元宵節(げんしょうせつ)

今年の2月22日は旧暦の1月15日、元宵節(げんしょうせつ)にあたる。

この元宵節は、日本ではあまり注意されることのなくなった節句であるが、大陸では今でもわりと重んじられている。
由来はいろいろ言われているが、漢の文帝が、呂氏一族を平定した事を記念して定めた、という説がある。高祖劉邦死後、呂后一族の専横によって劉氏が滅ぼされかねまじき勢いであったが、呂后の死後、周勃、陳平の策で呂氏は滅ぼされる。いうなれば漢代における”クーデター鎮圧記念日”とでも言うべきか。

元宵節には、”湯円”といって、ゆでた団子をだべる。麹を発酵させて作った、あまいスープに入った場合もある。団子の中にも餡、とくに胡麻餡を入れるところが多いようだ。ナツメやクコの実、乾燥させた桂花(キンモクセイ)を浮かべることもある。この料理、上海のレストランなどでは、季節に限らず食べられるようになった。
日本では”湯円”を食べる風習がないが、上新粉で中に餡を入れた団子を作り、湯がいてゆで汁ごと器に盛れば、それらしいものができる。あるいは甘酒に浮かべても良いかもしれない。

由来やまつわる風習については、上記のほかにもさまざまであるが、少し調べればわかることなので、ここでくだくだしく述べるまでもない。

言うまでもなく、丸い団子には「(一家)団欒(だんらん)」という意味がある。ゆえに家族そろって元宵節を祝うわけであるが、田舎の方では春節の帰省もこの日で終わり、明日から都会に働きに戻る、というような意味もある。もっとも、春節後の平均的な始業は先週からなのであるが、経済状況を反映してか、いつもより春節の休みが長くとられる業種もある。今年に関しては、工場の工員などは相当早く帰省し、まだ都会に帰らない、という話も聞く。あるいは仕事を探すために、帰省しないでずっと都会に残っている、というようなことも聞く。

紅樓夢では、元宵節に、皇帝の后となっていた元春が帰省を許される場面がある。賈家では、皇族となった元春を迎えるために、新たに庭園を造営するなどして盛大に準備する。これがすなわち物語の舞台となる大観園なのである。皇室に嫁いだ以上、父母といえども娘から見れば臣下なのであり、その帰省にあたっても相当な容儀を整えなければならないのである。結局、賈家の没落の要因が、この大観園造成事業なのであり、建設費用もさることながら、後々までの莫大な維持費に苦しむのである。
賈家で幅を利かせていた熙鳳の経営手腕などは、実のところ穴だらけなのである。いよいよとなって実家が商家の宝釵が知恵を出し、苦労性の探春が辣腕をふるっても、もはやいかんともし難いほどのものであった........どことなく、現代にも通じる話のようである。

元宵節といえば、歴代王朝では、さまざま灯(あかり)をもちいた装飾が用いられた。紙を貼って彩色を施した花灯、彩灯,車輪のついた巨大な灯輪、灯樹、灯柱といったものであり、特に唐代が国威発揚を目論んで盛んであったという。盛大な明かりで節句を盛り上げようという感覚は、現代の祭典にも通じるものがある。
また宋代には男女無礼講の祭りで、着飾った女達が街へ繰り出し、男に入り混じって飲食を行ったという。この習俗はその後もある程度継続したようで、現代では元宵節は「情人節」ということにもなっているそうだ。儒教道徳の厳しい時代、ある程度の家の家庭では、夫婦といえども、常々同じ食卓で食事をとることはなかった。紅樓夢でも、ほとんど女性だけで食事をとっている。子供の頃はともかく、ある程度大人になった宝玉が侍女達に混じって食べているのは、大家の御曹司としては、やはりちょっと変わっているのである。
このあたりの分け隔ての厳しい感覚は、”唐解元一笑姻縁”にも表れる。まして他家の男女が席を同じくするという事などは、日常的にははなはだ不道徳とされたのである。なので男性と日常一緒にお酒を飲めるといえば、妓楼の妓女なのである。それが元宵節だけは、一般の女子も男性に同席して飲食してよいというのだから、それはたしかに盛り上がるのかもしれない。それは大都市部よりも、郷村で盛んであったようだ。息苦しい封建社会にあっても、適度にこのような機会というのはあったようである。漢代の話だが、司馬遷の史記滑稽列伝の淳于 髠でも、そのような話が語られている。

明の唐寅の「元宵節」という詩に、当時の雰囲気がよく出ている。詩中”開口笑”というのは、古くは干したナツメを半分に切って餡を挟んだ菓子であるが、湯円に相当する物であろう。村娘、とあるのは蘇州近郊の農村の娘だろうか。どうも唐寅、このような分け隔てなくにぎやかな雰囲気を好んだようである。場所は蘇州とすれば、郊外の農村の娘たちが、元宵節に合わせて蘇州の繁華街に繰り出してきたのだろうか。あるいは唐寅の方から、蘇州近郊の小鎮に遊びに行った時の情景かもしれない。

明 唐寅「元宵節」

有燈無月不娛人
有月無燈不算春
春到人間人似玉
燈燒月下月如銀
滿街珠翠遊村女
沸地笙歌賽社神
不展芳尊開口笑
如何消得此良辰

(大意)

夜の灯があっても、月が出てなけりゃおもしろくない。
月が出ていても、元宵節の灯がなけりゃ、春は来ないってもんだ。
春さえくれば、世間の人は玉石のように華やぐよ。
たくさんの灯が月明かりの下で赤く燃えれば、月は銀のように白く輝く。
街中、玉飾りをつけて遊び歩く村娘たちでいっぱいだ。
楽(がく)の音や歌が地から沸くように起こり、お宮の神を祀(まつ)っている。
今日は美酒をあけるまえに、まず”開口笑”をひとつつまもうか。
この楽しい夜を、どのように味わい尽くしたらよいだろう。
 
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京博「魅惑の清朝陶磁」

京都に用件があったついでに、京都国立博物館で「魅惑の清朝陶磁」展を見に行った。日本に伝来した清朝の陶磁器を紹介する一方で、日本の焼き物に与えた影響を考察するというのが趣旨の展示であって「大変素晴らしい」というほどの品はもとよりあまりないのであるが、いろいろと参考になる内容であった。
日本の染付の優品と、当時の大陸からの伝来品を並べて見る機会と言うのは、そういえばあまりないかもしれない。日本の染付は、さすがに清朝の官窯などに比べると、ほとんど勝てるものではない。わずかに迫る物がつくられた時代があるが、かなり例外的な作例である。しかし民間の流通品や輸出品で比較すると、品質という観点からみれば、そうそう大陸に劣っている物ではなかったことがわかる。
展示されていた鍋島焼の染付など、繊細緻密なこと、工芸品の技術レベルとしてみた場合はかなりのものである。しかし整い過ぎていることと、大陸の染付にみられるような線の伸びやかさにおいて、やや物足りない物がある。線の違いと言う点では、書や画における線の違いと相通じるものがある。やはり筆や、筆の持ち方、線の引き方などに違いがあったのかもしれない。
趣味性という観点で見たときに、自分自身はやはり大陸の品に関心が傾いてしまうのは、いかんともしがたいところがある。

大陸や台湾で現存する明清の焼き物というと、官窯のような優れた品は大事にされて残っているが、民間で使っていたような品は完整な状態ではほとんど残っていない。まれに完品であっても、非常に粗末な物が多い。民間の流通品のなかでも優品、という品はあまり目にしたことが無い。現在目にすることができる大陸の陶磁器と言うのは、限られた一部の高級品がほとんどなのである。高級品が残っていればいいじゃない、というのも、確かにひとつの考え方ではあるが。ともかく日本においては、日用品であっても「舶来の品」ということで大切にされ、相当数が残ったということなのだろう。
こういった事情は、文房四寶においても実用の普及品の筆がほとんど伝存しておらず、わずかに日本の静嘉堂文庫にその片鱗を見ることが出来ることに、やや似ているかもしれない。大陸や台湾の博物館にあるような意匠を凝らした高級品だけでは、毛筆文化の全体像はつかみにくい。実用品の筆は大陸では消耗してしまって残っていないのである。日本に輸入された品が、たまたま珍重されて残っていたに過ぎない。
そうそう「魅惑の清朝陶磁」では、静嘉堂文庫も優品を何点か出していた。あるところにはあるなあ、と言うところか。

