓、茂陵がある。帰郷して故郷に骨を埋めることを望んだ羅文であったが、武帝は羅文を(生前から建設中の)自らの陵墓近くに埋葬することで、死後も宮廷に使える高官として扱ったことになる。
中国の伝統的な死生観では、死後も現世と同じような世界が存在するということになっている。生前官僚であったものは、死後は生前の功績に応じて死後の世界の官僚組織に使えるのである。死後も宮仕え……と考えると、あるいはげんなりした気分になってしまう方もおられるかもしれない。が、王朝時代の士大夫達にとっては、官僚生活というのは死後の世界でもそのあるべき生活と考えていたフシが見受けられるのである。
故郷に葬られないというのは大変なことであるが、武帝によって死後の世界での高いステータスも保障されたということになる。
硯ということで考えれば、硯は士大夫階級の家の男子が埋葬されるときに、必ず副葬品として納められたものである。もちろん同時に墨や紙、筆なども納めたと考えられるが、長い年月のなかで天然石の硯のみが残り、出土硯として目にする事ができるのである。
皇帝の陵墓に葬られるということは、同時に官製の硯を意味し、硯としては最高位の品ということになるであろう。このことを以って、羅文の栄辱にみちた生涯への慰謝となるであろうか。

(拙訳)
武帝は言った「朕はそなたを忘れてしまったわけではないのだ。ただそのほうもそろそろ年であろう。仕事も以前のようにはゆくまいよ。」左右の家臣はこの武帝の言葉を聞き、羅文への寵愛が去ったと思ったのである。そしてふたたび、宮廷で羅文が省みられることはなかった。文は「骸骨を賜りたい」と地に伏して辞職を願い出るのである。武帝は[馬付]馬都尉の金日磾に命じて羅文を助け起こさせた。しかしこの日磾はもともと未開の野蛮人の出自であり、初めは文字をしらなかった。もとより宮廷での羅文の文才を妬み嫉んでいたのである。それで羅文をわからぬように殿上から突き出して転ばせた。羅文は転倒して頭を強く撃って亡くなった。武帝は羅文の不慮の死を深く憐れみ、宦官に命じて南山の自らの陵墓の向かいに葬ったのである。
宋代龍尾石宝珠硯ここで、蘇軾は「金日磾」を文字を知らない異民族として蔑むような扱いをしている。金日磾は政治上は大きな功績はないが、忠節を以って知られており、別段に悪い人物としては史書に書かれていない。この金日磾をあえて悪者とし、羅文を葬らせたのは何故であろうか?
ここはやはり、蘇軾が生きた北宋という時代を考える必要があるだろう。
中国の歴代王朝の中でも、文芸や美術の最盛期とも評される北宋時代であるが、対外的には非常な緊張を強いられた王朝でもあった。すなわち北方に起こった契丹人の国である遼との間に「澶淵(センエン)の盟」を結び、北宋を兄、遼を弟としながら、「歳幣」として毎年莫大な銀と絹を遼に送ることで、かろうじて平和と安定が享受できていた時期なのである。「金で買った平和」といえなくも無い。ただし、この時期には江南の開発が本格化し、その生産量が飛躍的に増加し、遼への歳幣を賄ってあまりあるものであったという。漢民族側の意識からすれば屈辱的な、だが現実的な妥協である対外政策が奏功し、100年の平和を得たことにより北宋文化が栄えたともいえる。
宋代に入って、江南の地である蘇州や杭州が大いに栄える。中国の文化と産業が、その重心の長江以南への遷移が決定的ともなったのがこの時代である。宋代龍尾石宝珠硯長江の険をたのむ南の地域にとっては、北方の緊張も他人事であったかもしれない。しかしながら、政治の中枢にある士大夫達にとっては、最大の外交問題がこの遼との関係だったのである。蘇軾の弟の蘇轍(子由)は、元佑四年(1089)に遼の国王の誕生祝賀の国使として赴いているが、そのときに蘇軾は弟へ贈った詩「送子由使契丹」(子由契丹に使いするを送る)を詠んでいる。また、「次韵子由使契丹至涿州見寄四首」(子由の契丹に使いし涿州に至り寄せる四首に次韵(じいん)す)という詩の中には、「遼の人士は三蘇(蘇洵、蘇軾、蘇轍)の文章を、まるで鸚鵡が口真似をするように囀(さえず)っている」というように、やや侮蔑的な表現で遼にまで自分たちの文章が知れ渡っていることを詠っている。また実は蘇軾はその昔、遼への使者へ立てられそうになったが、なんとか断ったことを述べている。蘇軾にとっても遼は無関心な対象ではないのである。
こういうと、あたかも蘇軾が偏狭な民族主義者のように思われそうだが、“武“によってたつ野蛮な軍事国家に対して、”文”によってたつ文明国を支える士大夫の自意識あらわれ、とみるべきだろう。
この「羅文傳」では、蘇軾は漢の武帝の時代を舞台に選んでいる。武帝は言うまでもなく、数次にわたる大規模な外征を成功させ、北方の異民族である匈奴の勢力を弱め、漢の最盛期を築いたとされる皇帝である。蘇軾は必ずしも史実に忠実とはいえない架空の評伝を書くにおいて、武帝の時代を選んだのも、蘇軾が生きた北宋時代の状況と照らし合わせて考える必要があるだろう。
第三回目で述べた下りの『四方遠裔、達せざらぬ無し』というところにも、北方の異民族への対策を強く意識していることがうかがえる。
また、宋代の硯は実用に基づいた簡潔な厳しさと、雄渾な造形をもって特徴としているが、絶えず北方の脅威に晒され続けた時代の緊張感、あるいは質実剛健な精神の表れも、そこに感じとることができるのである。

さて、羅文の死によってこの「羅文傳」も終わりかというと、その子孫の代にも記述が及んでいるのである。この点も、史書における列伝、あるいは世家の体裁をとっている。
次回は羅文の息子、その名も「堅」が登場するというところで。

(つづく)
落款印01

栄辱の理(ことわり) 〜蘇軾「萬石君羅文傳」?

また前回から間が開いてしまった羅文傳、今回は少し長い。
宋代の出土硯(龍尾石長方硯)(原文)
以是小人多軽疾之。或讒于上曰、文性貪墨无潔白称。上曰、吾用文章掌書翰。取其便事耳。雖貪墨吾固知。不如是。亦何以見其才。自是左右不敢復言。文体有寒疾。毎冬月侍書輒面冰不可運筆。上時賜之酒。然后能書。元狩中。詔挙賢良方正。淮南王安挙端紫。以対策高第。待詔翰林。超拜尚書僕射。與文并用事。紫雖乏文採。而令色可喜。以故常在左右。文浸不用。上幸甘泉。祠河東。巡朔方。紫常扈従。而文留守長安禁中。上還。見文塵垢面目。頗憐之。

(浅解)
「以是小人多軽疾之。或讒于上曰、文性貪墨无潔白称。」『是を以って小人の多くは之を疾(やまい)とし軽んじる。或(ある)いは上に讒(つ)げて曰く、文の性(さが)は貪墨で潔白无(な)しと称す。』
いつの世も、どんな組織にいても「小人」という人々から無縁ではいられないだろう。古代の士大夫の理想像としての「君子」に対して、持つべき徳性を備えていない人格が「小人」である。一般に蔑みの対象であるこの「小人」であるが、高度に組織化された社会においては、ある意味、必然的にそのような役回りを演ぜざるえない人々を生むのではないか、とも思うのである。
ここでいう「貪墨」であるが、「墨」には、貪欲、汚貪といった意味がある。「墨吏」といえば、いわゆる貪官汚吏(たんかんおり)のことを言う。左伝の昭公十四年に「貪以敗官為墨」とある。「貪を以って官を破る者には墨を為す」であるから、貪欲で民から収奪したり贈賄を受け取るような官吏を「墨」と言ったのだろう。
また前回で「処毎慮」の「毎」を「むさぼる」と訳したが、これがこの「貪」に対応していると考えたためである。
小人輩が、羅文が自らを述べた「自分は貪墨で性格的に欠点がある」という発言をマトモに受け取り、皇帝に告げ口するのである。「謙虚さ」「謙譲」は複雑な宮廷社会における最大の保身術であるわけだが、逆手にとって誹謗の種にしようとする者達も存在するというわけである。やりきれないところだろう。
宋代の出土硯(龍尾石長方硯)「上曰、吾用文章掌書翰。取其便事耳。雖貪墨吾固知。不如是。亦何以見其才。自是左右不敢復言。」『上曰く、吾は文を章に用い、書翰を掌す。その便なる事のみをとる。貪墨といえど、吾(われ)もとより知る。是の如(ごと)くなくば、亦(また)何を以って、その才を見る。是より左右あえて復(ま)た言わず。』
晩年はその独断性が政治上の問題を引き起こしたとされる武帝であるが、少なくともこの時期は暗君ではなかったようだ。羅文が「貪墨」といっても、そんなことは初めから知っている、羅文は文書を掌(つかさど)る人材であって、有能だから用いているのだ、小さな過失や欠点をとがめていれば、どうやって才能のある人物に仕事をさせることができるだろうか?と言い切る。
武帝にこう言われて、「自是左右不敢復言」すなわち左右の臣下もあえてさらに讒言することはなかったということである。讒言も根拠のない誹謗ととられれば、一転して我が身に降りかかるのである。皇帝の覚えがメデタイうちは、重ねての追及は控えられるものである。
史記の陳丞相世家には、謀臣として活動を始めた陳平を、漢王劉邦に周勃と灌嬰が讒訴する話が見える。曰く、陳平は金銭に貪欲で、賄賂の過多によって部下を採用していると。(他にも色々)。それに対して陳平は劉邦に申し開きをし、これにいちいち筋が通っていたので還って劉邦は陳平を厚遇し、位階を引き上げる。これを見た諸将は「乃不敢復言」とある。
また後の魏の曹操は「求賢令」を出し、陳平のように過失のある者であっても、有能であれば登用する、と言い切っている。

この部分も、硯石と墨の関係から考えてみる。墨を貪る、というのは、あるいは墨の鋒鋩が強すぎて墨が快調に下りすぎることを言っているのかもしれない。「无潔白」というのは、墨が僅かに固着していることを言っているのかもしれない。
また、羅文は自らを評して硯石としての病脈や石瑕があることを述べていた。しかし硯石は天然石だけに、ごくわずかな石瑕も無いというわけにはゆかない。また硯となってからも、わずかに欠損していないとも限らないのである。そうであっても、実用に使う分には全く問題ないのであり、瑕疵とするに及ばないものである。
何度か触れているが、日本人は、モノにキズが生じていることを、人の手を経てきた証としてむしろ愛する文化がある。また、天然由来のものであれば、天趣(てんしゅ)としてかえってこれを賞玩する伝統もある。
現代の中国人は、一般に古玩の瑕疵を嫌うことはなはだしい。確かに、北京や台北の故宮博物院に収められている宮廷の文物というのは、大半は瑕疵が無い物である。北宋の官窯などは、新品未開封のまま保管されてきたのであるから、当然といえば当然なのであるが、その影響だろうか。
世々、最高のコレクションというのは宮廷のコレクションであって、それが中国における文物の、厳然たる基準なのであるから致し方ないところであはある。また、石の鑑賞においても、中国では玉石を愛好してきた歴史から、石を仔細に観察し、わずかな石瑕もない石を上等とする価値基準が存在する。
使用における傷と硯材としての石瑕と、二重の意味で厳しい判定が行われてしまう。しかし硯石は、道具の必然として実用に供されるものであるから、使用中に傷が生じることは避けられないものである。
完整か否かをもって硯の評価を高下させてしまうこと事体、硯が中国においてもまったく実用の用具ではなく、鑑賞の対象になってしまった証左であろうか。
少なくともここでは、米芾が「硯史」の冒頭で、硯は実用性が第一であると明快に断じているのと同様に、蘇軾も硯はあくまで実用本位で考えるべきであって、小さな瑕疵をもってとがめだてするのは、小人の行いであると断定しているのである。

「文体有寒疾。毎冬月侍書輒面冰不可運筆。上時賜之酒。然后能書。」『文、体に寒疾あり。冬月毎に書を侍し、面(おもて)を輒(ひきつら)せ、筆を運ぶべからず。上、時に之に酒を賜う。しかる後に能(よ)く書く。』
羅文は、「寒疾」すなわち冷え性であったようだ。冬になると、寒さで顔が蒼白にこわばり、筆をとることが出来なくなってしまう。そんなときは、武帝は酒を賜って、少し体を温めよと、配慮するのである。勤務中に飲酒?と思うかもしれないが、これは一種の薬である。少し飲んで体を温め、しかる後なめらかに文書をしたためるのであった。漢代の「酒」というのは、現在の紹興酒のような醸造酒であり、温めて飲んだという。武帝の能吏に対する配慮の篤さを思わせる記述である。
硯石という観点から読めば、寒い時期に良い硯は使ってはならないとされている。硯石は冷えると膠の溶解を滞らせ、墨の溌墨も悪いものである。中国の北方においては、冬場には本当に硯が凍ってしまったとも考えられる。硯石も氷れば、注いだ水や墨も凍ってしまうだろう。
また非常に寒いことを著す詩句として「硯冰」という語句が用いられる。すなわち唐の周賀「冬日山居思郷」には「背日収窓雪,開炉釈硯冰」『陽光を背にして窓に積もった雪を払い、炉の火を掻き立てて凍った硯を温める』とある。 また同じく唐の賈島「重與彭兵曹」に「硯冰催臘日,山雀到貧居」『硯冰は臘日(ろうじつ:暮れに祖先を祭る行事)を催し、山雀は貧居にいたる』とある。
一般に硯はやや温かく潤っており、墨は程よく乾燥していた方が、溌墨は滑らかになるものである。
「酒を賜う」をどう解するか?まさか酒を用いて墨を磨ることもあるまいと思うが、ここの出典はちょっと思い当たらない。あるいは、アルコールを含むことで凍結しにくいことから、極寒の日には磨墨に用いることもあったのかもしれない。(この点はもう少し資料が出てくればと思う)
宋代の出土硯(龍尾石長方硯)「元狩中。詔挙賢良方正。淮南王安挙端紫。以対策高第。待詔翰林。超拜尚書僕射。與文并用事。」『元狩中、賢良方正を詔挙す。淮南王の安は端紫を挙(あ)ぐ。以って策に対し、高第す。翰林に待詔す。尚書僕射を超拜(ちょうはい)す。文と并して用に事す。』
「元狩」(げんしゅ)とは、漢の武帝時の年号(AD.122-117)である。この時期に「賢良方正を詔挙す」とうのは、各地から、優れた人材を推薦させた、ということである。この点、蘇軾は漢の時代に科挙制度が施行されていなかった史実を踏まえたのか、羅文にせよ、紫端にせよ、推薦によって登用されたことになっている。
そこで「淮南王の安は端紫を挙(あ)ぐ。」ということになる。この「淮南王安」は漢の高祖劉邦の孫にあたる、「淮南王の劉安(AD179-122)」ということになるであろう。「淮南」は現在の安徽省北部の都市、淮南市周辺地域である。劉安は学問を好み、「淮南子」(えなんじ)を遺している。その劉安が、「端紫」を推薦するのである。また推薦といっても、そのまま推挙が通るわけではなく、いくつかの試験が課せられるのである。
すなわち「以って策に対し、高第す」ということで、端紫は羅文の時と同様に、推薦の後の採用試験で好成績を収め、「翰林に待詔す」ということである。「翰林」はよく出て来る言葉だが、皇帝直属の文章係の集団であり、同時に学問研究機関であり、高級官僚の予備軍でもある。西洋における「アカデミー」がこれにあたるかもしれない。
そして「尚書僕射を超拜(ちょうはい)す。」とあるが、「超拜」すなわち一足飛びに抜粋されて「尚書僕射」に任命されるのである。「尚書」は文書を作成する「中書」にたいして、上奏をつかさどる機関である。「尚書僕射」はその次官にあたることになる。
「文と并して用に事す。」であるから、羅文とならんで仕事をすることになるが、官僚としての階級は、中書の次官である羅文と、尚書の次官である端紫は同格と言って良い。しかし上奏文を起草する中書にたいして、奏上を行う尚書というのは、その文を皇帝に上奏するかどうかを決定する権限がある。より皇帝の権力に近いといえるだろう。

