汪近聖の後裔? 汪繼廷「金壺汁」

だいぶ以前に入手した「金壺汁」墨である。かなり痛んでしまっていた。全体的に崩落・剥離しており、下面は磨墨されていた。表面「金壺汁」から向かって左側の側款に「汪近聖法墨」という文字が認められなかったならば、またボロボロで誰も見向きしないために至極安価でなかったのであれば、果たして購入したかどうか。
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裏面もだいぶ崩れてしてしまっているが、かろうじて「....過琴書涸汁湿金壺未....對元雲粉起處池中疑.....」という文字を読むことが出来る。また「徽城汪繼廷製」の落款が認められる。
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「金壺汁」の由来は東晋時代の王嘉という人物が書いた、「拾遺記」という伝奇集に求めることが出来るのであるが、その内容を詳述するのは別の機会に譲りたい。
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汪繼廷は清朝の墨に稀に見られる墨匠である。少数ながら過眼してきた汪繼廷の墨から考えると、やはり製墨に注力してきた人物であると察せられる。
故・周紹良氏の著作「清墨談叢」(出版:紫禁城)には、汪繼廷の項があり、いくつかの作例が掲載されている。そのひとつに、「開天容」という墨がある。周氏の考察では、方密庵の墨銘である「君任氏」と「茹古齋」という名が側款に入れられていることから、汪繼廷はかつて「開天容」を製した方密庵と関係があるのではないか?と、述べられている。また作例の年号から、汪繼廷は道光から咸豊年間にかけて活動していた墨匠であると推測している。さらに、この墨とは異なる汪繼廷の「金壺汁」墨が掲載されている。
ところで曹素功、汪近聖と併称される、清朝の名墨匠の汪節庵がいる。汪節庵は”五百斤油”など、その作例の墨銘から方密庵との関係を想起させるところがあると言われている。墨銘は一個の墨匠が占有するという例はあまりないが、広く使われるようになるにはやはり時間の経過が必要なのである。ちなみに方密庵は”揚州八怪”の領袖、金農の親しい友人でもあった、清朝初期の名墨匠である。ゆえに「開天容」だけみると、汪繼廷は汪節庵の系列の墨匠ではないか?と考えたくなる。
(開天容:方密庵〜汪節庵〜汪繼廷?)
もっとも徽州の汪氏は巨族であるから、汪近聖であろうと汪節庵であろうと、直接的な親戚関係があるとは限らない。しかしこの墨を観察して、少々考えさせられるところがあった。
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この墨の側款にある「汪近聖法墨」という表記について考えてみたい。
およそ墨銘に関して、「〜〜法製」という言い方でよくみられるのは、「易水法」「易水法製」「按易水法」といった表記である。”易水”は徽墨のルーツである、河北省の”易水”のことである。”易水”で製墨が盛んであったのは遠く唐代の頃であるが、唐末の戦乱期に、南方へ遷移したと伝えられる。発祥の地の呼称を、徽州の墨匠たちはながらく受け継いできたのである。
しかしこの墨には「汪近聖法墨」とある。このように、特定の墨匠に倣った製法である、とうたっている墨は、実のところあまり例を見ない。
汪繼廷は清朝も後半の墨匠であるから、康煕年間に生きた汪近聖とは無論、同時代人ではない。わざわざ「汪近聖法墨」と断っているのは、よほど汪近聖の墨に傾倒していた、という事であろうか。”法墨”と銘打つことは、そこに製墨法のなんらかの授受関係があったと考えたくなる。
汪繼廷金壺汁
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「汪近聖法製」に対して、反対右側の側款が非常に判読しがたいのであるが、旁(つくり)から推察するに「世孫継」であるように見える。旧字体では「繼」であるが、画数が多いため、小さな字では「継」のような略字も使用されても不思議ではない。とすれば全文は「世孫継(繼)廷」ないし「世孫継(繼)廷造」ではないだろうか。
また墨に入れられた場合の「世孫」という語は、たとえば「曹素功十世孫月舫謹守成規」というように、誰かの後代であることを銘記する場合の、常套の語である。
また、この側款と墨の形状との位置関係を見る限り、「世孫」がすでに墨全体の上の方に位置している。「世孫」の上に漢数字が一文字、はいるか入らないかで上辺の余白はいっぱいである。墨の側款も書の条幅の落款と同じで、見栄えのいい定位置というものがある。この大きさの墨、すなわち清朝の徽墨に多い”五銭”の重さの墨の場合、上の余白が狭く、下が広いのが通例である。
この(判読しがたい)側款が「世孫繼廷(造)」であったとすれば、”世”の上にさらに”汪近聖”や”曹素功”というような、他の墨匠の名が入る余地がない。とすれば、誰の「世孫」なのか?これは反対側面に「汪近聖法墨」とあるのだから、汪近聖の「世孫」、と読むよりない。そう読めば、汪繼廷の姓の”汪”を略して「世孫繼廷」とする意味ともつながることになる。

さらに言えば「世孫」の上に、漢数字「一、二、三」などが入ったとしてもせいぜい一字である。二文字、すなわち二桁ではないだろう。むしろ位置的に漢数字がなく、「世孫」としか入っていなかったのではないか?とも考えられる。
「世孫」は一般的な用法としては、「十二世孫」ないし「十四世孫」のように、数字を伴って使われる場合に「十二代目」という意味になる。広義には「後代」という意味になる。単独で「世孫」というように使われる場合は「三世」つまり孫の事である。「四世」で曾孫、「五世」で玄孫である。さらに狭義に従えば「嫡孫」、つまり直径の孫、という事になる。
しかし前述の周紹良氏の考察では、汪繼廷の活動時期は道光から咸豊年間、とある。墨の作例に咸豊年間の墨があるから、そう考えて間違いないであろう。ゆえに汪繼廷は乾隆年間まで存命した汪近聖から数えれば、世代的には早くても四代目、ないしは五代目、あるいは六代目にかかろうかという時代の人物である。ゆえにここは「世孫」を広義の「後代」「後世」と読むべきところであろう。

鑑古斎の創始者、汪近聖には三人の息子がいた。長男は汪璽藏、次男は惟高、三男は炳宇という。汪繼廷は汪近聖の息子のうち誰かの後代なのだろうか?仮に「嫡孫」であれば、そのまま鑑古斎汪近聖の名を継承したはずである。
前述の”清墨談叢”に拠れば、汪近聖の後代に「汪繼章」という墨匠がおり、彼は”汪進聖”という、”汪近聖”とは実に紛らわしい墨銘の墨を造っていたという。
中国では同じ世代親族の名に、同じ一字を使う命名法がある。”清墨談叢”では汪繼廷と汪繼章は兄弟ではないかと述べられているが、兄弟ないしは同世代の、汪近聖の後代なのではないだろうか。

汪繼廷も汪繼章も、あるいは分家したであろう、汪近聖の次男の惟高ないし三男の炳宇の子孫という事も考えられる。彼等汪近聖の息子達は、各々名工であったようだ。それは少数だが偶見される、それぞれの自身の名をいれた墨から伺える。惟高は乾隆の招聘に応じ、宮廷で製墨指導にあたった、という伝承が汪氏鑑古齋墨藪に記載されている。もちろん息子達の大半は、鑑古斎汪近聖の名を銘打った墨を造ったのであろう。
仮に汪繼廷が汪近聖の子孫であったとするならば、次男や三男の子孫であったとしても、汪近聖の製墨法のエッセンスを受け継ぐことが出来たであろう。また親戚関係であれば、汪繼廷も汪繼章もともに”汪近聖”鑑古斎の墨工として修業し、後に独立した可能性も考えられる。
前述のように周氏は汪繼廷は「開天容」という墨から、方密庵、方氏と関係が深いのではないか?と述べている。しかし汪繼廷は汪近聖の製墨法だけではなく、方密庵や汪節庵の製法も併せて研究した、ということなのかもしれない。

徽州の人々の多くは、人口に比して土地の農業生産力が限定的であるから、科挙に挑むか交易商となって徽州を離れなければならない。ゆえに”読み書き”や計数の素養は必須であり、小さな農村にも宗族が運営する学校があった。勢い識字率が高く、また文化的素養も高い地域であった。
高級墨のユーザーは文人士大夫なのであるから、文人の趣味を満足させる製品を造らなければならない。それは作り手の高い素養も要求されたのである。
汪繼廷金壺汁
徽州の墨は、烟(煤)、膠、薬が製墨の三要素だという。また難しいのは、特に薬剤の配合であるという。そこに秘伝があるそうだ。ただ配合の材料や分量がわかればいいというものではなく、入れる順序やタイミングの問題がある。徽州は大陸における漢方医療の中心地のひとつで、今でも医学薬学関係の古い書籍が見つかることがある。
一方で膠や煤といった材料は墨匠が自製する事もあったが、他所の地方から仕入れる事の方が多かったと考えられる。
たとえば良質な墨に欠かせない「広膠」は「広東膠」の事である。広膠は製墨原料である以前に、漢方薬の薬材としても流通していた。また油烟や松烟は近くは婺源ないし江西、湖北や四川などで製造し、徽州に運ばれたという。松烟は服用すれば鎮静、外傷に塗布すれば止血の効能があるとされる、やはり薬材だった。
徽州は食料の自給も難しい、山間の小盆地にあった。黄山周辺に松が豊富といっても限りはある上、油烟の原料であるアブラギリの栽培をするほど、土地の余裕はなかったのだろう。製墨業を産業として成り立たせるには、原材料の”輸入”が不可欠だったのである。
油烟であれば、油脂の状態で運ぶよりも、油脂の産地で煤にしてから運ぶ方が、はるかに大量の煤を輸送する事が出来る。松烟にしても同様であろう。
しかし油烟や松烟は、特別に品質の高い墨を造る時は、燃焼の手法に段階があり、そういう場合は自製したと考えられる。ともあれ同じ材料を仕入れる事が出来ながら、墨の品質が墨匠によって違いが出るのは、材料の選別や配合、工程に秘伝があったからであろう。それは門外不出であった事は、汪近聖や汪節庵といった特定の墨匠の墨質だけが、やはり特別なものであることから伺える。そうでなければ汪繼廷も、わざわざ”汪近聖法墨”とは銘打たなかったであろう。
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汪繼廷の墨は、以前に磨墨済みの「開天容」を磨ってみた限りにおいて、”汪近聖”に及ばないところがある点は否めない。汪近聖や汪節庵には特有の”らしさ”があるのだが、「開天容」は優れて質の良い墨には違いないが、汪近聖”らしさ”には至っていないのである。
ただこの汪繼廷の「金壺汁」に関しては、その”らしさ”が若干認められるところがある。磨る者をして、伊達に「汪近聖法墨」を名乗ってはいない、と感ぜしめるに足る墨である。
側款が「世孫繼廷」と判読可能かどうかについては異論もあるであろうから、この墨一笏をもって汪繼廷が汪近聖の子孫とは断定はできないであろう。しかし何らかの関係があったに違いない。
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”汪近聖”の墨は道光年間あたりまで力を保っていたようであるが、太平天国軍が猖獗した咸豊年間以降、とみに力を落してゆくのである。汪繼廷もその頃の墨匠であり、清墨談叢には咸豊の「将軍殺賊功紀之墨」、つまり官軍による太平天国軍の鎮圧を記念して造られた、汪繼廷の墨が掲載されている。
「歙事閑潭」を読むと、太平天国の乱における徽州の惨禍はすさまじいものがあったことがわかる。乱の平定を記念した「将軍殺賊」墨はほかにも鑑古斎汪近聖を始め、幾つかの墨匠、墨店が作っているが、そこには徽州人の太平天国軍に対する恨みの深さのようなものが感ぜられる。
汪繼廷は「君任氏」「茹古齋」の側款を併記した「開天容」や、「汪近聖法墨」を入れたこの「金壺汁」など、名墨匠を意識した製品を作っているのであるが、前述のように、墨匠名を併記した墨の作例はあまり見られない。
「開天容」については製造を委託した、という可能性は、しかし方密庵の「茹古齋」は清初中期で活動を閉じた墨匠であることを考えなくてはならない。あるいは鑑古斎汪近聖に委託したのであれば「汪近聖監製」「鑑古斎造」という表記になるところで、「汪近聖法墨」はいかにも特異であり、やはり汪繼廷は自ら墨を製したように思われる。
想像の羽をバタつかせてみれば.........戦乱で衰微してゆく”汪近聖”をはじめとする徽州の製墨業を目にして、製墨の復興を目指した人物なのかもしれない。明代末期に流行した「開天容」を造るあたりからも、どことなくそのような意識を垣間見るのである。
ともあれ、あだや疎かにしていい墨ではないに違いない。
落款印01


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