祝允明 唐子畏墓誌並銘

明代の文芸文化の発展が宋代のそれと異なっている点のひとつに、著名な詩人、書画家のうちに、官界での職位の高い者があまり見られない、と言うところであろうか。無論、官界での出世が、詩文書画の実力に相関などあるはずがないのだが、宋代の場合、欧陽脩や梅尭臣、王安石を始め、司馬光、蘇軾兄弟など、政府高官に詩人や名文家、書法に長けた者を多く輩出している。これは宋代に入って急に増えた知識人達を養うのに十分な経済が、まだ十分には発達していなかったことが理由にあるだろう。貴族制から脱し、地方の地主階級を中心として新たに知識人階級が勃興したが、蘇軾や王安石のような中央政界の高級官僚ですら、一度失職すれば自給自足でもするよりなかったのである。官途に無縁なまま、大家族を養いながら著作に専心するのは難しかったのだろう。政界に縁遠い黄庭堅も国立大学の学長ではあったし、自由不羈とみられる米芾ですら、地方の低い官職を転々としているのである。

明代に入ると、宋代とは逆に国政レベルの政治官僚や、地方太守といった権力者層に、見るべきほどの文化人が現れなくなる。祝允明や唐寅の生きた明代中後期の江南地方は、商業、文化が爛熟し、知識人の子弟のうちには官吏とならずとも、文筆でもって生計を立てることが可能な者が現れたのである。

こういった人士達の出現は、王朝時代においても社会が安定し、経済が活発な一時期に限られる現象である。明代の中〜後期は、遠く新大陸南米からの銀の流入により江南経済が過熱し、ありあまる経済力が文化面にも注がれたのであった。同様の現象は清朝初中期の江南でも塩業を基礎として再現し、袁枚や揚州八怪といった専業文化人が現れた。

祝允明自身は地方試験に合格し、”挙人”の資格は得たものの、唐寅と同様、ついに進士には及第しなかった。一度広東で県知事を務め、南京応天府の通判も務めてはいるものの、宮仕えに嫌気がさして以後はもっぱら蘇州にあって筆墨で生活したのである。

家譜の序文や碑文、銘文、特に墓誌銘を依頼されることが多かったが、内容は依頼者の注文通りに書いてやったと言う。墓誌銘には決まった形式があり、故人に好ましからざる所業があったとしても、むろんそれは書かない。せいぜい依頼者が喜ぶように美文で飾り立ててやるのである。依頼人は名高い祝允明の撰であるという事で大いに孝養をたてたつもりで、また世間への体面も良い。当の祝允明としては、こうした作文は潤筆料目当ての”応世の文”であって、自分の節義とは何ら関係ないのである。

 

この祝允明のような処世態度は市中の隠者、いわゆる”市隠”というべきものである。すなわち市井にあって俗世間と付き合い、生計を立てながらも節操はかえない、というところである。むろん”市隠”というような生き方は、教養を積んだ知識人のあり方としては社会に対してやや消極的、と言う向きもあろう。さりながら、祝允明は少し後の王陽明のように、後の社会に影響を及ぼすほどの哲学・思想家ではなかったとしても、やはり時代の文化を代表する人物なのであった。

数ある”祝允明撰”の墓誌銘であるが、この唐寅の墓誌銘はとりわけ異彩を放ち、哀切で胸を打つ内容である。これは唐寅の弟、唐申(子重)の依頼で書いている。 墓誌銘は故人の行状を依頼人に聞かなければ書けないが、祝允明は唐寅が十代のころから弟のようにかわいがっていた人物である。科挙の不正事件への連座もふくめて、唐寅の生涯を身近に目の当たりにしていただけに、時にその筆致は生々しい。祝允明にとっては、この墓誌銘は”応世の文”の類などではないだろう。唐寅の女婿である能書家の王寵がこれを浄書したというが、筆跡は伝わらない。 祝允明は墓誌銘の他、「哭子畏二首」「再挽子畏」の詩を作り、唐寅の死を嘆いている。

 

”墓誌銘”はすなわち墓誌と銘からなる。以下に大意を示す。



唐子畏墓誌並銘   祝允明



子畏(しけい)死す、余、歌詩(かし)を為し、往(ゆ)きて之を哭(こく)し慟(なげ)く。將(ま)さに葬(ほうむ)り、其の弟、子重(しちょう)、銘を為さんことを請う。

子畏、余の肺腑(はいふ)の友、子重に微(あら)ずも且(か)つ之を銘す。

ーーーー子畏が死んだ。私は詩をつくり、弔いに行って彼の死を嘆き悲しんだ。埋葬するに際して、その弟の子重は私に子畏の墓誌銘を書いてくれと頼んだのである。

子畏は私の心からの友人であり、たとえ子重に頼まれなくともこの墓誌銘を作るのである。



子畏の性、穎利(えいり)に絶し、千士(せんし)に度越(どえつ)す。

世の所謂(いわゆる)穎者(えいしゃ)、數歲にして能く科舉の文字を為し、童髫、科第に中(あ)たり、一日、四海(しかい)驚き之を稱(しょう)す。

子畏不然(しからず)、幼きより書を讀(よ)み、門外の街陌を識らず、其の中に屹屹(きつきつ)として、一日(いちじつ)千里の氣(き)有り。

ーーーー子畏(しけい)は生まれつき大変に賢かった。それは千人の士大夫の上に出るほどのものであった。

世のいわゆる賢い者というのは、数歳で科挙の答案を書く事が出来、まだ童形(どうぎょう)のうちに科挙に及第し、一日にして四海(しかい:世間中が)皆(みな)驚いてこれを賞賛する、というものである。

しかし子畏は違った。幼いころから本を読み、家の外の世間を知らず、(家と書物の世界の)中(うち)に孤高を守って、高い気概を保っていた。



友一人に或(とらわ)れず、余(よ)之を訪ねるに再(さい)、亦(また)答えず。

一旦(いっせき)、詩二章を以て余に投じ、傑特(けつとく)、之の志は錚然(そうぜん)たり。余亦(また)詩を以て報い、其の少しく舒を弘げるを加うるを勸む、萬物の轉高(てんこう)轉細(てんさい)を言い、未だ華峰の都聚を建てるべきを聞かず。惟(おも)うに天の極峻にして且つ無外、原(はじめ)て萬物の宗と為すが稿(ごと)しと。

子畏始めて肯可(ていか)し、久しゅうして乃ち大契す、然れど一意に古豪の傑を望み、殊(こと)に場屋(じょうおく)の事に不屑(ふせつ)す。

ーーーー友人は一人にとどまらなかったが、私が幾度か訪ねても、ろくに返答がなかった。

あるとき、二章の詩を私に寄越したのであるが、詩には彼の抜きんでて高い志が鳴り響いていた。 そこで私は彼にもう少し視野を広げるように進め、万物が変移流転するさまを説き、(喩えて言えば)眺めるには立派だがとても険しい山峰に、大きな都会が建設されるという事はまだ聞いたことないと言った。 (また喩えるなら)天は高みの極地にありながら、(その広がりは)極まりないものであり、それではじめて(老子の言う天道は)”万物の宗”となるがごとくである、と言った。 (つまり才能があってもそのように孤高を守っていては、大成しないよ、と説いたのである)

子畏は始めて納得し、しばらくして大いに意気投合した。しかしひたすらに古(いにしえ)の豪傑のように生きる事を望み、とくべつ科挙の事には関心を持たなかったのである。



其の父廣(とくこう),賈業し而つ士行す、將に子畏を用いて家を起こさんと、舉業(きょぎょう)に到り、歸して子畏を教える、子畏、父の旨に違(たが)うを得ず。

廣、常に人に語るに、此の兒は必ず名を成さん、家を成し難き殆(あや)うきや?父沒(ぼ)っすも、子畏猶(な)を落落(らくらく)。

一日、余之に謂いて曰く“子、先志を成すを欲さば、當(まさ)に且つ時業に事し、若(も)し必ず己れの願に從わば、便ち襕襆(らんぼく)を褫(はが)し、科策を燒くべし。今徒(いたずら)に泮廬(はんろ)に籍名(せきめい)し、目に其の冊子を接(う)けず、則ち取舍(しゅしゃ)奈何(いかに)”

ーーーー彼の父の徳廣は、商いをしながら、読書人の務めもしていた。子畏をもって家運をもりたてようと考え、(自ら)科挙の八股文を学び、子畏にこれを教えた。子畏は父の意志に従うしかなかった。

徳廣は常々人に、此の子はかならず名を成すだろう、大家を成すのは難しくないだろう、と言った。(しかし)その父が亡くなっても、子畏はまだうだつがあがらないままであった。

