郭嘉の予言 〜黄祖=黄承彦考12

前回は『呉志』における、孫策の死の場面の記述に関する矛盾点を考察した。

今回は『魏志』における孫策の死とその前後の出来事の記述内容について考えていきたい。


孫策の死の時期


まず『魏志・武帝期』には、


八月、紹連營稍前、依沙堆爲屯、東西數十里。


と、袁紹との官渡での対峙の進展の記述の後、


孫策聞公與紹相持、乃謀襲許、未發、爲刺客所殺。


とある。その次に時期のわかる語としては


冬十月、紹遣車運穀、使淳于瓊等五人將兵萬餘人送之、宿紹營北四十里。


のように「冬十月」とある。武帝紀の記述が時系列に沿っていると仮定すれば、孫策は建安五年の八月〜十月に至る間に死去した、といえるだろう。また孫破虜傳と同様、武帝紀でも孫策はもっぱら許都襲撃を企てていた、と考えられている。


『魏志』の郭嘉の伝記にも、


孫策轉鬭千里、盡有江東。聞太祖與袁紹相持於官渡、將渡江北襲許。


江東を平定した孫策が、官渡の戦いの隙を突いて許都を攻撃しようとした事が書かれている。そして、


衆聞皆懼


「衆聞皆懼(衆は聞いて皆懼れた)」とある。衆は狭義には軍勢を指すが、広い意味では軍とその軍属を含む民衆、あるいは住民を指す。


孫破虜傳の孫策の伝記によれば、許都への進撃は秘匿されていた計画である。それを「衆聞」という事は、大衆に知れ渡ってしまった事を意味する。しかし同時にそれが風聞に過ぎなかった可能性も考えられるのである。”衆”はこの場合、許都の住民を指すのだろう。


この時期、袁紹は劉表に共闘を呼び掛けている。いわゆる「合従」の策として、孫策に対しても同様の働きかけをしていない道理はない。くわえて曹操の本拠地である許都に対し、孫策や劉表が曹操軍の留守を狙うという噂を流布するのも、牽制の為の常套手段である。

また孫策が任命した李術によって、揚州刺史の嚴象が討たれた事件の影響も考えられる。嚴象については、孔融の推薦文が残っている。非常な名士であり、それが李術に殺害されたという大事件は、すくなからぬ衝撃を曹操に与えたであろう。

さらに言えば、孫策に敗れ曹操へ帰順した劉勲の一党が、積極的に”孫策脅威論”を吹聴した、という事も考えられるであろう。


郭嘉の予言


このような状況に対し、郭嘉はこう述べる。


策新幷江東、所誅皆英豪雄傑。


すなわち孫策が江東を併合する過程で誅殺した者はみな英雄豪傑であるといい、(そういった者達の縁者には(仇討ちのために)死力を尽くす者も大勢いるであろうから)


若刺客伏起、一人之敵耳。


もし、刺客が待ち伏せをしていたら(軍勢を率いる孫策といえども)”一人之敵耳”つまりはひとりの標的にすぎないのであり、


以吾觀之、必死於匹夫之手。


ゆえに郭嘉が状況を推察するに、必ず”匹夫”の手にかかって死ぬであろう、と言っている。続いて、


策臨江未濟、果爲許貢客所殺。


孫策は長江を渡らぬうちに、果たして許貢の食客の手によって殺害された、とある。

つまりは郭嘉は孫策暗殺を予言し、的中させた、というのだ......


郭嘉の孫策暗殺については裴松之は注で「殺害される時期までは予測していない。」と、郭嘉の予言の欠点を指摘している。孫策による許都侵攻を恐れる曹操としては、袁紹を撃破する前に孫策が「匹夫」の手にかかって落命しなければ意味がない。


郭嘉は、曹操の脅威にならない早い時期に孫策は落命するだろう、という意味で述べたのだろうか。いささか出来すぎである。

仮に郭嘉が刺客を放った、という話であれば、これもひとつの策略として理解できなくもない。

しかし強力な銃火器や爆薬の無いこの時代である。軍勢を率いる立場にあり、かつ武勇に長けた要人の暗殺は成功が期し難い。呂布ですら、近侍しているからこそ丁原や董卓の暗殺が可能だったのである。身内と信じる位置にいるものが実行しなければ、返り討ちに遭う可能性の方が高い。


曹操は嚴象によって孫権を茂才に推挙させ、また孫家と互いに姻戚関係を結んでいる。一貫して懐柔策に出ているのであり、その一方で成功し難い暗殺を計画していたとは考えにくい。失敗すれば激怒した孫策に背後を討たれかねないからである。仮に懐柔策で油断させておいて、ひそかに刺客で命を狙う、というような計略を荀や郭嘉が進言し、曹操が採用しただろうか。


もちろん中世のイタリアのように、後漢末当時も暗殺計画は多く立案されたのかもしれないが、結果的に敵対勢力から放たれた刺客によって殺害された群雄はいないのである。


孫破虜傳には、孫策がひそかに兵を部署した、とある。『呉志』の記述を追う限り、宿将の程普を始め、周瑜以下、ほとんどの武将と軍団は豫章を中心とする江東の平定に動いている。この時代に限らないが、あらかじめ相当な準備をしなければ大軍の遠征など出来るものではない。豫章の平定が単なる陽動であり、油断させておいて許都を奇襲できるような距離ではないのである。


結論的に言えば、『魏志・武帝紀』に記述される孫策の許都襲撃は、袁紹の情報工作に刺激された曹操側の憶測が”史実化”した、という可能性が考えられる。『呉志・孫破虜傳』における孫策の死の経緯も、『魏志』の記述と矛盾しない。これは孫策の死に関する”ソース”が、ほぼ同一のものしかなかった結果ではないだろうか。


『呉書』の空白


事実、孫破虜傳における孫策の伝記部分に関しては、裴松之の注に引用される文献に、呉の史官が編纂した『呉書』からの引用がない。


『呉志』を撰するにあたって陳壽がもっとも参考にしたのが『呉書』と言われる。孫破虜傳の孫堅の伝記部分の注釈には『呉書』からの引用がみられるが、孫策の伝記部分は『江表傳』や『呉録』『呉歴』等、『呉書』以外の文献の引用しか見られない。

付け加えれば『呉主傳』においても、建安四年から赤壁の戦いの前年の建安十二年までの期間、叙述内容が非常に少ないのである。


未完に終わったという『呉書』であるが、孫策の時代と孫権時代の最初の数年間についてはほとんど空白だったのではないだろうか。ゆえに陳壽は、孫策については魏側に残った記録や伝聞をもとに、その死の場面を構成したのではないか?という疑惑が残るのである。


さらに踏み込んでいえば、郭嘉が孫策の死を予言した言葉については、少なくとも『以吾觀之、必死於匹夫之手。』の部分などは、陳壽の創作ではないだろうか。

郭嘉の言葉としては”孫策は急速に江東を平定する過程で地域の有力者の反感を買っており、そうすぐに許都に攻め上ることは出来ないでしょう”というくらいの事は言ったのかもしれない。そうであれば『呉志』の将軍たちの行動から推測される状況と矛盾しない。しかし刺客、それも”匹夫”の手にかかるというのは言い過ぎで、陳壽をして”語るに落ちた”感すらある。

要は”匹夫”に殺される孫策もまた”匹夫”である、という事を言いたいのであるが、現実に孫策を恐れる曹操が過大評価に過ぎるとしても、孫策を”匹夫”というのは、これも過小評価に過ぎるのである。

このように、好悪の感情で状況を観る者は、参謀実務にはまったく不向きである。果たして荀や郭嘉がそのような人物であろうか?


全体、陳壽の呉、特に孫策に対する筆致は冷淡なものがある。それは黄巾賊や董卓の討伐に参戦し、国家に功績のあった孫堅との扱い方の違いにも表れている。

孫堅の死後、後に帝号を僭称する袁術の”走狗”となって転戦した事が、孫策のキャリアを暗くしているのは事実である。袁術から自立した後も、江東の平定は己の所領の拡大に努めていただけで、これといって漢室の為に働いた形跡はない。ゆえに陳壽としては、孫策に対して好意的である理由が無いのであろう。

加えて、許都を襲って献帝を迎える計画を立てていたという、孫策の死によって確かめようがなくなる”秘密の計画”の存在を記述している。これも孫策が権力の為に漢帝を利用する、あの董卓と変わらない野心家である、という事の表現に他ならない。


優れた文章家が必ずしも優れた実務家であるとは限らない。陳壽は史書の記述に優れた才能を持っていたとしても、人物の批評についていえば、いささか浅薄の感が免れないところがある。

『三国志正史』は魏に仕えた蜀の旧臣による著作である。当然、魏ないし蜀の史料や伝聞の収集には有利な立場にあるが、呉のそれにたいしてはいささか不利である。また滅んだ蜀に対する心情と、魏に仕える身としての陳壽の立場が、記述の軽重に影響しなかった、という事は無いであろう。

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刺客は実在したか 〜黄祖=黄承彦考11

前回見てきたように、『呉志』の記述を追う限り、客観的な状況としては、孫家の軍勢は新たな支配地域の掌握と荊州軍への防備に注力しており、北上する余力がなかったことが見えてくる。

また裴松之が注に引く『呉録』に拠れば、江夏を守る黄祖との”沙羨の戦い”の戦勝報告の上奏文において、孫策は諸将を荊州南部各郡の太守に任命している。すなわち周瑜は江夏太守に、呂範は桂陽太守に、程普は零陵太守に任命されている。
『呉録』を鵜呑みにするにはいささか問題があるが、『三国志正史・呉志』の周瑜の伝記には皖城の劉勲を攻撃するより以前に

頃之、(孫)策欲取荊州、以(周)瑜爲中護軍、領江夏太守

とあり、孫策は周瑜を江夏太守に任じていたことがわかる。それは「(孫)策欲取荊州(孫策、荊州を取らんと欲し)」すなわち孫策の荊州を手に入れようという意思の表明に他ならない、と書かれている。
また程普の伝記にもやはり皖城攻撃前に「領零陵太守」とあり、同じ時期に零陵太守に任ぜられた事が書かれている。呂範の伝記には桂陽太守に任ぜられた記載は無い。しかし分身ともいうべき周瑜と、孫策軍最年長の宿将である程普をいずれも荊州の太守に任じた意味は軽いものではないだろう。この時点で江夏はもちろん、荊州南部の零陵も劉表の支配下なのである。にも拘わらず、腹心の将を荊州各郡の太守に名目上とはいえ”任命”したのは、孫策ならびに孫家の軍勢の、荊州侵攻への強い意思の表れ以外の何物でもない。

さらには、孫策は後に(帝位についた)孫権によって「長沙恒王」と諡(おくりな)されている。これも孫策の目標は一貫して荊州であったことを示唆している。それは袁術の麾下にあって劉表を攻め、戦死した父孫堅の遺志を継ぐものであったのではないか?という事も考えられる。孫堅もまた、かつて自身が義勇軍を興した荊州長沙郡を目指して南下を図った、とみられるからである。

『呉志』における孫策の死

豫章郡は江夏を攻撃する足掛かりとして重要であり、事実孫策軍は”沙羨の戦い”の後、軍勢の多くを豫章郡の平定に投入しているのである。しかし、『魏志』の武帝紀の記載を見る限り、建安五年の遅くとも八月には孫策は死ぬ。

その最後については『呉志』にまず

建安五年、曹公與袁紹相拒於官渡、策陰欲襲許、迎漢帝。密治兵、部署諸將。

とある。すなわち曹操と袁紹が官渡で対峙しているスキをついて許都を襲い、献帝を迎えようと孫策は画策し、隠密裏に諸将を配置していた。

未發、會爲故吳郡太守許貢客、所殺。

ところが軍を進める前に、すでに故人となった元呉郡太守、許貢の(食)客によって殺害された、とある。続いて、

先是、策殺貢。貢小子、與客、亡匿江邊。

とあり、先に孫策は(時期は未詳であるが)許貢を殺害し、許貢の食客と子供はともに江辺(長江沿岸のどこか)に逃れ隠れた、という。そして、

策、單騎出、卒與客遇、客擊傷策

孫策は単騎で外出したさい、”卒”すなわち唐突にその食客に遭遇し、食客は孫策を撃って傷を負わせた、という。

一読して、曹操が恐れたほどの孫策の最後にしては、時期も場所も定かではない、随分と疎漏な記述であることが感ぜられるのである。また内容そのものにも不自然な点が多々ある。この場面については、孫盛、裴松之が議論しているが、それは後述する。先に孫策が殺害したという、許貢について考えてみたい。

許貢の事跡

呉郡太守許貢なる人物が、いつどこで孫策に殺害されたか『三国志正史』の本伝では明らかではない。許貢については、『呉志』の朱治の伝記に

治、從錢唐、欲進到吳。吳郡太守許貢、拒之於由拳。治、與戰大破之。貢、南就山賊嚴白虎。

とある。呉郡は現蘇州一帯であるが、許貢はそこの太守であったという。朱治は銭塘、つまりは現在の杭州付近から呉郡(現蘇州付近)に進撃するが、許貢は由拳(現嘉興)に拠ってこれを阻止しようとする。しかし朱治は許貢を攻め、大いにこれを破る。許貢は南に逃れ、山賊の嚴(白)虎に就いた、とある。

蜀書の許靖の伝記に拠れば、許貢はさらに孫策に追われた王朗とともに許靖を頼るが、なおも追撃されて皆で交州(現広東省南部)まで逃げた、とある。以降、本伝では許貢の消息は不明である。許貢を孫策が殺害した、という事実は本伝からは見つからないのである。

ただ裴松之が注に引く『江表傳』には、呉郡太守の許貢が孫策を項籍のような野心家であるとたとえ、彼を警戒するよう漢帝に上奏しようとした、とある。ところがその文が孫策の手に渡り、孫策は許貢に出頭を命じたという。孫策は許貢を問責したが、許貢が何も弁明できなかったので、武士に命じて許貢を絞殺させた、という。ゆえに孫策は許貢の子(や食客)の仇となった、というわけである。

しかし呉郡太守としての許貢は朱治に敗れ、遠く交州まで逃れていると『蜀志』の許靖の伝記に記されている。許靖は後に交阯(ベトナム北部)にまで逃れた後に劉璋に仕え、さらに劉備入蜀後にも重んじられたほどの人物である。許貢はひとり許靖と別れ、自分を追いやった孫策のいる江南へと戻ったという事は考えにくい。許靖の伝記が真とすれば、やはり『江表傳』における許貢の最後は虚構であろう。

もとより歴史小説のような『江表傳』であるが、許貢の最後から、孫策が許貢の食客に討たれる場面の下りは実に歯切れが悪い。呉郡太守の許貢が、自身が項羽のように危険視している孫策に、呼ばれたからといってのこのこと面前に出頭すること自体、非常に不自然なのである。

孫盛と裴松之の評

『江表傳』には許貢の死に続いて、孫策が刺客に襲撃される場面が描かれているが、以下に大意を示せば、

貢奴客潛民間、欲爲貢報讐。獵日、卒有三人卽貢客也。策問「爾等何人?」答云「是韓當兵、在此射鹿耳。」策曰「當兵吾皆識之、未嘗見汝等。」因射一人、應弦而倒。餘二人怖急、便舉弓射策、中頰。後騎尋至、皆刺殺之。

許貢の使用人と食客は民間に潜伏し、許貢の復仇の機会をうかがっていた。猟の日に、(孫策は)三人の兵卒(を認めたが、彼らこそが)が許貢の食客であった。孫策は「なんじらは何者か?」と問うたところ「韓当様の兵で、ここで鹿を射ていただけです。」という。孫策が言うには「韓当の兵なら俺は皆知っている。お前らをみたことはない。」といい、そのうちの一人を射たが、(孫策の)弦(の音に)応じてその男は倒れた。あとの二人は急に怖気づき、弓をとって孫策を射たところ、(孫策の)頬に当たった。すぐに(随伴の)騎兵が追い付き、(残りの二人を)刺殺した、とある。

また裴松之は『九州春秋』という書を注に引いている。すなわち

策聞曹公北征柳城、悉起江南之衆、自號大司馬、將北襲許、恃其勇、行不設備、故及於難。

孫策は曹操が北に柳城へ遠征したと聞き、江南の軍勢を総動員し、自ら大司馬と号し、北に許都を襲撃しようとしたが、その武勇を過信して防備が行き届かなかったため、(刺客に襲われる)難にあったのだ。

とある。

裴松之はさらに『孫盛異同記』における孫盛の評を引用している。

(孫盛と裴松之の評を詳述していると長いので大略のみを記すが)その中で孫盛は「黄祖が長江の上流に陣取り、陳登が徐州を固め、また支配下の諸郡の険阻な地域にも、帰服しない宗賊が多い状況で、孫策が許都を襲い、献帝を迎える意図があったとは考えにくい」と述べている。さらに『江表傳』にあるように、孫策が韓当軍の兵卒のことごとくを知っていることなどありえない(むろん、そうであろう)と、孫策襲撃の場面に疑問を投げかけている。また柳城の戦役は建安十二年であるから『九州春秋』の説はまったくの誤りだ、と述べている。

裴松之は以上を踏まえながら、さらに批判を加えているのだが、まず孫盛と同じく『九州春秋』の錯誤は甚だしい、としている。
しかし孫策の北征については否定していない。すなわち黄祖の軍勢は”沙羨の戦い”で壊滅的打撃を受けているし、またそもそも劉表とその配下には”兼幷の志”、つまりは領土拡大の野心などない(ので心配には及ばない)と。また嚴虎や祖郎などの賊も覆滅し、山賊風情はどうでもいいのであるから、北方へ遠征するにあたって懸念には及ばないと。そして

策之此舉、理應先圖陳登、但舉兵所在、不止登而已

孫策は直接許都を急襲するのではなく、まず徐州の陳登を攻撃するが、その矛先は(陳)登に留まらないだろう(許都へ進撃するだろう)という。裴松之はさらに、

許貢客。無聞之小人、而能感識恩遇、臨義忘生、卒然奮發、有係杜矣。詩云「君子有徽猷、小人與屬。」貢客其有焉。

すなわち、許貢の食客は小人などではなく、許貢に受けた恩義を忘れず、義の前に自分の生を忘れ、発奮して孫策を撃った事、古代の烈士に等しい行いであり、云々、と称賛の言葉を並べている.......しかし見てきたように、朱治に攻められて後の許貢の消息は定かではなく、ましてその食客がどのような人物であったかも、確かめようがない。まして『江表傳』に現れる三人の兵卒はあたかも雑兵のようで、孫策を討つほどの豪傑には程遠い。

孫盛の『江表傳』と『九州春秋』をめぐる評と、それらをひとくくりにして裴松之が述べている議論は、直接的には孫策に許都侵攻の意図があったのかどうか?それが可能であったのかどうか?という事である。しかしその主眼は『江表傳』や「九州春秋』の史料としての信頼性への批判である。孫盛は孫策襲撃の場面にも疑問を投げかけているのであるから、より端的に言えば孫策の死の原因へ疑義を呈しているのである。

「当時の孫策軍に北方侵攻は情勢的に不可能である。だから許都を襲わんとする孫策が、許貢の刺客に襲われた傷が元で死んだ、という史料は信じがたい」と主張する孫盛に対し、裴松之は「黄祖も劉表も、江東の情勢も懸念には及ばないのであるから、孫策は北方への遠征は可能である」という。ただし先に徐州を攻め(徐州を足掛かりに)許都なりへと侵攻する計画であったのだろうと述べている。だから(孫破虜傳の伝記は江表傳が述べるような)孫策が刺客に襲われて死亡したという記載は間違っていない、という。その考えに基づき、名も残らぬ刺客の行為を称賛すらしているのである。

前回見てきたように、”沙羨の戦い”の後の孫策軍の配置と行動を見る限り、北方侵攻を不可とする、孫盛の情勢判断の方が理に適っているように見える。裴松之は江東の情勢、とくに劉繇の死後に孫家の支配が及び始めたばかりの豫章の情勢と、大敗したはずの荊州軍の反撃を『呉志』から読み取っていないのである。

裴松之は孫策の死の原因について、信憑性に乏しい『江表傳』や『九州春秋』、さらに『孫盛異同記』まで引いたうえで自説を述べている。この裏を返せば、孫策ほどの勇将が無名の刺客の手にかかって落命することに、裴松之自身も疑念を払拭しきるだけの根拠を本伝の中に見出せなかった、という事がうかがえる。

以上を整理すれば、

1.建安五年の情勢を見るに、孫策軍は江東の平定に注力する必要があり、北上する余力はない。

2.江夏太守に周瑜、零陵太守に程普を任じ、後に長沙恒王と諡されたように、孫策には荊州併呑の強い意思があったとみられる。

3.許貢が孫策に殺害されたとする経緯を『三国志正史』本伝中の、許貢に関わる事跡から追えない。

4.裴松之が注に引く『江表傳』も『九州春秋』も史料としては信憑性に乏しい。


という事が言えるだろう。許貢が孫策に殺害されていなければ、許貢の食客による孫策への暗殺実行も起こりえない。また許都襲撃を主張する史料自体、当時の孫策周辺の事情に通じていた人物の手に拠る記録とは考えられない。

しかし以上は全て「孫策は刺客によって斃れた。」という命題を否定するための、およそ必要条件に過ぎない、という事は注意を要する。

以下、孫策時代から赤壁の戦い前夜までの期間の、孫権に関する呉側の史料の空白の存在と、魏側の孫策の死に関する記述の信憑性、また暗殺成功の可能性の低さなどについて述べたいが、長くなったのでまた次回にしたい。

江夏太守として生涯を終えた黄祖であるが、荊州主観の史料はほとんど残っていない。敵側の史料にしか事跡が記されていないため、その人物像は相当に偏向している、と考えられる。加えてこの時期の呉側の史料自体がどういうわけか非常に少ないのである。孫策の死の真相について考えてゆく過程で、その事情がより明らかになってゆくであろう。

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豫章の平定 〜黄祖=黄承彦考10

瞬く間に江東を席巻した孫策であったが、その支配はまさに”点と線”であり、建安五年初頭の時点で、充分な基盤が形成されていたとは言い難い。支配しているといっても、そこで円滑に生産が行われ、徴税が滞りなくできているとは限らないのである。

 

劉勲・黄祖との戦いには、孫家の有力諸将の大半が参戦していたと考えられる。しかしそのほとんどは江夏郡の西に隣接する豫章郡に留まり、劉繇の死後、不安定化したこの地域の平定や鎮圧に動いている。それは孫策の死後もほぼ継続されているのである。

 

豫章の情勢

 

ここで”沙羨の戦い”が起こる以前の、豫章の情勢を概観したい。

 

孫家にとって、豫章(郡)は江夏を攻撃する際には、重要な策源地となる地域である。現在の江西省とほぼ同地域であるが、その支配は目まぐるしく変わる。『蜀書・諸葛亮傳』には

 

從父玄、爲袁術、所署豫章太守。

 

とあり、袁術によって諸葛亮の叔父の諸葛玄が豫章太守に任ぜられたという。ところが、

 

會漢朝、更選朱皓代玄。

 

漢の朝廷により、朱儁の子の朱皓が豫章太守として送り込まれる。

 

李傕・郭椶陵陲亡き込まれ朱儁が憤死したのが興平二年(195年)であるが、翌年の建安元年に曹操は献帝を迎えている。朱皓の豫章赴任時期は、曹操の力で漢の朝廷が機能を回復して後の事であろう。また漢朝に節義を貫いて死んだ朱儁の功績が嘉された、という面がうかがえる。そして、


 玄、素與荊州牧劉表有舊、往依之。


漢の権威に拠った朱皓の赴任を機に、諸葛玄は旧知の劉表を頼って荊州へ行く、といった経緯になる。

 

当時の群雄は勝手に太守を任命し始めるが、事後にせよ朝廷には上奏(と献金)の上で承認をもらう形式を踏む。とはいえ僭逆の傾向を強める袁術による太守任命は、諸葛玄にとっても居心地の良いものではなかったのであろう。しかしながら命令を断れない事情もあったのかもしれない。あるいは漢朝による朱皓の太守任命自体、諸葛玄の働きかけがあった可能性すらある。諸葛玄としてはこれを機に袁術から距離を置こうと考えたのかもしれない。

 

一時にせよ、諸葛玄と孫策は袁術の麾下で同僚だったことになる。

 

諸葛玄の豫章太守をめぐっては異説があり、裴松之が注に引く『獻帝春秋』では劉表が諸葛玄を豫章太守に任命したことになっている。そして朝廷から揚州刺史に任ぜられた劉繇は、同じく朝廷から豫章太守に任命された朱皓を支援し、諸葛玄を攻める。諸葛玄は西城に撤退し、建安二年にそこの住民蜂起に遭って殺害された、とある。

 

しかし『献帝春秋』も『江表傳』と同じく史料としては信用し難い小説本の類である。『蜀書・諸葛亮傳』の記載通り、諸葛玄は劉表を頼って荊州へ行った、という理解で良いであろう。

 

ともあれ、豫章太守になった朱皓であるが、これが徐州から流れてきた笮融という佛教を信奉する人物に殺害されるのである。その笮融を劉繇は攻め、敗走した笮融は最後は民に殺される。

 

劉繇は漢朝のお墨付きを得た揚州刺史であったが、袁術は孫策とその軍勢を使って劉繇を攻撃する。見方を変えれば、江東を支配したい孫策が袁術の後援の下に劉繇を攻めた、ともいえる。また袁術と曹操が支配する漢の朝廷との間に起きた、”代理戦争”という側面もある。

 

孫策は曲阿(現鎮江近郊)を根拠地に、西へ西へと劉繇を追いつめる。最後に劉繇は豫章の支配権を維持しつつ、長江南岸の彭澤に拠り、そこで病死したと考えられる。これが”沙羨の戦い”の直後の出来事である。

 

孫家諸将の行動

 

以上の”沙羨の戦い”前の豫章をめぐる情勢を踏まえ、以下、孫家諸将の行動を概観してみたい。前回と重複もあるが、劉勲・黄祖との戦いに従軍した諸将の行動は以下のようなものである。

 

まず孫策の兄弟分の周瑜は

 

破劉勳、討江夏、還定豫章、廬陵、留鎭巴丘。五年、策薨、權統事。瑜、將兵赴喪、遂留吳。

 

すなわち”沙羨の戦い”の後、軍を”還(かえ)し”、豫章、廬陵(江西吉安)を平定し、巴丘(ほぼ廬陵と同地域)に留まり、鎮(しず)めた、とある。だいたい現在の江西省の範囲で活動していた、といえるだろう。

 

”鎮(しず)める”とは、単に軍を駐屯させるのではなく(武力を用いて抑圧し)その地を安定させる、あるいは鎮圧する、という意味である。これは豫章、蘆陵、巴丘が江夏の戦い直後に、不安定化していた事を示している。

そして「策薨、權統事。」とある。すなわち孫策が薨去し、(孫)権が「事を統べる」すなわち家督を継いだ、という事である。そして周瑜は将兵を率いて(呉に)喪に赴き、そのまま呉に留まった、とある。

 

「(孫權)統事」という語については、複数の人物の伝記に見られ、時に「策薨」のすぐ後の文脈にみられる。特に孫策の死後間もない頃を表していると考えられ、文脈上の時期を特定するために注目すべき語である。

 

孫堅以来の宿将の中でも最年長の程普は

 

從討劉勳於尋陽、進攻黃祖於沙羨。還、鎭石城。策薨、與張昭等共輔孫權、遂周旋三郡、平討不服。

 

やはり軍を還(かえ)して、石城を鎮(しず)めた、とある。そして「策薨」の後、張昭と共に孫権を補佐し、三郡を”周旋”して不平分子を討伐した、とある。

この”石城”という地名は江西省贛州近郊に石城県があり、宣城近くに石城県があり、また現南京近郊の古称でもある。

 

しかし程普の伝記には”沙羨の戦いより以前に「従丹楊都尉、居石城。」とあるから、この石城は丹楊(現安徽省宣城)にほど近い地域を指すのであろう。やはり”鎮”の字を用いているから、単に軍をとどめたのではなく、鎮圧のための軍事行動を起こしているのである。

 

孫堅以来の古参武将の韓当は

 

從征劉勳、破黃祖、還討鄱陽、領樂安長、山越畏服。

 

やはり軍を還(かえ)して鄱陽(の賊)を討ち、海昏(南昌)から撫河を南東に下った楽安(江西撫州)に駐屯し、山越(山岳地帯の異民族)はみな畏服した、とある。鄱陽、とあるのは鄱陽湖の水賊ことで、海昏から長江へ連絡する鄱陽湖を掌握した、と考えられる。

 

周泰は

 

後從攻皖、及討江夏、還過豫章、復補宜春長、所在皆、食其征賦。

 

豫章を過ぎ「復補宜春長」とある。宜春は現江西省宜春市で、南昌から贛江を南西に下り、袁河を経由して至る。豫章郡南部地域であり、その西方に荊州の長沙がある。

 

孫策と古くから兄弟同然の付き合いをしてきた呂範は

 

征江夏、還平鄱陽。策薨、奔喪于吳。

 

おそらく韓当と合同で鄱陽(湖)を平定し、孫策の死を聞くと呉に喪に奔(はし)った、とある。

 

董襲の伝記には、

 

從策攻皖、又討劉勳於尋陽、伐黃祖於江夏。策薨、權年少、初統事。太妃憂之、引見張昭及襲等

 

とある。董襲はおそらく孫策や孫権と共に呉に帰還したのであろう。ゆえに「權年少、初統事」とあり、孫権が年少にして「事を統べる」つまりは孫家の家督を継いだ時、孫権の母親から今後について下問を受けたのである。

 

以上のように、孫権以外の諸将は石城の鎮定に動いた程普や、呉に帰還した董襲等を除いて、豫章郡で活動していた、という事がいえるだろう。

 

孫策の行動

 

さて、肝心の孫策については、劉勲との戦いの後の行動と所在については『孫破虜傳』中の、孫策の伝記の中では明確に記述されていない。その伝記中では、

 

勳衆盡降、勳獨與麾下數百人、自歸曹公。

 

と、劉勲の衆(軍勢)が孫策に下り、劉勲以下数百人は曹操の下へ帰順した、とある。続いて、

 

是時、袁紹方彊、而策幷江東。曹公、力未能逞、且欲撫之。

 

すなわち袁紹と対峙していた曹操は江東を平定した孫策を制する余力がなく、「欲撫之」すなわち懐柔策に出る。

 

乃以弟女、配策小弟匡。又、爲子章、取賁女。

 

姪を孫策の末弟の孫匡に嫁がせ、曹操の子の曹章には孫賁の娘を娶せた、とある。

さらに、

 

皆禮辟策弟權、翊。又命揚州刺史嚴象、舉權茂才。

 

孫策の弟の孫権、孫翊を”禮辟(れいへき)”したとある。禮辟は朝廷に征召、すなわち召し出す、という意味である(必ずしも応じるとは限らないが)。また曹操は揚州刺史の嚴象に命じ、孫権を”茂才”に推挙させている。(茂才はすなわち”秀才”の事で、光武帝劉秀の諱を避けたのである。)

 

続いて、

 

建安五年、曹公與袁紹相拒於官渡、策陰欲襲許、迎漢帝。密治兵、部署諸將。

 

とあり、孫策は許都を襲撃し漢の皇帝を迎え入れようと画策し、ひそかに兵と諸将を配置していた、とある。

 

以下、許貢の食客による孫策暗殺の場面が記述されるのであるが、それについてはひとまず置く。

 

 

『魏志・武帝紀』には

 

八月、紹連營稍前、依沙堆爲屯、東西數十里。

 

と、袁紹との戦闘経緯が記述され、続いて

 

孫策聞公與紹相持、乃謀襲許、未發、爲刺客所殺。

 

とある。

 

すなわち孫策は袁紹と曹操が対峙している状況に乗じ、許都を襲撃しようとしたが、出発前に刺客に暗殺された、というように書かれている。

 

『魏志・武帝紀』の記述が時系列を正しく反映していたとすれば、孫策は建安五年の八月以前に死去していることになる。

 

孫策がどこで死去したか?については、前述の周瑜の伝記に

 

將兵赴喪、遂留吳。

 

とあり、また呂範の伝記に

 

奔喪于吳。

 

とある。ほぼ呉で死去したと考えて良いだろう。

 

以上、ある程度はっきりしているのは、孫策は建安四年の12月に沙羨で黄祖の軍勢と戦い、建安五年の8月に呉で死去した、という事である。

 

沙羨の戦いの後の孫策の行動については、劉繇・太史慈の伝記にいくらかの手掛かりがある。

 

劉繇の伝記には

 

繇、尋病卒、時年四十二。

 

とあり、劉繇は四十二歳で病死した事がわかるが、没年についての情報はない。しかし劉繇の伝記には

 

後、策西、伐江夏、還過豫章、收載繇喪、善遇其家。

 

とあり、孫策が”伐江夏”(すなわち沙羨の戦い)の後に豫章を過ぎた時、劉繇の喪を”收載(聞き)”し、劉繇の家族を慰撫した旨が記載されている。

 

また孫賁の伝記には

 

賁、與策征廬江太守劉勳、江夏太守黃祖。軍旋、聞繇病死、過、定豫章。

 

劉勲との戦いから沙羨の戦いに従軍し、軍を撤収させた際に劉繇の病死を聞いた、とある。ゆえに劉繇の死は建安四年の12月ないし建安五年の1月と推測される。

「上賁、領太守」とあるのは、上奏して孫賁豫章

 

そして太史慈の伝記には、

 

後、劉繇亡於豫章、士衆萬餘人未有所附。策、命慈、往撫安焉。

 

劉繇の死後、帰属が定まらない豫章の”士衆”1万人余を慰撫し、孫家の味方につけるために、孫策はもともと劉繇の配下であった太史慈を豫章へ派遣するのである。その際に

 

左右皆曰「慈、必北去不還」策曰「子義、捨我、當復與誰?」餞送昌門

 

『演義』でも有名な場面であるが、左右の諸将はみな「太史慈は北に去って還ってこないでしょう。」と言うところ、孫策は「俺を捨ててどこへ行こうというのか?(きっと帰ってくる)」と言い、「餞送昌門」とある。

 

「昌門」というのは、「呉越春秋」に拠れば

 

 闔閭所建。闔閭欲西破楚,故又名 破楚門。

 

すなわち(戦国春秋時代の)呉王闔閭が建設した呉の都城の西の大門であり、闔閭はまた(西方の)楚を破らんと欲し”破楚門”とも呼ばれた、という門である。

 

つまり孫策は呉にあって、太史慈を豫章へ送り出しているのである。「餞送」とは酒宴をひらいて送る、という事である。むろん太史慈が豫章で将兵を集めるといっても単身で行かせたはずがなく、ある程度の軍勢を率いて出発させたのであろう。

 

以上から、”沙羨の戦い”からそう遠くない時期、諸将を豫章の平定に残したまま孫策は呉に帰還していた、という事がわかる。

 

また太史慈を派遣するにあたり、

 

把腕別曰「何時能還」答曰「不過六十日」果如期而反

 

孫策は太史慈の腕をとりながら「いつ帰ってこれるか?」と聞くと、太史慈は「六十日とかかりますまい」と答え、その約束に反しなかったという。

 

もっともこの時太史慈は豫章で帰参させた軍勢を率いて、一度は呉に帰還したとは限らない。豫章の情勢はそれほどまでに緊迫していたのである。なぜなら”沙羨の戦い”で大敗したはずの荊州軍は、早々に反撃に出ているからである。すなわち、

 

劉表從子磐、驍勇、數爲寇於艾西安諸縣。

 

劉表の甥で勇猛で知られた劉磐が、艾、西安の諸県(いずれも豫章郡)に侵入したため、

 

策於是、分海昬建昌左右六縣、以慈爲建昌都尉、治海昬。幷督諸將、拒磐。

 

とある。建昌は海昏に隣接する県であるが、孫策は太史慈を建昌都尉に任命している。そして海昏を含む周辺の諸県を統括させたうえで、諸将を監督させ、劉磐を防がせた、とある。「幷督諸將」とあるが、宜春の周泰、楽安の韓当はこのとき太史慈の指揮下で働いたのであろう。

 

劉表の従子、すなわち甥の劉磐は長沙の攸県に黄忠と共に赴任している。攸県は現在の株洲市轄県に位置するが、その東には前述の周泰の守る宜春がある。劉表は甥の劉磐を長沙の太守ではなく、当時としても大きな街ではなかったであろう、最前線の攸県に行かせている。副将格で付けられた黄忠とともに、よほどその驍勇を見込んだのであろう。

 

豫章は、北部で江夏に、南部で長沙に接している。南部は山がちな地域であり、大軍を移動し、長期間にわたって補給を続けるのは困難である。劉磐は少数部隊を率いてゲリラ戦を仕掛け、山間部の不服従宗族の反乱を使嗾したのであろう。しかし太史慈と配下の諸将は劉磐の侵入をよく防いだようで、

 

磐、絕迹、不復爲寇。

 

劉磐の侵攻は止んだ、とある。太史慈の伝記にはさらに、

 

孫權統事、以慈能制磐、遂委南方之事。

 

とある。ここで再び「孫權統事」とあり、孫権が家督を継いで後、太史慈の対劉磐の実績を鑑み、継続して南方(すなわち豫章郡南部地域)を任せた、とある。

 

以上でわかるのは、太史慈と劉磐との戦いは、沙羨の戦いから孫策の死までの間に起きた出来事である、という事である。すなわち建安五年の1月から8月までの間の出来事である。

 

以上をまとめると、沙羨の戦いの後、周瑜、孫賁、韓当、呂範、周泰はほぼ豫章郡(江西省)の各地で戦い、そこへ太史慈も派遣されることになる。程普は石城の鎮定に動いている。劉勲への遠征軍が分散して各地の平定にあたっており、個々の戦闘の規模は大きなものではないかもしれないが、孫策軍全体では大規模な軍事行動である。にもかかわらず、沙羨の戦いの後のかなり早い時点で孫策は(おそらく孫権とともに)呉に帰還しているのである。そして死去するまで、呉から動いた形跡はない。

 

孫策には許都侵攻の意図があったのか?

 

『魏志・武帝紀』や『呉志・孫破虜傳』にあるように、孫策に許都へ侵攻する意図があったとしても、いったい諸将のうちの誰を従軍させるつもりであったのだろうか?

 

北方へ侵攻するなら、孫堅とともに河北で戦った歴戦の将兵を連れてゆきたいであろう。ところがそのほとんどが豫章の平定に分散しており、最年長の程普は要衝の石城の掌握に努めている。また朱治は会稽方面の鎮定にあたっていたと考えられる。孫策はあるいは孫権と張昭だけを頼りに、許都ないし徐州へ侵攻するつもりであったのであろうか?北方、とくに徐州方面に通じていたであろう太史慈まで、豫章に投入してしまっているのである。

 

また許都へ侵攻する計画があったのだとすれば、孫策は致命的なミスを犯している。劉勲を計略で誘い出し、その留守を急襲して奪った皖城であるが、この地域をおさめる廬江太守に、李術という、信用ならない淮南の男を任命するのである。

その李術が、曹操が任命した揚州刺史の嚴象を殺害する。『魏志』の劉馥の伝に

 

後孫策所置廬江太守李述攻殺揚州刺史嚴象

 

とある。嚴象は曹操の命で孫権を”茂才”に推挙した人物である。これより以前に、孫権は朱治によって”孝廉”に挙げられている。孝廉も秀才も優秀な人材を意味する名誉称号であるが、孝廉は各郡に一名、郡太守によって推挙される。”茂才”すなわち秀才は各州に一人だけ孝廉の中から選ばれ、刺史によって推挙される。

 

ところが、あろうことか李術は孫権を茂才に推挙してくれた嚴象を攻めて殺害してしまうのである。

形式の上であっても孫権すなわち孫家は嚴象に恩義があり、それを孫家の武将が攻撃するというのは、当時の義理の感覚から言っても容認されることではない。これは李術の独断専行の気配がある。当然、この行動は曹操を刺激し、孫家との間に摩擦を生じる結果を生んだであろう。

 

劉馥の伝記には続いて

 

廬江梅乾、雷緒、陳蘭等聚衆數萬在江淮間、郡縣殘破。

 

とある。

 

すなわち廬江郡は梅乾や雷緒、陳蘭といった独立勢力が数万の衆を率いて攻伐を繰り返し、郡や縣は荒廃した、とある。

 

おそらく孫策が廬江太守に任じた李術は孫家古参の武将ではなく、袁術の死後、廬江郡に割拠する軍閥の有力者だったのではないだろうか。あるいは孫策と同じくかつて袁術の支配下にあり、孫策と旧知の間柄であったのかもしれない。

 

李術は孫策の死後、孫権に対して反乱を起こし、結果敗亡している。このように信用ならない男を廬江郡の太守に残しながら、古参の武将率いるほぼ全軍を劉勲の討伐と江夏の戦いに投入したのである。

 

皖城は現在の安徽省潜山市に位置し、後に孫軍と曹軍が死闘を繰り広げる合肥の南方の要衝である。孫策軍がこの時点で合肥を掌握していないのであれば、許都を目指す第一の策源地として皖城は非常に重要である。皖城を足掛かりに廬江郡を掌握していなければ、許都への進撃は困難である。

 

もし孫策が北方へ勢力を伸ばす意思を持っていたのであれば、戦略上重要な皖城すなわち廬江郡には信頼のおける武将を太守に置いたはずであるが、それをしていない。

 

ひとつには有力な武将と軍団を皖城へ置くことで、曹操を刺激したくなかった事が理由に考えられる。

いまひとつの理由は、皖城の守備に削くだけの兵力の余裕がなかった事が考えられる。”沙羨の戦い”の後早々に太史慈を豫章へ送り、劉繇の残党の掌握に努めているのもそのためかも知れない。

 

『呉志』徐盛の伝記を見ると、

 

孫權統事、以爲別部司馬、授兵五百人、守柴桑長、拒黃祖。

 

とある。「孫權統事」の語が見えるが、孫策の死後、孫権が軍を統率して間もないころであろう。徐盛にわずか五百の兵で柴桑を守らせるのである。

そもそも徐盛は諸葛氏などと同じ琅琊の出身で、戦乱を避けて江東へ移住してきた人物である。その武勇を見込んで兵を預けたというが、柴桑は当時は対江夏の最前線である。後の赤壁の戦い前夜、孔明は柴桑で孫権と会談するが、鄂城を攻略するまで呉軍の重要な前線基地であった。

 

建安五年当時、まだそれほど大きな規模の拠点ではなかったにせよ、それまで実績のない徐盛に五百の兵で守備させているのである。皖城を李術に委ねた事と併せて、当時の呉軍には人材も兵員も払底しつつあったことがうかがえる。そこへ、黄祖は黄射率いる数千の兵で襲撃させるのである。

 

(黄)祖子(黄)射、嘗率數千人、下攻盛。盛、時吏士不滿二百、與相拒擊、傷射吏士千餘人。已乃、開門出戰、大破之。

 

とある。「嘗率數千人」の「嘗」は”かつて”ではなく、”こころみに”と読む。すなわち黄射はためしに数千人の兵で徐盛の守る柴桑に”ひとあて”、いわば威力偵察を試みたのである。ところが五百の兵を与えられているはずの徐盛の手元には、この時「時吏士不滿二百」と、二百人足らずの兵しかいない。しかし少数ながらも精鋭であったのだろう。徐盛は撃退に成功する。

 

そして、

 

射、遂絕迹、不復爲寇。

 

後ふたたび黄射は来寇しなくなった、という。

 

この徐盛の伝記の「拒黃祖〜射、遂絕迹、不復爲寇。」は。前述の太史慈の「拒磐。磐、絕迹、不復爲寇。」とは修辞が酷似している点は注意を要する。太史慈による劉磐の撃退からそれほど遠くない時期に、徐盛は黄祖から派遣された黄射の軍勢と交戦していることが察せられる。すなわち建安五年の冬ないし建安六年の早い時期に黄射は来寇したのであろう。

 

注目すべきは、”沙羨の戦い”から1年足らずの間に、数千の兵を前線の敵拠点に送って試しに戦わせ、実勢をはかる軍事行動をとる余力が黄祖側にはあった、という事実である。この点からも”沙羨の戦い”が孫策軍の大勝に終わった、という主張には疑問符が付く。

 

”沙羨の戦い”の後に孫策は劉繇の病死を知り、この機に豫章郡の完全支配を目指したのであろう。ゆえに諸将のほとんどはこの方面に投入されるのである。豫章郡を掌握するという事は、西の江夏郡を攻める際の足がかりを得ることになる。そこに注力しているという事は、孫策の意思はあくまで”西”にあって”北”にはなかった、という事が考えられる。さらに建安五年当時の孫策の戦力事情を考えると、曹操が恐れたように、許都へ向かって進撃するだけの別動隊を編成出来たとは考えにくい。

 

孫策の死の真相は?

 

それにしても”山越”、つまりは山間の小部族の討伐にも陣頭に立つほどの孫策の姿が豫章の戦線には無い。”沙羨の戦い”の後に早々に呉に帰還し、死去するまで呉から動かなかった、と考えられる。孫家の諸軍が一方面を任せられるほど熟練された、という事もいえるのだが、まだ二十代半ばの極めて”好戦的”な孫策がその戦場に出なかったのはなぜだろう?

 

ここでひとつの仮説が考えられる。孫策は呉から動かなかったのではなく、動けなかった、のではないか?端的に言えば”沙羨の戦い”で孫策はすでに負傷し(弩の矢の可能性が高い)......おそらくはその負傷が元で死去した、という事である。

 

たしかに劉繇の伝記では孫策は”沙羨の戦い”の後、豫章を過ぎる際に劉繇の病死を聞き、その遺族を手厚く見舞った、とある。しかしこれは孫策自身が行わなくとも、しかるべき人物に名代(たとえば孫賁)をたてれば充分である。(事実、なぜか孫賁の伝記にだけ”聞繇病死”の語がみえる)

また呉都の昌門で太史慈を見送ったのも建安五年の早い時期であれば、それほど傷の状態が悪化していなかったとすれば可能である。

 

孫策は呉で曹操との外交、そのほかの内政面に忙殺されていた、という事は考えにくい。呉には張昭がおり、また当時は何より軍事が最優先である。曹操とて、官渡で袁紹と対峙しながら孫家との婚姻以外にも、膨大な外交諸事を処理しているのである。孫策が呉に長期間滞在しなければ政務が滞る、といった体制ではなかったであろう。

ゆえに孫家の最高の戦術家である孫策が、孫権のみを伴って呉に居続けたのは不自然なのである。(手に入れた大喬とつかの間の休暇を楽しむためであった、というのは周瑜の手前、無いであろう。)

 

実のところ、建安五年から赤壁の戦いの前年まで、呉側の方には信用にたるだけの記録に乏しいものがある。『三国志正史』の見方の全般に言えることであるが、裴松之が引用した『江表傳』や『呉録』あるいは『献帝春秋』といった架空戦記や歴史小説の類を、足りない時系列を埋めるのに使用するとわけがわからなくなる。

『呉志』の伝記、裴松之の引用では呉の史官が編纂したという『呉書』あたりにひとまず信を置きつつ、『魏志』や『蜀志』と比較しながら、現実的に考える必要があるだろう。

 

周知のとおり、『呉志』の孫策の伝記では、許都を襲撃する計画を準備中だった孫策は、許貢の刺客に襲撃されて重傷を負い、死去した事になっている。『呉志』でも『魏志・武帝紀』でも、建安五年の孫策には許都を襲う計画があった、と記述されているが、今回見てきたように孫家の軍勢の実情はそれと程遠い。

結論的に言えばこの”許都襲撃〜刺客暗殺説”は、おそらくは憶測混じりの伝聞が当時の魏側に伝わって出来た、かなりいいかげんな記録内容を陳壽が採用したものであり、真相は呉の政権によって秘匿されていた(ないし早期に記録が亡失した)と考えられるのである。

 

次回はその点について考えてみたい。

落款印01

沙羨の戦い〜黄祖=黄承彦考9

黄祖と孫家の二度目の戦争は、孫堅の死後、孫家を継いだ孫策との間に起きている。これは孫策にとって最後の大規模な軍事行動であったことは留意する必要があるだろう。そして孫策の死後、孫家の棟梁となった孫権の最初の外征も、黄祖に向けられているのである。

建安四年の冬に発生した、このいわゆる”沙羨の戦い”で孫策軍が黄祖の軍勢と戦った事は、『呉志』孫破虜傳の後半の孫策の伝記には記されていない。孫策の伝記中には劉勲と戦い、これを破った事しか記されておらず、江夏や黄祖の名すら見られないのである。

しかし孫権の伝記である『呉志・呉主傳』には

建安四年、從策征廬江太守劉勳。勳破、進討黃祖於沙奸

とある。また『呉志』程普の伝記には

從討劉勳於尋陽、進攻黃祖於沙羨。還、鎭石城。

とある。また『呉志・宗室傳』の孫賁の伝記に

賁、與策征廬江太守劉勳、江夏太守黃祖。

周泰の伝記には

後從攻皖、及討江夏

とある。また韓当の伝記には

從征劉勳、破黃祖

董襲の伝記に

從策攻皖、又討劉勳於尋陽、伐黃祖於江夏。

呂範の伝記に

征江夏、還平鄱陽。

とある。内容に若干の異同があるものの、おおむね、劉勲を討ち、江夏の黄祖と戦った、という事がわかる。

呉主傳と程普の伝記には「沙羨」の地名が見えるが、他の諸将の伝記には「江夏」とあるのみである。この”沙羨の戦い”については、豫章郡の柴桑と江夏郡の鄂の中間地帯の、長江南岸地域で起こった戦いと考えられる事は以前に述べた。

”沙羨”と呼称するのは、『呉志』の地理の記載が誤っている、というように以前は考えていた。しかし後漢の時代は江夏郡における長江南岸一帯を(広義の)”沙羨”と呼称していたようで、江夏郡下の(現武漢市市区の)沙羨県(城)という場合の(狭義の)”沙羨”とはまた別の意味がある、という事のようである。

南宋時代の王應麟によって編まれた『通鑑地理通釋・武昌』の項に拠れば、

鄂州春秋時謂之夏汭漢為沙嫻慧豢

とあり、漢代は鄂州を以て沙羨の東の境としていた事がわかる。さらに

沙婪n申L乕霈燦療跪榛州東北八十里武昌山在縣南百九

つまり沙羨はすなわち鄂州であり、鄂州はすなわち武昌である、と考証している。つまり江夏>沙羨>鄂州(=武昌)、という事であろう。また”沙羨”と記されているのは、交戦はあくまで平野で行われ、後のように黄祖の守る鄂城(夏口)の攻略戦には至っていないことを暗示している。

もともと劉勲を追撃する延長上に起きた”沙羨の戦い”であるから、鄂城の攻城戦の準備などあるはずがない。また孫策にとって豫章は支配が及び始めた不安定な領域であり、豫章を策源地として隣接する江夏(鄂城)の攻略に乗り出せる時期ではなかったであろう。

同じ時期に北方官渡では袁紹と曹操の対陣が始まっている。曹操・袁紹両陣営は群雄諸侯へ盛んに同盟や協調の働きかけを行っていた時期であり、そういった全般状況の中で孫策は劉勲を攻めることを決断する。この建安四年の戦いの帰趨が北方の情勢に若干の影響を与えるのであるが、また一方で劉勲と孫策による、袁術の”跡目争い”という側面がある。

かつて袁術は孫策に廬江郡(安徽省合肥一帯)の攻略を命じ、成功したら廬江太守に任ずると約束する。先に孫策は袁術から九江太守を許されていたが、これは名ばかりである。
孫策は廬江の攻略に成功するが、廬江太守に任命されたのは劉勲であった。袁術配下の貫目からいえばNo2の劉勲を要地の太守にしたかったのだろうが、約束を反故にし、戦功を取り上げなかった事実は重い。あるいは袁術配下きっての”武闘派”である孫家の棟梁を廬江の太守などにしたら、制御するのが難しくなる、という懸念が勝った可能性もある。とはいえ袁術の”食言”は孫策と孫家の軍勢を大いに失望させたであろう。
この事ひとつをとっても、袁術が乱世を生き抜ける男ではなかった事がわかる。
(それでも大人口を抱える南陽を支配し、かつ名門の血筋に生まれた袁術は、その後もしばらくはその僭越を昂進させることが出来たのであるが、これも環境と時流のなせる業である)

この時、孫策が袁術に”サカヅキを返す”ことをしなかったのは、抱える軍勢を養うだけの確たる根拠地を持たなかった事によるであろう。父親の孫堅はかつて義勇軍を結成し北上する途上、荊州刺史王叡と南陽太守張咨を次々と殺害していったが、要は彼らが兵糧を支給しなかったからである。孫堅が袁術の客将として終わったのは、袁術が孫堅の軍勢に食糧を支給し続けたからである。(孫堅が太守を殺した南陽を袁術は本拠地にしてしまっている)
その後、孫策は母方の伯父である丹陽太守呉景を頼って丹陽へ遷る。しかし丹陽だけでは孫策の全軍を養えなかったようで、大半は孫賁に預けて袁術の下に残留させている。そして揚州刺史となった劉繇との戦いを通じ、江東の掌握に努めるのである。(劉繇との抗争の経緯は複雑で興味深いのであるが、話が逸れるので割愛する。)
ともあれ袁術の死後、劉勲が袁術の軍勢と所領の大半を継承し、独立した勢力となる。袁術の妻子が劉勲に身を寄せた事からも、袁術の正統な後継者は劉勲、とみなされていたのであろう。

その劉勲は皖城(安徽省合肥近郊)を本拠地としていたが、孫策の計略によって長江南岸に誘い出され、留守にした皖城を孫策軍に奪われるのである。

豫章郡の海昏県に上繚城という城塞があり、そこの宗賊の討伐を孫策は持ちかけるのである。当然、攻略のあかつきには劉勲が上繚一帯を支配する。海昏県は現在でいうところの江西省南昌市の一部であるが、豫章郡が呉軍の支配下に入って後は太史慈がここを治めている。孫策は言辞をへりくだった手紙を劉勲に送り、併せて”珠寶葛越”つまり真珠宝石の類と、植物繊維で編んだ布を送って劉勲を喜ばせたという。

劉勲の下には揚州の名士、劉曄という武将がいた。劉勲以下衆人皆出兵に賛成する中、彼一人は孫策の意図を見抜いて上繚の形勢を説き、これに反対したという。『魏書』の劉曄の伝記には、

策乘虛而襲我、則後不能獨守。

とある。劉曄は劉勲に帰順する前に集めた数千の軍勢を握っていたのだが、孫策軍に留守を襲われたら自分の軍勢だけでは守り切れないと述べ、出兵を止めたのである。しかし劉勲は劉曄の忠告には従わず、長江を渡って上繚へ向かう。おそらく皖城から安慶に南下し、そこから長江北岸を遡上し九江付近で南岸へ渡江したのであろう。孫破虜傳には、

勳既行、策輕軍晨夜襲拔廬江。勳衆盡降。

すなわち孫策が軽装備の少数部隊で廬江を急襲したところ、(留守部隊の)劉勲の軍勢はことごとく降伏し(窮した劉曄は曹操に下へ奔る)さらに

勳獨與麾下數百人、自歸曹公。

(海昏へ向かった)劉勲は数百人の配下とともに、曹操の下へ帰順した、とある。

海昏へ向かった劉勲の軍勢と孫策の軍勢が戦ったのは程普や董襲の伝記には「尋陽」とある。尋陽は現在の九江市の市区である。また”柴桑”も現在の九江市の市区内である。劉勲は尋陽からさらに南の(現在の南昌市)海昏の上繚城へ向かおうとしたのであろうが、まだ長江南岸に留まっているうちに孫策軍に補足され、敗北したのであろう。

実のところ『孫破虜傳』の本伝に戦いの経緯が書かれているのはここまでで、江夏で黄祖と戦った事までは『孫破虜傳』の中では述べられていない。しかし諸将の戦歴を見る限り、黄祖の軍勢と戦ったのは事実なのであろう。問題は戦場となった場所である。

黄祖の根拠地と考えられる鄂城から尋陽までは、長江を使えば比較的早く軍勢を送り込むことは出来る。後、孫権の時代に黄祖は柴桑に軍を派遣している。しかしこの時は黄祖派遣軍との合流より早く、劉勲は孫策に撃破されていたであろう。長江を上流に、鄂城へ向かって敗走する劉勲を孫策が追撃し、柴桑から鄂城へ至る長江南岸のどこかで両軍は衝突したと考えられる。

裴松之が注に引く『江表傳』によれば、孫賁は劉勲を彭澤で撃破し、敗れた劉勲は西塞山にこもり、劉表と黄祖に援軍を要請する。黄祖は長子の黄射に五千の軍勢を与えて支援するが、孫策に破られ、劉勲は曹操を頼って北方へ敗走する。投降兵を吸収した孫策はさらに黄祖の守る夏口(すなわち鄂城)へ侵攻するが、劉表は従子の劉虎と南陽の韓晞という武将に五千の兵を与えて援軍に遣る。しかし孫策はこれを打ち破って大勝した、というように『江表傳』には記述されている。

『江表傳』は描写が精彩で、饒舌な歴史小説のような面白さがある。ゆえに後世の三国時代を題材にした戯作や『演義』にも影響を与えているのであるが、裴松之も認めているように史料としての信憑性には乏しいものがある。たとえば、この劉勲との戦いについて引用された文の頭には

江表傳曰。策被詔敕、與司空曹公、衞將軍董承、益州牧劉璋等幷力討袁術、劉表。

とある。すなわち劉勲・黄祖をめぐる孫策の一連の軍事行動は、曹操や董承、劉璋らと協力し、袁術・劉表を討て、という朝廷からの詔勅を受けて実行された事になっている。しかし当時の状況から見て(この時袁術はすでに亡い)、さすがに孫策に朝廷から詔勅が下っていたとは考え難い。

さらに裴松之が注に引く『呉録』には、孫策が黄祖との戦勝を上奏した文が記載されている。これに拠れば、この戦いには江夏太守周瑜、桂陽太守呂範、零陵太守程普、孫權、韓當、黃蓋、等が従軍し、黄祖の軍を完全に打ち破り、その妻子七名を捕虜にし、劉虎、韓晞以下二万人を斬り、一万人を溺死させ、六千艘の船と多数の財貨を奪った、とある。

しかし、この『呉録』の資料としての信憑性、またこの上奏文の内容も(戦果は過大に誇張されているとしても)鵜呑みには出来ないところがある。従軍の諸将に黄蓋の名がみられるが、黄蓋の伝記にはこの戦いに参加した旨、記述がない。また周泰、董襲の名が上奏文に見られないのはひとまず置くとしても、孫賁の名が見られないのはいささか疑問である。

孫賁は孫堅の同腹の兄であり、すなわち孫策の伯父である。また孫堅死後の孫家の軍勢をまとめ、外戚の呉景とともに孫策をよく後見している。前述のように孫賁の本伝に「賁、與策征廬江太守劉勳、江夏太守黃祖」とあるにも関わらず、上奏文に孫権の名があって孫賁の名がないのは、これは少し不自然なのである。孫堅を討った黄祖との戦いが、孫家の復仇戦、という意味があるとすれば、そこに孫賁の名が無ければならない。

(さらに言えば、上奏文にしてはその文章に格調が欠けるのである。)

戦いの時期については『呉録』の上奏文に拠れば建安四年の12月8日である。『魏書・武帝紀』には「十二月公軍官渡。」と、曹操が官渡に進軍したという記述の後に、

廬江太守劉勳率衆降、封爲列侯。

とあり、その後「五年春正月、董承等謀泄。皆伏誅。」とあるから、戦いのあった時期については『呉録』の上奏文が示す通り、建安四年の冬の事であったのだろう。

しかし『三国志正史』の本伝中には、劉勲が劉表および黄祖に援軍を要請した旨の記載はない。

もともと袁術と劉表は敵対していた。袁術の跡目を劉勲がうけついだといっても、劉勲と劉表の関係が良くなった、という記録は見当たらない。しかし隣接する劉表に対し、劉勲がなんらかの外交を行っていた可能性はあるだろう。劉勲は劉表のように歴とした漢室の連枝、というわけではないようである。しかし袁術と代替わりしたことで、劉表と休戦ないしある程度の友好関係を築いていた事が考えられる。

『魏書』には「劉勳率衆降」とある。劉勲は救援した劉表にはつかずに、曹操を頼って北方に落ち延びている。劉表がみすみす劉勲を曹操のもとへ行かせたのは、劉表と曹操の関係も、このときはさほど緊張していなかった事を意味するだろう。袁紹から曹操の背後を突くように催促されていた劉表であり、曹操からも援軍を要請されていたという。しかし劉表は結局は動かない。官渡での袁紹との対峙に精一杯の曹操としては、劉表が曹操に援軍を送らずとも、荊州から動かないだけでもありがたいのである。そこへ劉勲が衆(つまり軍勢)を率いて帰順してくるのであるから、厚遇するよりない。

また荊州の劉表に対して袁紹、曹操の両陣営から支援要請がなされたように、劉勲や孫策に対しても袁紹や曹操から協力の要請があったはずである。袁紹としては孫策に許都を突くか、曹操の支配下の徐州を攻撃するように働きかけ、また曹操は孫策に劉表、劉勲を牽制するように依頼したであろう。と同時に曹操は劉勲に対しては孫策の北上を抑止するよう要請し、袁紹は劉勲に許都に進撃するよう使者を送るくらいの事はしたであろう。
そういった状況下で劉表が劉勲に援軍を送ったというのは、敗北した劉勲との関係によるというよりも、劉表が(あまり積極的ではないにせよ)曹操を利する行動をとった、とみることが出来る。また劉勲を皖城から排除した孫策に、曹操は脅威を覚えることになる。

劉勲は『魏略』に拠れば、諸葛氏と同じ琅琊出身の人物であるが、徐州郡は沛の建平で長官を務めたことがあり、やはり沛出身の曹操とは旧知の間柄であったようだ。曹操に帰順してからは征虜將軍に任ぜられ、また列侯に封ぜられた。劉勲の兄は豫洲刺史に任ぜられ、その兄が病没すると、またひとりの兄を後任にしたというから、曹操としてはよほどの厚遇である。もっとも曹操との縁故をかさに着て無法な振る舞いが多かったようで、告発され免官されている。(司馬芝の伝には”誅”とある)
ともあれ”率衆”とあるのは、いくばくかの軍勢を率いて降った、という事になる。『呉録』にあるように、江夏の軍勢が数万の死者を出すような大敗であれば、加勢を頼んだ劉勲の軍勢も、その形骸すら保てなかったであろう。

戦いの場所については『通鑑地理通釋・武昌』の説に従えば、当時の”沙羨”の東端が鄂城であったのだから、鄂城近郊であった、と考えられる。そして劉勲の撤退支援という意味では、劉表(黄祖)の援軍は劉勲とその軍勢の最低限の収容に成功した、という事が言える。劉勲とその手勢を鄂城に収容し、そこから黄祖の手配した軍船に搭乗し、長江をさかのぼって沔水(漢水)に至り、襄陽を経由して南陽、さらに許都に至ることはさほど困難ではなかったであろう。

袁術の”跡目争い”における最大のライバルである劉勲については、孫策は討ち取るなり捕らえるなりしたかったはずであるが、それには成功していない。しかし皖城の攻略時に袁術の妻子を保護することには成功している。後に孫権は袁術の息子を取り立て、娘は孫権の子に娶せている。袁術の子等は漢室から見れば”叛臣”の子である。しかし袁術の僭逆ぶりから距離を置いたとはいえ、孫堅・孫策と二代にわたって孫家が袁術の”世話になった”のは事実であり、その”義理”は果たすあたり、この一族の価値観の一端を表してもいる。

”沙羨の戦い”の諸記録では、黄祖の軍勢は大敗した事になっている。しかし孫策軍はそのまま鄂城を攻略することなく豫章に撤収し、これが孫策最後の大規模な軍事行動になるのである。後に示されるように、鄂城は充分な準備なしに攻略できるような拠点ではなかった、ということもあるだろう。しかし劉勲がある程度の衆を率いてまんまと逃げおおせた事と、その後も黄祖がこの方面を固守し続ける事を考え併せると、一方的に黄祖の軍勢が敗れた、とは考えにくい。

 

『呉録』の上奏文にあるように、黄祖の軍勢が三万もの犠牲を出したとすれば、荊州の江夏方面軍はほぼ全滅、と考えなければならない。そうであれば翌年の建安五年も孫策は継続して江夏を攻撃しようとしたはずであるが、次に孫家が鄂城の攻略に遠征するのはさらに丸三年が経過した建安八年の事なのである。そして孫策は”沙羨の戦い”翌年建安五年の早ければ四月、遅くとも八月には死去すると考えられるのであるが、その間の孫家の軍勢の行動は、江東領内、特に豫章郡の平定に集中している、という点も注意する必要があるだろう。

ここで”沙羨の戦い”の結果を考察するうえで、何故か孫策の死が関係してくるのである。”孫策は許貢の刺客に襲われた”という主張は『三国志正史』の本伝、また裴松之の注、ないし裴松之の評にみられるのであるが、いずれも孫策は許都を襲撃しようとしていた、事になっているのである。

しかし(長くなるので次回に回すが)その後の孫策の諸将の行動、また前後の孫策の行動を見る限り、とてもの事、許都を襲撃し献帝を迎える、というような意図を孫策が抱いていたとは考えられないのである。

 

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襄陽の戦い 〜黄祖=黄承彦考8

黄祖が歴史に登場するのは、袁術から派遣された孫堅軍との戦いにおいてである。初平二年(193年)あるいは三年にかけて、袁術は孫堅に兵を与えて襄陽を攻撃させる。
戦いの前年、初平元年に劉表は単騎で荊州に入り、襄陽に入城している。さらに蔡瑁、蒯良,
蒯越等と図り、周辺の”宗賊”の頭目十数人を謀殺し、襄陽近郊の南陽を除く荊州北部地域の支配権を確立している。この謀議に黄祖の名はない。

”宗賊”というのは、盗賊集団という意味ではなく同姓の宗族からなる集落のことであろう。漢王朝の衰微とともに、険しい地形を頼みに支配を受けつけない宗賊の村が多かったのであろう。宗賊の討伐は後の呉においても盛んにおこなわれるが、長江南岸以南の、現在でいう安徽省や江西省、湖北省、湖南省には険しい山岳と河川に遮られた地形が続いている。徽州の郷土史にも、この時代に歙や黟が呉の討伐を受けた事が記されている。

蔡瑁は曹操とも旧知であるが、それは蔡瑁が都へ遊学した際の交際であったと考えられる。地方豪族・貴族の子弟が都へ遊学するというのは、王朝時代を通じて盛んにおこなわれている。劉表と蔡瑁もそのころに知り合ったのだろう。これは劉表と襄陽豪族の結託による一種のクーデターであるが、その翌年に襄陽は袁術の派兵による孫堅軍の侵攻を受けるのである。

この戦いで孫堅は戦死する。しかし戦いの経緯や孫堅戦死の経緯は後漢書や『三国志正史』、またその注によって諸説ある。また孫堅が戦死したと考えられる時期は本傳では初平三年、とあるが裴松之が注に引く呉歴や漢紀では初平二年とし、また英雄記では初平四年正月七日、という事になっている。
『三国志正史』における呉主孫権の父親であり、黄巾の乱やその後の董卓の乱において際立った活躍をしている人物の最後の戦いの経緯が至極不明瞭であり、その最後の時期についてもはっきりしない、という事は少し注意しても良いだろう。
『三国志正史』の著者である陳寿は蜀の遺臣であり、後に魏に仕えた事から考えて、蜀や魏の記録なり口述なりを得るのは容易だったものの、呉の記録類や証言に接する機会は乏しかった、という事は言えるかもしれない。さらには呉の国史である「呉書」は完結していなかった、といわれている。また陳寿の呉に対する冷淡な記述態度もうかがえるところである。


孫堅を射殺したのは黄祖の軍兵であるとか、黄祖配下の呂介の軍兵であるなどこれも諸説ある。ともあれ、河北で驍勇を鳴らした孫堅を葬り、その軍を敗走させた事実は大きい。この時期、北方で袁紹と曹操が対峙し、中原から南では袁術と劉表が対峙していた。曹操にとっては官渡における袁紹への勝利が非常に大きな意味を持つが、劉表にとっては襄陽の戦いに勝利した意味は軽くないのである。


まず『三国志正史・呉志』の「孫破虜傳」では


「初平三年、術使堅征荆州擊劉表。表遣黄祖逆於樊之間。堅擊破之追渡漢水遂圍襄陽。單馬行峴山為祖軍士所射殺」


という記述がみられる。大意を示せば、


初平三年に袁術は孫堅に荊州の劉表を討伐させた。劉表は黄祖(の軍)を派遣して”樊之間”で迎え撃たせた。孫堅はこの軍を破り追撃して灌水を渡り、ついに襄陽を包囲した。そして単騎で峴山を騎行中に黄祖軍の兵士に射殺された。


というところだろうか。


それが後漢書になると


袁術與其從兄紹有隙而紹與表相結故術共孫堅合從襲表表敗堅遂圍襄陽㑹表将黄祖救至堅為流箭所中死餘衆退走


とある。大意を示せば、


袁術とその従兄の袁紹に隙が出来、袁紹と劉表は手を結んだ。ゆえに袁術が孫堅と合従して劉表を襲い、劉表は敗れ、ついに孫堅は襄陽を包囲した。劉表の将である黄祖の救援が到着し、孫堅は流れ矢に当たって戦死し、孫堅の軍勢は敗走した。


となり、戦いの経緯がずいぶんと異なっている。


南陽の宛城を本拠地とする袁術は孫堅に兵を与えて遠征に遣るのであるが、この時の孫堅軍の総兵力は未詳である。南陽から襄陽までは直線距離でおよそ115kmであるが、たとえば大阪から大垣までの直線距離が120kmである。大阪城を発って、関ヶ原へ向かうほどの距離はない。
南陽から襄陽までの孫堅軍の進軍において、補給線はおそらく白河という河川に拠ったであろう。白河は南陽を貫流し、新野を経て襄陽の北東で漢水(沔水)に合流している(大陸的基準でいえば)中小河川である。
この時代に限らず、近代においても大陸の行軍はほぼ河川に沿っている。兵員は陸路を進むとしても、軍需物資は河川に拠らなければ長距離の運搬は困難である。
当然、後漢末と現代では河川は堆積浸食を繰り返して姿を変えているであろうが、南陽を貫いて襄陽にいたる経路はおおむね変化はないだろう。後に曹操もこの経路を使って大軍を荊州へ南下させたと考えられるが、膨大な食糧・軍需物資の運搬は陸路ではほとんど不可能なのである。


”樊之間”とあるのは、漢水を挟んで襄陽の対岸に位置する樊城(襄陽市樊城区)とそのさらに北西に位置する城(現城区)の事であり、南岸の襄陽城からみて北岸の二拠点である。襄陽と城の間は8km程度であるから、襄陽城から戦いの様子は望見できたであろう。樊城と城は襄陽城の出城のような存在であろうか。”城”といっても、日本の戦国時代の城塞ではなく、ある程度の人口を有した城郭都市とみるべきである。


孫堅は長沙での董卓討伐の義勇軍結成以来の古参の将兵と、袁術から借りた、おそらくは戦に慣れた傭兵部隊で構成されていたであろう。たいして劉表や黄祖が率いたのは、襄陽や江夏の県城における兵役義務をもつ市民階級(有戸籍階級)の兵士たちが主力あったと考えられる。戦闘が専門ではない市民兵であるが、郷土防衛の意識が強く、また結束力はある。しかし都市国家が攻伐を繰り返していた春秋戦国時代とは違い、漢代における市民兵の役割とは賊からの専守防衛である。ゆえに城邑の市民兵は城壁に拠って防戦するように訓練されており、外征して野外決戦するような訓練はあまり受けていなかったであろう。
”樊の間”というと平野で決戦をしたかのように見えるが、騎兵の戦力では北方の孫堅軍がはるかに優勢であったと考えられるから、開けた土地で決戦するのはいささか無謀である。この戦役の当初から黄祖が前線に出ていたのか?あるいは襄陽包囲後に援軍として来着したのか?については『呉志』と『後漢書』で記述が食い違っているので定かではないが、前哨戦が行われたのは確かなのだろう。
その漢水北岸の二拠点を攻略した後、孫堅軍は漢水の渡河に成功するのである。これは襄陽からみて漢水の上流から漢水を渡ったと考えられる。白水からけん引してきた舟艇が使用されたのであろう。この地点は現在は広い中洲が存在し、河道が狭くなっている。当時も中洲が無いまでも比較的渡河が容易な地点であったであろう。また孫堅軍の補給線である、白河と漢水の合流地点は襄陽城からみて下流に位置するが、渡河する際には敵の陣営の上流から渡るのが常である。

孫堅が討たれた峴山(けんざん)は襄陽城の南方に位置する、標高500mに満たない山である。現在は襄陽郊外の名勝であるが、ここからは襄陽城が一望にできる。『呉志』の”注”では敗走する黄祖を峴山に追撃した、とあるが峴山は襄陽の南であり、峴山に至る前に漢水を渡河しなければならない。一息に追撃というのは無理がある。
ともあれ『呉志』の本文では、孫堅は単騎で移動中に、黄祖軍の兵士に射殺された、となっている。この点はどうか。


日本の戦国時代でも物見(ものみ)つまり敵情視察は将校クラスの任務であるが、大将自らが物見に出るいわゆる”大将物見”もしばしば行われたという。戦術の知識を備えた人物が視察しなければ敵情の観察などは意味がないのであり、ときに大将自らが偵察に出る必要があったのである。
「内藤三左衛門」ではないが、敵に気付かれないためにはできる限り少数、時に単騎で行く方が発見される危険性が低い。とはいえ敵近くまで進出し、いったん発見されればきわめて危険である。ゆえに偵察には”馬廻り”という武芸兵略兼ね備えた選りすぐりの将校と、屈強な馬があてられていた。


それは後漢〜三国時代の大陸の戦場においても、後世のように航空機も人工衛星も光学機器もないのだから、ほぼ同様の事情があっただろう。三国時代、時に主将がふいに最前線に姿を現し遭遇戦が起こる場面があるが、それは指揮官自ら危険を冒して前線に出る必要があったからである。敵情がわからぬままに戦って軍を全滅させるか?大将がリスクを冒すか?それは本質的に賭博である戦場において、必ずしも天秤にかけられないような話ではなかったであろう。
『呉志』の本文の通り、敵の城を眼下にもし孫堅が峴山を単騎で騎行していたのであれば、やはり偵察が目的だったのであろう。それは戦術眼、武芸、乗馬において孫堅に並ぶ者がいなかったという事だったのかもしれない。
それにしても”単騎”というのはどうであろう。護衛を連れるよりは発見される可能性が低い、という考えがあったのかもしれないが、日本の戦国時代においても将校斥候はまだしも、総大将自ら単騎で物見という例はない。かつて孫堅は長沙から北上の途上で襄陽を通過しているから、峴山も知らない土地ではなかったにせよ、単独行は危険極まりない。


逆に考えれば、黄祖は孫堅軍の”物見”を見越して峴山に狙撃兵を潜ませていた可能性はある。それは必ずしも孫堅のみを狙ったものではなく、誰であれ相当の将校が物見に出るのであるから、討ち取って損はないわけである。
それでも孫堅ほどの戦場巧者が射殺されるのであるから、思いがけない長距離から狙撃を受けた可能性が考えられる。孫堅は山中を移動中も、狙撃の可能性のある地点に注意を配っていたはずである。孫堅の予想を超えた間合いから、複数の強力な弩の斉射によって撃たれたのではあるまいか。
黄祖が歴史に登場するこの戦いで、孫堅が弩によって斃れたのは象徴的である。後の黄祖の戦術は、強力な弩の使用に支えられている、と考えられるからである。それは後世、小銃が即製の市民軍を強力な軍隊に変えたのと同様の意味があったと考えられる。後漢末という動乱の時代にあって、比較的平和であった荊州の民をして、歴戦の軍隊に対抗せしめた主な要因であっただろう。(孔明は特に弩の改良を行っているほどである。)


弩は弦や銃把は木材や動物の皮が用いられるが、撃鉄にあたる機構部分は金属製である。後漢時代の副葬品に、青銅製の弩の出土例があるが、機構部分が青銅製の部品で造られた弩である。
中原の価値観では楚は大国だが後進国、とみなされている。しかし現実は周王朝の初期から大量の青銅器を鋳造し、また春秋戦国時代における鉄器のほとんどは楚(長沙)で製造されたと考えられるほど、極めて先進的な工業国であった。
青銅器には大量の銅と微量の錫が必要である。錫は交易で入手できるとしても銅の産出が必要である。鄂州市は現在も豊富な銅の鉱山があるが、漢代以前の銅鏡の主要な産地でもある。
いうなれば工業国であった荊州における主要な工業都市が鄂なのであり、前回考察したように、江夏太守として黄祖が鄂に拠点を置いたのは偶然ではありえない。後漢には既に鉄器の使用が普及していたが、ほとんどが農具への使用であった。鉄の硬度を青銅器並みに高めるには工業的に難しい面があり、武装の多くには青銅が使用されていた。加えて青銅は鉄に比べて重く、槍や矛のように打撃で相手を斃す武器には重い金属が有利である。


もっとも黄巾討伐の功績で長沙太守に任ぜられ、長沙から董卓討伐の義軍を起こした孫堅も、弩の活用を知らなかったはずがない。孫堅の率いた軍勢は諸侯の軍に比べて際立って精強で、北方の剽悍な騎馬民族傭兵軍と戦っても引けを取らないほどであったが、これもおそらく強力な弩の有効活用に理由があったであろう。


ところで孫堅の死については、『呉志』の注に引く『典略』という書物によれば、


堅悉其衆攻表、表閉門、夜遣將黃祖潛出發兵。祖將兵欲還、堅逆與戰。祖敗走、竄峴山中。堅乘勝夜追祖、祖部兵從竹木間暗射堅、殺之。


とある。すなわち劉表は門を閉じて守り、また(夜襲をかけて)夜陰に黄祖を出戦させたが、黄祖の将兵が還りたがったところ(逃げ腰になったの意味か)孫堅が攻撃し、黄祖は敗走する。そして黄祖が峴山に隠れたところを、勝ちに乗った孫堅が追撃し、竹木の間(しげみ)から黄祖の将兵に射殺された、とある。


この記述の通りであれば、孫堅は単騎行ではなく、黄祖を追撃したところで狙撃され落命した、という事になる。黄祖が峴山に「竄(かくれ)た」とあるが、これは字義通り”ネズミ”のように逃げ隠れた、という意味がある。また夜襲に出たはずの黄祖の兵が「欲還」つまり還りたがった、などと、かなり黄祖とその軍勢を貶めている。孫堅を討ちとったのは、あたかも黄祖軍の偶然の賜物であるかのように読める。
しかし見方を変えればこれが黄祖の作戦であった、というような解釈も可能である。夜襲をかけた黄祖軍が浮足立つのも、黄祖自身が囮になって峴山に孫堅を誘い込むのも、予定の行動であったとすればどうか。
(後の黄祖と呉軍の戦いでも、呉軍は野戦で黄祖の軍を敗走させながらも拠点の攻略には失敗し、時に凌統や徐琨といった将を弩によって討ち取られている。)


当時の弩というのは、威力のあるものは相当な重量があり、軽快な移動は困難であった。また弦の反動が大きいため、命中率を高めるには安定させることが必要である。そのような武器を活用するには、敵を有効な射程距離まで誘い込む、あるいは追い込む必要がある。黄祖が自らを餌に孫堅を誘い込んだことも考えられ、また兵が敗走を偽装できるほどに訓練されていたのであれば、その練度も統率も優れていた、と考えるよりない。


もし『呉志』の本文の記述の通り、峴山を単騎騎行中の孫堅を狙撃したのだとしても、その行動を読んで兵を配置していた、と考えることが出来る。さらにいえば、襄陽城の東西と北側を遮る漢水の渡河をみすみす許したのも、孫堅(軍)を残る襄陽の南側の峴山の方面に誘い込む罠であった、という見方も可能なのである。


孫堅の死についてはやはり『呉志』の注に引く『英雄記』には、


堅以初平四年正月七日死。又云。劉表將呂公將兵緣山向堅、堅輕騎尋山討公。公兵下石。中堅頭、應時腦出物故。其不同如此也。


とある。ここでは劉表の配下の呂公という将が山に拠って孫堅と対峙し、孫堅が軽騎を駆って山中の呂公を討とうとしたところ、呂公が石を落として孫堅を斃した、とある。この山が峴山であるかどうかは未詳である。
裴松之がこれらの書物を注に引いたのは「其不同如此也」と、孫堅の死の場面に諸説あって定まらない、という事を示したかったからであろう。


孫堅は孫権が帝業に就いた際に「武烈皇帝」と諡(おくりな)されている。前述の『英雄記』にはその死は初平四年の正月とあるが、『呉志』の本傳に孫堅の卒年月日の記述はない。『孫破虜傳』には孫堅に続いて孫策の傳が付記されているのだが、後に見るように孫策の死についても諸説あり、卒した年と月が本傳の文中で明確ではない事も孫堅と同様なのである。建安四年12月の沙羨の戦いについても、孫策の死が建安五年の四月である、という点についても『三国志正史』の本傳に記載はなく、あくまで裴松之が注に引いた文中からしか確かめることが出来ない。

『三国志正史』を著した陳寿は蜀から魏に仕えているが、『呉志』を執筆するにあたって呉の史官が編纂した史書である「呉書」に取材している、と考えられている。呉に史官が置かれたのは孫権が帝号を宣して後であり、その中心人物であった韋昭は孫策の死の前年に生まれ、孫皓の時代に生きた人物である。言うなれば韋昭が半世紀前の出来事を取材し編纂した史料を、さらに陳寿が参照して『呉志』が執筆されているわけであるから、実際がどうであったか?わからなくなっている事柄も多かったであろう。また「呉書」自体、編纂途中で完結していなかったといわれる。
とはいえ、人の生卒年は墓誌銘にも明記される重要な情報であり、陳寿はともかく呉臣の韋昭は孫家の廟堂をあたれば、孫堅孫策の生卒年くらいは調べることが出来たであろう。韋昭が編纂した史料にも、孫堅孫策の生卒年が記されていなかったと考えるのは不自然である。このあたり、ひとつには陳寿の呉に対する冷ややかな態度がうかがえるのである。さらにいえば、孫堅孫策の死は孫家の歴史にとって、あまり触れたくないような痛恨事だった事も考えられるのである。


『三国志正史・呉志』においては、黄祖は呉軍との戦いで度々敗走し、単騎で逃亡を図るなど、当時の価値観としても戦が下手な、見ようによっては卑怯な将軍であったかのように記述されている。そうであれば、孫堅を討ちとったのは全くの”ラッキーパンチ”であったのだろうか?また孫堅が討ち死にした初平二〜四年(191〜193)の間に起きた襄陽の戦役から、赤壁の戦いの起こる建安八年(208)に至るまでの十数年間、黄祖が更迭もされずに度重なる呉軍の侵攻を防ぎ続け得たのも、全くの僥倖の産物であったのであろうか.........?
むろん、戦争という複雑な事象の原因と結果を、たかだか数人の武将の個人的能力に換言してはならないだろう。『演義』という非常によくできた英雄絵巻の影響か、結果論に過ぎない勝敗から逆算して武将の能力が計量されがちである。戦争は同じ条件で競うスポーツではないのだから、現実の勝敗は個人的能力以上に戦略上の環境の影響が圧倒的に大きいものである。


後に江東を平定した呉軍は黄祖の守る江夏への侵攻を繰り返すのであるが、劉表は襄陽を中心とする荊州北部を支配していたとはいえ、二百万を超す大人口を擁する南陽を支配していない。また南方の長沙や零陵の帰属は、孫策が死ぬ建安五年の事である。後漢書の『郡国志』の人口統計を概算すると、大人口を抱える零陵と長沙(それぞれ百万超)が加わったことでようやく荊州(現湖北省・湖南省)は、孫権の支配する豫州南部と揚州(現安徽省南部、江西省、浙江省)と国力的には均衡すると考えられるのである。
このような情勢下、黄祖と荊州軍は孫策、孫権と続く呉軍の侵攻を防ぎ続けるのである。呉軍は孫策が特命した”江夏太守”周瑜を筆頭に、この方面に選りすぐった人材と兵力を投じ続ける。控えめに見積もっても、黄祖の軍事的な手腕は低いものとは言えないであろうし、同時に劉表の荊州経営も悪いものではなかった、という事は言えるであろう。

(そして姻戚を通じ劉表と蔡瑁の義兄にあたる黄承彦という人物が、果たして襄陽近郊の名士ないし隠士に過ぎない人物か?という事も考えてみてもいいであろう)


この襄陽の戦いについて付け加えれば、この戦いの経緯は『三国志正史』の本傳でも注釈でもごく簡単にしか述べられていない。記述量が少ないため、短期間で終わったかのような印象をうけるが、現実には”官渡の戦い”に匹敵する長期にわたる対陣であり、袁術と劉表がそれぞれの総力を傾けた戦役であっただろう。


次回は黄祖と孫策の戦いを概観するが、そこで孫策の死についても再考しようと思う。

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夏口と鄂 〜黄祖=黄承彦考7

前回は、黄祖が呉軍の侵攻から守っていた拠点は現在の武漢市漢口(当時の夏口)ではなく鄂(城)だったのではないか?という疑問点についてあらましを述べた。結論的にいえば、『三国志正史』の記載における夏口はほぼ鄂なのである。今回はこの点をもう少し捕捉したい。
(今回は黄祖と呉軍の交戦についても概観したかったが、長くなったのでそれは次回に。)
夏口は夏水の河口、という意味であるが、異称の多いこの河川は漢水あるいは沔水とも呼ばれ、ゆえに沔口また漢口という呼称もある。また時代によって大陸の大小河川の河道はかなり変遷してきたようで、1800年前と今日では、河川と地名を安易に結びつけるのは注意が必要である。


呉軍と黄祖軍の最後の戦いの模様は『三国志正史・呉志』における董襲の傳にもっとも活写されているが、そこに”沔口”の名がみえる。すなわち以下の一節である。


建安十三年權討黄祖。祖横兩䝉衝挾守沔口以栟閭大紲繫石為矴上有千人以弩交射飛矢雨下軍不得前。襲與淩統俱為前部各將敢死百人。人被兩鎧乗大舸船突入䝉衝裏


黄祖は沔口を挟み込む格好に二隻の蒙衝を並べ、それを岩石に繋留し、千人の弩兵に雨あられと矢を放たせたため、呉軍は前進することが出来ない。董襲と凌統は鎧を二重に重ねた決死隊百人を率いて蒙衝の背後に進み、繋留を切断して蒙衝を動揺させ、ついに突破に成功する、というくだりである。
後に『演義』の赤壁の戦いの描写にも影響したであろう、この一節の精彩な戦闘描写のためか、呉軍は沔口(すなわち現在の漢口)で戦い、その県城を攻略した、という印象が強いのかもしれない。
しかしこの一節における”沔口”は、黄祖が二隻の蒙衝を浮かべて守備していることから、戦場における特定のポイントとしての”河口”を意味している、とも考えられる。


また『呉志』凌統の傳において


権統軍從討江夏入夏口先登破其前鋒輕舟獨進中流矢死


とある。凌統の父凌操が戦死したのも、夏口における黄祖との戦いに従軍した時(この戦いでは呉軍は攻略に失敗している)という事になっている。

『三国志正史・武帝紀』には、赤壁の戦いの直前に起きた呉軍と黄祖軍との最後の戦いを、


復征黃祖。祖、先遣舟兵拒軍。都尉呂蒙、破其前鋒。而淩統、董襲等、盡銳攻之、遂屠其城。


と記述している。ここでは”屠其城”とある。”其城”とあるだけで、どこの城なのか?この武帝紀の文脈からは読み取れない。また”屠城”とある。屠城すなわち住民を皆殺しにすることであるが、人口・労働力・生産力が貴重な当時、実際にそれが行われたとは限らない。しかし少なくともその県城を攻略した事を示している表現である。


さらに武帝紀には、曹操が荊州攻略へ南下を開始した事がつづられ、


九月公到新野、遂降、備走夏口


とある。すなわち(劉)備が夏口に(敗)走する、という事が書かれている。呉軍が攻略しているはずの夏口城に劉備が敗走するというのはいささか不自然であるが、『呉志』の魯粛の傳には、夏口へ至る以前に孫権から派遣された魯粛が劉備と合流したことがわかる。呉の使者の手引きがあれば、それも可能だろう。
しかし蜀志・先主傳には劉備の敗走経路について、


先主、斜趨漢津、適與羽船會、得濟沔。遇表長子江夏太守、衆萬餘人、與俱到夏口


とある。まず劉備は漢津へ斜趨(しゃすう)した、とある。斜趨とは東西南北に平行に進む(=横行)ことに対して、東南あるいは北東というように、斜めに移動することであるが、當陽の長坂(現在の湖北省宜昌市付近)から、南東方向の漢津(現在の武漢市漢陽区)へ敗走した、という事であろう。
”津(わたし)”というのは河川の渡し場という意味であり、漢津で先に襄陽から漢水伝いに脱出させていた関羽の船団と合流し、”沔を得濟”とある。”得濟”は保全するという意味であり、沔、すなわち沔水流域を掌握したという事であろう。
より端的には江夏郡の沔口周辺地域を抑えた、という事になると考えられる。さらに江夏太守である劉に遭遇し、一万の軍勢を率いて”夏口”に向かったのであるが、この夏口はすなわち呉が攻略した”鄂”をさすのであろう。
後に”沔”を含む地域に夏口鎮が置かれ、また現在は武漢市の漢口区になっている。そのため、この武漢市における漢口が夏口と考えがちである。孫策がやはり現在の武漢市に含まれる沙羨で黄祖と戦ったという(おそらく虚構の)歴史があるため、なおさらそう思ってしまうかもしれない。


諸葛亮傳には


先主至於夏口、亮曰”事急矣、請奉命求救於孫將軍”時、權擁軍在柴桑、觀望成敗


と、やはり先主(劉備)が夏口に至った事が書かれている。さらに呉主傳にも


備、進住夏口、使諸葛亮詣權


と、いずれも劉備(軍)が夏口に向かい、駐屯したという記述がある。これらの夏口もすなわち鄂のことであると考えられる。
この時劉備は襄陽以降の敗走兵を収容し、少なくとも1万人以上の軍勢を率いていたと考えられ、さらに諸葛亮が孫権に語ったところでは劉と併せておよそ2万の軍勢を率いているとされる。人口がそれほど多くない江夏郡の、さらに一部地域だけでは長くその補給を支えられない上に、漢水上流から曹操軍が攻め降ってくるおそれがある。ゆえに最低限の備えを残し、ほとんどの軍勢を率いて夏口(すなわち鄂)に向かったのであろう。


実のところ後漢書の劉表傳における李賢の注には


「夏口今之鄂也左傳吳伐楚楚沈尹戌奔命於夏汭杜預注曰漢水入口今夏口也」


とある。そこには”夏口今之鄂也”すなわち夏口とは今の(東晋時代の)鄂であり、”漢水入口今夏口”と漢水が長江に注ぐ場所が夏口なのである、と書かれている。


また欽定四庫全書の『吳志卷十七考證』には「胡綜黄龍見夏口於是權稱尊號」すなわち胡綜が黄龍を夏口において発見し、その瑞祥によって孫権が帝号を称したという故事について


按夏口毛本作舉口太平御覧作樊口舉口盖樊口之誤


と考証している。
”毛本”は明代の蔵書家、毛晋が刻版した一大叢書、汲古閣本のことであるが、その版本における呉志には、夏口ではなく”舉口”と書かれており、また太平御覧では樊口のことを舉口と記述している、という。樊口は鄂における長江沿岸の地名である。すなわち夏口ではなく舉口=樊口(=鄂)ということで、黄龍が発見されたのは夏口ではなく(鄂すなわち武昌の)樊口であろうと。
そう考えると、董襲の傳にある”沔口”とは、おそらく樊口をさすと考えられる。


さらに付け加えれば胡綜傳には「從討黄祖拜鄂長」とあり、胡綜が黄祖との戦いに従軍し”鄂長”すなわち鄂の長に任ぜられた記述がある。


また裴松之の注に引かれるところの『江表傳』には、曹操軍に追われて敗走する劉備に呉から派遣された魯粛が合流し、呉と同盟を結ぶ事を勧め、


備大喜、進住鄂縣、卽遣諸葛亮隨肅詣孫權、結同盟誓。


とあり、鄂県(城)に進駐した、と書かれている。さらにやはり『江表傳』の注には、

備從魯肅計、進住鄂縣之樊口。諸葛亮詣吳未還、備聞曹公軍下、恐懼、日遣邏吏於水次候望權軍。


とあり、劉備は魯粛とともに鄂県の樊口に至り、諸葛亮を呉に派遣した、と書かれている。樊口は現在の湖北省鄂州市の樊口街道にその名がみえる。後に孫権が長安という三千人乗りの大型船の進水式をやるのも樊口であるが、鄂州における港湾地域であったと考えられる。
少し歴史小説めいたところもある『江表傳』であるが、蜀の遺臣で魏に仕えた陳寿よりも、呉の支配下の地名に関する錯誤は少ないかもしれない。黄祖と呉軍の戦いの描写が『江表傳』にもあったはずであるが、残念ながら裴松之の注には引かれていないので未詳である。また魯粛と鄂城に至る前に劉備が夏口城へ入ったかどうか?この個所についても『江表傳』の引用はない。


劉表は長江北岸を防衛するため、漢水と長江の合流地点(すなわち沔)の北東に位置する西陵県の石陽にも黄祖に命じて築城させたという。これは安慶を攻略し現在の安徽省北部を制圧した呉軍が、長江北岸からの陸路伝いで夏口方面への侵攻する可能性への備えであっただろう。また最前線の鄂に対する後方基地の役割を負っていただろう。いうなれば呉に対する第二防衛ラインであり、鄂が陥落後に江夏太守となった劉が向かったのも、この地域だったと考えられる。


以上から黄祖が呉軍の侵攻を防ぎ続けてきたのは、やはり後に孫権が武昌と呼称を改める、鄂(城)であり、『三国志正史』における夏口とは鄂、また董襲傳における沔口というのは鄂の樊口である、そう結論付けて良いのではないだろうか。
大陸で通常”城”といえば万人以上の住民が住む地域を城壁で囲んだ都市をさす。日本の戦国時代における領主の居館、ないし純粋に軍事拠点としての砦の類ではない。江夏太守に任ぜられている黄祖の居城が、単なる前線の”砦(とりで)”に過ぎないという事は、考えられない事なのである。自給能力を持たない砦や山塞は後方から補給を受けなければ維持できない。そのような純粋な軍事拠点を長期にわたって”江夏太守”が守るのは不自然なのである。鄂(州)城が歴史的に江夏地方の首府となるべき地であったことをと考え合わせれば、孫権率いる呉軍が躍起になって攻略を目指し、後に呉の首都ないし副首都となった史実とも符合するのである。
黄祖が守る城が鄂城であったとすると、なぜ黄祖は呉軍の数次の侵攻を良く防ぎ、最後に敗れたか?その原因も見えてくる。

とはいえそこは後回しにし、次回は黄祖が歴史に登場する、孫堅との戦いについて概観したい。

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鄂城の存在 〜黄祖=黄承彦考6

黄祖という、おそらくは後の諸葛亮と蜀の盛衰に少なからぬ影響を与えたであろう人物について調べてゆくと、そもそも黄祖について述べられた数少ない史料の内容そのものに多大な疑義が浮かんでくる。

中原をうかがう勢力の一角であった劉表の荊州も、その後は魏吴蜀に分割されてしまったためか、荊州の人士については信頼できる記録が乏しいものがある。
荊州については比較的豊富な記述がみられるのが『呉志』であるが、基本的に劉表と敵対する関係であったためか、客観的とはいいがたいところがある。もともと『三国志正史』の著者である陳寿は蜀の出身で、蜀滅亡後は魏に仕えたためか、魏や蜀に比べると『呉志』の内容はやや疎漏の感がある。また呉にたいする陳寿の筆致はやはりどこか冷淡である。そして『呉志』の注に多く引かれる『江表傳』『呉録』についてもいささか饒舌が過ぎ、講釈本のようなところが随所にある。

ともあれ『呉志』の記録を見る限り、黄祖は呉軍に敗戦を重ねていることになる。しかし呉軍の戦略目標の達成の可否を見る限り、鵜呑みにはしがたいものがある。結局、劉表に委任されて黄祖が守る”拠点”は赤壁の戦いの始まる建安十三年、劉表の没時の直前まで陥落していないのである。ただこの黄祖軍と呉軍が攻防を繰り広げた荊州(江夏)の拠点がいったいどこなのか?という問題については、いわれているほど自明ではないのではあるまいか。今回はその点について考えてみたい。

黄祖が守っていた拠点は、現武漢市区内の長江南岸の沙羨ないし北岸の夏口であると、一般には考えられているかもしれない。しかしこの点は、大いに疑問がある。むろん夏口や沙羨にも軍事拠点ないし県城が存在したであろうが、それでも沙羨が呉に対する荊州側の最前線であったと考えるのは難しい。以下に理由を述べたい。

現在の武漢市はかつての夏口とよばれた漢口を中心に繁華な大都会を形成し、この漢口の対岸地域が武昌区である。そこに孫権の軍事楼に由来する黃鶴樓が聳え立ち、これが武漢のシンボルとなっている。しかし後漢から三国時代まで、沙羨県(城)に属したこの地方一帯はそれほど開発が進んでいた形跡はないのである。

そもそも沙羨を含む地域が武昌郡となり、沙羨に治所が置かれたのは三国時代の後の晋代に入ってからである。
紀元前221年に呉の孫権がそれまでの鄂城(現鄂州市)を「以武治国而昌(武を以て国を治め栄える)」の意味を込めて”武昌”と改め、その首府を建業(現南京)から遷している(229年に帝号を称すと、ふたたび建業を都としている)。そして武昌へ建業から一千家を移住させたという。これが”武昌”という呼称の起源である。後の孫皓の時代には、再び呉の首都を建業から武昌に遷都しようとした。しかしこの時は群臣の猛烈な反対にあって頓挫している。
後の東晋時代に、それまで江夏郡であった地域を武昌郡とし沙羨にその群府が置かれて後に、現在の武漢市武昌区一帯が”武昌”と呼ばれるようになる。いわばこの”新武昌”が現在の武漢市の武昌なのであるが、たいして鄂城は”古武昌”とも呼ばれる。

この”古武昌”こと鄂城が、後に建業と呉の首都の地位を争うほどに発展したのは、むろんのこと孫権肝いりの再開発が奏功したからであろう。しかしもともと都市として発展する基礎と伸びしろのある土地でなければ、多大な労力と資力を投資する価値はない。その点、鄂城は後漢の荊州江夏郡に属する十四県(城)の一つであるが、歴史的にも経済的にも当時の江夏郡でもっとも重要な県城であったと考えられるのである。

歴史をたどれば、時代によって鄂州と呼ばれたこの地域は、さかのぼること堯帝の時代は樊国という小国があったとされる。また殷の時代には鄂国という国があったという。その後春秋戦国時代に楚が副首都に定め、楚が秦に滅ぼされた際には始皇帝はこの地まで遠征している。また漢王朝成立後は漢高祖によって鄂県が置かれ、樊噲がこの地に封じられ、灌嬰が鄂県城を築城したという。

重機などの無い古代社会においては、大都市、さらには一国の首都になるほどの地というのは、ほぼ決まっているのである。それは現在においては二線、三線級の地方都市に後退してしまったとしても、王朝時代を通じては、盛衰はあるもののそれなりの規模と人口を維持し、歴史文化を持つ街として継続してきているのである。
孫権が鄂城を武昌と改めて後、武昌が呉の滅亡まで首都、ないし副首都の地位を保った理由は何か?呉の支配下にはいってから急速に大土木事業を起こし、開発を進めた結果だけではないだろう。その地の重要性は戦国春秋時代からの鄂州の長い歴史を顧みれば明らかである。
たいして孫策が黄祖を破ったという沙羨の方面は、三国時代以前に一国の首都ないし副首都がおかれたというような、見るべき歴史はない。

結論を先に言えば、黄祖が劉表の信任をうけて守り、呉軍の攻勢を防ぎ続けてきたのは沙羨や夏口ではなく、この鄂城ではないか?と考えられるのである。
孫堅との襄陽防衛戦の後、江夏をめぐる黄祖と呉軍の最初の戦いを挙げると、孫策最後の戦いであった建安四年の”沙羨の戦い”が考えられる。しかしその呼称に反して、戦争の経緯と地理を照らし合わせれば、到底この戦いが”沙羨”で起こったとは考えられないのである。

鄂城から長江を東に下ると沿岸に柴桑(現九江市)があり、柴桑から鄱陽湖の西側を南下すると豫章郡(現南昌市)がある。いずれも孫策時代の呉の重要拠点である。呉が豫章郡と定めたこの一帯は呉郡、会稽郡ともにわずか数年で孫策によって平定された地域である。そしてこの地域を孫策が平定して間もない建安四年(199年)、呉軍と劉勲の間で戦いが起こるのである。

劉勲はもともと孫堅と同じく袁術の支配下にあり、袁術によって廬江郡(現安徽省合肥市)の太守に任命され、皖城(安徽省安慶市)を拠点にしていたという。
建安四年に袁術が死ぬと、孫策は劉勲にへりくだった書簡を送り、豫章近郊の上繚の賊を討つ援軍を求める。しかしこれは計略であったという。劉勲が軍を率いて長江を渡った隙に、孫策は留守になった皖城を攻めとってしまう。帰路をふさがれた劉勲は、柴桑からわずかに上流の西塞山に立てこもり、江夏の黄祖に援軍を求めたという。
孫策は劉勲の軍を撃破し、千艘の舟と二千の投降兵を得る戦果を挙げ、余勢を駆って黄祖を討たんとして起こったのが沙羨の戦いであったという。しかしこの”沙羨の戦い”ついては孫堅傳(孫破虜傳)に付随する孫策の傳の本文にはなく、注にひくところの『江表傳』また『呉録』にしか具体的な記載はみられない。
『江表傳』に拠れば、この時劉表は甥の劉虎と南陽人の韓晞に五千の兵を与えて黄祖軍の先鋒としたが、孫策に撃破された、とある。さらに『呉録』に拠れば、孫策は戦勝報告を朝廷に上奏している。上奏文の冒頭、戦いは(建安四年)十二月八日に行われた、とある。劉虎と韓晞以下二万が呉軍に討ち取られ、一万は溺死、また黄祖の家族七名が捕虜になり、六千艘の舟と無数の物資を奪ったという。戦いには周瑜、孫権、呂範、韓当、程普、黄蓋が従軍していたという。
むろん、上奏文は(もし上奏したのが事実としても)戦果を相当に誇張するのが常である。仮に沙羨で戦いがあったとすれば、いかにも江夏における長江南岸全域が呉軍の支配下にあるような印象を与える。
しかしこの”沙羨の戦い”については、(孫堅の傳に付随する)孫策の傳にはその地名の記載がない。孫権傳には「建安四年從策征廬江太守劉勲勲破進討黄祖於沙奸廚箸△蝓△泙芯普の傳に「從討劉勲於尋陽進攻黄祖於沙婀堋胆仂襦廚箸△襪世韻如△曚の諸将の傳には”沙羨”の地名は見られない。ただ”江夏”とあるだけである。

問題は、この時期に鄂城がどこの勢力の支配下にあったか?という事である。本拠地の皖城を攻略されてしまえば、劉勲は長江を渡って北岸に戻ることもできない。ゆえに柴桑からわずかに長江南岸をさかのぼった地点にある、西塞山に籠ったのは致し方ないだろう。
もしこの時ですでに鄂城が呉軍の拠点であれば、西塞山からみて長江上流も下流も呉の支配下という事であり、劉勲はほぼ敵中に孤立したことになる。江夏方面の経路を鄂城に遮断されているから、黄祖に支援を仰いだとしても合流することすら難しい。
しかし後に孫権が呉の首都にしたくなるほどの重要拠点である鄂城を、この戦い以前に呉軍が攻略したという記録はないのである。

もし鄂城が黄祖の拠点であり、西塞山に陣を構えた劉勲が鄂城の黄祖に援軍を仰いだのだとすれば、地理的距離的に沙羨などよりもずっと支援が得られる可能性が高い。襄陽や夏口の兵力を漢水や長江を下って鄂城に速やかに送り、そのうえで水陸を併進して劉勲を支援した、とすれば当時の輸送交通の技術でも可能である。
もし黄祖の拠点が沙羨であり、沙羨から江夏郡の中央部を通って反対側の西塞山へ向けて援軍を送ったとすれば、途中で大湿地帯である”雲夢澤”の無数の湖沼、沼沢、中小山岳地帯を行軍しなければならない。しかも食糧を徴発できるような大規模な集落もない。いかに自領内とはいえ、補給の確保の上でも当時の軍隊ではまったく現実的ではないのである。
それは孫策の軍から見ても同じことである。鄂城という敵の前線拠点を迂回する格好で、江夏郡を横断して沙羨を強襲するような作戦は、たとえ空軍が存在する20世紀であったとしても非常な冒険であっただろう。

先の大戦で日本軍はまず九江を攻略し、そこから南は南昌、西に漢口(武漢)へ侵攻している。(九江へいたるまでももちろんだが)漢口への進撃は長江に沿って行われ、鄂州と黄州を先に攻略している。鄂州はすなわち三国時代の鄂県であり、黄州は邾県である。いかに漢口、武漢を攻略したくとも、九江(すなわち柴桑)から鄂州を迂回して陸路を進む、というような”無謀”な作戦は20世紀の軍隊でも採らないのである。
 
戦争において補給の重要性を強調する文は少なくないが、実際にどのように補給を行ったか?を考慮していないと思われる分析が多くみられる。軍隊がある地点に到達したとすれば、その人数を食べさせるだけの食糧が必要なのであり、その食糧を供給した方法が必要なのである。

人口が稠密な時代であれば、みちみち物資を徴発(略奪)して進むことも不可能ではないだろう。しかし『後漢書・郡国誌』にある数字では江夏郡全体で、

十四城户五萬八千四百三十四、口二十六萬五千四百六十四

とある。つまり十四城(県)ぜんぶで戸数五万八千戸、人口二十六万五千人、ほどのわずかな人口が100km四方の地域に分散していた、という事になる。むろんこれは税を課せられる戸籍人口であり、農奴の類、流民や水上生活者も相当数生活していたであろう。しかしそのほとんどは、長江沿岸を生活圏としていただろう。ゆえに柴桑(九江)から沙羨(武漢)まで、直線距離で200kmを超える距離を行軍し、決戦し、帰還することが、もし可能であれば長江の水路を使用するよりない。しかしこの時点で呉軍が江夏周辺流域の制河権を掌握していた、という根拠もまたないのである。
むしろ、江夏郡一帯の長江流域の制河権を掌握するには、まず鄂城を支配下に置く必要があったと考えられるのである。

鄂城がおそらく黄祖軍と呉軍の攻防の中心であったと考えられる根拠についてはほかにもいくつかあるが、長くなるのでここでいったん回を区切りたい。
歴史をたどるには時系列もそうだが、地理関係も出来る限り明確にしておくことが重要であろう。また後漢〜三国時代の軍隊は陸路のみで長距離の行軍は補給に非常な困難を伴う。河川をうまく利用しなければたちまち食糧不足に陥るのは、はるか後世、20世紀においてさえ同様なのである。

次回は鄂城についてさらに補足したうえで、黄祖の戦歴を概観したい。

※※「黄祖=黄承彦」という命題から離れてゆくかのようであるが、黄祖について調べてゆくにつれ、諸葛亮と黄祖、あるいは諸葛家と黄家のつながりがうっすらと見えてくる。
注意しなければならないのは、(黄祖=黄承彦に真偽はともかく、すくなくとも)孔明が黄承彦の娘を娶ったことにより、蜀の諸葛家にとって江夏の黄家が外戚になる、という事である。それは後の黄忠や黄権の活躍、あるいは諸葛瞻と黄皓の関係など、孔明出蘆後から蜀の滅亡にいたる歴史の、あるいは伏流水なのではないだろうか。
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漢故黄君之碑 〜黄祖=黄承彦考5

前回は主に『襄陽耆舊記』の記述をもとに、黄承彦の出身地について考えてみた。

そもそも「黄祖=黄承彦」を論じた『大爆料!诸葛亮的岳父黄承彦其实就是黄祖(以下、『黄承彦其实就是黄祖』と略す)』という文章では、黄承彦の墓誌銘と考えられている『漢故黄君之碑』に基づいて黄承彦の没年を考察し、それが黄祖が敗死した建安十四年と推察している。ゆえに「黄祖=黄承彦」の論拠の一つとしているのだが、結論的に言えばこれは無理がある。
ともあれ、黄承彦の墓誌銘と考えられている『漢故黄君之碑』についてみてみよう。

この『漢故黄君之碑』については転載可能な図像を持たないため、興味のある方は”百度検索”等で『漢故黄君之碑』ないし『黄承彦碑』を検索して参照していただきたい。

この碑の原刻は確認されていない。拓本は2000年4月の北京『文物天地』という雑誌に、趙地、劉漢屏兩氏によって発表された一文『黄承彦碑』に掲載された。この文によれば『漢故黄君之碑』の拓本は趙地氏が1977年に天津の古書店で買い求めたものであるという。「漢故黄君之碑」という篆文の題字があり、また碑の下半分は剥落し、上半分のうちおよそ180字が認められる。
全文は後漢時代のフォーマルな書体である豊麗な隷書体で書かれている。
(□は剥落して読めない個所)

先生諱承彥沔南白水人也□□□□其先乃□帝之苗・・・・
當其時若先生者感天之誌剛堅□□□□□
之稟性純誠音洋溢乎朝野天資剛健□□偉
績載記於史冊有果毅之志無畏葸之心・・・・
乃若上交不諂下交不瀆富貴不淫貧賤不・・・・
移威武不屈也唐豕不若而清□無□
者純理詞穆天□又其倜儻不群健・・・・
非碌碌庸眾者所可同日語而其倜・・・・
於□□四年甲寅朔葬於城西四十(裏) ・・・・
當其時士友感稟性不群乃人稱・・・・
相議乃作詞曰
藹藹前哲玉浩光明□□□□遐邇共□□
克勤克儉既和且平堅若介石穆如□□
人往風微刊石勒銘。
 
全文の詳細については省く。下半分が喪われているので文意をたどることも困難である。
ともあれ、重要なのは後ろから六行目の「於□□四年甲寅朔葬於城西四十□」という一行である。
剥落によっておそらくは年号が刻まれていたであろう二文字分が喪われている。そのあとに「四年」の文字が判読できる。この時代の年号は二文字で構成されているから、いつの時代か未詳にしても「於□□四年」は動かしがたい。ゆえに『黄承彦其实就是黄祖』が主張するような「建安十四年」はありえないのである。
黄祖が孫権に敗れ討たれたのは建安十三年である。仮に黄祖敗死の翌年に正式に墓地に埋葬され、この碑が刻まれたのであれば「建安十四年」でもおかしくはないのだが、方眼に区切られた碑の構成から考えても、二桁の漢数字がここに入る余地はないのである。ゆえに仮にこの碑が黄承彦の墓誌銘だったとしても、黄祖と没年が同年である根拠にはならないのである。

また一行目についてみてみると「先生諱承彥沔南白水人也□□□□其先乃□帝之苗・・・・」とある。
「先生諱承彥」とあるが、補えば「黄先生諱承彦」ということだろう。「諱(いみな)」は生前は「名」であったものが死後は「諱」となるという事であるから、その場合「承彦」が名であるから黄祖=黄承彦は成り立たないという事で「黄祖=黄承彦」についての考察は終わり、という事になる.......しかしその点については三国時代の名(諱)が二文字であるというのは極めて稀、という事を念頭に置きつつ保留して、もう少し考えてみよう。

もう一点、「沔南白水人」という個所について。
「沔南白水人」の後に「其先乃□帝之苗」とあるのはおそらく「其先乃炎帝之苗」という決まり文句で、中原の人、というほどの意味である。
「沔南白水人」の「沔南」は、前回述べたように沔水(漢水)の南、という意味である。さらに”白水”とある。

「水経注」という古代の地理書がある。これは前漢から三国魏にかけて「水経」という地理書が編纂され、のち北魏時代「水経」に注が施されて成立した史料である。「水経」はその名の通り大陸の河川に沿って地理を述べた書であり、漢代から三国時代の地理を考証するうえで重要な資料である。
この「水経注」の「沔水注」によれば「洞水出安昌縣東北大父山,西南流謂之白水。又南逕安昌故城東,屈逕其縣南,縣故蔡陽之白水鄉也。」とある。

この文に拠れば、白水は安昌県(現河南省確山県)の大父山を源流とした河で、安昌県の西南方向、つまり襄陽方面への流れを白水といい、白水郷は襄陽の北東に接した蔡陽(現棗陽市)という事になる。
しかし位置的に蔡陽は沔水の北岸にあり、いわば沔北であって”沔南”とは矛盾する。ただ『襄陽耆舊記』にある”沔南名士”の沔南とは一致するのである......これをどう考えるべきであろう........?

そもそも、果たしてこの碑が本当に黄承彦その人の墓誌銘なのであろうか?

この碑の題は『漢故黄君之碑』であり、「先生承彦」から始まるから「黄承彦」の墓誌銘ないし記念碑に違いない、という主張はもっともにも思える。しかし拓本を見る限り、この『漢故黄君之碑』の題部分と下部の本文とでは墨色がずいぶん違い、連続した一体の碑を為していたかについてもいささか疑問が残る。
また別の考察で、この年号部分が「建安四年」とする主張もある。それであれば建安四年当時の諸葛亮が17〜18歳であるから、黄承彦が諸葛亮の岳父たるに不自然はないということであり、だからこの碑は黄承彦の墓誌銘なのだ、という。
しかし剥落したこの部分を凝視する限り、ここに隸書で「建安」という文字が入るかどうかは、わずかに残る点画のバランスから見ていささか無理があるような感じもする。

墓誌銘の偽作などは古来からあり、拓本が高く売れるため後を絶たないのが現実である。全く別の人物の墓誌銘の拓本に『漢故黄君之碑』と偽刻した拓本をつなげて作られた、という可能性は十分にある。

本文の書体は流麗豊満な隸書体なのであるが、これが諸葛亮の岳父、劉表の義弟ほどの人物の墓誌銘とすれば、その内容についてはいくつかの疑問が兆す。

たとえば五行目の「不諂下交不瀆」は『易傳·繫辭傳下』の「君子上交不諂,下交不瀆」そのままである。また六行目の「移威武不屈也」も『孟子』の「貧賤不能移,富貴不能淫,威武不能屈」からそのまま採ったような文言である。水準以上の教育のある士大夫であれば、この個所が出典そのものという事はすぐにわかるところであろう。
要はオリジナリティに欠けるのであり、黄承彦その人の人となりや事跡に基づいた、懇切な文とは認めがたいものがある。

個人的には、この碑は(某)承彦の拓本を元にした偽作であると考えている。名士として名が通り、諸葛亮の岳父でありかつ劉表の義兄弟であったほどの人物の墓誌銘ないし記念碑文としては内容がいささか杜撰である。たとえば曹真の墓誌銘と考えられている『曹真碑』(これも偽作説があるが)に比べても、内容があまりに乏しいのであり「先生承彦」以外に、黄承彦とのつながりを確実に担保できる内容が見当たらないのである。

『大爆料!诸葛亮的岳父黄承彦其实就是黄祖』では、この拓本が黄承彦の墓誌銘という前提で没年を建安十三年と推理しているが、字数的にその考察自体に無理があるのはもちろん、この碑自体が黄承彦その人を考察する史料になりうるかどうかも、多くの疑問がある。
ただ「黄祖=黄承彦」をひとつの仮説として考えてみると、今まで見えてこなかった歴史上の関係性が見えてくるのも確かである。

次回は黄承彦から少し離れ、正史に傳を立てられるほどではないにしても比較的豊富な言及のある黄祖という人物について、少し丁寧に見てゆこうと思う。
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沔南名士 〜黄祖=黄承彦考4

前回までは、主に「黄氏宗譜」を参照しながら、系譜の上から黄祖と黄承彦の関係について考察をこころみた。結論としては、少なくとも系譜の上では黄祖と黄承彦は別の人物、という事が読み取れた。しかし同時に「宗譜」は史料とするにはいささか問題があるという事が明らかで、「宗譜」の系譜をもって史実とするにかなりの無理がある、ということもいえる。また黄祖は「正史」に別傳を立てられるほどではないにしても、それなりの量の記述をもっているにも関わらず、「黄氏宗譜」での扱いが極めて軽い、という点についても注意をしておきたい。
今回は黄承彦その人について、まずその出身地について考察してゆきたい。

そもそも黄承彦の出身地に関する記述については、三国志・蜀書・諸葛亮傳における裴松之の注にある「襄陽耆舊記(襄陽記)」という書物から引くところの、以下の内容しかない。すなわち有名な孔明の嫁選びの一節であるが、
 
黃承彥者,高爽開列,為沔南名士,謂諸葛孔明曰“聞君擇婦,身有醜女,黃頭鄂Аぜ才堪配。”孔明許,即載送之。時人以為笑樂,鄉裏為之諺曰:“莫作孔明擇婦,正得阿承醜女。”
 
黃承彥者は高爽(こうそう)、沔南(べんなん)名士に開列(かいれつ)し,諸葛孔明に謂いて曰く“聞く君は婦を擇(えら)ぶ,身に醜女(しこめ)有り,黃頭(こうとう)鄂А覆海しょく),而(しこう)して才は配するに堪う。”孔明許し,即ち載せて之に送る。時人(じじん)以為(おもへらく)笑樂(しょうれらく)し,鄉裏(きょうり)之を諺と為して曰く“莫作孔明の婦を擇(えら)ぶを作(な)す莫れ,正に阿承(あしょう)の醜女(しこめ)を得ん。”
 
一応大意を示せば、
 
黃承彥は豪快な人物として沔南(べんなん)名士に名を連ねていた。諸葛孔明に言うには「君は嫁を探しているようだが、ウチに醜い娘がいる。頭髪は黄色で色黒だが、才能は君の伴侶とするに足るだろう」孔明が承諾したので、輿(こし)にのせて送り届けた。
当時の人々は思うにそれを笑い楽しんだのだろう、その土地の諺にいうに
「孔明の嫁選びだけは真似てはならない、阿承(黄承彦)の醜い娘をもらうだけだから。」
 
というところだろう。

※話が逸れるが娘を「輿」に載せて送りとどけるのは、当時の婚礼そのものである。また言葉通り黄承彦の娘が「醜女」であったとは限らない。一種の謙譲であるともとれる。むしろこの逸話が現代に伝わっている意味を考えなければならないところなのだが、その点については次回以降に触れる予定である。
 
この一節に拠れば、黄承彦は沔南(べんなん)の名士であるという。沔(べん)は沔水という河川の事である。沔水は陝西省の漢中盆地から流れ出、湖北省武漢の漢口で長江に注いでいる。長江流域の大河川のひとつである。

大陸の河川の名称は同じ一河川であっても、流れる地域によって呼称が変わることが珍しくない。沔水も流れる地域によって別称がある。
まず沔水は漢中(現陝西省)から西へのぼった勉県付近(古くは沔県)に端を発している。ゆえに沔水というのであるが、漢中盆地を貫くことから漢水とも呼ばれる。そこから東へずっと下ると襄陽があるが、この地域では襄水、襄江と呼称される。襄陽そのものが襄水の南岸だから襄陽なのである。それが武漢付近では漢水となり、武漢の漢口で長江に注いでいる。
したがって広義には、沔南といえば漢中から武漢へ至る長大な流域の南岸を指すのである。しかし武漢付近の沔水(=漢水)南岸一帯は三国時代は沔陽と呼称され、沔陽南部(現洪湖市)には赤壁の古戦場がある。この沔陽の南部を特に沔南と呼称したようで、中華民国の時代には沔南県が置かれていた。
三国時代の襄陽は現在の襄陽市とほぼ同じ地域であるが、襄陽から赤壁の古戦場のある洪湖市とではずいぶんと距離がある。

また「開列沔南名士」とある。「開列」は名簿や伝票の項目に並び掲載されることであるがここでは「名を連ねる」というほどの意味であろう。
当時の襄陽は劉表が拠点とした荊州の一大都市であるが、赤壁付近は今も昔も襄陽に比べれば片田舎である。はたして黄承彦が襄陽における名士なのか、江夏より南の沔南の田舎紳士なのかでは大きな違いである。
黄承彦は姻戚を通じて荊州刺史として襄陽を拠点とする劉表とは義兄弟であり、また孔明が襄陽付近で耕作していたことから、結局は襄陽と縁が近い、という事はいえるだろう。
あるいはこの一節の筆者が沔水と襄水を混同していたのであれば、沔南はすなわち襄陽の事を指す、という可能性もある。事実、『三国志正史』より後世の書物では、黄承彦を襄陽の人とみなしている記述も少なくない。

しかしこの孔明の嫁選びの話は三国志・蜀書の注が引くところの『襄陽耆舊記(襄陽記)』という書物に記載されており、『襄陽耆舊記』では襄陽の人物は襄陽人、という記述がみられる。一例として蜀に仕えた馬良は、

馬良,字季常,襄陽宜城人也。

という具合である。また『襄陽耆舊記』における蔡瑁も「襄陽人」と書かれている。
そもそも『襄陽耆舊記』の「耆舊記」とは、すなわち襄陽の古老の覚書き、回顧談、というほどの意味である。襄陽の人物が書き残したとすれば、襄陽と沔南を混同していたとは考えにくい。
ゆえにわざわざ”沔南名士”としていのは、黄承彦はやはり襄陽とは別の”沔南”に居住していたか、あるいは襄陽に居住しながらもその本貫は狭義の沔南(現洪湖市)付近だった、と考えることが出来る。
豪族として田地と先祖代々の墓を沔南にもちながら、主な居住地は襄陽ないし襄陽付近であり、襄陽の上流階級で名を知られていた、という解釈もできるのである。古代から中世にかけての士大夫の生活形態として、政治文化の中心である大都市に邸宅をもちながら、その郊外の田畑からの収入で生活を維持するのは珍しいことではない。
また時代によって行政区は変化するのであり、襄陽近郊の地域も後に襄陽に含まれてしまった結果”襄陽の人”というような言われ方に変化することもある。また襄陽近くの無名の地域をふくめて「襄陽」にくくられてしまう事もある。
たとえば襄陽と南陽は隣接地域であるが、諸葛孔明が晴耕雨読の日々を送っていた襄陽郊外は襄陽なのか、南陽なのか、議論が分かれることがある。

ともあれ黄承彦の出身地という”沔南”については、後に黄祖の戦歴との関係を考える際にまた触れるが”沔南”がどの地方を指すか?そこで改めて考えたい。

さて「黄承彦=黄祖」という仮説について考えるきっかけとなった文章『大爆料!诸葛亮的岳父黄承彦其实就是黄祖(以下、『黄承彦其实就是黄祖』と略す)』はとても面白い観点による考察であるが、詳細は原文を参照していただきたい。
その特徴的な内容は「黄承彦の墓誌銘」と思われる碑文から黄承彦の卒年を考察し、それが黄祖の卒年と一致する云々、という点にある。しかしその辺の考察ついては次回以降に譲りたい。
またこの『黄承彦其实就是黄祖』には問題もある。たとえば『劉表と黄承彦が同年の生まれ』というようなことが唐突に書かれているのだが、調べる限り黄承彦の生年は未詳である。
さらに『”江表傳”に拠れば劉表は江夏黄氏と姻戚関係を結んだ』という記述があるのだが、”江表傳”にはそのような内容は見当たらない。
いささか牽強付会な面もなきにしも有らずなのであるが、他にも注意をひく論点もある。

ひとつには『黄承彦其实就是黄祖』では黄祖と黄承彦を仮に同一人物とみなした場合、その名と字(あざな)には、意味的な対応が見いだせる、という指摘である。
漢代において、一般に名は1文字、字は2文字だったようである。むろん例外もあるかもしれないが、明確な例が見当たらない。一見二文字の名のように記録されていても、字が伝わっていない場合はそれが字である可能性がある。
また名と字は意味的に対応する関係にある場合が少なくない。わかりやすいのが「劉備・玄徳」で、これは「劉氏の玄孫、徳を備える」と読める。少し出来過ぎのきらいすらある。また関羽・雲長も「関氏の羽(人)は雲中にて長(とこ)しえに」と読める。羽人は原初的な神仙のイメージであり、雲中で長生する羽の生えた神人である。
曹操・孟徳であれば、孟は一族の長、という意味があるから「曹氏の孟(かしら)は徳操(とくそう)あり」。また夏侯惇・元譲(おそらくは元は玄に代えたのであろう)も「夏侯氏の玄孫、譲に惇(あつ)し」と読める。譲、は礼の則った人物を言う。他、諸葛亮・孔明、龐統・士元など、有名どころの人物の名と字はうまくつながっている。

仮に”祖”が名で”承彦”が字(あざな)とすればどうであろう?”彦”は”古代の有徳才人”を指す字であり、日本でも「なになに彦」というように、彦は男子の美称として用いられる。ゆえに祖・承彦「古代の先賢を継承する」という意味になり、これも名と字はうまく対応している。
もっとも、”祖”と”承彦”が名と字(あざな)で呼応しているからと言って、そのことのみをもって同一人物、とみなすのはあまりに粗雑である。あくまで必要条件、としなければならないところである。

また『黄承彦其实就是黄祖』では黄承彦と劉表の姻戚関係にも触れている。やはり『襄陽耆舊記』の蔡瑁についての項に、

漢末,諸蔡最盛,蔡諷姊適太尉張溫,長女為黃承彥妻,小女為劉景升後婦,瑁之姊也。

つまり漢代末期には「諸蔡最も盛ん」すなわち蔡氏の一族が栄えており、蔡諷は有力者と次々と姻戚関係を結んだ、という事である。
この蔡諷は蔡瑁の父親であるが、まず姊(=姉)が張溫に嫁いでいる。張溫は襄陽の南、荊州北端地域、南陽の人である。張溫は三公のひとつ太尉に上り、黄巾討伐の諸将から信頼を寄せられた。また董卓の上官として董卓をよく御しえた剛毅な人物として知られるが、最後は董卓の誣告によって拷問死を迎えている。
蔡諷の長女は黄承彦に嫁ぎ、またひとりの娘が劉表の後妻に嫁いでいる。彼女らがすなわち蔡瑁の姊(あね)というわけである。つまりは黄承彦、劉表、蔡瑁は義兄弟の間柄である。

『黄承彦其实就是黄祖』では、この点、もし黄承彦=黄祖とすれば、安陸黄氏の有力者である黄祖が劉表と姻戚関係のつながりがあったことになり、それは力関係のバランスから見て合理的だ云々、とある。しかしこの『黄承彦其实就是黄祖』の本文はいささか論理の飛躍があってわかりにくい。
しかし個人的にはこの点こそが「黄承彦=黄祖」という仮説の検討の上で重要であると考えている。次回はこの部分を詳細に考えてゆきたい。
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宗譜の混迷 〜黄祖=黄承彦考3

前回は黄香以降、主に後漢〜三国時代における黄姓の人物の系譜について概観した。今回は黄祖と黄承彦の宗譜上の位置づけの考察に入りたい。が、その前に後漢時代の地方官制度と、その禁令である”三互法”について簡単に触れておきたい。
 
刺史、牧、太守
 
まず後漢の地方制度であるが、詳細は別所に譲るが、
州の下に郡、郡の下に県がおかれ、全国は13州、105郡、1180県があったという。州には刺史ないし州牧(あるいは単に牧)、郡には太守(郡太守)、県には県令が任命された。
漢代は州を監督する刺史が置かれたが、時代によって州牧へ改められ、また刺史に改められるなどした。郡ごとに置かれた太守を監督するのである。
三国時代は刺史と州牧が並立しており、州ごとに刺史ないしは州牧が置かれた。同じ州に刺史と州牧が置かれることはない。また刺史が州牧に改められることもあった。徐州の陶謙は徐州刺史に任命されたが、後に徐州牧に改められている。それは劉表、劉璋等も同様である。
ともとも刺史は監察官であり、また州牧は行政長官としての意味合いが強かったが、後漢末にはどちらも実質的に州の最高責任者として太守の上位にあり、行政・軍事に大きな権力を持っていた。
とはいえ孫堅は荊州刺史王叡を殺害し、袁術は揚州刺史陳温を殺害するなど、地方軍閥が刺史・州牧を凌ぐ実力をもっており、いかに乱れた時代であったかがわかる。

また刺史・州牧は朝廷によって任命されるが、郡の太守は刺史・州牧が任命する。実際には朝廷にお伺いを立て、承諾を受けるのであるが、刺史・牧の推薦がなければ太守になることは出来ない。
ところがこれも世の乱れの表れであるが、事後承諾を良いことに各地の刺史・牧が勝手に太守を任命し始め、また互いに攻伐を繰り広げるようになる。
 
三互法
 
刺史・州牧・太守、県令が置かれたが、これらの官は自身の本籍地が置かれた行政区(州・郡・県)では官にはなれない、という法令があった。また姻戚関係のある家も、相手のの本籍地のある行政区では官にはなれない。つまりは妻の本籍地でも官にはなれない。
たとえばA州の人がB州の刺史になった場合、B州の人はA州の刺史にはなれない。さらにはA州の甲氏がB州で刺史になり、またA州の乙氏がC州で刺史になった場合、C州の人士はA州でもB州でも刺史になれない。それは姻戚関係でも同様である。
劉璋は荊州江夏が本籍だから益州の牧になれるが、荊州の牧にはなれない。劉表は兗州が本籍だから荊州の刺史に任命することが出来る。

このような法令があるのは、もちろん地元の有力者との癒着を防ぐためであるが、厳格に実行しようとすると候補がいなくなり、刺史や州牧が空席のまま、という事態を招く弊害もあったようである(後漢書・蔡邕傳など)

しかし刺史(牧)・太守・県令等の行政府における属吏(地方役人)はその限りではなく、地元の人物から採用された。現実問題、そうしなければ行政実務に支障をきたすであろう。
地方の行政長官に地元の人物を任命しないというのは、いわば中央集権制の矛盾である。地方を一元的に中央政府のコントロール下におこうとすれば、その地方に縁のない人間を赴任させるしかない。しかしそのようにして任命された行政長官は、地元の有力者の協力なしには何も出来ないのである。また世が乱れてくれば、地元の反乱によって真っ先に攻撃されるのは中央に任命された行政長官である。ゆえに行政長官と地方豪族とで、積極的に姻戚関係が結ばれる事は珍しくはない。
またこの”三互法”があるために、ある程度の官吏となる資格能力のある士人達は、必然的に本籍地ないしは出生地を離れる事になる。
また”三互法”から考えれば、ある人物が刺史、太守、県令となった場合、すくなくともその地域がその人物の出身地である可能性は低い、という事が考えらえるのである。しかしあくまで可能性、というのは後漢末の世の乱れを考慮した場合、どの程度厳格に三互法が実施されていたか?についてはいささか不明瞭だからである。
たとえば劉表は荊州襄陽郡の蔡諷の娘を後妻にしている。それは荊州に刺史として赴任した後の出来事であろうが、”三互法”を厳格に適用するならば御法度であろう。

以上を踏まえて、黄承彦、黄祖の系譜上の位置づけを見てゆこう。

黄承彦

まず黄承彦の系譜であるが、前述の『黄姓簡史』を参照すると、黄香の後裔ではなく、黄香の兄弟、黄季という人物の後裔であるという。すなわち黄香の父親、黄況からたどれば、

黄況--黄季(文盛)--黄理--黄?(孚勇)--黄承彦

となるという。黄季、字は文盛は黄況の末子であるという。官は典(官)、すなわち宮中の給事官といっても、本当に宮中で勤務していたかはわからない。宗譜に記載されている官位は、晩年、あるいは没事に朝廷に礼金を積んで買った官位の場合も少なくないからである。ともあれ名に「禾(のぎへん)」を共有し、字には黄香と同じ「文」の一字を共有している。
黄季は龐氏を娶り、黄理が生まれた。黃瓊と同じく「玉偏」を共有している。その次男に黄孚勇が生まれる。
黄孚勇の名は不明だが、字にこの世代の「孚」を共有している。黄孚勇は刺史に登ったという。刺史といえばかなりの地位であるが、どの州の刺史を務めたかは未詳である。何氏を娶り、その一子が承彦であるという。
以上が正しければ何の問題もないのであるが、黄承彦の祖父、黄理は”黄香八子”と呼ばれる黄香の息子のひとり、と記載されている宗譜もあるという。その場合は、

黄況--黄香(文強)--黄理--黄?(孚勇)--黄承彦

という事になる。このように「黄氏宗譜」によって系譜の記載に異同があるので、実際のところを突き止めるのは難しい。ともあれ、宗譜をみても黄承彦の「名」は未詳である。”承彦”は字(あざな)ではなく名という事も可能性はゼロではないが、この時代に二文字の名は僅少である。仮にある人物について二文字の名としている記述があっても、字(あざな)が未詳である場合はこれが字である可能性もある。宗譜の上でも名がわかって字(あざな)がわからない場合もあれば、字がわかって名がわからない場合もあるのである。
次に、黄祖についてみてみたい。
 
黄祖
 
前回、以下の黄忠の系譜を掲載した。
 
黃子廉--黃瓚--黃簪--黃智頃--黃忠(漢升)
 
この黄忠の弟に、黃賁という人物がおり、その二人の息子、和璞と自溟のうちの自溟の子が黄祖であるという。

黃瓚-黃簪-黃智頃-黃賁-黃自溟-黃祖

この主張を信じるならば、黄忠は黄祖の”大伯父”という事になる。しかしこれは明らかに無理がある。
後漢の初平元年(190年)に劉表が荊州にはいる。初平二年には袁術は孫堅を派遣して劉表を攻めるが、この時に黄祖は江夏太守として孫堅を迎撃している。また建安二年(208年)に禰衡が黄祖によって処刑されるが、この時に長子の黄射は章陵太守であるという。つまり太守を任されるほどの息子がいる年齢、という事である。

一方の黄忠である。劉表は荊州刺史に赴任後、南陽以外の七郡を支配する。その後、劉表の甥の劉磐を長沙の攸県守備に派遣し、黄忠を中郎将として随伴させている。(この時の長沙太守は張仲景という)
軍職の中郎将であるが、いわば劉磐の副将格である。軍中にあっては低くない地位であるが、所詮は攸県という県の守備隊であり、県より上の一郡の行政・軍政を司る郡太守とは比較にならない。普通に考えれば、黄忠は黄祖よりもかなり若い年代のはずである。ゆえに黄忠の弟の孫が黄祖、というのは考えにくい。
 
ちなみに”老名将”とされる黄忠であるが、実際は関羽よりも若かったのではないか?と考えている。黄忠は220年卒であるが、生年が未詳である。正史をひもといても、黄忠が劉備に仕えた時点ですでに老年であったという証拠はない。ただ『蜀書・費詩傳』に

「先主為漢中王,遣詩拜關羽為前將軍,羽聞黃忠為後將軍,羽怒曰“大丈夫終不與老兵同列”不肯受拜。」

とある。関羽を前将軍、黄忠を後将軍に任命した人事に関羽が怒り、使者の費詩がなだめ諭した故事である。しかしこの「老兵同列」の「老兵」は、ベテラン兵、というほどの意味でかならずしも”老人”を意味しない。老人に兵隊など務まらないのである。関羽としては荊州以来の、部隊長からたたきあげの新人に並ばれてしまったのが不満だったというわけであり、むしろ黄忠の方が関羽よりはずっと若かったはずである。おそらく戯作や『演義』では、この「老兵」を拡大解釈し、戦国春秋時代の廉頗のような”老名将”の黄忠像を作り上げたのだろう。「老いてますます壮(さか)ん」というのは、不老長寿を貴ぶ大衆には受けの良い話なのである。
「正史」と突き合わせるなど、確たる考証なしに再編集を重ねたであろう「宗譜」なのであるが、この黄祖と黄忠の年代的に無理な関係も、その表れのひとつであろう。黄忠を『演義』の”老将”にしたいがために、黄祖の祖父の世代の人物にしてしまっていると考えられるのである。
 
このように史料として盲信するのはあまりに危険な「宗譜」であるが、黄祖と黄忠が比較的近い関係であった、という事は全く考えられないことではない。
黄祖と黄忠は、二人はほぼ同時期に、劉表によってそれぞれの任務を与えられている。
『蜀書』に拠れば黄忠は南陽郡の人である。荊州に刺史として赴任した劉表は当初は南陽郡など、荊州のごく一部しか掌握できていなかった。特に南部の長沙や零陵は、袁術や孫堅の影響力が残っていた状況である。劉表は荊州赴任後の1〜2年で荊州南部も掌握するのであるが、その守備の要所に身内の劉磐と南陽人の黄忠を派遣するのは不自然ではない。
また黄祖は江夏郡の太守に任命され、また黄祖の息子の黄射は章陵の太守に任命されている。(実際は朝廷に上奏して承認されるのであるが)
すなわち先の”三互法”に拠って考えれば、黄祖は江夏郡の人ではない、という事になる。黄祖は安陸黄氏ないしは江夏黄氏の出身という説があるが、いずれにせよ”三互法”に従えば江夏太守への赴任は禁令を犯すことになる。
仮に黄祖が黄忠と同じ南陽郡の人であれば、江夏太守にするのに何の問題もないのである。もっとも乱世の事であり、対孫家の最前線の要地を任せるのに”三互法”にこだわっていたとは限らない。地元の首領格の人物をそのまま太守にした、という事も考えられる。
章陵郡は南陽郡と隣接するが、仮に黄射が南陽郡の人であっても別郡であるから”三互法”には触れない。劉表が刺史に赴任当初は蒯越が章陵太守であったが、何らかの理由で黄射に交代したのかもしれない。また蔡瑁は(任期は未詳だが)江夏、南郡、章陵の太守を歴任したというから、蔡瑁と交代した可能性もある。

ともあれ、劉表時代の荊州において、黄祖の地位や権限は低いものではない。荊州の防衛という面では、北方は南陽郡を劉表自身が守り、東方最大の要衝江夏は黄祖が守っている。特にこの方面は孫家という強敵がいるため、黄祖の任務は重い。実質的にこの時期の荊州における軍事面のNo.2が黄祖であるといっても良いだろう。
ゆえに黄忠も、どちらかといえば黄祖に推挙されるような立場にあったと考えてもいい。中央から赴任した劉表が南陽や襄陽周辺にどんな人材がいるか?いちいち把握していたはずがなく、当時人材登用は推挙・推薦によるのが一般的なのである。
しかし少なくとも、宗譜を見る限りでは黄承彦と黄祖は同じ宗族といっても、遠い親戚のような関係である。しかし見てきたように、宗譜の記載にはさまざまな主張があり、また不明瞭な部分が多すぎる。やはり「正史」から生卒のわからない人物に関しては、宗譜を参照しても系譜はよくわからない、というのが本当のところなのであろう。
むろんそうなってしまったのは、後漢末から三国時代の戦乱で記録が亡失してしまったことにも拠るだろう。

ゆえに宗譜上の別人物が本当に別人物なのかも、確かな事は言えないのである。黄祖の荊州における実力は劉表存命のころは黄忠よりはるかに上であったにも関わらず、宗譜上では明らかに矛盾した、とってつけたような軽い位置にある。また黄承彦についても、黄香の後代か黄季の後代なのかもはっきりしない。そして黄祖の字(あざな)はやはり未詳である。黄承彦はの”承彦”は当時の士大夫の命名の慣例から言って、まず二文字の字(あざな)とみて間違いないだろう。

以上で宗譜上の考察はひとまず置く。ところで黄承彦の墓誌銘と考えられる拓本があるという。次回はこの墓誌銘を中心に、当時襄陽の名士であったという、黄承彦について考察してみたい。
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