三島由紀夫「習字の伝承」より

年頭に書初めをする子供も少なくなってきた昨今。今から48年前の昭和43年(1968年)「婦人生活一月号」に、三島由紀夫の幼少期の書初めの思い出を題材にとった、「習字の伝承」という文が掲載されています。
さほど長くもないエッセイですが、全文引用は著作権に触れると思いますので”書初め”に関する箇所だけを以下抜粋してみます。全文にご興味のあるかたは、新潮社から刊行されている「蘭陵王」という(たぶん絶版でしょうが、古書でみつかると思います)、三島由紀夫の晩年のエッセイ集に収録されています。

『母方の祖父が漢学者であったため、私はごく稚(ちい)さいころから、お正月というと、母の実家へ年始に行って書初めをやらされた。それも固苦しい書初めではなく、座敷いっぱいに何枚もきいろいのや白いのや長大な紙がひろげられて、文鎮で留められ、そのまわりを大ぜいの親せきの子がわいわい言ってやっているなかで、ごく小さな子には長い白鬚の祖父が、筆を一緒に持って運筆を教えてくれる。
「力いっぱい!そう、そう。思い切って!コセコセしてはいけない。思い切り、勢いよく」と男の子は特に声援される。
大きな筆にたっぷり墨を含ませて、大きな紙に思い切り書くのは、一種の運動の快感があって、子供を喜ばせる。子供は自分の体より大きな字を自分が書いた事に、何ともいえない満足を味わうのである。』

三島由紀夫の母親は旧姓を「橋」といい、父親は橋健三という漢学者でした。彼は加賀藩士の瀬川という家に生まれるのですが、その学才を見込まれて、代々加賀藩お抱えの漢学者である橋健堂の家に女婿に入り、以降、橋健三と名乗ります。検索すると肖像を観る事が出来ますが、いかにも漢学者、といった容貌をしております。
三島由紀夫は幼いころに父母と引き離されて、数丁離れた家で祖母との生活を強いられるのですが、両親や母方の親戚とまったく没交渉という事は、当然のことながらなかったようです。

『しかし私は、その後、ちゃんとした先生について、本格的に書道を習うという折がなかった。学校ではもちろん習字を習ったが、これが昔流の、肘をきちんと立て、筆の頭に一銭銅貨を乗せても落ちぬほど筆を垂直に保っていなければならぬという、固苦しい教え方だから、退屈していろいろいたずらをした。』

先生の服の背中にこっそり墨を塗る、というような事をしでかしていたようです。しかし筆を垂直に立てるという筆法は、おそらくは明治以来の、唐様の流れを発展させた書法を教えられていたのでしょう。あるいは仮名や和様などを教えられていたら、日本の王朝文学に耽溺していた平岡少年(三島由紀夫の本姓は平岡)はもう少し身をいれていたかもしれません。

『それで私はどうかというと、こんな私でも時たま揮毫をたのまれることがあり、できた書を意気揚々と母に見せるたびに、この漢学者の娘は、「よくそんな下手な字を人様に上げられるわね」
と言い放つのである。』

三島由紀夫の母親は、漢学者の橋健三の娘で橋倭文重(はし・しずえ)といいました。倭文重は自身も作家を志したこともあるほど、若いころは文学少女であり、三島由紀夫の小説家志望をもっとも後押ししたのが、この母親であったと述べています。(紫陽花の母・『蘭陵王』収録参照)逆に反対したのは、官僚家系の父親であったとも述べています。
私は三島由紀夫の作品を読むとき、時折”キラッ”と閃くような、漢文的な表現や、あるいは漢詩を翻訳したようなレトリックに出会うように思うのですが........あるいは漢学者の祖父や、その薫陶をうけた母親からの影響があるのではないか......と考えています。

ただ、三島由紀夫自身は、自分の作品というのはあくまで日本の平安以来の王朝文学や近世文学、あるいはフランスやロシアといった、海外の文学に影響を受けている事を認めているのみで、漢詩漢文からの影響について語った形跡が(私が読んだ範囲では)みあたりません。
あるいは若い一時期熱中した事を認めている、森鴎外あたりからの影響かもしれませんが、鴎外の文のみから漢籍のエッセンスを吸収したということではないでしょう。
あるいは漢学者・碩学である安岡正篤への、師事といってもいいような交際も考慮する必要があるかもしれません。三島由紀夫の事ですから、傾倒した王陽明も原文で読んでいたのではないか。

それはさておき「習字の伝承」というタイトルのわりには、三島由紀夫自身はまったくその「伝承」に預かっていないということが書かれています。彼自身のライフスタイル上の趣味はハイカラ、西洋趣味で、時に中国趣味は”悪趣味”とさえ言っているあたりは少し残念な気もします。
無論、大陸には古今相当な悪趣味もあるのですが.........当時の文学者の多くのように、東洋の骨董や古美術に傾倒するというところがなかったようです。
稀代の文士でありながら、漱石のような文人趣味は全然無いし、鴎外のような漢文書き下し調の文語体小説も書いていない、(自身を文壇に推薦してくれた)川端康成のような達筆も持ち合わせていない。

おそらく三島由紀夫にとって、もっとも美しい芸術が言語であり、文学だったのでしょう。個人的には、あの「金閣寺」を描写した魔術的な文体でもって、東洋美術の評論を書いて欲しかった気もするのですが。庭園や建築、時に音楽に言及する事はあっても、文物については関心を向けていないようです。
ただ三島由紀夫が書いた場合、現実の美術品よりも文章の中のそれが美しく、実体から乖離してゆくであろうところが、難点ではあるでしょうけれど。
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