読 蘇軾「留侯論」

蘇軾に、漢の功臣張良(子房)について論じた”留侯論”という文章がある。面白い文章なので、以下に大意を示そうと思う。こうした漢文の大意というのは注釈を別途施すものなのだろうが、いちいち参照するのもたぶん手間なので適宜カッコ付きで大意中に補ってみた。
 
(1)
古之所謂豪傑之士者、必有過人之節、人情有所不能忍者。
匹夫見辱、拔劍而起、挺身而鬥、此不足為勇也。
天下有大勇者、卒然臨之而不驚、無故加之而不怒、此其所挾持者甚大、而其誌甚遠也。

古(いにしえ)の所謂(いわゆる)豪傑の士は、必ず人に過ぐる節あり、人の情に忍ぶあたわざる所あり。
匹夫(ひっぷ)は辱(じょく)に見(まみ)えれば、劍(けん)を抜きて起ち、身を挺(てい)して鬥(たたか)う、此(こ)れ勇と為すにたらざる也(なり)。
天下に大勇あれば、卒然として之に臨んで驚かず、故(ゆ)え無く之を加えても怒(いか)らず、此れ其の挾持(きょうじ)する所(ところ)甚だ大といえども、其の志し甚だ遠(えん)也り。

昔のいわゆる豪傑の士というのもは、かならず人よりも節制の心がつよく、また普通の人であればとうてい我慢できないことでも、耐え忍ぶことができた。
つまらない人物は、いったん恥をかかされれば、剣を抜いて立ち上がり、命がけで(雪辱のために)戦うものであるが、これは勇気というには及ばないのである。
天下に真の勇気を持つものがあれば、とつぜん侮辱されることがあっても驚かず、理由もなしに恥をかかされても怒ることがない。これはその内に秘めたる(怒りの)感情がとても大きいとしても、その志すところが(怒りよりもいっそう心の)深遠にあるからである。
 
(2)

  夫子房受書於圯上之老人也、其事甚怪。然亦安知其非秦之世有隱君子者出而試之?觀其所以微見其意者、皆聖賢相與警戒之義。世人不察、以為鬼物、亦已過矣。且其意不在書。當韓之亡、秦之方盛也、以刀鋸鼎鑊待天下之士、其平居無罪夷滅者、不可勝數;雖有賁、育、無所複施。夫持法太急者、其鋒不可犯、而其末可乘。

夫(そ)れ子房(しぼう)の、圯上(いじょう)に書を受(さず)ける老人、其の事(こと)甚(はなは)だ怪(かい)。
然(しか)れども亦(ま)た安(いずく)んぞ、其の秦の世に隱君子ありて、出でて之を試みる非ざるをしらんや。
觀(み)るに其の所の微を以て其の意を見るは、皆な聖賢の相與(あいともに)警戒するの義。世人は察せず、鬼物を以て為すは、亦た已に過る矣。
且(か)つ其の意は書にあらず。
當(まさ)に韓の亡びて、秦の方(まさ)に盛んなり、刀鋸(とうきょ)鼎鑊(ていご)を以て天下の士を侍(はべら)せ、其の平居(へいきょ)無罪(むざい)にして夷滅(いめつ)するは、數(かぞ)うるに勝(あた)ふべからず。賁(ほん)、育(いく)ありと雖(いえど)も、複(ま)た施(ほどこ)すところなし。夫(そ)れ法を持して太(おおい)に急(きゅう)、其の鋒(ほう)の犯すべからざるは、其の末だ乘ずべからざるなり。

子房に(下邳の)圯(≒橋の)上で(兵法の)書物をさずけたという老人の話は、大変奇怪な出来事ではある。
しかしどうして(世の中の人は)、かの秦の時代、世に隠れて生きていた(戦国生き残りの、優れた知力と豊かな経験を持つ)人物が、現れて張良をテストしてみた、という事がわからないのだろうか?
その(人物や物事の)わずかな徴候をみて(そこに隠された深い)意味を読み取る、というのは、(始皇帝の強権独裁の時代に、追及を逃れて隠れ住んできた)聖賢たちは、みな互いに注意深く用心しあって(生きのびて)いた、ということでもあるのだ。(あからさまに人を集めて、人材を選抜テストする、などという事はむろん出来ない時代だったのである。)
世の中の人はこれがわからず、怪異な出来事としてかたずけてしまうのは、もちろん誤りなのである。
その説話の真の意味は、授けられたという兵法書にはないのである。(座学だけで稀代の軍師になど、なれるはずがないではないか。それは所詮、書生の夢なのであって、”兵法書”を真に受ける奴は人生経験が足りないのである。)
時代はまさに(張良の祖国である)韓が滅び、秦(王朝)の勢い盛んな時期であり、刀鋸(とうきょ:かなたやのこぎり)、(あるいは人をかまゆでにする)鼎鑊(ていかく:ゆでかま)でもって、天下の人物をおどしつけしたがわせ、普通に暮らし無実なものでも(秦の法の網の目にからめとられて)刑死されるものは、かぞえきれないほどであった。
古代の勇者、賁(ほん)、育(いく)がいたとしても、(当時の秦の勢いに)あらがうすべはないのであった。秦は法律をふりかざして残酷に適用したが、その軍事力は(強大で)おかしがたく、いまだ(乗ずるべき)ほころびのみえない時代であった。
(だからこそ、二人は不思議な出会い方をしたとされ、教えの真相はベールに包まれているのである。)
 
(3)

子房不忍忿忿之心、以匹夫之力、而逞於一擊之間。當此之時、子房之不死者、其間不能容發、蓋亦已危矣。
千金之子、不死於盜賊。何者。其身之可愛、而盜賊之不足以死也。
子房以蓋世之材、不為伊尹、太公之謀、而特出於荊軻、聶政之計、以僥倖於不死、此固圯上之老人所為深惜者也。
是故倨傲鮮腆而深折之、彼其能有所忍也、然後可以就大事、故曰“孺子可教也。”

子房(しぼう)忿忿(ふんふん)の心を忍ばず、匹夫(ひっぷ)の力を以て、一擊の間に逞(たくま)しゅうす。當(まさ)に此の時に、子房の死せざるは、其の間は發(はつ)をいれるあたわざる、蓋(けだ)し亦(ま)た危ういのみ矣。
千金の子は、盜賊に死せず。何(なん)ぞ?其(そ)の身、之を愛すべし、而(しこう)して盜賊の之を以って死せるに足らざる也。
子房の蓋世(がいせい)の材を以て、伊尹(いい)、太公(たいこう)の謀(はかりごと)を為さず、特に荊軻(けいか)、聶政(じょうせい)の計において出で、僥倖(ぎょうこう)を以て死せず、此れ固(もと)より圯上の老人の深惜(しんせき)する所為(ゆえん)なり。
是の故に倨傲(きょごう)鮮腆(せんてん)、深く之を折り、彼れ其の能く忍ぶところある也、然りて後に以って大事に就くべし、故に曰く“孺子、教えるべし也。”

張良は(韓の宰相一族の生き残りとして、その祖国を秦に滅ぼされた)ふんぷんたる恨みを抑えることが出来ず、大力の男を雇い、鉄槌の一撃を(もって始皇帝を暗殺することを)企んだ。まさにこの時、(暗殺に失敗したのに)張良が死なずにすんだのは、まさに間一髪のところ、まったく危ないところだったのであろう。
(ことわざに)”千金の(資産をもつ大家の)子は盗賊に殺される事はない”という。それはどうしてか?その身代こそが愛すべきものであり、(自愛するが)ゆえに盗賊の手にかかって死ぬことはないのである。(張良は韓の名門に生まれながら、なんと軽率なことであろう)
張良は世をおおうほどの才能がありながらも、(商王朝建国の功臣)伊尹や(周王朝創建の功臣)太公のような(遠大な、秦の天下を奪う)はかりごとをせず、(始皇帝暗殺を企てた)荊軻(けいか)や(任侠から人の刺客となった)聶政(じょうせい)のような(刺客、暗殺者のたぐいの)はかりごとをもって世に出、幸運にも死ななかったのである。(充分に計画したとはいえ、それでも運が悪ければ殺されていた。)
が、これはもとより圯(≒橋の)上の老人の深く惜しむ理由であった。(並外れた知力も勇気もあり、運にも恵まれながら、ただひとつ時勢を待つ、その我慢が出来ないのは惜しむべし、と。)
このことゆえに、わざと傲慢不遜にふるまい、強いて子房に膝を屈せしめ、それでいて(その態度から)彼が(普通は我慢できないような侮辱でも、志のためには)我慢できるところがあるとみて、それではじめて後に大事を成就出来る人物と考えたのである。だから「小僧、教えるに足るわい」と言ったのである。
 
(4)

楚莊王伐鄭、鄭伯肉袒牽羊以逆。莊王曰“其君能下人、必能信用其民矣。”遂舍之。
勾踐之困於會稽、而歸臣妾於吳者、三年而不倦。且夫有報人之志、而不能下人者、是匹夫之剛也。
夫老人者、以為子房才有餘、而憂其度量之不足、故深折其少年剛銳之氣、使之忍小忿而就大謀。
何則。非有平生之素、卒然相遇於草野之間、而命以僕妾之役、油然而不怪者、此固秦皇帝之所不能驚、而項籍之所不能怒也。

