祝允明 愛梅述

寒さが続いているが、地域によっては梅の開花をみられるところもあるであろう。春先になると、日本の桜を観に大陸から大勢の観光客がやってくる昨今である。しかし大陸では伝統的に、初春に花開く梅花が好まれてきた。風雪に耐えて咲くところから、君子の徳性のひとつになぞらえて、蘭、竹、菊とともに”四君子”に数えられる。また画題、詩題としても古来よりおびただしい例がある。

ところで明代の祝允明に「愛梅述」という文がある。これは梅の美しさを愛でた文であると同時に、梅花に仮託して美人を文飾した文でもある。おそらくは祝允明と昵懇の仲であった”愛梅”という名の美しく聡明な妓女に与えた文なのであろう。唐寅とともに、江南きっての風流才子であった祝允明らしい文である。以下に大意をこころみた。

愛梅述 
明 祝允明


梅自含妝檐畔一點壽陽額後、遂見愛於人間。麗人唐江娘特甚、李家三郎遂賜梅姓是人可花。至如羅浮之下、乃復借貌所愛、與趙才子歌弄調笑於埓瑛邨邊屐∪Р嵋可人。

梅の含妝(がんしょう)檐畔(せんぱん)壽陽の額に一點するより後、遂(つい)に人間(じんかん)に愛せらるを見る。麗人(れいじん)唐の江娘(こうにゃん)特に甚し、李家の三郎、遂に梅姓を賜る、是れ人の花なるべし。至りて羅浮(らふ)の下(ふもと)の如く、乃ち復た貌(かたち)を借りて愛するところ、趙才子と埓院覆うせい)落月(らくげつ)の間に歌を弄(ろう)し調笑(ちょうしょう)す、是れ花の又(また)人なるべし。

梅は含章(妝)殿の軒先で、壽陽公主の額(ひたい)にひとひらの紅(くれない)を点じてより後、ついに人に愛されるようになった。紅梅粧をなす美女のうちでも、唐の江娘がとくにそれが似つかわしく、李王室の三男であった玄宗皇帝はついに梅妃という名を賜った。これは人が梅花に化した例である。
羅浮山のふもとにいたって、梅樹の精が美女の姿をかりて現れ人に愛せられることがあった。月落ちた天にいっぱいに星がまたたく夜のもと、趙才子が梅樹の精と歌をうたい、相い互いに目を合わせて笑い合ったという故事、これは梅花が人に化した例である。

含妝:すなわち含章、含章殿。
壽陽:壽陽公主。南朝劉宋の高祖劉裕の娘。
李家三郎、唐江娘:李家の三男はすなわち唐の玄宗。姓江、名采苹。唐の開元初年に入内し玄宗に愛せられ”梅妃”と呼ばれたが、楊貴妃入内の後に寵を失う。
羅浮:広東省の羅浮山。
趙才子:名は趙師雄。睢陽の人。隋朝の開皇年間(581〜600)、趙師雄は羅浮山に遊び、夢に梅樹の精と楽しんだという。


 蓋萬花在人間世、無不可愛者、然都在梅下風。菊最幽、失寒薄。桃最艷、失脂膩。蓮最香、失開露。梅幽不減菊而態腴、艷不減桃而格清、香不減蓮而體歛。

蓋(けだ)し人間(じんかん)の世に在る萬花、愛すべからざる者無し、然(しか)れど都(すべ)て梅の下風に在り。菊は最も幽なれど、寒薄(かんはく)に失す。桃は最も艷(えん)なれど、脂膩(しじ)に失す。蓮は最も香なれど、開(ひら)いて露(あら)わなるに失す。梅の幽は菊に減ぜずして態(たい)腴(こ)ゆ、艷は桃に減ぜずして格(かく)清(きよ)く、香は蓮に減ぜずして體(たい)歛(まとま)る。

おおよそ、人の世にある幾萬もの花々のうち、愛されないものとてないだろう。しかしながら、すべて梅の下風にたたねばならない。
(たとえば)菊はもっとも幽玄であるが、やや薄く寒々としている。桃はもっとも艶っぽいものであるが、いささか脂じみに過ぎた感がある。蓮はもっとも香り高いものであるが、(花開いた様が)あけっぴろげに過ぎる。
梅のかそけき事は菊に劣らずして、しかもその姿態はふくよかである。艶っぽいことは桃に劣らずして、その品格は清々しい。香は蓮に劣らずして、その体つきには慎みがある。


瓊柯瑤萼、映照嫵媚、與青姬素娥爭妍鬥姝於緋衰碧朽之外、殆將絕凡卉而上與清虛府仙樹者京。是宜嬋娟佳麗、合肺契腑、忘形而神交也。

瓊柯(けいか)瑤萼(ようがく)、映照(えいしょう)して嫵媚(ぶび)、青姬(せいき)と素娥(そが)の緋衰(ひすい)碧朽(へききゅう)の外に妍(けん)を争い姝(しゅ)を鬥(闘:たたこ)う、殆ど將に凡卉(ぼんき)を絶し、上は清虛府(せいきょふ)の仙樹の者に京(なら)ぶ。是れ宜(よろ)しく嬋娟(ぜんけん)佳麗(かれい)、合肺(ごうはい)契腑(きつふ)、忘形(ぼうけい)神交(しんこう)なり。

雪の降り積もったように白い花を咲かせた枝、萼片、それらが互いをひきたてあって、たおやかな美しさがある。その様は青(清?)姫や月の嫦娥に喩えるべき花木(かぼく)が、花衰え草枯れるということを知らず、その優美なことを争い、はなやかなることを競うようであり、平凡な草木からまったく懸絶しており、月の宮殿の仙樹に比肩するかのようである。これはなるほどあでやかで端整な美しさがあり、それは肺腑があわさるように胸中の意にかない、もはや姿かたちを忘れはてて、こころからの交歓を呼び起こすものである。

瓊柯(けいか):雪を載せた枝の意であるが、梅の花の咲いた枝も言う。
嫵媚:美女の形容。なまめかしい、しとやかな美しさ。
瑤萼:花弁のガク。
緋衰(ひすい)碧朽(へききゅう):緋は花。碧は草。花衰え、草枯る意。
青姫素嫦娥:素娥は月界の嫦娥。青姫は未詳であるが、ともに劣らぬ美女の意であり、梅樹のこと。
清虛府:月の宮殿。
合肺契腑:肺腑は胸の臓器、心のことであるが、それにぴったりと合致すること。
忘形神交:形(肉体)を忘れた精神上の交わり。


 然自唐妃、宋主之後、塵語土目、不知梅久矣。今某仙標國色、為花林錦陣冠、自以愛梅稱、倩其所來從白予”君與梅嘗擷芳偎馨、知其臭味、願文之。”

