唐解元一笑姻縁(一/四)

明の後期、馮夢龍の「警世通言」の二十六巻に、「唐解元一笑姻緣」という、ちょっと面白い説話が収録されている。長いので何回かに分けて紹介しようと思う。
 



「唐解元一笑姻緣」(その一)


三通鼓角四更雞
日色高升月色低
時序秋冬又春夏
舟車南北復東西
鏡中次第人顏老
世上參差事不齊
若向其間尋穩便
一壺濁酒一餐齏

 

三度、鼓(つつみ)の連打と角笛が交互に響けば、はや四更のトキをつげる鶏の声。
朝日が高く上れば、月は低く沈む。
季節は秋冬、また春夏と順に巡る。
舟や車は南北に走り、また東西をかける。
(かように時は移ろい、世の中はただ動いていくうちに)鏡に映じる顔は次第に老けゆくもの。
世の中は良いことも悪いこともいろいろあるし、物事は平等ってわけにはいかない。
もし、そんな世間で穏便に行こうとおもったら、
(出世なんて料簡はもたずに)一壺の濁り酒と、粗末な漬物でもって世を送るしかないさ。

 

この八句の詩は、呉郡にその名を知られた、姓は唐(とう)、名は寅(いん)、字(あざな)を伯虎というひとりの才子の作である。肉屋の倅(せがれ)に生まれたが、近所でも評判になるほど利発であり、近くの私塾で学ぶことが出来た。家もほどほど裕福であったため、蘇州の人士から文芸のてほどきも存分にうけたのである。天性聡明、手先も器用で、教えた事はたちまち覚えてしまう。若くして天地を包むかというほどに博学、書画音曲に至るまで、文芸百般通暁せざる無し、というほどになった。詩賦の類などは、紙を延べて筆を一振りすればたちどころに成る、という有様であった。
文衡山と年少の頃から交わりを結び、かの祝枝山も、十歳年下の唐寅に自ら交際を求めたほど。性は奔放不羈、世を軽んじ才を恃(たの)んでほしいままにふるまった。
気ままな放蕩暮らしをしていたが、二十代も半ばの弘治七年、父親を亡くした上に、ついで母親、妻、子供、それに妹までもが、それから一両年の間に次々とこの世を去ることになる。失意に沈む唐寅に、兄貴分の祝枝山は、心を入れ替えて科挙に挑めと叱咤する。そこで唐寅、大いに発奮して受験勉強を始めるのである。
 

そして科挙の初等試験、秀才の試験に挑む。このとき「曾效連珠體」という形式で「花月吟」を十首あまりつくったという。「連珠體」というのは、詩句のおのおのに、それおぞれ同じ辞句が用いられ、さながら珠を連ねたような体裁の詩賦の事である。唐寅の「花月吟」は、それぞれの句中に花あり月あり。特に、
 

如“長空影動花迎月,深院人歸月伴花”
長空、影動いて花は月を迎える 深々たる庭院、人帰れば月は花を伴う
 

あるいはまた
 

“雲破月窺花好處,夜深花睡月明中”
雲破れて月は花の好(よ)きところを窺い 夜深くして花は月明かりの中に睡むる
 

などは、当時、世の人の賞賛を浴びたものである。
 

蘇州本府の太守、曹鳳(そうほう)はこの秀才受験の答案の詩を目にするや、唐寅の才能にすっかり惚れ込んでしまった。秀才は科挙の受験資格を得る、まずは入り口の試験である。

ところで各地方の科挙を統括する、”学政”という官職がある。これはその地方では大変な権威をもっており、”宗師”という尊称で呼ばれるほどの顕職である。時の呉郡の宗師は姓は方、名は誌という、浙江は鄞県の人であった。役職柄、当然の事として学識は深かったが、明代に入って一部の士大夫の間で盛んになった古文辞を、彼は好まなかった。古文辞とは、古典への回帰を志向する文芸風潮であり、当時江南士大夫を中心に盛り上がりを見せていた。方誌自身も成化二十二年の進士であったが、科挙の必須の素養である四六駢儷、いわゆる駢文(べんぶん)による形式的な美文こそが正統という、いかにも”学政”という役職に向いた考え方ではあった。ゆえに古文辞の素養が横溢する、唐寅の詩風にも、さほどの感銘は受けなかったのである。また唐寅が自らの才を恃んで豪放にふるまい、小さな節義にこだわらない人物であると聞いて、この性格を嫌った。また何日にもわたって行われる試験期間中にも、友人を呼んで妓楼に通うという始末。こんな奴を合格させるわけにはいかないと、秀才試験に不合格にしてしまったのである。
 

しかし蘇州太守の曹鳳は、何より唐寅の才能を惜しんだ。苦心のすえ再三にわたって方誌に請求し、なんとか郷試受験の推薦枠「遺才」、つまりは補欠のような枠の末席に滑り込ませることが出来たのである。

はたせるかな唐寅、弘治十一年、明朝の応天府(副首都)南京での郷試に首席で合格する。郷試の首席、いわゆる解元に中(あた)ったのである。そして翌十二年、いよいよ唐伯虎は最終試験である会試をうけるため、京師北京にのぼったのである。ちなみにこの年、祝枝山こと祝允明も会試に応じるため京師にのぼっている。彼の文名はいや増し、都の貴顕はこぞってへりくだり交際を求め、名のある人士は伯虎と面識を結ぶことを名誉ともてはやしたのであった。

全国から俊英があつまる会試が開かれる京師において、唐寅がなぜ特にもてはやされたかといえば、かねてから聞こえた文名もひとつにはある。また応天府南京の郷試を首席で通った、というのもいまひとつの理由であろう。地方試験である郷試は、地方の学術教育水準によって、やはり格差が存在したのである。明朝初期の首都でもあった南京といえば、周囲に蘇州、湖州、揚州、徽州など、富強で教育水準の高い地域が集中していたため、より一層、狭き門となっていた。応天府の郷試はなかなか合格しないため、他郷に籍を移すものもいたくらいである。その南京で解元、という事であれば、会試においてもあるいは首席、ないしは相当良い順位で合格しようかという期待がもたれるのである。
 

会試に挑んだ唐寅、答案には会心の手ごたえがあった。
 

この唐伯虎、当時としては中年と言われてもいい年頃であるが、精神は十代の頃から変わっていない部分がある。家の稼業が肉屋という事もあり、裕福ではあったが庶民の出である。階級社会特有の暗い”湿気”にもともと縁遠いのである。また、才に任せた若さのなせる業であるが、いわゆる”人の世に棲まうことの怖さ”というものに、いささか疎かったのである。
なにしろ蘇州では赫々たる名士である、十歳年上の祝允明や、同世代の文徴明などと、年少の頃からの付き合いである。取り巻く友人も大小の才子ばかりである。また才を誇るといっても、やはり祝枝山、文衡山を前にしては詩文筆書のある部分においては、一歩譲るところもあるかもしれない、という自覚があった。なので自身は充分謙虚なつもりなのである。しかも祝枝山にしても文衡山にしても、唐寅に嫉妬するような料簡はカケラほども持ち合わせてないし、必要もないことであった。唐寅にしてみれば、いくら才に任せて欲しいままに振る舞ったとしても、祝枝山などは年長者ながらその上を行く奔放な気性である。三人肩を並べて歩けば、蘇州の数多の人士もまったく眼中に無い、というのがこれまでの半生であった。
 

蘇州も江南屈指の大都会とはいえ、明朝にあっては商工業と文化の中心地である。学問教育も盛んである。封建の世とはいえ、幾分は開けた考え方が、そこにはあった。しかし門閥が跋扈する北京においては、宮廷から滲み出て市井にまで及ぶある種の陰湿さ、というものがふんだんに世間に浸み込んでいるのである。
ともかく才能のある若者と言うのは、世の人の嫉妬の恐ろしさがわからない。生まれてこの方、人を妬む必要がなかったからである。また実力で出世を勝ち取れるほどの人物というのは、陰湿な企みを見抜けないことが多い。人を陥れる必要などないからである。他人を故意に陥れるようなことなど、夢にも思わない人物というのは、自分がそのような目に合う事もまた、夢にも思っていないものなのだ。

かくして知勇を備えた一級の人物が、意外とつまらない人物の奸計、ないしは衆人の嫉視にからめとられて転落する、という事が青史の上ではしばしばおこることになる。実力のない人物というのは、実力が無いからこそ、保身術と策謀を一筋に磨きぬいているものなのである。
唐伯虎、”いい年”ではあったが、その種の悪意に対してはまだまだ初心(うぶ)過ぎた。
 

都の会試の総責任者、いわゆる”典試”を務める程蕁△箸い人物がいた。彼はあろうことか「売題」といって、会試の試験問題を私的な経路で幾人かに売っていたのである。会試というのは論述であるのだが、あらかじめ”お題”がわかっていれば、むろん対策は容易である。しかしあまりにも出来の良い答案や、似たような答案があると問題の漏洩が疑われることになる。程蕕浪芝鷲召領匹た擁を首席で合格させ、疑惑を払拭しようと考えた。そこで都でも評判が高く、南京の郷試も解元で通った唐寅を会試の首席合格者、すなわち会元に定めたのである。また受験生が合格すれば、典試と師弟の縁を結ぶ、というしきたりがあった。今を時めく唐寅から、”師匠”に対する礼を受けるのも、これは悪くない事に違いない。
 

伯虎はそんな事は露ぞしらない。口さがない京師にあっても、率直で開けた性格のままに、慎む、という事もしない。酒の席で人に向かって誇って「今年はきっと私が会元に決まりさ。」と、うそぶいていたのである。
この会試の結果というのは、発表前に、高級官僚達の間で噂程度に情報が流れるものであったらしい。むろんの事、もっとも関心を集めるのは、誰が会元か?という一点である。それが今年はどうやら唐寅らしい、というところまではよかった。南京の解元であれば会元に中(あた)っても不思議はない。
ところが間もなくどこからか、典試の程蕕試験の”お題”を漏洩させている、という噂が流れてきた。となると、唐寅が北京の妓楼で盛んに「俺が決まって会元さ。」と嘯(うそぶ)く言動にも疑惑の目が向けられることになる。

もてはやす一方で、いつおとしめてやろうか?というのが都人(みやこびと)である。唐伯虎の才能を恐れ嫉む向きも大きく働いて、衆人は「主司(典試)が不正を働いた」と、さかんに責めたてたのである。これがついに皇帝への諫言をつかさどる”言官”の知るところとなり、言官は急ぎ弾劾を奏上たてまつるにいたる。そして聖旨が下るや、ただちに程蕕浪鯒い気貪蟾、唐寅も連座して獄につながれたのである。

科挙の不正は重罪である。記録に定かではないが、程蕕六犧瓩暴茲気譴燭もしれない。まったく身に覚えのない唐寅であるが、こうなっては為す術(すべ)がない。当時の監獄は過酷である。通いなれた妓楼が極楽なら、まさに地獄である。鬼のような獄吏に脅され、生きた心地もしない。生まれてこの方、味わったことのないような屈辱である。
一緒に京師に上っていた祝枝山をはじめ、蘇州太守の曹鳳他、知友の者達が唐寅の弁護保釈に奔走した事は想像に難くない。翌十三年、ようやく浙江の某鎮の小吏に任じられる恰好で、釈放される。しかしこれは、事実上の流刑である。そして科挙への受験資格が無期限に停止され、官途は永久に閉ざされたのである。あとは恩赦を待って、名ばかりの小役人として片田舎に埋もれる日々である。
 

ところが唐寅、小吏に甘んじる事を潔しとはしなかった。赴任を断り、布衣(無位無官)の身になって郷里蘇州へ帰ったのである。そして功名の道が絶たれたとあって、ますます放浪詩酒に耽った。しかし郷党意識の強い蘇州の人士は唐寅の不遇に大いに同情し、連座させられた不正に憤った。そして唐寅を”唐解元”と呼んで、ますますもてはやしたものである。唐解元の詩文書画にいたっては、その片言隻句、一字の切れ端であっても、貴重な宝とされて奪い合いになった。
とはいえ唐解元、さすがに失望の念は隠しおおせるものではない。根が率直だから、がっかりするときは傍目にもそうとわかるように落胆に沈む。祝枝山も文衡山もかわるがわる訪れては慰めてはくれる。とくに唐解元に強いて科挙に挑めよと、激励したのは祝枝山なのである。祝枝山は、唐解元と一緒に応じた会試ではあえなく落第しているのだが、彼こそなればと、期待した弟分の身に起きた不幸については、わがことのように心を痛めた。

文衡山は父親の喪中の為、十二年の会試は応じていない。祝枝山にせよ、文衡山にせよ、その後も会試に応じ続けるのであるが、ことごとく落第するのである。文衡山にいたっては、都合十回、落第したところで諦めている。どうもこの呉中の才子達は、官途に縁がなかったとでも、言わざる得ないようなところがある。
加えて唐解元の場合は縄目の恥辱まで受け、官界への道が生涯にわたって絶たれてしまったのである。平生、権門貴顕をものともしないとはいえ、自身の立身功名を諦めきるにまだ若過ぎた。ましてその半ば、ほとんど手がかかっていたところである。またいっぱしの才子のつもりが、為す術もなく陥穽にはめられ、監獄で言いようのない侮り辱めを受けたことも、にわかには癒しがたい傷を与えたのである。その心中の屈託を酒や放蕩で紛らわしているうちに、後添えの妻ともだんだんと不仲になり、ついに離縁してしまうという始末。

 

(つづく)

落款印01


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