賛に曰く 〜蘇軾「萬石君羅文傳」:最終回
前回で本文が終わった「萬石君羅文傳」には、最後に蘇軾自身の賛文があるが、実のところ本文も賛文も蘇軾自身の創作ということになる。
「賛曰羅紋之先无所見。豈左氏所称羅国哉。考其国邑在江漢之間。為楚所滅。子孫有散居黟歙間者。嗚呼。国既破亡。而后世犹以知書見用。至今不絶。人間豈可以无学術哉。」
『賛に曰く、羅文の先は見る所無き。豈(あ)に左氏の称する所の羅国哉。其の國邑は江漢の間に在りと考える。楚の為に滅する所となる。子孫は黟(い)歙の間に散居する者有り。嗚呼。國既に破れ亡ぶ。而して后世に書を知るを以って用を見る。今に至れど絶えず。人間は豈(あ)に学術の无くべからざるや』
この「萬石君羅文傳」を紹介している後藤朝太郎の「文房四寶」には、賛文のみ、訳出されている。ここでは小生如きの拙い訳を掲載するよりも、大先輩の後藤翁が「羅文傳」を紹介している全文を掲載し、解釈に代えたい。
以下、後藤朝太郎「文房具至寶」298ページ、「十八、蘇東坡の文房具小説」より
「宋代の小説に文房具に因んだ名文が見えてゐのは興味深ゐ話である。而かも東坡が自分で萬石君羅文傳の題の下に端渓に對して、安徽歙州の羅紋石を主人公にとり、色々紙(楮先生)だの筆(毛頴)だの、墨(墨卿)だの云ふ仲間を持つて来て漢の武帝の生活を描き、端溪(端紫)と云ふ新参ものが現れるまでの得意な處を述べ、遂に端渓の文采は乏しゐが令色を以って寵愛を得るに至り、羅文は次第に不遇の生涯を辿ったこととなったその淋しゐ心境を面白く仕組んだもの。誠に軽妙な筆で言言句句の間に歙州石の運命が間然する處なく描かれてゐるのは、翰墨史上の一點彩と称することが出来る。尚東坡の賛に曰く、
羅氏(歙州石)の先祖はよくは判らぬ。がまさか左氏傳に云う羅国のことでもあるまゐよ。其國邑の位置がどこゐら邊りにあるかを辿り考へて見ると、長江漢水の間に大體の見當がつけられる。が既にその國邑は楚の為に滅ぼされ、子孫は今何でも、安徽黟県歙県の間あたりに散居してゐるとの事である。哀れ、故國は亡びたりとゐへども後世なほ典籍文書に明るく學問の出来てゐる為め尚用ゐられ今日に至ってゐる。人間と云ふものは學問の道だけはどうあつても充分出来てゐなくてはならぬものである。
とかやうにとぼけて云つてゐる。今日東坡の小説を読み端歙雨石の文房具界に於ける消長の迹を見るに、百のうち十百も歙石の方はどこの蔵硯中にももつからぬ。良材は黄山山下、黟縣、歙縣の山渓幽谷の間にそのまま埋もれ採掘せられなゐままに打ちやられてゐる。どちらかと云ふと當世は端溪ひとり世に榮(さか)えつ歙石羅文はとり残された形であるのだ。羅文傳の内容はその原文を噛みしめ讀(よ)みこなせばこなすほど妙味が湧ゐて出て來(く)る。この名文はひとり日本人ばかりでなく支那の本場の同好君子にも見せたゐとの微衷からこゝに原文のまま挿入し文房具趣味の國際化を期圖(きと)したゐからである。
やゝもすると世俗は書道の盛なるに拘らず、墨場で墨を磨ることを厄介視したり、薬品混じりの墨汁でその場限り一時を糊塗する者がそこゐら邊りにもゐたりして、しんみり文房具そのものに浸り腰を嵌(は)める者が少なくなった感じもする。
世の中は多忙。支那は張學良の西安事變で又胃痙攣を起こした。文房具同好の我が雅友は忙中閑ありておのづから別天地の心田を有せらることであろらうから、篤と之を讀み味つて頂きたゐものである。」
文中の「西安事變」というのは、昭和11年(1936年、中華民国25年)に西安で起きた張學良による蒋介石監禁事件で、この事件を契機にいわゆる「国共合作」が成立し、共産党と国民党は協力して日本軍の侵略に抵抗することになる。