然れど唐妃より、宋主の後、塵語土目(じんごどもく)、梅を知らざる久し。今(いま)仙標(せんぴょう)國色(こくしょく)の某(なにがし)、花林(かりん)錦陣(きんじん)の冠を為す、自ら”愛梅”を以て稱し、倩(こ)いて其所(そこ)に来たりて從いて予に白(つ)ぐ“あなたは梅と嘗て芳を擷(つ)み馨(かおり)に偎(したし)み、其の臭味(しゅうみ)を知る、之に文を願う。”

しかしながら唐の江娘や壽陽公主より、俗世間の耳目は長い事”梅”を理解しなかった。今、仙姿のような風韻で一国に冠絶する某(なにがし)、一叢の花々に比すべき美女達の中より秀でた女が、自ら”愛梅”と称し、請いてそば近くまで来て並んで私に言う”あなたは梅(わたしく)とかつて(梅)花を摘み、その香に親しみ、その馨(かぐわ)しきことをご存知です。文章(文飾)をいただけないでしょうか。”

唐妃:江娘
宋主:壽陽公主
塵語土目:凡庸な衆人の耳目。
仙標:仙女のような飄逸でかろやかな様。
花林・錦陣:いずれも花の群れ。すなわち美女の群。


 嗚呼噫嘻!予因其號而玩其人、豈壽陽之後身乎?一乎二乎?予皆不得知也。雖然、以人視梅、其態、其格、其姿色、其香味、蓋莫知甲乙。至於多情解語、委附結交、則其妙又在六花、南北枝之上、予終謂人之為焉耳。嗚呼噫嘻!匪梅則愛、梅將乞愛。

嗚呼(おお)噫嘻(ああ)!予、其の號に因み其の人を玩(もてはや)す、豈に壽陽の後身や?一や二や?予皆知るを得ず也。雖然(しかりといえども)、人を以て梅と視なせば、其の態、其の格、其の姿色、其の香味、蓋し甲乙(こうおつ)知る莫(な)し。至りて多情(たじょう)解語(かいご)、委附(いふ)結交(けっこう)、則ち其の妙、又六花(りっか)、南北枝之の上に在り、予、終に人に之を謂い為す焉耳(のみ)。嗚呼(おお)噫嘻(ああ)!梅に匪(あらざ)れば則(こ)れ愛さん、梅(うめ)の將(まさ)に愛を乞わん。

おお、ああ、私は彼女の”愛梅”という号ゆえに、その人をたいそうもてはやしたものだが、あるいは壽陽公主の後身ともいうべきであろうか。あるいは人に化した花であろうか。花に化した人であろうか。私も誰もそれを知ることはできない。
そうはいっても、その人を以て梅とみなせば、その表情しぐさ、その品格、その姿態、たしかに梅花とも甲乙つけがたいものである。表情仕草にいうにいわれぬ情感を含み、またよく我が意中を解した。そこで行き来して友誼を結んだが、すなわちその妙(たえ)なることは、雪の積もる梅の枝や、梅花の咲いた枝枝にまさるものがあり、私はとうとう、人にこのことを言いおいておくだけである。
おお、ああ、梅にあらぬこの人を愛さんとすれば、梅もまた愛されんとするのである。

六花:雪、雪の結晶の事を言う。ただし梅枝に降り積もった雪、ないしは梅花そのものを言うん場合もある。
南北枝之:南北にのびて交差した梅枝。



(後記)
”紅梅粧”という化粧法がある。額の眉間のあたりに梅花をかたどった紅でかざるのである。南朝劉宋の時代、梅花の一辺が、壽陽公主の額の絶妙な位置に落ちたことにはじまるという。また玄宗皇帝が寵愛した江娘のそれが妙絶で、梅妃の称号を賜ったという。そのあたりから”梅花”と”美女”の連想が膨らんでゆくのである。”紅梅粧”の以前よりも、梅花は花として人に愛されてきたではあろうが、すなわち”紅梅粧”以降、”梅”が”人(女性”として愛されるようになった、という事である。いうなれば花びらの一片によって、梅の精が人に乗り移ったかのようだ、というところである。

菊、蘭、蓮といった諸名花よりも梅が優れている、という点については異論もあるかもしれない。
四君子のうち花を咲かせるのは菊、蘭、そして梅なのであるが、蘭との比較は避けられている。おそらく衆花の筆頭に梅を挙げる事に異論が出るとすれば、蘭が押し立てられるところであろうか。
梅の鑑賞については”梅譜”によって、古来より事細かに探求されており、宋の范成大、明の王冕、芥子園畫傳などに整理されている。文中、雪との関係が織り込まれているが、まだ花の咲く前、雪の降り積もった梅枝はあたかも白い梅花の咲き誇る枝のようであり、また梅花が満開の梅枝は、雪の降り積もった枝のようでもある、という見方がある。また梅花は小さな白玉を刺した玉かんざしにも形容される。

美文、というものにほとんど価値が認められない現代からすれば、”愛梅述”も修飾煩瑣で内容の無い文章、という一言で片付けられれてしまうかもしれない。しかし文章は美しい、という事だけでも評価された時代があり、それだけで鑑賞にたえうるという価値観が存在した、という事なのである。祝允明は思想家ではなかったとしても、当時稀有な美文家であったとはいえるだろう。
しかし花も人も、あるいは文章も、むろん美しいだけで足れりとはされない。さらに品格や徳性が求められた。ゆえに菊、桃、蓮との比較なのである。
美人の”愛梅”にしても、単に美しいだけでは四君子のひとつである梅に喩えて文にするには及ばないのであり、おそらくは聡明な女性であったのだろう。また祝允明と意気があった人物であることが想起される。
美文が廃れたのは、書き手以前に鑑賞し得る人物がいなくなったという事でもある。しかし文章世界から品位格調が排斥され、美文が駆逐されて後、では意味内容のある文章のみが通行しているかというと、まったくそうではないのは御周知のとおりである。
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呉其貞「書画記」

漸江のところでも触れたが、清朝初期に「呉其貞」という徽州商人がいた。休寧県の商山の出身とされるが、西溪南の人という話もある。
塩商を営む一族の出身で、かたわら親子三代で書画を扱い、自身も著名な蒐集家であった。
この呉其貞が、書画骨董の鑑賞の記録を集めた「書畫記」という本を遺しており、後の乾隆帝の時代に四庫全書に納められている。清朝初期の、書画の流通の模様を現代に伝える貴重な資料である。
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呉其貞は「書畫記」中に、康煕五年(1666)に還暦を迎えたとあるから、明代末期の萬暦三十五年(1607)の生まれ。卒年は不明だが、「書畫記」には康熙十六年(1678)までの日付があるから少なくとも72歳を越えて存命であったということになる。
呉其貞「書画記」この呉其貞の「書畫記」には、実に多くの書の名跡や名画を見、評価した記録が遺されているが、日付が克明に記されている。これによってその作品がどのあたりに、いつごろあったかを知ることが出来るのである。
そこに掲載されている書画の数々は、実にそうそうたる名品ばかりである。しかしながらわずかな例外を除いて、現代まで伝存が確認できるものは少ないのである。
徽州商人である呉其貞は、当時富商の蒐集家が多かった西溪南で、書画を鑑賞したときの印象をこう語っている。“余至渓南借観呉氏玩物十有二日,応接不暇,如走馬看花,抑何多也”「私は(西)溪南に至り、呉氏の収蔵する品を12日間かけて鑑賞した。(ひっきりなしに作品が出てくるので)その応接に暇が無く、まるで走る馬に乗って花を観るよう、なんと(その収蔵の)多いことか」と感嘆している。
また「渓南の呉文長の家で八幅ほどの書を観る事が出来た。すなわち蘇軾”赤壁賦”と”行草九歌卷”、米芾”研山銘”等三件、また”評紙帖”、”蜀素帖”、”臨王羲之至洛帖”あるいは米元暉の”雲山図”、趙黻”長江万里図大卷”、”蘇黄米蔡詩翰”,宋の徽宗の衛協を臨した”高士図”、南宋の四大家(劉松年、李唐、馬遠、夏圭)の山水四十幅、楊无咎”雪梅”、梁楷”渊明図”等三件........」まさに「走馬看花」であったことがわかる。無論、そのすべてが真筆であったかどうかまでは現代では確認するすべが無い。しかしながら西溪南の呉氏の収蔵の質量ともに膨大であった様が伺えるのである。
呉其貞自身は、呉姓であるが、西溪南の呉氏と直接の姻戚関係があったかどうかは不明である。西溪南呉氏と関係があった、あるいは一族であったという説も聞くが、地域的に離れているので、あまり関係はなかったかもしれない。しかし当時の徽州いや江南の中にあってはずばぬけて蒐集に熱心であった西溪南の呉一族の元を、たびたび訪れているようである。
明代後期から清朝中期にかけて、多くの書画の名品が、江南一帯や京師から西溪南にあつめられた。その蒐集を可能にする経済力の背景には、塩の専売という巨大な権益や、茶、木材、薬材、工芸品など、多くの商材と、さらには官界につながる広範なネットワークの存在があったことだろう。
書画の収集を行うのは資金も必要だが、無論のこと名品を見出す素養や、情報網も不可欠である。そのすべての条件が、当時の徽州、とくに西溪南には揃っていたという事だろう。また名品が集積したこの地に、当時多くの書画家が訪れ名品を鑑賞し、臨模して学んだことは知られている。いわば現代の美術学校の学生が、博物館や図録で書画の名品を学ぶように、当時の徽州には書画家達があつまったのである。
この「書畫記」を読んでいると、呉其貞がどのような点に気をつけて書や畫を鑑定していたがわかる。多くの評語のまず筆頭に出てくる言葉は「紙墨佳」「紙墨如新」「紙墨尚佳」「紙墨精甚」「紙墨並勝」など、その紙と墨の状態、品質についての言葉である。書画の鑑賞に、作品の巧拙以前にその作品を構成する素材の良し悪しと、その保存状態を観察していたことがわかる。現代でも、書画を看るときにその保存状態を口にすることはあるかもしれない。しかしどれほどの人が、使われている紙の精良さや、墨の品質の高さを認識しているだろうか。

呉其貞は当時プロの鑑定人であり、また自身蒐集家であり、さらには書画を商品としても扱っていた。書画の状態と言うのは、作品の商品価値を決める重要な要素であったということだろう。精良な紙、墨を用いて書かれた作品というのは、耐久性が高く、長期間の鑑賞に耐えることが出来る。
場合によっては表具をやり直す必要もあった当時としては、その作品の脆弱さは、商品として扱う際のリスク要因であっただろう。中国においても、粗悪な紙に安易に墨汁で書(描)かれた作品が氾濫する現代、この点は考え直す必要があるのかもしれない。

ともかく、この呉其貞のような(本業は塩商だが)画商の活躍もあって、清朝初期の徽州には多くの名跡名画が集められ、また徽州塩商の拠点であった揚州と通じて多くの詩人、書画家が往来したのである。
明代後期から清朝初中期の徽州は、いわば15世紀、16世紀に金融で栄えたメディチ家が支配したイタリアのフィレンチェのように、江南における文芸と美術の一極であったといえるかもしれない。

...........最近、更新速度が減速気味ですが、売り出しに向けて色々準備があり、また暮特有の忙しさがあり、ネタが切れたわけでも(たいしたネタはありませんが)意欲が減退したわけでもありません。体調を心配していただいた方、ありがとうございます。インフルエンザの予防接種はしているので大丈夫です。
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方于魯の筆跡 〜陳智超「明代徽州方氏親友手札七百通考釈」

アメリカのハーバード大学の燕京図書館(東洋の文献を集めた図書館)に、明代の“信礼(手紙、名刺)”、すなわち尺牘(せきとく)が納められている。このうち、私信が747通、名刺の類が179件、合計926通の書簡である。
現在香港中文大学で教鞭をとっている著者の陳智超氏は、渡米してこの信礼集を調査し、釈文と内容や登場人物に関する詳細な研究をまとめ「明代徽州方氏親友手札七百通考釈(安徽大学出版)」(全三部)として出版している。
燕京図書館に納められたこれらの文書は装丁が施されており、日、月、金、木、水、火という各冊に分かれている。燕京図書館には、同時に日本の書画家玉置環斎(1829‐1912)の「明諸名家尺牘人名略録」七冊が納められており、先に述べた七冊に対応して各“信礼“の内容、またそれを書いた人物の考察がなされている。ちなみに玉置環斎といえば、幕末から明治にかけて書画の鑑定で名のあった人物である。
この玉置環斎の「明諸名家尺牘人名略録」の跋文によれば、“信札”集はすくなくとも明治十八年(1885)以前にはすでに日本に流伝しており、後に鈴木雲宝という人物が所蔵していたことがわかる。この装丁自体は、日本人の手によるものらしい。また、燕京図書館の収蔵印をみると、第二次大戦後に日本から流伝し、1955年ごろにこの博物館に収められたということがわかる。
これらの尺牘は、ほとんどがある特定の人物に宛てて書かれたものであり、つまりはその人物が人から送られた手紙を集めて保管していたものが元になっていると考えられる。
その人物というのが、方用彬(ようりん)、字は元素(げんそ)、また別字は思玄(げんし)という者で、嘉靖から萬暦年間にかけての徽州商人なのである。そしてこの方用彬は方建元の“宗弟”すなわち、同じ方氏宗族に属する間柄であり、かつ非常に親しい関係であったことがわかるのである。またこの方用彬は官位こそないが、徽州の士大夫の家庭に生まれた男子の常として、水準以上の文学的素養があったようである。汪道昆が開いた詩社「豊干社」の初期のメンバーであり、汪道昆が“七君子”と称した一人に数えられた詩人でもある。
この手紙には、汪道昆をはじめ、汪道昆やその弟の汪仲貫、また従弟の汪道会とのやり取りが見られる。またあるいは王世貞や李維?朱多炡、屠隆といった、方氏墨譜に序文や墨賛を寄せている人士やその兄弟親族の名が見られるのである。そしてもちろん、方大こと方建元からの手紙も収録されているのであった。
明代徽州方氏親友手札七百通考釈もとより教育と文化水準が高く、かつ出版が盛んであった徽州には、他地域に比べて比較的多くの文書資料が残されている。これらいわゆる“徽州文書”を基にした歴史文化研究の一分野である“徽学”は、文革以後の1980年代から盛んになりつつあるが、この「明代徽州方氏親友手札七百通考釈」(以下、“七百通考釈”と略)は、そこに新たな知見を開く研究資料として注目されている。
当時の裕福な徽州商人であった方用彬と人士達との交流の様子を通じて、徽州商人の性格や、当時の士大夫階級の交際の実態、あるいは汪道昆の開いた豊干社の内情などを伺うことが出来るのであり、非常に貴重な史料といえる。
また「七百通考釈」は同時に墨匠である方建元に非常に近しい人物へ宛てた書簡集であり、方建元自身の手紙のほか、方建元の交際範囲にある人物の手紙が多く含まれている。方建元の人物や交遊についても、新たな情報を与えてくれるものである。
無論のこと、「七百通考釈」は方建元のことや、製墨、あるいは墨の流通について研究することを目的とした著作ではない。しかしながら、著者の陳智超氏は登場する人士の中でも方建元には充分な関心を払っており、方建元の墓誌銘や屠隆の「方建元傳」を付録してくれている。もとより尺牘(せきとく)の釈文は、書法の造詣が深くないと出来ないものであり、墨への関心も意識の中に持っていたのかもしれない。
また収録されている書簡からは、方建元の墨の流通の実態や品質への評価について、きわめて実情に近い情報が豊富に遺されているのである。というのは、どうも方用彬は主要な商材のひとつとして文房四寶を専門に取り扱っていたらしく、方建元の墨の流通も一手に引き受けていたようなのである。方用彬の別字「思玄」は「玄を思う」であり、「玄」は「墨」の別称でもあることから、その文房用具への傾倒の程を表した字(あざな)なのかもしれない。
方建元が墨を作っていたからといって、方建元自身で墨を売買していたと考えるのはあたらない。当時は(現代でも少なからず同様だが)人的交流のネットワークの広がりがビジネスの死命を決するのであり、特に高級品であった銘墨の流通をめぐっては、知名の人士との交際を持つかどうかが鍵を握っていたと考えられる。方建元が製墨と詩作に専念する一方で、ビジネスに必要な交際にまで、時間を割く余裕がなかったとしても不思議は無いのである。
塩の専売権を握って巨富を得てきた徽州商人たちは、収益を教育に投資し、同族から多くの人材を官界に送り込んでいた。これによって常に宮廷に通じる人脈の連なりを持ちつづけ、政商としての性格を強めている。また地方官に任じられた同郷の人士を通じて、各地の物産の需要と相場の情報を得ることは、交易商人にとっては生命線であったと考えられるのである。それが可能であるのも、商人でありながら士大夫として高度な教育を受けたからであり、詩文や諸芸に対する充分な素養も他郷の人士との交際に貢献したことであろう。
ざっと読んだところでは、墨の贈与に対する返礼や、あるいは墨の購入打診に対する返答、あるいは自作の画と墨との交換依頼の内容を記す書簡が見られるのである。特に、方用彬が扱う墨についてはつねに「佳墨」との評価がみられる。「方氏墨譜」に見られる墨賛の数々とはまた違った角度から、その墨の精良さを高く評価されていたことが伺えるのである。
方建元の方用彬に宛てた書簡の一部を下に掲載する。「七百通考釈」は3部よりなり、1部と2部は各書簡の釈文と考察、人物に対する資料がまとめられているが、3部は現物の図影が掲載されている。モノクロであり、おそらくは原寸ではないのが残念だが、ともかくもその生生しい筆跡を見ることが出来るのである。また、明人の尺牘の研究にとってもまたとない資料となっている。
明代徽州方氏親友手札七百通考釈書簡中に”方大兄”とあるのは、方用彬が記したと考えられる注で、差出人が後でわかるように付記したものであろう。族兄である方建元に対し、「兄」と呼称している。また、方建元はこの当時はまだ方大という名で呼ばれていたらしい。
上記の書簡の内容の解釈はいずれ行いたいが、概略を述べれば、方建元が方用彬に販売した(卸売りした、ということになるが)墨の代金について、1両では安いからせめて2両にしてくれ、と依頼している文である。ややぞんざいと思える口調とざっくばらんな筆跡から、方建元と方用彬の関係の親しさが伺えるのである。また切迫した言い回しから、独立して製墨を始めた方建元の、その当初の窮迫した内情をも感じさせるものがある。興味は尽きない。
方建元の書簡は全部で3通であるが、その兄の方大衍(だいえん)の書簡も数通収録されており、この方大衍も当時のこの地域にあっては充分な教養を持ち、知名の人士の一人であったことがわかるのである。
他、方用彬は財政難に陥った人士達へ、利息を取って資金を貸与することも行っており、借用の申し入れにかかわる文書も散見される。
もう一点だけ、楊一洲という書画家から、方用彬に宛てて、自分の画と方于魯の墨の交換を依頼する内容の書簡の一部を掲載する。
明代徽州方氏親友手札七百通考釈左から3行目に、「方兄必有佳墨」とあり、ここでいわれる「方兄」は方用彬を指すが、佳墨とは方建元の墨であると考えられる。
方建元が、どのくらいの量の墨に対して「銀二両」の対価を求めたかは不明であるし、楊一洲の場合も数量について具体的な記述はない。であるが、そもそも当時の銘墨の流通の様子というのが、相当に属人的な行為であり、贈与や貸与、物々交換も多くその”取引”に含んでいたとすれば、相場を把握するのはやはり難しいものがある。
いずれにせよ、明代士大夫の息遣いが聞こえてくるかのような、現実感に富んだ内容と、衒いのない筆致である。また透かしや図版を刷り込んだ、華麗な便箋が用いられているものも多い。機会があれば、一度現物を目にしたいものだ。
この書籍が出版されたのは2001年のことであるが、出版されて数年もすると本が無くなってしまう中国のこと、入手にやや時間を要したが、朋友に骨を折ってもらい、ようやく手元に置くことができたのである。
方建元の筆跡が残っていたというのは、まさに奇跡に近いことである。徽学の研究者にとっては、貴重な新資料の発見ということで注目されているが、製墨史という観点からこの文書を読もうとする人はあまりいないかもしれない。
しかし墨に関心を寄せる者にとっては、知られざる明代の製墨業の実際について新たな光を与える資料であり、興味は尽きないのである。機会があれば、釈文に現代語訳を与えて紹介できればと思う。
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武漢の花楼街 〜池莉「不断愛情」

”鄒紫光閣”が武漢の”花楼街”に分店を出していたことがわかったとき、ある小説を思い出した。武漢に池莉(チリ)という女性小説家がいる。数年前に日本でも公開された映画「ションヤンの酒家」(原題:生活秀)の作者であるから、ご存知の方もおられるかと思われる。
彼女の作品に「不談愛情」(邦題:愛なんて)という短編があるが、この中に武漢の”花楼街”が出て来るのである。
小説の舞台となる”花楼街”は、武漢城内の繁華な商業地区である。その花楼街で生まれ育った少女と、知識人階級....つまりは”インテリ”の家庭に育った医者の青年との結婚にまつわる騒動がコミカルに描かれている。
その少女にとっては、自分が花楼街の出身であるという事実は、知識人階級の青年に対して非常な負い目なのである。知り合ってからも「何処に住んでいるのか?」という問いに対して、なかなか正直に打ち明けられないほどである。
”花楼街”はその名の通り、昔は妓楼が立ち並んで栄えた通りなのであるが、それは昔の話で、現在は猥雑な繁華街である。しかしながらそんな街の出身というのは、今にしてもとても「恥ずかしい」ことなのだそうな。
このあたりの意識というのは、なんとなくわかるようで「でもしかし、うーん。」と思ってしまうのが、現代日本に生きてきた小生の感覚である。
ともかく、少女が花楼街の出身ということがわかると、青年の家族が一斉に反対するのである.........息子が誰と結婚しようが、どうでもいいではないか、と思うとそうではなく、家同士の付き合いになるから「家柄」が問題になるということだ。日本も昔(今でも?)そうだったかもしれない。
その昔、東京にも”山の手と下町”という区分があったが、こういう意識が中国の都市部では依然として根強いのだそうだ。

無論、「花楼街」出身ということが「恥ずかしい」ことであっても、そこに”鄒紫光閣”が店を出したのは、その街一番の繁華街に出店するという、ごく普通の商略であっただろう。

もうひとつ意外な感に打たれたのは、この小説は80年代終わり頃に書かれている。80年代に入り改革開放経済へ舵を切って、10年しない頃の武漢が舞台である。が「知識人階級」というものが、既に厳然として復活していたということである。
「文化大革命」というのは、とにかく知識分子を排除し、旧習慣や教養を徹底的に破壊しようとした運動であったが、(幸いにしてか)結局のところ破壊は不完全に終わったようである。王朝時代で言うところの、読書人、士大夫の家庭ということになるが、およそ漢代から始まる官僚組織を支えた階級というのは、やはり10年やそこらでは喪われることはなかったようである。
現代中国の中学生は孔子や孟子を、学校で丸暗記させられているという事実ひとつをとっても、文革時代には考えられないことである。結局のところ、漢代以降かの国の統治の原理として、二千年の実績がある儒教をふたたび採用したということになるのだろうか.......

ともかく現代小説というのは、その国の民情を知る上で、ある程度の手がかりになるものである。書店に行くと、欧米の現代小説の翻訳は書棚の一角を占拠する勢力であるが、東洋文学、特に中国の現代小説はまったくと言って良いほど目にしない。稀に非常に話題になるか、映画の原作にでもなれば翻訳・出版されるようであるが。韓国の現代小説の方が数が多いほどである。
日本で広く知られている中国の作家で、最も年代が若い人をあげても、周作人や老舎など、文革前に遡らないと出てこないのではないだろうか。こうなると現代作家というよりも、近代作家である。
小説で全てがわかるわけではもちろんないが、何事かを教えてくれるものである。また中国の現代社会を知ることは、日本の現代社会をより深く知ることにもつながるものである。とはいえ、方言やスラングが飛び交う、地方色の濃厚な小説を原文で読むのは容易ではない。
少し前まで「中国現代小説」という季刊誌が発行されており、現代作家の作品を翻訳、紹介していたが、残念ながら休刊になってしまったようである。
一方の中国では、村上春樹や渡辺淳一が大人気だそうで、小生も天津の書店の一角を渡辺淳一が埋め尽くしていたのを見て驚いたことがある。他、大江健三郎もよく目にするが、他国の小説から何かを読み取ろうとする姿勢は中国の方に顕著なようだ。(単純に面白いのかもしれないが)

話がそれてしまったが、池莉の小説はほとんどが武漢を舞台にしているので、武漢という街の雰囲気を掴むには良い作品である。また、中国人社会に相当に入り込まないとわからないような、ある種”下世話”な知識を与えてくれるものである。ご一読をお勧めしたい。
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何傳瑶「寶研堂研辨」 

何傳瑶の著した「寶研堂研辨」は端渓硯、とくに老坑水巌を知る上では必須の著作であろう。T.H先生の蔵書の中に、道光年間に出版されたとおもわれる版の「寶研堂研辨」があるので、お借りして簡単に紹介したい。寶研堂研辨端渓硯の弁別においては、同時代の呉蘭修が著した「端渓硯史」が著名である。が、実はこの「端渓硯史」には、「寶研堂研辨」からの引用が多数存在するのである。しかも、どうやら「端渓硯史」は「寶研堂研辨」の前に出版されているようなのである。あるいは何傳瑶と呉蘭修の間には親交があったのかもしれない。
道光年間というと、明代末期から開採が始まった老坑も、いよいよ最深部の大西洞へ到達し、質的にも量的にも最盛期を迎えていたと考えられている時期である。寶研堂研辨この「寶研堂研辨」には、いくつかの版が存在しているようであるが、写真は道光十九年以降の版になるものである。巻頭に戴煕(1801-1860)の序文が寄せられている。
戴煕は字は醇士,号して棆庵、鹿床等がある。また井東居士とも称した。銭塘(今杭州)の人である。官は兵部右侍郎にまで至り、官を辞して後は郷里の崇文書院で教鞭をとっている。山水は王翚の虞山派に倣い、山水竹石花卉を能くしたという。湯貽汾(とういふん:1778-1853)と併称され、称「戴湯」といわれた。「習苦斎詩文集」「習苦斎画絮」等を残している。

この戴煕の序文には、面白いエピソードが書き残されている。戴煕は呉蘭修の「端渓硯史」を読んで、「寶研堂研辨」と何傳瑶を知っていた。呉蘭修の端渓硯史には端渓硯の鑑別において、多く何傳瑶の説が採録されていたのである。戴煕はなんとかしてこの「寶研堂研辨」を読んでみたいと思い、まず呉蘭修を訪ねようとしたところ、既に亡くなった後であった。その「寶研堂研辨」が入手できないのを残念に思っていたのである。
ところがある年、科挙の試験監督を勤めることになり、その名簿の中にたまたま何傳瑶の名があるのを見た。驚いて尋ねたところ、はたして何傳瑶その人であったという。
ちなみに科挙は試験であるから、当然試験官が必要なのであり、進士及第者の中から任命されるのである。戴煕はこれにあたったということになる。この際の試験がどこで行われた試験であるかははっきりしない。が、この戴煕の序文が書かれたのは道光十九年で、何傳瑶は後に道光二十五年に(郷試合格未満の)生員であったという記録があるから、このときの試験は地方試験である郷試であったのだろう。つまりは残念ながら何傳瑶はこのときも合格しなかったようだ。
喜んだ戴煕は、手持ちの七つの端渓硯を取り出してみせたところ、そののうちの三つはいいが、四つはよくないといい、何故良いか何故悪いのかを詳細に論じてみせたという。その仔細にわたる内容と説得力に深く感じた戴煕は、「寶研堂研辨」に序文を寄せることになるのである。
寶研堂研辨何傳瑶の経歴は未詳であるが、端渓硯の産地、福建省高要県の人である。号して「石卿」であるから、その硯石に対する傾倒ぶりも伺えようというもの。端渓の地元出身なだけに、実地に即した見解を述べている。
特に有名なのが、老坑の坑洞内の構造を記した「硯坑図」と呼ばれるものである。老坑の歴史を知る上で、実に貴重な資料を残してくれている。極論すると、現在の老坑を中心とする端渓硯の鑑別の基準や用語などは、すべてこの「寶研堂研辨」に整理されていると言っても良い。とくに硯石の形容に関しては、後世に多大な影響を及ぼしている。寶研堂研辨また「寶研堂研辨」のこの版は、趙碩甫という人物の手書、つまり筆跡から版を刻しているのだが、実に端整な翰林体の楷書である。そのまま小楷の手本に出来そうなほどであるが、当時の士大夫階級の人々の筆書の素養の高さが伺える筆跡である。
また戴煕以外にも、鴉片戦争で林則徐とともに活躍した林召棠(1786-1872)や、黄培芳が序文を寄せている。
林召棠は 字を愛封、号に市南。呉陽(広東呉川)の霞街村の人で、道光三年(1823年)に状元で及第している。この人物は教育に才があったらしく、彼が郷試の試験監督を行って合格させた人物65名のうち、のち11名がさらに難関の進士に合格したという。人物を見る目があったということで、しばらく官界にあって教育畑を歩いたようだ。
しかし中央における官吏の腐敗に希望を失い、道光十三年(1833年)願い出て肇慶府の端渓書院の主講、すなわち学長に赴任する。端渓書院は、肇慶における半民半官の学校である。状元になったほどの人物が、いわば地方大学の学長を勤める、というのはやはり異例のことである。
その後15年の長きにわたり、地域の教育事業に力を注いだ。道光十九年(1839年)林則徐が鴉片を禁ずるために広東へ赴いた際は、盛んに往信して施策を論じ、林則徐も大いに頼りにしたという。何傳瑶は道光25年に生員として端渓書院の運営に関わっていた記録が残っているから、林召棠との交際も想像できるものである。
寶研堂研辨また黄培芳は広東の香山(現中山)の人で、字は子実、又は香石といい、号して粤嶽山人といった。嘉慶九年(1804年)に中式副榜(副貢生)、道光二年(1822年)には武英殿校録官に任ぜられ、道光十年に陵水県の教諭として、さらに肇慶府の訓導(教諭)を務めたというから、やはり端渓書院などの教育機関を通じて何傳瑶と面識を得たのだろう。
さらに巻末には、何傳瑶の姻弟の黄登瀛が跋文を載せている。この黄登瀛も道光年間の進士で、「端渓詩述」を遺している人物である。
こういってはなんだが、序文を寄せている人々は、何傳瑶にくらべれば皆高位高官に登った人物ばかりである。しかし雅友としての付き合いの世界というものが別にあり、さらに何傳瑶の端渓硯への造詣の深さに敬服していたためであろう。
彼らはみな、多かれ少なかれ肇慶に滞在しているが、硯石の弁別に関しては、やはり何傳瑶に一目も二目も置いていたことが序文から伺えるのである。端渓硯の産地である、肇慶に在住していたからといって、必ずしも硯石に精通しているとは限らないのは、現在も事情は同じことである。
また、端渓石、とくに老坑の採石事業は、この地域の教育事業と密接に関係しているのである。いずれ機会があれば紹介したいが、そもそも老坑の採石によって得られる利益の多くは、「端渓書院」を初めとする肇慶の子弟の教育に投じられた記録がある。著者の何傳瑶を初め、序文の筆者に教育者が多く見られるのは、このことと無関係ではないだろう。

ともあれ、端渓老坑を論じる者であれば必読の書といえるのが「寶研堂研辨」である。内容も含蓄に富んで論旨は明快、文はなかなか味わい深いものがある。
老坑水巌に興味がある方には、是非一読をお勧めしたい。
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思わぬ余慶 〜後藤朝太郎「文房至寶」

あるものに精通した人を簡単に「通」というが、中国でも「通」という言葉が使われる。この「通」という言葉、日本のように気軽に「食通」とか「ワイン通」というように使われるよりは、もう少し重いニュアンスをもって使われるようである。
小生などもありがたくも中国の人から、親指を突き立てて「中国通!」と呼ばれることがある。が、これも社交辞令の一つであろうし、小生などではとても「通」の名には値しない。ともあれ、古来から日本人の中で「中国通」と、その時代の中国人達からみなされてきた人物は多かったに違いない。
現代でも、「自称中国通」の書いた本は本屋にゆけば山ほど目にする。ただし「中国通」であるかどうかは、中国人が認めるかどうかにかかってくるそうだ。本来そういうものだろう。

昭和初期における「中国通」の第一人者とでも言うべき人物が、後藤朝太郎である。現代の日本ではあまり読まれなくなってしまったようだが、中国では戦前の「中立的中国通」の一人として、今も認められている存在である。
日本と中国の比較もし、時に批判的でもあるが、現代の「自称中国通」に多く見られる狭量な偏見からは自由であり、かの国の風土と文化に対する誠実な愛情を持ち続けていた。
後藤朝太郎「文房至寶」後藤朝太郎「文房至寶」
後藤氏は、戦前の大陸へ渡り、当時の中国の風俗や文化を取材しながら、本を何冊も執筆している。日本全体で、中国大陸への関心が高かった当時は広く読まれたそうだ。また、戦前どころか、戦時中にも現地人になりすまし、庶民が行くような飯屋にかよって大衆料理に舌鼓を打ったり、知名の人士との交流を絶やすことはなかった。
後藤氏の関心事は、とくに中国書法や文房四寶に集中している。中国でもいまや知る人が少ない、戦前の中国文房四寶業界の状況について、貴重でリアリティにとんだ記録を残してくれている。
後藤朝太郎「文房至寶」後藤朝太郎「文房至寶」
一連の、書法や文房四寶に関する著作のうちの一冊が、この「文房至寶」(昭和四年刊行:雄山閣)である。「四寶」ならぬ「至寶」というわけで、後藤氏の文房四寶への傾倒ぶりが集約された書名である。前々から探していた本であるが、なかなか見つからなかったのが、大阪のとある古書店で発見する事が出来た。

中国の伝統的な知識人というのは、日常の些事を書籍に著すことを敬遠する傾向がある。いわゆる「玩物喪志」というように、瑣末な事象に拘泥することは、読書人の本来の姿ではない、という意識があるように思える。
知識人たるもの、文にするのは詩文でなければ政治論文、あるいは伝統的な学術研究でなければならない、ということになっているようだ。なので、中国の文化、風俗の多様性と相反して、時代時代の庶民の生活というものが、なかなか見えてこない。文房四寶が実用の器物でありながら、比較的記録や詩文に残っているのは、例外的なことであると言って良い。
日本から大陸へ渡った後藤氏は、当時の中国の知識人なら一顧だにしないような事柄も、あたうるかぎり取材し、書き残してくれている。興味の対象の中心は中国書法、文房四寶であったが、さらに服飾から料理、婚姻の風習などの風俗全般、はては異聞奇聞民間伝承にも対象は及んでいる。
当時の日中間の政治状況というのは、相当に複雑であった時期である。が、時には日本人の中国にたいする根拠の無い偏見や優越感を、鋭くたしなめるような文辞もみられる。
たとえば対人関係においても、偏見に基づく勝手な幻想を抱いて寄ってこられ、ありのままを見せたら勝手に幻滅を感じられるというのは、これまた迷惑な話であろう。
戦前の日本の教養人、知識人の大多数は、いまだに伝統的な教養として、漢籍の素養を身に着けていたものである。漢詩漢文の世界で養われた「美しい礼教の国」というイメージと、当時の中国の現実とのギャップの大きさから、反動的に中国蔑視論者になる者も、ずいぶんといたようである。
朝太郎先生も例に漏れず、当時の平均的な中国人の教養水準を越える、漢籍の素養をもっていた。が、過度の幻想に捉われることなく、当時ありのままの人や風物を愛し、そのスタンスにもミーハー的なブレが感じられない。
後藤朝太郎「文房至寶」さて、この「文房四寶」を持ち帰って早速本を開くと、この本の中から、パラリと紙片が落ちてきた。パラフィン紙に赤字で印刷してある。これが「北京湖筆徽墨店」の、おそらくは製品に同封されていたと見られる注意書きである。後藤朝太郎「文房至寶」以前、木村陽山氏の著書「筆」で述べられている、戴月軒の製品注意書きの内容をご紹介した。それとだいたい同じ内容である。

注意:筆法用法
小楷将筆頭捻開三分之一
大楷對筆将筆頭捻開三分之二
焦墨即用請勿満潤

(注意:筆法の用法:小楷筆は、筆鋒の三分の一を揉みほぐし、大楷筆および對筆は、三分の二を開く。墨は含ませすぎず即用し、墨を一杯に筆に含ませないようにしてください)

とある。この筆の用い方は、晏少翔の筆法にも通じるものがあるようだ。しかし基本的な筆の用い方に関する注意書きを、わざわざ筆店が用意するようになったというのは、それだけ筆の用法に無知な人が増えたということであろうか。
「北京湖筆徽墨店」は1956年に、いわゆる公私合営によって、北京のいくつかの墨店や筆店が合併して成立した筆墨店である。その中心となったのが、瑠璃廠の筆店の雄、戴月軒であったという。新しく出来た合営企業の経営に、戴月軒由来の影響が、強かったことをうかがわせる紙片である。

この紙片がはさまれていたところをみると、この本の前の持ち主も、相当に文房四寶に対する造詣と関心が深い人物であったことを思わせる。
小生の手に渡ったのも何かの縁であろうが、大事に読ませていただこうと思う。
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「浮生六記」

沈復の「浮生六記」(岩波文庫)は何度も読み返している。著者の沈復は乾隆時代から道光年間にかけて生きた人である。困窮の中、愛妻の陳叔芸や友人等と共に、つかの間の清雅を楽しみ、また両親や弟との確執、愛妻との死別などの事柄を、衒いの無い筆致で赤裸々に綴っている。その筆は純朴切々として胸を打つものがある。当時の窮乏した読書人の生活を知ることにおいても参考になるので、未読であればお勧めしたい本である。
沈復は蘇州の滄浪亭近くで生まれ育った。滄浪亭で生活を営んだこともある。沈復の父親はいわゆる幕客、幕友稼業を営んでいた。幕友というのは、正規の官吏の個人秘書として、役所の実務を担当する生業である。現実問題、試験勉強ばかりをやっていた書生が、急に裁判や税務などの行政の実務を担当しえるものではない。代々、裁判に詳しい幕友の家や、税務処理に詳しい幕友の家があったという。彼等実務家が、実際面の行政を担当補佐していたのである。
必要上は欠くべからざる人員といえたが、斡旋や推薦による臨時雇いであるから、その地位は不安定であった。仕えていた官吏が転勤したり、弾劾して失職すると自らも職を失うことになる。幕友といっても、もとは科挙に挑んで勉強していた者が多かった。沈復も若い頃は先生について「八股文」(科挙用の勉強)を学んでいた。しかし、難関の科挙に合格するのは容易なことではない。半生を不毛な受験勉強に費やすよりはと、幕友稼業を学ぶように父親に命じられたのであった。
この沈復は、徽州の績渓県を訪れたことを「浮生六記」のなかで述べている。このとき、徽州の塩商、程虚谷の宴会に招かれている。この程虚谷は、徽商が専売権を持つ塩で、巨万の富を為した大商人であった。また、当時著名な製墨家でもある。
尹潤生の「尹潤生墨苑鑑蔵録」には程虚谷の「手巻墨」が掲載されている。程虚谷、名は国光は室号を五雲斎。清朝期における、程氏製墨家の祖とされる。「尹潤生墨苑鑑蔵録」の考証によると、その次世代に程音田こと程振甲、さらに次の世代に程揺田、程洪溥、程怡甫などがいる。二代続く製墨家は稀である。三代続くということは、製墨家一族としては、かなり盛んな様子が伺えるのである。が、この程氏の墨は現在眼にすることは非常に少ない。この程虚谷はまた、徽州一帯の田畑やさまざまな施設の整理修復に、その富を傾けたという。製墨も、商売というよりは、文化事業の一環という性質があったのかもしれない。いずれにせよ、この時代の徽州商人の代表格の一人である。
沈復は、自宅で書画店を開き、自ら書いた書や画を売って糊口をしのいだ。伝存する作品が知られているが、なかなかのものである。画は成人してから雅友に習ったのである。こういった友人間での技能の教授は、当時普通におこなわれていた。あるものは詩に優れ、あるものは蘭画、あるものは山水、あるものは篆刻、またあるものは音曲と、それぞれ得意分野を持った人々が寄り集まり、互いに技術を教えたり、また合作をおこなったりした。
現在のように専門分化が進み、書は書、画は画、詩は詩と、別個の分野で巧拙を云々している時代に比べ、その文化の広がりと奥行きは比較にならないものがある。
もっとも、当時の揚州は揚州八怪を初め、このような売画でもって日々の糧を得る者たちで溢れかえっていたのである。揚州画壇の領袖である金農ですら困窮し、灯篭に絵を描いて売っていたほどである。すこしばかり描けた程度では、なかなか生活を成り立たせるのは難しかったであろう。
「浮生六記」はもとは全六編からなっていたといわれるが、2編が失われ、現在読むことが出来るのは四編のみである。失われた2編には琉球(沖縄)へ行った話などが書かれていたといい、その内容を巡っては様々な研究がある。
”揚州八怪”を順に紹介することにしているが、”八怪”から漏れた数多の読書人が当時の揚州で生活していたことも、忘れてはならないだろう。
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書法入門(マール社)

以前、五指執筆法について述べた。意外に反響があって、質問などもあったのであるが、詳細をここで述べるのも冗長だと思い、参考書籍として「書法入門」という本を記憶していたので薦めていた。
が、私の記憶違いで出版元を「二玄社」としてしまっていた。正しくは「マール社」である。書法入門シリーズは中国書法をコンパクトに解説していて私も昔ずいぶん参考にし、後輩にも薦めていた本である。
中国では書道と言わずに書法という。法というだけあって、その教授法は論理的かつ合理的である。
日本の大半の書道の教授法とはかなり異なるかもしれないが、これから独学で書道を始めようとしている人や、指導をしている人には是非読んでもらいたい内容である。
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坂東貫山と汪近聖 〜貫山夜話より

かつて「日本美術工芸」に連載されていた坂東貫山のエッセイ「貫山夜話」をすべてあつめて複写製本した冊子である。貫山夜話T.H先生がその昔、「日本美術工芸」の連載記事を蒐集し、製本して同好の士に配布したものの一冊である。
(篤志家というのは先生のような人のことをいうのだろう)私も先生から一冊いただき、大事にしている。
坂東貫山(1887―1966)は画家で文房四宝、とりわけ硯の蒐集において著名である。貫山夜話その第五回目が「墨の話」である。中国の製墨史について概略が述べられたくだりがあるが、その中の清朝の墨について述べた箇所を抜粋すると「清代になって、汪近聖が種子油(胡麻、菜種、椿など)の油煙で良い墨を作った。墨色が漆黒であるという特徴が喜ばれ、墨は油煙墨に限るということになった。汪家の他に曹素功、胡開文などがあり、安徽省徽州でその子孫が今日なお盛んに作っている。しかし最近輸入されたものは以前のような良質なものはないようだ。」とある。
貫山翁がどのような情報を元にこの文章を書かれたのか、今となってはわからないが、油煙墨が盛んになったのは明代後期からであるし、汪近聖はそもそも曹素功から独立した人である。しかし内容に多少の誤りはあったとしても、この時代に汪近聖を知っていたというのは驚きに値する。
「貫山夜話」の第12回目に、文房飾をあつらえて述べている。文房飾というのは、文房四宝に、墨床や水滴、机、硯屏などの取り合わせを考え、楽しむものである。
ここでは合計3つの案を作って、文房趣味についてあれこれと述べている。第1案(1セット目)には金冬心の墨、第2案には明墨、そして第3案には汪近聖の墨が選ばれているのである。この際選ばれた汪近聖の墨がどのような墨であったのか、写真がさすがに不明瞭で判別は出来ない。が、汪近聖を選ぶ辺り、やはり貫山翁は文房四宝に対する相当な見識があったといえるだろう。
日本で唐墨の古墨といえばまず明墨があげられる。これは江戸時代に鎖国をしていたことにより、清朝期の良質な墨があまり日本へ入ってこなかった事情が大きいであろう。この傾向は江戸時代に限らず、つい最近まで唐墨といえば明墨、という傾向があった事は否めない。たとえば宇野雪村氏の墨について述べられたいくつかの著作にも、明墨ほどに清朝の墨は詳しく述べられておらず、収蔵品の層も薄い。
日本に本格的に清朝の銘墨が入ってきたのは、戦後、それも中国が文化大革命の混乱を抜け、改革開放経済の路線が本格化した1980年代のことであろう。つい最近のことである。この中に、曹素功や胡開文などの良く知られた墨匠に混じって、汪近聖や汪節庵などの優れた墨匠の製品が日本にもたらされたのである。その他の墨匠の墨と懸絶した墨質に、当時の愛好家達はこぞって驚嘆したと、古老からは話を聞かされる。
そして90年代の終わりから2000年代の初頭にかけて、北京の周紹良氏の一連の著作「清墨談叢」「曹素製墨世家」「蓄墨小言」などが次々と出版され、初めて清朝の墨に対するまとまった知識を得ることが出来るようになったのである。故に日本における清朝の墨の普及と理解は、現代も尚、端緒についたばかりともいえるのである。
同じことは中国においても言える。2000年ごろからの中国の古美術品オークションで数々の銘墨が出品され、また墨に関する著作も数多く出版されるようになった。このことで近年ようやく清朝の墨が注目され始めた、というのが実情であろう。実際、続々と出版された墨に関する本に書かれている内容は、周紹良氏の著作の範囲を出るものは極めて少ないのである。
話を貫山翁に戻すが、画家であった貫山翁、墨の選択にも注意を払っていたに違いない。また20数年も大陸で生活し、文房具の蒐集につとめたことから、なんらかの縁で汪近聖を知るに至ったということは不思議ではない。無論、画家としてその汪近聖の墨を使ってみたことであろう。
横山大観とも親交のあった氏のことである。汪氏の墨について当時の画壇で話題にしなかったであろうか?しかし不思議と汪近聖の名は広まらなかったのである。一つにはその墨の入手困難にもあったのかもしれない。
最後に「しかし最近輸入されたものは以前のような良質なものはないようだ。」とある。ここしばらく「鉄斎翁書画宝墨の謎」と題して1970年代からの中国製の墨の品質の変遷を追う試みをしてきたが、同じような話は貫山翁の時代から言われていたことのようである。
これには少々憮然としてしまう。
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文房精華

文房精華
近藤泰氏が昨年春に出版された文房精華である。文房四宝に興味がおありの方は必携の書であると思われる。近藤氏が語られたところによると、印刷用の紙は美術出版用の高級紙で、製紙会社の営業も「数年前に一度本に使われたきりです。」と言ったそうである。写真は近藤氏が自ら撮影し、調整したのであるが、掲載されている文物の質感、特に印材はその美を限界まで表現できているのではないだろうか。掲載品のうちの何点かは実際に近藤氏にみせていただく機会があったのでそれがよくわかる。
特殊紙ゆえに、本としては重量もかなりのものである。
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