楚舞と編鐘

湖北省は随州に朋友の婚礼に招かれた時の事。新婦の親戚が「お客人、”楚の国の舞”をご覧になったことはござらぬかな?」という。楚の国の舞、つまりは”楚舞”の公演を観に、随州博物館へ行くことになった。博物館では午前と午後の二回、”楚舞”の公演が行われるのであった。

 

随州は西周時代にすでに「随」という国名で侯国が存在し、戦国春秋時代では楚の国に属して随県がおかれている。現在は湖北省随州市であるが、「随」は、はるか西周時代から悠久と続く地名である。
1978年に戦国春秋時代(東周時代)に随国を治めていた曽侯乙(紀元前475年〜433年)の墓が発掘され、六十五点ひと揃いの”編鐘”が完全な形で出土している。編鐘とは、青銅でできた大小の鐘を音階順に横木につるして配列し、これを叩いて音色を出す楽器である。従来は9個ないしは13個を1セットとして鐘が配列されると考えられていたが、曽侯乙の編鐘はこれを大きく上回り、編鐘という楽器の概念の更新を迫る発見であった。この編鐘は、鐘に鋳込まれた銘文から、紀元前433年に楚の恵王が曽侯乙の逝去を知って追贈したことがわかっている。ゆえに曽侯乙の墓の副葬品として遺ったのだろう。

 

随州博物館

 

古代の楽器の中でも最大の音域を持つであろう編鐘は、礼楽の基礎をなし、もっとも重要な楽器とされる。周礼・春官では、楽器をその素材に拠って、金、石、土、革、絲、木、匏(ひさご)、竹の八つに分類し、”八音”としている。そのうち金属(主に青銅)でできた楽器を八音の首とし、編鐘は”金”楽器の首である。ゆえに編鐘はあらゆる楽器の首とされる。

 

随州博物館

 

曽侯乙の編鐘は、古代の音階を知る上で貴重な史料であり、他のおびただしい副葬品と共に非常に重要な発見である。その多くが随州博物館に収蔵されているが、出土した編鐘や曽侯乙の棺は、現在は武漢の湖北省博物館に収蔵されている。随州博物館にはその複製がある。これまでに展示用以外にも演奏用として、いくつかの編鐘の複製が製造されている。また編鐘の演奏用に、古代に主題を採った楽曲が作られ、併せて舞踊がつくられ、各地で公演されるようになった。
無論、紀元前の楽曲が残っているわけではなく、あくまで現代の舞踊なのであるが、古典舞踊や民族舞踊の要素が取り入れられ、古代の”楚舞”の再現が試みられているのである。

また曽侯乙の墓からは、周王朝の天子にのみ許されるはずの「九鼎八簋(き)」も出土している。「簋(き:下写真)」は穀物などを盛る器である。この「九鼎八簋」は曽侯乙が僭越にも周の天子の格式に倣ったという事で、東周時代の周王室の権威の衰えを証拠付けているともいわれる。ともあれ「九鼎八簋」が完全にそろってひとつの墓から出土した例はなく、やはり貴重な史料であるといえる。
随州博物館

 

随州のある湖北省は、春秋戦国時代は”楚”と呼ばれた、中原から見て南方の大国における、その北部地域にあたる。もともと楚の国は、殷代に中原に住んでいた人々が、商の時代になって北方から侵入してきた部族に押されて南下し、この地に国を建てたと言われている。およそ大陸における人々の移動は、北辺からの異民族の侵入にともない、中原の住民たちが次々に南下してゆく、という流れが続いてきている。現在の広東語や福建語に、古代の発声が保存されているという事情からもうかがえる。

楚といえば、春秋戦国時代には南の大国であった。始皇帝の大陸制覇の戦役でも、最後まで抗戦をつづけた強兵の国でもある。始皇帝は楚の征服に、老将王翦率いる六十万の大兵力を要した。天下平定間近の秦といえども、これは総力戦であった。後に秦を滅ぼす項羽は、楚の将軍家の後裔である。
また楚といえば、呉越も包含した、漠然と長江両岸以南の地域を指していう事もある。狭義には現在の湖北省と湖南省をいうが、江蘇省や浙江省、安徽省と江西省の一部も含むこともあり、河川や無数の沼沢を擁する、境界も定かではない広大な地域が想定されることもある。
秦滅亡〜楚漢の戦いの頃、”楚”という国に強烈な自負を抱いていた項羽の根拠地は今の江蘇省北部である。
”楚”には湖南と湖北にまたがって”雲夢沢”と呼ばれる大湿地帯が存在したといわれ、”雲夢”というだけに、どこかとらえどころのない、漠とした領域が想起される。現在は武漢から随州へいたる途上に、雲夢県という地名にその名が残っている。
現在の湖北省や湖南省の山岳地帯には様々な少数民族の部落があり、やはり昔中原から南に追いやられた、という伝説を持つ部族が多い。
楚の国は、中原とは異なった、独特な文化が発展した地である。中原を中華とするならば、楚は蛮地とみなされがちであるが、屈原や宋玉を出し、中原の文化にも大きな影響を与えている。もともと中原で発達した文化が、北方異民族の侵入に押されて南下し、楚の国に残った、という見方もあるが、実のところ楚で発祥し、独自に栄えた文化も広範に存在したであろう。

 

 

こうした”楚”の国で太古から歌や舞踏が盛んなのは、”鬼神”を信仰する文化に根差しているといわれる。おそらくは鬼道、さらには道教とも関連があるのだろうが、巫女(ふじょ)が歌謡と舞踏をもって神に祈念する風習である。
そもそも”巫”という字は、羽飾りを両手に持って立つ人の形をしている。羽飾りを両手に持つ姿は”羽人(うじん)”すなわち神仙の原型に通じるイメージでもある。後にそれが軽快な長い袖の衣装に変化しながらも、”飛翔”を表現するのが、その舞踏の根源的なイメージにあるのではないだろうか。

 

随州博物館

 

詩賦も無論、楽曲と舞踏に沿ったかたちで発展する。屈原の”楚辞”の”九歌”は、演奏を歌謡、舞踏を併せた、戯曲として表演された、とも言われる。ほかにも屈原の弟子の宋玉の作とされる”招魂”も、内容は”たまよばい”の祈祷文そのものであるが、楽曲と巫女の舞と共に歌唱されたと考えられる。
”楚辞”では、楚の壊王が、夢で巫山の神女と情を通じたことがうたわれている。壊王は屈原を登用した王でもある。巫山はいまの湖北省と重慶の間に位置する山であるが、”巫山”という呼称自体が、巫女との関係を想起させる。

 

随州博物館

 

歴史上、楚の楽曲にまつわる故事といえば、項羽の「四面楚歌」が特に有名であるが、”楚歌”に併せて無論”楚舞”が存在した。故郷を愛した項羽の愛妾虞姫の舞も、やはり楚舞であったことだろう。
後に高祖劉邦の愛妾戚夫人は、自分の子を後継者に出来ないと決まったことで、高祖にすがって泣いた。高祖は戚夫人に「為我楚舞,我為若楚歌」と言い、わしが楚の歌を歌うから、わしのために楚の舞を舞ってくれ、とだけ語ったという。このとき劉邦は垓下の戦いを思い起こしながら、戚夫人は自分にとっては項羽における虞姫の如く最愛の存在であるが、今は”四面楚歌”の如く皆に反対されたから、世継ぎの事はあきらめてくれ、と言って慰めたのであろう。しかし北方出身の戚夫人が楚の舞を能くしたという事は、漢代初期の当時、相当広範囲に”楚舞”が流行している事が伺える。

 

随州博物館

 

時代が下って後漢の成帝に愛された趙飛燕も、楚舞を得意としていた。「飛燕外伝」に拠れば、趙飛燕が成帝の伴奏で高台で舞ったとき、風が強く吹き付けた。風は飛燕を吹き飛ばす勢いであったが、飛燕は吹きすさぶ風に身を委ねながらますます軽やかに舞ったという。趙飛燕が飛び去る事を恐れた成帝は、左右のものに命じて飛燕のスカートを抑えさせた。飛燕は”昇仙”の機会を逸したと言って泣いたという。楚舞は飛翔する神仙のイメージと不可分である。
また楚舞は「楚腰繊細」と杜牧の詩にあるように、踊り手の細い腰を、”折腰”というように、前後に仰臥するように折り曲げる姿勢に美しさがあるという。荒川靜香の”イナバウアー”を仿彿とさせるポーズである。さらに長く軽い生地の袖を旋回し、気流を表現する。たとえば映画「十面埋伏(邦題”LOVERS”)]で章子怡が長い袖で踊るのも、楚舞を基底として創作された舞踊であろう。

 

随州博物館

 

随州博物館の編鐘と楚舞の公演は、三十分ほどの内容である。楽器は編鐘を中心として、古琴や琵琶、笙や龍笛など、さまざまな楽器が登場する。演奏者は衣冠装束を整えて位置についている。あるいは起源を一にするのかもしれないが、雅楽に通じるような、いくぶん厳かな雰囲気がある。
踊り手たちの古代の装束をイメージした衣装はやはり軽やかで、明るく華やかな色使いである。

 

随州博物館

 

まさに、

 

 

羅裙舞轉仙姿爭

紅袖風翻彩雲生

將欲招魂夢澤畔

惠王六十五鐘聲

 

 

というところ。

 

 

曽侯乙(紀元前475年〜433年)に六十五点組みの編鐘を贈った楚の恵王(紀元前?〜432年)は、呉越の戦いにも関わる楚の昭王の子(母は越王勾践の娘)である。楚の昭王(在位紀元前515〜489年)と言えば孔子(紀元前552年〜479年)の存命中に楚に在位した王であり、孔子を招聘しようとしたほど傾倒していた王であった。孔子の楚への旅は、楚がより強大になる事を恐れた他国の謀略で、その一行は道中七日間の包囲を受ける。
曽侯乙は、孔子の晩年近い時期に生まれた人物であるが、楚恵王と並んで孔子や昭王の息子世代である。楚の恵王が曽侯乙に六十五点組みの大編鐘を贈ったという事は、おそらくは父の昭王の時代にはすでに同規模程度の編鐘は存在していたであろう。

 

 

2011年、随州の葉家山墓地で、曽侯乙の時代から500年ほどさかのぼる、商代末期から西周時代初期のものとみられる墓から青銅の編鐘が発見された。これは編鐘の起源を少なくとも五世紀は前倒しする発見である。湖北より北方、陝西や河南でも編鐘の出土例はあるが、いずれも周代後期のものとみられている。最古の編鐘も、最大規模の編鐘もいずれも随州から出土しているのである。この事実は、”随国”の古代における繁栄と地位を表しているだろう。あるいは湖南湖北の少数民族の伝承にあるように、太古の時代は中原に住んでいた人々が、北から圧迫されて楚に移り住んだ、という話を裏付けているようでもある。さらには編鐘の起源と発展も、中原ではなく長らく後進地帯とみなされていた楚にあったのではないか?という可能性をも考えさせられる。
すくなくとも、曽侯乙から100年ほど後の屈原(紀元前343年〜278年)の”楚辞”に見られる文学上の達成を考慮すると、当時の楚の国が、言われるほどの後進地域であるとは考えられないところがある。
孔子も楚の国が蛮地であるから教化しに行こうなどとは語っていない。むしろその王を”大道を知る”と絶賛しているほどなのである。

随州博物館

随州博物館

 

孔子は故郷魯の西、現在の山東省の付け根部分に位置する斉の国でその国の音楽を聴き、「三月不知肉味」と、三か月の間、肉を食べても味が分からないほど感動したという。
また孔子は顔淵に国を治める法を問われたとき、「放鄭聲」と、鄭の国の音楽は淫らであるから退けよ、と言っている。この鄭聲は、「詩経・鄭風」の内容を指してその奔放な恋愛詩を批判しているとされるが、”聲”と言った場合、その詩を含む鄭の歌謡全般を指しているといえる。歌詞も駄目なら、楽曲も怪しからん、というわけである。
礼楽においては、音楽は”まつりごと”の根幹を為す行いであり、厳しい倫理が求められていた。
後の「呂氏春秋・侈楽」には”宋之衰也,作為千鍾。齊之衰也,作為大呂。楚之衰也,作為巫音”とあり、古来からの礼楽が乱される事を憂いている。千鐘はすなわち”鐘律”であり、とくに編鐘による音律のことであるといわれる。大呂も古代の音律を言い、また巫音は巫觋(巫は女、觋は男の巫師)が舞う際の楽曲を指す。要は古典に無いような楽曲の乱れが国の衰微を表す、という思想であり、楚の国の巫に関わる音楽を批判している。宋の千鐘も、奢侈にまかせてやたらと編鐘の音階を増やす事を指弾しているとも読める。
ただし呂氏春秋は孔子より200年ほど後の時代の書物であり、孔子の思想よりも法家、道家の影響が強い。

 

 

孔子の母親は身分の低い巫女であったと言われる。孔子自身、若いときは葬儀の仕事を手伝い、巫術や鬼道に通じていたという。その巫術の、いわば中心地である楚の国に大編鐘があったとすれば、その楽曲と孔子の行動に、どこかでつながりが無かったのかと考えたくなる。

「身分の低い巫女」というが、巫女そのものが、身分が高い者ではなかった。当時の身分制の埒外にあったとも考えられる。それは神と交感する巫女は、人間世界の身分制度にあてはまるものではないからとも考えられるし、一種の”畏れ”のような意識も働いていたのではないだろうか。

後の戚夫人も趙飛燕も、ともに舞を能くする事で帝王に愛された。巫女かどうかは未詳であるが、やはり低い身分の出自である。それは唐代の楊貴妃も同様であるが、楊貴妃が得意としたのは西域から伝わった、体を激しく旋回させる”胡旋舞”であると言われる。李白は楊貴妃を趙飛燕になぞらえて賞賛する「清平調詩」を即興で詠んだというが、かえって自身の出自の低さをあてこすったと楊貴妃に恨まれ、それがもとで宮中から追放されたという。あるいは豊満美人の楊貴妃は、”楚腰”と言われるような、細腰の趙飛燕と比較されて怒ったのかもしれない.........話がそれるが、紅樓夢でも宝玉が宝釵を楊貴妃に喩えている。やはり豊満美人の宝釵ではあるが、自分が太っている事を指摘されたと思って、温厚な彼女には珍しく腹を立てている。歴史上の絶世の美女だとて、安易になぞらえるものではないのである。

 

ところで孔子は昭王が治める楚の国で、後の恵王が曽侯乙に追贈したような大規模な編鐘から成る音楽を聴く機会がなかったのであろうか.......?また当時の中原に、楚の国にあるような規模の編鐘が存在しなかったのだろうか。陝西や河南の出土例では、その規模は曽侯乙の大編鐘には遠く及んでいない。
楚の国への道中、策謀で包囲を受け、七日の間絶食するほどに困窮した際、子貢を昭王のもとへ派遣し、兵を派遣してもらって包囲を解かせている。その後ほどなくして孔子一行は楚の国を去っているのは、昭王が呉に攻められた陳を救援に行った先で、没したからである。とすると孔子が包囲されていた時期、昭王は陳へ向けた援軍を率いており、孔子一行の包囲も、あるいは呉と陳との間の紛争が関係しているかもしれない。ともあれ孔子が待ち望んだ、昭王への謁見はついにかなわなかった。

孔子の著作とされる春秋左氏傳では「楚昭王知大道矣(楚の昭王は大道を知れり)」と、孔子としては君王に対する最大級の賛辞を残している。編鐘は賓客の接待の際にも演奏されるものであったから、もし孔子が昭王に謁見していれば、饗応の席でこのような大編鐘での演奏を聴くことが出来たであろう。はたして孔子はどのような感想を残しただろう......奢侈が過ぎるとしりぞけたであろうか。あるいは.......多少の想像が許されようか。
 

 

 

落款印01


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