随州麻将

朋友の婚礼に招かれた。湖北省の地方都市、武漢から車で二時間ほどの距離にある随州という小さな街である。
この随州、炎帝神農の発祥地とされ、また隋朝を開いた楊堅が北周時代に随国公に封じられたというゆかりをもつ。梁から禅譲をうけた楊堅は、国号を当初”随”としたが、この字は「めぐる」という意味を含んで縁起が悪いということで”隋”という字に改めた、と言う説がある。また春秋戦国時代にこの地をおさめた諸侯、曽候乙の墓が発掘され、おびただしい青銅器の副葬品が出土しており、とくに古代楽器”編鐘”が完全な形で現れ、大陸古代史上、重要な発見となっている。

 

ともあれ、今は湖北省の省都武漢近郊の田舎街である。田舎の結婚式らしく、婚礼の前日の宴会、婚礼の宴会、その夜の宴会、次の日の昼の昼食会、その夜の親戚の食事会.....と、延々と会食が続くのである。が、その合間合間で、地元の大人たちが打ち興じるのが”麻将(マージャン)”なのである。

随州麻将

随州麻将

傍目で見ているとこの麻将、とにかく牌が大きい。聞くところでは、お年寄りなどが見やすいように大型化していったということであるが、重さもかなりのものである。これでは手業を使ったイカサマもやりようがないだろう。
また四人が卓を囲んでいるが、なぜか三人打ちである。全自動卓であるが、使われる牌は二組あって、A組の牌を使った一局が終わった後、B組の城壁が機械仕掛けで卓上にあがってくる。A組で打っている間に、自動卓の中でB組が洗牌されるという仕組みなのだろう。またドラ、カンドラというものはない。点棒の代わりに小額紙幣が使われている......等等

随州麻将

随州麻将
麻雀にも多様なルールがある。小生、日本の”麻雀”は付き合い程度に覚えたくらいで、打てなくもない、というレベルである。”マージャン”自体がおそらく10年ぶりである。無論、大陸式”麻将”の経験はない。また似たようで違うルールのゲームと言うのは、慣れるのが意外と難しい。そういうわけでもっぱら傍観を決め込んでいた。ところが宴会の合間に休んでいた新婦の実家で、とうとう”麻将”に参戦することになってしまったのである。


「博打であっても、何もしないよりマシ」と、孔子サマもおっしゃられたとか。

 

子曰”不聞夫麻将者乎?亦尤賢乎已”

 

というところであろうか。

随州麻将

面子は新婦の両親、爸爸(パパ)媽媽(ママ)と、その長女である。新婦は四姉妹であり、このたびご婚礼の三女が朋友なのである。一人っ子政策時代にどうして四姉妹なのかは、ここでは省く。長女は「姐姐(ジエジエ)」と呼ばれ、二女は「二姐(アルジエ)」、三女と四女は「三四姐」ではなく、それぞれ名前をつづめた愛称で呼ばれている。
姉姐は今は武漢に住んでおり、二児の母である。ご両親は昔このあたりで米を作る農家をしていたそうだ。いたって質朴な人達である。

 

大陸式「麻将」は初めての経験である。しかもルールは数ある麻将のルールの中でも比較的新しい「卡五星」というもので、武漢を中心に近年非常に流行しているらしい。その発祥地が実はこの随州で、2005年に随州近郊の村で120牌のルールで始まったそうだ。その後、三人打ちの84牌のルールが出来て、2009年の春節ごろから湖北省一帯に爆発的に流行しているのだという。
今回小生が参加したのは、原初的な120牌の随州ルールである。120牌というのは、すなわち東南西北、春夏秋冬、菊竹蘭梅等の字牌が除外されている。すなわち「發白中」以外に字牌は無い。84牌のルールだと、これから「ワンズ」の36牌が除かれるのである。


牌の数が少ないだけに作れる役が限定されるが、非常に速い速度でゲームが進む、というわけである。思えば東南西北などは多く序盤の捨て牌になるもので、役作りに使用される頻度はあまり多くない。これを除く事で”無駄ヅモ”が減り、ゲームがよりスピーディになるというわけなのであろう。また三人打ちに対して牌は豊富にあるから、実のところ流局もあまり起こらないのである。ある意味、より効率の良いゲームになっている。


また基本三人打ちであるが、四人で打つ場合は、アガッた人は次の一局はお休みである。次に勝った人と入れ替わりに復帰する際に、親になってサイコロを振る(サイコロを振る装置のスイッチを入れる)。こうすることで、一人に流れが傾いて勝ち過ぎないようにする、という事でもあるのだろう。


ともあれ、120牌の「卡五星」用の全自動卓がこの家にはある......と思ったのであるが、120牌用の全自動卓というより、牌が120牌用に少し幅広になっているのである。減った分の牌の幅を埋めているというわけで、全自動卓は通常麻将と兼用なのであろう。しかし大陸の牌は、ただでさえ日本の麻雀牌より大きいのであるが、こうなると握り寿司じゃないかと思うくらいの大きさである。

牌が大きい方が見やすいということであるが、小さな牌しか経験していないと、逆に一目で配牌が見渡せない感じである。重い牌を整理するのも一苦労である。


この「卡五星」にどんな役があるかもわからないままに始めたのであるが、まず、ポンとカンはあるが、チーはない。カンをすれば嶺上開花はあるが、カンドラ、というものはない。そもそもドラという概念はない。
また”麻雀”のように、自分の捨て牌を整然と場に並べて明示することもない。場に適当に放り出すのである。すなわち「フリテン」が無い、という事になる。

随州麻将
重要な手としては、テン牌したところでアタリ牌をさらす「听牌」であろうか。「听牌(ティンパイ)」はすなわち日本式に言えば「テンパイ」なのであるが、それを宣言したうえでどんな牌が来れば上がるか明示する、という事になる。たとえば(上の写真のを例にとれば)「三ピン、六ピン」の両面待ちのテンパイであれば、「四ピン五ピン」を場にさらして「三ピン、六ピン」待ちを明示するのである。
役がつくので、「听牌」可能な時にはほぼかならずこれをしている。これすなわち日本式”麻雀”で言う「立直(リーチ)」に相当する手であろうか。しかしポンやカンをしていると「立直」は出来なくなるが、「听牌」は可能である。むろんのこと「立直」と同じで、「听牌」以降はポンやカン、あるいは牌を入れ替える事は出来ず、ひたすらアタリ牌を待つのである。
この「听牌」が、始めは実に奇異に思えたものである。アタリ牌がわかれば振り込む恐れがなくなるではないか.........しかし「立直」と同様、「听牌」をした以上、アガリ牌以外は捨てなければならない。自分が「听牌」したときに、他の「听牌」のアタリ牌を引いて来たら、自動的に振り込まざるえない。


振り込みを避けて「おりる」という戦術があるが、自分が「听牌」すればこれは出来ない。またフリテンもないから、アガリを制約する条件も緩くなる。必然的に誰かがアガル確率が高くなるので、「流局」自体が少なくなる。
”荘”という概念が無く、時間が許す限り延々を麻将が続くのであるが、一局はものの数分で終わる。おそらく四十局以上はやったと思うが、流局はわずか二局ほどであった。

随州麻将
ゲームの速度が速く、流局が少ないという事は、ある意味効率が良いともいえる。少額紙幣を賭けるなら、なおさらその利点は感ぜられるのだろう。とはいえ、麻将自体が時間の無駄、と見る向きもあるであろうけれど...........

昼の宴席で少し入った白酒のせいか、頭に薄く霧がかかって、ルールを飲み込みながらなんとか役を作ってゆくので精一杯である。時折、三女と四女が背後から覗き込んで助言してくれる。またアガッて一局休みになった媽媽や姐姐も参謀についてくれる。それでなんとかアガれるようになったものの、まったくもって自身の実力ではない。
結論から言えば、媽媽が一番強い。対面の爸爸も本来なかなかの腕前のはずだが、小生と同様昼間の白酒のせいでどうも精彩を欠いた雰囲気である。姐姐はこの日はツキが無かったようである。少しイライラしてきたのか、ため息をついたり、牌を場に捨てる音が高くなってくる。媽媽はマイペース、淡々と勝ち続けている。


結果的には、終盤、大きな役を作って連続でアガッた小生が二番目だったのだが、これはもちろんそれまでの軍師達の献策によるところが大きく、一種の”接待麻将”といえなくもない.......誤解の無いように付け加えるならば、点棒の代わりに使われた小額紙幣はすべてこの家で支給されたもので、ゲーム終了後は回収、である。

 

麻雀は運のゲームであるが、随州麻雀のように字牌を減らされると、場の流れを読んだ数牌の組み合わせのセンスが勝敗の大きな部分を占めるため、運よりも技術の要素が大きくなるような印象である。無論、実力が伯仲した面子で卓を囲めば、運のはからうところが大きくなるのだろう。

 

大陸では各地から猛者が集う、競技麻将の大会がある。競技麻将の場合、役の難易度は問題ではなく、如何に早くアガるかを勝負するのだという。つまりいくら点数の高い、難易度の高い役で上がっても、それはあまり加点対象にならないという事だ。しかし、麻将というゲームの本質を考えた場合、最高の戦略は、どんなに安い役であっても誰よりも早く自分がアガる事であるから、競技麻将の採点法は理に適っていると言える。

 

今回は120牌の随州オリジナル麻将を経験したが、84牌のルールはよりスピーディな進行が予想される。滅多に成立しない難易度の高い役をつくれなくする代わりに、ゲームの回転速度が確実に上がるはずである。
難易度の高い役をつくって一発逆転が狙えるところに”マージャン”のロマンを求めるか、日々の現実的な小銭稼ぎのために”マージャン”をやるのか?という価値観の違いがあるのかもしれない。


日本でもかつて学生麻雀が盛んであった。徹夜の麻雀など、若いから出来るのである。しかし若者が麻雀で青春を浪費するのはいかがなものか?というところだが、大陸では引退したお年寄りが長い老後を麻将を打ちながら過ごすのである。
なるほど、慣れで打つとはいえ若干の頭の体操にはなるであろうし、手でもって巨大な牌を動かすのは、脳の刺激にもなるだろう。若干人数が集まるので、孤独になることもない。「あれ、今日は来ないねえ。」くらいの話にはなるだろう。
大陸では認知症のお年寄りをあまり聞かないのは、ひとつには麻将の効用もあるのではないだろうか。
そういう意味では、超高齢化社会を迎えた日本でも、ふたたび麻雀の活用を見直してもいいのかもしれない。

落款印01


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