黄州赤壁行

武漢から黄州への移動はバスに拠った。武昌駅近くの中長距離バスターミナルから、大小の湖水と河川の上を一時間ほどひた走ると、黄州こと湖北省黄岡県に到着する。ホテルに荷物を置き、暑かったので少し休憩してから「赤壁」へ向かう。
ホテル前の通りで捕まえたタクシーの運転手に「赤壁(チー・ビー)」といえば、すぐに案内してくれる。黄岡県は小さな街である。十数分ほどで、「東坡赤壁」に到着する。牌坊前のひろい駐車場で私を下すと、タクシーは走り去っていった。
201607黄州赤壁行
ふとみると、入り口のすぐ右手の方が崖になっているのであるが、(写真では白っぽく写ってしまっているが)その色が果たして赤い。崖にそって、赤レンガの崩れかけた城壁のような構造物も見える。すわ赤壁かとおもいきや、それはもう少し先の方である。ビニールシートで覆っているのは、雨で崩落する事を防ぐためだろう。訪問する直前、湖北省一帯は長雨で氾濫の被害が出ている。岩と言っても、粘土質の地層であり、崩壊の危険性はある。そのうちコンクリートで固められるのかもしれない。

以前、徽州の岩寺鎮で、”岩寺”の名称の元となった巨石を探しに行ったことがある。それもやはりこのような赤い色の粘土岩であった。徽州ではところどころでこうした赤い粘土層が露出しており、この粘土を原料として煉瓦を焼くと、真っ赤な煉瓦になる。聞くところでは、太古、巨大な湖の底であった時に、土砂が堆積して出来た地層なのだそうだ。それは安徽、江西、湖北など、大陸内陸部にまたがる広範な地域に及んでいるという。
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もとより黄州赤壁は、三国時代の赤壁の古戦場ではない。古戦場の”武赤壁”に対して、詩賦に読まれたことから”文赤壁”とも呼ばれる。古い地誌では赤鼻磯(せきびき)ないし赤鼻山(せきびざん)などと呼ばれている地形である。また赤鼻磯という呼称から、黃鶴樓のあった現武漢の黄鵠磯と同じく、長江の流れに突き出た岩礁であったことがうかがえる。しかし現在の黄州赤壁は、長江からは完全に分離し、江岸から1kmほど内陸の池水に浮かんだ岩崖として残っているのみである。
麻姑のいう「桑田蒼海」ではないが、長江流域では長い年月の間に流れが陸地になったり、また陸が水底に沈むことも珍しくはない、ということなのだろう。
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史跡の名称としては「東坡赤壁」である。しかし黄州赤壁を古戦場にみたてて詩をよんだのは蘇軾が初めてではない。一般に、それは唐代の杜牧にはじまるとされている。ただ、杜牧より少し先輩の李白にも、赤壁の戦いを詠んだ詩がある。これが黄州で読まれた詩であるかどうかは不明であるが、注意をひく。李白の「赤壁歌送別」は

二龍爭戰決雌雄、赤壁樓船掃地空。
烈火張天照雲海、周瑜於此破曹公。
君去滄江望澄碧、鯨鯢唐突留餘跡。
一一書來報故人、我欲因之壯心魄。

と、赤壁の激戦を勇壮にうたい上げている。
ではどこでこの詩がよまれたか?についてであるが、李白の詩は年代日時を特定できるものがすくない。この詩も開元二十二年(734年)ごろ、李白が江夏を旅していたころの作品であると言われている。主題が赤壁の戦いなのであるから、江夏周辺で読まれたのは間違いないだろう。ただし李白はその前後十年ほど、江夏(現武漢)を中心に漂泊していたというから、いつどこでだれを相手によまれた詩なのかは、実のところ特定しがたいのである。

「赤壁(せきへき)樓船(ろうせん)地を掃いて空」「烈火張天(ちょうてん)雲海を照らす」という二句には、呉軍の火計によって魏の水軍が破られた様が活写されている。また「周瑜於此破曹公」から、呉の周瑜が戦勝の立役者であったという認識がうかがえる。「於此」とあるから、範囲はともかく、歌をよんでいるこの場所が赤壁な戦い場だったのである、というように読める。第五句には「君去り滄江(そうこう)澄碧(ちょうへき)を望む」とあり、「君去る」ということは、送別の友人はこの地から去ってゆく、というように解釈できる。

戦史上の赤壁の場所については諸説あるが、武漢から岳陽へ長江をさかのぼる中間、現在の赤壁市付近であるといわれる。そこは近代に入るまで、蒲圻県という、ごく小さな街があるだけであった。
李白は洞庭湖、嶽陽樓の詩も多く読んでいるから、江夏(武漢)から長江をさかのぼる途上の蒲圻近郊で、古戦場としての赤壁を目にしていたかもしれない。しかし蒲圻に李白が長期滞在した形跡はなく、この「赤壁歌送別」が蒲圻で歌われた、というのはやはり考えにくい。当時ほかの李白の送別詩と同じく、江夏の中心、現在の武漢あたりでよまれたのではないだろうか。

このころの李白の送別詩では、年代がはっきりし分かるものとして開元二十二年(734年)に宋之悌が驩州へ赴くのを見送る「江夏别宋之悌」がよく知られている。

楚水清若空、遙將碧海通。
人分千里外、興在一杯中。
谷鳥吟晴日、江猿嘯晚風。
平生不下淚、於此泣無窮。 

唐詩選にもいくつかの詩が集録されている著名な宮廷詩人であり、五言律詩の完成者と目される宋之問がいるが、宋之悌はその弟である。
「平生不下淚、於此泣無窮」とある。”ふだんは涙を流さないのに、ここで泣けて泣けてしかたがない”という、友を送る真情にあふれている。それは表現上の誇張にとどまらない。宋之悌が行く先の驩州(かんしゅう)は交祉ともよばれた現ベトナム北部で、当時は大変な蛮地であったからである。驩州への赴任は事実上の流刑で、様々な風土病や蛮族が跋扈し、生還は期しがたいと考えられていた。
宮廷で宋之悌の兄の宋之問と併称された沈佺期(しんせんき)も、やはり驩州に流刑の憂き目にあった。その「初達驩州」という詩で、蛮地に送られた絶望感をうたっている。

個人的には、李白の「赤壁歌送別」は、宋之悌に向けてよまれたのではないだろうか?と考えている。前四句の赤壁の戦いを描写する、いささか過剰なまでの激しい筆致は、これから友が行く先での戦いを暗示させる。また後半四句と比べての前半四句の壮烈さは、友人を鼓舞するためと考えれば腑に落ちる。それは”江夏の地で起こったこの壮大な戦いに比べれば、南の蛮族相手の戦いなどモノの数ではない”と励ましているかのようによめるのである。
事実、宋之悌は驩州へ赴任後、現地の蛮族の蜂起に遭う。しかし勇士八人を鼓舞して力戦し、ついに反乱を退けたという。とすれば、勇猛な人物であったのだろう。撃剣の使い手で任侠肌の李白とは、ウマの合った人物であったに違いない。
李白の「赤壁歌送別」が江夏で読まれたとすれば、具体的には何処であろう?と考えると、それは黃鶴樓のあった現武漢中心地ではなく「春風三十度、空憶武昌城」とうたわれるように、武昌城のあった現鄂州市あたりとも考えられる。
もっとも李白にはほかに「江夏贈韋南陵冰」という詩がある。その末尾四句は

我且為君槌碎黃鶴樓
君亦為吾倒卻鸚鵡洲
赤壁爭雄如夢裡
且須歌舞醂ネ

である。
大意を示せば”私は君をもって黃鶴樓をうちこわすから、君はわたしを鸚鵡洲におしたおしてみなさい。赤壁の両雄の戦いだって夢の中の出来事のようなもの、なにもかも歌い舞って別離の憂いをくつろげようじゃないか”という、酔いに任せた体の、実に奔放な内容である。ひろく”江夏”と言った場合、そこに黃鶴樓も赤壁も含まれるという、李白らしい気宇の大きな詩である。
ただ、李白は神仙世界のような、現実に存在しない世界を主題とする以外は、目に見た景物から空想を膨らませて詩をよんでいる。この「赤壁歌送別」も、想像の契機となるような、李白が目にした景観が、どこかにあったのかもしれない。
黄州に李白の足跡は確認できないが、対岸の武昌城ではいくつか詩を残している。李白は黄州の赤鼻磯を目にしたことがあっただろうか。
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現在の東坡赤壁は、史跡の中に入る前にも公園がある。色あせて放置された近代的な遊具の姿にやや興を削がれる思いがしたが、ともあれ入場料を払って史跡の中に入る。
昼過ぎに黄州に到着し、午後3時ごろに東坡赤壁に到着している。七月初旬の昼下がりのこととて、日差しも強く気温も湿度も高い。史跡の中に入ると、きれいに整備された園庭があらわれる。正面に向かえば、赤壁の岩崖上に構築された楼閣へのぼるようになっているが、まずは蘇軾が遊んだ赤壁をみたいものである。入って左手に見える、蓮の葉の繁茂する池に沿って歩いてゆく。
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淡水を蒸らした沼池の匂いが漂い、大きな蓮の葉が湖面をおおいつくしている。そのところどころに紅いハスの花が揺れている。小さな鴨が泳ぎながら、水にもぐったり、蓮の葉をくぐったりしている。池水の上に人の影が動くのに応じて、時折大きな魚が身を躍らせる水音が聞こえる。園内の低い木々には、蝉の声が喧しい。
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木の桟道をわたってゆくと、開けた池水の上に白い亭閣をいただいた岩崖が見える。この岩色は東坡赤壁入り口右手の岩肌と同じ色調であり、連続した地層なのであろう。なるほど、赤壁というだけあって、たしかに赤いのである。池水には白い壁と赤い岩がさかさまに映し出されている。
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唐代の杜牧は、蘇軾に先立って赤鼻磯を古戦場にみたてる詩をつくっているが、蘇軾のように、赤壁の元で船遊びを楽しんだという形跡はない。
杜牧は当時斉安郡ともよばれた黄州に、刺史として赴任している。それは杜家の長子として、失明した弟の家族も含めた大家族を養うために、なにかと役得の多い(かつ都会のような社交上の出費もすくない)地方官への転出を希望したと言われる。また一説には、牛李の党争と呼ばれる、宮廷党争から距離をおく為であったとも言われる。その「赤壁」は

折戟沈沙鐵未銷
自將磨洗認前朝
東風不與周郎便
銅雀春深鎖二喬

史学家でもあった宰相を祖父にもつ杜牧は、若いころの出世作である「阿房宮詞」にみられるように、史料に精通していた。また歴史上の事件を巧みに絶句にダイジェストして読み込む、”詠史詩”に長けている。

「赤壁」でも「東風(とうふう)周郎に便ぜずんば」と、赤壁が火攻めによる戦いであったこと、周瑜が主な功労者であったことにふれ、「銅雀春深鎖二喬」として、曹操が二喬を銅雀臺に侍(はべ)らすことを夢想した故事を織り交ぜながら、歴史の一場面を短い絶句に凝縮している。
しかし銅雀臺の建設は赤壁の戦いの後であり、袁紹の残党を掃討し、河北を完全に掌握してからの事である。”赤壁の戦い”と”二喬”を結びつけるのは、おそらくは当時すでに戯曲化された”三国志”の脚本に拠ると考えられる。