ちなみにこの推薦制度というのは科挙が施行された後も名残をとどめ、推薦によって童試、郷試などの初中等試験が免除されるといった特権が付与されることがある。つまり周囲が認める秀才であるにも関わらず、試験に落ち続けているような人物にチャンスを与えるものである。誰もが認める文才がありながら、おそらくは性格的に試験に向かない人物というのはいるものであろう。
蘇軾の父親の蘇洵は晩学の人であったが、科挙を志したものの挫折する。その後に隠れようもなくその文名が高くなり、郷里でこぞって推薦するのだが、推薦されたのちに試験を受けさせられるのであれば、生涯任官しなくても良いとまで言い切っている。よほど試験の失敗がこたえていたのだろう、蘇洵は試験を受けた時の苦い思い出を文に綴って残している。結局推薦のみで任官し、宋の八大家の1人に数えられる文豪として名を残すのである。
明代の徐文長もそのひとりで、文章に関しては神童であったが、郷試を受ける資格を得る童試にすら受からず、推薦で生員(すなわち郷試の受験資格を得る)になり、郷試を受けるも結局受からない。
このように、試験によらずとも実力充分と認められれば、科挙のある段階を免除したり、官吏に登用するということがあった。
またここでいう「端紫」は、もちろん端渓石である。端渓の紫石ということになる。紫の石は必ずしも端渓石ではないが、硯で紫石といえば端渓を指すのが普通である。学者を集め、文芸に親しんだ淮南王の劉安によって推薦された、というのはありそうなことであるが、実際に端渓石が硯の歴史に現れるのは、漢代よりずっと後の唐代をまたなくてはならない。
宋代の出土硯(龍尾石長方硯)「紫雖乏文採。而令色可喜。以故常在左右。文浸不用。上幸甘泉。祠河東。巡朔方。紫常扈従。而文留守長安禁中。上還。見文塵垢面目。頗憐之。」
『紫、文を採(と)るに乏しいといえども、令色を喜ぶべし。故に以って常に左右に在(あ)り。文は浸(ひた)して用いず。上は甘泉を幸ず。河東を祠(まつ)る。朔方を巡(めぐ)る。紫は常に扈従(こじゅう)す。文は留めて長安禁中を守る。上還る。文を見れば塵垢面目(じんこうめんもく)、頗(すこぶ)る之を憐れむ。』
さて、新参の端紫であるが、「紫雖乏文採」であるからその文才は羅文ほどではなく、詔勅文を採用される機会が乏しかったたようだ。しかしながら「而令色可喜」すなわちその“巧言令色”が武帝の気に入り、「以故常在左右」として常に左右に侍るようになったということである。その結果「文浸不用」であるが、「浸(ひた)す」には「潜む」「埋没」といった意味がある。すっかり端紫の陰に隠れてしまったのであろう。
「上幸甘泉、祠河東、巡朔方、紫常扈従。」ということで、武帝は甘泉に巡幸し、河東を祀り、朔方を巡るとある。甘泉はすなわち「醴泉」である。「醴」は甘酒。字義の通り甘い水の湧き出る泉をいい、それを飲むと病を治すといわれる。唐代には「九成宮醴泉銘」で有名なように、皇帝の避暑地が置かれたのである。また甘い味がする雨を「甘露」といい、これは君主の徳を天が寿(ことほ)ぐ瑞兆とされる。この「醴泉」も同じく時代ごとに出現するもので、瑞兆の一種である。
無論、本当に糖質を含んだ水が湧き出るものではないだろう。中国北方は多く硬水が湧出するが、稀に軟水が湧く場所もあったかもしれない。硬水にくらべれば軟水は口当たりが軟らかく、かすかな甘みを感じたのかもしれない。
「河東を祠(まつ)る」の「河東」は黄河の東のことで、現在の山西省一帯である。この地は古代王朝の都が置かれたという伝説があり、尭の都の平陽、舜の都の蒲坂、禹の都の安邑はいずれもこの地域であるとされる。「祠る」のはこの場合古代の聖天子を祠ることである。
朔方は、現在の陝西省の宜川、寧県一帯であるが、武帝の時期には朔方郡がおかれていた。北方に位置する「朔方」は、後に厳しい寒さを連想させる語句ともなったが、武帝の当時は匈奴と接する北の最前線であった。武帝が巡幸するのは、前線の将兵を慰撫するということであろう。
「紫常扈従」ということで、端紫は常に「扈従(こじゅう)」した、とあるが「扈従」とはもともと駕(カゴ)あるいは車に付き従うという意味である。格別な待遇と言って良いが、政治上のVIP待遇というよりは多分に「お気に入り」という感じがある。古代の乗り物は決して乗り心地が良いものではないし、移動は長時間にわたる。気を紛らわせるために、話し相手になり、それこそ気の利いた事をいう人物が好まれる。
皇帝が各地を巡幸する、というのは周王朝においては「穆王八駿」の伝説がある。すなわち八頭の駿馬に牽かせた馬車で穆王が中国全土を巡ったのである。あるいは、秦の始皇帝は轀輬(おんりょう)車にのって五回の大規模な巡幸を行い、最後の巡幸の途上に死去している。
以降、歴代の中国の皇帝達は距離の長短はあれど、大小の巡幸を行うもので、当然巡幸中も政局は進行する。いわば宮廷が移動するようなものであり、この巡幸に付き従う者達こそがその時々の皇帝の側近寵臣達なのである。留守番組というのは、やはり権勢の衰えは否めないものなのであろう。
「而文留守長安禁中」というわけで、羅文は長安の禁中(宮廷)でお留守番、ということになったのである。そして「上還。見文塵垢面目。頗憐之」武帝は帰還し、羅文を見るとその面目は塵垢(じんこう)にまみれていた。つまり宮中にあってすっかり面子を失ってしまっていたということになる。武帝もこれを見てさすが気の毒におもったのか、頗(すこぶ)る彼を憐れんだということである。
「毀誉褒貶は世の習い」であるが、慎重に保身に務めたところで、掣肘はかわしたとしても、新参者に寵愛が移ることだけは避けることが出来なかったというわけである。

以上を硯石という文脈で考えると、端渓紫石は、実用性の面では龍尾の羅紋石に劣っているものであるが、見た目が美しいので愛された、というところであろうか。蘇軾の意識では、あるいは端渓石よりも歙州龍尾石の方が価値が高かったのかもしれない。
「文浸不用」であるが、硯石は乾燥を防ぐために、水に浸(つ)けて養生する習慣がある。水分を補うためである。後代、硯匣に硯を収めるようになるが、箱の多くは漆箱で作られた。これも硯の乾燥を防ぐ工夫である。宋代の「洞天清録集」の「硯匣(すずりばこ)」の造り方の章には、硯匣は良い漆を用い、孔を空けてつくってはならないとされている。孔を空けてはいけないのは、湿気がもれてしまうからで、すなわち石の乾燥を避ける構造を推奨しているのである。
端渓石が出てきたことで、羅紋石は水に浸けっぱなしで、用いられる機会が減ったということになる。そして、どこへ行くときも肌身離さず持ってゆくのは端渓ばかりとなるのである。たまに帰って、ほったらかしにしてあった羅紋硯をみたら、その硯面は埃まみれになっていたということになる。実用性は劣るにせよ、その石色が好まれたのであろうか、端渓石が龍尾石を駆逐してゆく様子が描かれているようである。
「硯屏」(けんびょう)という道具が古くからあるが、向かって硯の奥側に小さな板状の衝立を立てて、硯面に埃が積るのを防ぐための道具である。材料に玉や翡翠を用い、華麗な彫琢を施したものもある。ただ、衝立をたてたぐらいではあまり意味がないのではないか?とも考えていたが、書斎の机は明るい窓に向かって置かれるのがきまりである。窓から入り込む砂埃を、さしあたって避けるには有効なのかもしれない。まして北方の黄砂のすさまじさを思うと、飾りとは言い切れないものである。
また、羅文が塵まみれになっていたことからも、当時の硯が日常的に必ずしも硯匣に入れられていたものではなかったことがうかがえる。前段で、武帝が命じて羅文のために金を使って専用の「室」を作らせた、という下りでこの「室」を「硯匣」ではなく「墨盒」としたのも、上記の理由による。
宋代の出土硯(龍尾石長方硯)(拙訳)
羅文の謙(へりくだ)った態度を見て宮中の小人は、このことを羅文の病癖として軽蔑した。またあるものは武帝に讒訴(ざんそ)し、「羅文の性格は、貪墨で、潔白無しと自ら言っています。」武帝がいうに、「羅文が貪墨なことは、かねてより知るところである。朕は羅文を文章をつかさどるに用いているのであって、その有能なところを必要としているのである。そのようにしなければ、どうして能力のある者に仕事をさせることができるだろうか?」そう武帝が言われると、左右の臣下のなかであえてそれ以上羅文を追及するものはいなかった。
羅文は冷え性で、毎年冬になると文書を作成していても顔を強ばらせ、筆を運ぶことが出来なくなった。武帝はそのようなときは羅文に温めた酒を賜い、飲んで体を暖めさせたのである。そうしてようやく文書を書くことが出来たのであった。
元狩年間に、賢く、品行の正しい人物を推挙させた。淮南王の劉安は特に姓は端、名は紫というものを推薦したのである。端紫は官吏登用試験をうけ、良い成績で合格して、翰林に配属されたのである。次いで尚書僕射に抜擢され、羅文と並んで職務をとった。
端紫は、その文章が採用されることは少なかったにせよ、うわべを取り繕った言辞に長けており、武帝に気に入られて常にその左右に侍(はべ)るようになった。地味な羅文は省みられることがすくなくなり、宮中の陰に埋没してしまったのである。
武帝は醴泉に避暑に赴き、また河東で古代の聖天子を祀り、朔方の前線を視察して将兵を慰撫した。端紫は常に武帝の巡幸に従ったが、羅文はもっぱら長安の宮中で留守を預かる身となったのである。武帝は長安に帰還し、羅文を見れば、宮中ですっかり生彩をなくし、顔色を失っていたのである。さすがに武帝は羅文を憐れにおもったのである。

(つづく)
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祁門に食邑を賜う 〜蘇軾「萬石君羅文傳」?

「万石君羅文傳」の五回目である。

上思其功。制詔丞相御史曰、盖聞議法者常失於太深、論功者常失於太薄。有功而賞不及、雖唐虞不能以相勧。中書舎人羅文久典書籍助成文治、厥功茂焉。其以歙之祁門三百戸封。文号万石君、世世勿絶。文為人有、廉隅不可犯。然搏撃非其任、喜與老成知書者游。常曰、吾與儿輩処毎慮、有[王+占]缺之患。其自愛如此。宋代金星羅紋石硯(浅解)
「上思其功」『上、其の功を思う』
武帝は(前回解釈したような)羅文が毛純らと行った政治上の功績を深く思うのであった。

そして「制詔丞相御史曰、盖聞議法者常失於太深。論功者常失於太薄。有功而賞不及。雖唐虞不能以相勧。」『詔を制し、丞相御史曰く、盖(けだ)し聞(き)く、議法の者は常に失うに於(おい)て太(はなは)だ深なり。論功の者は常に失うに於(おい)て太(はなは)だ薄なり。功有りて賞及ばず。唐虞と雖(いえど)も以って相い勧(すすむ)る能(あた)わず。』とある。
「丞相御史」はすなわち「丞相」と「御史」で、ともに朝廷の最高クラスの役職である。「御史」は「丞相」の補佐である。以前に述べたように、北宋時代は実務は中書が行い、丞相は形式的な名誉職であり、皇室の眷属が多く任命されるのである。丞相と御史は中書舎人の羅文からすれば、官位は上になる。
武帝は羅文の功績を嘉(よみ)し、恩賞を与えたいと思ったが、皇帝から特定の家臣へ直接賞与を沙汰(さた)するということはない。かならず、他の群臣から発議させ、皇帝がそれを承認するという形式を踏む。この場合の「制詔」というのが武帝から丞相と御史へ羅文の行賞を発議せよ、という命令になる。
「議法」は、仁義をもって法律を執行すること。それを行う者を失うことは、(国家にとって)大きな損失であるといっている。「論功」は、「功を論ずる」つまり自分や他人の功績をとやかく論じるもの。こういう人物は失ってもたいしたことはないといっている。まあ、そういうものだろう。
「有功而賞不及」は、功績があってもこれを賞さないということ。「唐虞」というのはすなわち「唐尭」と「虞舜」の二氏であって、「尭舜」といわれる古代の聖天子である。理想の君主の代名詞である。すなわち功労のある者に恩賞を施さないということでは、尭や舜のような完全な徳のある君子であっても、臣下に互いに勧(すす)んで仕事をさせることは出来ないということである。
さて、硯石について述べている文脈からすると、仮に「議法の者」というのは、常々座右にあって実用に使っている硯のこととしようか。となると「論功の者」というのは、硯の中でも造作がどうの、石品がどうのとやかましく言われる硯のことを言っているように思える。実のところ、なくして困るのは日々の実務に愛用している硯であって、ちょっと目を惹いて、他人の持ち物との比較に供するような硯は、実は失っても惜しくは無い、ということを述べているように思える。実用に優れた硯であるのに、これを賞賛しないなら、たとえ尭や舜のような徳を備えた聖天子だって、そのような硯石に出会うことは無いだろう、ということになろうか。
宋代金星羅紋石硯「中書舎人羅文久典書籍助成文治、厥功茂焉。其以歙之祈門三百戸封。文号万石君、世世勿絶。」『中書舎人羅文は久しく書籍を典(つかさど)り、文治を助成す。厥(そ)の功は茂。其(そ)れ歙の祈門三百戸を以って封ずる。文は号して萬石君とす。世世絶ゆる勿(なか)れ。』
「書籍」は本のことになるが、ここではとくに儒教や詩経などの典籍をさすのだろう。それを典(つかさどる)というのは、解釈や整理を進めるということである。「文治」というのは、すなわち文民(シビリアン)中心の文治政治を言うのだろう。
その功績が「茂」すなわち盛んだということだから、ここでは武帝の文治主義の政策実行を大いに補佐した、ということになる。その羅文の功績を以って「歙の祈門三百戸」を領地として爵位を与え、萬石君と号することを許すということである。「世世勿絶」は、羅文の死後も子々孫々までその領地を相続させよ、ということである。
ちなみに「萬石君」という称号は、実際に漢の景帝の代、石奮に与えられている。
「歙の祈門」は、現在の安徽省南部にある「祈門県」である。羅文の出身地は歙州であるから、故郷の近くに荘園、すなわち食邑をもらえると言うことになる。
「三百戸」は、三百世帯の家々がその領地に属しているということになる。その家々からの税収が、羅文の俸禄になるのである。
三百戸というと、北宋の爵位では二千戸以上は公(爵)に封じ,一千戸以上は侯(爵)に封じ,七百戸以上は伯(爵)に封じ,五百戸以上は子(爵)に封じ,三百戸以上は男(爵)に封じる」とあるから、最下級の男爵に序せられたことになる。
羅文傳で描かれているのは漢の武帝の時代であって、当然のことながら蘇軾が生きた北宋時代とは爵位の制度が異なっている。蘇軾はそのあたり知ってか知らずか、官僚制度にせよ、爵位にせよ、北宋時代の制度を想定しているようである。ともかく最下級とはいえ、市井の出身の羅文が、政治上の業績のみで爵位を受けると言うのは、やはり異数の出世というべきであろう。
大きな地図で見る
また「祁門」は現地ではジーメン、チーメンのように発音するが、「祁門紅茶」の産地である。「Keemun(キーマン)」という名のほうで知られているところである。祁門は近年まで外国人の立ち入りが禁じられた区域であった。最近開放されたようであるが、小生も未だに訪れたことはない。祁門紅茶は屯渓でも買うことが出来、地元の人はあまり飲まないが美味しい紅茶である。
硯石としての文脈で読めば、硯はまさに書物を著すときに必須の用具であり、そうやって学芸が発展するのだから、文治主義に多大な貢献していることになる。また祈門は歙県に隣接しており、この祈門も古来硯を製している地域であることを考えれば意味は明らかであろう。
宋代金星羅紋石硯「文為人有。廉隅不可犯。然搏撃非其任。喜與老成知書者游。」『文は人有りと為す。廉隅にして犯すべからず。然(しこう)して搏撃し、その任に非ずと。老に成りて書を知る者と遊ぶを喜ぶ。』
「文為人有」は、すなわち羅文の人となりには一種の徳が有るということ。「廉隅」(れんぐう)は折り目正しいということ。「不可犯」(犯すべからず)であるから、取り入ったり諂(へつら)ったり、あるいは侮辱し難いということである。「搏撃」(はくげき)は叩くことであるが、この場合は自らを叩いて、その任に無いということをいつも言っているということになる。謙譲の姿勢であるが、宮廷政治の世界では必須の保身術でもある。また「老に成りて」は「老成」としても通じるところだが、ともかく老いては書を知る者と文談に遊ぶことを喜ぶ、ということになる。
以上を硯石という観点から考えてみる。宋代の硯を掲載してきたが、直線ないし緩やかな曲線で構成された姿は「廉隅」といえるだろう。また良質の硯石であれば摩滅して鋒鋩が衰えることがないため、「不可犯」ということになる。「然搏撃非其任」であるが、「搏撃」(はくげき)は硯石を指で弾くこと、そして「非其任」であるから、この硯が使い物になるかならぬかを判別しようとしている様子になろうか。ここも、以前に紹介した、米芾の「硯史」を参照いただければと思う。
「喜與老成知書者游」は老成した硯、すなわち古硯を珍重するのは、まさに「書を知る者」つまり書写や文芸の趣味を解する者であって、硯にとってもそのような持ち主に出会って文墨遊戯に用いられれば、嬉しいに違いないと読める。硯はただ目で見て鑑賞するものではなく、文芸や実務などの、使用を通じて楽しむものであるという考えが、ごく自然に述べられている。
宋代金星羅紋石硯次に「常曰、吾與儿輩処毎慮、有[王+占]缺之患。其自愛如此。」『常に曰く、吾と儿輩とは、毎(むさぼ)る処(ところ)を慮(おもんばか)り、[王+占]缺の患い有りと。其の自愛は此の如し』とある。
「処毎慮」は訳し難いところだが、「毎」には「むさぼる」という訓読みがある。この「処毎慮」を「むさぼる処(ところ)をおもんばかり」の意に解釈しないと、後段とつながらないので、ひとまずこの意味でとっていただきたい。
「玷缺」(かけつ)は、”タマにキズ”であるが、もとは白玉の斑点や欠損のことをいう。ここでは自分と子供たちは貪欲であるし、人格にも欠点があると、自ら言うのである。「其自愛如此」で「其の自愛は此の如し」であるが、「自愛」はすなわちこのように謙譲してへりくだることであるが、表彰されても昂ぶることなく、謙遜を重ねていらぬ嫉妬や讒言を避けるのである。
この羅紋石やその同類の石には、多く石瑕があるということを言っていることになる。「毎(むさぼ)る」であるが、何を「むさぼる」のか?これはこの後段で明らかになる。
宋代金星羅紋石硯(拙訳)
武帝は羅文の功績を深く思った。そして詔を制せられ、丞相と御史が言うに
「仁義をもって法律を施行するものは失うのは国家にとって大きな損失である。功績をとやかく論じる者は失ったとしてもたいしたことではない。功績があるものにたいして、賞することを行わなければ、たとえ尭や舜のような聖天子であっても、有能な人材に勧(すす)んで仕事をしてもらうことはできないであろう。中書舎人の羅文は長い間、典籍を整理し、文治を大いに助けている。その功績は甚大である。よって歙州の祁門三百戸を領地として与え、羅文は万石君と称することを許す。羅文の子々孫々まで、この領地が相続されるようにせよ。」と。
文には人徳があり、折り目正しくけじめがあり、誰も彼に取り入ることはできなかった。しかしながら自らを叩き、命令の度にその任務は自分には重すぎると言うのであった。年老いてからは、書に巧みなものと遊ぶことを喜んだ。
羅文が常に言うには、「私や子供達は、皆貪欲なところが心配であるし、欠点もあるものだ。」その慎んで自愛する様子はこのようであった。

(つづく)
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寵愛は日増しに厚く 〜蘇軾「萬石君羅文傳」?

前回から間が開いてしまったが、「羅文君傳」の続きを。

上嘗嘆曰、是四人者,皆国宝也,然厚重堅貞,行无瑕[王占],自二千石至百石,吏皆无如文者。命尚方以金作室,以蜀文錦為薦褥賜之。并賜高麗所献銅瓶為飲器,親愛日厚,如純輩不敢望也。上得群才用之,遂内更制度,修律歴,講郊祀,治刑獄,外征伐四裔,詔書符檄礼文之事,皆文等預焉。
宋代細羅文鳳池硯
「上嘗嘆曰、是四人者,皆国宝也」『上嘗て嘆じて曰く、是れ四人の者、皆国宝也(なり)』
武帝は羅文、毛純、墨卿、褚先生の仕事ぶりを見て、まったく国の寶だわいと、嘆息をつくのである。帝国を統治するというのは、想像を絶する大変な仕事であろう。忠実で有能な人材というのは、まったく得がたいものである。
つづけて「然厚重堅貞,行无瑕[王占],自二千石至百石,吏皆无如文者。」『然れども、厚く重く堅貞なる、行い瑕[王占]無し、二千石より百石に至る、吏皆(みな)文の如き者無し』
しかしながら、その人柄が厚く、沈着で、貞節が堅く、その行いにわずかな過失もないような人物は、二千石から百石の俸禄を得ている役人達のなかで、羅文だけである、といっているのである。
羅文は硯石だけに厚く重く堅い。また、“行無瑕[王占] “の瑕[王占]は、”タマにキズ“である。つまり、石瑕(いしきず)がないということである。石瑕は、石病、病脈とも言われ、石の中に含まれる雑物や亀裂である。硯材に現れると、墨を磨る妨げになるようなところである。また二千石から百石というのは、官吏の俸禄の石高を言っているが、もちろんここでは、硯石の数を表してもいる。百個〜二千個の硯石があっても、羅紋の如き、石瑕のない優れた硯材は滅多にあるものではないということを言っているのである。
宋代細羅文鳳池硯実際のところ硯材は天然石だけに、何らかの亀裂なり雑物の混入というのは、避けられないものだ。これは、硯に限らず、印材、翡翠などの貴石宝石全般に言えることである。原石の状態では、石の中に隠れた病を見出すことは難しい。硯石を裁断し、研磨し、彫琢を施す過程で、始めて現れてくることになる。
完成品の硯にくらべて、原石の価格はもちろん安い。原石を安く仕入れて加工すれば儲かるのではないか?ということをよく言う人がいるが、原石には上記のような石瑕のリスクがあるので、そう甘いものではない。硯石にせよ、翡翠原石にせよ、また鶏血田黄などの印材にせよ、原石を仕入れるというのは一種のバクチでもある。優れた作硯家は、原石の仕入れの段階で、潜在する石瑕を避け、また作硯の際に石瑕が現れたなら巧みに之を避け、あるいは意匠に生かしながら作硯を行うのである。
宋代細羅文鳳池硯また一般的に、中国の人というのは、石瑕を嫌うものである。逆に、大きさがあって、石瑕のない石というものは、硯にせよ印材にせよ非常に珍重する傾向がある。逆に日本人は、人間の性格に欠点があるように、天然石にだって欠点があるのだからといって、気にしないか、あるいはむしろ愛すべきものとしている傾向が見られる。どちらが正しいということではなく、これは伝統的な趣味文化の相違とでも言うべきかもしれない。

(話がそれたが)さらに武帝は、「命尚方以金作室,以蜀文錦為薦褥賜之、并賜高麗所献銅瓶為飲器,」『尚方に命じて、金をもって室をつくらしめ、蜀文錦を以って、薦褥を為し、之を賜う。併せて高麗献ずる所の銅瓶を賜い、飲器と為せと』
「尚方」とは、宮廷にあって、飲食にかかわる器物を司る役職である。食器を作っていた、といっても皿やコップなどだけではなく、鼎や鐘などの祭器を製造、管理する重要な役職である。食物はまず神に捧げるものであり、器は祭器であり、神器である。
すなわち、尚方に命じて金を使って専用の執務室を作らせ、また蜀文錦を使った敷物をつくり、これを羅文に与えたのである。宋錦(蜀文錦)蜀文錦は、いわゆる蜀錦で、綾織の絹織物である。日本では「蜀錦」「蜀江錦」といったりもするが、現代中国では「宋錦」と呼ぶそうである。横糸に色違いの糸を用いて、様々な模様を織り上げる。現代でも、墨や硯、骨董品などの布箱に用いられることがあるが、良い物は少なくなった。古代中国にあってはもちろん珍貴なものである。「薦褥」は敷物であるから、綾織の敷物を賜ったということである。
またさらに、高麗(現朝鮮半島)から献上された、銅の瓶を与えて、酒器に使いなさい、という栄誉まで賜ったということになる。
宋代細羅文鳳池硯さて、硯という文脈で以上を考えると、“室”というのは、何にあたるだろうか?普通に考えると、硯を入れておく箱、硯箱と考えたくなるが、「以金」とある。すなわち金を使って作っているのである。ここは少し考えさせられるところである。
蘇軾より少し後の時代に生きた趙希鵠の「洞天清録」では、硯箱についてこう述べている。
「硯匣不当用五金盖。石乃金之所出,金為石之精華。子母同処則子塗母気,反能燥石,而又誨盗。法法用佳漆為之」
(抄訳)『硯匣(すずりばこ)は五金を用いて作ってはいけない。金はすなわち石から出るところであり、金は石の精華である。子と母を同じところにおけば、子は母の生気を吸うので、石はかえって乾燥してしまう。また盗人の目を引くことになる。良い漆を使って匣(はこ)をつくるのが良い。』と言っている。
この趙希鵠の考え方は、古代中国の自然観である、五行説に基づくものであろう。となると、一世代ほど前の蘇軾といえど、同じような自然観を持っていたと考えられる。実際に、石を入れておく箱を、純金で作る利点はあまり考えられない。
とすれば、この金で作った部屋(箱)は、あるいは墨盒(ぼくごう:すみばこ)ではなかろうかと考えられる。墨盒は墨汁の発明とともに広く使われるようになったが、硯で磨った墨液を保存しておく箱として、古くから使われてはいた。蓋があるので、墨液が蒸散しないのである。
また墨盒の多くは、墨の腐敗を避けるために、銅や錫で出来ている。まれに銀や金でも製せられたという。また“尚方”は器物を作る官職であるから、ここでの“室”というのはやはり墨盒と考えた方が自然かもしれない。
宋代細羅文鳳池硯また硯を置くために蜀錦をつかた敷物を作ったのである。この敷物なども、後代の硯箱にも多くに見られるものである。また銅の瓶というのは、銅製の水滴ということになる。これでもって適宜硯に水を補うということになろう。良い硯を得たところで、それに見合った付属品を調えてさらに楽しむ様を述べているようである。
そして「親愛日厚,如純輩不敢望也。」『親愛日に厚し、純の如き輩敢えて望まずや』
つまり、武帝の羅文に対する親愛の念は日増しに厚くなったが、毛純や墨卿などは、つつましく、敢えてそのような処遇を望まなかったということである。よき同僚と言うのは、他人の功績を妬まないものである。毛純達はそれぞれに職分を守り、後輩の羅文が重んじられても、慎んで妬み嫉むことはなかったということである。
優れた硯を得て、使うごとに日々愛着が増して行く、愛硯家の心理を描いている。もちろん、筆や墨、紙が、硯と同じような使い方、扱われ方をされるものではないのである。
「上得群才用之,遂内更制度,修律歴,講郊祀,治刑獄,外征伐四裔,詔書符檄礼文之事,皆文等預焉。」『上郡才を得、之を用い、対に内に制度を更し、律歴を修め、郊祀を講し、刑獄を修める。外に四裔を征伐す。詔書符檄礼文の事は皆文羅に預かる』
武帝は、才能豊かな家臣(羅文、毛純など)を得て、内政面では、制度改革を行い、「律歴」すなわち法律と暦を改め、「講郊祀」であるから祖先の廟を祭り、刑罰を明らかにし、さらには外征を行い、四方の異民族を征伐したということになる。武帝の治績の盛んな様が述べられているが、「詔書符檄礼文」その際に必要な法律や政令に際する文案作成を、皆羅文や毛純といった重臣にその責務を預けた、ということになる。
硯などの文房四寶は、後代のいわゆる文人趣味の要である以前に、宋代の当時は実務上の道具として常々用いられていることがわかる。この下りは他の箇所とやや違った調子を持っており、かなり政治に突っ込んだ内容となっている。この部分の意味は、「羅紋君傳」が書かれた理由とあわせて、後ほど改めて考察したい。

(拙訳)
武帝はあるとき感嘆して言った。「この四人の者たちは皆国の寶であると。また特に羅文は人柄が厚く、慎み深く、節操が堅く、その行いに過失がない。二千石から百石の俸禄をもらっている官吏たちの中には、羅文の如き者はいないわい。」
そこで尚方に命じて金で装飾された執務室を作り、蜀文錦で作られた敷物を賜ったのである。またさらに高麗から献上された銅瓶を酒器として賜った。武帝が羅文を親愛する様は、日増しに厚くなっていったのである。毛純の如きその同僚たちは、慎んであえてそのような待遇を望まなかった。
武帝は群才を得て彼らを用い、すこしづつ制度を改め、法律と天文学を修正し、祖先の廟をまつり、刑罰を収めた。また外征して四つの異民族を征伐した。そして詔書や符牒、檄文や儀礼の文書は、すべてみな羅文等に預かることになったのである。

(つづく)
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宋硯の造形美 

前回までは、細羅紋や玉山羅紋など、宋代の硯材について簡単に述べてみた。今回は造形、構造上の特徴を極簡単に紹介したい。色々述べるよりも、先ずは写真でいくつかご覧いただければと思う。今まで掲載した硯も含めて、以下に構造上の特徴を示す。
宋代の歙州硯宋代の歙州硯
箕(ちりとり)のカタチをした、箕様硯(きようけん)と言われるもの。所謂挿手硯の一種で、後方から手を差し込めるようになっているが、同時に硯の重さを軽くする効果もある。また、表の墨池の削り込みによって、重心まわりのバランスが保たれている。
後方から見ると、硯の側面が軽く傾斜をつけて窄(すぼ)んでいるのがわかる。
宋代の歙州硯宋代の歙州硯
「鳳池硯」である。背面に足が二本付いている。直線的なフォルムをみせているが、実は非常に微妙な曲面で構成されており、瀟洒でありながら力強い優美さを兼ね備えている。硯石を平面にすることは難しくないが、このような微妙な凸面に整形するのは、高度な技術を要するものである。
この硯も、薄い側面が、下方に窄(すぼ)んでいるのが解ると思う。
宋代の歙州硯宋代の歙州硯
玉山羅紋の太子硯。太子硯は実用硯の形状としてひとつの完成された構造をもっており、宋代から下って清朝、現代に至るまで作り続けられている。挿手硯の一種である。この太子硯も、側面が軽く窄(すぼ)んでいることがわかる。
宋代の歙州硯宋代の歙州硯
「宝珠」(ほうじゅ)のカタチをした、「宝珠硯」である。切れ味の良い曲線と、ゆったりと凸面に盛り上がった墨堂が優雅な趣を湛えている。硯背も軽く凹面に削りこまれており、美観を添えながら、墨池とのバランスをとっている。
この宝珠硯も、薄い側面が墨堂から硯背方向へ傾斜し、窄(すぼ)んでいることがわかる。
宋代の歙州硯宋代の歙州硯
これは、挿手にはなっていない。普通に長方硯と呼ばれるが、この硯の側面も傾斜していることがわかる。直線的に見えるが微妙な曲線や曲面を用いており、シンプルではあるが単調さを免れている。
宋代の歙州硯宋代の歙州硯
この硯も、挿入手にはなっていない。墨堂が緩く凸面に盛り上がっていることがわかる。四方の硯縁の切れ味が鋭い。またこの硯も、側面に傾斜がついていることがわかる。
宋代の歙州硯宋代の歙州硯
古銭を象ったと思われる長方硯。全体が瓦のように凸面になっており、墨堂がゆったりと隆起している。この硯も、微妙に側面が窄んでいることがわかる。
魚子紋や端渓、他の硯材も含めればまだまだ並べることが出来るが、今回は羅紋の硯材に限定した。

硯の側面(硯側という)が、わずかに窄(すぼ)んでいることが、宋代以前の硯に特徴的な構造である。無論、窄んでいない作硯例も眼に出来るが、例外的と言ってよい。
この側面の窄みは、もともとは唐五代からの鳳池硯などからの変化であるが、手に持ったときに指にかかり易く、持ち運びに便利なため傾斜を付けられていると考えられる。明代、あるいは清朝とみなされる長方硯にはあまり見られない作りである。
また、明代や清朝の硯と異なり、龍や鳳凰といった具象的な装飾も見られない。実用の中で洗練されていったこの造形美こそが、宋代の文化を支えた士大夫階級の文房における趣味であったということは、今日改めて強調してよいことであろうと思われる。
雲龍や鳳凰が舞う、明代や清朝の文人士大夫の趣味とは、明らかに異なったものである。まして、ゴテゴテと機械彫りを施した鑑賞硯や、大量の墨汁を溜める広大な墨堂と深く広い墨池を持った現代硯とは、隔絶した趣味の相違がある。

これら宋代の出土硯を、すべて現在の倣製品という人もいる。無論、まったく倣古が作られていないということはないだろうが、いくつかの理由から出土硯の倣古は少ないと考えている。これは出土文物の流通の仕方とも関係しているが、宋代の出土硯の場合、倣古硯を作ることに経済的合理性が少ないのだ。実際問題、流通している出土品を買った方が、原石から作るよりも安いのである。
作硯技術の問題もある。龍尾石は非常に堅い硯材であり、削るのも大変である。直線や平面というのは、比較的作るのは簡単であるが、上に示したように、優れた宋硯は微妙な曲面や曲線が複雑に組み合わさって構成されている。
現代の職人が、宋の挿手硯風の倣古硯を作っているのを見ることもあるが、この微妙な味を理解していない。単調な平面と直線に終始し、含蓄に乏しいのである。
また、硯背と墨池の掘削によって生まれる、絶妙な重心の取り方も出来ていない。手に持ったときの安定感がない。(ギリシャ人のブロンズ像は、支持なしに自立できるバランスを持っていたが、後代のローマ人はついにそれを再現することが出来なかったことを彷彿とさせる。)
現在の歙州硯の作硯家で、若手のNo.1と目される黄山市の王輝氏は、宋硯を深く研究し、倣古の製作を試みている。立体造形である硯を、平面の硯拓や写真のみを見て倣古を作るというのは非常に困難である。王輝氏は研究目的で出土硯を蒐集しており、優れた出土硯も所有している。
T.H先生や小生が見た範囲では、作硯技術に関しては傑出したものを持っている王輝氏であるが、彼にしても宋代の硯を、本当に専門家が見てもわからないくらいに作るのは、とても難しいと言っていた。
要するに、宋代の硯を真似るには、割りにあわないくらいの大きな原石と、優れた見本、さらに高い技術と手間がかかるのである.......

以上の硯は、すべてT.H先生からの借り物であり、宋硯の造形上の美しさや特徴についても、ほとんど先生からの教唆の受け売りと思っていただいて差し支えない。
「他人の褌を借りて語る宋代の硯」はとりあえずこのくらいにして、次回は「万石君羅文傳」の続きを紹介したい。
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もうひとつの羅紋硯 〜宋代玉山羅紋太子硯 

前回、宋代の細羅紋について紹介を試みたが、記載中「玉山羅紋」(ぎょくざんらもん)について触れた。この宋代の「玉山羅紋」についても、簡単に紹介しておこうと思う。下に掲載した写真は、宋代の玉山羅紋硯である。例によってT.H先生にお借りしたものである。(昨今、これだけの出土硯は市場では滅多にお目にかかれない)
硯式は挿手硯の一種で、いわゆる太子硯の形をしている。
宋硯玉山羅紋硯材は朽木のように、カサッと乾燥しており、細かい亀裂が全体を覆っている。作硯された当時からこのような姿をしていたとは、さすがに考えられない。長い年月の間に風化したのであろう。
やはり、石理が縦方向に走っているのが見える。宋代の歙州硯が後の時代と大きく異なるのは、基本的に石理を縦方向にとっていることである。現代硯では、まずこのような石の切り方は見られない。
宋硯玉山羅紋硯の表面は、乾いた状態ではまるで朽木か炭化した木材の表面のように見える。多くのニュウが入り、見た目の通り、多孔質で水を良く吸い込むのである。石の脂っ気が全く抜けてしまったかのようだ。原石がはじめからこのような状態であれば、そのような石をわざわざ加工して、硯に仕立て上げるというのは、考え難いことである。
同様の年月を経過した宋代の龍尾石硯や端渓硯が、現在でもまったく使用に耐えうることとくらべると、その石質の違いは考えさせられる。
宋硯玉山羅紋水で濡らした状態である。水を滴らせた程度では、砂地が水を吸収するように、あっという間に乾いてしまう。しばらく水に漬け置いて、充分に水分を吸収させなければならない。この状態であれば、使用できないことは無いそうだ。
玉山羅紋は、龍尾石が採れる江西省婺源県よりやや東南へ下った、江西省玉山県東童坊郷千村の周辺地域一帯で採石される。
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「玉山県志」によれば、玉山羅紋は唐代の大歴元年(766)頃には既に開採されて硯に製せられ、羅紋硯という名称があったという。
またその石質については、
“石之属有体青而帯白,紋直而理精者,出沙渓嶺,可研。朱子(熹)称為懐玉研。”(抄訳)『石には青くまた白を帯びたものがあり、紋様が真直ぐで石理が細かい物は、沙渓嶺より産出し、硯に出来る。朱熹は之を称して懐玉硯と。』
ということから、宋の時代にすでに(朱熹は北宋の人物)硯材として一定の評価を受けていたようだ。
玉山羅紋は、現在も採石が続けられ、廉価な硯に用いられる。使い込むと鋒鋩が逓減する気味があるが、安価なことと、あるていどの実用性をもった硯材といえるだろう。この玉山羅紋も、加工されるのは主に徽州の歙県一帯であったことから、「歙州硯」の名称で呼ばれている場合がほとんどである。現在でも、採石される量が多く、ある意味「羅紋硯」を代表しているのが、この玉山羅紋であるといえる。
宋硯玉山羅紋この硯の作行きから見るに、決して疎かな扱われ方はされていない。
様式は「太子硯」と呼ばれる硯であるが、その美観のひとつが、墨堂から墨池にかけての、”落潮”(らくちょう)と呼ばれる部分の落とし方である。この部分の絶妙な曲面の造詣に、作硯職人の技量の程や、当時の趣味がうかがえるのである。
太子硯は北宋に始まり、その簡素で実用性に富んだ造詣が好まれ、現代に至るまで繰り返し作硯され続けている様式である。歙州羅紋石だけではなく、様々な硯材での作硯例が観られる。しかし歙州の太子硯と、端渓の太子硯は、この落潮部分の落とし方に違いが有る。また、時代によって作り方が微妙に変化してゆくのも、この部分に顕著に現れてる。
宋硯玉山羅紋T.H先生は、同手の玉山羅紋の太子硯を2面所有されている。龍尾石の羅紋硯に比べると、蒐集の対象としてはやや等級が落ちる観のある玉山石であるが、これほど作行きと状態の良い宋代太子硯というのも稀である。宋代の硯のひとつの典型を観る事が出来る。
宋代には様々な作硯様式が現れたが、硯背をえぐって手を挿し込んで運べるように加工された「挿手硯」は、宋代を代表する作硯様式と言っていいだろう。「万石君羅紋傳」の解釈を続ける前に、宋代の硯の様式についても、次回簡単に紹介したいと思う。
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喪われた硯石 〜宋代の細羅紋

