汪近聖の後裔? 汪繼廷「金壺汁」

だいぶ以前に入手した「金壺汁」墨である。かなり痛んでしまっていた。全体的に崩落・剥離しており、下面は磨墨されていた。表面「金壺汁」から向かって左側の側款に「汪近聖法墨」という文字が認められなかったならば、またボロボロで誰も見向きしないために至極安価でなかったのであれば、果たして購入したかどうか。
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裏面もだいぶ崩れてしてしまっているが、かろうじて「....過琴書涸汁湿金壺未....對元雲粉起處池中疑.....」という文字を読むことが出来る。また「徽城汪繼廷製」の落款が認められる。
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「金壺汁」の由来は東晋時代の王嘉という人物が書いた、「拾遺記」という伝奇集に求めることが出来るのであるが、その内容を詳述するのは別の機会に譲りたい。
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汪繼廷は清朝の墨に稀に見られる墨匠である。少数ながら過眼してきた汪繼廷の墨から考えると、やはり製墨に注力してきた人物であると察せられる。
故・周紹良氏の著作「清墨談叢」(出版:紫禁城)には、汪繼廷の項があり、いくつかの作例が掲載されている。そのひとつに、「開天容」という墨がある。周氏の考察では、方密庵の墨銘である「君任氏」と「茹古齋」という名が側款に入れられていることから、汪繼廷はかつて「開天容」を製した方密庵と関係があるのではないか?と、述べられている。また作例の年号から、汪繼廷は道光から咸豊年間にかけて活動していた墨匠であると推測している。さらに、この墨とは異なる汪繼廷の「金壺汁」墨が掲載されている。
ところで曹素功、汪近聖と併称される、清朝の名墨匠の汪節庵がいる。汪節庵は”五百斤油”など、その作例の墨銘から方密庵との関係を想起させるところがあると言われている。墨銘は一個の墨匠が占有するという例はあまりないが、広く使われるようになるにはやはり時間の経過が必要なのである。ちなみに方密庵は”揚州八怪”の領袖、金農の親しい友人でもあった、清朝初期の名墨匠である。ゆえに「開天容」だけみると、汪繼廷は汪節庵の系列の墨匠ではないか?と考えたくなる。
(開天容:方密庵〜汪節庵〜汪繼廷?)
もっとも徽州の汪氏は巨族であるから、汪近聖であろうと汪節庵であろうと、直接的な親戚関係があるとは限らない。しかしこの墨を観察して、少々考えさせられるところがあった。
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この墨の側款にある「汪近聖法墨」という表記について考えてみたい。
およそ墨銘に関して、「〜〜法製」という言い方でよくみられるのは、「易水法」「易水法製」「按易水法」といった表記である。”易水”は徽墨のルーツである、河北省の”易水”のことである。”易水”で製墨が盛んであったのは遠く唐代の頃であるが、唐末の戦乱期に、南方へ遷移したと伝えられる。発祥の地の呼称を、徽州の墨匠たちはながらく受け継いできたのである。
しかしこの墨には「汪近聖法墨」とある。このように、特定の墨匠に倣った製法である、とうたっている墨は、実のところあまり例を見ない。
汪繼廷は清朝も後半の墨匠であるから、康煕年間に生きた汪近聖とは無論、同時代人ではない。わざわざ「汪近聖法墨」と断っているのは、よほど汪近聖の墨に傾倒していた、という事であろうか。”法墨”と銘打つことは、そこに製墨法のなんらかの授受関係があったと考えたくなる。
汪繼廷金壺汁
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「汪近聖法製」に対して、反対右側の側款が非常に判読しがたいのであるが、旁(つくり)から推察するに「世孫継」であるように見える。旧字体では「繼」であるが、画数が多いため、小さな字では「継」のような略字も使用されても不思議ではない。とすれば全文は「世孫継(繼)廷」ないし「世孫継(繼)廷造」ではないだろうか。
また墨に入れられた場合の「世孫」という語は、たとえば「曹素功十世孫月舫謹守成規」というように、誰かの後代であることを銘記する場合の、常套の語である。
また、この側款と墨の形状との位置関係を見る限り、「世孫」がすでに墨全体の上の方に位置している。「世孫」の上に漢数字が一文字、はいるか入らないかで上辺の余白はいっぱいである。墨の側款も書の条幅の落款と同じで、見栄えのいい定位置というものがある。この大きさの墨、すなわち清朝の徽墨に多い”五銭”の重さの墨の場合、上の余白が狭く、下が広いのが通例である。
この(判読しがたい)側款が「世孫繼廷(造)」であったとすれば、”世”の上にさらに”汪近聖”や”曹素功”というような、他の墨匠の名が入る余地がない。とすれば、誰の「世孫」なのか?これは反対側面に「汪近聖法墨」とあるのだから、汪近聖の「世孫」、と読むよりない。そう読めば、汪繼廷の姓の”汪”を略して「世孫繼廷」とする意味ともつながることになる。

さらに言えば「世孫」の上に、漢数字「一、二、三」などが入ったとしてもせいぜい一字である。二文字、すなわち二桁ではないだろう。むしろ位置的に漢数字がなく、「世孫」としか入っていなかったのではないか?とも考えられる。
「世孫」は一般的な用法としては、「十二世孫」ないし「十四世孫」のように、数字を伴って使われる場合に「十二代目」という意味になる。広義には「後代」という意味になる。単独で「世孫」というように使われる場合は「三世」つまり孫の事である。「四世」で曾孫、「五世」で玄孫である。さらに狭義に従えば「嫡孫」、つまり直径の孫、という事になる。
しかし前述の周紹良氏の考察では、汪繼廷の活動時期は道光から咸豊年間、とある。墨の作例に咸豊年間の墨があるから、そう考えて間違いないであろう。ゆえに汪繼廷は乾隆年間まで存命した汪近聖から数えれば、世代的には早くても四代目、ないしは五代目、あるいは六代目にかかろうかという時代の人物である。ゆえにここは「世孫」を広義の「後代」「後世」と読むべきところであろう。

鑑古斎の創始者、汪近聖には三人の息子がいた。長男は汪璽藏、次男は惟高、三男は炳宇という。汪繼廷は汪近聖の息子のうち誰かの後代なのだろうか?仮に「嫡孫」であれば、そのまま鑑古斎汪近聖の名を継承したはずである。
前述の”清墨談叢”に拠れば、汪近聖の後代に「汪繼章」という墨匠がおり、彼は”汪進聖”という、”汪近聖”とは実に紛らわしい墨銘の墨を造っていたという。
中国では同じ世代親族の名に、同じ一字を使う命名法がある。”清墨談叢”では汪繼廷と汪繼章は兄弟ではないかと述べられているが、兄弟ないしは同世代の、汪近聖の後代なのではないだろうか。

汪繼廷も汪繼章も、あるいは分家したであろう、汪近聖の次男の惟高ないし三男の炳宇の子孫という事も考えられる。彼等汪近聖の息子達は、各々名工であったようだ。それは少数だが偶見される、それぞれの自身の名をいれた墨から伺える。惟高は乾隆の招聘に応じ、宮廷で製墨指導にあたった、という伝承が汪氏鑑古齋墨藪に記載されている。もちろん息子達の大半は、鑑古斎汪近聖の名を銘打った墨を造ったのであろう。
仮に汪繼廷が汪近聖の子孫であったとするならば、次男や三男の子孫であったとしても、汪近聖の製墨法のエッセンスを受け継ぐことが出来たであろう。また親戚関係であれば、汪繼廷も汪繼章もともに”汪近聖”鑑古斎の墨工として修業し、後に独立した可能性も考えられる。
前述のように周氏は汪繼廷は「開天容」という墨から、方密庵、方氏と関係が深いのではないか?と述べている。しかし汪繼廷は汪近聖の製墨法だけではなく、方密庵や汪節庵の製法も併せて研究した、ということなのかもしれない。

徽州の人々の多くは、人口に比して土地の農業生産力が限定的であるから、科挙に挑むか交易商となって徽州を離れなければならない。ゆえに”読み書き”や計数の素養は必須であり、小さな農村にも宗族が運営する学校があった。勢い識字率が高く、また文化的素養も高い地域であった。
高級墨のユーザーは文人士大夫なのであるから、文人の趣味を満足させる製品を造らなければならない。それは作り手の高い素養も要求されたのである。
汪繼廷金壺汁
徽州の墨は、烟(煤)、膠、薬が製墨の三要素だという。また難しいのは、特に薬剤の配合であるという。そこに秘伝があるそうだ。ただ配合の材料や分量がわかればいいというものではなく、入れる順序やタイミングの問題がある。徽州は大陸における漢方医療の中心地のひとつで、今でも医学薬学関係の古い書籍が見つかることがある。
一方で膠や煤といった材料は墨匠が自製する事もあったが、他所の地方から仕入れる事の方が多かったと考えられる。
たとえば良質な墨に欠かせない「広膠」は「広東膠」の事である。広膠は製墨原料である以前に、漢方薬の薬材としても流通していた。また油烟や松烟は近くは婺源ないし江西、湖北や四川などで製造し、徽州に運ばれたという。松烟は服用すれば鎮静、外傷に塗布すれば止血の効能があるとされる、やはり薬材だった。
徽州は食料の自給も難しい、山間の小盆地にあった。黄山周辺に松が豊富といっても限りはある上、油烟の原料であるアブラギリの栽培をするほど、土地の余裕はなかったのだろう。製墨業を産業として成り立たせるには、原材料の”輸入”が不可欠だったのである。
油烟であれば、油脂の状態で運ぶよりも、油脂の産地で煤にしてから運ぶ方が、はるかに大量の煤を輸送する事が出来る。松烟にしても同様であろう。
しかし油烟や松烟は、特別に品質の高い墨を造る時は、燃焼の手法に段階があり、そういう場合は自製したと考えられる。ともあれ同じ材料を仕入れる事が出来ながら、墨の品質が墨匠によって違いが出るのは、材料の選別や配合、工程に秘伝があったからであろう。それは門外不出であった事は、汪近聖や汪節庵といった特定の墨匠の墨質だけが、やはり特別なものであることから伺える。そうでなければ汪繼廷も、わざわざ”汪近聖法墨”とは銘打たなかったであろう。
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汪繼廷の墨は、以前に磨墨済みの「開天容」を磨ってみた限りにおいて、”汪近聖”に及ばないところがある点は否めない。汪近聖や汪節庵には特有の”らしさ”があるのだが、「開天容」は優れて質の良い墨には違いないが、汪近聖”らしさ”には至っていないのである。
ただこの汪繼廷の「金壺汁」に関しては、その”らしさ”が若干認められるところがある。磨る者をして、伊達に「汪近聖法墨」を名乗ってはいない、と感ぜしめるに足る墨である。
側款が「世孫繼廷」と判読可能かどうかについては異論もあるであろうから、この墨一笏をもって汪繼廷が汪近聖の子孫とは断定はできないであろう。しかし何らかの関係があったに違いない。
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”汪近聖”の墨は道光年間あたりまで力を保っていたようであるが、太平天国軍が猖獗した咸豊年間以降、とみに力を落してゆくのである。汪繼廷もその頃の墨匠であり、清墨談叢には咸豊の「将軍殺賊功紀之墨」、つまり官軍による太平天国軍の鎮圧を記念して造られた、汪繼廷の墨が掲載されている。
「歙事閑潭」を読むと、太平天国の乱における徽州の惨禍はすさまじいものがあったことがわかる。乱の平定を記念した「将軍殺賊」墨はほかにも鑑古斎汪近聖を始め、幾つかの墨匠、墨店が作っているが、そこには徽州人の太平天国軍に対する恨みの深さのようなものが感ぜられる。
汪繼廷は「君任氏」「茹古齋」の側款を併記した「開天容」や、「汪近聖法墨」を入れたこの「金壺汁」など、名墨匠を意識した製品を作っているのであるが、前述のように、墨匠名を併記した墨の作例はあまり見られない。
「開天容」については製造を委託した、という可能性は、しかし方密庵の「茹古齋」は清初中期で活動を閉じた墨匠であることを考えなくてはならない。あるいは鑑古斎汪近聖に委託したのであれば「汪近聖監製」「鑑古斎造」という表記になるところで、「汪近聖法墨」はいかにも特異であり、やはり汪繼廷は自ら墨を製したように思われる。
想像の羽をバタつかせてみれば.........戦乱で衰微してゆく”汪近聖”をはじめとする徽州の製墨業を目にして、製墨の復興を目指した人物なのかもしれない。明代末期に流行した「開天容」を造るあたりからも、どことなくそのような意識を垣間見るのである。
ともあれ、あだや疎かにしていい墨ではないに違いない。
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名墨の系譜 〜汪繼廷「開天容」

汪繼廷「開天容」である。大きさは1両(32g程度)に満たない。”開天容”を陰文填金し、背面に”徽城汪繼廷造”と陽文で刻んでいる。側款には陽文で”茹古齋頂煙”および”君任氏”とある。久しぶりの古墨の掲載だが、筆に比べて墨と墨匠の調査は難しく、なかなか文章にならない事情がある。
汪繼廷「開天容」

筆や紙は消耗品だけに、清朝末期のものでも今や非常に入手困難で、墨と比べれば近現代の作が中心にならざるえない。最近のことを調べるので、多少は手がかりが掴みやすい事情がある。
同じ消耗品とはいえ、墨は辛うじて清朝初期までは手に取る事が出来る。反面、文献資料の入手は難しくなると言うわけである。現物資料なしで、話だけでよければ明代や宋代の方が記載文献は多いかもしれない。
もっとも筆も有名どころは情報が多いが、少しメジャーからそれると、まったく調べようもない筆匠や筆店がたくさん出てくるのではあるが。周虎臣などは例外中の例外と言って良い。
汪繼廷「開天容」汪繼廷「開天容」
それはさておき汪繼廷であるが、残念ながら実態はよくわからない墨匠である。道光から咸豊年間にかけて活動していたそうである。周紹良氏の考察によると、同族に汪繼章という墨匠がいたという。こういった情報はおそらく家譜などからわかるのだろう。
汪氏ということで、汪近聖汪節庵と関係があってほしいと思うところだ。汪繼章が汪近聖ならぬ汪進聖(!)という名の墨廠を経営していたそうである。しかし汪進聖が汪近聖と関係があったかどうかは、まったくの謎である。
「開天容」という墨は、びんてん翁が言っているように、明代末期の名墨匠である方瑞生が作っている。しかし同じく明代末期の顧起元が選した「潘贋祉墨評」(清末の張伯英が再編したものが見られる)を読むと、萬暦年間に潘方凱(贋祉)が「開天容」を作り、「開天容墨賛」として多くの賛文が寄せられていることがわかる。その中には、程氏墨苑や方氏墨譜にも序文を寄せている、当時の文壇の領袖であった大秘山人こと李維?の名もある。しかも李維?は序文も書いているのである。
潘方凱墨序

そもそも「開天容」は、蘇軾がその友人にして北宋きっての墨匠である潘谷の墨を讃えて読んだ詩句による。すなわち

徂徠无老松,易水无良工
珍材取楽浪,妙手惟潘翁
魚胞熟万杵,犀角盤双竜
墨成不敢用,進入蓬莱宮
蓬莱春昼永,玉殿明房槞
金箋洒飛白,瑞霧[勞/糸-力]長虹
遥憐醉常侍,一笑開天容

である。この詩文は前後が数編があり、その内容は製墨の歴史を知る上で重要な示唆に富んでいるが、全体の詳細な解説は長くなるので別の機会としたい。
関係のあるところを簡単に解釈すれば、第一句の「徂徠」というのは、山東省の泰山であり、易水は現河北省の古代の墨の産地である。北方には墨の原料となる老いた松がなくなり、易水には良い墨工がいなくなったことをうたっている。
二句目に「珍材取楽浪、妙手惟潘翁」とあるが、楽浪すなわち現在の朝鮮半島北部から「珍材」を取り、墨作りの名手は潘(谷)のみであるということを言っている。これは潘谷が、楽浪で採取された松煙を材料に使っていることを意味している。
ついでに四句目の「墨成不敢用,進入蓬莱宮」であるが、潘谷の墨は完成しても使用されることなく、蓬莱宮(すなわち宮廷の宝物庫)にすぐに収納されたといっている。ただならぬ重んじられ方であったことがわかるのである。
さらに言えば、蘇軾自身も墨を製したという伝説があり、北宋の製墨家として蘇軾は必ず名を挙げられ「雪堂義墨」がその代表作とされる。実際に、海南島に左遷された際に、蘇軾を慕った潘衡(潘谷とは別)と製墨の研究をしたという逸話もある。ただし、専門の製墨家というよりは、左遷されて良墨の入手がままならないときに、自製してみた範囲であろう。
「開天容」は最後の一句「一笑開天容」の3字である。「開天容」は「天容を開く」で「天容」は天と地すべてを包含しているという意味であるが、また皇帝の顔を指す言葉でもある。
墨銘に「開天容」を名乗るのは、この蘇軾が潘谷を讃えた詩文に基づくのであり、彼等へのオマージュとみることができる。
また潘方凱は、齋名を茹葦軒という。その姓からわかるように潘谷の後裔を名乗った墨匠であり、優れた墨匠という評価を残している。同時に随筆集「五雑組」を著した謝在杭の友人であった。この「五雑組」にも李維?が序文を寄せているから、潘方凱墨序に李維?が序文と「開天容賛」を書いていることとあわせて、その交友関係が見えてくる。潘方凱墨序

この「開天容」は強い印象を残したようで、清朝に入って、曹素功を初め汪近聖や汪節庵など、およそ名墨匠と評されるほどの墨匠は皆この「開天容」を作っている。「開天容」には「開天容」独特の材料の配合と製法があったかどうかはわからない。商品名と、意匠のみがアレンジされながら継承されていったのかもしれない。
汪繼廷「開天容」汪繼廷「開天容」
びんてん翁が言うように、この「開天容」は方密庵と、汪節庵において著名であったようだ。清朝中期までの様々な墨録には、方密庵や汪節庵の製品としてこの「開天容」の名が見られるのである。とりわけ方密庵において著名であったようである。
方密庵の親友であり金石学の共同研究者でもあった金農は、揚州の画壇と文壇の首領であった。「金冬心先生造 五百斤油」など、方密庵は金農の為に多くの墨を作っている。「開天容」もまた、金農を蘇軾になぞらえ、自らを潘谷になぞらえる意識が現われた墨かもしれない。
方密庵自身も著名な文学者であるばかりでなく、その製する墨も一時期は曹素功と併称されるほどであり、あながちではない。残念ながら方密庵の墨を現在目にする事は非常に少ないのであるが。

とはいえ、製墨家とその墨を用いる士大夫や知識人との関係の濃密さを暗示するのが「開天容」という墨銘であろう。なんでも専業分化された現代からは、なかなか想像するのが難しいかもしれないが、製墨家が士大夫ないし学者という場合もあり、文学者が同時に製墨家でもありえたのである。「墨を製する」という行為が、単なる職人仕事とは一線を画する仕業であったことは、考えなおしてみる必要がある。

汪繼廷にもどると、この汪繼廷が作った「開天容」の側款には「君任氏」と「茹古齋」の名が見られる。これはこの「開天容」が、明らかに方密庵を意識して作られたことを意味している。しかし何ゆえ汪繼廷は方密庵の名を墨にあらわしたのだろう??
一方では墨の背面には「徽城汪繼廷」と明記している。このように、ひとつの墨に対して複数の墨匠の名が見られる墨というのは、極めて少ないが、希に見られることがある。
汪繼廷が方密庵を継承する墨匠であったのか、想像をたくましくすればざまざまな可能性が考えられるが、現時点では未詳である。方密庵の名を墨に刻むからには、なんらかの継承関係があったと考えたくなる。とはいえこの汪繼廷の墨匠としての実力は、この墨を見る限りでは、やはり方密庵あたりとは力の違いがあるようである。汪姓の墨匠をみると、やはりドキリとしてしまうのは汪近聖、汪節庵の偉名の故か。
しかしこの「開天容」は堅実な墨質をしており、濃墨で用いるとあながちではない色沢を発揮する。このレヴェルの墨を作れる墨匠がゴマンといた清朝という時代を思うと、溜息がでることしきりである。

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汪節庵古兪麋墨「大吉羊」

汪節庵古隃麋墨「大吉羊」である。「大吉羊」とはすなわち「大吉祥」である。汪節庵古隃麋墨「大吉羊」この「大吉羊」は同じようなデザインで各墨匠が作っている。型入れの後、墨面の突起部分を磨いて艶を出す技法が見られる。大きさはおよそ1両(31g)もあり、小墨が多い汪節庵製品の中では比較的大きな墨である。汪節庵古兪麋墨「大吉羊」背面の意匠は、魚のようにも見えるが、「大吉羊」の文字を図案化した、一種の吉祥図である。「羊」は古来から「三陽開泰」のように、瑞兆をあらわす動物として使われることがある。また漢代の銅銭には、双魚の図案に「大吉羊」と刻されたものがみられる。「羊」と「魚」を掛け合わせた図案なのかもしれない。汪節庵古隃麋墨「大吉羊」「古隃麋」という名称の墨が、嘉慶から道光の文人特注墨にはよく見られる。びんてん翁が言うように、流行した時期があったようだ。ただ果たして「古隃麋」独特の製法というのはあったのであろうか?曹素功の看板商品は、紫玉光を筆頭に十八種が知られているが、それぞれ配合方法が違っていたそうである。墨の名称や価格に応じて、墨の材料や配合が異なっていた可能性は十分にある。
もっとも、墨の配方は秘中の秘であり、オリジナルの「古兪麋」独特の配合があったにせよ、それほど短期間に複数の墨店に普及したというのは考えられない。現在の墨市場と同じように、単に形状と名称のみ模倣したということも考えられる。
この墨の頂面には「頂煙」とだけあるが、この墨もまた「漆煙」を使ったのであろうか。「漆煙」には諸説ある。宋の何エン「墨記·漆烟対膠」には、宋代の墨工は、松煙を焼成する際に漆で松の枝や樹皮を固め、燃焼させて煙を採集した。これによって艶ややかで退光しない墨を作ることが出来たそうであるが、この煙を「漆煙」と称したと。これが古い例かもしれない。
また墨に膠を使わず、煤を漆で固めることを「漆煙」と言ったとか。羅小華は油煙を焼成するさいに、漆で固めた灯心を用いる妙法を編み出したと言われる。また羅小華の墨を形容して「黒きこと漆の如く」と言い、いわゆる「漆黒」の「漆」という意味とも考えられる。清朝末期、胡開文はドイツから輸入した黒鉛を用いた墨を「五石漆煙」と称したという。現代では、上海墨廠時代の煤の規格である”油煙101”のことを”超頂漆煙”というそうだ。
時代によって使われるところの意味は、必ずしも製法を反映していないことは、注意が必要であろう。「漆煙」と断るのは、用いて黒味が強い墨であることを強調したのかもしれない。
汪節庵古兪麋墨「大吉羊」「古隃麋」という墨銘であるが、翰林体を思わせる端正な楷書体で書かれた墨が多い。あるいはフォーマルな篆文である。墨の銘文の書体は、その持ち主の所属する階級、社会を色濃く反映している。
また「古隃麋」という墨、もともと漢代後期に、役人に下賜された墨である。そのことから、清朝中期以降に復活した「古隃麋」も、多くは官僚士大夫のために作られた墨であることを思わせる。嘉慶・道光期の文人、すなわち官僚の特注墨は、そのオーダーが汪節庵に集中していた、ということとも考え合わせなくてはならない。
かつて毎月朝廷から賜ったといわれる「古隃麋」墨を持つ、あるいは贈る贈られるということは、宮廷に仕える官僚としての自意識を満足させるものであったのではないか。また、官僚がその仕事に用いる墨となれば、濃墨で用いて「黒さ」が明瞭な「漆煙」が喜ばれたのも肯けることである。

この墨、形状は「古隃麋」特有の角を丸くした型ではなく、キッチリとした直方体である。その点通常の「古隃麋」とはスタイルを異にしている。きわめて端整で歪みのない型入れであり、大きさの割りに大味なところが看られない。これもまた佳墨と言えるのであろう。
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堯千の実力 〜曹素功堯千「龍光満載」

曹素功堯千(そうそこうぎょうせん)「龍光満載」(りゅうこうまんさい)である。最近忙しく、昼間に撮影する時間が無いのであまり墨を掲載していなかったが、久しぶりに古墨をけいさいしてみた。。金巻の墨は、やはり自然光を使わないと色合いが悪い。
曹素功堯千 龍光満載淡い水色の顔料で陰文「龍光満載」が埋められている。雲紋の微細な彫線も明瞭に、非常に精緻な型入れである。全体を金箔で覆っているが、金箔の純度が高く、ほとんど酸化がみられない。また厚みのある金箔を用い(薄い金箔を何枚も重ねる)、シワやムラなどもない。極めて高度な鍍金の技術といえる。
曹素功堯千 龍光満載背面の墨模(すみがた)も素晴らしい。雲海から龍が天に昇り、まさに宝珠(ほうじゅ)を掴まんとする図である。光彩に溢れた墨面のその姿は、清王朝の栄光の耀きを髣髴(ほうふつ)とさせる。曹素功堯千 龍光満載側面には陽文で「徽歙曹素功堯千製」と刻まれている。墨の側款も数多く目にしてきたが、これほど端正で犀利な側款は稀である。曹素功堯千 龍光満載墨の頂辺の「貢烟」の二文字も、この墨についてはさもありなん、と思わせるものがある。

曹素功堯千は、初代の曹素功から六代目にあたる。乾隆時代の初期(後期という説もあるが)、同世代の徳酬、引泉と分かれて蘇州へ分店を作り製墨を始めた。道光年間にその子毓東の代で、当時新興都市であった上海へ進出する。一方、徳酬の子孫は蘇州で、引泉の子孫は徽州で製墨を続けたという。(乾隆後期には、曹素功の墨店は、歙県からすべて店を引き払ったと言われる。)
堯千のこの上海進出が、曹素功堯千が現代に至るまで命脈を保った大きな理由であった。道光末期に起こった太平天国の戦乱は、徽州の製墨業に壊滅的な打撃を与えたのである。また大都市蘇州も略奪や破壊、飢餓などの大きな被害を被った。
当時上海には、欧米列強の強力な軍隊が駐留していた。この欧州諸軍の守備によって、江南諸都市の中で上海のみが、太平天国軍の災禍を免れることができたのである。乱平定の後は、曹素功堯千の末裔が営む墨店が、曹素功の系譜を後世に伝えることになる。また同時に、それは徽州の製墨業の伝統そのものを残す役割を担うことでもあった。
民国から新中国にかけての上海では、さらに「堯記」「敦記」など商標を持つ店舗に分かれて活動していた。これら「敦記」「堯記」も、墨には「堯千」と記すことが多かった。
戦後、1958年の公私合営の流れの中で、胡開文などと合流し、上海墨廠が設立される。その際に中心となった墨廠が「堯記」であり、どうやらこの「堯記」がその名の通り「堯千」の直系を受け継ぐ墨廠であったと考えられる。曹素功堯千 龍光満載曹素功堯千というと、清末から民国にかけての墨の中では、胡開文についでその製品を多く目にする。また上海墨廠は、曹素功堯千の血統を色濃く受け継ぐ墨廠であり、「曹素功堯千」の銘を冠した墨は、現代でも多く目にすることが出来る。
曹素功の子孫の製墨のなかでも、「堯千」の名の付いた墨は最も多く、また時代の荒波をわたってきただけに、その質の変動も大きい。よって、「堯千」の墨は、古墨の蒐集においてもやや希少性に乏しく、質の面でもやや低く見られがちである。ただし、そのほとんどは、上海時代以降の堯千である。初代の堯千となると、少なくとも嘉慶から乾隆にまで遡る。長い間、堯千の墨の質の本当のところが分からなかったが、是が確実に初代の堯千、といえる墨はなかなか見当たらなかった。
この墨は意匠や作行きから判断するに、少なくとも嘉慶は下るまいと思われる。あるいは堯千初代の頃の作と考えられなくもない。とすれば、改めてその力量には敬服の念を禁じえないのである。曹素功初代が好んだ墨の鍍金(金巻)技術を受け継ぎ、極めて完成度の高い技術に仕上げていることが見てとれる。曹素功堯千 龍光満載上の写真では、龍の爪が四本ある。四本爪は、原則として清の皇室の眷属への献上品に使われる龍の意匠である。皇帝やその親族であれば爪が五本となる。もっとも、この龍の爪、倣古の場合は逆用されて様々なところで目にするから、必ずしもあてになるものではない。
ただ、この墨はどうやら本当に献上品であったようだ。見た目も市井の用を為す墨の雰囲気ではないのであるが、なにより元の持ち主は愛親覚羅家の一員だったのである。
それが何ゆえ、日本へもたらされて、いま手元にあるのか。これについては、今はまだ語るには時期尚早と思われるので、この辺りで一旦筆を置く。
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戦前? 紫玉光

またまたT.H先生の蔵品からである。少なくとも上海墨廠(しゃんはいぼくしょう)成立以前、1970年より前の時代の紫玉光(しぎょくこう)である。完品で残っているのは珍しい。
戦前?紫玉光大きさは2両型(約64g)だが、古い時代の紫玉光のデザインを踏襲(とうしゅう)している。紙箱も現在のものより手が込んで華やかである。戦前?紫玉光以前、墨工場の老板(ラオパン=社長)にこの墨を見せたが、この手の箱はすくなくとも新中国成立(1949年)以前のものであるということだ。「箱に使われている布が新中国成立後は作られなくなった。」ということである。日中戦争とその後の国共内戦を考えると、この墨はやはり戦前、日中戦争勃発以前のものかもしれない。戦前?紫玉光「堯千(ぎょうせん)」曹素功(そうそこう)であるから、上海で作られた墨であろう。もっとも、油煙は当時も安徽省(あんきしょう)で採取されたものを輸送して使っていたという。
以前、同じ時代の曹素功の紫玉光を磨墨したことがあるが、非常に堅く稠密(ちゅうみつ)な墨であった。色は清朝の曹素功製品にくらべてやや弱い感があるが、色合いは上品かつすっきりとしていて良い。現在も国内では稀に目にするものである。
これぐらいの墨が常に入手できるなら、鉄斎翁書画宝墨(てっさいおうしょがほうぼく)が70年代だの80年だのと、とやかく言う必要は無いのだが。しかし清朝期の墨ほどではないにしても、探すとなかなか見つからないものである。
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汪節庵黄山十八景 石柱

汪節庵(おうせつあん)黄山十八景(こうざんじゅうはっけい)のうちの一、「石柱」である。かつて18本全て揃った形で現れ、これもまた幾人かの好事家の手に渡っていった。そのうちの一本である。重さ16g程度の小さな墨である。
汪節庵黄山十八景 石柱汪節庵独特の精巧な型入れである。磨いて艶を出した跡も無く、ドライで、墨の素材感そのもののような肌合いである。このような見た目の質感は他の墨匠の作墨例には見られない。汪節庵黄山十八景 石柱木型に入れたノミ跡そのままに、触れなば切れんばかりの鋭いエッジが際立っている。徽派彫刻の精髄を見るかのような見事な墨模(すみがた)である。汪節庵黄山十八景 石柱背面の詩文も端正な楷書体で描かれており、筆致を忠実にかつ肉感的に彫り上げている。汪節庵黄山十八景 石柱汪節庵黄山十八景 石柱日本と中国の乾湿の違いによるものか、細かい亀裂が入り、その一部が欠けてしまっている。汪節庵のこの手の墨質の墨は特に環境の変化に弱く割れやすい。しかし、その欠け口はあたかも黒曜石の切片のように鋭利な光沢を見せており、緊張感溢れる作墨には畏敬の念を抱かずにはおれない。
先に掲載した紫玉光のように、放置していても堅牢な墨もあるが、汪近聖すら追随をゆるさない緻密な型入れの墨は、一様に割れやすい傾向があるように思われる。
「古墨は割れない」という人もいるが、古い墨は性質が安定しているため、春夏秋冬、常温で放置していても割れない墨は割れない。
墨は割れても修復が可能であるし、もとより使用する目的で購入する好事家は割れなど意に介さない人もいる。だが、やはりできる限り完整な姿を長くとどめておいてもらいたいものである。桐箱に入れ、温度、湿度の変化が少ない場所に保管しておいても、亀裂が入っていると少なからぬ動揺を覚える。
無論墨質は上々である。汪近聖や曹素功に比べて後発であり、その活動期間が短い汪節庵である。しかし短期日に汪近聖に比肩する名声を得た、その実力の源泉を見る思いがする墨である。
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汪節庵紫玉光

びんてん氏が汪節庵(おうせつあん)の紫玉光(しぎょくこう)を掲載した。私も手元にある写真を一点。これも汪節庵紫玉光である。ただしこの墨はT.H先生の持ち物である。
底面が正方形に近い角柱である。頂辺に芥子真珠を埋め込み、これを玉(ぎょく)に見立てて二匹の蛟(みずち)がその玉を争う図である。この墨もびんてん氏掲載の墨と同じく、デザインは曹素功(そうそこう)の紫玉光を踏襲している。
汪節庵紫玉光T.H先生のお話によると、昔香港で購入されたそうである。水に漬かってしまっているのか、湿拓(しったく)をとられたのか、一部剥離してしまっている。また購入当時既に磨墨されており、残存しているのは元の4/5程になるだろうと思われる。しかしながら、さすがは汪節庵、墨質は上々で、T.H先生がお持ちの汪節庵の中では最も良いということである。背面の零芝雲(れいしうん)が見事である。汪節庵紫玉光側面には「歙汪節庵製」(きゅうおうせつあんせい)と明瞭に墨匠銘が刻まれている。愛硯家のT.H先生は、是で端渓水巌(たんけいすいがん)のような硯を洗硯すると、すこぶる硯が美しくなるとおっしゃっている。
こういった性質を持つ墨は汪近聖や汪節庵の製品、また一部初期の曹素功の製品に見られ、愛硯家にとっては垂涎の的である。小さい墨であっても、墨質の高い墨を多く求めるのはこうした硯の愛好家に多いのではないだろうか。
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汪近聖 黄山図墨

汪近聖三十六景墨の一つ、采石峰である。かつて、36本全て揃った状態で現れ、幾人かの数寄者の手に渡っていった。そのうちの一つである。上海の墨の蒐集家、趙正範氏の手元に、完全に揃った状態でワンセット残っている。趙正範氏の著作「清墨鑑賞図譜」にそれを見る事が出来る。
1本辺りの重さは1/2両、16g程度の小さな墨である。
汪近聖黄山図墨采石峰は海抜1122m、黄山三十六峰の一つである。峰の下には玉石のような白く玲瓏な石があり、仙人が昔之を煮て食したとか。また采石峰の名の由来は、降雨時、峰から流れ落ちる滝が岩にぶつかり、ゴロゴロと雷のような音を発するのであるが、それを采(採)石の音に見立ててこの名がついた。汪近聖黄山図墨その名の由来の七言絶句が背面に刻まれている。
「孤道仙人能煮石、之原可煮先飛白、山陰夜黒検星之、布水雷轟動心魄」
この詩句は先に圭璧光の項で紹介した趙青藜の作であり、彼はこの墨の墨讃も書いている。趙青藜は乾隆時代の人物であるが、この黄山図墨は作りや墨質から見て、嘉慶末年から道光の制作と考えられている。汪近聖黄山図墨この墨には「汪近聖練選頂煙」とある。36本の黄山図墨は18本づつ二つの箱に分かれ、それぞれ1本目と18本目の墨にのみ墨匠名が刻まれていた。つまり黄山三十六景墨に墨匠名が見られるのは合計4本のみである。墨匠銘だけはずいぶんと摩滅している。汪近聖黄山図墨「采石峰」の名称は純金で埋められ、墨の肌には木目が明瞭に現れている。型入れは細密な彫刻の墨型を忠実に写し取っている。やはり表面にはうっすらと青い油膜が認められる。汪近聖黄山図墨刻線は非常に繊細だが、1本1本の線に軟らかい抑揚があり、険しい山岳を描きながらも温雅な味わいがある。
びんてん氏の話によると、こういった黄山図墨は婚礼の際の花嫁の嫁入り道具として作られることが多かったそうである。たしかに、江南の方の富裕な家では、嫁入り道具に文房四宝は必須であったと聞く。

私も36本全てが揃った状態で過眼しているのであるが、これをバラにして売るのか、と思うと内心ひるみを覚えたものである。もっともそのときは私は買う側であったのだが。では全部買ってしまえるか、というとさすがにそんな資金は無いわけであるのだが。しかし、買わないか?といわれると、散逸させた共犯の片割れになる後ろめたさの一方、手を出さないわけには行かないのである。
辛うじて上海に完品があることが幸いであり、心の救いでもある。
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黄山図墨 〜丹霞峯

黄山図墨の一つである。黄山は、言うまでもなく安徽省南部に位置する中国の名山であり、徽州一帯のシンボル的な霊山である。現在は国際的な観光地となり、内外の観光客を集めている。(参考サイト)
黄山図墨墨匠銘が無いため、この黄山図墨を制作した墨匠は未詳である。三十六景や十八景は、初めと最後の墨だけ、側面に墨匠銘が記してある場合が多いのである。しかし造作と墨質からいって、汪近聖か曹素功と考えているがいかがなものだろう。実際、黄山図墨は、徽州の主要な墨匠が競って造っている。過眼しただけでも汪近聖、汪節庵、曹素功、胡開文の造った黄山図墨がある。しかし各墨匠にしても、使用している型は一定ではなく、数パターンがあったそうだ。黄山図墨背面には「丹霞峰」の由来の五言絶句が刻まれている。
黄山図墨は普通三十六景や十八景よりなる。三十六景といった場合、黄山の主峰三十六峰が題材に選ばれるが、三十六峰の選定には諸説あって一定しない。この墨ももともと18本一組か、36本一組のセット墨であったのだろう。黄山図墨微細な彫刻が見事であるが、これは徽派彫刻の技術の高さの一端を如実に示している。「丹霞峯」は黄山三十六峰のひとつで、海抜1664mに位置し、その岸壁が赤く、夕日に照り映えて峯にかかる霞を赤く染めるということでこの名称がついたという。墨の肌には木目が見え、うっすらと青みを帯びた油膜がみてとれる。
黄山図墨頂面には「頂煙」とある。こういった意匠に凝ったセット墨は、現在ではお土産品に見られるように、劣った材料を使用していると考えられがちである。しかしやはり清朝のそれなりの墨匠となれば、磨られたときにその名声を失うような墨は作らないものである。この墨はわずかに磨墨してあるが、墨質は硬く稠密で、墨色も上々である。黄山図墨側面に、白いペイントでナンバーが振ってある。これは一説には文化大革命のときに、没収された品物が文物局の手で博物館に保管された際につけられたものだという。上海の趙正範氏はそのように語っているが、諸説あり真偽の程は未詳である。
文革終了後、目録を元にもとの持ち主へ返却されたということだが、所有者が死亡していたり、所在不明になっていた場合、そのまま博物館に収蔵されたままになった。また一部は市場に流出したという。
この墨がいかなる経路で市場に出てきたかは今となっては確かめるすべもない。が、こうしたセット墨がバラで手に入ると、一度完全に揃ったところを見てみたかったと、いつも思うのである。また彫刻が見事なので、やはり磨ってしまうには惜しい墨である。まして18本ないし36本が箱に全て揃っていたら、とても手をつける気には私はならないだろう。ただ、素晴らしいセット墨でも時代の流れの中、人手を渡り歩きながらいつしか散逸して行くのである。
偶々一つが私の手元にある。その運命を想うとあだやおろそかには出来ないものである。
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汪近聖 圭璧光

汪近聖 圭璧光である。
汪近聖圭璧光びんてん氏は、私にこれを譲っていないと思っておられるフシがあるが、ちゃんと1本譲っていただいている。もっとも、可能であればもう1本手に入れたかったが。正岡先生にもってゆかれてしまった顛末は、びんてん氏の書いたとおりである。わたしもその現場に居合わせていたが、年長者に健康問題を理由にされては譲らざる得ないのである。老獪な、とその時は思ったものであるが。なんせ、これも重さが8gを切るような小墨なので、一本では心もとなかったという事もある。汪近聖圭璧光その墨質は、これを見せた墨工場の老板をうならせたほどで、磨り口もやはりガラス質に耀いている。工場の老板が言うには、膠の配合量が非常に多いのだが、同じように膠を配合しようとすると、墨の形にならないということである。そこに何か秘伝があったのではないかというのが目下の課題になっている。
汪近聖圭璧光「圭璧光」を埋める藍色の顔料は、わずかに紫がかった微妙な色合いをしている。斜視によって粒子が見えるほどの荒さで、その色は鮮やかで深い。(鉱物顔料は細かく磨るほど色が淡く、白っぽくなる)
汪近聖圭璧光裏面には明瞭に詩文が刻まれている。
びんてん氏は、北京でこれを購った際に「汪近聖とはどこにも書かれていないが、絶対汪近聖だから」と朋友に言われたそうだ。裏面の詩文の落款には「趙青藜」とある。
汪近聖圭璧光こころみに汪近聖の孫の代になって編纂された「汪氏墨林」を調べたら、趙青藜の「圭璧光墨賛」が載っていた。(典拠に詳しいびんてん氏、ここは見落としていたのだろうか。)この賛文と墨に刻まれた文章とは全く同じである。ゆえにこの「圭璧光」は、間違いなく趙青藜が注文した汪近聖の「趙青藜」であろう。
またびんてん氏の朋友も、これを知らずに墨の外観だけで汪氏の墨と見抜いていたとすれば、その炯眼には恐れ入る。

趙青藜は清朝の文学者、詩人、書法家で現在の安徽省?県の出身である。
<>によると、趙青藜、字は然乙、号は星閣、?県の人である。早熟聡明で、九歳にして文章に長けていたとの評判があった。雍正十年(1732年)挙北榜第三、乾隆元年(1736年)会試験第一(そうとうな秀才である)。選庶吉士、散館授編修。前後して浙江の郷試の副試験官、江西道及山東道監察御史、湖南郷試正考官等を努め、その後耳に病を得て郷里に帰り、「震山書院」で教鞭をとり、82歳でなくなったという。
民間の困窮に関心をよせ、何度も政局の弊害を訴えたという。文に巧みで、詩書画をよくし、史書に深く通じていたそうである。著作に《漱芳居詩集》32卷、《漱芳居文集》16卷,以及《読古管窺》、《星閣正論》、《徐禹和伝》などがあり、現在に伝わっている。

趙青藜は生年が未詳なのであるが、最晩年も乾隆時代を出なかった人であろう。「圭璧光」も乾隆時代の汪近聖の製品とみて間違いはなかろう。
私なぞの俗人は清朝の秀才にして詩人の趙青藜先生の足元にも及ばぬ身であり、それを思うとこの墨を磨ることがはばかられてならないのである。しかし、この墨質を研究し、同等の製品を世に出すことが目的。であればこれを磨するのもやむなしと、心の中で趙青藜先生に手を合わせながら磨墨するのである。
それでも磨り潰すことはおそらく出来ないだろうな、というのが実感である。
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