新老坑硯五面

確実に使える硯をそろえるのも難しい時代になってきた。現在、かなりの勢いで、かつて日本に大量に輸出された硯が大陸に還流しているという事情もある。
昨今の日本人は、硯で墨を磨らなくなったので、大陸に硯が帰ってゆくのは良いのではないか?と考える向きもあるだろう。それもそうかもしれないが、大陸の硯が帰ってゆくばかりではなく、日本で採石された硯石で造られた和硯も、産業としてもはや風前の灯という有様である。
こういった現状を嘆かわしいと思うか、いやいやこれも時代の流れですよ、と達観できるかは人それぞれだろう。しかしこの”コンピューター”万能の時代に、毛筆を手に取って墨でもって紙に字を書こうなどという、はなから時代錯誤な事をものする人であれば、少し立ち止まって考えてみるくらいのことは、あってしかりなのではなかろうか。
新老坑
端溪は旧坑洞はすべて閉鎖されてしまったので、現在採石されるのは沙浦ないしは旧坑のある斧柯山から見て西江の対岸にある、いわゆる北嶺の硯石ばかりである。宋坑など、それなりに歴史のある坑洞も存在するのであるが、いかんせん質が粗慢な点は否めない。宋坑にしても沙浦にしても、使っているうちにどんな良い墨を使っていても硯が黒ずんでゆくのがいただけない。しかも鋒鋩も概して弱い物なのである。
大陸の市場では、新しい端溪硯として流通するのはこうした北嶺の石ばかりであるから、良質な硯石をもとめようと思えば日本で探すよりないところである。

とはいえ実のところ、現在大陸でさかんに硯を蒐集している人々の多くは、墨など磨らない。いまの中国で、ある程度お金に余裕のある階層と言うと、やはり50歳代以上、60代が中心なのであるが、彼等は書をやるといってももっぱら墨汁を使用する人々である。また墨を磨るどころか、書をたしなむようなこともない者も多いのである。
墨汁を多用する傾向は70年代から強まり、文革を経て、現在の名の通った書画家のほとんどが墨汁専家である。ゆえに大陸の現代作家の作品などは、いくら有名でも買わない方が無難である。
しかしながら20代から30代の若い人は、何に啓発されたのか、墨を磨り始めているという事実があるのも、見逃せない動きである。良質な硯石をもとめるのも、多くは若い人達である。それ以外の、蒐集の中心となっている中高年層は、やれ在銘硯とか、著名人の持ち物であったとか、硯譜に載っているだとか、日本の古い図録に掲載されているとか、箱が立派だとかが評価基準である。要は硯の本質などまるでわからない人々の集まりで、自慢できるような品、売りさばくときに売りやすいような硯が欲しいのである。

ところで日本では、若いグラフィックデザイナーの中には、コンピューターグラフィックスではなく、筆や刷毛でもって、手書きで仕事をするような人も増えてきているという話も聞く。この動きは、少し注目していいかもしれない。
おもえばここ半世紀、コンピューターは目覚ましい発展を遂げてきた。ひと昔前は、コンピューターは貴重で高価なものだった。大枚をはたいてやっとの思いで購入すれば、それはそれは今まで何日もかかって処理していた仕事が一瞬で終わることもあった。コンピューターを使いこなせなければ仕事がなくなるという、一種の強迫観念すらあった時代を経てきた人からすれば、なんでもコンピューター化、デジタル化しなければ、という意識が強いのも無理はない。
ソフトウェアで書道や水墨画のような効果が可能なツールが開発されたのも、あるいはこうした時代の産物であろう。
新老坑
しかし、かつて電卓がそうであったように、個人用コンピューターの価格がどんどん下がり、学生でも持っているのが当たり前という時代である。否、ただの携帯電話すら、十数年前の個人用コンピューターの性能をはるかに上回るのである。いうなればコンピューターが当たり前の時代になったところである。操作性も洗練され、ソフトウェアなどはほぼ無料で手に入る時代である。このような時代、かえって人間の手業が当たり前でなくなってきた、という事なのかもしれない。
あるいは今の若い人は、物心ついたころから、コンピューターが身近にあり、すでに珍しい物ではないので、コンピューターを使ったものに、さほど強い関心を持つようにはならないのかもしれない。ゆえにコンピューターグラフィックスなどはいくらリアルでも当たり前すぎて、かえって手書きが良い、という事なのだろう。むしろコンピューターの急速な発展と威力を目の当たりにしてきた今の中高年の方が、コンピューターを特別視し、ありがたがる傾向があるのかもしれない。

少し前、人工知能の囲碁ソフトウェアが、囲碁の世界チャンピオンに勝利して大騒ぎになった。これをもって、コンピューターが人間の知性を上回った、いやいずれ上回るなどという、まことにはやまった話も聞かれる。世の中、粗忽者は小生だけではないらしい。
しかしかつてチェスの世界チャンピオン、カスパロフ氏がチェス・コンピューターに敗れたのは1997年の事である。これは忘れられてしまっているようだ。チェスはただの遊戯ではなく、西洋においては”知性の証し”とも言うべき文化であり、コンピューターに人間のチャンピオンが敗れるなど、あってはならないことであった。当時、欧米の知識人は相当な衝撃を受けたはずである。それから20年後の今、囲碁のチャンピオンが敗れたからといって、計算能力の拡大の速度を思えば、さほど不思議な事ではないはずである。

人工知能のビジネスに投資している人々からすれば、派手に宣伝した方が資金を集めやすくていいのだろう。しかし”ニューラルネットワーク”という、囲碁の人工知能に使用されたアルゴリズムはいたって昔からあるものだ。別段、革新的に新しい技術というわけではない。囲碁コンピューターを開発した”グーグル”のエンジニアが、持ち前の膨大な計算資源を集中して、かろうじて人に勝ったというのが実情なのである。また人工知能は過去に人間の対局で生み出された膨大な局面を記憶、学習してはじめて強くなれるのであり、いうなれば敗れた囲碁のチャンピオンは、囲碁の歴史そのものと対局したようなものである。
囲碁にしろチェスにせよ、あるいは将棋にせよ、局面の情報は相互に完全であり、かつ偶然が入り込む余地はないままに手順にしたがって進行する。こうした事柄に限っては、処理速度の速い計算機がいずれ有利になるのは当然と言えば当然である。

しかし、人間の特定の能力を計算機が上回る、という点では、はるか昔に電卓の計算速度がこれを達している。電卓が人間の暗算能力を上回ったところで、電卓が人間の知性に勝った、などと考えるのであれば、それこそその人の知性を疑いたくなる話になる。あるいは写真機が普及し始めた頃、画家は必要なくなる、などという論がなされたのと同様の話ではなかろうか。いつの時代も粗忽長屋のような世間があり、実のところを知らない人が大勢いるもので、たしかにちょっとした騒ぎにはなるのだろう。

いずれ人間の仕事のある部分は、人工知能にとって代わられる、という話もある。それはあるいはそうかもしれない。人工知能によって自動車の自動運転が可能になると、タクシーの運転手は必要なくなる、というような話もある。しかしすでに、航空機の操縦は離陸から着陸まで、自動運転が可能なのだそうだ。それでもパイロットが必要なのは、不測の事態に備えるのもそうであるが、離陸をするかしないかの判断は人間にしか出来ない、という事なのだという。
しかし離陸するべきかどうかの助言をコンピューターがするくらいの事には、すぐになるかもしれない。過去の経験を蓄積し、現在の状況と照合して少し先の未来を予測する事という事が、コンピューターにも可能になって来るからである。
いうなれば、人間の独壇場であったはずの、経験を必要とする高度な判断......これが人工知能に可能なってしまう、という事である。ひとりの人間が、その限られた個人的経験に照らして判断するよりも、膨大なデータを集積、分析できるコンピューターの方が、より的確な判断が可能なになるかもしれない。そうなると、現在のいわゆる”ホワイトカラー”の仕事も、多くは陳腐化されてしまう可能性もある。
そういった時代に、人間の営みとしていったい何に価値があるのかという事は、少し立ち止まって考えてみるのも良いのかもしれない。
新老坑
現代は、書も大半はデジタル化されて流通している。書かれた作品が画像データとなり、インターネットを通じて拡散しているのである。あるいはお酒などの商品に使われている毛筆をつかった”書文字”も、一度はデジタルデータになってから印刷されている。いっそ、墨を使って書くのではなく、初めからコンピューターを使って書いてはどうだろうか......と思っていたら、そういうソフトウェアは既にいくつかあるそうな。もっとも、そういった書は”本物の作品”ではないし、あくまで広告やパッケージのデザインに使うものだ、という話もある。
しかし、やろうとおもえば”それらしい”作品を書くことが出来るソフトウェアも開発は可能だろう。墨の滲みは拡散のアルゴリズムでシミュレート出来るであろうし、”線の揺らぎ”といった偶発性の再現なども、計算機の得意分野である。高解像度のインクジェットプリンタで宣紙に印刷されれば、手書きとほとんど見分けがつかなくなるだろう。

いやいや違う、本物の書は、何百枚も書いて一枚を選ぶから価値があるのだ、という事も聞かれる。しかし怒られるかもしれないが、それはもはや強弁に近いものがある。パラメーターを少しづつ変えながら、いくつものパターンをシミュレートする作業というのは、現在のコンピューターは得意分野なのである。それこそ数千、数万通りの出力を一瞬で吐き出すことも可能であろう。
リッター単位の墨汁を用意し、何百枚も書いて偶然の一枚を選ぶ式の手法など、そのうちソフトウェアの書いた書と大差のない事になるかもしれない。少なくとも素人目にはわからないであろうし、世の中の大半は素人目なのである。
コンピューターの書いた書を床の間にかけて楽しいかどうかはともかくとして、商業的な場面ではこれで充分、と考える向きもあるかもしれない。速度や効率という角度から価値を考えている限り、人間がコンピューターに勝てるものではない。

時間が無いから墨汁を使う式の書は、いうなれば効率、経済性の追求である。効率を求めている時点で、自らコンピューターに敗北する道を選んでいるようなものである。このような時代に、毛筆でもって字を書くという行為を、もう少し考えなおさなければならないのだろう。無条件無前提に”書”というものが価値を有していた時代ではもはやない、といっても言い過ぎではないのだから。

迂遠なようでも硯を洗い、紙を選び筆を選び、墨を丹念に磨って準備し、心静かに書をものす。そこに現れる満足感や充実感というのは、それこそコンピューターなど入り込む余地など無い。この価値がある限り、書は人間のものでありつづけるだろう。墨を磨る意味がわからない人間が、しかし毛筆でもって字を書く価値だけはわかるというのは、まったくもって本末転倒な話なのである。
新老坑
それはさておき、今回の新老坑硯である。いままで出してきた小さな硯よりも、一回り以上大きなサイズになる。小さな硯も手軽に使えるのでもう少し扱いたかったが、資源は有限である。ついに尽きてしまったのである。それらを集める過程で、ある程度の大きさの硯も集まった。その一部を今回販売するに至った次第である。
墨としては、一般的な唐墨の二両装(鐵齋翁書畫寶墨などの一般の大きさ)、ないし和墨の四丁型の墨も磨る事が出来るだろう。古硯に多い形状として、特別墨池といったものは掘られていない。そのかわり硯面が軽く凹面になっており、中央に墨が集まる仕組みである。まさに陸放翁の「古硯微凹聚墨多」というわけである。しかしこの形状には実用上の意味もあって、磨った墨は”焦墨”といって、少し乾かして濃度を高めてから使う事がある。このような使用法では、硯面に墨を広げて少し水分を蒸発させ、中央にたまった濃い墨を使う事が出来る、こうした墨池の無い硯が便利なのである。扱いに慣れておくと、技法上でも後々応用が利くであろう。

仕入れ段階ではすべて箱が無かったのであるが、箱の無い硯というのも寂しいので、漆の箱をつけてある。この箱は中身の硯に応じて少し古色をつけた仕上げになっているから、目に馴染むのも早いことかと思われる。

何度も繰り返しているが、新老坑は旧坑系(麻子坑や坑仔巌、老坑)の中でも優れた硯材を産出しており、唐墨から和墨まで多くの墨に対応するので、現代における実用性は老坑水巌に勝るかもしれない。なまじい、麻子坑や坑仔巌をもとめると、いまの市場にある多くは沙浦の中で似た硯石を選んだいわゆる”新麻子坑”や”新坑仔巌”である。その点、”新”がついても新老坑は、まぎれもなく斧柯山の硯石である。

価格は小さな新老坑硯よりは高価になってしまうが、考えてみれば硯はほとんど消耗することが無いわけである。これから20年、30年使う事が出来る。
今は消耗品の紙や筆を買うのにお金がかかって精一杯だから、いつか買おうというよりも、長い付き合いになるのだから、初めに買っておいた方が良いのが硯なのだ。
また使い終われば誰かに譲ることも出来ると思えば、消耗品の高い紙や墨や筆を買う事に比べれば、さほどの事はないのである。ろくでもない硯はいずれ二束三文になるかもしれないが、きちんとした品であれば、値が騰がっている事はかならずしも無いにしても、それなりの値はつくものである。その差額分、楽しんだ時間で割れば、実は硯がもっともお金がかからない道具である事がわかるであろう......おっと、こうした考え方こそ経済的合理主義か。

ともかく、そのような硯しか店としては扱いたくはないものだ。

落款印01


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