唐解元一笑姻縁 (了)

夜が明けると、家人は華安の部屋の門が封鎖されているのを見て驚き、急ぎ学士にこのことを告げた。
学士が封鎖を解いて門を開け部屋に入ったが、整然と整頓された部屋の中に二人の姿はない。卓上に鍵がかけられた書類入れがあり、鍵も一緒においてあった。箱をあけると、書帙にとじられた三冊の目録がある。あつらえてやった家具や什器の類、贈物などは”毛一筋”ほども持ち出されていないことは、これら目録に照らして明らかであった。

学士は考えに沈んだ。二人が逐電したその理由は、まったくもって測りようがない。頭を振ってまた部屋を見渡すと、ふと、壁に書かれた八句の詩が目に入った。一通り読み、『主人若問真名姓,只在”康宣“兩字頭』の句を見て、はっと思った..........「華安の元の名は、康宣ではないな。」

しかしわからないのは、どんな目的でこの屋敷に来て、かくも長い間住んでいたのか?もし不逞の輩であったのなら、金目の物はのこらず持ち去っているだろうに。さらに不可解なのは、なぜ秋香が華安こと康宣に随って、一緒に逃げ去ってしまったのか?という事だ。またこの二人めは、いったいどこに逃げて行ってしまったのか?婢(はしため)のひとりぐらい、もとより惜しむものではない。しかしこの”椿事”を明らかにしたいものだ..............夫人の方も、寵愛していた秋香の身を案じ、その行方を求めるよう、学士に訴えてくる。

すぐに家童を呼び命じて、二人をとらえてきたものには必ず褒美を与えると言い、ひそかに各所へやったのである。むろん、使用人の頭(かしら)だつ人物が、夫人の侍女と一緒に逐電したなどというのは、公になれば家門の恥である。極々内密に処理をしたのは言うまでもない。
しかし華学士の家の者達は、方々康宣と秋香を探したのであるが、杳(よう)として行方が知れない。一年あまりがたつと、学士もそのまま放っておいたのである。

ある日、学士は蘇州の客人を訪ねた。閶門を過ぎたとき、家童がとある書店で、座って書見をしているひとりの秀才をみかけたのである。その容貌は華安に酷似しており、また左手に枝指があった。それを学士に報告したところ、学士はにわかに信じがたかった。そこでこの家童にもう一度行ってつぶさに見たうえ、その人の姓名を問うように言った。

家童は身をひるがえして書店に戻ったが、その秀才は、もうひとりの同輩と話をしながら、書店の側の水路の船着き場へ通じる石段を下りて行くところだった。この家童はなかなか抜け目のない者で、こっそり秀才等の後をつけた。その両名は船に乗り、舳(へさき)を転じるや潼子門にむかって去って行った。船上、付き従う従僕が四、五人。背後からその姿を観察したところ、あきらかにかつて屋敷にいた華安と”瓜二つ”なのであった。しかしあえて唐突に話しかけるようなことはしなかった。
家童は書店にもどり、店の主(あるじ)に、さきほど来て本を見ていた人は、いったいどんな人物なのか?と聞いたのである。

(訳者注)秀才、とは童試に合格した読書人の事を言うが、外出時にはそれとわかる、軽い衣冠装束が許される。

店主答えて

「あの人は唐伯虎、解元さまだよ。今日は文衡山さまと船で酒宴をするとかで帰っていったよ。」
「では、一緒に帰って行かれたおかたが、文衡山様で?」
「いや、そのお方は祝枝山さまさ、いずれ劣らぬ名士だがね。」

家童はそのいちいちを記憶すると、戻って華学士に告げたのである。
学士は大いに驚いた。唐解元、祝枝山、文衡山といえば、いずれも江南に響いた名士である。華学士とて、機会あれば知遇を得たいと願うような人物達である。心にひそかに思うに「唐伯虎といえば、奔放不羈と久しく聞いている。まさかあの謹直な華安が彼ではあるまいと思うが。明日行って唐伯虎どのに面会を求め、事の是非を確かめるよりない」
そして次の日、名刺をしたためると、特に呉趨坊に住む唐解元を訪ねたのである。

(訳者注)当時は手書きの名刺を書き、これを取次に渡して面会を請うのが礼儀である。

さて、唐解元、秋香と蘇州に戻り、祝枝山や文衡山等とともにふたたび楽しく暮らす毎日にあっても、時折、華学士府での日々を思い返していた。なにより、唐解元にとって初めての、そしておそらく二度と無いであろう”宮仕え”の日々である。このたびの場合、正規官員が自費で秘書や事務係を雇う、いわゆる幕僚稼業というものである。生来の物好きを刺激される経験ではあったものの、やはり上司の顔色を窺ったり、同輩の機嫌をとったりと、窮屈なものを感じてもいた。秋香を得る、という目的があればこそ、ほぼ一年にわたって勤め上げたのであるが、またやりたいかと言われれば「一度で充分」、という思いである。しかし考えてみれば、かつて自分が目指していたのは、このような生き方を、それこそ極める道なのである。もし京師で殿試に合格していれば、華学士府どころではない、複雑怪奇な宮廷政治の世界に生きなければならなかっただろう。

思えば自分が幸運だったのは、華学士がなかなかの人物、という事であった。かの夫人もまったく粋な方であった。華学士の威風が屋敷中に行き渡っていたためか、上司同輩にもさほどに佞悪陰険な人物はいなかった。本来の宮廷や官界は、こうはいくまい。横柄な上司、つまらぬ同輩や足をひっぱる小人ばらと、付き合わぬわけにはいかぬ。事実、あらぬ噂だけでもっても、投獄の憂き目を見たではないか。これで良いのかもしれない。息苦しい官員世界で、自分ははたして己(おのれ)を全う出来たかどうか。

解元、華学士に対しては、若干の、申し訳ないような気持ちを禁じ得ない。一片の筆跡でもって自分を拾い上げ、働きを認めて主管にまで取り立ててくれたのである。学士は我を蘇州の唐解元とは知らない。いわば無名の我の、その才を認めてくれたのである。これすなわち知己の恩とはいえまいか........?
といっても、主管の役割を放擲し、秋香を連れて出奔した件については、何ら後ろめたい事ではないと考えている。あくまで華学士に黙って出て行った事、これはやはり礼にもとるのではないか?というところにある。解元、決して礼儀にかたくるしい男ではなかったが、義侠心に篤いだけに、義理堅いところも多分にあるのである。

そんな事をつらつら考えている時、家童が面会を求める人物が来ているという事を告げ、一片の名刺を奉げてきた。唐解元が目にすると、懐かしいその筆跡は、誰あろう無錫の華学士である。
解元、学士になぜここがわかったのだとまず驚き、この男にしては珍しく少々慌てたものである。あるいは罪を問いに来たのだろうかと考えた。が、すぐに冷静さを取り戻すと、少し考えた。来訪の目的がまだわからないうちに、自分から決めつけるのは愚というものである。思えば華学士には、また会いたいという気持ちもあった。いつか真相を打ち明け、釈明する事があるのだとすれば、これも何かの機会なのだろう。学士の度量のほどを思い合せれば、自分が出て行けばなんとかなろだろうと腹をくくった。そして衣服をあらためて門に出迎えることにしたのである。

華学士、取次に名刺を渡して従僕とともにしばし門外に佇んでいたものの、果たしてかの唐解元が面会に応じるかどうかはわからない。自身、決して低い官職にはないはずだが、貴顕などはものともしない男であると聞く。唐解元が重んじるのは、あくまで文事の道についてであり、位階の高い低いではない。いままで面識がなく、人の紹介状もないわけである。不在でなくても、会いたくなければ居留守を使うだろう。それならその時の事である。

しかし取次の者が奥へ入ると、思いのほか待たされることもなく、再び取次の者が門外に出てきて言うに、主人自らが迎えに出るという。そして現れた唐解元の姿をみて、内心「あっ」と思ったのだが、ここで声には出さない。やはりかの華安こと康宣に瓜二つなのである。かたや唐解元、華学士の目を見張る様を見ても素知らぬ顔で、礼を交わすと愛想よく客間に招き入れた。

客間で主客を決めて座ると、学士は改めて再三つぶさに解元を見たが、どう見ても華安なのである。解元が茶を振る舞うに及んで、その手がやはり華安と同じく白玉の如く白く、また左手に枝指があることをみとめいよいよ確信したが、にわかには話を切り出しかねた。

当たり障りない話題で茶が終わると、解元は学士に「書斎でちょっと休みませんか。」と誘ったのである。学士は疑惑の霧が晴れないまま、しかしまた軽々しく断定も出来ず、一緒に書斎に入った。唐解元の書斎は塵ひとつなく、よく整理されてはなはだ端整な様子。華学士府の書斎も決してみすぼらしいものではなかったが、その文雅な趣味の高さははるかに解元の書斎がまさっている。学士が思わず「嘖嘖(ちっちっ)」と覚えず舌うちするほどに、賞嘆と羨望をおぼえるほどのものであった。

(訳者注)舌打ちというと、日本では「悔しい」という、ネガティブな意識表示に使うが、中国では現代でも讃嘆の念を表す時に使う。優れた書画骨董をみて舌打ちする、という場面はよくあるものである。

華学士が部屋を賞賛し、また筆硯などの文房四寶を賞翫するなどをしているうちに、奥から酒が出された。そこで客と主は、差し向かいで酒を飲んだ。
書斎で歓談するうちに、唐解元も華学士も次第に打ち解けてきた。酒が入ったことで、口もわずかに軽くなり始めてきたところ、ついに学士が言うに
「私が知る人物で、貴県の康宣というものがおりました。その人は読書をするも貧しく不遇で、それでいて文の理(ことわり)にすこぶる通じた人物でした。先生はその方をご存じでしょうか?」
しかし解元はただ「唯唯(Wei Wei)」と相槌をうつのみで、しかとは答えない。学士はまた重ねて言う

「この人は昨年、わたしのところで筆書の役にやとわれて、名を華安と改めました。まず息子につけて読書させたのですが、その後は私の書室で書物の書き写しをさせました。たいへん有能で正直であったため、のちに屋敷の主管に据えたのです。また彼には妻がいなかったので、数ある婢(はしため)の中から、自分で選ばせました。華安は秋香という女を選んだので、当家で婚礼を挙げてやりました。ところが数日後、夫婦ともどもいずこかへ逃げ去ってしまったのです。しかし部屋の中の調度、日用品は何一つ持ち去りませんでした。いったい何者だったのか?また当家に入り込み、逐電したその理由はついにわかりませんでした。私はかつて人をさしむけて、方々の貴人の宅を探らせたのですが、そのような人物はいませんでした。先生はそのような噂を聞いたことはございませんか?」

解元はまた「唯唯(ウェイウェイ)」と相槌をうつのみである。学士は解元がわかっているのか、わかっていないか、ただ胡乱(うろん)げに応えるのみなので、我慢しきれずまた言うに

「この人はすこぶる先生に似ており、また左手に枝指がありました。先生が知らないとすればなぜでしょう?」

解元はまた「唯唯」というだけである。学士は言葉を告げず、しばし互いに無言のまま盃を口に含んでいた。しばらくすると解元は身を起して奥へ入って行った。学士は振りむいて、書斎の机の上にあった書籍をめくって見ていると、本の中から一片の紙切れがおちてきた。手に取ると、そこに八句の詩が書いてある。これを読むと、これすなわち、かの華安の部屋の壁に描いてあった詩なのであった。

解元が奥から戻って出てくると、学士は詩の書かれた紙片を手に取って解元にたずねた。

「この八句の詩は華安の作った詩です。またこの筆跡は華安のものです。どうしてこちらの書斎にあるのでしょうか?きっと御縁があるはずです。お願いですから、先生、一言お答えになって、わたくしの疑問を解いてくださいませんか。」

「もうしばらくおまちください。きっと答えいたします。」

学士は心の中がますます悶悶として

「先生がわけを教えてくださるのでしたら、わたくしはまだしばらくおりましょう。教えていただけないのでしたら、これで引き取らせていただきます。」
「お教えするのはわけないことなのですが、さあ先生、味の薄い粗末な酒ながら、もう何杯かやってください。」

学士はまた数杯の酒を飲んだ。解元は大盃(おおさかずき)をささげてなおも勧めるのである。学士はすでに半ば酔っていたが、いうに

「お酒はもう充分です。もう飲めません。わたしくしはこうなんども教えを乞うているのですから、いいかげん教えてくださいませんか。わたしは胸中の疑念を晴らしたいだけであって、それで華安や康宣をどうこうしようとか、そのような存念ではないのです。」

解元は言う

「まあ、まあ、粗末なおかずですが、ご飯を少し召し上がってください。」

といって、飯を盛ってすすめ、食べ終わると食後の茶を献じた。もうすっかり夜になっていたから、童子が燭台に火をともして持ってきた。学士は、もう今日はこれまでと、ただ身を起して退散することを告げた。
解元は

「先生にはちょっと足を運んでいただき、お疑いのところをはっきりとさせましょう。」

そういって童子に命じて燭台を前にし、解元は学士の後ろに立って案内しながら後堂へ入った。堂内は燭台が煌々とかがやいている。内にむかって「新娘、おいで」というと、二人の丫鬟を従えて、ひとりの若い娘が、蓮の花びらのような小さなクツを軽やかに運びながら現れた。面(おもて)を伏せ、結い上げた髪に刺されたたくさんの玉飾りが重なって、その顔はしかとはみられない。
学士はおどろいて、すぐに別室に下がろうとした。解元は学士の袖をひいて言う「これは家内です。先生はもはや家族同然、まして目上の方ですから、お目通りいただくのが当然です。お厭(いと)いになりませんよう。」

丫鬟が毛氈をしきのべ、娘は華学士にむかって礼をした。学士はまた礼をかえそうとしたが、そこで解元が学士を抱きかかえ「まだ礼を返すには及びません」といって押しとどめた。そして娘が再び礼をする。そこではじめて学士は礼を返す。それを二度繰り返した。娘が華学士にむかって四度拝礼する、”四拝”の礼をうけるうちに、学士はただ二度ほど礼を返したのみである。これには学士、とてもきまわりが悪かった。

(訳者注) いわゆる”四拝の礼”である。”四拝”で単に重い礼、という意味もある。

拝礼が終わると、解元は娘を携えて学士の側にひきよせ、笑いながら言うに「先生、じっくり確かめてください。まさに私は華安にそっくりだし、この子はまた秋香ではないですか?」学士はあらためてつぶさに二人を見ると、なるほどそうかとわかり、おもわず大笑いをしたあと、あわてて取り繕い、不作法をあやまった。
解元はいう

「いえ、かえって私が罪をお話ししなければなりません。」

二人はまた書斎にもどり、解元は家童に命じて、盃と酒肴をふたたび整えさせ、盃(さかづき)を洗って更に酌んだ。酒を飲みながら、学士は解元が華学士府へ来るまでの、いきさつの詳細をたずねたのである。そこで解元は蘇州閶門の船中で秋香をみそめてからの、顛末の一切を詳しく話したのである。そしてそれぞれ手をうって大笑いをした。
学士は言う、

「今日この機会がありましたからから、あえて”子婿之礼”をとらせていただいたのですか。」

(訳者注)「子婿之礼」はすなわち、女婿が岳父(舅)に対する礼である。

「このように舅(しゅうと)と婿(むこ)の礼を執り行いました上は、おそれれながら、舅殿が”化粧箱”のために散財されるのが心配です。」

(訳者注)化粧箱:花嫁の実家から、化粧品など女性の日用品を詰めた箱を嫁ぎ先に贈る習慣があった。

そこでまた二人はまた大笑いをした。そして歓をつくして別れたのである。
学士は帰りの船の中で、袖の中からくだんの紙片を取り出して卓上に置き、その詩の意味を繰り返し味わった。

「首連に言う”擬向華陽洞裏遊”は、これは茅山にお香をあげに行くことだな。”行蹤端為可人留”とは、ふむ、秋香に出会って、わが屋敷にたどりつくことか。第二連の、”願隨紅拂同高蹈,敢向朱家惜下流。”はまさに身を身を屈めて屋敷に入り込み、目的を果たせば機会をとらえて逃げ去ることだな。”好事已成誰索笑、屈身今去尚含羞。”は、なるほど目的を果たしたのだから、身をやつしたことも恥ずべきことでない、ということか。末連の”主人若問真名姓,只在『康宣』兩字頭。”.....これは、なるほど唐寅の『唐』と康、『宣』と寅、それぞれ頭の部分の筆画が同じであるということか。私は今日話を聞かなければわからなかったが、解元殿のこのたびの一挙、”情痴”とも言うべきものかもしれぬ。が、与えられた衣服調度をひとつも持ち去らず、今日は今日で、礼を尽くしたもてなしの数々、まったく礼儀にもとらず、畢竟、風流の名士に違いない。図らずもこうして誼(よしみ)を結ぶことが出来たのは、望外の幸運ではあるまいか。」

学士は帰宅すると、この出来事を夫人に語った。秋香の行方を案じていた夫人もまた驚き喜んで、化粧道具衣装その他、立派な箱につめ込み、千金の値もしようかというものをあつらえて、老姆姆を差し遣わして唐解元の家に送ったのである。
このときより両家は親戚付き合いを始め、往来は絶えず、今に至るまで蘇州一帯ではこの風流な故事が語り継がれることになったのである。

まさに唐解元、その「焚香默坐歌」に、このようにうたっている。

焚香默坐自省己 口裏喃喃想心裡
心中有甚害人謀 口中有甚欺心語
為人能把口應心 孝弟忠信從此始
其餘小或出入 焉能磨涅吾行止
頭插花枝手把杯 聽罷歌童看舞女
食色性也古人言 今人乃以為之恥
及至心中與口中 多少欺人沒天理
陰為不善陽掩之 則何益矣徒勞耳
請坐且聽吾語汝 凡人有生必有死
死見閻君面不慚 才是堂堂好男子


香(こう)焚(た)き、座組み、静かに己(おのれ)を省(かえり)みる
口の中にはふつふつと、心に浮かび、想う事。
心中、人を害する謀(はかりごと)、いかほど秘めていようとも
口中、心を欺(あざむく)、綺麗ごと
人間、心にあること口に出し、人に語るというけれど
孝行、兄弟、忠信義、まさにここからはじまった。
そのほか小さな徳目も、口の中から出入りする。
どうして熟考思慮のうえ、わが行いを止めようか。
頭に花挿し、手には酒
歌うをやめさせ、舞いをみる
酒食も色も人の性(さが)、孔子さまもおしゃった
今人(きんじん)、これを恥とする
すなわち、心と口の、食い違い
いかほどであれ欺(あざむ)くは、天の理(ことわり)、反すもの
陰(かげ)では悪事、陽(ひ)にかばう
なんの益なし、徒労のみ
汝(なんじ)座(ざ)せ、静かに我が語を聞くがよい
”すべからく、人は皆生き死ぬるもの
死して面前、閻魔さま、慚(はじ)いることがなかったら
それこそ堂々、快男児”


終。


(訳者評)

最後の下りで、唐解元が秋香に「四拝」の礼を執らせ、自身も華学士にたいして舅と婿の礼を執り行った、という事になっている。すなわち秋香を華学士の養女という事にして、唐寅を婿、という格好に改めたのである。なぜなら以前華安は使用人であり、あくまで使用人に侍女を娶らせる格式で婚姻を結ばせたからである。しかし唐寅も歴とした読書人の家柄であるから、華学士の侍女を「降嫁」した格好ではつり合いが取れない。嫁ぎ先の家格と合わせるため、侍女や縁者をしかるべき身分の者の養女とすることはしばしば行われていた。これで晴れて秋香は華学士夫妻の娘、ということになったから、華夫人も娘に贈るように「化粧箱」を送ったのである。この辺はいかにも封建的ではあるのだが。

また前述したが、史実では、枝指で有名なのは祝枝山であって、唐寅ではない。この話では、そこが華安が唐解元であると確信させる、話の伏線でもある。著者は単に容貌が似ている、とするだけでは不十分と考えたのかもしれない。枝指は現代では手術で成形してしまう事が出来るが、儒教道徳の世界では、親からもらった体を損なうのは不孝の極みである。また当時はそのような珍しい身体的特徴は、かえって尊ぶような気分もあった。しかし個人的には、華安かどうかを確かめるには、容貌の他には筆跡など、他の手がかりで良かったのではないかと思う。祝枝山(祝允明)という者がおる以上、唐寅に枝指をもたせるのは、やや蛇足のようでもある。

往年の映画「覇王別妃」の冒頭、京劇の劇団に息子を売る母親が、息子に枝指があるから駄目だと断られたため、その枝指を切り落とす凄惨な場面がある。その息子は女形に天与の才があったのだが、あるいはそうしたところを演出したかったのかもしれない。

「唐解元一笑姻縁」の著者は明代の劇作家でもあったので、ストーリーは芝居仕立てなところがある。華安が秋香を選ぶ場面や、華学士の唐寅宅での唐寅との掛け合いも、いかにもお芝居の一幕のようである。物語の山場は華学士府で秋香を選ぶ場面であろうが、最後の華学士との懇談も面白い。まずは歓迎の上で打ち解けてたっぷり飲ませ、学士の気持ちをほぐしてから真相を明かす、一種社交の巧みさである。ちなみにこのときの二人のやり取り、原文では自称を「学生」、あいてを「先生」と呼んでいる。

また蘇州から無錫への移動、また蘇州城内の移動など、もっぱら水路と船が使われる、当時の江南風土の感じを味わいたい。

封建社会だけに、いかに唐寅といえども、階級社会に根付いた儀礼の数々に無縁というわけにはいかない。しかし最後に掲げられた唐寅の詩にあるように、要は「自分の心に正直に生きましょう。」というのが、この説話の言いたかったことなのかもしれない。ただその場合、多くは封建秩序に反するような結果を招くものである。それを封建倫理の面からも「大大円」にまとめているところなどは、やはり”時代”というべきなのであろう。日本の江戸時代であれば”駆け落ち心中”の方がウケたかも知れない。ともあれこのような、階級社会に風穴をあけるようなエピソードというのは、戯作のかたちで庶民に好まれたのだろう。いうまでもなく、この物語の中の唐寅は多分に虚構の唐寅であるのだが。

秋香のモデルとなった女性はいたのだろうか。項元汴の「蕉窗雜錄」に、「一笑姻縁」の原型となる逸話があるというが、この部分の考察は別の機会に譲りたい。
史実では、やはり殿試の不正事件に連座投獄されたあと、帰郷して後はしばし荒れた生活を送っていたという。このころ文徴明に宛てた手紙にも、当時の唐寅の家庭の不和や窮状などがうかがえるものがある。

祝允明が撰した唐寅の墓誌銘に拠れば、唐寅の妻ははじめに徐氏、次に沈氏である。徐氏は唐寅が会試にまつわる事件で投獄され、帰郷後、出世の望みのなくなった唐寅を見限って実家に戻ったと言われている。墓誌銘には書かれていないが、徐氏の前に妻がひとりいたが死別していることが、唐寅が文徴明に宛てた手紙の記されている。
徐氏の次の妻は沈氏である。彼女は蘇州の名妓にして、唐寅の沈九娘として夫の創作活動を支え、名を残す女性である。清朝の羅聘と方婉儀のようでもある。この沈九娘との間に娘が一人生まれる。この娘は唐寅に私淑していた著名な書家、王寵に嫁ぐ。沈九娘は唐寅に先立ってこの世を去るが、その後唐寅は妻を娶ることはなかった。

戯作の世界での唐寅は、裕福な艶福家としてしばしば描かれる。唐寅、妻妾が八、九人もいたと言うが、この沈”九娘”が転じて「九人の娘(妻)」となったと考えられている。しかし現実は、若いころはともかくとして、父親の死後、家計は常々窮迫していたから、とてもそんな余裕はない。文雅の知己ともいうべき沈九娘を娶った後は、いたって清貧に甘んじていたという。
程々裕福な家庭に生まれた者が学問芸術に耽ったのだから、親の死後、家業が傾いて窮状にいたった次第は推して知るべしである。祝允明撰の墓誌銘に「財貨を糞土とみなした」ともあるが、このあたりの気質も影響したのだろう。

数年前、唐寅自筆の「焚香默坐歌」が、北京嘉徳のオークションに出品された。梅景書屋旧蔵、呉湖帆の鑑識の題字があるが、個人的には疑わしいと考えている。
 
落款印01

唐解元一笑姻縁(三/四)

華安は媒酌人の老婆の口を借りて、自らの想いを夫人に伝えたのである。そこで夫人は華学士に相談した。

学士曰く

「これは誠に、華安と我々の双方に都合がいい話ではないか。もともと華安がこの屋敷に初めてまいった時、”身価”を求めず、一部屋と良き妻を求めただけであった。今日になってみれば、わが屋敷の為に力を尽くして欠かせない人物になっている。もし其の意にかなうように配慮してやらなければ、かの者の忠勤を保つのは難しくなるかもしれない。かれを中堂に呼び寄せ、大勢の丫鬟(ヤーファン)のなかから、自分で選ばせるのがよいだろう。」

夫人はうなずいたのだった。

(訳者注)
丫鬟(ヤーファン)は、ミズラ、あるいはモトドリを丸く結った髪型で、”丫(ヤー)”は枝分かれの意味であるが、髪型そのものを表す語である。おおよそ、大家に仕える若い侍女たちの髪型を言い、転じて侍女たちそのものを丫鬟、あるいは丫頭と呼称する。侍女と訳しても良いが、雰囲気が出ないので原文のまま丫鬟とする。
ちなみに中堂は、その邸宅の中心をなす広い建物。

その晩になると、夫人は中堂に出て座した。たくさんの燭台の明かりがきらめく中、二十人あまりの若い丫鬟(ヤーファン)たちはそれぞれに装いを凝らし、夫人の両側に並んだのである。あたかも一群の仙女達が、西王母を取り囲んで瑤池の上に現れたのかのようであった。
丫鬟達にしてみれば、主管の伴侶となってこの屋敷に残れるのであるから、選ばれることがあれば、勿怪(もっけ)の幸いなのである。まして新しい主管は以前から噂になっており、風采人柄もよく、才長けた人物であるというではないか。

夫人は側仕えの者を通じ、華安を喚(よ)んだ。華安は中堂に進み、夫人に拝閲した。

夫人が言うに

「旦那様はそなたが細心に勤めるのを常々ご覧になっており、褒美にそなたに部屋をひとつと、妻を与えたいと思し召された。ここにいる何人かの婢(はしため)でよければ、そなたが自分で選び取るがよい。」

そして老姆姆(ラオマーマー)に燭台をもって堂を下らせ、堂下に控える華安を照らし出した。

(訳者注)姆姆(マーマー)といえば、もとはキリスト教の修道女を指す。老尼と訳してもいいかもしれないが、原文のまま老姆姆(ラオマーマー)とする。大家の中には、家の女性達の宗教上の方便から、尼僧や女道士を置いているところも珍しくはない。紅樓夢における妙玉の如く、一族の中から選ばれてその任にあたっている者もいた。明代は大陸にもキリスト教が伝播しており、江南地方では一定の支持を得ていたようである。

