明倫堂騒動

来月の8日から旧暦の春節である。そこで春節にちなんだ、江南の昔噺をひとつ.......
 

明代も後半にはいり、嘉靖年間初めの明王朝は、倭寇の猖獗もまだ本格化しておらず、束の間、平穏な時代を謳歌していた。ある歳の春節。蘇州の祝允明こと祝枝山は、唐解元、文衡山とともに”江南四才子”と並び称される友人、周文賓に杭州の彼の家に招かれた。無論、弟分の唐解元も一緒である。文衡山も招かれたが、謹直な文衡山は正月はやはり蘇州郊外の郷里で過ごしたいという。ともあれ江南人士の耳目をそばだてる四才子のうち三子がそろい、春節を楽しんで過ごそうという事に相成った。

杭州に着いてからというもの、文士名士がひっきりなしに来訪し、連日の宴席である。ある晩、したたか飲んだ祝枝山と唐解元、酔い覚ましに周文賓と連れ立って杭州城内をそぞろ歩いていた。春節、今の新暦で言う二月は、江南とはいえ夜はまだ寒い。西湖の湖畔には白く濃い霧が降りていたが、城内の家々は、正月の宴でどこもにぎやか。大小の妓楼は紅い灯に照らされながら、管弦の音と互い違いに妓女のあでやかな歌声と嬌声、時折ドッと座が沸き立つ声が漏れ聞こえてくる。

しかし祝枝山、この太平の江南で蘇州と一二を争う繁華な杭州城内を、心を許した友二人と練り歩きながらも、街の光景に一抹の物足りなさを禁じ得ない.......したたかに酔ってはいても、どこか頭の一部が冴えわたっている、という人物がいるものだ。李白酒一斗詩百篇式の、である。あるいは祝允明もその類だったのかもしれない。もしくは酒が入ることで、感覚のある部分が一層研ぎ澄まされてしまう、という特殊な性質の頭脳をしていたのかもしれない。ともあれ祝允明にとって、酔ってはいても詩書画の感性だけは、薄らがかった酔いの霧の底に沈んでしまうという事はなかったようである。その彼が気に留めたのは、やはり筆書に関わる光景であった........この杭州の家々の戸口には、正月だというのに紅い紙に書いた對聯.....春聯を掲げている家が無いのである。

「蘇州では正月ともなれば、おめでたい言葉を對聯にして、赤い紙に書いて”春聯”と呼んで戸口に貼るんだ。杭州ではそういった習慣がないのかな?」

春聯の起源は唐代にさかのぼるが、宋代を経て盛んになったのは明代はじめ、朱元璋が好んだところからと言われている。特に官吏の家では對聯をつくって門扉に掲示する事が奨励された。それが民間庶民にも広まってゆくのである。しかし蘇州ですでに定着していた習慣が、杭州で見られないのは解せないところである。まあ、”蘇州杭州、地上の天国”と言いながら、とかく対抗意識の強いのがこの二都市である。この”噺(はなし)”の成立自体、杭州に対する蘇州の文化的優越を顕示せんがため、というようなフシを感じなくもない。あるいは春聯は掲げられているものの、感心できるような対句が見当たらない、という事かもしれない。

木版印刷した春聯は既に宋代から存在したといわれるが、そのような既製品を用いるのは庶民の家で、いやしくも士大夫読書人の家ともなれば、それなりに気の利いた対句と、やはり風格を有した揮毫でもって筆書されているべきところである。この噺に原型となるべき事実があったとすれば、杭州のそれなりの門構えの邸宅の春聯に、祝枝山の目にとっては、内容にも筆跡にも見るべきものがなかった、というところだろう。それが噺の成立過程で、よりわかりやすく極端な内容に変じたのかもしれない。

しかしともかくこの”噺(はなし)”の中では蘇州にある春聯が、杭州には無い、という事になっている。
ともあれ祝枝山、酔い加減で、興を催したのか

「これは正月だというのに、いかにも寂しいじゃあないか。ひとつ私が書いてやろうじゃないの。」

と、唐解元が下げていた袋の中から筆墨硯を取り出そうとする.....この筆墨硯、それにいくらかの紙を携行するというのは、当時の文士のたしなみでもある。唐解元の携帯する道具は書画の名人らしく、特に念の入った精選されたものである。祝枝山や周文賓と一緒なのだから、興が乗れば、場所がどこででもしたためようという魂胆である。巻いた紙、佳墨、大小の筆にやや大振りの硯もある。
すると周文賓が二人を押しとどめ、