杜牧は黄州赤鼻磯付近で、川砂の中から「折戟(せつげき)」を拾った、とされる。杜牧自身がひろったのではなく、魚の網にでもかかったものだろう。赤鼻磯が古戦場でなくとも、武昌城付近では戦いが繰り返されたから、河底から古い武器が現れても不思議ではない。無論、これ自体が創作であるとも考えられる。
ここで杜牧は、赤鼻磯を古戦場の赤壁に見立てる構想に及んでいるが、この詩がいつどこで作られたか?については、実ははっきりしていない。一説には、この詩は杜牧と同時代の李商隱の作であるとも言われている。
たしかに二喬という絶世の美女に曹操・周瑜といった英雄の故事をからめてうたいあげるのは、恋愛詩に長けた李商隱の範疇としてもよさそうではある。とはいえ、李商隱が黄州に滞在した形跡はない。李商隱の作とすれば「折戟」をひろったというのも、まったくの空想という事になる。
”ハッピーエンド”で詩が終わるのは、悲劇性と残酷ともいえる描写を好んだ李商隱の作としては、少し物足りない感じも否めない。李商隱であれば.......周瑜の戦勝によって小喬は救われたけれど、その後すぐに周瑜は夭折してしまい、小喬は寡婦となって晩年寂しく過ごしたのである........というような、哀調に満ちた詩を作るのではないだろうか..........

杜牧がやはり黄州でよんだ「齊安郡晚秋」には

柳岸風來影漸疏 使君家似野人居
雲容水態還堪賞 嘯誌歌懷亦自如
雨暗殘燈棋散後 酒醒孤枕雁來初
可憐赤壁爭雄渡 唯有蓑翁坐釣魚

「憐れむべし赤壁(せきへき)雄を争いし渡(わたし)」として、黄州赤壁をモチーフに選んでいる。
「渡(わたし)」は船着き場のことであるが、黄州城外に付帯した赤鼻磯近くには長江に臨んだ城門がある。あるいはそこには船の停泊地もあったのだろう。齊安郡は黄州の別称であるから、この詩は杜牧の黄州刺史時代の詩であることがわかる。他「齊安郡偶作」など、黄州刺史時代の杜牧は佳品を多くのこしている。
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赤壁を違う角度から眺めようと、赤壁に向かって左手方向、池に沿って歩いてゆく。途中で赤壁下の池とは分離された、一面萍(うきくさ)に覆われた緑色の水面が現れる。その奥には、斜めに池水に滑り込もうとするような、巨大な赤い岩石が鎮座している。なるほど、池水に斜めに突出した赤い岩を人の鼻梁とみたてれば、赤鼻磯ないし赤鼻山という呼称もうなずける。
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この赤壁正面からみて裏手に当たるこのあたりの池は、魚の養殖でもしているのであろうか。水に近づくと、一面の浮草の間からフツフツと魚の吐くあぶくがはじける音がする。時折、池の真ん中のほうでは大きな魚が銀色の鱗をきらめかせて跳躍し、須臾のまにまに浮草の暗い破れ目から水中に消えてゆく。
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それにしても水面下をうかがいがたい、一面の緑である。杜牧の「齊安郡后池絶句」では

菱透浮萍儷喘
夏鶯千囀弄薔薇
盡日無人看微雨
鴛鴦相對浴紅衣

とよんでいるが、うき草が一面におおった池水を「緑錦」と形容している。あるいはこのような水面であろうか。
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ところで岩波文庫「杜牧集」における「赤壁」の解説には、黄州赤鼻磯が赤壁の古戦場ではないことを杜牧は知ったうえでの創作であろう、と述べている。しかし現在の大陸では、杜牧や蘇軾は、黄州赤鼻磯を赤壁と”誤解”していたのだ、とする人も少なくない。この点については多くの論考がある。
仔細はともあれ、地理や戦史に精通していた杜牧が、史上の赤壁を取り違えたままにしていたとは考えにくい。
杜牧は「早春寄嶽州李使君李善棋愛酒情地閑雅」という詩で

烏林芳草遠
赤壁健帆開

とよんでいる。「早春寄嶽州李使君李善棋」というから、早春に嶽州にいる李使君と李善棋の両氏にむけて寄せた詩であろう。嶽州(岳州)は、嶽陽樓のある現在の岳陽市で、長江の洞庭湖への注ぎ口にあたる。
赤壁の古戦場の現実の場所については諸説あるものの、概ね、武漢から長江をさかのぼり岳陽へいたる途上であると考えられている。また赤壁付近の長江北岸の烏林は、曹操が陣を敷いた場所として「三国志・魏書」ないしは「呉書」に記述がある。優れた史家であり、軍事家であった杜牧は、すくなくとも黄州の赤鼻磯が、三国時代の”赤壁”ではない、という事は認識していたに違いない。

自身すでに病んでおり、また大家族を養い難く、地方官に進んで転出した杜牧である。黄州刺史は歴とした地方長官であるが、いかんせん小さな街である。経世救民の理想からすれば、中央政官界から距離をおくのは辛い。しかし対抗勢力の監視と弾劾にさらされがちな中央にあるよりも、地方官の方が何かと役得が多いのも事実であったようである。また都会にあって社交に日を送るのは、出費の上からも、消渇(糖尿病)を患う杜牧の身体の上からも、負担が大きかったのかもしれない。

