読 蘇軾「范増論」


蘇軾に、范増を論じた「范増論」がある。以前に張良を論じた「留侯論」を紹介したが、この「范増論」も蘇軾の興味深い視点がうかがえる史論である。”蘇子曰く”と、書き出しに自己問答の体裁をとっている。文中の”義帝”は、范増が項羽の叔父の項梁に勧めて擁立した、楚の懐王の孫(一説に曾孫)の心(しん)であるが、当初は懐王を名乗らせた。秦で幽閉の後に死んだ懐王の再来としたのである。鴻門の会の後に項羽が論功行賞を行う際、その名義を立てるにあたって”義帝”に尊称を引き上げた。しかし蘇軾の文中ではすべて義帝で通している。

以下に大意を示したい。

(一)

漢用陳平計、間疏楚君臣、項羽疑範瘍亟鼠私、稍奪其權。畭臈樂、”天下事大定矣、君王自為之、願賜骸骨、歸卒伍。”未至彭城、疽發背、死。

漢は陳平(ちんぺい)の計を用い、楚の君臣(くんしん)を間疏(かんそ)す。項羽、范瓠覆呂鵑召Α砲魎繊覆ん)と私(わたくし)ありと疑い、稍(しばら)く其の権(けん)を奪う。瓠覆召Α紡隋覆お)いに怒りて曰く”天下の事は大いに定まるかな、君王(くんおう)自(みず)ら之(こ)を為(な)せ、願くば骸骨を賜わり、卒伍(そつご)に帰せん。”未だ彭城(ほうじょう)に至らずに、背に疽(そ)を発し、死す。

漢(の高祖)は(謀臣)陳平の計(略)を用い、楚の君臣の離間をはかった。項羽は范増が漢と内通していると疑い、しばらくその(軍における)権限を剥奪した。范増は(疑われたことを)非常に怒って言った「天下取りの計画はおおよそ定まりました。我が君はご自分でそれを実行してください。わたしくは骸骨を賜(たまわ)り(謀臣を引退して)、(彭城を守る)一兵卒(あるいは庶民)に落としていただきたい。」そして彭城にたどり着く前に、背中に壊疽を起こして死んだ。

(二)

蘇子曰:”畴卦遏∩奄磧I垉遏羽必殺瓠獨恨其不早爾。”然則當以何事去。痃葦殺沛公、羽不聽、終以此失天下、當於是去耶。曰、”否。畴畦濟沛公、人臣之分也。羽之不殺、猶有君人之度也。痙為以此去哉。『易』曰、‘知幾其神乎’『詩』曰、‘如彼雨雪、先集為霰。’畴卦遏≡脹羽殺卿子冠軍時也。”

蘇子(そし)曰く”瓩竜遒襦∩韻かな。去らざれば、羽は必ず瓩鮖Δ后獨り其の不早(はやからず)を恨むのみ爾。”然則(しからば)當(まさ)に何事を以て去らん。
瓩榔に沛公を殺すを勧める、羽は聽かず、終に此を以て天下を失う、當(まさ)に是に於いて去らん耶(や)。曰く”否。瓩塁鏝を殺すを欲するは、人臣の分なり。羽の殺さざるは、猶ほ君人の度(ど)有るなり。瓩麟為(なんすれぞ)以此去哉。『易』に曰く‘知幾其神乎’『詩』に曰く‘彼の雨雪(うせつ)の如く、先ず集りて霰を為す。’瓩竜遒襪蓮≡弔鳳の卿子冠軍を殺す時に於いてなり。”

(わたくし)蘇軾は言う「范増が去ったのは(范増自身にとって)良いことである。去らなければ必ず項羽は范増を殺したであろう。ただ(范増が項羽の下を去るのことが)遅かったことが残念である。」と。そうであるなら、では(范増は)どのような事があったときに、(項羽の下を)去るべきであったのか。
范増は(鴻門の会において)項羽に沛公(劉邦)を殺すことを勧めたが、項羽は聞き入れなかった。(劉邦を生かしておいたという)この出来事をもって最終的に天下を失うにいたるのであるから、まさにこの時(失望して項羽の下を)去るべきであったのだろうか?(わたくし蘇軾が心中おもうに)「否(いな)。范増が沛公を殺したがったのは、(このときは項羽に対する)臣下の本分をつくしたからである。項羽が(沛公=高祖を)殺さなかったのは、まだ君主としての度量があったのである。(君臣の本分がおのおの機能しているのであるから)范増はどうしてこのタイミングで去らなければならないのだろうか。」
易経にいう、”幾(き)を知るは其(そ)れ神や”(わずかな予兆を見て、その先の出来事を予見する)、あるいは詩経にいう「雨雪(うせつ)の如く、先ず集りて霰を為す。」(物事は、雨や雪のように、まずあつまってから拡散するのである。)
(本来)范増が去るべき(時)は、項羽が卿子冠軍(宋義)を殺した時なのであった。


 
(三)

陳涉之得民也、以項燕。項氏之興也、以立楚懷王孫心。而諸侯之叛之也、以弒義帝。且義帝之立、甍挧甜艪磧5祖詛径庫粥豈獨為楚之盛衰、亦畴圭裹估渦卻〔蕁Lね義帝亡而痼彷週彗玄毀蕁

陳涉は項燕を以て民を得る。項氏の興(おこ)るは、楚の懷王の孫の心を立たせるを以てなり。而(しこう)して諸侯の叛(そむ)くは、義帝を弑(ころす)を以てなり。且(か)つ義帝の立つは、瓩遼邸覆呂りごと)を主に為す。義帝の存亡、豈(あ)に獨り楚の盛衰(せいすい)を為さん、亦た瓩硫卻,鯑韻犬紊Δ垢襪箸海蹐覆蝓5祖襪遼瓦咾凸い煎瓩類廚蠻修久しく存(ぞんす)る者にあらざるなり。

(そもそも)陳涉(ちんしょう)が(楚の)民心を得たのは、(かつて秦軍に抗戦して敗死した、楚の名将)項燕(こうえん)を名乗ったからなのだ。項氏が(反秦勢力の筆頭に)勃興したのは、(范増のすすめを項梁が採用して)楚の懐王の孫にあたる心(しん)を(楚の懐王、のちに義帝として)擁立したからである。しかしながら諸侯が(項羽に)反逆したのは、(項梁が擁立した)義帝を弑逆したからなのである。
(そもそも)義帝を擁立したのは、范増がその計画の中心にあった。義帝の存亡は、ただ(項羽の)楚の盛衰を決定しただけではなく、また范増の禍福の行く末と同じ意味をもっていたのである。義帝が殺されたというのに、(義帝を擁立した)范増が、長いこと無事でいられる道理など、絶対にないのである。

(四)

羽之殺卿子冠軍也、是弒義帝之兆也。其弒義帝、則疑畴桂槎蕁豈必待陳平哉。物必先腐也、而後蟲生之。人必先疑也、而後讒入之。陳平雖智、安能間無疑之主哉。

羽の卿子冠軍を殺すや、是れ義帝を殺す兆(きざ)しなり。其の義帝を殺す、則ち瓩遼棔覆發函砲魑燭μ蕁豈(あ)に必しも陳平を待たんや哉。物は必ず先ず腐る也、而後に之に蟲を生ずる。人は必ず先まず疑い也、而後讒入之。陳平、智と雖(いえど)も、安んぞ能く無疑之主を間(さか)んかな。

項羽が(懐王が総大将に任命した宋義こと)卿子冠軍を殺したのは、これは義帝を弑逆する前兆であった。項羽が義帝を殺すのは、范増の本分が(義帝と項羽の)どちらに向いているかを疑ったからでもあった。どうして必ずしも陳平(の離間工作の実行を)待つ必要があったであろうか。物は必ず、まず腐ってから、しかるのちに蟲がわくのである。(同じように)人はかならずまず(その人物を)疑い、しかるのちに(その人物への他者の)讒言(ざんげん)を信じるのである。陳平が知恵者であるといっても、どうして(讒言を言わせて)信頼関係のかたい君臣(の間)をさくことができるであろうか(それ以前から、項羽が范増に多かれ少なかれ、疑惑を抱いていたのである)

(五)

吾嘗論義帝、天下之賢主也。獨遣沛公入關、而不遣項羽。識卿子冠軍於稠人之中、而擢為上將、不賢而能如是乎。羽既矯殺卿子冠軍、義帝必不能堪、非羽弒帝、則帝殺羽、不待智者而後知也。

吾(わ)れ嘗つて義帝を論じるに、天下の賢主(けんしゅ)なり。獨り沛公を遣り關に入らしめ、而して項羽を遣らず。卿子冠軍を稠人(ちゅうじん)の中に識り、擢(あ)げて上將と為す、賢ならざれば而能く如是乎。羽の既に矯(きょう)して卿子冠軍を殺すは、義帝は必ず堪うる能わず、羽の帝を弑(ころ)すに非(あら)ざれば、則ち帝は羽を殺す、智者を待たずして後に知らんや。

私はかつて義帝について評論してみるに、天下(に恥じないだけ)の賢明な君主といえると(考えた)。(なぜなら)ただ(穏健な)沛公のみに(秦の首都の咸陽のある)函谷関を越えさせ、(危険な)項羽を(その方面に)派遣しなかった(項羽を差し置いて、劉邦に功績を立てさせ、野心家の項羽を牽制しようとしたのである。)。卿子冠軍(こと宋義)を多くの人の中から(能力ありと)抜粋し、抗秦諸軍の総大将に任命した。これは賢明でなければどうしてなしえたことだろうか。項羽が矯激(きょうげき)に走って卿子冠軍を殺害し(軍権を奪っ)たのは、(宋義を総大将に任命した)義帝はかならず(内心)これに耐え難い思いをしたはずである。(もし後になって)項羽が義帝を殺さなければ、すなわち義帝が項羽を殺していたことくらいは、知恵者ではなくてもあたりまえにわかることである。

(六)

畛碗姐猯体義帝、諸侯以此服從。中道而弒之、非畴薫嫐蕁I恁園徃鸞彊奸將必力爭而不聽也。不用其言、而殺其所立、羽之疑疉自此始矣。

瓩六呂痃阿瓩胴猯造傍祖襪鯲たしめる、諸侯は此を以て服從す。道に中(あた)りて之を弑(ころ)す、瓩琉佞鉾鵑兇襪覆蝓I廚跛院覆◆砲摩廚蠡兇琉佞鉾鵑兇譴弌將に必ず力爭(りきそう)して聽(き)かず也。其の言(げん)を用いず、而して其の所立てるところを殺す、羽の瓩魑燭Δ鷲ず此(ここ)自(よ)り始まるかな矣。

范増は始めは項梁に勧めて義帝(当時懐王)を擁立させたが、諸侯はこの行いを見て(項梁個人に野心はなく、秦に滅ぼされた楚や列国の再興を目指すのであるという大義を信じ、また抗秦の名将項燕と、楚国最後の王の懐王を思い出し、心をまず懐王として立てた項梁を盟主として)服従した。その(楚国再興の)途中で義帝を弑逆したのは、(この計画を発案した)范増の意思ではなかった(はずである)。(この重大事が)范増の考えでないとすれば、(范増は事前に)かならず項羽に強く諫めたうえで聞き入れられていないのである。(すなわち)范増の意見を用いず、范増が擁立した義帝を殺したのである。項羽の范増を疑いはじめるのは、かならずこの(卿子冠軍と義帝を殺した)ことから始まっているのである。

(七)

方羽殺卿子冠軍、瘍弍比肩而事義帝、君臣之分未定也。為畄彈圈⇔惑暑榔則誅之、不能則去之、豈不毅然大丈夫也哉。畴七十、合則留、不合即去、不以此時明去就之分、而欲依羽以成功名、陋矣雖然、瓠高帝之所畏也。疉垉遏項羽不亡。亦人傑也哉

方(まさ)に羽の卿子冠軍を殺すや、瓩榔と比肩(ひけん)し義帝に事し、君臣(くんしん)の分は未(いま)だ定(さだ)まらざるなり。瓩侶彈圓飽戞覆え)て、力めて能く羽を誅(ちゅう)すれば則ち之を誅し、能(あた)わざれば則ち之を去る、豈(あ)に毅然たらざる大丈夫にあらざりしかな。瓩稜七十、合すれば則ち留(とど)まる、合せざれば即ち去る、此の時を以て明(めい)に去らずして之の分に就き、而して羽に依りて以って功名を成すを欲す、陋(おろか)かな。雖然(しかれども)、瓩痢高帝(こうてい)之を畏(おそれ)るところなり。甬遒蕕兇譴弌項羽はほろびず。亦(ま)た人傑(じんけつ)なるかな。

まさに項羽が卿子冠軍を殺したときは、范増は項羽と(同僚として)肩を並べて義帝に仕えていたのであり、(項羽と范増の間に)君主と臣下の関係はまだ定まっていなかったのである。范増は(義帝に対する忠誠の上からいえば、総大将を殺害した)項羽を誅殺しうるのであれば項羽を誅殺し、それが出来ないのであれば(楚軍を)去る、それであってこそ毅然たる士大夫だったといえるのである。范増は歳も七十を越えたのであれば、(楚の王室を再興しようという志に)合致していればそこにとどまり、合致していなければ去る(べきところを)、この時にいさぎよく去らず、項羽によって自身の功名を成し遂げることを欲したというのは、おろかなことではないだろうか(名を惜しむべきであった。)しかしそうであるとはいっても、范増は漢の高祖が畏れはばかった人物であり、范増が項羽の下を立ち去らなければ、項羽も滅びることはないだろう(と高祖は考えたほどである)。また(范増も)傑物であるとはいえるのである。


 
(後記)

項羽の軍師として名高い范増であるが、歴史に登場したのは、項羽の叔父の項梁に楚の懐王の孫である(熊)心を楚王として擁立するべき、と説いたところに始まる。
項梁は楚における抗秦の最後の名将、項燕の末子であるといわれる。秦に最後まで抵抗したのが南方の大国、楚であった。楚の総大将の項燕は、李信に大勝するも、王翦率いる秦軍六十万の前に大敗する。なおも項燕は楚の王族の昌平君を立て、抵抗をつづけたが、王翦、蒙武に追撃され敗死している。項燕の生死の定かではないという民間伝承を陳涉が利用し、はじめ陳涉は項梁を偽称して民心を得たのである。
項燕の末子の項梁は、項燕と同じく楚の王族を立てて秦軍に向かうべき、というのが范増の計画であった。項燕を詐称した陳涉は、のちに王を自称したとしても所詮は私兵集団の域を出ず、国家としての体を為していない、ということでもあった。楚王を立てることで、人々に項燕の再来を想起させ、また項梁の個人的野心ではなく、亡国の再興という”大義”を旗印にしたのである。その言をいれて、項梁は心を楚の懐王として建てた。懐王は秦に幽閉の後に死去しているが、陳涉が項燕を名乗った如く、反秦勢力の旗頭として、秦を恨んで死んだ、懐王の再来を名乗らせたのである。
項梁存命時の范増の立ち位置は微妙である。項梁は最高実力者であるといっても、大義名分上としては義帝に従属する存在である。その義帝を立てよと勧めたのが范増であるとすれば、義帝から見れば范増は羊を放牧して世を送っていた自分を引き上げてくれた恩人でもある。項梁にそうするように勧めた范増は、立場上は項梁に次ぐ存在であったと言えるだろう。
当時はまだ懐王であった義帝にしてみれば、代々楚の将軍の家柄であった項氏の軍は、その実際の戦闘力の高さから見ても別格の、親衛隊のような存在であったであろう。宋義にとっても、最強の予備軍を手元に置いておくのは、別段不思議な事ではない。
寄せ集めのような劉邦の軍を咸陽に向かわせたのは、劉邦に手柄を立てさせるというよりも、仮に途中で劉邦軍が壊滅したとしても、項羽の一軍があれば十分に秦軍と渡り合えると踏んだからではないだろうか。それは後に項羽によって証明されている。
項羽は兵が雨に濡れ、飢えていたことを見かねて宋義を斬ったという。これは軍を停滞させていたから兵が飢えたのではなく、兵が飢えたから停滞した、という事も考えられる。
この時代の軍の行動は補給は現地調達に頼りきりで、停滞していると周辺に食料が無くなるので軍を移動した、というように書く人もいる。むろん、現地調達もある規模で実施したかもしれないが、根拠地からの組織的な補給無しには、さほど人口が稠密ではない当時の大陸で、大軍を移動させるのは不可能である。多くは水運に拠ったであろう。この時代の大規模な会戦は、河川の付近で行われている。事実、項羽ですら、鉅鹿の戦いではまず秦軍の補給線を断つ行動に出ているのである。
宋義は軍を停滞させているうちに食料、補給物資を集積して力を蓄え、諸軍の包囲と劉邦の後方遮断によって、飢えた秦軍を討とうとしたのだろう。手元には項羽率いる精鋭も控えている。たしかに負け難い作戦であり、項梁の敗死を予見した宋義は、やはり凡庸ではないのである。

しかしここで項羽、である。項羽にしてみれば、項梁の敗死を予言した、卿子冠軍こと宋義を総大将にすることには、愉快であったはずがない。親代わりに育ててくれた叔父の項梁、のみならず項氏の武勇を否定されたようなものである。武門の誇りにこだわりぬいた項羽にしてみれば、これには非常な屈辱を感じていたことだろう。このことが、当時はまだ懐王であった義帝への疑念の元となっていることも、想像に難くない。
そしてその宋義の立てた作戦によって、みすみす手柄を奪われることは、項羽の性格からいっても到底我慢できることではなかったに違いない。宋義を斬り、手勢を率いて鉅鹿に向かわせたのは、かならずしも劉邦への対抗意識ばかりではなかったであろう。この時点で戦に弱い劉邦などは、項羽の意識の端にも上らぬ存在なのである。
宋義を斬る、という事について、項羽は范増に相談したであろうか?もし相談していたのであれば、蘇軾の述べる通り、范増はきっと強く項羽をとめたであろう。この時点では、蘇軾の言う通り、范増は項羽に完全に従属する関係ではなかったのである。范増にしてみれば、懐王を盟主として楚国の再興を目指すのが当初の計画であり、秦軍と戦って勝利するのは、かならずしも項羽である必要はないのである。
しかしいわば親衛隊長である項羽が、総大将の宋義を斬り、手勢を率いて秦軍に猛進を始め、これを打ち破ってしまうのである。

蘇軾は「宋義が殺されるのは、義帝が殺される前兆であり、義帝が殺されるのであれば、范増も無事では済まない」趣旨を述べている。
范増は義帝が殺害された翌年、韓王成の殺害(前205年)を進言している。韓王成は張良が初め項梁に進言して擁立した、韓の王族である。その前年に義帝は英布によって殺害されているが、義帝の殺害については范増の進言とは明記されていない。項羽が義帝を疎んじた、とあるが、韓王成の殺害に范増がかかわっているのであれば、その前年の義帝の殺害の相談に、范増が預かっていないということはないだろう。義帝の殺害を英布にやらせたのも、范増が義帝殺害には、少なくとも前向きではなかった傍証ともとれる。義帝の死により、范増の当初の楚国再興のプランは完全に瓦解するのである。翌年、張良によって擁立されていた韓王成を殺害するように進言したのは、あるいは毒食らわば皿まで、というところなのだろうか。たしかに、項梁によって擁立された義帝が項羽の手で殺された以上、張良によってやはり項梁に擁立されていた韓王成が残り、それを劉邦が支援しているとなると、名分の上で項羽の陣営は不利である。とはいえ、韓王成の殺害は、張良を完全に劉邦陣営に走らせ、また諸侯の反感を高めただけであった。

後に范増は項羽の下を去る時「骸骨を賜りたい」と言い、彭城に向かったという。”骸骨を賜わる”、あるいは”骸骨を乞う”というのは、引退して故郷に帰り、先祖の墓に骨を埋めたい、という意味であり、廷臣が引退を願うときの言葉である。なぜ楚軍の根拠地である彭城に向かったか?であるが、敵方へ走る気配が見えれば、項羽はきっと范増を殺したであろう。しかしその途上で范増は落命している。

蘇軾は、范増自らが立案し、懐王を立てたプランに忠実であれば、項羽が卿子冠軍こと宋義を殺害し、楚の軍権を奪った時点で、反逆者として項羽の誅殺を図るべきであった、と述べている。そして誅殺が不可能であれば、この時去るべきであった、と言っている。それはいずれ項羽が懐王を害し、自立することが予測出来ていたはずであるからだ、という事である。
ここで蘇軾は、范増に懐王への絶対的な忠誠心は期待していない。あくまで自らが推した懐王に忠実であれ、という事であれば、宋義が項羽に殺されたのちも、項羽から懐王こと義帝を守り抜くべきである、という結論に至らなければならないからである。蘇軾はそうは言っていない。宋義が殺した項羽を誅殺出来ないのであれば、所詮は義帝を守ることもかなわないのであり、范増も義帝とともに項羽に殺されるのが見えている。そうまでして懐王に従うべき、とは論じておらず、あくまで懐王を立てて行く、という自らのプランが崩れた段階で、去るべきであったと言っているのである。

項梁にとっても懐王は所詮は大義名分をたてるための、いわば傀儡に過ぎないのであるが、その名分を守り抜く事が、この際は重要なのである。それは春秋戦国時代のあまたの名将名臣にしても、簒奪を計れば非常な汚名を歴史に残すことになる。懐王(心)を楚の王として、後に皇帝として、自らが擁立した存在を殺害するというのは、天下の信を失いかねない行為なのであり、現実に項羽はこれを行った事で滅びるのである。范増はそれを阻止するべきであったにも関わらず、かえって弑逆者の項羽に従い、自らの功名を為そうとした。これは当初の自らのプランの正当性を否定する行為であり、単に状況に応じて身の振り方を転々とする世間師と、節義において大きな違いはない。策士であっても、志や節操は大事であろう、というのが蘇軾の価値観なのであろう。それはそうである違いない。謀略のみに頼って信がなければ、やはり国家は成り立たないのである。この点、老齢まで人に仕えたことが無かったという范増と、韓の宰相の家に生まれた張良の、違いと言えるのかもしれない。
しかし、あらゆる史論がそうであるように、過去の人物や事跡を後世の価値観をもって批評、論断するのは安易な行為である。ゆえに蘇軾は范増を高祖を恐れさせた”人傑”と評価し、范増が項羽の下を去らなければ、項羽も滅びることがなかっただろう、というように結んでいる。しかしこの点にしても、果たしてそうであろうか。

戦国春秋時代に、秦が六国を次々に征服することが出来たのは、函谷関以西の関中平野の肥沃と要害を生かしたからであった。西から東に流れる大小河川を利用し、東方の前線へ容易に補給物資を送り届けることが出来た、この利点は計り知れない。北を渭水、南を漢水に挟まれ、西辺を秦と接していた韓の国の宰相の家系に生まれた張良などは、そのことを痛感していたであろう。張良の持久戦略は、咸陽を首都とし、関中平野を掌握した時点で急速に完成に向かうのである。
項羽は鴻門の会の後、秦の首都であった咸陽を略奪するや、故郷に近い彭城に帰還してしまっている。咸陽に遷都するべきと進言した者がいたが、聞きいれず、その者を煮殺してしまうありさまであった。この時范増は、咸陽に留まるべきと進言したのであろうか。
史記では、劉邦を蜀に追いやり、函谷関以西の秦の故地である関中を三分割し、楚に降伏した章邯、司馬欣、董翳、の三将に統治させた計画は、范増の案という事になっている。そうとすれば、范増には、この秦発祥の肥沃な盆地の地政学的な重要性をあまり認識していなかったということである。
鉅鹿の戦いで降伏した秦兵二十万は項羽によって皆殺しにされたといわれ、秦軍を率いていた章邯等三将は秦の人の恨みを買っていたという。章邯以下の関中統治がうまくゆくはずがなく、また投降したばかりの秦の旧将を信用し過ぎでもある。仮に関中が離反しても、大きな問題ではない、と考えていたのだろうか。この点、范増の戦略には疑問が残る。

(秦軍二十万は、項羽は英布を派遣して穴埋めにして皆殺しにしたというが、これは事実であろうか?投降した秦軍二十万は楚軍より圧倒的に数が多かったというが、近代兵器もない時代、圧倒的少数側が多数側、それも屈強な兵士達を、短期間に虐殺する方法があれば知りたいものである。秦兵達は従順に殺されていったのであろうか?項羽は攻略した城の軍民をしばしば皆殺しにしたというが、これも漢軍の諜報作戦の一部だったというのが実情ではないだろうか。)

ともあれ戦略という面では、関中を手に入れ、そこを根拠地に持久戦を採った、張良を筆頭とする劉邦のブレーンの方がはるかに上手であった。春秋戦国時代においても、秦以外の国々にも多くの謀臣名将が現れたが、結局は地の利を占めた秦の前に屈服せざるをえなかった。漢楚の勝敗の趨勢は、かつて秦が富国強兵につとめ、東方の列強を次々に滅ぼしてゆく、その再現であったともいえるのである。
范増が進言し手を下した韓王成の殺害も、項羽への諸侯の反感を助長しただけである。七十歳になるまで人に任えず、奇策を好んで世を送っていた范増は、張良や陳平に比べると、人事にやや疎いところがあったのではないだろうか。項羽の下に范増が留まり続けたところで、勝敗の帰趨を変えることが出来たとは、やはり考え難いと思われるのである。
落款印01

蘇軾 「題過所畫枯木竹石三首」

「題過所畫枯木竹石三首」..........この三連作の詩が書かれたのは、北宋は哲宗の時代、元符三年(1100年)といわれる。流刑先の海南島滞在時である。
この年の2月に哲宗は崩御し、徽宗が即位する。蘇軾は恩赦をうけて都へ上る途中、徐州で病み、翌年にこの世を去る。すなわちこの詩は蘇軾晩年の作である。
「題過所畫」とあり、”過”は蘇軾の流刑地の海南島に同行した、蘇軾の末の息子の蘇過(1072-1123年)。すなわちこの詩は、蘇過の画いた枯木と竹石の図に、蘇軾が題詩をつけた格好をとっており、蘇過の画に対する蘇軾の講評を含んでいる。
蘇過は、英州(広西)、恵州(広東)、そして海南と、蘇軾の長い流罪に同伴しており、当時としては生きて帰れないといわれた蛮地において生活を共にしている。その余慶であろう、蘇軾の薫陶をもっとも受け、詩文書画に長けたと言われる人物である。

以下にその大意を示す。

(一)

老可能為竹寫真
小坡今與石傳神
山僧自覺菩提長
心境都將付臥輪

老可(ろうか)能く竹を寫(うつし)て真(しん)を為す。
小坡(しょう)は今、石(いし)與(と)傳神(でんしん)す。
山僧(さんそう)は自から覺(おぼ)ゆ菩提(ぼだい)長(なが)しと
心境(しんきょう)都(すべて)將(ひきい)て臥輪(がりん)に付せり

(大意)

文同は、竹画がうまく、真に迫っていた。
この東坡の息子(蘇過)は、石を画いて、よく自分の精神をあわらわしている。
山寺の僧侶は、”菩提”にあることの長さを自らさとるものである。
いまの心の境地をすべてみな、(この石のように、何事にも動かされないという)臥輪禅師にゆだねてしまうのだ。

詩文中にある「老可」とは蘇軾の良き友人であった文同こと文与可。当代の竹画の名手であり、蘇軾も文同に竹画を習ったといわれる。文同はこの詩が書かれた時から、さかのぼること20年も昔に亡くなっている。また詩中の「小坡」は、蘇過。今、蘇過が竹石を画くのを見て、亡友に想いを寄せたのである。
また”臥輪”とあるのは、禅僧の臥輪禅師のことで、その「六祖壇經」におけるその偈に『臥輪有伎倆、能斷百思想。對境心不起、菩提日日長。』とあることを踏まえる。
臥輪禅師の経歴はあまりわかっていないが、「六祖壇經」が中国禅宗の第六祖・慧能(638-713年)の説法集であり、その臥輪の偈にたいして「慧能沒伎倆、不斷百思想。對境心數起、菩提作麼長」とかえしているから、慧能と同時代以前の人物なのだろう。
すなわち「臥輪は修行に熟練しているから、さまざまな想念を断つことが出来、環境の変化たいしても心がかわることがない。だから菩提(さとりに入っている時間が)が日に日に長くなっているのだ。」という偈にたしいて慧能は「慧能は修行が未熟であるから、さまざまな想いを断つことが出来ない。環境がかわると心もさまざまに変わってしまう。だから菩提が長くなってゆくのだ。」と反論している。
蘇過の画いた”石”を、動かない、動かされないものの象徴として、臥輪の偈に通じる、としたのである。半面、慧能の域ではない、ということも暗に示している。蘇軾が禅に深く心を寄せていたことがうかがえる内容である。

(二)

散木支离得自全
交柯蚴蟉欲相缠
不须更说能鸣雁
要以空中得尽年

散木(しんぼく)は支離(しり)として自(おのず)ら全(まった)きを得ん
交柯(こうか)蚴蟉(ゆうりゅう)として相(あ)い纏(まとわ)んと欲す
鳴雁(めいがん)を能くすとは、更(さら)に説(い)うべからず
以て要す、空中(くうちゅう)盡年(しんねん)に得んと

(大意)

用だたないような雑木は、まばらに生えているからこそ、自然と天壽をまっとうするのである。
交錯した木々の枝は、蛇や龍がのたうつようにうねりながら、たがいにからみあっている。
蘇過がここに”鳴雁”をもよく画くことが出来るとは、いうものではないね。
空中を飛翔する雁の姿をうまく画こうとおもえば、一生かかるのだから。

散木は、花も実もつけず、またまがりくねって伐採しても材木にもならないような雑木のことである。また湿気を多く含むから、薪としても優秀とはいえない。実際、南方の山中にはこの種の樹木が多いのである。蘇過がここに画いた”枯木”は、このように枝が多く曲がりくねったまま枯れた雑木なのだろう。それが”交柯”、”蚴蟉(ゆうりゅう)”という表現に現れている。
”支離”はまばらなこと。役に立たない木でも、利用価値のある土地に密生していれば、開拓されるなどして伐採されてしまうかもしれない。どうでもいいような場所にまばらにはえているからこそ、見逃されて天寿を全うし得るのである、ということである。つまりは朝廷(の政争の場)のような、重要な場所からから離れているから、このような役立たずたちでも生きながらえるものなのだという、蘇軾父子の姿への自嘲を画に読み取っているのである。
また”鳴雁(めいがん)”は、鳴いて飛んで行く雁である。蘇過はこの絵に雁を画き込んだのであろうか?画き込んだ雁の絵を見て「あまりうまくないが、鳴雁をうまくえがくには、一生かかるからね。」という意味にもとれるが、「本来はここに鳴雁がほしいけれど、蘇過は鳴雁はまだうまくかけないから、あえて画かないのだね。」ともとれる。
いずれにせよ”鳴雁”ないし”雁”に象徴されるのは、北方への回帰である。古来、南方に流刑に遭った士大夫達は、南から北へ飛び帰り去ってゆく雁の姿に、北の朝廷への帰任や、望郷の念を仮託したのである。
すなわち蘇過が”鳴雁”をうまくかけない、うまく画くには一生かかる、というのは、蘇軾親子は一生この海南島から戻ることが出来ないのではないか、という絶望感を暗示している。

(三)

澀勒(そうろく)を倦看(けんかん)すれば蠻村(ばんそん)暗し
亂棘(らんし)孤藤(ことう)瘴根(しょうこん)を束ぬ
惟だ長身(ちょうしん)六君子(りくくんし)有り
依依(いい)として猶(な)ほ淇園(きえん)のごとくを得ん

(大意)

南方の竹を座ってながめていると、文明の及ばないこの小さな村も暮れてきた。
とげが乱雑にはえた藤づるが、気根を束ねて熱帯の樹木にまきついている。
ここにはただ、まっすぐに生えた六本の竹があるばかりだ。
風のまにまにゆれながら、はるか北方の淇園をおもわせるようじゃないか。

”澀勒(そうろく)”は竹の一種であるが、現代のどんな竹を指すかは未詳である。しかし”澀”は渋い、の意。”勒”はくつわ、おとがい、の意である。清の屈大均「廣東新語・草語」には、『有竻竹,一名澀勒。勒,刺也。 廣 人以刺為勒,故又曰勒竹,長芒密距,枝皆五出如雞足,可蔽村砦』とある。広東人が馬の”くつわ”をさすのに使う事からこの名があるという。むろん、蘇軾の北宋当時の同じ竹の名とはかぎらないが、どことなく枝多い、細身の竹を想起させる。ともかく孟宗竹などと違った、南方特有の竹なのであろう。それは続く”蛮村”と、未開の小さな村、の語からうかがえる。
瘴根は、現代の広東省の街路樹にみられる、ガジュマルのような熱帯の樹木から無数にぶら下がった気根のこと。それがトゲの生えた藤(フジ)のようなツル性の植物に巻き付かれた様子は、今の深圳や珠海といった、広東省の都会でもよく目にする光景である。しかし蘇軾の北宋当時としては、ほとんどジャングルの中に住んでいるような描写である。
次の”長身六君子”であるが、”六君子”は、ならび称される君子の一群を指し、例はさまざまであるが、古くは”禹、湯、文、武、成王、周公”を指す。直接的には眼前の竹のことを指しているが、この”六君子”が指すところの竹は、一句目の”澀勒”の事ではなく、蘇過が画中に画いた竹のことであろう。蛮村の”澀勒”であれば、ほんの数本、ということはない。”惟有”と強調していることからも、それはうかがえる。むろん、ここでは未開の村の蘇軾と蘇過等を暗示しており、未開人(やや差別的であるが)であるところの”澀勒”に対して、文明の地から来たのは自分たち”六君子”しかいない、という意味である。
蘇軾の弟、蘇轍はこのとき海南とは海を挟んで対岸の、広東の循州に流刑に遭っていた。蘇轍は長身で知られていたから、この”六君子”は同じく蛮地にある蘇轍をもふくむのであろう。さらには蘇軾の長子、蘇邁もこのとき広東の恵州に流されているから、蘇軾・蘇轍・蘇邁に蘇過(ほかにも同時期に左遷されていた黄庭堅などもふくむかもしれないが)で、ほぼ”六君子”として差し支えないわけである。
(ちなみに次男の蘇迨だけは、蘇軾・蘇轍等とは派閥的に距離をおいていたせいか、流刑はまぬがれ、このとき江蘇の宜興にいた。後に蘇軾が赦された際にはは、広東の恵州まで出向き、これを迎えている。)
それら”六君子”が「依依」として、つまりはつかずはなれず風に揺れている様に画かれている、ということであろう。その竹の姿がはるか北方、河南省は淇県に古来から続く竹林園である”淇園”をおもわせる、というのである。当時北宋の都は河南省開封である。”つかず離れず”は、蘇軾父子や蘇轍、その家族等の姿であり、いつか開封近くの淇園を揃ってそぞろ歩いたころを懐旧している、とも読める。
翌年、赦されて開封へ向かう途中、徐州で病み、そのままこの世を去ることになる蘇軾である。当時としては老境の60歳を越え、海南島の滞在中にすでに健康を害していたことが、この時期のほかの詩文中からもうかがえる。
すなわち第三首でも、望郷の念や都に戻りたいという想いが、第二首よりいっそう、切切と詠まれているのである。
............蛇足であるが、先日の香港クリスティーズのオークションで落札された蘇軾?の「枯木怪石図」が、真作とは到底考えられないという事は、前に述べた。その理由を詳述するのは別の機会に譲りたいが、「枯木怪石図」という画題から想起される蘇軾の詩として、「題過所畫枯木竹石三首」をここに挙げてみた次第。
この詩の内容では蘇過が枯木や竹石を画いているのであるが、その画は伝わらない。むろん、蘇軾も竹石や怪石、枯木を画くこともあったであろうし、それはただ一度とは限らない。複数の蘇軾の竹石や怪石の画があったのであろう。しかしその画のうち一点が残っていて、かの「枯木怪石図」がそれであるというのは、これはまったく別問題なのである。
落款印01

読 蘇軾「留侯論」

蘇軾に、漢の功臣張良(子房)について論じた”留侯論”という文章がある。面白い文章なので、以下に大意を示そうと思う。こうした漢文の大意というのは注釈を別途施すものなのだろうが、いちいち参照するのもたぶん手間なので適宜カッコ付きで大意中に補ってみた。
 
(1)
古之所謂豪傑之士者、必有過人之節、人情有所不能忍者。
匹夫見辱、拔劍而起、挺身而鬥、此不足為勇也。
天下有大勇者、卒然臨之而不驚、無故加之而不怒、此其所挾持者甚大、而其誌甚遠也。

古(いにしえ)の所謂(いわゆる)豪傑の士は、必ず人に過ぐる節あり、人の情に忍ぶあたわざる所あり。
匹夫(ひっぷ)は辱(じょく)に見(まみ)えれば、劍(けん)を抜きて起ち、身を挺(てい)して鬥(たたか)う、此(こ)れ勇と為すにたらざる也(なり)。
天下に大勇あれば、卒然として之に臨んで驚かず、故(ゆ)え無く之を加えても怒(いか)らず、此れ其の挾持(きょうじ)する所(ところ)甚だ大といえども、其の志し甚だ遠(えん)也り。

昔のいわゆる豪傑の士というのもは、かならず人よりも節制の心がつよく、また普通の人であればとうてい我慢できないことでも、耐え忍ぶことができた。
つまらない人物は、いったん恥をかかされれば、剣を抜いて立ち上がり、命がけで(雪辱のために)戦うものであるが、これは勇気というには及ばないのである。
天下に真の勇気を持つものがあれば、とつぜん侮辱されることがあっても驚かず、理由もなしに恥をかかされても怒ることがない。これはその内に秘めたる(怒りの)感情がとても大きいとしても、その志すところが(怒りよりもいっそう心の)深遠にあるからである。
 
(2)

  夫子房受書於圯上之老人也、其事甚怪。然亦安知其非秦之世有隱君子者出而試之?觀其所以微見其意者、皆聖賢相與警戒之義。世人不察、以為鬼物、亦已過矣。且其意不在書。當韓之亡、秦之方盛也、以刀鋸鼎鑊待天下之士、其平居無罪夷滅者、不可勝數;雖有賁、育、無所複施。夫持法太急者、其鋒不可犯、而其末可乘。

夫(そ)れ子房(しぼう)の、圯上(いじょう)に書を受(さず)ける老人、其の事(こと)甚(はなは)だ怪(かい)。
然(しか)れども亦(ま)た安(いずく)んぞ、其の秦の世に隱君子ありて、出でて之を試みる非ざるをしらんや。
觀(み)るに其の所の微を以て其の意を見るは、皆な聖賢の相與(あいともに)警戒するの義。世人は察せず、鬼物を以て為すは、亦た已に過る矣。
且(か)つ其の意は書にあらず。
當(まさ)に韓の亡びて、秦の方(まさ)に盛んなり、刀鋸(とうきょ)鼎鑊(ていご)を以て天下の士を侍(はべら)せ、其の平居(へいきょ)無罪(むざい)にして夷滅(いめつ)するは、數(かぞ)うるに勝(あた)ふべからず。賁(ほん)、育(いく)ありと雖(いえど)も、複(ま)た施(ほどこ)すところなし。夫(そ)れ法を持して太(おおい)に急(きゅう)、其の鋒(ほう)の犯すべからざるは、其の末だ乘ずべからざるなり。

子房に(下邳の)圯(≒橋の)上で(兵法の)書物をさずけたという老人の話は、大変奇怪な出来事ではある。
しかしどうして(世の中の人は)、かの秦の時代、世に隠れて生きていた(戦国生き残りの、優れた知力と豊かな経験を持つ)人物が、現れて張良をテストしてみた、という事がわからないのだろうか?
その(人物や物事の)わずかな徴候をみて(そこに隠された深い)意味を読み取る、というのは、(始皇帝の強権独裁の時代に、追及を逃れて隠れ住んできた)聖賢たちは、みな互いに注意深く用心しあって(生きのびて)いた、ということでもあるのだ。(あからさまに人を集めて、人材を選抜テストする、などという事はむろん出来ない時代だったのである。)
世の中の人はこれがわからず、怪異な出来事としてかたずけてしまうのは、もちろん誤りなのである。
その説話の真の意味は、授けられたという兵法書にはないのである。(座学だけで稀代の軍師になど、なれるはずがないではないか。それは所詮、書生の夢なのであって、”兵法書”を真に受ける奴は人生経験が足りないのである。)
時代はまさに(張良の祖国である)韓が滅び、秦(王朝)の勢い盛んな時期であり、刀鋸(とうきょ:かなたやのこぎり)、(あるいは人をかまゆでにする)鼎鑊(ていかく:ゆでかま)でもって、天下の人物をおどしつけしたがわせ、普通に暮らし無実なものでも(秦の法の網の目にからめとられて)刑死されるものは、かぞえきれないほどであった。
古代の勇者、賁(ほん)、育(いく)がいたとしても、(当時の秦の勢いに)あらがうすべはないのであった。秦は法律をふりかざして残酷に適用したが、その軍事力は(強大で)おかしがたく、いまだ(乗ずるべき)ほころびのみえない時代であった。
(だからこそ、二人は不思議な出会い方をしたとされ、教えの真相はベールに包まれているのである。)
 
(3)

子房不忍忿忿之心、以匹夫之力、而逞於一擊之間。當此之時、子房之不死者、其間不能容發、蓋亦已危矣。
千金之子、不死於盜賊。何者。其身之可愛、而盜賊之不足以死也。
子房以蓋世之材、不為伊尹、太公之謀、而特出於荊軻、聶政之計、以僥倖於不死、此固圯上之老人所為深惜者也。
是故倨傲鮮腆而深折之、彼其能有所忍也、然後可以就大事、故曰“孺子可教也。”

子房(しぼう)忿忿(ふんふん)の心を忍ばず、匹夫(ひっぷ)の力を以て、一擊の間に逞(たくま)しゅうす。當(まさ)に此の時に、子房の死せざるは、其の間は發(はつ)をいれるあたわざる、蓋(けだ)し亦(ま)た危ういのみ矣。
千金の子は、盜賊に死せず。何(なん)ぞ?其(そ)の身、之を愛すべし、而(しこう)して盜賊の之を以って死せるに足らざる也。
子房の蓋世(がいせい)の材を以て、伊尹(いい)、太公(たいこう)の謀(はかりごと)を為さず、特に荊軻(けいか)、聶政(じょうせい)の計において出で、僥倖(ぎょうこう)を以て死せず、此れ固(もと)より圯上の老人の深惜(しんせき)する所為(ゆえん)なり。
是の故に倨傲(きょごう)鮮腆(せんてん)、深く之を折り、彼れ其の能く忍ぶところある也、然りて後に以って大事に就くべし、故に曰く“孺子、教えるべし也。”

張良は(韓の宰相一族の生き残りとして、その祖国を秦に滅ぼされた)ふんぷんたる恨みを抑えることが出来ず、大力の男を雇い、鉄槌の一撃を(もって始皇帝を暗殺することを)企んだ。まさにこの時、(暗殺に失敗したのに)張良が死なずにすんだのは、まさに間一髪のところ、まったく危ないところだったのであろう。
(ことわざに)”千金の(資産をもつ大家の)子は盗賊に殺される事はない”という。それはどうしてか?その身代こそが愛すべきものであり、(自愛するが)ゆえに盗賊の手にかかって死ぬことはないのである。(張良は韓の名門に生まれながら、なんと軽率なことであろう)
張良は世をおおうほどの才能がありながらも、(商王朝建国の功臣)伊尹や(周王朝創建の功臣)太公のような(遠大な、秦の天下を奪う)はかりごとをせず、(始皇帝暗殺を企てた)荊軻(けいか)や(任侠から人の刺客となった)聶政(じょうせい)のような(刺客、暗殺者のたぐいの)はかりごとをもって世に出、幸運にも死ななかったのである。(充分に計画したとはいえ、それでも運が悪ければ殺されていた。)
が、これはもとより圯(≒橋の)上の老人の深く惜しむ理由であった。(並外れた知力も勇気もあり、運にも恵まれながら、ただひとつ時勢を待つ、その我慢が出来ないのは惜しむべし、と。)
このことゆえに、わざと傲慢不遜にふるまい、強いて子房に膝を屈せしめ、それでいて(その態度から)彼が(普通は我慢できないような侮辱でも、志のためには)我慢できるところがあるとみて、それではじめて後に大事を成就出来る人物と考えたのである。だから「小僧、教えるに足るわい」と言ったのである。
 
(4)

楚莊王伐鄭、鄭伯肉袒牽羊以逆。莊王曰“其君能下人、必能信用其民矣。”遂舍之。
勾踐之困於會稽、而歸臣妾於吳者、三年而不倦。且夫有報人之志、而不能下人者、是匹夫之剛也。
夫老人者、以為子房才有餘、而憂其度量之不足、故深折其少年剛銳之氣、使之忍小忿而就大謀。
何則。非有平生之素、卒然相遇於草野之間、而命以僕妾之役、油然而不怪者、此固秦皇帝之所不能驚、而項籍之所不能怒也。

楚の莊王(そうおう)の鄭(てい)を伐(う)ち、鄭伯(ていはく)の肉袒(にくたん)し羊を牽(ひ)き以って逆(むかえ)る。莊王(そうおう)曰く”其の君の能く人に下る、必ず其の民を信用する能(あた)うなり。”遂(つい)に之を舍(ゆる)す。
勾踐(こうせん)の會稽(かいけい)に困(くるし)み、臣妾(しんしょう)して吳に帰して、三年倦(う)まず。且つ夫れ人に報いるの志有りて、人に下る能わざるは、是れ匹夫(ひっぷ)の剛なり。
夫(そ)れ老人は、以為(おもへ)らく子房の才に餘(あま)り有りといえども、其の度量の不足を憂うる、故に其の少年の剛銳(ごうえい)の氣を深折して、之に小忿(しょうふん)を忍ばしめ、大謀に就かしむ。
何則(なんとなれば)平生素(へいせいそ)にあらざりて、卒然として草野(そうや)の間に相遇(そうぐう)し、僕妾の役を以て命じ、油然(ゆうぜん)として怪(あや)しまぬ者、此れ固(もと)より秦皇帝の驚く能わざる、項籍の怒る能わざるところなり。

(紀元前597年に)楚の荘王が鄭(てい)の国を討伐したさい、鄭伯はもろ肌を脱ぎ、(料理人にでも雇ってくださいと)羊を牽(ひ)いてこれに降伏した。荘王が言うには「その君主が人にへりくだれる人物であれば、きっとその国の民からも信頼されていることだろう。」として、ついに鄭をゆるしたのである。
越王の勾践は、会稽山で(呉軍に)包囲されて困窮したとき、(妻子ともども)下僕となって呉王に降伏し、三年の間(呉で下僕の役目を)おこたることがなかった。そもそも人に報復するという志があって、人にへりくだることが出来ないというのは、これは凡人の意地っ張り、というべきなのである。
圯(の)上の老人は、おそらく子房が才能にあふれているといっても、その度量が足りないのを憂慮したのであろう。それでその(子供っぽい、)かたくなな負けん気を深く反省させた。そしてちっぽけな鬱憤を我慢することを学ばせて、(秦の天下を終わらせるという)大きな策謀に向かわせたのである。
なぜそのようなことを老人が子房に強いたかといえば、(仮に)顔見知りでもないのに、突然に野原でたまたま出会っただけなのに、(老人から)下僕がするような事を命ぜられ、それに自然体で応じて不審を抱かせぬという人物(が、もしいたとすれば、それはあたかも根っからの奴隷根性の持ち主のようであり)、これこそは(猜疑心の強い)秦の皇帝を驚かせ(粛清され)ることは無く、項羽(のような短気な人間を)も怒らせることのない人物だからである。
(それゆえ、つまらぬところで命を落とすことは無く、志を全うできるのである。実のところ子房ははじめ老人に殴りかかろうとしたのであるが、グッと自重したところを見て、もうすこし修行すればモノになるとふんだのである。はたして後に子房は、傲慢無礼な高祖にもよく仕えることが出来たのである。)
 
(5)

觀夫高祖之所以勝、而項籍之所以敗者、在能忍與不能忍之間而已矣。項籍惟不能忍、是以百戰百勝、而輕用其鋒。高祖忍之、養其全鋒、而待其弊、此子房教之也。
當淮陰破齊而欲自王、高祖發怒、見於詞色。由此觀之、猶有剛強不忍之氣、非子房其誰全之。
太史公疑子房以為魁梧奇偉、而其狀貌乃是婦人女子、不稱其志氣、而愚以為、此其所以為子房歟。

觀(み)るに夫(そ)れ高祖(こうそ)の以って勝つ所、項籍(こうせき)の以って敗れる所は、能く忍ぶと忍ぶあたわざるの間にあるのみ。項籍は惟だ忍ぶあたわず、是れ百戰百勝を以て、輕しく其の鋒(ほう)を用いる。高祖は之を忍び、其の全鋒を養い、其の弊を侍(ま)つ、此れ子房の之におしえるなり。
當に淮陰(わいいん)の齊を破り自ら王とならんと欲す、高祖(こうそ)怒(ど)を発し、詞色に見るべし。此(これ)に由(よ)りて之を觀るに、猶(な)を剛強の忍ばざるの氣あると、子房にあらざれば其れ誰か之を全うせん?
太史公の疑(うたご)うに以為(おもへ)らく子房の魁梧(かいご)奇偉(きい)とし、而して其の狀貌(じょうぼう)は乃ち是れ婦人女子、其の志氣に稱(そぐ)わずとは、愚(わたくしが)以為(おもう)に、此れ其の子房の以為(ゆえん)なり。

かんがえてみるに、高祖の勝因、項羽の敗因というのは、我慢できるか我慢できないか、この(両者の性格と度量の)違いでしかない。項羽はただ(わずかな形勢の変化にも)我慢できなかっただけで、それまで百戦百勝だからといって、軽々しくその軍を動かし(続け)たのである。それに対して高祖は(劣勢を)耐え忍び、(陣地を守って補給を受けながら)自軍の力が充実するのを待ち、項羽の軍が(ゲリラ討伐に東奔西走して)疲弊するのを待ったのである。(この隠忍自重の持久戦略、)これこそ子房が高祖に授けた策なのである。(つまりは圯上の老人が張良に教えたことなのである)
また淮陰公(の韓信)が(北方の)斉の国をやぶり、斉王となって自立しようとしたときに、高祖は怒りを覚えて、(韓信の使者の前で)言葉や顔色にそれが現れた。それを見て(前述の持久戦の観点から情勢を判断して)『それでもまだ我慢が必要です。(韓信を王と認めなさい)』と高祖を諫めるということを、張良でなければいったい誰がやりおおせたであろうか?(他の者が語気強く諫めたとすれば、きっと高祖は余計に怒って聞き入れなかったであろう。張良の理路整然としながらも、へりくだった恭しい態度が高祖をなだめ、諫言を聞き入れさせたのである。)
太史公(司馬遷)は、(史記列伝で述べるに)子房はきっと容貌魁偉な偉丈夫ではないかと思いきや、(その肖像をみると)意外にも婦人女子のような温和な姿をしていたという、しかしそれではその気宇壮大な策略(をくわだてる軍師の姿)にそぐわないではないか?と述べている。しかしわたくしの愚考では、それこそが子房のすぐれた(人物である)ところのゆえんなのである。
(そもそも我慢のできない人間が、他人、ましてや目上の人物に『ここは我慢なさい』とは言えないものである。充分に我慢のできる人物、あたかも女性のように柔和でうやうやしく、充分にへりくだった張良のような側近の諫言であったればこそ、高祖もたびたび聞き入れたのである...........ああ、かの太史公(司馬遷)は武帝に剛直に諫言して宮刑に処されてしまったが、惜しむらくは、この道理をわきまえていなかったに違いない。それは史記列伝『留侯伝』の太史公の評を読むとわかるのである。)
 
(後記)

「留侯論」というが、より直接的には史記の「留侯伝」に対する批評の体をとっている。この文章は北宋は仁宗の嘉祐六年(1061年)の応制、すなわち皇帝の命の応じた論文試験のうちのひとつであるとされる。その試験は「賢良方正能直言極諫科」という科の試験であり、したがって「留侯論」の内容も「諫言を行う臣たるもの、どのようにあるべきか?」ということが、ひとつのテーマになっている。
「能直言極諫」とは、要は皇帝にもズケズケと口を極めて諫言をいたすことが出来る、という意味であるが、そのような立場にあっても「言い方ってものがあるだろう」というところであろうか。蘇軾は留侯こと子房がたびたび高祖を諫め、策を採用された理由として、その姿勢や態度が重要であった、と言っている。これは単なるうわべをつくろう保身術ではなく、人間理解に基づく深い知恵なのである、という洞察は鋭い。事実、この隠忍自重の姿勢は、子房ひとりの所作のみならず、項羽の楚軍に対する、高祖の漢陣営の基本戦略にも貫かれているのである。
また司馬遷が子房が偉丈夫ではなかったと聞いていぶかしんでいるのを、”愚考”とことわりつつも、軽く批判してもいる。これはもとより、司馬遷が李陵の投降の件で武帝をきつく諫めて、罪に落されたことを暗に指しているのであろう。が、そこをあからさまに書けば、いささか辛辣が過ぎようか。なので蘇軾はそこで筆をおいている。

とはいえこれは若き日の蘇軾の文章である。後年、蘇軾自身は、皇帝からの覚えがめでたかったとはいっても、その詩文を他の廷臣たちに細かく詮議建てされ、不敬罪に問われる事になる。これはこの留侯論を執筆した時点では、思いもよらなかったであろう。乱世の謀臣と、平和な時代に複雑な宮廷政治の世界に身を置く者とでは、身の処し方はおのずと違ったものになる、というところだろうか。
落款印01

「蘭雪茶」 〜(明)張岱「陶庵夢憶」

先に徽州の高山茶で少し触れたが、明代末期、張岱の「陶庵夢憶」に『蘭雪茶』という、茶に関する一節がある。

日鑄者、越王鑄劍地也。茶味棱棱、有金石之氣。歐陽永叔曰“兩浙之茶、日鑄第一。”王龜齡曰“龍山瑞草、日鑄雪芽。”日鑄名起此。
京師茶客、有茶則至、意不在雪芽也、而雪芽利之、一如京茶式、不敢獨異。

日鑄(じっちゅう)者は、越王(えつおう)鑄劍(ちゅうけん)の地なり、茶味は棱棱(りょうりょう)として金石(きんせき)の氣有り。歐陽(おうよう)永叔(えいしゅく)曰く“兩浙の茶、日鑄を第一とす。”と。王龜齡(おうきれい)曰く“龍山の瑞草、日鑄の雪芽。”日鑄の名は此に起こる。
京師の茶客(ちゃきゃく)、茶有れば則ち至るも、意は雪芽に在らざるなり、而(しこう)して雪芽は之を利とし、一如(いちにょ)に京の茶式、敢(あえ)て獨(ひと)り異とせず。

(大意)
日鑄(じっちゅう)嶺は越王が刀剣を鋳造した(山)地である。(その地の)茶の味は(造剣の地だけに)カドがあり、金石(青銅)の気味があった。(北宋の)欧陽脩曰く”両浙の茶は、日鑄が第一である。”と。また南宋の王亀齢(十朋)が言うには”龍山の瑞草、(あるいは)日鑄の雪芽”と。日鑄の名はこれによって知られるようになった。
都の茶の仲買人は、茶があると聞けばすぐにやってくるが、目的は(日鑄の)雪芽になかった(龍山の瑞草を選んだのである)。しかしながら雪芽はこれをよいこととし、まったく京の茶の(製法)淹れ方に従い、それにあえて異論をとなえるものがなかった。
 
三峨叔知松蘿焙法、取瑞草試之、香撲冽。余曰“瑞草固佳、漢武帝食露盤、無補多欲、日鑄茶藪、‘牛雖瘠憤於豚上’也。”遂募歙人入日鑄。
扚法、掐法、挪法、撒法、扇法、炒法、焙法、藏法、一如松蘿。

三娥叔、松蘿(しょうら)の焙法を知り、瑞草を取り之を試みるに、香り撲冽(ぼくれつ)たり。余曰く“瑞草は固より佳し。漢の武帝は露盤を食らい、無補(补)にして多欲(たよく)。日鑄の茶藪(ちゃすう)、‘牛は瘠(やせ)たりといえども豚の上に憤(ふんす)る’也。”遂(つい)に歙人を募り日鑄に入れる。扚法、掐法、挪法、撒法、扇法、炒法、焙法、藏法、一に松蘿の如く。

(大意)
叔父の(張)三娥は、松蘿茶の焙(煎)法を知り、(龍山の)瑞草を摘んでこの焙煎法を試してみたが、清らかな香りが鼻腔を撲(う)った。私が言うに『(世間の珍重する龍山の)瑞草はもとより良いものです。昔、漢の武帝は承露盤を設け仙人掌に受けた甘露を飲んでも、なんら益がないうえにかえって欲深くなるというありさま。(そんな意味のない高価な茶を飲むよりも、誰も目をつけてない)日鑄(山中)の茶藪(畠)は、”痩せて弱い牛でも、豚の上にのれば豚は驚いて死んでしまう”というものです。』
そこでとうとう、歙県の製茶に通じた人を募り、日鑄に入らせて茶を作らせた。その扚(ひ)く法、掐(つ)む法、挪(も)む法、撒(ま)く法(以上、茶葉の摘み方、揉み方か)、扇法(ひろげ乾燥させる法)、炒法(熱を入れる)、焙法(焙煎)、藏法(保存法か)は、まったく松蘿(茶)の製法のようにした。

他泉瀹之、香氣不出、煮禊泉、投以小罐、則香太濃郁。雜入茉莉、再三較量、用敞口瓷甌淡放之。

他泉でこれを瀹(にる)に、香氣(こうき)出でず。禊泉(けいせん)を煮て、小罐を以て投じ、則ち香は太いに濃郁(のういく)。茉莉(まつり)を雑入し、再三(さいさん)較量(かくりょう)し、口(くち)敞(ひろ)き瓷甌を用いて之を淡放(たんほう)す。

(大意)
ほかの泉の水で日鑄の茶を煮ると、その香気は現れない。禊泉(けいせん)の水を煮て、小さな壺に入れると、実に濃厚な香りがする。(茶の香がきつ過ぎるので)茉莉花を混ぜ合わせ、なんども攪拌し、口のひろい磁器の瓶に入れて茶葉をくつろげる。

候其冷、以旋滾湯衝瀉之、色如竹籜方解、冓棺勻、又如山窗初曙、透紙黎光。取清(青)妃(媲)白、傾向素瓷、真如百莖素蘭同雪濤並瀉也。
雪芽得其色矣、未得其氣、余戲呼之“蘭雪”。

其の冷める候、滾湯(こんとう)を旋(まわ)し之に衝瀉(しょうしゃ)す、色は竹籜(ちくたく)の方(まさ)に解(と)けたる、冓粥覆蠅腓ふん)の初めて勻(う)ちたるごとく。又た山窗(さんそう)の初曙(しょしょ)、透紙(とうし)黎光(れいこう)の如し。清(青)を取って白に妃(媲:はい)し、素瓷に傾向すれば、真に百莖(ひゃっけい)の素蘭の雪濤と同じく並び瀉ぐが如し。
雪芽は其の色を得るも、未だ其の氣を得ず、余戲(たわむ)れに之を“蘭雪”と呼ぶ。

(大意)
その冷めるころに、煮えたぎった湯をまわしかけてると、その色はまさに竹の皮がむけたばかりの、白い粉がまぶれた青竹のごとく。また山荘の窓辺に朝日がさしこみ、障子の紙を透かしたあかつきの光のごとく。青をとって白に配するように(うまく塩梅をとって)、素焼きの壺に茶をかたむければ、まさにおびただしい素蘭が、波頭(なみがしら)も白き波濤とともに、そこへおちかかるようである。
(新芽を摘んだ日鑄の)雪芽(茶)はそのような茶の色をしているものの、まだこのような香気を得るにはいたっていなかった。私は(新しい製法で出来たこの日鑄の茶を)戯れに”蘭雪”と呼んだ。

四五年後、“蘭雪茶”一哄如市焉。越之好事者不食松蘿、止食蘭雪。蘭雪則食、以松蘿而纂蘭雪者亦食、蓋松蘿貶聲價俯就蘭雪、從俗也。乃近日徽歙間松蘿亦名蘭雪、向以松蘿名者、封面系換、則又奇矣。

四五年の後、蘭雪茶は一哄(いっこう)して市(いち)の如く。越の好事者、松蘿を食(くら)らわず、止(とど)めて蘭雪を食らう。蘭雪則ち食わば、松蘿を以て而して蘭雪の者に纂(さんし)て亦た食らう。蓋(けだ)し松蘿は聲價(せいか)を貶(おとし)め蘭雪に俯就し従俗(俯仰随俗)也。乃ち近日の徽歙の間、松蘿は亦た蘭雪に名を改め、向って松蘿の名の者を以て、封面を系換(けいかん)す、則ち又奇矣。

(大意)
四、五年の後、蘭雪茶はドッともてはやされて、(蘭雪茶をほめそやすこと)まさに市場の喧騒のようなありさまとなった。越(紹興)の好事の者は、松蘿(茶)を飲まずに、人を引き留めては蘭雪を飲んだ。蘭雪を飲めば、松蘿茶であるのにそれを蘭雪茶であるとして飲み、こうして松蘿茶は評価を落として蘭雪の置くというのは、(おのおのが茶の味を解したわけではないく、まったくって)世間の流行に乗せられたものであった。
また最近の徽州の歙県あたりでは、松蘿は蘭雪に名をあらため、松蘿とすべき茶を、封面(ラベル)を(蘭雪)張り替えているのは、まったく奇怪なことである。

 
(補足)
日鑄の”茶藪”というのは、日鑄山中の、半ば野生化した茶畠のことではないだろうか。野生の茶樹は雲南省などの内陸にあり、紹興近郊の山中にあるような茶樹は、かつて人の手によって植えられたものであると考えられる。欧陽脩の生きた北宋の初期に日鑄の茶は高く評価されていたが、その後ながらく廃れてしまっていたのかもしれない。
”雪牙”は龍井茶と同じく、出初めの新芽を摘んだ茶であろう。”牙”に草冠を載せればすなわち”芽”、なのである。茶の新芽には産毛のような細かい繊毛があり、白っぽく見えることから”雪牙”と名付けられたのだろう。
その味は”茶味は棱棱(りょうりょう)として金石の氣有り”と述べていることからわかるように、そのまま適切な製法を用いずに飲むと、アク強く、カナ気のような、舌を指すような気味があったのかもしれない。
王亀齢によって日鑄の雪芽と併称された龍山の瑞草は、張岱の生きた明代後期に至っても、都の茶人に愛飲されていたのだろう。
”茶客”とは茶の仲買人であるが、日鑄の雪牙はさほど気に留めていなかったようだ。雪牙は茶の新芽を摘むが、瑞草は松蘿と同じ製法を試したというから、新芽ではないのだろう。当時の茶客達は、雪牙のような味の淡泊な新芽よりも、ある程度成長した茶葉から製した濃厚な茶を求めたのかもしれない。それはおそらく当時の茶の飲み方の流行とも関係するのであろう。京の茶式というのは、大都会の茶の飲み方のことであろうが、その飲み方(あるいは製法も含めて)にならう限り、雪芽はさほど高い評価を得られなかったのだろう。要は製法と飲み方の工夫が足りないと、ここにひとり張岱が異を唱えた、というところである。

煎茶の製法と淹れ方が確立した現代とは異なり、かつては茶の製法や淹れ方は、各自独特の工夫があったようである。日鑄の茶畠は荒廃して”藪”のようになってしまっていたが、しかし張岱は、そのように衰退してしまった日鑄山中の茶であっても、宋代の士人に愛された以上は「やせ衰えた牛であっても、豚の上にのしかかれば豚は圧死してしまう。」と、他の凡庸な茶の上に出るものであろう、と考えたのである。
そこで茶の製法に精通した歙人、つまりは徽州は歙県の製茶の職人や茶商を呼び、松蘿という徽州の銘茶の製法と同じ製法で日鑄山中の茶を摘んで作らせたようである。
 

その茶の色は蘭や雪のたとえたように、色は白いという。
宋代は茶は白いものが良いとされた。現代中国では、湖州の”白茶”の如く、煎茶にして入れても緑の色が薄く、白色透明に近いものを以て宋人が好んだ”白茶”であるとしている文がある。しかし王朝時代はそもそも茶の製法、飲法が現代と違うのである。宋代の茶の製法、淹れ方は陸羽の”茶経”に詳しいが、他にも飲む人が各自工夫していようであり、ここで述べられた張岱の法も一例であろう。

日本にも伝来した茶葉を粉末にした”抹茶”は、北宋に確立され、明代に至って廃れたという。粉末の茶を煮て攪拌し、空気を入れることで香りを立て、苦みのある口当たりをまろやかにするのであるが、泡状になった茶は不透明な白色を帯びることになる。
この茶葉の色に乳白色の”おどみ”のかかった抹茶には、緑色の青磁や、建窯の黒磁などの単色釉の茶碗が好適、ということになる。時代が下って透明白緑色の煎茶が好まれるようになると、茶の色を観るに白磁が適切となる。

張岱は日鑄が高く評価されていた宋代に倣い、抹茶に近い淹れ方を採用したのかもしれない。茉莉(ジャスミン)を入れるのは、現代のジャスミン茶を思わせる。それでは茶本来の香りが変化してしまうと考えてしまいそうであるが、そこは茶の香りに対する考え方の違いであろうか。”フレーバー”を加えることに、それほど躊躇はなかったようである。
日鑄の”雪芽”は、その色を得たが、その気を得てはいない云々、というのは張岱はあらたに松蘿の製法を採用して茶を製するに、”雪芽”のような新芽ではなくある程度成長した茶葉を摘んだものと思われる。龍井茶のように、初春の茶の新芽を珍重する向きもあるが、新芽はおおむね色は薄く、香りも淡泊なものである。それまでもっぱら”雪芽”をもって知られていた日鑄の茶に、新たな価値を加えたところが、茶人としての張岱の真”面目”というものだろう。

果たしてそれから数年の後に蘭雪は紹興において大流行したようである。”俯就〜従俗”はすなわち”俯仰随俗”という語で、世間の流行に乗せられて人や物事を毀誉褒貶すること。張岱は自らの見識に基づいて工夫し、日鑄の蘭雪を見出したのに、後に続く大衆は、ただいたずらに松蘿を貶めて蘭雪を持ち上げたのである。いつの時代もそうかもしれないが、本当のところがわかっている人は少なく、後は雷同するのである。とはいえ、蘭雪の名を高めたのは、紹興の茶界における張岱の影響の大きさによるところだろう。
その流行にあわせて、歙県の松蘿は蘭雪に名を改めて流通する有様であったという。松蘿の製法で作られた蘭雪は、似通ったところがあったのだろう。しかし結局のところ、世間の大方はその違いはわからなかった、ということでもある。

この日鑄のお茶は、現在でも浙江省は紹興の近郊、会稽山のふもと、王化卿の日鑄嶺で作られているという。とはいえ、張岱の昔と同じ味がするとは限らないのであるが。
落款印01

「禊泉」 〜明 張岱『陶庵夢憶』より

......東京西部で生まれ育ったわけであるが、東京の水はまずいと地方出身の親がよくぼやいていた。その街は玉川上水から水を採っていた地域だから、都心の方よりまだマシだったはずである。
その東京から学生となって大阪へ来るや、水道の水の不味さにおどろいた。地方出身の友人などは、風呂に入るのも嫌だと嘆いていた。ただ、今や東京や大阪の水も相当に改善されている。

水の悪かった学生時代の大阪から、初めて上海を訪れた際、その水の酷さに愕然とした。うっすらと褐色を呈しているような気味があり、シャワーから出るお湯が生臭い。生水は飲むなというが、言われなくても沸かして茶葉を入れなければとても飲めたものではなかった。上海市内の飲食店ではどこでもお茶が出てくるが、しかしひどく不味いものだった。茶葉も枯れ葉の屑のような、お湯に色を付ける程度のごく粗末なもので、水の生臭さを消しきれない。水替わりに、ビールばかり飲んでいた記憶がある。

しかし湖州の善韻筺徽州まで行くと、墨廠や筆匠の家で出されるお茶が実に美味い。茶葉も良い物だが、水も違ったのだろう。今でこそ、大陸でも調整された水が流通しているが、当時一般の家庭や飲食店で、水を買って飲む人は少なかったものである。
そのころ豫園の方濱中路にあった博印堂では、良い茶葉でお茶を淹れてくれたものだが、水は運んできたものを沸かしていた。どこでも来賓に良いお茶を淹れるようになったのは、ここ10年内の事ではなかろうか。その上海の水も今ではだいぶ改善されている。しかし各家庭では今やウォーターサーバーを設置して、配達される水を飲用しているところが多いのである。

大陸は総じて硬水だという。硬水になるのは、地下に滞留する時間と、土壌に拠るのだという。なるほど、はるか内陸から河川や地上を流れてくる間に、多量のミネラルが溶け込んでしまうのはやむをえまい。国土が狭く地勢が険しく、降った水があっという間に海に流れ去ってしまう日本とでは事情が異なるのである。

しかし昔から硬水ばかりを利用していたかというと、必ずしもそうではないだろう。たとえば徽州の伝統的家屋は、雨水を貯め込んで利用できるような構造になっている。雨水は貴重なもので、家屋に降った水を他所に流してしまうのは、お金を流してしまうようなものだ、という諺まである。こうした雨水は、主に炊事、飲用に使われた。雨水だけにミネラルはさほど多かろうはずがない。
無論、雨水だけで水の需要すべてをまかないうるものではなく、それとは別に、溜池、村の公共の井戸や小河川もある。徽州に限らず、概(おおむ)ね、江南の水郷は街の中央を水路が貫流している。それが水上交通と生活用水を兼ねていたのである。


ところで広大な大陸のなかでは、江南地方は比較的水に恵まれた地方であると言えるだろう。その江南にあっても、大小河川や井戸から汲まれる水の大部分は硬水である。降雨も含めて、軟水の水源は貴重なものであったに違いない。
硬水はその名の通りというか、舌に硬い、重い、からい、苦い、といった、金属的な気味を有するものである。反して軟水は、軽く、舌に甘さを感じるものである。
言うまでもなく、茶を淹れるにしても、酒を醸造するにしても、水の良し悪しは死命を決する問題である。茶の場合、やはり軟水が望ましい。
陸羽は「茶経」の中で、茶を淹れるのに適した水を選んでいる。無錫にある惠山泉はその筆頭として名高い。以前ご紹介した”唐解元一笑姻縁”にも、「せっかく無錫に行くのだから、惠山泉を汲んで帰りましょう」というくだりが出てくる。
硬水しか出ない地域であるからといって、人間はその水に適応しきれるものではないのだろう。唐代の楷書の極則と言われる碑帖に「九成宮醴泉銘」がある。醴泉(れいせん)とは醴(あま)い水の出る泉の事である。むろん砂糖水のように甘かろうはずがなく、飲みやすい、比較的ミネラル分の少ない水の出る泉だったのだろう。わざわざ銘を作ったのは、醴泉が沸き出る事自体が、帝王の聖徳を寿(ことほ)ぐ瑞兆であると考えられていたためである。長安のあった北方内陸部だけに、軟水はことのほか貴重だったのではないだろうか。


以前にも掲載した張岱の「陶庵夢憶」に「禊泉」という話がある。これは紹興で張岱が見つけた泉の水について書いている。張岱は茶に精通していたが、同時に各地の水を良く弁別できた、と語っている。
紹興は海に近い低地であるから、地下水が多少の塩分、ミネラルを含んでいる場合が多いのだろう。”潟鹵”とは、土壌が”潟”のようで、塩辛い、という意味である。しかし水脈によっては、状態の良い水も沸くところがあったのだろう。禊泉はそうした泉の一つと考えられる。紹興が現代にいたるまで酒の醸造で有名なのも、やはり水に拠るところが大きいのだろう。
陶庵夢憶の「禊泉」の大意を以下に試みる。



「禊泉」




 惠山泉不渡錢塘、西興腳子挑水過江、喃喃作怪事。有縉紳先生造大父、飲茗大佳、問曰“何地水?”大父曰“惠泉水。”縉紳先生顧其價曰“我家逼近衛前、而不知打水吃、切記之。”董日鑄先生常曰“濃、熱、滿三字盡茶理、陸羽<經>可燒也。”兩先生之言、足見紹興人之村之樸。

『惠山泉、錢塘を渡らず、西興(せいこう)の腳子(きゃくし)水を挑(かつ)いで江を過ぎるに、喃喃(なんなん)怪事を作す。有る縉紳先生、大父を造(たず)ね、茗(ちゃ)を飲みて大いに佳(よ)し、問うて曰く“何地の水ぞ”大父(たいふ)曰く“惠泉水。”縉紳先生、其の價(あたい)を顧(かえりみ)て曰く”我家、近衛の前に逼る、水を打ちて吃(きっ)するを知らず、切に之を記せ。”
董日鑄(とうじっちゅう)先生、常に曰く“濃、熱、滿、三字に茶理を盡(つく)す、陸羽の『經』は燒くべき也。”兩先生の言、紹興人の村の樸を見るに足る。』

 惠山泉は錢塘江を越えて運ばれる事がなかった。杭州の西興(せいこう)の渡しの腳子(きゃくし:人足)らが水を担いで江をわたりながら(惠山泉だけ銭塘江を越えないというのは)不思議な事であるとぶつぶつ言ったものである。
さる縉紳先生(郷紳)が、祖父をたずねて、その茶を飲んでたいへんうまかったので「これはどこの水ですか?」と尋ねた。祖父が言うに「惠泉水です。」というと、縉紳先生は其の値段(の高い事)を顧(かえりみ)て言うに”我が家は(紹興の)衛前(門)のすぐそばであるのに、この水を飲むことを知らなかった。きっとこれを覚えておくように。”(すなわち”惠泉”を”衛前”と聞き間違えたのである)
董日鑄(とうじっちゅう)先生は常々いっていた。「濃、熱、滿、この三字に茶の道理は尽くされている。陸羽の茶経などは焼いてしまったほうがいい」
この二人の先生の言いざまは、紹興人の野暮で素朴なところを良く表している。


余不能飲潟鹵、又無力遞惠山水。甲寅夏、過斑竹庵、取水啜之、磷磷有圭角、異之。走看其色、如秋月霜空、噀天為白、又如輕嵐出岫、繚松迷石、淡淡欲散。余倉卒見井口有字劃、用帚刷之、“禊泉”字出、書法大似右軍、益異之。

『余、潟鹵飲むあたわず、又、惠山の水を遞(はこ)ぶ力なし。甲寅の夏、斑竹庵を過ぎるに、水を取りて之を啜(すす)る、磷磷(りんりん)たる圭角(けいかく)あり、之を異とす。走りて其の色を看るに、秋月(しゅうげつ)霜空(そうくう)の如く、噀天為白、又(また)輕嵐(けいらん)出岫(しゅっしゅう)の如く、繚松(りょうそう)迷石(めいせき)、淡淡として散ぜんと欲す。余、井口に字劃あるを見る、帚(ほうき)を用いて之を刷(は)くに、“禊泉”の字出ず、書法大いに右軍に似る、益(ま)して之を異とす。』

私は、(紹興周辺の)潟鹵(塩辛い水)は飲むことが出来ないし、また、惠山の水を運ばせるほどの資力もなかった。
ところで甲寅(万歴四十二年)の夏、斑竹庵に行き、その水を汲んで啜(すす)ってみると、磷磷(りんりん:ごつごつとした)たる圭角(けいかく:カド)が感ぜられたので、これを不思議に思った。
そばに行ってその泉の色を看るに、霜が降りる気配に満ちた空に、秋の月が白く冴えわたっているかようのであり、また輕嵐(けいらん;淡いもや)が岫(しゅう:やまあいの洞穴)から立ち上って、松にまとわりつき、また石の間をさまよいめぐっているような、そして徐々にうすくなって消え去りそうにも感ぜられた。
私は井戸端に字が彫られているのが見えたので、帚(ほうき)とってこれを刷(す)ると、“禊泉”という文字が現れ、その書法は右軍(王羲之)の書に大変似ていた。それでますます不思議に思ったのである。
(言うまでもなく、王羲之は後年を紹興で過ごしている。)


試茶、茶香發。新汲少有石腥、宿三日氣方盡。辨禊泉者無他法、取水入口、第橋舌舐腭、過頰即空、若無水可咽者、是為禊泉。好事者信之。汲日至、或取以釀酒、或開禊泉茶館、或甕而賣、及饋送有司。

『茶に試みれば、茶香(ちゃこう)發っす。新たに汲むは少しく石腥あり、三日を宿(しゅく)し氣方に盡(つ)きん。禊泉を辨(べん)ずる者は他に法なし、水を取りて口に入れ、第(つい)で舌に橋(はし)して腭(あご)を舐め、頰を過ぎれば即ち空し、水無くして咽(の)むべき者の若し、是を禊泉と為す。
好事の者之を信ず。汲みて日至り、或いは取りて以って酒を醸(かも)し、或いは禊泉茶館を開く、或いは甕(かめ)に賣(う)り、有司に饋(はこ)び送るに及ぶ。』

ためしに茶を淹れてみると、茶の香りがたった。新しく汲んだばかりの水はやや石の臭みがあのだが、三日ほどおくとその気が消える。
禊泉の水を弁別しようとすれば、他に方法が無いのだが(その方法とは)、水を汲んで口に含み、次に舌の上にのぼらせて顎(の内側)を舐め、頬を水が通り過ぎるとすぐに余韻が消え去って、飲み下すべき水が口中に無いようにも感じられる、これが禊泉の水である。
好事家たちはそれを信じて毎日来ては水を汲み、あるいはその水で酒を醸造し、あるいは茶館を開いたり、あるいは甕に入れて売ったり、役人への贈り物にするまでに及んだのである。


董方伯守越、飲其水、甘之、恐不給、封鎖禊泉、禊泉名日益重。會稽陶溪、蕭山北幹、杭州虎跑、皆非其伍、惠山差堪伯仲。在蠡城、惠泉亦勞而微熟、此方鮮磊、亦勝一籌矣。

董方伯、越を守るに、其の水を飲み、之を甘きとし、給えざるを恐れ、禊泉を封鎖し、禊泉の名は日益(ごと)に重し。
會稽(かいけい)の陶溪(とうけい)、蕭山の北幹(ほくかん)、杭州の虎跑(こほう)、皆な其の伍に非ず、惠山(けいざん)差(わずか)に伯仲(はくちゅう)に堪(た)う。蠡城(はんじょう)にありて、惠泉は亦た勞して微(わずか)に熟(じゅく)す。此の方は鮮磊(せんらく)、亦た一籌(いっちゅう)を勝る。

董方伯が越(紹興を含む地方)の太守に赴任し、禊泉の水を飲み、その甘さに感じ入り、水が不足する事を恐れて、禊泉を封鎖してしまった。そのため禊泉の名が日増しに高まったのである。
會稽(かいけい)の陶溪泉、蕭山の北幹泉、杭州の虎跑泉(といった各地の名泉の水)もみな禊泉にならぶものではなく、わずかに惠山泉がこれに肩を並べえた。しかし蠡城(はんじょう:紹興)まで惠山泉の水を運ぶなら、その水は疲れて、また老化してしまっている。こちら(禊泉)の方は新鮮で軽く舌の上にころころするようで、やはり一段とまさっているのである。


長年鹵莽、水遞不至其地、易他水、余笞之、詈同伴、謂發其私。及余辨是某地某井水、方信服。昔人水辨淄、澠、侈為異事。諸水到口、實實易辨、何待易牙?余友趙介臣亦不余信、同事久、別余去、曰“家下水實行口不得、須還我口去。”

長年鹵莽、水を遞(はこば)せて其の地に至らず、他の水に易(か)う、余之を笞(むちう)つ、同伴を詈(ののし)りて、其の私を発すと謂う。及ち余の是の某地(ぼうち)某井(ぼうせい)の水を辨(べん)ず、方に信服す。
昔人、水の淄(水)、澠(水)を辨ず、侈(おおい)に異事と為す。諸水の口に到るに、實實(じつじつ)として辨じ易し、何ぞ易牙(えきが)を待たん。
余友(よゆう)趙介臣(ちょうかいしん)、亦(ま)た余を信ぜず、同事(どうじ)久し、余に別れて去るに、曰く“家の下水の實(じつ)に口に行う得ず、須べからく我が口を還(かえ)し去れ。”

長年仕えた魯鈍な家僕に、(地方の)水を運ばせようとしたとき、その地まで行かず、他の(入手しやすい)地の水を代わりに運んできた。私がこの家僕をむち打つと、彼は同行の者に、(その地まで行かなかったという)秘密を暴露したと言って罵った。しかし私が、この水はどこどこのどの泉の水であるかということを弁別すると、はじめて信服したのである。
昔の人は(易牙が山東省を流れる)淄(水)と澠(水)の水を弁別したことを、大いに不思議な事だと言っているが、さまざまな地方の水も口に含めば、実際のところはわけなく鑑別できるのであって、何も(伝説的な料理人の)易牙でなければならないということはない。
私の友人の趙介臣(ちょうかいしん)もまた、私が水を飲み分ける事を信じなかったが、長い事同僚として仕事をしたのち、私と別れて去る時に言ったものである。
「(あなたのご教示のおかげで)わたくしの家の水なんぞ、まったく飲めたものではなくなってしまいました。私の(昔の)口を還してくださらないわけにはいきませんぞ。」

後記)


張岱は茶に僻があったが、茶葉をよく飲み分ける以前に、水の味に精通していた、というわけである。茶の味は用いる水で変わるわけであるが、茶に適した泉については陸羽以来、常々やかましく言われていたのだろう。
「紅樓夢」では、茶に精通した妙玉という女性が登場する。彼女が宝玉等に出すお茶に使われている水は、特定の日に降った雪を煮て貯蔵しておいたものである。それがどのようにつくられた水であるかを言い当てろ、というのだから難しい。適当な泉が無ければ、やはり降雨や降雪を利用することもあったのだろう。
「西遊記」には孫悟空が薬を調合して王の病を治す話がある。悟空は丸薬を服用するのに”無根水”を用いよ、というのだが、”無根水”とは雨水のことである。内蔵の病にかかった病人が飲むのに、井戸水などは避けよ、ということか。
ともあれ、特別な泉がなくとも、雨水の利用などで軟水も入手できたわけである。
また”甘露”という、醴泉と同じく天子の徳を讃える瑞兆とされる現象がある。これは甘く美味しい水のことである。”甘雨”というと、耕作の時宜に適した降雨のことであるが、これに由来する語ではなかろうか。欲しいときに降ってくれる、恵みの雨を口にすれば、それは甘く感じたことであろう。日本では離島でないかぎりは雨水の直接利用は重要ではないが、大陸では降雨が飲み水の貴重な水源であったことがうかがえる。

また墨を磨るにしても、軟水の方が良く溌墨する。大陸は総じて硬水ということで、日本の墨との性質の違いは、水に拠るのではないか?という意見もある。しかし大陸においても、必ずしも硬水ばかりが利用されてきたわけではない、という事は注意していいだろう。
泉水でも降雨でも、良質で飲用に適した水は貴重な資源であること、物流の発達していなかった往時である。現代に勝る事は幾層倍であっただろう。
落款印01

祝允明 愛梅述

寒さが続いているが、地域によっては梅の開花をみられるところもあるであろう。春先になると、日本の桜を観に大陸から大勢の観光客がやってくる昨今である。しかし大陸では伝統的に、初春に花開く梅花が好まれてきた。風雪に耐えて咲くところから、君子の徳性のひとつになぞらえて、蘭、竹、菊とともに”四君子”に数えられる。また画題、詩題としても古来よりおびただしい例がある。

ところで明代の祝允明に「愛梅述」という文がある。これは梅の美しさを愛でた文であると同時に、梅花に仮託して美人を文飾した文でもある。おそらくは祝允明と昵懇の仲であった”愛梅”という名の美しく聡明な妓女に与えた文なのであろう。唐寅とともに、江南きっての風流才子であった祝允明らしい文である。以下に大意をこころみた。

愛梅述 
明 祝允明


梅自含妝檐畔一點壽陽額後、遂見愛於人間。麗人唐江娘特甚、李家三郎遂賜梅姓是人可花。至如羅浮之下、乃復借貌所愛、與趙才子歌弄調笑於埓瑛邨邊屐∪Р嵋可人。

梅の含妝(がんしょう)檐畔(せんぱん)壽陽の額に一點するより後、遂(つい)に人間(じんかん)に愛せらるを見る。麗人(れいじん)唐の江娘(こうにゃん)特に甚し、李家の三郎、遂に梅姓を賜る、是れ人の花なるべし。至りて羅浮(らふ)の下(ふもと)の如く、乃ち復た貌(かたち)を借りて愛するところ、趙才子と埓院覆うせい)落月(らくげつ)の間に歌を弄(ろう)し調笑(ちょうしょう)す、是れ花の又(また)人なるべし。

梅は含章(妝)殿の軒先で、壽陽公主の額(ひたい)にひとひらの紅(くれない)を点じてより後、ついに人に愛されるようになった。紅梅粧をなす美女のうちでも、唐の江娘がとくにそれが似つかわしく、李王室の三男であった玄宗皇帝はついに梅妃という名を賜った。これは人が梅花に化した例である。
羅浮山のふもとにいたって、梅樹の精が美女の姿をかりて現れ人に愛せられることがあった。月落ちた天にいっぱいに星がまたたく夜のもと、趙才子が梅樹の精と歌をうたい、相い互いに目を合わせて笑い合ったという故事、これは梅花が人に化した例である。

含妝:すなわち含章、含章殿。
壽陽:壽陽公主。南朝劉宋の高祖劉裕の娘。
李家三郎、唐江娘:李家の三男はすなわち唐の玄宗。姓江、名采苹。唐の開元初年に入内し玄宗に愛せられ”梅妃”と呼ばれたが、楊貴妃入内の後に寵を失う。
羅浮:広東省の羅浮山。
趙才子:名は趙師雄。睢陽の人。隋朝の開皇年間(581〜600)、趙師雄は羅浮山に遊び、夢に梅樹の精と楽しんだという。


 蓋萬花在人間世、無不可愛者、然都在梅下風。菊最幽、失寒薄。桃最艷、失脂膩。蓮最香、失開露。梅幽不減菊而態腴、艷不減桃而格清、香不減蓮而體歛。

蓋(けだ)し人間(じんかん)の世に在る萬花、愛すべからざる者無し、然(しか)れど都(すべ)て梅の下風に在り。菊は最も幽なれど、寒薄(かんはく)に失す。桃は最も艷(えん)なれど、脂膩(しじ)に失す。蓮は最も香なれど、開(ひら)いて露(あら)わなるに失す。梅の幽は菊に減ぜずして態(たい)腴(こ)ゆ、艷は桃に減ぜずして格(かく)清(きよ)く、香は蓮に減ぜずして體(たい)歛(まとま)る。

おおよそ、人の世にある幾萬もの花々のうち、愛されないものとてないだろう。しかしながら、すべて梅の下風にたたねばならない。
(たとえば)菊はもっとも幽玄であるが、やや薄く寒々としている。桃はもっとも艶っぽいものであるが、いささか脂じみに過ぎた感がある。蓮はもっとも香り高いものであるが、(花開いた様が)あけっぴろげに過ぎる。
梅のかそけき事は菊に劣らずして、しかもその姿態はふくよかである。艶っぽいことは桃に劣らずして、その品格は清々しい。香は蓮に劣らずして、その体つきには慎みがある。


瓊柯瑤萼、映照嫵媚、與青姬素娥爭妍鬥姝於緋衰碧朽之外、殆將絕凡卉而上與清虛府仙樹者京。是宜嬋娟佳麗、合肺契腑、忘形而神交也。

瓊柯(けいか)瑤萼(ようがく)、映照(えいしょう)して嫵媚(ぶび)、青姬(せいき)と素娥(そが)の緋衰(ひすい)碧朽(へききゅう)の外に妍(けん)を争い姝(しゅ)を鬥(闘:たたこ)う、殆ど將に凡卉(ぼんき)を絶し、上は清虛府(せいきょふ)の仙樹の者に京(なら)ぶ。是れ宜(よろ)しく嬋娟(ぜんけん)佳麗(かれい)、合肺(ごうはい)契腑(きつふ)、忘形(ぼうけい)神交(しんこう)なり。

雪の降り積もったように白い花を咲かせた枝、萼片、それらが互いをひきたてあって、たおやかな美しさがある。その様は青(清?)姫や月の嫦娥に喩えるべき花木(かぼく)が、花衰え草枯れるということを知らず、その優美なことを争い、はなやかなることを競うようであり、平凡な草木からまったく懸絶しており、月の宮殿の仙樹に比肩するかのようである。これはなるほどあでやかで端整な美しさがあり、それは肺腑があわさるように胸中の意にかない、もはや姿かたちを忘れはてて、こころからの交歓を呼び起こすものである。

瓊柯(けいか):雪を載せた枝の意であるが、梅の花の咲いた枝も言う。
嫵媚:美女の形容。なまめかしい、しとやかな美しさ。
瑤萼:花弁のガク。
緋衰(ひすい)碧朽(へききゅう):緋は花。碧は草。花衰え、草枯る意。
青姫素嫦娥:素娥は月界の嫦娥。青姫は未詳であるが、ともに劣らぬ美女の意であり、梅樹のこと。
清虛府:月の宮殿。
合肺契腑:肺腑は胸の臓器、心のことであるが、それにぴったりと合致すること。
忘形神交:形(肉体)を忘れた精神上の交わり。


 然自唐妃、宋主之後、塵語土目、不知梅久矣。今某仙標國色、為花林錦陣冠、自以愛梅稱、倩其所來從白予”君與梅嘗擷芳偎馨、知其臭味、願文之。”

然れど唐妃より、宋主の後、塵語土目(じんごどもく)、梅を知らざる久し。今(いま)仙標(せんぴょう)國色(こくしょく)の某(なにがし)、花林(かりん)錦陣(きんじん)の冠を為す、自ら”愛梅”を以て稱し、倩(こ)いて其所(そこ)に来たりて從いて予に白(つ)ぐ“あなたは梅と嘗て芳を擷(つ)み馨(かおり)に偎(したし)み、其の臭味(しゅうみ)を知る、之に文を願う。”

しかしながら唐の江娘や壽陽公主より、俗世間の耳目は長い事”梅”を理解しなかった。今、仙姿のような風韻で一国に冠絶する某(なにがし)、一叢の花々に比すべき美女達の中より秀でた女が、自ら”愛梅”と称し、請いてそば近くまで来て並んで私に言う”あなたは梅(わたしく)とかつて(梅)花を摘み、その香に親しみ、その馨(かぐわ)しきことをご存知です。文章(文飾)をいただけないでしょうか。”

唐妃:江娘
宋主:壽陽公主
塵語土目:凡庸な衆人の耳目。
仙標:仙女のような飄逸でかろやかな様。
花林・錦陣:いずれも花の群れ。すなわち美女の群。


 嗚呼噫嘻!予因其號而玩其人、豈壽陽之後身乎?一乎二乎?予皆不得知也。雖然、以人視梅、其態、其格、其姿色、其香味、蓋莫知甲乙。至於多情解語、委附結交、則其妙又在六花、南北枝之上、予終謂人之為焉耳。嗚呼噫嘻!匪梅則愛、梅將乞愛。

嗚呼(おお)噫嘻(ああ)!予、其の號に因み其の人を玩(もてはや)す、豈に壽陽の後身や?一や二や?予皆知るを得ず也。雖然(しかりといえども)、人を以て梅と視なせば、其の態、其の格、其の姿色、其の香味、蓋し甲乙(こうおつ)知る莫(な)し。至りて多情(たじょう)解語(かいご)、委附(いふ)結交(けっこう)、則ち其の妙、又六花(りっか)、南北枝之の上に在り、予、終に人に之を謂い為す焉耳(のみ)。嗚呼(おお)噫嘻(ああ)!梅に匪(あらざ)れば則(こ)れ愛さん、梅(うめ)の將(まさ)に愛を乞わん。

おお、ああ、私は彼女の”愛梅”という号ゆえに、その人をたいそうもてはやしたものだが、あるいは壽陽公主の後身ともいうべきであろうか。あるいは人に化した花であろうか。花に化した人であろうか。私も誰もそれを知ることはできない。
そうはいっても、その人を以て梅とみなせば、その表情しぐさ、その品格、その姿態、たしかに梅花とも甲乙つけがたいものである。表情仕草にいうにいわれぬ情感を含み、またよく我が意中を解した。そこで行き来して友誼を結んだが、すなわちその妙(たえ)なることは、雪の積もる梅の枝や、梅花の咲いた枝枝にまさるものがあり、私はとうとう、人にこのことを言いおいておくだけである。
おお、ああ、梅にあらぬこの人を愛さんとすれば、梅もまた愛されんとするのである。

六花:雪、雪の結晶の事を言う。ただし梅枝に降り積もった雪、ないしは梅花そのものを言うん場合もある。
南北枝之:南北にのびて交差した梅枝。



(後記)
”紅梅粧”という化粧法がある。額の眉間のあたりに梅花をかたどった紅でかざるのである。南朝劉宋の時代、梅花の一辺が、壽陽公主の額の絶妙な位置に落ちたことにはじまるという。また玄宗皇帝が寵愛した江娘のそれが妙絶で、梅妃の称号を賜ったという。そのあたりから”梅花”と”美女”の連想が膨らんでゆくのである。”紅梅粧”の以前よりも、梅花は花として人に愛されてきたではあろうが、すなわち”紅梅粧”以降、”梅”が”人(女性”として愛されるようになった、という事である。いうなれば花びらの一片によって、梅の精が人に乗り移ったかのようだ、というところである。

菊、蘭、蓮といった諸名花よりも梅が優れている、という点については異論もあるかもしれない。
四君子のうち花を咲かせるのは菊、蘭、そして梅なのであるが、蘭との比較は避けられている。おそらく衆花の筆頭に梅を挙げる事に異論が出るとすれば、蘭が押し立てられるところであろうか。
梅の鑑賞については”梅譜”によって、古来より事細かに探求されており、宋の范成大、明の王冕、芥子園畫傳などに整理されている。文中、雪との関係が織り込まれているが、まだ花の咲く前、雪の降り積もった梅枝はあたかも白い梅花の咲き誇る枝のようであり、また梅花が満開の梅枝は、雪の降り積もった枝のようでもある、という見方がある。また梅花は小さな白玉を刺した玉かんざしにも形容される。

美文、というものにほとんど価値が認められない現代からすれば、”愛梅述”も修飾煩瑣で内容の無い文章、という一言で片付けられれてしまうかもしれない。しかし文章は美しい、という事だけでも評価された時代があり、それだけで鑑賞にたえうるという価値観が存在した、という事なのである。祝允明は思想家ではなかったとしても、当時稀有な美文家であったとはいえるだろう。
しかし花も人も、あるいは文章も、むろん美しいだけで足れりとはされない。さらに品格や徳性が求められた。ゆえに菊、桃、蓮との比較なのである。
美人の”愛梅”にしても、単に美しいだけでは四君子のひとつである梅に喩えて文にするには及ばないのであり、おそらくは聡明な女性であったのだろう。また祝允明と意気があった人物であることが想起される。
美文が廃れたのは、書き手以前に鑑賞し得る人物がいなくなったという事でもある。しかし文章世界から品位格調が排斥され、美文が駆逐されて後、では意味内容のある文章のみが通行しているかというと、まったくそうではないのは御周知のとおりである。
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三島由紀夫「習字の伝承」より

年頭に書初めをする子供も少なくなってきた昨今。今から48年前の昭和43年(1968年)「婦人生活一月号」に、三島由紀夫の幼少期の書初めの思い出を題材にとった、「習字の伝承」という文が掲載されています。
さほど長くもないエッセイですが、全文引用は著作権に触れると思いますので”書初め”に関する箇所だけを以下抜粋してみます。全文にご興味のあるかたは、新潮社から刊行されている「蘭陵王」という(たぶん絶版でしょうが、古書でみつかると思います)、三島由紀夫の晩年のエッセイ集に収録されています。

『母方の祖父が漢学者であったため、私はごく稚(ちい)さいころから、お正月というと、母の実家へ年始に行って書初めをやらされた。それも固苦しい書初めではなく、座敷いっぱいに何枚もきいろいのや白いのや長大な紙がひろげられて、文鎮で留められ、そのまわりを大ぜいの親せきの子がわいわい言ってやっているなかで、ごく小さな子には長い白鬚の祖父が、筆を一緒に持って運筆を教えてくれる。
「力いっぱい!そう、そう。思い切って!コセコセしてはいけない。思い切り、勢いよく」と男の子は特に声援される。
大きな筆にたっぷり墨を含ませて、大きな紙に思い切り書くのは、一種の運動の快感があって、子供を喜ばせる。子供は自分の体より大きな字を自分が書いた事に、何ともいえない満足を味わうのである。』

三島由紀夫の母親は旧姓を「橋」といい、父親は橋健三という漢学者でした。彼は加賀藩士の瀬川という家に生まれるのですが、その学才を見込まれて、代々加賀藩お抱えの漢学者である橋健堂の家に女婿に入り、以降、橋健三と名乗ります。検索すると肖像を観る事が出来ますが、いかにも漢学者、といった容貌をしております。
三島由紀夫は幼いころに父母と引き離されて、数丁離れた家で祖母との生活を強いられるのですが、両親や母方の親戚とまったく没交渉という事は、当然のことながらなかったようです。

『しかし私は、その後、ちゃんとした先生について、本格的に書道を習うという折がなかった。学校ではもちろん習字を習ったが、これが昔流の、肘をきちんと立て、筆の頭に一銭銅貨を乗せても落ちぬほど筆を垂直に保っていなければならぬという、固苦しい教え方だから、退屈していろいろいたずらをした。』

先生の服の背中にこっそり墨を塗る、というような事をしでかしていたようです。しかし筆を垂直に立てるという筆法は、おそらくは明治以来の、唐様の流れを発展させた書法を教えられていたのでしょう。あるいは仮名や和様などを教えられていたら、日本の王朝文学に耽溺していた平岡少年(三島由紀夫の本姓は平岡)はもう少し身をいれていたかもしれません。

『それで私はどうかというと、こんな私でも時たま揮毫をたのまれることがあり、できた書を意気揚々と母に見せるたびに、この漢学者の娘は、「よくそんな下手な字を人様に上げられるわね」
と言い放つのである。』

三島由紀夫の母親は、漢学者の橋健三の娘で橋倭文重(はし・しずえ)といいました。倭文重は自身も作家を志したこともあるほど、若いころは文学少女であり、三島由紀夫の小説家志望をもっとも後押ししたのが、この母親であったと述べています。(紫陽花の母・『蘭陵王』収録参照)逆に反対したのは、官僚家系の父親であったとも述べています。
私は三島由紀夫の作品を読むとき、時折”キラッ”と閃くような、漢文的な表現や、あるいは漢詩を翻訳したようなレトリックに出会うように思うのですが........あるいは漢学者の祖父や、その薫陶をうけた母親からの影響があるのではないか......と考えています。

ただ、三島由紀夫自身は、自分の作品というのはあくまで日本の平安以来の王朝文学や近世文学、あるいはフランスやロシアといった、海外の文学に影響を受けている事を認めているのみで、漢詩漢文からの影響について語った形跡が(私が読んだ範囲では)みあたりません。
あるいは若い一時期熱中した事を認めている、森鴎外あたりからの影響かもしれませんが、鴎外の文のみから漢籍のエッセンスを吸収したということではないでしょう。
あるいは漢学者・碩学である安岡正篤への、師事といってもいいような交際も考慮する必要があるかもしれません。三島由紀夫の事ですから、傾倒した王陽明も原文で読んでいたのではないか。

それはさておき「習字の伝承」というタイトルのわりには、三島由紀夫自身はまったくその「伝承」に預かっていないということが書かれています。彼自身のライフスタイル上の趣味はハイカラ、西洋趣味で、時に中国趣味は”悪趣味”とさえ言っているあたりは少し残念な気もします。
無論、大陸には古今相当な悪趣味もあるのですが.........当時の文学者の多くのように、東洋の骨董や古美術に傾倒するというところがなかったようです。
稀代の文士でありながら、漱石のような文人趣味は全然無いし、鴎外のような漢文書き下し調の文語体小説も書いていない、(自身を文壇に推薦してくれた)川端康成のような達筆も持ち合わせていない。

おそらく三島由紀夫にとって、もっとも美しい芸術が言語であり、文学だったのでしょう。個人的には、あの「金閣寺」を描写した魔術的な文体でもって、東洋美術の評論を書いて欲しかった気もするのですが。庭園や建築、時に音楽に言及する事はあっても、文物については関心を向けていないようです。
ただ三島由紀夫が書いた場合、現実の美術品よりも文章の中のそれが美しく、実体から乖離してゆくであろうところが、難点ではあるでしょうけれど。
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祝允明 唐子畏墓誌並銘

明代の文芸文化の発展が宋代のそれと異なっている点のひとつに、著名な詩人、書画家のうちに、官界での職位の高い者があまり見られない、と言うところであろうか。無論、官界での出世が、詩文書画の実力に相関などあるはずがないのだが、宋代の場合、欧陽脩や梅尭臣、王安石を始め、司馬光、蘇軾兄弟など、政府高官に詩人や名文家、書法に長けた者を多く輩出している。これは宋代に入って急に増えた知識人達を養うのに十分な経済が、まだ十分には発達していなかったことが理由にあるだろう。貴族制から脱し、地方の地主階級を中心として新たに知識人階級が勃興したが、蘇軾や王安石のような中央政界の高級官僚ですら、一度失職すれば自給自足でもするよりなかったのである。官途に無縁なまま、大家族を養いながら著作に専心するのは難しかったのだろう。政界に縁遠い黄庭堅も国立大学の学長ではあったし、自由不羈とみられる米芾ですら、地方の低い官職を転々としているのである。

明代に入ると、宋代とは逆に国政レベルの政治官僚や、地方太守といった権力者層に、見るべきほどの文化人が現れなくなる。祝允明や唐寅の生きた明代中後期の江南地方は、商業、文化が爛熟し、知識人の子弟のうちには官吏とならずとも、文筆でもって生計を立てることが可能な者が現れたのである。

こういった人士達の出現は、王朝時代においても社会が安定し、経済が活発な一時期に限られる現象である。明代の中〜後期は、遠く新大陸南米からの銀の流入により江南経済が過熱し、ありあまる経済力が文化面にも注がれたのであった。同様の現象は清朝初中期の江南でも塩業を基礎として再現し、袁枚や揚州八怪といった専業文化人が現れた。

祝允明自身は地方試験に合格し、”挙人”の資格は得たものの、唐寅と同様、ついに進士には及第しなかった。一度広東で県知事を務め、南京応天府の通判も務めてはいるものの、宮仕えに嫌気がさして以後はもっぱら蘇州にあって筆墨で生活したのである。

家譜の序文や碑文、銘文、特に墓誌銘を依頼されることが多かったが、内容は依頼者の注文通りに書いてやったと言う。墓誌銘には決まった形式があり、故人に好ましからざる所業があったとしても、むろんそれは書かない。せいぜい依頼者が喜ぶように美文で飾り立ててやるのである。依頼人は名高い祝允明の撰であるという事で大いに孝養をたてたつもりで、また世間への体面も良い。当の祝允明としては、こうした作文は潤筆料目当ての”応世の文”であって、自分の節義とは何ら関係ないのである。

 

この祝允明のような処世態度は市中の隠者、いわゆる”市隠”というべきものである。すなわち市井にあって俗世間と付き合い、生計を立てながらも節操はかえない、というところである。むろん”市隠”というような生き方は、教養を積んだ知識人のあり方としては社会に対してやや消極的、と言う向きもあろう。さりながら、祝允明は少し後の王陽明のように、後の社会に影響を及ぼすほどの哲学・思想家ではなかったとしても、やはり時代の文化を代表する人物なのであった。

数ある”祝允明撰”の墓誌銘であるが、この唐寅の墓誌銘はとりわけ異彩を放ち、哀切で胸を打つ内容である。これは唐寅の弟、唐申(子重)の依頼で書いている。 墓誌銘は故人の行状を依頼人に聞かなければ書けないが、祝允明は唐寅が十代のころから弟のようにかわいがっていた人物である。科挙の不正事件への連座もふくめて、唐寅の生涯を身近に目の当たりにしていただけに、時にその筆致は生々しい。祝允明にとっては、この墓誌銘は”応世の文”の類などではないだろう。唐寅の女婿である能書家の王寵がこれを浄書したというが、筆跡は伝わらない。 祝允明は墓誌銘の他、「哭子畏二首」「再挽子畏」の詩を作り、唐寅の死を嘆いている。

 

”墓誌銘”はすなわち墓誌と銘からなる。以下に大意を示す。



唐子畏墓誌並銘   祝允明



子畏(しけい)死す、余、歌詩(かし)を為し、往(ゆ)きて之を哭(こく)し慟(なげ)く。將(ま)さに葬(ほうむ)り、其の弟、子重(しちょう)、銘を為さんことを請う。

子畏、余の肺腑(はいふ)の友、子重に微(あら)ずも且(か)つ之を銘す。

ーーーー子畏が死んだ。私は詩をつくり、弔いに行って彼の死を嘆き悲しんだ。埋葬するに際して、その弟の子重は私に子畏の墓誌銘を書いてくれと頼んだのである。

子畏は私の心からの友人であり、たとえ子重に頼まれなくともこの墓誌銘を作るのである。



子畏の性、穎利(えいり)に絶し、千士(せんし)に度越(どえつ)す。

世の所謂(いわゆる)穎者(えいしゃ)、數歲にして能く科舉の文字を為し、童髫、科第に中(あ)たり、一日、四海(しかい)驚き之を稱(しょう)す。

子畏不然(しからず)、幼きより書を讀(よ)み、門外の街陌を識らず、其の中に屹屹(きつきつ)として、一日(いちじつ)千里の氣(き)有り。

ーーーー子畏(しけい)は生まれつき大変に賢かった。それは千人の士大夫の上に出るほどのものであった。

世のいわゆる賢い者というのは、数歳で科挙の答案を書く事が出来、まだ童形(どうぎょう)のうちに科挙に及第し、一日にして四海(しかい:世間中が)皆(みな)驚いてこれを賞賛する、というものである。

しかし子畏は違った。幼いころから本を読み、家の外の世間を知らず、(家と書物の世界の)中(うち)に孤高を守って、高い気概を保っていた。



友一人に或(とらわ)れず、余(よ)之を訪ねるに再(さい)、亦(また)答えず。

一旦(いっせき)、詩二章を以て余に投じ、傑特(けつとく)、之の志は錚然(そうぜん)たり。余亦(また)詩を以て報い、其の少しく舒を弘げるを加うるを勸む、萬物の轉高(てんこう)轉細(てんさい)を言い、未だ華峰の都聚を建てるべきを聞かず。惟(おも)うに天の極峻にして且つ無外、原(はじめ)て萬物の宗と為すが稿(ごと)しと。

子畏始めて肯可(ていか)し、久しゅうして乃ち大契す、然れど一意に古豪の傑を望み、殊(こと)に場屋(じょうおく)の事に不屑(ふせつ)す。

ーーーー友人は一人にとどまらなかったが、私が幾度か訪ねても、ろくに返答がなかった。

あるとき、二章の詩を私に寄越したのであるが、詩には彼の抜きんでて高い志が鳴り響いていた。 そこで私は彼にもう少し視野を広げるように進め、万物が変移流転するさまを説き、(喩えて言えば)眺めるには立派だがとても険しい山峰に、大きな都会が建設されるという事はまだ聞いたことないと言った。 (また喩えるなら)天は高みの極地にありながら、(その広がりは)極まりないものであり、それではじめて(老子の言う天道は)”万物の宗”となるがごとくである、と言った。 (つまり才能があってもそのように孤高を守っていては、大成しないよ、と説いたのである)

子畏は始めて納得し、しばらくして大いに意気投合した。しかしひたすらに古(いにしえ)の豪傑のように生きる事を望み、とくべつ科挙の事には関心を持たなかったのである。



其の父廣(とくこう),賈業し而つ士行す、將に子畏を用いて家を起こさんと、舉業(きょぎょう)に到り、歸して子畏を教える、子畏、父の旨に違(たが)うを得ず。

廣、常に人に語るに、此の兒は必ず名を成さん、家を成し難き殆(あや)うきや?父沒(ぼ)っすも、子畏猶(な)を落落(らくらく)。

一日、余之に謂いて曰く“子、先志を成すを欲さば、當(まさ)に且つ時業に事し、若(も)し必ず己れの願に從わば、便ち襕襆(らんぼく)を褫(はが)し、科策を燒くべし。今徒(いたずら)に泮廬(はんろ)に籍名(せきめい)し、目に其の冊子を接(う)けず、則ち取舍(しゅしゃ)奈何(いかに)”

ーーーー彼の父の徳廣は、商いをしながら、読書人の務めもしていた。子畏をもって家運をもりたてようと考え、(自ら)科挙の八股文を学び、子畏にこれを教えた。子畏は父の意志に従うしかなかった。

徳廣は常々人に、此の子はかならず名を成すだろう、大家を成すのは難しくないだろう、と言った。(しかし)その父が亡くなっても、子畏はまだうだつがあがらないままであった。

ある時、私は彼に言った。「君、志を実現したいというのであれば、まずあわせて生計を立てる道に専念すべきだ。もし念願がかなったら、そのときこそ官服を脱ぎ捨て、科挙の参考書など焼き捨ててしまえばいい。いまいたずらに学校に在籍しながら、教科書を読もうともしない、その選択はいかがなものか。」と。



子畏曰:“諾。明年當(まさ)に大比(だいひ)、吾れ試みて一年を捐(けん)じ力(つと)めて之を為さん、若し售(う)ること勿(な)ければ、之を一擲(いってき)する耳(のみ)。”即ち戸を墐(ふさ)ぎ交往を絶し、亦(また)時輩の講習を覓(もと)めず、治むるところの毛氏の詩と所謂(いわゆる)四書の者を前に取り、翻討(ほんとう)擬議(ぎぎ)、祗(まさ)に時義に合うを求める。

ーーーー子畏が言うに「わかりました。来年はちょうど郷試があります。私はためしに一年をささげて科挙の勉強に努力しましょう。もし合格しなければ、それをなげうつだけのことです」すなわち門戸をふさいで交友を絶ち、また当時の八股文教師の講義などは受けず、毛詩(詩経)を修得した者と、いわゆる四書を学んだ者とを前に、繰り返し討論し、文の意義を考え、それが現代においてどのような意味を持つか?という事を追求した。



戊午、應天府に試し、錄して第一人を為す。己未、會試に往く。時に傍郡に富子(ふうし)有り、亦已(すで)に鄉に於いて舉(あ)げ、子畏を師慕す、載りて與俱(とも)に北す。

既に試に入り、二場の後、富子に仇(あだ)する者有り、朝に於いて抨(はじ)き、主司(しゅじ)と私(わたくし)有りと言い、並(なら)んで子畏連(つら)なる。

ーーーー戌午の年、応天府(南京)の郷試を受験し、首席で合格した。(翌年の)己未の年、会試を受験しに(北京へ)出かけた。時に近郊の郡に資産家の子がおり、すでに郷里で郷試に合格して挙人になっていたが、子畏を師と慕い、乗り物に一緒に乗って北(の北京)へ行った。

試験が始まり二次試験まで進んだところで、この資産家の子に恨みを持つ者がいて、宮廷の場で弾劾して、(彼が試験監督である)主司と私的な関係があると言い、一緒に子畏も関連があるとされた。



詔(みことのり)を馳(は)せて禮闈(れいい)に敕(めい)じ、此の主司(しゅじ)閱卷を得(え)ざらしめ、亟(いそ)ぎ富子及び子畏を捕えて詔獄(しょうごく)に付し、主司を逮え出し、同じく廷に於いて訊(とが)む。

富子既に承し、子畏は辨を復さず、與(とも)に罰を同じく、浙藩の掾に黜(しりぞ)ける、歸りて往かず。或(ある)いは少(しば)らく貶(おとしめ)るを勸(すすむ)も、異時(いじ)亦(また)一命を失せず。子畏大笑、竟に行かず。

ーーーー(そこで)皇帝の命令書を会試会場に飛ばして命令し、この(試験監督の)主司に試験答案の閲覧を禁じ、急いでその資産家の子と子畏を捕えて投獄し、主司を逮捕し、一緒に法廷の場で訊問した。

資産家の子は既に罪を認めたが、子畏は抗弁はせず、(とうとう)一緒に同じ罰を受け、浙江の補助員として都を追放した。(子畏は郷里に)帰ったが任地へ行かず、ある者はしばらくの間我慢せよと勧めたが、子畏は大笑いをして、ついに(任地に)行かなかった。



放浪の形跡、翩翩(へんぺん)として遠遊(えんゆう)す。扁舟に獨(ひと)り祝融に邁(すす)み、匡廬、天臺、武夷、東南に海を觀、洞庭、彭蠡に浮かぶ。蹔(しばらく)して歸(かえ)り、將(まさ)に復た四方を踏み得んや。

久しくして少(やや)愈(い)え、稍(しばら)く舊(も)との緒(しょ)に治まる。

ーーーーその後の放浪の形跡をたどれば、あてどもなく遠方へ旅をしている。小さな小舟に独り浮かんで祝融(楚の国)に行き、匡廬(九江廬山)、天台(山)、武夷(山)、さらには東南の方で海をみて、洞庭湖、彭蠡(鄱陽湖)に浮かぶ、といった具合であった。しばらくして帰って来るや、すぐに出かけてあちらこちらを踏破した。

久しくそのようにしていて傷心も少しいやされ、しばらくしてもとのような生活に戻ったのである。



其の學務は造化(ぞうか)を窮研(きゅうけん)し、象數(しょうすう)を玄蘊(げんうん)し、律歴(りつれき)を尋究(じんきゅう)し、楊(よう)馬(ば)の玄虛、邵氏(しょうし)の聲音の理(ことわり)を求め、而して之を賛訂(さんてい)す。傍に風鳥に及び、壬遁、太乙、天人之間に出入し、将に一家の學を為す、未だ章に成るに及ばして歿(ぼっ)す。

ーーーーその学問は造化の理を研究し、易学の数理に玄妙深奥を極め、歴法の根底を探り、楊雄、司馬相如の詩賦、邵雍の音律を求めつつも、それに賛と訂正を加える、といったものだった。その合間に風鳥、壬遁、太乙といった(占星術にも通じ)、天の理(ことわり)と人の世の間を往来して、まさしく一家の学問と言うべきものを成したのだが、まとまった文章を作る前に亡くなってしまった。



其の應世に於ける文字、詩歌は甚だ惜まざるも、意謂(おもえら)く後世に是を知る在(あら)ざると、我れ一班(いっぱん)に見せて已(やま)ん。

奇趣(きしゅ)時に發っし、或いは畫に於いて寄す、筆を下さば輒(すなわ)ち唐宋の名匠を追う。

ーーーーその世に応じる文学としては、詩歌をそれほど重視していなかったが、これは後世その詩意を理解するものなどいないだろうと、ごく内輪の者に見せるだけであった。

変わった着想が時に沸いて、画に描くこともあったが、筆を下せば唐代宋代の巨匠に迫る腕前であった。



既に復た人の請乞を為す、煩雜して休ず、遂に亦(また)精に及ばざるを諦む。且つ已(すで)に四方(しほう)之を慕い、貴賤富貧と無く、日に門に詣で征(ゆ)きて文詞(もんじ)、詩畫(しが)を索(もと)め、子畏隨(ほしいまま)に之に應じ、而して必ずしも至る所を盡さず、大率(だいそつ)遐邈(かばく)に興(きょう)を寄せ、一時の毀譽(きよ)重輕(けいちょう)を以て取舍(しゅしゃ)を為さず。

ーーーー何度も人が(その書画を)乞い求めること、煩雑で休みなく、とうとう細部までの完成は諦めざるえなかった。また四方の人が彼を慕って、身分の高下、お金の有無にかかわらず、彼の家の門に日参しては文章や詩、画をもとめたが、子畏はきままに応じてやった。必ずしも注文どおりに書き尽くすわけではなく、おおよそ変幻自在なところに面白味があり、その時その時の人の評価による毀誉褒貶などは意に介さなかった。



子畏(しけい)事果に臨み、事多く大節を全うし、即ち不合の少なきは問わず。故に知る者は誠に之を愛寶(あいほう)し、玉(ぎょく)珍貝(ちんべい)に異ならんが若(ごと)し。 王文恪公最も慎予(しんよ)す可く、之を知るに最も深重(しんちょう)。知ざる者は亦た其の才望を歆(よろ)こばざる莫(な)し。而媢嫉(ぼうと)の者先後して之有り。

ーーーー子畏は物事に臨んでは、大きな節義を全うする事が多く、わずかな不都合などは問題にしなかった。だから彼を知る者は誠に宝として愛し、玉石や珍しい貝のように珍重した。王文恪公が彼を知るにもっとも深く、かつこれを重んじた。 (子畏の人となりを)よくは知らない者でも、彼の才能と名声を大いにもてはやしたのだが、しかしながらそれを嫉妬する者も前後して現れた。



子畏、財貨を糞土とし、或いは其の惠を飲し、諱(い)み且(か)つ矯(いつ)わり、其の菑(わざわ)い楽しむ、更に之を下(くだ)すに石とし、亦た其の禍の由を得る也。

ーーーー子畏は財産を糞土のように軽んじ、(父親が残した遺産の)恩恵は酒にして飲んでしまい、また細かい事は言わず、金が無くなっても高楊枝を鳴らし、その災いを(むしろ)楽しみ、更にお金をなげうつことはまるで石ころのようで、それがまた彼の病の元をとなったのである。



桂(かつら)伐(た)ち漆(うるし)割(わ)る、雋(しゅん)を害し特を戕(ころ)す、塵土(じんど)物態(ぶったい)、亦た何んぞ子畏を傷つけん、余(よ)子畏を傷つけるに是をもってせず。

英靈に気化し、人に大略數百歲一發の鐘、子畏之を得、一旦にして已矣(やんぬるかな)、この其の痛(つう)宜(よろ)しく如何(いか)に置かん。

人に過ぐるの傑(けつ)有りて、人歆(よろこ)ばず而して更に毀(こぼ)つ、世に高きの才有(あ)りて、世(よ)用いず而して更に擯(しりぞ)ける、此れ其の冤宜(めんぎ)如何にして已(や)まん。

ーーーー呉剛が幾度も天宮の桂樹を断ち切ろうとして切れず、初めてこれが特別な桂樹という事を理解したように、あるいは漆の木は傷つけられてはじめて漆の液を得るように(子畏はさんざん痛めつけられながらその才能を発揮したのである。そもそも)俊英を害し、特別な才能を殺すような、俗世間の小人輩などが、どうして子畏を傷つけることが出来ただろうか。私はつまらぬ過失でもって子畏を貶めるものではないと考える。

すでに英霊となってみれば、おおよそ数百年の歳月もあたかも一発の鐘の音のように過ぎ去る(はかない)人の一生、子畏はその生を得るも、あっという間に(貶められ、死んでしまい)どうすることもできなくなってしまった、この痛切な気持ちをどのようにすればよいだろうか。

人に勝る傑物でありながら、人はこれを喜ばすに排斥する、世間に高い才能があっても、世はこれを用いずに排斥する。このような、いずれ解くべき恨みはどのようにして終わりにすればよいのだろう。(私は貶められて終えた子畏の死が無念でならない。)



子畏文を為し、或いは麗(れい)或は淡(たん)、或は精(せい)或は泛、常態(じょうたい)無し、鍛煉の功を為すを肯(うべな)わず。

其の思、常に多く而して用を盡さず。 其の詩は初め秾麗(のうれい)を喜び、既に又(また)白氏に倣(なら)う、情性に達するに務め而して語は璀璨(さいさん)に終わる、佳者は多く古と合す。

嘗つて九鯉神に仙遊する夢、一担の惠之墨の夢を乞(もと)め、蓋(けだ)し終に文業を以て傳(つた)えん。

ーーーー子畏が作った文章は、あるいは華麗、あるいは恬淡、あるいは精密、あるいはとらえどころのない、といったもので決まりきったものではなく、良く煉って推敲し完成させようとはしなかった。

その思考はいつも豊富であったが、実用を為すためのものではなかった。 その詩は初めは艶やかでなまめかしい文辞を好んだが、まもなくして白居易に倣って(簡明なものになり)、自分の情緒に合致することにつとめながらも、語の用い方はきらびやかで輝かしく、その佳作は古人の趣に合っていた。

かつて九鯉湖へ遊んだ際に、夢に祈願をしたところ、一抱えもある墨を贈られる夢をみた。おそらくこれによって文筆の業を後世に伝えることになるだろう、と。



唐氏世吳人、吳趨裏に居す。子畏の母丘氏は成化六年二月初四日を以て子畏を生む、歲は庚寅に舍(あた)り、之の名を曰く寅、初字を伯虎、更に子畏とす。嘉靖癸未十二月二日に卒す、年(とし)五十四を得たり。徐を配し、沈継ぐ、一女を生み、王氏國士、履吉之子に許(とつ)ぐ。墓は堙箍Σ搬爾忘澆蝓

ーーーー唐氏は代々蘇州の人で、吳趨(ごすう)界隈に住んでいた。子畏の母の丘氏は成化六年二月初四日に子畏を生み、庚寅の歳にあたっていたので名を寅、初め字を伯虎、後に子畏とした。嘉靖癸未十二月二日に死す、享年五十四歳。妻ははじめ徐氏、のちに沈氏。(沈氏は)一女を生み、国士(国立大学校生)であり、履吉の子である王氏(すなわち王寵)にとついだ。墓は堙箍Σ搬爾砲△襦



子畏罹禍(らか)の後、好く佛事に歸し、六如と號し、四句の偈(げ)を取りて旨(となえ)えた。桃花塢の北に圃舍を治め、日に般(おお)いに其の中に飲み、客來らば便(すなわ)ち共に飲み、去るを問わず、醉いては便ち頹寢(たいしん)す。子重(しちょう)は名を申、亦た佳士、難弟兄(なんていけい)と稱(しょう)す也(な)り。

ーーーー子畏は病気にかかった後では、佛道を篤くうやまい、六如と(佛号)を号し、金剛経の末尾四句の偈語を取ってとなえた。桃花塢の北に農家を営み、しばしばその家で酒を大いに飲み、客が来れば一緒に飲み、もう帰りなさいとなどとは言わず、酔えば寝たいだけ眠った。弟の子重は名を申といい、やはりよき人物であり、(子畏とはどちらが年長かわからないほどの仲の良い)困った兄弟だ、と称した。



銘曰


穆天門兮夕開、紛吾乘兮歸來。

睇桃夭兮故土、回風衝兮蘭玉摧。

不兜率兮猶裴回、星辰下上兮雲雨漼。

椅桐輪囷兮稼無滯穟。

孔翠錯璨兮金芝葳蕤。

碧丹淵涵兮人間望思。

穆(ぼく:音もなく)として天門、兮、夕に開き、紛として吾(われ)乘りて、兮、歸り來る。

桃夭(とうよう)故土(こど)を睇(てい)し、兮、回風(かいふう)衝(つ)いて、兮、蘭玉(らんぎょく)摧(くだ)く。

兜率(とそつ:兜率天)不(あら)ずも、兮、猶を裴回(はいかい)、星辰(せいしん)下上し、兮、雲雨(うんう)漼(そそ)ぐ。

椅桐(きとう)は輪囷(りんこん)し、兮、稼(か)は滯穟(たいすい)無し。

孔翠(こうすい:孔雀と青鸞)錯璨(さくさん)、兮、金芝(きんし)葳蕤(いずい:繁茂)す。

碧丹(へきたん:天宮)淵涵(えんかん)、兮、人間(じんかん)望思(ぼうし)す。



語句の解説までいれると長くなりすぎるので、書き下しに大意を添えるのみとした。 祝允明と唐寅が知り合い、交友を深めていったところから書き始め、唐寅の生涯を概観し、その為人を説いている。 ”銘”では、唐寅の魂が天に昇っていく様が歌われている。助詞の”兮(ケイ)”は訓読しないが、歌の合間にいれて語調を整える役割である。古文復古の影響から、詩経の詩句がふんだんに取りいれられている。 兜率天は仏教用語であるが、この銘では死者が帰るべき天界、というような使われ方である。唐寅は晩年佛典に深く帰依したところからだろうか。あるいは死者の魂が天空に昇ってゆくというイメージは、明代中後期に伝来したキリスト教の影響も考えられる。いうなれば鎮魂歌のような銘である。

”一抱えもある墨”の夢であるが、唐寅が福建省の九鯉湖に遊んだ際、湖の神を祀った祠で夢を祈願した。今風にいうところの「夢」の実現を神様に祈願するのとは違って、この場合の「夢」というのは実際に睡眠時に見る夢である。一種の夢占いであるが、未来を預言する夢を見るように祈る場合と、希望する未来を夢に見せるよう、祈る場合などがある。前者はあらかじめ内容を問わないが、後者は見たい夢を見せるように祈るのである。 ゆえに桃花塢にこのことを記念して「夢墨亭」を建てている。

唐寅は現代においては書画によって名高いが、その志は文学にあった事は、もう少し省みられてもよいのではないかと思う。

 

祝允明と唐寅の交際は途切れなく続いていたようであるが、一方で文徴明とは時に亀裂が入ることもあり、また文徴明が幕僚稼業で蘇州にいない時期もあり、ときに断絶していたようである。このあたり、唐寅から見て年長者でありウマのあった祝允明と、同じ年頃で性格の違う文徴明とで、付き合い方に差があるのだろう。

唐寅の死の後も、祝允明は文徴明やまたその子の文嘉との交際は続いていたようである。

 

唐寅はむろん、当時の蘇州のみならず江南から都にも名の聞こえた名士であったが、一世を風靡した名士であっても、大半は忘れ去られるものである。まとまった文集を編むにいたらなかった唐寅の行跡が広く長く伝えられたのは、やはり祝允明や文徴明といった、畏友の存在が大きかったと見るべきであろう。


 

落款印01

「天硯」 〜(明)張岱「陶庵夢憶」より

だいぶん、ご無沙汰しておりました。実は祝允明の書いた唐寅の墓誌銘、「唐子畏墓誌並銘」を解釈の際、難読の箇所があって少し時間がかかっているところ。そこで先に別の一文をご高覧に呈します。


明末清初の張岱に「陶庵夢憶」という、随筆集がある。日本でも抜粋したものが松枝茂夫の訳で岩波文庫から出ている。
張岱は紹興の名門一族に生まれた。前半生は富貴の中にあって、若いころから放蕩三昧、芝居から歌舞音曲に惑溺し、詩書画骨董通じぬものとてなく、茶を好んで名水と茶葉の産地を能く飲み分けたという。しかし明朝が滅亡に向かう後半生にあっては、戦費と兵乱で資産をすっかり失い、山中に乱を避けて飢餓に苦しみながら著述に勤しみつつ、明の遺民として生涯を終えた。

紹興というのは、現在の浙江省にあってはすっかり地方都市の地位に甘んじてしまっているが、文化水準の高い相当に繁華な都会であった。張岱の張家はその紹興屈指の名門貴族で、張岱の曽祖父の張元忭は徐渭の良き庇護者としても知られる。妻を殺害して投獄された徐渭を、奔走して赦免させたのも張元忭であった。張岱も若いころから徐渭の詩文に傾倒したと述べている。
張家は書画骨董の大収蔵家でもある。手元の法帖集でもふとみると、趙子昴の「道徳経」に張元忭の蔵識が款せられている。古書画の名品の蔵印に、張元忭の名はまま見られるものである。

張岱の後半生は自ら述べるように、兵乱を避けて山中にこもり、老身でわずかな土地を耕作しながら飢えをしのぐ凄惨な生活であった。しかし伯夷叔斉にも比すべき晩年を送った張岱を支えたのは、著述であった。張岱が生涯をかけた明代の通史「石匱書」は、清朝に編纂された「明史」も多くを参照している。
その一方で、昔の栄華の日々の思い出話を徒然に綴ったのが「陶庵夢憶」である。老齢を迎え悲惨な生活のうちにあるのは、若いころに富貴の身でろくなことをしてこなかったからと、その韜晦のきいた諧謔味のある文章には、読むべき味わいがある。やはり万巻の読書によって積み上げた、深い教養に裏打ちされた精神の強さだろうか。ただ過去の栄華と追憶に浸るだけの老人ではなかった、ということなのである。

この「陶庵夢憶」のうちの一編、「天硯」の意訳を試みた。登場人物が張岱以外に二人出てくる。燕客こと張燕客は張岱の従弟で、一生こと秦一生は張岱の友人である。しかし「天硯」の文中、燕客は一生の甥、とあるから遠近の親戚関係にあるのだろう。燕客は張岱が別に伝を立てて述べるに、母親に甘やかされて育った挙句、粗暴で権勢をかさに横暴を極めたろくでもない人物であるが、最後は明朝に殉じている、とある。秦一生についてもまた伝を立てているが、あらゆる遊びを張岱と共にした仲間である。


「天硯」


少年視硯、不得硯醜。徽州汪硯伯至、以古款廢硯、立得重價、越中藏石俱盡。閱硯多、硯理出。曾托友人秦一生為余覓石、遍城中無有。

少年(しょうねん)硯を視るに、硯醜を得ず。徽州(きしゅう)汪硯伯(おうけんはく)至り、古款を以て硯を廢(はい)し、立(たちま)ち重價(じゅうか)を得る、越(えつ)中藏石俱(ことごと)く盡(つき)る。閱硯多かれば、硯理(けんり)出ず。曾(かつ)て友人秦一生に托して余が為に石を覓(もと)むるに、城中遍(あまねく)く有る無し。

若いころに硯をみても、硯の良し悪しはわからなかった。徽州の作硯家の汪硯伯が紹興に来て、古い落款銘を入れて硯を荒らし、たちどころに大金を手に入れ、紹興でめぼしい硯石の収蔵はことごとく尽きてしまった。
(歳を経て)硯を多く見てきたので、硯を視る目がついてきた。かつて友人の秦一生に依頼して私の為に硯を探させたが、紹興の城内をあまねく探しても(私が見るべきほどの)硯石はないという有様であった。

山陰獄中大盜出一石、璞耳、索銀二斤。余適往武林、一生造次不能辨、持示燕客。燕客指石中白眼曰:“黃牙臭口、堪留支桌。”賺一生還盜。燕客夜以三十金攫去。

山陰(さんいん)獄中の大盜(だいとう)一石を出す、璞(あらたま)耳(の)み、銀二斤を索(もと)む。余(よ)適(たまた)ま武林に往き、一生(いっせい)造次(ぞうじ)辨(べん)ずる能わず、持して燕客に示す。燕客(えんきゃく)石中の白眼(はくがん)を指し曰く“黃牙臭口、桌を支え留めるに堪えん。”一生を賺(すか)して盜(とう)に還(かえ)す。燕客夜に三十金を以て攫(さら)い去る。

紹興の獄中の大泥棒が、一つの硯石を出してきたが、まったく玉の原石のような硯石で、銀二斤を要求してきた。私はたまたま武林(杭州)に行って留守であり、秦一生はすぐには鑑別出来なかったので、持っていって張燕客に見せた。燕客は石の中に瞳の無い白眼があるのを指して「これは”黄牙臭口(歯が黄色く口が臭い)”というべきもので、テーブルの脚を支えるのに使えるくらいのもんだ。」と、一生を説いて盗人に還(かえ)させた。(ところが)燕客は夜に金三十両をもって(盗人の手からその石を)さらいとってしまったのである。

命硯伯制一天硯、上五小星一大星、譜曰“五星拱月”。燕客恐一生見、鏟去大小二星、止留三小星。一生知之、大懊恨、向余言。余笑曰:“猶子比兒。”亟往索看。

硯伯に命じ一天硯を制せしむ、上に五小星一大星、譜に曰く“五星拱月(ごせいきょうげつ)”。燕客(えんきゃく)一生(いっせい)の見るを恐れ、大小二星を鏟(けず)り去り、三小星を留め止む。一生之を知り、大いに懊恨(おうへん)し、余に向かいて言う。余笑って曰く“猶子(ゆうし:甥)兒に比す。”亟(すみや)かに往きて看るを索(もと)める。

(そして燕客は)汪硯伯に命じて、一つの天然硯を作らせた。上に五つの小さな星に大きな星がひとつあり、硯譜に曰く「五星拱月」。燕客は一生が見て露見するのを恐れ、大小の二つの星を削りとってしまい、三つの小さな星だけを残した。一生はこの(燕客が自分を騙して出し抜いた)ことを知って、大いに恨み後悔し、私に向かって言ってきた。私は笑って言うに「甥っ子は我が子のようなもの(というじゃないか)。」
そしてすぐに(燕客のもとへ)行って硯を見せるように求めた。

燕客捧出、赤比馬肝、酥潤如玉、背隱白絲類瑪瑙、指螺細篆、面三星墳起如弩眼、著墨無聲而墨沈煙起、一生癡瘛、口張而不能翕。燕客屬余銘、

女媧煉天、不分玉石
鰲血蘆灰、烹霞鑄日
星河混擾、參毀ф

燕客捧げ出ず、赤きこと馬肝に比し、酥潤(すじゅん)玉の如く、背に白絲の瑪瑙指螺(しら)細篆(さいてん)に類(に)たるを隠し、面に三星墳起(ふんき)し弩眼(どがん)の如く、著墨(ちゃくぼく)無聲(むせい)而して墨沈み煙起つ、一生癡瘛(ぎきつ)し、口張り而(しこう)して翕(わ)する能わず。燕客余に銘を屬す、銘に曰く

女媧(じょか)煉天(れんてん)、玉石を分けず
鰲血(ごうけつ)蘆灰(ろばい)、霞を烹(に)、日を鑄(い)る
星河(せいが)混擾(こんゆう)し、參(しん)箕(き)翕(ごう)して横たわる。

燕客は硯を奉げて出してきたが、その赤いことは馬の肝(きも)のようで、滋潤(じじゅん)なること玉の如く、硯背に瑪瑙か指紋か小篆の模様のような細かい白線を隠し、面には三星が墳墓のように盛り上がりまた怒った眼のようである。墨を磨れば音もせず、墨がなめらかに沈み込むそばから烟立つように墨水が広がる様である。秦一生はたいそう悔しがり、口をあけたまま、仲直りをしようとしなかった。

燕客は私に銘を依頼したが、その銘に曰く

女媧が天を補修した時、玉と石ころを区別しなかった。
女媧が洪水をせき止めるために使った蘆(あし)の灰に大海亀の血を注ぎ、霞を煮て、太陽を鋳造した。
天の川が混濁して、參(しん)や箕(き)といった星座が合わさって天に横たわった。
(そのような硯である)


(補足)

「天硯」というのは、いゆる天然の石の形をした、今で言う「天然硯」というものであろう。馬肝に喩え、眼の出ている事から普通に考えれば端溪石であるが、「赤い」と述べている点で、存外福州石の佳品かもしれない。「怒眼」というように、眼が出た場合、その部分だけを盛り上げて残すような作硯手法がある。
「山陰」とは今の紹興のことで、「越」といえば、紹興・杭州を中心として長江以南の今の浙江省くらいの地域である。
獄中の盗人から硯石を買うところが面白いが、獄中の罪人が私物を所持しているのも奇異な印象であるが、張家の権勢のなせる業か。盗人はその金で保釈を買ったかもしれない。

ちなみに岩波文庫の「陶庵夢憶」の序文では、周作人が若いころに投獄されていた祖父の元で「陶庵夢憶」を読んだ、という話を紹介している。獄中の祖父の元で孫が読書するというのもおかしな話のようだが、投獄といっても、軟禁のような恰好だったのかもしれない。周作人の祖父は科挙の不正事件に連座している。今でもそうだが、政治犯の監獄というのは、一般の監獄とは違った待遇もあったのだろう。なので獄中の盗賊が私物を所持している、という事もありえたのかもしれない。

しかし燕客は一生に自分が横取りした事が露見する事を恐れて、なんと眼を削り取ってしまったというが、所有欲を満たすためにひどい事をするものである。もっとも、そのかいもなく露見してしまっているのだが。
こういった僻(へき)の強い困った人物というのは、ままいたようだ。「浮生六記」にも、蘭の株分けを断ったところ、ひそかに熱湯をかけてその蘭を枯らせてしまうような人物が出てくる。その類であろうが、執着が強すぎるとかえってそのものを損なってしまうという事だろう。
文中、徽州の汪硯伯という作硯家が出てくる。往時も徽州からは新安江と銭塘江が運河で結ばれ、水路伝いに杭州や紹興とは連絡が盛んな地域であった。歙州硯の産地の徽州には今でも作硯家が多い。そのうちの優れたひとりなのだろう。
「古款を以て硯を廃(あら)し」は、今でもよくあることなのだが、さほどでもない硯にそれらしい銘文を入れて、古硯と偽って高値で売る、という事なのであろう。
燕客が「白眼」を指して欠点をあげつらうところがあるが、眼は一般に瞳の無いものは下等とされる。あるいはこの硯の眼がすべて「白眼」であったとすれば、やはり端溪ではなかったのかもしれない。白眼は端溪も出るが、まとまって出るのは稀である。しかし汪硯伯はそれを月と星と見立てて、「五星拱月」にうまく仕立てたのであろう。
この燕客の手口も現代でも良くみられる。たとえばオークション会社などが依頼する文物の鑑定家が、本物が出たら「偽物だ」と言って出品を取り下げさせ、自分が裏で手を回してモノにしてしまう、というようなやり口である。
燕客の「黃牙臭口」の牙は歯の事でそのまま訳せば「歯が(よごれて)黄色く、口が臭い」であるが、要はとるに足らない下等なものだ、という悪口であろう。

現在の大陸の玩物喪志連にも通じるようなお話であるが、外見や作硯はともかく、最後は墨を磨ってその優れたところを述べている。このあたりは、やはり王朝時代の知識人達である。墨を磨ることも硯の鑑賞のうちなのである。外見がすべての価値であれば、燕客もあえて星を削り取るようなことはしなかったであろう。張家ともなれば、磨った墨も明代嘉靖萬暦あたりの佳墨に違いなく、まったくもってうらやましい時代である。ちなみに端溪のまがい物が多い福州石でも、佳品となるとなかなかの鋒鋩をもつものがある。

張岱の銘では女媧の「煉石補天」をモチーフにしているが、「煉石補天」の際にこぼれおちた石である云々というのは、硯の佳品や玉石の比喩によく使われる。紅樓夢の宝玉が持つ石も「煉石補天」の落ちこぼれである。
また女媧は鰲という、大海亀の足切った血で蘆(あし)の灰を固めて洪水を防いだ、という伝説もある。つまり赤味を帯びたこの硯石をこれに喩えているのだろう。そして硯背の刷糸紋(さっしもん)のような石品を天の川にみたて、眼を參(しん)や箕(き)といった、星座に喩えているわけである。參(しん)はオリオン座の連星を指すこともあり、また箕(き)も四つくらいの少ない星で構成される星座である。これも硯の、もとは五つあり後に三つになった星の数と呼応している。

しかし考えなければならないのは、硯に対する態度である。燕客は、もとは「璞(あらたま)」つまりは原石のような硯材を大枚をはたいて購入し、著名な作硯家に依頼して硯に仕立て、最後に銘を施している。省みるに昨今、大陸で硯をもとめる者といえば、まず銘の有無や来歴を見、硯材の良否は見ない。王朝時代の知識人と今の大陸の好事家の硯識の隔たりの大きさとは、かくのごとくなのである。
落款印01

明倫堂騒動

来月の8日から旧暦の春節である。そこで春節にちなんだ、江南の昔噺をひとつ.......
 

明代も後半にはいり、嘉靖年間初めの明王朝は、倭寇の猖獗もまだ本格化しておらず、束の間、平穏な時代を謳歌していた。ある歳の春節。蘇州の祝允明こと祝枝山は、唐解元、文衡山とともに”江南四才子”と並び称される友人、周文賓に杭州の彼の家に招かれた。無論、弟分の唐解元も一緒である。文衡山も招かれたが、謹直な文衡山は正月はやはり蘇州郊外の郷里で過ごしたいという。ともあれ江南人士の耳目をそばだてる四才子のうち三子がそろい、春節を楽しんで過ごそうという事に相成った。

杭州に着いてからというもの、文士名士がひっきりなしに来訪し、連日の宴席である。ある晩、したたか飲んだ祝枝山と唐解元、酔い覚ましに周文賓と連れ立って杭州城内をそぞろ歩いていた。春節、今の新暦で言う二月は、江南とはいえ夜はまだ寒い。西湖の湖畔には白く濃い霧が降りていたが、城内の家々は、正月の宴でどこもにぎやか。大小の妓楼は紅い灯に照らされながら、管弦の音と互い違いに妓女のあでやかな歌声と嬌声、時折ドッと座が沸き立つ声が漏れ聞こえてくる。

しかし祝枝山、この太平の江南で蘇州と一二を争う繁華な杭州城内を、心を許した友二人と練り歩きながらも、街の光景に一抹の物足りなさを禁じ得ない.......したたかに酔ってはいても、どこか頭の一部が冴えわたっている、という人物がいるものだ。李白酒一斗詩百篇式の、である。あるいは祝允明もその類だったのかもしれない。もしくは酒が入ることで、感覚のある部分が一層研ぎ澄まされてしまう、という特殊な性質の頭脳をしていたのかもしれない。ともあれ祝允明にとって、酔ってはいても詩書画の感性だけは、薄らがかった酔いの霧の底に沈んでしまうという事はなかったようである。その彼が気に留めたのは、やはり筆書に関わる光景であった........この杭州の家々の戸口には、正月だというのに紅い紙に書いた對聯.....春聯を掲げている家が無いのである。

「蘇州では正月ともなれば、おめでたい言葉を對聯にして、赤い紙に書いて”春聯”と呼んで戸口に貼るんだ。杭州ではそういった習慣がないのかな?」

春聯の起源は唐代にさかのぼるが、宋代を経て盛んになったのは明代はじめ、朱元璋が好んだところからと言われている。特に官吏の家では對聯をつくって門扉に掲示する事が奨励された。それが民間庶民にも広まってゆくのである。しかし蘇州ですでに定着していた習慣が、杭州で見られないのは解せないところである。まあ、”蘇州杭州、地上の天国”と言いながら、とかく対抗意識の強いのがこの二都市である。この”噺(はなし)”の成立自体、杭州に対する蘇州の文化的優越を顕示せんがため、というようなフシを感じなくもない。あるいは春聯は掲げられているものの、感心できるような対句が見当たらない、という事かもしれない。

木版印刷した春聯は既に宋代から存在したといわれるが、そのような既製品を用いるのは庶民の家で、いやしくも士大夫読書人の家ともなれば、それなりに気の利いた対句と、やはり風格を有した揮毫でもって筆書されているべきところである。この噺に原型となるべき事実があったとすれば、杭州のそれなりの門構えの邸宅の春聯に、祝枝山の目にとっては、内容にも筆跡にも見るべきものがなかった、というところだろう。それが噺の成立過程で、よりわかりやすく極端な内容に変じたのかもしれない。

しかしともかくこの”噺(はなし)”の中では蘇州にある春聯が、杭州には無い、という事になっている。
ともあれ祝枝山、酔い加減で、興を催したのか

「これは正月だというのに、いかにも寂しいじゃあないか。ひとつ私が書いてやろうじゃないの。」

と、唐解元が下げていた袋の中から筆墨硯を取り出そうとする.....この筆墨硯、それにいくらかの紙を携行するというのは、当時の文士のたしなみでもある。唐解元の携帯する道具は書画の名人らしく、特に念の入った精選されたものである。祝枝山や周文賓と一緒なのだから、興が乗れば、場所がどこででもしたためようという魂胆である。巻いた紙、佳墨、大小の筆にやや大振りの硯もある。
すると周文賓が二人を押しとどめ、

「祝兄!そんなに酔ってちゃ、手元も怪しいもんだし、いい加減な落書きなんぞしたらとんだ災難を被りますよ。およしなさい。」
「いや、いいじゃないか。おめでたいものだし。」

とかなんとか言いながら、三人はとある豪邸の前を通りすぎようとした。祝枝山、

「ちょうどいい、なかなか立派な門構えじゃないか。ひとつここに書いてやろう.....」

杭州人の周文賓は慌てて

「ここは挙人の徐子建さんの家ですよ。お金も権勢もあって、杭州の文壇を牛耳っています。あえて逆らう人はいません。こんなところに勝手な事は書かないでください。何があるかしれませんよ」
「何!威張った金持ちだと!とすれば、それはますますやはり何か書かないわけにはいかんじゃないか。なぁに、かまうもんか......」

周文賓の制止も聞かず、唐解元などは硯を温めながら水入れから水を注ぎ、さっさと墨を磨り始めている。祝枝山はしばし思案していると、ほどなくして墨が磨りあがる。祝枝山は一枝の聯筆を執り、手のひらほどの幅に裁たれた紅箋を唐解元に両手で宙に広げさせ、流し加減の楷書でもってたちまち對句を書き上げた。そして向かいの家から重湯を借りて門扉の左右に塗り付け、對聯をべったりと貼りつけたのである。

上聯に曰く“財丁旺日少”
下聯に曰く“悲哀無事來”。

「財丁(財産と人)、旺(さか)んなる日は少なくとも」「悲しみ来る事無し」。なかなか人を食った対句である。そして落款に「姑蘇祝允明寓三元坊周宅」と落款までしたのである。周文賓は酔いも半ば醒めて、

「徐子建は”両頭の蛇”なんて言われるしつこい悪党ですよ。あとでどんな仕返しをされるか.....」

と言えば、祝枝山は余裕の体(てい)で、

「なあに、奴が”両頭の蛇”なら、こっちには”洞窟に赤蝮”(一計あり)ありさ。かかってくるなら、ひともみしようじゃないか。」

とうそぶけば、

「面白い面白い」

と、唐解元も手を叩いて喜んだ。文字通りの酔狂である。

周文賓は頭を抱えたが、祝枝山がこうなると聞かないのを知っている。早々にその場を立ち去ると、屋敷の裏手から水路伝いに祝枝山と唐解元を蘇州に送りかえしたのである。
さて、この對聯を目にした徐挙人、これを怒るまいことか。周文賓の家に怒鳴り込んだ時には、祝枝山は蘇州へ去った後である。さあ、どうしてくれようかというところ。しかし徐子建も富強と権勢にものを言わせてとはいえ、杭州文壇を牛耳るほどの名のある文人である。文の恥辱は文で雪(すす)がんと、出入りの文人文士達をこぞって引き連れ、蘇州の祝枝山の元へ押しかけたのである。
 

さてその昔、大陸のある程度の規模の街には、明倫堂という建物があった。明倫堂というのは、独立した建物ではない。孔子を祀る文廟、ないし当時の私設学校である書院、あるいは国立の官吏養成校である太学、あるいは地方政府の設立した学宮といった、学問に関係のある施設の構内にあって「正殿」の位置にある建築物を「明倫堂」と呼称したのである。江南の大都会、蘇州にはもちろん文廟をはじめ太学もあり、書院も一二にとどまらなかった。

そのうちのとある書院の明倫堂で、祝枝山と徐子建以下の食客の文士達は対峙したのである。もちろん、刀槍をもって争うというわけではない。筆墨をもってその文才を競うのである。この場合、当意即妙の対句の競作、というものである。
 

まず、徐子建の側から痩せた背の高い学士が進み出ると、
「東典當,西典當,東西典當典東西」
 

とやる。「典當」とは、今で言う質屋の事。「典」は、抵当を取る(抵押)、という意味がある。すなわち東の質屋、西の質屋、「東西典當」で東西の質屋が「典東西」というわけだが、最後の「東西」はこれは方角の事ではなくて、品物の事。つまり東西の質屋が品物をカタに取る、というわけですな。
 

これに祝枝山は間髪入れず、
「南通州,北通州,南北通州通南北」
 

とやる。通州というのは、江蘇省南通の通州区と、今の北京市にも通州区がある。すなわち南の通州と、北の通州。そして南北の両通州は「通南北」ということで、南北に交通が通じている、という意味になる。
この対句の妙は、初め連続する三字二句の語でもって後ろ七字一句を作り、最後の句も上下対称につくらないといけない。そして一字一句たがわずに対をなしている必要があるというわけである。
 

また別の背の低い学士が
「山羊上山,山碰山羊角。……」
 

とやる。山羊(ヤギ)が山に上(のぼ)る、山が山羊の角にぶつかる、山羊が鳴いて廖淵潺─繊法
 

そこで祝枝山、
「 水牛下水,水沒水牛鼻。哞…… 」
 

水牛が水に入る、水牛の鼻が沈んで哞(モウ〜)。これも一字一句対になっている。
 

山東からきた文人は、山東なまりもあらわに
「媽媽騎馬,馬慢,媽媽罵馬」
「媽媽」は現代でも母親の意味ですな。当時は北方ないし山東の方言だったのかもしれない。つまり
 

かあさんは馬に乗る、馬はのろのろ、かあさん馬をののしる
 

というところ。
 

祝枝山はすかさず
「 妞妞牽牛,牛憨,妞妞扭牛」
「妞妞」は、小さな女の子、の事。すなわち
 

女の子が牛を牽(ひ)く、牛は憨(ぐずぐず)、女の子は牛を扭(ゆす)る
 

というわけ。
 

文士甲が
「 屋北鹿獨宿」
 

家の北に鹿がひとり宿る
 

とでもやれば、
 

祝枝山
「溪西雞齊啼」
 

渓(たに)の西で鶏が一斉に啼く
 

と返す。
 

文士乙が
「馬過木橋蹄打鼓、冬冬冬」
 

馬が木橋(きばし)をすぎれば蹄がつつみを打って 冬(トン)冬冬
 

とくれば
 

祝枝山は
「雞啄銅盆咀敲鑼、當當當」
 

鶏が銅盆をついばんでくちばしがどらを敲(たた)く、當(ドウ)當當
 

病気の秀才が
「大籃也是籃、小籃也是籃、小籃放在大籃裏、兩籃並一籃。」
 

大きな籃(かご)も籃、小さな籃も籃、小さな籃を大きな籃に入れれば二つの籃をならべても一籃(かご)
 

祝枝山は
「 秀才也是才,棺材也是材,秀才困在棺材裏,兩材(才)並一材。」
 

秀才もこれ才、棺桶の材料もこれ材、秀才、棺材(かんおけ)の中で困(くるし)めば、兩材(才)を並べて一材なり.....

相手を見てこれを愚弄したのである。

仲間を侮辱された杭州の朱先生が顔を真っ赤にして
「大丈夫半節人生」
 

大丈夫、半月の人生
 

とやる。つまりはに、「お前の命も半月だ」というわけで、ほとんど罵詈雑言ですな。対して

祝枝山は
 「朱先生三個牛頭」

牛頭は、馬面牛頭の牛頭で、冥界の獄卒。つまり朱先生など、冥府の獄卒に囲まれて死んでいるも同然だ、とやり返している。
 

とうとう徐子建が業を煮やし、まず、

「月圓,中秋月圓。 」

月は圓(まる)く、仲秋には月は圓(まる)く。

とやれば

祝枝山
「風扁,房內風扁」

この場合の「扁」は、平らに広がるという意味で、すなわち風が吹き渡る、部屋の中に風が吹き渡る、というところ。実は「月圓風扁」はよく知られた対句。
 

風が吹き渡る。部屋に風が吹き渡る。
 

というところ。
 

今度は逆に祝枝山が
「三塔寺前三座塔,塔塔塔」

とやる。三塔寺とは、三つの仏塔を持つ寺でいくつかあるが、大理三塔寺や、山西省の五台山にある三塔寺が有名なところ。つまり

三塔寺の前に三つの塔、塔、塔。

というわけ。
 

しかしさるもの徐子建も即座に
「五台山上五層台,台台台」

と返す。ちなみにこの場合、「五層台」は五層構造の台、ではなくて「層臺」で”塔台”を表すひとつの単語になるので、五つの台、という意味。すなわち三塔寺と聞いて、山西の五台山を対したのはさすがというところ。そして山の上に五つの台、台、台、という事であるが.......これを聞いて祝枝山はニヤリ。そして言うには

「徐子建、あなたは間違えたな。わたしは三塔寺の前の三つの”塔”、だからすなわち”塔塔塔”とした。あなたはそこで五台山の五つの台としながら”台台台”としたならば、残る二つの”台台”はいったい何処へ消えたんだ?たぶん、ひとつは完成しなかったし、ひとつは大方、倒壊しちまったんじゃあないのかな?わははは。」
むろん、台を五つ並べて”台台台台台”とすれば、対句にはならない。かといって、三つの台ではこれも”五層台”に矛盾してしまうのである。

はっと気づいた徐子建はがっくりである。

「ちなみに言うと、わたしはあなたの屋敷の門に、別に不吉な事を書いたつもりはないんですよ。貴方も含めてだれも気付かなかったようだがね。”財丁旺日少,悲哀无事来”は単なる對聯じゃない。これは回文と卷帘格(倒語)をあわせた、これぞ四句七言詩というわけなんだがね。」

すなわち(大意と併記すれば)
 

一、財丁旺日少悲哀
人財が日に盛んなれば悲しみ少なし
 

二、日少悲哀無事来
日少(若いころ)の悲しみなんてなんてことない
 

三、来事無哀悲少日
悲しみ無き日は多からず
 

四、哀悲少日旺丁財
悲しみ少なければ人財盛んなり

要は意味が分かれば、別段腹も立てまいに、というところ。まさにこれこそが、祝枝山が仕掛けた””洞窟の赤蝮”のはかりごと。深入りしてまんまと咬まれた徐子建、恥の重ね塗りである。すっかり面子を失って、這う這うの体で杭州へ逃げ戻っていった。

以来杭州でも、春節の折には家々の戸口に春聯を掲げるようになったという。
 

この詩について補足すれば、つまり一、の後半四字をもってきて二、の前半四字につないでいる。これは三、と四、も同じ。そして一、をさかさまにしたのが四、で、二、をさかさまに読んだのが三、というわけ。さらに押韻は「哀、来、財」で、平仄もあっている.......なかなか見つけるのは難しいというところ。「日少」は、「少ない日数」という意味と「若い時分」という意味があるところがミソだろうか。祝允明の頓智の才、恐るべし、というところだが、実はこの”噺(ハナシ)”の元になった対句は別の説話にも登場する。

たとえば「東典當,西典當,東西典當典東西」には、江南の賈文通という人物が「春読書,秋読書,春秋読書読春秋」と返したという話がある。すなわち


春に読書、秋に読書、春(はる)秋(あき)の読書で春秋(しゅんじゅう)を読む。
 

ということで、”春秋”を季節と書物にかけているところが味噌か。
また清末の「南亭四話」に拠れば、「南通州,北通州,南北通州通南北」は乾隆帝の考案、という事になっている。むろん、これとて史実ではなく、説話の類である。

この噺自体、さまざまな対句遊びの中で知られたものを集めて、祝枝山にかけてまとめたものかもしれない。登場する對句の掛け合いも、幾つかを除いてさほど優れたものではない。
さらに付け加えるなら、杭州の周文賓は実在しない。祝允明、唐寅、文徴明に周文賓を加えて”江南四才子”とされるが、前の蘇州の三人が実在するのに対し、杭州の周文賓は架空の人物なのである。祝允明、唐寅、文徴明に、徐禎卿を加えて”呉中四才子”なのであるが、”呉”なら蘇州の事である。なので徐禎卿を省いて杭州の周文賓を入れれば”江南四才子”、という事になる。周文賓はこの徐禎卿がモデル、という説もあるにはあるが。
江南四才子の物語は、近年ではテレビドラマにもなったようだが、もとは戯曲に現れる。周文賓は、あるいは蘇州にばかり才子が集まっている事に対する、杭州人の対抗意識が生み出した人物かもしれない。彼は文才に加えて白皙美貌の青年で、女装すれば見事な美女に化けたという。江南地方で古くから伝わる、女性ばかりの演劇、”越劇”には恰好の素材で「王老虎槍親」という演目がある。

ともあれ、ここに掲げた噺では、杭州の文士連がそろいもそろって祝允明にコテンパンにやっつけられている。よってどうもこの噺は蘇州の人の作なのではないかと思うわけであり、成立も存外民国時代くらいなのではないかと考えられるのである。

 

落款印01

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