黄州拾遺

東坡赤壁から黄岡市の市街に向かう。小さな街とはいえ、歩いて戻るにはホテルはいささか遠い距離にあり、またこの日はあまりに暑過ぎた。東坡赤壁の入り口にある広い駐車場では、いくらまってもタクシーが来る気配がない。ともかく車を拾えるところまでは歩こうと、黄岡市街の方へ歩いていゆく。
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蘇軾はその「初到黄州」の詩で

長江繞郭知魚美  
好竹連山覺筍香

長江は郭を繞(めぐ)りて、魚の美なるを知る
好竹(こうちく)山に連なりて、筍の香ばしきを覺ゆ

と、黄州の第一印象をうたっている。黄州は長江の湾曲した流れの内側に位置し、ほぼ東西南の三方を長江に囲まれている。赤壁が長江の流れに面していたとすれば、城壁も長江の流れに臨んでいたであろう。まさに”長江は郭をめぐる”なのである。

黄州時代の蘇軾は一応は官員であるが、同時に罪人であり、勝手に黄州を離れる事は許されない。
蘇軾は黄州に着いてしばらくは”定恵院”という、寺院の中の官舎に住んでいた。それから”臨皋(亭)”にうつり住む。さらに従者の馬夢得に軍営の跡地を借りてもらって開墾し、そこを”東坡”と名付ける。馬夢得の名義で土地を借りたのは、これも流刑人の禁則に触れるからかもしれない。”東坡”とは、唐の白居易が忠州に左遷されていた時、城市の東側の斜面に花を植え”東坡(東の斜面)”と名付けた故事に拠っている。
白居易は江州、忠州左遷の後、中央政官界に返り咲いているから、蘇軾が自らの耕作地を”東坡”と名付けたのは、いつかは宮廷に戻らんとする意志の表れであるとも言われる。また白居易が”琵琶行”を書いたのは江州左遷時のことであり、蘇軾の”赤壁賦”の下敷きのひとつに”琵琶行”がある事とも符合する。
また耕作地の”東坡”に、”雪堂”というあずまやを築いた。ここで墨の比較品評なども行っている。

黄州に到った蘇軾が仮寓した定惠院は、当時黄州随一の寺院であった。王朝時代、各地の寺院は宿泊施設としての役割も担っており、官吏の出張の旅の際には宿を提供していた。また赴任してきた官吏が住む、官舎としても利用された。名士の来駕ともなれば、勢い社交の場ともなる。
実際、市井の宿というのは”水滸伝”に描かれるように、無頼の徒も出入りするところであった。食事だけならともかく、不用意に泊まるのは危険ですらあったのである。
大陸の寺院は街中の宿よりも清潔に保たれ、寺院はほぼ自給自足で食材の蓄えもある。部屋も多いから、多少の人数の、急な宿泊も可能なのである。家族連れでの移動が常であるから、身分の高い女性の世話の必要もある。大陸の寺院の多くは尼僧院が併設されており、女手にも不足しないのである。
また旅の宿ではなく、官吏が一定期間定住することもあった。王安石は南京の鐘山寺を、隠棲の地としている。いうなれば地方にあって”官舎”の役割を果たす事によって、寺院にも政府からの修繕費や、また士大夫からの寄進も期待できるというわけである。
寺社に宿泊しての旅については、後藤朝太郎の「支那の山寺」を読むと、その雰囲気の一端がつかめるかもしれない。
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今回、黄州は一泊の滞在である。もとより、史跡のすべてを訪ね歩くことはかなわない。そもそも黄州は度重なる戦乱で、めぼしい史跡はほとんど残っていないのである。南宋の陸游は黄州を訪問して、臨皋や雪堂など、蘇軾の事跡を尋ねたという。しかしその後の金軍や元軍との戦いで黄州は激戦地になり、蘇軾の寓居を忍ばせる跡はあらかた焼失してしまったのだという。
蘇軾の東坡や臨亭、雪堂が何処にあったか?という事も、今や定かではない。後赤壁賦の内容などから察するに、寓居の臨皋や耕作地の東坡、また東坡に築いた雪堂などは、赤壁から徒歩で往来できる、たがいにほど近い距離にあったのだろう。
元豊五年、長沙に赴任していた米芾は黄州の蘇軾を訪ね、初めての面識をもったといわれる。(米芾の黄州行はほかに元豊四年、あるいは七年という説もある)
このとき蘇軾45歳、米芾32歳。後、米芾が蘇軾と再会するのは、蘇軾が海南島の流刑から許されて都へ戻る途上、常州でのことである。米芾との再会からほどなくして蘇軾は体調を崩し、一月後に蘇軾はこの世を去る。米芾は若いころから蘇軾の筆跡を熱心に臨書するほど、蘇軾に傾倒していた。黄州での米芾は詩や書画について大いに啓発されるところがあったようだ。
米芾は黄州で臨皋や雪堂を目にしている。また蘇軾の死後、黄庭堅が黄州を訪れ、やはり臨皋と雪堂をたずねている。

