唐解元一笑姻縁(二/四)

唐解元、彼の多芸多彩な才能の中でも、画をもっとも得意とし、自負を持っていた。北宋に倣った山水、また細緻な工筆による美人画を能くしたが、簡単な筆致の写意も多く描いた。
ひねもす、心の中に浮かぶ喜怒哀楽の情感、意の及ぶところ、筆のおもむくままに、水墨あるいは丹青をもって、即興自在に紙面に描き出すのである。画を一枚描くごとに競って値が吊り上げられ、奪い合うように購(あがな)われたのであった。

「言誌詩」にある唐解元の絶句に、


不煉金丹不坐禪
不為商賈不耕田
閑來寫幅丹青賣
不使人間作業錢

金丹を煉らず座禅をせず
商売をせず耕作もしない。
閑があれば画を描いて売る
人を使わず銭を得る

まさにこのような生活であった。

ところで蘇州には六つの門があり、それぞれ葑門、盤門、胥門、閶門、婁門、齊門といった。六門の中でも閶門(しょうもん)付近がもっとも栄えており、交差する水路には舟が集まり、車の轍(わだち)が無数に錯綜するといったありさま。まさにこれ

翠袖三千樓上下
黃金百萬水東西
五更市販何曾絕
四遠方言總不齊

無数の美しい女が楼閣をにぎやかに上り下りし
船に積まれて東西を往来する黄金は、日に百万斤。
朝方五更の市場の賑わいは、まったく絶える事が無く
四方から聞こえてくる方言は、みなバラバラ。

といった様子。

ある歳の夏の終わりごろ、唐解元は蘇州閶門近く、城外の運河のほとりに留めた屋形船を借り、涼をとっていた。解元の姿を認めるや、多くの文士がその名を慕ってあつまって来ては挨拶を交わし、扇面を差し出しては彼の書画を求めるのであった。
唐解元、求められるままにさらりと水墨でもって画を書き、また幾首かの絶句を書いてやった。時が経つにつれ、評判を聞いてやってくるものがだんだんと多くなってきた。それぞれのもとめに応じていた唐解元、さすがにいささか、わずらわしさを覚え始めてきた。そしてちょっと一休みしようと、傍らの童子に命じ、大きな杯(さかずき)に酒を汲んで持ってこさせた。

唐解元は舟の窓辺に倚(よ)りかかり、ちびりちびりと飲んでいると、忽然と水路の向こうから、華やかな装飾が施(ほどこ)された、美しい屋形船が現れた。このような豪奢な船を、当時の江南では”畫舫(がぼう)”と言った。と見るうちに、畫舫はゆらゆらと揺れながら、解元達の乗っている舟の傍(かたわ)らを通り過ぎて行く。唐解元、その船にのった珠玉の如き美しい女たちに目を奪われた。
そのうちのひとり、青い衣を着、”みずら”に髪を結い分けた若い娘が目に留まる。その娘だけ、こちらに目を向けている。その眉は秀(ひい)で目元に艶を含み、柔和でしなやかな姿、畫舫の船端から頭をちょっと伸ばし、唐解元の方をじっとみつめたまま、袖でおおった口元から笑みがこぼれているのが見えた。

須臾(しゅゆ)のまにまに.......船は通り過ぎる。唐解元、心は駘蕩(たいとう)、魂は揺れに揺れるといったありさま。一瞬の邂逅(かいこう)とはいえ、書画を能くする唐解元、目にした光景を心に焼き付けるのは、天性ともいうべき業である。青い衣の少女、そのまつ毛の一筋にいたるまで、克明に脳裏に刻み込まれてしまっていた。

船頭に「今通り過ぎた舟はどこの船だ?」と尋ねると、船頭答えるに「あれは無錫の華学士の眷族の舟でしょう。」とのこと。学士あるいは大学士は、皇帝に近侍して文書を司る宮廷官僚である。京師ではなく地方にいるということは、この場合は退任後の尊称であろう。
解元はあの畫舫を追いかけたいと思ったが、今乗っている舟は船足の遅い宴会用の屋形舟である。急いで足の早い小舟を呼びよせようとしたが、あいにく近くに見当たらない。その心中、何かを大切なものを無くしたかのように、ひどい焦燥を覚えて仕方がない。ともかく童子を走らせ手近な船を探させた。すると蘇州城内から一隻の船があらわれ、船体を揺らしながらこちらに向かって来る。唐解元はその船に誰が乗っているのかもおかまいなしに、さかんに手を振り、しきりと呼び立てた。

その船がだんだんと近づいてくると、船の中から船頭が出てきて、声をあげる。

「伯虎さん、あなたはどこに行きなさる?今は急いでいるんだがね」

解元がちょっと船の乗客を見てみると、これはほかならん、仲の良い王雅宜なのであった。解元が言うに

「ちょっと遠方から来た友人のところへ、急にあいさつにいかないといけないのですよ。それで急いでいたんです。あなたの舟はどこへゆくんです?」

雅宜が応じて

「いやなに、わたくしの二人の親戚が無錫の茅山に行き、お寺にお線香をあげたい、ということなんですよ。数日で戻ります。」

渡りに船とはこのことである。
解元そこで調子を合わせ

「私も茅山に行って、お香をあげてこなくちゃならないんですよ。ところがちょうど、一緒に行ってくれる人がいなかったのです。そういう事なら、便乗させてもらえませんか。」

と言えば、もとより王雅宜、唐解元が同道してくれるなら旅も一層面白いと考え

「あなたも行く必要があるなら、すぐに家に帰って準備して来てください。私はここに舟をとめて待っていますから。」

と雅宜。これに解元、

「決して、置いていかないでください!またどうして家に帰らないといけないのです?」

「それは、あなたも茅山のお寺にお参りするというのなら、お香とか蝋燭とか、”お供え”の準備が必要じゃないですか。」

しかし解元、目的は別にあったから、すぐに答えて「そんなもの、行ったそこで買えば済むことですよ!」と言って童子をせきたて、自身が蘇州を離れる事を知らせに家に帰らせた。また詩や畫をもとめて集まった友人達に別れも言わぬまま、王雅宜の雇い船に軽々と飛び移るや、船中の王雅宜等と礼をかわし、「早く舟を出せ」と、船頭を連呼して急がせたのである。

船頭は、これが城内で常々舟遊びを催してくれる、船頭連にとっては気前のいい上客である唐解元だと知っていたから、あえてぐずぐずするようなことはなかった。急いで竿を逆さに持ち替え、力いっぱい岸壁を一突き、岸から船を離すや、櫓を揺らして漕ぎ始めたのである。くだんの畫舫も急ぐ船ではないようで、ほどなく行くと、前方にその船影がみえてきた。
解元は船頭に言い、前の大きな畫舫について行くように指図した。みなそのわけを知らないが、畫舫も無錫の船である。ついて行っても無錫に至るだろうと、解元のするにまかせたのである。
蘇州から無錫までは、船で一両日である。江南の運河を往来する船はたいてい客室があつらえてあり、宿泊しながら旅をすることが出来た。
あくる日、無錫に着くや、前方の畫舫はゆったりと船体を揺らしながら、水門をくぐって無錫城内に入るのが見えた。

ここで解元が言うには

「無錫に着いたからには、かの”恵山の泉”の水を取らずに帰るというのは、日ごろの風流にももとる、なんとも残念なことではないですか。」

恵山は無錫城の西に面した低い山で、恵山の泉はかの陸羽が「天下第二泉」と賞した泉である。これを汲みに行き、後日茶の湯に供しようというわけだ。大きな甕に一杯ほどの水を運ぶのであれば、船で行く方が便利である。
船頭には無錫城内から恵山へ行って水を取らせ、またここに戻って停泊し、明日の朝出発、という事に決まった。そして恵山へゆきたいものは船と共に行き、城内を見物したいものは途中で船を降りることとなった。
船が城門をくぐって無錫城内に入ると、

「さあ、城内につきましたぜ。城内を見物するならここからは歩きがいい。船を降りてください。」

船頭はそう言って、他の者と泉の水を取りに去っていった。恵山までは水路伝いに行けるのである。
解元と王雅宜等三四人は岸に上がり、無錫城内に入って行った。そしてひときわにぎやかな場所、人の群れをばら撒(ま)いたような雑踏に入るや、唐解元はわざとひとりはぐれた。そして街の様子に目もくれず、かの畫舫を探しもとめるのだが、無錫城内の道には詳しくないため、どこへいったか見当がつかない。東へ行き、西へ歩いたが、城内縦横の運河には、いささかの影もみいだせなかった。

とおりいっぺん歩き回り、一条の大通りに出るや、たちまち掛け声が耳に飛び込んできた。唐解元が伸びあがって見てみると、十人ほどの人足が一乗の屋根つきの輿(こし)車(ぐるま)をひいていおり、東の方から進んでくる。輿車の後ろには大勢の女たちがつき従い、女たちの丸く結った艶やかな黒髪が並ぶ様子は、さながら黒い雲が群がり続くよう。
唐解元ひとりごつに
「縁あって、千里の彼方でふたたび巡り会った。」

付き従う女達の中に、蘇州閶門で目にした青い衣の女がいたからである。唐解元は心の中で大いに歓喜し、少し離れながら行列の後についてゆくと、すぐに一座の大きな門楼の下についた。中から女の召使いが出迎え、一同は門の中に入っていった。
解元、近くにいた人に尋ねると、これまさに華学士の官邸である。輿車の中の人物は、すなわち華学士の夫人である。解元はこのことを確かめると、路を聞いて城内を出たのである。

船の場所に戻ると、船頭は泉水を取り終わって戻ってきたばかりであった。暫くすると、王雅宜等も戻ってきた。
王雅宜が言うに

「解元、いったいどこへいっていたんだ?我々をこんなに探し回らせて。」

「知らないうちに離れ離れになってしまったようですね。その上、道がわからなかったので、半日ほど道を訪ね歩いてようやくここに戻ってきたのです。」

そこで解元がどこで何をしていたかについては、それ以上の詮議立てはされなかった。一同、食事を済ませると、停泊した船の中で眠りについたのである。
ところが夜半に至り、突然、解元は寝ながら狂ったように叫びはじめた。傍目にはその様子はさながら魔物が憑りついたようである。同行の皆は驚き、解元をゆり起こして目を覚まさせ、どんな夢を見たのかと聞いたのである。
解元が言うに

「夢で、金の鎧をまとったひとりの神人をみたのです。金の杵をもって私を撃ち、私が香をあげるのは不敬であると責めるのです。私は地に頭を叩きつけて哀れみを来い、願わくばひと月のあいだ斎戒し、ひとりで山に行って謝罪する、といったのです。世があけたら、皆さんは舟を出して行ってください。私はしばらく家に戻りますから、一緒にはいけません。」

唐解元、たしかに近頃遊びが過ぎていたようだ。その身が穢れていると、茅山の神の怒りでもに触れたのかもと、雅宜たちはこの夢の話を信じたのである。夜が明けると、ちょうど一艘の小舟が近くに来たものだから、蘇州に行ってくれと頼んだ。
解元は皆に分かれると、その小舟に飛び乗り、蘇州に向かわせた。しかしゆくことしばらくにして、忘れ物をしたかもしれないと船頭に言い、また舳を転じて無錫に戻らせたのである。ほどなく再び無錫城外に着くと、袖の中から幾文かの銭をさぐりだして漕ぎ手に渡すや、奮然として岸にあがった。そして一軒の旅籠をみつけて入ったのである。
旅籠でぼろ服と破れた帽子を求め、すぐにこれらに着替えると、いかにも窮迫した文士のようになった。華学士府の門前に来ると、いくばくかの銭を取次ぎに握らせてわけを話し、主管、つまりは華学士府の執事長にひきあわせてもらったのである。

主管の前で姓名出身を問われると、いかにも卑屈に言葉を改めて言うに

「わたくしめは姓は康、名は宣、呉県のものです。筆をいささか得意とするため、小さな塾を開いて生活していました。しかし近頃妻を病で亡くしてしまい、その看病葬儀のために塾も無くしてしまいました。独り身で生活のすべもないので、ひとつ御大家(たいけ)様へ身を投げ出し、事務係りにでもやとってもらおうと思いました次第でございます。こちらのお屋敷ではお雇いいただけないでしょうか?もしお使いいただけましたなら、その御恩は忘れません。」

そして袖の中から小楷が書かれた数行の紙片を取り出すと、主管に見せたのである。
主管がその字を見ると、すこぶる端整に書かれた楷書の筆跡、賞翫に耐え得るものがあった。そこで

「今晩、ころ合いを見計らって旦那様におすすめしてみよう。明日あなたが来られたときに、結果についてお話できるだろう。」

その晩、主管は果たしてその筆跡を華学士に見せながら、訪ねてきた男の採用について相談したのである。”文の極官”を歴任した華学士だけに、端整ながらも科挙の答案のような謹直なだけの書風とは違った、志操の高さともいうべき、逸格の気風をみてとった。深く感心して言うに

「実によく書けておる。俗人の筆に似合わぬ品格があるではないか。明日呼び寄せて、私にあわせてくれ。」

翌朝、解元が再び来ると、主管は解元を引き出して学士に目通りさせたのである。解元、粗末な衣服を着ているものの、その挙措立ち居振る舞いに卑しからぬものを学士は感じた。そこで姓名と住まいを聞き、さらに

「書物は何を学ばれましたかな?」

と尋ねた。

「かつて童試を幾度か受験したものの、学問を進めることが出来ませんでしたが、経書はどうにか記憶しております。」

童試は”秀才”の前段階の試験である。経書は四書五経のうちの五経で、易経、詩経、書経、春秋、礼記の五書である。論語を含む四書の後に学習するため、経書に通じているということは、学問は中等の過程を過ぎている、というほどの意味になる。

華学士は五経のうち、何経に通じているかを聞いた。解元は”書経”にとくに精通していたが、童試どころか郷試を首席で通ったくらいであるから、実のところ五経のすべてを暗誦できるほどなのである。しかし華学士は”周易”については、注釈を施せるほど精通していると知っていたから、あえて「易経」と答えたまでである。
華学士は果たして大いに喜んで「私の書斎は、易経ならば書物に事欠かない。息子が写本したものなら差し上げてもいいから、一緒に読まれるといい。」と言った。そして

「して、”身価”はいかほどご所望ですかな?」

と解元に尋ねたのである。

”身価”というのは、臣従するにあたって、いわば自分の身を主(あるじ)に売る、その対価の事であり、古代では普通の雇用契約の一種である。いうなれば自分で契約する人身売買とでも言うべきか。これは給金とは別であり、いずれ給金を貯めて身分を買い戻すこともできるのである。

解元言うに

「”身価”はあえて求めません。ただ少しばかりの衣服を支給してください。そしてお仕えしたのち旦那様のご意向にかないましたなら、一部屋を賜りまして、伴侶に良きご婦人をお世話していただければ十分でございます。」

学士はこれを聞いて更に喜んだ。主管を呼び、執務室にある幾揃いかの従者の衣服を与え、これに着替えさせた。また名を華安と改めさせた。華氏を安んぜよ、という意味であるから、おめがねのかないようが知れようというところである。そして書館に送り、自身の息子、すなわち公子に引き合わせた。

公子は一緒に華安に書物の写し書きをさせた。秘書の日課として、写本を作るのである。また公子が写本をするのは、科挙の勉強の為でもある。
活版印刷が盛んな明代にあっても、版を起こすのは多大な費用を必要としていた。ゆえに小部数の学術的な書物や私的な書き物をまとめた本などは、筆写されたのである。華学士は周易が専門であるから、周易関連の論考を多く収蔵している。亡失を防ぐため、またときに頒布のため、常々写しが作られるのである。その場合、書き写す者も周易、あるいは易経に通じていれば、写し間違いの心配も減るというわけである。ゆえに華学士は、華安が易経を学んだと聞いて喜び、まず公子のもとで使うことにしたのであった。
しかし本を書き写しながら、”唐解元”の学識でもって見たところ、原本の文章校正は必ずしも充分ではないこともあった。文中に妥当ではない字句があると、華安は自分でそれを適切に改めたのである。
公子は華安がうまく校正するところをみると大変驚いて

「あなたは生まれつき文の理(ことわり)に通じているのですか?いつ、そのような書物を学ばれましたか?」

と言うと、解元こと華安は

「私の学問なんぞは、もとより浅く狭いものです。ただ貧しかったので本は買えず、耳で聞いて覚えるのみでした。」

公子は大いに喜んで、自分の科挙の勉強のための宿題を、彼に添削してもらったのである。華安は休まず筆を振ったが、まさにこれ、”わずかな鉄をもって金に換える”という有様。問題の意味が難解な時などがあれば、華安は公子に解説してやった。まだ若い公子がうまく答案の論述を書けないでいると、華安が数編代筆してやったことさえあった。

公子を教えている師範は、公子の答案が良く書けているので、彼の学問が大いに進んだと思い込んだ。そして華学士に向かってその答案を見せながら「どうです。公子のご勉学もずいぶん進みましたでしょう。」と言い、自らの指導の宜(よろ)しきを誇ったのである。
華学士はその答案をしげしげを眺めると、頭を振りながら言った。

「先生、この文章は、せがれなどのおよぶところではありません。もし何かの書き写しでないのなら、きっと誰かに代筆してもらったに違いありません。」

そこで公子を呼んで問い詰めるに、公子はあえてつつみ隠さず言うに、というのは華安の才能人柄を、常々高く買っていたからでもあるが

「それは華安が添削したものです」

と答えたのである。

学士は大いに驚いた。かの者の学問はそれほどのものかと。そして華安を召し出して問題を出し、面前で試験したのである。華安はさほど考えるでもなく、筆をとるやすらすらと答案を書き上げ、手で捧げ持って学士に提出した。
学士は初めて親しく華安が文章を書くのを見たが、その手や腕は磨かれた玉石のように白く、また左手の指が一本多かった。

(訳者注)ここで”おや?”と思われる方もおられるかもしれないが、この説話の中では唐寅の左手に指が一本多い事になっている。ご存知の通り、祝枝山こと祝允明にはその六本目の指、”枝指”があったそうで、ゆえに”枝山”と号したのであるが、唐寅がそうであったという話はない。しかしこれが伏線になっているので、このまま訳出しておくことにする。

そしてその文を読んで見ると、詞(ことば)は意義と美しさを兼ね備え、文字はまた端整精緻な細楷で書かれており、これは逸材を手に入れたわいと、ますます喜んだのである。

華学士、嘆じて曰く

「そなたの八股文がこれほどのものであるのなら、以前にそなたが書いた文章も読んでみたいものだ。」

そしてそれからは自分の書斎にいれて、秘書としてつかったのである。

学士の寵愛と信頼は日に日に深まり、加増される俸禄は他の者より一層手厚かった。しかし華安こと唐解元、世の人の羨望、嫉視の怖さは骨身に染みていた。主人から目をかけられるほどに一層謹直に仕え、また朋輩との関係にも気を配った。もとより、下される給金などが目当てではないのである。時には酒や食べ物を買って、書斎の同僚たちと共に楽しんだから、喜ばないものとていなかった。そのようなときの華安は垢抜けて面白く、朋輩や童子達を飽きさせない。自然と、彼を悪く言う者は現れなかった。
そして折々に、かの青い服の少女を慎重に探ると、その名を秋香といい、婦人のそば近くに仕え侍り、片時もそばを離れない者であることが分かった。奥向きには男はうかつに入ることが出来ない。そういうわけでさすがの”解元”もなすすべもなく、巡り来る春の暮におもわず「黄鶯児賦」をもって歎ずるに

風雨送春歸、杜鵑愁、花亂飛、青苔滿院朱門閉。
孤燈半垂、孤衾半蒔、蕭蕭孤影汪汪淚。
憶歸期、相思未了、春夢繞天涯。

風雨は春の終わりをつげる。ホトトギスが啼き、花は乱れ飛び、青い苔は院に満ちるほど時が経ったのに、赤い門はひっそりと閉ざされたまま。
ひとすじの灯が半身を照らす。独り寝のしとねで寝返りを打つ、寂しく孤独な影がとめどなく涙を流す。あなたがいつもどるのかという約束は確かに憶えているというのに、互いの想いは果たされることなく、春の夢は天の涯(はて)をむなしくめぐり続ける。

という有様。

華学士はあるとき華安の部屋で、壁に掛けられたこの「黄鶯児賦」を目にした。華安の落款もある。よくできた閨愁賦であると、たいそう賞賛したものだった。しかし壮年の寡(やもめ)暮らしの手すさび、としたまでで、自身も決して鈍い人物ではなかったが、孤閨の嘆きに仮託した唐解元の想いには、つい気がつかなかったのである。

たまたま執務室の主管が病で亡くなり、学士は華安にしばらく主管の執務を代行させた。ひと月あまりが経ったが、お金の出し入れは慎んで無駄がなく、むろん豪も華安が横領するようなことはなかった。学士はついに華安を主管に据えたいと思ったが、まだ独り身で自分の部屋を持たないことを考えると、体裁の上でも、そのままでは大役を任せ難く思えた。自室を与えるのはわけないが、問題は嫁である。そこで夫人に相談し、媒酌人を呼んで妻を娶らせることにしたのである。

華安はここぞとばかりに銀三両を媒酌人の老婆に与え、懇懇と自らの意志を説いた。そのうえで老婆を通じて夫人に訴えるに

「わたしく華安めは、もったいなくもご主人様と奥様に拾っていただき、お部屋においていただき、その御恩の高きこと天地と同じでございます。ただお屋敷の外の名もなき家の娘をいただいても、おそらくはお屋敷の決まり事に疎(うと)いことが憚(はばか)られます。この華安の願いは、恐れ多きことながら、奥様のおそば近くお使いになっておられる方々のうち、おひとりを選ばせていただくことでございます!」

果たして華安こと、唐解元の願いはかなうことやら。

(続く)

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