ある時、私は彼に言った。「君、志を実現したいというのであれば、まずあわせて生計を立てる道に専念すべきだ。もし念願がかなったら、そのときこそ官服を脱ぎ捨て、科挙の参考書など焼き捨ててしまえばいい。いまいたずらに学校に在籍しながら、教科書を読もうともしない、その選択はいかがなものか。」と。



子畏曰:“諾。明年當(まさ)に大比(だいひ)、吾れ試みて一年を捐(けん)じ力(つと)めて之を為さん、若し售(う)ること勿(な)ければ、之を一擲(いってき)する耳(のみ)。”即ち戸を墐(ふさ)ぎ交往を絶し、亦(また)時輩の講習を覓(もと)めず、治むるところの毛氏の詩と所謂(いわゆる)四書の者を前に取り、翻討(ほんとう)擬議(ぎぎ)、祗(まさ)に時義に合うを求める。

ーーーー子畏が言うに「わかりました。来年はちょうど郷試があります。私はためしに一年をささげて科挙の勉強に努力しましょう。もし合格しなければ、それをなげうつだけのことです」すなわち門戸をふさいで交友を絶ち、また当時の八股文教師の講義などは受けず、毛詩(詩経)を修得した者と、いわゆる四書を学んだ者とを前に、繰り返し討論し、文の意義を考え、それが現代においてどのような意味を持つか?という事を追求した。



戊午、應天府に試し、錄して第一人を為す。己未、會試に往く。時に傍郡に富子(ふうし)有り、亦已(すで)に鄉に於いて舉(あ)げ、子畏を師慕す、載りて與俱(とも)に北す。

既に試に入り、二場の後、富子に仇(あだ)する者有り、朝に於いて抨(はじ)き、主司(しゅじ)と私(わたくし)有りと言い、並(なら)んで子畏連(つら)なる。

ーーーー戌午の年、応天府(南京)の郷試を受験し、首席で合格した。(翌年の)己未の年、会試を受験しに(北京へ)出かけた。時に近郊の郡に資産家の子がおり、すでに郷里で郷試に合格して挙人になっていたが、子畏を師と慕い、乗り物に一緒に乗って北(の北京)へ行った。

試験が始まり二次試験まで進んだところで、この資産家の子に恨みを持つ者がいて、宮廷の場で弾劾して、(彼が試験監督である)主司と私的な関係があると言い、一緒に子畏も関連があるとされた。



詔(みことのり)を馳(は)せて禮闈(れいい)に敕(めい)じ、此の主司(しゅじ)閱卷を得(え)ざらしめ、亟(いそ)ぎ富子及び子畏を捕えて詔獄(しょうごく)に付し、主司を逮え出し、同じく廷に於いて訊(とが)む。

富子既に承し、子畏は辨を復さず、與(とも)に罰を同じく、浙藩の掾に黜(しりぞ)ける、歸りて往かず。或(ある)いは少(しば)らく貶(おとしめ)るを勸(すすむ)も、異時(いじ)亦(また)一命を失せず。子畏大笑、竟に行かず。

ーーーー(そこで)皇帝の命令書を会試会場に飛ばして命令し、この(試験監督の)主司に試験答案の閲覧を禁じ、急いでその資産家の子と子畏を捕えて投獄し、主司を逮捕し、一緒に法廷の場で訊問した。

資産家の子は既に罪を認めたが、子畏は抗弁はせず、(とうとう)一緒に同じ罰を受け、浙江の補助員として都を追放した。(子畏は郷里に)帰ったが任地へ行かず、ある者はしばらくの間我慢せよと勧めたが、子畏は大笑いをして、ついに(任地に)行かなかった。



放浪の形跡、翩翩(へんぺん)として遠遊(えんゆう)す。扁舟に獨(ひと)り祝融に邁(すす)み、匡廬、天臺、武夷、東南に海を觀、洞庭、彭蠡に浮かぶ。蹔(しばらく)して歸(かえ)り、將(まさ)に復た四方を踏み得んや。

久しくして少(やや)愈(い)え、稍(しばら)く舊(も)との緒(しょ)に治まる。

ーーーーその後の放浪の形跡をたどれば、あてどもなく遠方へ旅をしている。小さな小舟に独り浮かんで祝融(楚の国)に行き、匡廬(九江廬山)、天台(山)、武夷(山)、さらには東南の方で海をみて、洞庭湖、彭蠡(鄱陽湖)に浮かぶ、といった具合であった。しばらくして帰って来るや、すぐに出かけてあちらこちらを踏破した。

