「蘭雪茶」 〜(明)張岱「陶庵夢憶」

先に徽州の高山茶で少し触れたが、明代末期、張岱の「陶庵夢憶」に『蘭雪茶』という、茶に関する一節がある。

日鑄者、越王鑄劍地也。茶味棱棱、有金石之氣。歐陽永叔曰“兩浙之茶、日鑄第一。”王龜齡曰“龍山瑞草、日鑄雪芽。”日鑄名起此。
京師茶客、有茶則至、意不在雪芽也、而雪芽利之、一如京茶式、不敢獨異。

日鑄(じっちゅう)者は、越王(えつおう)鑄劍(ちゅうけん)の地なり、茶味は棱棱(りょうりょう)として金石(きんせき)の氣有り。歐陽(おうよう)永叔(えいしゅく)曰く“兩浙の茶、日鑄を第一とす。”と。王龜齡(おうきれい)曰く“龍山の瑞草、日鑄の雪芽。”日鑄の名は此に起こる。
京師の茶客(ちゃきゃく)、茶有れば則ち至るも、意は雪芽に在らざるなり、而(しこう)して雪芽は之を利とし、一如(いちにょ)に京の茶式、敢(あえ)て獨(ひと)り異とせず。

(大意)
日鑄(じっちゅう)嶺は越王が刀剣を鋳造した(山)地である。(その地の)茶の味は(造剣の地だけに)カドがあり、金石(青銅)の気味があった。(北宋の)欧陽脩曰く”両浙の茶は、日鑄が第一である。”と。また南宋の王亀齢(十朋)が言うには”龍山の瑞草、(あるいは)日鑄の雪芽”と。日鑄の名はこれによって知られるようになった。
都の茶の仲買人は、茶があると聞けばすぐにやってくるが、目的は(日鑄の)雪芽になかった(龍山の瑞草を選んだのである)。しかしながら雪芽はこれをよいこととし、まったく京の茶の(製法)淹れ方に従い、それにあえて異論をとなえるものがなかった。
 
三峨叔知松蘿焙法、取瑞草試之、香撲冽。余曰“瑞草固佳、漢武帝食露盤、無補多欲、日鑄茶藪、‘牛雖瘠憤於豚上’也。”遂募歙人入日鑄。
扚法、掐法、挪法、撒法、扇法、炒法、焙法、藏法、一如松蘿。

三娥叔、松蘿(しょうら)の焙法を知り、瑞草を取り之を試みるに、香り撲冽(ぼくれつ)たり。余曰く“瑞草は固より佳し。漢の武帝は露盤を食らい、無補(补)にして多欲(たよく)。日鑄の茶藪(ちゃすう)、‘牛は瘠(やせ)たりといえども豚の上に憤(ふんす)る’也。”遂(つい)に歙人を募り日鑄に入れる。扚法、掐法、挪法、撒法、扇法、炒法、焙法、藏法、一に松蘿の如く。

(大意)
叔父の(張)三娥は、松蘿茶の焙(煎)法を知り、(龍山の)瑞草を摘んでこの焙煎法を試してみたが、清らかな香りが鼻腔を撲(う)った。私が言うに『(世間の珍重する龍山の)瑞草はもとより良いものです。昔、漢の武帝は承露盤を設け仙人掌に受けた甘露を飲んでも、なんら益がないうえにかえって欲深くなるというありさま。(そんな意味のない高価な茶を飲むよりも、誰も目をつけてない)日鑄(山中)の茶藪(畠)は、”痩せて弱い牛でも、豚の上にのれば豚は驚いて死んでしまう”というものです。』
そこでとうとう、歙県の製茶に通じた人を募り、日鑄に入らせて茶を作らせた。その扚(ひ)く法、掐(つ)む法、挪(も)む法、撒(ま)く法(以上、茶葉の摘み方、揉み方か)、扇法(ひろげ乾燥させる法)、炒法(熱を入れる)、焙法(焙煎)、藏法(保存法か)は、まったく松蘿(茶)の製法のようにした。

他泉瀹之、香氣不出、煮禊泉、投以小罐、則香太濃郁。雜入茉莉、再三較量、用敞口瓷甌淡放之。

他泉でこれを瀹(にる)に、香氣(こうき)出でず。禊泉(けいせん)を煮て、小罐を以て投じ、則ち香は太いに濃郁(のういく)。茉莉(まつり)を雑入し、再三(さいさん)較量(かくりょう)し、口(くち)敞(ひろ)き瓷甌を用いて之を淡放(たんほう)す。

(大意)
ほかの泉の水で日鑄の茶を煮ると、その香気は現れない。禊泉(けいせん)の水を煮て、小さな壺に入れると、実に濃厚な香りがする。(茶の香がきつ過ぎるので)茉莉花を混ぜ合わせ、なんども攪拌し、口のひろい磁器の瓶に入れて茶葉をくつろげる。

候其冷、以旋滾湯衝瀉之、色如竹籜方解、冓棺勻、又如山窗初曙、透紙黎光。取清(青)妃(媲)白、傾向素瓷、真如百莖素蘭同雪濤並瀉也。
雪芽得其色矣、未得其氣、余戲呼之“蘭雪”。

其の冷める候、滾湯(こんとう)を旋(まわ)し之に衝瀉(しょうしゃ)す、色は竹籜(ちくたく)の方(まさ)に解(と)けたる、冓粥覆蠅腓ふん)の初めて勻(う)ちたるごとく。又た山窗(さんそう)の初曙(しょしょ)、透紙(とうし)黎光(れいこう)の如し。清(青)を取って白に妃(媲:はい)し、素瓷に傾向すれば、真に百莖(ひゃっけい)の素蘭の雪濤と同じく並び瀉ぐが如し。
雪芽は其の色を得るも、未だ其の氣を得ず、余戲(たわむ)れに之を“蘭雪”と呼ぶ。

(大意)
その冷めるころに、煮えたぎった湯をまわしかけてると、その色はまさに竹の皮がむけたばかりの、白い粉がまぶれた青竹のごとく。また山荘の窓辺に朝日がさしこみ、障子の紙を透かしたあかつきの光のごとく。青をとって白に配するように(うまく塩梅をとって)、素焼きの壺に茶をかたむければ、まさにおびただしい素蘭が、波頭(なみがしら)も白き波濤とともに、そこへおちかかるようである。
(新芽を摘んだ日鑄の)雪芽(茶)はそのような茶の色をしているものの、まだこのような香気を得るにはいたっていなかった。私は(新しい製法で出来たこの日鑄の茶を)戯れに”蘭雪”と呼んだ。

四五年後、“蘭雪茶”一哄如市焉。越之好事者不食松蘿、止食蘭雪。蘭雪則食、以松蘿而纂蘭雪者亦食、蓋松蘿貶聲價俯就蘭雪、從俗也。乃近日徽歙間松蘿亦名蘭雪、向以松蘿名者、封面系換、則又奇矣。

四五年の後、蘭雪茶は一哄(いっこう)して市(いち)の如く。越の好事者、松蘿を食(くら)らわず、止(とど)めて蘭雪を食らう。蘭雪則ち食わば、松蘿を以て而して蘭雪の者に纂(さんし)て亦た食らう。蓋(けだ)し松蘿は聲價(せいか)を貶(おとし)め蘭雪に俯就し従俗(俯仰随俗)也。乃ち近日の徽歙の間、松蘿は亦た蘭雪に名を改め、向って松蘿の名の者を以て、封面を系換(けいかん)す、則ち又奇矣。

(大意)
四、五年の後、蘭雪茶はドッともてはやされて、(蘭雪茶をほめそやすこと)まさに市場の喧騒のようなありさまとなった。越(紹興)の好事の者は、松蘿(茶)を飲まずに、人を引き留めては蘭雪を飲んだ。蘭雪を飲めば、松蘿茶であるのにそれを蘭雪茶であるとして飲み、こうして松蘿茶は評価を落として蘭雪の置くというのは、(おのおのが茶の味を解したわけではないく、まったくって)世間の流行に乗せられたものであった。
また最近の徽州の歙県あたりでは、松蘿は蘭雪に名をあらため、松蘿とすべき茶を、封面(ラベル)を(蘭雪)張り替えているのは、まったく奇怪なことである。

 
(補足)
日鑄の”茶藪”というのは、日鑄山中の、半ば野生化した茶畠のことではないだろうか。野生の茶樹は雲南省などの内陸にあり、紹興近郊の山中にあるような茶樹は、かつて人の手によって植えられたものであると考えられる。欧陽脩の生きた北宋の初期に日鑄の茶は高く評価されていたが、その後ながらく廃れてしまっていたのかもしれない。
”雪牙”は龍井茶と同じく、出初めの新芽を摘んだ茶であろう。”牙”に草冠を載せればすなわち”芽”、なのである。茶の新芽には産毛のような細かい繊毛があり、白っぽく見えることから”雪牙”と名付けられたのだろう。
その味は”茶味は棱棱(りょうりょう)として金石の氣有り”と述べていることからわかるように、そのまま適切な製法を用いずに飲むと、アク強く、カナ気のような、舌を指すような気味があったのかもしれない。
王亀齢によって日鑄の雪芽と併称された龍山の瑞草は、張岱の生きた明代後期に至っても、都の茶人に愛飲されていたのだろう。
”茶客”とは茶の仲買人であるが、日鑄の雪牙はさほど気に留めていなかったようだ。雪牙は茶の新芽を摘むが、瑞草は松蘿と同じ製法を試したというから、新芽ではないのだろう。当時の茶客達は、雪牙のような味の淡泊な新芽よりも、ある程度成長した茶葉から製した濃厚な茶を求めたのかもしれない。それはおそらく当時の茶の飲み方の流行とも関係するのであろう。京の茶式というのは、大都会の茶の飲み方のことであろうが、その飲み方(あるいは製法も含めて)にならう限り、雪芽はさほど高い評価を得られなかったのだろう。要は製法と飲み方の工夫が足りないと、ここにひとり張岱が異を唱えた、というところである。

煎茶の製法と淹れ方が確立した現代とは異なり、かつては茶の製法や淹れ方は、各自独特の工夫があったようである。日鑄の茶畠は荒廃して”藪”のようになってしまっていたが、しかし張岱は、そのように衰退してしまった日鑄山中の茶であっても、宋代の士人に愛された以上は「やせ衰えた牛であっても、豚の上にのしかかれば豚は圧死してしまう。」と、他の凡庸な茶の上に出るものであろう、と考えたのである。
そこで茶の製法に精通した歙人、つまりは徽州は歙県の製茶の職人や茶商を呼び、松蘿という徽州の銘茶の製法と同じ製法で日鑄山中の茶を摘んで作らせたようである。
 

その茶の色は蘭や雪のたとえたように、色は白いという。
宋代は茶は白いものが良いとされた。現代中国では、湖州の”白茶”の如く、煎茶にして入れても緑の色が薄く、白色透明に近いものを以て宋人が好んだ”白茶”であるとしている文がある。しかし王朝時代はそもそも茶の製法、飲法が現代と違うのである。宋代の茶の製法、淹れ方は陸羽の”茶経”に詳しいが、他にも飲む人が各自工夫していようであり、ここで述べられた張岱の法も一例であろう。

日本にも伝来した茶葉を粉末にした”抹茶”は、北宋に確立され、明代に至って廃れたという。粉末の茶を煮て攪拌し、空気を入れることで香りを立て、苦みのある口当たりをまろやかにするのであるが、泡状になった茶は不透明な白色を帯びることになる。
この茶葉の色に乳白色の”おどみ”のかかった抹茶には、緑色の青磁や、建窯の黒磁などの単色釉の茶碗が好適、ということになる。時代が下って透明白緑色の煎茶が好まれるようになると、茶の色を観るに白磁が適切となる。

張岱は日鑄が高く評価されていた宋代に倣い、抹茶に近い淹れ方を採用したのかもしれない。茉莉(ジャスミン)を入れるのは、現代のジャスミン茶を思わせる。それでは茶本来の香りが変化してしまうと考えてしまいそうであるが、そこは茶の香りに対する考え方の違いであろうか。”フレーバー”を加えることに、それほど躊躇はなかったようである。
日鑄の”雪芽”は、その色を得たが、その気を得てはいない云々、というのは張岱はあらたに松蘿の製法を採用して茶を製するに、”雪芽”のような新芽ではなくある程度成長した茶葉を摘んだものと思われる。龍井茶のように、初春の茶の新芽を珍重する向きもあるが、新芽はおおむね色は薄く、香りも淡泊なものである。それまでもっぱら”雪芽”をもって知られていた日鑄の茶に、新たな価値を加えたところが、茶人としての張岱の真”面目”というものだろう。

果たしてそれから数年の後に蘭雪は紹興において大流行したようである。”俯就〜従俗”はすなわち”俯仰随俗”という語で、世間の流行に乗せられて人や物事を毀誉褒貶すること。張岱は自らの見識に基づいて工夫し、日鑄の蘭雪を見出したのに、後に続く大衆は、ただいたずらに松蘿を貶めて蘭雪を持ち上げたのである。いつの時代もそうかもしれないが、本当のところがわかっている人は少なく、後は雷同するのである。とはいえ、蘭雪の名を高めたのは、紹興の茶界における張岱の影響の大きさによるところだろう。
その流行にあわせて、歙県の松蘿は蘭雪に名を改めて流通する有様であったという。松蘿の製法で作られた蘭雪は、似通ったところがあったのだろう。しかし結局のところ、世間の大方はその違いはわからなかった、ということでもある。

この日鑄のお茶は、現在でも浙江省は紹興の近郊、会稽山のふもと、王化卿の日鑄嶺で作られているという。とはいえ、張岱の昔と同じ味がするとは限らないのであるが。
落款印01


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