半熟箋四種

文房四寶は墨、硯、それぞれがたいへん深い奥行を持っている。どれひとつをとっても極めつくすことは難しいのだが、その組み合わせによる変化も千差万別である。

焦墨と溌墨


墨色の変化は、その墨が持っている性質、硯の上での磨り方、濃度、筆致、そして紙によって変化する。中でも紙の影響は大きなものがある。紙が墨色の変化に与える要因は、紙の繊維の質、厚さ、紙に含まれる水分量、などがある。
また漉いただけの紙を薬液に浸し、表面処理を施すなどして、さらに効果を調整した紙がある。主に滲みを調整する加工を施された紙を熟箋といい、何も処理をしてない漉いただけの紙を生箋という。熟箋は、完全に滲みを止めた紙を指すが、適度に滲みを残した紙を半熟箋ともいう。
滲み止めを施すと、滲まない分だけ、当然ながら墨のノリは悪くなる。しかし墨の紙への定着が遅いために、墨液が紙の表面にしばらく滞留することになる。いわゆる”墨が泳ぐ”状態になるのである。紙の上を墨がしばし泳ぐことで、さまざまな表情を見せるようになる。半熟箋 豆腐箋 煮捶宣 墨色墨の表現技法の上では”溌墨”と呼ばれる効果である。溌墨効果が高いのは、紙に墨液が浸透しやすい紙の場合と異なるところである。
半熟箋 豆腐箋 煮捶宣 墨色また焦墨という技法がある。これは渴筆、渴墨とも言うが、墨でわずかに湿らせた程度の筆でもって、紙の表面をこすりつけるように描く筆致である。これも滲みやすい紙では調子が出ない。いうなれば木炭で描いたような乾いた筆致が欲しいのであるが、滲みやすい紙だとカスレたはずの線が滲んでしまい、ぼんやりとした力のない線になってしまうからである。

ともあれ今回入荷したのは四種類の加工紙、全熟豆腐箋、本色豆腐箋、羅紋煮捶宣四分、蝉衣煮捶宣五分である。

全熟豆腐箋


全熟豆腐箋は、以前に販売した豆腐箋の、熟度をさらに高めた紙である。豆腐箋は半熟箋に分類されるが、豆漿の濃度や漢方薬の配合によって、熟箋に近いにじみ止めを施すことができる。熟度を上げることによって、墨は紙に浸透しにくくなる。一方でカスレの効果はより鮮烈になっている。
全熟豆腐箋前回の豆腐箋は、墨の定着が良く、筆書にも向いた紙であったが、焦墨の効果においてやや物足りなさも感じていた。墨の定着の良さと焦墨効果は紙の性質としては相反するもので、どちらを選ぶかは好みの問題である。しかし焦墨がもっと鮮やかに出る紙が欲しいと思い、この全熟豆腐箋を選んだのである。
”全熟”というが、やはり半熟箋である豆腐箋に属する紙であり、”熟箋”とは言い切れない。ゆえに”全熟豆腐箋”という。強いて熟度を表わせば熟度九分というところか。

本色豆腐箋


本色豆腐箋本色豆腐箋は、全熟豆腐箋と異なり、わずかに黄色がかった色をしているが、これは塗布した漢方薬による発色である。これはどちらかといえば前回入荷した豆腐箋に近い色をしているが、より熟度が高くなっている。焦墨でサラサラと筆で紙をなでるように書くと、ほぼ全熟豆腐箋と同じ調子できれいなカスレが現れる。しかし熟度はわずかに全熟豆腐箋より低い。墨を多めに含ませて書く場合は、全熟豆腐箋とその熟度の違いが現れる。すなわち若干であるが、墨液が紙に入り込む気味が現れるのである。

羅紋煮捶宣熟度四分


羅紋煮捶宣熟度四分は、精選した羅紋箋に加工を施した煮捶宣である。熟度3分よりも、さらにわずかににじみを抑えている。熟度五分と三分の間ということになるが、よりどちらに近いかと言えば三分の方である。このあたり、数値と実際の使用感は比例するわけではなく、強いて数字にしてみた、という程度でご理解いただければと思う。
羅紋煮捶宣熟度四分煮捶宣としてはやはりにじみが強い方になるが、それでも漢方薬と加蜡による磨きをかけているので、生箋のような放埓な滲み方はない。また”羅紋煮捶宣三分”がわずかに黄色がかった紙であるのに対し、ほぼ純白の紙である。斜視すると、うっすらと蜡がのって磨き(砑光)がかけられているのがお分かりになると思われる。

蝉衣煮捶宣


蝉衣煮捶宣は、”蝉の羽のように薄い”紙に、煮捶宣の加工を施した紙である。熟度という点で言えば、五分の羅紋煮捶宣に近いが、紙が羅紋箋よりも薄いため、やはりその効果は異なっている。煮捶宣だけに滲み止めの加工を施しているが、紙が薄いために紙背にまで墨液が浸透しやすい。蝉衣煮捶宣また紙に厚みが無いため、墨液がそれほど多く吸収されない。特徴がある。これが筆致の速度による濃淡やカスレに影響するのであるが、薄い紙はそらだけ筆がとられにくい、という事はいえる。一般に、厚みのある紙ほど、早い筆致でカスレが現れやすいのである。この違いは紙の品質の違いではなく、効果の違いであり、自分が欲しい効果にあわせて紙を選択すればよいのである。

宜書宜画


ざっと、今回入荷した四種類の紙の特徴を述べてみたが、万言を尽くしたところで、語りつくせないものがある。実際に使っていただくよりほかない。サンプルをご希望の方にはお送りするので、ぜひともお試しいただきたい。
こうした加工紙は、もっぱら水墨画に使用するべきかと言えばそうではなく、書に用いても良いものである。特に端正な小楷を書きたい場合、あまり滲むような紙は筆をとられてよくないものである。唐代の楷書体の全臨などをやってみたいと考えている方にも好適の紙である。また小さな筆を使い、小楷や行草で長い詩賦を書くときなどは、適度ににじみが抑えられた紙でなければ、とてものこと墨が続かない。
また条幅で連綿と続く行草を書く場合でも、滲む生箋で書くとはじめは大きく滲み、後で急速にかすれてくる。現代ではにじみの強い生箋がもっぱら使われるため、墨が続くように超長鋒の羊毫筆が使われる。それでもって線が滲み過ぎないようにすさまじい速さで運筆するのが流行しているが、王朝時代の書はもっと沈着にゆっくりとしたリズムで書かれている。それはそのような運筆を可能にする紙があって初めてできることなのである。

滲まない紙では墨色が出ない?


水墨画には中国画で言うところの”写意”というジャンルがあり、細密な工筆画と対極をなすとされる。日本で言うところの”文人画”ないし”禅画”、”俳画”などがこれに近いだろうか。現代の大陸では”写意”を書くときは、生箋のような滲む紙を使用し、省略された筆致でもって、対象の姿を素早く描くような作品を多く見かける。写意に滲むような紙がつかわれるようになったのは近代にはいってからであるが、生箋がもっぱらとなったのはここ半世紀くらいではないかと考えている。呉昌碩や斉白石にしても、完全な生箋に書かれた画というのは実のところ少ないものである。以下は完全に滲みをとめた礬砂紙の扇面に書かれた書と画の例。写意の梅花も滲まない紙に書かれている。
半熟箋 豆腐箋 煮捶宣 墨色半熟箋 豆腐箋 煮捶宣 墨色どうも、墨色というのは、滲みやすい生箋で見るのが本当、というような意見もあるようだ。加工紙では墨色が出ない、言う人も少なくない。しかし王朝時代においては、書にせよ画にせよ、ほとんどが加工紙の上に書かれている。扇面などはほとんどが滲みを完全にとめた金箋や熟箋で作られている。これらの紙に書かれた作品の墨色が、では生箋に書かれたものに劣っているということなのだろうか?
墨は紙に浸透し、滲み、紙の繊維の中で発色することもあれば、紙の上に定着し、その色を見せることもある。どちらが”本来”の墨色なのかは決めることはできないし、決める必要もない事である。
ここで熟箋や半熟箋を集中的にとりあげているのは、現代においてその使用が廃れてきているためであって、何も滲む生箋の使用を否定しているわけではない。生箋は生箋独特の効果がある。ただいまの書画のシーンでは、生箋以外の紙をほとんど見かけなくなってしまった。
滲む生箋に書いていて「なかなか書けるようになった」と思っていたころ、初めて滲まない熟箋に書いた時に「なんて自分は下手なんだろう。」と愕然とした記憶がある。滲まない紙は、筆致が、筆の軌跡がそのまま露わになる。滲みによって、線をオブラートに包んではくれないのである........滲まない紙に、たとえば王朝時代の尺牘などを臨書しようとしたとき、いかに紙、墨、筆の選択が重要か、気付かされるものなのである。
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再び半熟箋

当世、諸式高くなり....


知り合いの書道用品店の親父と話をしていた時の事。「最近は、大陸からの仕入れが何でも高くなって.....」というのは、ここ数年のあいさつ言葉のようなものだ。とりわけ「紙、宣紙が本当に高くなってしまった。」ということである。「仕入れても利益が出せるような値段じゃないし、高かったら誰も買わないし。」という。
宣紙に限らないが、大陸の筆墨硯紙はここ10年で値上がりを続けている。ただ、硯は多少高くなっても消耗しないので数は必要ないし、日本では硯自体を使わなくなってきている。消耗品であるところの筆墨紙の値上がりが特に痛いわけであるが、なかでも紙の価格高騰は、日本の書道用品業界の経営を直撃しているようだ。
実は日本の書道用品の問屋や小売店は、紙の販売に依存してきた部分が大きいのである。大陸からの紙の卸値があがる一方で、日本国内はデフレでなかなか値上げが難しい。紙で利益を上げられなくなると苦しいのである。ここ数年、全国各地で、老舗の書道用品店の倒産が相次いでいるが、紙の価格高騰も要因のひとつではないかと考えている。

良い品は高い


近年、大陸の文房四寶についても、”二極化”が進んでいるようだ。北京や上海の市中の文房具店で扱われている紙や墨、筆の多くは粗悪な品が多くなった。一方で、一般の店頭で流通していない品については、良い物もある。ただし価格は高い。こういった特別な製品は一部の書画家や愛好家が直接購入したり、ごく一部の専門店で扱われているのみなのである。ちょっと観光がてらに探したくらいでは、なかなか見つけるのが難しいかもしれない。
良い品でかつ売れるのなら、大陸の街の小売店が扱ってもよさそうに思える。しかし工場出荷の価格自体が相当に高いので、余程良い客層を持っていないとさばきにくい。高価な品を長期間在庫しておくのは苦しいものである。
大陸の小売店ですらそうなのであるから、日本の問屋や小売店ではなおさらである。昔の小売店はいい品を一度に買っておいて、ゆっくり売る、というスタイルが一般的であった。その代りセールや値引きもあまりしない。しかし今や書道用品業界も、在庫を多く持つことを嫌うようになった。特に高くてゆっくりしか出ない商品は、持ちたくないというのが本音ではないだろうか。
また今の書道のスタイルは、あまりに多くの紙を消耗するようになっている。高くて良い紙は使いたくとも使えない、という事情もあるのだろう.......