久しくそのようにしていて傷心も少しいやされ、しばらくしてもとのような生活に戻ったのである。



其の學務は造化(ぞうか)を窮研(きゅうけん)し、象數(しょうすう)を玄蘊(げんうん)し、律歴(りつれき)を尋究(じんきゅう)し、楊(よう)馬(ば)の玄虛、邵氏(しょうし)の聲音の理(ことわり)を求め、而して之を賛訂(さんてい)す。傍に風鳥に及び、壬遁、太乙、天人之間に出入し、将に一家の學を為す、未だ章に成るに及ばして歿(ぼっ)す。

ーーーーその学問は造化の理を研究し、易学の数理に玄妙深奥を極め、歴法の根底を探り、楊雄、司馬相如の詩賦、邵雍の音律を求めつつも、それに賛と訂正を加える、といったものだった。その合間に風鳥、壬遁、太乙といった(占星術にも通じ)、天の理(ことわり)と人の世の間を往来して、まさしく一家の学問と言うべきものを成したのだが、まとまった文章を作る前に亡くなってしまった。



其の應世に於ける文字、詩歌は甚だ惜まざるも、意謂(おもえら)く後世に是を知る在(あら)ざると、我れ一班(いっぱん)に見せて已(やま)ん。

奇趣(きしゅ)時に發っし、或いは畫に於いて寄す、筆を下さば輒(すなわ)ち唐宋の名匠を追う。

ーーーーその世に応じる文学としては、詩歌をそれほど重視していなかったが、これは後世その詩意を理解するものなどいないだろうと、ごく内輪の者に見せるだけであった。

変わった着想が時に沸いて、画に描くこともあったが、筆を下せば唐代宋代の巨匠に迫る腕前であった。



既に復た人の請乞を為す、煩雜して休ず、遂に亦(また)精に及ばざるを諦む。且つ已(すで)に四方(しほう)之を慕い、貴賤富貧と無く、日に門に詣で征(ゆ)きて文詞(もんじ)、詩畫(しが)を索(もと)め、子畏隨(ほしいまま)に之に應じ、而して必ずしも至る所を盡さず、大率(だいそつ)遐邈(かばく)に興(きょう)を寄せ、一時の毀譽(きよ)重輕(けいちょう)を以て取舍(しゅしゃ)を為さず。

ーーーー何度も人が(その書画を)乞い求めること、煩雑で休みなく、とうとう細部までの完成は諦めざるえなかった。また四方の人が彼を慕って、身分の高下、お金の有無にかかわらず、彼の家の門に日参しては文章や詩、画をもとめたが、子畏はきままに応じてやった。必ずしも注文どおりに書き尽くすわけではなく、おおよそ変幻自在なところに面白味があり、その時その時の人の評価による毀誉褒貶などは意に介さなかった。



子畏(しけい)事果に臨み、事多く大節を全うし、即ち不合の少なきは問わず。故に知る者は誠に之を愛寶(あいほう)し、玉(ぎょく)珍貝(ちんべい)に異ならんが若(ごと)し。 王文恪公最も慎予(しんよ)す可く、之を知るに最も深重(しんちょう)。知ざる者は亦た其の才望を歆(よろ)こばざる莫(な)し。而媢嫉(ぼうと)の者先後して之有り。

ーーーー子畏は物事に臨んでは、大きな節義を全うする事が多く、わずかな不都合などは問題にしなかった。だから彼を知る者は誠に宝として愛し、玉石や珍しい貝のように珍重した。王文恪公が彼を知るにもっとも深く、かつこれを重んじた。 (子畏の人となりを)よくは知らない者でも、彼の才能と名声を大いにもてはやしたのだが、しかしながらそれを嫉妬する者も前後して現れた。



子畏、財貨を糞土とし、或いは其の惠を飲し、諱(い)み且(か)つ矯(いつ)わり、其の菑(わざわ)い楽しむ、更に之を下(くだ)すに石とし、亦た其の禍の由を得る也。

ーーーー子畏は財産を糞土のように軽んじ、(父親が残した遺産の)恩恵は酒にして飲んでしまい、また細かい事は言わず、金が無くなっても高楊枝を鳴らし、その災いを(むしろ)楽しみ、更にお金をなげうつことはまるで石ころのようで、それがまた彼の病の元をとなったのである。



桂(かつら)伐(た)ち漆(うるし)割(わ)る、雋(しゅん)を害し特を戕(ころ)す、塵土(じんど)物態(ぶったい)、亦た何んぞ子畏を傷つけん、余(よ)子畏を傷つけるに是をもってせず。

英靈に気化し、人に大略數百歲一發の鐘、子畏之を得、一旦にして已矣(やんぬるかな)、この其の痛(つう)宜(よろ)しく如何(いか)に置かん。

人に過ぐるの傑(けつ)有りて、人歆(よろこ)ばず而して更に毀(こぼ)つ、世に高きの才有(あ)りて、世(よ)用いず而して更に擯(しりぞ)ける、此れ其の冤宜(めんぎ)如何にして已(や)まん。

ーーーー呉剛が幾度も天宮の桂樹を断ち切ろうとして切れず、初めてこれが特別な桂樹という事を理解したように、あるいは漆の木は傷つけられてはじめて漆の液を得るように(子畏はさんざん痛めつけられながらその才能を発揮したのである。そもそも)俊英を害し、特別な才能を殺すような、俗世間の小人輩などが、どうして子畏を傷つけることが出来ただろうか。私はつまらぬ過失でもって子畏を貶めるものではないと考える。

すでに英霊となってみれば、おおよそ数百年の歳月もあたかも一発の鐘の音のように過ぎ去る(はかない)人の一生、子畏はその生を得るも、あっという間に(貶められ、死んでしまい)どうすることもできなくなってしまった、この痛切な気持ちをどのようにすればよいだろうか。

人に勝る傑物でありながら、人はこれを喜ばすに排斥する、世間に高い才能があっても、世はこれを用いずに排斥する。このような、いずれ解くべき恨みはどのようにして終わりにすればよいのだろう。(私は貶められて終えた子畏の死が無念でならない。)



子畏文を為し、或いは麗(れい)或は淡(たん)、或は精(せい)或は泛、常態(じょうたい)無し、鍛煉の功を為すを肯(うべな)わず。

其の思、常に多く而して用を盡さず。 其の詩は初め秾麗(のうれい)を喜び、既に又(また)白氏に倣(なら)う、情性に達するに務め而して語は璀璨(さいさん)に終わる、佳者は多く古と合す。

嘗つて九鯉神に仙遊する夢、一担の惠之墨の夢を乞(もと)め、蓋(けだ)し終に文業を以て傳(つた)えん。

ーーーー子畏が作った文章は、あるいは華麗、あるいは恬淡、あるいは精密、あるいはとらえどころのない、といったもので決まりきったものではなく、良く煉って推敲し完成させようとはしなかった。

その思考はいつも豊富であったが、実用を為すためのものではなかった。 その詩は初めは艶やかでなまめかしい文辞を好んだが、まもなくして白居易に倣って(簡明なものになり)、自分の情緒に合致することにつとめながらも、語の用い方はきらびやかで輝かしく、その佳作は古人の趣に合っていた。

かつて九鯉湖へ遊んだ際に、夢に祈願をしたところ、一抱えもある墨を贈られる夢をみた。おそらくこれによって文筆の業を後世に伝えることになるだろう、と。



唐氏世吳人、吳趨裏に居す。子畏の母丘氏は成化六年二月初四日を以て子畏を生む、歲は庚寅に舍(あた)り、之の名を曰く寅、初字を伯虎、更に子畏とす。嘉靖癸未十二月二日に卒す、年(とし)五十四を得たり。徐を配し、沈継ぐ、一女を生み、王氏國士、履吉之子に許(とつ)ぐ。墓は堙箍Σ搬爾忘澆蝓

ーーーー唐氏は代々蘇州の人で、吳趨(ごすう)界隈に住んでいた。子畏の母の丘氏は成化六年二月初四日に子畏を生み、庚寅の歳にあたっていたので名を寅、初め字を伯虎、後に子畏とした。嘉靖癸未十二月二日に死す、享年五十四歳。妻ははじめ徐氏、のちに沈氏。(沈氏は)一女を生み、国士(国立大学校生)であり、履吉の子である王氏(すなわち王寵)にとついだ。墓は堙箍Σ搬爾砲△襦



子畏罹禍(らか)の後、好く佛事に歸し、六如と號し、四句の偈(げ)を取りて旨(となえ)えた。桃花塢の北に圃舍を治め、日に般(おお)いに其の中に飲み、客來らば便(すなわ)ち共に飲み、去るを問わず、醉いては便ち頹寢(たいしん)す。子重(しちょう)は名を申、亦た佳士、難弟兄(なんていけい)と稱(しょう)す也(な)り。

ーーーー子畏は病気にかかった後では、佛道を篤くうやまい、六如と(佛号)を号し、金剛経の末尾四句の偈語を取ってとなえた。桃花塢の北に農家を営み、しばしばその家で酒を大いに飲み、客が来れば一緒に飲み、もう帰りなさいとなどとは言わず、酔えば寝たいだけ眠った。弟の子重は名を申といい、やはりよき人物であり、(子畏とはどちらが年長かわからないほどの仲の良い)困った兄弟だ、と称した。



銘曰


穆天門兮夕開、紛吾乘兮歸來。

睇桃夭兮故土、回風衝兮蘭玉摧。

不兜率兮猶裴回、星辰下上兮雲雨漼。

椅桐輪囷兮稼無滯穟。

孔翠錯璨兮金芝葳蕤。

碧丹淵涵兮人間望思。

穆(ぼく:音もなく)として天門、兮、夕に開き、紛として吾(われ)乘りて、兮、歸り來る。

桃夭(とうよう)故土(こど)を睇(てい)し、兮、回風(かいふう)衝(つ)いて、兮、蘭玉(らんぎょく)摧(くだ)く。

兜率(とそつ:兜率天)不(あら)ずも、兮、猶を裴回(はいかい)、星辰(せいしん)下上し、兮、雲雨(うんう)漼(そそ)ぐ。

椅桐(きとう)は輪囷(りんこん)し、兮、稼(か)は滯穟(たいすい)無し。

孔翠(こうすい:孔雀と青鸞)錯璨(さくさん)、兮、金芝(きんし)葳蕤(いずい:繁茂)す。

碧丹(へきたん:天宮)淵涵(えんかん)、兮、人間(じんかん)望思(ぼうし)す。



語句の解説までいれると長くなりすぎるので、書き下しに大意を添えるのみとした。 祝允明と唐寅が知り合い、交友を深めていったところから書き始め、唐寅の生涯を概観し、その為人を説いている。 ”銘”では、唐寅の魂が天に昇っていく様が歌われている。助詞の”兮(ケイ)”は訓読しないが、歌の合間にいれて語調を整える役割である。古文復古の影響から、詩経の詩句がふんだんに取りいれられている。 兜率天は仏教用語であるが、この銘では死者が帰るべき天界、というような使われ方である。唐寅は晩年佛典に深く帰依したところからだろうか。あるいは死者の魂が天空に昇ってゆくというイメージは、明代中後期に伝来したキリスト教の影響も考えられる。いうなれば鎮魂歌のような銘である。

”一抱えもある墨”の夢であるが、唐寅が福建省の九鯉湖に遊んだ際、湖の神を祀った祠で夢を祈願した。今風にいうところの「夢」の実現を神様に祈願するのとは違って、この場合の「夢」というのは実際に睡眠時に見る夢である。一種の夢占いであるが、未来を預言する夢を見るように祈る場合と、希望する未来を夢に見せるよう、祈る場合などがある。前者はあらかじめ内容を問わないが、後者は見たい夢を見せるように祈るのである。 ゆえに桃花塢にこのことを記念して「夢墨亭」を建てている。

唐寅は現代においては書画によって名高いが、その志は文学にあった事は、もう少し省みられてもよいのではないかと思う。

 

祝允明と唐寅の交際は途切れなく続いていたようであるが、一方で文徴明とは時に亀裂が入ることもあり、また文徴明が幕僚稼業で蘇州にいない時期もあり、ときに断絶していたようである。このあたり、唐寅から見て年長者でありウマのあった祝允明と、同じ年頃で性格の違う文徴明とで、付き合い方に差があるのだろう。

唐寅の死の後も、祝允明は文徴明やまたその子の文嘉との交際は続いていたようである。

 

唐寅はむろん、当時の蘇州のみならず江南から都にも名の聞こえた名士であったが、一世を風靡した名士であっても、大半は忘れ去られるものである。まとまった文集を編むにいたらなかった唐寅の行跡が広く長く伝えられたのは、やはり祝允明や文徴明といった、畏友の存在が大きかったと見るべきであろう。


 

落款印01


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