小生は陶磁器も鑑賞するのは好きであるが、硯や墨のように古い品を買うという事はほとんどしたことが無い。人にお見せするほどの品はない。あたりまえだが、これは素晴らしいというほどの品は、もとより手が届かない。日頃いじっている硯と希少性や美観で同等と思えるような焼き物は、すでに買えるような値段ではないからである。
硯では老坑水巌など、材質という点からいえばまあ一流といって差し支えないモノを使いながら、焼き物は三流にもかからないものしか手に取れないのでは、最初から集めようという気力が起こらない。とはいえ、やはりなんとなく気になるモノで、見ることが出来る限りは見るようにしている。幸い、日本や台湾など、行きやすいところに優品が集中している。

陶磁器に関しては、青花、染付よりも青磁や白磁の方が好みであるが、硯も細かく掘られた彫拓の意匠よりも、硯石の材質に目が行くのと同じ感覚かもしれない。表面の質感や、色の深みなど、やはりどことなく硯石の観賞に通じるところもあるのである。
青磁などの釉の質感が好きとはいえ、墨の意匠との考察の絡みで明清の染付も注意してみるようにしている。徽墨の産地である徽州は、焼き物、とくに染付の生産地である景徳鎮に接した地域である。陶磁器、漆器、版画などの工芸技術は、その図案や意匠において、一脈を通じるものがある。無論、墨や硯も同様である。
徽州は工芸品として漆器がとくに名高かったのであるが、染付も漆器も良い筆が非常に重要である。清水焼の陶工が、使える筆が少なくなったと嘆いているという話を、京都の焼き物の店などで耳にすることがある。伝統工芸の職人だけに、相当数の筆の在庫があるはずだが、新しい仕入のメドが立たなくなると、技の継承を考えると非常に心細いのだそうだ。

京都の街には陶磁器を売る店が多いが、日本で焼かれた100年くらい前の品であれば、ほどほどに手に取る機会がある。日本の懐石料理などでは、季節や料理によって器をすべて変えるので、その需要が支えているというわけである。それはあるいは、昔の中国でもそうだったのかもしれない。懐石料理もルーツは寺で出す精進料理であって、その精進料理は食事の作法とともに大陸から伝来しているのである。
現在の大陸は、料理にはさほど凝った焼き物は使われない。煎茶の急須や茶碗の世界に凝ったところが見られる程度である。染付の皿も焼かれるが、官窯写しの今出来の高級品は、もっぱら観賞用なのである。
だからかなり良いお店で食べても、ただ白いだけのお皿であることが多い。前菜で野菜をつかって鳳凰を象ったり、スープを入れる冬瓜に彫刻するのは、凝った陶磁器を使っていた時代の名残なのかもしれない。
広東に行くと、なんてことはない店で、食器に青花がつかわれているのでハッとすることがある。もとより大した品ではなく、プリントによる量産品なのであるが、木製のテーブルについて青花の茶碗で麺を食べていると、ちょっと時代がかった雰囲気があってよい物であるのだが。

大陸では青磁や白磁よりも、明清、とくに清朝の青花が人気である。これは青磁の良い品が大陸にはほとんど残っていないからであろう。また陶磁器に限らず、大陸の文物は清朝がブームなのである。簡素ながら力強い精神性を感じさせる宋代の文物よりも、清朝とくに乾隆帝の豪華趣味が、現代の大陸の特権階級やお金持ちの趣味にはあっているのだろう。
京都には大陸からたくさんの観光客が訪れているが、あるいは「魅惑の清朝陶磁」はそのあたりの事情を勘案した企画なのだろうか。展示室では、留学生なのか観光客なのか、大陸の人も多く目にした。彼らの眼に、祖国と日本の陶磁器は、それぞれどのようにうつったのであろうか。

近年、すさまじい勢いでかつて流出した文物が大陸に戻っているが、これに大陸政府も積極的に関与している。自国の文物は自国にあるべきであると、あたかもそれが正義であるかのような、偏狭なナショナリズムに傾斜した論調を目にすることがある。まるですべてが外国人に略奪されたかのような極論もある。しかしこの展示に見られるように、文物は圧倒的多数が平和な交易によってもたらされたものなのである。それを流出と言ってネガティブにとらえるか、文化の輸出ととらえるか。
文物というのは、人間の寿命や、時に王朝の寿命をも超えて伝存し、伝播するものなのである。国家であっても個人であっても、誰もそれを所有しきることはできない。人の一生の束の間に、想いを寄せることが出来るだけなのである。

「魅惑の清朝陶磁」は、京都国立博物館で12月15日まで開催している。
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李白と数値表現

李白の「秋浦歌十五」に

白髪三千丈
縁愁似箇長
不知明鏡裏
何処得秋霜

白髪(はくはつ)三千丈、
愁いに縁(よ)りて箇(か)くの似(ごと)く長し。
知らず明鏡(めいきょう)の裏(うち)、
何(いず)れの処(ところ)より秋霜(しゅうそう)を得(え)たる

という五言絶句があります。白髪三千丈というのは、文字通り白髪(しらが)が三千丈の長さということですが、唐代の一丈はおよそ3mなので、九千メートル、全長9kmにも及ぶ白髪、ということになります。もちろん、白髪が9キロもあるわけではなく、歌われている秋浦という長江沿岸の情景を、白髪に喩えています。すなわち延々と続く白髪は、眼前の長江の河岸のことです。また「愁いに縁(よ)りて」とありますから、憂愁の念が、この長江の流れのように延々と長く続き、頭もすっかり白くなってしまった、ということです。
ただし、この句は日本では「中国的誇張表現」の代表として、「誇大な表現」の代名詞になってしまいました........確かに中国の詩歌の世界では雄大な誇張表現は多いものなのですが、物理的な距離や大きさのことではなく、精神のひろがりの中での”尺度”なのですから、それは「文学的スケール」として理解する必要があるでしょう。心の広がりは無限、という事も出来ます(狭い人もいるかもしれませんが)。
長江下流域の川幅が、瀬戸内海の幅よりも広い、ということを実感してないと想像できないかもしれません。霞ヶ浦か利根川、ないし淀川の岸辺ぐらいを想起していたのではわかりませんね。
また似たような数値、ないし数字表現の使い方に「桃花譚水深千尺」という句があります。「桃花譚」は私も数年前に訪れたことがありますが、実際はごく浅い、船をこぐ棹(さお)がさせてしまうくらいの水深です。しかしここで李白は、この地で仲良くなり、いつまでも見送ってくれている友達の「情」の深さを「水深千尺」とうたっています。

それはともかく、李白の作詩の特徴のひとつに、「三千丈」のような数値表現、数字表現があります。李白は数字を使って印象的な句を上手に作ります。特に「三千」は頻出します。

唐代以降の近体詩は平仄を整えることを原則的に求められますが、よく使われる漢数字「一二三四五六七八九十百千萬」の中で、「平」音は”三”と”千”だけです。ほかは全部「仄」音になります。有名な「白髪三千丈」は「仄仄平平仄」と、ちょうどいい具合に「平平」が入っています。あるいは廬山を詠んだ「飛流直下三千尺」も「平平仄仄平平仄」となって具合がいいです。他にも「学道三千春」とか「十月三千里」「座客三千人」「堂中客有三千士」などがあります。すべて数え上げたことはありませんが、「三千」が入る句だけで、十数首くらいはあるのではないでしょうか。

李白以前にも、孟嘗君は「食客三千人」、阿房宮には「美女三千人」、孔子は「弟子三千人」、李衡「木奴三千本」というのがあります。
新聞の見出しで「上海佳麗三千人」というので何のことかと思ったら、博覧会のコンパニオン達の事なのでした。
ちなみに私の小さいころは「中国三千年の歴史」なんていうフレーズがよくつかわれていたのですが、その後これが”四千年”になり、最近では「中国五千年の歴史」が定着しているようですね。現代の考古学、歴史学の研究結果を反映した表現に代わってきたようです。しかしそもそも「三千」は、仏教でいう「三千世界」と同じように、広大無辺、悠久な、という意味で用いられますから、もともとの「中国三千年」は「悠久の歴史」という気分が表現されていたのだと思います。いまの中国の人は、そういう文学的気分よりも科学的な厳密さを好むように、感覚が変化してきているのかもしれません。

また「三千」のような大きな数字を単独で用いるだけではなく、数を対比した表現も巧みです。有名な「長安一片月、萬戸搗衣声:長安一片の月、萬戸(ばんこ)衣を搗く声」は、「一」と「萬」を対比させながら、ひとつにすぎないが永遠の存在である月と、萬を数えながらもはかない存在である人間の営みを凝縮して表現しています。
「驚風一起三山動:驚風(きょうふう)一(ひと)たび起(お)こり三山(さんざん)動く」という句もありますが、これも「一」が「三」に作用することで、いかに強い風であるかを表現しています。

「百年三萬六千日」というのもあります。1年は陰暦では年によって日数がかわりますが、平均して360日なので、古代の人は一年間をおよそ360日と認識していました。掛け算すれば確かにあっています。こういう一見安易な句を平然と使うあたり、まさに李白の天衣無縫なところですね。
この「百年三萬六千日」には「一日須傾三百杯」と続きます。つまり百年間、毎日毎日三百杯の酒を飲み続けるよ、ということです(いいですねえ)。これは二句14文字のうち、8文字を漢数字で占めています。ほとんど数字の句になりますが、百日×三百六十日×三百杯=?という計算をしたくなります。
これに似た句に「聖君三万六千日」というのもあります。天子の長寿を願うわけですね。また「廣張三千六百釣」というのもあります。太公望が、80歳で文王に出会うまで、毎日毎日釣りをしていたことを詠っています。またさらに数字の大きな句では「天台四万八千丈」、「爾来四万八千歳」などがあります。

あるいは「三三五五映垂楊」。”三三五五、垂楊に映ず”、あちらに三人、こちらに五人(の遊び人が娘を覗き見している)、といったぐあいですね。この「三三五五」は、日本で今でも慣用句として使われますね。

他に数字をうまく配した対句で面白いのは

一叫一回腸一斷
三春三月憶三巴

猿が一声叫ぶと一回ごとに断腸の思い、三年もの間毎年春(三月)に故郷(三巴)を想う、という叙情をうたっています。猿の鳴き声は、古来から旅愁をかきたてるものとされます。
この句も平仄を調べると

仄仄仄平平仄仄
平平平仄仄平平

となって表裏はあっています。「一」と「三」を同じ位置に使うことで、軽快ながら深い印象を残すリズムを生み出しています。

そういえば李白の友人である杜甫も、李白の数字好きを知ってか知らずか「飲中八仙歌」では李白のことを「李白一斗詩百篇」、「一」が「百」を生むと、数字を使った表現でうたっています。苦吟(長い間考えて詩を作る)タイプの杜甫は、スラスラと詩を作るタイプの李白のことを、酒好きとあわせてこう表現しているのですが、あるいは李白の作詩の特徴を意識したのかもしれません。
ところで律詩に本領のある杜甫が苦吟するのは当然で、絶句よりも律詩のほうが前後八句をつくらないといけませんし、うまい対句をつくらないといけない分だけ考えないといけません。絶句の方が作りやすいといえば作りやすい。ただ、作りやすいからと言って良い詩が作れるかどうかは別問題。絶句に本領のある李白が即興に優れていたのは、絶句という短い詩形に拠る部分もある、と考えていいでしょう。あるいは数字表現をうまく使いこなす能力も貢献しているのかもしれません。もちろん、数字を使えば簡単に良い詩が作れる、ということではありませんが。

ちなみに「白髪三千丈」が誇張表現を皮肉る慣用句になっているのは日本だけで、中国の人に「そりゃ、”白髪三千丈”式だね」と皮肉っぽく言ってみても通じません。大陸の人はそんな話は織り込み済みの承知済みです。実際に大陸では”白髪三千丈式”の大げさな言い回しが多いのですが、そういうところにいちいち噛みついてみても始まらないわけです..........とはいえ、「中華の歴史」が「三千」から「四千」「五千」と変わっていったあたり、唯物史観の影響で、かの国でも意識の変化があるのかもしれません........しかし個人的には、やはり李白の「白髪三千丈」に現れる、気宇の大きな気分が好きですね.........無論、それは文学の世界に限らなければならないのでしょうけれど。
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靈芝と仙薬

靈芝について雲南省産の靈芝である。話では野生の靈芝なのだそうだ。かつては非常に希少で発見が難しいとされた靈芝であるが、現代では栽培法が確立されている。小生は栽培の靈芝と野生の靈芝の見分け方に詳しくないので、この靈芝が本当に山林に自生していたものかどうかまではわからないが、雲南省であれば野生の靈芝も相当数採取できるのかもしれない。靈芝について現代では栽培も可能になった靈芝であるが、王朝時代にあっては非常に珍しい菌類であり、また「瑞草」とも呼ばれ、その出現自体が瑞兆であるとされたほどである。発見者がその場で食べてしまうので、話に聞くだけでなかなか目にすることができない、ともいわれる。また瑞兆だけに、行いの正しい”君子”が探さなければ発見できない、という考え方もあった。深山幽谷に君子が靈芝を探すというテーマは、好んで描かれてきた画題である。

靈芝の薬効には諸説ある。現代でもその効能は充分に解析されていないのだという。古くから「仙草」とも呼ばれ、仙薬として知られている靈芝であるが、当時の人々が多くの臨床例からその薬効を知っていた、と考えるには当たらない。「仙薬」とは、服用を続ければ”昇仙”できるとされる薬である。そもそも「昇仙した」などという臨床例については、どのように考えたらよいのかわからない。

”靈芝”については、最古の薬学書である前漢時代の「神農本草經」に記載があるとされている。しかし神農本草經には「靈芝」という名称の薬材は収録されていない。赤芝(丹芝)、黒芝(玄芝)、青芝(龍芝)、白芝(玉芝)、黄芝(金芝)という名称で、おそらくは五行説に基づく五色の「芝」について記述されているのみである。
たとえば「赤芝」についていえば、「赤芝主胸中結,益心気,補中,増慧智,不忘。久食,軽身不老,延年神仙。一名丹芝」とある。すなわち「赤芝は主に胸部内臓に作用し、心気を益(ま)し、中(胃腸)を補い(すなわち働きをよくし)、智慧を増やし、記憶力を増す。長い間服用し続けると、体が軽くなって老いず、寿命を延ばし仙人になれる。別名”丹芝”という。」ということになる。
靈芝と仙薬ほか、黒芝、青芝などについてもそれぞれ効能はいろいろあるが、「久食、軽身不老,延年神仙。」は同じである。
「神農本草經」に収録されている薬材は上中下に分たれるが、赤芝などは「上品」に分類される。「上品」は服用を続ければ神仙に至る仙薬が集められており、すなわち赤芝や黒芝は仙薬であるとされているのである。(神農本草經では、怪我や病気を治すといった薬材は中品、下品に分類されている)
靈芝と仙薬現在では”靈芝”を山地や色、形状で分類し「赤芝」や「黒芝」あるいは「白芝」という名称で流通されているのを目にする。しかし神農本草經でいうところの「赤芝」だの「黒芝」だのが、現代流通している「靈芝」と同じものを指すとは限らない。
後漢に成立したとされる「抱朴子仙薬篇」では、「芝」について、「赤者如珊瑚,白者如截肪,黒者如沢漆,青者如翠羽,黄者如紫金,而皆光明洞徹如堅冰也。」とある。すなわち「赤いものはサンゴのごとく、白いものは脂肪のごとく、黒いものは漆のごとく、青いものはカワセミの羽のごとく、黄色いものは紫金のごとく、みな光り輝いて透き通っており、氷のように固い。」と言われている。これもおそらくは五行説に基づいた五色の「芝」の説明であるが、該当する植物ないし鉱物を現在想像することは難しい。荒唐無稽として一蹴することもできるが、この内容が五行説からの演繹に基づいたまったくの空想だとしても、なんらかの具体的な植物像があった可能性はある。しかし現在みられるような「靈芝」をイメージしながら書れた文書とは考えにくい。靈芝と仙薬靈芝と仙薬龍や麒麟といった「瑞獣」は、すぐれた君子が治める泰平の世に出現するとされる。同じように「瑞草」もまた、出現自体が瑞兆なのである。しかし龍や鳳凰、麒麟といった動物が(原型があるにせよ)想像上の生き物であるように、「瑞草」としての「芝」もすなわち想像上の植物であるとも考えられる。
靈芝と仙薬図像の世界では、古くから吉祥図案として「靈芝雲」が用いられてきた。明代から清朝にかけての製墨の世界でも、あるときは龍や鳳凰といった神獣とともに、またあるときは単独で、靈芝雲ないし靈芝が描かれている。
「靈芝雲」はまた瑞雲、瑞気ともよばれる。靈芝のような格好をした雲が龍や鳳凰、麒麟、蛟龍といった神獣、あるいは蝙蝠や鹿といった招福を意味する動物に伴って描かれることが多い。靈芝について靈芝について靈芝の形状は、気体がゆっくりと拡散する途中で、瞬間的に凝り固まったような形勢をしている。見ようによっては、靈芝は湧き上がる雲に見えなくもない。また天候によって、靈芝のような形をした雲が現れないとも限らない。
靈芝と仙薬しかし靈芝の図像が先にあって雲気紋に変化していったのか?雲気紋がさきにあって靈芝に変化していったのか?あるいは並列したものが融合していったのか?これはよくわかっていない。
靈芝と仙薬靈芝と仙薬珍奇な薬材としての靈芝が先にあり、靈芝が紋様として様式化され、さらにイメージが気化して靈芝雲になった、と順序化すると考えやすそうだ。
しかし漢代の図像に雲気紋や瑞獣はすでにあらわれてくるが、”靈芝”が現代知られているような菌類として認知されていたかどうか?については同時代の「神農本草經」を見る限りでは確証が持てないのである。
靈芝と仙薬たびたび触れているが、エジプト起源のパルメットとよばれる植物紋様がある。”パルメット”などという植物が存在するわけではないのだが、イメージの原型は”ロータス(睡蓮)”であるといわれている。睡蓮は花をつける時期になると、昼間は開花し、夜は花弁を閉じる、を繰り返す。この反復運動が古代エジプトの死生観と結びつけられ、「復活・再生」のシンボルとして尊ばれるようになった、という説がある。また神獣像などと同時に描かれるパルメットは、特別な生命の力を持った植物、という意味があるとされる。
古代中国における龍や鳳凰といった図像はよく瑞雲を伴うが、この瑞雲がパルメット紋様を起源としている、という話もある。エジプトの神獣がパルメットを伴ったように、古代中国の瑞獣が瑞雲、雲気紋を伴うというのである。これによれば、エジプトの植物文様は、東へ伝播する過程でさらに唐草模様として様式化され、また一方で気化して雲気紋になったということになる。
あるいは西方からパルメットが伝播し、それによく似た菌類としての靈芝の発見(あるいは価値の再発見)があった、とも考えられるのである。
靈芝について仙薬が最高の薬、というのは荒唐無稽な思想のようにも思える。しかし仙人になれるかどうかはともかくとしても、病気を治す薬よりも、病気にならない薬を上に置くというのは、現代にも通じる健康に対するひとつの価値観であろう。
現代でもさまざまな”サプリメント”が流通し、いろいろな効能がうたわれているが、その価値観は「病気にならない」とか「老化を抑止する」ということで、これは「神農本草經」における薬材の価値観に近いと言えないくもない。
いやいや、現代のサプリメントには科学的根拠があるのですよ、といわれるかもしれない。しかし服用する当人にとっては、それが現代科学であろうと神仙思想だろうと「信じて飲む」ことには変わりがないのではないだろうか。
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光と鑑賞

上海博物館は撮影していてもオトガメを受けないのが良いのだが、それにしても照明がやや暗すぎる。まあ撮影させてもらえるだけでも実にありがたい事だから、照明にまでケチを付けられないかもしれない。しかしみたところ上海博物館は、作品を照射する照明に白熱電球を使っているようだ。写真は陳淳の「墨花図冊」。精良な半熟箋におかれた墨の発色と変化が、その変幻極まりない筆致とともに飽きさせない。墨で畫を画くことの楽しさ、美しさが観事に現れている。
簡単にサラリと画いている様だが、このような効果を出せる紙を選択するのは難しい。墨の拡散や浸透からみて、滲みをかなり抑えた半熟箋なのは間違いないと思われるが、同等の効果を出せる紙というのは、ちょっと思い浮かばない。筆致の冴えも、墨色の変化も、受け止める紙あってこそである。
上海博物館藏陳淳「墨花図冊」上海博物館藏陳淳「墨花図冊」上海博物館が白熱電灯を使うのはそれなりにわけがあるはずで、おそらくは光源の演色性を優先させたのだろう。光源の性能を示す指標に「演色性」があるが、この演色性が高いほど自然光、つまりは太陽光に近いとされる。演色性100で、太陽光と同じ光のスペクトル分布を持つとされる。一般に人がモノを観る場合において、太陽光の下で観るのが最も良いとされる。
「色」を見るという事は、別の言い方をすれば「光」を見ていることである。たとえば光源に「赤」を含まない照明の下では、「赤」を見る事ができない。卑近な例でいえば、トンネルなどで使用されるオレンジ色のナトリウムランプは単色光源であるから、トンネルに入るとオレンジ色のモノ・トーンに観えるはずである。
白熱電球は演色性は良いものの、光への変換効率が悪く、その光には赤外線が多く含まれる。紫外線はあまり出さないと言われるが、赤外線も対象の温度を上げてしまうため、古美術品に長時間照射するのは良くないだろう。そのためか、上海博物館では動体センサーが使われ、作品の前に人が来ると一定時間だけ作品を照射するようになっている。しかし照射する時間もその光量も、出来る限り絞っているようだ。なので作品によっては、ちょっと暗すぎるのではないかな?と思われるところもある。また眺めているうちに照明が落ちるので、体を動かして再び照明をつけるなどの動作をしなければならない。
上海博物館藏陳淳「墨花図冊」最近のデジタルカメラは非常に感度がよくなっていて、ほの明るいくらいの光でも、ある程度は原画の雰囲気を伝える写真を撮ってくれる。写真の紙の色は本来はもっと白く明るく見えるのである。露出やホワイト・バランスを調節できるので、紙が白く見えるように撮る事も可能なのであるが、そうするとどうしても墨のトーンが平坦に見えるようになってしまう。絶対的に作品へ当たる光の量が足りていないので、このあたりは致し方ないところだ。「フラッシュ厳禁」は言うまでもなく、フラッシュを焚いてもすべてガラス板で反射してしまう。
上海博物館藏陳淳「墨花図冊」上海博物館藏陳淳「墨花図冊」最近ではLED照明が普及し、博物館や美術館でも使われ始めているという。LED照明は紫外線や赤外線をほぼまったく出さないので、作品保護には良いだろう。ただ巷間で売られている、安価な白色LED電球だと、美術作品などを観る場合には適当で無い。人間の目で「白」と認識される色であっても、その光の中に含まれている光のスペクトル分布のパターンにはさまざまなものがある。特定の色の波長、たとえば「赤」が少ない光源の場合、本来「赤く」見えるはずの色が目立たない。概ね、対象が無機質でひどく冷たく観えてしまう。安価なLED白色照明には、そういった製品が多い。極端に言えば、ナトリウムランプのオレンジが、ホワイトに置き換わったような単調な光である。食卓におけば料理の色も冴えなく、家族の顔色もなんとなく不健康に見えてしまうかもしれない。憂鬱の原因になるかもしれないから、照明を選ぶ場合は注意が必要だろう。
しかしLEDは理論的にどのような可視光でも作り出すことが可能であり、演色性を高めた「高演色」のLED光源も、価格は高いが販売されている。上海博物館あたりでも、省エネと作品の保護を考えるのであれば、そろそろ高演色の白色LED照明に切り替えた方が良いかもしれない。
光源の光を自由に作り出すことが出来るのであれば、光の作り方によって、対象の見え方をまるで変えてしまうことも可能である。いかに太陽光に近いとはいえ、人工的な光によって作り出された「見え方」は、人為的でフェアではない、という意見もあるかもしれない。しかし紫外線の降り注ぐ太陽光の下で鑑賞することが許されないのであれば、次善の策をとるしかないだろう。

とはいえ巷間ではそこまで考えずに、白い電球は同じく白いのであり、おなじ白ならワット数が高くて安い方が良いでしょう、という選択も多く行われているのである。「白い」電球はどれも同じ「白」であると考えてしまい、この「シロ」の中身にも色々あることを知らないと、たしかにそういう選択になってしまうかもしれない。
これは墨色に関しても言えることなのである。墨色を単なる「黒」と認識している人には、墨汁の黒も佳墨の黒も同じ「クロ」に見えてしまうだろう。どんな墨色を持ってきても、頭の中にはもともと1個の「黒」しかないのだから、その違いには気付かないのである。
墨色はあくまで「スミイロ」あるいは「ボクショク」であって、「クロ」ではないのである。喩えが適切かどうかわからないが、それは演色性の高い白色LED電球と、限りなくモノ・トーンな、安価な白色LED電球との違いと同様かもしれない。
蘇軾は優れた墨色を「童子の睛」に喩えた。童子の睛は、はたして単一の「クロ」で定義されるべきものだろうか?上海博物館藏陳淳「墨花図冊」墨色以外にも、たとえば硯の石色、石品を評価する場合、室内の光源ではなかなかそれが分かりにくい。太陽の下で観なければならないと言われる。特に端溪の青花や天青といった石品は、太陽の下で石を水に漬けなければ判別が難しいといわれる。室内の不完全な光源では、たしかにある種の石の色は観えにくかったり、周囲と判別が難しい場合がある。人によって「青花?天青?どれが?」と、まったくわからなくても不思議は無いのである。
しかしそういった不完全な光源の下でも、正しく経験を積んだ者であれば、その違いを認識できることがある。

人間がモノを認識する場合、目から入ってきた情報が、頭の中で補正されながら像を結ぶのだそうだ。おかしなことを言っているように聞こえるかもしれないが、たとえば同じ赤いリンゴを見ているようでも、他人の目にそれがどう写っているかどうかはわからないのである。まして同じ絵を観ているようであっても、同じように認識しているかどうかはわからないのである。
これは写真を観る場合に顕著に現れることがある。硯を何百面も何千面も観て来た人であれば、あまり良く撮れているとは言い難い写真を見せただけでも、素人が気付かないような特徴に気づく事が出来る。一枚の写真であっても、素人と玄人では、まるで違ったモノとして認識されているのである。写真から入ってきた情報が、経験者の過去の膨大な記憶の蓄積によって補正され、細部にいたるまでより鮮明に再現されるからである。
美術品でなくても、たとえば子供の写真や家族の写真、ペットの写真などは、家族や飼い主が見る場合とまったく無関係の人が観る場合では、その見え方、意味合いがまったく違うという「事実」は、納得しやすいことであろう。自分の子供の写真であれば、本来は写りこんでいない小さなホクロまで観えるかもしれない。旅の写真にしても、あまり写りのよくない写真であっても、その旅に実際に行った人であれば、そこから当時の記憶が喚起される。そして「美しい思い出」に浸る事ができるのである。
「見る」ということは、あまりにも自明の事のように思えるが、網膜に外界から光が入って視神経を刺激することと、脳裏でそれが像を結ぶ事、またその映像の意味をどのように「認識」するか?までもふくめて「見る」ことである。いわゆる「センスの良い人」というのは、脳内での像の補正や、意味として認識するプロセスが洗練されている人を言うのかもしれない。
認識のプロセスは相互に深い関係があるにせよ、イコールで結ばれる現象ではない。また視神経を刺激しなくても、空想で脳が象を結ぶ事は可能であり、(夏向きの話をすれば)幽霊を観たという人は確かに「見ている」のである。
あまり写りの良くない硯の写真であっても、過去に豊かな経験を持った人であれば、そこから豊富な情報を脳裏で再構成する事ができるのである。仮に玄人と素人が同じ写真を見ていても、脳裏で結ばれた画像は、確実に「別もの」であると考えなければならない。違いが分かるとか分からないとか言われるが、本質的には見えているものが「違う」はずなのである。
「墨色の違いがよくわからない」と言う人がいるが、そもそも経験が足りていない場合が多い。墨汁しか見たことがなければ、無理からぬことだ。墨色は、特別な才能をもった限られた人間にしかわからないようなことではない。多くを観、触れていれば、自然と分かってくるものだと考えている。それは単に墨色で描かれた畫や書を観るばかりではなく、やはり良い墨を硯で磨り、自ら使ってみる事も大切なことである。数多くの博物館を回り、数多の書画を眼にし、図録を山ほど家に積んでいても、硯を持たず、墨を磨った事もなければ、墨色の良し悪しがわかるというものではない。墨色が分からなければ、書画を鑑賞しているといっても、その美しさの半分も理解できるものではない。すくなくともその書画を描いた人物ほどに、その畫を「観ている」とは決して言えないのである。
上海博物館藏陳淳「墨花図冊」この陳淳の「墨花図冊」にしても、実物を観たことのある小生がこの写真を見る場合と、まだご覧になった事が無い方では、あるいは見え方が全く違ったものになているかもしれない。もとの紙は保存状態がよく、綺麗な白い紙として記憶しているが、展示室が暗いため、この写真では淡墨で染めたように淡いグレーがかかっている。小生がこの写真を見るときは、上海博物館の展示室の暗さが思い起こされるから、幾分はその分を差し引いて明るいトーンとして認識しているかもしれない。やはり高演色のLED電球が欲しいところだ.......この写真を観ていると「もっと光を」という思いが残るところである。
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「河野隆作品展」開催のお知らせ 〜大分県臼杵市「中国陶瓷美術館」

4/24〜6/20の期間、大分県臼杵市市浜の中国陶瓷美術館にて河野隆氏の作品展が開催されます。大分県在住の後藤氏から情報をいただきました。

篆刻をされる方というのは、金石学の伝統で古代の書体を研究されますので、文字に対する深い造詣が現れた作品が特色ですね。氏の作品からも、文字に対する真摯で誠実な姿勢を見ることが出来ます。

開催期間:平成22年4月24日〜6月20日 
開館時間:9:30〜17:00
開催場所:臼杵市市浜808-1 
     中国陶瓷美術館 ギャラリーHARU
※月曜休館(月曜祝日の場合は翌平日)
入館料:大人300円/小中高100円
お問い合わせ:中国陶瓷美術館
TEL0972-62-2882

詳しくは「中国陶瓷美術館」の特設ページをご覧下さい。

他にも展覧会の情報など、ございましたらお寄せください。

店主 拝
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「遊于篆刻(篆刻に遊ぶ)」 高黄鵬 書・篆刻展のお知らせ 

このページの上のバナーでもお知らせしていますとおり、篆刻家、高黄鵬(こう・こうほう)氏の篆刻展、「遊于篆刻(篆刻に遊ぶ)」が来週の27日〜29日、京都のうずらギャラリーで開催されます。
以前にも紹介しましたが、高黄鵬氏とは奇縁があり、そもそもある年の正月に上海の博印堂に立ち寄った際に知り合ったのでした。そのときのお話で古い筆をたくさん蒐集していて、いつか筆管の拓をとって本にしたい、とおっしゃっていたのが印象に残っていました。
小生もいささかの筆の蒐集は行っていましたが、ちょっと氏には及ばないと思います。また、それこそ萬巻の書物を蓄え、名跡や古印体の研究に余念がないところも、王朝時代の印人を彷彿とさせます。

このブログで毎回記事の最後に押されている「龍尾山人」印も氏の手になるものです。呉譲之を思わせる古印の風合いを遺しながら、シャープで屈強な線で彫られた印風が特色です。近年、こういった仕事ができる数少ない印人のひとりでしょう。会場では、印の注文を受け付けてくれるそうです。
斉白石や呉昌碩といった、モダンな印風とはやや異なりますが、蔵書印や収蔵印、あるいは繊細な工筆画や小楷作品には似つかわしい印風だと思います。落款印というのは作品の大きさや、雰囲気に合わせていくつも必要になってくるものですが、この機会にひとつ依頼してはいかがでしょうか。(ここだけの話、非常にリーズナブルです)


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場所は京阪三条に近い便利なところです。この紅葉の美しい季節、また京都国立博物館や、京都市立美術館、あるいは泉屋博古館へのお立ち寄りとあわせて、観覧されてはいかがでしょうか。
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名と字と字行 〜方于魯の場合

方于魯ははじめ名を大滶といったそうだ。小生はこの墓誌銘読解における初回で、このことを忘れていた。
「大滶」の「滶」は河南省に水源を持つ河の古称で、河北の汝水(現:汝河)に注いでいる。方建元の父親は江陵(湖北省)に商用の旅をした時に、陳氏を娶って方建元が生まれたということだが、湖北と河南は隣接している地域である。母親が河南の出身か、あるいは方建元が河南で生まれたのかもしれない。
この名を“字行”によって「建元」と改めているとした資料がある。“字行”というのは、世代にわたって、ある詩句の文字を一文字づつ名前に用いることである。この名前は“名”のときもあれば“字”の場合もあったようである。

ちなみに“名”と“字(あざな)“の違いは、「儀礼/士冠礼」には“冠而字之,敬其名也。君父之前称名,他人則称字也。”とある。また「疏」には“始生三月而始加名,故云幼名,年二十有為父之道,朋友等類不可復呼其名,故冠而加字。”とある。
すなわち、成人した後に字を名乗り、以降は父親の前では自分のことを“名”を用いて自称し、朋友の前では“字”を用いたようだ。朋友等も“字”を用いて呼ぶ、ということになる。

「字行」はもともとは宋の皇室、趙氏が創始したもので、庶民には許されていなかった。宋代の祖先崇拝の儀礼には身分によって厳しい規制があり、皇室は“七廟”すなわち七代前までの祖先を祭ることが出来たが、これが三品以上となると五廟、それ未満は四廟(すなわち父親、祖父、曾祖父、曾々祖父)であり、庶民は父親と祖父までとされていた。とはいうものの、実際はある程度の家なら延々と前代にわたって祀ったようであり、これを僭礼といったそうな。
祖先を祀る際の儀礼のあり方は、階級によって違いが定められ、その細い規則も時代によって変化していった。
皇室の権威を示すには、臣下や庶民とはその祖先の祀り方も別格にする必要があった。また儒教の教えにより祖先を敬(うやま)え、といっても葬儀や祭儀に民力が消耗されるのは、実際のところ好ましいことではない。どうも放置しておくと葬儀や祭礼にはどんどんお金をかける傾向があったようで、歴代の王朝でこの「厚葬」のあり方については度々議論があった。
この祖先崇拝であるが、宋が元に征服された時代は久しく衰え、明代になって復活している。階級による差異は、概(おおむ)ね宋代に則った規制がなされた。
ところが明代の中期以降、士大夫階級を中心に祖先崇拝が篤(あつ)くなって行った。嘉靖十五年には礼部尚書の夏言が「令臣民得祭始祖立家廟疏」を奏上し、家廟における君臣の規制を緩和を訴えた。そして四品以下の士大夫であれば、四世にわたって廟を建立して祀ることが許され、また廟だけではなく、祀堂を建てることも許された。徽州にはこの当時建設された宗族毎の廟堂が多く残っている。
また同時に「字行」の規制も緩和され、字や名を「字行」に則ることが普及し始めたようである。方建元と同年生まれと見られる程君房も、はじめは“大約”といい、のちに「字行」に則り“幼博”を字としている。“君房”は号、あるいは別字とされている。
建元の父親は「時通」といい、方建元の長子は「嘉樹」ということが分かっているが、建元が属した方家一族の「字行」全体は分かっていない。いずれ方氏家譜から見つかるだろうか。

“字“は”名”に関連して付けられることがある。わかりやすい例では三国志の劉備、これは名を”備”、字は”玄徳”であるが、続けると劉備玄徳すなわち「劉氏の玄孫、徳を備える」と読める(どうも政治的演出が芬芬としてかえって出自を疑いたくなるが)。
方建元の場合、「建元」に対して「于魯」なのであるが、「魯」というのは言うまでもなく孔子の故郷「魯国」をいう。「方」には、目指す、倣(なら)うという意味があるから「方于魯」で「魯を目指す」とも読める。また名と字をつなげると「建元于魯」となり「魯に元(もと)を建てる」とも読める。“魯“その一文字で”学問“を意味するから、学問の道での立身をあるいは願ったのかもしれない。
ちなみに「于魯」という字であるが、「方氏墨譜」の叙文には、萬暦帝が親しくその墨を「方于魯墨」と呼んだことから、後に「于魯」を名とし、「建元」を字とした、とある。萬暦帝が「方于魯墨」あるいは「于魯墨」と言ったことを、特筆したのはなぜだろう?程君房の墨も宮廷に入ってるし、羅小華の墨も神宗は酷愛している。「君房(大約)墨」とか「小華墨」と萬暦帝が親しく呼んだことは、伝わっていない。
「魯墨」というと、「魯墨論議」が有名である。春秋時代に、魯班という伝説的な技術者がいた。楚の王は魯班を起用し、魯班は“雲梯“という攻城兵器を開発して他国への侵攻を準備していたところ、墨子が現れて楚王に侵略の非を説く。楚王は魯班と墨子に模擬戦を行わせたところ、守備側の墨子は魯班の城攻めの攻撃をすべて撃退したという。このことから堅く守ることを「墨守」と言ったのである。「方」は「まさに(Just)」という用法があるから、「方于魯墨」は「まさに魯墨!」、つまり「まさに墨守」(のように堅い良い墨だ)というような、萬暦帝の洒落っ気ではなかろうか(たぶん)。侍臣も当然それに気付くはずである....
また「知白守墨(あるいは知白守黒)」は書法において、布局(字の配置)のバランスの良否を言う重要な概念である。(さらに言えば、魯班は大工として墨壷(線引きの道具)を発明したといわれている。)

現代中国ではどうか知らないが、中国の古代社会、とくに士大夫の家庭の男子にとって、命名は重要である。姓名という二文字から多くて四文字、五文字程度の文字列からわかることもある。また「字行」は宗族における関係を探る上で、貴重な情報となる。血縁や姻戚が重視されたにも関わらず、文献にはその関係をはっきりと書いていない場合が多い。それは家譜なり族譜なりを見てくれ、ということなのかもしれない。が、この家譜の多くは文革時に破棄されてしまい、なかなか整理された形で手軽にみることが出来ない。再編が熱心に行われているが、どれも大著であり閲覧の便が悪いのが現状である。出版されているものもあるが、ほんの数行の記録のために膨大な分量、相当な金額の家譜を買うのは苦しいものがある。まあ頼んで特定個所だけ探してもらうなどしているが、推測が家譜によって裏付けられると、それはそれは面白く、意外な発見もあるものである。
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黛玉はなぜ泣いてばかりいるのか?

紅楼夢のヒロイン、林黛玉はよく泣いている。なんで泣いてばかりいるのかという真の理由は、物語の核心部分なので書かないでおく。また本人も知らないのである。が、表向きは「身寄りがない」ということが、悲しみの引き金になっている事が多い。黛玉は親兄弟がなく、親類などの身内も一切持たない孤独な身の上なのである。
しかし、である。彼女は豪奢な邸宅の一室を与えられ、衣食住にはまったく不自由しない。聡明で忠実な腰元に仕えてもらい、上の者からは目をかけられ、同輩、とくに年長の宝釵からは大切にされ、主人公の宝玉からは一途に想われている。
しかも黛玉は若くして天才的な詩人であり、詩文以外の諸芸にも優れ、天性美貌にも恵まれているのであった。これで世を儚(はかな)んだら罰があたりそうなものだと、小生のような後世の凡俗は、当初はなかなか彼女の心情に共感出来なかったものである......

中国で知り合った朋友、しかも日本に行ったこともなければ、日本語も全くわからないネイティブ朋友からは、いろいろと面白いことがわかる。
ひとつは、親類に対する意識のあり方である。中国で知り合った若い朋友達は、もちろん多くが一人っ子である。しかし会話の中で「明日は妹と買い物に行く」とか「弟と旅行に行く」といった話が出てくるので、「あれ、兄弟いたっけ?」と聞くと「母の姉の息子」とか「父の弟の娘」のような返事。ようするに日本で言うところのイトコということになるのだが、会話上は「姉」や「弟」というように、普通に兄弟姉妹のように話をしているのであった。どうも、付き合い方も意識の上でも、限りなく日本的な意味での「兄弟」に近いように感じるのである。
これは、地方都市で朋友ができたときに知ったことであり、日本に留学していた経験のある朋友は、”イトコ”と説明するからわからない。あるいは、海外に在住しているので、それほど日常的に親戚付き合いが発生するわけではないためか、そもそも会話に出てこない。
中国でも、特に地方都市に住んでいる朋友というのは、親類の間の関係が深い。近所に親戚のほとんどが住んでいるからだ。これは日本でもいまだにそうなのかもしれない。なので「一人っ子政策」といっても、日本のように核家族化が進んだ社会で一人っ子が増えることと、また違った様相があるようである。

もうひとつ、「義兄弟」「義姉妹」というものである。中国で義兄弟といえば三国演義の「桃園の誓い」でいうところの義兄弟の契りから、その絆の強さはなんとなく理解できるところである。ただし、女性同士の間でも「義姉妹」の盟を結ぶという話がある。
たとえば「浮生六記」の主人公の妻、陳氏は若いころに刺繍を一緒に習っていた女性と「義姉妹」の約束を交わしている。後に家が窮迫し、自身も重い病気になったときに夫婦ともどもこの義理の姉の家に厄介になり、何か月も逗留して病を癒すのである。これはちょっと、なまなかな間柄の話ではない。陳氏の家は貧しいが教養はある、ごく普通の読書人の家である。こういった例というのは、ままあったのだろう。

日本に来ていたとある留学生は杭州市街の出身であったが、帰省する時にはいつもたくさんのお土産を買っていた。親へのお土産というが、ずいぶんと多いと思っていたら「これは義理のお母用」という。「結婚してたっけ?」と聞いたら、そうではなくて「母親の義姉妹」なのだという。これには少々驚いた。
話を聞くと、母親の義理の姉妹のことも「母」と呼び、元旦にはお年玉ももらえるそうである。その息子や娘達とは兄弟姉妹と呼び合うそうである。むろん、義理の母の父親のことも「父」とよぶそうな。義理の兄弟姉妹の間では、当然のことながら血縁関係はない。血縁姻戚関係があれば、当然に兄弟姉妹と呼び合うから、そのうえ「義兄弟姉妹」の契りを結ぶ必要がないということか。
義理の兄弟もあれば義理の姉妹もある。例としては多少少ないが義理の兄妹や義理の姉弟というパターンもあるそうな。なんだか訳がわからなくなりそうだ。
聞いた時は「この子はひょっとするとタダナラヌ社会の出身なのか?」と思ったが、別にその留学生は”江湖”などと言われる”特殊な社会”の出身ではなく、日本の漫画やアニメが好きな、いたって普通(?)の現代っ子なのであった。
また杭州には、立派な外国人用の墓地があり、非常に高価な物件なのであるが、現地の中国人にも分譲されはじめているそうな。その杭州っ子は「将来祖母にあそこのお墓を買ってあげるのが夢」という。
現代日本の大学生の中に、お金をたくさん稼いで祖父祖母に立派なお墓を建ててあげたい、と考えている若者はいるだろうか.........まあ、以上は小生の個人的体験なので、一般化出来るというほどのこともない。
が、現代の中国の人の家族や血縁への意識の高さや、人間関係のすべてを家族関係に置き換えて捉える傾向は、現代の日本人には見られない。これは日本と中国との、人間の関係性に対する意識の差異ではなかろうか。まあ日本でも年上の人を「お兄さん、お姉さん」と呼ぶことに、名残はみられるといえるかもしれないが。

徽州の宗族社会については何度か触れているが、現代の日本社会に生きる小生などとしては、この血縁や姻戚によって結びつけられた意識の強さというものを、よくよく知らなければならないと考えている。これをよくよく知らないと、古人の行動原理が根本的なところでわからないからである。いや、現代中国人の行動原理もよくわからないかもしれない.....
ということで、林黛玉の、身寄りがない心細さというのも、アイデンティティの危機に関わる大問題、ととらえてあげないといけないのかもしれない。自分が何者なのか、確信が持てない辛さというのは、黛玉のような聡明で感性豊かな少女にとっては、計り知れない辛さなのであろう。
あまりに当たり前のことは、わざわざ文章にかかれないものである。が、清朝初期に書かれたこの物語には、当時の人々が当然備えていた常識や観念が濃密に描かれているのである。
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中国の小学生が暗記する「漢詩160篇」

ジャッキー・チェンの往年の名作「酔拳」の中に、主人公の黄飛鴻が、師匠の蘇化子と酒を酌み交わす場面がある。興が乗ってきた蘇化子はふと「飛鴻、お前学校は出たか?」と聞く。飛鴻が「出たよ。」と言うと「よし。」と言って蘇化子は李白の「将酒進」を歌いだすのである。そして蘇化子の声に飛鴻が唱和する。
親子以上に歳の離れた師弟が、二人して歌いながら杯を重ねるこの場面が小生は好きなのだが、学校、おそらくは小学校程度で習った詩文が酒席で興をそえるというのが面白い。

林黛玉は香菱に数百篇もの詩を暗記しなさい、と言ったのだが、現代中国の義務教育でも「小学生必背古詩詞」というのがあって、小学校6年間の間に160編の古詩、つまり日本人がいうところの漢詩を「必背」させることになっているそうである。160首のうち70首が必修中の必修で、これに90篇の補充篇があるが、実際は160篇すべてを暗記させているという。
「必背」の「背」はつまり背を向けることであるが、要は暗記、暗謠である。書における臨書でも、手本を見ないで書くことを「背臨」とか「暗臨」という。
ちなみに中学生になると「中学生必背古詩詞80篇」というのがあり、これもまた丸暗記である。「中学生」の方はひとまずおいておいて、小学生が暗記するといわれる、160篇を少し長いが以下に列記してみた。

「必修70首(71−160)」

1 「江南」 漢楽府
2 「敕勒歌」 北朝民歌
3 「咏鵝」 駱賓王(唐)
4 「風」 李[山喬](唐)
5 「咏柳」 賀知章(唐)
6 「凉州詞」 王之渙(唐)
7 「登鸛雀楼」 王之渙(唐)
8 「春暁」 孟浩然(唐)
9 「凉州詞」 王翰(唐)
10 「出塞」 王昌齢(唐)
11 「芙蓉楼送辛漸」 王昌齢(唐)
12 「鹿柴」 王維(唐)
13 「送元二使安西」 王維(唐)
14 「九月九日憶山東兄弟 王維(唐)
15 「静夜思」 李白(唐)
16 「古郎月行」 李白(唐)
17 「望廬山瀑布」 李白(唐)
18 「贈汪倫」 李白(唐)
19 「黄鶴楼送孟浩然之広陵 李白(唐)
20 「早発白帝城」 李白(唐)
21 「望天門山」 李白(唐)
22 「別董大」 高適(唐)
23 「絶句」 杜甫(唐)
24 「春夜喜雨」 杜甫(唐)
25 「絶句」 杜甫(唐)
26 「江畔独歩尋花」 杜甫(唐)
27 「楓橋夜泊」 張継(唐)
28 「游子吟」 孟郊(唐)
29 「江雪」 柳宗元(唐)
30 「漁歌子」 張志和(唐)
31 「塞下曲」 盧綸(唐)
32 「望洞庭」 劉禹錫(唐)
33 「浪淘沙」 劉禹錫(唐)
34 「賦得古原草送別 白居易(唐)
35 「池上」 白居易(唐)
36 「憶江南」 白居易(唐)
37 「小児垂釣」 胡令能(唐)
38 「憫農」 李紳(唐)
39 「憫農」 李紳(唐)(38とは別)
40 「尋隠者不遇」 賈島(唐)
41 「山行」 杜牧(唐)
42 「清明」 杜牧(唐)
43 「江南春」 杜牧(唐)
44 「楽游原」 李商隠(唐)
45 「蜂」 羅隠(唐)
46 「江上漁者」 範仲淹(宋)
47 「元日」 王安石(宋)
48 「泊船瓜洲」 王安石(宋)
49 「書湖陰先生壁」 王安石(宋)
50 「六月二十七日望湖楼醉書」 蘇軾(宋)
51 「飲湖上初晴后雨」 蘇軾(宋)
52 「恵崇春江晩景」 蘇軾(宋)
53 「題西林壁」 蘇軾(宋)
54 「夏日絶句」 李清照(宋)
55 「示児」 陸游(宋)
56 「秋夜将暁出籬門迎凉有感 陸游(宋)
57 「四時田園雑興」 範成大(宋)
58 「四時田園雑興」 範成大(宋)(57とは別)
59 「小池」 楊万里(宋)
60 「暁出浄慈寺送林子方 楊万里(宋)
61 「春日」 朱熹(宋)
62 「題臨安邸」 林升(宋)
63 「游園不値」 叶紹翁(宋)
64 「郷村四月」 翁卷(宋)
65 「墨梅」 王冕(元)
66 「石灰吟」 于謙(明)
67 「竹石」 鄭燮(清)
68 「所見」 袁枚(清)
69 「村居」 高鼎(清)
70 「己亥雑詩」 [龍/共]自珍(清)

「補充90首(71−160)」

71 「垓下歌」 項籍
72 「大風歌」 劉邦
73 「長歌行」 漢楽府
74 「七歩詩」 曹植
75 「贈範曄」 陸凱(南北朝)
76 「賜蕭」 李世民
77 「渡漢江」 宋之問(李頻)
78 「回郷偶書」 賀知章
79 「登幽州台歌」 陳子昂
80 「望月懐遠」 張九齢
81 「宿建徳江」 孟浩然
82 「从軍行」 王昌齢
83 「少年行(其一)」 王維
84 「竹里館」 王維(唐)
85 「相思」 王維
86 「採蓮曲」 劉方平
87 「独做敬亭山」 李白
88 「秋浦歌」 李白
89 「勧学」 顔真卿
90 「逢雪宿芙蓉山主人」 劉長卿
91 「江畔独歩尋花」 杜甫
92 「江南逢李亀年」 杜甫
93 「贈花卿」 杜甫
94 「聞官軍収河南河北」 杜甫
95 「絶句漫興九首(其五) 杜甫
96 「七歩詩」 曹植
97 「江村即事」 司空曙
98 「観滄海」 曹操
99 「次北固山下 王湾
100 「銭塘湖春行」 白居易
101 「西江月」 辛弃疾
102 「天浄沙・秋思」 馬致遠
103 「亀雖寿」 曹操
104 「過故人庄」 孟浩然
105 「題破山寺后禅院 常建
106 「聞王昌齢左遷竜標遥有此寄」 李白
107 「夜雨寄北」 李商隠
108 「泊秦淮」 杜牧
109 「浣渓沙」 晏殊
110 「過松源晨炊漆公店」 楊万里
111 「如梦令」 李清照
112 「観書有感」 朱熹
113 「山中雑詩」 呉均
114 「竹里館」 王維
115 「峨眉山月歌」 李白
116 「春夜洛城聞笛」 李白
117 「逢入京使」 岑参
118 「[シ除]州西澗」 韋応物
119 「江南逢李亀年」 杜甫
120 「送霊[シ撤-才]上人」 劉長卿
121 「約客」 趙師秀
122 「論詩」 趙翼
123 「望嶽」 杜甫
124 「春望」 杜甫
125 「石壕吏」 杜甫
126 「帰園田居(其三) 陶渊明
127 「使至塞上」 王維
128 「渡荊門送別」 李白
129 「游山西村 陸游
130 「長歌行」 漢楽府
131 「夜望」 王績
132 「早寒江上有懐」 孟浩然
133 「望洞庭贈張丞相」 孟浩然
134 「黄鶴楼」 崔[景頁]
135 「送友人」 李白
136 「秋詞」 劉禹錫
137 「魯山山行」 梅尭臣
138 「浣渓沙」 蘇軾
139 「十一月四日風雨大作」 陸游
140 「酬楽天揚州初逢席上見贈」 劉禹錫
141 「赤壁」 杜牧
142 「過零丁洋」 文天祥
143 「已亥雑詩」 [龍/共]自珍
144 「贈从弟」 劉[木貞]
145 「送杜少府之任蜀州」 王勃
146 「登幽州台歌」 陳子昂
147 「送元二使安西」 王維
148 「早春呈水部張十八員外」 韓愈
149 「无題」 李商隠
150 「登飛来峰」 王安石
151 「望江南」 温庭[竹/均]
152 「月夜」 劉方平
153 「商山早行 温庭[竹/均]
154 「卜算子」 咏梅 陸游
155 「破陣子」 晏殊
156 「浣渓沙」 蘇軾
157 「関雎」 詩経
158 「従軍行」 楊炯
159 「月下独酌」 李白
160 「別云間」 夏完淳

相当な分量だが、6年間かけてとなると、必修なら一ヶ月一首、補充併せても一ヶ月に2首〜3首程度だから、無理がある分量というわけでもないのだろう。実際の指導の様子や運用方法については小生も詳らかではないのだが、ともかくも祖国の文芸の精髄を、幼いうちから叩き込むというわけである。
著しい経済発展の過程にあり、それを支える産業の高度化を促進している中国の、初歩の義務教育というのはかくのごとくである。この160篇がいつ頃から始まったかは知らないが、ともかく文革以後のことであろう。
日本では、古文漢文を習いはじめるのは中学生からだったと記憶している。次回までに暗記してきなさい、という先生もいるかもしれない。小生が中学生、高校生だった昔は古文も漢文も丸暗記を求められたものである。

まあ、詩を覚えても社会に出てから何の役にも立たない、という意見もあるかもしれない。が、逆に言えば詩を共通の知識として知っている人々から成る社会では、知らないと少し困ったことになるかもしれない。

上記のリストに李白の「将酒進」が無いのは少し残念な気もするが、小学生に飲酒の詩を教えるわけにはゆかない....というわけでもなく、酒が出て来る詩は結構ある。まあ、小学生には意味がわからないところも沢山あろうが、覚えておけば後々「そうか!」と思える瞬間がくるものである。
陸游の名も見られる。林黛玉などが見れば、思わず眉を(ひそ)めるような詩も混じっているのかもしれないが、ともかく現代中国ですら小学生の頃からこれほどの漢詩を覚えるのだから、王朝時代の黛玉や香菱が唐詩の百篇や二百篇を覚えるのは、あるいは造作も無いことだったのかもしれない。
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