「祝兄!そんなに酔ってちゃ、手元も怪しいもんだし、いい加減な落書きなんぞしたらとんだ災難を被りますよ。およしなさい。」
「いや、いいじゃないか。おめでたいものだし。」

とかなんとか言いながら、三人はとある豪邸の前を通りすぎようとした。祝枝山、

「ちょうどいい、なかなか立派な門構えじゃないか。ひとつここに書いてやろう.....」

杭州人の周文賓は慌てて

「ここは挙人の徐子建さんの家ですよ。お金も権勢もあって、杭州の文壇を牛耳っています。あえて逆らう人はいません。こんなところに勝手な事は書かないでください。何があるかしれませんよ」
「何!威張った金持ちだと!とすれば、それはますますやはり何か書かないわけにはいかんじゃないか。なぁに、かまうもんか......」

周文賓の制止も聞かず、唐解元などは硯を温めながら水入れから水を注ぎ、さっさと墨を磨り始めている。祝枝山はしばし思案していると、ほどなくして墨が磨りあがる。祝枝山は一枝の聯筆を執り、手のひらほどの幅に裁たれた紅箋を唐解元に両手で宙に広げさせ、流し加減の楷書でもってたちまち對句を書き上げた。そして向かいの家から重湯を借りて門扉の左右に塗り付け、對聯をべったりと貼りつけたのである。

上聯に曰く“財丁旺日少”
下聯に曰く“悲哀無事來”。

「財丁(財産と人)、旺(さか)んなる日は少なくとも」「悲しみ来る事無し」。なかなか人を食った対句である。そして落款に「姑蘇祝允明寓三元坊周宅」と落款までしたのである。周文賓は酔いも半ば醒めて、

「徐子建は”両頭の蛇”なんて言われるしつこい悪党ですよ。あとでどんな仕返しをされるか.....」

と言えば、祝枝山は余裕の体(てい)で、

「なあに、奴が”両頭の蛇”なら、こっちには”洞窟に赤蝮”(一計あり)ありさ。かかってくるなら、ひともみしようじゃないか。」

とうそぶけば、

「面白い面白い」

と、唐解元も手を叩いて喜んだ。文字通りの酔狂である。

周文賓は頭を抱えたが、祝枝山がこうなると聞かないのを知っている。早々にその場を立ち去ると、屋敷の裏手から水路伝いに祝枝山と唐解元を蘇州に送りかえしたのである。
さて、この對聯を目にした徐挙人、これを怒るまいことか。周文賓の家に怒鳴り込んだ時には、祝枝山は蘇州へ去った後である。さあ、どうしてくれようかというところ。しかし徐子建も富強と権勢にものを言わせてとはいえ、杭州文壇を牛耳るほどの名のある文人である。文の恥辱は文で雪(すす)がんと、出入りの文人文士達をこぞって引き連れ、蘇州の祝枝山の元へ押しかけたのである。
 

さてその昔、大陸のある程度の規模の街には、明倫堂という建物があった。明倫堂というのは、独立した建物ではない。孔子を祀る文廟、ないし当時の私設学校である書院、あるいは国立の官吏養成校である太学、あるいは地方政府の設立した学宮といった、学問に関係のある施設の構内にあって「正殿」の位置にある建築物を「明倫堂」と呼称したのである。江南の大都会、蘇州にはもちろん文廟をはじめ太学もあり、書院も一二にとどまらなかった。

そのうちのとある書院の明倫堂で、祝枝山と徐子建以下の食客の文士達は対峙したのである。もちろん、刀槍をもって争うというわけではない。筆墨をもってその文才を競うのである。この場合、当意即妙の対句の競作、というものである。
 

まず、徐子建の側から痩せた背の高い学士が進み出ると、
「東典當,西典當,東西典當典東西」
 

とやる。「典當」とは、今で言う質屋の事。「典」は、抵当を取る(抵押)、という意味がある。すなわち東の質屋、西の質屋、「東西典當」で東西の質屋が「典東西」というわけだが、最後の「東西」はこれは方角の事ではなくて、品物の事。つまり東西の質屋が品物をカタに取る、というわけですな。
 

これに祝枝山は間髪入れず、
「南通州,北通州,南北通州通南北」
 

とやる。通州というのは、江蘇省南通の通州区と、今の北京市にも通州区がある。すなわち南の通州と、北の通州。そして南北の両通州は「通南北」ということで、南北に交通が通じている、という意味になる。
この対句の妙は、初め連続する三字二句の語でもって後ろ七字一句を作り、最後の句も上下対称につくらないといけない。そして一字一句たがわずに対をなしている必要があるというわけである。
 

また別の背の低い学士が
「山羊上山,山碰山羊角。……」
 

とやる。山羊(ヤギ)が山に上(のぼ)る、山が山羊の角にぶつかる、山羊が鳴いて廖淵潺─繊法
 

そこで祝枝山、
「 水牛下水,水沒水牛鼻。哞…… 」
 

水牛が水に入る、水牛の鼻が沈んで哞(モウ〜)。これも一字一句対になっている。
 

山東からきた文人は、山東なまりもあらわに
「媽媽騎馬,馬慢,媽媽罵馬」
「媽媽」は現代でも母親の意味ですな。当時は北方ないし山東の方言だったのかもしれない。つまり
 

かあさんは馬に乗る、馬はのろのろ、かあさん馬をののしる
 

というところ。
 

祝枝山はすかさず
「 妞妞牽牛,牛憨,妞妞扭牛」
「妞妞」は、小さな女の子、の事。すなわち
 

女の子が牛を牽(ひ)く、牛は憨(ぐずぐず)、女の子は牛を扭(ゆす)る
 

というわけ。
 

文士甲が
「 屋北鹿獨宿」
 

家の北に鹿がひとり宿る
 

とでもやれば、
 

祝枝山
「溪西雞齊啼」
 

渓(たに)の西で鶏が一斉に啼く
 

と返す。
 

文士乙が
「馬過木橋蹄打鼓、冬冬冬」
 

馬が木橋(きばし)をすぎれば蹄がつつみを打って 冬(トン)冬冬
 

とくれば
 

祝枝山は
「雞啄銅盆咀敲鑼、當當當」
 

鶏が銅盆をついばんでくちばしがどらを敲(たた)く、當(ドウ)當當
 

病気の秀才が
「大籃也是籃、小籃也是籃、小籃放在大籃裏、兩籃並一籃。」
 

大きな籃(かご)も籃、小さな籃も籃、小さな籃を大きな籃に入れれば二つの籃をならべても一籃(かご)
 

祝枝山は
「 秀才也是才,棺材也是材,秀才困在棺材裏,兩材(才)並一材。」
 

秀才もこれ才、棺桶の材料もこれ材、秀才、棺材(かんおけ)の中で困(くるし)めば、兩材(才)を並べて一材なり.....

相手を見てこれを愚弄したのである。

仲間を侮辱された杭州の朱先生が顔を真っ赤にして
「大丈夫半節人生」
 

大丈夫、半月の人生
 

とやる。つまりはに、「お前の命も半月だ」というわけで、ほとんど罵詈雑言ですな。対して

祝枝山は
 「朱先生三個牛頭」

牛頭は、馬面牛頭の牛頭で、冥界の獄卒。つまり朱先生など、冥府の獄卒に囲まれて死んでいるも同然だ、とやり返している。
 

とうとう徐子建が業を煮やし、まず、

「月圓,中秋月圓。 」

月は圓(まる)く、仲秋には月は圓(まる)く。

とやれば

祝枝山
「風扁,房內風扁」

この場合の「扁」は、平らに広がるという意味で、すなわち風が吹き渡る、部屋の中に風が吹き渡る、というところ。実は「月圓風扁」はよく知られた対句。
 

風が吹き渡る。部屋に風が吹き渡る。
 

というところ。
 

今度は逆に祝枝山が
「三塔寺前三座塔,塔塔塔」

とやる。三塔寺とは、三つの仏塔を持つ寺でいくつかあるが、大理三塔寺や、山西省の五台山にある三塔寺が有名なところ。つまり

三塔寺の前に三つの塔、塔、塔。

というわけ。
 

しかしさるもの徐子建も即座に
「五台山上五層台,台台台」

と返す。ちなみにこの場合、「五層台」は五層構造の台、ではなくて「層臺」で”塔台”を表すひとつの単語になるので、五つの台、という意味。すなわち三塔寺と聞いて、山西の五台山を対したのはさすがというところ。そして山の上に五つの台、台、台、という事であるが.......これを聞いて祝枝山はニヤリ。そして言うには

「徐子建、あなたは間違えたな。わたしは三塔寺の前の三つの”塔”、だからすなわち”塔塔塔”とした。あなたはそこで五台山の五つの台としながら”台台台”としたならば、残る二つの”台台”はいったい何処へ消えたんだ?たぶん、ひとつは完成しなかったし、ひとつは大方、倒壊しちまったんじゃあないのかな?わははは。」
むろん、台を五つ並べて”台台台台台”とすれば、対句にはならない。かといって、三つの台ではこれも”五層台”に矛盾してしまうのである。

はっと気づいた徐子建はがっくりである。

「ちなみに言うと、わたしはあなたの屋敷の門に、別に不吉な事を書いたつもりはないんですよ。貴方も含めてだれも気付かなかったようだがね。”財丁旺日少,悲哀无事来”は単なる對聯じゃない。これは回文と卷帘格(倒語)をあわせた、これぞ四句七言詩というわけなんだがね。」

すなわち(大意と併記すれば)
 

一、財丁旺日少悲哀
人財が日に盛んなれば悲しみ少なし
 

二、日少悲哀無事来
日少(若いころ)の悲しみなんてなんてことない
 

三、来事無哀悲少日
悲しみ無き日は多からず
 

四、哀悲少日旺丁財
悲しみ少なければ人財盛んなり

要は意味が分かれば、別段腹も立てまいに、というところ。まさにこれこそが、祝枝山が仕掛けた””洞窟の赤蝮”のはかりごと。深入りしてまんまと咬まれた徐子建、恥の重ね塗りである。すっかり面子を失って、這う這うの体で杭州へ逃げ戻っていった。

以来杭州でも、春節の折には家々の戸口に春聯を掲げるようになったという。
 

この詩について補足すれば、つまり一、の後半四字をもってきて二、の前半四字につないでいる。これは三、と四、も同じ。そして一、をさかさまにしたのが四、で、二、をさかさまに読んだのが三、というわけ。さらに押韻は「哀、来、財」で、平仄もあっている.......なかなか見つけるのは難しいというところ。「日少」は、「少ない日数」という意味と「若い時分」という意味があるところがミソだろうか。祝允明の頓智の才、恐るべし、というところだが、実はこの”噺(ハナシ)”の元になった対句は別の説話にも登場する。

たとえば「東典當,西典當,東西典當典東西」には、江南の賈文通という人物が「春読書,秋読書,春秋読書読春秋」と返したという話がある。すなわち


春に読書、秋に読書、春(はる)秋(あき)の読書で春秋(しゅんじゅう)を読む。
 

ということで、”春秋”を季節と書物にかけているところが味噌か。
また清末の「南亭四話」に拠れば、「南通州,北通州,南北通州通南北」は乾隆帝の考案、という事になっている。むろん、これとて史実ではなく、説話の類である。

この噺自体、さまざまな対句遊びの中で知られたものを集めて、祝枝山にかけてまとめたものかもしれない。登場する對句の掛け合いも、幾つかを除いてさほど優れたものではない。
さらに付け加えるなら、杭州の周文賓は実在しない。祝允明、唐寅、文徴明に周文賓を加えて”江南四才子”とされるが、前の蘇州の三人が実在するのに対し、杭州の周文賓は架空の人物なのである。祝允明、唐寅、文徴明に、徐禎卿を加えて”呉中四才子”なのであるが、”呉”なら蘇州の事である。なので徐禎卿を省いて杭州の周文賓を入れれば”江南四才子”、という事になる。周文賓はこの徐禎卿がモデル、という説もあるにはあるが。
江南四才子の物語は、近年ではテレビドラマにもなったようだが、もとは戯曲に現れる。周文賓は、あるいは蘇州にばかり才子が集まっている事に対する、杭州人の対抗意識が生み出した人物かもしれない。彼は文才に加えて白皙美貌の青年で、女装すれば見事な美女に化けたという。江南地方で古くから伝わる、女性ばかりの演劇、”越劇”には恰好の素材で「王老虎槍親」という演目がある。

ともあれ、ここに掲げた噺では、杭州の文士連がそろいもそろって祝允明にコテンパンにやっつけられている。よってどうもこの噺は蘇州の人の作なのではないかと思うわけであり、成立も存外民国時代くらいなのではないかと考えられるのである。

 

落款印01


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