赤壁から勝利路へ向かい、勝利路を市街方向に歩くと、東に向かうなだらかな傾斜になっている。黄州は長江向かって傾斜のある丘陵上にあり、市街近くに耕作地をもとめるとすれば、傾いた土地にならざる得なかったのであろう。”東坡”の「坡(さか)」を想起させる地形である。

黄岡市は湖北省の小さな街であるであるが、勝利路沿いにはいくつかの垢抜けた雰囲気の洋菓子屋やパン屋なども見られる。
武漢も暑かったが、このときの黄州も大変な暑さと湿気で、夕方からよるにかけても気温が下がらない。東坡赤壁を出た時は四時半を回っていたが、日没は7時半であり、8時くらいでも外は明るい。
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勝利路から右に折れてゆく通りに、”黄州中心市場”なる市場がある。現在の行政区としては黄岡市であるが、ここではまだ”黄州”の呼称がのこっている。
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赤い樹脂製の桶いっぱいに”龍虾(ロン・シャア)”すなわちザリガニが売られている。大陸にとっても外来種であるはずの龍虾は、戦前に日本を経由して持ち込まれたという。大陸では生態系を乱す外来種として嫌われる事は無く、かえって養殖すらされて美味しく食べられている。
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黄岡は背後にダム湖が控え、汚染されていない水で育った龍虾は高級品として大都市へも出荷される。もっとも、この小さな市場で売られている龍虾は地元の消費に供されるのであろう。
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通りを中心に、左右に店の看板が並んでいる。生鮮食品から酒類、雑貨までいろいろな店がある。建物は白い鉄筋造りなのだが、間口の幅が同じである。また店の看板が黒地に金文字の、これも時代がかった横看板で、どことなく往時の市場の様子を感じさせる。
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”黄州中心市場”の次に右に折れる通りが”考棚路”である。この”考棚路”は勝利路に交差しながら、ちょうど”黄州実験小学校”に突き当たっている。”考棚”とは科挙の試験会場の俗称であり、厠のような狭い区画に仕切られたスペースで、受験者達は試験に挑んだのである。
正しくは黄州府試院と呼称され、また貢院とも呼ばれた。府試、院試は科挙の地方試験のさらに予備段階であり、府試合格者が院試に挑み、院試合格者は秀才と呼ばれ、郷試の受験資格を得るのである。
黄州は教育の盛んな土地柄であったようで、小さな地方の街であるが唐代には十余名の進士及第者を出している。こうした試験会場は、試験の行われない期間はそのまま読書学習の場として提供されたという事である。現在、その史跡が黄岡実験小学校の敷地内にあるという
いうなれば黄州は古くからの”文教の地”である。後に広東の恵州、果ては海南島にまで流されることに比べれば、田舎町といえども、左遷先としてはまだしも配慮が感ぜられるところである。
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考棚路から勝利路に戻りまたしばらく歩くと、やはり右手に”勝利新街”という、まだ新しそうな、ショッピングセンターと思しきアーケードの通りが目に入る。
テナントはほとんど入っておらず、また閉店しているところも多い。当時鳴り物入りで開業したのであろう。しかし家賃と売り上げがアンバランスなのか、その後閑散としている商業施設は、地方都市でよくみかける光景である。かつてにぎわったところがさびれたのではなく、一度もにぎわう事なくさびれていっているのである。急速に成長すると期待された地方都市の経済が、ここにきて急減速している傍証でもあるのだが、このように無駄に終わった投資の跡はおびただしく存在している。
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そこに一軒、暢気に店を開けている喫茶店があった。この日は頗る暑い。少し涼をとろうと、店に入る。コーヒーを頼んでから、二階に上がってしばらく休憩する。
店内ではWi-Fiが使え、本や漫画、雑誌がおいてある。また”禁煙”とある。日本では当たり前になったが、大陸でお茶を飲むところといえば、同時にタバコをふかす場所でもあるから、これもやはり新傾向なのである。
どことなく、日本の個人経営の喫茶店に近いような雰囲気である。最近、地方の街でも、このようなゆったりした喫茶店を見かけるようになった。日本においてそうであるように、儲かるような商売ではないが、一定の需要があるのだろう。あるいは資産をもった経営者が、趣味で営業している場合もある。
食事をするでもなく適当に休憩できる場所というのは、地方の街ではなかなか見つからなかったのであるが、近頃はこうした店でしばし体を休めることも出来るようになったのがありがたい。
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このショッピング・アーケードの裏手に、アーケード街に沿ったように高く、長大な壁が続いている。見上げると胸壁が供えられ、表は古い煉瓦と漆喰で固められている。これも昔の城壁の一部なのだろう。市街の中心に位置しているが、かつて二重三重の城壁が存在した可能性はある。小さな街であるが、長江中流域の要衝に位置し、古来争奪が繰り返された城であることをしのばせる。
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ひとりだけの夕食を、どこで何を食べようか?と考えた。
蘇東坡ゆかりの料理といえば、東坡肉が有名である。蘇軾が若いころ、徐州知事として赴任した際に、黄河の決壊を防ぐために官民を動員し、水害を防いだ際に住民から礼として豚肉を贈られる。その豚肉を蘇軾が料理し、官民に贈答した料理にはじまるとされる。しかし今ではもっぱら、杭州の名物料理のひとつに数えられている。
蘇軾は「食猪肉頌」という”打油詩”の中で、黄州の豚肉について

黃州好豬肉,價賤如泥土。
貴者不肯吃,貧者不解煮

と詠っている。
「猪」は日本ではイノシシであるが、大陸では今でも「豚」を指す。「黄州の豚肉は美味しいが、値の安いことは泥土の如しであり、お金持ちはあえて食べないし、貧しい者は調理がわかっていない」という。蘇軾が「食猪肉頌」で説く豚肉の調理法は、豚の頭部をトロ火で柔らかく煮込んだ料理のようである。現在知られる「東坡肉」のように、豚のアバラ肉の料理ではない。
黄州で豚肉が珍重されなかった理由はわからないが、おそらくは河川から採れる魚介類に恵まれていたからかもしれない。蘇軾が黄州を去って後も、蘇軾に「食猪肉頌」で皮肉られた通りだったのか、豚肉の煮込み料理はついに黄州の名物料理にはならなかったというわけである。

東坡肉はさておき、蘇軾が「初到黄州」で「魚の美なるを知る」と言い、また後赤壁賦で「巨口細鱗」とうたったところの、黄州の魚を食べてみよう、と考えた。
”後赤壁賦”が描写する、友人達とのささやかな酒宴では、友人が網で捕った魚をどのように調理したのかはうかがえない。季節も晩秋に到っているから寒いはずで、ぶつ切りにして鍋料理にでもしたのだろうか。舟の上でも炊事は出来るようになっている。小さな舟であっても、たいていは雨をしのぐための”苫”があり、煮炊きできるようになっていたのである。
しかし賦には”巨口(きょこう)細鱗(さいりん)、身は松江の鱸(ろ)に似たり”とある。松江は現在の上海北辺の地域を指す。また「鱸(すずき)」とあるが、「松江の鱸魚」といえば、別に”四鰓鱸”と言い、”四枚の鰓(エラ)”のある魚、すなわちハゼに似た魚のことであるという。
「世説新語」によれば、西晋時代の張翰は、宮廷で激化する権力闘争を嫌い、また故郷の松江の鱸魚の鱠(なます)と蒓(ジュンサイ)のスープ恋しさのあまり、官を擲って故郷に帰ってしまったという。以来、”蒓鱸”は、(出生栄達を望まず)望郷の念を表す語として用いられるようになる。

その”秋風歌”に曰く
秋風起兮佳景時
松江水兮鱸魚肥

とある。この歌にあるように、「鱸魚」は「太平広記」によれば、旧暦の八月九月(現九月十月)の霜の降りる頃、身が雪のように白くなり、鱠にすると生臭くなく美味であったという。
蘇軾が「身は松江の鱸に似たり」とうたったのであれば、やはり膾(なます)、つまり刺身にして食べたのではないだろうか。といっても北宋当時の”膾(なます)”は、今の日本の”刺身”のようなものではなく、細かく刻んだ魚肉を芹などの香草、調味料と和えた料理であったようだ。

蘇軾は魚の調理法としては「膾(鱠)」を好んだようで、その「有以官法酒見餉者因用前韻求述古為移廚飲湖上」には”喜逢門外白衣人、欲膾湖中赤玉鱗”とある。また「和蔣夔寄茶」には”金齏玉膾飯炊雪”とし、膾に白い米飯を添えている。
さらに「和蔡準郎中見遨遊西湖詩三首之三」では”船頭斫鮮細縷縷,船尾炊玉香浮浮”、あるいは「泛舟城南會者五人分韻賦詩得人皆若炎字四首」の”運肘風生看斫膾、隨刀雪落驚飛縷”とあるように、舟の上でも魚をさばいて刺身にしている。あるいは「杜介送魚」にも「病妻起斫銀絲膾、稚子歡尋尺素書」とあり、家庭でも刺身をつくって食べていたようである。四川省出身の蘇軾は、魚と米飯を好んだようだ。
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しかし蘇軾の昔はいざ知らず、現在の大陸では淡水魚を生食することはほとんどない。三国時代、呉の虞翻は生魚の寄生虫にあたって死んだという。時代が下がるほどに人口が増え、排水によって河川や沼沢が汚染され、寄生虫の害が無視できなくなったのだろう。清朝の随園食単には、既に魚を生食するという調理法がみあたらない。
わずかに紹興や上海を中心に、酒粕に生の蟹を漬け込んだ”酔蟹”や、生きた川蝦を度数の強いアルコールに浸して酔わせて食べる料理、あるいは淡水の蟹や貝類を塩漬けにしたものがあり、そこに淡水魚介の生食文化の名残を見るのみである。
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当然、今の黄州でも魚の生食は望むべくもない。先ほど「黄州中心市場」で、「黄州滑魚湯」という看板を出す店が何軒か目に入った。どうも黄州の名物料理のようである。そこで「黄州中心市場」に戻り、「黄州滑魚湯」を出す店に入った。
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「滑魚湯」あるいは「黄州滑魚湯」は、淡水の魚のスープである。これは魚のほかに豆腐がふんだんに入っており、江南でよく見かける「魚頭豆腐湯」に似たような料理である。「魚頭」だけではなく、魚が丸ごと一匹入っている。どのあたりが「滑魚」なのかというと、魚にでんぷん粉をつけて油で焼いてからスープを注いで煮ており、スープを吸った粉のために舌触りが滑らかになる、ということである。
連日、非常な暑さであり、そこにまたスープ料理である。しかし武漢ではお腹を少々壊しており、あえて温かい料理を選んだ、という事情もある。
この魚は、長江でとれた魚ではなく、黄岡市の背後の山間部にある、ダム湖でとれたものだという。上流に人が住んでいないので、汚染されていない水で育った魚、という事だ。なるほど、小骨が多いのは淡水魚の常であるが、味は淡白で泥臭いということもない。それに少しのごはんを添える。
調子を崩したお腹には、消化の良い白身魚と豆腐、それに暖かいスープは良い料理であった。

食事を終えて店を出ると、大粒の雨が降ってきた。夜の散策はあきらめざる得ない。明日の昼過ぎには武漢から高速鉄道で深圳、香港に戻らなければならない。現在の黄州こと黄岡県に、蘇軾の足跡をしのばせる史跡は少ないのかもしれない。とはいえ、もう少し探索しいたい場所である。再訪を期待し、翌朝、黄州を後にした。
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