華安は燭台の光の下(もと)で、並み居る丫鬟達をひとたび見渡したが、その化粧を凝らし着飾った少女たちのひとりひとりをいくら眺めても、かの青い衣の少女はその中にいないのであった。華安はその場に立ち尽くし、だまりこくったまま、一言も言葉を発することが出来なかった。

夫人が老姆姆に言った。

「老姆姆よ、そなたは華安に問うが良い。”汝の意にかなう者はだれですか?その者をそなたに添わせよう”と。」

老姆姆が華安にたずねても、華安はただ口を閉ざしたままである。夫人は心中楽しからぬ思いがして、華安に言った。

「華安、そなた、その大きな”まなこ”をもちながら、わたくしの丫鬟達のなかに、意にかなうものがいないというのですか?」

華安は答えて

「奥様に申し上げます。華安、奥様のおはからいを賜り、また華安に自由に選び取ることをお許しくださり、このご厚恩、身を粉にしても報いがたく思います。ただ、ここにおられるのは、夫人のおそば近くお仕えの方々、すべてが御揃いでしょうか?すでに恩典を賜りました上は、懼(おそ)れながらすべての方々を拝見いたしとう存じます。」

夫人は笑って言うに

「そなたはあえてわたしが出し惜しみをしていると、そう疑っておるのだな?やれ、よろしい!部屋にはさらに四人の者がいる。一度に呼びだしてそなたに見せ、そなたの心願をかなえようではないか。」

もとより、その四人はそれぞれ専門の仕事を持つ、夫人側近の奥女中で、名を春媚,夏清,秋香,冬瑞、と言った。春媚は、夫人の装身具と化粧のお世話を受け持っていた。夏清は、香を焚くことと、湯茶を供する事。また秋香は折々の衣服の出し入れを担当し、冬瑞は酒食の用を仰せつかっている。

老姆姆が夫人の命を伝えるや、その四人の側仕えの侍女が現れた。四人は仕事のさなかに呼び出されたので、着替えるにはおよばず、普段の化粧と装束であらわれたが、その気品は並み居る丫鬟達を圧するものがあった。秋香は華安の念頭を去ることなき、あの日の青い衣のままである。

老姆姆は四人を中堂に引き出すと、夫人のすぐそばの背後に立たせたのである。無数の燭台の明かりで、中堂の中は真昼のような明るさである。華安は既に四人の中に、秋香を認めていた。以前、垣間見た通りの優美な姿態が、いま宛然として目の前にあるのである。春媚,夏清,冬瑞の三人も、いずれ劣らぬ優れた器量であったが、ともかく華安の目と心は、ただただ秋香一人が占めていたのである。
華安、感慨のあまり、かえって口がひらかなくなってしまった。老姆姆はこの様子を目にし、意中の女が四人のうちの一人であることを見て取った。そこでまず華安に問いかけるに、

「おめがねにかなうのは、誰でしょうか?」

華安の心の中は秋香とはっきりと決まっていたが、あえてその名を口にせず、ただ秋香を指さし、

「もしこの青い衣をきたお嬢さんをいただけますなら、生涯添い遂げるに充分でございます。」

とだけ言ったのである。

夫人は秋香をかえりみると、ゆっくりとほほ笑んだ。秋香は軽く息を飲み、わずかに目を伏せたが、耳元に朱が上(のぼ)ったようである。三人の秋香の朋輩は慎み深く表情を崩さないが、横目でちらりと秋香をみやった。ただ二十人あまりのその他の丫鬟達は、思わず顔を見合わせるもの、羨望のまなざしを秋香に向けるもの、落胆と讃嘆の入り混じったかすかなため息が、さざ波のように中堂に広がった。夫人は丫鬟達のざわめくのを見て、華安に退出するように言ったのである。

華安は執務室の中をあるきまわり、一方では喜び、一方では懼(おそ)れた。その機会よろしきを得たことを喜んだものの、あまりにうまくゆき過ぎたようでもあり、かえって成就しないのではないか?と恐れたのである。図に当たって事が運んだ歓喜に我を忘れることもなく、完遂するまでは事を仕損じる懸念が頭を去らないあたり、真に智者と言うべきか。

たまたま真昼のような月明かりを目にして、ひとり歩き回りながら一首の詩を吟じた。

徙倚無聊夜臥遲
冤棉靜鳥棲枝
難將心事和人說
說與青天明月知

歩き回っても気は晴れず、夜遅く床につくよりない。
緑の楊(やなぎ)、風静まって、鳥は枝に棲まう。
まさにこの心の中を人に説明するのは難しい。
ただ青天の名月に語りかけて知ってもらおう。

次の日、夫人が学士に昨日の事を話した。別にひとつのこざっぱりとした部屋を整理し、寝台や帳(とばり)、家具の類をたくさん運び込み、そろわないもののないようにした。

(訳者注)部屋、といっても、屋敷の敷地内の独立した建物であろう。

また家の使用人たちを残らず集め、華安を新しい主管として承認させるや、華安は彼等を東にかつがせ西に送るといった指図ぶりである。一室にあって大勢の使用人を随意に使いこなす事、もう何十年もこの屋敷で主管を勤めていたかのような働きぶりである。

また吉日が選ばれ、華学士と夫人の仲人をもって、華安と秋香の婚礼が行われた。

華安と秋香は中堂にてともに拝礼し、楽(がく)の音に送られて新しい部屋に入った。そしてともどもに固めの杯を交わして、婚姻の成就を悦び合った事については、ここでくだくだしく述べるまでもない。

夜半、秋香が華安に言うに

「あなたさまとは、まるで以前からのお知り合いのように親しく思えますの。いったいもとはどちらからおいでになったのですか?」

華安は

「お嬢さんが自分であててごらん」

と答えただけだった。
また幾日か過ぎると、秋香がふと華安に訊ねるに

「いつか、蘇州の閶門の遊び船の中でお見かけしましたのが、ひょっとしてあなたさまでしたかしら?」

華安は笑って

「実はそうなのさ。」

「もしそうであれば、あなたさまは下賤の輩などではありません。どうしてこのように身をおとしめてここに来られたのですか?」

「私はお嬢さんがすれ違う船の上でひとたびほほ笑むのを見て、その時わが心に浮かんだ情を忘れることが出来ず、いろいろ手を尽くしてこのようになったのです。」

「私はかつて、若い人たちがあなたさまを取り囲み、無地の扇面を出して画を求めているところを目にしました。あなたさまときたら一向にかえりみず、窓に寄りかかってお酒をのんでいましたわ。まさに傍若無人なそのお姿に、私は非凡な気品をみいだしまして、それでおもわず”一笑(わらって)”しまっただけなんですの。」

「ふむ、女先生は、よくぞ俗流の中に名士を見出しましたな。それこそ”紅拂刔”でとも言うべきか!」

(訳者注)”紅拂刔”は”紅拂”紅い払子に、”刔”古代の名琴の事であるが、紅拂は南北朝時代の女性。流浪の後に楊素の歌妓となり、後に李靖を見出して添った。俗人の中から名士を見出す、という故事成語。

秋香がまた言う「その次の日に、無錫南門の街で、また似た方をおみかけしたようですけれど?」

華安笑って

「まったく良い目をしているね。しかりしかり。」

「あなたさまはこちらの主管におなりになり、もう下々(しもじも)の者ではありません。実のところ、どのようなお方ですの?本当のお名前を教えてくださいませ。」

華安がいうに

「我こそは何を隠そう、すなわち蘇州の唐解元なり。そなたと三世の縁あって、ともに相(あ)い和(わ)して暮らしたいと思ったが、今夜すでに打ち明けてしまったからには、長くここにはとどまれまい。”夫婦共白髪”の策を按ずるに、そなたはわたしに従い、一緒にここを去ってくれるかな?」

すると秋香

「解元様がわたくしのような卑しい女のため、千金のお体を屈(かが)めて辱(はずかし)めるのすら惜しまなかったというのに、どうしてわたくしごとき、あなたさまと一緒にまいらないということがありましょうや。」


華安こと唐解元は、次の日、屋敷の出納帳をこまごまと冊子にまとめた。また部屋の中の衣服や首飾り、ベッドや什器にいたるまで別に一冊の目録に書き付けて整理した。またさまざまなひとからの贈り物を漏らさず帳簿にかきつけ、さらに一冊とした。うけとったものは、毛一筋も持ち去らずに返そうというのである。
そしてその三冊の冊子を一緒に、厳重な書類入れの箱にしまって鍵をかけ、その鍵を錠前にかけておいた。

また壁に一首の詩を書きつけた。

擬向華陽洞裏遊
行蹤端為可人留
願隨紅拂同高蹈
敢向朱家惜下流
好事已成誰索笑
屈身今去尚含羞
主人若問真名姓
只在康宣兩字頭

”華陽洞”の中で遊び暮らす仙人の真似事と洒落てみようか。
その足跡は、まさに人の気をひくものだろう。
願わくば紅拂の故事に倣って、共に高みに上(のぼ)りたいもの。
あえて朱家が(侠客をかくまったように、華学士が拾った)下々の者を惜しむことにはなりますまい。
良き事、すでに成就したからには、誰がこれを笑えよう。
目的のために卑屈に身を屈(かが)めたこと、今去るものの、なお羞(はず)かしい思いもある。
主人がもし本当の名を問うたならば、
ただ”康宣”の二字がその頭(あたま)にあると。


そして一隻の小舟を雇うと、河下(かわしも)に碇泊させておいた。黄昏(たそがれ)過ぎて人が寝静まると、部屋を戸締りし、秋香をつれて船にのり、夜をついで蘇州に下り去ったのである。


(続く)
 
落款印01

唐解元一笑姻縁(二/四)

唐解元、彼の多芸多彩な才能の中でも、画をもっとも得意とし、自負を持っていた。北宋に倣った山水、また細緻な工筆による美人画を能くしたが、簡単な筆致の写意も多く描いた。
ひねもす、心の中に浮かぶ喜怒哀楽の情感、意の及ぶところ、筆のおもむくままに、水墨あるいは丹青をもって、即興自在に紙面に描き出すのである。画を一枚描くごとに競って値が吊り上げられ、奪い合うように購(あがな)われたのであった。

「言誌詩」にある唐解元の絶句に、


不煉金丹不坐禪
不為商賈不耕田
閑來寫幅丹青賣
不使人間作業錢

金丹を煉らず座禅をせず
商売をせず耕作もしない。
閑があれば画を描いて売る
人を使わず銭を得る

まさにこのような生活であった。

ところで蘇州には六つの門があり、それぞれ葑門、盤門、胥門、閶門、婁門、齊門といった。六門の中でも閶門(しょうもん)付近がもっとも栄えており、交差する水路には舟が集まり、車の轍(わだち)が無数に錯綜するといったありさま。まさにこれ

翠袖三千樓上下
黃金百萬水東西
五更市販何曾絕
四遠方言總不齊

無数の美しい女が楼閣をにぎやかに上り下りし
船に積まれて東西を往来する黄金は、日に百万斤。
朝方五更の市場の賑わいは、まったく絶える事が無く
四方から聞こえてくる方言は、みなバラバラ。

といった様子。

ある歳の夏の終わりごろ、唐解元は蘇州閶門近く、城外の運河のほとりに留めた屋形船を借り、涼をとっていた。解元の姿を認めるや、多くの文士がその名を慕ってあつまって来ては挨拶を交わし、扇面を差し出しては彼の書画を求めるのであった。
唐解元、求められるままにさらりと水墨でもって画を書き、また幾首かの絶句を書いてやった。時が経つにつれ、評判を聞いてやってくるものがだんだんと多くなってきた。それぞれのもとめに応じていた唐解元、さすがにいささか、わずらわしさを覚え始めてきた。そしてちょっと一休みしようと、傍らの童子に命じ、大きな杯(さかずき)に酒を汲んで持ってこさせた。

唐解元は舟の窓辺に倚(よ)りかかり、ちびりちびりと飲んでいると、忽然と水路の向こうから、華やかな装飾が施(ほどこ)された、美しい屋形船が現れた。このような豪奢な船を、当時の江南では”畫舫(がぼう)”と言った。と見るうちに、畫舫はゆらゆらと揺れながら、解元達の乗っている舟の傍(かたわ)らを通り過ぎて行く。唐解元、その船にのった珠玉の如き美しい女たちに目を奪われた。
そのうちのひとり、青い衣を着、”みずら”に髪を結い分けた若い娘が目に留まる。その娘だけ、こちらに目を向けている。その眉は秀(ひい)で目元に艶を含み、柔和でしなやかな姿、畫舫の船端から頭をちょっと伸ばし、唐解元の方をじっとみつめたまま、袖でおおった口元から笑みがこぼれているのが見えた。

須臾(しゅゆ)のまにまに.......船は通り過ぎる。唐解元、心は駘蕩(たいとう)、魂は揺れに揺れるといったありさま。一瞬の邂逅(かいこう)とはいえ、書画を能くする唐解元、目にした光景を心に焼き付けるのは、天性ともいうべき業である。青い衣の少女、そのまつ毛の一筋にいたるまで、克明に脳裏に刻み込まれてしまっていた。

船頭に「今通り過ぎた舟はどこの船だ?」と尋ねると、船頭答えるに「あれは無錫の華学士の眷族の舟でしょう。」とのこと。学士あるいは大学士は、皇帝に近侍して文書を司る宮廷官僚である。京師ではなく地方にいるということは、この場合は退任後の尊称であろう。
解元はあの畫舫を追いかけたいと思ったが、今乗っている舟は船足の遅い宴会用の屋形舟である。急いで足の早い小舟を呼びよせようとしたが、あいにく近くに見当たらない。その心中、何かを大切なものを無くしたかのように、ひどい焦燥を覚えて仕方がない。ともかく童子を走らせ手近な船を探させた。すると蘇州城内から一隻の船があらわれ、船体を揺らしながらこちらに向かって来る。唐解元はその船に誰が乗っているのかもおかまいなしに、さかんに手を振り、しきりと呼び立てた。

その船がだんだんと近づいてくると、船の中から船頭が出てきて、声をあげる。

「伯虎さん、あなたはどこに行きなさる?今は急いでいるんだがね」

解元がちょっと船の乗客を見てみると、これはほかならん、仲の良い王雅宜なのであった。解元が言うに

「ちょっと遠方から来た友人のところへ、急にあいさつにいかないといけないのですよ。それで急いでいたんです。あなたの舟はどこへゆくんです?」

雅宜が応じて

「いやなに、わたくしの二人の親戚が無錫の茅山に行き、お寺にお線香をあげたい、ということなんですよ。数日で戻ります。」

渡りに船とはこのことである。
解元そこで調子を合わせ

「私も茅山に行って、お香をあげてこなくちゃならないんですよ。ところがちょうど、一緒に行ってくれる人がいなかったのです。そういう事なら、便乗させてもらえませんか。」

と言えば、もとより王雅宜、唐解元が同道してくれるなら旅も一層面白いと考え

「あなたも行く必要があるなら、すぐに家に帰って準備して来てください。私はここに舟をとめて待っていますから。」

と雅宜。これに解元、

「決して、置いていかないでください!またどうして家に帰らないといけないのです?」

「それは、あなたも茅山のお寺にお参りするというのなら、お香とか蝋燭とか、”お供え”の準備が必要じゃないですか。」

しかし解元、目的は別にあったから、すぐに答えて「そんなもの、行ったそこで買えば済むことですよ!」と言って童子をせきたて、自身が蘇州を離れる事を知らせに家に帰らせた。また詩や畫をもとめて集まった友人達に別れも言わぬまま、王雅宜の雇い船に軽々と飛び移るや、船中の王雅宜等と礼をかわし、「早く舟を出せ」と、船頭を連呼して急がせたのである。

船頭は、これが城内で常々舟遊びを催してくれる、船頭連にとっては気前のいい上客である唐解元だと知っていたから、あえてぐずぐずするようなことはなかった。急いで竿を逆さに持ち替え、力いっぱい岸壁を一突き、岸から船を離すや、櫓を揺らして漕ぎ始めたのである。くだんの畫舫も急ぐ船ではないようで、ほどなく行くと、前方にその船影がみえてきた。
解元は船頭に言い、前の大きな畫舫について行くように指図した。みなそのわけを知らないが、畫舫も無錫の船である。ついて行っても無錫に至るだろうと、解元のするにまかせたのである。
蘇州から無錫までは、船で一両日である。江南の運河を往来する船はたいてい客室があつらえてあり、宿泊しながら旅をすることが出来た。
あくる日、無錫に着くや、前方の畫舫はゆったりと船体を揺らしながら、水門をくぐって無錫城内に入るのが見えた。

ここで解元が言うには

「無錫に着いたからには、かの”恵山の泉”の水を取らずに帰るというのは、日ごろの風流にももとる、なんとも残念なことではないですか。」

恵山は無錫城の西に面した低い山で、恵山の泉はかの陸羽が「天下第二泉」と賞した泉である。これを汲みに行き、後日茶の湯に供しようというわけだ。大きな甕に一杯ほどの水を運ぶのであれば、船で行く方が便利である。
船頭には無錫城内から恵山へ行って水を取らせ、またここに戻って停泊し、明日の朝出発、という事に決まった。そして恵山へゆきたいものは船と共に行き、城内を見物したいものは途中で船を降りることとなった。
船が城門をくぐって無錫城内に入ると、

「さあ、城内につきましたぜ。城内を見物するならここからは歩きがいい。船を降りてください。」

船頭はそう言って、他の者と泉の水を取りに去っていった。恵山までは水路伝いに行けるのである。
解元と王雅宜等三四人は岸に上がり、無錫城内に入って行った。そしてひときわにぎやかな場所、人の群れをばら撒(ま)いたような雑踏に入るや、唐解元はわざとひとりはぐれた。そして街の様子に目もくれず、かの畫舫を探しもとめるのだが、無錫城内の道には詳しくないため、どこへいったか見当がつかない。東へ行き、西へ歩いたが、城内縦横の運河には、いささかの影もみいだせなかった。

