読 蘇軾「留侯論」

蘇軾に、漢の功臣張良(子房)について論じた”留侯論”という文章がある。面白い文章なので、以下に大意を示そうと思う。こうした漢文の大意というのは注釈を別途施すものなのだろうが、いちいち参照するのもたぶん手間なので適宜カッコ付きで大意中に補ってみた。
 
(1)
古之所謂豪傑之士者、必有過人之節、人情有所不能忍者。
匹夫見辱、拔劍而起、挺身而鬥、此不足為勇也。
天下有大勇者、卒然臨之而不驚、無故加之而不怒、此其所挾持者甚大、而其誌甚遠也。

古(いにしえ)の所謂(いわゆる)豪傑の士は、必ず人に過ぐる節あり、人の情に忍ぶあたわざる所あり。
匹夫(ひっぷ)は辱(じょく)に見(まみ)えれば、劍(けん)を抜きて起ち、身を挺(てい)して鬥(たたか)う、此(こ)れ勇と為すにたらざる也(なり)。
天下に大勇あれば、卒然として之に臨んで驚かず、故(ゆ)え無く之を加えても怒(いか)らず、此れ其の挾持(きょうじ)する所(ところ)甚だ大といえども、其の志し甚だ遠(えん)也り。

昔のいわゆる豪傑の士というのもは、かならず人よりも節制の心がつよく、また普通の人であればとうてい我慢できないことでも、耐え忍ぶことができた。
つまらない人物は、いったん恥をかかされれば、剣を抜いて立ち上がり、命がけで(雪辱のために)戦うものであるが、これは勇気というには及ばないのである。
天下に真の勇気を持つものがあれば、とつぜん侮辱されることがあっても驚かず、理由もなしに恥をかかされても怒ることがない。これはその内に秘めたる(怒りの)感情がとても大きいとしても、その志すところが(怒りよりもいっそう心の)深遠にあるからである。
 
(2)

  夫子房受書於圯上之老人也、其事甚怪。然亦安知其非秦之世有隱君子者出而試之?觀其所以微見其意者、皆聖賢相與警戒之義。世人不察、以為鬼物、亦已過矣。且其意不在書。當韓之亡、秦之方盛也、以刀鋸鼎鑊待天下之士、其平居無罪夷滅者、不可勝數;雖有賁、育、無所複施。夫持法太急者、其鋒不可犯、而其末可乘。

夫(そ)れ子房(しぼう)の、圯上(いじょう)に書を受(さず)ける老人、其の事(こと)甚(はなは)だ怪(かい)。
然(しか)れども亦(ま)た安(いずく)んぞ、其の秦の世に隱君子ありて、出でて之を試みる非ざるをしらんや。
觀(み)るに其の所の微を以て其の意を見るは、皆な聖賢の相與(あいともに)警戒するの義。世人は察せず、鬼物を以て為すは、亦た已に過る矣。
且(か)つ其の意は書にあらず。
當(まさ)に韓の亡びて、秦の方(まさ)に盛んなり、刀鋸(とうきょ)鼎鑊(ていご)を以て天下の士を侍(はべら)せ、其の平居(へいきょ)無罪(むざい)にして夷滅(いめつ)するは、數(かぞ)うるに勝(あた)ふべからず。賁(ほん)、育(いく)ありと雖(いえど)も、複(ま)た施(ほどこ)すところなし。夫(そ)れ法を持して太(おおい)に急(きゅう)、其の鋒(ほう)の犯すべからざるは、其の末だ乘ずべからざるなり。

子房に(下邳の)圯(≒橋の)上で(兵法の)書物をさずけたという老人の話は、大変奇怪な出来事ではある。
しかしどうして(世の中の人は)、かの秦の時代、世に隠れて生きていた(戦国生き残りの、優れた知力と豊かな経験を持つ)人物が、現れて張良をテストしてみた、という事がわからないのだろうか?
その(人物や物事の)わずかな徴候をみて(そこに隠された深い)意味を読み取る、というのは、(始皇帝の強権独裁の時代に、追及を逃れて隠れ住んできた)聖賢たちは、みな互いに注意深く用心しあって(生きのびて)いた、ということでもあるのだ。(あからさまに人を集めて、人材を選抜テストする、などという事はむろん出来ない時代だったのである。)
世の中の人はこれがわからず、怪異な出来事としてかたずけてしまうのは、もちろん誤りなのである。
その説話の真の意味は、授けられたという兵法書にはないのである。(座学だけで稀代の軍師になど、なれるはずがないではないか。それは所詮、書生の夢なのであって、”兵法書”を真に受ける奴は人生経験が足りないのである。)
時代はまさに(張良の祖国である)韓が滅び、秦(王朝)の勢い盛んな時期であり、刀鋸(とうきょ:かなたやのこぎり)、(あるいは人をかまゆでにする)鼎鑊(ていかく:ゆでかま)でもって、天下の人物をおどしつけしたがわせ、普通に暮らし無実なものでも(秦の法の網の目にからめとられて)刑死されるものは、かぞえきれないほどであった。
古代の勇者、賁(ほん)、育(いく)がいたとしても、(当時の秦の勢いに)あらがうすべはないのであった。秦は法律をふりかざして残酷に適用したが、その軍事力は(強大で)おかしがたく、いまだ(乗ずるべき)ほころびのみえない時代であった。
(だからこそ、二人は不思議な出会い方をしたとされ、教えの真相はベールに包まれているのである。)
 
(3)

子房不忍忿忿之心、以匹夫之力、而逞於一擊之間。當此之時、子房之不死者、其間不能容發、蓋亦已危矣。
千金之子、不死於盜賊。何者。其身之可愛、而盜賊之不足以死也。
子房以蓋世之材、不為伊尹、太公之謀、而特出於荊軻、聶政之計、以僥倖於不死、此固圯上之老人所為深惜者也。
是故倨傲鮮腆而深折之、彼其能有所忍也、然後可以就大事、故曰“孺子可教也。”

子房(しぼう)忿忿(ふんふん)の心を忍ばず、匹夫(ひっぷ)の力を以て、一擊の間に逞(たくま)しゅうす。當(まさ)に此の時に、子房の死せざるは、其の間は發(はつ)をいれるあたわざる、蓋(けだ)し亦(ま)た危ういのみ矣。
千金の子は、盜賊に死せず。何(なん)ぞ?其(そ)の身、之を愛すべし、而(しこう)して盜賊の之を以って死せるに足らざる也。
子房の蓋世(がいせい)の材を以て、伊尹(いい)、太公(たいこう)の謀(はかりごと)を為さず、特に荊軻(けいか)、聶政(じょうせい)の計において出で、僥倖(ぎょうこう)を以て死せず、此れ固(もと)より圯上の老人の深惜(しんせき)する所為(ゆえん)なり。
是の故に倨傲(きょごう)鮮腆(せんてん)、深く之を折り、彼れ其の能く忍ぶところある也、然りて後に以って大事に就くべし、故に曰く“孺子、教えるべし也。”

張良は(韓の宰相一族の生き残りとして、その祖国を秦に滅ぼされた)ふんぷんたる恨みを抑えることが出来ず、大力の男を雇い、鉄槌の一撃を(もって始皇帝を暗殺することを)企んだ。まさにこの時、(暗殺に失敗したのに)張良が死なずにすんだのは、まさに間一髪のところ、まったく危ないところだったのであろう。
(ことわざに)”千金の(資産をもつ大家の)子は盗賊に殺される事はない”という。それはどうしてか?その身代こそが愛すべきものであり、(自愛するが)ゆえに盗賊の手にかかって死ぬことはないのである。(張良は韓の名門に生まれながら、なんと軽率なことであろう)
張良は世をおおうほどの才能がありながらも、(商王朝建国の功臣)伊尹や(周王朝創建の功臣)太公のような(遠大な、秦の天下を奪う)はかりごとをせず、(始皇帝暗殺を企てた)荊軻(けいか)や(任侠から人の刺客となった)聶政(じょうせい)のような(刺客、暗殺者のたぐいの)はかりごとをもって世に出、幸運にも死ななかったのである。(充分に計画したとはいえ、それでも運が悪ければ殺されていた。)
が、これはもとより圯(≒橋の)上の老人の深く惜しむ理由であった。(並外れた知力も勇気もあり、運にも恵まれながら、ただひとつ時勢を待つ、その我慢が出来ないのは惜しむべし、と。)
このことゆえに、わざと傲慢不遜にふるまい、強いて子房に膝を屈せしめ、それでいて(その態度から)彼が(普通は我慢できないような侮辱でも、志のためには)我慢できるところがあるとみて、それではじめて後に大事を成就出来る人物と考えたのである。だから「小僧、教えるに足るわい」と言ったのである。
 
(4)

楚莊王伐鄭、鄭伯肉袒牽羊以逆。莊王曰“其君能下人、必能信用其民矣。”遂舍之。
勾踐之困於會稽、而歸臣妾於吳者、三年而不倦。且夫有報人之志、而不能下人者、是匹夫之剛也。
夫老人者、以為子房才有餘、而憂其度量之不足、故深折其少年剛銳之氣、使之忍小忿而就大謀。
何則。非有平生之素、卒然相遇於草野之間、而命以僕妾之役、油然而不怪者、此固秦皇帝之所不能驚、而項籍之所不能怒也。

楚の莊王(そうおう)の鄭(てい)を伐(う)ち、鄭伯(ていはく)の肉袒(にくたん)し羊を牽(ひ)き以って逆(むかえ)る。莊王(そうおう)曰く”其の君の能く人に下る、必ず其の民を信用する能(あた)うなり。”遂(つい)に之を舍(ゆる)す。
勾踐(こうせん)の會稽(かいけい)に困(くるし)み、臣妾(しんしょう)して吳に帰して、三年倦(う)まず。且つ夫れ人に報いるの志有りて、人に下る能わざるは、是れ匹夫(ひっぷ)の剛なり。
夫(そ)れ老人は、以為(おもへ)らく子房の才に餘(あま)り有りといえども、其の度量の不足を憂うる、故に其の少年の剛銳(ごうえい)の氣を深折して、之に小忿(しょうふん)を忍ばしめ、大謀に就かしむ。
何則(なんとなれば)平生素(へいせいそ)にあらざりて、卒然として草野(そうや)の間に相遇(そうぐう)し、僕妾の役を以て命じ、油然(ゆうぜん)として怪(あや)しまぬ者、此れ固(もと)より秦皇帝の驚く能わざる、項籍の怒る能わざるところなり。

(紀元前597年に)楚の荘王が鄭(てい)の国を討伐したさい、鄭伯はもろ肌を脱ぎ、(料理人にでも雇ってくださいと)羊を牽(ひ)いてこれに降伏した。荘王が言うには「その君主が人にへりくだれる人物であれば、きっとその国の民からも信頼されていることだろう。」として、ついに鄭をゆるしたのである。
越王の勾践は、会稽山で(呉軍に)包囲されて困窮したとき、(妻子ともども)下僕となって呉王に降伏し、三年の間(呉で下僕の役目を)おこたることがなかった。そもそも人に報復するという志があって、人にへりくだることが出来ないというのは、これは凡人の意地っ張り、というべきなのである。
圯(の)上の老人は、おそらく子房が才能にあふれているといっても、その度量が足りないのを憂慮したのであろう。それでその(子供っぽい、)かたくなな負けん気を深く反省させた。そしてちっぽけな鬱憤を我慢することを学ばせて、(秦の天下を終わらせるという)大きな策謀に向かわせたのである。
なぜそのようなことを老人が子房に強いたかといえば、(仮に)顔見知りでもないのに、突然に野原でたまたま出会っただけなのに、(老人から)下僕がするような事を命ぜられ、それに自然体で応じて不審を抱かせぬという人物(が、もしいたとすれば、それはあたかも根っからの奴隷根性の持ち主のようであり)、これこそは(猜疑心の強い)秦の皇帝を驚かせ(粛清され)ることは無く、項羽(のような短気な人間を)も怒らせることのない人物だからである。
(それゆえ、つまらぬところで命を落とすことは無く、志を全うできるのである。実のところ子房ははじめ老人に殴りかかろうとしたのであるが、グッと自重したところを見て、もうすこし修行すればモノになるとふんだのである。はたして後に子房は、傲慢無礼な高祖にもよく仕えることが出来たのである。)
 
(5)

觀夫高祖之所以勝、而項籍之所以敗者、在能忍與不能忍之間而已矣。項籍惟不能忍、是以百戰百勝、而輕用其鋒。高祖忍之、養其全鋒、而待其弊、此子房教之也。
當淮陰破齊而欲自王、高祖發怒、見於詞色。由此觀之、猶有剛強不忍之氣、非子房其誰全之。
太史公疑子房以為魁梧奇偉、而其狀貌乃是婦人女子、不稱其志氣、而愚以為、此其所以為子房歟。

