武漢の湯包

以前、香港の至る所にある、エビワンタンのとある店に入った時の事。店にはエビワンタンの由来を記した小札が掲示してあった。そこには意外にもエビワンタンは武漢の発祥であると書いてあった。
エビワンタンというと広東料理のようなイメージがあるが、そのあと深圳をはじめ、広州や佛山、中山、珠海、新会といった地域に行く機会があるに及び、広東一帯の街の辻々にそのようなエビワンタン、ないしはエビワンタン麺を売る小さな店が存在するというわけではない、ということが分かってきた。
エビワンタンが街角の軽食として頻繁にみられるのは香港、あるいはマカオなどの、広東でも一部の地域である。香港、マカオといった特別行政区以外で多く見られる軽食というのは、腸粉や湯粉という、もっぱら米粉を使った料理なのである。

エビワンタンも、あるいはかつて広東一帯に広まっていたが、大陸側の近代における政治経済の混乱を経て、今や香港とマカオにしか残っていないのかもしれない。現在の深圳や広州で見られるエビワンタン(麺)の店は、多くは香港からの出店なのである。
エビワンタンにはほかにも湖南省の料理人が広東で創めた、という説もある。長江と洞庭湖を挟む湖南省や湖北省であれば、沿岸よりはるか内陸ではあるが、縦横に走る大小河川と無数の湖沼が存在する。巨大な湖の上に、切れ切れに陸地が浮かんでいるような地勢なのである。淡水の魚介が豊富に採れるのであるから、エビワンタンの材料にも事欠かないのであろう。
ワンタン自体は小麦粉を使う”粉もん”料理だけに、発祥は北方であるとされる。歴史的には概ね、北方は小麦粉ないし高粱を主食にし、南方は稲作による米食である。
湖北や湖南は北上すれば長安にあたるように、昔から北方の文化との交流が盛んだった地域である。北方由来の小麦粉の皮に肉を入れたワンタンに、エビやカニを入れるのは、淡水の魚介がよくとれる南方特有の発想であろう。川蝦はやはり温かい地域でよく繁殖する。

広東には"飲茶(ヤムチャ)”に供する”点心(ディムサム)”という、”粉もん”を主体とする豊富な軽食料理の一群があるが、その源流は揚州あたりなのだと考えていた。揚州料理の源流は、さらに徽州に求めることが出来る。塩商として揚州に進出して大いに栄えた徽州商人であるが、それも乾隆年間には複雑に証券化された塩業そのものが、規制によって衰微を見せる。揚州に盤踞した富商達は、清朝後期には広東に進出し、海外との交易や金融でふたたび栄えるのである。無論、富商らと共に、料理も伝播してゆく。現在の揚州にも残る、やや大ぶりな、小麦粉主体の点心群が、広東で米粉と海鮮と出会い、さらに消化しやすく洗練されていったのではないか?というのがおおよその(独断による)理解であった。
しかし広東は現在でも湖南や湖北、四川といった地域からの人口の流入が続く地域である。大陸というのは南北よりも東西の人の移動が多いのであり、それは大河川が東西を貫流しているからでもある。なので広東料理に、湖南や湖北の影響がないとは言い切れない。
どうも”江南中心主義”とも言うべきか、洗練された都会文化は江南地方にこそある、と考えてしまいがちなのであるが、湖南や湖北の影響力も見直してみる必要があるかもしれない。

軽食一般を”小吃”ともいう。武漢はこの”小吃”が豊富なことで有名なのである。おおよそ、独特な”小吃”が発達している地方というのは、繁華な都会としての歴史が古い地域である。
もっとも、現在は各地方の”小吃”が他地方にも進出して、どこの都市でも同じような”小吃”を食べることが出来るようになったのではあるが。

大陸の古い都会を歩く時、面白いのは”巷”をのぞいて回る事だと思っている。”巷”はすなわち大通りから入った路地裏のような狭い通りで、小さな商店や民家がひしめき合っている。近年の開発などで、昔ながらの”巷”の多くが喪われた。それがそのまま都市の個性の喪失につながっている事に、市の当局者達も遅ればせながら気づいたのであろうか。その再生を試みる街もあるのだが、それが再びその街固有の景観として馴染んでゆくのは、少なからぬ歳月を要するであろう。
湖北省の省都である武漢も近代化を強力に推し進めた結果、古い街の面目の多くを喪っているのだが、かろうじて昔から続く”巷”を幾つか残している。武漢固有の”小吃”を食べたければ、こうした”巷”を歩くのが良いという。

丁度、宿泊していた臙脂路の安宿から20分くらい歩いたところに”戸部巷”という、著名な”巷”のひとつがあり、ここは”武漢小吃”の小店がひしめき合っているという。
ともあれ暑い。ようようの事、この日の太陽が沈んだのは午後の七時半を回る時刻。夜の帳さえ降りてくるのが億劫な気配の、薄明るく蒸し暑い暮れを、とぼとぼと戸部巷へ向かう。臙脂路を民生路につきあたって右手にまっすぐ歩いてゆくと、戸部巷へたどり着く簡単な道順である。民生路に沿った数階建ての棟の屋根越しに、黃鶴樓が横目で見送ってくれる。
武漢の湯包
”戸部巷”は150メートルほどの一筋の通りである。この”巷”は明代に形成され、その名の通り”戸部衙門(ぎょもん)”、すなわち戸籍を管轄する役所(=戸部)がこの場所にあったことに拠る。大陸の今風に言えば、武漢の民生局、といったところであろうか。
武漢の湯包
役所とそこへ集まる人々の需要を当て込んでか、さまざまな軽食屋台や料理店や集まるようになり、清朝の頃にはすでに”小吃”を以て知られていたという。また後に”早嘗戸部巷、宵夜吉慶街”というように”朝は戸部巷で、夜更けは吉慶街で”食事をとるといった、武漢の都会生活人の符牒が出来た。吉慶街といえば、池莉の小説「生活秀」の舞台となった、これも武漢では有名な小巷である。

武漢の代表的な”小吃”と言えば”熱干麺”である。それはゆでた麺に胡麻や落花生のペーストでつくったタレで和え、漬物などを乗せた汁無しの麺料理である。これは全国に進出していて、江南諸都市のほとんどの街の辻々に、この”熱干麺”の店が出来ている。あるいは屋台料理として供されている。しかしこうした”地方熱干麺”は、武漢の”正宗熱干麺”とはまるで違ってしまっているという。ほかの地方に進出している”熱干麺”は、麺の量が多く、軽食の範囲を超えてしまっているような感じである。
(下図 武漢蔡林記の熱干麺)
武漢の湯包
この機会に”正宗”を体験するのも一興なのであるが................この日の武漢はとても暑く、”熱・干”の字面を見ただけで、どうにも食べる気が進まない。(翌日食べたが。)

”朝食は戸部巷で。夜食は吉慶街で。”ということであるが、その戸部巷は夕方から夜も賑わっている。路地に並ぶ店の軒先からは、調理の盛大な熱気とともに、様々な食べ物の匂いが漂って来る。
武漢の湯包
戸部巷も、地元の人の生活の一部というよりは、多分に観光地化されている。おそらく夜間は若い人や、他所から武漢に来た人でにぎわっているのだろう。戸部巷に軒を連ねるのも、必ずしもすべてが武漢特有の”小吃”、というわけではなく、他の地方でも散見される”流行”の軽食類も多い。しかしそれはさておき。

いささか空腹を覚えたが、とにかく蒸し暑い。覚悟を決めていくつかの行列に並ぶとか、串を焼く熱気に耐えながら料理を待つというのは、情けないことにこの日の気力がもちそうにない。
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どこか座れる店で落ち着いて食べたいと思って歩いていると、戸部巷から枝分かれした路地に入ったところに「湯包」の看板が出ている。「湯包(タンパオ)」ないし「小湯包(シャオタンパオ)」は、上海周辺で言うところの「小籠包(シャオロンパオ)」のことである。
店内に人はあまりいないようだが、雑踏と熱気を避けたい気持ちになっていたので、ともかく入ってみよかと考えた。店の奥には短く刈った白髪頭の店主らしき人物がおり、入り口でしばらく逡巡している私の姿を認めると、「座りなさい。」と声をかけてくれる。
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店内の奥には白い猫が2匹ほど、思い思いの恰好でくつろいでいる。
ごく小さな店であったが、ありがたいことにほどほどに空調が効いている。テーブルの上には、ステンレスの容器に入った透明な酢に浸した、千切りの生姜がおいてある。
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これは上海の小籠包にはつきものであるが、特にエビやカニを入れた小籠包に合せる。漢方の考え方では、エビやカニなどを食べるときは、これらは体を冷やす食べ物であるから、体を温める生姜を必ず添えるのである。今ではカニやエビが入っていなくても、酢生姜を添えるようになった。
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椎茸入りの小湯包をひとつと.....ビールを1本頼み、じゃれつく猫を適当にあしらいながらビールを飲んで待つことにする。小さな店の常として、注文を受けてから包み始めるので、少々の時間は必要なのである。壁には雄渾な書体で、この店の湯包の味の優れたることが記された書額が掲げられている。
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待っているうちに、店の表からおかみさんらしき年配の女性が入って来て、店主を手伝って手際よく湯包をつつみ始める。また一人、二人の客が入って来て、湯包をひと蒸篭づつ注文している。彼らは戸部巷の表通りの多勢を占めていた、観光客のような雰囲気が無い。地元の人にはやはりそれなりに知られた店なのであろう。
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盛大に白い湯気の立った蒸し器に、湯包のはいった蒸籠を重ねてから、蒸すことものの数分で運ばれてきた。意外、というべきか皮が薄く、中のスープも脂濃いこともなく、上品な味の湯包である。餡の肉はあまり練っておらず、口の中で崩れるような感触である。
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実は武漢には、この店の他にも小湯包を出す店は少なくない。
「四季美」「華美」「楚漢」「今楚」「湯包大王」など、多くの湯包の名店がある。そのうちもっとも歴史が古いのが「四季美」である。創業は1927年だという。四季美の創業者が、蘇州式の湯包を武漢に持ち込み、武漢人の味覚に合わせて調理を見直し、提供し始めたという.........そういえば、猫のいる湯包の店の名を記すのを忘れていた.....
(翌朝の朝食は戸部巷にある「四季美」の湯包にした。下図)

なるほど、武漢の湯包は蘇州の湯包に似て、やや大きめである。上海のように、出来る限り小さく、皮はぎりぎりまで薄く、という格好ではない。ただ蘇州の湯包はおおむね”甘い”、わりと脂濃いのであるが、武漢のそれは甘いということはなく、味も比較的清淡である。甘さを好まないというあたりが、武漢人の好みなのかもしれない。しかし四季美の湯包には、蘇州や鎮江と同じく、黒い酢(香酢)が添えられており、昨夜の店のような透明な酢ではない。このあたりが”ルーツ”のしるしであろうか。
”甘い”湯包というのは、概して、蘇州、無錫、鎮江のあたりに分布するのであるが、鎮江特産の黒い香酢の利用に関係するのかもしれない。揚州に至ると、甘い、という事はない。長江北岸と南岸での味の傾向の違いか。ともあれ湯包ひとつとっても、地方の特色があるものである。

エビワンタンの由来が武漢とする説があるように、あるいは湯包も湖北あたりから東に下った可能性もあると考えたのだが、逆らしい。それが20世紀の初頭の時期であるというのは、蒸気機関を積んだ船舶によって、長江の遡上が容易になった時代とも重なる。かつて武漢には各国の領事館が並び、租界もおかれていた。
武漢の湯包
古い”巷”の周辺には、上海の老街を思わせるような西洋風の建物の面影ものこっており、内陸に位置しながら国際色豊かな都会であったことを忍ばせる。そういった時代の是非はともかく...............上海の小籠包ならぬ武漢の湯包が著名なのも、あるいは当時の面影を今に残している、といえるのかもしれない。
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