武漢の老筆店 〜鄒紫光閣益記「鶴立」

鄒紫光閣益記「鶴立」である。蘇州のとある古玩店でこの筆を見つけたときは、実に意外な思いがしたものだ。鄒紫光閣益記「鶴立」“鄒紫光閣“は日本ではあまり知られていない筆店かもしれない。日本のみならず、中国でも江南あたりでは知る人は少ないかもしれない。以前、周品華の筆のところで簡単に触れたが、長江上流の都市、武漢で活躍した筆店である。その発祥は江西は進賢県、文港鎮の前塘村であり古来より周姓の製筆で名高い村である。あの周虎臣と同郷に起源を持つが、蘇州へ出店した周虎臣に対し、鄒紫光閣はより内陸の武漢に店を開いている。
この村は宋代の大政治家にして宋の八大家のひとり、王安石の出身地である。古来より学芸が盛んな地であり、一介の村夫にいたるまで、文雅に親しむ習慣が根付いていたという。
この村の住人は農閑期に筆を作り、周辺の都会に行商に出る、いわゆる「半農半商」の生活を営んでいた。
鄒法栄(ほうえい)と弟の法(ほうりょう)も、そんな村の住人であったが、彼らは特に蘇州で集めた羊毫と毛皮を武漢に運び、製筆業者に卸売りしていたという。ところがあるとき、武漢の筆店の主人がかれらの品物の量の多いことに目をつけ、かつ鄒兄弟が旅費に困っていたことに付け込み、同業の筆店と謀り、鄒兄弟の荷を不当に安く手放すように圧力をかけたという。しかし鄒兄弟はこれに反発し、かえって漢口の花布街に筆店を開いてしまう。道光三十年(1850)のことである。二人はこの店で、いままで扱っていた筆の材料や毛皮を販売する一方、筆を作り小売販売もおこない、数年にして盛況にいたったという。

すこし余談になるが、原材料の仕入れは良い筆つくりに欠かせない。材料が悪ければ、いくら高い技術を持っていても良い筆は作れないのが道理なのである。であるから、筆の原材料を探すにあたっては、とにかく良い毛でありさえすれば産地は問わないものである。中国の筆職人でも、日本の青森の鼬の毛が良いことを知っている人もいる。また日本で作られる羊毫(山羊の毛)の大半は、中国から輸入しているのが現状である。
かつて国営の筆工場では経験を積んだ筆工が原材料の仕入れと選別にあたり、その責任は重かった。改革解放後、国営企業は民営化され、同時に多くの筆工達が独立して個人経営の筆店を設立していったが、材料の仕入れ担当の経験者は有利に経営を進めることができたそうだ。毛筆の原材料を専門に扱っていた鄒兄弟が、筆店を開業後も短期間で成功させたのも、無理のない話といえるだろう。

鄒兄弟は筆店で筆を作ったとあるが、紫光閣の筆工はほとんどが周姓の筆工であったということから、鄒兄弟が筆を自製したのではなく、当初から腕の良い筆職人と組んで店を経営したのではないかと考えられる。
鄒兄弟は店をさらに拡大し、故郷の文港鎮前塘村を筆の製造拠点とし、傘下に600人近い筆工を抱える。年間百万本といわれる生産体制を持つにいたり、当時の中国で最大規模の筆店であったといわれる。
鄒紫光閣益記「鶴立」また道光年間の進士、李瑞清が揮毫するところの“鄒紫光閣”の四字の扁額を掲げ、また曽熙の“紫気盈庭”を石に刻んでその店の庭に置いたという。
後に鄒法栄の孫の鄒文林が漢正街に工房を開設し、高い技術をもった筆匠を集め、独自の製筆技術の確立に努めたという。
1920年代に入り、「成記」、「益記」、「久記」の三家に分かれた。それらの店は武漢の花楼街や民権路一帯に店を構えていたという。また重慶、成都、南京、福州などにも出展し、民国時代の鄒紫光閣はその全盛期を迎えていた。
やがて日中戦争が勃発し、日本軍の侵攻によって武漢が陥落した後は、武漢城内の筆店は休業を余儀なくされる。日中戦争終結後、ふたたび営業を開始するが、今度は国共内戦による国内の混乱の影響を受けることになる。
内戦終結後、鄒家の筆工房は合併し“鄒紫光閣毛筆厰”が成立し、1956年の「公私合営」の前後にはさらに統合が進む。しかし60年代の終わりに勃発した文化大革命の影響を強く受け、店はふたたび休業を余儀なくされるのである。
武漢の名門一族であった鄒家は紅衛兵の標的となり、数々の難を受けたという。李瑞清の“鄒紫光閣”の扁額もこのときに破壊されてしまったのである。
「益記」の第三代目の”掌門人”である鄒敏恵女史は武漢の中学校の教諭であるが、幼い頃の文革の思い出をこう語っている。
鄒紫光閣益記「鶴立」“父親は殴られて反革命分子として投獄され、紅衛兵が毎日家におしかけ、持ち出せるものは持ち出し、燃やせるものは燃やしてゆきました。私はただ怖くて、隠れてこれを避けるしかありませんでした。毎日学校から家に帰るとき、今日はまた家でどんなことが起きているか知れないとおもって、とても怖い思いをしていました。私の家族は以前からの友人や近所の家を訪ねることをしなくなりました。他人にまで累が及ぶことを恐れたためです。また親戚の間を行き来することも非常に少なくしたのです。”
鄒紫光閣益記「鶴立」80年代の改革開放経済の下、鄒紫光閣はふたたび営業を再開する。かつての“成記”の職人を中心に技術を回復させ、1985年には、筆工116名が180銘柄の筆を年間34万本あまり製造していたという。しかし90年代以降の毛筆市場の変化に対応しきれず、衰微を辿る一方であると言う。
武漢市では、伝統ある製筆ブランドの喪失を懸念し、武漢市非物質文化遺産保護中心が鄒紫光閣の製筆技術を「市級非物質文化遺産保護項目」に加えたということである。しかし現在はわずかな周姓の老筆工達が、前塘村で細々と製筆を続けているのみであるという。
あるいは、文革期に”上海工芸”の下に日本への輸出を伸ばした江南の製筆業に比べ、文革によって打撃を受けた鄒紫光閣は、80年代の復活後も海外輸出の潮流に、乗り切ることが出来なかったのかもしれない。鄒紫光閣益記「鶴立」この「鶴立」は少し使用された状態であったが、材料の山羊の毛の質の良さは隠れようもない。またその筆管、刻字も、湖州や蘇州・杭州といった江南の筆匠や、あるいは北京や天津の筆匠の瀟洒な雰囲気とは一風違った、質朴だが雄渾さも備えた独特な作行きである。
「鶴立」だが、三国魏の曹植の「洛神賦」の“竦軽駆以鶴立,若将飛而未翔”(軽やかに体を伸ばして鶴のように爪先立ち、今にも飛び立とうとして未だとどまっているようだ)によるであろう。
すなわち「鶴立」は鶴が片足で立ち、首を真直ぐ天へ向けた姿勢である。真直ぐに筆を立てて軽やかに揮毫するという形容と、真っ白な羊毫を鶴に見立て、筆名としているのであろうか。

鄒紫光閣は、武漢の有識者にとっては、特別な思い入れがあるという。かつて市政府の要人が日本を訪問する際には、お土産としてかならず鄒紫光閣の筆を持っていったという。また2007年に江西省南昌市で”鄒紫光閣”が商標登録されそうになったときは、「武漢の老名牌を守れ!」ということでこぞってこれを阻止したということである。
重慶、武漢は良くも悪くも日本人と関係の深い都市である。戦前はここに多くの日本人が移り住み、日本人街を形成していた。昭和の大恐慌により、大陸に活路をもとめて渡っていった人々である。
当時の日本海軍は、内陸に居留する日本人を保護する名目で、上海から長江を艦艇で遡上往復していた。途中の難所を越えて無事に漢口にたどり着けるかどうかが、艦長以下、操艦技術の見せ所であったという。それほど当時の日本にとっては重要かつ、多くの日本人が生活をしていた街であった。
日中戦争が始まると、大工業都市であった重慶は日本の戦略爆撃の標的となり、執拗な爆撃に晒された。また武漢は日本軍の攻略作戦により、激戦の末に陥落している。
なのでこの地域の日本人に対する感情というのは、今でも複雑なものがあるようだ。とはいえ、反感一辺倒かというと、どうもそれだけはないようではあるが。
中国の朋友が、”長江週刊”という雑誌の特集記事を教えてくれた。2008年11月発行の第17版である。「鄒紫光閣を尋ねて」というその特集には、引退した老筆工、周炳林へのインタビューが掲載されていた。そこでは「二十〜三十年前は、少なからぬ日本人が、わざわざ工場まで来て筆を買っていったものだ。当時の鄒紫光閣の高級筆は、一本で2000元もしたのだよ!当時の2000元は今の2000元と同じ価値とは考えてはいけないよ(もっと価値が高かった)。」とある。
20年前〜30年前というと、70年代から80年代だが、ちょっと時代がずれているような気がしなくもない。記憶違いかもしれないが、ともかくある時期、鄒紫光閣の筆を好んで買っていった日本人達がいたのだろう。あるいは戦前にまで遡ることが出来る話なのかもしれない。
ともかく、現在日本の市場ではまったく目にする事が出来ない内陸の老筆店であるが、かつての日本人とこの長江上流の大都市との関係と同様、忘れ去られてしまうことが無いように願いたいものである。
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筆に無銘の業物あり

筆を探していると、筆管に何も銘が入っていない筆を目にする事がある。筆というのは、同じ筆匠の銘が入っていても出来不出来はあるし、かならずしも有名ブランドの筆が良いわけではない。そもそも筆管の銘の真偽というのは、いままであまり問題にされていなかったが、周虎臣錦雲氏が名牌(ブランド)を守るために熱心であったことをみると、あるいは筆管に有名筆匠の銘を入れるなどということも、あったのかもしれない。
清朝末期から、民国にかけて、筆管の銘を偽るようなことがあったとしても、正直確認する術はない。当時の平均的な筆匠の技術の高さ、材料の良さもあるし、また下請け生産もされていたわけである。また名牌であっても作に若干のバラツキもあれば、同じ職人が作っているとは限らないといった事情もある。
無銘の羊毫筆無銘の羊毫筆である。小生は中鋒以上の筆はあまり蒐集・研究の対象としていなかったが、これはついで買いというものである。無銘ながら、そのつくり、材料のよさには目を見張るものがある。
現在も、懇意の筆匠に特注の筆の製作を依頼している方なら、あるいは無銘の筆のお持ちかと思われる。誰が誰のために作ったのかは明らかであるから、あえて銘など入れていないことがある。小生も、依頼している筆匠氏からは、自分専用の筆や試作品などは無銘で送られてくることがある。
毛筆が盛んに使われていた時代は、銘などなくても良い筆は売れたのだろうし、筆を選ぶ側の見識もいまとは違ったものであっただろう。
無銘の羊毫筆個人的にも、筆は必ずしも有名ブランドの筆が良いとは思っていない。ただ、”無銘”の筆というのは、なかなか文章にし辛い事情がある。
1960年代の公私合営以前の李鼎和や周虎臣などの有名ブランドの筆は、多少のバラツキが見られるにせよ、信頼するに値する品質を誇っていた。
ところが文革の終焉を経、改革開放経済後の市場の混乱に乗じ、名牌の”美名”が濫用されたのである。安易に利益を手にしようとする業者達が、実の伴わない製品を市場に氾濫させた結果、唐墨にせよ唐筆にせよ、かつての威光は見る影もない。
ブランドが絶対だとはいわないが、やはり信頼にたるブランドの存在というのは、消費者と供給者の信頼の証であり、その業界にとって大切なものだったはずである。

この筆も、おそらくは前の持ち主が大切につかっていた筆であろう。使い込まれていながら状態はすこぶる良い。しかしながら古玩に紛れ込んだら最後、無銘であるとなかなか良い値段はついてくれないようだ。
この筆は李鼎和胡魁章などとともに、一緒に買ってくれと半ば押し付けられた筆である。が、同じ時期に買ったどの筆よりも良い筆であった。
無銘の羊毫筆極極、薄く削りこまれた筆管の付け根を見ていると、あるいは”李鼎和”系の筆匠の作を思わせるのであるが、もはや確かめようもないところである。

司馬遼太郎の「燃えよ剣」には、土方歳三が上洛にあたって、業物の刀を捜し求める話がある。土方は特に希世の大業物、「和泉守兼定(かねさだ)」を欲していたのだが、ある古道具屋の盲目の主が、無銘のそれも錆刀を手にとり、これを「兼定」であると言い切るのである。研ぎあげたところ、果たして「兼定」であったと。
「兼定」という「銘」に引き寄せられた土方であるが、「銘」を見ずして「銘」を見抜く”目利き”によって、結局のところ「無銘」の「兼定」に出会うというのが面白い。
まあ、そこは小説なのでいかにもらしい話になってはいるが、「道具とは」という事を考えさせられるお話でもある。
小生としても、この筆を「むむ、これぞ李福壽初代の作行き」等と言ってしまえば、通る通らないは別として、多くの誤解を招くところだろう。(そういった誤解を積極的に作り出している人も結構いるのだが)
無銘は無銘のまま、ただ良い筆であればいい。

文房四寶がそもそも実用の道具であるということを考えれば、銘だ箱だということを、あまりやかましくいうのも考え物である。とはいえ、名牌の存在というものは、その道具の文化に確かな歴史を与えてくれるものである。
つまりは無銘であれ、有銘であれ、物の本質を見ることを疎(おろそ)かにしてはいけないということだろう。
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”一枝一金” 〜徐葆三”宿純羊毫二聯筆”

中国の骨董屋というのは、とかく文房具を置いている店というものはすくない。陶磁器を扱う店、書画を扱う店はいくらでもあるが、文房四寶を専門に扱っている古玩店など、滅多にあるものではない。「文房四寶」を看板にしていても、必ずしも筆や紙を扱っているとはかぎらない。多くは、ろくでもない倣古硯と倣古墨だけである。古びた筆筒があって、現代の筆でも飾り程度に立ててあったらまだ気の利いているほうである。
ここに掲載した筆もその昔、あまり文房四寶には縁のなさそうな店の筆筒に、真っ黒に煤けた状態で立てかけられていたものである。そういうところにある筆の多くは、近年のお土産筆が古びたもので、筆として使えないようなものが多い。が、筆管に”徐葆三”の三文字を観た時は、思わず息を呑み、目を疑い、しばし我を忘れたものである。
徐葆三「宿純羊毫二聯筆」近代における伝統派書画家の巨匠、謝稚柳はかつてこう語っていたという。
「解放前、上海の書画界は人士の交流がさかんであった。また、人通りの多い場所に小売店舗を構え、店の奥に工房を持った筆店を持つことが出来ない多くの筆匠達は、“走筆包”をした。すなわち店舗を持たず、ただ工房のみをもち、出来た筆を包んで売り歩いたのである。彼らは青い布の包みを手挟み、包みの中には色々な種類、規格の筆のサンプルをいれていた。書画界の著名な作家の元へ出入りしては、自らの製品を薦めて売りあるいたのである。現物をその場で買うこともままあったが、大半は予約注文であった。たとえばあの楊振華も、店を開く前にこうやって筆を売っていた時期があった。しかし徐葆三だけは、もっぱらこの“走筆包”のみに専念していて、李瑞清や曽農髯、張大千、呉湖帆といった名流のもとへ出入りしていたものだ。製品が非常に優良だったため、価格もとても高かった。当時も“一枝一金”(一枝二枝は筆の数え方)と賞賛され、「布衣寒士」(無官・地位の低い者)ではとても手が出せなかったものだ(非布衣寒士可得)。当時の書画家にとって、“徐筆”を使うことが出来るということは、すなわち(書画壇における)自らの地位が低からぬことを人に示すことでもあったのだ。」
徐葆三「宿純羊毫二聯筆」徐葆三「宿純羊毫二聯筆」
“走筆包”とは、筆匠が製した筆を持って行商することである。ある程度の繁華な商業街に店舗を構えることが出来るようになるまで、筆造りのみできるだけの部屋を借り、そこで造った筆を売り歩いたのであろう。
楊振華のところでも述べたが、書画家を直接訪問し、どのような筆が必要か尋ねてあるくのである。また以前販売した筆の評価を聞き、さらに筆の修繕なども行ったのであろう。古い時代の、書画家と筆匠のよき関係を物語る昔話である。
“走筆包”(ゾウ・ビー・パオ)をしていた筆匠にしても、顧客がついて、資金もたまったところで良い場所に店を構えたのであろう。楊振華も当初は商業区ではなく、書画家があつまる書画の展示会場の近くに店を構えたと言われている。あるいはこの店というのも、小売店舗というよりは工房を中心にした作業場だったのではないだろうか。

しかしこの徐葆三だけは、とうとう店舗を持たず、“走筆包“を専らにして終わったという。たしかに、1960年代の公私合営の流れの中にも、徐葆三の名は見られない。有名なわりに徐葆三の製品を目にする事が稀なのも、店舗経営をしなかったことと関係しているのかもしれない。
晩年の呉昌碩はとりわけ徐葆三の筆を「剛柔兼備」として愛し、また徐葆三を親しく「葆三仁兄」と呼び、題跋にも徐葆三の筆を使った旨をつづった作品が見られるのである。
徐葆三「宿純羊毫二聯筆」徐葆三「宿純羊毫二聯筆」
この筆の筆管には「壬牛春日」とあるから、おそらく1942年の春の製作であろう。「二聯筆」とあるが、「二聯」すなわち「対聯」用の筆ということであろう。この種の聯筆に特徴的な構造をしている。
筆銘には「安呉法」とあるが、「安呉」とは包安呉、すなわち包世臣(1775-1855)のことを指すのだろうか。書をされる方は良くご存知かと思われるが、包世臣は清代の著名な書法理論家で、後世の中国書法界に大きな影響を与えている。「安呉法」というと、包世臣の書法理論や彼が体系化した執筆法をさす。
しかしそもそも「安呉」というのは、現在の安徽省泾県の古称である。また現在も泾県に「安呉」と呼ばれる一地域がある。包世臣はこの泾県の出身で特に「安呉」に家里が接していたことから、「安呉先生」と呼ばれたそうである。
安徽省泾県といえば、何度か紹介しているように宣紙の産地である。宣紙の「宣」は「宣州」すなわち現在の安徽省宣城市をさすが、実際に紙を生産しているのは古来から現在に至るまで、宣城市から車で1時間ほど離れた泾県のほうである。
また宣州は、製紙業と並んで古くから製筆業でも著名な地域であり、宋代には名工諸葛高を輩出している。この”諸葛筆”は欧陽修や黄庭堅、蘇軾などの宋代の士大夫に高く評価された。この宣州の筆は、「湖筆」や「蜀筆」と並び、「宣筆」と呼ばれている。
浙江省湖州市を中心とする「湖筆」も、もとは「宣筆」からの流れである。この宣筆も、実際に作られているのは泾県であり、とくに「安呉」が宣筆発祥の地とされる。今でも宣筆にみられる「安呉遺訓」「安呉遺法」という筆の名に、その名残がうかがえる。しかし宣筆は湖筆と比較すると、近年は質の良い筆をみない。多くは北京、天津の文房具店に出荷され、上海や日本にはあまり入ってこないのが宣筆である。しかし湖州の職人氏の話によると、最近は湖筆と銘打っていても、安徽省や江西省で安価に作らせているものがあるという。
費在山の「不律雑和」によれば、徐葆三は湖州の出身である。また筆は隷書や篆書の対聯に向いた種類の筆である。この筆の名に「安呉法」と名づけているのは、やはり隷篆に長けた包世臣を意識したのであろうが、あるいは筆の産地としての「安呉」の意味もかけているのかもしれない。
徐葆三「宿純羊毫二聯筆」毛筆を蒐集・研究しているものにとって、李鼎和と戴月軒はなんとか入手できても、徐葆三と賀蓮青だけは、運に頼らなくてはお目にかかることも出来ない。お目にかかれても、とても手が出せないような値段がついているものである。なるほど謝稚柳先生がおっしゃるように「非布衣寒士可得」と、指をくわえて見送るしかなかったものである。
骨董屋で掘り出し物、というのは言うほど機会があるものではない。やはりしかるべきものは、しかるべき筋から現れるものである。が、中国の朋友がいつもいうのは、あまり縁がなさそうな店でも意外なものが見つかることもあるし、そういう店で見つかったときは、値段も高いことは言われないと。
果たしてこの徐葆三も、ほどほどの値段で買うことが出来たわけである。
といっても真っ黒に固まっていた筆鋒を、その後何ヶ月かかけてここまで洗浄・再生し、使えるようにしなければならなかったのであるが。使ってみると、やはりその材料と製法の精良さは隠れもないものである。
この一枝をもって徐葆三の製筆を語りつくせるものではもちろんないが、生涯小売店舗を持たず、一流の書画家と直接交渉を持ちながら筆を作り続けた”伝説の名筆匠”の技量の一端を、今に伝える一品であるとはいえるだろう。
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周虎臣の別店 〜老周虎臣壽記「浄純狼毫摺筆」

老周虎臣壽記「浄純狼毫摺筆」である。中国屈指の名門筆店である周虎臣であるが、清朝末期から民国にかけて活躍した周虎臣錦雲氏のことは、以前に紹介した。「壽記」は老周虎臣の別号店である。老周虎臣壽記「浄純狼毫摺筆」老周虎臣の傅寿生、名は少卿は、宣统三年(1911年)に上海広東路244号に老周虎臣寿記筆墨庄を開設している。老周虎臣錦雲氏を開設したのが傅錦雲であるから、すくなくとも親族にあたる関係にはあるだろう。その後は上海で経営を続けていったが、1956年に老周虎臣錦雲氏、楊振華筆庄、李鼎和筆庄などとともに“老周虎臣筆墨庄”に合併している。ということで、その経営はわずか半世紀に満たない短いものである。
壽記周虎臣の事跡に関しては詳らかではないが、その製品は、ブランドの保持に非常に努力した錦雲氏と同じ”老周虎臣”の名を冠する店に愧じぬものである。
老周虎臣壽記「浄純狼毫摺筆」老周虎臣壽記「浄純狼毫摺筆」
「摺筆」(しゅうひつ、さっぴつ)とは、すなわち「擦筆」であり、その字義の通り、画法で筆を紙に擦(こす)り付けるようにして、強くカスレた筆致を出すときに使う筆である。多くは狼毫ないし紫毫(兎毫)の五花(兎の体毛のある部位)を用いて作られている。擦り付けて、適度に拡散した筆致を求める筆であるため、意図的に筆鋒が開きやすい構造になっている。逆に言えばまとまりの悪い筆、ということになるが、そうはいっても無秩序な広がり方をするわけではないところに妙味がある。
「浄純狼毫摺筆」を繊細に刻し、鮮やかな青い顔料で埋め、「極品」「老周虎臣壽記」を紅い顔料で埋めている。使用状況を考えると、消耗しやすい筆であるともいえる。しかしこの筆管の刻字の細心で端整なところをみると、消耗品に過ぎない小筆であっても、実に行き届いた仕上がりを求めていることがわかる。
老周虎臣壽記「浄純狼毫摺筆」老周虎臣壽記「浄純狼毫摺筆」
後藤朝太郎は、戦前の中国に何度も渡航し、当時の中国の文房具業界の様子を書き残してくれている。それを読むと、戦前までは、総じて中国では毛筆が実用の場面で広く使われていたことがわかる。反面、日本は明治時代から万年筆や鉛筆の使用が浸透し、毛筆が日常的に使われなくなったことを述べている。
民国時代の筆の精良さをみるにつけ、現代とは隔世の感を抱くが、そういった筆の品質が、ほんの半世紀前までも、実務上の要求に支えられていたことは、考えなくてはならないことである。
清朝末期から民国時代にかけて、上海や北京に次々と新しい筆店が出来ていったのも、需要の拡大を受けてのことであると考えられる。特に新興市場の上海では、商業活動や人口の増加を受けて多くの筆店がつくられていった。上海で周虎臣が分店を開いたのも、北京で戴月軒が賀蓮青から独立したのも、市場の拡大を見越してのことであろう。
日本においては近代化とともに毛筆の使用は衰退して行ったが、中国では毛筆の使用が近代産業の発達によって、拡大した時期があったと考えられるのである。それは2000年を超える中国製筆業の歴史の、最後の輝きともいうべき時期だったのかもしれない。
そういった筆店が、互いにしのぎを削ったのが戦前の上海であり、この「浄純狼毫摺筆」のような消耗品の画筆一本にいたるまで、実に丁寧な作りをしているところからも、当時の筆店同士の競争の激しさが伺えようというものである。
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時代の狭間に 〜上海筆店精製「宿純羊毫屏筆」

上海筆店「宿純羊毫屏筆」である。日本ではあまり知られている筆店ではないだろう。小生も日本国内の筆店で目にしたことはなかった。
「上海筆店」は1958年の「公私合営」によって出来た、国営企業の一つである。上海老周虎臣、楊振華、李鼎和、老文元、など当時の上海製筆業を代表する8店舗が合併して成立したという。そのときに中心となったのは、上海製筆業一番の老舗である、老周虎臣であったという。
この「公私合営」は段階的に行われたようで、「上海筆店」もまず1956年に老周虎臣を中心に各筆店との経営の統合がおこなわれ、1958年に国有化されたという経緯をたどっている。その少し前にも李鼎和と楊振華が合併するなど、この時期業界再編の動きがあったことが見て取れる。
日中国交正常化前の1960年代初頭、日本へ李鼎和や戴月軒の筆が入ってきているが、これらの筆は統合前の各筆店の在庫品であったと考えられる。あるいは経営統合後も、文革の影響が濃厚になる以前は、旧名称で筆を作っていたのかもしれない。上海筆店「宿純羊毫屏筆」日本で広く知られ、戦後における唐筆の代名詞ともいうべき「上海工芸」は、実は中国ではあまり知られてない。そもそも「上海工芸」とは「上海工芸品進出口公司」といい、日本を中心とする諸外国へ中国の工芸品を輸出する商社であった。たとえば、宣紙の「紅星牌」なども、複数の宣紙工場の品を、上海工芸が品質管理をして輸出していたブランドである。また「鐵齋翁書画寶墨」などの上海墨廠の製品も、上海工芸が一手に輸出を管理していたのである。
ほぼ、日本への輸出専用の製品であった「鐵齋翁書画寶墨」が現代の中国でもあまり知られてないのと同様に、「上海工芸」の筆も知られていない。(現在でも依然として「上海工芸」の名の筆が日本で流通しているのを目にするが、どこの筆工場が作っているのだろうか?)
1980年初頭の改革開放経済によって、国有化された企業が再び民営化されるまで、中国国内では「北京製筆廠」や「天津製筆廠」、「蘇州製筆廠」「浙江湖筆」あるいはこの「上海筆店」などの、国営企業の筆が流通していたのである。
上海筆店「宿純羊毫屏筆」上海筆店「宿純羊毫屏筆」
筆銘の「宿純羊毫屏筆」が、爽やかなライト・ブルーの顔料で埋められ、「上海筆店精選」は古格な朱色の顔料で埋められている。中国の伝統的な製筆のスタイルを踏襲しており、民国時代の余薫を感じさせる美しい筆管である。
筆銘には旧字体が使用されていることから、1958年の「上海筆店」の成立時期から、文革が勃発する1960年代後半までの頃の製品であると思われる。
筆鋒の付け根は、極々薄く削りこまれており、羊毫の質は精良である。「上海筆店」に統合された筆店のなかでも、特に李鼎和の影響を感じさせる筆である。
上海筆店「宿純羊毫屏筆」上海筆店「宿純羊毫屏筆」
「上海筆店」の操業の実態は不明だが、あるいは上海工芸の下請けとして、輸出用の筆の生産を行っていた可能性もある。上海のやや年配の朋友が小学生くらいの頃、上海はまだ食糧難だった記憶があるという。書画どころではなかったそうだ。上海きっての名店が集まった「上海筆店」が、その技術と生産力を国内消費向けに限定していたとは考え難いのである。

ところで上海工芸の筆は、その商標”火炬牌”で有名であるが、主にどこで作っていた筆なのであろうか?上海工芸は商社であるが、1956年に善?鎮に出資して、含山湖筆廠を創建している。この含山湖筆廠では”火炬牌”ないし”双喜牌”の筆を生産しており、大半は”上海工芸”の商標で海外へ輸出されたと考えられる。ちなみにこの”含山湖筆廠”は現在も操業しており、”双羊牌”などの商標で、筆都善?鎮を代表するメーカーである。
古老の話によると、1960年代初頭には、まだ李鼎和や戴月軒という旧商標の筆銘の筆が購入できたそうである。しかし1960年代の後半から「上海工芸」や「善?湖筆廠」といった筆が入ってくるようになり、旧来の商標は姿を消していったとのことである。
「上海工芸」もその最初期の製品は、旧時代の筆を思わせる精良な材料と作りであったそうである。それが価格の低下と同時に、だんだんと質も低下させていったのは、墨の鐵斎翁書画寶墨、宣紙の紅星牌と同じような傾向である。
日本でも中国でも、「上海筆店」の名を見ることが少ないのは、やはりその生産力の多くが「上海工芸」に振り分けられたと考えているのだが、真相は定かではない。
李鼎和や、楊振華、周虎臣が旧に復するのは、1981年であったという。1958年に成立した「上海筆店」の名で操業していたのは、長くても20年余りの期間であったと考えられる。
一度統合され、20年近くにわたって共同で経営していた筆匠たちも、改革開放経済下で旧時代の名称に復帰しているのは、やはりそれぞれの出自にたいする誇りがあったのだろう。しかし、現在の製品にかつての威光は見る影もない。
中国の文房四寶の中でも、とりわけ製筆業はその技術の伝承が危ぶまれている.....小生が個人的に危機感を抱いているのだが......国営時代は材料はすべて精良なものが国から支給され、筆管に使う竹も専用の竹林が国によって管理されていたという。現在の平均的な水準と比べれば、はるかに良質な筆が生産されていたと言えるだろう。戦後の唐筆の質の変遷には、現代中国の社会の変化や政策が、色濃く反映されている。
現代の市場経済下で伝統工芸が質を保持し、生き延びるためにはどのような経営が必要なのか?「上海筆店」の製品を前に、しばし考えさせられるのである。
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「水を得た魚」製筆天下三分乃計 〜楊振華「山水筆」

楊振華の「山水筆」である。特に狼毫の画筆を得意とした楊振華の、その名の通り山水画用の筆である。近現代の中国製筆業界を考える上で、欠くことのできない楊振華であるが、文革前の製品となると、なかなか手にする事が出来ない筆匠でもある。楊振華山水筆楊振華(1906-1979)、原籍地は浙江省湖州市善?鎮である。その曽祖父は、蘇州の著名な筆廠“楊二令堂”の創設者であった。彼は14歳の時に蘇州から上海にゆき、商務印書館の製筆工場で勤務する。四年後故郷へ帰り、当時著名な筆店である「沈慶元作坊」で二年間修行する。
30歳になって、製筆における大切な工程である“水盆”の名手であった厳再林女史と結婚する。何度か触れているが、“水盆”は水中で毛を選別する作業である。もっとも手間がかかり、また筆の品質を決定する極めて重要な工程であるとされる。
厳再林が“水盆”をおこない、楊振華がその後の工程“拓筆”で筆に仕立て上げた。優れたパートナーを得て自信をつけた楊振華は、1935年に上海に店を構え、独自のブランドで筆を作ることを決意する。
当時上海は、周虎臣の“虎牌”と、李鼎和の“鼎牌”が製筆業における双璧を為しており、新参の筆匠が入り込むのは非常に困難であると考えられた。が、そこは“天下三分の計”である。楊振華は当時の製筆市場で、周虎臣と李鼎和が、あまり力を入れていない分野に目をつけた。当時周虎臣は、“五虎将”と呼称して精良を誇った家伝の兼毫筆と、書家が用いる中鋒の狼毫筆に強く、李鼎和は羊毫筆で他の追随を許さなかった。そこで楊振華は、狼毫の画筆に目をつける。そして画家が多く集まる、上海成都路の“上海画苑展覧会場”近くに店舗を構えたのである。
楊振華は、注文された筆が出来上がると、書画家の元へ直接届けに行った。また彼等に新作の筆を贈り、試用してもらいながら意見を集め、製品に独自の改良を重ねた。さらに書画家が使用している筆の筆鋒を修理するなどしながら、彼らとの関係を深めていったのである。
なかでも張大千、呉湖帆、謝稚柳など、いわゆる“伝統派”の画家達とともに筆の研究を重ね、張大千に“大千筆”、呉湖帆には“梅景書屋画筆”という作画専用筆を作っている。特に呉湖帆は書にも画にも羊毫筆を忌避したから、楊振華の作る狼毫の画筆は大いに支持されたであろう。
こうして上海に出店して10年ほどで、老舗の周虎臣、李鼎和と並んで“鼎立”と称されるほどに発展したのである。
楊振華は後に成都路から移転し、福州路に“楊振華筆庄”を開設するが、例によって1956年の“公私合営”により、周虎臣、李鼎和などの八店舗の筆店と合併した。この”公私合営”に先立ち李鼎和は楊振華と合併しているが、以降は李鼎和は楊振華の店内で作られていたとことから、事実上は楊振華が李鼎和を併合した格好がうかがえる。その後1978年に、文革の影響を脱して旧に復する。
最近まで、福州路近くの通りで“楊振華”の名で店があったように記憶している。小生も何度か訪れて筆を購った。それが近年、福州路の“上海周虎臣筆墨店”と合併したそうである。
楊振華山水筆筆管を糸で巻き、漆で固めている。これは使用しているうちに水分があがって、筆の付け根が膨張し、筆管が割れてくるのを防ぐための工夫であると思われる。どうもこの工夫は、楊振華が初めに行ったのではないか?と考えている。小生が所有する、あるいは過眼した他の楊振華の筆の多くにもこの構造が見られる。特徴的な構造であると言える。最近は、楊振華以外の筆、とくに和筆にもこのような糸で巻いた作りをした筆があるが、起源は楊振華の画筆における改良に求められると考えている。
書写や工筆画とことなり、民国から盛んになった大写意などの”破筆溌墨”を発展させた絵画技法は、とかく筆を酷使するものである。筆鋒に根元迄たっぷりと墨液や水を含ませるので、どうしても筆の根元が割れやすくなってくるのである。
とくに李鼎和は、この筆鋒の付け根の筆管が薄く、割れやすい。根元まで下ろさなくても、毛細管現象で水分は根元に上がってゆくので、膨張と破裂は使用頻度や天候によって、避けられないものである。割れたときは自分で糸で巻き、漆などの樹脂で固定して修理するものだ。が、その美観は若干劣ってしまう。
しかし楊振華は、書画家の実用本位に過酷な使用にも耐えうるように、あらかじめ筆管を補強したのではないだろうか。
楊振華山水筆楊振華山水筆
筆管の頭に、筆架にかけやすいように紐輪をつけている。今日では極普通に見られるこの構造も、民国あたりの中国の筆には見られないものである。
また、この筆の筆管には、刻字されず赤い顔料で「山水筆 楊振華」とだけプリントされている。この「山水筆」は、一見すると最近の筆のように見える。正直時代は良くわからないのだが、繁体字で筆銘がはいり、筆銘がプリントされた筆のスタイルは、80年代以降の旧に復した楊振華製品には見られないものである。
相当数の筆が作られたはずの楊振華の旧製品であるが、同時代のほかの筆匠に比べて思いの外、目にする機会は少ない。画筆だけに、使用条件が過酷であり、その多くは消耗してしまったと考えられる。
あくまで書画家の実用に、外観や装飾性を廃したその製品は、省みられることも少なかったのかもしれない。

中国の著名な筆匠の中で、個人名をブランド・ネームに冠した筆店としては、おそらくもっとも後発の楊振華である。製筆業の激戦地であった上海で、わずか10年ほどで見事に老舗と肩を並べる勢力に成長している。後発メーカーとしてニッチ市場に入り込み、CRMを徹底して独自の地歩を築き上げるその戦略は、マーケティングのお手本を見るかのようである。
”天下三分”を成し遂げたその偉業の陰には、”水盆”の名手である妻の厳氏の功労が大きかったに違いない。楊振華が上海で独立するのは、30歳で当時としてはやや遅い結婚をした翌年である。
楊氏が厳氏を得たのは、まさに魚が”水”を得たようなものであったであろう。
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費在山「不律雑和」 〜李鼎和精選「雙料冩巻」(双料写巻)

先日渡航した際に、以前から探していた故費在山氏の「筆縁墨趣」(百花文芸出版社)を、上海の朋友が見つけ出してくれていた。
費在山氏は1933年上海生まれ。(家譜)名は樹基,字は遠志,号して崇堂,また別署に秋隣がある。原籍は浙江省湖州市である。1962年には湖州王一品斎筆庄に入り、勤務するかたわら、沈尹黙の指導により書法に勤しむ。文房四寶の研究家、また書法家として活躍する一方、エッセイも手がけ、”書法十講””行書管窺””不律雑話”また”沈尹黙学書年表”竹渓沈尹黙世系表”などの書稿がある。日本の書家との交流も深かった。2003年7月に病のため死去。享年70歳。

「不律雑話」の「不律」とは筆のことであり、毛筆に係るエッセイ集である。1999年に出版された「筆縁墨趣」にはこの「不律雑話」が収められており、前々から読んでみたいと思っていた。長年王一品に務め、筆工や多くの書画家と交流のあった費在山氏は、当時の製筆業の事情に精通していたはずである。
ほんの10年ほど前に天津で出版された本にも係らず、天津や上海の大型書店では見つけることが出来なかった。朋友がインターネットを駆使して捜索してくれた結果、蘇州の本屋に1冊だけ残っており、取り寄せてくれたのだ。
中国全土でも、ほんの数冊しか書店には残っていなかったという。中国ではごく最近の本でも、あっというまに入手困難になる場合が多い。単価の安い本はとくにそうである。
この「不律雑話」のなかに「虞永和、厳慶和、李鼎和」という文章があり、李鼎和の歴史を簡単に紹介している。この一文の抄訳を試み、有名なわりに来歴が知られていない李鼎和に関する、理解の一助としたい。原文は平易な現代中国語なので、掲載は省略する。

「虞永和、厳慶和、李鼎和」(抄訳)
“虞永和”は天津にあり、“厳慶和”は杭州にあり、そして“李鼎和”は上海にあった。この三家の毛筆庄の店の名前にはいずれも“和”の一文字があるが、これはおそらく“和気生財”(和気から財が生まれる)の意味であろう。
この“三和”の中で、最も有名なのが李鼎和である。李鼎和は、清朝の咸豊元年(1851)には、上海南市新聖街に店舗を構えていた。抗日戦争後は河南路105号、周虎臣の向かいに店を移転した。創業者の李樹徳から子の怀仁、怀義が世襲で家業を相伝し、同業者の間でも非常に声望が高かった。私の同僚の筆工の追憶では、李鼎和は“価正貨真”(価格は適正、商品は本物)という言葉を、その経営理念としていたそうだ。また李鼎和が仕入れていた兼毫筆の半成品には“三不要”があったという。すなわち毛が白くなければ要らない(毛不白不要)、筆鋒の肩胛が浅ければ要らない(肩胛浅不要)、頂が整っていなければ要らない(頂不斉不要)。である。材料の選別は非常に厳格であったのである。
李鼎和は一貫して製品の品質管理につとめ、その名声は日増しに高まり、多くの褒賞をうけ、また内外の書法家に愛用された。新中国成立後、李鼎和と楊振華筆庄が合併し、楊振華筆店の中で、「鼎」の商牌(ブランド)で筆を作りつづけた。「蘭蕊羊毫」や“福、禄、寿、喜、慶”などの對筆、そのほか伝統の名筆をつくり、その技術は衰えることをしらなかった。現在、楊振華筆店内にある李鼎和の看板は、趙朴初(1907-2000:社会活動家:書法家)の揮毫による。』
李鼎和精選「雙料冩巻」李鼎和精選「雙料冩巻」(双料写巻)である。
李鼎和が仕入れていたという、兼毫筆の半成品というのは、筆鋒部分だけのことをいうのであろう。羊毫筆で名高い李鼎和であるが、比較的単価の安い兼毫の実用筆は、下請けの筆工から、筆鋒を仕入れていたようだ。しかしながら、名牌の名にふさわしく、その品質管理が厳格であった様子が伺える。
「肩胛浅不要」の、「肩胛(肩甲)」はすなわち筆の肩ということである。これが浅いというのは、「三紫七羊」筆のように、硬毫を芯にして軟毫で周囲を覆った巻心の場合に、その異なった毛の分かれ目が連続的ではなく、露骨になっている状態を指すと思われる。
李鼎和精選「雙料写巻」写巻筆は、中心に硬毫の紫毫、すなわち兎の毛で芯を作り、周囲を軟毫の羊毫で巻いている。羊毫は純白で、筆鋒は整って鋭く、紫毫と羊毫の境界が滑らかに連続している。昨今のこの手の筆は、白い羊毫部分がふっくりとして、芯の紫毫部分が突出しているものが多い。そういう筆は李鼎和では「不要」ということである。
費在山氏が文中で述べている李鼎和の品質管理基準、「毛不白不要」「肩甲浅不要」「頂不斉不要」の三原則が守られている様子が伺えるのである。また、この三つの観点を知っておくと、良い筆を選ぶときにも目安になると思われる。李鼎和精選「雙料写巻」新中国成立後は楊振華に事実上接収され、その店内でおなじみの赤い“鼎”ラベルの筆を作り続けていたようだ。1960年前後、日本に相次いで入荷され好評を博していた李鼎和は、楊振華の中で作られた筆であるといえる。
狼毫筆では周虎臣、羊毫筆では李鼎和が、民国時代の上海製筆市場の二大勢力であった。そこに狼毫筆の画筆でもって名声を確立した後発の楊振華が、最後は李鼎和を併合するに至った経緯が伺われる。当初、羊毫筆に弱かった楊振華としても、羊毫に無類の精良さを誇る李鼎和との協業は、利益が大きかったに違いない。
李鼎和精選「雙料写巻」李鼎和精選「雙料写巻」
この筆には、赤い「鼎」のラベルが見られない。「双料」が旧字体の「雙料」に、また「冩巻」の「写」も「冩」という旧字体が使われているところを見ると、簡体字が普及する1950年以前の製作とも考えられる。
しかし筆の名称は「冩巻」である。この「冩巻」であるが、木村陽山氏の著書「筆」によると、初めは「冩奏」という名称であったのが、文革前後に「冩巻」に変わったという。「奏」の一字が「奏上」を意味し、封建的文化の名残であるというのがその理由とされている。
文革前に作られたと考えられるこの筆が、何ゆえ「冩巻」なのか。この「雙料冩巻」は、すくなくとも文革前、遡れば新中国成立以前にも「冩巻」筆が存在していた可能性を物語っている。
「不律雑和」の別の箇所では、「七紫三羊」筆の別称を「冩巻」と言ったとある。字義通り「冩経巻」に使われる筆で、伝統的な名称だという。あるいは「冩巻」「冩奏」という、ほぼ同じ筆に二通りの名称があったことも考えられる。革命中国の影響で、「冩奏」の名称は使われなくなったのかもしれない。
同じ構造の筆でありながら、別の名称がつけられている筆は、「蟹爪」と「紅豆」などの例もある。南方の「蟹爪」は、北方では使われている兎毫が紅く染められ「紅豆」あるいは「紅毛」という名称になっている。

この「雙料冩巻」は実用の兼毫筆であるから、費在山氏の記述によれば、李鼎和筆庄の完全自家製ではないことになる。しかしながら当時の平均的な職人のレヴェルの高さと、李鼎和の厳しい品質管理によって、名牌(ブランド)の名に恥じない精良なつくりをしている。
費在山は、湖州の出身者として、湖筆の歴史について多くの手がかりを残してくれている。今まで謎が多かった李鼎和について、多少なりとも明らかにになったのはありがたいことである。費在山の「不律雑和」には、他にも筆にまつわる興味深いエッセイを読むことが出来る。別の機会に順次、ご紹介できればと思う。
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湖州から奉天へ 〜胡魁章「文章一品」

胡魁章「文章一品」である。「胡魁章」は狼毫など、硬毫筆に特色があるが、羊毫の大筆にも精良な品が見られる。といっても、手元にあって古そうなのはこの「文章一品」だけであった。胡魁章 文章一品「文章一品」は、”一品”すなわち”逸品”というほどの意味である。「文章一品」というだけに、前に紹介した戴月軒の「一天星斗煥文章」と同じく、筆記に用いられた実用の兼毫筆である。時代はこれでもやはり戦前には遡れようか。胡魁章 文章一品筆管はいたって質朴なつくりであるが、筆銘に白と赤の顔料を使い分けている。筆管は短く、軽く出来ている。胡魁章 文章一品使われている毛は、兎の毛(紫毫)を中心に多く配合し、根元に若干の羊の毛を使った、九紫一羊ないし八紫二羊であると思われる。使用済みの状態であったが、筆鋒の損耗は少なく、鋭い切先が健在である。

清の咸豊四年(1854)、浙江人(一説に湖州人)の胡魁章は、家族を引き連れて奉天(現沈陽市)に移住し、2000銀元を投じて四平街に胡魁章筆店を開いたという。
奉天といえば、清朝の発祥地であるが、万里の長城から北は、漢民族の意識では「地の涯」である。が、胡魁章は、北京よりも北には良い筆店があまりないと考えた。また北方の野生のイタチなど、製筆に必要な優秀な毛が採取できることで、従来にない良い製品が作れると考えたのである。
道光末年には、奉天の皇陵総管であった福康阿が賞玩し、これより宮中にも名が聞こえるようになり、宮廷用の筆の製作にも携わったそうである。
宣統元年(1909)ごろは孫の胡沛然が後継し、満州国時代の1930年代には曾孫の胡風翔が経営をおこなった。満州国時代は、日本から”安価な”和筆や文房具が大量に流入し、経営は苦難を極めたという。また
1956年には”公私合営”によって、胡魁章と李湛章(これも明末から続く老筆店)を中心として、文華、吉祥、君文公などの文房具店と合併し”胡魁章筆庄”が創設される。文化大革命の時期は経営が一時中断し、1980年になってようやくもとの”胡魁章筆庄”として経営を再開している。その際に、満州時代から残留していた日本人従業員が再開に力を尽くし、海外市場の開拓に貢献したという。
また、書道好きで知られる中曽根元首相が愛用し、1991年の訪中時に特に側近に依頼して胡魁章の製品を求めさせた話が残っている。
(日本の現首相は書などされるのであろうか......?)
”胡魁章筆庄”は現在も経営を続けているが、現役の筆工は店主の張海先以下わずかに二名、その存続が危ぶまれている。2008年になって遼寧省非物質文化遺産に登録されたが、後継者がいないため、いずれ消えていってしまうかもしれない。
奉天で製筆業を営んでいた胡魁章は、良くも悪くも、日本との関係が深い筆店であった。同じ文化を共有しあうということは、国家間の抗争や対立を超えて、違う民族の間に共感をもたらす基礎となる。日本と中国の間で言えば、書画の文化と文房四寶はその最たるものかもしれない。胡魁章筆庄もまた、歴史の中で貴重な役割を果たしたといえる。しかし80年代に日本へも輸出されていたという胡魁章であるが、現在その製品を日本国内で目にすることは稀である。
この筆を前に、前世紀の日中間の歴史にしばし思いをめぐらせる。また温暖な江南から寒さ厳しい奉天まで、湖筆の伝統を伝えた胡魁章の気概を想い、改めて畏敬の念を覚えずにはおれない。
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善?筆廠 羊毫大蘭竹画筆

善?筆廠製の羊毫の蘭竹筆である。「善?筆廠」であるから古いものではない。「蘭竹画筆」と、画筆であることを明記している。
善?筆廠 羊毫蘭竹画筆筆管は蘭竹筆特有の長さがあり、筆鋒を含めた長さは27cmにもなる。邵芝巌の蘭竹筆ほどではないが、突出した長さである。筆管は竹を茶色く染めてある。筆銘は近年多くの筆がそうであるように、浅く彫って白い顔料で埋めている。旧時代の華麗な筆銘に比べると、雅味に乏しいものである。
善?筆廠 羊毫蘭竹画筆善?筆廠 羊毫蘭竹画筆
ラベルは善?湖筆の象徴である「双羊牌」。1956年、「公私合営」政策によって、湖州の複数の筆店が共同運営する「善?湖筆生産合作社」が創設された。その際は「善?筆荘」を商号にしていた。それが1959年に改組し、組合のような「合作社」からより組織的な製筆専業工廠となったが、そのときに「善?湖筆廠」という名称になったという。
「筆荘」時代の筆は優秀で、いまでも「筆廠」ではなく「筆荘」の筆を探す人は多い。が、上記の理由で、「筆荘」と刻まれた筆を見る機会は非常に少ない。
しかし「筆廠」であっても、徐々に力を落としていった上海工芸の製品に比べると、この善?筆廠は近年まで良い筆を作ってたメーカであると思う。個人的にはこの「双羊牌」の善?湖筆は、信頼できるブランドであった。この「双羊牌」のラベルも、時代によってさまざまな種類が存在する。
現在もこの「双羊牌」を商標としているが、実際は複数の筆店が下請け生産を行っており、また安徽省や揚州でも「双羊牌」に類似したラベルの筆を製造するメーカーもあるなど、混乱が見られる。実は現在の「邵芝巌」も、その製品の多くは善?鎮で作られているという。善?筆廠 羊毫蘭竹画筆筆の中ほどまで良い毛を使い、丁寧に仕上げてある。この筆を買ったのはかれこれ6年ほど前の上海であったが、この頃はまだ上海の文房店の店頭でも、ある程度は良い筆を探すことが出来た。が、ここ数年で市場の製品の品質は急速に悪化している。善?筆廠 羊毫蘭竹画筆水を含ませると、やはりふっくらとした紡錘形にまとまってくれる。硬毫の蘭竹筆にくらべて、軟毫の蘭竹筆は、やや扱いが難しい。が、ゆっくりとした運筆で、沈着にしてまろやかな線を描きだしてくれる。
蘭竹画にもさまざま画風が存在する。硬毫筆を用いるのがよいか、軟毫筆を用いるのがよいかは、描き手の選択に任されるところである。が、羊毫筆を使う場合は、抵抗が少なく、あまり滲まない紙を使う方が良いかと思われる。
「画筆」というが、この画筆を逆に書に使う者もいる。実際、この「蘭竹画筆」は隷書などを書くときにはすこぶる重宝する筆である。画用の工夫がなされているが、かといって書に用いてはならないということはない。また、書に用いる筆はすぐに画に用いることが出来る。
中国の伝統的な文人絵画技法の中で、特に重要なのが「線」である。この「線」は、書の筆線を基礎にしている。画法の中に使われる線の種類や組み合わせは、書の筆法に基礎を置いているのである。よって、書に用いる筆を画に用いて悪いということはない。その逆もしかりである。
金農は50歳を過ぎてから画を初め、独自の画境を開いたが、彼以外でも、董其昌や徐渭など、本格的に画を書き始めた時期が20代から30代と、遅い書画家は多い。にも関わらず、比較的短期間で画法を習得していったのは、長年の書の鍛錬が基礎になっているからであろう。

