「禊泉」 〜明 張岱『陶庵夢憶』より

......東京西部で生まれ育ったわけであるが、東京の水はまずいと地方出身の親がよくぼやいていた。その街は玉川上水から水を採っていた地域だから、都心の方よりまだマシだったはずである。
その東京から学生となって大阪へ来るや、水道の水の不味さにおどろいた。地方出身の友人などは、風呂に入るのも嫌だと嘆いていた。ただ、今や東京や大阪の水も相当に改善されている。

水の悪かった学生時代の大阪から、初めて上海を訪れた際、その水の酷さに愕然とした。うっすらと褐色を呈しているような気味があり、シャワーから出るお湯が生臭い。生水は飲むなというが、言われなくても沸かして茶葉を入れなければとても飲めたものではなかった。上海市内の飲食店ではどこでもお茶が出てくるが、しかしひどく不味いものだった。茶葉も枯れ葉の屑のような、お湯に色を付ける程度のごく粗末なもので、水の生臭さを消しきれない。水替わりに、ビールばかり飲んでいた記憶がある。

しかし湖州の善韻筺徽州まで行くと、墨廠や筆匠の家で出されるお茶が実に美味い。茶葉も良い物だが、水も違ったのだろう。今でこそ、大陸でも調整された水が流通しているが、当時一般の家庭や飲食店で、水を買って飲む人は少なかったものである。
そのころ豫園の方濱中路にあった博印堂では、良い茶葉でお茶を淹れてくれたものだが、水は運んできたものを沸かしていた。どこでも来賓に良いお茶を淹れるようになったのは、ここ10年内の事ではなかろうか。その上海の水も今ではだいぶ改善されている。しかし各家庭では今やウォーターサーバーを設置して、配達される水を飲用しているところが多いのである。

大陸は総じて硬水だという。硬水になるのは、地下に滞留する時間と、土壌に拠るのだという。なるほど、はるか内陸から河川や地上を流れてくる間に、多量のミネラルが溶け込んでしまうのはやむをえまい。国土が狭く地勢が険しく、降った水があっという間に海に流れ去ってしまう日本とでは事情が異なるのである。

しかし昔から硬水ばかりを利用していたかというと、必ずしもそうではないだろう。たとえば徽州の伝統的家屋は、雨水を貯め込んで利用できるような構造になっている。雨水は貴重なもので、家屋に降った水を他所に流してしまうのは、お金を流してしまうようなものだ、という諺まである。こうした雨水は、主に炊事、飲用に使われた。雨水だけにミネラルはさほど多かろうはずがない。
無論、雨水だけで水の需要すべてをまかないうるものではなく、それとは別に、溜池、村の公共の井戸や小河川もある。徽州に限らず、概(おおむ)ね、江南の水郷は街の中央を水路が貫流している。それが水上交通と生活用水を兼ねていたのである。


ところで広大な大陸のなかでは、江南地方は比較的水に恵まれた地方であると言えるだろう。その江南にあっても、大小河川や井戸から汲まれる水の大部分は硬水である。降雨も含めて、軟水の水源は貴重なものであったに違いない。
硬水はその名の通りというか、舌に硬い、重い、からい、苦い、といった、金属的な気味を有するものである。反して軟水は、軽く、舌に甘さを感じるものである。
言うまでもなく、茶を淹れるにしても、酒を醸造するにしても、水の良し悪しは死命を決する問題である。茶の場合、やはり軟水が望ましい。
陸羽は「茶経」の中で、茶を淹れるのに適した水を選んでいる。無錫にある惠山泉はその筆頭として名高い。以前ご紹介した”唐解元一笑姻縁”にも、「せっかく無錫に行くのだから、惠山泉を汲んで帰りましょう」というくだりが出てくる。
硬水しか出ない地域であるからといって、人間はその水に適応しきれるものではないのだろう。唐代の楷書の極則と言われる碑帖に「九成宮醴泉銘」がある。醴泉(れいせん)とは醴(あま)い水の出る泉の事である。むろん砂糖水のように甘かろうはずがなく、飲みやすい、比較的ミネラル分の少ない水の出る泉だったのだろう。わざわざ銘を作ったのは、醴泉が沸き出る事自体が、帝王の聖徳を寿(ことほ)ぐ瑞兆であると考えられていたためである。長安のあった北方内陸部だけに、軟水はことのほか貴重だったのではないだろうか。


以前にも掲載した張岱の「陶庵夢憶」に「禊泉」という話がある。これは紹興で張岱が見つけた泉の水について書いている。張岱は茶に精通していたが、同時に各地の水を良く弁別できた、と語っている。
紹興は海に近い低地であるから、地下水が多少の塩分、ミネラルを含んでいる場合が多いのだろう。”潟鹵”とは、土壌が”潟”のようで、塩辛い、という意味である。しかし水脈によっては、状態の良い水も沸くところがあったのだろう。禊泉はそうした泉の一つと考えられる。紹興が現代にいたるまで酒の醸造で有名なのも、やはり水に拠るところが大きいのだろう。
陶庵夢憶の「禊泉」の大意を以下に試みる。



「禊泉」




 惠山泉不渡錢塘、西興腳子挑水過江、喃喃作怪事。有縉紳先生造大父、飲茗大佳、問曰“何地水?”大父曰“惠泉水。”縉紳先生顧其價曰“我家逼近衛前、而不知打水吃、切記之。”董日鑄先生常曰“濃、熱、滿三字盡茶理、陸羽<經>可燒也。”兩先生之言、足見紹興人之村之樸。

『惠山泉、錢塘を渡らず、西興(せいこう)の腳子(きゃくし)水を挑(かつ)いで江を過ぎるに、喃喃(なんなん)怪事を作す。有る縉紳先生、大父を造(たず)ね、茗(ちゃ)を飲みて大いに佳(よ)し、問うて曰く“何地の水ぞ”大父(たいふ)曰く“惠泉水。”縉紳先生、其の價(あたい)を顧(かえりみ)て曰く”我家、近衛の前に逼る、水を打ちて吃(きっ)するを知らず、切に之を記せ。”
董日鑄(とうじっちゅう)先生、常に曰く“濃、熱、滿、三字に茶理を盡(つく)す、陸羽の『經』は燒くべき也。”兩先生の言、紹興人の村の樸を見るに足る。』

 惠山泉は錢塘江を越えて運ばれる事がなかった。杭州の西興(せいこう)の渡しの腳子(きゃくし:人足)らが水を担いで江をわたりながら(惠山泉だけ銭塘江を越えないというのは)不思議な事であるとぶつぶつ言ったものである。
さる縉紳先生(郷紳)が、祖父をたずねて、その茶を飲んでたいへんうまかったので「これはどこの水ですか?」と尋ねた。祖父が言うに「惠泉水です。」というと、縉紳先生は其の値段(の高い事)を顧(かえりみ)て言うに”我が家は(紹興の)衛前(門)のすぐそばであるのに、この水を飲むことを知らなかった。きっとこれを覚えておくように。”(すなわち”惠泉”を”衛前”と聞き間違えたのである)
董日鑄(とうじっちゅう)先生は常々いっていた。「濃、熱、滿、この三字に茶の道理は尽くされている。陸羽の茶経などは焼いてしまったほうがいい」
この二人の先生の言いざまは、紹興人の野暮で素朴なところを良く表している。


余不能飲潟鹵、又無力遞惠山水。甲寅夏、過斑竹庵、取水啜之、磷磷有圭角、異之。走看其色、如秋月霜空、噀天為白、又如輕嵐出岫、繚松迷石、淡淡欲散。余倉卒見井口有字劃、用帚刷之、“禊泉”字出、書法大似右軍、益異之。

『余、潟鹵飲むあたわず、又、惠山の水を遞(はこ)ぶ力なし。甲寅の夏、斑竹庵を過ぎるに、水を取りて之を啜(すす)る、磷磷(りんりん)たる圭角(けいかく)あり、之を異とす。走りて其の色を看るに、秋月(しゅうげつ)霜空(そうくう)の如く、噀天為白、又(また)輕嵐(けいらん)出岫(しゅっしゅう)の如く、繚松(りょうそう)迷石(めいせき)、淡淡として散ぜんと欲す。余、井口に字劃あるを見る、帚(ほうき)を用いて之を刷(は)くに、“禊泉”の字出ず、書法大いに右軍に似る、益(ま)して之を異とす。』

私は、(紹興周辺の)潟鹵(塩辛い水)は飲むことが出来ないし、また、惠山の水を運ばせるほどの資力もなかった。
ところで甲寅(万歴四十二年)の夏、斑竹庵に行き、その水を汲んで啜(すす)ってみると、磷磷(りんりん:ごつごつとした)たる圭角(けいかく:カド)が感ぜられたので、これを不思議に思った。
そばに行ってその泉の色を看るに、霜が降りる気配に満ちた空に、秋の月が白く冴えわたっているかようのであり、また輕嵐(けいらん;淡いもや)が岫(しゅう:やまあいの洞穴)から立ち上って、松にまとわりつき、また石の間をさまよいめぐっているような、そして徐々にうすくなって消え去りそうにも感ぜられた。
私は井戸端に字が彫られているのが見えたので、帚(ほうき)とってこれを刷(す)ると、“禊泉”という文字が現れ、その書法は右軍(王羲之)の書に大変似ていた。それでますます不思議に思ったのである。
(言うまでもなく、王羲之は後年を紹興で過ごしている。)


試茶、茶香發。新汲少有石腥、宿三日氣方盡。辨禊泉者無他法、取水入口、第橋舌舐腭、過頰即空、若無水可咽者、是為禊泉。好事者信之。汲日至、或取以釀酒、或開禊泉茶館、或甕而賣、及饋送有司。

『茶に試みれば、茶香(ちゃこう)發っす。新たに汲むは少しく石腥あり、三日を宿(しゅく)し氣方に盡(つ)きん。禊泉を辨(べん)ずる者は他に法なし、水を取りて口に入れ、第(つい)で舌に橋(はし)して腭(あご)を舐め、頰を過ぎれば即ち空し、水無くして咽(の)むべき者の若し、是を禊泉と為す。
好事の者之を信ず。汲みて日至り、或いは取りて以って酒を醸(かも)し、或いは禊泉茶館を開く、或いは甕(かめ)に賣(う)り、有司に饋(はこ)び送るに及ぶ。』

ためしに茶を淹れてみると、茶の香りがたった。新しく汲んだばかりの水はやや石の臭みがあのだが、三日ほどおくとその気が消える。
禊泉の水を弁別しようとすれば、他に方法が無いのだが(その方法とは)、水を汲んで口に含み、次に舌の上にのぼらせて顎(の内側)を舐め、頬を水が通り過ぎるとすぐに余韻が消え去って、飲み下すべき水が口中に無いようにも感じられる、これが禊泉の水である。
好事家たちはそれを信じて毎日来ては水を汲み、あるいはその水で酒を醸造し、あるいは茶館を開いたり、あるいは甕に入れて売ったり、役人への贈り物にするまでに及んだのである。


董方伯守越、飲其水、甘之、恐不給、封鎖禊泉、禊泉名日益重。會稽陶溪、蕭山北幹、杭州虎跑、皆非其伍、惠山差堪伯仲。在蠡城、惠泉亦勞而微熟、此方鮮磊、亦勝一籌矣。

董方伯、越を守るに、其の水を飲み、之を甘きとし、給えざるを恐れ、禊泉を封鎖し、禊泉の名は日益(ごと)に重し。
會稽(かいけい)の陶溪(とうけい)、蕭山の北幹(ほくかん)、杭州の虎跑(こほう)、皆な其の伍に非ず、惠山(けいざん)差(わずか)に伯仲(はくちゅう)に堪(た)う。蠡城(はんじょう)にありて、惠泉は亦た勞して微(わずか)に熟(じゅく)す。此の方は鮮磊(せんらく)、亦た一籌(いっちゅう)を勝る。

董方伯が越(紹興を含む地方)の太守に赴任し、禊泉の水を飲み、その甘さに感じ入り、水が不足する事を恐れて、禊泉を封鎖してしまった。そのため禊泉の名が日増しに高まったのである。
會稽(かいけい)の陶溪泉、蕭山の北幹泉、杭州の虎跑泉(といった各地の名泉の水)もみな禊泉にならぶものではなく、わずかに惠山泉がこれに肩を並べえた。しかし蠡城(はんじょう:紹興)まで惠山泉の水を運ぶなら、その水は疲れて、また老化してしまっている。こちら(禊泉)の方は新鮮で軽く舌の上にころころするようで、やはり一段とまさっているのである。


長年鹵莽、水遞不至其地、易他水、余笞之、詈同伴、謂發其私。及余辨是某地某井水、方信服。昔人水辨淄、澠、侈為異事。諸水到口、實實易辨、何待易牙?余友趙介臣亦不余信、同事久、別余去、曰“家下水實行口不得、須還我口去。”

長年鹵莽、水を遞(はこば)せて其の地に至らず、他の水に易(か)う、余之を笞(むちう)つ、同伴を詈(ののし)りて、其の私を発すと謂う。及ち余の是の某地(ぼうち)某井(ぼうせい)の水を辨(べん)ず、方に信服す。
昔人、水の淄(水)、澠(水)を辨ず、侈(おおい)に異事と為す。諸水の口に到るに、實實(じつじつ)として辨じ易し、何ぞ易牙(えきが)を待たん。
余友(よゆう)趙介臣(ちょうかいしん)、亦(ま)た余を信ぜず、同事(どうじ)久し、余に別れて去るに、曰く“家の下水の實(じつ)に口に行う得ず、須べからく我が口を還(かえ)し去れ。”

長年仕えた魯鈍な家僕に、(地方の)水を運ばせようとしたとき、その地まで行かず、他の(入手しやすい)地の水を代わりに運んできた。私がこの家僕をむち打つと、彼は同行の者に、(その地まで行かなかったという)秘密を暴露したと言って罵った。しかし私が、この水はどこどこのどの泉の水であるかということを弁別すると、はじめて信服したのである。
昔の人は(易牙が山東省を流れる)淄(水)と澠(水)の水を弁別したことを、大いに不思議な事だと言っているが、さまざまな地方の水も口に含めば、実際のところはわけなく鑑別できるのであって、何も(伝説的な料理人の)易牙でなければならないということはない。
私の友人の趙介臣(ちょうかいしん)もまた、私が水を飲み分ける事を信じなかったが、長い事同僚として仕事をしたのち、私と別れて去る時に言ったものである。
「(あなたのご教示のおかげで)わたくしの家の水なんぞ、まったく飲めたものではなくなってしまいました。私の(昔の)口を還してくださらないわけにはいきませんぞ。」

後記)


張岱は茶に僻があったが、茶葉をよく飲み分ける以前に、水の味に精通していた、というわけである。茶の味は用いる水で変わるわけであるが、茶に適した泉については陸羽以来、常々やかましく言われていたのだろう。
「紅樓夢」では、茶に精通した妙玉という女性が登場する。彼女が宝玉等に出すお茶に使われている水は、特定の日に降った雪を煮て貯蔵しておいたものである。それがどのようにつくられた水であるかを言い当てろ、というのだから難しい。適当な泉が無ければ、やはり降雨や降雪を利用することもあったのだろう。
「西遊記」には孫悟空が薬を調合して王の病を治す話がある。悟空は丸薬を服用するのに”無根水”を用いよ、というのだが、”無根水”とは雨水のことである。内蔵の病にかかった病人が飲むのに、井戸水などは避けよ、ということか。
ともあれ、特別な泉がなくとも、雨水の利用などで軟水も入手できたわけである。
また”甘露”という、醴泉と同じく天子の徳を讃える瑞兆とされる現象がある。これは甘く美味しい水のことである。”甘雨”というと、耕作の時宜に適した降雨のことであるが、これに由来する語ではなかろうか。欲しいときに降ってくれる、恵みの雨を口にすれば、それは甘く感じたことであろう。日本では離島でないかぎりは雨水の直接利用は重要ではないが、大陸では降雨が飲み水の貴重な水源であったことがうかがえる。

また墨を磨るにしても、軟水の方が良く溌墨する。大陸は総じて硬水ということで、日本の墨との性質の違いは、水に拠るのではないか?という意見もある。しかし大陸においても、必ずしも硬水ばかりが利用されてきたわけではない、という事は注意していいだろう。
泉水でも降雨でも、良質で飲用に適した水は貴重な資源であること、物流の発達していなかった往時である。現代に勝る事は幾層倍であっただろう。
落款印01


calendar

S M T W T F S
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30      
<< September 2018 >>

selected entries

categories

archives

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM