武漢の老筆店 〜鄒紫光閣益記「鶴立」
鄒紫光閣益記「鶴立」である。蘇州のとある古玩店でこの筆を見つけたときは、実に意外な思いがしたものだ。“鄒紫光閣“は日本ではあまり知られていない筆店かもしれない。日本のみならず、中国でも江南あたりでは知る人は少ないかもしれない。以前、周品華の筆のところで簡単に触れたが、長江上流の都市、武漢で活躍した筆店である。その発祥は江西は進賢県、文港鎮の前塘村であり古来より周姓の製筆で名高い村である。あの周虎臣と同郷に起源を持つが、蘇州へ出店した周虎臣に対し、鄒紫光閣はより内陸の武漢に店を開いている。
この村は宋代の大政治家にして宋の八大家のひとり、王安石の出身地である。古来より学芸が盛んな地であり、一介の村夫にいたるまで、文雅に親しむ習慣が根付いていたという。
この村の住人は農閑期に筆を作り、周辺の都会に行商に出る、いわゆる「半農半商」の生活を営んでいた。
鄒法栄(ほうえい)と弟の法惊(ほうりょう)も、そんな村の住人であったが、彼らは特に蘇州で集めた羊毫と毛皮を武漢に運び、製筆業者に卸売りしていたという。ところがあるとき、武漢の筆店の主人がかれらの品物の量の多いことに目をつけ、かつ鄒兄弟が旅費に困っていたことに付け込み、同業の筆店と謀り、鄒兄弟の荷を不当に安く手放すように圧力をかけたという。しかし鄒兄弟はこれに反発し、かえって漢口の花布街に筆店を開いてしまう。道光三十年(1850)のことである。二人はこの店で、いままで扱っていた筆の材料や毛皮を販売する一方、筆を作り小売販売もおこない、数年にして盛況にいたったという。
すこし余談になるが、原材料の仕入れは良い筆つくりに欠かせない。材料が悪ければ、いくら高い技術を持っていても良い筆は作れないのが道理なのである。であるから、筆の原材料を探すにあたっては、とにかく良い毛でありさえすれば産地は問わないものである。中国の筆職人でも、日本の青森の鼬の毛が良いことを知っている人もいる。また日本で作られる羊毫(山羊の毛)の大半は、中国から輸入しているのが現状である。
かつて国営の筆工場では経験を積んだ筆工が原材料の仕入れと選別にあたり、その責任は重かった。改革解放後、国営企業は民営化され、同時に多くの筆工達が独立して個人経営の筆店を設立していったが、材料の仕入れ担当の経験者は有利に経営を進めることができたそうだ。毛筆の原材料を専門に扱っていた鄒兄弟が、筆店を開業後も短期間で成功させたのも、無理のない話といえるだろう。
鄒兄弟は筆店で筆を作ったとあるが、紫光閣の筆工はほとんどが周姓の筆工であったということから、鄒兄弟が筆を自製したのではなく、当初から腕の良い筆職人と組んで店を経営したのではないかと考えられる。
鄒兄弟は店をさらに拡大し、故郷の文港鎮前塘村を筆の製造拠点とし、傘下に600人近い筆工を抱える。年間百万本といわれる生産体制を持つにいたり、当時の中国で最大規模の筆店であったといわれる。
また道光年間の進士、李瑞清が揮毫するところの“鄒紫光閣”の四字の扁額を掲げ、また曽熙の“紫気盈庭”を石に刻んでその店の庭に置いたという。
後に鄒法栄の孫の鄒文林が漢正街に工房を開設し、高い技術をもった筆匠を集め、独自の製筆技術の確立に努めたという。
1920年代に入り、「成記」、「益記」、「久記」の三家に分かれた。それらの店は武漢の花楼街や民権路一帯に店を構えていたという。また重慶、成都、南京、福州などにも出展し、民国時代の鄒紫光閣はその全盛期を迎えていた。
やがて日中戦争が勃発し、日本軍の侵攻によって武漢が陥落した後は、武漢城内の筆店は休業を余儀なくされる。日中戦争終結後、ふたたび営業を開始するが、今度は国共内戦による国内の混乱の影響を受けることになる。
内戦終結後、鄒家の筆工房は合併し“鄒紫光閣毛筆厰”が成立し、1956年の「公私合営」の前後にはさらに統合が進む。しかし60年代の終わりに勃発した文化大革命の影響を強く受け、店はふたたび休業を余儀なくされるのである。
武漢の名門一族であった鄒家は紅衛兵の標的となり、数々の難を受けたという。李瑞清の“鄒紫光閣”の扁額もこのときに破壊されてしまったのである。
「益記」の第三代目の”掌門人”である鄒敏恵女史は武漢の中学校の教諭であるが、幼い頃の文革の思い出をこう語っている。
“父親は殴られて反革命分子として投獄され、紅衛兵が毎日家におしかけ、持ち出せるものは持ち出し、燃やせるものは燃やしてゆきました。私はただ怖くて、隠れてこれを避けるしかありませんでした。毎日学校から家に帰るとき、今日はまた家でどんなことが起きているか知れないとおもって、とても怖い思いをしていました。私の家族は以前からの友人や近所の家を訪ねることをしなくなりました。他人にまで累が及ぶことを恐れたためです。また親戚の間を行き来することも非常に少なくしたのです。”
80年代の改革開放経済の下、鄒紫光閣はふたたび営業を再開する。かつての“成記”の職人を中心に技術を回復させ、1985年には、筆工116名が180銘柄の筆を年間34万本あまり製造していたという。しかし90年代以降の毛筆市場の変化に対応しきれず、衰微を辿る一方であると言う。
武漢市では、伝統ある製筆ブランドの喪失を懸念し、武漢市非物質文化遺産保護中心が鄒紫光閣の製筆技術を「市級非物質文化遺産保護項目」に加えたということである。しかし現在はわずかな周姓の老筆工達が、前塘村で細々と製筆を続けているのみであるという。
あるいは、文革期に”上海工芸”の下に日本への輸出を伸ばした江南の製筆業に比べ、文革によって打撃を受けた鄒紫光閣は、80年代の復活後も海外輸出の潮流に、乗り切ることが出来なかったのかもしれない。この「鶴立」は少し使用された状態であったが、材料の山羊の毛の質の良さは隠れようもない。またその筆管、刻字も、湖州や蘇州・杭州といった江南の筆匠や、あるいは北京や天津の筆匠の瀟洒な雰囲気とは一風違った、質朴だが雄渾さも備えた独特な作行きである。
「鶴立」だが、三国魏の曹植の「洛神賦」の“竦軽駆以鶴立,若将飛而未翔”(軽やかに体を伸ばして鶴のように爪先立ち、今にも飛び立とうとして未だとどまっているようだ)によるであろう。
すなわち「鶴立」は鶴が片足で立ち、首を真直ぐ天へ向けた姿勢である。真直ぐに筆を立てて軽やかに揮毫するという形容と、真っ白な羊毫を鶴に見立て、筆名としているのであろうか。
鄒紫光閣は、武漢の有識者にとっては、特別な思い入れがあるという。かつて市政府の要人が日本を訪問する際には、お土産としてかならず鄒紫光閣の筆を持っていったという。また2007年に江西省南昌市で”鄒紫光閣”が商標登録されそうになったときは、「武漢の老名牌を守れ!」ということでこぞってこれを阻止したということである。
重慶、武漢は良くも悪くも日本人と関係の深い都市である。戦前はここに多くの日本人が移り住み、日本人街を形成していた。昭和の大恐慌により、大陸に活路をもとめて渡っていった人々である。
当時の日本海軍は、内陸に居留する日本人を保護する名目で、上海から長江を艦艇で遡上往復していた。途中の難所を越えて無事に漢口にたどり着けるかどうかが、艦長以下、操艦技術の見せ所であったという。それほど当時の日本にとっては重要かつ、多くの日本人が生活をしていた街であった。
日中戦争が始まると、大工業都市であった重慶は日本の戦略爆撃の標的となり、執拗な爆撃に晒された。また武漢は日本軍の攻略作戦により、激戦の末に陥落している。
なのでこの地域の日本人に対する感情というのは、今でも複雑なものがあるようだ。とはいえ、反感一辺倒かというと、どうもそれだけはないようではあるが。
中国の朋友が、”長江週刊”という雑誌の特集記事を教えてくれた。2008年11月発行の第17版である。「鄒紫光閣を尋ねて」というその特集には、引退した老筆工、周炳林へのインタビューが掲載されていた。そこでは「二十〜三十年前は、少なからぬ日本人が、わざわざ工場まで来て筆を買っていったものだ。当時の鄒紫光閣の高級筆は、一本で2000元もしたのだよ!当時の2000元は今の2000元と同じ価値とは考えてはいけないよ(もっと価値が高かった)。」とある。
20年前〜30年前というと、70年代から80年代だが、ちょっと時代がずれているような気がしなくもない。記憶違いかもしれないが、ともかくある時期、鄒紫光閣の筆を好んで買っていった日本人達がいたのだろう。あるいは戦前にまで遡ることが出来る話なのかもしれない。
ともかく、現在日本の市場ではまったく目にする事が出来ない内陸の老筆店であるが、かつての日本人とこの長江上流の大都市との関係と同様、忘れ去られてしまうことが無いように願いたいものである。
この村は宋代の大政治家にして宋の八大家のひとり、王安石の出身地である。古来より学芸が盛んな地であり、一介の村夫にいたるまで、文雅に親しむ習慣が根付いていたという。
この村の住人は農閑期に筆を作り、周辺の都会に行商に出る、いわゆる「半農半商」の生活を営んでいた。
鄒法栄(ほうえい)と弟の法惊(ほうりょう)も、そんな村の住人であったが、彼らは特に蘇州で集めた羊毫と毛皮を武漢に運び、製筆業者に卸売りしていたという。ところがあるとき、武漢の筆店の主人がかれらの品物の量の多いことに目をつけ、かつ鄒兄弟が旅費に困っていたことに付け込み、同業の筆店と謀り、鄒兄弟の荷を不当に安く手放すように圧力をかけたという。しかし鄒兄弟はこれに反発し、かえって漢口の花布街に筆店を開いてしまう。道光三十年(1850)のことである。二人はこの店で、いままで扱っていた筆の材料や毛皮を販売する一方、筆を作り小売販売もおこない、数年にして盛況にいたったという。
すこし余談になるが、原材料の仕入れは良い筆つくりに欠かせない。材料が悪ければ、いくら高い技術を持っていても良い筆は作れないのが道理なのである。であるから、筆の原材料を探すにあたっては、とにかく良い毛でありさえすれば産地は問わないものである。中国の筆職人でも、日本の青森の鼬の毛が良いことを知っている人もいる。また日本で作られる羊毫(山羊の毛)の大半は、中国から輸入しているのが現状である。
かつて国営の筆工場では経験を積んだ筆工が原材料の仕入れと選別にあたり、その責任は重かった。改革解放後、国営企業は民営化され、同時に多くの筆工達が独立して個人経営の筆店を設立していったが、材料の仕入れ担当の経験者は有利に経営を進めることができたそうだ。毛筆の原材料を専門に扱っていた鄒兄弟が、筆店を開業後も短期間で成功させたのも、無理のない話といえるだろう。
鄒兄弟は筆店で筆を作ったとあるが、紫光閣の筆工はほとんどが周姓の筆工であったということから、鄒兄弟が筆を自製したのではなく、当初から腕の良い筆職人と組んで店を経営したのではないかと考えられる。
鄒兄弟は店をさらに拡大し、故郷の文港鎮前塘村を筆の製造拠点とし、傘下に600人近い筆工を抱える。年間百万本といわれる生産体制を持つにいたり、当時の中国で最大規模の筆店であったといわれる。
また道光年間の進士、李瑞清が揮毫するところの“鄒紫光閣”の四字の扁額を掲げ、また曽熙の“紫気盈庭”を石に刻んでその店の庭に置いたという。
後に鄒法栄の孫の鄒文林が漢正街に工房を開設し、高い技術をもった筆匠を集め、独自の製筆技術の確立に努めたという。
1920年代に入り、「成記」、「益記」、「久記」の三家に分かれた。それらの店は武漢の花楼街や民権路一帯に店を構えていたという。また重慶、成都、南京、福州などにも出展し、民国時代の鄒紫光閣はその全盛期を迎えていた。
やがて日中戦争が勃発し、日本軍の侵攻によって武漢が陥落した後は、武漢城内の筆店は休業を余儀なくされる。日中戦争終結後、ふたたび営業を開始するが、今度は国共内戦による国内の混乱の影響を受けることになる。
内戦終結後、鄒家の筆工房は合併し“鄒紫光閣毛筆厰”が成立し、1956年の「公私合営」の前後にはさらに統合が進む。しかし60年代の終わりに勃発した文化大革命の影響を強く受け、店はふたたび休業を余儀なくされるのである。
武漢の名門一族であった鄒家は紅衛兵の標的となり、数々の難を受けたという。李瑞清の“鄒紫光閣”の扁額もこのときに破壊されてしまったのである。
「益記」の第三代目の”掌門人”である鄒敏恵女史は武漢の中学校の教諭であるが、幼い頃の文革の思い出をこう語っている。
“父親は殴られて反革命分子として投獄され、紅衛兵が毎日家におしかけ、持ち出せるものは持ち出し、燃やせるものは燃やしてゆきました。私はただ怖くて、隠れてこれを避けるしかありませんでした。毎日学校から家に帰るとき、今日はまた家でどんなことが起きているか知れないとおもって、とても怖い思いをしていました。私の家族は以前からの友人や近所の家を訪ねることをしなくなりました。他人にまで累が及ぶことを恐れたためです。また親戚の間を行き来することも非常に少なくしたのです。”
80年代の改革開放経済の下、鄒紫光閣はふたたび営業を再開する。かつての“成記”の職人を中心に技術を回復させ、1985年には、筆工116名が180銘柄の筆を年間34万本あまり製造していたという。しかし90年代以降の毛筆市場の変化に対応しきれず、衰微を辿る一方であると言う。
武漢市では、伝統ある製筆ブランドの喪失を懸念し、武漢市非物質文化遺産保護中心が鄒紫光閣の製筆技術を「市級非物質文化遺産保護項目」に加えたということである。しかし現在はわずかな周姓の老筆工達が、前塘村で細々と製筆を続けているのみであるという。
あるいは、文革期に”上海工芸”の下に日本への輸出を伸ばした江南の製筆業に比べ、文革によって打撃を受けた鄒紫光閣は、80年代の復活後も海外輸出の潮流に、乗り切ることが出来なかったのかもしれない。この「鶴立」は少し使用された状態であったが、材料の山羊の毛の質の良さは隠れようもない。またその筆管、刻字も、湖州や蘇州・杭州といった江南の筆匠や、あるいは北京や天津の筆匠の瀟洒な雰囲気とは一風違った、質朴だが雄渾さも備えた独特な作行きである。
「鶴立」だが、三国魏の曹植の「洛神賦」の“竦軽駆以鶴立,若将飛而未翔”(軽やかに体を伸ばして鶴のように爪先立ち、今にも飛び立とうとして未だとどまっているようだ)によるであろう。
すなわち「鶴立」は鶴が片足で立ち、首を真直ぐ天へ向けた姿勢である。真直ぐに筆を立てて軽やかに揮毫するという形容と、真っ白な羊毫を鶴に見立て、筆名としているのであろうか。
鄒紫光閣は、武漢の有識者にとっては、特別な思い入れがあるという。かつて市政府の要人が日本を訪問する際には、お土産としてかならず鄒紫光閣の筆を持っていったという。また2007年に江西省南昌市で”鄒紫光閣”が商標登録されそうになったときは、「武漢の老名牌を守れ!」ということでこぞってこれを阻止したということである。
重慶、武漢は良くも悪くも日本人と関係の深い都市である。戦前はここに多くの日本人が移り住み、日本人街を形成していた。昭和の大恐慌により、大陸に活路をもとめて渡っていった人々である。
当時の日本海軍は、内陸に居留する日本人を保護する名目で、上海から長江を艦艇で遡上往復していた。途中の難所を越えて無事に漢口にたどり着けるかどうかが、艦長以下、操艦技術の見せ所であったという。それほど当時の日本にとっては重要かつ、多くの日本人が生活をしていた街であった。
日中戦争が始まると、大工業都市であった重慶は日本の戦略爆撃の標的となり、執拗な爆撃に晒された。また武漢は日本軍の攻略作戦により、激戦の末に陥落している。
なのでこの地域の日本人に対する感情というのは、今でも複雑なものがあるようだ。とはいえ、反感一辺倒かというと、どうもそれだけはないようではあるが。
中国の朋友が、”長江週刊”という雑誌の特集記事を教えてくれた。2008年11月発行の第17版である。「鄒紫光閣を尋ねて」というその特集には、引退した老筆工、周炳林へのインタビューが掲載されていた。そこでは「二十〜三十年前は、少なからぬ日本人が、わざわざ工場まで来て筆を買っていったものだ。当時の鄒紫光閣の高級筆は、一本で2000元もしたのだよ!当時の2000元は今の2000元と同じ価値とは考えてはいけないよ(もっと価値が高かった)。」とある。
20年前〜30年前というと、70年代から80年代だが、ちょっと時代がずれているような気がしなくもない。記憶違いかもしれないが、ともかくある時期、鄒紫光閣の筆を好んで買っていった日本人達がいたのだろう。あるいは戦前にまで遡ることが出来る話なのかもしれない。
ともかく、現在日本の市場ではまったく目にする事が出来ない内陸の老筆店であるが、かつての日本人とこの長江上流の大都市との関係と同様、忘れ去られてしまうことが無いように願いたいものである。
お店:http://www.sousokou.jp BlueSkye:鑑璞斎