上海で購入したときは、比較的入手が楽と考えて気兼ねなく使っていた。が、昨今の筆の品質低下を考えると、この程度の筆であっても、あだや疎かには使えない。道具の性能が落ちた分、書き手の技量は向上したのであろうか?現代作家の作品を見る限りでは、どうもそれは疑問に思わざる得ない。紙や墨が劣化し、筆が劣化したことで、線も劣化している。その「劣化」を「新しい表現」「個性」と言い換えることも出来るだろう。しかしその表現の傾向が、おしなべて一様に、見えて仕方がないのであるが。
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筆と画蘭 〜武林邵芝巌精選「大號純狼毫蘭竹筆」

武林邵芝巌精選「大號純狼毫蘭竹筆」である。武林邵芝巌 純狼毫蘭竹筆使用済みの状態で現れ、筆鋒の毛の一部が欠損していたが、命毛が無事だったのでまだ充分に使うことが出来る。前の持ち主の手入れが良かったのか、根元の墨溜まりもあまりなく、洗浄したら綺麗になった。武林邵芝巌 純狼毫蘭竹筆「武林邵芝巌」の商号を使用していることから、時代は戦後から1957年の”公私合営”の間の時期の製品と考えられる。日本へもたらされたのは1960年代前半であろうか。この頃の唐筆には、まだその伝統の余薫が漂っている。筆銘も邵芝巌独特の、繊細で精緻な楷書体である。細いながらも筆意が横溢する刻線を、鮮烈な藍と紅の顔料が埋めている。武林邵芝巌 純狼毫蘭竹筆武林邵芝巌 純狼毫蘭竹筆
この”蘭竹筆”は、文字通り蘭竹画に用いる画筆である。特徴はなんといってもその筆管の長さで、筆鋒を含めた長さは30cmにも及ぶ。小生が持つ筆の中でも突出した筆管の長さである。私はT.H先生所蔵の、同じく邵芝巌の蘭竹筆を過眼したことがある。規格が”小號”でこの”大號”よりも細い筆であったが、両者の筆管の長さはほとんど変わらなかった。
また、どういう竹から採取したのか、これほどの長さの筆管であってもまったくゆがみが無い。机上で転がすと、筆管が滑らかに回転してくれる。
蘭画の中心は、なんといっても蘭葉にある。軸長が長いと、手首から筆先までの回転半径が大きくなり、わずかなスナップでも筆鋒が大きく運動する。蘭葉の先端を軽快かつ鋭く出鋒する際に、この筆管の長さが生きることになるのである。
筆鋒は右の写真のように、水を含むと筆の中ほどがふっくりとした紡錘形にまとまる。このふくらみのある筆鋒は、まず水を含ませたあとに濃墨を取ると、筆鋒の中心と筆鋒の側面で墨の濃度に幅が出やすい。筆線の中に自然と濃淡の変化が出るのである。
また筆鋒に使われている精良な狼毫(イタチ毛)は、多少抵抗を感じる紙面の上でも、鋭くかつ滑らかな蘭葉を描き出してくれるのである。画蘭元代の明雪窓(みんせっそう)(生卒年未詳)、名は普明(ふめい)は蘭画の名手として知られ、一時期蘇州では非常に流行した。当時の呉(現在の蘇州)の俗謡に、“家家恕斎字,戸戸雪窓蘭。春来行楽処,只説虎丘山”(家々には恕斎(班惟志)の字画があり、部屋ごとに雪窓の蘭画がある。春の行楽は皆は虎丘山へ行く。)といわれた。
が後世、流行し過ぎたせいかやや軽んじられた時期があり、中国には真跡は伝世していない。元の時代、日本人画僧の頂雲は、留学先の蘇州で雪窓に画蘭を学んだといわれる。その頂雲からもたらされたと考えられる、数点の雪窓の作品が日本に伝存しているのみだという。
また雪窓は、自らの蘭画の秘訣を記した「画蘭筆法記」を遺している。が、これも中国に伝本はなく、日本に伝わっているものが残っているのみであるという。中国では忘れられてしまった雪窓の画法は、日本の禅宗画に深い影響を与えているといわれる。
「画蘭筆法記」には蘭画法の要訣が、実に詳細に記されている。全文の内容の詳述は別所に譲るが、その冒頭の一文に
“画蘭,画花易,画叶難,必得銭塘黄于文小鶏距様筆, 方可作蘭。”とある。抄訳すれば「画蘭、花を画くのは易しく、葉は難しい。必ず銭塘の黄于文の小鶏距様筆を得よ。蘭の作画に向いている。」となろうか。
「銭塘の黄于文」は、元代の銭塘(現在の杭州市)の名筆工。その黄于文が作った「小鶏距様筆」を用いるべし、という。「鶏距様筆」はすなわち「鶏距筆」である。
「鶏距筆」は、筆鋒の先端が「鶏距」つまり鶏の爪先のように、先端が鋭く突出している筆であるという。現物はこれも中国に伝存していないが、日本の正倉院に納められている天平筆がすなわち「鶏距様筆」であるといわれている。
白居易の「鶏距筆賦」に「不得兔毫,無以成起草之用。不名鶏距,無以表入木之功。」とある。”兎の毛でなければ、文章を書くことが出来る筆は作れない。筆(の形状)は鶏の爪先のようでなくては、木片に書いて墨が木に浸透するほどの筆力は発揮しない”とでも訳せようか。
「入木之功」は、いわゆる「義之入墨三分」のことで、筆力の強さを表す。晋の王羲之が木板に題字を書いたところ、墨が板に3分の深さで浸透したという故事から来ている。この場合の「筆力」は、いわゆる「筆圧」とはやや意味が異なり、書き手の”気”が筆を通じて板に透徹することを言う。
いずれにせよ「鶏距筆」は兎の毛を使った、筆鋒の先端が鋭く突出した硬毫筆であったと考えられる。
雪窓は「鶏距筆」を画に用いているが、書に用いる筆を画に転用した例であろう。しかし画法を述べるに、使用する筆の筆工を名指しで言及している例は稀である。雪窓が詳細に蘭画を説いたためか、大いにその画風が流行り、「戸戸雪窓蘭」となったのかもしれない。
いずれにせよ、画蘭(画竹もそうだが)を描くには、まず筆の選定が肝要であることを「画蘭筆法記」は示している。

もとは筆記用の筆と画用の筆の区別は無かったが、画家からの要求の影響で、徐々に画用に構造を工夫された筆も作られたと考えられる。
現在の杭州市には中国美術学院があり、南方画壇の中心地である。宋代以降、蘇州と並ぶ江南の大都市であった杭州は画の需要も高く、歴代多くの書画家や文人画家がこの地で活躍した。したがって画筆の改良も進んだのであろう。明代の名筆工、杭州の張文貴は特に画筆で名高く、「画筆は杭の張文貴をもって首位とする」と賞された。
清朝後期に杭州に創設された邵芝巌も、精選した”北狼毫”を用いた画筆、”蘭竹”や”山水”をもって名声を博した。他にも写意、花卉、叶筋、衣紋、紅豆、小精工、鹿狼毫書画など、画のジャンルや画法を筆名に冠した製品が知られている。これらの画筆は、邵芝巌オリジナルであったかどうかは不明であるが、いずれにせよ杭州画筆の工夫の積み重ねが生かされているのであろう。
以前にも述べたが、創設者の邵芝巌は筆だけではなく、蘭の栽培の世界でも歴史に名をとどめたほどの無類の蘭癖家である。蘭竹筆には特に力を注いだのではないだろうか。この特徴的な長い筆管をもった蘭竹筆には、通常の筆の規格を思い切って逸脱した勢いが感じられる。
また小生のような凡手にも、雪窓には遠く及ばなくとも、ほどほどの蘭葉を描かせてくれるのである。けだし名工の苦心の賜物であると、思われてならない。
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