とおりいっぺん歩き回り、一条の大通りに出るや、たちまち掛け声が耳に飛び込んできた。唐解元が伸びあがって見てみると、十人ほどの人足が一乗の屋根つきの輿(こし)車(ぐるま)をひいていおり、東の方から進んでくる。輿車の後ろには大勢の女たちがつき従い、女たちの丸く結った艶やかな黒髪が並ぶ様子は、さながら黒い雲が群がり続くよう。
唐解元ひとりごつに
「縁あって、千里の彼方でふたたび巡り会った。」

付き従う女達の中に、蘇州閶門で目にした青い衣の女がいたからである。唐解元は心の中で大いに歓喜し、少し離れながら行列の後についてゆくと、すぐに一座の大きな門楼の下についた。中から女の召使いが出迎え、一同は門の中に入っていった。
解元、近くにいた人に尋ねると、これまさに華学士の官邸である。輿車の中の人物は、すなわち華学士の夫人である。解元はこのことを確かめると、路を聞いて城内を出たのである。

船の場所に戻ると、船頭は泉水を取り終わって戻ってきたばかりであった。暫くすると、王雅宜等も戻ってきた。
王雅宜が言うに

「解元、いったいどこへいっていたんだ?我々をこんなに探し回らせて。」

「知らないうちに離れ離れになってしまったようですね。その上、道がわからなかったので、半日ほど道を訪ね歩いてようやくここに戻ってきたのです。」

そこで解元がどこで何をしていたかについては、それ以上の詮議立てはされなかった。一同、食事を済ませると、停泊した船の中で眠りについたのである。
ところが夜半に至り、突然、解元は寝ながら狂ったように叫びはじめた。傍目にはその様子はさながら魔物が憑りついたようである。同行の皆は驚き、解元をゆり起こして目を覚まさせ、どんな夢を見たのかと聞いたのである。
解元が言うに

「夢で、金の鎧をまとったひとりの神人をみたのです。金の杵をもって私を撃ち、私が香をあげるのは不敬であると責めるのです。私は地に頭を叩きつけて哀れみを来い、願わくばひと月のあいだ斎戒し、ひとりで山に行って謝罪する、といったのです。世があけたら、皆さんは舟を出して行ってください。私はしばらく家に戻りますから、一緒にはいけません。」

唐解元、たしかに近頃遊びが過ぎていたようだ。その身が穢れていると、茅山の神の怒りでもに触れたのかもと、雅宜たちはこの夢の話を信じたのである。夜が明けると、ちょうど一艘の小舟が近くに来たものだから、蘇州に行ってくれと頼んだ。
解元は皆に分かれると、その小舟に飛び乗り、蘇州に向かわせた。しかしゆくことしばらくにして、忘れ物をしたかもしれないと船頭に言い、また舳を転じて無錫に戻らせたのである。ほどなく再び無錫城外に着くと、袖の中から幾文かの銭をさぐりだして漕ぎ手に渡すや、奮然として岸にあがった。そして一軒の旅籠をみつけて入ったのである。
旅籠でぼろ服と破れた帽子を求め、すぐにこれらに着替えると、いかにも窮迫した文士のようになった。華学士府の門前に来ると、いくばくかの銭を取次ぎに握らせてわけを話し、主管、つまりは華学士府の執事長にひきあわせてもらったのである。

主管の前で姓名出身を問われると、いかにも卑屈に言葉を改めて言うに

「わたくしめは姓は康、名は宣、呉県のものです。筆をいささか得意とするため、小さな塾を開いて生活していました。しかし近頃妻を病で亡くしてしまい、その看病葬儀のために塾も無くしてしまいました。独り身で生活のすべもないので、ひとつ御大家(たいけ)様へ身を投げ出し、事務係りにでもやとってもらおうと思いました次第でございます。こちらのお屋敷ではお雇いいただけないでしょうか?もしお使いいただけましたなら、その御恩は忘れません。」

そして袖の中から小楷が書かれた数行の紙片を取り出すと、主管に見せたのである。
主管がその字を見ると、すこぶる端整に書かれた楷書の筆跡、賞翫に耐え得るものがあった。そこで

「今晩、ころ合いを見計らって旦那様におすすめしてみよう。明日あなたが来られたときに、結果についてお話できるだろう。」

その晩、主管は果たしてその筆跡を華学士に見せながら、訪ねてきた男の採用について相談したのである。”文の極官”を歴任した華学士だけに、端整ながらも科挙の答案のような謹直なだけの書風とは違った、志操の高さともいうべき、逸格の気風をみてとった。深く感心して言うに

「実によく書けておる。俗人の筆に似合わぬ品格があるではないか。明日呼び寄せて、私にあわせてくれ。」

翌朝、解元が再び来ると、主管は解元を引き出して学士に目通りさせたのである。解元、粗末な衣服を着ているものの、その挙措立ち居振る舞いに卑しからぬものを学士は感じた。そこで姓名と住まいを聞き、さらに

「書物は何を学ばれましたかな?」

と尋ねた。

「かつて童試を幾度か受験したものの、学問を進めることが出来ませんでしたが、経書はどうにか記憶しております。」

童試は”秀才”の前段階の試験である。経書は四書五経のうちの五経で、易経、詩経、書経、春秋、礼記の五書である。論語を含む四書の後に学習するため、経書に通じているということは、学問は中等の過程を過ぎている、というほどの意味になる。

華学士は五経のうち、何経に通じているかを聞いた。解元は”書経”にとくに精通していたが、童試どころか郷試を首席で通ったくらいであるから、実のところ五経のすべてを暗誦できるほどなのである。しかし華学士は”周易”については、注釈を施せるほど精通していると知っていたから、あえて「易経」と答えたまでである。
華学士は果たして大いに喜んで「私の書斎は、易経ならば書物に事欠かない。息子が写本したものなら差し上げてもいいから、一緒に読まれるといい。」と言った。そして

「して、”身価”はいかほどご所望ですかな?」

と解元に尋ねたのである。

”身価”というのは、臣従するにあたって、いわば自分の身を主(あるじ)に売る、その対価の事であり、古代では普通の雇用契約の一種である。いうなれば自分で契約する人身売買とでも言うべきか。これは給金とは別であり、いずれ給金を貯めて身分を買い戻すこともできるのである。

解元言うに

「”身価”はあえて求めません。ただ少しばかりの衣服を支給してください。そしてお仕えしたのち旦那様のご意向にかないましたなら、一部屋を賜りまして、伴侶に良きご婦人をお世話していただければ十分でございます。」

学士はこれを聞いて更に喜んだ。主管を呼び、執務室にある幾揃いかの従者の衣服を与え、これに着替えさせた。また名を華安と改めさせた。華氏を安んぜよ、という意味であるから、おめがねのかないようが知れようというところである。そして書館に送り、自身の息子、すなわち公子に引き合わせた。

公子は一緒に華安に書物の写し書きをさせた。秘書の日課として、写本を作るのである。また公子が写本をするのは、科挙の勉強の為でもある。
活版印刷が盛んな明代にあっても、版を起こすのは多大な費用を必要としていた。ゆえに小部数の学術的な書物や私的な書き物をまとめた本などは、筆写されたのである。華学士は周易が専門であるから、周易関連の論考を多く収蔵している。亡失を防ぐため、またときに頒布のため、常々写しが作られるのである。その場合、書き写す者も周易、あるいは易経に通じていれば、写し間違いの心配も減るというわけである。ゆえに華学士は、華安が易経を学んだと聞いて喜び、まず公子のもとで使うことにしたのであった。
しかし本を書き写しながら、”唐解元”の学識でもって見たところ、原本の文章校正は必ずしも充分ではないこともあった。文中に妥当ではない字句があると、華安は自分でそれを適切に改めたのである。
公子は華安がうまく校正するところをみると大変驚いて

「あなたは生まれつき文の理(ことわり)に通じているのですか?いつ、そのような書物を学ばれましたか?」

と言うと、解元こと華安は

「私の学問なんぞは、もとより浅く狭いものです。ただ貧しかったので本は買えず、耳で聞いて覚えるのみでした。」

公子は大いに喜んで、自分の科挙の勉強のための宿題を、彼に添削してもらったのである。華安は休まず筆を振ったが、まさにこれ、”わずかな鉄をもって金に換える”という有様。問題の意味が難解な時などがあれば、華安は公子に解説してやった。まだ若い公子がうまく答案の論述を書けないでいると、華安が数編代筆してやったことさえあった。

公子を教えている師範は、公子の答案が良く書けているので、彼の学問が大いに進んだと思い込んだ。そして華学士に向かってその答案を見せながら「どうです。公子のご勉学もずいぶん進みましたでしょう。」と言い、自らの指導の宜(よろ)しきを誇ったのである。
華学士はその答案をしげしげを眺めると、頭を振りながら言った。

「先生、この文章は、せがれなどのおよぶところではありません。もし何かの書き写しでないのなら、きっと誰かに代筆してもらったに違いありません。」

そこで公子を呼んで問い詰めるに、公子はあえてつつみ隠さず言うに、というのは華安の才能人柄を、常々高く買っていたからでもあるが

「それは華安が添削したものです」

と答えたのである。

学士は大いに驚いた。かの者の学問はそれほどのものかと。そして華安を召し出して問題を出し、面前で試験したのである。華安はさほど考えるでもなく、筆をとるやすらすらと答案を書き上げ、手で捧げ持って学士に提出した。
学士は初めて親しく華安が文章を書くのを見たが、その手や腕は磨かれた玉石のように白く、また左手の指が一本多かった。

(訳者注)ここで”おや?”と思われる方もおられるかもしれないが、この説話の中では唐寅の左手に指が一本多い事になっている。ご存知の通り、祝枝山こと祝允明にはその六本目の指、”枝指”があったそうで、ゆえに”枝山”と号したのであるが、唐寅がそうであったという話はない。しかしこれが伏線になっているので、このまま訳出しておくことにする。

そしてその文を読んで見ると、詞(ことば)は意義と美しさを兼ね備え、文字はまた端整精緻な細楷で書かれており、これは逸材を手に入れたわいと、ますます喜んだのである。

華学士、嘆じて曰く

「そなたの八股文がこれほどのものであるのなら、以前にそなたが書いた文章も読んでみたいものだ。」

そしてそれからは自分の書斎にいれて、秘書としてつかったのである。

学士の寵愛と信頼は日に日に深まり、加増される俸禄は他の者より一層手厚かった。しかし華安こと唐解元、世の人の羨望、嫉視の怖さは骨身に染みていた。主人から目をかけられるほどに一層謹直に仕え、また朋輩との関係にも気を配った。もとより、下される給金などが目当てではないのである。時には酒や食べ物を買って、書斎の同僚たちと共に楽しんだから、喜ばないものとていなかった。そのようなときの華安は垢抜けて面白く、朋輩や童子達を飽きさせない。自然と、彼を悪く言う者は現れなかった。
そして折々に、かの青い服の少女を慎重に探ると、その名を秋香といい、婦人のそば近くに仕え侍り、片時もそばを離れない者であることが分かった。奥向きには男はうかつに入ることが出来ない。そういうわけでさすがの”解元”もなすすべもなく、巡り来る春の暮におもわず「黄鶯児賦」をもって歎ずるに

風雨送春歸、杜鵑愁、花亂飛、青苔滿院朱門閉。
孤燈半垂、孤衾半蒔、蕭蕭孤影汪汪淚。
憶歸期、相思未了、春夢繞天涯。

風雨は春の終わりをつげる。ホトトギスが啼き、花は乱れ飛び、青い苔は院に満ちるほど時が経ったのに、赤い門はひっそりと閉ざされたまま。
ひとすじの灯が半身を照らす。独り寝のしとねで寝返りを打つ、寂しく孤独な影がとめどなく涙を流す。あなたがいつもどるのかという約束は確かに憶えているというのに、互いの想いは果たされることなく、春の夢は天の涯(はて)をむなしくめぐり続ける。

という有様。

華学士はあるとき華安の部屋で、壁に掛けられたこの「黄鶯児賦」を目にした。華安の落款もある。よくできた閨愁賦であると、たいそう賞賛したものだった。しかし壮年の寡(やもめ)暮らしの手すさび、としたまでで、自身も決して鈍い人物ではなかったが、孤閨の嘆きに仮託した唐解元の想いには、つい気がつかなかったのである。

たまたま執務室の主管が病で亡くなり、学士は華安にしばらく主管の執務を代行させた。ひと月あまりが経ったが、お金の出し入れは慎んで無駄がなく、むろん豪も華安が横領するようなことはなかった。学士はついに華安を主管に据えたいと思ったが、まだ独り身で自分の部屋を持たないことを考えると、体裁の上でも、そのままでは大役を任せ難く思えた。自室を与えるのはわけないが、問題は嫁である。そこで夫人に相談し、媒酌人を呼んで妻を娶らせることにしたのである。

華安はここぞとばかりに銀三両を媒酌人の老婆に与え、懇懇と自らの意志を説いた。そのうえで老婆を通じて夫人に訴えるに

「わたしく華安めは、もったいなくもご主人様と奥様に拾っていただき、お部屋においていただき、その御恩の高きこと天地と同じでございます。ただお屋敷の外の名もなき家の娘をいただいても、おそらくはお屋敷の決まり事に疎(うと)いことが憚(はばか)られます。この華安の願いは、恐れ多きことながら、奥様のおそば近くお使いになっておられる方々のうち、おひとりを選ばせていただくことでございます!」

果たして華安こと、唐解元の願いはかなうことやら。

(続く)

落款印01

唐解元一笑姻縁(一/四)

明の後期、馮夢龍の「警世通言」の二十六巻に、「唐解元一笑姻緣」という、ちょっと面白い説話が収録されている。長いので何回かに分けて紹介しようと思う。
 



「唐解元一笑姻緣」(その一)


三通鼓角四更雞
日色高升月色低
時序秋冬又春夏
舟車南北復東西
鏡中次第人顏老
世上參差事不齊
若向其間尋穩便
一壺濁酒一餐齏

 

三度、鼓(つつみ)の連打と角笛が交互に響けば、はや四更のトキをつげる鶏の声。
朝日が高く上れば、月は低く沈む。
季節は秋冬、また春夏と順に巡る。
舟や車は南北に走り、また東西をかける。
(かように時は移ろい、世の中はただ動いていくうちに)鏡に映じる顔は次第に老けゆくもの。
世の中は良いことも悪いこともいろいろあるし、物事は平等ってわけにはいかない。
もし、そんな世間で穏便に行こうとおもったら、
(出世なんて料簡はもたずに)一壺の濁り酒と、粗末な漬物でもって世を送るしかないさ。

 

この八句の詩は、呉郡にその名を知られた、姓は唐(とう)、名は寅(いん)、字(あざな)を伯虎というひとりの才子の作である。肉屋の倅(せがれ)に生まれたが、近所でも評判になるほど利発であり、近くの私塾で学ぶことが出来た。家もほどほど裕福であったため、蘇州の人士から文芸のてほどきも存分にうけたのである。天性聡明、手先も器用で、教えた事はたちまち覚えてしまう。若くして天地を包むかというほどに博学、書画音曲に至るまで、文芸百般通暁せざる無し、というほどになった。詩賦の類などは、紙を延べて筆を一振りすればたちどころに成る、という有様であった。
文衡山と年少の頃から交わりを結び、かの祝枝山も、十歳年下の唐寅に自ら交際を求めたほど。性は奔放不羈、世を軽んじ才を恃(たの)んでほしいままにふるまった。
気ままな放蕩暮らしをしていたが、二十代も半ばの弘治七年、父親を亡くした上に、ついで母親、妻、子供、それに妹までもが、それから一両年の間に次々とこの世を去ることになる。失意に沈む唐寅に、兄貴分の祝枝山は、心を入れ替えて科挙に挑めと叱咤する。そこで唐寅、大いに発奮して受験勉強を始めるのである。
 

そして科挙の初等試験、秀才の試験に挑む。このとき「曾效連珠體」という形式で「花月吟」を十首あまりつくったという。「連珠體」というのは、詩句のおのおのに、それおぞれ同じ辞句が用いられ、さながら珠を連ねたような体裁の詩賦の事である。唐寅の「花月吟」は、それぞれの句中に花あり月あり。特に、
 

如“長空影動花迎月,深院人歸月伴花”
長空、影動いて花は月を迎える 深々たる庭院、人帰れば月は花を伴う
 

あるいはまた
 

“雲破月窺花好處,夜深花睡月明中”
雲破れて月は花の好(よ)きところを窺い 夜深くして花は月明かりの中に睡むる
 

などは、当時、世の人の賞賛を浴びたものである。
 

蘇州本府の太守、曹鳳(そうほう)はこの秀才受験の答案の詩を目にするや、唐寅の才能にすっかり惚れ込んでしまった。秀才は科挙の受験資格を得る、まずは入り口の試験である。

ところで各地方の科挙を統括する、”学政”という官職がある。これはその地方では大変な権威をもっており、”宗師”という尊称で呼ばれるほどの顕職である。時の呉郡の宗師は姓は方、名は誌という、浙江は鄞県の人であった。役職柄、当然の事として学識は深かったが、明代に入って一部の士大夫の間で盛んになった古文辞を、彼は好まなかった。古文辞とは、古典への回帰を志向する文芸風潮であり、当時江南士大夫を中心に盛り上がりを見せていた。方誌自身も成化二十二年の進士であったが、科挙の必須の素養である四六駢儷、いわゆる駢文(べんぶん)による形式的な美文こそが正統という、いかにも”学政”という役職に向いた考え方ではあった。ゆえに古文辞の素養が横溢する、唐寅の詩風にも、さほどの感銘は受けなかったのである。また唐寅が自らの才を恃んで豪放にふるまい、小さな節義にこだわらない人物であると聞いて、この性格を嫌った。また何日にもわたって行われる試験期間中にも、友人を呼んで妓楼に通うという始末。こんな奴を合格させるわけにはいかないと、秀才試験に不合格にしてしまったのである。
 

しかし蘇州太守の曹鳳は、何より唐寅の才能を惜しんだ。苦心のすえ再三にわたって方誌に請求し、なんとか郷試受験の推薦枠「遺才」、つまりは補欠のような枠の末席に滑り込ませることが出来たのである。

はたせるかな唐寅、弘治十一年、明朝の応天府(副首都)南京での郷試に首席で合格する。郷試の首席、いわゆる解元に中(あた)ったのである。そして翌十二年、いよいよ唐伯虎は最終試験である会試をうけるため、京師北京にのぼったのである。ちなみにこの年、祝枝山こと祝允明も会試に応じるため京師にのぼっている。彼の文名はいや増し、都の貴顕はこぞってへりくだり交際を求め、名のある人士は伯虎と面識を結ぶことを名誉ともてはやしたのであった。

全国から俊英があつまる会試が開かれる京師において、唐寅がなぜ特にもてはやされたかといえば、かねてから聞こえた文名もひとつにはある。また応天府南京の郷試を首席で通った、というのもいまひとつの理由であろう。地方試験である郷試は、地方の学術教育水準によって、やはり格差が存在したのである。明朝初期の首都でもあった南京といえば、周囲に蘇州、湖州、揚州、徽州など、富強で教育水準の高い地域が集中していたため、より一層、狭き門となっていた。応天府の郷試はなかなか合格しないため、他郷に籍を移すものもいたくらいである。その南京で解元、という事であれば、会試においてもあるいは首席、ないしは相当良い順位で合格しようかという期待がもたれるのである。
 

会試に挑んだ唐寅、答案には会心の手ごたえがあった。
 

この唐伯虎、当時としては中年と言われてもいい年頃であるが、精神は十代の頃から変わっていない部分がある。家の稼業が肉屋という事もあり、裕福ではあったが庶民の出である。階級社会特有の暗い”湿気”にもともと縁遠いのである。また、才に任せた若さのなせる業であるが、いわゆる”人の世に棲まうことの怖さ”というものに、いささか疎かったのである。
なにしろ蘇州では赫々たる名士である、十歳年上の祝允明や、同世代の文徴明などと、年少の頃からの付き合いである。取り巻く友人も大小の才子ばかりである。また才を誇るといっても、やはり祝枝山、文衡山を前にしては詩文筆書のある部分においては、一歩譲るところもあるかもしれない、という自覚があった。なので自身は充分謙虚なつもりなのである。しかも祝枝山にしても文衡山にしても、唐寅に嫉妬するような料簡はカケラほども持ち合わせてないし、必要もないことであった。唐寅にしてみれば、いくら才に任せて欲しいままに振る舞ったとしても、祝枝山などは年長者ながらその上を行く奔放な気性である。三人肩を並べて歩けば、蘇州の数多の人士もまったく眼中に無い、というのがこれまでの半生であった。
 

蘇州も江南屈指の大都会とはいえ、明朝にあっては商工業と文化の中心地である。学問教育も盛んである。封建の世とはいえ、幾分は開けた考え方が、そこにはあった。しかし門閥が跋扈する北京においては、宮廷から滲み出て市井にまで及ぶある種の陰湿さ、というものがふんだんに世間に浸み込んでいるのである。
ともかく才能のある若者と言うのは、世の人の嫉妬の恐ろしさがわからない。生まれてこの方、人を妬む必要がなかったからである。また実力で出世を勝ち取れるほどの人物というのは、陰湿な企みを見抜けないことが多い。人を陥れる必要などないからである。他人を故意に陥れるようなことなど、夢にも思わない人物というのは、自分がそのような目に合う事もまた、夢にも思っていないものなのだ。

かくして知勇を備えた一級の人物が、意外とつまらない人物の奸計、ないしは衆人の嫉視にからめとられて転落する、という事が青史の上ではしばしばおこることになる。実力のない人物というのは、実力が無いからこそ、保身術と策謀を一筋に磨きぬいているものなのである。
唐伯虎、”いい年”ではあったが、その種の悪意に対してはまだまだ初心(うぶ)過ぎた。
 

都の会試の総責任者、いわゆる”典試”を務める程蕁△箸い人物がいた。彼はあろうことか「売題」といって、会試の試験問題を私的な経路で幾人かに売っていたのである。会試というのは論述であるのだが、あらかじめ”お題”がわかっていれば、むろん対策は容易である。しかしあまりにも出来の良い答案や、似たような答案があると問題の漏洩が疑われることになる。程蕕浪芝鷲召領匹た擁を首席で合格させ、疑惑を払拭しようと考えた。そこで都でも評判が高く、南京の郷試も解元で通った唐寅を会試の首席合格者、すなわち会元に定めたのである。また受験生が合格すれば、典試と師弟の縁を結ぶ、というしきたりがあった。今を時めく唐寅から、”師匠”に対する礼を受けるのも、これは悪くない事に違いない。
 

伯虎はそんな事は露ぞしらない。口さがない京師にあっても、率直で開けた性格のままに、慎む、という事もしない。酒の席で人に向かって誇って「今年はきっと私が会元に決まりさ。」と、うそぶいていたのである。
この会試の結果というのは、発表前に、高級官僚達の間で噂程度に情報が流れるものであったらしい。むろんの事、もっとも関心を集めるのは、誰が会元か?という一点である。それが今年はどうやら唐寅らしい、というところまではよかった。南京の解元であれば会元に中(あた)っても不思議はない。
ところが間もなくどこからか、典試の程蕕試験の”お題”を漏洩させている、という噂が流れてきた。となると、唐寅が北京の妓楼で盛んに「俺が決まって会元さ。」と嘯(うそぶ)く言動にも疑惑の目が向けられることになる。

もてはやす一方で、いつおとしめてやろうか?というのが都人(みやこびと)である。唐伯虎の才能を恐れ嫉む向きも大きく働いて、衆人は「主司(典試)が不正を働いた」と、さかんに責めたてたのである。これがついに皇帝への諫言をつかさどる”言官”の知るところとなり、言官は急ぎ弾劾を奏上たてまつるにいたる。そして聖旨が下るや、ただちに程蕕浪鯒い気貪蟾、唐寅も連座して獄につながれたのである。

科挙の不正は重罪である。記録に定かではないが、程蕕六犧瓩暴茲気譴燭もしれない。まったく身に覚えのない唐寅であるが、こうなっては為す術(すべ)がない。当時の監獄は過酷である。通いなれた妓楼が極楽なら、まさに地獄である。鬼のような獄吏に脅され、生きた心地もしない。生まれてこの方、味わったことのないような屈辱である。
一緒に京師に上っていた祝枝山をはじめ、蘇州太守の曹鳳他、知友の者達が唐寅の弁護保釈に奔走した事は想像に難くない。翌十三年、ようやく浙江の某鎮の小吏に任じられる恰好で、釈放される。しかしこれは、事実上の流刑である。そして科挙への受験資格が無期限に停止され、官途は永久に閉ざされたのである。あとは恩赦を待って、名ばかりの小役人として片田舎に埋もれる日々である。
 

ところが唐寅、小吏に甘んじる事を潔しとはしなかった。赴任を断り、布衣(無位無官)の身になって郷里蘇州へ帰ったのである。そして功名の道が絶たれたとあって、ますます放浪詩酒に耽った。しかし郷党意識の強い蘇州の人士は唐寅の不遇に大いに同情し、連座させられた不正に憤った。そして唐寅を”唐解元”と呼んで、ますますもてはやしたものである。唐解元の詩文書画にいたっては、その片言隻句、一字の切れ端であっても、貴重な宝とされて奪い合いになった。
とはいえ唐解元、さすがに失望の念は隠しおおせるものではない。根が率直だから、がっかりするときは傍目にもそうとわかるように落胆に沈む。祝枝山も文衡山もかわるがわる訪れては慰めてはくれる。とくに唐解元に強いて科挙に挑めよと、激励したのは祝枝山なのである。祝枝山は、唐解元と一緒に応じた会試ではあえなく落第しているのだが、彼こそなればと、期待した弟分の身に起きた不幸については、わがことのように心を痛めた。

文衡山は父親の喪中の為、十二年の会試は応じていない。祝枝山にせよ、文衡山にせよ、その後も会試に応じ続けるのであるが、ことごとく落第するのである。文衡山にいたっては、都合十回、落第したところで諦めている。どうもこの呉中の才子達は、官途に縁がなかったとでも、言わざる得ないようなところがある。
加えて唐解元の場合は縄目の恥辱まで受け、官界への道が生涯にわたって絶たれてしまったのである。平生、権門貴顕をものともしないとはいえ、自身の立身功名を諦めきるにまだ若過ぎた。ましてその半ば、ほとんど手がかかっていたところである。またいっぱしの才子のつもりが、為す術もなく陥穽にはめられ、監獄で言いようのない侮り辱めを受けたことも、にわかには癒しがたい傷を与えたのである。その心中の屈託を酒や放蕩で紛らわしているうちに、後添えの妻ともだんだんと不仲になり、ついに離縁してしまうという始末。

 

(つづく)

落款印01

| 1/1PAGES |

calendar

S M T W T F S
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031     
<< December 2018 >>

selected entries

categories

archives

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM