半熟箋四種
文房四寶は墨、硯、それぞれがたいへん深い奥行を持っている。どれひとつをとっても極めつくすことは難しいのだが、その組み合わせによる変化も千差万別である。
墨色の変化は、その墨が持っている性質、硯の上での磨り方、濃度、筆致、そして紙によって変化する。中でも紙の影響は大きなものがある。紙が墨色の変化に与える要因は、紙の繊維の質、厚さ、紙に含まれる水分量、などがある。
また漉いただけの紙を薬液に浸し、表面処理を施すなどして、さらに効果を調整した紙がある。主に滲みを調整する加工を施された紙を熟箋といい、何も処理をしてない漉いただけの紙を生箋という。熟箋は、完全に滲みを止めた紙を指すが、適度に滲みを残した紙を半熟箋ともいう。
滲み止めを施すと、滲まない分だけ、当然ながら墨のノリは悪くなる。しかし墨の紙への定着が遅いために、墨液が紙の表面にしばらく滞留することになる。いわゆる”墨が泳ぐ”状態になるのである。紙の上を墨がしばし泳ぐことで、さまざまな表情を見せるようになる。墨の表現技法の上では”溌墨”と呼ばれる効果である。溌墨効果が高いのは、紙に墨液が浸透しやすい紙の場合と異なるところである。
また焦墨という技法がある。これは渴筆、渴墨とも言うが、墨でわずかに湿らせた程度の筆でもって、紙の表面をこすりつけるように描く筆致である。これも滲みやすい紙では調子が出ない。いうなれば木炭で描いたような乾いた筆致が欲しいのであるが、滲みやすい紙だとカスレたはずの線が滲んでしまい、ぼんやりとした力のない線になってしまうからである。
ともあれ今回入荷したのは四種類の加工紙、全熟豆腐箋、本色豆腐箋、羅紋煮捶宣四分、蝉衣煮捶宣五分である。
全熟豆腐箋は、以前に販売した豆腐箋の、熟度をさらに高めた紙である。豆腐箋は半熟箋に分類されるが、豆漿の濃度や漢方薬の配合によって、熟箋に近いにじみ止めを施すことができる。熟度を上げることによって、墨は紙に浸透しにくくなる。一方でカスレの効果はより鮮烈になっている。
前回の豆腐箋は、墨の定着が良く、筆書にも向いた紙であったが、焦墨の効果においてやや物足りなさも感じていた。墨の定着の良さと焦墨効果は紙の性質としては相反するもので、どちらを選ぶかは好みの問題である。しかし焦墨がもっと鮮やかに出る紙が欲しいと思い、この全熟豆腐箋を選んだのである。
”全熟”というが、やはり半熟箋である豆腐箋に属する紙であり、”熟箋”とは言い切れない。ゆえに”全熟豆腐箋”という。強いて熟度を表わせば熟度九分というところか。
本色豆腐箋は、全熟豆腐箋と異なり、わずかに黄色がかった色をしているが、これは塗布した漢方薬による発色である。これはどちらかといえば前回入荷した豆腐箋に近い色をしているが、より熟度が高くなっている。焦墨でサラサラと筆で紙をなでるように書くと、ほぼ全熟豆腐箋と同じ調子できれいなカスレが現れる。しかし熟度はわずかに全熟豆腐箋より低い。墨を多めに含ませて書く場合は、全熟豆腐箋とその熟度の違いが現れる。すなわち若干であるが、墨液が紙に入り込む気味が現れるのである。
羅紋煮捶宣熟度四分は、精選した羅紋箋に加工を施した煮捶宣である。熟度3分よりも、さらにわずかににじみを抑えている。熟度五分と三分の間ということになるが、よりどちらに近いかと言えば三分の方である。このあたり、数値と実際の使用感は比例するわけではなく、強いて数字にしてみた、という程度でご理解いただければと思う。
煮捶宣としてはやはりにじみが強い方になるが、それでも漢方薬と加蜡による磨きをかけているので、生箋のような放埓な滲み方はない。また”羅紋煮捶宣三分”がわずかに黄色がかった紙であるのに対し、ほぼ純白の紙である。斜視すると、うっすらと蜡がのって磨き(砑光)がかけられているのがお分かりになると思われる。
蝉衣煮捶宣は、”蝉の羽のように薄い”紙に、煮捶宣の加工を施した紙である。熟度という点で言えば、五分の羅紋煮捶宣に近いが、紙が羅紋箋よりも薄いため、やはりその効果は異なっている。煮捶宣だけに滲み止めの加工を施しているが、紙が薄いために紙背にまで墨液が浸透しやすい。また紙に厚みが無いため、墨液がそれほど多く吸収されない。特徴がある。これが筆致の速度による濃淡やカスレに影響するのであるが、薄い紙はそらだけ筆がとられにくい、という事はいえる。一般に、厚みのある紙ほど、早い筆致でカスレが現れやすいのである。この違いは紙の品質の違いではなく、効果の違いであり、自分が欲しい効果にあわせて紙を選択すればよいのである。
ざっと、今回入荷した四種類の紙の特徴を述べてみたが、万言を尽くしたところで、語りつくせないものがある。実際に使っていただくよりほかない。サンプルをご希望の方にはお送りするので、ぜひともお試しいただきたい。
こうした加工紙は、もっぱら水墨画に使用するべきかと言えばそうではなく、書に用いても良いものである。特に端正な小楷を書きたい場合、あまり滲むような紙は筆をとられてよくないものである。唐代の楷書体の全臨などをやってみたいと考えている方にも好適の紙である。また小さな筆を使い、小楷や行草で長い詩賦を書くときなどは、適度ににじみが抑えられた紙でなければ、とてものこと墨が続かない。
また条幅で連綿と続く行草を書く場合でも、滲む生箋で書くとはじめは大きく滲み、後で急速にかすれてくる。現代ではにじみの強い生箋がもっぱら使われるため、墨が続くように超長鋒の羊毫筆が使われる。それでもって線が滲み過ぎないようにすさまじい速さで運筆するのが流行しているが、王朝時代の書はもっと沈着にゆっくりとしたリズムで書かれている。それはそのような運筆を可能にする紙があって初めてできることなのである。
水墨画には中国画で言うところの”写意”というジャンルがあり、細密な工筆画と対極をなすとされる。日本で言うところの”文人画”ないし”禅画”、”俳画”などがこれに近いだろうか。現代の大陸では”写意”を書くときは、生箋のような滲む紙を使用し、省略された筆致でもって、対象の姿を素早く描くような作品を多く見かける。写意に滲むような紙がつかわれるようになったのは近代にはいってからであるが、生箋がもっぱらとなったのはここ半世紀くらいではないかと考えている。呉昌碩や斉白石にしても、完全な生箋に書かれた画というのは実のところ少ないものである。以下は完全に滲みをとめた礬砂紙の扇面に書かれた書と画の例。写意の梅花も滲まない紙に書かれている。
どうも、墨色というのは、滲みやすい生箋で見るのが本当、というような意見もあるようだ。加工紙では墨色が出ない、言う人も少なくない。しかし王朝時代においては、書にせよ画にせよ、ほとんどが加工紙の上に書かれている。扇面などはほとんどが滲みを完全にとめた金箋や熟箋で作られている。これらの紙に書かれた作品の墨色が、では生箋に書かれたものに劣っているということなのだろうか?
墨は紙に浸透し、滲み、紙の繊維の中で発色することもあれば、紙の上に定着し、その色を見せることもある。どちらが”本来”の墨色なのかは決めることはできないし、決める必要もない事である。
ここで熟箋や半熟箋を集中的にとりあげているのは、現代においてその使用が廃れてきているためであって、何も滲む生箋の使用を否定しているわけではない。生箋は生箋独特の効果がある。ただいまの書画のシーンでは、生箋以外の紙をほとんど見かけなくなってしまった。
滲む生箋に書いていて「なかなか書けるようになった」と思っていたころ、初めて滲まない熟箋に書いた時に「なんて自分は下手なんだろう。」と愕然とした記憶がある。滲まない紙は、筆致が、筆の軌跡がそのまま露わになる。滲みによって、線をオブラートに包んではくれないのである........滲まない紙に、たとえば王朝時代の尺牘などを臨書しようとしたとき、いかに紙、墨、筆の選択が重要か、気付かされるものなのである。
焦墨と溌墨
墨色の変化は、その墨が持っている性質、硯の上での磨り方、濃度、筆致、そして紙によって変化する。中でも紙の影響は大きなものがある。紙が墨色の変化に与える要因は、紙の繊維の質、厚さ、紙に含まれる水分量、などがある。
また漉いただけの紙を薬液に浸し、表面処理を施すなどして、さらに効果を調整した紙がある。主に滲みを調整する加工を施された紙を熟箋といい、何も処理をしてない漉いただけの紙を生箋という。熟箋は、完全に滲みを止めた紙を指すが、適度に滲みを残した紙を半熟箋ともいう。
滲み止めを施すと、滲まない分だけ、当然ながら墨のノリは悪くなる。しかし墨の紙への定着が遅いために、墨液が紙の表面にしばらく滞留することになる。いわゆる”墨が泳ぐ”状態になるのである。紙の上を墨がしばし泳ぐことで、さまざまな表情を見せるようになる。墨の表現技法の上では”溌墨”と呼ばれる効果である。溌墨効果が高いのは、紙に墨液が浸透しやすい紙の場合と異なるところである。
また焦墨という技法がある。これは渴筆、渴墨とも言うが、墨でわずかに湿らせた程度の筆でもって、紙の表面をこすりつけるように描く筆致である。これも滲みやすい紙では調子が出ない。いうなれば木炭で描いたような乾いた筆致が欲しいのであるが、滲みやすい紙だとカスレたはずの線が滲んでしまい、ぼんやりとした力のない線になってしまうからである。
ともあれ今回入荷したのは四種類の加工紙、全熟豆腐箋、本色豆腐箋、羅紋煮捶宣四分、蝉衣煮捶宣五分である。
全熟豆腐箋
全熟豆腐箋は、以前に販売した豆腐箋の、熟度をさらに高めた紙である。豆腐箋は半熟箋に分類されるが、豆漿の濃度や漢方薬の配合によって、熟箋に近いにじみ止めを施すことができる。熟度を上げることによって、墨は紙に浸透しにくくなる。一方でカスレの効果はより鮮烈になっている。
前回の豆腐箋は、墨の定着が良く、筆書にも向いた紙であったが、焦墨の効果においてやや物足りなさも感じていた。墨の定着の良さと焦墨効果は紙の性質としては相反するもので、どちらを選ぶかは好みの問題である。しかし焦墨がもっと鮮やかに出る紙が欲しいと思い、この全熟豆腐箋を選んだのである。
”全熟”というが、やはり半熟箋である豆腐箋に属する紙であり、”熟箋”とは言い切れない。ゆえに”全熟豆腐箋”という。強いて熟度を表わせば熟度九分というところか。
本色豆腐箋
本色豆腐箋は、全熟豆腐箋と異なり、わずかに黄色がかった色をしているが、これは塗布した漢方薬による発色である。これはどちらかといえば前回入荷した豆腐箋に近い色をしているが、より熟度が高くなっている。焦墨でサラサラと筆で紙をなでるように書くと、ほぼ全熟豆腐箋と同じ調子できれいなカスレが現れる。しかし熟度はわずかに全熟豆腐箋より低い。墨を多めに含ませて書く場合は、全熟豆腐箋とその熟度の違いが現れる。すなわち若干であるが、墨液が紙に入り込む気味が現れるのである。
羅紋煮捶宣熟度四分
羅紋煮捶宣熟度四分は、精選した羅紋箋に加工を施した煮捶宣である。熟度3分よりも、さらにわずかににじみを抑えている。熟度五分と三分の間ということになるが、よりどちらに近いかと言えば三分の方である。このあたり、数値と実際の使用感は比例するわけではなく、強いて数字にしてみた、という程度でご理解いただければと思う。
煮捶宣としてはやはりにじみが強い方になるが、それでも漢方薬と加蜡による磨きをかけているので、生箋のような放埓な滲み方はない。また”羅紋煮捶宣三分”がわずかに黄色がかった紙であるのに対し、ほぼ純白の紙である。斜視すると、うっすらと蜡がのって磨き(砑光)がかけられているのがお分かりになると思われる。
蝉衣煮捶宣
蝉衣煮捶宣は、”蝉の羽のように薄い”紙に、煮捶宣の加工を施した紙である。熟度という点で言えば、五分の羅紋煮捶宣に近いが、紙が羅紋箋よりも薄いため、やはりその効果は異なっている。煮捶宣だけに滲み止めの加工を施しているが、紙が薄いために紙背にまで墨液が浸透しやすい。また紙に厚みが無いため、墨液がそれほど多く吸収されない。特徴がある。これが筆致の速度による濃淡やカスレに影響するのであるが、薄い紙はそらだけ筆がとられにくい、という事はいえる。一般に、厚みのある紙ほど、早い筆致でカスレが現れやすいのである。この違いは紙の品質の違いではなく、効果の違いであり、自分が欲しい効果にあわせて紙を選択すればよいのである。
宜書宜画
ざっと、今回入荷した四種類の紙の特徴を述べてみたが、万言を尽くしたところで、語りつくせないものがある。実際に使っていただくよりほかない。サンプルをご希望の方にはお送りするので、ぜひともお試しいただきたい。
こうした加工紙は、もっぱら水墨画に使用するべきかと言えばそうではなく、書に用いても良いものである。特に端正な小楷を書きたい場合、あまり滲むような紙は筆をとられてよくないものである。唐代の楷書体の全臨などをやってみたいと考えている方にも好適の紙である。また小さな筆を使い、小楷や行草で長い詩賦を書くときなどは、適度ににじみが抑えられた紙でなければ、とてものこと墨が続かない。
また条幅で連綿と続く行草を書く場合でも、滲む生箋で書くとはじめは大きく滲み、後で急速にかすれてくる。現代ではにじみの強い生箋がもっぱら使われるため、墨が続くように超長鋒の羊毫筆が使われる。それでもって線が滲み過ぎないようにすさまじい速さで運筆するのが流行しているが、王朝時代の書はもっと沈着にゆっくりとしたリズムで書かれている。それはそのような運筆を可能にする紙があって初めてできることなのである。
滲まない紙では墨色が出ない?
水墨画には中国画で言うところの”写意”というジャンルがあり、細密な工筆画と対極をなすとされる。日本で言うところの”文人画”ないし”禅画”、”俳画”などがこれに近いだろうか。現代の大陸では”写意”を書くときは、生箋のような滲む紙を使用し、省略された筆致でもって、対象の姿を素早く描くような作品を多く見かける。写意に滲むような紙がつかわれるようになったのは近代にはいってからであるが、生箋がもっぱらとなったのはここ半世紀くらいではないかと考えている。呉昌碩や斉白石にしても、完全な生箋に書かれた画というのは実のところ少ないものである。以下は完全に滲みをとめた礬砂紙の扇面に書かれた書と画の例。写意の梅花も滲まない紙に書かれている。
どうも、墨色というのは、滲みやすい生箋で見るのが本当、というような意見もあるようだ。加工紙では墨色が出ない、言う人も少なくない。しかし王朝時代においては、書にせよ画にせよ、ほとんどが加工紙の上に書かれている。扇面などはほとんどが滲みを完全にとめた金箋や熟箋で作られている。これらの紙に書かれた作品の墨色が、では生箋に書かれたものに劣っているということなのだろうか?
墨は紙に浸透し、滲み、紙の繊維の中で発色することもあれば、紙の上に定着し、その色を見せることもある。どちらが”本来”の墨色なのかは決めることはできないし、決める必要もない事である。
ここで熟箋や半熟箋を集中的にとりあげているのは、現代においてその使用が廃れてきているためであって、何も滲む生箋の使用を否定しているわけではない。生箋は生箋独特の効果がある。ただいまの書画のシーンでは、生箋以外の紙をほとんど見かけなくなってしまった。
滲む生箋に書いていて「なかなか書けるようになった」と思っていたころ、初めて滲まない熟箋に書いた時に「なんて自分は下手なんだろう。」と愕然とした記憶がある。滲まない紙は、筆致が、筆の軌跡がそのまま露わになる。滲みによって、線をオブラートに包んではくれないのである........滲まない紙に、たとえば王朝時代の尺牘などを臨書しようとしたとき、いかに紙、墨、筆の選択が重要か、気付かされるものなのである。
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