実入りが多いと言っても、杜牧の場合は貪官汚吏のそれとは違い、当時の慣行以上のものではなかっただろう。黄州での杜牧は旧弊を改めながら、善政に努めたことが伝わっている。またこの地から中央官界の友人に向けて、西方異民族への対処をめぐる献策をしきりにおこなっている。
軍事家の杜牧としては、ふと、大軍を前に存分に采配を振るう自身を夢想することがあったかもしれない。それが赤鼻磯を赤壁にみたてる奔放な発想につながっているというのは、考え過ぎであろうか。
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白い亭閣をいただいた正面からの赤鼻磯よりも、裏手の景観の方が、杜牧や蘇軾が目にした赤壁に近い自然な形をたもっているのではないだろうか。もとより、赤鼻磯の上には、さほどの建物などなかったようである。
”後赤壁賦”では蘇軾は舟を下りて断崖によじ登り、岩の上から長嘯(ちょうしょう)する。これは腹からしぼりだすように、長く連続した発声法で、野外でしばしば興にまかせて行われたという。蘇軾の長嘯に応じて草木が振動し、崖下の水は沸き返る、と描写される。赤壁の岸壁上にはハヤブサが巣食っていたというが、それはあの岩の上の鬱蒼としたあたりであろうか。
池を横断して橋があったが、途中で道が切れている。可能であれば岩崖をよじ登ってみようとも考えていたが、道もなく危険であろうから断念する。外国人が史跡に無断でよじ登った、という騒ぎになるのは有り難くないので、ここは自重である。

杜牧のように依願しての転出ではなく、流罪として黄州に左遷された蘇軾である。罪人だけに、黄州を勝手に離れることはできないし、政治行政上の権限も何もない。形ばかりの官職は、杜牧が任じられた刺史とは比較にすらならない。”黄州団練副使”という、地方の自警団の、それも副団長である。文字通り役得もない名ばかりの地位である。それでもいくばくかの俸給があったようであるが、自嘲交じりに「官家圧酒嚢」とうたったように、ほとんど現物支給のような薄給であった。ゆえに蘇軾は、昔の軍営のあった土地を借りて自ら耕作し、ほとんど自給自足の生活を強いられるのである。

ところで身分制度の時代、地位に応じた出費がつきまとう。地位と利権が与えられる代わりに、相当な支出も義務付けられたのである。それは節約すればいい贅沢、などというような性格のものではなく、怠れば罰せられる、という”制度”なのである。たとえば喪中の禁は死者との関係によって細かい決まりがあり、禁を犯せば罰せられたのである。

日本の江戸時代で言えば、大名には地方の収税権が認可される代わりに、石高に応じて人数格式を整えた参勤交代が義務付けられ、どこの藩もその支出に苦しんだ。旗本御家人であっても、石高によってやしなうべき人数があり、また武具馬具などは自弁の必要があった。
清朝の紅樓夢では、膨大な利権を与えられた屈指の大貴族の家でも、身分格式に伴う莫大な出費や、それにともなう経済観念の麻痺による浪費により、ついには没落する様が描かれる。紅樓夢のモデルとなった江寧織造の曹家も、江南の織物や塩業を仕切るという巨大な利権の見返りに、清朝皇室の御用金の調達を命じられていた。それが出来なくなったことが”お家断絶”の直接の理由になっている。

黄州は地方であるとはいっても、それなりの交際があり、なにより蘇軾は左遷されたとしても名士である。当時節句には、官府で官吏を集めた宴会が催される。流罪の身の蘇軾は参加できないか、またある程度は辞退することもできたであろうが、一応の官職があり、時宜に応じた最低限の交際は求められたであろう。

当時の黄州には李宜という名妓がおり、黄州を離任する間際の蘇軾に詩をねだった故事がある。「贈黄州官妓」という詩が残っている。当時は地方にあっても官設の妓楼があり、官選の妓女、いわゆる官妓がおかれていた。彼女たちは罪にあって断絶したり、破産没落した士大夫の家庭の子女達から選ばれ、官府で催される宴席に侍って歌や舞を供したのである。蘇軾の「贈黄州官妓」は

東坡五載黃州住
何事無言及李宜
卻似西川杜工部
海棠雖好不吟詩

概要を示せば「東坡が五年も黄州にいて李宜について何も言い及んでいないのは、あたかも蜀で杜甫が(蜀におけるすばらしい)海棠の詩をよんでいないかのようだ。」
という事で、逆説的に李宜のすばらしさを形容しているという詩である。杜甫が西川(蜀)に滞在したのも、蘇軾の黄州滞在と同じく五年間であった。

またこの詩からうかがうに、左遷の身とはいえ黄州にあって一応の官職を持っていた蘇軾は(なにより当代の名士でもあり)、官府の宴や当地の官吏との社交に、まったく無縁であったという事ではないのだろう。しかしそれは経済的に困窮していたのに妓楼で遊んでいた、というような事ではなく、なかば仕事なのである。蘇軾は離任までしばしば李宜の出る宴席に出ていたであろうにも関わらず、彼女に詩を贈らなかったのは、謹慎しての事であろう。
宴会費用は官費から出るにしても、それなりの容儀や祝儀など、自弁の支出も少なくなかったはずである。晴耕雨読の清貧の生活をしたくとも、官界の端に身を置く以上は避けられない社交や出費があり、それにくらべて現金収入はあまりに少なかったのが、黄州の蘇軾の生活であったのだろう。
しかし”前後赤壁賦”に描かれるように、気の置けない友人と連れ立って、妻の用意してくれた自家醸造の酒や簡単な酒肴を携え、船を雇って気ままに遊ぶ楽しみもあった。その方が、気楽に楽しめたに違いない。
201607黄州赤壁行
東坡赤壁の史跡の外縁に沿って、楼閣が築かれ、そこに赤壁賦を書いた歴代名家の筆跡の墨拓が掲示されている。もとより、この史跡の整備に伴って作られたものであろう、時間を割いて見るべきものはない。
201607黄州赤壁行
赤壁の正面に戻り、岩崖上の亭閣に登る。このあたりの岩を切り出して壁をつんだのであろうか、赤い人工の壁の上に白い壁の亭(あずまや)が建てられている。頂には、極彩色の楼閣が見えるが、この景観には蛇足の感がある。
201607黄州赤壁行
下の池水から立ち上って来るのか、湿度の高い熱気に蒸しあげられるようであったが、岩壁上に乗ると多少の風があり、暑さを和らげてくれる。
201607黄州赤壁行
”前後赤壁賦”が書かれた同じ年の十二月の蘇軾の誕生日に、蘇軾たちはまた赤壁に遊んでいる。”後赤壁賦”の”十月の望”のさらに後の時期である。赤壁下に舟を出して遊ぶのは一度や二度の事ではなく、お気に入りの遊び場であったようだ。この誕生日の宴の様子を記した「李委吹笛並引」がある。以下に大意を示せば

元豊五年十二月十九日、東坡の誕生日であった。赤壁磯(せきへきき)の下に宴席を張り、高峰に踞(うずくま)り、鵠巣(こくそう)を俯(あお)ぐ。
酒も酣(たけなわ)になったころ、江上に笛の音が鳴り響いた。客に郭氏、石氏の二人がいて、とても音楽に詳しかった。彼らが東坡に言うには「この笛の音には新しい趣があり、きっと非俗の者の工夫でしょう。」そこで人をやって奏者を訪ねさせると、すなわち進士の李委という者で、東坡の誕生日であると聞き、新たに曲「鶴南飛」をつくり、これを献じたというのである。
そこで李委を呼んで前にすると、青い頭巾と紫の簡素な服に、笛を携えただけであった。既に新曲を演奏し、またたちまちいくつかの曲を即興で演奏した。それは音節明瞭で、雲をうがち石をさくといったような激しくも優れた音色である。客は皆な演奏に酔いしれて倒れ伏すという有様であった。李委は、袖からすこぶる良い紙を一幅を出していうに
「私はあなたさまに特に求めるものはありません。絶句をひとつ、いただければ充分です。」東坡は笑ってたのみをきいてやった。 その詩に曰く

山頭孤鶴向南飛
載我南遊到九疑
下界何人也吹笛
可憐時復犯龜茲

という様子である。
このときの赤壁の游は、時系列で言えば”前後赤壁賦”よりも後の出来事なのであるが、どことなく”前後赤壁賦”の内容と重なる部分がある。このときは舟は出さず、赤鼻磯付近の陸上に野外の宴をはったようである。ともあれ、蘇軾とその気心の知れた友人たちとのうちとけた遊びの様子がうかがえ、また地位は低くとも蘇軾が当地の人士に重んじられていた、その気分のようなものが伝わる内容ではある。

蘇軾は元豊二年の十二月に黄州へ至り、元豊七年の四月にここを離れている。”前後赤壁賦”や、この「李委吹笛並引」の出来事は黄州生活の半ば、元豊五年の事である。この年の四月には「黄州寒食詩」が詠まれ、その困窮ぶりが切々とうたいあげられている。
ただ蘇軾の黄州赴任も三年が経過し、その間耕作に勤めた甲斐あって、あるいはこの年が豊作に恵まれたのだろうか、その晩夏から秋にかけての赤壁賦には若干の余裕が感ぜられるところである。

蘇軾が黄州で「赤壁」を詠んだ詩といえばまず「念奴橋・赤壁懐古」がある。

大江東去、浪淘盡、千古風流人物。
故壘西邊、人道是、三國周郎赤壁。
亂石穿空、驚濤拍岸、卷起千堆雪。
江山如畫、一時多少豪傑。
遙想公瑾當年、小喬初嫁了、雄姿英發。
羽扇綸巾、談笑間、強虜灰飛煙滅。(檣櫓 一作:強虜)
故國神遊、多情應笑我、早生華髮。
人生如夢、一樽還酹江月。

これは唐代の李白や杜牧の後を受けて、さらに民間での戯曲化が進んだ三国志世界が念頭に置かれているのだろう。特に「羽扇綸巾、談笑間」というくだりは、これよりはるか後世、明代の”三国志演義”を読んだ者からすれば、あたかも諸葛孔明を描写しているかのようでもある。しかし北宋のこのころは、赤壁の戦いの主役はあくまで周瑜なのである。それは三国志・呉志に引用される”江表傳”などの描写が、ひろく定着したためかもしれない。
宋代までに民間の戯作世界において確立された”周瑜像”の何割かが、”赤壁の戦功”と同時に、おそらく後世の”孔明像”に移行しているのだろう。周瑜としてはずいぶんと割を食った格好ではある。

黄州に赴任するにあたり、蘇軾が唐代の杜牧を意識しなかったという事はまず考えられない。しかし不思議と、黄州における蘇軾の詩賦に、杜牧に直接言が及ぶ作品は見当たらないのである。無論、蘇軾の赤壁懐古や”前後赤壁賦”は、杜牧の詩にはじまる着想を踏まえたものであろう。”前後赤壁賦”より以前に作られた「念奴橋・赤壁懐古」には、それが顕著に現れている。
しかし蘇軾が友人の文同との間に交わした「和文與可洋川園池三十首・竹塢」には

粗才杜牧真堪笑
喚作軍中十萬夫

という句があり、「粗才の杜牧、真に笑うに堪えたり。軍中十万夫にあたって喚作するとは」と、杜牧を笑っている。「喚作」は、「わめく」こと。軍事家であった杜牧は兵事に関する詩も多く遺しており、あるいはそれを皮肉ったものか。
また「將之湖州戲贈莘老」では

亦知謝公到郡久
應怪杜牧尋春遲

とある。謝公は蘇軾が敬慕する東晋の謝安。湖州には墓がある。これに対置して「應(まさ)に杜牧の春を尋ねるに遲きを怪しむ」とよんでいるが、杜牧はその晩年、大中四年(850年)に湖州刺史として赴任し、ここで多くの詩を残す。湖州刺史は、杜牧が幾度か請願した任地であった。しかし1年足らずで中央に召喚され、長安で没している。
蘇軾のこの詩は、読みようによっては「かの謝安は湖州のような素晴らしいところに久しく住んでここで没したのに、杜牧はその最晩年になって湖州に赴任し、それが遅すぎたのが不思議なくらいだ。」という、杜牧に対してはやはり若干の皮肉が感じられるところである。
どうも杜牧は蘇軾が範とする詩の先達者の中には、含まれていなかったかもしれない。とはいえ、蘇軾は杜牧の詩をよく読んでいた、という事でもあるだろう。
蘇軾の時代、その師の欧陽脩が提唱した古文復古が定着しており、蘇軾はその中心人物のひとりである。当時の古文復古の価値観からすれば、唐代よりも古い、漢代から南北朝の文学に重きが置かれている。その見方をもってすれば、杜牧は東晋の謝安の下に位置せざるえない、とも見られる。もっとも蘇軾は、唐代の詩人のうち、白居易や杜甫に、強い影響を受けており、唐代の詩詞を否定していたわけではない。

先の「贈黄州官妓」では杜甫に触れているが、杜甫は蜀(四川省)で五年の間、黄州における蘇軾と似たような半ば自給自足の生活を送っている。杜甫は蜀の成都にたどりつくや、諸葛孔明を祀った”武侯廟”に詣で、孔明の事跡をよんだ「蜀相」という詩をたてまつっている。また成都郊外に”浣花草堂”をむすび、農事のかたわら詩作に耽っている。
黄州へ流刑に等しく左遷された蘇軾にとって、以後は未体験の生活である。蜀の中産階級の家に生まれた蘇軾にとって、農事は親しみやすいものであったかもしれないが「東坡八首」にうたわれるように、これで家族を養ってゆけるのかと、不安に駆られることもあったに違いない。蘇軾はある部分で、故郷の蜀に流寓の生活を送った杜甫に、模範を求めたのかもしれない。それが”雪堂”の建築や、あるいは杜甫と同じく、三国時代の英雄に想いを寄せた詩賦の創作につながった、という見方もできるだろう。おなじく黄州に滞在したとはいえ、歴とした地方長官として赴任した杜牧などには、倣うという気持ちにはならなかったのかもしれない。

「念奴橋・赤壁懐古」が作られたのは、元豊五年の七月(旧暦)である。”前赤壁賦”にいう「七月既望」と同月同日であるが、この「七月既望」は赤壁下で遊んだ日付であり、”前赤壁賦”が成立したのはもう少し後であろう。
「念奴橋・赤壁懐古」もよく知られた佳作であるが、この作品で終わっていれば、内容の上では杜牧(あるいは李商隱)の「赤壁」の範疇を出てはいない。
また月の美しい夜の江上に遊び、楽曲を聴ききながら、自己の運命のはかなさを嘆くという構想において、”前赤壁賦”は白居易の”琵琶行”と重なる部分がある。事実「泣孤舟之嫠婦:孤舟の嫠婦(りふ)を泣かしむる」と、”琵琶行”における琵琶の名手の妓女に触れ、”前赤壁賦”が”琵琶行”を一部下敷きにしていることを表している。

言語が生む旋律の、このうえない美しさをもつ”琵琶行”である。しかし主題としては零落した妓女の哀愁と、それに自己の落魄ぶりを重ねて深い同情を寄せるにとどまっている。それは貴賤を越えた人生の哀歓の存在をうたいあげてはいるが、それ以上のものではない。
”前赤壁賦”では、人の運命の儚(はかな)さを、理知によって積極的に克服しようと試みる。無論、”前赤壁賦”における「洞簫を吹く客」の悲嘆は、そのまま蘇軾の心中の悲痛な嘆きであり、それを天地自然の運動に昇華することで乗り越えようとさとす「蘇子」とあわせて、自己問答による自己超克の賦なのである。
蘇軾はこの”前赤壁賦”によって、白居易や杜牧を凌ぐ文学的成就にいたっているが、それはおそらく意識的な挑戦であっただろう。その根源的な動機としては、多く指摘されるように、やはり黄州左遷の要因となった「烏台詩案」における、死を意識しながらの辛い獄中生活のトラウマであったのではないだろうか。それは蘇軾にとって、たんなる三国時代の英雄賛美や、貴賤を越えた同情や共感といった主題では、もはや癒しきれないほど深い部分の傷であったことがうかがえる。

黄州へ赴任してからの2〜3年は、目前の生活との戦いが、蘇軾を傷心から遠ざけていたのかもしれない。それが「東坡八首」に見られる耕作の成果によって安定を見せた時、将来への展望の兆しと踵を接して、陰惨な過去が胸に去来するようになったのではあるまいか。黄州での蘇軾は、まだ官界復帰の望みを捨てきってはいない。しかしそれは「烏台詩案」で経験したような、あわや凄惨な末路をも伴いかねない道である。
神宗皇帝が在位した元豊のこのころ、宮廷からは旧法派が駆逐されていたとはいえ、各地で連絡を取り合いながら巻き返しを図っていた時期である。事実、神宗の没後、蘇軾を含む旧法派は復権するのである。

”後赤壁賦”では、”前赤壁賦”で楽天的に肯定した天地自然に対し、一転して深い畏(おそ)れと慄(おのの)きがうたわれている。
ひとり断崖をよじ登る”蘇子”の姿は、何かを乗り越えようとする強い意志の表れであが、それは「二客の從うに能わざる」というような、近しい者といえど一緒に登っては来られない孤独な、そして虎や豹、龍や蛟がひそむような、危険で険しい道である。やっと断崖に立って長簫すれば、自然は親しむどころか逆に”蘇子”を圧倒し恐れさせ、震え上がるような孤独感をもって”蘇子”を襲うのである。
そこで人間存在の小ささ、はかなさにふたたび思索が及び、自らもいまだ神仙を夢見る者であることを告白して結んでいる。それは”前赤壁賦”で「吾生の須臾なることを哀しみ、羨長江の無窮なるをうらやむ」と嘆いた客に仮託された蘇軾の傷心が、解消されていないことを表明してもいる。

”前後赤壁賦”は、内容の上からも描写の上からも対照的な一対の作品で、相互に補完する関係にある。
”前赤壁賦”における”赤壁の游”では、おもむろに舟遊の情景があらわれ、それがあたかも神仙世界に遊ぶような、夢幻的なまでに美しい筆致によって描写されている。なかば理想化された”赤壁游”なのである。”桂の竿、蘭の櫂”は賦の中で朗詠される詩であるが、あたかも富豪の舟遊びであるかのような豪奢な印象を添えている。
それが”後赤壁賦”では一転し、月の美しい晩をいかに過ごすか?その動機からはじまる。そして友人の捕った魚を手に、妻の用意してくれたとっておきの酒一壺を携え、つつましく赤壁の下に遊ぶ写実的な叙述は、”前赤壁賦”にくらべて空想的な表現が控えられ、日記のような現実感にあふれている。
また”前赤壁賦”では後半の思索部分を、まずは史上の英雄の事跡を詩賦を交えてたどる。つづいて”主”から”客”へと、まるで清談のように美しく理想化された弁証によって、苦悩の昇化が試みられる。そして抒情豊かな想念のうちに、あたかもそれが成就したような印象で閉じている。
しかし”後赤壁賦”では対話に拠らず、”主”による孤独かつ肉体的な困苦をともなう行動によって、乗り越えようとする意志が表現される。そしてそれは惨めな失敗に終わり、夢にみた神仙への空しい問いかけによって結ばれる。

つまり”前赤壁賦”で解消されたかに見えた悲嘆は、”後赤壁賦”で再び振出しに戻るのである。言い換えれば、”後赤壁賦”の”主”は、”前赤壁賦”の”客”の立場に立ち戻る。以降は”前後”の繰り返しが予想される。それは”前後赤壁賦”による”主”と”客”の入れ替わりの、あるいは”前赤壁賦”の「問答」を”仮”、後赤壁賦を「行動」を”真”とした場合の虚実の循環であり、その矛盾の運動そのものがこの世界の実相なのだという、蘇軾自身の表明なのであろう。

また”前後赤壁賦”は、蘇軾の生き方に沿って、”苦悩”の内容をさらに具体的に解釈することも可能である。たとえば”後赤壁賦”における、”険しい断崖を登攀する”という行為は、直接的には官界への復帰の道を暗喩していると考えられる。
”前後赤壁賦”の書かれた前年の元豊四年の四月、神宗皇帝は西夏討伐の軍を起こすが惨敗し、その衝撃によって病に倒れる。そして元豊八年に没するまで、安定をみせない西夏情勢とともに、神宗の容体は悪化してゆくのである。こうした政変の兆しは、蘇軾のもとへも情報として入って来ていただろう。

仲秋の歌として有名な、蘇軾の”水調歌頭”でうたわれる、美しいが冷たい月世界は、宮廷、あるいは中央政官界の比喩である。当時密州知事の任にあった蘇軾は、歌の中でその月の宮殿は「長くとどまってはいられない、地上にいた方がましだ」と、皮肉るのである。
この”水調歌頭”が作られたのは「烏台詩案」(元豊二年:1079年)の前、神宗熙寧九年(1076年)の頃である。当時の官界人からすれば、蘇軾の皮肉の矛先は明らかであっただろう。こうした点も「烏台詩案」では”不敬である”として、徹底的に追及されたのである。
黄州に左遷されてからも”東坡八首”に「我久しく官倉を食らう,紅腐(こうふ)して泥土に等し」と、官製の倉に長く貯蔵されたような古い穀物はまずくて食えたもんじゃない、とうたっている。これとて「宮仕えなんてやってられないよ」という、かるい皮肉を込めているともよめるのである。

”後赤壁賦”での断崖の登攀も、崖の上のような高みにある世界は、”水調歌頭”と同じく宮廷と置き換えられる。そこへ至るには虎や豹がうずくまり、龍や蛟が潜むような危険な道しかなく、また”二客”のような在野の友人達が一緒については来られない場所にある。しかしもひとたび宮廷に登って”長簫”すれば、草木や江水に象徴される宮廷社会からの反撃に遭い、ふたたび「烏台詩案」のような恐怖を味わう事になりかねないのである。
その救いを道士に求めたところで、道士は笑って答えない。そして前赤壁賦の「洞簫を吹く客」の嘆きに立ち戻る。「洞簫を吹く客」は、過去の英雄の事跡と自己のとるにたらない境遇を対置しているが、そこには世俗的な成功への欲求があらわである。それを哲理を動員して諭すのも、また蘇軾自身なのである。
「烏台詩案」を経たためであろう、前後赤壁賦における宮廷政界の暗喩は、たくみに韜晦されている。

歴世、官界を目指す士大夫達は、栄辱(えいじょく)の理(ことわり)の矛盾の中で葛藤を強いられるのであるが、蘇軾もそれに無縁ではない。蘇軾は、官をなげうって潔く帰農してしまった陶淵明への敬慕も抱き続けながら、一方では官途での成功と晩年の安逸を得た、白居易の中庸な生き方を理想としていたようである。
能力があって仕事がしたい人間の、世から必要とされる事への渇きや焦燥が、当時の晩年と言える年齢にさしかかった蘇軾に、なかったとは言えないだろう。それは時代や国を越えて、複雑な人の世に生きる事に絶えず付きまとう命題でもある。
”野狐禅”に陥ることのない、奥深い思索の力を持った蘇軾ではあるが、一方で世俗的な欲求にも多大な関心を隠さない。それがこの人物の魅力でもある。

その華麗かつ饒舌な筆致ゆえか、歴世の評価は前赤壁賦に比重を置きがちであるが、本来は前後併せてよみ味わうべき作品であろう。

”前後赤壁賦”によって苦悩を克服しようとした蘇軾であるが、”後赤壁賦”の結末から察するに、それに成功してはいない。しかし一方では治らない病との向かい合い方を見出したかのような、平明な希望がそこに開けたことが期待できる。
”前後赤壁賦”は大変な評判を呼んだばかりではなく、蘇軾自身のお気に入りの作品でもあった。後年になって、黄州と比較にならないほど劣悪な海南島に左遷された際も、この前”後赤壁賦”を愛唱していたという。このように人生を他人任せにすることなく、”悟り”によらずとも自己を再建し、再び生きようとする蘇軾は、やはり強靭な人格であると言わざるを得ない。
201607黄州赤壁行
赤壁上の亭閣を一通り見終わると、裏手の山へ続く方面に出口がある。ここで東坡赤壁の史跡を出る格好になる。この赤鼻磯ないし赤鼻山の裏は龍山という小高い山になっている。山上にもいくつかの史跡があるようであるが、さしたる案内もなく、日が傾き、探索の時間はなさそうである。
坂道を下りながら、東坡赤壁の入り口付近にそびえる城門につらなる城壁の端に出る。どうも補修工事中のようであるが、入場料を払えば中には入ることが出来るようだ。
201607黄州赤壁行
ところで赤壁賦の成立にあたり、やはり蘇軾も赤壁を古戦場と誤認していた、という人もいる。勘違いなのか、知ったうえでそれと見立てたのかでは大きな違いなのである。しかし杜牧と同じく、史料に精通していた蘇軾が誤認していたとは考えにくい。この問題を巡っては、多くの論考があるようなので仔細はそちらに譲りたい。ここでは「念奴橋・赤壁懐古」で「人は道(い)う、是れ三國周郎の赤壁と」とうたっている部分、「人は道(い)う」から蘇軾の認識を伺うにとどめたい。

蛇足なようであるが、”前赤壁賦”では

西望夏口,東望武昌。
山川相繆,郁乎蒼蒼,
此非孟之困於周郎者乎

とある。

すなわち「西に夏口を望み、東に武昌を望む」とあるが、夏口は現在の武漢市漢口区、あるいは三国時代の夏口城とするならば武漢市武昌区になる。またここで言う武昌は、現在の武漢市武昌区ではなく、黄州対岸の鄂州にあった武昌城を指すのであろう。蘇軾には「過江夜行武昌山聞黃州鼓角」という作品があり、長江を挟んで対岸にあった武昌山を遊覧していることがわかる。
三国時代の孫権は、江夏へ進行する足掛かりとして、黄州対岸の鄂州に城を築き「武を以て昌(さか)える」という意味でここを「武昌城」と名付けている。
ゆえに黄州赤鼻磯から見て長江上流、すなわち西方には夏口があり、下流の東には武昌(城)があることになる。地理の上では「西望夏口,東望武昌」は紛れもなく蘇軾が遊んだ赤鼻磯を指している。ただし賦の中で「此(ここ)孟の周郎にくるしめられしところにあらざるや?」という問いかけにとどめられ、それに対して「蘇子」は「然り」とは答えてはいない。ここから「客」と「蘇子」の話題は過去の英雄や神仙世界へと遷ってゆくのである。この問答の転機に地理上の位置を正確に記すことで、現実と想像の接点を際立たせる効果をあげている。
しかし、なにゆえ杜牧や蘇軾が黄州赤鼻磯を赤壁に見立てたか?という問いを煎じ詰めれば.......それはここの岩崖がたしかに”赤い”ためだったのではあるまいか。地元の訛伝があったという話もあるが、確かめるすべがない。
黄州の赤鼻磯とよばれた岩崖は、喩えでもこじつけでもなく、池水や草木の緑と対照するまでもなく、赤、という以外に形容しようのない色をしているのである。もしこの岩が黒かったり白かったりしたならば、かの名作も生まれていなかったに違いない........
201607黄州赤壁行
東坡赤壁近くのこの城楼には、城門から長い石段が下りている。これはかつてこの城門が、雨季と乾季では、かるく十数メートルの水位差があるという、長江の流れに面していたことをしのばせる。階下には桟橋が築かれ、そこから舟で赤壁下に遊ぶことが出来たのであろう。その遊びは前”後赤壁賦”が晩夏以降の出来事であるように、秋から冬にかけての乾季に限られたであろう。
城壁下には、明〜宋代にかけての亀や馬の石像が並んでいる。このあたりで出土したものであるというから、あるいは蘇軾の黄州時代につくられたものもあるかもしれない。
この城楼も再建を繰り返しているはずであるが、長江に向かって右手に山を背負うこの地勢をみるかぎり、防衛上ここに城楼を築いておくのは理にかなっている。とすれば、宋代にもこの場所に城門があったのかもしれない。現在、市内から東坡赤壁にいたる道路は低地にあり、昔は長江の流れがあったのではないだろうか。
201607黄州赤壁行
城楼に登れば、東坡赤壁を見下ろす高みにある。城楼から地平を望むと、日が沈んでゆく西の方角に長江が横たわる。日の入りの遅いこの季節、雲か水面の照り返しだろうか、地平はまばゆいばかりに白く光っている。どこまでが陸なのか江なのか、はては空と地上の境までも判然としない。


猶似海成田  城邊古渡銷

陽斜巖謐謐  影落水迢迢

丹崖連畫閣  池水渡平橋

倚苑樹蟬鳴  破儷嗄敖

魚沫青萍透  浴鳥荷花搖

孟初威挫  公瑾竟矜驕

子瞻夢一鶴  牧之懐二喬

浮舟暫酔吟  憑崖獨長簫

月懸前後賦  沙埋漢魏朝

星月回幾度  空餘壁似燒
 
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