「万石君羅紋傳」の紹介を進めているところで、ひとつ「これはしまった」と思ったことがあった。挿絵代わりに、手元の羅紋硯を掲載してみたのだが、すべて清朝以降の硯材である。これらでも普通は羅紋と言ってまったく問題がないが(眉子の有無は別として)、宋代の羅紋はまた別種の趣がある。
また、現在「羅紋硯」というと、龍尾山の山域とは別の「玉山」という山域から取れる羅紋石がある。「玉山羅紋」と言われるが、石質が粗慢で水を吸収し、やや使い勝手の悪い硯石である。古代では実用品というより、副葬品として作られた硯によく使われているのを目にする。稀に良材もあったようで、実用に供せられていたと思しき硯も観られる。
また、現在でも龍尾山と別の地域で採れる羅紋石がある。「いわゆる羅紋」などと言ったりもするが、廉価な学生用の硯に良く使われている。徽州でも良く目にし、日本でも一般の店頭で「羅紋硯」と言われているのは、多くこれである。これをもって「羅紋硯はあまり良くない」と言っている人もみかけるが、龍尾山の羅紋の良材を見たことがないからであろう。
「羅紋硯」が龍尾山から採石されるのではなく、「羅紋」というのは、龍尾石の石品の一種である。石品は単独で現れることは少なく、金星や金嵩(きんうん)、眉子を伴うことがある。また「細羅紋」と「粗羅紋」の別があり、通常は「細羅紋」を珍重する。字義通り石理が細潤で、いきおい鋒鋩も細密であるからだ。
宋代龍尾石細羅紋硯石
これは小生の手元にある宋硯の羅紋である。宋硯というと、出土硯の中から入手するよりないが、実は羅紋の宋硯は極めて稀である。一般に多いのが魚子紋で、これはさほど珍しくはない。宋硯であっても、きちんとした龍尾石の硯はあまりなく、玉山羅紋や産地がわからないような羅紋様の硯材が多く目に付く。また紫石系統では、端渓は少なく、福州石が多い。
宋代龍尾石細羅紋硯石水に濡らした状態で、接写してみる。縦に眉子がうっすらと入っているのがお分かりになると思われる。現在の硯の多くは、硯の方向にたいして横方向に眉子が伸びるようにとるが、宋代の硯では、必ず縦方向にとる。また、眉子は当時は珍重されておらず、基本的に眉子を避けて作硯されている。
眉子の周辺は、微細な羅紋になっているのだが、この写真ではわかりにくいかもしれない。肉眼でも、一見すると凝灰岩と見まごう程に、宋硯の羅紋は細かい。宋硯に現れる極めて細密な羅紋は、現在の市場や産地では全く目にすることが出来ないものである。

さて、なけなしの宋代羅紋硯を出してみたが、もうひとつ説得力がないかもしれない。上に掲載した硯も、宋代挿手硯と言って差し支えない硯であるが、この一硯を以って、宋代の羅紋や宋硯を語れるというものでもない。
いたしかたないので、T.H先生のところで収蔵の宋硯のうち細羅紋の宋硯を何面かお借りし、撮影させていただいた。
T.H先生はまだ日本で注目されていなかった、宋代の出土硯を蒐集し始めた人物である。小生も宋硯の特徴については、多くT.H先生から教唆をいただいている。
日本で注目されていなかったが、中国でもそれほど出土硯というのは重要視されていなかった。なにより、墓から出土した文物は忌避する傾向があるのである。
その先生といえど、宋代の細羅紋硯は多いほうではないという。
宋代龍尾石細羅紋硯石
宋代の挿手硯である。北宋と言って差し支えない硯式であると思われる。北宋に先立つ五代の挿手硯の様式を継承し、北宋独特の雄渾さが加わっている。
一見すると、石理のようなものは見えず、全体に淡い緑色を呈しているので、先生も当初「緑端渓か?」と思ったそうである。出土硯だけに、周囲が漆喰や錆で覆われていたのだが、丁寧にそれらをはがすと、美しい細羅紋が現れてきたそうである。
宋代龍尾石細羅紋硯石水に濡らした写真であるが、縦の方向に、石理が走っているのが見えるだろうか?非常に細かいが、凝視するとガラス質の透明感がある、美しい羅紋である。

宋代龍尾石細羅紋硯石
この硯は、普通「宝珠硯」と言う硯式である。非常に刀法の切れ味良く、作行きの良い硯で、実に愛らしいカタチをしている。この硯も、一見して羅紋があるようには見えないものである。一面が金嵩で覆われており、硯面に錆びた鉄片が張り付いていたのを、丁寧にはがし、今の姿を得たと言う。
宋代龍尾石細羅紋硯石これも、水に濡らした状態で接写してみる。非常に微細な石理が縦方向に走っているのが、お分かりになると思われる。この羅紋もやはりガラス質の透明感を帯びており、淡い緑色を呈しているものである。

下の写真は、普通は「鳳池硯」と呼ばれる作硯様式である。
宋代龍尾石細羅紋硯石
「鳳池硯」の硯式は、先立つ唐五代から始まっており、北宋に入ってその姿はより薄くなり、瀟洒を極めた。硯堂がわずかに隆起し、複雑な局面で構成され、優美と雄渾さを兼ね備えている。硯背下部に二本の足が付いており、墨堂は墨池に向かってやや前傾気味に傾斜している。
宋代龍尾石細羅紋硯石この硯も、水で濡らして接写してみる。今回掲載した硯の中では、羅紋がわかりやすい硯であると思われる。その分、羅紋がほんのわずかに粗い。ただし現在見られるいわゆる細羅紋にくらべれば、相当に細かい羅紋である。
やはり、縦方向に石理が走り、淡い緑色を帯びた透明感のある石質である。

羅紋の羅は、薄絹であると言った。古代は淡く透ける薄絹を重ねて、様々な色彩を生み出していた。薄い布を重ねると、繊維が交錯して細波のような模様が現れる。
この模様に、龍尾石の石理が似ていることから羅紋の名が付いている。そして羅というと、特に淡い緑色というイメージがある。

東周から南朝の梁代にいたる詩歌を集めた「玉台新咏」という古詩集がある。そのうちの「穆穆清風至」に

穆穆清風至 吹我羅裳裾
青袍似春草 長条随風舒
朝登津梁上 裳望所思
安得抱柱信 皎日以為期

『穆穆(ぼくぼく)として清風至り、我が羅の裳裾を吹く
青袍(せいほう)は春草に似て、長条(ちょうじょう)として風舒(ふうじょ)に随い
朝に津梁(つりょう)の上に登り、裳を(かか)げて思うところを望む
いずくんぞ得ん抱柱の信を、皎日(こうじつ)以って期と為す』

「優しく爽やかな春風がふいて、私の絹の裳裾をひるがえしている。
青い上着は春草に似て、長く伸びてやわらかな風のままにたなびいている。
朝早く橋の上に登り、裳裾をかかげて、あの人が現れるかもしれない方角を見つめている。
なんとかして、抱柱の信をえたいもの。朝日が昇るまで、ここで待ち続けよう。」

※「抱柱信」は、昔、尾生という男が女と橋のたもとで待ち合わせをしていた。女は現れないが、それでも尾生は待ち続けた。待っているうちに大雨になり、水かさが増して危険になった。それでも尾生は待ち続け、ついに橋の柱を抱いたまま溺死したという(......。)この故事による。ここでは、待っているのが女性だから、逆に尾生のように想われたいものだ、という意味になる。

詩の意味はわかりやすいとおもうので、細かい解釈は省くが、「吹我羅裳裾」の、「羅裳裾」は羅の裳裾(もすそ)、すなわち薄絹の裳裾である。
二句目で、「青袍似春草」とあるが、この「青袍」の「袍」は「わたいれ」であって、上着ということになる。「青袍」が春草の色に似ているのであるから、明るい緑色がイメージできる。
そして「羅」の「裳裾」はこの上着よりもやや淡い緑色であるとイメージできる......いや、もちろん「紅裳裾」や「黄裳裾」というのもあるが、この場面のにふさわしいコーディネートとしては、同系色でまとめていたと考えなくてはいけない。衣服が風に吹かれて、春草のようにたなびいている、という情景を詠っているのだから、赤や黄色を想起するところではないのである。

羅紋というのは、緻密な絹織物の紋様から来るイメージであるから、繊細で透明感があり、そして淡い緑色をしていなくてはならない。まさに宋代の龍尾石の細羅紋はそのようであり、似つかわしい形容であると言える。
このような細かい羅紋は硯材が尽きたのか、時代が下がると目にしなくなる。現在の婺源県龍尾山にも何度か足を運んでいるが、このような羅紋はお目にかかったことがない。現在新たに得ることは期待できない、喪われた硯石である。
ともかくも、「羅紋」という、硯材の様子をイメージしていただけたかと思われる。この宋代の羅紋硯であるが、現在使用しても非常に良いものである。見た目から想像されるように墨の当たりが柔らかく、鋒鋩が緻密で墨をよく溌墨させ、衰える事がない。当時の蘇軾や米芾達も、そのような硯材を好んで用いたと言うことは、まったく想像に難くないのである。
次に、宋代の硯の様式について簡単に紹介てから「万石君羅紋傳」の解釈を続けたい。
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