言わぬが花とはいうけれど

........某TV番組に出品された茶碗の真贋で揺れているそうな。驚くべきことには、異を唱えた方に批判が集中しているのだという。議論の行方はさておき、異論に対してこうも寛容さがないのが今の世の中なのだろうか。外野としては、せめて異論は異論で”面白い!”とは思えないものだろうか。偽物の時計やブランドバッグに厳しい目を向けるほどには、骨董文物の真贋に厳しくなくても良い、という事なのだろうか。

陶磁器に限らないが、時代認定、真贋の見極めは難しい問題である。特に人工の工芸品であると、技術は年々進歩しているので、鑑定する側も研究を重ねないと危ないのである。そんな陶磁器の贋作づくりの技術に傾注する理由はといえば、やはり高値で売れるからである。数千万円から数億、数十億の商品の開発と思えば、すくなからぬ投資をしたとしても見合うからである。
..........ルビーやサファイヤなどは、肉眼での鑑定はもはや不可能で、特殊な装置を使わなければ確実に天然、という事は断定できないという事である。天然の最上の石に匹敵する宝石が人工で作れるのであれば、それはそれで良いではないか?と思う向きもあろう。が、それではやはり、天然石の価値を担保しないと市場が成立しなくなる、という事情もあるだろう。
これは天然と人工の比較の話ではあるが、”目利き”の経験則とは別に、科学的な鑑定も必要だという事でもある。

南宋や明代と同じような陶磁器が造れたのだとすれば、それはそれで”優れた陶磁器”として愛でればいい、として割り切ってみても、ある価値観では是とされるかもしれない。しかし時代を経た品物と同列に評価していいかというと、そういう事ではないだろう。
それは歴史の捏造と同様、後人としては懼れ慎まなければならない事ではないだろうか。
「本当のところはどうなのか?」という事を追求するのは、たしかに組織などにおれば煙たがられる事でもある。おおよそ、石もて追わるるがオチなのである。
しかしまあ多勢の人が「これはきっと本物だろう。」という夢を見られるのは、どこかに本物があるからである。その本物の存在は、倣古を手にとって夢見る人ではなく、本当のところをもとめる人によって支えられるものである。そういう人がまったくいなくなってしまったとき、きっとその文化は滅びるのだろう。

極めて個人的な主観を満足させること、ついでにお金になること、でもって万事よしとされているような昨今であるから、客観的な事実などは誰もありがたがらない、という事なのかもしれない。”言わぬが花”も、なるほど処世であろう。だから当世、どこを向いてもお花畑が満開なのである。それは何も陶磁器に限った話ではないのであるが。
今や真実も多数決で決まるのだろうか。堕落した権威主義すら滅んだ次の時代は、すべての価値判断が喪われ、お金だけが意味を持つ指標になってゆくのかもしれない。ぞっとしない話である。
落款印01


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