夏口と鄂 〜黄祖=黄承彦考7

前回は、黄祖が呉軍の侵攻から守っていた拠点は現在の武漢市漢口(当時の夏口)ではなく鄂(城)だったのではないか?という疑問点についてあらましを述べた。結論的にいえば、『三国志正史』の記載における夏口はほぼ鄂なのである。今回はこの点をもう少し捕捉したい。
(今回は黄祖と呉軍の交戦についても概観したかったが、長くなったのでそれは次回に。)
夏口は夏水の河口、という意味であるが、異称の多いこの河川は漢水あるいは沔水とも呼ばれ、ゆえに沔口また漢口という呼称もある。また時代によって大陸の大小河川の河道はかなり変遷してきたようで、1800年前と今日では、河川と地名を安易に結びつけるのは注意が必要である。


呉軍と黄祖軍の最後の戦いの模様は『三国志正史・呉志』における董襲の傳にもっとも活写されているが、そこに”沔口”の名がみえる。すなわち以下の一節である。


建安十三年權討黄祖。祖横兩䝉衝挾守沔口以栟閭大紲繫石為矴上有千人以弩交射飛矢雨下軍不得前。襲與淩統俱為前部各將敢死百人。人被兩鎧乗大舸船突入䝉衝裏


黄祖は沔口を挟み込む格好に二隻の蒙衝を並べ、それを岩石に繋留し、千人の弩兵に雨あられと矢を放たせたため、呉軍は前進することが出来ない。董襲と凌統は鎧を二重に重ねた決死隊百人を率いて蒙衝の背後に進み、繋留を切断して蒙衝を動揺させ、ついに突破に成功する、というくだりである。
後に『演義』の赤壁の戦いの描写にも影響したであろう、この一節の精彩な戦闘描写のためか、呉軍は沔口(すなわち現在の漢口)で戦い、その県城を攻略した、という印象が強いのかもしれない。
しかしこの一節における”沔口”は、黄祖が二隻の蒙衝を浮かべて守備していることから、戦場における特定のポイントとしての”河口”を意味している、とも考えられる。


また『呉志』凌統の傳において


権統軍從討江夏入夏口先登破其前鋒輕舟獨進中流矢死


とある。凌統の父凌操が戦死したのも、夏口における黄祖との戦いに従軍した時(この戦いでは呉軍は攻略に失敗している)という事になっている。

『三国志正史・武帝紀』には、赤壁の戦いの直前に起きた呉軍と黄祖軍との最後の戦いを、


復征黃祖。祖、先遣舟兵拒軍。都尉呂蒙、破其前鋒。而淩統、董襲等、盡銳攻之、遂屠其城。


と記述している。ここでは”屠其城”とある。”其城”とあるだけで、どこの城なのか?この武帝紀の文脈からは読み取れない。また”屠城”とある。屠城すなわち住民を皆殺しにすることであるが、人口・労働力・生産力が貴重な当時、実際にそれが行われたとは限らない。しかし少なくともその県城を攻略した事を示している表現である。


さらに武帝紀には、曹操が荊州攻略へ南下を開始した事がつづられ、


九月公到新野、遂降、備走夏口


とある。すなわち(劉)備が夏口に(敗)走する、という事が書かれている。呉軍が攻略しているはずの夏口城に劉備が敗走するというのはいささか不自然であるが、『呉志』の魯粛の傳には、夏口へ至る以前に孫権から派遣された魯粛が劉備と合流したことがわかる。呉の使者の手引きがあれば、それも可能だろう。
しかし蜀志・先主傳には劉備の敗走経路について、


先主、斜趨漢津、適與羽船會、得濟沔。遇表長子江夏太守、衆萬餘人、與俱到夏口


とある。まず劉備は漢津へ斜趨(しゃすう)した、とある。斜趨とは東西南北に平行に進む(=横行)ことに対して、東南あるいは北東というように、斜めに移動することであるが、當陽の長坂(現在の湖北省宜昌市付近)から、南東方向の漢津(現在の武漢市漢陽区)へ敗走した、という事であろう。
”津(わたし)”というのは河川の渡し場という意味であり、漢津で先に襄陽から漢水伝いに脱出させていた関羽の船団と合流し、”沔を得濟”とある。”得濟”は保全するという意味であり、沔、すなわち沔水流域を掌握したという事であろう。
より端的には江夏郡の沔口周辺地域を抑えた、という事になると考えられる。さらに江夏太守である劉に遭遇し、一万の軍勢を率いて”夏口”に向かったのであるが、この夏口はすなわち呉が攻略した”鄂”をさすのであろう。
後に”沔”を含む地域に夏口鎮が置かれ、また現在は武漢市の漢口区になっている。そのため、この武漢市における漢口が夏口と考えがちである。孫策がやはり現在の武漢市に含まれる沙羨で黄祖と戦ったという(おそらく虚構の)歴史があるため、なおさらそう思ってしまうかもしれない。


諸葛亮傳には


先主至於夏口、亮曰”事急矣、請奉命求救於孫將軍”時、權擁軍在柴桑、觀望成敗


と、やはり先主(劉備)が夏口に至った事が書かれている。さらに呉主傳にも


備、進住夏口、使諸葛亮詣權


と、いずれも劉備(軍)が夏口に向かい、駐屯したという記述がある。これらの夏口もすなわち鄂のことであると考えられる。
この時劉備は襄陽以降の敗走兵を収容し、少なくとも1万人以上の軍勢を率いていたと考えられ、さらに諸葛亮が孫権に語ったところでは劉と併せておよそ2万の軍勢を率いているとされる。人口がそれほど多くない江夏郡の、さらに一部地域だけでは長くその補給を支えられない上に、漢水上流から曹操軍が攻め降ってくるおそれがある。ゆえに最低限の備えを残し、ほとんどの軍勢を率いて夏口(すなわち鄂)に向かったのであろう。


実のところ後漢書の劉表傳における李賢の注には


「夏口今之鄂也左傳吳伐楚楚沈尹戌奔命於夏汭杜預注曰漢水入口今夏口也」


とある。そこには”夏口今之鄂也”すなわち夏口とは今の(東晋時代の)鄂であり、”漢水入口今夏口”と漢水が長江に注ぐ場所が夏口なのである、と書かれている。


また欽定四庫全書の『吳志卷十七考證』には「胡綜黄龍見夏口於是權稱尊號」すなわち胡綜が黄龍を夏口において発見し、その瑞祥によって孫権が帝号を称したという故事について


按夏口毛本作舉口太平御覧作樊口舉口盖樊口之誤


と考証している。
”毛本”は明代の蔵書家、毛晋が刻版した一大叢書、汲古閣本のことであるが、その版本における呉志には、夏口ではなく”舉口”と書かれており、また太平御覧では樊口のことを舉口と記述している、という。樊口は鄂における長江沿岸の地名である。すなわち夏口ではなく舉口=樊口(=鄂)ということで、黄龍が発見されたのは夏口ではなく(鄂すなわち武昌の)樊口であろうと。
そう考えると、董襲の傳にある”沔口”とは、おそらく樊口をさすと考えられる。


さらに付け加えれば胡綜傳には「從討黄祖拜鄂長」とあり、胡綜が黄祖との戦いに従軍し”鄂長”すなわち鄂の長に任ぜられた記述がある。


また裴松之の注に引かれるところの『江表傳』には、曹操軍に追われて敗走する劉備に呉から派遣された魯粛が合流し、呉と同盟を結ぶ事を勧め、


備大喜、進住鄂縣、卽遣諸葛亮隨肅詣孫權、結同盟誓。


とあり、鄂県(城)に進駐した、と書かれている。さらにやはり『江表傳』の注には、

備從魯肅計、進住鄂縣之樊口。諸葛亮詣吳未還、備聞曹公軍下、恐懼、日遣邏吏於水次候望權軍。


とあり、劉備は魯粛とともに鄂県の樊口に至り、諸葛亮を呉に派遣した、と書かれている。樊口は現在の湖北省鄂州市の樊口街道にその名がみえる。後に孫権が長安という三千人乗りの大型船の進水式をやるのも樊口であるが、鄂州における港湾地域であったと考えられる。
少し歴史小説めいたところもある『江表傳』であるが、蜀の遺臣で魏に仕えた陳寿よりも、呉の支配下の地名に関する錯誤は少ないかもしれない。黄祖と呉軍の戦いの描写が『江表傳』にもあったはずであるが、残念ながら裴松之の注には引かれていないので未詳である。また魯粛と鄂城に至る前に劉備が夏口城へ入ったかどうか?この個所についても『江表傳』の引用はない。


劉表は長江北岸を防衛するため、漢水と長江の合流地点(すなわち沔)の北東に位置する西陵県の石陽にも黄祖に命じて築城させたという。これは安慶を攻略し現在の安徽省北部を制圧した呉軍が、長江北岸からの陸路伝いで夏口方面への侵攻する可能性への備えであっただろう。また最前線の鄂に対する後方基地の役割を負っていただろう。いうなれば呉に対する第二防衛ラインであり、鄂が陥落後に江夏太守となった劉が向かったのも、この地域だったと考えられる。


以上から黄祖が呉軍の侵攻を防ぎ続けてきたのは、やはり後に孫権が武昌と呼称を改める、鄂(城)であり、『三国志正史』における夏口とは鄂、また董襲傳における沔口というのは鄂の樊口である、そう結論付けて良いのではないだろうか。
大陸で通常”城”といえば万人以上の住民が住む地域を城壁で囲んだ都市をさす。日本の戦国時代における領主の居館、ないし純粋に軍事拠点としての砦の類ではない。江夏太守に任ぜられている黄祖の居城が、単なる前線の”砦(とりで)”に過ぎないという事は、考えられない事なのである。自給能力を持たない砦や山塞は後方から補給を受けなければ維持できない。そのような純粋な軍事拠点を長期にわたって”江夏太守”が守るのは不自然なのである。鄂(州)城が歴史的に江夏地方の首府となるべき地であったことをと考え合わせれば、孫権率いる呉軍が躍起になって攻略を目指し、後に呉の首都ないし副首都となった史実とも符合するのである。
黄祖が守る城が鄂城であったとすると、なぜ黄祖は呉軍の数次の侵攻を良く防ぎ、最後に敗れたか?その原因も見えてくる。

