禰衡考(六)
まず文学者としての影響力について考えてみる。
禰衡の文集は『隋書・経籍志』に拠れば、南朝梁の時代には二巻が伝存していたようであるが、現在は伝わらない。今は『鸚鵡賦』のほかに『吊張衡文』が残る。
『吊張衡文』は後漢の張衡(78-139年)を悼んだ文である。
張衡は字平子、南陽郡西鄂縣(今河南省南陽市石橋鎮)の人。天文、数学、地理、文学に通じ、孝廉に挙げられ、郎中、太史令、侍中、河間相、を歴任し、尚書にのぼった。
『吊張衡文』からは、禰衡が張衡に深い尊崇の念を抱いていた事がわかる。後に建安文学の中心的存在となる曹植・王粲等、”建安七子”にも、張衡の詩文は非常に重んぜられた。禰衡の詩文は建安文学に影響を与えているが、禰衡が模範としたのも張衡の詩や文章だったのかもしれない。(ふたりの諱の”衡”は偶然か否か。)
陳壽の『三国志・呉志・胡綜傳』に、黄龍二年(230年)孫権が青州人隱蕃について胡綜に下問した際、
綜對曰「蕃上書、大語有似東方朔。巧捷詭辯、有似禰衡。而才皆不及」
とある。
呉国きっての文章家である胡綜は、隱蕃の文章を「巧捷詭辯」つまり「巧捷」すばやく(即興的で)たくみで、「詭辯」論法が意表をついて奇抜であり「有似禰衡」禰衡の文章に似る、と評している。
禰衡が没した建安3年(198年)から30年以上経過し、(残存した)禰衡の文章が、後漢末の知識人の間で広く読まれていた事がうかがえる。あるいは亡友の詩文集を、唯一の友と言って良い黄射がまとめたのかもしれない。
この「巧捷詭辯」という胡綜の語は、ほぼ禰衡への評価と言って良いだろう。また当時重んぜられた文章の特徴ともいえるかもしれない。要はテクニカルで奇をてらう文章が好まれたのである。
やや話がそれるが、『三国志』を著した陳壽は、崇拝する諸葛亮の文章を「諸葛亮集」にまとめている。陳壽が『諸葛亮集』を西晋の皇帝司馬炎に上呈した際の上奏文が『蜀志・諸葛亮傳』に収録されているが、その中で陳壽は「(諸葛)亮文彩不豔(文章文体が艶麗ではない)」と言っている。
陳壽はむろん、孔明の文章を貶める意図はなく「他の部下や大衆向けに内容が伝わるように書かれた文章であるから」という釈明を入れている。修飾煩瑣で内容に乏しい美文ではなく、「達意」を旨としている、という事であるが、実務上の文章というのはそのようなものであろう。ただ後漢末〜西晋の上流階級知識人の間でもてはやされたのは、技巧を凝らした美しい文章であり、そういった文章を作る能力だったとすれば、陳壽が諸葛亮の「実用的」な文章について弁護を加えたくなる感情もわからなくはない。
たとえば禰衡の『吊張衡文』なども、非常に美しい語句を連ねて張衡の人物像を描いているが、あまりに美化され過ぎていて、現実的な人間像からはかけ離れている。張衡がどのような人物であったか?知るための手掛かりにはほとんどならない。それは禰衡を評価した孔融が、他の人物を推薦する際に書かれた文章等にも言え、美しい語句でひたすら賛美を連ねるばかりなのである。その文を読んでも、推薦される等の人物について何ほどの事もわからない。しかし「孔融ほどの人物」が激賞したのだから間違いない、という事で推薦文の役割は果たしている、という事なのかもしれない。
ともあれ建安文学を牽引した、曹植を筆頭とする”建安七子”はそれぞれ「鸚鵡賦」をつくり、禰衡へオマージュを捧げるなど、禰衡の詩賦・文章は後漢末において高い評価を受けた。しかし三国時代がおわり、晋に入って以降しばらく、詩賦に
禰衡に影響を受けたとみられる作品は見当たらない。それは西晋から五胡十六国時代は史料の亡失が非常に激しいため(筆者が)発見できていないだけかもしれないが、たとえば陶淵明(365-427年)に、それとわかる詩賦はみられない。
禰衡が(歴史上の人物としてではなく)文学者として再評価されるのは、古文辞学派が盛んになり、美麗な建安文学が詩賦の模範とされた、明代を待たなければならないだろう。やはり技巧的で美麗な詩賦を得意とした徐渭は「四声猿・狂鼓史」を作り、禰衡への尊崇の念を表している。
禰衡作品への評価は、美文が良いのか?達意の文が良いのか?という、文学上の潮流にも影響される。現代的に考えれば、実用的な「達意の文」が良しとされるから、禰衡のきらびやかな文体などは衒学趣味として一蹴されてしまうかもしれない。しかし権威主義に支えられた王朝時代においては、美しく技巧的な詩賦や文章が、一定の地位を占め続けたのである。
禰衡はわずかしか伝わらなかったその作品よりも、やはりその人物像と行動が、後世の文学者の興味を惹いたのだろう。
『後漢書』と『三国志』の注に引かれる『典略』で異同のある禰衡の最後の経緯であるが、この行動に対する評価は分かれている。しかしおおむね、後漢末から近い西晋時代の史家の方面からは、その行状を批判されることが多いようだ。
前述した『典略』の記述も、結局は禰衡の最後を自業自得として描いている。
西晋時代の傅玄(217年〜278年)は『三国志』の注に引かれる『傅子』の中で
衡以交絕於劉表、智窮於黃祖、身死名滅、爲天下笑者、譖之者有形也。
と述べている。禰衡は劉表に絶交され黄祖の下で知恵も窮まり、ついに死んで天下の笑いものになった。これを「そしる者は有形(:もっともだ。)」と辛らつに評している。
西晋の葛洪、283年(太康4年) - 343年(建元元年)が著した『抱朴子』では「弾禰衡(禰衡を糾弾する)」という一章の中で、
盖欲之而不能得、非能得而弗用者矣。
禰衡は才能によって立身出世を望みながらそれを得られなかったというのは、結局のところは、とうてい人に使われて出世できるような人物ではなかったのだ、と断じ、これも酷評している。
要は自分が欲するところと、自分の性格が合わない事がわからなかったのであり、賢いといっても自分自身が理解できなかったのだから、結局「己を知らぬ」「愚か者」だった、という結論である。
禰衡の故事そのものをモチーフとして創作された文章といえば、南朝宋(420-581年)の時代に成立した『世説新語』の「禰衡撃鼓罵曹操」がある。これは『後漢書・禰衡傳』を脚色して書かれた文章であろう。
ずっと時代が下って北宋時代に成立した『太平御覧』には「禰衡別傳」があるが、この傳もやはり『後漢書』や『典略』の内容を脚色して書かれた文章であり、後世の解釈が多く含まれ、後漢末当時の様相とはおそらく相当な距離がある。しかし後漢末の世相を映す面白い逸話として、文学者の興味を引く題材であり続けたようだ。とはいえ、これら傳記を元にした創作文の中では、禰衡の奇行に対する是非の評価はひかえられている。
禰衡の再評価.......禰衡を”自業自得”の奇行の士から、権力を恐れぬ硬骨漢でありかつ悲劇の詩人である、という評価が定まったことがハッキリ認められるのは、おそらく唐代からではないだろうか。唐代以降、詩の中に禰衡の逸話をモチーフにしたとみられる詩文が多く現れるようになるのである。
しかしそれは曹植等”建安七子”のように、禰衡の詩賦作品に倣おうとする動きではない。禰衡の故事の中に、文学者ないし士人のあるべき姿を見出そうとした意識の現れである。すなわち唐代まで伝存したかはわからない禰衡の詩や文集が再評価されたのではなく、歴史上の出来事として、禰衡の人格・人物像に脚光が当たったのである。
ひとつには三国時代の歴史物語や逸話が、唐代に広く浸透していた事も背景にあるだろう。それがなにゆえか?といえば、五胡十六国時代という長い分裂の時代を経て、隋唐という統一の時代を迎えた時、統一の持続性を占いたい、という意識が高まり、それが漢から三国へ分裂していった後漢末時代への関心へ向かった、という事は言えるかもしれない。
大陸が久しぶりに統一され、洛陽と長安というわずかな領域の繁華な”都”に対し、大陸の大部分を占める”地方”という関係性が復活する。強力な中央集権制をとる大唐帝国において、都へ行くのは栄達を意味し、地方へ赴くのは落魄の身である。自身が帝都で認められず”都落ち”した落伍者である、という意識が、辺境で落命した禰衡への同情へ向かうことになる。それは別の角度から見れば、禰衡の死に関わった黄祖への批判的な評価の定着、ともいえるだろう。
(今回で終えるつもりでしたが、禰衡と唐詩の部分が長くなりそうなので、一端区切ります。)
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