觀(み)るに夫(そ)れ高祖(こうそ)の以って勝つ所、項籍(こうせき)の以って敗れる所は、能く忍ぶと忍ぶあたわざるの間にあるのみ。項籍は惟だ忍ぶあたわず、是れ百戰百勝を以て、輕しく其の鋒(ほう)を用いる。高祖は之を忍び、其の全鋒を養い、其の弊を侍(ま)つ、此れ子房の之におしえるなり。
當に淮陰(わいいん)の齊を破り自ら王とならんと欲す、高祖(こうそ)怒(ど)を発し、詞色に見るべし。此(これ)に由(よ)りて之を觀るに、猶(な)を剛強の忍ばざるの氣あると、子房にあらざれば其れ誰か之を全うせん?
太史公の疑(うたご)うに以為(おもへ)らく子房の魁梧(かいご)奇偉(きい)とし、而して其の狀貌(じょうぼう)は乃ち是れ婦人女子、其の志氣に稱(そぐ)わずとは、愚(わたくしが)以為(おもう)に、此れ其の子房の以為(ゆえん)なり。

かんがえてみるに、高祖の勝因、項羽の敗因というのは、我慢できるか我慢できないか、この(両者の性格と度量の)違いでしかない。項羽はただ(わずかな形勢の変化にも)我慢できなかっただけで、それまで百戦百勝だからといって、軽々しくその軍を動かし(続け)たのである。それに対して高祖は(劣勢を)耐え忍び、(陣地を守って補給を受けながら)自軍の力が充実するのを待ち、項羽の軍が(ゲリラ討伐に東奔西走して)疲弊するのを待ったのである。(この隠忍自重の持久戦略、)これこそ子房が高祖に授けた策なのである。(つまりは圯上の老人が張良に教えたことなのである)
また淮陰公(の韓信)が(北方の)斉の国をやぶり、斉王となって自立しようとしたときに、高祖は怒りを覚えて、(韓信の使者の前で)言葉や顔色にそれが現れた。それを見て(前述の持久戦の観点から情勢を判断して)『それでもまだ我慢が必要です。(韓信を王と認めなさい)』と高祖を諫めるということを、張良でなければいったい誰がやりおおせたであろうか?(他の者が語気強く諫めたとすれば、きっと高祖は余計に怒って聞き入れなかったであろう。張良の理路整然としながらも、へりくだった恭しい態度が高祖をなだめ、諫言を聞き入れさせたのである。)
太史公(司馬遷)は、(史記列伝で述べるに)子房はきっと容貌魁偉な偉丈夫ではないかと思いきや、(その肖像をみると)意外にも婦人女子のような温和な姿をしていたという、しかしそれではその気宇壮大な策略(をくわだてる軍師の姿)にそぐわないではないか?と述べている。しかしわたくしの愚考では、それこそが子房のすぐれた(人物である)ところのゆえんなのである。
(そもそも我慢のできない人間が、他人、ましてや目上の人物に『ここは我慢なさい』とは言えないものである。充分に我慢のできる人物、あたかも女性のように柔和でうやうやしく、充分にへりくだった張良のような側近の諫言であったればこそ、高祖もたびたび聞き入れたのである...........ああ、かの太史公(司馬遷)は武帝に剛直に諫言して宮刑に処されてしまったが、惜しむらくは、この道理をわきまえていなかったに違いない。それは史記列伝『留侯伝』の太史公の評を読むとわかるのである。)
 
(後記)

「留侯論」というが、より直接的には史記の「留侯伝」に対する批評の体をとっている。この文章は北宋は仁宗の嘉祐六年(1061年)の応制、すなわち皇帝の命の応じた論文試験のうちのひとつであるとされる。その試験は「賢良方正能直言極諫科」という科の試験であり、したがって「留侯論」の内容も「諫言を行う臣たるもの、どのようにあるべきか?」ということが、ひとつのテーマになっている。
「能直言極諫」とは、要は皇帝にもズケズケと口を極めて諫言をいたすことが出来る、という意味であるが、そのような立場にあっても「言い方ってものがあるだろう」というところであろうか。蘇軾は留侯こと子房がたびたび高祖を諫め、策を採用された理由として、その姿勢や態度が重要であった、と言っている。これは単なるうわべをつくろう保身術ではなく、人間理解に基づく深い知恵なのである、という洞察は鋭い。事実、この隠忍自重の姿勢は、子房ひとりの所作のみならず、項羽の楚軍に対する、高祖の漢陣営の基本戦略にも貫かれているのである。
また司馬遷が子房が偉丈夫ではなかったと聞いていぶかしんでいるのを、”愚考”とことわりつつも、軽く批判してもいる。これはもとより、司馬遷が李陵の投降の件で武帝をきつく諫めて、罪に落されたことを暗に指しているのであろう。が、そこをあからさまに書けば、いささか辛辣が過ぎようか。なので蘇軾はそこで筆をおいている。

とはいえこれは若き日の蘇軾の文章である。後年、蘇軾自身は、皇帝からの覚えがめでたかったとはいっても、その詩文を他の廷臣たちに細かく詮議建てされ、不敬罪に問われる事になる。これはこの留侯論を執筆した時点では、思いもよらなかったであろう。乱世の謀臣と、平和な時代に複雑な宮廷政治の世界に身を置く者とでは、身の処し方はおのずと違ったものになる、というところだろうか。
落款印01

「禊泉」 〜明 張岱『陶庵夢憶』より

......東京西部で生まれ育ったわけであるが、東京の水はまずいと地方出身の親がよくぼやいていた。その街は玉川上水から水を採っていた地域だから、都心の方よりまだマシだったはずである。
その東京から学生となって大阪へ来るや、水道の水の不味さにおどろいた。地方出身の友人などは、風呂に入るのも嫌だと嘆いていた。ただ、今や東京や大阪の水も相当に改善されている。

水の悪かった学生時代の大阪から、初めて上海を訪れた際、その水の酷さに愕然とした。うっすらと褐色を呈しているような気味があり、シャワーから出るお湯が生臭い。生水は飲むなというが、言われなくても沸かして茶葉を入れなければとても飲めたものではなかった。上海市内の飲食店ではどこでもお茶が出てくるが、しかしひどく不味いものだった。茶葉も枯れ葉の屑のような、お湯に色を付ける程度のごく粗末なもので、水の生臭さを消しきれない。水替わりに、ビールばかり飲んでいた記憶がある。

しかし湖州の善韻筺徽州まで行くと、墨廠や筆匠の家で出されるお茶が実に美味い。茶葉も良い物だが、水も違ったのだろう。今でこそ、大陸でも調整された水が流通しているが、当時一般の家庭や飲食店で、水を買って飲む人は少なかったものである。
そのころ豫園の方濱中路にあった博印堂では、良い茶葉でお茶を淹れてくれたものだが、水は運んできたものを沸かしていた。どこでも来賓に良いお茶を淹れるようになったのは、ここ10年内の事ではなかろうか。その上海の水も今ではだいぶ改善されている。しかし各家庭では今やウォーターサーバーを設置して、配達される水を飲用しているところが多いのである。

大陸は総じて硬水だという。硬水になるのは、地下に滞留する時間と、土壌に拠るのだという。なるほど、はるか内陸から河川や地上を流れてくる間に、多量のミネラルが溶け込んでしまうのはやむをえまい。国土が狭く地勢が険しく、降った水があっという間に海に流れ去ってしまう日本とでは事情が異なるのである。

しかし昔から硬水ばかりを利用していたかというと、必ずしもそうではないだろう。たとえば徽州の伝統的家屋は、雨水を貯め込んで利用できるような構造になっている。雨水は貴重なもので、家屋に降った水を他所に流してしまうのは、お金を流してしまうようなものだ、という諺まである。こうした雨水は、主に炊事、飲用に使われた。雨水だけにミネラルはさほど多かろうはずがない。
無論、雨水だけで水の需要すべてをまかないうるものではなく、それとは別に、溜池、村の公共の井戸や小河川もある。徽州に限らず、概(おおむ)ね、江南の水郷は街の中央を水路が貫流している。それが水上交通と生活用水を兼ねていたのである。


ところで広大な大陸のなかでは、江南地方は比較的水に恵まれた地方であると言えるだろう。その江南にあっても、大小河川や井戸から汲まれる水の大部分は硬水である。降雨も含めて、軟水の水源は貴重なものであったに違いない。
硬水はその名の通りというか、舌に硬い、重い、からい、苦い、といった、金属的な気味を有するものである。反して軟水は、軽く、舌に甘さを感じるものである。
言うまでもなく、茶を淹れるにしても、酒を醸造するにしても、水の良し悪しは死命を決する問題である。茶の場合、やはり軟水が望ましい。
陸羽は「茶経」の中で、茶を淹れるのに適した水を選んでいる。無錫にある惠山泉はその筆頭として名高い。以前ご紹介した”唐解元一笑姻縁”にも、「せっかく無錫に行くのだから、惠山泉を汲んで帰りましょう」というくだりが出てくる。
硬水しか出ない地域であるからといって、人間はその水に適応しきれるものではないのだろう。唐代の楷書の極則と言われる碑帖に「九成宮醴泉銘」がある。醴泉(れいせん)とは醴(あま)い水の出る泉の事である。むろん砂糖水のように甘かろうはずがなく、飲みやすい、比較的ミネラル分の少ない水の出る泉だったのだろう。わざわざ銘を作ったのは、醴泉が沸き出る事自体が、帝王の聖徳を寿(ことほ)ぐ瑞兆であると考えられていたためである。長安のあった北方内陸部だけに、軟水はことのほか貴重だったのではないだろうか。


以前にも掲載した張岱の「陶庵夢憶」に「禊泉」という話がある。これは紹興で張岱が見つけた泉の水について書いている。張岱は茶に精通していたが、同時に各地の水を良く弁別できた、と語っている。
紹興は海に近い低地であるから、地下水が多少の塩分、ミネラルを含んでいる場合が多いのだろう。”潟鹵”とは、土壌が”潟”のようで、塩辛い、という意味である。しかし水脈によっては、状態の良い水も沸くところがあったのだろう。禊泉はそうした泉の一つと考えられる。紹興が現代にいたるまで酒の醸造で有名なのも、やはり水に拠るところが大きいのだろう。
陶庵夢憶の「禊泉」の大意を以下に試みる。



「禊泉」




 惠山泉不渡錢塘、西興腳子挑水過江、喃喃作怪事。有縉紳先生造大父、飲茗大佳、問曰“何地水?”大父曰“惠泉水。”縉紳先生顧其價曰“我家逼近衛前、而不知打水吃、切記之。”董日鑄先生常曰“濃、熱、滿三字盡茶理、陸羽<經>可燒也。”兩先生之言、足見紹興人之村之樸。

『惠山泉、錢塘を渡らず、西興(せいこう)の腳子(きゃくし)水を挑(かつ)いで江を過ぎるに、喃喃(なんなん)怪事を作す。有る縉紳先生、大父を造(たず)ね、茗(ちゃ)を飲みて大いに佳(よ)し、問うて曰く“何地の水ぞ”大父(たいふ)曰く“惠泉水。”縉紳先生、其の價(あたい)を顧(かえりみ)て曰く”我家、近衛の前に逼る、水を打ちて吃(きっ)するを知らず、切に之を記せ。”
董日鑄(とうじっちゅう)先生、常に曰く“濃、熱、滿、三字に茶理を盡(つく)す、陸羽の『經』は燒くべき也。”兩先生の言、紹興人の村の樸を見るに足る。』

 惠山泉は錢塘江を越えて運ばれる事がなかった。杭州の西興(せいこう)の渡しの腳子(きゃくし:人足)らが水を担いで江をわたりながら(惠山泉だけ銭塘江を越えないというのは)不思議な事であるとぶつぶつ言ったものである。
さる縉紳先生(郷紳)が、祖父をたずねて、その茶を飲んでたいへんうまかったので「これはどこの水ですか?」と尋ねた。祖父が言うに「惠泉水です。」というと、縉紳先生は其の値段(の高い事)を顧(かえりみ)て言うに”我が家は(紹興の)衛前(門)のすぐそばであるのに、この水を飲むことを知らなかった。きっとこれを覚えておくように。”(すなわち”惠泉”を”衛前”と聞き間違えたのである)
董日鑄(とうじっちゅう)先生は常々いっていた。「濃、熱、滿、この三字に茶の道理は尽くされている。陸羽の茶経などは焼いてしまったほうがいい」
この二人の先生の言いざまは、紹興人の野暮で素朴なところを良く表している。


余不能飲潟鹵、又無力遞惠山水。甲寅夏、過斑竹庵、取水啜之、磷磷有圭角、異之。走看其色、如秋月霜空、噀天為白、又如輕嵐出岫、繚松迷石、淡淡欲散。余倉卒見井口有字劃、用帚刷之、“禊泉”字出、書法大似右軍、益異之。

『余、潟鹵飲むあたわず、又、惠山の水を遞(はこ)ぶ力なし。甲寅の夏、斑竹庵を過ぎるに、水を取りて之を啜(すす)る、磷磷(りんりん)たる圭角(けいかく)あり、之を異とす。走りて其の色を看るに、秋月(しゅうげつ)霜空(そうくう)の如く、噀天為白、又(また)輕嵐(けいらん)出岫(しゅっしゅう)の如く、繚松(りょうそう)迷石(めいせき)、淡淡として散ぜんと欲す。余、井口に字劃あるを見る、帚(ほうき)を用いて之を刷(は)くに、“禊泉”の字出ず、書法大いに右軍に似る、益(ま)して之を異とす。』

私は、(紹興周辺の)潟鹵(塩辛い水)は飲むことが出来ないし、また、惠山の水を運ばせるほどの資力もなかった。
ところで甲寅(万歴四十二年)の夏、斑竹庵に行き、その水を汲んで啜(すす)ってみると、磷磷(りんりん:ごつごつとした)たる圭角(けいかく:カド)が感ぜられたので、これを不思議に思った。
そばに行ってその泉の色を看るに、霜が降りる気配に満ちた空に、秋の月が白く冴えわたっているかようのであり、また輕嵐(けいらん;淡いもや)が岫(しゅう:やまあいの洞穴)から立ち上って、松にまとわりつき、また石の間をさまよいめぐっているような、そして徐々にうすくなって消え去りそうにも感ぜられた。
私は井戸端に字が彫られているのが見えたので、帚(ほうき)とってこれを刷(す)ると、“禊泉”という文字が現れ、その書法は右軍(王羲之)の書に大変似ていた。それでますます不思議に思ったのである。
(言うまでもなく、王羲之は後年を紹興で過ごしている。)


試茶、茶香發。新汲少有石腥、宿三日氣方盡。辨禊泉者無他法、取水入口、第橋舌舐腭、過頰即空、若無水可咽者、是為禊泉。好事者信之。汲日至、或取以釀酒、或開禊泉茶館、或甕而賣、及饋送有司。

『茶に試みれば、茶香(ちゃこう)發っす。新たに汲むは少しく石腥あり、三日を宿(しゅく)し氣方に盡(つ)きん。禊泉を辨(べん)ずる者は他に法なし、水を取りて口に入れ、第(つい)で舌に橋(はし)して腭(あご)を舐め、頰を過ぎれば即ち空し、水無くして咽(の)むべき者の若し、是を禊泉と為す。
好事の者之を信ず。汲みて日至り、或いは取りて以って酒を醸(かも)し、或いは禊泉茶館を開く、或いは甕(かめ)に賣(う)り、有司に饋(はこ)び送るに及ぶ。』

ためしに茶を淹れてみると、茶の香りがたった。新しく汲んだばかりの水はやや石の臭みがあのだが、三日ほどおくとその気が消える。
禊泉の水を弁別しようとすれば、他に方法が無いのだが(その方法とは)、水を汲んで口に含み、次に舌の上にのぼらせて顎(の内側)を舐め、頬を水が通り過ぎるとすぐに余韻が消え去って、飲み下すべき水が口中に無いようにも感じられる、これが禊泉の水である。
好事家たちはそれを信じて毎日来ては水を汲み、あるいはその水で酒を醸造し、あるいは茶館を開いたり、あるいは甕に入れて売ったり、役人への贈り物にするまでに及んだのである。


董方伯守越、飲其水、甘之、恐不給、封鎖禊泉、禊泉名日益重。會稽陶溪、蕭山北幹、杭州虎跑、皆非其伍、惠山差堪伯仲。在蠡城、惠泉亦勞而微熟、此方鮮磊、亦勝一籌矣。

董方伯、越を守るに、其の水を飲み、之を甘きとし、給えざるを恐れ、禊泉を封鎖し、禊泉の名は日益(ごと)に重し。
會稽(かいけい)の陶溪(とうけい)、蕭山の北幹(ほくかん)、杭州の虎跑(こほう)、皆な其の伍に非ず、惠山(けいざん)差(わずか)に伯仲(はくちゅう)に堪(た)う。蠡城(はんじょう)にありて、惠泉は亦た勞して微(わずか)に熟(じゅく)す。此の方は鮮磊(せんらく)、亦た一籌(いっちゅう)を勝る。

董方伯が越(紹興を含む地方)の太守に赴任し、禊泉の水を飲み、その甘さに感じ入り、水が不足する事を恐れて、禊泉を封鎖してしまった。そのため禊泉の名が日増しに高まったのである。
會稽(かいけい)の陶溪泉、蕭山の北幹泉、杭州の虎跑泉(といった各地の名泉の水)もみな禊泉にならぶものではなく、わずかに惠山泉がこれに肩を並べえた。しかし蠡城(はんじょう:紹興)まで惠山泉の水を運ぶなら、その水は疲れて、また老化してしまっている。こちら(禊泉)の方は新鮮で軽く舌の上にころころするようで、やはり一段とまさっているのである。


長年鹵莽、水遞不至其地、易他水、余笞之、詈同伴、謂發其私。及余辨是某地某井水、方信服。昔人水辨淄、澠、侈為異事。諸水到口、實實易辨、何待易牙?余友趙介臣亦不余信、同事久、別余去、曰“家下水實行口不得、須還我口去。”

長年鹵莽、水を遞(はこば)せて其の地に至らず、他の水に易(か)う、余之を笞(むちう)つ、同伴を詈(ののし)りて、其の私を発すと謂う。及ち余の是の某地(ぼうち)某井(ぼうせい)の水を辨(べん)ず、方に信服す。
昔人、水の淄(水)、澠(水)を辨ず、侈(おおい)に異事と為す。諸水の口に到るに、實實(じつじつ)として辨じ易し、何ぞ易牙(えきが)を待たん。
余友(よゆう)趙介臣(ちょうかいしん)、亦(ま)た余を信ぜず、同事(どうじ)久し、余に別れて去るに、曰く“家の下水の實(じつ)に口に行う得ず、須べからく我が口を還(かえ)し去れ。”

長年仕えた魯鈍な家僕に、(地方の)水を運ばせようとしたとき、その地まで行かず、他の(入手しやすい)地の水を代わりに運んできた。私がこの家僕をむち打つと、彼は同行の者に、(その地まで行かなかったという)秘密を暴露したと言って罵った。しかし私が、この水はどこどこのどの泉の水であるかということを弁別すると、はじめて信服したのである。
昔の人は(易牙が山東省を流れる)淄(水)と澠(水)の水を弁別したことを、大いに不思議な事だと言っているが、さまざまな地方の水も口に含めば、実際のところはわけなく鑑別できるのであって、何も(伝説的な料理人の)易牙でなければならないということはない。
私の友人の趙介臣(ちょうかいしん)もまた、私が水を飲み分ける事を信じなかったが、長い事同僚として仕事をしたのち、私と別れて去る時に言ったものである。
「(あなたのご教示のおかげで)わたくしの家の水なんぞ、まったく飲めたものではなくなってしまいました。私の(昔の)口を還してくださらないわけにはいきませんぞ。」

後記)


張岱は茶に僻があったが、茶葉をよく飲み分ける以前に、水の味に精通していた、というわけである。茶の味は用いる水で変わるわけであるが、茶に適した泉については陸羽以来、常々やかましく言われていたのだろう。
「紅樓夢」では、茶に精通した妙玉という女性が登場する。彼女が宝玉等に出すお茶に使われている水は、特定の日に降った雪を煮て貯蔵しておいたものである。それがどのようにつくられた水であるかを言い当てろ、というのだから難しい。適当な泉が無ければ、やはり降雨や降雪を利用することもあったのだろう。
「西遊記」には孫悟空が薬を調合して王の病を治す話がある。悟空は丸薬を服用するのに”無根水”を用いよ、というのだが、”無根水”とは雨水のことである。内蔵の病にかかった病人が飲むのに、井戸水などは避けよ、ということか。
ともあれ、特別な泉がなくとも、雨水の利用などで軟水も入手できたわけである。
また”甘露”という、醴泉と同じく天子の徳を讃える瑞兆とされる現象がある。これは甘く美味しい水のことである。”甘雨”というと、耕作の時宜に適した降雨のことであるが、これに由来する語ではなかろうか。欲しいときに降ってくれる、恵みの雨を口にすれば、それは甘く感じたことであろう。日本では離島でないかぎりは雨水の直接利用は重要ではないが、大陸では降雨が飲み水の貴重な水源であったことがうかがえる。

また墨を磨るにしても、軟水の方が良く溌墨する。大陸は総じて硬水ということで、日本の墨との性質の違いは、水に拠るのではないか?という意見もある。しかし大陸においても、必ずしも硬水ばかりが利用されてきたわけではない、という事は注意していいだろう。
泉水でも降雨でも、良質で飲用に適した水は貴重な資源であること、物流の発達していなかった往時である。現代に勝る事は幾層倍であっただろう。
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元宵節(げんしょうせつ)

今年の2月22日は旧暦の1月15日、元宵節(げんしょうせつ)にあたる。

この元宵節は、日本ではあまり注意されることのなくなった節句であるが、大陸では今でもわりと重んじられている。
由来はいろいろ言われているが、漢の文帝が、呂氏一族を平定した事を記念して定めた、という説がある。高祖劉邦死後、呂后一族の専横によって劉氏が滅ぼされかねまじき勢いであったが、呂后の死後、周勃、陳平の策で呂氏は滅ぼされる。いうなれば漢代における”クーデター鎮圧記念日”とでも言うべきか。

元宵節には、”湯円”といって、ゆでた団子をだべる。麹を発酵させて作った、あまいスープに入った場合もある。団子の中にも餡、とくに胡麻餡を入れるところが多いようだ。ナツメやクコの実、乾燥させた桂花(キンモクセイ)を浮かべることもある。この料理、上海のレストランなどでは、季節に限らず食べられるようになった。
日本では”湯円”を食べる風習がないが、上新粉で中に餡を入れた団子を作り、湯がいてゆで汁ごと器に盛れば、それらしいものができる。あるいは甘酒に浮かべても良いかもしれない。

由来やまつわる風習については、上記のほかにもさまざまであるが、少し調べればわかることなので、ここでくだくだしく述べるまでもない。

言うまでもなく、丸い団子には「(一家)団欒(だんらん)」という意味がある。ゆえに家族そろって元宵節を祝うわけであるが、田舎の方では春節の帰省もこの日で終わり、明日から都会に働きに戻る、というような意味もある。もっとも、春節後の平均的な始業は先週からなのであるが、経済状況を反映してか、いつもより春節の休みが長くとられる業種もある。今年に関しては、工場の工員などは相当早く帰省し、まだ都会に帰らない、という話も聞く。あるいは仕事を探すために、帰省しないでずっと都会に残っている、というようなことも聞く。

紅樓夢では、元宵節に、皇帝の后となっていた元春が帰省を許される場面がある。賈家では、皇族となった元春を迎えるために、新たに庭園を造営するなどして盛大に準備する。これがすなわち物語の舞台となる大観園なのである。皇室に嫁いだ以上、父母といえども娘から見れば臣下なのであり、その帰省にあたっても相当な容儀を整えなければならないのである。結局、賈家の没落の要因が、この大観園造成事業なのであり、建設費用もさることながら、後々までの莫大な維持費に苦しむのである。
賈家で幅を利かせていた熙鳳の経営手腕などは、実のところ穴だらけなのである。いよいよとなって実家が商家の宝釵が知恵を出し、苦労性の探春が辣腕をふるっても、もはやいかんともし難いほどのものであった........どことなく、現代にも通じる話のようである。

元宵節といえば、歴代王朝では、さまざま灯(あかり)をもちいた装飾が用いられた。紙を貼って彩色を施した花灯、彩灯,車輪のついた巨大な灯輪、灯樹、灯柱といったものであり、特に唐代が国威発揚を目論んで盛んであったという。盛大な明かりで節句を盛り上げようという感覚は、現代の祭典にも通じるものがある。
また宋代には男女無礼講の祭りで、着飾った女達が街へ繰り出し、男に入り混じって飲食を行ったという。この習俗はその後もある程度継続したようで、現代では元宵節は「情人節」ということにもなっているそうだ。儒教道徳の厳しい時代、ある程度の家の家庭では、夫婦といえども、常々同じ食卓で食事をとることはなかった。紅樓夢でも、ほとんど女性だけで食事をとっている。子供の頃はともかく、ある程度大人になった宝玉が侍女達に混じって食べているのは、大家の御曹司としては、やはりちょっと変わっているのである。
このあたりの分け隔ての厳しい感覚は、”唐解元一笑姻縁”にも表れる。まして他家の男女が席を同じくするという事などは、日常的にははなはだ不道徳とされたのである。なので男性と日常一緒にお酒を飲めるといえば、妓楼の妓女なのである。それが元宵節だけは、一般の女子も男性に同席して飲食してよいというのだから、それはたしかに盛り上がるのかもしれない。それは大都市部よりも、郷村で盛んであったようだ。息苦しい封建社会にあっても、適度にこのような機会というのはあったようである。漢代の話だが、司馬遷の史記滑稽列伝の淳于 髠でも、そのような話が語られている。

明の唐寅の「元宵節」という詩に、当時の雰囲気がよく出ている。詩中”開口笑”というのは、古くは干したナツメを半分に切って餡を挟んだ菓子であるが、湯円に相当する物であろう。村娘、とあるのは蘇州近郊の農村の娘だろうか。どうも唐寅、このような分け隔てなくにぎやかな雰囲気を好んだようである。場所は蘇州とすれば、郊外の農村の娘たちが、元宵節に合わせて蘇州の繁華街に繰り出してきたのだろうか。あるいは唐寅の方から、蘇州近郊の小鎮に遊びに行った時の情景かもしれない。

明 唐寅「元宵節」

有燈無月不娛人
有月無燈不算春
春到人間人似玉
燈燒月下月如銀
滿街珠翠遊村女
沸地笙歌賽社神
不展芳尊開口笑
如何消得此良辰

(大意)

夜の灯があっても、月が出てなけりゃおもしろくない。
月が出ていても、元宵節の灯がなけりゃ、春は来ないってもんだ。
春さえくれば、世間の人は玉石のように華やぐよ。
たくさんの灯が月明かりの下で赤く燃えれば、月は銀のように白く輝く。
街中、玉飾りをつけて遊び歩く村娘たちでいっぱいだ。
楽(がく)の音や歌が地から沸くように起こり、お宮の神を祀(まつ)っている。
今日は美酒をあけるまえに、まず”開口笑”をひとつつまもうか。
この楽しい夜を、どのように味わい尽くしたらよいだろう。
 
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古典風の現代詩? 〜青花瓷

日本で時々中国語会話を見てもらっている、四川省出身の留学生がいる。今は日本の大学院に留学している。仮にQさんとしよう。Qさんは若いのに、古典文学の素養が豊かである。祖父の薫陶をうけ、高校生の時に二十四史を三回通読したというから、これはかなりの”強者”であるが、あながちではないのは話をしているとわかる。日本語の他に、英語はもちろん、スペイン語を操り、唐代の詩を美しく朗読するために広東語を覚えたというから、文字通り舌を巻く.....。
そのQさん曰く、
「現在の中国の若い人の間では、”古典風”の詩が流行しています。」と言う。
「”古典風”の詩?唐詩や宋詞ではなく?」
「そうですねえ、いうなれば古文と現代文の中間のような詩です。」
大陸の現代語の詩にはあまり興味が無いのでわからないが、「古典風」とはこれいかに?と思って聞くと、
「この流行は、私が思うに、台湾の作曲家で歌手の周傑倫から始まりました。」という。
「周傑倫には方文山という友達がいて、周さんの歌のほとんどは方さんの詩です。彼が”東風破”という歌詞を作り、これがヒットしたことで、若い人の間に”古典風”の楽曲や歌詞が流行するようになりました。」
という。
「方文山の古典風の現代詩にはいろいろと良い詩がありますが、私は”青花瓷”が一番好きです。聞いてみませんか?」
というので、インターネットで再生してみると、なるほど、ある時期よく流れていた曲である。
楽曲的にはR&Bに分類されると言うが、歌詞もメロディーも”古典風”ということだそうだ。それにしてもこのミュージックビデオ、武侠小説的な映像が出たと思ったら、オークション会場?なにやらSF的な.....
「このミュージックビデオは、詩の内容とぜーんぜん関係が無いです。詩はもっと深い内容です。」という。以下がその詩であるが.....

青花瓷 方文山

素胚勾勒出青花筆鋒濃轉淡
瓶身描繪的牡丹一如妳初妝
宣紙上走筆至此擱一半
釉色渲染仕女圖韻味被私藏
而妳嫣然的一笑如含苞待放
妳的美一縷飄散
去到我去不了的地方
天青色等煙雨
而我在等妳
炊煙裊裊昇起隔江千萬里
在瓶底書漢隸仿前朝的飄逸
就當我為遇見妳伏筆
天青色等煙雨
而我在等妳
月色被打撈起
暈開了結局
如傳世的青花瓷自顧自美麗
妳眼帶笑意
色白花青的錦鯉躍然於碗底
臨摹宋體落款時卻惦記著妳
妳隱藏在窯燒裡千年的秘密
極細膩
猶如繡花針落地
簾外芭蕉惹驟雨門環惹銅?
而我路過那江南小鎮惹了妳
在潑墨山水畫裡
妳從墨色深處被隱去

なるほど、一読というか一見しても、わかるようなわからないような感じの詩である。自由形式の散文詩のようだが、現代語の発音で韻は踏んでいる。現代中国語に非ず、さりとて古詩にあらずということだが......
「現代の中国の若い人は、この歌詞を聞いたら、すぐに内容がわかるの?」と聞くと、
「完全ではないですが、およその雰囲気はわかります。方文山はいろいろな意味をあいまいにぼかして埋め込んでいるので、解釈が難しいです。完全に理解するには古典の深い素養が必要です。」という。
日本でも人気のある歌手だからか、検索すると”青花瓷”の日本語訳も散見されるが、これがまたどれも意を尽くしているとは思われない。現代語でもないし、古文でもないというところが、かえって解釈が難しいのかもしれない。古詩であれば、訓読を経ることで訳出の正確性をある程度までは担保できるが、現代詩となると訓読のしようがない。

せっかくなので、これも一興と、解釈を施してみることにした。とはいえ現代中国語の語感については正直よくわからないところもあり、要所の解釈ではQさんの助けを借りた。Qさんがいうには、この詩の解釈や評価を巡っては、意見が分かれるところもあるという。作者はあえて正解を示さないそうだ。そういうものだろう。
以下、いくつか解釈のポイントを述べたうえで、大意を示す。
 

”焼き物”が象徴するもの


まず基本的な前提から。この詩は、ある男性の、先立たれた妻ないしは恋人への追憶をテーマとしている。
詩の中で焼き物、陶磁器を使って象徴しているのは、”変わらない物”、”永遠の美”である。そして主人公の『彼』は染付けの焼き物に、死んでしまった『彼女』を重ねている。美しい女性を陶器に喩えるのは、古典的な比喩の例である。
その『彼女』は死んでしまい、現実世界からは消え去ってしまった。それでも『彼』の心は陶磁器と同じく”不変”であり、『彼女』の美しさも、陶磁器の美と同じく(彼の心の中では)永遠に美しい、ということをうたっているのである。後述のように、この焼き物を焼いているのは『彼女』であり、儚い『彼女』の命に比べて永遠とも思える焼き物の美を対置してもいる。

 

 

詩中の男女はどのような人物たちか?


この詩の中の男女はどのような人物たちであろうか?まず男性の『彼』であるが、詩の中では『彼』の行為として”宣紙上走筆(宣紙の上に筆を走らせて)”という表現がある。また”書漢隸仿前朝的飄逸(王朝時代の飄逸な書風にならった隸書を書き)”または”臨摹宋體落款時(宋体を臨模して落款する)”とあるから、書の心得のある人物とみられる。また最後の方の”在潑墨山水畫裡(溌墨山水画の中に)”というのも、『彼』が書いた山水画であると考えられるから、『彼』は書画家ないし書画の心得をもった、文人的素養のある人物と考えられる。

対して『彼女』であるが、行為として”妳(あなたが)隱藏(かくした)在窯燒裡(窯焼きの中に)千年的秘密”とある。この部分を素直に考えると、少し意外なようでもあるが、作陶家であると考えられる。詩の中で『彼』は、染付の陶磁器に、『彼女』の面影や記憶を重ね合わせているのであるが、それらの陶磁器が作陶家である『彼女』の作品であると考えると、より情景が理解しやすいのである。

 

素胚勾勒出青花筆鋒濃轉淡”とあるが、筆鋒は染付の焼き物の筆致。それが濃い色から淡い色に変化してゆくというのは、染付の筆致をたどる描写と同時に、その染付を描いた彼女の記憶をたどる行為を暗示しており、記憶が過去にさかのぼるごとに淡くなってゆく、ということでもある。

また”瓶身描繪的牡丹一如妳初妝(瓶に描かれた牡丹は、まるであなたがはじめてお化粧をしたよう)”という句についても、化粧も陶磁器の絵付けも筆を使ってする作業であり、また染付の陶磁器には『彼女』のイメージが重ねられているから、『彼女』が作陶家とすれば、素焼きの肌に牡丹を描くことは、たしかに『彼女』が自分の顔に化粧をする事に”一如(ごとく)”重なるのである。

そして二人は”而我路過那(わたしが立ち寄った)江南小鎮(江南の小鎮で)惹了妳(彼女と惹かれあった)”というところから、書画家ないし文人の『彼』が、江南を旅した時に、小さな水郷の村で作陶を生業とする『彼女』と知り合い、一緒に暮すようになった、と考えられる。
陶磁器の生産が盛んで、美しい水郷のある江南の地域といえば、江西省の景徳鎮であろうか。景徳鎮は大きな街であるから、その周辺の水村が想起される。文人的素養豊かな『彼』と、焼き物を作る事に職人仕事以上の情熱を注いでいたであろう『彼女』が、互いの中に共鳴できるところを発見して、惹かれあっていったのは不思議なことではなかったというわけだ.......

 

 

 

 

檀香と一縷


”冉冉檀香透過窗心事我了然”、つまり「たちのぼる白檀の香りが窗(まど)からもれでてくるように、あなたのおもうことがわたしにはわかった」ということである。「冉冉」は、ゆらゆらと烟が立ち上る様子を表現する語である。
喪われた美女の魂を”香魂”、埋葬された美女を”埋香”というように、この世を去った美しい女性を”お香”に喩えるのは古典的な詩の世界ではありふれた表現である。またかならずしも客観的な美女ではなく、自分にとってかけがえのない女性を「香」に喩えてもいい。”お香”は香りを発すると同時に「灰」になり、烟は天に昇って消え去るからである。
ここでは窓から漏れ出てくる”白檀の香り”に、『彼女』の「思っている事」を喩えている。ゆえに後の”妳的美一縷飄散”、「あなたの美しい姿は、一縷の烟のように飛び去ってしまった」でいう”一縷”は、”一縷(いちる)の望み”というように、炊いたお香から細く立ち上る烟であり、『彼女』の魂を表現している。白檀の香りのように馥郁たる『彼女』、それが”飄散”、つまり風に吹き散らされてしまう、というのは『彼女』の死を意味する語に他ならない。
散見される日本語訳には『彼女』と『彼』は単に別れてしまった、『彼女』は『彼』のもとを去ってしまった、という意味で解釈しているものもある。しかし『彼女』が「香」「烟」で象徴されるところから、これは普通の”離別”ではなく(残酷なようだが)かならず”死別”である。
ここをただの”不意の蒸発”とか”Goodbye”という意味で解釈してしまうと、わけがわからなくなる。もしたんなる「離別」の意味で『彼女』を「お香」に喩えたのであれば、作者はまったく古詩の素養が無い人物である。そうではないだろう。
なので続く”去到我去不了的地方”、つまり『彼』の手の届かない”地方(場所)”は、どこか遠いところではなく、直接的には死後の世界なのである。

 

 

 

 

伏筆とは?


”在瓶底書漢隸仿前朝的飄逸”は、”在”からわかるように現在の行為であり、ゆえに行為者は『彼』である。普通、陶磁器の底部に隸書で落款を入れる例はあまりみない。あるいは文人特有の気まぐれか。また『彼女』が作陶家と仮定して解釈すると、この行為者は『彼』であるから、『彼』は『彼女』の死後、その仕事をいくらか継続していたとも考えられる。

次の”就當我為遇見妳伏筆”の”伏筆”は、現代中国語では”伏線”という意味がある。あるいは物語の前段の中で後段の展開を暗示する、あるいは準備する、というような文章表現を”伏筆”という。

陶磁器の瓶の底(いわゆる高台)に自分で落款を入れることが、何故「彼女にあえる」ことにつながるのか?ということであるが、あるいは染付けを入れる前の無地の瓶は、作陶家である『彼女』がつくったものであったかもしれない。それに自分の書を書き入れることで”共にあり続ける”という意味の祈念につながると解釈できる。また”漢隸仿前朝的飄逸”と、わざと古い時代の書体に倣って書き入れたのは、『彼女』が生きていた「過去」にさかのぼりたいという願望を表わしている、と解釈できる。

しかしどんな”伏筆”であっても、”我為遇見妳”すなわち死んだ『彼女』に再会するということは、現実にはありえない。つまり儚(はかな)い望みであり、”伏筆”それ自体は祈念、あるいは”おまじない”のような行為と解釈できる。

また”瓶底書漢隸”と並ぶ『彼』の行為に、”臨摹宋體落款時”があるが、”宋體(体)”は、宋代の印刷書体、現代で言うところの明朝体である。普通によむと、”臨摹”は臨書と”摹(うつしがき)”であるが、”宋体”とあるので、毛筆で臨書することではない。なのでここは”摹”、すなわち”かご字”をとって書体をコピーすることであろう。明朝体をレタリングして落款を入れる、というように読めるのである。

しかしこれが”瓶底”というように、陶磁器の底に”落款”をいれる行為であるとすると、青花染付けの底に明朝体で落款をいれている例が果たしてあったかどうか、記憶が定かではない。普通、作陶家がするなら篆文で落款印の形式であろう。それが明朝体というのは「大清乾隆年製」のように、清朝初中期の官窯の粉彩が念頭にあるのか(これも明朝体のような活字書体ではなく、翰林毛筆体であるが)。

ともあれ、先に述べたように『彼女』が作陶家であり、『彼』が『彼女』の死後、その制作をいくらか継続していたと仮定すると、やはりここでも『彼』が陶磁器に”絵付け”を施し”落款”を入れた、と解釈したほうが良いようだ。『彼』はもともと作陶家ではないが、書画の心得のあるわけだから、”絵付け”だけは出来たと考えても飛躍のし過ぎとは言えないであろう。
また『彼』が陶磁器に対する行為として、「落款」の描写のみがあるのは、『彼』は絵付けまではしておらず、もっぱら『彼女』が遺した製作途中の焼き物に落款を施していた、とも考えられる。その過程で否応なしに『彼女』の絵付けの筆致を目にするであろうし、そこへ落款を施すというのは、やはり”永遠にともにありたい”という、祈念につながる行為である。

 

 

 

 

千年の秘密とは?


”妳隱藏在窯燒裡千年的秘密”、すなわち作陶家である『彼女』は”窯燒裡”、つまり窯での焼成の過程に”千年的秘密”を”隱藏(かくした)”とある。”窯焼”であって”焼窯”ではないから、焼き窯ではなく、陶磁器の製法のことだろう。前述のように、この部分を素直に読まないと、『彼女』が作陶家であることがわからない。ゆえに陶磁器の焼き窯に隠された”千年の秘密”というのは、具体的には陶磁器の製法の秘密と解釈できるのである。
それが”極細膩(とても微妙で、かすかで)”、”猶如繡花針落地(地面に落ちた刺繍針のように)”、というのは、より直截的には「探し出すことが難しい」ということである。

「秘密」を「探している」のは主人公の『彼』であり、やはり『彼女』の死後、染付けの制作を継続していることがうかがえる。無論それは職業的な行為というより、追憶のための行いであったかもしれない。
ともあれ『彼』は『彼女』の陶磁器の製造過程をみていたであろうが、陶磁器は焼く工程がもっとも難しい、職人芸の世界である。その微妙な加減は体得するものであり、『彼』は会得することがかなわなかったのだろう。
『彼女』が焼く陶磁器の美が千年続くとすれば、陶磁器に『彼女』を重ね合わせる『彼』からすれば、その『秘密』とは不変、不滅、不死の秘密である。それが『彼』にとって「探し出す事がとても難しい」というのは、『彼女』が絵付けまでしたところに『彼』が落款を施しても、『彼』には焼成の技術が無く、合作として世に遺すのは難しいことを表わしている、とも読める。普通はしないような隸書や宋体による落款も、あるいは『彼』の個性の発露であるとも考えられる。

『彼』にとって染付けの仕事を継続し、製法の秘密を探る事は、いうなれば鎮魂以上の”招魂(たまよばい)”を感じさせる行為である。喪われた女性の魂を呼び戻そうとするのは、佛教的な観点からすれば”迷妄の極み”ではあるが、白居易の長恨歌に代表されるように、”招魂”は古典的な詩文の世界では繰り返されるモチーフなのである。傷心を最大級に表現する行為であると言える。

 

 

 

 

天青色はどんな色か?


”天青色等煙雨”における”天青色”は、具体的には青磁の色である。日本語訳の多くは晴れた空の色、あるいはここを単に”天青色”とそのまま訳しているものが散見される。さすがに晴天の空が雨を待つ、というのは意味が通らない。北宋の徽宗皇帝が、汝窯の青磁を”雨後天青雲破処”と賞したように、”天青色”で想起されるのは普通は雨上がりの空、ないし青磁の釉色なのである。
徽宗皇帝は汝官窯の色を”雨後天青雲破処(雨上がりの、雲の切れ間からのぞく空の色)”と表現しているが、この詩では逆に”雨上がり”ではなく”雨を待つ空の色”と解釈している。ここを作者の錯誤と指摘する人もいるそうだが、雨がいったん止んで、雲井から青空がのぞいた後でまた雨が降る事もあろうから、別段大きな矛盾は感じない。詩の作者の方文山は台湾の人で、書画骨董、陶磁器に趣味があるというから、当然台北故宮博物院で汝官窯は観ているはずである。
端溪にも青味が浮かんだ”天青”という石品があるが、”雨を待つ”ないし”雨後の空”という意味がある。

また”等煙雨”の”等”は、現代中国語では普通に”待つ”という意味であるが、古詩の世界ではこの用法は見られない。もし”天青色等煙雨”を古典的な詩句で表現するならば”等”を”欲”、すなわち”欲する”に置き換えて、”天青色欲煙雨”となろう。あるいは”色”を省いて”天青欲煙雨”とするところだろう。李白の「夢遊天姥吟留別」には「雲青青兮欲雨」という句があるが、あるいは李白のこの句を意識したものかもしれない。

ともかく詩の題名が”青花瓷”であるから、この詩に登場するのは”青花”すなわち”青い染付け”の焼き物だけと考えると、この”天青色”の箇所の意味が理解できない。青花瓷のミュージックビデオをみても、陶磁器といえば青花しか出てこないものだから、余計にここで”青磁の釉色”を想起するのが難しくなっている。

”天青色”が”煙雨”を待つ、という事であるが、古典的には”煙雨”に象徴されるのは男女間の情愛である。だから”而我在等妳”で、これが「私はあなたを待っている」という意味の”喩え”になっている。しかし『彼女』はすでにこの世の人ではない。その『彼女』を「待つ」とはどういう事か?
この詩に登場する焼き物は”不変”を象徴している。青磁の釉色がいつまでも変わらない様に、天青色が待ち続ける”煙雨”は永遠にやってこない。すなわち詩の主人公が喪われた女性を変わらぬ心で待ち続ける、裏を返せば絶望の表現以外の何物でもないわけである......................詩中で”青花瓷”に象徴されるのが『彼女』であるとすれば、”天青色”の青磁に象徴させるのが『彼』である、とも読める。

”如傳世的青花瓷自顧自美麗”の”自顧自”は現代中国語でも使う、「自らかえりみる」「自ずから」という意味であるが、普通に訳せば傳世品の青花瓷は、他の助けを借りること無く”そのもの自身が美しい”という意味になる。ここで「傳世」の青花瓷が出てくるが、これだけは『彼女』の手による作品ではない。世代を経ていなければ「傳世」とはいえないのである。『彼』が『彼女』の仕事を継承しているとすると、『彼女』が絵付けを行い、『彼』が落款を施した青花瓷が「傳世」の名品になってほしい、という願望の表れである。
続いて”妳眼帶笑意”つまり”あなたのひとみにうかんだほほえみ”は、当然『彼』の記憶の中の『彼女』のことである。つまり傳世の青花瓷がいつまでも”不変”に美しい「如く」、記憶の中の『彼女』も永遠に美しい、二人の合作もそのような「傳世」の名品になってほしい、という意味に解釈できる。

 

 

 

 

炊煙が江を隔てて千萬里とは?


”炊煙裊裊昇起隔江千萬里”の”炊煙”は、文字通りごはんを作る炊事の烟であり、象徴されるのは、現実の日常生活である。”裊裊昇起”は、ゆらゆらと”炊煙”が立ち上る、これは眼前の光景の描写である。ところがそれが”隔江千萬里”とある。”千萬里”は、古典的には実際の距離ではなく、手が届かないようなはるか遠くを指す。「眼前の光景」が「はるか彼方にある」というのは矛盾しているようであるが、無論これは『彼』の心象の表現であり、現実とは時空を異にする世界である。
”隔江(江を隔てて)”は、すなわち”彼岸”の事であり、生者がたどり着くことができない場所、と解釈できる。また古典の詩の世界では、川の流れは”時間の流れ”を象徴している。
つまりかつて目の前にあった、炊煙の立ち上る『彼女』との日々の間には”時間の流れ”が横たわり、”たどりつけないほど”遠くにある、『彼女』との日々が、もう手の届かない過去のものであることを表現しているのである。

 

 

 

 

月色が”打撈起”をこうむる、とは?


”月色被打撈起”、の”打撈”は魚をとらえるために網を打つこと。ここでは”月色”が”打撈を被る”のだから、水面に映った月を網を打って捕まえようとする行為である。”月”は言うまでもなく古典的には女性を暗示し、水面にうかんだ月は、『彼』の心にうかんだ『彼女』の姿である。それを網を打って捕まえようとしても、当然水面が波打って、月の姿はたちまち砕け散ってしまう。それが”暈開了結局”である。”暈開”は滲んでぼやけることであるが、ここでは水面に細かく波立って、月の輪郭がはっきりしなくなることを表わしている。

すなわち記憶に浮かぶ『彼女』の面影を追い求めても、悲しみに心が乱れて、かえってはっきりとしなくなる、というところであろう。古詩でよく使われる「断腸(はらわたがずたずたにちぎれる)」という表現と、同じ心理状態を表わしていると考えて良いだろう。

 

 

 

 

墨色が暗示するところは?


”簾外芭蕉惹驟雨”は簾(すだれ)の外の芭蕉の葉がにわか雨を惹きつける、あるいは呼ぶ、ということである。簾のかかった窓も芭蕉もにわか雨も、江南を想起させる古典的な風物である。また”門環惹銅?”は、扉(とびら)についた青銅のまるい取っ手が、緑青(ろくしょう)を吹いて青く錆びてゆくこと。これも江南の古鎮では廟堂の鉄扉などに目にされるものである。
続いて”而我路過那江南小鎮惹了妳”とあるから、『彼女』が作陶を行っていたのは江南のある小さな水郷であり、そこへ通りかかった『彼』が『彼女』と出会い、惹かれあったのは、雨を待つ芭蕉の葉や錆びてゆく円い取っ手と同じく、ごく当然の自然さで、ということだろう。文人気質の『彼』と、伝統工芸の世界で生きる『彼女』が、互いの中に共感できるものがあった、ということでもあるだろう。そして過去の二人の姿を、この二節で江南の風景の中に溶け込ませているようでもある。劇的な”出逢い”には悲劇的な結末も似つかわしいかもしれないが、ごく自然にみえる運命の成り行きでそうなったのに、何故?という『彼』の悲嘆でもあるだろう。

ゆえに続く”在潑墨山水畫裡”の”山水画”が描いているのは、この”江南小鎮”を含む山水の景観であり、この山水画を描くのはもちろん『彼』である。『彼』が書画を能くする文人的素養を持った人物、ということを念頭に置かなければ、この部分は理解できないだろう。おそらく詩の前半にある”宣紙上走筆”は、この山水画を書きかけて、想いが彼女の事に及んで筆がとまる、という所作ではないだろうか。

”潑墨山水”は、墨液を紙に注ぐようにして、滲みや墨の泳ぎを利用した景観の描写法である。台湾にはこの技法の大家、張大千がいた。また”山水画”というのは、”胸中の丘嶽”すなわち”心の中の風景”を描く、という考え方がある。作者の方文山は「山水合璧」という詩で、黄公望の富春山居図を詩に詠んでいるくらいであるから、古典的な画論の常識にも当然通じているであろう。

この山水画を描くのは『彼』である。なので『彼』の胸中が描き出されるところの”墨色”は、『彼』の心の中の想いや過去の記憶、人生そのものを暗示する。画法が墨液を紙面にそそぐ”溌墨”なのは、墨(=想い)をぶちまける、吐露する、という暗喩が感じられる。故に続く”墨色深處”は、墨色の一番深いところ、である。すなわち墨であらわされた、自分の(心、人生の)中で一番深い、大切な場所から『彼女』は”被隱去”「隠れ去ってしまった」つまり永遠に喪われてしまったことを表わしている。これも『彼』の”絶望”の表現である。

以上を踏まえて、やや冗長になるが大意を以下に示す。



青花瓷 方文山


素胚勾勒出青花筆鋒濃轉淡
白い素地に、細く線描きされた染付けの絵柄、その筆致の色合いは、濃い青から淡い青へと変化してゆく。その筆致をたどるように記憶をたどれば、過去の記憶がだんだんと淡くなってゆく。

瓶身描繪的牡丹一如妳初妝
花瓶のふくらみにあなたが筆で描いた牡丹の花、それはあなたがはじめてお化粧をした頃のような瑞々(みずみず)しさ。

冉冉檀香透過窗心事我了然
たちのぼる白檀の香りがかすかに窓から漏れ出てくるように、あなたが思う事は言わなくても私にはわかる、そのような日々だった。

宣紙上走筆至此擱一半
ひとり今、ひろげた宣紙の上に筆を走らせて絵を描きかけても、ふと、あなたを思い出しては筆をとめてしまう。

釉色渲染仕女圖韻味被私藏
白い釉薬に絵付けされた、美しい古代の女性の絵。その画から滲み出る余韻は、心にしまい続けているあなたへの想い。

而妳嫣然的一笑如含苞待放
あなたの嫣然としたほほえみは、いまだひらかぬ花のつぼみのようだった。

妳的美一縷飄散
でもその美しい姿は、か細い香の烟(けむり)が風に吹き散らされてしまうように、

去到我去不了的地方
わたしがゆく事ができない世界へと、飛び去ってしまった。

天青色等煙雨
青磁の釉色は、今にも訪れる煙雨を待つような、淡く青い空の色。でも青磁の色がいつまでも変わらぬように、煙雨も永遠に訪れはしない。

而我在等妳
その青磁の変わらぬ色のように、私は変わらぬ気持ちのまま、永遠に戻らないあなたを待ち続けている。

炊煙裊裊昇起隔江千萬里
夕暮れに炊煙の立ち上る、一緒に暮らした平穏な日々も、もう手の届かない遠い過去の世界の出来事。

在瓶底書漢隸仿前朝的飄逸
ひとり花瓶の底に、王朝時代の飄逸な書風を真似て、隸書でそっと字を書き入れてみたのは、

就當我為遇見妳伏筆
またあなたに会う事を願う、はかない祈り。

天青色等煙雨
青磁の釉色は、今にも訪れる煙雨を待つような、淡く青い空の色。

而我在等妳
わたしは変わらぬ気持ちのまま、戻ることのないあなたを待ち続けている。

月色被打撈起
水に映った月を、網をうって捕まえようとしても、

暈開了結局
水面は乱れて月の光が砕け散ってしまうばかり。わたしの心の中のあなたを捕まえようとしても、心が乱れて、かえって面影もはっきりえがけなくなってしまう。

如傳世的青花瓷自顧自美麗
伝世の青花瓷は、自ずからいつまでも美しいように、

妳眼帶笑意
あなたの目に浮かんだほほえみは、心の中では永遠に美しいまま。

色白花青的錦鯉躍然於碗底
まるで白地に青のニシキゴイが、碗の底で生き生きと泳いでいるかのような、美しい染付けの焼き物。

臨摹宋體落款時卻惦記著妳
宋代の書体を模してその高台に落款を終えた時、またあなたを思い出さずにはいられない。

妳隱藏在窯燒裡千年的秘密
あなたの焼き物の技に秘められた千年の美の秘密は、

極細膩
とても微妙で、

猶如繡花針落地
地に落ちた細い刺繍針のように、探し出すのは難しい。

簾外芭蕉惹驟雨門環惹銅?
江南では、窓にかけた簾(すだれ)の外の芭蕉の葉がにわか雨を呼び、古い門のまるい取っ手が青く錆びてゆくように、

而我路過那江南小鎮惹了妳
わたしが立ち寄ったあの江南の小さな水村で、あなたと出会い惹かれていったのは、ありふれた自然なことのようだった。

在潑墨山水畫裡
墨液をぶちまけるように山水を描(えが)けば、それは私の胸の内にある、あなたと過ごした江南の風景。

妳從墨色深處被隱去
でもあなたは、わたしの人生のいちばん大切な場所、この墨色に描き出された美しい日々から、永遠に消え去ってしまった..............



無論、以上の大意とは別の解釈も可能であろう。作者はわざと主体をあいまいにして、ストーリーに揺らぎを持たせているからである。しかし詩の中に現れる、古典的な語句の暗示するところは明瞭で、丁寧に追っていけばストーリーは見えてくる。適当に古い言葉、あるいは適当な空想や連想を並べて詩を作っているわけではないはずである。
典故を並べ立てて詩を作るのは唐代の李商隱がいるが、彼とて表現したい主題は明確に心の中にあったであろう。読む人には明確にわからなくても、詩の作者自身が詩に詠いたいところがはっきりわかっていない、ということではない。
解釈にあたっては、いわれるほど深い古典の知識は必要ないと思うが、詩に限らず、画論や書画陶磁器などの文物について、広く一般的な知識が要求されるであろう。無論、方文山の詩は今まで読んだことが無く(どこかで耳にはしていたのであるが)、方文山独特のレトリックの解釈については、彼の詩を愛好しているQさんの助言に依るところが大きい。

ともあれ実話をもとにしているとはおもえないが、陰惨な詩であり、あるいは現代の人の多くは「過去はもう忘れて前向きに......」と言いたくなるかもしれないが、この詩の主人公は”文人”あるいは文人気質の書画家なのである。方文山の他の詩を通読すれば、彼の文人趣味、文人気質が分かるはずである。
文人は過去の詩文や文物を愛好する人物であり、だから自分の過去にも拘泥しないわけにはいかない。このあたりの文人の感覚が良くわからない人には、清朝の文人夫妻の生活を描いた「浮生六記」を一読されることをお勧めしたい。
香港芸術博物館の白虚斎収蔵品の中に、羅聘の妻が方婉儀が絵を描き、羅聘が題賛を書き入れている「夫婦合作」の佳品がある。そういった雰囲気をこの詩中の二人に感じ取るべきであろう。
また文人にとって、作詩や書作、画を描くといった所作は欠かせない日課であるが、そのことごとくが辛い過去の記憶につながってゆくのであるから、傷ましい話である。が、『彼』は文人の勤めであるそれらの事を投げ出す事はしていないし、『彼女』の遺した仕事を継続しながら自分の”絶望”と向かい合ってもいる。弱い人間ではないだろう。
しかしこのようにいつまでも傷心に浸っている文人の心情というのは”今風”ではないし、それを詠んだ詩が現代の若い人に広く受け入れられるというのは、少し意外でもある。

ともあれ、若い人の間では”古典風”が静かに流行しているそうだ。一方で「古典」ならぬ「古典風」を批判する保守的な向きもある。しかし”古典風”で良い詩や楽曲を作ろうとおもったら、古典そのものを深く勉強する必要がある事は、言うまでもないだろう。結果的に、古典文化に若い人の関心が向かうとしたら、これも良い事なのではないかと思う。

 

 

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京博「魅惑の清朝陶磁」

京都に用件があったついでに、京都国立博物館で「魅惑の清朝陶磁」展を見に行った。日本に伝来した清朝の陶磁器を紹介する一方で、日本の焼き物に与えた影響を考察するというのが趣旨の展示であって「大変素晴らしい」というほどの品はもとよりあまりないのであるが、いろいろと参考になる内容であった。
日本の染付の優品と、当時の大陸からの伝来品を並べて見る機会と言うのは、そういえばあまりないかもしれない。日本の染付は、さすがに清朝の官窯などに比べると、ほとんど勝てるものではない。わずかに迫る物がつくられた時代があるが、かなり例外的な作例である。しかし民間の流通品や輸出品で比較すると、品質という観点からみれば、そうそう大陸に劣っている物ではなかったことがわかる。
展示されていた鍋島焼の染付など、繊細緻密なこと、工芸品の技術レベルとしてみた場合はかなりのものである。しかし整い過ぎていることと、大陸の染付にみられるような線の伸びやかさにおいて、やや物足りない物がある。線の違いと言う点では、書や画における線の違いと相通じるものがある。やはり筆や、筆の持ち方、線の引き方などに違いがあったのかもしれない。
趣味性という観点で見たときに、自分自身はやはり大陸の品に関心が傾いてしまうのは、いかんともしがたいところがある。

大陸や台湾で現存する明清の焼き物というと、官窯のような優れた品は大事にされて残っているが、民間で使っていたような品は完整な状態ではほとんど残っていない。まれに完品であっても、非常に粗末な物が多い。民間の流通品のなかでも優品、という品はあまり目にしたことが無い。現在目にすることができる大陸の陶磁器と言うのは、限られた一部の高級品がほとんどなのである。高級品が残っていればいいじゃない、というのも、確かにひとつの考え方ではあるが。ともかく日本においては、日用品であっても「舶来の品」ということで大切にされ、相当数が残ったということなのだろう。
こういった事情は、文房四寶においても実用の普及品の筆がほとんど伝存しておらず、わずかに日本の静嘉堂文庫にその片鱗を見ることが出来ることに、やや似ているかもしれない。大陸や台湾の博物館にあるような意匠を凝らした高級品だけでは、毛筆文化の全体像はつかみにくい。実用品の筆は大陸では消耗してしまって残っていないのである。日本に輸入された品が、たまたま珍重されて残っていたに過ぎない。
そうそう「魅惑の清朝陶磁」では、静嘉堂文庫も優品を何点か出していた。あるところにはあるなあ、と言うところか。

小生は陶磁器も鑑賞するのは好きであるが、硯や墨のように古い品を買うという事はほとんどしたことが無い。人にお見せするほどの品はない。あたりまえだが、これは素晴らしいというほどの品は、もとより手が届かない。日頃いじっている硯と希少性や美観で同等と思えるような焼き物は、すでに買えるような値段ではないからである。
硯では老坑水巌など、材質という点からいえばまあ一流といって差し支えないモノを使いながら、焼き物は三流にもかからないものしか手に取れないのでは、最初から集めようという気力が起こらない。とはいえ、やはりなんとなく気になるモノで、見ることが出来る限りは見るようにしている。幸い、日本や台湾など、行きやすいところに優品が集中している。

陶磁器に関しては、青花、染付よりも青磁や白磁の方が好みであるが、硯も細かく掘られた彫拓の意匠よりも、硯石の材質に目が行くのと同じ感覚かもしれない。表面の質感や、色の深みなど、やはりどことなく硯石の観賞に通じるところもあるのである。
青磁などの釉の質感が好きとはいえ、墨の意匠との考察の絡みで明清の染付も注意してみるようにしている。徽墨の産地である徽州は、焼き物、とくに染付の生産地である景徳鎮に接した地域である。陶磁器、漆器、版画などの工芸技術は、その図案や意匠において、一脈を通じるものがある。無論、墨や硯も同様である。
徽州は工芸品として漆器がとくに名高かったのであるが、染付も漆器も良い筆が非常に重要である。清水焼の陶工が、使える筆が少なくなったと嘆いているという話を、京都の焼き物の店などで耳にすることがある。伝統工芸の職人だけに、相当数の筆の在庫があるはずだが、新しい仕入のメドが立たなくなると、技の継承を考えると非常に心細いのだそうだ。

京都の街には陶磁器を売る店が多いが、日本で焼かれた100年くらい前の品であれば、ほどほどに手に取る機会がある。日本の懐石料理などでは、季節や料理によって器をすべて変えるので、その需要が支えているというわけである。それはあるいは、昔の中国でもそうだったのかもしれない。懐石料理もルーツは寺で出す精進料理であって、その精進料理は食事の作法とともに大陸から伝来しているのである。
現在の大陸は、料理にはさほど凝った焼き物は使われない。煎茶の急須や茶碗の世界に凝ったところが見られる程度である。染付の皿も焼かれるが、官窯写しの今出来の高級品は、もっぱら観賞用なのである。
だからかなり良いお店で食べても、ただ白いだけのお皿であることが多い。前菜で野菜をつかって鳳凰を象ったり、スープを入れる冬瓜に彫刻するのは、凝った陶磁器を使っていた時代の名残なのかもしれない。
広東に行くと、なんてことはない店で、食器に青花がつかわれているのでハッとすることがある。もとより大した品ではなく、プリントによる量産品なのであるが、木製のテーブルについて青花の茶碗で麺を食べていると、ちょっと時代がかった雰囲気があってよい物であるのだが。

大陸では青磁や白磁よりも、明清、とくに清朝の青花が人気である。これは青磁の良い品が大陸にはほとんど残っていないからであろう。また陶磁器に限らず、大陸の文物は清朝がブームなのである。簡素ながら力強い精神性を感じさせる宋代の文物よりも、清朝とくに乾隆帝の豪華趣味が、現代の大陸の特権階級やお金持ちの趣味にはあっているのだろう。
京都には大陸からたくさんの観光客が訪れているが、あるいは「魅惑の清朝陶磁」はそのあたりの事情を勘案した企画なのだろうか。展示室では、留学生なのか観光客なのか、大陸の人も多く目にした。彼らの眼に、祖国と日本の陶磁器は、それぞれどのようにうつったのであろうか。

近年、すさまじい勢いでかつて流出した文物が大陸に戻っているが、これに大陸政府も積極的に関与している。自国の文物は自国にあるべきであると、あたかもそれが正義であるかのような、偏狭なナショナリズムに傾斜した論調を目にすることがある。まるですべてが外国人に略奪されたかのような極論もある。しかしこの展示に見られるように、文物は圧倒的多数が平和な交易によってもたらされたものなのである。それを流出と言ってネガティブにとらえるか、文化の輸出ととらえるか。
文物というのは、人間の寿命や、時に王朝の寿命をも超えて伝存し、伝播するものなのである。国家であっても個人であっても、誰もそれを所有しきることはできない。人の一生の束の間に、想いを寄せることが出来るだけなのである。

「魅惑の清朝陶磁」は、京都国立博物館で12月15日まで開催している。
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李白と数値表現

李白の「秋浦歌十五」に

白髪三千丈
縁愁似箇長
不知明鏡裏
何処得秋霜

白髪(はくはつ)三千丈、
愁いに縁(よ)りて箇(か)くの似(ごと)く長し。
知らず明鏡(めいきょう)の裏(うち)、
何(いず)れの処(ところ)より秋霜(しゅうそう)を得(え)たる

という五言絶句があります。白髪三千丈というのは、文字通り白髪(しらが)が三千丈の長さということですが、唐代の一丈はおよそ3mなので、九千メートル、全長9kmにも及ぶ白髪、ということになります。もちろん、白髪が9キロもあるわけではなく、歌われている秋浦という長江沿岸の情景を、白髪に喩えています。すなわち延々と続く白髪は、眼前の長江の河岸のことです。また「愁いに縁(よ)りて」とありますから、憂愁の念が、この長江の流れのように延々と長く続き、頭もすっかり白くなってしまった、ということです。
ただし、この句は日本では「中国的誇張表現」の代表として、「誇大な表現」の代名詞になってしまいました........確かに中国の詩歌の世界では雄大な誇張表現は多いものなのですが、物理的な距離や大きさのことではなく、精神のひろがりの中での”尺度”なのですから、それは「文学的スケール」として理解する必要があるでしょう。心の広がりは無限、という事も出来ます(狭い人もいるかもしれませんが)。
長江下流域の川幅が、瀬戸内海の幅よりも広い、ということを実感してないと想像できないかもしれません。霞ヶ浦か利根川、ないし淀川の岸辺ぐらいを想起していたのではわかりませんね。
また似たような数値、ないし数字表現の使い方に「桃花譚水深千尺」という句があります。「桃花譚」は私も数年前に訪れたことがありますが、実際はごく浅い、船をこぐ棹(さお)がさせてしまうくらいの水深です。しかしここで李白は、この地で仲良くなり、いつまでも見送ってくれている友達の「情」の深さを「水深千尺」とうたっています。

それはともかく、李白の作詩の特徴のひとつに、「三千丈」のような数値表現、数字表現があります。李白は数字を使って印象的な句を上手に作ります。特に「三千」は頻出します。

唐代以降の近体詩は平仄を整えることを原則的に求められますが、よく使われる漢数字「一二三四五六七八九十百千萬」の中で、「平」音は”三”と”千”だけです。ほかは全部「仄」音になります。有名な「白髪三千丈」は「仄仄平平仄」と、ちょうどいい具合に「平平」が入っています。あるいは廬山を詠んだ「飛流直下三千尺」も「平平仄仄平平仄」となって具合がいいです。他にも「学道三千春」とか「十月三千里」「座客三千人」「堂中客有三千士」などがあります。すべて数え上げたことはありませんが、「三千」が入る句だけで、十数首くらいはあるのではないでしょうか。

李白以前にも、孟嘗君は「食客三千人」、阿房宮には「美女三千人」、孔子は「弟子三千人」、李衡「木奴三千本」というのがあります。
新聞の見出しで「上海佳麗三千人」というので何のことかと思ったら、博覧会のコンパニオン達の事なのでした。
ちなみに私の小さいころは「中国三千年の歴史」なんていうフレーズがよくつかわれていたのですが、その後これが”四千年”になり、最近では「中国五千年の歴史」が定着しているようですね。現代の考古学、歴史学の研究結果を反映した表現に代わってきたようです。しかしそもそも「三千」は、仏教でいう「三千世界」と同じように、広大無辺、悠久な、という意味で用いられますから、もともとの「中国三千年」は「悠久の歴史」という気分が表現されていたのだと思います。いまの中国の人は、そういう文学的気分よりも科学的な厳密さを好むように、感覚が変化してきているのかもしれません。

また「三千」のような大きな数字を単独で用いるだけではなく、数を対比した表現も巧みです。有名な「長安一片月、萬戸搗衣声:長安一片の月、萬戸(ばんこ)衣を搗く声」は、「一」と「萬」を対比させながら、ひとつにすぎないが永遠の存在である月と、萬を数えながらもはかない存在である人間の営みを凝縮して表現しています。
「驚風一起三山動:驚風(きょうふう)一(ひと)たび起(お)こり三山(さんざん)動く」という句もありますが、これも「一」が「三」に作用することで、いかに強い風であるかを表現しています。

「百年三萬六千日」というのもあります。1年は陰暦では年によって日数がかわりますが、平均して360日なので、古代の人は一年間をおよそ360日と認識していました。掛け算すれば確かにあっています。こういう一見安易な句を平然と使うあたり、まさに李白の天衣無縫なところですね。
この「百年三萬六千日」には「一日須傾三百杯」と続きます。つまり百年間、毎日毎日三百杯の酒を飲み続けるよ、ということです(いいですねえ)。これは二句14文字のうち、8文字を漢数字で占めています。ほとんど数字の句になりますが、百日×三百六十日×三百杯=?という計算をしたくなります。
これに似た句に「聖君三万六千日」というのもあります。天子の長寿を願うわけですね。また「廣張三千六百釣」というのもあります。太公望が、80歳で文王に出会うまで、毎日毎日釣りをしていたことを詠っています。またさらに数字の大きな句では「天台四万八千丈」、「爾来四万八千歳」などがあります。

あるいは「三三五五映垂楊」。”三三五五、垂楊に映ず”、あちらに三人、こちらに五人(の遊び人が娘を覗き見している)、といったぐあいですね。この「三三五五」は、日本で今でも慣用句として使われますね。

他に数字をうまく配した対句で面白いのは

一叫一回腸一斷
三春三月憶三巴

猿が一声叫ぶと一回ごとに断腸の思い、三年もの間毎年春(三月)に故郷(三巴)を想う、という叙情をうたっています。猿の鳴き声は、古来から旅愁をかきたてるものとされます。
この句も平仄を調べると

仄仄仄平平仄仄
平平平仄仄平平

となって表裏はあっています。「一」と「三」を同じ位置に使うことで、軽快ながら深い印象を残すリズムを生み出しています。

そういえば李白の友人である杜甫も、李白の数字好きを知ってか知らずか「飲中八仙歌」では李白のことを「李白一斗詩百篇」、「一」が「百」を生むと、数字を使った表現でうたっています。苦吟(長い間考えて詩を作る)タイプの杜甫は、スラスラと詩を作るタイプの李白のことを、酒好きとあわせてこう表現しているのですが、あるいは李白の作詩の特徴を意識したのかもしれません。
ところで律詩に本領のある杜甫が苦吟するのは当然で、絶句よりも律詩のほうが前後八句をつくらないといけませんし、うまい対句をつくらないといけない分だけ考えないといけません。絶句の方が作りやすいといえば作りやすい。ただ、作りやすいからと言って良い詩が作れるかどうかは別問題。絶句に本領のある李白が即興に優れていたのは、絶句という短い詩形に拠る部分もある、と考えていいでしょう。あるいは数字表現をうまく使いこなす能力も貢献しているのかもしれません。もちろん、数字を使えば簡単に良い詩が作れる、ということではありませんが。

ちなみに「白髪三千丈」が誇張表現を皮肉る慣用句になっているのは日本だけで、中国の人に「そりゃ、”白髪三千丈”式だね」と皮肉っぽく言ってみても通じません。大陸の人はそんな話は織り込み済みの承知済みです。実際に大陸では”白髪三千丈式”の大げさな言い回しが多いのですが、そういうところにいちいち噛みついてみても始まらないわけです..........とはいえ、「中華の歴史」が「三千」から「四千」「五千」と変わっていったあたり、唯物史観の影響で、かの国でも意識の変化があるのかもしれません........しかし個人的には、やはり李白の「白髪三千丈」に現れる、気宇の大きな気分が好きですね.........無論、それは文学の世界に限らなければならないのでしょうけれど。
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靈芝と仙薬

靈芝について雲南省産の靈芝である。話では野生の靈芝なのだそうだ。かつては非常に希少で発見が難しいとされた靈芝であるが、現代では栽培法が確立されている。小生は栽培の靈芝と野生の靈芝の見分け方に詳しくないので、この靈芝が本当に山林に自生していたものかどうかまではわからないが、雲南省であれば野生の靈芝も相当数採取できるのかもしれない。靈芝について現代では栽培も可能になった靈芝であるが、王朝時代にあっては非常に珍しい菌類であり、また「瑞草」とも呼ばれ、その出現自体が瑞兆であるとされたほどである。発見者がその場で食べてしまうので、話に聞くだけでなかなか目にすることができない、ともいわれる。また瑞兆だけに、行いの正しい”君子”が探さなければ発見できない、という考え方もあった。深山幽谷に君子が靈芝を探すというテーマは、好んで描かれてきた画題である。

靈芝の薬効には諸説ある。現代でもその効能は充分に解析されていないのだという。古くから「仙草」とも呼ばれ、仙薬として知られている靈芝であるが、当時の人々が多くの臨床例からその薬効を知っていた、と考えるには当たらない。「仙薬」とは、服用を続ければ”昇仙”できるとされる薬である。そもそも「昇仙した」などという臨床例については、どのように考えたらよいのかわからない。

”靈芝”については、最古の薬学書である前漢時代の「神農本草經」に記載があるとされている。しかし神農本草經には「靈芝」という名称の薬材は収録されていない。赤芝(丹芝)、黒芝(玄芝)、青芝(龍芝)、白芝(玉芝)、黄芝(金芝)という名称で、おそらくは五行説に基づく五色の「芝」について記述されているのみである。
たとえば「赤芝」についていえば、「赤芝主胸中結,益心気,補中,増慧智,不忘。久食,軽身不老,延年神仙。一名丹芝」とある。すなわち「赤芝は主に胸部内臓に作用し、心気を益(ま)し、中(胃腸)を補い(すなわち働きをよくし)、智慧を増やし、記憶力を増す。長い間服用し続けると、体が軽くなって老いず、寿命を延ばし仙人になれる。別名”丹芝”という。」ということになる。
靈芝と仙薬ほか、黒芝、青芝などについてもそれぞれ効能はいろいろあるが、「久食、軽身不老,延年神仙。」は同じである。
「神農本草經」に収録されている薬材は上中下に分たれるが、赤芝などは「上品」に分類される。「上品」は服用を続ければ神仙に至る仙薬が集められており、すなわち赤芝や黒芝は仙薬であるとされているのである。(神農本草經では、怪我や病気を治すといった薬材は中品、下品に分類されている)
靈芝と仙薬現在では”靈芝”を山地や色、形状で分類し「赤芝」や「黒芝」あるいは「白芝」という名称で流通されているのを目にする。しかし神農本草經でいうところの「赤芝」だの「黒芝」だのが、現代流通している「靈芝」と同じものを指すとは限らない。
後漢に成立したとされる「抱朴子仙薬篇」では、「芝」について、「赤者如珊瑚,白者如截肪,黒者如沢漆,青者如翠羽,黄者如紫金,而皆光明洞徹如堅冰也。」とある。すなわち「赤いものはサンゴのごとく、白いものは脂肪のごとく、黒いものは漆のごとく、青いものはカワセミの羽のごとく、黄色いものは紫金のごとく、みな光り輝いて透き通っており、氷のように固い。」と言われている。これもおそらくは五行説に基づいた五色の「芝」の説明であるが、該当する植物ないし鉱物を現在想像することは難しい。荒唐無稽として一蹴することもできるが、この内容が五行説からの演繹に基づいたまったくの空想だとしても、なんらかの具体的な植物像があった可能性はある。しかし現在みられるような「靈芝」をイメージしながら書れた文書とは考えにくい。靈芝と仙薬靈芝と仙薬龍や麒麟といった「瑞獣」は、すぐれた君子が治める泰平の世に出現するとされる。同じように「瑞草」もまた、出現自体が瑞兆なのである。しかし龍や鳳凰、麒麟といった動物が(原型があるにせよ)想像上の生き物であるように、「瑞草」としての「芝」もすなわち想像上の植物であるとも考えられる。
靈芝と仙薬図像の世界では、古くから吉祥図案として「靈芝雲」が用いられてきた。明代から清朝にかけての製墨の世界でも、あるときは龍や鳳凰といった神獣とともに、またあるときは単独で、靈芝雲ないし靈芝が描かれている。
「靈芝雲」はまた瑞雲、瑞気ともよばれる。靈芝のような格好をした雲が龍や鳳凰、麒麟、蛟龍といった神獣、あるいは蝙蝠や鹿といった招福を意味する動物に伴って描かれることが多い。靈芝について靈芝について靈芝の形状は、気体がゆっくりと拡散する途中で、瞬間的に凝り固まったような形勢をしている。見ようによっては、靈芝は湧き上がる雲に見えなくもない。また天候によって、靈芝のような形をした雲が現れないとも限らない。
靈芝と仙薬しかし靈芝の図像が先にあって雲気紋に変化していったのか?雲気紋がさきにあって靈芝に変化していったのか?あるいは並列したものが融合していったのか?これはよくわかっていない。
靈芝と仙薬靈芝と仙薬珍奇な薬材としての靈芝が先にあり、靈芝が紋様として様式化され、さらにイメージが気化して靈芝雲になった、と順序化すると考えやすそうだ。
しかし漢代の図像に雲気紋や瑞獣はすでにあらわれてくるが、”靈芝”が現代知られているような菌類として認知されていたかどうか?については同時代の「神農本草經」を見る限りでは確証が持てないのである。
靈芝と仙薬たびたび触れているが、エジプト起源のパルメットとよばれる植物紋様がある。”パルメット”などという植物が存在するわけではないのだが、イメージの原型は”ロータス(睡蓮)”であるといわれている。睡蓮は花をつける時期になると、昼間は開花し、夜は花弁を閉じる、を繰り返す。この反復運動が古代エジプトの死生観と結びつけられ、「復活・再生」のシンボルとして尊ばれるようになった、という説がある。また神獣像などと同時に描かれるパルメットは、特別な生命の力を持った植物、という意味があるとされる。
古代中国における龍や鳳凰といった図像はよく瑞雲を伴うが、この瑞雲がパルメット紋様を起源としている、という話もある。エジプトの神獣がパルメットを伴ったように、古代中国の瑞獣が瑞雲、雲気紋を伴うというのである。これによれば、エジプトの植物文様は、東へ伝播する過程でさらに唐草模様として様式化され、また一方で気化して雲気紋になったということになる。
あるいは西方からパルメットが伝播し、それによく似た菌類としての靈芝の発見(あるいは価値の再発見)があった、とも考えられるのである。
靈芝について仙薬が最高の薬、というのは荒唐無稽な思想のようにも思える。しかし仙人になれるかどうかはともかくとしても、病気を治す薬よりも、病気にならない薬を上に置くというのは、現代にも通じる健康に対するひとつの価値観であろう。
現代でもさまざまな”サプリメント”が流通し、いろいろな効能がうたわれているが、その価値観は「病気にならない」とか「老化を抑止する」ということで、これは「神農本草經」における薬材の価値観に近いと言えないくもない。
いやいや、現代のサプリメントには科学的根拠があるのですよ、といわれるかもしれない。しかし服用する当人にとっては、それが現代科学であろうと神仙思想だろうと「信じて飲む」ことには変わりがないのではないだろうか。
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光と鑑賞

上海博物館は撮影していてもオトガメを受けないのが良いのだが、それにしても照明がやや暗すぎる。まあ撮影させてもらえるだけでも実にありがたい事だから、照明にまでケチを付けられないかもしれない。しかしみたところ上海博物館は、作品を照射する照明に白熱電球を使っているようだ。写真は陳淳の「墨花図冊」。精良な半熟箋におかれた墨の発色と変化が、その変幻極まりない筆致とともに飽きさせない。墨で畫を画くことの楽しさ、美しさが観事に現れている。
簡単にサラリと画いている様だが、このような効果を出せる紙を選択するのは難しい。墨の拡散や浸透からみて、滲みをかなり抑えた半熟箋なのは間違いないと思われるが、同等の効果を出せる紙というのは、ちょっと思い浮かばない。筆致の冴えも、墨色の変化も、受け止める紙あってこそである。
上海博物館藏陳淳「墨花図冊」上海博物館藏陳淳「墨花図冊」上海博物館が白熱電灯を使うのはそれなりにわけがあるはずで、おそらくは光源の演色性を優先させたのだろう。光源の性能を示す指標に「演色性」があるが、この演色性が高いほど自然光、つまりは太陽光に近いとされる。演色性100で、太陽光と同じ光のスペクトル分布を持つとされる。一般に人がモノを観る場合において、太陽光の下で観るのが最も良いとされる。
「色」を見るという事は、別の言い方をすれば「光」を見ていることである。たとえば光源に「赤」を含まない照明の下では、「赤」を見る事ができない。卑近な例でいえば、トンネルなどで使用されるオレンジ色のナトリウムランプは単色光源であるから、トンネルに入るとオレンジ色のモノ・トーンに観えるはずである。
白熱電球は演色性は良いものの、光への変換効率が悪く、その光には赤外線が多く含まれる。紫外線はあまり出さないと言われるが、赤外線も対象の温度を上げてしまうため、古美術品に長時間照射するのは良くないだろう。そのためか、上海博物館では動体センサーが使われ、作品の前に人が来ると一定時間だけ作品を照射するようになっている。しかし照射する時間もその光量も、出来る限り絞っているようだ。なので作品によっては、ちょっと暗すぎるのではないかな?と思われるところもある。また眺めているうちに照明が落ちるので、体を動かして再び照明をつけるなどの動作をしなければならない。
上海博物館藏陳淳「墨花図冊」最近のデジタルカメラは非常に感度がよくなっていて、ほの明るいくらいの光でも、ある程度は原画の雰囲気を伝える写真を撮ってくれる。写真の紙の色は本来はもっと白く明るく見えるのである。露出やホワイト・バランスを調節できるので、紙が白く見えるように撮る事も可能なのであるが、そうするとどうしても墨のトーンが平坦に見えるようになってしまう。絶対的に作品へ当たる光の量が足りていないので、このあたりは致し方ないところだ。「フラッシュ厳禁」は言うまでもなく、フラッシュを焚いてもすべてガラス板で反射してしまう。
上海博物館藏陳淳「墨花図冊」上海博物館藏陳淳「墨花図冊」最近ではLED照明が普及し、博物館や美術館でも使われ始めているという。LED照明は紫外線や赤外線をほぼまったく出さないので、作品保護には良いだろう。ただ巷間で売られている、安価な白色LED電球だと、美術作品などを観る場合には適当で無い。人間の目で「白」と認識される色であっても、その光の中に含まれている光のスペクトル分布のパターンにはさまざまなものがある。特定の色の波長、たとえば「赤」が少ない光源の場合、本来「赤く」見えるはずの色が目立たない。概ね、対象が無機質でひどく冷たく観えてしまう。安価なLED白色照明には、そういった製品が多い。極端に言えば、ナトリウムランプのオレンジが、ホワイトに置き換わったような単調な光である。食卓におけば料理の色も冴えなく、家族の顔色もなんとなく不健康に見えてしまうかもしれない。憂鬱の原因になるかもしれないから、照明を選ぶ場合は注意が必要だろう。
しかしLEDは理論的にどのような可視光でも作り出すことが可能であり、演色性を高めた「高演色」のLED光源も、価格は高いが販売されている。上海博物館あたりでも、省エネと作品の保護を考えるのであれば、そろそろ高演色の白色LED照明に切り替えた方が良いかもしれない。
光源の光を自由に作り出すことが出来るのであれば、光の作り方によって、対象の見え方をまるで変えてしまうことも可能である。いかに太陽光に近いとはいえ、人工的な光によって作り出された「見え方」は、人為的でフェアではない、という意見もあるかもしれない。しかし紫外線の降り注ぐ太陽光の下で鑑賞することが許されないのであれば、次善の策をとるしかないだろう。

とはいえ巷間ではそこまで考えずに、白い電球は同じく白いのであり、おなじ白ならワット数が高くて安い方が良いでしょう、という選択も多く行われているのである。「白い」電球はどれも同じ「白」であると考えてしまい、この「シロ」の中身にも色々あることを知らないと、たしかにそういう選択になってしまうかもしれない。
これは墨色に関しても言えることなのである。墨色を単なる「黒」と認識している人には、墨汁の黒も佳墨の黒も同じ「クロ」に見えてしまうだろう。どんな墨色を持ってきても、頭の中にはもともと1個の「黒」しかないのだから、その違いには気付かないのである。
墨色はあくまで「スミイロ」あるいは「ボクショク」であって、「クロ」ではないのである。喩えが適切かどうかわからないが、それは演色性の高い白色LED電球と、限りなくモノ・トーンな、安価な白色LED電球との違いと同様かもしれない。
蘇軾は優れた墨色を「童子の睛」に喩えた。童子の睛は、はたして単一の「クロ」で定義されるべきものだろうか?上海博物館藏陳淳「墨花図冊」墨色以外にも、たとえば硯の石色、石品を評価する場合、室内の光源ではなかなかそれが分かりにくい。太陽の下で観なければならないと言われる。特に端溪の青花や天青といった石品は、太陽の下で石を水に漬けなければ判別が難しいといわれる。室内の不完全な光源では、たしかにある種の石の色は観えにくかったり、周囲と判別が難しい場合がある。人によって「青花?天青?どれが?」と、まったくわからなくても不思議は無いのである。
しかしそういった不完全な光源の下でも、正しく経験を積んだ者であれば、その違いを認識できることがある。

人間がモノを認識する場合、目から入ってきた情報が、頭の中で補正されながら像を結ぶのだそうだ。おかしなことを言っているように聞こえるかもしれないが、たとえば同じ赤いリンゴを見ているようでも、他人の目にそれがどう写っているかどうかはわからないのである。まして同じ絵を観ているようであっても、同じように認識しているかどうかはわからないのである。
これは写真を観る場合に顕著に現れることがある。硯を何百面も何千面も観て来た人であれば、あまり良く撮れているとは言い難い写真を見せただけでも、素人が気付かないような特徴に気づく事が出来る。一枚の写真であっても、素人と玄人では、まるで違ったモノとして認識されているのである。写真から入ってきた情報が、経験者の過去の膨大な記憶の蓄積によって補正され、細部にいたるまでより鮮明に再現されるからである。
美術品でなくても、たとえば子供の写真や家族の写真、ペットの写真などは、家族や飼い主が見る場合とまったく無関係の人が観る場合では、その見え方、意味合いがまったく違うという「事実」は、納得しやすいことであろう。自分の子供の写真であれば、本来は写りこんでいない小さなホクロまで観えるかもしれない。旅の写真にしても、あまり写りのよくない写真であっても、その旅に実際に行った人であれば、そこから当時の記憶が喚起される。そして「美しい思い出」に浸る事ができるのである。
「見る」ということは、あまりにも自明の事のように思えるが、網膜に外界から光が入って視神経を刺激することと、脳裏でそれが像を結ぶ事、またその映像の意味をどのように「認識」するか?までもふくめて「見る」ことである。いわゆる「センスの良い人」というのは、脳内での像の補正や、意味として認識するプロセスが洗練されている人を言うのかもしれない。
認識のプロセスは相互に深い関係があるにせよ、イコールで結ばれる現象ではない。また視神経を刺激しなくても、空想で脳が象を結ぶ事は可能であり、(夏向きの話をすれば)幽霊を観たという人は確かに「見ている」のである。
あまり写りの良くない硯の写真であっても、過去に豊かな経験を持った人であれば、そこから豊富な情報を脳裏で再構成する事ができるのである。仮に玄人と素人が同じ写真を見ていても、脳裏で結ばれた画像は、確実に「別もの」であると考えなければならない。違いが分かるとか分からないとか言われるが、本質的には見えているものが「違う」はずなのである。
「墨色の違いがよくわからない」と言う人がいるが、そもそも経験が足りていない場合が多い。墨汁しか見たことがなければ、無理からぬことだ。墨色は、特別な才能をもった限られた人間にしかわからないようなことではない。多くを観、触れていれば、自然と分かってくるものだと考えている。それは単に墨色で描かれた畫や書を観るばかりではなく、やはり良い墨を硯で磨り、自ら使ってみる事も大切なことである。数多くの博物館を回り、数多の書画を眼にし、図録を山ほど家に積んでいても、硯を持たず、墨を磨った事もなければ、墨色の良し悪しがわかるというものではない。墨色が分からなければ、書画を鑑賞しているといっても、その美しさの半分も理解できるものではない。すくなくともその書画を描いた人物ほどに、その畫を「観ている」とは決して言えないのである。
上海博物館藏陳淳「墨花図冊」この陳淳の「墨花図冊」にしても、実物を観たことのある小生がこの写真を見る場合と、まだご覧になった事が無い方では、あるいは見え方が全く違ったものになているかもしれない。もとの紙は保存状態がよく、綺麗な白い紙として記憶しているが、展示室が暗いため、この写真では淡墨で染めたように淡いグレーがかかっている。小生がこの写真を見るときは、上海博物館の展示室の暗さが思い起こされるから、幾分はその分を差し引いて明るいトーンとして認識しているかもしれない。やはり高演色のLED電球が欲しいところだ.......この写真を観ていると「もっと光を」という思いが残るところである。
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「河野隆作品展」開催のお知らせ 〜大分県臼杵市「中国陶瓷美術館」

4/24〜6/20の期間、大分県臼杵市市浜の中国陶瓷美術館にて河野隆氏の作品展が開催されます。大分県在住の後藤氏から情報をいただきました。

篆刻をされる方というのは、金石学の伝統で古代の書体を研究されますので、文字に対する深い造詣が現れた作品が特色ですね。氏の作品からも、文字に対する真摯で誠実な姿勢を見ることが出来ます。

開催期間:平成22年4月24日〜6月20日 
開館時間:9:30〜17:00
開催場所:臼杵市市浜808-1 
     中国陶瓷美術館 ギャラリーHARU
※月曜休館(月曜祝日の場合は翌平日)
入館料:大人300円/小中高100円
お問い合わせ:中国陶瓷美術館
TEL0972-62-2882

詳しくは「中国陶瓷美術館」の特設ページをご覧下さい。

他にも展覧会の情報など、ございましたらお寄せください。

店主 拝
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「遊于篆刻(篆刻に遊ぶ)」 高黄鵬 書・篆刻展のお知らせ 

このページの上のバナーでもお知らせしていますとおり、篆刻家、高黄鵬(こう・こうほう)氏の篆刻展、「遊于篆刻(篆刻に遊ぶ)」が来週の27日〜29日、京都のうずらギャラリーで開催されます。
以前にも紹介しましたが、高黄鵬氏とは奇縁があり、そもそもある年の正月に上海の博印堂に立ち寄った際に知り合ったのでした。そのときのお話で古い筆をたくさん蒐集していて、いつか筆管の拓をとって本にしたい、とおっしゃっていたのが印象に残っていました。
小生もいささかの筆の蒐集は行っていましたが、ちょっと氏には及ばないと思います。また、それこそ萬巻の書物を蓄え、名跡や古印体の研究に余念がないところも、王朝時代の印人を彷彿とさせます。

このブログで毎回記事の最後に押されている「龍尾山人」印も氏の手になるものです。呉譲之を思わせる古印の風合いを遺しながら、シャープで屈強な線で彫られた印風が特色です。近年、こういった仕事ができる数少ない印人のひとりでしょう。会場では、印の注文を受け付けてくれるそうです。
斉白石や呉昌碩といった、モダンな印風とはやや異なりますが、蔵書印や収蔵印、あるいは繊細な工筆画や小楷作品には似つかわしい印風だと思います。落款印というのは作品の大きさや、雰囲気に合わせていくつも必要になってくるものですが、この機会にひとつ依頼してはいかがでしょうか。(ここだけの話、非常にリーズナブルです)


大きな地図で見る

場所は京阪三条に近い便利なところです。この紅葉の美しい季節、また京都国立博物館や、京都市立美術館、あるいは泉屋博古館へのお立ち寄りとあわせて、観覧されてはいかがでしょうか。
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