唐解元一笑姻縁 (了)

夜が明けると、家人は華安の部屋の門が封鎖されているのを見て驚き、急ぎ学士にこのことを告げた。
学士が封鎖を解いて門を開け部屋に入ったが、整然と整頓された部屋の中に二人の姿はない。卓上に鍵がかけられた書類入れがあり、鍵も一緒においてあった。箱をあけると、書帙にとじられた三冊の目録がある。あつらえてやった家具や什器の類、贈物などは”毛一筋”ほども持ち出されていないことは、これら目録に照らして明らかであった。

学士は考えに沈んだ。二人が逐電したその理由は、まったくもって測りようがない。頭を振ってまた部屋を見渡すと、ふと、壁に書かれた八句の詩が目に入った。一通り読み、『主人若問真名姓,只在”康宣“兩字頭』の句を見て、はっと思った..........「華安の元の名は、康宣ではないな。」

しかしわからないのは、どんな目的でこの屋敷に来て、かくも長い間住んでいたのか?もし不逞の輩であったのなら、金目の物はのこらず持ち去っているだろうに。さらに不可解なのは、なぜ秋香が華安こと康宣に随って、一緒に逃げ去ってしまったのか?という事だ。またこの二人めは、いったいどこに逃げて行ってしまったのか?婢(はしため)のひとりぐらい、もとより惜しむものではない。しかしこの”椿事”を明らかにしたいものだ..............夫人の方も、寵愛していた秋香の身を案じ、その行方を求めるよう、学士に訴えてくる。

すぐに家童を呼び命じて、二人をとらえてきたものには必ず褒美を与えると言い、ひそかに各所へやったのである。むろん、使用人の頭(かしら)だつ人物が、夫人の侍女と一緒に逐電したなどというのは、公になれば家門の恥である。極々内密に処理をしたのは言うまでもない。
しかし華学士の家の者達は、方々康宣と秋香を探したのであるが、杳(よう)として行方が知れない。一年あまりがたつと、学士もそのまま放っておいたのである。

ある日、学士は蘇州の客人を訪ねた。閶門を過ぎたとき、家童がとある書店で、座って書見をしているひとりの秀才をみかけたのである。その容貌は華安に酷似しており、また左手に枝指があった。それを学士に報告したところ、学士はにわかに信じがたかった。そこでこの家童にもう一度行ってつぶさに見たうえ、その人の姓名を問うように言った。

家童は身をひるがえして書店に戻ったが、その秀才は、もうひとりの同輩と話をしながら、書店の側の水路の船着き場へ通じる石段を下りて行くところだった。この家童はなかなか抜け目のない者で、こっそり秀才等の後をつけた。その両名は船に乗り、舳(へさき)を転じるや潼子門にむかって去って行った。船上、付き従う従僕が四、五人。背後からその姿を観察したところ、あきらかにかつて屋敷にいた華安と”瓜二つ”なのであった。しかしあえて唐突に話しかけるようなことはしなかった。
家童は書店にもどり、店の主(あるじ)に、さきほど来て本を見ていた人は、いったいどんな人物なのか?と聞いたのである。

(訳者注)秀才、とは童試に合格した読書人の事を言うが、外出時にはそれとわかる、軽い衣冠装束が許される。

店主答えて

「あの人は唐伯虎、解元さまだよ。今日は文衡山さまと船で酒宴をするとかで帰っていったよ。」
「では、一緒に帰って行かれたおかたが、文衡山様で?」
「いや、そのお方は祝枝山さまさ、いずれ劣らぬ名士だがね。」

家童はそのいちいちを記憶すると、戻って華学士に告げたのである。
学士は大いに驚いた。唐解元、祝枝山、文衡山といえば、いずれも江南に響いた名士である。華学士とて、機会あれば知遇を得たいと願うような人物達である。心にひそかに思うに「唐伯虎といえば、奔放不羈と久しく聞いている。まさかあの謹直な華安が彼ではあるまいと思うが。明日行って唐伯虎どのに面会を求め、事の是非を確かめるよりない」
そして次の日、名刺をしたためると、特に呉趨坊に住む唐解元を訪ねたのである。

(訳者注)当時は手書きの名刺を書き、これを取次に渡して面会を請うのが礼儀である。

さて、唐解元、秋香と蘇州に戻り、祝枝山や文衡山等とともにふたたび楽しく暮らす毎日にあっても、時折、華学士府での日々を思い返していた。なにより、唐解元にとって初めての、そしておそらく二度と無いであろう”宮仕え”の日々である。このたびの場合、正規官員が自費で秘書や事務係を雇う、いわゆる幕僚稼業というものである。生来の物好きを刺激される経験ではあったものの、やはり上司の顔色を窺ったり、同輩の機嫌をとったりと、窮屈なものを感じてもいた。秋香を得る、という目的があればこそ、ほぼ一年にわたって勤め上げたのであるが、またやりたいかと言われれば「一度で充分」、という思いである。しかし考えてみれば、かつて自分が目指していたのは、このような生き方を、それこそ極める道なのである。もし京師で殿試に合格していれば、華学士府どころではない、複雑怪奇な宮廷政治の世界に生きなければならなかっただろう。

思えば自分が幸運だったのは、華学士がなかなかの人物、という事であった。かの夫人もまったく粋な方であった。華学士の威風が屋敷中に行き渡っていたためか、上司同輩にもさほどに佞悪陰険な人物はいなかった。本来の宮廷や官界は、こうはいくまい。横柄な上司、つまらぬ同輩や足をひっぱる小人ばらと、付き合わぬわけにはいかぬ。事実、あらぬ噂だけでもっても、投獄の憂き目を見たではないか。これで良いのかもしれない。息苦しい官員世界で、自分ははたして己(おのれ)を全う出来たかどうか。

解元、華学士に対しては、若干の、申し訳ないような気持ちを禁じ得ない。一片の筆跡でもって自分を拾い上げ、働きを認めて主管にまで取り立ててくれたのである。学士は我を蘇州の唐解元とは知らない。いわば無名の我の、その才を認めてくれたのである。これすなわち知己の恩とはいえまいか........?
といっても、主管の役割を放擲し、秋香を連れて出奔した件については、何ら後ろめたい事ではないと考えている。あくまで華学士に黙って出て行った事、これはやはり礼にもとるのではないか?というところにある。解元、決して礼儀にかたくるしい男ではなかったが、義侠心に篤いだけに、義理堅いところも多分にあるのである。

そんな事をつらつら考えている時、家童が面会を求める人物が来ているという事を告げ、一片の名刺を奉げてきた。唐解元が目にすると、懐かしいその筆跡は、誰あろう無錫の華学士である。
解元、学士になぜここがわかったのだとまず驚き、この男にしては珍しく少々慌てたものである。あるいは罪を問いに来たのだろうかと考えた。が、すぐに冷静さを取り戻すと、少し考えた。来訪の目的がまだわからないうちに、自分から決めつけるのは愚というものである。思えば華学士には、また会いたいという気持ちもあった。いつか真相を打ち明け、釈明する事があるのだとすれば、これも何かの機会なのだろう。学士の度量のほどを思い合せれば、自分が出て行けばなんとかなろだろうと腹をくくった。そして衣服をあらためて門に出迎えることにしたのである。

華学士、取次に名刺を渡して従僕とともにしばし門外に佇んでいたものの、果たしてかの唐解元が面会に応じるかどうかはわからない。自身、決して低い官職にはないはずだが、貴顕などはものともしない男であると聞く。唐解元が重んじるのは、あくまで文事の道についてであり、位階の高い低いではない。いままで面識がなく、人の紹介状もないわけである。不在でなくても、会いたくなければ居留守を使うだろう。それならその時の事である。

しかし取次の者が奥へ入ると、思いのほか待たされることもなく、再び取次の者が門外に出てきて言うに、主人自らが迎えに出るという。そして現れた唐解元の姿をみて、内心「あっ」と思ったのだが、ここで声には出さない。やはりかの華安こと康宣に瓜二つなのである。かたや唐解元、華学士の目を見張る様を見ても素知らぬ顔で、礼を交わすと愛想よく客間に招き入れた。

客間で主客を決めて座ると、学士は改めて再三つぶさに解元を見たが、どう見ても華安なのである。解元が茶を振る舞うに及んで、その手がやはり華安と同じく白玉の如く白く、また左手に枝指があることをみとめいよいよ確信したが、にわかには話を切り出しかねた。

当たり障りない話題で茶が終わると、解元は学士に「書斎でちょっと休みませんか。」と誘ったのである。学士は疑惑の霧が晴れないまま、しかしまた軽々しく断定も出来ず、一緒に書斎に入った。唐解元の書斎は塵ひとつなく、よく整理されてはなはだ端整な様子。華学士府の書斎も決してみすぼらしいものではなかったが、その文雅な趣味の高さははるかに解元の書斎がまさっている。学士が思わず「嘖嘖(ちっちっ)」と覚えず舌うちするほどに、賞嘆と羨望をおぼえるほどのものであった。

(訳者注)舌打ちというと、日本では「悔しい」という、ネガティブな意識表示に使うが、中国では現代でも讃嘆の念を表す時に使う。優れた書画骨董をみて舌打ちする、という場面はよくあるものである。

華学士が部屋を賞賛し、また筆硯などの文房四寶を賞翫するなどをしているうちに、奥から酒が出された。そこで客と主は、差し向かいで酒を飲んだ。
書斎で歓談するうちに、唐解元も華学士も次第に打ち解けてきた。酒が入ったことで、口もわずかに軽くなり始めてきたところ、ついに学士が言うに
「私が知る人物で、貴県の康宣というものがおりました。その人は読書をするも貧しく不遇で、それでいて文の理(ことわり)にすこぶる通じた人物でした。先生はその方をご存じでしょうか?」
しかし解元はただ「唯唯(Wei Wei)」と相槌をうつのみで、しかとは答えない。学士はまた重ねて言う

「この人は昨年、わたしのところで筆書の役にやとわれて、名を華安と改めました。まず息子につけて読書させたのですが、その後は私の書室で書物の書き写しをさせました。たいへん有能で正直であったため、のちに屋敷の主管に据えたのです。また彼には妻がいなかったので、数ある婢(はしため)の中から、自分で選ばせました。華安は秋香という女を選んだので、当家で婚礼を挙げてやりました。ところが数日後、夫婦ともどもいずこかへ逃げ去ってしまったのです。しかし部屋の中の調度、日用品は何一つ持ち去りませんでした。いったい何者だったのか?また当家に入り込み、逐電したその理由はついにわかりませんでした。私はかつて人をさしむけて、方々の貴人の宅を探らせたのですが、そのような人物はいませんでした。先生はそのような噂を聞いたことはございませんか?」

解元はまた「唯唯(ウェイウェイ)」と相槌をうつのみである。学士は解元がわかっているのか、わかっていないか、ただ胡乱(うろん)げに応えるのみなので、我慢しきれずまた言うに

「この人はすこぶる先生に似ており、また左手に枝指がありました。先生が知らないとすればなぜでしょう?」

解元はまた「唯唯」というだけである。学士は言葉を告げず、しばし互いに無言のまま盃を口に含んでいた。しばらくすると解元は身を起して奥へ入って行った。学士は振りむいて、書斎の机の上にあった書籍をめくって見ていると、本の中から一片の紙切れがおちてきた。手に取ると、そこに八句の詩が書いてある。これを読むと、これすなわち、かの華安の部屋の壁に描いてあった詩なのであった。

解元が奥から戻って出てくると、学士は詩の書かれた紙片を手に取って解元にたずねた。

「この八句の詩は華安の作った詩です。またこの筆跡は華安のものです。どうしてこちらの書斎にあるのでしょうか?きっと御縁があるはずです。お願いですから、先生、一言お答えになって、わたくしの疑問を解いてくださいませんか。」

「もうしばらくおまちください。きっと答えいたします。」

学士は心の中がますます悶悶として

「先生がわけを教えてくださるのでしたら、わたくしはまだしばらくおりましょう。教えていただけないのでしたら、これで引き取らせていただきます。」
「お教えするのはわけないことなのですが、さあ先生、味の薄い粗末な酒ながら、もう何杯かやってください。」

学士はまた数杯の酒を飲んだ。解元は大盃(おおさかずき)をささげてなおも勧めるのである。学士はすでに半ば酔っていたが、いうに

「お酒はもう充分です。もう飲めません。わたしくしはこうなんども教えを乞うているのですから、いいかげん教えてくださいませんか。わたしは胸中の疑念を晴らしたいだけであって、それで華安や康宣をどうこうしようとか、そのような存念ではないのです。」

解元は言う

「まあ、まあ、粗末なおかずですが、ご飯を少し召し上がってください。」

といって、飯を盛ってすすめ、食べ終わると食後の茶を献じた。もうすっかり夜になっていたから、童子が燭台に火をともして持ってきた。学士は、もう今日はこれまでと、ただ身を起して退散することを告げた。
解元は

「先生にはちょっと足を運んでいただき、お疑いのところをはっきりとさせましょう。」

そういって童子に命じて燭台を前にし、解元は学士の後ろに立って案内しながら後堂へ入った。堂内は燭台が煌々とかがやいている。内にむかって「新娘、おいで」というと、二人の丫鬟を従えて、ひとりの若い娘が、蓮の花びらのような小さなクツを軽やかに運びながら現れた。面(おもて)を伏せ、結い上げた髪に刺されたたくさんの玉飾りが重なって、その顔はしかとはみられない。
学士はおどろいて、すぐに別室に下がろうとした。解元は学士の袖をひいて言う「これは家内です。先生はもはや家族同然、まして目上の方ですから、お目通りいただくのが当然です。お厭(いと)いになりませんよう。」

丫鬟が毛氈をしきのべ、娘は華学士にむかって礼をした。学士はまた礼をかえそうとしたが、そこで解元が学士を抱きかかえ「まだ礼を返すには及びません」といって押しとどめた。そして娘が再び礼をする。そこではじめて学士は礼を返す。それを二度繰り返した。娘が華学士にむかって四度拝礼する、”四拝”の礼をうけるうちに、学士はただ二度ほど礼を返したのみである。これには学士、とてもきまわりが悪かった。

(訳者注) いわゆる”四拝の礼”である。”四拝”で単に重い礼、という意味もある。

拝礼が終わると、解元は娘を携えて学士の側にひきよせ、笑いながら言うに「先生、じっくり確かめてください。まさに私は華安にそっくりだし、この子はまた秋香ではないですか?」学士はあらためてつぶさに二人を見ると、なるほどそうかとわかり、おもわず大笑いをしたあと、あわてて取り繕い、不作法をあやまった。
解元はいう

「いえ、かえって私が罪をお話ししなければなりません。」

二人はまた書斎にもどり、解元は家童に命じて、盃と酒肴をふたたび整えさせ、盃(さかづき)を洗って更に酌んだ。酒を飲みながら、学士は解元が華学士府へ来るまでの、いきさつの詳細をたずねたのである。そこで解元は蘇州閶門の船中で秋香をみそめてからの、顛末の一切を詳しく話したのである。そしてそれぞれ手をうって大笑いをした。
学士は言う、

「今日この機会がありましたからから、あえて”子婿之礼”をとらせていただいたのですか。」

(訳者注)「子婿之礼」はすなわち、女婿が岳父(舅)に対する礼である。

「このように舅(しゅうと)と婿(むこ)の礼を執り行いました上は、おそれれながら、舅殿が”化粧箱”のために散財されるのが心配です。」

(訳者注)化粧箱:花嫁の実家から、化粧品など女性の日用品を詰めた箱を嫁ぎ先に贈る習慣があった。

そこでまた二人はまた大笑いをした。そして歓をつくして別れたのである。
学士は帰りの船の中で、袖の中からくだんの紙片を取り出して卓上に置き、その詩の意味を繰り返し味わった。

「首連に言う”擬向華陽洞裏遊”は、これは茅山にお香をあげに行くことだな。”行蹤端為可人留”とは、ふむ、秋香に出会って、わが屋敷にたどりつくことか。第二連の、”願隨紅拂同高蹈,敢向朱家惜下流。”はまさに身を身を屈めて屋敷に入り込み、目的を果たせば機会をとらえて逃げ去ることだな。”好事已成誰索笑、屈身今去尚含羞。”は、なるほど目的を果たしたのだから、身をやつしたことも恥ずべきことでない、ということか。末連の”主人若問真名姓,只在『康宣』兩字頭。”.....これは、なるほど唐寅の『唐』と康、『宣』と寅、それぞれ頭の部分の筆画が同じであるということか。私は今日話を聞かなければわからなかったが、解元殿のこのたびの一挙、”情痴”とも言うべきものかもしれぬ。が、与えられた衣服調度をひとつも持ち去らず、今日は今日で、礼を尽くしたもてなしの数々、まったく礼儀にもとらず、畢竟、風流の名士に違いない。図らずもこうして誼(よしみ)を結ぶことが出来たのは、望外の幸運ではあるまいか。」

学士は帰宅すると、この出来事を夫人に語った。秋香の行方を案じていた夫人もまた驚き喜んで、化粧道具衣装その他、立派な箱につめ込み、千金の値もしようかというものをあつらえて、老姆姆を差し遣わして唐解元の家に送ったのである。
このときより両家は親戚付き合いを始め、往来は絶えず、今に至るまで蘇州一帯ではこの風流な故事が語り継がれることになったのである。

まさに唐解元、その「焚香默坐歌」に、このようにうたっている。

焚香默坐自省己 口裏喃喃想心裡
心中有甚害人謀 口中有甚欺心語
為人能把口應心 孝弟忠信從此始
其餘小或出入 焉能磨涅吾行止
頭插花枝手把杯 聽罷歌童看舞女
食色性也古人言 今人乃以為之恥
及至心中與口中 多少欺人沒天理
陰為不善陽掩之 則何益矣徒勞耳
請坐且聽吾語汝 凡人有生必有死
死見閻君面不慚 才是堂堂好男子


香(こう)焚(た)き、座組み、静かに己(おのれ)を省(かえり)みる
口の中にはふつふつと、心に浮かび、想う事。
心中、人を害する謀(はかりごと)、いかほど秘めていようとも
口中、心を欺(あざむく)、綺麗ごと
人間、心にあること口に出し、人に語るというけれど
孝行、兄弟、忠信義、まさにここからはじまった。
そのほか小さな徳目も、口の中から出入りする。
どうして熟考思慮のうえ、わが行いを止めようか。
頭に花挿し、手には酒
歌うをやめさせ、舞いをみる
酒食も色も人の性(さが)、孔子さまもおしゃった
今人(きんじん)、これを恥とする
すなわち、心と口の、食い違い
いかほどであれ欺(あざむ)くは、天の理(ことわり)、反すもの
陰(かげ)では悪事、陽(ひ)にかばう
なんの益なし、徒労のみ
汝(なんじ)座(ざ)せ、静かに我が語を聞くがよい
”すべからく、人は皆生き死ぬるもの
死して面前、閻魔さま、慚(はじ)いることがなかったら
それこそ堂々、快男児”


終。


(訳者評)

最後の下りで、唐解元が秋香に「四拝」の礼を執らせ、自身も華学士にたいして舅と婿の礼を執り行った、という事になっている。すなわち秋香を華学士の養女という事にして、唐寅を婿、という格好に改めたのである。なぜなら以前華安は使用人であり、あくまで使用人に侍女を娶らせる格式で婚姻を結ばせたからである。しかし唐寅も歴とした読書人の家柄であるから、華学士の侍女を「降嫁」した格好ではつり合いが取れない。嫁ぎ先の家格と合わせるため、侍女や縁者をしかるべき身分の者の養女とすることはしばしば行われていた。これで晴れて秋香は華学士夫妻の娘、ということになったから、華夫人も娘に贈るように「化粧箱」を送ったのである。この辺はいかにも封建的ではあるのだが。

また前述したが、史実では、枝指で有名なのは祝枝山であって、唐寅ではない。この話では、そこが華安が唐解元であると確信させる、話の伏線でもある。著者は単に容貌が似ている、とするだけでは不十分と考えたのかもしれない。枝指は現代では手術で成形してしまう事が出来るが、儒教道徳の世界では、親からもらった体を損なうのは不孝の極みである。また当時はそのような珍しい身体的特徴は、かえって尊ぶような気分もあった。しかし個人的には、華安かどうかを確かめるには、容貌の他には筆跡など、他の手がかりで良かったのではないかと思う。祝枝山(祝允明)という者がおる以上、唐寅に枝指をもたせるのは、やや蛇足のようでもある。

往年の映画「覇王別妃」の冒頭、京劇の劇団に息子を売る母親が、息子に枝指があるから駄目だと断られたため、その枝指を切り落とす凄惨な場面がある。その息子は女形に天与の才があったのだが、あるいはそうしたところを演出したかったのかもしれない。

「唐解元一笑姻縁」の著者は明代の劇作家でもあったので、ストーリーは芝居仕立てなところがある。華安が秋香を選ぶ場面や、華学士の唐寅宅での唐寅との掛け合いも、いかにもお芝居の一幕のようである。物語の山場は華学士府で秋香を選ぶ場面であろうが、最後の華学士との懇談も面白い。まずは歓迎の上で打ち解けてたっぷり飲ませ、学士の気持ちをほぐしてから真相を明かす、一種社交の巧みさである。ちなみにこのときの二人のやり取り、原文では自称を「学生」、あいてを「先生」と呼んでいる。

また蘇州から無錫への移動、また蘇州城内の移動など、もっぱら水路と船が使われる、当時の江南風土の感じを味わいたい。

封建社会だけに、いかに唐寅といえども、階級社会に根付いた儀礼の数々に無縁というわけにはいかない。しかし最後に掲げられた唐寅の詩にあるように、要は「自分の心に正直に生きましょう。」というのが、この説話の言いたかったことなのかもしれない。ただその場合、多くは封建秩序に反するような結果を招くものである。それを封建倫理の面からも「大大円」にまとめているところなどは、やはり”時代”というべきなのであろう。日本の江戸時代であれば”駆け落ち心中”の方がウケたかも知れない。ともあれこのような、階級社会に風穴をあけるようなエピソードというのは、戯作のかたちで庶民に好まれたのだろう。いうまでもなく、この物語の中の唐寅は多分に虚構の唐寅であるのだが。

秋香のモデルとなった女性はいたのだろうか。項元汴の「蕉窗雜錄」に、「一笑姻縁」の原型となる逸話があるというが、この部分の考察は別の機会に譲りたい。
史実では、やはり殿試の不正事件に連座投獄されたあと、帰郷して後はしばし荒れた生活を送っていたという。このころ文徴明に宛てた手紙にも、当時の唐寅の家庭の不和や窮状などがうかがえるものがある。

祝允明が撰した唐寅の墓誌銘に拠れば、唐寅の妻ははじめに徐氏、次に沈氏である。徐氏は唐寅が会試にまつわる事件で投獄され、帰郷後、出世の望みのなくなった唐寅を見限って実家に戻ったと言われている。墓誌銘には書かれていないが、徐氏の前に妻がひとりいたが死別していることが、唐寅が文徴明に宛てた手紙の記されている。
徐氏の次の妻は沈氏である。彼女は蘇州の名妓にして、唐寅の沈九娘として夫の創作活動を支え、名を残す女性である。清朝の羅聘と方婉儀のようでもある。この沈九娘との間に娘が一人生まれる。この娘は唐寅に私淑していた著名な書家、王寵に嫁ぐ。沈九娘は唐寅に先立ってこの世を去るが、その後唐寅は妻を娶ることはなかった。

戯作の世界での唐寅は、裕福な艶福家としてしばしば描かれる。唐寅、妻妾が八、九人もいたと言うが、この沈”九娘”が転じて「九人の娘(妻)」となったと考えられている。しかし現実は、若いころはともかくとして、父親の死後、家計は常々窮迫していたから、とてもそんな余裕はない。文雅の知己ともいうべき沈九娘を娶った後は、いたって清貧に甘んじていたという。
程々裕福な家庭に生まれた者が学問芸術に耽ったのだから、親の死後、家業が傾いて窮状にいたった次第は推して知るべしである。祝允明撰の墓誌銘に「財貨を糞土とみなした」ともあるが、このあたりの気質も影響したのだろう。

数年前、唐寅自筆の「焚香默坐歌」が、北京嘉徳のオークションに出品された。梅景書屋旧蔵、呉湖帆の鑑識の題字があるが、個人的には疑わしいと考えている。
 
落款印01


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