月波樓と黄州城壁

”黄州赤壁行”では”赤壁”の話からそれてゆくので大部分を割愛したが、東坡赤壁近くの城壁城楼の跡も興味深いものがあった。
大陸の諸都市は、小さな街にいたるまで城壁で囲まれていた。それは”都”や”府”、”州”、”県”といった行政区のほとんどがそうであり、城壁で囲まれていないのが”村”といったところであろうか。しかし戦後の近代化の流れの中で、市街を拡張するためにそのほとんどが取り壊されている。わずかに街の象徴として城門などを残しているところもあり、また近年、わざわざ資金を投じて復旧した街もある。徽州の歙県などもそうである。急速な近代化で街が姿を変えてゆく中で、やはり過去の街の姿に、どこか郷愁のような感情を覚えるものなのかもしれない。

この赤壁近くの城壁も、今や長く街を取り囲んで続く姿ではない。城楼から、つぎの城壁塔までのひと渡りを残すのみである。城壁の線を延長すると、東坡赤壁の裏手の山へ続いている。東坡赤壁が長江に面していたのであれば、その断崖部分は城郭の一翼を担っていたのだろう。

............それにしても「東坡赤壁」は、たしかに”赤い”色をしていたのであるが、実際の古戦場の赤壁はどうなのだろうか。赤は写真に撮影すると飛んでしまう色なのであるが、写真などで見る限り、現在の赤壁市近郊の長江江岸の断崖は赤い色をしていない。
”赤”は色彩としての”RED”の意味もあるが、むき出しの、何もない、というような意味もある。「赤貧」「赤子」「赤心」などの用法は、色が”赤い”のではなくて”赤裸々”のように、何も身に着けていない、むき出しの、という用法である。色が”赤い”のであれば、地形でいえば”紅”とか”丹”が使われる。
なので近年の映画で”Red Cliff”というように翻訳された”赤壁”は、本来は"Bare Cliff”とでも訳すべきなのかもしれない............話がそれた。
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城壁塔の壁には何やら由来が掲示してある。参観できそうな格好である。しかしどうも補修工事中のようで、しみだした湧水で坂道の道路が黒く濡れている。城壁塔に入り口があり、そこへセメントでできた階段は続いているが、瓦礫が散乱していて階段をふさいでいて「どうぞおあがりください」という雰囲気ではない。入り口も塞がれているのかいないのか、わからないような体である。しかしともかく階段を上って、中を覗いてみることにする。
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意外というべきか、暗い城壁塔の中にはやや年配の女性がひとりいて、見学するなら入場券を買わなければならないという。通常40元かかるところを、もう時間が遅いので20元で良いとのこと。ともかく券を買う。城壁塔の中からは、城壁上にでる階段が伸びている。
城壁塔の上部はかつて砲台でも築かれていたのかもしれない。今は白い石馬が鎮座している。小さな説明を読むと、これは宋代のものであるという。
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城壁は西洋の多くの城塞と同じく、いわゆる胸間城壁である。胸壁に銃眼があいている。壁の両側に胸壁があり、銃眼がある。敵に背後に回り込まれる事も想定しているあたり、独立した砦として機能するように建設されたのかもしれない。城門をそなえた城楼(あるいは門楼というべきか)の右翼はこのような胸間城壁があり、左翼は崩れた城壁と赤い色をした崖が続いている。
 
床の素材は煉瓦ではない。補修の際に、舗装しなおしたのかもしれない。青い煉瓦はところどころ補修したのであろう、新しい白い漆喰の跡がある。
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この城壁上の通路を城楼に向かって歩く途中、いろいろな石でできた遺物が無造作に並べられて展示してある。ここを「黄州石芸館」といい、さまざまな石の遺物を保管、展示しているのである。名称と大きさ、年代だけのキャプションが貼られているほか、ただそこに置かれているだけである。触るのも自由、のようである。
ふと年代を見ると「五代十六国」「唐代」などとあって、なかなか侮れない。城楼に向かって進むにつれて、唐代から宋元明清と、時代が下がってゆく。産地はこの黄州の他、蕲春など、近郊の地である。
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城楼の中もやはり石が展示されている。このとき管理をしている人は城壁塔の受付にいた女性だけだったようで、城楼の中にはこのとき誰もいなかった。
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城楼にあがって、暫し長江の方面を眺めるが、ちょうど日が傾く時刻であり、水面が反射しているのか地平線の方が白く光っていて何も見えない。とても暑い日であったが、城楼の上は風がある。やや疲労をおぼえた。しばし涼んでから城壁をおりてゆく。
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この城楼は「月波楼」といい、その創建は少なくとも唐代末期にさかのぼることが出来るという。北宋真宗の咸平二年(999年)、左遷されて黄州刺史として赴任した王禹偁(おううしょう)がこの城楼を修建し「月波楼詠懐詩」という五言の長編詩をのこしている。その80年後に蘇軾が黄州に流罪となって滞在中、赤壁で游ぶたびにこの月波楼を目にしたであろうし、月波楼から長江対岸の鄂州を遠望することもあったであろう。
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城壁塔から再び城壁の外に出ると、城壁に沿って石像が並んでいるのが目に入る。ちょうどここも工事中の様子であり、建設中の排水溝に楚々とした水が流れている。かくたる道もついていない。足を踏み入れていいものか迷っていると、受付の女性が「行っても大丈夫よ。」と声をかけてくれた。
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城壁に沿って、霊芝紋の石柱、頭部のない人物像、赤い岩石でできたやはり頭部のない馬の像、また白い亀の像が数体鎮座している。石刻の亀は「宋代・青石亀」とある。「アオイシガメ」の像ではなく、「青石」は材料の石材のことである。青石とは、湖底などに堆積した土砂や生物の死骸によって形成された、灰色ないしは灰白色の堆積岩の一種である。古い時代から建築材料や石碑、石像の制作材料として使用されてきたようで、白居易の「青石」にも「青石出自藍田山、兼車載運来長安」とある。
無論、この亀の彫像の材料が白居易のいう「青石」とは限らないのであるが、このような「青石」は山東省や四川省で産出するということであるから、あるいはこの土地のものではないのかもしれない。
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硯でも、宋代にはその造形美を極めた感がある。この”青石亀”も簡素ながら力強く、ユーモラスで印象深い。上に方形の穴が穿たれているのは、かつてはこの”青石亀”の背中で柱を支えたのだろう。中原の古代の世界観では亀が世界を支えている、という考えがあるが、おそらくこれに沿った造形であり、やはり”僻邪”の意味が込められているのだろう。
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人物像の近くに掲示されていた説明文を読むと、これは嘉靖丁未年(1547年)の黄州出身の進士、奚世亮を記念しているという。奚世亮は福建の興化に代理府知事として赴任し、当時猖獗を極めた倭寇との戦いで奮戦、戦死したという。
奚世亮の棺は黄州に運ばれ、黄州一の大寺院であった定恵院の跡地に葬られた。また、ここにある赤い石でできた石馬は”丹石馬”とある。横から見ると鞍の部分の彫琢といい、重厚な迫力がある。頭部のない人物像と併せて、奚世亮の墓前をまもる儀仗隊の一部であったという。戦死した奚世亮に対する、顕彰のほどがうかがえる。
”青石亀”は通常は墓地を守る”僻邪”として、柱を支えながらおかれるものであったという。あるいは奚世亮の墓所を守る”青石亀”であったのだろうか。時代は宋の時代とあり、東坡赤壁の近くではからずも宋代の文物に巡り合えたのは幸運というべきか。”青石亀”の方は頭部もきちんと残っている。石柱や人物像、”丹石馬”は赤い。これは赤壁と同じく、この土地の赤い岩石で作られたのかもしれない。
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こうした”青石亀”や”丹石馬”、あるいは獅子といったような石像は郊外の野原にゴロゴロしていたようで、戦前に大陸を旅した旅行者(たとえば後藤朝太郎の著作)の写真にはよく掲載されていた。その後大躍進政策や文革を経て破壊されてしまい、今ではほとんど目にすることがない。農村でまれに発見されるというが、かくゆう自身も、江南の旅ではついぞ目にした記憶がなかった。柱をささえるといえば、徽州で石鼓をいくつも目にしたが、石亀を目にした記憶がない。
奚世亮の墓地にあった石人や石馬も共和国成立当初までは原型を保っていたが、残念ながら文革の混乱の中で相当部分が破壊されてしまったという。
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定恵院は蘇軾が黄州に到着した当初、臨皋に移るまでしばらく住んでいた場所である。しかし元軍の兵火によってほとんど破壊されてしまい、明代初期は瓦礫の残る荒地であったという。そこに奚世亮の祖先が移住し、一族の集落と墓地を築いたという。むろん、奚世亮は一族の墓地に葬られたということになる。

定恵院に奚世亮の墓があったという記録と、実際に黄岡市街にこの石人石馬が残っていた場所から、定惠院のおおよその場所がわかっている。それは黄州市街の大修廠の近く、青磚湖路の一帯であるという。
ここにおかれている石人石馬は、90年代の終わりに黄岡市内の都市開発が進む中、毀損を免れるために、有志の手によって大修廠から赤壁山上に移設された。さらに近年、この月波楼に連なる城壁下に置かれたという。この後、黄州市街で大修廠付近を歩いたが、定惠院を忍ばせる跡は現地には何も残っていない。
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明代後期の奚世亮の墓地の所在をたどると、ゆくりなくも北宋の蘇軾の足跡につながっていた。東坡赤壁に連なる月波楼の下、定惠院跡にあった奚世亮の墓の遺物がおかれているのを見るのは、これもめぐりあわせというものであろうか。

月轉東坡覽古邊

波淘赤岸雅游淵

樓前逝水空殘壁

借問石龜存幾年
落款印01


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