この「文房至寶」が出版されたのは昭和12年7月のことであるが、先立つ1931年(昭和6年)9月18日に満州事変が、1932年(昭和7)1月28日には上海事変が勃発している。この本が出版された翌年には武漢攻略戦が始まり、その兵力確保のために“国家総動員法“が成立する。また武漢の陥落とともに、大陸における日本軍の侵攻は限界点に達し、膠着から泥沼化し、次第に日米開戦へと追い込まれて行くのである。
後藤翁は文中で中国を「支那」と表記しているが、もちろん戦前の人である後藤翁は差別的なニュアンスをその語に認めてはいない。小生もここは原文を直すようなことはしない。また後藤翁の文はさりげなく書かれているが、太平洋戦争が始まる数年前であり、当時の重苦しい緊張感が伝わってくる。しかしそんな時代であってもつとめてのんきに構え、また文房具への愛好を通じて平和と友好を志向する心情を披瀝しているようである。
昭和7年に起きた5.15事件では、犬養毅首相が暗殺されている。この犬養毅こと犬養木堂翁こそ、大正昭和における硯石愛好と文房具趣味の領袖なのであった。当時の政界きって知中派であった犬養首相が暗殺されたことで、以降坂道を転がり落ちるように中国戦線は拡大、泥沼化してゆく。犬養木堂とも親しく、また中国大陸の文人墨客との交わりの深かった後藤朝太郎は、それをどのような思いで見ていただろうか………
意外に思うのが、昭和初期の硯石愛好の世界で、歙州硯が非常に珍しかったという事実である。たまたま後藤翁の過眼した硯の中に歙州石が少なかったのだろうか?いやいや、当時の日本における硯石愛好の中心にあった後藤翁の言うことである。また後藤翁は日本では滅多に見られぬからといって、歙州石を求めて大正時代に徽州を訪れている。あるいは事実としてそうであったのかもしれない。
蘇軾が「羅文傳」を書いた当時も、ひょっとすると歙州硯は端渓におされ気味だったのかもしれない。そのことを、羅文が端紫の登場によって落剥して行く物語として描いたとも考えられる。ただし蘇軾よりも一回り年下であった米芾の「硯史」を読む限りでは、歙州石も端渓石も健在である。しかしながら端渓下巌は既に尽きており、採石されるのはもっぱら上巌、つまり今で言う山巌だとすれば、ある程度の大きさのある硯材であったかもしれない。一方の歙州石が採石していた鉱脈がやせ細り、小さな硯材しか取れなくなっていったということも考えられる。そして硯材の良否ではなく、大きな硯が好まれたことで、歙州石は凋落していった可能性もある。まあ、あくまで憶測の域を出ないが、宋代きっての文学者でありまた優れた歴史学者であった蘇軾が、たとえ荒唐無稽な小説に過ぎないとしても、それほど根拠の無いことを書いたとも思われないのである。
しかしもう一方の事実として、宋代の出土硯を見るに、圧倒的に歙州石が多いことである。宋代の出土硯の蒐集家であるT.H先生が以前に言っていたことであるが、宋硯においては、歙州硯10に対し、端渓は1もないそうな。もちろん、他にも雑多な硯材が多く見られるなかでである。たしかに、出版されている出土硯の書籍にも、宋代と思しき硯には端渓は多くない。となると、蘇軾の文と矛盾するようであるが、ともかくこのあたりの事情の解明は今後の課題としたい。
「萬石君羅文傳」には、「硯石」「文房四寶」「武帝の時代」「官僚の宮廷生活」が実にたくみに織りあわされている。また、架空の評伝に漢の武帝の時代を舞台に選んだ理由は、蘇軾が生きた北宋は、遼という北方異民族の圧迫に絶えず晒されていたことと関係するのかもしれない。とすればこの「羅文傳」には、蘇軾が仕えた仁宗ないし神宗の時代の対外政策に対して、ある種の提言が込められていると読むことが出来る。
大規模な遠征を行い、匈奴の勢力を弱めながら前漢の最盛期を築いた武帝であるが、「羅文傳」では軍事面での成功は強調されていない。あくまで文治主義によって、異民族の脅威を排除しているように描かれている。
また、別の読み方をすれば読書人の家庭の子弟にたいする訓戒ともとれる。士大夫の家に生まれた男子は、幼い頃より学問に励んで官界を目指すことになるが、この「羅文傳」で毀誉褒貶あり栄辱ありの高級官僚の一生をダイジェストして読ませることによって、“邯鄲一炊の夢“の如く、その処世への警句を鳴らすかのようでもある。とはいえやはり、賛文にもあるように、人は学問をしなくてはならないと説いてはいるのだが。
このようにさまざまに読める「羅文傳」だが、後藤翁もこの「羅文傳」に込められた、蘇軾の文治主義のメッセージを読み取っていたことだろう。軍事に傾斜した昭和初期の世相にあって、あえてこの一文を紹介した後藤翁の意図もまた、今日改めて考え直してみるのも良いであろう。
またこの一文は日本人のみならず、当時交戦中であった中国の人士に向けたメッセージともなっている。ここに後藤翁の文芸に対する深い信頼を見ることが出来るのであり、それはまた「羅文傳」を書いた蘇東坡が政治において「文」を重視した姿勢とも重なるものである。今日のわれわれが古人の文を学ぶ理由もまた、そこにあるといえるのではないだろうか。
この「萬石君羅文傳」の紹介はひとまずここまでとしたい。
(おわり)
「賛曰羅紋之先无所見。豈左氏所称羅国哉。考其国邑在江漢之間。為楚所滅。子孫有散居黟歙間者。嗚呼。国既破亡。而后世犹以知書見用。至今不絶。人間豈可以无学術哉。」
『賛に曰く、羅文の先は見る所無き。豈(あ)に左氏の称する所の羅国哉。其の國邑は江漢の間に在りと考える。楚の為に滅する所となる。子孫は黟(い)歙の間に散居する者有り。嗚呼。國既に破れ亡ぶ。而して后世に書を知るを以って用を見る。今に至れど絶えず。人間は豈(あ)に学術の无くべからざるや』
この「萬石君羅文傳」を紹介している後藤朝太郎の「文房四寶」には、賛文のみ、訳出されている。ここでは小生如きの拙い訳を掲載するよりも、大先輩の後藤翁が「羅文傳」を紹介している全文を掲載し、解釈に代えたい。
以下、後藤朝太郎「文房具至寶」298ページ、「十八、蘇東坡の文房具小説」より
「宋代の小説に文房具に因んだ名文が見えてゐのは興味深ゐ話である。而かも東坡が自分で萬石君羅文傳の題の下に端渓に對して、安徽歙州の羅紋石を主人公にとり、色々紙(楮先生)だの筆(毛頴)だの、墨(墨卿)だの云ふ仲間を持つて来て漢の武帝の生活を描き、端溪(端紫)と云ふ新参ものが現れるまでの得意な處を述べ、遂に端渓の文采は乏しゐが令色を以って寵愛を得るに至り、羅文は次第に不遇の生涯を辿ったこととなったその淋しゐ心境を面白く仕組んだもの。誠に軽妙な筆で言言句句の間に歙州石の運命が間然する處なく描かれてゐるのは、翰墨史上の一點彩と称することが出来る。尚東坡の賛に曰く、
羅氏(歙州石)の先祖はよくは判らぬ。がまさか左氏傳に云う羅国のことでもあるまゐよ。其國邑の位置がどこゐら邊りにあるかを辿り考へて見ると、長江漢水の間に大體の見當がつけられる。が既にその國邑は楚の為に滅ぼされ、子孫は今何でも、安徽黟県歙県の間あたりに散居してゐるとの事である。哀れ、故國は亡びたりとゐへども後世なほ典籍文書に明るく學問の出来てゐる為め尚用ゐられ今日に至ってゐる。人間と云ふものは學問の道だけはどうあつても充分出来てゐなくてはならぬものである。
とかやうにとぼけて云つてゐる。今日東坡の小説を読み端歙雨石の文房具界に於ける消長の迹を見るに、百のうち十百も歙石の方はどこの蔵硯中にももつからぬ。良材は黄山山下、黟縣、歙縣の山渓幽谷の間にそのまま埋もれ採掘せられなゐままに打ちやられてゐる。どちらかと云ふと當世は端溪ひとり世に榮(さか)えつ歙石羅文はとり残された形であるのだ。羅文傳の内容はその原文を噛みしめ讀(よ)みこなせばこなすほど妙味が湧ゐて出て來(く)る。この名文はひとり日本人ばかりでなく支那の本場の同好君子にも見せたゐとの微衷からこゝに原文のまま挿入し文房具趣味の國際化を期圖(きと)したゐからである。
やゝもすると世俗は書道の盛なるに拘らず、墨場で墨を磨ることを厄介視したり、薬品混じりの墨汁でその場限り一時を糊塗する者がそこゐら邊りにもゐたりして、しんみり文房具そのものに浸り腰を嵌(は)める者が少なくなった感じもする。
世の中は多忙。支那は張學良の西安事變で又胃痙攣を起こした。文房具同好の我が雅友は忙中閑ありておのづから別天地の心田を有せらることであろらうから、篤と之を讀み味つて頂きたゐものである。」
文中の「西安事變」というのは、昭和11年(1936年、中華民国25年)に西安で起きた張學良による蒋介石監禁事件で、この事件を契機にいわゆる「国共合作」が成立し、共産党と国民党は協力して日本軍の侵略に抵抗することになる。
この「文房至寶」が出版されたのは昭和12年7月のことであるが、先立つ1931年(昭和6年)9月18日に満州事変が、1932年(昭和7)1月28日には上海事変が勃発している。この本が出版された翌年には武漢攻略戦が始まり、その兵力確保のために“国家総動員法“が成立する。また武漢の陥落とともに、大陸における日本軍の侵攻は限界点に達し、膠着から泥沼化し、次第に日米開戦へと追い込まれて行くのである。
後藤翁は文中で中国を「支那」と表記しているが、もちろん戦前の人である後藤翁は差別的なニュアンスをその語に認めてはいない。小生もここは原文を直すようなことはしない。また後藤翁の文はさりげなく書かれているが、太平洋戦争が始まる数年前であり、当時の重苦しい緊張感が伝わってくる。しかしそんな時代であってもつとめてのんきに構え、また文房具への愛好を通じて平和と友好を志向する心情を披瀝しているようである。
昭和7年に起きた5.15事件では、犬養毅首相が暗殺されている。この犬養毅こと犬養木堂翁こそ、大正昭和における硯石愛好と文房具趣味の領袖なのであった。当時の政界きって知中派であった犬養首相が暗殺されたことで、以降坂道を転がり落ちるように中国戦線は拡大、泥沼化してゆく。犬養木堂とも親しく、また中国大陸の文人墨客との交わりの深かった後藤朝太郎は、それをどのような思いで見ていただろうか………
意外に思うのが、昭和初期の硯石愛好の世界で、歙州硯が非常に珍しかったという事実である。たまたま後藤翁の過眼した硯の中に歙州石が少なかったのだろうか?いやいや、当時の日本における硯石愛好の中心にあった後藤翁の言うことである。また後藤翁は日本では滅多に見られぬからといって、歙州石を求めて大正時代に徽州を訪れている。あるいは事実としてそうであったのかもしれない。
蘇軾が「羅文傳」を書いた当時も、ひょっとすると歙州硯は端渓におされ気味だったのかもしれない。そのことを、羅文が端紫の登場によって落剥して行く物語として描いたとも考えられる。ただし蘇軾よりも一回り年下であった米芾の「硯史」を読む限りでは、歙州石も端渓石も健在である。しかしながら端渓下巌は既に尽きており、採石されるのはもっぱら上巌、つまり今で言う山巌だとすれば、ある程度の大きさのある硯材であったかもしれない。一方の歙州石が採石していた鉱脈がやせ細り、小さな硯材しか取れなくなっていったということも考えられる。そして硯材の良否ではなく、大きな硯が好まれたことで、歙州石は凋落していった可能性もある。まあ、あくまで憶測の域を出ないが、宋代きっての文学者でありまた優れた歴史学者であった蘇軾が、たとえ荒唐無稽な小説に過ぎないとしても、それほど根拠の無いことを書いたとも思われないのである。
しかしもう一方の事実として、宋代の出土硯を見るに、圧倒的に歙州石が多いことである。宋代の出土硯の蒐集家であるT.H先生が以前に言っていたことであるが、宋硯においては、歙州硯10に対し、端渓は1もないそうな。もちろん、他にも雑多な硯材が多く見られるなかでである。たしかに、出版されている出土硯の書籍にも、宋代と思しき硯には端渓は多くない。となると、蘇軾の文と矛盾するようであるが、ともかくこのあたりの事情の解明は今後の課題としたい。
「萬石君羅文傳」には、「硯石」「文房四寶」「武帝の時代」「官僚の宮廷生活」が実にたくみに織りあわされている。また、架空の評伝に漢の武帝の時代を舞台に選んだ理由は、蘇軾が生きた北宋は、遼という北方異民族の圧迫に絶えず晒されていたことと関係するのかもしれない。とすればこの「羅文傳」には、蘇軾が仕えた仁宗ないし神宗の時代の対外政策に対して、ある種の提言が込められていると読むことが出来る。
大規模な遠征を行い、匈奴の勢力を弱めながら前漢の最盛期を築いた武帝であるが、「羅文傳」では軍事面での成功は強調されていない。あくまで文治主義によって、異民族の脅威を排除しているように描かれている。
また、別の読み方をすれば読書人の家庭の子弟にたいする訓戒ともとれる。士大夫の家に生まれた男子は、幼い頃より学問に励んで官界を目指すことになるが、この「羅文傳」で毀誉褒貶あり栄辱ありの高級官僚の一生をダイジェストして読ませることによって、“邯鄲一炊の夢“の如く、その処世への警句を鳴らすかのようでもある。とはいえやはり、賛文にもあるように、人は学問をしなくてはならないと説いてはいるのだが。
このようにさまざまに読める「羅文傳」だが、後藤翁もこの「羅文傳」に込められた、蘇軾の文治主義のメッセージを読み取っていたことだろう。軍事に傾斜した昭和初期の世相にあって、あえてこの一文を紹介した後藤翁の意図もまた、今日改めて考え直してみるのも良いであろう。
またこの一文は日本人のみならず、当時交戦中であった中国の人士に向けたメッセージともなっている。ここに後藤翁の文芸に対する深い信頼を見ることが出来るのであり、それはまた「羅文傳」を書いた蘇東坡が政治において「文」を重視した姿勢とも重なるものである。今日のわれわれが古人の文を学ぶ理由もまた、そこにあるといえるのではないだろうか。
この「萬石君羅文傳」の紹介はひとまずここまでとしたい。
(おわり)
- 2009.08.12 Wednesday
- 蘇軾「萬石君羅文傳」
- 01:56
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