新老坑小硯三面

毎度、お知らせばかりで恐縮です。長引いた風邪もようやく終息に向かいつつある気配なのですが、咳がしつこく残って難儀しています。嗅覚がマヒして食べ物の味が分からないので、何を食べても面白くない日々ではあります。思えば風邪でここまでこじらせたのは、人生で初めてかもしれません。風邪をひかない馬鹿だと思っていたのですが、寄る年波で少しは知恵がついてきた、ということでしょうか。
皆様もくれぐれもお気を付けください。
新老坑小硯
ようやく、新老坑の小さな硯を三点ばかりリリースいたしました。長らくお待たせいたしまして、申し訳ございませんでした。
あまりこういう事は言いたくないのですが、続いてきた新老坑小硯もそろそろ打ち止めになります.....ちょっとづつ仕入れができた時分にはいつまでもあると、当方も思ってしまうものなのですが、天然石だけに数に限りがあるという事ですね。
新老坑小硯
新老坑についてはあと数点単位でお出しする事があるかもしれませんが、その後は当分、新規の仕入れのめどが立たない格好になります。猛烈な勢いで大陸に硯が還流している昨今、逆の流れで仕入れる、というのは想像以上に厳しいものがあります。
まあ、新老坑がなくなったらなくなったで、他の資源を探すことになりますが、端溪はますます難しい状況です。歙州は無理ではないのですが、なかなかお高い....。蠖村石がたくさん取れればいいのですが、これもなかなか。蠖村石も宋代の出土硯にみられるような鋒鋩の良い物は現代は少ない物です。さて、どうしてゆこうか........
新老坑小硯
最近、王安石の詩を読んでいるのですが、良いですね。王安石は唐代の李商隱への傾倒がみられますが、彼のような艶麗な恋愛詩はつくらない。詩的表現美の純粋さを継承して、自分のものにしています。また前時代の詩句を採用するときなどは典故に厳格で、対句に使うのはふたつとも同じ時代の語句から引用するほど。それでいて字句の持つ意味の限界に挑戦するような、突っ込んだ表現の追求があって面白い。
王安石は言うまでもなく新法派の領袖として、蘇軾や黄庭堅、司馬光といった旧法派の最大の政敵でありました。ところが詩人、文学者としては、政治上の主張を越えて互いに深く尊敬しあう関係でもありました。

戯作の世界では「すねもの宰相」というように悪役として描かれ、近代まで”奸臣”の部類に貶められてしまったような王安石でした。林語堂の書いた「蘇軾」は講談社学術文庫で読めますが、その中でも「いじっぱり宰相」というように、蘇軾の政敵、国政を混乱させたこのましからざる人物として書かれています。林語堂の「いじっぱり宰相」も、たぶんに戯作の影響を受けた人物像と言えるでしょう。林語堂は当時優れた文学者のひとりですが、このあたりの認識は古いまま。
それが社会主義革命の流れの中で王安石とその”新法”は再評価され、今では非常に高い評価を受けています。いうなれば千年前に国家資本主義をおしすすめようとした、王安石の先進性が後の社会主義よりの知識人に評価された、というところでしょう。
そうした”進歩的知識人”の一派からは、新法に反対した蘇軾や司馬光は、大小地主の既得権益を代表する固陋な人物として貶められる始末。何事も極端から極端へ傾くものですね。

王安石は、まさに聖人に限りなく近い君子。心にはいつも下層の民の事があります。”神宗”と諡されたほどの英明な皇帝に、これほどの君子の徳を備えた宰相という組み合わせは、大陸の長い歴史の中でもそうは無いと思います。
しかし王安石の新法は、結局のところうまくいきません。その原因は旧法派の根強い抵抗によるもの、というような説明があります。しかし本質的には、王安石が理想としたような国家資本主義は、当時の情報通信や情報処理、交通といった面での技術力では、広い大陸での実施に限界があったと考えています。
新法は中小地主階級の既得権をとりあげて国家が管理する、というところにひとつの眼目がありました。何かと弊害とみられる中小地主階級ですが、蘇軾などの新たな知識人階級や、また軍事力における戦士団の供給、といった役割を担っていました。新法の施行によって地主階級(=中産資本家階級)が没落すると、教育を受けた人材や、強い結束を持った戦士団の供給が途絶えることになります。
事実、王安石が宮廷を去った後ですが、新法を継続した神宗は西夏遠征に大敗を喫します。
当時のテクノロジーでは、広大な大陸を宮廷が直接支配するのは不可能であり、中産階級に大なり小なり権益を認めたうえで義務を課す、といった方法に拠らざる得ないところがあったのでしょう。

蘇軾が地方の行政官として優れていたのは、中小地主階級の権益における収奪の行き過ぎを改め、民力の実情とバランスをとったところにあるのではないかと思います。

戯作の世界では、蘇軾を左遷したのは「いじっぱり宰相」こと王安石、というような役回りになっているのですが、蘇軾が黄州左遷の憂き目にあう「烏台詩案」が起こるのは元豊二年(1079年)。しかし王安石は先立つ煕寧7年(1074年)には既に宰相を解任されて左遷にあい、煕寧9年(1076年)にはすべての職を辞して南京の鐘山に隠棲しています。
むしろ王安石が宮廷にいた頃の方が、蘇軾にせよ自由に発言する事も出来たようで、王安石も蘇軾の才能を高く買っていたところがあります。
王安石は政治家としては厳格ですが、決して冷酷な人間ではない。むしろ非常に優しい心根の持ち主です。たとえば彼の姉妹や従姉妹には才媛が多いのですが、嫁いだ後の彼女らともマメに手紙を交換して心配したり、押韻した詩を作ってあげるなどしています。こういう人物は、実はなかなかいない。
もし王安石が宮廷におれば、後年の蘇軾も海南島まで流されることはなかったのではないでしょうか。

さて、現代のテクノロジーをもってすれば、王安石が理想とした「国家資本主義」もある完成度では実現可能なのでしょう。事実、それを推し進めているのが現在の大陸ですね。しかし案の定というべきか、肥大化した官僚機構による巨大な弊害が起きています。その原因はとどのつまり法治の不徹底にありますが、あるいは官僚機構を構成する官吏のひとりひとりが、王安石のような君子には程遠い、というところにもあるのではないかと思います。北宋の士大夫達が身につけていたような人文の深い素養の代わりに、今の人の頭にはいったい何が詰まっているのか?不思議に思うような昨今であります。
落款印01


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