楚の莊王(そうおう)の鄭(てい)を伐(う)ち、鄭伯(ていはく)の肉袒(にくたん)し羊を牽(ひ)き以って逆(むかえ)る。莊王(そうおう)曰く”其の君の能く人に下る、必ず其の民を信用する能(あた)うなり。”遂(つい)に之を舍(ゆる)す。
勾踐(こうせん)の會稽(かいけい)に困(くるし)み、臣妾(しんしょう)して吳に帰して、三年倦(う)まず。且つ夫れ人に報いるの志有りて、人に下る能わざるは、是れ匹夫(ひっぷ)の剛なり。
夫(そ)れ老人は、以為(おもへ)らく子房の才に餘(あま)り有りといえども、其の度量の不足を憂うる、故に其の少年の剛銳(ごうえい)の氣を深折して、之に小忿(しょうふん)を忍ばしめ、大謀に就かしむ。
何則(なんとなれば)平生素(へいせいそ)にあらざりて、卒然として草野(そうや)の間に相遇(そうぐう)し、僕妾の役を以て命じ、油然(ゆうぜん)として怪(あや)しまぬ者、此れ固(もと)より秦皇帝の驚く能わざる、項籍の怒る能わざるところなり。

(紀元前597年に)楚の荘王が鄭(てい)の国を討伐したさい、鄭伯はもろ肌を脱ぎ、(料理人にでも雇ってくださいと)羊を牽(ひ)いてこれに降伏した。荘王が言うには「その君主が人にへりくだれる人物であれば、きっとその国の民からも信頼されていることだろう。」として、ついに鄭をゆるしたのである。
越王の勾践は、会稽山で(呉軍に)包囲されて困窮したとき、(妻子ともども)下僕となって呉王に降伏し、三年の間(呉で下僕の役目を)おこたることがなかった。そもそも人に報復するという志があって、人にへりくだることが出来ないというのは、これは凡人の意地っ張り、というべきなのである。
圯(の)上の老人は、おそらく子房が才能にあふれているといっても、その度量が足りないのを憂慮したのであろう。それでその(子供っぽい、)かたくなな負けん気を深く反省させた。そしてちっぽけな鬱憤を我慢することを学ばせて、(秦の天下を終わらせるという)大きな策謀に向かわせたのである。
なぜそのようなことを老人が子房に強いたかといえば、(仮に)顔見知りでもないのに、突然に野原でたまたま出会っただけなのに、(老人から)下僕がするような事を命ぜられ、それに自然体で応じて不審を抱かせぬという人物(が、もしいたとすれば、それはあたかも根っからの奴隷根性の持ち主のようであり)、これこそは(猜疑心の強い)秦の皇帝を驚かせ(粛清され)ることは無く、項羽(のような短気な人間を)も怒らせることのない人物だからである。
(それゆえ、つまらぬところで命を落とすことは無く、志を全うできるのである。実のところ子房ははじめ老人に殴りかかろうとしたのであるが、グッと自重したところを見て、もうすこし修行すればモノになるとふんだのである。はたして後に子房は、傲慢無礼な高祖にもよく仕えることが出来たのである。)
 
(5)

觀夫高祖之所以勝、而項籍之所以敗者、在能忍與不能忍之間而已矣。項籍惟不能忍、是以百戰百勝、而輕用其鋒。高祖忍之、養其全鋒、而待其弊、此子房教之也。
當淮陰破齊而欲自王、高祖發怒、見於詞色。由此觀之、猶有剛強不忍之氣、非子房其誰全之。
太史公疑子房以為魁梧奇偉、而其狀貌乃是婦人女子、不稱其志氣、而愚以為、此其所以為子房歟。

觀(み)るに夫(そ)れ高祖(こうそ)の以って勝つ所、項籍(こうせき)の以って敗れる所は、能く忍ぶと忍ぶあたわざるの間にあるのみ。項籍は惟だ忍ぶあたわず、是れ百戰百勝を以て、輕しく其の鋒(ほう)を用いる。高祖は之を忍び、其の全鋒を養い、其の弊を侍(ま)つ、此れ子房の之におしえるなり。
當に淮陰(わいいん)の齊を破り自ら王とならんと欲す、高祖(こうそ)怒(ど)を発し、詞色に見るべし。此(これ)に由(よ)りて之を觀るに、猶(な)を剛強の忍ばざるの氣あると、子房にあらざれば其れ誰か之を全うせん?
太史公の疑(うたご)うに以為(おもへ)らく子房の魁梧(かいご)奇偉(きい)とし、而して其の狀貌(じょうぼう)は乃ち是れ婦人女子、其の志氣に稱(そぐ)わずとは、愚(わたくしが)以為(おもう)に、此れ其の子房の以為(ゆえん)なり。

かんがえてみるに、高祖の勝因、項羽の敗因というのは、我慢できるか我慢できないか、この(両者の性格と度量の)違いでしかない。項羽はただ(わずかな形勢の変化にも)我慢できなかっただけで、それまで百戦百勝だからといって、軽々しくその軍を動かし(続け)たのである。それに対して高祖は(劣勢を)耐え忍び、(陣地を守って補給を受けながら)自軍の力が充実するのを待ち、項羽の軍が(ゲリラ討伐に東奔西走して)疲弊するのを待ったのである。(この隠忍自重の持久戦略、)これこそ子房が高祖に授けた策なのである。(つまりは圯上の老人が張良に教えたことなのである)
また淮陰公(の韓信)が(北方の)斉の国をやぶり、斉王となって自立しようとしたときに、高祖は怒りを覚えて、(韓信の使者の前で)言葉や顔色にそれが現れた。それを見て(前述の持久戦の観点から情勢を判断して)『それでもまだ我慢が必要です。(韓信を王と認めなさい)』と高祖を諫めるということを、張良でなければいったい誰がやりおおせたであろうか?(他の者が語気強く諫めたとすれば、きっと高祖は余計に怒って聞き入れなかったであろう。張良の理路整然としながらも、へりくだった恭しい態度が高祖をなだめ、諫言を聞き入れさせたのである。)
太史公(司馬遷)は、(史記列伝で述べるに)子房はきっと容貌魁偉な偉丈夫ではないかと思いきや、(その肖像をみると)意外にも婦人女子のような温和な姿をしていたという、しかしそれではその気宇壮大な策略(をくわだてる軍師の姿)にそぐわないではないか?と述べている。しかしわたくしの愚考では、それこそが子房のすぐれた(人物である)ところのゆえんなのである。
(そもそも我慢のできない人間が、他人、ましてや目上の人物に『ここは我慢なさい』とは言えないものである。充分に我慢のできる人物、あたかも女性のように柔和でうやうやしく、充分にへりくだった張良のような側近の諫言であったればこそ、高祖もたびたび聞き入れたのである...........ああ、かの太史公(司馬遷)は武帝に剛直に諫言して宮刑に処されてしまったが、惜しむらくは、この道理をわきまえていなかったに違いない。それは史記列伝『留侯伝』の太史公の評を読むとわかるのである。)
 
(後記)

「留侯論」というが、より直接的には史記の「留侯伝」に対する批評の体をとっている。この文章は北宋は仁宗の嘉祐六年(1061年)の応制、すなわち皇帝の命の応じた論文試験のうちのひとつであるとされる。その試験は「賢良方正能直言極諫科」という科の試験であり、したがって「留侯論」の内容も「諫言を行う臣たるもの、どのようにあるべきか?」ということが、ひとつのテーマになっている。
「能直言極諫」とは、要は皇帝にもズケズケと口を極めて諫言をいたすことが出来る、という意味であるが、そのような立場にあっても「言い方ってものがあるだろう」というところであろうか。蘇軾は留侯こと子房がたびたび高祖を諫め、策を採用された理由として、その姿勢や態度が重要であった、と言っている。これは単なるうわべをつくろう保身術ではなく、人間理解に基づく深い知恵なのである、という洞察は鋭い。事実、この隠忍自重の姿勢は、子房ひとりの所作のみならず、項羽の楚軍に対する、高祖の漢陣営の基本戦略にも貫かれているのである。
また司馬遷が子房が偉丈夫ではなかったと聞いていぶかしんでいるのを、”愚考”とことわりつつも、軽く批判してもいる。これはもとより、司馬遷が李陵の投降の件で武帝をきつく諫めて、罪に落されたことを暗に指しているのであろう。が、そこをあからさまに書けば、いささか辛辣が過ぎようか。なので蘇軾はそこで筆をおいている。

とはいえこれは若き日の蘇軾の文章である。後年、蘇軾自身は、皇帝からの覚えがめでたかったとはいっても、その詩文を他の廷臣たちに細かく詮議建てされ、不敬罪に問われる事になる。これはこの留侯論を執筆した時点では、思いもよらなかったであろう。乱世の謀臣と、平和な時代に複雑な宮廷政治の世界に身を置く者とでは、身の処し方はおのずと違ったものになる、というところだろうか。
落款印01


calendar

S M T W T F S
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  
<< May 2018 >>

selected entries

categories

archives

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM