年頭雑感

新年あけましておめでとうございます。
本年も何卒よろしくお願い申し上げます。

年末・年始のご挨拶というのは、毎年特にしていなかったのですが、それというのも2004年の年末あたりから、10年ほど年越しは徽州でしていたからでもありました。大陸は旧正月が新年というわけでしたが、西暦の新年も元日だけは休日になり、それなりに爆竹なども鳴らすわけですが、やはり旧正月の方が「正統お正月」の感があるのは否めません。そういう雰囲気にのまれていたのか、まことに不調法ながらご挨拶を欠く事が多かったように思います。
今年は諸般の事情があり、昨年に続いて日本での年越しと相成りました。

年々、厳しさを増す文房四寶の業界ですが、それは需要と供給の両面からであります。需要が先細る一方で、供給サイドの品質を保つのが非常に難しくなってきていることが感ぜられます。
私などもお世話になった老舗の書道用品店も、相次いで店を閉じられているようなここ数年でした。おそらく今後も、需要の拡大どころか維持すら見込むことはさらに困難になると思われます。日本の書道用品、文房四寶の業界が長期的に氷河期に突入することは、避けられない情勢かと考えております。
あるいは営々と続いてきた、ひとつの伝統文化の終焉を、目の当たりにしているのではないか?という感慨も、あながちではないのではないかと思うこの頃。

手間暇のかかる文化が軽んぜられ、手軽に消費出来る娯楽がもてはやされるのが今の風潮であります。あるいは本物、より本質的なもの、ないしは客観的な正しさのあるものを求めるのではなく、個々人の主観に基づく快楽を即時に供するものが、常々世上をにぎわす時代でもあるようです。
大量消費社会の時代、人の不満や不安といったものは、多く経済上の過不足に集約されるように思います。さらに換言すれば、望むような消費生活が営めないことへの不安、というようにも言えるかと思います。人々が即事の享楽を対価を払って消費し、すぐに飽きるを繰り返す方が、社会の経済発展のためには誠に好適、なのかもしれません。しかし一方、人間性に対してどこかまことに不誠実な、一言で言えば”人を馬鹿にした”、それは価値観のように思えてならない。

近年のように経済成長が停滞し、富の格差が拡大する一方の時代にはいると、従来のようなインスタントな快楽消費の拡大再生産は立ち行かなくなるであろうし、既にそうなりつつあります。人も企業も、一体、次に何をしたら良いのかわからなくなっている、というのが昨今言われる時代の閉塞感なのではないかと感ぜられます。
それはとっつきやすく、簡単に楽しめて、手っ取り早く人と差がついて、適当に飽きがくるもの.........なかんずく、すぐに儲かるもの........の中から”次の何か”を探すからで、それはもう、ほとんどやり尽くされてしまっている。あるいは、まだ手を付けていないものでも、すぐに先が見えてしまうから手に取る気もしない、という事かもしれません。

こうなったらもう、逆を行くしかないのでは?

とっつきにくく、極めて難解で、修得に時間がかかり、不惑を越えてもまだまだ半人前で、時に深い挫折感すら味わう。いまどき流行らないようなもの。たとえば、書、とか。本来、筆書も、そういうものだったはずなのですが。ここのところ、少し様相が違ってきていますねえ。

AI、エー・アイ、いわゆる人工知能の利用が今後ますます増えてくるようです。人工知能が囲碁の名人に勝ったとか、将棋の名人に勝ったとかいう事は、今後珍しい事ではなくなるでしょう。プロ中のプロ、が勝てないわけですから、一般人など問題にもなりません。
しかし、人間の掛け算割り算の暗算能力が電卓に勝てないからといって、人間の知性が電卓に負けた、とは言わないように、ある分野でAIの回答処理が大部の人間のそれを凌駕したからといって、人類すべての知性がAIに負けた、とは言い難い。AIの方が強くても、チェスも将棋も囲碁も、では人間がやらなくなるかというと、そうではない。オートバイや車で走った方が早いからと言って、陸上競技がなくならないように。機械力は別として、人間は人間の限界への挑戦、あるいは人間同士の能力の対決、が続くでしょう。
ただ将棋や囲碁などは、AI同士の対戦棋譜が、人間同士の対戦に影響を及ぼすようになってくるでしょう。そうなってくると、囲碁や将棋は、競技というよりは数学のように、何か研究対象的な行為、に変わってきてしまうかもしれません。

それとは別に、AIの存在感が急速に台頭してきた事実には、人類史の上で、ある転換点を意味しているのではないか?と感じることがあります。
たとえば、イギリスの離脱投票や、アメリカ大統領選挙の結果に見られるが如く。それは自称他称のインテリ階級、政治家やメディアや学者、批評家連が言うところの「反知性主義」ないしは「大衆迎合主義」といったネガティブなレッテル張り、反対を唱えるものたちは無知蒙昧な連中だ、と決めてかかるような、まことに堕落した知識人達の在り方が顕在化した今の時代にこそ、AIが重みを増しているのではないか、という観測。

あるいは逆にAI技術の急速な勃興が、いわゆる従来型知識人の堕落を顕在化させた、ともいえるかもしれません。言い換えれば、人類社会の”知性”の在り方が、既に危機的末期的状況にあるという警鐘を、AIの適用範囲の拡大が鳴らしている。

実はイギリスのEU離脱投票も、アメリカ大統領選挙の結果も、世界一の検索エンジンを有する某企業が、結果を正確に予測していた、という噂があります。それは膨大なインターネットのデータを解析し、AIに分析させて出た予測、ということです。それは検索エンジンの会社だけではなく、インドのAI企業の分析結果も同様だったようです。
つまり、EU離脱に投票する奴は無知だとか、トランプ候補に投票するような連中は蒙昧な田舎者だとか、決めてかかってEU残留やクリントン候補当選を信じていた”賢明な”人々よりも、AIの方が結果を正しく予見していた、という事でもあります。自分が賢いと思っていた人々が、その予測に於いて人工知能に勝てなかったという皮肉な事実。つまり彼等も、所詮は”信ずべきものを信じるのではなく、信じたいものを信じる”、普通の人間に過ぎなかったという現実。たぶん、幾分かは権威主義的で、幾分かは拝金主義的な、普通の人達........

まあそういうAI技術も、結局はそうした”エスタブリッシュメント”達に力を貸す事にはなるのでしょう。”ベスト・オブ・ブライティスト”を自任する人々も、間違えたくないからこそAIの意見を鵜呑みにするようになるのかもしれません。そうなるといよいよ人間性の危機ですね。いやしかし、そんな悲観的なことは考えないで、いかにAIで楽にお金儲けをするか?を考えるのでしょう。
近い将来、政策決定も裁判所の判決もAIにゆだねられるかもしれない。AIの決定だけに公平無私、とか言い出すようになるのかもしれない。書展の入選特選もAIが決める。

しかし気を付けなければならないのは、AIも所詮は人が作るものだ、という事です。分析のための指標はプログラムを設計する人が決める。どう決めるかは、人の価値観に拠らざる得ない。それをどう決めるべきか?というところで、やはり人や社会や時代の問題が出てくる。やはりそれは人が考えなくてはならない。それを考える限りにおいて、人は人でいられるのかもしれない。AIが主人ではなく、人が主人であり続けられるのかもしれない.............かもしれない。

 
本年も、人が正しく人でありますように。
落款印01


calendar

S M T W T F S
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30      
<< September 2018 >>

selected entries

categories

archives

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM