三国争覇の地 江夏

武漢は漢口、武昌、漢陽の三鎮を統合した、広い都市圏を持つ内陸有数の大都会である。この広大な一帯は、その昔の後漢〜三国時代では、”江夏”と呼ばれた地域である。江夏区という武漢市の行政区画に地名が残っている。
武漢市街を長江の流れが貫いているが、”赤壁の戦い”が行われた古戦場は、武漢より南方の上流、岳陽より北方に位置するとされている。また蘇軾が”赤壁賦”を詠んだ黄州(現在の黄岡市)は、武漢からは長江に沿って下流に位置している。長江を挟んだ黄州の対岸に鄂州があり、現在は鄂州市として武漢の東側で接している。
漢口は漢水が長江に注ぐ河口に位置しており、ゆえに漢口という。漢水は三国時代は沔水(べんすい)とも呼ばれ、ゆえに漢口は沔口(べんこう)と呼称された。また沔水は夏水という別称もあり、ゆえに夏口とも呼ばれる。概ね、漢水(口)=夏水(口)=沔水(口)というわけである。

 

この江夏と呼ばれた武漢は、歴世の係争の地である。三国時代でも、赤壁の戦いのみならず、激しい争奪戦が繰り返された。夏口を北上すれば魏の都、許昌がある。また漢水を遡上すれば荊州、長江を遡上すれば長沙、下れば呉越に到る要衝に位置しているからである。大小の河川と無数の湖水沼沢の上に浮かんだ武漢は、要害の地であるが、水陸の連携がなければ守ることも攻める事も難しい。
長江に漢水がほぼ直行して注ぎこむことで、武漢の基礎となった漢口鎮、漢陽鎮、武昌鎮の領域に三分割される。三国時代にこれらの大河川に架橋する技術はなく、すべての領域を支配するには水軍の力が必要である。勢い、この地域を支配する勢力には、水上戦力が養われることになる。

 

夏口・武漢

 

後漢末から三国時代にかけて、赤壁の戦い以前に夏口を含む江夏を支配していたのは、黄祖という人物である。
黄祖というと、”演義”では粗野で愚かな人物として描かれている。傍若無人とはいえ、聞こえた名士の禰衡を処刑したり、甘寧を冷遇して離反を招いてこれが敗北につながるなど、優れた人物とは程遠いように描かれる。とくに英雄孫堅を待ち伏せして殺害した点なども、後世にわたって悪名を招いた理由にあるかもしれない。
黄祖は江夏土着の豪族、安陸黄氏の族人である。また後漢の名臣、黄香(68年〜122年)も江夏安陸を出身とする同じ宗族であるといわれる。安陸黄氏は江夏一帯に大きな勢力を持っていた。ちなみに呉の黄蓋の父は黄香の第五子黄瓚の長男であるとされる。ということは黄祖と黄蓋も、まるで無縁とは言えない間柄である。

 

黄祖に処刑された禰衡は”演義”では、その権威をものともしない高慢な振る舞いが曹操に疎まれた。奇人であるが、当時高節の名士とはそうした態度をとるものであった。ゆえに曹操から荊州の劉表の使者に出された。ついで禰衡を持て余した劉表が、黄祖の粗野な性格を知ったうえで禰衡を害させようと、江夏へ派遣されているのである。案の定、禰衡の傲慢な振る舞いが黄祖やその部下の怒りにふれ、処刑されてしまう。曹操、劉表としては、自身が名士を殺害した汚名をかぶらずに済んだというわけである。

 

史料の”三国志”によれば、禰衡を黄祖に紹介したのは、黄祖の子の黄射であるとされる。黄射は、やはり劉表の支配下で章陵の太守に任ぜられている。つまり一時期、黄祖・黄射の父子はそろって太守に任ぜられている。親子ともども、やはり地元に勢力をもった豪族の出身であることを裏付けている。
人物を酷評する事で知られた禰衡が黄射と交友関係を結んだのは、黄射が章陵太守の時であり、この黄射もやはりひとかどの人物であったのだろう。とすれば、劉表は禰衡を黄祖の下ではなく、黄射のいる章陵に送ったと考えられる。あるいは黄射と禰衡の相性がよさそうだと考えたのかもしれない。文事を好んだ劉表としては、禰衡を害する意図が必ずしもあったのかどうか。人選びが激しすぎる禰衡は、黄射とよほど意気投合したのだろう。
その黄射が父の黄祖に禰衡を紹介しているのである。禰衡は結局、黄祖の下で傲慢不遜な態度をとり、黄祖にもその部下にも恨まれたため処刑されてしまう。黄射は禰衡が殺されると知って、それを止めるために父のもとへ走ったが、間に合わなかったという。はじめから父に殺させるつもりで紹介したわけではなかろう。禰衡が相手によってガラリと態度を変えるという事を、交際して日が浅かった黄射はよく認識していなかったのかもしれない。黄祖も後に処刑したことを深く後悔した。禰衡は黄射によって夏口から望む長江の中州、鸚鵡洲に手厚く葬られたという。

鸚鵡州といえば、唐代の崔曚「黃鶴樓」詩で「芳草萋萋鸚鵡洲」と詠んでいる。”芳草”は芳しい香のする植物という意味であるが、君子の有徳を象徴する。この”芳草萋萋”は、ここに埋葬された三国時代の名士を意識しての表現ではないだろうか。

 

黄祖は黄氏の地盤と共に、劉表によって呉国に対する最前線を任されている人物である。史料に記載されるその戦績をみる限り、江夏を奪おうとした孫堅を落命させた戦いに始まり、その後幾度も呉軍を苦しめている。水軍の扱いにも長けた、老獪な戦上手であることがわかる。江夏の要害、また黄祖自身の手腕もさることながら、その族党である安陸黄氏にとっては、水軍戦がお家芸だったのだろう。

初平二年(191年)の孫堅との戦いでは、野戦では敗走するものの、追撃してくる孫堅を待ち伏せして弓で射殺している。これで黄祖は孫家の仇敵となり、孫策、孫権と継承される呉軍の攻撃を受け続けるのである。しかしその後も、五度にわたる呉軍の侵攻を防いでおり、野戦に挑む武勇も持ち合わせている。凌統の父である凌操や、呉の武将の徐琨がいずれも黄祖の部下に射殺されている。
”呉志”の記載では、凌操の父を射殺したのが甘寧であるという。またこの甘寧が黄祖を見限った事が、黄祖の敗死につながっているとされる。
甘寧はもとは益州の出身であるが、はじめ劉表の元へ行ったが任用されず、自身の食客数百人を連れて黄祖の下にとどまったという。しかし黄祖は度重なる戦功にも関わらず甘寧を礼遇せず、かえって食客を自分の配下に加えようとする有様であった。この点、江夏の地方豪族である黄祖の門閥意識は否めない。
そこで呉に走り、黄祖を「今年老、昏耄(こんもう)已に甚し」と、その衰えを語り、「舟船戦具、頓廃(とんはい)修(ととのわ)ず、耕農を怠り、軍に法伍無し」と語り、今攻めれば必勝であると説いた。

甘寧の進言を入れて軍を起こした孫権であるが、この戦いでも黄祖は「祖墹戚愍忸兌沔口,以栟閭大紲系石為廫,上有千人,以弩交射,飛矢雨下,軍不得前」と描写される戦術を展開し、呉軍をさんざんに悩ませている。
すなわち「兩(りょう)蒙衝(もうしょう)を横たえ沔口(べんこう)を挟守(きょうしゅ)す」とあるが、蒙衝は当時の軍船。おそらく黄祖は二隻の蒙衝をもってこの河口を挟み込むように配置し、「栟閭(しゅろ)」の縄を石につないで係留し、船上の櫓(やぐら)に射手を配置し、散々に射かけて呉軍の前進を阻んだのであろう。
周瑜は董襲と凌統に決死隊を率いさせ、両船の間の縄を切らせた。係留する縄を切ると、蒙衝は流れの中で動揺する。呉軍はその隙に進撃し、沙羨県で黄祖を討ち取っている。羨沙県は夏口の対岸であり、現在の武漢市江夏区のあたりある。
すなわち黄祖は長江を挟んで両岸に根拠地を築いており、呉に一方を攻められれば両岸が呼応して支援しあったのであろう。夏口にもおそらく江水に接して城塞が築かれていたであろう。しかし黄祖が敗死したこの戦いでも、結局のところ夏口は陥落していないのである。

夏口・武漢

 

夏口の対岸の羨沙県が呉軍の勢力下にはいると、孫権はここの黄鹄山(蛇山)に城を築いて”夏口城”としている。夏口城といっても、夏口の対岸である。この夏口城には、呉の黄武二年(223年)に改修された際に、物見の軍事楼が築かれ、後の”黃鶴樓”につながるとされる。
ともかく黄祖の敗死後、長江を挟んで現在の武漢の東側、武昌区、江夏区を孫権が支配したのであろう。対岸の夏口(現在の漢口)には、劉表のもとから劉が赴任し、ここを守っているのである。

 

前述したように、”江夏”と言った場合、三国時代は長江を挟んで夏口とその対岸を含んだ領域がそう呼ばれている。魏が荊州を降伏させた後は、夏口は魏の勢力下にはいり、長江両岸でそれぞれ魏と呉の支配領域にわけられたのである。魏では荊州の降将文聘が江夏太守に任ぜられ、また呉では程普が江夏太守に任ぜられているから、魏にも呉にも”江夏太守”が存在したことになる。
また孫権の築いた夏口城は、夏口の対岸あるのと同様、混同には注意が必要なところである。

 

東岸一帯の陥落で、西岸の夏口は呉に対する最前線となった。これが建安十三年(208年)の事である。黄祖の敗死後、劉表の子の劉が諸葛亮の献策によって夏口を守ることになる。演義では有名な、孔明を二階に上げておいて”梯子を外す”という場面である。
このとき劉表は既に病んでおり、この年の初秋に没するが、その直前から曹操の荊州侵攻が始まっている。また劉表の病中から、その後継を巡って荊州には”お家騒動”が起こっていた。主流派の蔡瑁一派に担がれる劉に対して、長男劉は不安を感じていたのである。そこで一計を案じて孔明に相談したところ、夏口に難を避けろと助言され、それに従うのである。
この際の”梯子を外す”の故事は、蜀志・諸葛亮傳にも記述がある。”演義”では、あの孔明が一本取られた体である。しかし蜀志・諸葛亮傳の記載では、劉は一緒に楼上にあがっており、梯子を外すのは余人を入れぬためで合った事が伺える。諸葛亮伝でも、諸葛亮は劉の相談を何度も断っているという記述があるが、これは蔡瑁派閥の耳目への配慮があったためではないだろうか。

 

夏口・武漢

 

荊州の実力者、蔡瑁は、襄陽蔡州の人であり、出身地名からわかるように土着の豪族である。蔡瑁の父、蔡諷の二女は劉表の継室である。三国志演義では劉の母親はこの蔡諷の娘、というようになっているが、史実ではこの点に確証はない。むしろ蔡瑁の娘が劉の後妻にはいった、という話もある。劉表の長男の劉は劉表の前室の子である。長子が継ぐのが通常であるが、蔡瑁としては自分の姐の子、あるいは娘婿に継がせたいところである。
ともあれ、蔡家は荊州の僭主として、荊州劉家とは濃厚な関係を形成していたのである。中原から赴任した劉表にとっても、荊州を統治する上で蔡家の協力は欠かせない。
また蔡諷の長女は、襄陽の名士、黄承彦の妻である。黄承彦といえば諸葛孔明の岳父である。当時は妻がひとりとは限らなかったし、死別して後妻を娶ることも珍しくなかったから、孔明の姑が蔡諷の長女であるとは限らない。もしそうであれば、蔡瑁は孔明にとって伯父にあたる関係になる。しかし血縁はともかく、当時の義理の感覚で言えば、孔明は蔡瑁に親戚の挨拶を交わす仲であり、また劉表とも親類つながりがあったことになる。

ついでに言えば、蔡諷の姐は張温の妻であるという。張温といえば呉に仕えて太傅となり、劉備の死後の黄武三年(224年)に、蜀と呉の修好のために蜀に使者に立ち、任務を全うした人物である。このとき三十二歳であったというから、その妻が蔡諷の姐というのは年齢的にまったく不自然である。張温といえば蔡瑁と共に劉表の幕下にあった張允の子であり、世代的には蔡諷の孫、蔡瑁の子の世代である。
”演義”では張允は臨終の劉表への劉の面会を阻んでいる。魏に降伏した後は、蔡瑁と共に呉への内通を疑われ、曹操に処刑されてしまう。しかし史料では、荊州降伏後の張允に関する記載はない。蔡瑁など、降伏した荊州人士は魏で重用されたが、張允への言及がない。また子の張温が呉に仕えているところから、魏に降らず呉に走った可能性もある。
曹操の南下は、”お家騒動”への外部勢力の介入を計った、蔡瑁の手引きを匂わせるところがある。しかし張允は劉を推していたにしても、全荊州が魏に降るところまではあずかり知らず、これを潔しとしなかったのかもしれない。後述する文聘など、荊州の独立を保とうとする意識を持った人士もいたようである。

 

張温が蔡家の娘を娶ったのであれば、やはり孔明とは親戚関係に当たることになる。孔明が劉備に出仕するまで、襄陽近郊で悠々隠棲の生活が営めたのも、蔡瑁との親戚関係を通じての劉表との関係を考えればうなづける。

 

夏口・武漢

 

劉表の長男、劉が孔明に相談を持ち掛けたのは、”演義”では「孔明の智謀を頼れ」と、劉備に勧められた事になっている。しかし孔明は他家の”お家騒動に”口をさしはさむみたくはないとして、すげなく断っている。それゆえ劉は”梯子を外す”一計により、孔明をして相談に応ぜざる得ない状況に置いている。
しかし実際は孔明は劉表や蔡瑁との縁戚関係にあり、劉表の後継者問題においても、無関心ではいられない立場にある。”演義”で書かれているような”他人事”ではない。
魏志・劉表傳では、蔡瑁・張允の一派によって、劉は夏口太守へ追いやられたと書かれている。とすれば、孔明は蔡瑁派の意を後押しした格好であるとも見ることが出来るのである。

 

孔明が劉に黄祖敗死後の夏口の守備を勧めたのは、蔡瑁派閥からの迫害を避けると同時に、黄祖死後の国境線の軍勢を掌握させる意図もあったのかもしれない。事実、曹操が南下するや、劉備は劉を頼って夏口へ走るのである。
しかし夏口の劉は、劉表の死後に劉が立てられたと聞いて激怒し、劉を討つべく兵を起こす。ところが劉表の死と前後して曹操が南進して、全荊州が魏に降ってしまう。それを聞いて劉は江南に避難したのであるが、江南といえば少なくとも江夏ではない。このとき夏口は放棄されたのだろう。

 

曹操の南進自体、蔡瑁あたりの手引きがあったフシがある。魏に降った荊州人士は、蔡瑁をはじめとして大変な厚遇を受けるのである。”演義”では呉の離間によって、蔡瑁は赤壁の戦いの前にあえなく処刑されてしまう。しかし”正史”では曹操によって列侯に取り立てられ、爵位を与えられている。曹操と蔡瑁はもとより旧知の間柄であったようで、荊州降伏後に曹操は蔡瑁を妻子ともども、親しく訪れているのである。
”戦わずして勝つ”のは最上の兵法である。難戦の末に袁紹を破った官渡の戦いを想起すれば、荊州の降伏は曹操にとって慶事であっただろう。降伏した荊州人士に対して曹操は寛大であり、破格と言って良い待遇を与えている。
また曹操の南進自体、劉表の後継者争いに介入した、という見方もできる。劉表の死に先立ってのタイミングの良さは、蔡瑁当たりの画策を思わせる。
身内の権力闘争に外部の力を利用するというのは、大陸では常套手段なのであり、そのためしばしば惨禍がまねかれる。とすれば、劉の夏口守備も、その頃からすでに呉と結ぶ意図が見え隠れするのである。まずは黄祖の死後、残った軍を掌握する事に始まり、劉備の協力や呉の後押しを利用しながら荊州を奪う、という戦略である。その筋書きがあったとすれば、それを書いたのはやはり孔明であろう。孔明は姻戚関係からすれば蔡瑁派閥に属するとみなされるところであるが、劉備に出仕して以降、すでに別の存念があったことがうかがえる。

赤壁戦後、劉備軍の荊州攻略の際には劉を劉表の後継として名文を立てており、劉の死にともなって名実ともに荊州を支配している。また「草蘆対」に書かれているように、後に劉章から益州を奪うのである。根拠地を持たない劉備が存率基盤を形成するまでの基本戦略は、魏や呉のような列強との直接対決は避け、劉表や劉章のような”地方劉家”を乗っ取ることから始まるのである。それは曹操や孫権などの気鋭のそろった新興国よりも、皇室の傾いた権威と門閥が支配する国の方が”組みし易し”というところであろう。

 

夏口・武漢

 

「草蘆対」は孔明がまだ襄陽で隠棲生活をしていたころ、劉備が訪れた際に語られた内容であるとされ、蜀志・諸葛亮傳に内容の記述がある。ただ劉表に新野を任されるかどうかの時期に、益州に目を向けるというのはいささか飛躍が過ぎるようでもある。益州攻略のための足掛かりとしても、先に荊州の一部なりをとる事が必要であり、劉表の後継者をめぐるなかで、劉に接近していた劉備・孔明の思惑がそれではないだろうか。
とはいえ「草蘆対」の頃は、劉備は劉表の世話になっているところであり、孔明もまた劉表とは縁戚関係にある。「草蘆対」に、荊州を乗っ取る意図は、あったとしても(仁義の建前から言って)述べられるところではない。
ともあれ、曹操の南下は孔明の予測を超えて捷(はや)かったようである。劉備は劉と合流すべく夏口へ向かうが、途中で劉と合流し、夏口に入っている。ただし赤壁の戦いの後、夏口は魏の文聘が守っているから、どこかの時点で夏口を放棄したのだろう。夏口は背後から迫る曹操軍を、陸続きで防がなければならないからである。

 

呉というと水軍戦がお家芸のように言われるが、孫堅も孫策もその戦歴はほぼ陸戦なのである。孫策の代から、野戦でしばしば黄祖を破りながら夏口を落しきれなかったのは、ひとつには水軍戦に不慣れであったのかもしれない。これは夏口流域の制河権を、掌握しきれていない事実にも表れている。しかし孫策の死後は孫権に継承された対黄祖の戦いの過程で、敗残兵を吸収するなどして徐々に水上戦力を整えたものとみられる。
そして黄祖を敗死させ、江夏の東側を勢力下に入れるや、呉軍はこの地の水軍を掌握したのだろう。とはいえ、これが赤壁の戦いの同年の出来事である。
そこへもって劉・劉備との共闘である。劉は夏口の軍勢1万を率いていたとあり、おそらく黄祖の敗死後も夏口側に残存していた、少なからぬ水軍戦力がこれに含まれていたであろう。呉としては、彼等と結ばない手はなかったわけである。

 

赤壁の戦いは夏口からみて長江の上流域で起きているのだが、赤壁の戦闘の時点で夏口の帰属が明らかではない。魏に投降した文聘は劉に従う、と言っているから夏口を守る劉とは決別したのだろう。曹操は文聘にも兵を与えて当陽の劉備を追撃させているが、これは劉備が夏口に入る前である。赤壁戦後、文聘を沔口に駐屯させた、とあるから赤壁の前後で夏口は魏に帰属したことがうかがえる。

この文聘もなかなかの名将である。後に夏口の守備を任され、以後数十年にわたって、江夏太守として夏口を守りぬいたという。
また文聘は荊州降伏の際、曹操の前で荊州を守れなかった事を恥じて涙を流したという。これに感じた曹操は文聘を江夏太守に任じて夏口を守らせ、上奏して関内侯の爵位を授けるなど、非常な厚遇を与えている。

あらためて地理をみると、夏口を含む江夏は荊州と江南・呉越の間に位置している。後に荊州を劉備が取った後は、東を孫権、西を劉備に挟まれる格好になっている。魏にとっては長江北岸に突出した、最前線の橋頭保である。夏口をそのまま北上すれば魏都許昌であるから、夏口の守備は非常に重大な任務である。
文聘は荊州の関羽との戦いでも、楽進等と共に夏口を良く守った。糧秣や軍船を焼くなどして、関羽軍を苦しめている。また後の呉の侵攻を防ぎ、孫権率いる五万の大軍に包囲されるも落ち着いてこれを撃退している。
文聘が江夏太守になって以降は、東に孫権、また背後の荊州に関羽を控え、黄祖の時代に比べれば、夏口をとりまく形勢がより厳しくなっている。それでも数十年も夏口を守り続けた文聘の手腕は、三国時代の武将の中でも傑出したものと言って良いだろう。

 

後年、西晋時代に呉が滅ぼされた際(280年)は、魏は夏口を攻めている。これは夏口対岸の夏口城のことではないようだ。とすれば、どこかの時点で夏口が呉の支配下に置かれたことになるのだが、時期が判然としない。

 

呉志・陸遜傳によれば、呉の嘉禾三年(234)、陸遜は諸葛瑾とともに襄陽を攻めている。戦いは不利で襄陽は落ちなかったが、帰途陸遜の計略で江夏の新市・安陸・石陽を急襲したという。石陽は夏口の北、現在の武漢市黄陂区に位置している。このときは住民が殺戮されただけで、石陽の攻略には至っていない。
またこのころ魏の江夏太守は逯式という人物であったが、文聘の子の文休とは仲が悪かった。文聘の没年は未詳であるが、このころすでに没して養子の文休が後を継いでいたのであろう。陸遜は逯式に「久しく文休とは隙があり云々」という内容の、あたかも逯式が内通しているかのような手紙を送った。これを逯式の兵が拾って逯式に見せると、逯式は恐れて妻子を人質として洛陽に送ったという。このことで兵士の間に疑心がわき、結局逯式は罷免されたという。

 

魏の嘉平年間(249年〜254年)、桓禺が江夏太守を努め、文聘と並び称される手腕を発揮したという。しかし江夏太守といっても、夏口を含むすべての領域を支配していた、とは限らない。
魏は250年に、武漢から随州へいたる途上、現在の雲夢県に上昶城を築き、ここに江夏郡府を置いたという。これは夏口から見れば北西の方角、江夏から襄陽へいたる途上にある。襄陽は魏が支配しており、上昶城は対呉の新たな最前線基地となる。268年には孫皓が施績にここを攻めさせている。
また270年には、呉の孫皓が夏口へ猪狩りと称して派兵し、この地を守っていた孫秀は謀殺される事を恐れて魏に投降している。遅くともこのころには、夏口は呉の支配下に置かれていたのではないだろうか。
279年から280年にかけて、魏は上昶城から夏口を攻め、最終的に呉を滅ぼしているのである。

 

夏口・武漢

 

現在の鄂州市にあった武昌は漢口の対岸の地名となり、本来は武漢全域を包含するような”江夏”という地名は武漢の一部の地名として残っている。現在の武漢市街の行政区の名称をそのまま三国時代にあてて考えると、思わぬ誤解を招きかねない。とはいえ「およそこのあたり」というような、あるいは「地名が残っていればいい」というような、至極おおらかな意識も見て取れる。武漢の東方に位置する黄州で杜牧や蘇軾が赤壁の戦いを偲んだのも、そういったおおらかな文学的気分で眺めるもので、厳密な地理の詮議立ては意味を成さないところなのであろう。
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