再び加工紙を


”熟箋(じゅくせん)”、”半熟箋(はんじゅくせん)”といった”加工紙”があるが、これも日本にはあまり入ってこない紙の一つである。半熟箋の代表格である”煮捶宣”は、今ではそういった紙があることもあまり知られていないかもしれない。
熟箋ないし半熟箋は、漉いたままの生箋に加工を施した紙である。紋様や色彩が加わることもあるが、滲みを調整する、というのが加工の主要な眼目でもある。”熟”というのは、紙の滲みの程度を表わしていると言っていいだろう。ほぼ完全に滲みをとめた”熟箋”はいわば”完熟箋”であり、滲みを適度に残したのが”半熟箋”ということになる。
”熟箋”は文字通りほとんど滲まないことを目指した紙であるから、その効果は比較的わかりやすい。ところが半熟箋というと、その”成熟度”には幅があり、効果も異なってくる。
半熟箋の代表である”煮捶宣”は、以前に熟度が30%のものと、50%のものを入荷した。ぞれぞれ効果が違うのであるが、もう少し熟度が進んだ紙として、今回は熟度が30%から90%の紙を入荷することにした。
この煮捶宣のにじみ止めは、漢方薬を配合した薬液に紙を浸すことで得られるのであるが、熟度が30%の紙と50%の紙とでは無論のこと薬材の配合が異なっている。単純に薬液の濃度が高ければ熟度が高く、薄ければ熟度が低い、ということではないという。なのでたとえば熟度70%の紙も、30%や50%の紙とはまた違った風合いである。また30%、50%、70%というのは、あくまで感覚的な印象を数値化したものであって、厳密な測定法があるわけではない。

墨の性質と滲み


紙から話がそれるが、墨の製法でも”滲み”は問題になる。墨匠は墨を評価する際に、いくつかの指標を持っている。たとえば黒さ、光沢、透明感、定着性、といった指標がある。”黒さ”と”透明感”は相反しそうだが、濁った黒と澄んだ黒では、見える印象がちがうのである。”定着性”は、紙に定着する強さ、である。またこのほかにも”浸透性”という点も重視される。浸透性というのは、紙に墨液が浸透する性質を言う。墨は漢方薬の配合によって、浸透性が調整されているのである(もっとも、市販の墨の多くはそこまで考えて作られていないが)。
単純に”浸透性”を少なくすると濃墨で滲みにくい墨ができるが、淡墨で水墨画を描く場合などに、墨色の変化が乏しくなる。それでは面白くないので、適度に”浸透性”を調整するのであるが、その際に古い時代の墨の効果を参考にしている。”浸透性”の違う墨を使うと、同じように描いているつもりでも、確かに効果が変わってくるものである。
この墨の”浸透性”という性質、紙の側から見れば”熟度”ということになるだろうか。墨匠が言うには、墨の製法由来の”浸透性”も、実際の浸透の程度は紙に大きく依存するそうだ。なので紙の側から見れば、同じ紙でも使う墨によって”熟度”は違ってみえるし、墨の側からみれば”浸透性”が異なって見える。このあたりは墨と紙の組み合わせと用い方で千差万別、ということになり「その変化は微妙でとても語りつくせない」というところになろうか。そこが紙と墨の表現の奥深いところであり、また楽しみの尽きないところでもある........博物館で王朝時代の書画をみるときに、どのような紙と墨の組み合わせによれば、このような表現が可能か?考えてみるのも面白いかもしれない。

煮捶宣と豆腐箋


それはさておき、今回は半熟箋の代表格である煮捶宣を二種類(羅紋、蝉衣)と、豆腐箋を二種類入荷した。上海博印堂直轄工房の特製紙である。どちらも今までの煮捶宣、豆腐箋とは製法が違い、得られる効果も微妙に異なっている。この違いと言うのは、実際に使ってみないとわからないものである。伝統製法の加工紙というのは、たとえ同じ製法、材料の配合で作ったとしても、前と全く同じというわけにはゆかないという。”前と同じ紙が良い”と思っても、これがなかなか難しい。伝統的な加工紙とは本来そうしたものと割り切って、使い方を考えてゆくしかないのかもしれない。
万言を尽くしても、いろいろと写真に撮ってみても、なかなか伝わりにくいのである。なので印泥と同じく、ご希望の方にはサンプルをご提供したい。こればかりは、使っていただくしか無いのである。

現在、70年代、80年代に日本に入荷した紙や墨が、すさまじい勢いで大陸に還流している。それも結構な値段がついている場合が多い。これは、70年代、80年代に中国で生産された紙や墨(筆も)の最上級のものは、ほとんどが日本へ輸出されたためである。70年代の紅星牌クラスの紙や油烟101の鐵齋翁書畫寶墨などは、大陸の一般の文房具店ではほとんど流通していなかったのである。実のところ80年代に入ると墨や宣紙の質は平均的に大きく低下するのであるが、そのような品でも大陸の人は競って求めているようだ。
一方で宣紙は粗悪品の大量生産の一方で、実は質の高い物も作られている。加工紙の製法も研究している小さな工房がないわけではない。墨も同様である。しかしこのような品は、ほとんど日本へ渡ってこないという現実がある。問屋や販売店側からすれば、仕入れ値が高すぎるし、買う顧客も限られているからであろう。いや、ひと昔前の店の親父というのは、客に納得させるだけの造詣を有していた人物もいたものだが..........工芸品や文化財にお金をつかう習慣が、日本社会から喪われていったのは残念なことである。
「某国はとにかく安く作れ、安い物を、と言う。面白くないから商売したくなくなった。」という話を以前に墨匠から聞いている。「最近の日本人は安い物しか買わない」と言われるようになったら、それこそおしまいのような気がしてならないのである。
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紙と拍売(パイマイ)

昨年1年の大陸の書画、古美術品、美術工芸品の拍売(パイマイ:オークション)を概観すると、その前の年に比べて全体的に低調であるといえる。特に現代作家の作品市場は、拍売に限らず落ち込みが激しいようだ。しかし一方で、物故作家や近代以前の作品については、いわゆる”ビックネーム”の佳作は相変わらず良い価格で落ちている。反面、疑問符がつくような作品は”不成交”、つまり落札自体がされなくなっている。
実のところ、落札件数が多く、総額は減ったとしてもまあまあ成功裏に終わったかのような拍売も、開始価格で落札されているものなどのうちのほとんどは、出品者か主催者が開始価格で落しているのである。出品作品は出品者の手にもどるから、”不成交”と同じである。何故こういうことをするかといえば、拍売の主催者からすれば、あまりに落札点数が少ないと拍売の不振を印象付けてしまうからである。また”不成交”に終わった品は、次に再度別の拍売に出品し難くなるからである。

話を書画に限ろう。ほんの数年前は、山と積まれた書画の拍売カタログを見ると、唖然とするようなひどい作品(贋作や濫作)もほとんどすべて落札、それも高値で落ちていたものである。現代作家についてはおいておくとしても、近代以前の作家に関しては、素人目にも贋作とわかるものがずいぶんと並んでいた。拍売に出展されているほとんどすべての作品が落札し、しかも高値がつくとなると、せっせと贋作をつくる人や転売で利益を上げることが目的の”プレイヤー”が大勢参加するようになっていった。

伝統ある良質な拍売会社というのは、実は転売をこととしている人からの出品はあまり好まない。拍売会社の担当者といえど、長年経験を積んだコレクターほどの鑑定眼を持てることはまれである。ゆえに信頼できるコレクターからの出品は歓迎するが、転売業者の参加者からの出品はとかく警戒する。また拍売で落札されるにしても、転売業者の人が落すことはあまりうれしくないのだという。反面、熱心なコレクターの落札は歓迎されるのである。

拍売というのは、長年蒐集を続けた著名なコレクターの手から出品され、新たに熱心なコレクターの手に渡ってゆくのが理想なのだというようなことを、何時だったか拍売会社の人から聞いたことがある。たしかに、健全な美術品市場というものがあるのだとすれば、あるいはそういうものかもしれない。

”良いものしか売れなくなった”というのは、”○でも味噌でも”売れていた時に比べれば、より”健全”な市場に近付いた、と言えるのかもしれない。贋作を作ったり、転売で儲けようとしていた人々には面白くないかもしれない。しかしかつて今出来の駄作や贋物が全部売れていた時代の方が異常なのである。冷え込んだというよりもむしろ落ち着いた、という方が適当だろう。
贋物の転売は”ババ抜き”に似て、最後にババを引いた人が負けである。しかも恐ろしいことに、このババ抜きのババはどんどん数が増えてくる。最後に”ババ”を掴まされた人は、市場が冷え込んで”ババ”を引かせる機会がなくなっては困るだろう。このあたりは不動産バブルにも似ているが、不動産の価値は短期的にゼロになることはない。美術品の”ババ”は言ってしまえばゴミである.......

まあそうは言っても、現実的には転売業者の人を市場に入れないというわけにはゆかない。自分のコレクションを整理するコレクターも、なるべく良い値段で落札された方がいいわけであるが、転売も価格の上昇に一役買うからである。
しかしコレクターは”長期保有”して価値を維持してくれるが、転売目的の”プレイヤー”は買っても高値で売り抜けることを画策する。買う人が多ければ上がるが、売る人が多ければ値は下がる。ゆえに市場に転売目的の”プレイヤー”が増えると市場が不安定になるのである。

転売目的の人が、たとえば硯を欲しがるのは、硯が欲しいからではなくてお金が欲しいからである。したがって”プレイヤー”の硯市場参加による硯相場の上昇というのは、硯の真の需要によるものであるとは言い難い。無論、はじめはお金目当てで硯を扱うようになって、徐徐に硯の魅力に気付いてゆく、という人が皆無とはいえないだろうが、僅少であろう。お金が欲しい人は、扱う対照は別段硯だけである必要はなく、儲かるなら何でもいい。硯の価格上昇が止まって利ザヤが抜き難くなれば、別途価格が動いているモノを扱えばいいのである。それは美術品に限った話ではなく、株でも不動産でもいいのである。

”拍売会社は、売買の手数料をもらうだけなのだから、取引が何回も繰り返された方がいいだろう”と考えてしまいそうである。しかしたとえばある拍売でいい値段がついた作品が、1年後に別の拍売でさらに良い値段がつく、ということはあまり起こらない。手放した人は経済的な理由で手放したのかもしれないが、どういった人がどういう理由で出品し、また落札しているかは非公開なのである。短期間のうちに再度出品されるというのは”落札したが、作品自体に問題があってすぐに手放したがっている”という警戒心が働らきやすい。
またインターネット・拍売と違って、買い手が現れるまでいつまでも何回でも出品され続けるということはない。拍売会社も、最近の別の拍売で落札されなかった作品を「じゃあ、うちで」ということはまず言わない。そういう品がいい値段で落ちるということはほとんどないからである。そういう意味では、出品する側にとっては一発勝負なのである。

大陸の骨董店でも、同程度の品の、拍売での落札価格を参考に値段を言ってくることがある。しかし最終的に、拍売よりは若干以上は低めの価格で売るのが普通である。拍売の落札価格からは手数料も引かれるし、また落札されないリスクもあるからである。ある拍売で”不成交”に終わると、自分の扱う品物の履歴にミソがついたような格好になってしまう。さらにカタログに載り、入札結果の記録は残ってしまう。これは誰しも嬉しくないことである。

拍売会社も基本的に”信用の商売”であり、自社の拍売の伝統、権威によって成り立つビジネスである。拍売会社の財産は、良いコレクターと良質な顧客とのつながりである。彼らとの関係の維持のためには、拍売には常々良い品物をそろえることが出来、かついい値段で落札されることが重要になってくる。それでこそ顧客も集まり、コレクターも秘蔵の名品を出品するというものなのである。
また拍売会社が取る手数料は、当然落札価格に応じたものなのである。あまりいい加減なことをやって拍売の信用を下げてしまうと、良い値段で買ってくれる顧客も離れてしまう。結果的に拍売会社の収入も減ってしまう。とはいっても市場が沸騰狂奔している時代には、いろいろと首をかしげたくなるようなことも起きている。

小生は10年ほど前から古い紙があれば買うようにしてきたが、ここ数年ばかりは高すぎて手が出せなくなってしまった。”古い”というのは、清末ないし中華民国くらいまでの紙である。高騰を始めたころ”古い紙が売れているのは、それを使って贋作を作るためだ”というような話を聞いていた。その頃の拍売市場では、先に述べたように、一見して贋作とわかる書画がずいぶんと出ていたものである。

今は書画の拍売は一時に比べて相当落ち込んでいる。また狂熱が冷めたところで冷静になったのか、買い手の目も厳しくなってきたようだ。ひと昔前なら通用したレベルの贋物は通らなくなってきたようである。
しかし紙の価格は相変わらず高止まりである。どころか、清末民国の紙などは、市場からまったく姿を消してしまっている。今はなんと、70年代や80年代に大陸で造られた紙が高くなってきている。特に紅星牌は人気の的だ。
実のところ80年代の紅星牌などはずいぶんと質が低下していたし、下請けの工場のレベルの違いよってバラつきも大きかった。「近頃の紙は悪くなった」ということを、小生も当時習っていたお習字の先生にさんざん聞かされていた。しかも日本に入ってきていたのは主に書に使うような、にじみの強い綿料宣である。これは墨の発色が悪い紙が多く、画に使うには好ましいとは言い難い。
綿料は青壇を多く入れた浄皮紙にくらべて滲みがより一層強い。また1枚当たりの原料コストも浄皮よりも安価である。当時日本では墨磨り機が普及し淡墨が流行し、滲みが強い紙が好まれるようになった。展覧会ごとに紙を1反(100枚)単位で書きつぶすような作品の制作スタイルが定着したのもこのころである。当時の日本の市場にあわせた紙なのである。

無論、80年代の紙では、さすがに中華民国以前の物故作家の作品といえど贋作を作るのは難しい。そうではなくて、これくらいの「ちょっと古い」紙は、現代の書画家が、自分の作品を書くために使い始めているのだという。作家自身ではなく、間に代理が立てって買われることもある。また買った人が、この古い紙を以て作家の作品と物々交換するようなことがおこなわれている、という話を聞いた。

市場が冷え込んだとはいえ、それでも1枚数万元〜数十万元の画料を取る書画家は珍しくないし、あまり高い事を言わなければ買い手はつくのである。そうした書画家からしてみれば、高いといっても1枚数百円から数千円で買える紙などは、十分ペイできる材料ということになる。
そういえば、この頃の現代作家の書画拍売でも、古い時代の紙に書いている例が散見されるようになっている。まあ古い紙としても、贋作に使われるよりは現代作家の佳作に使われた方がいいだろう。

古書画の取引も目が厳しくなって、かつてのように甘い贋作では通らなくなったようだ。
また現代作家は何も贋作を描いて売るわけではないが、政府、行政がらみの贈答品市場の引き締めにあって、今までのような濫作してどんどん売ることは難しくなっている。古い紙は限られているから、当然濫作はきかないわけであり、古い紙を使うことでほかとの差別化も図れるというわけである。事実、今出来の粗悪な紙よりは、描き易いには違いない。
70年代の宣紙となると、日本国内の市場でも、まとまった数で存在するのを目にするのは珍しくなった。また80年代の紙であれば、引退した作家の家から在庫が出てくることがある。80年代当時は改革開放経済も始まったばかりであり、大陸で生産された紙の良質なものは70年代に引き続いて日本へ輸出されていた。反面、大陸ではあまり良い紙が流通していなかったという事情もある。ゆえに出来てから二十数年ほどが経過した紙で比較的質の良いものは、日本の方が多く残っている、という可能性もある。先に80年代は70年代に比べて紅星牌の質が低下したと言ったが、大陸ではさらに質の低い紙が一般市場に流通していたのである。

小生も10年くらい前、大陸で70年代や80年代の古い紙を探したことがある(もちろんこれはこれは清末民国の1枚数百元から数千元する玉版宣などとは別の話である)。しかしこれがさっぱり出てこない。少し古くて安い紙はあるが、同時に質も低い紙が多かった。むしろ日本で探した方が見つかりやすいものであった。
現在は大陸もある程度上質な紙が流通しているが、価格もそれなりに高くなってしまっている。しかし大陸の一般市場で流通する紙の質が上がったのはここ10年くらいのことで、20年、30年寝かせた紙で質の良いものとなると、やはり今は日本に求めざるを得ないのかもしれない。

また以前にも述べたかもしれないが、大陸のいくつかの博物館は古い紙を収蔵している。これは古い墨と同様、文革時代に没収した品が、引き取り手の死去や寄付によって、そのまま博物館内に残ったものが中心である。博物館はそういった古い上質な紙を作家に提供し、特別な作品を書かせることがあるという話を聞いたことがある。そういった博物館在庫がポロリポロリと市場に出てくることがあり、そういう紙をキャッチできた時もあった。今は全く出てこない。

近年、安徽省の宣紙工場や徽州の墨工場に、各地の博物館が大量のオーダーを出しているという話もある。博物館に振り分けられる、中国政府の文化事業の予算の使い切りのためという話もあるが、いずれは博物館倉庫で寝かされた後で作家に書や画を書かせるのかもしれない。
話が紙にそれ過ぎたが、書画の”拍売・バブル”が弾けたのち、これから大陸の書画も量より質の時代に向かってゆくのかもしれない。無論のこと、品質の良い紙は作品の風采にも大きく作用する。しかしそれでなくても、劣化しやすい粗悪な紙に墨汁で書いたような作品は、そのうち見向きもされなくなる可能性がある。質の悪い紙は50年しかもたないといわれるが、その過程で作品の質そのものも劣化退行してゆくだろう。まともな墨と違い、墨汁の風采があがらないのは言うまでも無い。単なる寿命ではなく、その間の劣化も考慮しなければならないのである。

また表具も問題である。表具材料や工程の質が悪ければ、年数が経過することで風采が損なわれてゆく。表具をし直すという方法もあるが、作品自体が粗悪な紙や墨汁を材料としていれば、表具の繰り返しには耐えられないものである。もちろん、作品の修復・保存技術も進歩してはいるが、劣化しにくい材料を保存するのと、劣化しにくい材料を保存するのとでは、そもそもの難度が異なっている。政府予算で運営される博物館ならともかく、書画市場の大部分を占める一般のコレクター達が、そのような余計なコストを払わなければならない作品を好むとは思えない。言い方を変えれば、劣化の”リスク”の高い作品には手を出さないのである。

いわゆる図像としてとらえられる範囲だけで書画を鑑賞する分には、使用されている材料がどういったものであるか?あるいは長期保存に耐えるものであるかどうか?ということまでは考慮しなくていいかもしれない。しかし観念としての“美術”だけではなく、現実にモノとしての”美術品”を取り扱わなければならない人達は、使われている材料に関しても、深い洞察が必要になってくる。
ちなみに70年代や80年代の紙といえど、清末民国の紙には遠く及ばないのであるが、清末民国の玉版箋レベルの紙は70年代、90年代にはすでに生産されていない。80年代の紙といえど、粗悪な紙もずいぶん作られた。しかし30年ほど経過して目立った劣化が見られないのであれば、それが紙の品質の見極めの目安になっているのだろう。

バブルも見られなかった代わりに暴落もしていない文房四寶ではあるが、文房四寶は美術工芸品としての観賞価値と同時に、やはり道具(筆・硯)や材料(墨・紙)としての実用の価値があり、硯以外は消耗するものだということも作用しているのだろう。破損しない限り絶対数が減らないほかの文物とは、そこが違うところである。つまり”消費される文物”というような事は言える。また良いものを作ろうとすれば数は作れないし、値段も高価になり、結果的にいつの時代も「限られた品物」にならざるを得ない。その価値を忘れてしまった日本と対蹠的に、大陸はその真価を見直しつつあるところかもしれない。
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倣薛濤(せつとう)箋

唐代の女性詩人、薛濤(768 - 831)が創案したといわれる薛濤箋は、芙蓉の花弁から染料を作り、紙を紅に染めていたという。”芙蓉”というと、小生などは白い大輪の花を想起しがちである。しかし芙蓉の品種は千差万別で、真紅の芙蓉も存在する。真紅の芙蓉は黄河流域から四川省に多く見られるという。
芙蓉の花房を開花直後に摘み、その花弁を杵でもってよく搗きくだき、余分な水分を除く。すると鮮やかな真紅の染料になるという。白居易の「長恨歌」には「芙蓉帳暖度春宵」という句があるが、この「芙蓉帳」というのは、芙蓉の紅で薄絹を染めた赤いカーテンであるという。
薛濤は唐代中期の詩人であるが、詩文だけではなくその筆跡も名高かった。しかし唐楷はもっぱら碑帖のみで真蹟をみないように、唐代の筆跡というのはほとんど亡失してしまっている。薛濤の真筆は北宋の宮廷ですら、わずかに一片を収蔵するのみであったという。
薛濤が士大夫との応酬において、自ら製した詩箋を使用したことは想像に難くない。また、あるていどの数量が流通したとも考えられる。しかし薛濤自身の筆跡どころか、薛濤箋に書かれていると考えられる尺牘は、現在のところ確認できていない。実物を見ることが出来ない薛濤箋、あるいは薛濤箋の産地であった浣花渓の紙であるが、唐代の中期以降の詩には多くうたわれている。

晩唐の詩人、李商陰(812年〜858年)に「送崔珏往西川」という詩がある。友人の崔珏が四川省へ転任する際に贈った送別の詩である。細部にわたると長くなるので、簡単に紹介しておきたい。

年少因何有旅愁
欲為東下更西游
一条雪浪吼巫峡
千里火雲焼益州
卜肆至今多寂寞
酒垆従古壇風流
浣花箋紙桃花色
好好題詩詠玉鈎

年(とし)少(すくな)きに因(よ)り何ぞ旅愁(りょしゅう)有(あ)らん,東下(とうげ)して更に西游(せいゆう)を為さんと欲す。
一条の雪浪(せつろう)、巫峡(ふきょう)に吼(ほ)え,千里の火雲(かうん)は益州(えきしゅう)を焼く。
卜肆(ぼくしょう)、今に至れば寂寞(せきばく)多く,酒垆(しゅろ)、古に従いて風流に壇す。
浣花(かんか)の箋紙(せんし)は桃花(とうか)の色,詩を題するに好好(こうこう)、玉鈎(ぎょくこう)を詠(うた)え。

「巫峡」は現在の三峡付近の峡谷。「火雲」は熱気をはらんだ(と考えられていた)夏の雲。「卜肆」は前漢の卜占の名人、厳君平が成都において名高かったことを指す。また酒垆は居酒屋であるが、やはり前漢時代に卓文君と駆け落ちした司馬相如が二人で居酒屋を開いていたことをいう。「浣花箋紙」は成都近郊の浣花溪で紙が製せられていたことを言う。また「玉鈎」は湾曲した玉であるが、三日月をさす。

以上を踏まえて、大意のみ示す。

若いのだから、どうして旅を愁えることがあるだろうか、東に下ってまた西に旅をするくらいはなんということもない。
一筋の吹雪は巫峡の大渓谷に響き、千里にも連なる夏の雲は益州の空を焦がすかのようだ。
成都では、占いの店は前漢の厳君平のような名人が占うのでないのだから、今や大方は寂れていよう。司馬相如が卓文君と開いていた店の伝統にならって、居酒屋はその風雅を誇っているだろう。
薛濤が漉いた浣花の詩箋は、桃の花のような淡い紅(くれない)。詩を書くのにとてもいいから、成都にかかる美しい三日月を詠いたまえ。

生卒年から考えると、薛濤が晩年を迎えるころ、李商陰が二十歳前後であったと考えられる。李商陰はすでに隠棲している薛濤に直接会ったことがないにしても、薛濤と交流のあった年長者から彼女のことは聞かされていたことだろう。詩中にうたわれている”桃花色”の浣花渓の詩箋は、特に薛濤箋を意識したものと考えていい。

李商陰と同じく晩唐の詩人、唐彦謙(生年未詳、893年頃没)の「紅葉」には「蜀紙裁深色、臙脂落靚妝」とある。ここでは裁断した蜀の紙を紅葉にたとえている。ゆえに蜀紙といえば、紅い紙を想起しているとみていいだろう。また唐代最末期の韓偓(842〜923)の「恨寄」にも「秦釵枉断長条玉、蜀紙虚留小字紅」とある。ここでも「蜀の紙は虚しく小字を留めて紅」とうたってるので、やはり紅い紙を思い浮かべていると考えていいだろう。(このあたりの詩はいずれ詳述したいが、今は話がそれて長くなるのでこれにとどめる)
もともと蜀は唐代における紙の主要な産地である。薛濤以前から浣花溪では紙が製せられていたのであり、薛濤箋は特に薛濤が監督して造らせた紙、と考えられる。しかし薛濤の没後、浣花溪でいつごろまで薛濤箋が作られ続けたかは明らかではない。唐末の戦乱を経て、南唐において澄心堂紙が製せられるにいたったが、宋代の士大夫達が垂涎する澄心堂紙の産地は徽州である。やはり蜀の紙が最良を誇ったのは唐代であり、薛濤箋は蜀の紙を代表する存在であったといえるだろう。

さて、この”薛濤箋”を思わせる紙が欲しいと考えた。伝承によれば、薛濤の詩箋は原紙を芙蓉の染料で紅に染め、これに雲母を散り敷いた紙であるという。芙蓉の染料は現在すでに入手が難しいし、植物由来だけに、色素の安定性もやや懸念される。そこで上海博印堂の製紙工房と、材料、製法について相談したのである。

ところで薛濤は隠棲した後も生涯独身を貫き、道服をまとって女道士として余生を過ごした。雲母は服用を続けると昇仙に至るとされる、仙薬のひとつである。漢代に成立したとみられる。中国における最古の薬学書というべき神農本草經には、雲母は上品に部類されている。上品に分類される薬材は、すなわち服用によって昇仙に至る薬材なのである。その雲母を散り敷いた紙というのは、そのしっとりとした淡い光沢もさることながら、どことなく神仙を想起させるところがあっただろう。女道士となった薛濤に似つかわしい紙である。
倣薛濤箋材料としては雲母の細粉でも製造可能である。しかし蛤蜊箋で実績があり、より繊細な蛤蜊粉を使用してもらうことにした。”ラメ”をさらに細かくしたような、潤いを感じさせる光沢が期待されるのである。
また紅い染料も、製法が定かではない芙蓉由来の染料ではなく、乾隆蝋箋で実績のある朱砂を使用してもらうことにした。朱砂あるいは丹砂などの水銀化合物も、雲母と並んで仙薬の中心に位置する材料である。神農本草經には、やはり「丹砂(丹沙)」が上品に分類されている。また長期の保存によって変色することなく、また防虫の役割を果たすことが期待される。
この朱砂と蛤蜊粉を使って薛濤箋に倣うのも、あながち見当違いではあるまいと考えた..................はたして紙は出来た。倣薛濤箋朱砂は印泥でいえば美麗の紅ではなく、光明にちかい明るい赤色である。この朱砂を白い蛤蜊粉が覆うことで、淡い桃色の色調が生まれている。もっとも、唐代の詩人が想起した「桃花色」はもっと濃い紅であったかもしれない。しかしこの淡い色調も、日本では多くの人の好まれるところであるかと思われる。そのうえを、ごく薄い絹をかけたような蛤蜊粉の光沢が覆っている。写真ではわかりにくいかもしれない。無機質なテカテカとした艶ではなく、潤んだようなしっとりと落ち着いた艶である。よいのではないだろうか。
倣薛濤箋”薛濤箋”は詩箋であるから、本来は小さく裁断して使用されている。しかし詩箋といっても、定まった大きさの規格があるわけではない。民国くらいの詩箋の大きさは縦に23cm前後、横に13cm前後のものを見る。しかし仮名の料紙としての応用などを考えると、横幅が50cm前後、縦に30cm程度はほしいところである。また大胆に對聯にこれを用いたい、という人もいるかもしれない。そこで”大は小を兼ねる”ではないが、使用したい紙の大きさは人によって違うのであるから、裁断せずに全紙のままとすることにした。
当然、一枚一枚の手作りである。原紙を漢方薬液に浸し、乾燥させ、さらに朱砂を塗布したうえに、7回から8回にかけて蛤蜊粉を散布するのである。このような作業が可能な加工紙の工房は、大陸広しといえどもはや一,二が残るのみである。非常に手間がかかり、例によってそれほど数を作ることが出来なかった。しかし今の時代にこのような紙の需要がそれほど多いとも思われない。紫式部や清少納言、あるいは和泉式部にでも贈れば喜んでくれたに違いないのだが、墨汁が濫用され反古の山が築かれている現代では、高価なだけで無用の”長物”と謗られるかもしれない。
大量生産、大量消費の時代である。時代とともに価値観が変化するのは致し方ない面もあるが、たまには紙が貴重品であった時代を想起することも必要なのではないだろうか。この倣薛濤箋も、一片の紙に過ぎないとはいえ、徒(あだ)やおろそかにはしてほしくないものである。
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蝉を食ふ話から 〜蝉衣箋について

蝉翼箋、あるいは蝉衣箋と呼ばれる加工紙がある。いつごろから作られるようになったのかは定かではないが、清の乾隆帝は蝋箋とともに精良な蝉翼箋を作らせ、梁同書はこの紙に書くことを好んだといわれる。しかしここで気になるのが、薄く光沢をもった加工紙が、何故「蝉」にたとえられたのか?ということである。まず、「蝉」が持つ意味を考えてみる必要があるだろう。

神仙思想において、「蝉」は重要な昆虫として扱われている。蝉はその種類にもよるが、数年から十数年も地中で生活し、地上に出てから脱皮して成虫となる。神仙思想では、脱皮することによって別の存在となる蝉の生態に、人が”神仙”に遷化するイメージが重ねられるのである。
仙人の祖形に「羽化人」という、背中から羽根の生えた人物像がある。仙人になることを「羽化登(昇)仙」という。仙人になること「仙化(せんげ)」は、”飛翔”のイメージを伴っている。蝉は成虫になれば一カ月程度しか生きることができないが、成虫となって空を飛ぶ姿に、人が神仙となって飛翔する姿が想起されるのであろう。
また昇仙には”屍解”というものがある。”屍解”とは、死後遺体をとどめず、しかし痕跡は残すことで”仙人になった”と解釈される”昇仙”の仕方である。この場合の痕跡は、衣類や靴だけのこともあれば、剣や書物だけのこともある。「麻姑仙壇記」には”教其屍解、如蛇蝉也。”とある「如蛇蝉」というのは、あたかも蛇や蝉が”抜け殻”を残して脱皮するようなものである、ということだ。蝉の抜け殻を「蝉衣」という。蝉の抜け殻を”蝉の衣服”と解釈することによって、蝉が幼虫からサナギ、そして成虫へと変態する生態そのものが、人が”昇仙”するプロセスをよく説明しているとされるのである。

神仙思想における死生観というのは、おそらくは戦国後期から漢代にかけて、西方から伝播した新知識に強い影響をうけたと考えられる。その起源をはるか西方の古代エジプトに求める研究がある。死後を語ることにおいては、あるいは当時の世界でもっとも精密で具体像に富んでいたのがエジプトの死生観であったかもしれない。
春秋時代後期に生きた孔子は、葬儀をつかさどる一族の出身であり、葬礼に関しておそらく誰よりも詳細な知識の体系を持っていたにも関わらず、死後の世界について語ることはなかった。やがて知識人階級の本流になってゆく”儒教”の祖が「死」について語らなかったのだから、外来の死生観を”知識”として取り込むときにも、相当な苦労があったに違いない。「昇仙」を蛇や蝉の生態に喩えたのは、新知識を消化しようとして苦心した痕跡のようにも思われる。
含蝉蝉の形に加工された玉を死者の口に含ませる、いわゆる「含蝉」あるいは「蝉形玉含」という副葬品がある。上の写真は香港芸術博物館に収蔵されている、漢代の墓から出土した「含蝉」である。
死者の口中に物を含ませて埋葬する風習は、すでに殷商時代から存在していた。殷商時代の墓からは、口中に貝を含ませた発掘例がある。葬られる人物の身分に応じて含ませるものが異なっていたと考えられ、含ませる物によってそれぞれ「含壁」「含珠」「含瑁」「含米」「含貝等」などがある。「周礼·天宮·天府」には“大喪共供含玉”とある。大喪とは皇帝の葬儀をいうから、玉を含ませるのは古代では皇帝、ないし王侯に限られていたようだ。
「含玉」を蝉の形に加工したものが「含蝉」であるが、この発見例は漢代の墓に多い。漢代の貴族階級に浸透した神仙思想においては、不死の存在としての「仙人」になることがその活動の価値観であった。たとえ生存中に仙人になれなくても、肉体を保存することで再生、復活が叶うと信じられた。漢代の上流階級の墓は、馬王堆漢墓の例に見られるように、死後の肉体の保存にさまざまな工夫が施されている。肉体の保存を図ってから埋葬する風習も、起源はエジプトのミイラ作りに通じるという研究がある。そして死者の口中に玉でできた蝉の像を含ませて埋葬するのは、土中から地上に出て成虫になる蝉の生態に、死者を復活させる力の存在を信じたためと考えられる。
焙蝉炉上の写真は、蝉を焼く炉を模した青銅器である。蝉を焼いている様子を模しているが、実際にこのような格好で蝉をあぶって食べたのかもしれない。礼記「内則」には、周の君子の食卓に乗せるべき食物の中に「蜩」という字で「蝉」が挙げられている。また「荘子(達生)」には蝉をとらえる名人の男(僂人)の話が出てくる。遊びで捕えるわけではもちろんなく、食用にするためであっただろう。
漢代に成立した最古の薬学書である「神農本草經」には蝉の一種である「柞蝉」について、「味咸,寒。主小儿驚癇、夜啼,病,寒熱。生楊柳上」とある。蝉の抜け殻は現代でも漢方の薬材として利用されるが、蝉そのものを食す習慣があった。
北魏時代の「斉民要術」には、崔浩の「食経」を引いて“捶之,火炙令熟,細擘,下酢。”とある。すなわち叩いてつぶし、火でよくあぶり、細かく裂いて酢をかけて食べた、ということになる。また”蒸之,細切香菜置上。”ともある。蒸して、細かく切り、香菜をうえにのせるようだ。また”下沸湯中,即出,擘,如上香菜蓼法。”という法も紹介されている。すなわち茹でて取り出し、細かく裂き、やはり香菜や蓼(タデ)とともに食べたようである。香菜は現代でいうコリアンダーの葉のことではないだろう。何らかの香草であろう。現在でも雲南省のタイ族では蝉を食すという。
しかし重要なのは、”蝉を食す”という行為が、単なる食糧や漢方の薬材を摂取するという意味にとどまらなかった点である。すなわち”昇仙”の力が宿ると信じられていた蝉を食すことは、その力を自分の肉体に取り込もうとする意思の表れであったと考えられる。逆にいえば、”昇仙”の力を身体に養うような食物を摂取することが、食や薬の服用による”養生”の最高の目的だったのである。
現代の漢方の考え方でも、胃が悪ければ動物の胃を食べ、また肝臓が悪ければ動物の肝臓を食べるとよくなる、という考え方がある。古代中国でも、戦場で殺した勇者の胆を生で食すことで、その勇者の力を取り込むことができるという信仰があった。生き物を食すということは、その生き物の持つ力を取り込むことなのである。生き物の持つ力はその生き物の生態に現れるのであり、それを食すことで、人にも同じ力が宿るという信仰が見られるのである。また単に食すだけではなく、その外形そのものに力の存在が信じられるようになる。蝉の形体は「含玉」以外にも、さまざま建築、工藝の意匠に用いられてきた。
洞門と洞窗中国の庭園には、壁に穴をあけた「洞門」がある。満月を象った「月亮門」が一般に知られている。また人が潜り抜けることができる「洞門」ではなく、壁に窓のように穴を穿った「洞窗」がある。これらに蝉をかたどった意匠を見ることがある。上の写真は安徽省歙県、新安碑園の庭園であるが、左手に月亮門、右手奥の「洞窗」が蝉様(ぜんよう)をなしている。
これらの構造物は、通路や採光、通風などの、邸宅の機能上の要請も無論ある。しかし元来は洞窟の奥に神仙が住む別世界がある、という信仰から生まれた意匠である。洞門や洞窗を設けることにより、自然と庭園全体が神仙の住処に見立てられるのである。そこへ「蝉」の形体が用いられるのも、やはり蝉が”昇仙”の力を持つと信じられていたためと考えられる。
宋代蝉様硯硯にも蝉を模した”蝉様硯”がある(上の写真)。これは宋代に流行した作硯様式で、その後長く作られ続けた。宋代は漢代を継承して厚葬の風習が強く、さまざまな副葬品に硯も含まれた。副葬品専用の硯も作られた。あるいは蝉様硯式も、道教儀式での使用、あるいは副葬品に供されることを端緒としているのかもしれない。
蝉衣箋蝉衣箋そして”蝉衣箋”という紙がある。「蝉衣(ぜんい)」とは、先に述べたように”蝉の抜け殻”のことである。一方、”蝉翼箋”という名称の紙もある。「蝉翼(ぜんよく)」は文字通り蝉の羽のことである。また蝉翼は非常に薄い半透明の膜状のものの比喩にも用いられる。現在の市場では、蝉翼箋と蝉衣箋は同じ紙の異称として使われているようであるが、元来は別の紙であったかどうかはわからない。
しかし「蝉衣(ぜんい)」といい「蝉翼(ぜんよく)」といい、どちらも薄く半透明なものの形容であるには違いないが、果たして形状の類似のみが紙の呼称として定着した理由であろうか?蝉の生態を人が仙化(せんげ)するプロセスに重ねた場合、「蝉衣」は”尸解(しかい)”による昇仙の際に遺される肉体の痕跡であり、また「蝉翼」は飛翔する仙人の姿を象徴していると考えられないだろうか。
現代では、蝉翼箋(あるいは蝉衣箋)は、薄く漉いた紙に礬砂を施して滲みを抑え、磨いて薄く艶を出した紙とされる。雲母が散布されることもある。薄い紙を磨くことで紙はさらに薄く、半透明になる。このような紙がいつ頃から作られたのかは定かではない。
ひとつ考えられるのが「紙窗(しそう)」への使用である。「紙窗」は日本でいうところの「障子紙」である。唐の白居易 「暁寝」には“紙窓明覚暁,布被暖知春”とある。これは採光の必要から、紙は薄く光を通すほうが良い。また湿気によって破れにくいように、防水性にも留意する必要がある。そのような薄く透ける紙が、扇面や筆書に用いられるに及び、見た目の上での様々な工夫が重ねられてきたとも考えられる..........が、実のところはまだよくわからない。以下は半ば小生の想像。

馬王堆漢墓からは、現代の技術では織ることが困難な(のちに複製されたが)、非常に薄い衣服が出土している。丈の長さが160cm、袖を広げた長さが190cmで、重さはたったの48g程度しかない。漢代当時の名称は未詳であるが、出土記録には”素紗襌衣”と記された。ここでいう”襌(dān)”は”單(dān)と同音の形声会意文字で、「單(ひとえ)」と同様、「襌」一字で”ひとえ”の衣装をいう。なので蟬(chán)とは文字の上での関係は薄そうなのであるが、この”素紗襌衣”は、その薄いことは「蟬翼」のようであると評される。
このような薄い衣装が副葬品として埋葬されていたのは、はたして当時の日用品だったからであろうか?”天女の羽衣”というように、微風でも飛び去ってしまいそうな薄い衣服は、古くから神仙のイメージに随伴してきた。あるいは薄くあるいは薄く透けるような”襌衣”を”蝉衣”に見立て、やはり死者の復活・再生に効果をもたらすという信仰があったのではないだろうか。
羅紋箋という薄く漉いた紙があり、これは羅(ら:うすぎぬ)のように薄く、漉き目の細かいことからその名がつけられたといわれている。あるいは蝉衣箋、蝉翼箋も、布や衣服の存在が先にあり、その連想から紙の名称として定着したのではないだろうか。時に紙に散らされる雲母は、漢代の昔から”昇仙”に通じる仙薬とされて服用が試みられている。
蝉翼のように薄く透明で軽く、雲母を散らした加工紙は、風が吹けば天高く舞い上がってゆきそうである。高級官僚はおろか皇帝にいたるまで、昇仙を願い、薬の服用やさまざまな道引の術が試みられてきた時代である。貴人に文書を奉るとき、神仙を想起させる見た目と名称をもった紙が好まれたとしても、不思議なことではないだろう。
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琉球國と文房四寶 〜沈復「浮生六記」より

移動や会合が重なり、更新が滞ってしまいました。久し振りに「浮生六記」について。

清朝中期に生きた沈復の書いた「浮生六記」は、もとは「閨房記楽」「閑情記趣」「坎坷記愁」「浪遊記快」「中山記歴」「養生記逍」の六篇より成っていた。
岩波文庫で読むことができる、松枝茂夫によって訳出されている「浮生六記」は、このうち「閨房記楽」「閑情記趣」「坎坷記愁」「浪遊記快」四篇について訳出されている。他二篇については、林語堂の序文の中で発見当時「既に亡失していた」と書かれている。
この二篇を探す試みは、かなり以前から行われていた。1935年には、喪われた二篇を補備した版本が上海で出版されたこともあるが、この二篇は偽作であることが後に判明している。
ところが2008年に入って香港「文匯報」に、彭令氏の『沈復”浮生六記”巻五佚文的発現及初歩研究』が連載され、失伝していた「中山記歴」「養生記逍」の内容が明らかになった。この彭令が発見した「浮生六記」の二篇を含む”巻五”は、清代の著名な学者、銭泳の手記である「銭梅渓手稿」の中の「雑記」に納められていたという。その内容から、ほぼ原著者の手によるものであると認められている。
「中山記歴」は、愛妻陳芸の死去の後、使節の随員として琉球へ渡った事が記されいる。また「養生記逍」は沈復が務めたとみられる養生法について記されている。

沈復は正規官吏の私設秘書である「幕僚」という職業柄、中国各地を旅しており、その一部は「浪遊記快」に記されている。ここでは景物に対する個人的な情感や、旅路での面白いエピソードが描かれている。これに対して「中山記歴」は、明王朝政府の公式使節の一員として随行した旅であり、その内容は客観的な観察と詳細な記録への意識が見られるところである。
現代まで読み継がれる「浮生六記」を書いた沈復は、間違いなく優れたエッセイストである。時代を超えた感性の持ち主であったと言えるだろう。しかしその文筆の能力は、本人が言うように「なんとか文章を書ける程度」にとどまるものではなかったようだ。「中山記歴」の記述からは、彼の叙述の能力が、かなり精緻な素養に基づくことが感じられる。中流家庭出身の読書人の子弟としては、あるいは平均的な水準だったのかもしれないが、それをうかがう上でも読まれていい文章ではないかと考えている。
しかし「中山記歴」は、琉球(沖縄)の歴史を知る上では貴重な資料であろうが、一般の読者の関心を引く内容かどうかは意見が分かれるかもしれない。現代の人が読んで面白いのは、奇しくも亡失を免れていた前四篇であろう。とはいえ、前四篇の愛読者としては、「中山記歴」「養生記逍」も一読はしておきたいところである。

さて、この「中山記歴」に「文房四寶」に関する記述がある。この部分のみ、簡単にご紹介したい。前半が墨、硯について、後段は紙について書かれている。まず前半について、

『國王有墨長五尺、寛二寸、有老坑端硯、長一尺、広六寸、有永楽四年字、有”七年四月東坡居士留贈潘邠老”字。問知為前明受賜物。國中有”東坡詩集”知王不但寶其硯矣。』

大意のみ示すと、「国王は長さ五尺、幅二寸の墨を持っていた。老坑端溪の硯があり、長さ一尺、広さは六寸。(その硯には)永楽四年の文字がほられており、また”七年四月東坡居士留贈潘邠老”の文字がある。来歴を問うと、前朝の明に贈られたものであるという。琉球国には「東坡詩集」があり、国王がその硯を大切にしている理由がわかるのである。」

明清の1尺は31.1cmであるから、長さ5尺ということは、およそ1.5mの長大な巨墨ということになる。どのような墨であるかは確かめようがないが、李庭珪の墨ですら1尺あまりであったことを考えると、相当な大きさである。明朝から下賜されたものであることを考えると、外交用の礼品として造られた墨なのであろう。
また「老坑端溪硯」が出てくる。硯に「永楽四年(1406)」という文字が刻まれ、来歴を問うと明の時代にもたらされた、ということである。「老坑端溪硯」とあるが、呉蘭修の「端溪硯史」によれば、いわゆる「老坑水巌」の開坑は明代の萬暦年間に始まるとされる。ゆえにここで言われる「老坑端溪」というのは、沈復が老坑水巌と誤認していたか、あるいは「古い坑洞」の端溪硯というほどの意味であろう。
沈復が硯の鑑別に明るかったかどうかはさておき、見せられた硯を端溪、それも佳材であると見ていたことが伺える。
もとより「七年四月東坡居士留贈潘邠老」の文字には信をおけない。”潘邠老”は東坡居士こと蘇軾の友人であり、当時著名な詩人であった潘大臨である。蘇軾が”東坡居士”の号を用い始めたのは黄州へ流されていた頃である。この時期の蘇軾は、詩文では赤壁賦、書では黄州寒食帖の傑作を残している。また蘇軾は、新宗帝の元豊七年四月に黄州から汝州へ移っている。黄州を去るまさにその日(四月一日)、蘇軾の寓居である雪堂へ、潘大臨兄弟などの土地の友人が訪ねてきた。この時のことをうたった「雪堂問潘邠老」の詩がある。ゆえにこの硯は別離に際して蘇軾が潘邠老へ贈った品、というココロであろう。
「國中有”東坡詩集”」とあり、当時の琉球國では蘇軾の詩の人気が高かったと見える。海南島などのはるか南方に流されていた蘇軾に対し、琉球の知識人達はある種の親近感を寄せていたのだろうか。故に琉球国王も単なる硯としてよりも、蘇軾ゆかりの品ということで珍重しているのだろうということを述べている。

「綿紙清紙、皆以穀皮為之。惡不中書物。有護書紙。大者佳。高可三尺許。闊二尺、白如玉。小者減其半。亦有印花詩箋、可作礼、別有圍屏紙、則糊壁用矣。徐葆光「球紙詩」云、「冷金入手白於練、側理海濤凝一片、昆刀截截徑尺方、疊雪千層無冪面」形容殆蓋。」

ここも大意のみ示すと「棉紙や清紙は、みな穀物の皮を使ってつくられている。書に用いて悪いものではない。護書紙がある。大きいものは良い。高さ(長さ)は三尺ほどで、幅は二尺、玉の如く白い。小さな紙はその半分の大きさである。また印花を施した詩箋がある。礼品に用いて良い。別に屏風紙があり、これはすなわち壁紙に用いるのである。
徐葆光の”球紙詩”には”冷金入手白於練、側理海濤凝一片、昆刀截截徑尺方、疊雪千層無冪面”とあるが、そのほとんどその形容とおりである。」

”棉紙”は木綿の繊維を使って作った紙ではなく、その手触りが棉のような紙のこと。包装紙などに使われる。”清紙”は未詳だが、棉紙と同様、やはり日常の用途の紙なのであろう。穀物の殻の繊維でつくられるということであるが、書に用いても悪いものではない、と述べている。
護書紙はいわゆる奉書紙に使われるような、厚手に漉いた紙である。大雑把に言えば、大きさに大小あって、大きな紙は良い、と述べている。これはどういうことだろう?小さな紙は大きな紙の半分の大きさであるという。それならば大きな紙を半分に切った紙なのではないか?と考えたくなるが、ここで言われている紙の大きさは原紙の大きさであろう。すなわちもともと三尺、二尺に漉かれた紙と、その半分程度の大きさの紙がある、ということだ。紙は広い面積の紙ほど、均一に漉くのが難しい。大きな紙は、より技術の高い職人の手になると考えられ、あるいは当時の琉球の官製の紙であったのかもしれない。
ちなみに日本での紙漉きというと、ひとりで漉く光景を思い浮かべるが、宣紙の産地では2人漉き、4人漉きも行われていた(最近は少なくなったが)。
また印花紙があることから、知識人層では詩も盛んであることがうかがえる。また屏風紙など、筆記用以外の、日常用途の紙も国産していたことがわかる。
徐葆光は清初から雍正元年にかけて生きた人物である。現在の蘇州市の出身で、康煕帝が南巡した際に、詩を献じたほど詩文の名声があった。康煕五十一年に特賜による殿試の再試験に及第し、翰林院編修となる。また琉球へ副使としておもむき、一品の官服を許された。詩、とくに古文辞に秀でており、「二友齋文集十卷」「詩集二十卷」「海舶集三卷」「中山伝信録六卷」などの著作がある。
徐葆光は、琉球への使者という意味では沈復等の先達である。彼の文章や記録は、琉球へ赴く前後で沈復も読んでいただろう。その徐葆光の「球紙詩」には、彼の見た琉球の紙についての賛辞が込められている。

冷金入手白於練
側理海濤凝一片 
昆刀截截徑尺方
疊雪千層無羃面

「冷金」は泥金のことで、すなわち泥金や金箔を施した紙である。「白於練」は練り絹の白く練りあげげられた様子。「入手」はここでは手を下すことで、「冷金箋」を「白於練」すなわち、さらに磨き上げて滑らかな紙にすることを言うのだろう。陸游の「秋晴」に「冷金箋滑助詩情」の句がある。
「側理」は横(側面)に走った「紋理」であり、晋の時代に紹興で作られた藤紙の漉き目の方向がとくにこのようであったといわれ、とくに「側理紙」の名がある。「海濤は一片に擬す」とあるのは、紙の紋理を次々と打ち寄せる波にたとえている。同時に海に浮かぶ琉球國のイメージを重ねている。
「昆刀」は「昆吾刀」のことで、玉石を切ることができると言われる古代の伝説的な名刀である。ここでは紙を一尺四方に截つのに用いられているが、白く光沢のある紙を「玉版」ということからの誇張であり、この紙の優れていることを暗示している。
「疊雪千層」は、積もり積もった雪をいうが、むろんここでは裁断した紙を重ねた様子。「羃(べき)」とあるが、「羃」は「覆う、覆い隠す」の意味であるが、古代の礼法では特に酒器を覆う葛布を言う。しかし「無羃面」とあるから、「面を覆わない」ということになる。
唐の柳宗元「晋問」に“積雪百里,??羃羃”とあり、大地がどこまでも白く輝く(?)雪で覆われている形容である。「「無羃面」は、すなわち一尺四方にカットされた白い紙(雪)を何百層にも積み重ねているため、この雪(=紙)は面(表面)を覆っていない、という意味であろう。ここでも、雪の降らない南国の琉球國のイメージが込められている。
切れ味鋭い裁断によって正確にカットされた上等な紙が、うず高く積み重ねられている様が想起される。

墨や硯は大陸から渡ったものであるにしても、紙については相当な技術と規模を有しており、当時の琉球國の文化水準や産業の力の低からぬことを示唆している。
詩文の文化を支える文房四寶は、王朝時代の知識人が、その土地の文化レベルや産業のレベルを推し量る場合に最も重視する物産である。北宋の士大夫達が高麗へ国使がもたらした墨や紙、扇面に執心したように、琉球國への使節もこれらに無関心ではありえなかったということだろう。美術史や文化史を考える上では、現代全く等閑視されている文房四寶であるが、その位置付けはそろそろ見直されても良いのではないだろうか。
当時の琉球への渡航は、相応の危険を伴う旅であった。沈復は「中山記歴」を「遠くへ行かなくても、毎日楽しく暮らして行ければいい。」と述べた、生前の妻の言葉で結んで、その危難の旅路を回想している。
この際の外交成果の程はうかがえないが、基本的に大きな課題はなく、大過なくその任を果たしたものと考えられる。最後の「養生記逍」を読む限りでは、亡き妻を想いながらも、養生に留意して静かに余生を送ったようだ。おそらくはこの琉球への随員を果たすことによって、ある程度の経済的なゆとりも生まれたことは想像に難くない。
この「中山記歴」の記述内容が、ある地域の領土問題の際に浮上することがあるという。さすがの沈復も、これは夢にも思わなかったことだろう。もとより琉球國と大清帝國という、現代は存在しない国家同士の交流に際しての、一知識人の誠実な記録のひとつと読むべきである。小生がここに紹介した意図も、その範囲でるものではないことをお断りしたい。
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紙の用語集

お店のページに紙の用語集のページを追加しました。「用語集」という割には、項目が七つしかなく、もとより内容が不足していますが、今後書き加えてゆこうと思います。辞書には程遠いメモ書き程度のものですが、ご参考いただければ幸いです。「墨と硯と紙と筆」のページが増えすぎて閲覧の便がわるいため、少し集約して整理しようと考えています。
今後、硯や墨、筆に関しても、用語集のようなページを追加してゆこうと思います。

紙は生箋や半熟箋、熟箋に対する認知が今や重要ではないかと考えています。生箋の利用がもっぱらになった現代ですが、紙の産地や原紙の製法ほどには、加工法は明らかにされていません。原紙としての生箋の質も非常に難しい問題になってきた昨今ですが、加工法が喪われつつあることも、憂慮すべきことであると考えています。
良い墨を使用することも大切ですが、墨色の死命はまさに紙が握っていると言っても言い過ぎではないでしょう。紙への理解なくして墨色への理解はあり得ないのです。どんな紙でも黒く染めてしまう墨汁が濫用されている現代、紙の材料や製法、加工法の違いによる多様な差異に気づく人が少なくなっているのは非常に残念なことです。
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績渓県龍川村の澄心堂紙

現在は安徽省宣城市の管轄下になっている績渓県であるが、かつては徽州でも重要な県城のひとつであった。徽州三県とよばれた歙県、休寧県、婺源県に継いで重要な県城が績渓県であったといって良い。清朝初〜中期の名墨匠の汪近聖、また乾隆年間から活躍した墨匠の胡開文も、績渓県の出身である。汪近聖は績渓県の中でも尚田村、そして胡開文は龍川村の出身であった。
胡開文は徽州に多い胡姓にあっても、その創始者の胡天柱は、特に龍川胡氏の宗族に属しているといわれる。この龍川胡氏は明代後期の名将、胡宗憲の出身地でもある。また現在の中国国家主席である胡錦濤氏の祖先も、龍川胡氏であるという。この龍川村を訪れた際のことはいずれ詳述したいと思うが、ここではその中でも「澄心堂紙」の再現工房があったことを、極々簡単に紹介したいと思う。

澄心堂紙については、南唐の李景・李?が作らせた紙であるとされているが、後に歙県でもその澄心堂紙にならった紙が作られている。
龍川の澄心堂紙龍川の澄心堂紙龍川村の中にある「澄心堂紙」の再現工房であるが、小生は「澄心堂紙作坊」の文字よりも、上にある「毛主席万歳」の方が先に目についてしまった。おそらく文革時代に書かれたであろう、プロパガンダ用の独特な書体である。

南唐の滅亡と同時期に澄心堂紙が滅んだ後、宋代に入っても「倣澄心堂紙」が徽州で造られていたことは北宋の蘇軾や蔡襄の文から伺える。しかし作られていたいのが、特に績渓県であったという事実を記す資料は見たことは無かった。
現在は徽州一帯で紙漉きは行われていないが、「歙紙」という名称が残っているように、倣澄心堂紙も歙県で造られていたと考えていた。しかしあるいは績渓県で原紙が造られ、歙県で流通していたのかもしれない。歙州硯も、硯材の産地は婺源県であるが、主に歙県で加工、流通していたのでその名がある。
倣澄心堂紙が績渓県で造られていたとすると、後に宣城(近郊の?県)で宣紙が造られるようになったのも、あるいは績渓県からの伝播であることも考えられる。現在の行政区画でも績渓県は宣城市の管轄下であるが、実際に交通の便も悪くないのである。
龍川の澄心堂紙龍川の澄心堂紙再現工房といっても、観光用に極簡単な紙漉きの設備を置いているだけである。さすがに百以上あったといわれる、澄心堂紙の工程のすべてを再現出来るものではないだろう。もとより、澄心堂紙は加工紙であったと考えられるから、漉いただけの紙にその特徴が現れているということではないだろう。
ここでは紙漉きの再現、そこで漉かれた紙の販売もしていたのであるが、実のところは?県で漉かれている紙と大差はない。龍川村も近年観光客に解放されており、ここも観光客向けの施設のひとつなのである。
龍川の澄心堂紙龍川の澄心堂紙龍川の澄心堂紙紹介しておいてなんであるが、ここの再現工房には、実際はとりたてて見るべきものはなかったのである。
ただ、わざわざこのような設備を作るという事から見ても、倣澄心堂紙が龍川(あるいはその周辺)で作られていた伝承については、考えてみる必要があるかもしれない。澄心堂紙が加工紙であるとしても、加工紙には優れた原紙が必要なのである。加工紙は消費地に近い都市部で加工されたと考えると、あるいは原紙は績渓県近郊で漉かれ、加工は歙県で行われたのかもしれない。歙州硯の産地が婺源にありながら、硯の多くが歙県で加工されたのと同様である。
ともあれ績渓県の龍川村は、績渓県に残る古鎮のなかでも代表的な村であり、胡宗憲や胡開文など、著名な人物の出身村でもある。山奥の農村だからといって、文化が無いなどとは考えてはいけない。また村に残されている胡氏宗廟には、見事な蓮と鹿の木彫が残されている。それらについては、また別の機会に紹介したい。
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石と蝋と紙

紙の加工に、「砑光(がこう)」という加工法がある。「砑(が)」は「石」に「牙」と書かれる。滑らかな石で紙の表面を光沢が現れるまで、磨(と)ぎあげる作業である。また砑光処理の前に、紙に蝋(蝋)や漿(米を煮た重湯)などが塗布されることもある。砑光の道具石と蝋蝋箋や煮捶宣を造っている工房で、砑光用の道具を見せていただいた。砑光に使われる石は、4kgほどの重さはあろうかという大きな石である。特殊な種類の石ではなく、滑らかで手頃に持ちやすい大きさの石であれば、何でも良いのだそうだ。
ここで使われていたのは、表面に自然の凹凸があり、使っていて手から滑りにくいような天然石である。一面を平面にカットし、滑らかに研磨している。また紙に砑光を施す過程で、研磨に使う面がさらに磨かれるのである。石の代わりに、大蛤(はまぐり)などの貝殻を使う方法もあったという。
石と蝋こうした手作業による砑光以外に、工場によってはローラーなどの機械を使用した砑光処理もある。無論、手作業よりも、量産に向いたローラー機械の使用が主流である。しかしローラーが垂直に紙に圧力を加えるだけなのに対し、手作業による砑光は、水平方向に滑りながら繊維を摩擦する。塗布された蝋が繊維の隙間を埋めながら、紙は独特の光沢を呈するようになるのである。もちろんこの工房にはローラー機械などはなく、すべて手作業で「砑光」を行っている。
この工房で作られた「羅紋煮捶宣」も、手作業によって蝋が塗布され、砑光の仕上げが加えられている。斜視すると、蝋を塗って磨き上げられた光沢がほんのりと現れる。「煮捶宣」は紙を重ねて、上から打撃や圧力を与えて繊維を緊縮させる法もあるが、この工房では砑光というより手間のかかる方法によって、紙にその効果を与えているのである。
かつての「北京栄豊齋A級四尺二層玉版宣」は、二層に漉いた浄皮重単宣に、手作業による砑光が施されていた。これも斜視すると、紙に蝋を引いた跡がわずかに光沢となって見る事ができる。後にこの紙の砑光処理が、ローラー機械による加工に代わってしまったという。
70年代から80年代にかけて、「北京栄豊齋」が無い「A級二層玉版」という高級紙が市場に流通した。しかし多くは厚めに漉いた棉料紙にローラーで圧をかけた紙であり、「北京栄豊齋A級二層玉版宣」とは原紙の質も、加工の綿密さも同じ物ではない(滲みが強く脆く、墨の発色も良くない紙である)。

ところで「煮捶宣」の「捶」は「打つ、たたく」という意味がある。また玉扣紙の「扣」も「たたく」という意味であり、米芾のいう「春膏紙」も叩かれて表面を玉石のように艶ややかにした紙である。この「叩く」という加工法は、製紙技術の確立と普及(前漢)以前から、絹布や綿布に対して行われていたと考えられる。
李白の有名な詩に「長安一片月 萬戸擣衣聲 (萬戸、衣うつ声)」という句があるが、織り上げた絹布や綿布を叩き、柔らかく滑らかにする作業は、古くから行われていた。いわゆる「砧(きぬた)打ち」である。たたき、あるいは圧力を加えることで、絹糸で織られた繊維は緊縮し、薄く柔らかく、かつ滑らかな光沢があらわれるようになる。この手法を紙の繊維の上に施したのも、自然な発想と言えるだろう。もとより、漉いただけの紙、生箋は吸水性が高く、繊維も粗慢で脆いのである。
後漢の蔡倫が考案した造紙法には、その原材料に、破れた布や麻クズ、魚網が用いられたと伝えられている。このことからわかるように、もともと造紙技術というのは紡績技術と密接な関係がある。のちに蜀で量産される麻紙の原料の麻は、造紙技術の発達のはるか以前から、織物にも使用されているのである。
蔡倫の技術を継承したと言われるのが、後漢の左伯、字(あざな)は子邑である。彼の作った紙は「左伯紙」と呼ばれる。この左伯紙については、後漢末の韋誕が自らの墨と併記して高く評価している。また下って南朝の蕭子良(460〜494)は、”子邑之紙,妍妙輝光”とその性質を述べて賞賛している。ここで蕭子良も、「輝光」と、この紙の光沢に言及している。この点を考えると、左伯紙も紙に打撃や摩擦を加え、光沢を出した紙だったと推測される。漉いただけの紙が、光を反射するほどの滑らかさを持つことはないからである。すなわち製紙技術の最初期の頃から、紙には光沢を出すような加工が施され、書画に使用されていたと考えられるのである。
織っただけの絹帛に、そのまま書や畫が書かれる事は無い。打って繊維を引き締め、蝋引きや礬砂引きなど、なんらかの処理が施されてから用いられる。同じ加工処理が、紙に対してなされていないと考える理由もないのである。
石と蝋この白いカタマリが、工房で紙に塗布される蝋である。この「蝋」は「川蝋」あるいは「虫蝋」とも呼ばれ、主に四川省で古来から生産されている。女貞(ねずみもち)などの樹木に寄生する、アリ科の昆虫の巣から採取される。
この蝋は食べる事も可能であり、古くから食品を包む包装紙にも使用されていたという。つまりは油紙、あるいはいわゆる蝋引き紙、すなわち「パラフィン紙」としての用途である。
紙は筆記のメディアとしてのみ、使用されたのではない。むしろそれは、紙全体の用途から見れば、あくまで一部分であっただろう。紙は綿や絹などの手間がかかり高価な繊維に比べると、安価で量産が可能であり、利用しやすい繊維である。造紙技術の確立によって、紙が生活のさまざまな場面に応用されたことも、考える必要がある。
明初に成立した処方術集、「普濟方」には、蝋を塗った紙「蝋紙」が、医療に用いられたさまざまな例を見る事が出来る。たとえば膏薬を塗って患部に当てるといった用法のほか、薬材を包むなどの用例がある。
また日常の用法としては、生肉を包んだり、酒甕に封をする、といった食品関係の事に使用されている。防水性という点では、油紙でも同様の効果がある。しかし油は長時間置くと揮発し、また酸化によって特有の臭気を帯びるようにもなり、時に食用には有害でもある。その点、蝋は状態が変化しにくい。
また蝋紙で張った灯篭なども、紙の透明度を生かした用途のひとつにある。北宋の蘇軾の「夜過舒尭文戯作」には、“推門入室書縦横,蝋紙灯篭晃云母。”とある。「門を推して書斎に入れば、書が縦横に書かれ、蝋紙を貼った灯篭は、(紙に散らされた)雲母を照らしている。」というところか。ここで言う”雲母”は、筆書に使われた料紙の雲母であろう。
あるいは南宋の陸游の「秋興」には”成都城中秋夜長,灯篭蝋紙明空堂”とある。「成都の都城の秋の夜は長く、蝋紙を貼った灯篭は、人気の無い官舎を照らしている」というところ。蝋紙を貼った灯篭は、士大夫の夜の生活の必需品であったことだろう。

叩く、あるいは磨くといった加工が、紙の発明以前から絹や綿、麻などの繊維の上に加えられていたように、蝋も繊維加工と深い関係を持っていた。そもそも生糸や綿糸に蝋を塗り、糸を丈夫で滑らかにすること(上蝋)は、織物を作るうえで欠かせない処理である。
現在でも紡績蝋という専用の蝋が作られており、四川省が主な産地である。また蝋染(ローセン)や蝋块(ロウケツ)など、蝋は繊維の染めの技術にも非常に古くから使用されてきている。
北宋の米芾の著名な作品に「蜀素帖」があるが、古代の蜀は絹布の主要な生産地であり、同時に蝋の産地でもあった。また蜀紙として総称された、製紙業も非常に盛んな地域であった。製紙業が、紡績業から技術的な影響を受けていたことは、想像に難くないところである。
実際に蜀の麻紙「成都麻紙」あるいは「益州麻紙」は、唐代の宮廷紙であった。「新唐書」の記載によれば、唐の玄宗の時代は「太府月給蜀郡麻紙五千番、季給上谷墨三百三十六丸。歳給河間、景城、清河、博平郡兔千五百皮為筆材。」とある。すなわち、宮廷には月に蜀の麻紙が”五千番”(単位は不明)、四季ごとに上谷墨(易水の墨)が三百三十六丸、また念に筆に使われる兎の毛皮が千五百枚納められた、ということである。
元末から明初にかけて生きた陶宗儀(とうそうぎ:1329〜1410)が著した「説郛」がある。その中の「書史」では、唐宋にかけての名家の筆跡について真贋が論じられている。ここではほぼかならず、使われている紙を示してから論に入っているが、真跡あるいは後代の臨写本には、楮紙、麻紙、黄麻紙、あるいは絹帛などが多く用いられていることがわかる。特に唐代の名家の真跡の多くに麻紙か黄麻紙の使用が多くみられるのは、唐の宮廷紙に蜀の麻紙が充てられていたためと考えられる。ちなみに黄麻紙は、防虫の為に白い麻紙を蘗(きはだ)などの漢方薬で染めた紙である。
一方で「唐粉蝋紙」という紙もみられるが、これは真跡でないもの、すなわち手本をトレースして作られた「模本」、あるいは「雙鉤填墨(そうこうてんぼく)」(字の輪郭をトレースしてから、墨で塗りつぶしたもの)に使用されている。
模本や「雙鉤填墨(そうこうてんぼく)」は、市井においてもっぱら”贋作”を作るために行われたのではなく、宮廷において名家の真筆が下賜されるかわりに精巧な模本が作られ、皇族や臣下に送られたのである。ゆえに宮廷には高度な技術を持った専門の職人がおり、おそらくは使用される紙も官製の蝋紙であっただろう。麻紙や黄麻紙と同様、この蝋紙も蜀で造られていたと考えられる。(この蝋紙で造られた唐代の模本や雙鉤填墨本は、後世大いに真を乱す事になるのである)

蝋を塗布し、叩いて繊維を緊縮させた紙は、薄く丈夫で防水性が加わり、かつ油脂によって紙に透光性が増すようになる。そのような蝋紙は、トレーシング・ペーパーのように下敷きにした書や畫を透過するので、模本の作成に広く用いられた。油紙も透ける紙であるが、油脂によって下絵を汚すおそれもある。蝋紙の蝋は下敷きの紙に浸透する事はなく、また防水性によって、墨液が浸透して下絵を汚す恐れも無いのである。
また蝋紙は、下絵を写すための紙である一方で、紙の表面が非常に滑らかで墨が滲まず、筆が滞ることのないことから、それ自体が筆跡にも適しているという発見もあったであろう。また畫に用いれば、繊細な筆致をよくとどめ、ごく淡い墨液も忠実に発色する事が見出されたはずである。やがては蝋を引いた紙そのものに、華麗な彩色がほどこされるようにもなるのである。
汪士慎汪士慎石と蝋漉いて乾燥させただけの、生箋が全盛の現代では、紙に蝋を塗って磨(と)ぎあげるという作業は、いかにも奇異なことのように思われるかもしれない。しかし事実として紙は墨液が滲まず、滑らかな運筆を可能にするように、さまざまな工夫が施されてきたのである。

現代では、宣紙などの手漉きの紙は、もっぱら書画に使用されている。紙の上に加えられてきた加工についても、書画の表現上の要請から、色々な工夫が重ねられてきたと考えたいところである。しかし以上見てきたように、王朝時代においては、紙は書画以外にも、日常でのさまざまな用途に供されていたのである。それらの用途に合わせた紙の多様な加工法が、書画用の紙に与えた影響も少なく無いであろう。またその加工法の着想は、多くは造紙技術に先立つ紡績技術から導かれた可能性が考えられるのである。
現在では日常の用途においても書画の世界においても、このような加工紙が必要とされる場面は非常に少ない。加工の技術も喪われようとしている。喪われつつあるという事実自体、顧みられていないのが現実なのである。
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蛤蜊箋の材料

蛤蜊箋雲母にあらず、蛤蜊箋とはこれいかに?というとところで話が止まっていたのであるが、この「蛤蜊箋」を作った本人に聞くよりは仕方無いところである。というわけで、上海で加工紙を作る工房を再び訪ねたのであった。加工紙の工場今回も気軽に訪問を許してくれたこの工房なのであるが、このレベルの技術を持った工房は、おそらく大陸どこを探しても無い、というのが実情である。小生が知る限りでは、王朝時代の加工紙の技法を今に伝える、ここが最後の工房なのである。別段、国から無形重要文化財に指定されているわけでもなく、人間国宝がいるわけでもないのであるが。
こういった紙の加工工場や職人は、昔は蘇州に集中していたのだという。現在は安徽省にわずかに残り、上海ではもはやここだけである。
安徽省の多くの加工工場は、工業的な技術を多用して加工紙を造っており、伝統製法とはいい難くなってきている。宣紙の産地ではあるが、その品質にも疑問の余地があることは、加工紙に限った話ではない。
加工紙の工場「蛤蜊箋」については、論より証拠で、実際に原料を見せていただいた。「蛤蜊箋」に使われる「蛤蜊粉」は、粒子の粗さの程度によって2種類に分けられていた。
加工紙の工場加工紙の工場加工紙の工場やや粗い方は、一目でそれとわかる銀色の光沢の粉末である。一方の細かい方は、一見すると胡粉のような白っぽい細粒であるが、こちらも指先に伸ばすと確かな光沢が現れる。指先で、細かい銀の粉を煉っているかのようである。そういえば、ある種の化粧品にも、このような銀粉を思わせる粉末が使われていたように記憶している。材料が同じかどうかはわからないが、微細な粒子が放つ光沢の感じは、アイシャドウにもよく似ている。
加工紙の工場加工紙の工場指でさわってみると、あたかも蝶を指でつかんだとき、鱗粉が指に付着するような具合である。蝶の銀粉が指に付着するとしつこくなかなか落ちないように、この蛤蜊粉もなかなか落ちない。手を払うと、細かい銀粉がキラキラと宙を舞い、眩暈がするようである。また黒い服につくと、ラメを散らしたようにキラキラとした輝きを放つ。はたいてもこれがなかなか落ちないのである。この蛤蜊粉は非常に細かく軽い粒子なのであるが、一粒一粒がしっかりとした光芒を放つのである。
加工紙の工場加工紙の工場蛤蜊粉は見た。それでは「雲母はないのですか?」と聞くと、「あるよ。最近の紙には使ってないけどね。」ということで、雲母の粉末もあるのだという。この雲母粉も見せていただいた。
なるほど、蛤蜊粉の粗い方をさらに粗くしたような、小さな魚の鱗(うろこ)を集めたような細粉である。こちらもやはり透明感のある銀色の光沢を呈しているが、蛤蜊粉の粗いほうと比べても、さらに粒子が粗いことは否めない。この雲母粉も、使用するときにはさらに破砕を加え、粒子を繰り返しふるいにかけてから用いるそうである。しかしながら、蛤蜊粉ほどの細かさにはなかなかならないのだという。

「蛤蜊箋」の「蛤蜊」とは、一応は「ハマグリ」ということになっているのだが、桑名のハマグリと同類の貝かどうかはわからない。工房の老板も、この「蛤蜊粉」については、昔から福建省から仕入れているのだが、製造しているところを見た事がないのだという。
銀色の光沢を持つ蛤蜊粉の原料が、貝なのだとしたらどんな貝だろうか?おそらくは螺鈿細工に使われる夜光貝、あるいはアワビのような、内側に「真珠層」を持った貝の破砕物であると考えられる。「ハマグリ」の名のような二枚貝で、このような真珠層を持った貝があったかどうかは、詳らかではない。
この「蛤蜊粉」を作っている福建省といえば、かつては螺鈿の細工が盛んであった地域である。漆器と螺鈿は福建や福州の特産品であり、福建省の人々は遠く南洋や日本まで、原料の夜光貝を求めて交易を行ったと言う。また日本の漆器や蒔絵の技術とも交流があり、日本でも行われる螺鈿の技術は、福建から伝わったと言われている。この蛤蜊粉も、やはり螺鈿や漆器の技術と関係がありそうである。
工場長の話では、「雲母箋」といえば、昔はもっぱら雲母粉が使われていたという。ところが蛤蜊粉の方が粒子が細かく、その光沢も美しい。よって蛤蜊粉が使われるようになっていったということだ。しかし蛤蜊粉がいつ頃から使われるようになったかは定かではない。
「蛤蜊粉」あるいは「蛤粉」は、本草綱目をはじめ、多くの漢方の処方に薬材として採録されている。しかしこの場合の「蛤蜊粉」は、貝殻を焼成してから砕き、粉末にしたものである。色は白色で光沢は現れない。紙の加工に使われている「蛤蜊粉」とは、同一の物ではないだろう。
現在の中国絵画の顔料には、蛤白あるいは蛤粉という白い顔料があり、焼成した貝殻を破砕して作られる。同じ白色系の胡粉は、鉛白を使用した金属化合物である。ところが文献上では胡粉と蛤粉が混同されていることもあるので、ここは注意が必要である。

ところで蛤蜊粉と雲母粉とで比較すると、蛤蜊粉の方がずっと高価なのだという。確かに、ある種の貝の内側から、わずかしか取れない原料なのである。鉱物資源として、ある程度の量が確保できる雲母よりは、はるかに高価なのも理解できる。
この蛤蜊粉は、膠を溶かした溶液に混ぜ、刷毛で薄く紙に引く。乾いてから再び刷毛で蛤蜊粉を引く、といった作業を8回〜9回行うのである。粒子の粗い、雲母粉を使う場合はこれが4回程度になるという。8回も塗り重ねることが出来るのは、非常に粒子が細かい蛤蜊粉だからである。もちろん、原紙となる紙の品質は重要であり、極々薄く、丈夫な紙を使用しなければならない。表面が滑らかで、薄く均一の厚さに漉かれていなければ、たちまちムラを生じてしまう。刷毛でなぞって繊維がケバ立つような、脆い紙は使えないのであり、原紙もすべて老板の特注品なのである。
加工紙の工場加工紙の工場蛤蜊粉を定着させる膠は、昔は牛の皮の膠を使ったという。現在は自製した豚の皮で作った膠を使っているのだということである。墨と同じで、紙に顔料を定着させる膠は非常に大切で、どのように作られているかわからないような市販品は、使えないのだという。膠と水の配合は、季節によって異なり、その微妙な調整は老板にしかわからない。
「蛤蜊箋」のもととなった紙には、雲母が使われているのだろか?それとも蛤蜊粉であろうか?ともかく工房の老板は小生が送ったサンプルの紙の、質や状態を聞いた上で、蛤蜊粉を用いたということである。雲母は細かく砕くのが蛤蜊よりも難しく、また光沢も蛤蜊の方が優れているためである。
蛤蜊粉を用いたから蛤蜊箋ということであるが、実はこの「蛤蜊箋」という紙は、古い文献からは発見できていない。しかし「文房用品辞典(上海書画出版社)」には、「蛤粉箋」という紙が収録されている。あるいは同一の紙であろうか?「文房用品辞典」の説明では、「蛤粉箋」は別名「扇料箋」ともいい、単宣あるいは重単宣に膠および明礬を溶かした溶液を塗布し、上から「蛤粉」を撒いてつくるのだとある。扇面に使われる料紙である「扇料」に使われることから、「扇料箋」の名があるという。別の項目に「扇料箋」とあるが、これは即ち「蛤粉箋」なのだという。
「文房用品辞典」の「蛤粉箋」の製法は「蛤蜊箋」とは異なるが、「蛤粉」を紙の加工に使用すると言う点では、共通している。「扇料」には金箋や洒金箋も使用されるから、かならずしも「蛤粉箋・イコール・扇料箋」とはいえない疑問も残るが、蛤蜊箋の主な使用目的を暗示してはいる。
ところで蝋箋は、さまざまな顔料を用いて紙に着色加工を施しているが、白色の紙には胡粉が用いられている。白色の顔料を引いた上から蝋を塗布し、砑光して光沢のある紙に仕上げた「粉蝋箋」という紙もある。この紙に塗沫される胡粉が、蛤粉であることもあったであろう。そう考えると蛤蜊箋は、蛤蜊粉(あるいは蛤粉)が顔料に使用されるようになった頃から作られてきたとも考えられる。
雲母は如何に破砕しても、キラキラとした光彩を放つが、貝殻を原料にした白色顔料については、如何に光るかは含まれる「真珠層」の量による。当初から光彩を狙って雲母を使用した事に対し、蛤蜊粉ないし蛤粉を使用したのは、白色系顔料の使用の延長上にあったのかもしれない。
もとより、螺鈿の原料となる夜光貝などは、王朝時代は宝石と同様に高価な品である。真珠層の光沢が明瞭に現れるほど、ふんだんに材料が入手できたとは考えにくいのである。流通が発達した現代では、世界各地から真珠層をもった貝が集められるため、多少は量が確保しやすくなっているかもしれない。いずれは雲母箋も作って比較しなければならないが、粒子の細かさは別として、求める効果にはやはり類似性があるだろう。加工紙の工場扇料箋、粉箋、あるいは胡粉や蛤蜊粉(蛤粉)と紙の関係については、もう少し調べなくてはならないと考えている。同じ単語でも、漢方薬なのか顔料なのかで材料や製法に違いがある場合もある。また用法を混同していることもよくあるのである。とくに胡粉と蛤粉は混用の疑惑が強い。
ともあれ、この蛤蜊箋も、伝統的な材料と製法によって造られた、あきれるほど手間のかかる加工紙である。しかしその光彩は見るものの目を奪わずにはおれないのであり、古人の紙の加工にかけた工夫の数々には(またそれを再現してくれた老板には)、まったく頭が下がる思いである。
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