とはいえそこは後回しにし、次回は黄祖が歴史に登場する、孫堅との戦いについて概観したい。

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鄂城の存在 〜黄祖=黄承彦考6

黄祖という、おそらくは後の諸葛亮と蜀の盛衰に少なからぬ影響を与えたであろう人物について調べてゆくと、そもそも黄祖について述べられた数少ない史料の内容そのものに多大な疑義が浮かんでくる。

中原をうかがう勢力の一角であった劉表の荊州も、その後は魏吴蜀に分割されてしまったためか、荊州の人士については信頼できる記録が乏しいものがある。
荊州については比較的豊富な記述がみられるのが『呉志』であるが、基本的に劉表と敵対する関係であったためか、客観的とはいいがたいところがある。もともと『三国志正史』の著者である陳寿は蜀の出身で、蜀滅亡後は魏に仕えたためか、魏や蜀に比べると『呉志』の内容はやや疎漏の感がある。また呉にたいする陳寿の筆致はやはりどこか冷淡である。そして『呉志』の注に多く引かれる『江表傳』『呉録』についてもいささか饒舌が過ぎ、講釈本のようなところが随所にある。

ともあれ『呉志』の記録を見る限り、黄祖は呉軍に敗戦を重ねていることになる。しかし呉軍の戦略目標の達成の可否を見る限り、鵜呑みにはしがたいものがある。結局、劉表に委任されて黄祖が守る”拠点”は赤壁の戦いの始まる建安十三年、劉表の没時の直前まで陥落していないのである。ただこの黄祖軍と呉軍が攻防を繰り広げた荊州(江夏)の拠点がいったいどこなのか?という問題については、いわれているほど自明ではないのではあるまいか。今回はその点について考えてみたい。

黄祖が守っていた拠点は、現武漢市区内の長江南岸の沙羨ないし北岸の夏口であると、一般には考えられているかもしれない。しかしこの点は、大いに疑問がある。むろん夏口や沙羨にも軍事拠点ないし県城が存在したであろうが、それでも沙羨が呉に対する荊州側の最前線であったと考えるのは難しい。以下に理由を述べたい。

現在の武漢市はかつての夏口とよばれた漢口を中心に繁華な大都会を形成し、この漢口の対岸地域が武昌区である。そこに孫権の軍事楼に由来する黃鶴樓が聳え立ち、これが武漢のシンボルとなっている。しかし後漢から三国時代まで、沙羨県(城)に属したこの地方一帯はそれほど開発が進んでいた形跡はないのである。

そもそも沙羨を含む地域が武昌郡となり、沙羨に治所が置かれたのは三国時代の後の晋代に入ってからである。
紀元前221年に呉の孫権がそれまでの鄂城(現鄂州市)を「以武治国而昌(武を以て国を治め栄える)」の意味を込めて”武昌”と改め、その首府を建業(現南京)から遷している(229年に帝号を称すと、ふたたび建業を都としている)。そして武昌へ建業から一千家を移住させたという。これが”武昌”という呼称の起源である。後の孫皓の時代には、再び呉の首都を建業から武昌に遷都しようとした。しかしこの時は群臣の猛烈な反対にあって頓挫している。
後の東晋時代に、それまで江夏郡であった地域を武昌郡とし沙羨にその群府が置かれて後に、現在の武漢市武昌区一帯が”武昌”と呼ばれるようになる。いわばこの”新武昌”が現在の武漢市の武昌なのであるが、たいして鄂城は”古武昌”とも呼ばれる。

この”古武昌”こと鄂城が、後に建業と呉の首都の地位を争うほどに発展したのは、むろんのこと孫権肝いりの再開発が奏功したからであろう。しかしもともと都市として発展する基礎と伸びしろのある土地でなければ、多大な労力と資力を投資する価値はない。その点、鄂城は後漢の荊州江夏郡に属する十四県(城)の一つであるが、歴史的にも経済的にも当時の江夏郡でもっとも重要な県城であったと考えられるのである。

歴史をたどれば、時代によって鄂州と呼ばれたこの地域は、さかのぼること堯帝の時代は樊国という小国があったとされる。また殷の時代には鄂国という国があったという。その後春秋戦国時代に楚が副首都に定め、楚が秦に滅ぼされた際には始皇帝はこの地まで遠征している。また漢王朝成立後は漢高祖によって鄂県が置かれ、樊噲がこの地に封じられ、灌嬰が鄂県城を築城したという。

重機などの無い古代社会においては、大都市、さらには一国の首都になるほどの地というのは、ほぼ決まっているのである。それは現在においては二線、三線級の地方都市に後退してしまったとしても、王朝時代を通じては、盛衰はあるもののそれなりの規模と人口を維持し、歴史文化を持つ街として継続してきているのである。
孫権が鄂城を武昌と改めて後、武昌が呉の滅亡まで首都、ないし副首都の地位を保った理由は何か?呉の支配下にはいってから急速に大土木事業を起こし、開発を進めた結果だけではないだろう。その地の重要性は戦国春秋時代からの鄂州の長い歴史を顧みれば明らかである。
たいして孫策が黄祖を破ったという沙羨の方面は、三国時代以前に一国の首都ないし副首都がおかれたというような、見るべき歴史はない。

結論を先に言えば、黄祖が劉表の信任をうけて守り、呉軍の攻勢を防ぎ続けてきたのは沙羨や夏口ではなく、この鄂城ではないか?と考えられるのである。
孫堅との襄陽防衛戦の後、江夏をめぐる黄祖と呉軍の最初の戦いを挙げると、孫策最後の戦いであった建安四年の”沙羨の戦い”が考えられる。しかしその呼称に反して、戦争の経緯と地理を照らし合わせれば、到底この戦いが”沙羨”で起こったとは考えられないのである。

鄂城から長江を東に下ると沿岸に柴桑(現九江市)があり、柴桑から鄱陽湖の西側を南下すると豫章郡(現南昌市)がある。いずれも孫策時代の呉の重要拠点である。呉が豫章郡と定めたこの一帯は呉郡、会稽郡ともにわずか数年で孫策によって平定された地域である。そしてこの地域を孫策が平定して間もない建安四年(199年)、呉軍と劉勲の間で戦いが起こるのである。

劉勲はもともと孫堅と同じく袁術の支配下にあり、袁術によって廬江郡(現安徽省合肥市)の太守に任命され、皖城(安徽省安慶市)を拠点にしていたという。
建安四年に袁術が死ぬと、孫策は劉勲にへりくだった書簡を送り、豫章近郊の上繚の賊を討つ援軍を求める。しかしこれは計略であったという。劉勲が軍を率いて長江を渡った隙に、孫策は留守になった皖城を攻めとってしまう。帰路をふさがれた劉勲は、柴桑からわずかに上流の西塞山に立てこもり、江夏の黄祖に援軍を求めたという。
孫策は劉勲の軍を撃破し、千艘の舟と二千の投降兵を得る戦果を挙げ、余勢を駆って黄祖を討たんとして起こったのが沙羨の戦いであったという。しかしこの”沙羨の戦い”ついては孫堅傳(孫破虜傳)に付随する孫策の傳の本文にはなく、注にひくところの『江表傳』また『呉録』にしか具体的な記載はみられない。
『江表傳』に拠れば、この時劉表は甥の劉虎と南陽人の韓晞に五千の兵を与えて黄祖軍の先鋒としたが、孫策に撃破された、とある。さらに『呉録』に拠れば、孫策は戦勝報告を朝廷に上奏している。上奏文の冒頭、戦いは(建安四年)十二月八日に行われた、とある。劉虎と韓晞以下二万が呉軍に討ち取られ、一万は溺死、また黄祖の家族七名が捕虜になり、六千艘の舟と無数の物資を奪ったという。戦いには周瑜、孫権、呂範、韓当、程普、黄蓋が従軍していたという。
むろん、上奏文は(もし上奏したのが事実としても)戦果を相当に誇張するのが常である。仮に沙羨で戦いがあったとすれば、いかにも江夏における長江南岸全域が呉軍の支配下にあるような印象を与える。
しかしこの”沙羨の戦い”については、(孫堅の傳に付随する)孫策の傳にはその地名の記載がない。孫権傳には「建安四年從策征廬江太守劉勲勲破進討黄祖於沙奸廚箸△蝓△泙芯普の傳に「從討劉勲於尋陽進攻黄祖於沙婀堋胆仂襦廚箸△襪世韻如△曚の諸将の傳には”沙羨”の地名は見られない。ただ”江夏”とあるだけである。

問題は、この時期に鄂城がどこの勢力の支配下にあったか?という事である。本拠地の皖城を攻略されてしまえば、劉勲は長江を渡って北岸に戻ることもできない。ゆえに柴桑からわずかに長江南岸をさかのぼった地点にある、西塞山に籠ったのは致し方ないだろう。
もしこの時ですでに鄂城が呉軍の拠点であれば、西塞山からみて長江上流も下流も呉の支配下という事であり、劉勲はほぼ敵中に孤立したことになる。江夏方面の経路を鄂城に遮断されているから、黄祖に支援を仰いだとしても合流することすら難しい。
しかし後に孫権が呉の首都にしたくなるほどの重要拠点である鄂城を、この戦い以前に呉軍が攻略したという記録はないのである。

もし鄂城が黄祖の拠点であり、西塞山に陣を構えた劉勲が鄂城の黄祖に援軍を仰いだのだとすれば、地理的距離的に沙羨などよりもずっと支援が得られる可能性が高い。襄陽や夏口の兵力を漢水や長江を下って鄂城に速やかに送り、そのうえで水陸を併進して劉勲を支援した、とすれば当時の輸送交通の技術でも可能である。
もし黄祖の拠点が沙羨であり、沙羨から江夏郡の中央部を通って反対側の西塞山へ向けて援軍を送ったとすれば、途中で大湿地帯である”雲夢澤”の無数の湖沼、沼沢、中小山岳地帯を行軍しなければならない。しかも食糧を徴発できるような大規模な集落もない。いかに自領内とはいえ、補給の確保の上でも当時の軍隊ではまったく現実的ではないのである。
それは孫策の軍から見ても同じことである。鄂城という敵の前線拠点を迂回する格好で、江夏郡を横断して沙羨を強襲するような作戦は、たとえ空軍が存在する20世紀であったとしても非常な冒険であっただろう。

先の大戦で日本軍はまず九江を攻略し、そこから南は南昌、西に漢口(武漢)へ侵攻している。(九江へいたるまでももちろんだが)漢口への進撃は長江に沿って行われ、鄂州と黄州を先に攻略している。鄂州はすなわち三国時代の鄂県であり、黄州は邾県である。いかに漢口、武漢を攻略したくとも、九江(すなわち柴桑)から鄂州を迂回して陸路を進む、というような”無謀”な作戦は20世紀の軍隊でも採らないのである。
 
戦争において補給の重要性を強調する文は少なくないが、実際にどのように補給を行ったか?を考慮していないと思われる分析が多くみられる。軍隊がある地点に到達したとすれば、その人数を食べさせるだけの食糧が必要なのであり、その食糧を供給した方法が必要なのである。

人口が稠密な時代であれば、みちみち物資を徴発(略奪)して進むことも不可能ではないだろう。しかし『後漢書・郡国誌』にある数字では江夏郡全体で、

十四城户五萬八千四百三十四、口二十六萬五千四百六十四

とある。つまり十四城(県)ぜんぶで戸数五万八千戸、人口二十六万五千人、ほどのわずかな人口が100km四方の地域に分散していた、という事になる。むろんこれは税を課せられる戸籍人口であり、農奴の類、流民や水上生活者も相当数生活していたであろう。しかしそのほとんどは、長江沿岸を生活圏としていただろう。ゆえに柴桑(九江)から沙羨(武漢)まで、直線距離で200kmを超える距離を行軍し、決戦し、帰還することが、もし可能であれば長江の水路を使用するよりない。しかしこの時点で呉軍が江夏周辺流域の制河権を掌握していた、という根拠もまたないのである。
むしろ、江夏郡一帯の長江流域の制河権を掌握するには、まず鄂城を支配下に置く必要があったと考えられるのである。

鄂城がおそらく黄祖軍と呉軍の攻防の中心であったと考えられる根拠についてはほかにもいくつかあるが、長くなるのでここでいったん回を区切りたい。
歴史をたどるには時系列もそうだが、地理関係も出来る限り明確にしておくことが重要であろう。また後漢〜三国時代の軍隊は陸路のみで長距離の行軍は補給に非常な困難を伴う。河川をうまく利用しなければたちまち食糧不足に陥るのは、はるか後世、20世紀においてさえ同様なのである。

次回は鄂城についてさらに補足したうえで、黄祖の戦歴を概観したい。

※※「黄祖=黄承彦」という命題から離れてゆくかのようであるが、黄祖について調べてゆくにつれ、諸葛亮と黄祖、あるいは諸葛家と黄家のつながりがうっすらと見えてくる。
注意しなければならないのは、(黄祖=黄承彦に真偽はともかく、すくなくとも)孔明が黄承彦の娘を娶ったことにより、蜀の諸葛家にとって江夏の黄家が外戚になる、という事である。それは後の黄忠や黄権の活躍、あるいは諸葛瞻と黄皓の関係など、孔明出蘆後から蜀の滅亡にいたる歴史の、あるいは伏流水なのではないだろうか。
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漢故黄君之碑 〜黄祖=黄承彦考5

前回は主に『襄陽耆舊記』の記述をもとに、黄承彦の出身地について考えてみた。

そもそも「黄祖=黄承彦」を論じた『大爆料!诸葛亮的岳父黄承彦其实就是黄祖(以下、『黄承彦其实就是黄祖』と略す)』という文章では、黄承彦の墓誌銘と考えられている『漢故黄君之碑』に基づいて黄承彦の没年を考察し、それが黄祖が敗死した建安十四年と推察している。ゆえに「黄祖=黄承彦」の論拠の一つとしているのだが、結論的に言えばこれは無理がある。
ともあれ、黄承彦の墓誌銘と考えられている『漢故黄君之碑』についてみてみよう。

この『漢故黄君之碑』については転載可能な図像を持たないため、興味のある方は”百度検索”等で『漢故黄君之碑』ないし『黄承彦碑』を検索して参照していただきたい。

この碑の原刻は確認されていない。拓本は2000年4月の北京『文物天地』という雑誌に、趙地、劉漢屏兩氏によって発表された一文『黄承彦碑』に掲載された。この文によれば『漢故黄君之碑』の拓本は趙地氏が1977年に天津の古書店で買い求めたものであるという。「漢故黄君之碑」という篆文の題字があり、また碑の下半分は剥落し、上半分のうちおよそ180字が認められる。
全文は後漢時代のフォーマルな書体である豊麗な隷書体で書かれている。
(□は剥落して読めない個所)

先生諱承彥沔南白水人也□□□□其先乃□帝之苗・・・・
當其時若先生者感天之誌剛堅□□□□□
之稟性純誠音洋溢乎朝野天資剛健□□偉
績載記於史冊有果毅之志無畏葸之心・・・・
乃若上交不諂下交不瀆富貴不淫貧賤不・・・・
移威武不屈也唐豕不若而清□無□
者純理詞穆天□又其倜儻不群健・・・・
非碌碌庸眾者所可同日語而其倜・・・・
於□□四年甲寅朔葬於城西四十(裏) ・・・・
當其時士友感稟性不群乃人稱・・・・
相議乃作詞曰
藹藹前哲玉浩光明□□□□遐邇共□□
克勤克儉既和且平堅若介石穆如□□
人往風微刊石勒銘。
 
全文の詳細については省く。下半分が喪われているので文意をたどることも困難である。
ともあれ、重要なのは後ろから六行目の「於□□四年甲寅朔葬於城西四十□」という一行である。
剥落によっておそらくは年号が刻まれていたであろう二文字分が喪われている。そのあとに「四年」の文字が判読できる。この時代の年号は二文字で構成されているから、いつの時代か未詳にしても「於□□四年」は動かしがたい。ゆえに『黄承彦其实就是黄祖』が主張するような「建安十四年」はありえないのである。
黄祖が孫権に敗れ討たれたのは建安十三年である。仮に黄祖敗死の翌年に正式に墓地に埋葬され、この碑が刻まれたのであれば「建安十四年」でもおかしくはないのだが、方眼に区切られた碑の構成から考えても、二桁の漢数字がここに入る余地はないのである。ゆえに仮にこの碑が黄承彦の墓誌銘だったとしても、黄祖と没年が同年である根拠にはならないのである。

また一行目についてみてみると「先生諱承彥沔南白水人也□□□□其先乃□帝之苗・・・・」とある。
「先生諱承彥」とあるが、補えば「黄先生諱承彦」ということだろう。「諱(いみな)」は生前は「名」であったものが死後は「諱」となるという事であるから、その場合「承彦」が名であるから黄祖=黄承彦は成り立たないという事で「黄祖=黄承彦」についての考察は終わり、という事になる.......しかしその点については三国時代の名(諱)が二文字であるというのは極めて稀、という事を念頭に置きつつ保留して、もう少し考えてみよう。

もう一点、「沔南白水人」という個所について。
「沔南白水人」の後に「其先乃□帝之苗」とあるのはおそらく「其先乃炎帝之苗」という決まり文句で、中原の人、というほどの意味である。
「沔南白水人」の「沔南」は、前回述べたように沔水(漢水)の南、という意味である。さらに”白水”とある。

「水経注」という古代の地理書がある。これは前漢から三国魏にかけて「水経」という地理書が編纂され、のち北魏時代「水経」に注が施されて成立した史料である。「水経」はその名の通り大陸の河川に沿って地理を述べた書であり、漢代から三国時代の地理を考証するうえで重要な資料である。
この「水経注」の「沔水注」によれば「洞水出安昌縣東北大父山,西南流謂之白水。又南逕安昌故城東,屈逕其縣南,縣故蔡陽之白水鄉也。」とある。

この文に拠れば、白水は安昌県(現河南省確山県)の大父山を源流とした河で、安昌県の西南方向、つまり襄陽方面への流れを白水といい、白水郷は襄陽の北東に接した蔡陽(現棗陽市)という事になる。
しかし位置的に蔡陽は沔水の北岸にあり、いわば沔北であって”沔南”とは矛盾する。ただ『襄陽耆舊記』にある”沔南名士”の沔南とは一致するのである......これをどう考えるべきであろう........?

そもそも、果たしてこの碑が本当に黄承彦その人の墓誌銘なのであろうか?

この碑の題は『漢故黄君之碑』であり、「先生承彦」から始まるから「黄承彦」の墓誌銘ないし記念碑に違いない、という主張はもっともにも思える。しかし拓本を見る限り、この『漢故黄君之碑』の題部分と下部の本文とでは墨色がずいぶん違い、連続した一体の碑を為していたかについてもいささか疑問が残る。
また別の考察で、この年号部分が「建安四年」とする主張もある。それであれば建安四年当時の諸葛亮が17〜18歳であるから、黄承彦が諸葛亮の岳父たるに不自然はないということであり、だからこの碑は黄承彦の墓誌銘なのだ、という。
しかし剥落したこの部分を凝視する限り、ここに隸書で「建安」という文字が入るかどうかは、わずかに残る点画のバランスから見ていささか無理があるような感じもする。

墓誌銘の偽作などは古来からあり、拓本が高く売れるため後を絶たないのが現実である。全く別の人物の墓誌銘の拓本に『漢故黄君之碑』と偽刻した拓本をつなげて作られた、という可能性は十分にある。

本文の書体は流麗豊満な隸書体なのであるが、これが諸葛亮の岳父、劉表の義弟ほどの人物の墓誌銘とすれば、その内容についてはいくつかの疑問が兆す。

たとえば五行目の「不諂下交不瀆」は『易傳·繫辭傳下』の「君子上交不諂,下交不瀆」そのままである。また六行目の「移威武不屈也」も『孟子』の「貧賤不能移,富貴不能淫,威武不能屈」からそのまま採ったような文言である。水準以上の教育のある士大夫であれば、この個所が出典そのものという事はすぐにわかるところであろう。
要はオリジナリティに欠けるのであり、黄承彦その人の人となりや事跡に基づいた、懇切な文とは認めがたいものがある。

個人的には、この碑は(某)承彦の拓本を元にした偽作であると考えている。名士として名が通り、諸葛亮の岳父でありかつ劉表の義兄弟であったほどの人物の墓誌銘ないし記念碑文としては内容がいささか杜撰である。たとえば曹真の墓誌銘と考えられている『曹真碑』(これも偽作説があるが)に比べても、内容があまりに乏しいのであり「先生承彦」以外に、黄承彦とのつながりを確実に担保できる内容が見当たらないのである。

『大爆料!诸葛亮的岳父黄承彦其实就是黄祖』では、この拓本が黄承彦の墓誌銘という前提で没年を建安十三年と推理しているが、字数的にその考察自体に無理があるのはもちろん、この碑自体が黄承彦その人を考察する史料になりうるかどうかも、多くの疑問がある。
ただ「黄祖=黄承彦」をひとつの仮説として考えてみると、今まで見えてこなかった歴史上の関係性が見えてくるのも確かである。

次回は黄承彦から少し離れ、正史に傳を立てられるほどではないにしても比較的豊富な言及のある黄祖という人物について、少し丁寧に見てゆこうと思う。
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沔南名士 〜黄祖=黄承彦考4

前回までは、主に「黄氏宗譜」を参照しながら、系譜の上から黄祖と黄承彦の関係について考察をこころみた。結論としては、少なくとも系譜の上では黄祖と黄承彦は別の人物、という事が読み取れた。しかし同時に「宗譜」は史料とするにはいささか問題があるという事が明らかで、「宗譜」の系譜をもって史実とするにかなりの無理がある、ということもいえる。また黄祖は「正史」に別傳を立てられるほどではないにしても、それなりの量の記述をもっているにも関わらず、「黄氏宗譜」での扱いが極めて軽い、という点についても注意をしておきたい。
今回は黄承彦その人について、まずその出身地について考察してゆきたい。

そもそも黄承彦の出身地に関する記述については、三国志・蜀書・諸葛亮傳における裴松之の注にある「襄陽耆舊記(襄陽記)」という書物から引くところの、以下の内容しかない。すなわち有名な孔明の嫁選びの一節であるが、
 
黃承彥者,高爽開列,為沔南名士,謂諸葛孔明曰“聞君擇婦,身有醜女,黃頭鄂Аぜ才堪配。”孔明許,即載送之。時人以為笑樂,鄉裏為之諺曰:“莫作孔明擇婦,正得阿承醜女。”
 
黃承彥者は高爽(こうそう)、沔南(べんなん)名士に開列(かいれつ)し,諸葛孔明に謂いて曰く“聞く君は婦を擇(えら)ぶ,身に醜女(しこめ)有り,黃頭(こうとう)鄂А覆海しょく),而(しこう)して才は配するに堪う。”孔明許し,即ち載せて之に送る。時人(じじん)以為(おもへらく)笑樂(しょうれらく)し,鄉裏(きょうり)之を諺と為して曰く“莫作孔明の婦を擇(えら)ぶを作(な)す莫れ,正に阿承(あしょう)の醜女(しこめ)を得ん。”
 
一応大意を示せば、
 
黃承彥は豪快な人物として沔南(べんなん)名士に名を連ねていた。諸葛孔明に言うには「君は嫁を探しているようだが、ウチに醜い娘がいる。頭髪は黄色で色黒だが、才能は君の伴侶とするに足るだろう」孔明が承諾したので、輿(こし)にのせて送り届けた。
当時の人々は思うにそれを笑い楽しんだのだろう、その土地の諺にいうに
「孔明の嫁選びだけは真似てはならない、阿承(黄承彦)の醜い娘をもらうだけだから。」
 
というところだろう。

※話が逸れるが娘を「輿」に載せて送りとどけるのは、当時の婚礼そのものである。また言葉通り黄承彦の娘が「醜女」であったとは限らない。一種の謙譲であるともとれる。むしろこの逸話が現代に伝わっている意味を考えなければならないところなのだが、その点については次回以降に触れる予定である。
 
この一節に拠れば、黄承彦は沔南(べんなん)の名士であるという。沔(べん)は沔水という河川の事である。沔水は陝西省の漢中盆地から流れ出、湖北省武漢の漢口で長江に注いでいる。長江流域の大河川のひとつである。

大陸の河川の名称は同じ一河川であっても、流れる地域によって呼称が変わることが珍しくない。沔水も流れる地域によって別称がある。
まず沔水は漢中(現陝西省)から西へのぼった勉県付近(古くは沔県)に端を発している。ゆえに沔水というのであるが、漢中盆地を貫くことから漢水とも呼ばれる。そこから東へずっと下ると襄陽があるが、この地域では襄水、襄江と呼称される。襄陽そのものが襄水の南岸だから襄陽なのである。それが武漢付近では漢水となり、武漢の漢口で長江に注いでいる。
したがって広義には、沔南といえば漢中から武漢へ至る長大な流域の南岸を指すのである。しかし武漢付近の沔水(=漢水)南岸一帯は三国時代は沔陽と呼称され、沔陽南部(現洪湖市)には赤壁の古戦場がある。この沔陽の南部を特に沔南と呼称したようで、中華民国の時代には沔南県が置かれていた。
三国時代の襄陽は現在の襄陽市とほぼ同じ地域であるが、襄陽から赤壁の古戦場のある洪湖市とではずいぶんと距離がある。

また「開列沔南名士」とある。「開列」は名簿や伝票の項目に並び掲載されることであるがここでは「名を連ねる」というほどの意味であろう。
当時の襄陽は劉表が拠点とした荊州の一大都市であるが、赤壁付近は今も昔も襄陽に比べれば片田舎である。はたして黄承彦が襄陽における名士なのか、江夏より南の沔南の田舎紳士なのかでは大きな違いである。
黄承彦は姻戚を通じて荊州刺史として襄陽を拠点とする劉表とは義兄弟であり、また孔明が襄陽付近で耕作していたことから、結局は襄陽と縁が近い、という事はいえるだろう。
あるいはこの一節の筆者が沔水と襄水を混同していたのであれば、沔南はすなわち襄陽の事を指す、という可能性もある。事実、『三国志正史』より後世の書物では、黄承彦を襄陽の人とみなしている記述も少なくない。

しかしこの孔明の嫁選びの話は三国志・蜀書の注が引くところの『襄陽耆舊記(襄陽記)』という書物に記載されており、『襄陽耆舊記』では襄陽の人物は襄陽人、という記述がみられる。一例として蜀に仕えた馬良は、

馬良,字季常,襄陽宜城人也。

という具合である。また『襄陽耆舊記』における蔡瑁も「襄陽人」と書かれている。
そもそも『襄陽耆舊記』の「耆舊記」とは、すなわち襄陽の古老の覚書き、回顧談、というほどの意味である。襄陽の人物が書き残したとすれば、襄陽と沔南を混同していたとは考えにくい。
ゆえにわざわざ”沔南名士”としていのは、黄承彦はやはり襄陽とは別の”沔南”に居住していたか、あるいは襄陽に居住しながらもその本貫は狭義の沔南(現洪湖市)付近だった、と考えることが出来る。
豪族として田地と先祖代々の墓を沔南にもちながら、主な居住地は襄陽ないし襄陽付近であり、襄陽の上流階級で名を知られていた、という解釈もできるのである。古代から中世にかけての士大夫の生活形態として、政治文化の中心である大都市に邸宅をもちながら、その郊外の田畑からの収入で生活を維持するのは珍しいことではない。
また時代によって行政区は変化するのであり、襄陽近郊の地域も後に襄陽に含まれてしまった結果”襄陽の人”というような言われ方に変化することもある。また襄陽近くの無名の地域をふくめて「襄陽」にくくられてしまう事もある。
たとえば襄陽と南陽は隣接地域であるが、諸葛孔明が晴耕雨読の日々を送っていた襄陽郊外は襄陽なのか、南陽なのか、議論が分かれることがある。

ともあれ黄承彦の出身地という”沔南”については、後に黄祖の戦歴との関係を考える際にまた触れるが”沔南”がどの地方を指すか?そこで改めて考えたい。

さて「黄承彦=黄祖」という仮説について考えるきっかけとなった文章『大爆料!诸葛亮的岳父黄承彦其实就是黄祖(以下、『黄承彦其实就是黄祖』と略す)』はとても面白い観点による考察であるが、詳細は原文を参照していただきたい。
その特徴的な内容は「黄承彦の墓誌銘」と思われる碑文から黄承彦の卒年を考察し、それが黄祖の卒年と一致する云々、という点にある。しかしその辺の考察ついては次回以降に譲りたい。
またこの『黄承彦其实就是黄祖』には問題もある。たとえば『劉表と黄承彦が同年の生まれ』というようなことが唐突に書かれているのだが、調べる限り黄承彦の生年は未詳である。
さらに『”江表傳”に拠れば劉表は江夏黄氏と姻戚関係を結んだ』という記述があるのだが、”江表傳”にはそのような内容は見当たらない。
いささか牽強付会な面もなきにしも有らずなのであるが、他にも注意をひく論点もある。

ひとつには『黄承彦其实就是黄祖』では黄祖と黄承彦を仮に同一人物とみなした場合、その名と字(あざな)には、意味的な対応が見いだせる、という指摘である。
漢代において、一般に名は1文字、字は2文字だったようである。むろん例外もあるかもしれないが、明確な例が見当たらない。一見二文字の名のように記録されていても、字が伝わっていない場合はそれが字である可能性がある。
また名と字は意味的に対応する関係にある場合が少なくない。わかりやすいのが「劉備・玄徳」で、これは「劉氏の玄孫、徳を備える」と読める。少し出来過ぎのきらいすらある。また関羽・雲長も「関氏の羽(人)は雲中にて長(とこ)しえに」と読める。羽人は原初的な神仙のイメージであり、雲中で長生する羽の生えた神人である。
曹操・孟徳であれば、孟は一族の長、という意味があるから「曹氏の孟(かしら)は徳操(とくそう)あり」。また夏侯惇・元譲(おそらくは元は玄に代えたのであろう)も「夏侯氏の玄孫、譲に惇(あつ)し」と読める。譲、は礼の則った人物を言う。他、諸葛亮・孔明、龐統・士元など、有名どころの人物の名と字はうまくつながっている。

仮に”祖”が名で”承彦”が字(あざな)とすればどうであろう?”彦”は”古代の有徳才人”を指す字であり、日本でも「なになに彦」というように、彦は男子の美称として用いられる。ゆえに祖・承彦「古代の先賢を継承する」という意味になり、これも名と字はうまく対応している。
もっとも、”祖”と”承彦”が名と字(あざな)で呼応しているからと言って、そのことのみをもって同一人物、とみなすのはあまりに粗雑である。あくまで必要条件、としなければならないところである。

また『黄承彦其实就是黄祖』では黄承彦と劉表の姻戚関係にも触れている。やはり『襄陽耆舊記』の蔡瑁についての項に、

漢末,諸蔡最盛,蔡諷姊適太尉張溫,長女為黃承彥妻,小女為劉景升後婦,瑁之姊也。

つまり漢代末期には「諸蔡最も盛ん」すなわち蔡氏の一族が栄えており、蔡諷は有力者と次々と姻戚関係を結んだ、という事である。
この蔡諷は蔡瑁の父親であるが、まず姊(=姉)が張溫に嫁いでいる。張溫は襄陽の南、荊州北端地域、南陽の人である。張溫は三公のひとつ太尉に上り、黄巾討伐の諸将から信頼を寄せられた。また董卓の上官として董卓をよく御しえた剛毅な人物として知られるが、最後は董卓の誣告によって拷問死を迎えている。
蔡諷の長女は黄承彦に嫁ぎ、またひとりの娘が劉表の後妻に嫁いでいる。彼女らがすなわち蔡瑁の姊(あね)というわけである。つまりは黄承彦、劉表、蔡瑁は義兄弟の間柄である。

『黄承彦其实就是黄祖』では、この点、もし黄承彦=黄祖とすれば、安陸黄氏の有力者である黄祖が劉表と姻戚関係のつながりがあったことになり、それは力関係のバランスから見て合理的だ云々、とある。しかしこの『黄承彦其实就是黄祖』の本文はいささか論理の飛躍があってわかりにくい。
しかし個人的にはこの点こそが「黄承彦=黄祖」という仮説の検討の上で重要であると考えている。次回はこの部分を詳細に考えてゆきたい。
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宗譜の混迷 〜黄祖=黄承彦考3

前回は黄香以降、主に後漢〜三国時代における黄姓の人物の系譜について概観した。今回は黄祖と黄承彦の宗譜上の位置づけの考察に入りたい。が、その前に後漢時代の地方官制度と、その禁令である”三互法”について簡単に触れておきたい。
 
刺史、牧、太守
 
まず後漢の地方制度であるが、詳細は別所に譲るが、
州の下に郡、郡の下に県がおかれ、全国は13州、105郡、1180県があったという。州には刺史ないし州牧(あるいは単に牧)、郡には太守(郡太守)、県には県令が任命された。
漢代は州を監督する刺史が置かれたが、時代によって州牧へ改められ、また刺史に改められるなどした。郡ごとに置かれた太守を監督するのである。
三国時代は刺史と州牧が並立しており、州ごとに刺史ないしは州牧が置かれた。同じ州に刺史と州牧が置かれることはない。また刺史が州牧に改められることもあった。徐州の陶謙は徐州刺史に任命されたが、後に徐州牧に改められている。それは劉表、劉璋等も同様である。
ともとも刺史は監察官であり、また州牧は行政長官としての意味合いが強かったが、後漢末にはどちらも実質的に州の最高責任者として太守の上位にあり、行政・軍事に大きな権力を持っていた。
とはいえ孫堅は荊州刺史王叡を殺害し、袁術は揚州刺史陳温を殺害するなど、地方軍閥が刺史・州牧を凌ぐ実力をもっており、いかに乱れた時代であったかがわかる。

また刺史・州牧は朝廷によって任命されるが、郡の太守は刺史・州牧が任命する。実際には朝廷にお伺いを立て、承諾を受けるのであるが、刺史・牧の推薦がなければ太守になることは出来ない。
ところがこれも世の乱れの表れであるが、事後承諾を良いことに各地の刺史・牧が勝手に太守を任命し始め、また互いに攻伐を繰り広げるようになる。
 
三互法
 
刺史・州牧・太守、県令が置かれたが、これらの官は自身の本籍地が置かれた行政区(州・郡・県)では官にはなれない、という法令があった。また姻戚関係のある家も、相手のの本籍地のある行政区では官にはなれない。つまりは妻の本籍地でも官にはなれない。
たとえばA州の人がB州の刺史になった場合、B州の人はA州の刺史にはなれない。さらにはA州の甲氏がB州で刺史になり、またA州の乙氏がC州で刺史になった場合、C州の人士はA州でもB州でも刺史になれない。それは姻戚関係でも同様である。
劉璋は荊州江夏が本籍だから益州の牧になれるが、荊州の牧にはなれない。劉表は兗州が本籍だから荊州の刺史に任命することが出来る。

このような法令があるのは、もちろん地元の有力者との癒着を防ぐためであるが、厳格に実行しようとすると候補がいなくなり、刺史や州牧が空席のまま、という事態を招く弊害もあったようである(後漢書・蔡邕傳など)

しかし刺史(牧)・太守・県令等の行政府における属吏(地方役人)はその限りではなく、地元の人物から採用された。現実問題、そうしなければ行政実務に支障をきたすであろう。
地方の行政長官に地元の人物を任命しないというのは、いわば中央集権制の矛盾である。地方を一元的に中央政府のコントロール下におこうとすれば、その地方に縁のない人間を赴任させるしかない。しかしそのようにして任命された行政長官は、地元の有力者の協力なしには何も出来ないのである。また世が乱れてくれば、地元の反乱によって真っ先に攻撃されるのは中央に任命された行政長官である。ゆえに行政長官と地方豪族とで、積極的に姻戚関係が結ばれる事は珍しくはない。
またこの”三互法”があるために、ある程度の官吏となる資格能力のある士人達は、必然的に本籍地ないしは出生地を離れる事になる。
また”三互法”から考えれば、ある人物が刺史、太守、県令となった場合、すくなくともその地域がその人物の出身地である可能性は低い、という事が考えらえるのである。しかしあくまで可能性、というのは後漢末の世の乱れを考慮した場合、どの程度厳格に三互法が実施されていたか?についてはいささか不明瞭だからである。
たとえば劉表は荊州襄陽郡の蔡諷の娘を後妻にしている。それは荊州に刺史として赴任した後の出来事であろうが、”三互法”を厳格に適用するならば御法度であろう。

以上を踏まえて、黄承彦、黄祖の系譜上の位置づけを見てゆこう。

黄承彦

まず黄承彦の系譜であるが、前述の『黄姓簡史』を参照すると、黄香の後裔ではなく、黄香の兄弟、黄季という人物の後裔であるという。すなわち黄香の父親、黄況からたどれば、

黄況--黄季(文盛)--黄理--黄?(孚勇)--黄承彦

となるという。黄季、字は文盛は黄況の末子であるという。官は典(官)、すなわち宮中の給事官といっても、本当に宮中で勤務していたかはわからない。宗譜に記載されている官位は、晩年、あるいは没事に朝廷に礼金を積んで買った官位の場合も少なくないからである。ともあれ名に「禾(のぎへん)」を共有し、字には黄香と同じ「文」の一字を共有している。
黄季は龐氏を娶り、黄理が生まれた。黃瓊と同じく「玉偏」を共有している。その次男に黄孚勇が生まれる。
黄孚勇の名は不明だが、字にこの世代の「孚」を共有している。黄孚勇は刺史に登ったという。刺史といえばかなりの地位であるが、どの州の刺史を務めたかは未詳である。何氏を娶り、その一子が承彦であるという。
以上が正しければ何の問題もないのであるが、黄承彦の祖父、黄理は”黄香八子”と呼ばれる黄香の息子のひとり、と記載されている宗譜もあるという。その場合は、

黄況--黄香(文強)--黄理--黄?(孚勇)--黄承彦

という事になる。このように「黄氏宗譜」によって系譜の記載に異同があるので、実際のところを突き止めるのは難しい。ともあれ、宗譜をみても黄承彦の「名」は未詳である。”承彦”は字(あざな)ではなく名という事も可能性はゼロではないが、この時代に二文字の名は僅少である。仮にある人物について二文字の名としている記述があっても、字(あざな)が未詳である場合はこれが字である可能性もある。宗譜の上でも名がわかって字(あざな)がわからない場合もあれば、字がわかって名がわからない場合もあるのである。
次に、黄祖についてみてみたい。
 
黄祖
 
前回、以下の黄忠の系譜を掲載した。
 
黃子廉--黃瓚--黃簪--黃智頃--黃忠(漢升)
 
この黄忠の弟に、黃賁という人物がおり、その二人の息子、和璞と自溟のうちの自溟の子が黄祖であるという。

黃瓚-黃簪-黃智頃-黃賁-黃自溟-黃祖

この主張を信じるならば、黄忠は黄祖の”大伯父”という事になる。しかしこれは明らかに無理がある。
後漢の初平元年(190年)に劉表が荊州にはいる。初平二年には袁術は孫堅を派遣して劉表を攻めるが、この時に黄祖は江夏太守として孫堅を迎撃している。また建安二年(208年)に禰衡が黄祖によって処刑されるが、この時に長子の黄射は章陵太守であるという。つまり太守を任されるほどの息子がいる年齢、という事である。

一方の黄忠である。劉表は荊州刺史に赴任後、南陽以外の七郡を支配する。その後、劉表の甥の劉磐を長沙の攸県守備に派遣し、黄忠を中郎将として随伴させている。(この時の長沙太守は張仲景という)
軍職の中郎将であるが、いわば劉磐の副将格である。軍中にあっては低くない地位であるが、所詮は攸県という県の守備隊であり、県より上の一郡の行政・軍政を司る郡太守とは比較にならない。普通に考えれば、黄忠は黄祖よりもかなり若い年代のはずである。ゆえに黄忠の弟の孫が黄祖、というのは考えにくい。
 
ちなみに”老名将”とされる黄忠であるが、実際は関羽よりも若かったのではないか?と考えている。黄忠は220年卒であるが、生年が未詳である。正史をひもといても、黄忠が劉備に仕えた時点ですでに老年であったという証拠はない。ただ『蜀書・費詩傳』に

「先主為漢中王,遣詩拜關羽為前將軍,羽聞黃忠為後將軍,羽怒曰“大丈夫終不與老兵同列”不肯受拜。」

とある。関羽を前将軍、黄忠を後将軍に任命した人事に関羽が怒り、使者の費詩がなだめ諭した故事である。しかしこの「老兵同列」の「老兵」は、ベテラン兵、というほどの意味でかならずしも”老人”を意味しない。老人に兵隊など務まらないのである。関羽としては荊州以来の、部隊長からたたきあげの新人に並ばれてしまったのが不満だったというわけであり、むしろ黄忠の方が関羽よりはずっと若かったはずである。おそらく戯作や『演義』では、この「老兵」を拡大解釈し、戦国春秋時代の廉頗のような”老名将”の黄忠像を作り上げたのだろう。「老いてますます壮(さか)ん」というのは、不老長寿を貴ぶ大衆には受けの良い話なのである。
「正史」と突き合わせるなど、確たる考証なしに再編集を重ねたであろう「宗譜」なのであるが、この黄祖と黄忠の年代的に無理な関係も、その表れのひとつであろう。黄忠を『演義』の”老将”にしたいがために、黄祖の祖父の世代の人物にしてしまっていると考えられるのである。
 
このように史料として盲信するのはあまりに危険な「宗譜」であるが、黄祖と黄忠が比較的近い関係であった、という事は全く考えられないことではない。
黄祖と黄忠は、二人はほぼ同時期に、劉表によってそれぞれの任務を与えられている。
『蜀書』に拠れば黄忠は南陽郡の人である。荊州に刺史として赴任した劉表は当初は南陽郡など、荊州のごく一部しか掌握できていなかった。特に南部の長沙や零陵は、袁術や孫堅の影響力が残っていた状況である。劉表は荊州赴任後の1〜2年で荊州南部も掌握するのであるが、その守備の要所に身内の劉磐と南陽人の黄忠を派遣するのは不自然ではない。
また黄祖は江夏郡の太守に任命され、また黄祖の息子の黄射は章陵の太守に任命されている。(実際は朝廷に上奏して承認されるのであるが)
すなわち先の”三互法”に拠って考えれば、黄祖は江夏郡の人ではない、という事になる。黄祖は安陸黄氏ないしは江夏黄氏の出身という説があるが、いずれにせよ”三互法”に従えば江夏太守への赴任は禁令を犯すことになる。
仮に黄祖が黄忠と同じ南陽郡の人であれば、江夏太守にするのに何の問題もないのである。もっとも乱世の事であり、対孫家の最前線の要地を任せるのに”三互法”にこだわっていたとは限らない。地元の首領格の人物をそのまま太守にした、という事も考えられる。
章陵郡は南陽郡と隣接するが、仮に黄射が南陽郡の人であっても別郡であるから”三互法”には触れない。劉表が刺史に赴任当初は蒯越が章陵太守であったが、何らかの理由で黄射に交代したのかもしれない。また蔡瑁は(任期は未詳だが)江夏、南郡、章陵の太守を歴任したというから、蔡瑁と交代した可能性もある。

ともあれ、劉表時代の荊州において、黄祖の地位や権限は低いものではない。荊州の防衛という面では、北方は南陽郡を劉表自身が守り、東方最大の要衝江夏は黄祖が守っている。特にこの方面は孫家という強敵がいるため、黄祖の任務は重い。実質的にこの時期の荊州における軍事面のNo.2が黄祖であるといっても良いだろう。
ゆえに黄忠も、どちらかといえば黄祖に推挙されるような立場にあったと考えてもいい。中央から赴任した劉表が南陽や襄陽周辺にどんな人材がいるか?いちいち把握していたはずがなく、当時人材登用は推挙・推薦によるのが一般的なのである。
しかし少なくとも、宗譜を見る限りでは黄承彦と黄祖は同じ宗族といっても、遠い親戚のような関係である。しかし見てきたように、宗譜の記載にはさまざまな主張があり、また不明瞭な部分が多すぎる。やはり「正史」から生卒のわからない人物に関しては、宗譜を参照しても系譜はよくわからない、というのが本当のところなのであろう。
むろんそうなってしまったのは、後漢末から三国時代の戦乱で記録が亡失してしまったことにも拠るだろう。

ゆえに宗譜上の別人物が本当に別人物なのかも、確かな事は言えないのである。黄祖の荊州における実力は劉表存命のころは黄忠よりはるかに上であったにも関わらず、宗譜上では明らかに矛盾した、とってつけたような軽い位置にある。また黄承彦についても、黄香の後代か黄季の後代なのかもはっきりしない。そして黄祖の字(あざな)はやはり未詳である。黄承彦はの”承彦”は当時の士大夫の命名の慣例から言って、まず二文字の字(あざな)とみて間違いないだろう。

以上で宗譜上の考察はひとまず置く。ところで黄承彦の墓誌銘と考えられる拓本があるという。次回はこの墓誌銘を中心に、当時襄陽の名士であったという、黄承彦について考察してみたい。
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黄香以降の黄氏 〜黄祖=黄承彦考2

前回は江夏黄氏について、戦国春秋時代の楚の春申君にまつわる、いささか伝説的な起源を紹介した。つまり江夏黄氏も中原の諸侯国に起源が求められ、また戦国春秋時代の大国の名門の流れをくむ、という事である。
この辺の話は、ヨーロッパの王室が起源をたどれば皆古代ローマの貴族の家系につながる”という事になっている”という、いささか信憑性に乏しい系譜とも似通った事情があるのだろう。
しかし北方から絶えず異民族の侵入を受け続けてきたのが大陸の歴史であり、中原の諸宗族が戦乱を避けて長江の南へ遷移していったのという点については信じてよいのではないだろうか。徽州製墨の起源も、もとは河北の易水に起源が求められるのもその一例である。
 
今回は時代を下って主に後漢(東漢)時代の名臣、黄香から三国時代までの黄氏の系譜をたどってみたい。結論的にいうと”黄氏宗譜”で特定人物の系譜をたどるのは、そのままでは正確性に問題があることがわかる。
 
後漢の黄香について述べる前に、黄姓で史書に名を残す人物として前漢の黄霸(前130-51年)について触れておこう。字(あざな)を次公といい、淮陽陽夏(現河南省太康県)の人である。漢書第八十九巻・循吏傳第五十九に名を連ねる人物であり、官位は丞相に登っている。
黄霸の事跡については別所に譲るが、黄霸は黄歇から数えて六代目の子孫にあたるという。しかしこの黄霸の家系は王莽の乱の際に途絶えたとされているので、次に述べる江夏黄氏とは一応別系統とみなされる。
 
江夏一帯の黄氏は、ひろくは江夏黄氏と呼称するが、江夏黄氏の中でも安陸を中心とした宗族は特に安陸黄氏とも呼ばれる。
安陸は三国時代は江夏郡に属していたが、現在の安陸市は武漢市の北西に位置し、孝感市の行政区画に入っている。また安陸市の北は随州市、南は雲夢県に接している。上流から随州、安陸、雲夢、武漢の順に府河という河川で連絡し、府河は武漢で長江に注いでいる。府河は多くの支流を持ち、この地域の水運物流に貢献しているが、三国時代においても安陸と江夏(現武漢)は府河によって互いに連絡の良い地域であったことがうかがえる。
後漢(東漢)時代、この安陸の黄氏から名臣黄香が出る。
 

黄香


黄香(68-122年)、字(あざな)は文強は江夏安陸の出身である。父は黄況といい、葉県(河南省)の県令を務めた人物である。
黄香はいわゆる”二十四孝”に数えられ、”扇枕温衾”の故事で知られる。九歳のころすでに”天下無双、江夏黄香”の名声があり、官位は尚書令にまで登った。
122年に魏郡太守に赴任したが、この年水害が魏郡を襲う。黄香は私財をなげうって救済にあたったが、結局災害復旧の責任を問われて免官となり、その数か月後に死去した。

”天下無双、江夏黄香”と称えられたことから、黄香は間違いなく江夏の出身であると言って良いだろう。あるいは安陸黄氏の祖、とみなしてもいい人物である。
この黃香は八人の男子をもうけたという。すなわち黃瓊(世英)、黃瑰、黃院黃琛、黃瓚、黃珂(世藻・冀州刺史)、黃珮(世尉)、黃理、である。
名に同じ”玉偏”の付いた字を当てているが、同じ宗族の同世代の子弟に同じ一字を使用したり、同じ偏旁をしようして命名する(拝名制)は当時ひろくおこなわれていた。

三国時代は一般的に名が一文字で字(あざな)は二文字である。二文字で構成される字(あざな)には、同じ一文字を使用することがある。黄香の息子すべての人物の字はわからないが、世英、世藻、世尉というように”世”の一字を共有しているのだろう。
黄香の息子のうち、黃瓊(こうけい・86-164年)、字は世英である。すなわち

黄況--黄香--黃瓊(世英)

である。

一家から傑物が二代続くことは稀であるが、黃瓊の栄達は父の黄香以上であった。この稿の目的から逸れるのでその功績は詳述しないが、官は司空、太仆、司徒、太尉等、いわゆる”九卿”と”三公”を歴任し、死後は車騎将軍を追贈され、謚号に”忠”の一字を許されたほどの顕臣である。
漢王朝はこのころから宦官の勢力が大きくなる。黃瓊はたびたび宦官の害を除くことを訴えたが、その弊害をただすことが出来なかった。
ともあれ県令どまりであった家庭から黄香、黃瓊の親子二代にわたって漢王朝の重臣をつとめ、ともに優れた業績を残した事が、漢代における安陸黄氏の名声を確立したことは間違いないだろう。
この”位人臣を極めた”黃瓊の孫に、ようやく”三国志”の序盤で著名な黄琬が出る。

黄琬

黄琬(141-192年)、字は子琰は、黄香の曽孫にあたるという。その父親は早世しており、黃瓊の息子のうちの誰の子であるかは「宗譜」によって諸説ある。

黃瓊には陳氏、顔氏、李氏の三人の夫人がいて、併せて14人の男子が生まれたという。このうち李氏の生んだ三人の男子、黄賁、黄賛、黄資のうち、黄賁、字は子貴が黄琬の父親であるという。
黃瓊の息子は”貝旁”を持つ一字を名の共通にしたのだろう。

黄香--黃瓊(世英)--黄賁(子貴)--黄琬(子琰・公琰)

という事になる。黄琬(141-192年)字は子琰(あるいは公琰)は幼い時に父を亡くし、祖父の黃瓊に育てられた。
黄琬の琬は、黃瓊の世代と同じ”玉旁”をもつ文字であるが、これは異例である。字が子琰と公琰のふたつがあるが、子琰は父親世代の字に使われる”子”の一字がある。これは祖父の黃瓊が育てた事に由来するのかもしれない。”公琰”の”公”は後述するが、黄琬の世代の字に共有する一文字と考えられる。
周知のとおり、黄琬は董卓の長安遷都に反対して罷免され、後に王允、呂布とともに董卓暗殺を画策して成功している。しかし李傕、郭椶陵陲虜櫃僕傕に捕らえられ、屈せずに獄死する。黃瓊に育てられただけに、黄香から黃瓊以来の黄家の男の硬骨を受け継いでいた、と言えるだろう。
しかし非常な権門の家系にかかわらず、黄琬の父親がはっきりしないというのは、後漢(東漢)末から三国時代の戦乱によって、記録が亡失してしまった事が察せられるのである。
 
ともあれ、黄香、黃瓊、黄琬については史書(後漢書)に傳をもち、生卒年もわかっている人物たちである。次に三国時代の黄姓の人物について述べてゆくが、『演義』の世界で大活躍する著名な人物であっても、その生卒は未詳で、また系譜もはっきりと確かめ難いのが事実である。そもそも「宗譜」ないし「族譜」によっても主張が違い、時代的に矛盾する記載もある。「宗譜」を盲信するのは危険という点は、注意しなければならない。
 

黄蓋


苦肉の策”で有名な呉の名将、黄蓋(字は公覆)についてみてみると、まず『三国志・呉書』の記載では、

「故南陽太守黃子廉之後也,枝葉分離,自祖遷於零陵,遂 家焉。」

とある。すなわち南陽太守の黃子廉という人物の後裔で、黄蓋の祖父の代から零陵に移り住んだ、という事である。
この黃子廉という人物の生卒年は未詳である。後に東晋陶淵明が”詠貧士”という連作の詩の其七に黃子廉の名があるが、陶淵明の詩の中の黃子廉は本当は別の人物であるという指摘もあり、はっきりしない。
『黄姓簡史』に拠れば、南陽太守黃子廉は名を”守亮”といったという。二文字の名はこの時代珍しい。”子廉”は字(あざな)とすると”子”の一字を共有する黃瓊の息子世代の人物のように思われる。
南陽は洛陽から南下し、襄陽へ至る途上に位置する。この地域の黄氏宗族の一派を特に”南陽黄氏”というが『黄氏宗譜』では南陽黄氏の祖が黃子廉であるという。

『黄姓簡史』に拠れば、『古今姓名辨証』という書籍では黃子廉は黄香の孫、と主張されているという。たしかに黃子廉の”子廉”が字とすれば、これは黄香の孫世代が字に共有するであろう一文字が”子”であるという拝名規則と一致する。
しかし別の「宗譜」では、黃子廉は黄香よりももっと前の世代であり、黄香こそが黃子廉の後代なのだという。

話を黄蓋に戻すと、『呉書』には「(黄)蓋少孤,嬰丁兇難,辛苦備嘗。」と、黄蓋が幼くして父親を失い、艱難辛酸を舐めた、と書いてある。また前述の『呉書』の記載をそのまま読む限り、黃子廉の後代にあたる黄蓋の祖父が零陵に移り住んだ、と読める。前述の『黄姓簡史』を参照すると、黄蓋の系譜は

黃香--黄瓚--黄安(孚仁)-黃蓋(公覆)

とある。つまり黄蓋は黃瓊の兄弟、黄瓚の孫ということになるのである。その場合、黄蓋の字は”公覆”であるから、黄琬の”公琰”と同じく”公”を共有する、とも考えられる。
黄蓋はともかく、その祖先の南陽太守黃子廉については、黄香より以前の人物なのか、黄香の孫なのかすら「宗譜」では判別しがたいのである。
 

黄権


また蜀から魏に仕えた黄権(?-240年)について考えてみたい。
先に『黄姓簡史』を参照すると、

黄香--黄瓉--黄?(孚智)--黄権(公衡)

とある。この系譜を真とすれば、黄蓋と黄権は祖父が共通する”いとこ”という事になるのだが......父親については、名が”孚智”である、という宗譜もあるが黄蓋の父黄安の字が孚仁であるというのだから、これはやはり字(あざな)ではないだろうか。この世代は”子”の字を共有するはずであるが、そのかわりに”孚”が充てられている、とも考えられる。しかし”名”については未詳である。
周知のとおり、黄権は劉備の東征の失敗によって孤立し、魏に降伏する。後に魏で曹丕に重用され、車騎将軍、儀同三司(三公と同等の待遇)にまで登り詰めるほどの人物である。また黄琬の子、という説もある。しかし字に”公”の一字を共有するという事は、黄琬や黄蓋と宗譜上の同世代であることを示唆している。
もっとも、宗譜上の同世代といってもかならずしも同年代を意味しない。今の時代より、兄弟ですら親子ほどの年齢の隔たりは珍しくない時代であることは注意が必要である。

また『三国志・蜀書』に拠れば黄権は益州(現四川省)の出身ということになっており、江夏黄氏とは縁がないようにも見える。しかし史書における「〇〇の人」という出身に関わる記載は、実際の出生地の場合もあるし、本籍地の場合もある。また歴史に登場した地域をもって、あたかも出身地であるかのように(編纂者の類推によって)記録されていると考えられる場合もある事は、注意しなければならない。
黄権の場合、はじめ巴西郡(現四川省と重慶間)の郡吏からキャリアがスタートしている。郡吏は現地採用が多かったから、黄権をこの地方の出身としているのかもしれない。
 

黄忠
 

さて、三国時代の黄姓の著名人というと蜀の名将、黄忠を外すわけにはいかないだろう。
まず『三国志・蜀書』の記載に拠れば「黄忠字漢升、南陽人也」とある。また『黄姓簡史』を参照すると(黄氏宗譜の幾つかに)まず黄忠は南陽の人であり、南陽太守、黃子廉の後裔と主張されているという。
黃子廉の子が黄瓉、その子に黃簪、その子に黄知頃(字は煌霖)という人物がおり、その黄知頃の長男が黄忠、次男が黃賁という人物だという。上記をそのまま整理すると、
 
黃子廉--黃瓚--黃簪--黃智頃--黃忠(漢升)

であるという。まず、黃子廉の子が黃瓚、とあるが黃瓚は黄香の八人の息子のうちのひとりに名がある。むろん、あるいは黄香と黃子廉が同世代で、偶然同じ名を男子につけた.....という可能性がゼロではない。しかしかなり不自然な見方であろう。
しかし黃子廉の子が黃瓚というのは、先の黄蓋の系譜における黃子廉と黃瓚との関係を思い起させる。
また『黄姓簡史』には別の主張があり、黃瓚には孚仁、孚義、孚礼、孚智、孚信という(いささか出来すぎでいるが)五人の子がおり、孚智の子が黄権、孚信の子が黄忠、であるという。それが真であれば、

黃瓚--黄孚信--黄忠

である。また先に黄蓋が孚仁の子である、という事は述べた。つまり三人は従兄弟同士、という事になるのだが.....

参照した『黄姓簡史』は複数の「黄氏宗譜」を参照して書かれているが、各地にちらばった黄氏がそれぞれに編纂してきた「宗譜」にはかなりの異同があり、いわゆる”正史”と対比すると矛盾するところが多い。

また三国時代も”養子”は頻繁に行われていたから(劉備の養子、劉封など)年齢や年代と世代が一致しないことも珍しいことではない。それを無理に血縁上の関係に辻褄あわせを行った可能性もあるのだから、まずうたがってかかるのが無難なのであり、宗譜・族譜を史料として盲信するのは問題がありすぎるのである。
 
「正史」に傳のある黄香、黃瓊、黄琬あたりは史実として差し支えなく、黄香以下の安陸ないしは江夏黄氏に属するとしても良いだろう。しかし黄蓋、黄権は黄香の宗譜上は黄香の後裔であるが、黄蓋はその祖が南陽太守黃子廉という事で、南陽黄氏の後裔という主張がある。さらに黄忠の系譜については、ひとまず参考程度に考えておくべきであろうが”南陽の人”と蜀書に記載があることから、黄蓋と同じ南陽黄氏という事もできるかもしれない。
また黄琬、黄蓋、黄権の三人については、字(あざな)に”公”を共有することから、宗譜上の同世代という可能性があるという事くらいは、留意していいのかもしれない。
 
ところで黄蓋、黄権、黄忠の三人は、有為転変の激しい人生を送っている。黄蓋は零陵から孫堅に従軍して涼州や中原を転戦し、また黄権は蜀に仕えながら魏に降伏して魏の重臣として生涯を終え、黄忠は劉備に従って蜀に入り、漢中の戦いで活躍している。
とはいえ黄忠の出身地である南陽郡は荊州に属し、史書に登場するのはやはり荊州南部の長沙への赴任である。また南陽太守の後裔である黄蓋は、その出生地とされる零陵も荊州の南部である。
 
黄権の出身地である巴西郡閬(ろう)中県は益州の管轄下であるが、夷陵の戦いで黄権が魏に降伏した当陽は、やはり荊州の南郡に属している。劉備は黄権に長江北岸方面の魏軍を防ぐ事を命じたのであるが、地理に暗いものには託せない任務である。またあるいは、そこに黄権と江夏黄氏との関係性にたいする配慮(疑念)が作用した可能性もある。江夏ないし荊州の黄氏は、黄蓋の例ではないが蜀と呉の両陣営に分かれていると考えられるからである。
宗譜上の関係はうのみに出来ないとしても、やはり「三国志」における黄姓の人物には、黄姓の多い江夏を含む荊州との関係がある、ということは言えるのではないだろうか。
 
江夏ないし安陸黄氏といい、宗譜をたどっておきながら、かえって宗譜が史料としてあてにならない事を示したようなものである。しかしあえて次回は黄承彦、黄祖について、やはり宗譜上の位置づけを考えてみたい。
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江夏黄氏縁起 〜黄祖=黄承彦考1

何回かに分けて、黄祖=黄承彦の考察を掲載しようと思うが、今回はまず江夏に栄えた一大宗族である黄氏の起源について概説したい。

詩詞を以て朝政を誹謗したと告発された「烏台档案」によって蘇軾は黄州に流罪となり、自ら荒れ地を開墾するなど辛酸をなめた。しかしこの地で文学上の成就を得、「東坡八首」「黄州寒食詩」「赤壁賦」などの傑作を残している。筆者も数年前に蘇軾が「赤壁賦」のモチーフにしたといわれる黄州“赤鼻磯”を訪ねた。かつての黄州は現在の湖北省の黄岡市の行政区内にあたる。
黄岡市以外にも、湖北省の武漢周辺には黃陂、黃安、黃梅、黃石、というように「黃」の字から始まる地名が多い。それは古来よりこの地に「黄」姓の一大宗族が栄えていたことに因(ちな)んでいる。
現在の武漢市、古くは江夏と呼ばれた地域に盤踞した“黄氏“の起源をたどれば、戦国春秋時代にまでさかのぼる。
” 潢川黄国“という小国が、現在の河南省潢川県にあたる地域に存在したという。この国はやがて南方の大国、楚の伸張にしたがって滅び、楚の版図に吸収された。黄国の支配者階級である”黄姓“をもつ一族は、ある者たちはこの地にとどまり、またある者たちは楚の国一帯に分散したといわれる。
この” 潢川黄国“に起源をもつ黄氏の中から、戦国四君のひとり、春申君こと黄歇(こうあつ)が現れる。
黄歇(こうあつ)ははじめ楚の襄王に仕える。考烈王の元年に(前262)楚の宰相に任じられ、春申君に封じられる。この春申君黄歇の封地はまたかつての“潢川黄国”は存在した土地であった。(ゆえに現在の潢川県は清朝にいたるまで”春申鎮“と呼ばれていた。)

「史記」では春申君は食客三千人の中の一人、李園の妹(李夫人)を寵愛し、李夫人は身籠る。やがて李園の献策で春申君の子を身籠った李夫人を、嫡子のなかった考烈王に献上する。李夫人が生んだ子が次代の楚王となれば、(実父の)春申君が楚を手に入れる、という計略である。李夫人は王后となり、外戚の李園は重職に抜擢されるが、この秘事の露見を恐れて春申君の命を狙うようになる。そして考烈王の病没後、棘門で春申君は暗殺され、一族は皆殺しになったという。
ただこの話は、秦の始皇帝と呂不韋との関係にも類似の秘話がある。いずれにせよあまりにドラマチックな王宮秘話であり、春申君の最後についても実話とは考えにくいところがある。

ところで大陸における同姓の宗族の系譜を記した書物を「宗譜」という。いうなれば大家系図で、主だった祖先の事績も記されている。同姓の宗族といっても、時代を経ながら大陸全土に分居枝分かれしてゆき、たとえば”潮州黄氏”や”江夏黄氏”といったように分派してゆく。分派した宗族がそれぞれ「宗譜」を編纂し、また時代をへて加筆再編集を重ねるため、同姓の宗族の「宗譜」であってもいくつかのバージョンが存在する事が多い。さかのぼればそれぞれの「宗譜」に共通の祖先の事績が記載されているのであるが、その内容に異同があることも珍しくない。
「黄姓簡史(中華姓氏簡史叢書・江西人民出版社)」に拠れば、(仔細は省くが)黄氏には何種類かの「黄氏宗譜」が存在する。その「宗譜」のいくつかに、暗殺された春申君の長子の黄尚は、難を避けて江夏県城から三十里離れた黄鶴郷仁義村に遷居したという記載がある。また春申君は黄鶴郷仁義村に葬られたという。この黄鶴郷仁義村が、江夏(現武漢)を中心とする湖北省一帯に黄氏が繁栄する基礎になったという。
仮に複数の「黄氏宗譜」の記載が真とすれば、肝心要(かなめ)の長男が生きているのだから、史記にある「一族皆殺し」は疑わしいところである。
宗譜の記載が真、とは断定できないものの、その後もこの地方から黄姓の著名人が輩出していることから、黄氏が栄えていたのは事実である。春申君にしてもあるいは楚の宮廷における権力闘争に敗れるなり、老いるなりして郷里に隠棲した、というのが実情に近いのではないだろうか。
春申君がよほどの無道を行った、という事績は見当たらない。暗殺などすれば春申君の「食客三千人」が黙っているはずがなく、古くからこの地に勢力を張る一大宗族である黄氏一族も平穏ではいられなかっただろう。流れ者の食客に過ぎない李園が地元の大勢力を向こうに回すというのは、いささか飛躍が過ぎるのである。

『史記』に拠れば、楚は考烈王の死後、李大后の生んだ幽王が即位する。そして李園が宰相となり外戚として専横を振るった。ついで哀王の時代、(哀王の庶兄といわれる)負芻の反乱にあって哀王は殺害され、負芻が楚王に即位し、李園は李大后ともども殺されたという。負芻の簒奪後、ほどなくして秦の王翦、蒙武の侵攻で楚は滅びることになる。
あるいは楚の衰滅の原因を李園の専横に負わせるべく、ことさら李園の悪事を仕立てあげたのかもしれない。
もともと春申君・黄歇(こうあつ)の食客であった李園が春申君を殺害したとすれば、これほど仁義にもとる行為はなく、仁義にやかましい当時のこと、とても衆望は得られなかっただろう。

武漢の名勝“黃鶴樓”の“黃鶴”は、仙人が壁にミカンの汁で描いた黄色い鶴に乗って雲中に去る、という伝説に因む、とされる。しかしそれとは別に、江夏の南部一帯は黄鶴郷という地名で呼ばれており、「黄氏宗譜」のいくつかには、春申君は黄鶴郷の出身であったという記載がある。
通常、亡骸は故郷の一族の墓地に葬られる。黄歇が黄鶴郷仁義村に葬られたのだとすれば、黄歇の郷里はもともと黄鶴郷仁義村であったとも考えられる。
“黄”の字のつく地名が黄氏に由来するのだとすれば、”黃鶴”は黄氏の居住に由来する地名であり、春申君こと黄歇(こうあつ)がその地に本貫をもっていた可能性もある。

しかし春申君こと黄歇が江南黄氏の祖である、という説には異論も多い。あくまで黄氏宗譜の主張するところであり、多くの宗譜は起源を歴史上の著名人に求める傾向があるからである。
史料に「どこどこの人」と出身地が書かれていても、それは出生地とは全く異なる本籍地であったり、逆に本籍地がわからず出生地が記録されていると考えられる場合もある。黄歇の一族が河南から湖北の江夏の黃鶴郷に難を避けたのか、あるいは黄歇よりずっと前の代に黄鶴郷を本籍としていたのか、という点に関しては判断にたるだけの史料はみつからない。
しかし江夏を中心に、”黄”の字をもつ地域が散在しているところを見ると、「黄姓」をもつ宗族が中原に存在した小国に起源をもち、他の宗族がそうであるように、北方からの圧力を受けながら徐々に南下した、という事はいえるのかもしれない。同姓の宗族が集団で移住し、その移住地を姓をつけて呼称するという例は、南方によくみられる現象だからである。

さて黄氏の江夏安陸(現在の雲夢県東南一帯)中心に栄えた一派を安陸黄氏(または江夏黄氏)という。先の黄鶴郷とも重複する地域であるから、言うなれば安陸黄氏は黄歇の後代、という見方もできる。この安陸黄氏から、前漢の名臣、黄香が出る。
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