登黄鶴樓

今回は黃鶴樓のある蛇山(黃鵠山)の近く、臙脂路という小さな通りにあるホテルに宿ををとった。臙脂路からつながる民生路の歩道上から、屋根越しに黃鶴樓が見える。
武漢黄鶴楼
さて、黃鶴樓といえば崔(704〜754年)の「黃鶴樓」が有名である。

昔人已乘黃鶴去
此地空余黃鶴樓
黃鶴一去不復返
白雲千載空悠悠
晴川歷歷漢陽樹
芳草萋萋鸚鵡洲
日暮鄉關何處是
煙波江上使人愁

解釈はここに掲げるまでもないだろう。
第一句「昔人已乘黃鶴去」は、岩波文庫「唐詩選」では「昔人已乘白雲去」とある。岩波の解説では、ここを「白雲」とすることで第一句と第四句の「白雲千載空悠悠」が対応し、また第二句と第三句の「黄鶴」が対応するという構造を想定している。それも一理あると思うが、現在の大陸では「昔人已乘黃鶴去」で通っている。
そもそもこの「黃鶴樓」は一応は七言律詩に分類されるが、近体詩の格律は相当逸脱している。通常、第一句と第二句は押韻せねばならないが、第一句は韻を踏んでいない。また第一句と第三句は「二四不同」「二六対」の原則を破っている。また五句と六句は完整な対句をなしているが、三句と四句は「不復返」と「空悠悠」の対応がやや逸脱の気味がある。さらにいえば、ひとつの詩中で同じ語句はなるべく重複するべきではない、という原則があるが(もっともこれを破る佳作も少なくないが)「黄鶴」を三度も使うほか、「去」「空」を二度づつ使用している。
武漢黄鶴楼
詩の原則である格律を無視するからには、無視するに足るだけの効果を挙げていなければ駄作のそしりは免れない。崔曚痢黃鶴樓詩」は、それに成功している稀有な傑作のひとつだろう。良い詩句が浮かべば、必ずしも平仄格律に拘泥しなくても良い、という見本のような詩である。唐代の詩には、格律を踏み越えた名作が少なくないが、平仄重視の日本における漢詩作法では、なかなか発想することが難しいであろう。もともと「逸格」の詩なのであるから、あるいは岩波の解釈のような構造をあえて意識する必要はないのかもしれない。
後年、黃鶴樓に登った李白が詩をもとめられた際、崔曚里海了蹐鮓て「とてもこれだけの詩は造れない」と、筆を擲(なげう)ったという。
とはいえ李白は「黃鶴樓」にまつわる詩を幾つもつくっている。まず日本でも有名な「送孟浩然」

故人西辭黃鶴樓 
煙花三月下揚州  
孤帆遠影碧空盡  
惟見長江天際流
 

がある。また「與史郎中欽聽黃鶴樓上吹笛」

一為遷客去長沙
西望長安不見家
黃鶴樓中吹玉笛
江城五月落梅花

も著名であろう。
さらには五言古詩の「送儲邕之武昌」にも黃鶴樓が登場し、また五言排律の「望黃鶴樓」や「江夏送友人」も黃鶴樓が登場する良く知られた佳品である。しかしいずれも崔曚痢黃鶴樓」のような、七言律詩ではない。
李白にはほかに「登金陵鳳凰臺」という詩があり、これは崔曚痢黃鶴樓」を意識して作った七律の詩であるという。

鳳凰臺上鳳凰遊
鳳去臺空江自流
吳宮花草埋幽徑
晉代衣冠成古丘
三山半落青天外
二水中分白鷺洲
總為浮雲能蔽日
長安不見使人愁

たしかに崔曚痢黃鶴樓詩」を換骨奪胎して作ったようなフシが感ぜられる詩である。
また「全唐詩」には李白の詩として「醉後答丁十八以詩譏余捶碎黃鶴樓」という詩が集録されている。冒頭四句のみ示せば、

黃鶴高樓已捶碎
黃鶴仙人無所依
黃鶴上天訴玉帝
卻放黃鶴江南歸

つまり、黃鶴樓はすでに壊れてしまって仙人は寄る辺を喪い、黄鶴は天帝に訴えて江南に帰してもらった、という内容である。以下、どこか崔曚了蹐鬚ちょくったようなところがある詩なのであるが、これは偽作とする説が支持されている。崔曚了蹐鬚靴里飴蹐作れなかった李白が、悔し紛れに作った詩というところだが、たしかに李白の詩としても格調が低過ぎるところがあり、彼の作とするには無理があるだろう。
武漢黄鶴楼
黃鶴樓は現在の武漢市武昌区の、武漢市蛇山にある。この蛇山はむかし黃鵠山といい、その西北の長江江岸に黃鵠磯(こうこくき)があった。”磯(イソ)”と言っても河川の流れに臨んだ岩礁としての”磯”である。このような地形は大陸の大河川の流域ではしばしばみられるもので、黄州のいわゆる文赤壁も、もとは”赤鼻磯”とよばれる岩礁である。”鵠”は白鳥の古名である。また黃鵠山は黃鶴山とも呼称される。
「南齊書・州郡誌」には“夏口城據黃鵠磯,世傳仙人子安乘黃鵠過此上也。”とある。
「南齊書」は南朝斉の蕭子顯(489〜537年)によって書かれた。蕭子顯は梁の皇族で、斉高帝蕭道成の孫にあたる。史学家であり、多くの著作を為したが「南齊書」以外は失伝して残らない。
「南齊書」の記載によれば、黄鶴ではなく、黃鵠、すなわち”黄色い白鳥”という記述である。後の黃鶴樓の伝説は、黃鵠が訛(なま)って黃鶴に変じたとも言われる。
また蕭子顯より少し前の南朝梁の任掘460〜508年)の「述異記」に拠れば“荀瓌憩江夏黃鶴樓上,望西南有物飄然降自雲漢,乃駕鶴之賓也。賓主歡對辭去,跨鶴騰空,眇然煙滅。”とある。大意を示せば
「荀瓌(じゅんかい)が江夏の黃鶴樓上で憩いをかこっていとき、西南を望むと雲の中から飄然とおりてくるものがあった。すなわち”駕鶴之賓(鶴に乘ったお客さん)”である。お客を主(すなわち荀瓌)は歓待し、かくして別れ去り、(客は)鶴に跨り空へ騰(あ)がった。渺然として煙のように消えていった。」
「述異記」の著者は祖沖之ともいわれ、また全文は早くに喪われているが、この話は「述異記」からの引用として唐の高祖が編纂を命じた「藝文類聚」に採録されている。
現在良く知られている”老人がみかんの皮で鶴を描いた”という伝説は、だいぶ時代が下がって清の乾隆年間に編纂された「江夏県史」に「報応録」からの引用としてそれが見られる。「報応録」は世間の「因果応報」を採録した書物であろうが、もとがどんな本であったのかは伝わらない。銭を持たない老人に、ただで酒を飲ませ続けた結果、店が大繁盛したという「因果応報話」として伝わったのだろう。
「蜜柑」は神仙の話には良く出てくるのであるが、唐代より前の南北朝時代の黃鶴樓伝説には登場しない。したがって唐代の崔曚簍白による黃鶴樓にまつわる詩詞にも「蜜柑」までは登場しない。神仙に関するモチーフとしては鶴だけである。

武漢黄鶴楼
三国志・呉志に拠れば、孫権が夏口城を築いたのは「黃鵠山」とある。黃鵠山は三国時代は江夏山、あるいは紫竹麓といい、北魏に到って黄鶴山、などと呼ばれたという。
南齊書の記述に「黃鵠磯に拠る」とあるのは、黃鵠山から長江河岸の黃鵠磯にいたる山麓に沿って城が築かれていた、という事であろう。山といっても、現在でも海抜85mほどの小高い丘なのである。しかし湾曲する長江の内周にあって、周囲の陸地の大半は堆積によって形成された平地である。長江に臨んで見晴らしがよく、要害となりそうな地形はこの黃鵠山の他にはない。
黃鶴樓は、湖南省の嶽陽樓と同じく、当初は城塞に付建された、見張りを目的とした”軍事楼”であったといわれる。それは蛇山の山頂付近ではなく、江流に面した「黃鵠磯」の上にあったという。対岸の夏口を監視し、また接近する敵を矢弾で防ぐための、切り立った岩の上に建設された城楼ないしは櫓(やぐら)だったのだろう。
南北が統一され、長江の険、さらには孫権の築いた夏口城の軍事的な価値が消滅した時代、黃鵠磯や黃鵠山には数々の楼閣が築かれ、宿泊や宴席に供せられたようだ。黃鶴樓の近傍には”南楼”という建物があり、周囲は妓楼や酒楼が立ち並んで賑わっていたそうだ。李白はその繁華な様子を「武昌夜飲懐古」で「清景南樓夜,風流在武昌」と詠んでいるし、杜牧は「南楼夜」という詩で「玉管金樽夜不休,如悲晝短惜年流」と詠んでいる。
歴世、黃鶴樓は十数回にわたって修建、再建が繰り返されたといわれる。もとより、崔曚簍白が登った黃鶴樓ですら、元の姿ではないのである。しかし少なからぬ建設費を投じて再建が繰り返されたのは、やはり「黃鶴老人」の伝承と共に崔曚簍白の詩が後世ひろく愛詠されたからであろう。

武漢黄鶴楼
ところで孫権が黃鵠山に城を築く前は、黄祖という人物が荊州の劉表に任命されてこの地を治めていた。一方で、北方に禰衡という文名を知られた若い名士がおり、曹操から劉表の元に派遣されて、荊州にわたってきた。さらに劉表から黄祖の子の章陵太守の黄射の元に送られたが、そこで黄射と禰衡は友人関係となる。
あるとき黄射は賓客を招いて宴会を催した席で、禰衡に”鸚鵡”を主題とした賦をもとめた。禰衡が席上で一気呵成に書き上げた「鸚鵡賦」は(長いのでここには掲げないが)万座の人士の間で大変な評判を呼んだという。文才あふれた禰衡とて、あらかじめ練りに練った作品に違いなく、とすれば禰衡を世に出そうとする黄射の厚意も感ぜられるところである。
そして黄射によって黄祖に推薦されて江夏にきたものの、あるとき黄祖の怒りに触れて処刑されてしまう。黄射は禰衡の死を悼み、手厚く夏口から望む長江の中洲に葬ったという。禰衡はこのとき26歳。才気と若さに任せた、いささか傍若無人な振る舞いがあったのかもしれない。
武漢黄鶴楼
禰衡の友人はほかに孔融や楊脩といったいずれも知られた名士がいたが、孔融も楊脩も結局曹操に殺されている。どうもこの交友関係には、権力者とソリの合わない共通した性向があったのだろうか。
ともあれ、黃鵠山から見下ろす位置にあったといわれる中洲は、禰衡にちなんで鸚鵡洲と呼ばれるようになった。崔曚「芳草萋萋鸚鵡洲」と詠んだのも、非業に斃れた三国時代の若者を悼んでのことだろう。また李白にも「望鸚鵡洲懐禰衡」という詩があり、禰衡を悼む気持ちを詠んでいる。
他にも李白の「経乱離后天恩流夜郎憶旧游書懐贈江夏韋太守良宰」という、長い五言古詩の中に

一忝青雲客、三登黃鶴樓
顧慚禰処士、虚対鸚鵡洲

とある。すなわち”自らを顧みれば、禰衡に対して慚愧を覚える”という気持ちを詠んでいる。鸚鵡洲に臨んで三国時代の硬骨の士を悼むというのは、当時の人士の間で共感を呼ぶ表現であったのだろう。
禰衡といえば”三国志演義”では、硬骨あまって矯激さが誇張された奇人のように描かれ、殺されても仕方ない人物のようなイメージが定着してしまっているかもしれない。「鸚鵡賦」とともに、禰衡の事跡も見直されても良いだろう。
その鸚鵡洲であるが、現在は黃鶴樓から望んで西の対岸に陸続きとなっているという。

武漢黄鶴楼
現在の黃鶴樓は1985年に鉄筋コンクリートによって再建された建物であり、訪問した際は使用されていなかったが、エレベーターもついている。
この黃鶴樓は、1975年に長江大橋の建設に伴って撤去された、長江河岸の元の黃鶴樓から1000mほど離れた距離にあるという。史跡としての黃鶴樓とは、建物も場所も違うことになる。
黄鶴楼内には、明代や清朝の黃鶴樓の模型が展示されているが、せいぜい三層の建物であり、規模は嶽陽樓と同程度であろう。
武漢黄鶴楼
武漢黄鶴楼
近代建築による黃鶴樓であるが、もとより建物自体には、歴史的価値は薄いであろう。むしろ詩賦に繰り返し詠われた、黃鶴樓からながめた景観の保存、と言うところに価値があるといえる。とはいえ黃鶴磯も鸚鵡洲も既になく、対岸の漢陽の方面にも樹林はない。長江江岸に沿って高層ビルが林立しているという有様である。
折しも武漢は気温、湿度共に高く、どことなく重たい色の空が覆っている。いずこの方角の空にも、黄鶴は見出せそうにもなかった。

 

黄鶴還雲漢

存亡回歳華

詩成懸紫極

覇略空江沙

芳渚連西岸

碧江去際涯

樓臺風拂瓦

望遍江城家
落款印01


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